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2012年07月日本史105: 南部氏(・><・)巻之七 (405) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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南部氏(・><・)巻之七


1 :11/10 〜 最終レス :12/07
前スレ
南部氏(・><・)巻之六
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1284304055/

2 :
167 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/02/17(木) 05:29:00
南部が列藩同盟側で参戦したとき、既に列藩同盟は敗色濃厚だった。
だから周辺も絶対反対だったし、誰からも論理のある参戦理由は示されなかった。
論理のない参戦をするために、あいつ(西郷隆盛)は悪い奴だ、こっちには味方(岩倉具視)がいる、と
出任せを言う必要があったと思われる。
実際の楢山の参戦理由は、仙台藩土佐からの強い要請に応じたというもの。
しかし南部の実力を考えていなかった。無謀だった。

3 :
174 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/02/17(木) 18:29:31
楢山佐渡は嘘を並べて南部を負け戦に導いた。
何が武士道なものか。
175 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/02/17(木) 19:00:13
当時、他の家老や殿様は止めることができなかったのか?
結果的にはそうならなかったが、殿様が切腹させられてもおかしくなかったぞ。
176 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/02/17(木) 19:01:27
佐渡を止められなかった藩士たちの責任も大きいね。
佐渡はきちんと責任とって武士道の作法に則って切腹してる。
花は咲き
桜は燃ゆる
春の世に
移らぬものは
もののふ道

4 :
佐渡を止めようとした目時隆之進をいじめ抜いて切腹させた盛岡藩士の体質が何ともいえず
酷いモンだと思えてくるのだが…
先見の明がある、勤王の志士だろ?

5 :
目時は戊辰戦争の後に調子にのって藩の家老になったのがまずかったんじゃないかなあ。
一回脱藩したんだから藩に戻らないで新政府の役人にでもなっときゃよかったのに。

6 :
目時は故郷を思っていたからこそ、南部藩主の朝廷への忠誠心を新政府に訴え続けたり、
停戦協定締結に奔走して、停戦時にわざわざ現場まで行ったりしたんだろ?
そんな人を切腹まで追い込むなんて…

7 :
停戦したまでは別に主義主張の違い、故郷のためでまあ良かったかもしれないが、問題はその後だと思う。
官軍の威光で帰藩して家老になったのがまずかった。ここは藩士の心情を考慮して固辞すべきだったと思う。
古い体質の日本航空を見限って全日空に行った奴が、会社更生法申請した後の日本航空に再建のため戻って、国交省の威光で重役になるようなもんだからな。

8 :
そういう古い体質を肯定しちゃうかのような態度が、いつまでも発展しない原因なんじゃないの?

9 :
錦旗を掲げた官軍に歯向かうのだから、殿様本人の許可が必要だったはずだが
殿様本人はなぜ開戦を認めたんだろ?
いくら殿様とはいえ、官軍が日本各地で優勢であることは知っていたと思うんだが。

10 :
>>9
ちょっと前まで鎮撫隊がいたのだから、そのトップあたりと話をして日本の情勢は
理解しているハズなにのね。

11 :
あと目時は国学者の平田篤胤を崇拝していたらしい。
http://www2u.biglobe.ne.jp/%257egln/88/8891/8891onko/hirata/h01/h01-frame.htm
戊辰戦争前ならともかく、戊辰戦争後だと平田篤胤を尊敬していたことは久保田藩の内通者と疑われる理由にもなる。
いったん奥羽越列藩同盟に加盟した久保田藩を同盟から脱退させるために、
仙台・盛岡藩の使者をいきなり襲撃して斬殺したのは平田篤胤の崇拝者である吉川親子の一派。
まあ目時は先見の明があるというよりは平田国学の信奉者で、錦旗・官軍には絶対服従するのが勤王、
と言う感じの愚直な勤王の志士だったんじゃないかなあ。京都で官軍が掲げる錦旗を見て心底たまげたんだろう。

12 :
>>11
アフォかw
平田のおかげで国学は日本全国で「流行」していたんだよw だからこその、尊皇攘夷思想だ。
お前の言っていることは、尊皇攘夷思想があれば、久保田の内通者という暴論だなw
東も遠野南部も皆、久保田の内通者かよ。

13 :
まあ、八戸南部は実際に久保田に内通していたけどな。

14 :
>>11
そのサイトは、南部藩内(現在は秋田県だけど)の鹿角で地元史や南部史の大家の人のサイトじゃないか。
例の佐庄物語「旧盛岡藩華族南部氏兇悪大略」を紹介して、南部藩主の悪逆ぶりをこれでもかって紹介
している人のサイトねw
結構お年なんだけど、まだまだネットに書き込みしていて元気そうだな。

15 :
一応紹介するが、「旧盛岡藩華族南部氏兇悪大略」ってのは、南部氏によって、家をばらばらにされ、
財産をかすめ取られた花輪の元豪商の「佐庄一族」が南部家に対して訴えた慟哭の書。

内容は、南部家はの誹謗中傷。三閉伊一揆指導者からも取材してまとめた、南部家への悪口集。

16 :
南部家の伝統的勤王思想は、後醍醐天皇の命令で北畠顕家に臣従して戦って石津で死んだこと、
最後まで南朝側で戦ったと伝えられてることに由来していて、平田篤胤由来の勤王思想とは違う。
そのため南部家と天皇家の関係は他藩ともまた少し違っていた。
遠野南部が明治に男爵になったのは師行の功績だし、南部伯爵が大正天皇の学友になったり、
一条家から養子を迎えたり、靖国神社の宮司に指名されたりしてるのも、南北朝時代の話が影響してる。

17 :
目時はよー
官軍と一緒になって南部軍を攻撃してるからなー
官軍も酷なことをさせるよ

18 :
>>17
秋田戦争の時に目時を見たという噂が流れているが、ホントか?
和平交渉の時に、目時は盛岡藩家老三戸式部と一緒に交渉役として藩境に現れている。
どうやって危険な戦場を移動するんだ?超能力でもあるんか?

19 :
どこかのサイトの秋田戦争の物語には、楢山佐渡に部下が久保田藩側に目時がいます!って報告しているんだよなw
で、楢山佐渡が「おのれー裏切り者め!」なんて激怒するわけだw まるで、親の敵みたいに…
ねぇw それでどうやって和平交渉時に家老と一緒に現れるコトできるの?ww

20 :
http://www.kitanomori.jp/serialwork09-3.html

これねw
****
「佐渡どの、敵陣で采配をふるっているあの男……」
 蔵人が指ししめす、野砲隊の指揮をしている敵の将とは……。
「おのれ、あれは隆之進ではないか」
 どうして忘れることがでましょう、目時隆之進です。
 佐渡さま上洛のおりに同行し、帰国の途中に大坂の宿で、わが子貞次郎を
引き連れて脱藩し、長州藩邸に身を投じたあの男です。
 南部軍いま死闘をつづけ絶体絶命のさなかに……、東北遊撃軍の将として、
こともあろうにかつて上司であった佐渡さまの前に、あちらの軍服姿で立っているとは……。
 佐渡さま、これまでに口にこそだしませんでしたが、たとえ意見を異にして脱藩
したとはいえ憂国の士と信じその後の安否を気遣ってもいた目時隆之進……。
「絶対に許しがたい」
 当然でありましょう、いかなる事情があったにしても、佐渡さまを討つ前面の敵として
ここに現れるとは……。武士の風上になんとやらでございます。
 目時には目時なりの苦悩があったとは思います……。脱藩も盛岡藩(南部藩)の危急を救う
一念からでたもの、それは疑うべくもありません。しかし、いわば故郷(ふるさと)の将兵が、かつて
の同胞(はらから)が、いま悲風惨雨にさらされておりますときに、武士(もののふ)の道に照らして如何でありましょうか。
「おのれ、目時!」
 大声をあげて佐渡さま、太刀を抜かれて「きっ」と刃を敵陣に向けられました。
 あくまでも抗戦の意志です。
***
目時の扱いひでー。 大体なんで目時が新政府側のしかも砲隊の指揮できるんだよ。
物語はこの後、目時の切腹は当然かのような流れになってくるわけですな。
南部藩の体質がこの物語で分かる!w

21 :
>>18
グーグルだと、以下のがよく出てくるだが。
<戊辰戦争末期、九条鎮撫総督以下の東北派遣軍を助けるために編成された東北遊撃軍将府に随従して東北に戻り、
<目時は盛岡藩家老三戸式部と一緒に交渉役として藩境に現れている。>
このソースは?

22 :
>>21
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%A4%A8%E5%91%A8%E8%BE%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
22日南部の軍使3名が袈裟掛口に現れ「停戦申し入れ」を行った。久保田軍もその申し入れを受け、戦闘を停止した。
25日南部の降伏談判が藩境の町、沢尻村で行われた。南部藩の重臣である三戸式部と目時隆之進ほかをともなって、
降伏条件を談判し、南部藩は降伏した。

23 :
>>22
http://www2u.biglobe.ne.jp/%257egln/88/8891/8891onko/jinbutsu/j01/jinbutsu-03.htm
<隆之進主従は、戊辰の終戦を秋田で迎えた
とあるが?
あ言っときますが、私は目時を非難するものではありませんよ。
事実は事実としてちゃんとしたいものですからね。

24 :
>>23
降伏条件を談判したのは藩境の秋田藩内の沢尻村だからなー。
でも、実際どうなんだろ。ただ、南部藩側の物語に良く出てくる戦闘に参加したというのは眉唾なのでは?

25 :
まあ官軍側としては貴重な情報提供者だから戦場に連れてくることはありえる。
野砲のそばにいたとしたら、目標の識別だろうな。あいつはだれだれとかこいつはだれだれとか。

26 :
目時を切腹に追い込みたかった人の単なる見間違いでは?

27 :
仮に、そうやって協力してたら、和平交渉時に家老三戸式部と一緒に行動できるわけもなし。
目撃者多数が現地に残っているわけだしな。

28 :
降伏式のときの目時は脱藩してるわけだから、盛岡藩士としてではなく、
あくまで三戸と九条総督の間の、官軍側の交渉の仲介者として参加してるのではなかろうか?
本人確認とかも必要だし。

29 :
>>28
そりゃ、そうだろ。で?

30 :
つまり協力しててもおかしくはない。

31 :
だが、少なくとも目撃されたとかそういったコトのない状態でね。
それなのに、切腹させられた目時。

32 :
まあ少なくとも、三戸式部と一緒に交渉したという「ウィキペディア」は間違いだな。

33 :
>>32
根拠は?

34 :
「ウィキペディア」がソースならないのは、2ちゃんでは常識

35 :
テスト

36 :
まあ目時が戦場にいたという確実なソースもないが、いなかったという確実なソースもないよな。
いなかったという確実なアリバイがないということはいたかもしれない。

37 :
>>32
横スレだが、目時と三戸式部が和平交渉の場に一緒に現れたということは、『大館市史』に明確に書かれている。
ご希望なら、ページ数や原文をここに書くが?

38 :
まあ普通に考えれば官軍は目時を戦場に連れてくるよね。
いざとなったら南部領内進攻作戦もあるんだし。

39 :
当時の盛岡城の防御力はどの程度だったんだろう?
籠城した場合、1ヶ月ぐらいは頑張れただろうか?

40 :
>>36
そして、目撃者という証拠すらない状態で、切腹にまで追い込む…と。
>>39
直ぐに開城になるんじゃないの?

41 :
>>16
興味があったので調べてみた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96
>更に幕末になると、成島司直の『南山史』や鹿持雅澄の『日本外史評』などの両統並立論も出現
>するようになる。その一方で朝廷では、前述のように永く現皇統につながる北朝を正統とする原則
>が守られ、祭祀もその方針で行われてきた。だが、『大日本史』の刊行問い合わせ問題以後、公家
>の間にもわずかながら南朝正統論者(山崎闇斎門人の正親町公通など)が現れるようになり、幕末
>の南朝正統論を軸とした尊王論の高まりに翻弄されることとなった。
 これによると、江戸時代の朝廷での評価は基本的に北朝正当論だ。幕末にちょっと揺れただけ。そも
そも明治天皇を含めて当時の天皇家は北朝天皇の流れだ。
 なんでそんな状態なのに、南北朝の問題がからんでくるんだよw

42 :
>>37
長いと大変だろうから、ちょっとだけお願い。いつ?がわかればいいよ。

43 :
>>42
『大館市史』p.416によると、22日南部藩の軍使3名が正式に「停戦申し入れ」を行う。それによると、
>「当藩重役三戸式部こと、此の度至急和平せよとの朝廷の御内命を拝して帰国致した。
>よって直ちに停戦して御内命を奉じたい。当藩謝罪の実効は九月二十五日までに誓って
>相立てる。以後の進撃は停止されたい。
とある。三戸式部は京都から帰国して、藩主の南部利剛の説得を行った。そして…
p.417
 南部軍降伏
>二四日、総督府参謀長醍醐忠敬に従って、弘前にいた鍋島参謀前山精一郎が大館に到着した。南部の降伏談判
>は二五日、国境に近い十二所方の沢尻本陣となっていた組下中山仲助宅でおこなわれた。
>この朝、南部の重臣三戸式部は、目時隆之進ほか一名をともなって花輪を出発、国境からは十二所谷田部三
>吉・谷田部多吉両名が同道、士五人、卒二〇人が警護にあたった。
とある。目時隆之進は24日、南部領の花輪から三戸式部と一緒に和平交渉に向かったと記されている。
確かに、これだと終戦時には久保田藩にいることになる。

44 :
ん?目時隆之進って花輪から三戸式部と一緒に久保田藩まで移動したのか。
ひょっとして、目時隆之進って三戸式部と一緒に京都から帰国したんじゃないの?

45 :
もりおか歴史文化館見てきました、面白かったよ。

46 :
盛岡城が開城したとき、大砲186門、和洋小銃6638丁、弾丸1万918発、
があって、宮古には函館でフランス人のハーブルから買った新型小銃と弾薬が届いていたというから、
西南戦争の熊本城くらいは粘れるんじゃないだろうか。

47 :
>>46
熊本城と比べると、防御力はかなり劣るのではないか?盛岡城は。

48 :
熊本城には及ばないと思うがあの高石垣は攻撃側にはかなりの障害。
石垣は一ヶ月粘った若松城より大きい。火力に通じた楢山が城内で防戦を指揮すればかなり粘りそう。

49 :
盛岡城の石垣って県庁や石割桜のある裁判所側から見ると、ほぼ同じ高さにある。
防御を考えるなら今の裁判所あたりに石垣つんで高い石垣造ったほうが防御も強い城になると思う。

50 :
権威の象徴としての城造りだから、あれはあれでいいけど。
城を作る以上の労働力や財力を必要としただろうのは、北上川の流れを変えた事業。
現在の工業力をしても川の流れを変えて、それをいまでもそのままにしていられるなんてすごい!
いったいどんな工事があったのか想像もつかない。

51 :
むかしは裁判所のあたりも城のね。内丸はみんな城の中。
お堀や門ももっといっぱいあった。高石垣の上には塀と櫓があった。
それに小銃と弾薬がいっぱいあった。

52 :
石垣の高さと内丸側の土地の高さがあまり変わらないよね。
戦う城を作るなら内丸側に築城するのが城造りの定石なはず。
戦う意志はないという形の小さなお城。

53 :
>>51
大砲や小銃、弾薬が多数みたいな事を書いた新聞あるけど、銃砲の数には弾薬の数があまりにも足りなすぎ。

54 :
盛岡城は北上川と中津川を障害として利用することに意味があるから内丸みたい川から遠いと意味がない。
それにあそこは戦国時代から福士氏の不来方城があった場所で、必ずしも平和な時代の城だからあそこにあるという訳ではない。
火縄銃の一般的な射撃距離は15間(27m)くらいだから、内丸の高さが石垣とあまり変わらないからといって不利になることもない。
見下ろして石垣の中の塀の中が見えるくらい内丸の方が高いなら確かに不利だが、そこまで高いわけではないしライフル銃でも中は撃てない。

55 :
スレ違いすみません
家のご先祖様は南部の殿様にくっついて東北に来たって親は言うんだけど
家紋は所謂キュウリ、明治くらいには土地を手放しただったかで
どう考えても百姓だと思うんだけど、農民でも殿様に付いて来れたんですか?

56 :
農民がいないと殿様は存在できないだろ

57 :
>>56
なるほど。
付いてくるのは部下の武士のみで、
農民は現地調達に決まってると思い込んでました。
ありがとうございました。

58 :
>>55
ついて来たのが鎌倉時代の事なら元々は武士だった可能性もある。
キュウリが木瓜紋の事なら農民とは限らん。wikipedia見ても武士も使ってる。

59 :
>>58
木瓜だからといって農民だったという証拠にはならないんですね。
とりあえず農民でも殿様について行けると知って
親のいうこともあながち嘘でもないということが分かりました。
ありがとうございました。

60 :
>>59
名字は?
全部言っちゃだめよ。ヒントだけね。

61 :
>>54
北上盆地は城造りには向かない地形だからな。
糠部みたいに標高の低い山が幾つもある地域と違う。

62 :
>>55
●●誠治やら、仮面ライダーフォーゼの○○蒼汰、長距離走の▼▲加代子と
同じ名字なら、南部の旧領の甲斐国から一緒に来たらしい。たしかそのとき
甲州から引き連れてきた譜代の家臣を、「甲州御譜代」というらしい、その名字と
三上、工藤、桜庭、安芸が、「甲州御譜代」の「四天の士」として認知されてる。
目時・対嶋・神・津村・岩間の五家を「家の子」というんだそうだ。
http://www.morioka-times.com/news/2007/0710/26/07102605.html
家系が古いせいか分家が多くて、南部氏の南下にともなって、代官もしくは
前線の指揮官として配置されていたらしい。
戦国後期に、なぜか一気に地位を剥奪されて、前線から後退させられて
家臣団の構成員になっている。
南部と同じ系統の甲斐源氏の出といわれているけど、家紋が
全然違うんだよな。鎌倉期の早期から臣下に降りたからだろうか?
九戸政実の乱でも、かかわっていたかな?そのへんは歴史書を確認しないと判らない。
明治になって、朝敵になったのと、四民平等で武士の身分を失って、北海道に
わたっていった南部藩士、津軽藩士(津軽も南部の支族だから藩士に○○姓は多い)
は多いようだから、帰農したのは充分考えられると思う。
あと胡瓜の家紋だと「伊東」の名字も胡瓜(キュウリ)らしい。

63 :
南部だって武士だけど馬牧場経営してたしなあ。武装した牧場主の集団とも言える。
キュウリの栽培してた武士がいてもおかしくない。
あるいは籠城してたときにキュウリで渇きをしのいで敵に勝ったとか。

64 :
>>62
ごめんごめん、工藤は違った。
工藤は鎌倉時代の、北条家の直臣(得宗被官)。伊豆か山梨から
移住してきた家系で、南部との主従関係は南北朝期以降だ。

65 :
ド素人ですが南部鉄器の南部とニューナンブの南部は同じですか?

66 :
>>55
士分にくっついてる中間とか小物ってのは普段は農作業やってたとか。
そういう半士半農のことなのかもしれない

67 :
あるいは特殊な技能を持っていたとかかも。
藩政の人材登用は家柄中心だったけどそれ以外の
広く受け入れてたみたいだしねえ。
南部鉄器も確か藩外からやってきた人によってもたらされてるし。

68 :
南部鉄器の南部は甲斐の国の南部から陸奥の国に領地もらって移住した御家人。
ニューナンブのナンブの南部麒次郎の南部は、甲斐の国の南部から薩摩の方の領地もらって移住した御家人。
源義光の子孫という点では同じ。

69 :
南部の領地内には一戸から九戸まで数字の地名がありますが、四戸が何処にあったのかさっぱりわかりません。

70 :
>>69
それは永久欠番だよ。

71 :
四戸については、青森県八戸市の櫛引と言われる。
その根拠は、同地にある櫛引八幡宮のかつての別名が「四戸八幡宮」であったことである。
一説には、青森県三戸郡五戸町浅水または同町志戸岸であったとも言われる。また、
四戸がない、もしくは消滅した理由として、「四」は「死」を連想するからとも言われる。

72 :
九戸は乱を起こして滅亡したしなw

73 :
>>71
四戸さんは大槌の実家の近所にいた。

74 :
282 :名無しさん@青森:2010/11/26(金) 10:43:57
北海道に行けば出身地が姓の人がたくさんいる。
八戸さんはもちろん四戸、三戸、近江屋、能代屋、秋田谷、
能登谷、越前谷、越後谷、松任谷、出羽、金沢・・・・
など貧しい北陸、裏日本が多い。
近江が多いのは近江商人が跋扈していたから。
http://125.6.172.27/bbs/read.cgi/travel/2887/1079640431/105n-

75 :
>>74
裏日本が多いのは、単に北前船の航路だったからだろ。
太平洋側だと、一旦遭難すればどこまで流されるか分からない。
日本海側は冬は荒れるが、季節によっては良い航路を選べる。

76 :
伊達市とか別に裏日本じゃないじゃん。
それに昔の裏日本は太平洋岸よりずっと豊かだぞ。

77 :
東回り航路はリスクが高いけどそれ以上に
成功した時の利益は多かったらしいね。

78 :
日本の内海航路は日本海側が主流であって。

79 :
だからこそ、南部氏はその航路の覇権を握っていた安東氏に戦いを挑んだわけで…
で、せっかく安東氏を追い出したのに、独立されちゃったから怒り心頭に達した…と。

80 :
>>79
南部は水軍とか海上交易をやる能力がないと思う。

81 :
>>80
水軍も聞いたことないし、交易のノウハウもないと思う。
豪商の前川善兵衛には御用金かけて結局潰してるし。
八戸とか下北とか地盤にしてたはずなのに、なんでだろう?

82 :
遠野南部に伝わる田名部御陣日記によると、
1475年の蠣崎一揆のときに八戸の南部政経が編成した水軍は、
船奉行:川野陸左右衛門
天文方:安守炊大
で、政経は後醍醐天皇のサイン入り菊花フラッグを掲げた「竜王丸」に乗船。
軍船7艘、早船32艘、兵糧船2艘、馬船7艘、合計49艘、1715人、馬88頭で八戸を出港。
大間岬を回って田名部に上陸作戦を敢行し、田名部城を制圧。蠣崎氏は松前に脱出したと言う。

83 :
>>82
南北朝時代には水軍あったのかもしれないが、肝心の戦国時代にはあったのだろうか?

84 :
>>83
水軍を使わなきゃならない敵がいないだろ。

85 :
だから、太平洋側は危険だからなんじゃ?
青森県岩崎の森山には、半分武士で半分海賊やってて、ガンガラ穴から海賊が出航して船を襲っていた武士団がいた。
小野茶右衛門率いる海賊団ね。戦国時代に交易船を襲っていたようだ。
http://chihoko777.exblog.jp/15289395/
で、この岩山の上に城を建てていた。小野の部下に久六という七戸出身の武士がいて、彼が発見したのが久六島だ。
そいや、この近くの民宿に泊まったことがあったが、その民宿の名前も「七戸民宿」何か関係あるのかな?
南部に縁がありそうな話ばかりなのに、なんで場所が津軽なんだろうな。

86 :
小野茶右衛門は津軽氏と敵対していたから、元は南部から送り込まれ津軽西沿岸部を根城に各種活動をしていた
部隊なのでは?
水軍とか海賊とか色々言われているようだが。

87 :
と思ったが、Wikipedia を見ると、小野茶右衛門は津軽為信の家臣だったのか。
で、津軽藩二代目を決める際に、為信の長男の息子側について、征伐されちゃったと書かれているなあ…。
まあ、為信も元は南部だし…

88 :
まあ津軽為信も南部の家臣だったからな。
江戸時代の盛岡藩は宮古に「虎丸」と「宮古丸」という大筒搭載の軍船を持っていたが、
普段は廻船問屋に貸してたらしい。ただ北海道に行く時は実際に使っていただろう。
盛岡藩はロシア海軍とも戦闘してるし。

89 :
松前もホントは南部なの?

90 :
>>89
南部氏系じゃない。家系が怪しげだから貿易商人の出でしょ。

91 :
あるいは安東系かもしれん

92 :
能代の檜山城で安東の為に、大館の浅利氏当主を暗殺までしているんだから安東系だろ。
これで、安東家内部でのし上がり、津軽と同じようにぎりぎりのタイミングで豊臣秀吉に
独立を認めさせた。

93 :
安東水軍も下北では南部政経に敗北したわけだな。

94 :
安東「水軍」なんて、キハチローの妄想。
水軍なんてナイナイ。北海道と津軽を往復してただけ。

95 :
この時代の水軍ってのは大抵が半漁半兵だろ。
まあ水軍を使う機会そのものが無かったみたいだが・・・

96 :
>>95
> この時代の水軍ってのは大抵が半漁半兵だろ。
そうなんだが、それでも将領は専業のプロだったと思う。

97 :
>>94
小規模ではあったとしても水軍はあった。あることはあった。

98 :
むしろ戦国時代は非武装の船主とか皆無。
船持ってる奴は確実に武装している。あとはそいつらを戦時に組織できるかどうか。
領地に港があって勢力大きい八戸南部や秋田の安東は当然できる。

99 :
佐竹の水軍は河川パトロール部隊並のしょぼい陣容だったのに
朝鮮出兵に駆り出されてしんどい思いをしたと聞いたことがある。

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