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2012年07月日本史5: 謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!67 (678)
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謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!67
- 1 :12/07 〜 最終レス :12/08
- 其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛
邪馬台国は、三世紀に日本列島に存在したとされる国の一つであり
古代史最大の謎として人々の関心は高い。
この日本建国に関わる邪馬台国、女王卑弥呼について議論をしましょう。
前スレ
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!66
ttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1337252884/
- 2 :
- 青谷上寺地遺跡の概要ですが、位置は、現在の鳥取県の中央部の青谷にあります。弥生前
期後半(AD2世紀中頃)から後期後半(3世紀中頃)まで存続していました。
伊勢遺跡はおそらく近江の弥生時代を代表するクニであったはずなの ですが、何故か倭国
大乱の時期からすっかり消えてしまう。
説明の人 の言葉をはっきり聞いたわけではないので正確ではないかもしれませ んが、
今回の「首長の館」は朽ちて潰れたわけではなくて、中心の四 本の柱は抜き取られ、中の
遺物の大半は外に出されて見当たらず、最 後は焼かれて捨てられたらしい。
唐古・鍵遺跡 • 大環濠の消滅。
• 環濠の一部再掘削。弥生時代を通しての環濠集落を放棄したにもかかわらず、
古墳時代の初めに再度環濠集落をも形成する。
長野県 佐久地域では広い台地上に形成された弥生時代後期の大規模集落が、古
墳時代に継続せず、河川や田切りの縁などに分散・小規模化することが知られてい
て、近津遺跡群や隣接する小諸市鎌田原遺跡群はこうした状況を示す遺跡といえます。
弥生後期後半、およそ2世紀末何があった?
それは、ちょうど纒向の勃興期にあたる。
- 3 :
- 女王卑弥呼はユダヤの大王、ダビデ王とイエス・キリストの墓守をさせられていました。
場所は兵庫県中央のお山で、そこは、童謡「かごめかごめ」の舞台です。
http://saisentannomizude-zennojyunkanwo.blogzine.jp/kagomekagome/2012/06/post_9b22.html
- 4 :
- 何これ?
127. 名無しさん
2012年07月03日 23:04 ID:IrWzXgrE0
霧島 鹿島 日光 霞ヶ関 アメノコヤネの正体
スカイツリーはカラクニダケ
http://oo77986455645.wordpress.com/
- 5 :
- >>899 唐松山さん投稿(2012/06/27(水) 22:09:13.57)謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!66
唐松山さん有難うございます。
>つまり、この日食は、時と場所が書かれていない、●差込記事●である。(●を私が追加)
仰るとおり、時は、唐松山さんが主張されている「阿豆那比之罪=日食」の記事自体に具体的には書かれていません。
「阿豆那比之罪」の文章の前に有る「新羅之明年春二月」と、後に有る「三月丙申朔庚子、命武内宿禰」からの類推に過ぎません。
しかし、場所は~功紀から「紀伊國小竹宮」と読めると思います。皇后が問いかけている相手も「紀直祖豊耳」です。
場所が書かれていないようには、私には解釈し難いのです。
>この日食は、計算値によると、北陸で全食が見られたと思われる。
>神功の出発地だ。神功に近い筋が持っていた情報ということだろうと思う。
273年に天体現象として「日食」が神功の出発地である北陸で観測された可能性は十分に有ると思います。
この「阿豆那比之罪=日食」を、「新羅之明年春二月」と、「三月丙申朔庚子、命武内宿禰」の間に差し込んだとのご意見ですね。
仲哀紀の二年に次の文が有ります。
「夏六月辛巳朔庚寅天皇泊于豊浦津且●皇后従角鹿発●」(●を私が追加)
~功皇后が北陸の角鹿を出発したのは仲哀二年です。
仲哀二年に北陸を出発する前の~功皇后が「皇后問●紀直祖豊耳●」と質問をしたことになり、時が矛盾します。(●を私が追加)
誰が誰に何を質問したのかが、明確に文面に残っています。情報の信頼性は高いと考えます。
それとも、273年には~功皇后が北陸に戻り、その時「紀直祖豊耳」が同行したのでしょうか。
●差込に創作(時も場所も違う)を加えたと仰るのでしょうか、となると、「阿豆那比之罪=日食」の記事全体の信憑性も低くなります。
唐松山さんのご意見の理解が進まず、納得仕切れずにおります。
●唐松山さんが、275年は、~功皇后元年であるという論理が少し判って来ました。
>神宮52年 七支刀。七支刀もその銘から容認できる位置(年月)は限られる。>861 唐松山さん投稿:2012/06/26
>七支刀から逆算すれば神功元年は275年になる。>861 唐松山さん投稿:2012/06/26
七支刀が拠り所なのでしょう。
- 6 :
- 空白の4世紀は日本で大戦争が繰り広げられて記録ができなかった
- 7 :
- 太陰暦が存在した。とした場合の太陰暦が下記である。
書紀に書かれた数字を太陰暦のまま圧縮出来るか?
増しは1章こと19年7潤=6940日が基本で4章につき1日(調整)を減ずる。
潤月は古記に従い、仲哀元年閏11月から逆算する。
西暦 年号元旦朔 増し調整 暦日
42年 神武元年庚辰朔 3章1日 0日 西元42年2月9日辛卯朔
途中省略 この間の増し 16章5日
184年 開化元年庚午朔 3章0日 51856日
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 52948日 開化と同じ暦、調整前
217年 垂仁元年丁丑朔 4章1日 63904日
240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日
262年 成務元年甲申朔 3章1日 80352日
266年 仲哀元年庚寅朔 0章0日 81799日 成務と同じ暦の可能性が有る
275年 神功元年丁酉朔 85106日 344年 応神元年
313年 神功39年丁巳朔 太歳 98986日
313年 仁徳元年丁丑朔 98986日 神功39年太歳を元年とする。
400年 履中元年壬子朔 130761日
- 8 :
- 続き
その場合の、歴史との接点を下記に示す。崇神時代
年輪降水量
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100814-OYO8T00180.htm?from=ichioshi
新羅本紀の192年や後漢書の183,193年の冷夏凶作。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。袁山松書曰:「是時羣賊起,天下始亂。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。
この時代は降水量が少ない、冷夏が予想される。つまり温暖化は雨量の増大、この反対の出来事である。
このグラフから、年輪年代が正しいことが解る。
193年=崇神5年=新羅本紀192年。新羅193年倭人大餓。
考古:2世紀末、各地の土器が纒向に持ち込まれる。=崇神10年異俗多帰。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
ホツマ ホ34129 ミマナのアヤ 崇神58年
ミヅカキの ヰソヤホハヅキ ミユキして ケヰヲヲカミに もふでます モロいわふとき
ツノひとつ あるヒトこゝに たゝよえり
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラ、金官伽耶、任那)は存在する。
- 9 :
- http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏飢饉 。[崇神5年]
東田土坑4 =最後の長頸壷と小型長頸壷の流行
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神10年異俗多帰]
纏向1類(後) 211年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?任那建国]
216年 任那より朝貢、
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年]
辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する
纏向2類(中)・纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁末年]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳 埴輪(庄内式穴あき壺)田道間守の殉葬。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利を派遣
景行 240〜261年(38年の空白)
晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 景行による九州
纏向4類(前)・纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]
成務 262〜265年(基本的に57年の空白) 仲哀 266〜274年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山 308年永嘉の乱
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 [313年仁徳元年]
仁徳天皇十二年(甲申三二四)七月 高麗國貢鐵盾。鐵的。
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳 316年晋滅亡、兵の引き上げ
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 [323年神功49年]
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。
- 10 :
- 私の主張する数字は、百済本紀の百済王家につながらない。
そして、私の主張する数字が正しければ、3国史記の正しい年代を特定する必要がある。
奈勿大圣神帝元年丁丑
十一月加耶君守克殂慕诃立以宣失为太后时加耶与倭相通不遵朝廷之令至是以倭王女为妻而不听宣失之言遣使责之
奈勿大圣神帝7年水羊=癸未
三月夫余流民三十户又来降夫余与倭相通年年受其民散置都鄙倭臣熊彦美而善辩与阿尒相通多听其言故国人异反或归于我亦归于丽
奈勿大圣神帝8年木神=甲申
夫余谨须殂枕流立其母阿尒执政遣千世吊之
千熊長彦の登場は、倭が背くべき朝廷が存在した数年後の癸未年にあたるが、貴須の即位した前年ではない。
316年西晋滅亡
317年丁丑 まだ楽浪・帯方は滅亡していないが、倭が背く程度には存在している
323年癸未 神功49年己巳 千熊長彦。
326年 神功52年 七支刀 東晉明帝太寧4年丙戌 5月16日丙午(東晋17日丙午)
神功64年甲申 仇首王即位。
つまり、百済本紀の王家には、書紀の干支が使われている。そのため120年差となる。
- 11 :
- 奈勿大圣神帝ってもういいよ。
いい加減にしてくれ。
新興宗教の集いかよ。
- 12 :
- 考古学もまだ万全ではない。
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 [323年神功49年]
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。
旧纏向5式 326年七支刀、大量の渡来人 旧編年 纏向5式(新)〜6式 (布留2〜3)
仲津山古墳
旧纏向6式 須恵器を伴う 370年前燕滅亡 TK73石津丘古墳
TK216誉田御廟山古墳 渡海(274年)から110年後。
399年(406?)ON46大仙古墳
纏向5類までは並べたが、それ以後の編年ができていない。
だから、
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。この時空をどこに置くか?
316年西晋滅亡。仁徳4年課役の停止。に置くこともできる。
辰国から郡の役人が消えるのは、320年と見て良い。
奈勿大圣神帝四年正月行白龙祭。 三月夫余入贡公兑等还京。
http://blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=xual&logNo=120101899318&redirect=Dlog&widgetTypeCall=true
http://cafe.daum.net/sijeong7101/G59v/65?docid=1IQacG59v6520100607201857
- 13 :
- >~功皇后が北陸の角鹿を出発したのは仲哀二年です。
240年12月15日日本武尊誕生。この数字から仲哀の誕生を推定すれば、17年後の257年ころ
そこから、17年ほど後の274年に応神が生まれる。
当時の男の元服=結婚可能年齢は15才とするのが妥当である。
仲哀9年に応神が生まれるのであり、仲哀の結婚適齢期は3年前程度が予測される。
仲哀2年に神功が敦賀を出発する。そのまま豊浦では、仲哀が適齢期に達していない。
記事がおかしいのか?
編年に問題があるのか?
まあ、通常編年に問題があるとなるのであるが、神功紀をどういう数字で説明するか?
という問題でもある。
274年神功渡海であれば、晋による冊封体制への参加。
255年日本武尊九州遠征の時点で、倭人伝を読む
使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に刺史如きを置き 女王国(九州)の北に特別に置いた一大率を監督し治め
諸国を検察する 諸国はこれを畏れ憚る
「大倭」と書いて「ヤマト」と読む。
この1大卒をもって、韓の警察行為をさせる、それが晋の目的であれば、渡海は可能である。
最初から、新羅や百済の上に立てる。
ここから、50年間 韓で警察行為に携われば、それ相応の信頼関係も生まれ、百済とも面識の仲となれる。
つまり、神功49年の記事は、正しい記事であると主張できる。
この正しい記事が、3国史記により捻じ曲げられている。というのが私の主張なのである。
だから、>「奈勿大圣神帝ってもういいよ」 と言われても簡単に引き下がれない。
- 14 :
- >>「奈勿大圣神帝ってもういいよ」 と言われても簡単に引き下がれない。
応神天皇110歳と言ってる君は退場すべき。
- 15 :
- >273年に天体現象として「日食」が神功の出発地である北陸で観測された可能性は十分に有ると思います。
NASAの日蝕データによると
273年5月4日に北陸地方を通る皆既日蝕があった。
今の上越市附近では、
日蝕開始:15時51分
皆既開始:16時53分
皆既最大:16時55分
皆既終了:16時57分
日蝕終了:17時53分
- 16 :
- 仁徳卅八年春正月癸酉朔戊寅。立八田皇女爲皇后。
仁徳四十年春二月。納雌鳥皇女欲爲妃。以隼別皇子爲媒。時隼別皇子密親娶。
いずれも応神の子供と説明されている。
当時の適齢期なら、女13〜16歳程度だろう。
つまり、仁徳40年で応神の子供が16歳程度におさめなければならない。
まさか40才の婆さんに設定はできない。
- 17 :
- >応神天皇110歳と言ってる君は退場すべき。
古事記の崩御干支 編年考察 古事記の干支を仲哀9年(応神誕生)に合わせ検証すると。
崇神天皇 188年〜216年 戊寅(186年?)・垂仁天皇 217年〜239年・景行天皇 240年〜261年
成務天皇 262年〜265年 乙卯・・・267年乙卯 (成務仲哀は同じ暦?)
仲哀天皇 266年〜274年 壬戌・・・274年壬戌、応神誕生。
神功皇后 275年〜343年
応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午
仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・
履中天皇 400年〜405年 壬申・・・404年壬申・・・404年帯方界への侵攻で死亡、兄王か?。
反正天皇 406年〜411年 丁丑・・・409年丁丑
允恭天皇 412年〜453年 甲午・・・428年? 413年東晋へ朝貢
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月内乱。
安康天皇 454年〜456年 珍・済 元嘉二十年(443年)、倭国王の済
雄略天皇 457年〜479年 己巳・・・461年己巳 (462)済死し、世子興遣使貢献す。
応神誕生から仁徳崩御までの時空は書紀、古事記で同じになる。
- 18 :
- 古事記の干支での没年
崇神 318
垂仁
景行
成務 355
仲哀 362
神功
応神 394
仁徳 427
当時の平均寿命高貴な方々で30歳前半。
34歳として世代間隔17年が妥当だろう。
何が応神天皇110歳だよ、お花畑野郎。
- 19 :
- 応神天皇110歳。たしかに不自然ではある。
しかし江戸時代の学者などは、そう書いてあっても、さほど気にしなかったのである。
ふ〜ん、そんなものか…程度で済ませていたのである。
なにしろ古い時代のことだから、正確な年代など分りようがない。
適当に書いてあるのだろうと思い、適当は適当で済ませていたのである。
実際、記録に残っていない天皇が何人もいたのかもしれず、
110歳はデタラメだろうと考えて年齢を縮めてしまうと、
却って実年代からズレてしまう恐れがあるのである。
だから110歳と書いてあれば一応、ああ、そうか、と思っていればよいし、
神武即位がBC660とされているなら、一応、ああ、そうか、と思っていればよろしい。
- 20 :
- >実際、記録に残っていない天皇が何人もいたのかもしれず、
110歳はデタラメだろうと考えて年齢を縮めてしまうと、
却って実年代からズレてしまう恐れがあるのである
なら110歳なんて高齢な天皇より適当な年齢の天皇作り出せばいいではないか。
- 21 :
- 応神天皇元年390年で何も不都合ない。
何言ってるんだ。
- 22 :
- 桓檀古記に神武と思われる人物の記事がある。
戊申十年,豆只州濊邑叛,命余守己斬其酋素尸毛犁,自是稱其地曰素尸毛犁,今轉音爲牛首國也。
其後孫有陜野奴者,逃於海上,據三島,僭稱天王 (檀君世紀 三世檀君嘉勒)
戊午五十年,帝遣將彦波弗哈平海上熊襲 (三十五世檀君沙伐)(BC722)
甲寅三十八年,遣陜野侯「幋命往討海上。十二月,三道悉平 (三十六世檀君賣勒)(BC666)
甲寅,命陜野侯率戰船五百艘往討海島,定倭人之叛 (馬韓世家下))(BC666)
神武東征開始も甲寅BC666。
だから神武即位BC660というのはあながち無視できない。
紀の編年は意外と正しい可能性があるのである。
- 23 :
- 神武は狹野尊と称された。
桓檀古記では陜野侯「幋となっている。
- 24 :
- >桓檀古記
消えろ。
- 25 :
- >>24
お前は自分を何様だと思ってるんだ。
人に向かって消えろとはよく言えたもんだ。
どんな育ち方をしてるんだ。
まともな学者が、他の学者の説が信じられないからといって、
相手に向かって消えろなどと言うか?
だからここの人間はsラだと言われるんだ。
伊作さえ、お前らがsラだから辟易して出てこない。
もっと言葉を慎め。
- 26 :
- いわゆる偽書と呼ばれているものにも二種類ある。
一つは世人を騙して楽しもうという、愉快犯的な動機で書かれたもので、
江戸時代の偽書などはこういうのが多い。博識の変人奇人がこういうのに手を染めた。
もう一つは桓檀古記や揆園史話のように、愛国心から書かれたものである。
揆園史話などを読むとその感が強い。憂国の士が、
三国史記に書かれていることだけが朝鮮の歴史ではないことを世に示さんとして書いたものである。
実際、揆園史話などは偽書ではない。誤謬はあるかもしれないが、
誤謬があることと偽書であることは別である。
>>24の男は、桓檀古記や奈勿大神帝紀のようなインチキ臭い資料を基に歴史を論じるのはやめてくれ、
と言いたいのだろうが、読んでみるとそれほど偽書臭はしない。
もちろん日本に関する記述などはいかにもインチキ臭いのだが、そういうのはごく一部である。
正史と考古学だけで歴史を語れ、と言われてしまうと、議論が縮小してしまうのである。
- 27 :
- >>18
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)九月己卯《十》◆秋九月庚午朔己卯。令諸國集船舶練兵甲。時軍卒難集。
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)十月辛丑《三》◆冬十月己亥朔辛丑。從和珥津發之。
このように、渡海は素人軍団だ。
では、渡海はあったか?
私の答えは、「渡海はあった」である。
それは、365年で可能か?
答えは、不可能である。
事実を事実とするためには、応神273年誕生で384年崩御。
もちろん、允恭4年のクガダチにより世継ぎは書き換えられている。
- 28 :
- 飛鳥昭雄説
卑弥呼は渡来したインディアン
- 29 :
- インディアンも来てたのか!
- 30 :
- >>26
で偉そうにほざいてるが、
おまえは卑弥呼を誰だと思ってんだ?
能書きはいいから答えろ。
- 31 :
- >>30
分らないとしか答えようがない。
私は、卑弥呼の倭は日本ではない、という可能性を探っているのである。
可能性が高いのは馬韓、百済、加耶あたりだろうが、
吉林省の東部あたりに倭山とか矮山と呼ばれる山があり、
その辺りにも倭人がいた気配がある。
さらに荇人國というのが北朝鮮北部か吉林省あたりに在ったのであり、
これはかなりの大国で遼東と縁が深かったのだが、正史には出てこない。
人が国名に付く珍しい国で、倭だけが倭人と書かれることと何か関係があるのかもしれない。
とにかくいろんな書を読んで情報を集めているのである。
- 32 :
- >おまえは卑弥呼を誰だと思ってんだ?
倭人伝が読めるのか?まあ、魏志より北史のほうが正確なことも?
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。
其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。 卑弥呼は詔書にむくいる朝貢、そこで「親魏倭王卑彌呼」を認められる。
正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、・・・倭王因使上表答謝恩詔。 詔書を奉じて倭国を訪れる。
卑弥呼とは別人だ。
倭国は、倭奴國卑弥呼と邪馬台国倭王の2王体制である。
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。倭王は、東倭にいる。
ここまで、理解できたか? 倭国は2王体制なのである。
これが理解できなければ、次に進めない。
- 33 :
- >>30
考古学の知見を正しいとしているか?
崇神=318年?とか言っているようでは、卑弥呼は見つからない。
これまで、卑弥呼が見つからなかった元凶はこの時代齟齬にある。
埴輪は誰の時代から存在するか知っているのか?
纏向1類(前) 弥生X様式土器 後漢193年冷夏凶作 。東田土坑4 =最後の長頸壷と小型長頸壷の流行
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する
纏向2類(中) 石塚 東田土坑3 =庄内大和形甕の登場
纏向2類(後)
纏向3類(前) 庄内3式期末 ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡・鉄器 埴輪(穴あき壺)
倭人伝 邪馬台国官、伊支馬 都市牛利
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)
纏向4類(前)
纏向4類(中)
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に勅使の如きを置き女王国(九州)の北部に置いた1大卒を監督する、1大卒は諸国を
検察し、諸国はそれを畏れ憚る。
纏向4類(後)箸中山(最初の大王墓)・燈籠山、布留0の指標、(260±10年程度)
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
- 34 :
- 倭奴國卑弥呼はどこにおりましたの?
- 35 :
- 崇神5年飢饉=後漢193年冷夏飢饉
崇神10年 異俗多帰=2世紀末
崇神世(58年)任那建国=210年金官伽耶の建国
垂仁末=ホケノ山=239年伊支馬イクメ、都市牛利(たしうり)
景行12年=九州北部に庄内式土器。 ここに卑弥呼とできる女性が登場する。
仲哀9年=274年 二月,分幽州五郡置平州。
神功渡海とは、大倭が九州に置いた1大卒の行為を半島で行うため、晋の命令による渡海であるから
素人軍でも可能だったのだ。
半島の1大卒(倭の警察軍)が半島を検察する。そのまま新羅などの上に立つ。
これだけのヒントがあれば、卑弥呼が誰か察しはつくはずである。
卑弥呼はだ〜れだ?
- 36 :
- >>33
>纏向1類(前) 弥生X様式土器 後漢193年冷夏凶作 。東田土坑4 =最後の長頸壷と小型長頸壷の流行
>考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
>纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)
>纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する
>纏向2類(中) 石塚 東田土坑3 =庄内大和形甕の登場
>纏向2類(後)
>纏向3類(前) 庄内3式期末 ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡・鉄器 埴輪(穴あき壺)
>倭人伝 邪馬台国官、伊支馬 都市牛利
>前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
>纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
>纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)
>纏向4類(前)
>纏向4類(中)
だから何?
石野・豊岡編年でおのれの応神天皇110歳とかいうクソ説をごまかすな。
ブスが化粧してるのと変わんねぇぞw
- 37 :
- >崇神10年 異俗多帰=2世紀末
お花畑!www
- 38 :
- 274年 渡海の年に応人は生まれる。
応神のあと313年に仁徳が即位する。
神功・応神を274〜312年までに閉じ込められるか?
当然、百済王家も閉じ込めなければ書紀の記事が認められない。
323年神功49年、半島の領有と領土分与。西晋が滅び、晋の役人が新羅を離れるのが320年
326年 神功52年 七支刀。
ここ以外に半島占拠を正しいとできる時空が存在するか?
369年=七支刀では、すべてが否定されている。
韓国人に聞いてみろ。「半島の占拠と領土分与はここでよろしいでしょうか?」と
神功前紀 載于八十艘船。令從官軍。是以。新羅王常以八十船之調。貢于日本國。其是之縁也。
何のことかわかるか?
晋の命令により半島に1大卒を置く。当然経費がかかる。経費は半島でまかなう。
半島で税の徴収、当然郡の取り分と倭の取り分があり、倭軍が税の取立てにあたる。
この税金のことを言っているのだ、ではその取り立てた税はどこに使われたか?
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山 308年永嘉の乱
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 [313年仁徳元年]
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。316年晋滅亡、兵の引き上げ
この古墳に副葬された鉄器は皆それにあたる。
- 39 :
- >274年 渡海の年に応人は生まれる。
>応神のあと313年に仁徳が即位する。
しないよw
そんな時代感の人間に自分たちの研究結果を出されたら、
石野さんや豊岡さんも迷惑だろうな。
- 40 :
- 33 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/10(火) 23:37:53.50
>>30
考古学の知見を正しいとしているか?
偉そうにね。
石野・豊岡両氏はおまえの知見を正しいとしてねぇよ。
- 41 :
- >石野・豊岡両氏はおまえの知見を正しいとしてねぇよ。
当然だな。私の主張には百済本紀の書き換えが含まれている。
中国で編纂された百済本紀を書き換える勇気が無い。
ところがだ、韓国考古学は、百済本紀の年代を確認できていない。
百済本紀の年代を引き上げればそれは解決する。
しかし、ここにひとつ問題がある。それは、
七支刀=369年で書紀の記事を否定できる。
その年代を引き上げれば、私の主張となる。
百済は49年の領土分与により建国され、その後百済は倭の属国となる。
韓国人は、倭の属国より未知の4世紀を選択する。
君はそれを認める。
- 42 :
- http://members3.jcom.home.ne.jp/kofun2-hp/kankknkime2.htm
4世紀以後、金官伽耶時代の木槨墓から中国系とは異なる北方農耕遊牧民文化の副葬品が出土する。
騎馬用甲冑・馬具・各種鉄製品・蒙古鉢形冑・桂甲・轡・木芯鉄張り輪鐙が出土。初めて殉葬が確認される。
伽耶地域では5世紀前葉あるいは中葉以降、竪穴式石室の内部を立体的にして壮大な円形
封土を盛った支配者の墓が築造されるが、金官伽耶は木槨墓を最後に墳墓が築造されない。
これは狗耶韓国系の集団が他の集団によって解体・吸収されたか他に移ったことを意味する。
「5世紀前葉に金海大成洞の集団が行方知らずになった」と申教授は述べている。
383年(323年神功49年)
3月, 付与(夫余)の流民(流民) 30号(戸)がまた投降して来た.
付与(夫余)が倭(倭)とお互いに上通(相通)して毎年その民を受け入れて都城と田舍に分散させて配置した.
ウェシン(倭臣) ウングオン(熊彦)は美しくて話術が良くて子供(阿□)とお互いに情を通じてその言葉を聞き入れ
る事が多いのでお吸物である(国人)らが離反してあるいは私たちに来てあるいは高句麗に行ったりした.
文献の年代を引き上げれば、文献と考古学が合致することは理解できるか?
韓国人は、その結果を受け入れるより、未知の4世紀を選択する。
つまり、この時点で学問ではなくなる。
- 43 :
- その結果、応神天皇110歳になったなら消えてよし。
- 44 :
- 三国史記・
二代王南解次次雄の時代
倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。
これに対して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪軍に攻められた。
しかし、流星が楽浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。
さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった。
あれ?前半の主語である倭人はどうしたの?
正解は倭人に王様を立てられてしまいした…テヘ。
その王様である二代王南解次次雄が倭人。
古事記で神功皇后が新羅王の門に祀った住之江(住吉)大神のナカツツノオが南解次次雄。
時代は仲哀没362年としてその頃。
案の定、南解次次雄は倭人の脱解を娘婿にし4代目王になってるね。
したがって新羅建国は4世紀中ごろ。
- 45 :
- >ナカツツノオが南解次次雄 ←根拠が書いてない。
>倭人の脱解 ←脱解は昔氏で倭人ではない。
- 46 :
- 邪馬台と大和って発音が似てるからなあ
卑弥呼は天皇の先祖じゃないのか?
- 47 :
- >根拠が書いてない。
偶然とは思えぬ一致だ。悔しいのかい?w
>脱解は昔氏で倭人ではない
タバナ国は列島なんで倭人だろ、ごまかすな。
悔しいのうw
- 48 :
- 情報過多で迷路にハマってる人ばっかりだね
書紀編纂の意図とか言い出したらきりがない
卑弥呼は神功皇后で決まり。
(だから女帝ではなく女王と記された)
邪馬台国は国家と言うより朝廷と豪族の利権型共同体で
西日本に広がり、機内に国政本部、九州に対外本部があった。
卑弥呼は議長のような立場で畿内と九州を行き来していた。
こう考えるのが合理的で美しい。
- 49 :
- >>48
4世紀後半の神功皇后を卑弥呼にしたばかりに、
もう年代がグダグダになって、
どうせならってことで神武を辛酉革命に合わせ紀元前660年にしたのだろう。
神功皇后はありえない。
- 50 :
- >>48
神功皇后は近江の豪族息長氏の娘だよ
九州と縁もゆかりもない
- 51 :
- >>47
プッ 冗談で書いているんだろうと思ったら本気だったのか。
なんというアンポンタン野郎だw
人に向かって消えろ、とか、よそでやれ、と書いているくせに、
自身は古代人の寿命は35歳だとか、ナカツツノオが南解次次雄だとか、
バカ丸出しのことを平気で書いているのだから呆れたものだ。
次はジと訓むのだ、バカタレ。
それにタバナ国は倭の東北と書いてあるのだから倭ではない。
脱解が倭人だとどこかに書いてあるか? 目を皿にしてよく読んでみろ。
二十三年甲子(AD4年) <鵲>太子浮海入<新羅>
こういう所伝の方が遥かに信憑性があるのだ。
こんなアンポンタンが親分気取りで仕切っているのだから、困ったものだ。
- 52 :
- 阿達羅紀 (A.D.213 - A.D.243)
(216)四年四月 多婆那以迎烏カ爲君
- 53 :
- 声出して読んだりしちゃだめだけど
脱解本多婆那國所生也
其國在倭國東北一千里
初其國王 娶女國王女爲妻
有娠七年 乃生大卵
倭の女國王女が大卵生んで
それが辰韓阿珍浦口に流れ着いて
大卵から出てくるのが脱解だから
脱解のかあちゃんは女國王女だな
- 54 :
- ようするに土人の酋長が海峡渡って行ったり来たりで
双方のがこゆい血縁関係にあったとゆうことでしょ
烏カの烏は かささぎ 鵲 カチガラス のでシンボルのがお日様ので
男のかささぎだったら三本脚とかであってもふつうだな
んで「日矛」は「日北孤」で書いてあげても良いのだろ
「いきながたり」女大酋長さんにも母系ので「日北孤」の血が流れていたりするんだよな
- 55 :
- >>49-50
別にこのスレに居付くつもりもないし、>>48に固執するつもりもない
ただ、反証はちゃんと意味を理解してからしてもらわないと、どう反応していいか
判らず困ってしまうw
反論はまともな日本語で論理的に頼む。
- 56 :
- ばかだなあ
卑弥呼と神功皇后は別人にきまるだろ
だいいち使用する武器がちがうだろうが
卑弥呼の武器は鏡で
神功皇后の武器は珠だからね
干満のをつかさどるのは月の女王で
日照のをつかさどるのは日の女王だろ
卑弥呼の女の園の女王國が干満の差のでかい所に立地していたら
卑弥呼は二個のたま使いであったはずだろ
- 57 :
- >>56
2個の玉って…
まさか!
- 58 :
- >>55
卑弥呼には子がいないのに、堂々と子を産みましたなんて
書いてある時点で無いわ、JK
- 59 :
- 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍
唯有男子一人給飮食 傳辭出入
きまった婿さんとかいなくても子は成せたりするでしょ
書いていないとゆうことはなかったとゆうことと直結とかはしないんだよね
有男弟佐治國のひとと
唯有男子一人給飮食 傳辭出入のひととは別人だろ
佐治國とゆうのは身の回りの世話とかするのとはまったくのべつごとだろ
ようは男妾さんとかでねえのかな
そおゆうひとが殉死とかする例は
新羅のルーツの所の伝とかにも残存したりしていたりするけどね
- 60 :
- >>59
都合よく考えすぎだね。
巫女、シャーマンで子を成す事は致命的なんだけど、
一般的な認識だと。
- 61 :
- 巫女と遊女は紙一重とゆうのもあるけど
- 62 :
- 女王になってからは見るものがほとんどいないんだから妊娠出産してもわからないしね
- 63 :
- ねーよw
巫女はじゃ無くなった時点で終わり。
要は免許剥奪、モグリの女王になってしまうわ。
- 64 :
- でもできちゃったもんはしょーがないからw
- 65 :
- 又言有「一國亦在海中 純女無男」
これのは「女の園」すなわち「女王國」のことを謂っているのだろ
>>53 で出てきている「女國」のことだよな
アマゾネスの世界ではホストのがビジターをゲストとして優待して
けっか子を成すと
男はいらないからビジターのところに引き取ってもらう
女の子だけ残して宗族を連綿と維持継続させるみたいな
- 66 :
- プラセンタを製造してたんだよ エジプトの技術だよ 始皇帝だって使ってたんだから
- 67 :
- >>56>>58
そもそも日本国に信頼に足りる正史が存在せず、神宮皇后の生年も
存在すらも説がバラバラ。
そんなあやふやで断片的な資料に基づいた歴史観でばかだなあとか
卑弥呼には子はいないとかこきおろす奴がバカということ。
実証という観点から考古学、推理という観点から歴史学、心理学、
行動学などが相まって高度な人類史の推論が形成されていくんじゃない?
という歴史観のギミックが>>48なんだよ。
判んないだろうなw
- 68 :
- >>63なんか卑弥呼は巫女で子どもはいないで思考停止してるw
発展性のない馬鹿の典型だよねw
- 69 :
- ばかだなあ
土人の女酋長の諸類型のこと騙っているのにさ
「卑弥呼と神功皇后は別人」のの真意は
「卑弥呼タイプの女酋長は神功皇后タイプの女酋長とは別の類型」て
読み替えできないとかてほんと未熟だな
- 70 :
- 卑弥呼の頃は生贄を食ったりしてたけど
神功皇后の頃にはさすがになくなっただろう
- 71 :
- くだらない話題が続いているので、今日の掘り出し物を挙げておこう。
…以此,<加葉>人聞而益来,巫風大振.巫之観望者,或南或西,<涉羅>‧<倭>‧<韓>之巫風終此始熾.BCE29
九月,<涉羅>女主<奕居知>遣使入貢.<涉羅>,在於<桓那>之東南,依山傍海,世襲女主.
山多野少,民以魚獵為生,冡冢居岩伏,好歌舞鬼神.囯之俊秀者為女主之嬖臣,生女為巫,其最少者継之.
其俗淳,實不等,能為其主而盡忠.上,賜<奕居知>綾緞,命親自入朝 BCE24
この<涉羅>をこのサイトの主は涉羅國{=斯羅=斯盧=新盧=尸羅}と解しているようだが、
そうとは限らない。こういう記事がある。
二月 召羅太守山我卒 以其國屬于所利城 西韓遂絶 上命有司 賜方我族屬一百人 家宅奴婢 于京都
とはいえ涉羅は朝鮮半島の東側の国と思われ、斯羅=斯盧=新盧=尸羅かもしれない。
とすると卑弥呼は斯羅=斯盧=新盧=尸羅にいたのかもしれない。
ただし私は尸羅は斯羅=斯盧=新盧とは別だろうと思っているのだが。
- 72 :
- くだるところに籠もってりゃええのに
- 73 :
- 楊貴妃も使ったんだよ
ほんとーだよ
- 74 :
- >>69
意味も判らないまま貶すだけw馬鹿丸出し
>>71
怪しいチョン記事と主観だけの方が下らないと思われ
- 75 :
- ついでに言うと、荇人国も桓那国も女主=女王がいたのである。
涉羅国は女王が世襲で巫女だったと書いてあるし、
とにかく古代は女王がゴロゴロいたのである。
それからこれは無関係だが、山海経にこういう記事がある。
女子国在巫咸北
巫咸国在女丑北
この女子国、女丑というのは粛慎のことである。巫咸とは長白山あたり。
- 76 :
- マリー・アントワネットだって使ったんだよ
ほんとーだよ
- 77 :
- >>68
君のように足りない知恵で余計な発想をすると
本質から離れて明後日の方向へ行くだけだよw
- 78 :
- 思考停止よりはマシだろw
- 79 :
- 粛慎と書いたが沃沮と考えてもよい。要するにのちの女真である。
で、この女子国、女丑という名が「一國亦在海中 純女無男」という伝説を生んだのだろう。
で、多婆那國の王が娶った女國王女というのは、女子国、女丑の王女か、
または涉羅国の王女なのだろう。
- 80 :
- 正解と思うならそこで思考を停止しなきゃw
大体神功皇后は応神天皇を産んでる訳だが。
それでどう卑弥呼の時代と結びつくのかな?
- 81 :
- >>56
>卑弥呼と神功皇后は別人にきまるだろ だいいち使用する武器がちがう
だろうが 卑弥呼の武器は鏡で 神功皇后の武器は珠だからね 干満のを
つかさどるのは月の女王で 日照のをつかさどるのは日の女王だろ
横槍なので、応レスはこちらは不要なのでおまかせしますが、当方も基本
別人と考えています。(当方は卑弥呼はモモソ世代説)そこは同感。
(但し、イメージは後代重ねられ、だぶらされた)
ただし、古事記上は、月の神(ツクヨミ)は男とされています。そして、
アマテラスは日の神にして女性。
さて、ここで面白いのが、伊勢のアマテラス様は「男かもしれない」と言う
疑惑の余地が生じてしまう点。
これを解決すべく、ひとつの推論があります。つまり、伊勢の神はそもそも
「ツクヨミ」だったのではないか?と言う推論です。これなら、伊勢の神が
「男神」のように祀られている祀り方も矛盾がなくなります。
つまり、伊勢の本神は、ある時期まで「ツクヨミ(=男)」で、ある時期から
「アマテラス(=女)」と言うふうに「上書きされた」と言う推論です。
その時期こそ、沙保の乱の直後の「毘売」の継承に描かれた頃。「毘売」の
役職が、瀬戸内海から伊勢へ強奪(古事記は移譲と主張)されたとなります。
- 82 :
- >>81続き
上記の推論の上に立つと、不思議な事に、
@大物主神はどの神話体系に属するか?
A古事記神代における「ぶつぶつ断絶感(特にツクヨミ)」はなぜか?
B金毘羅神社はなぜ日本の津々浦々にあるか?
C後に「作られた異人族」エミシとは何者か?
この四つが、スムーズにつながって来るような気もします。
A時代に、ツクヨミはアマテラスに上書きされます
B時代に、ツクヨミの祟りを畏れて上記上書きに漏れた部分を大物主とする
C時代に、上記のうち、スガ氏(俗に言う蘇我氏)関連項目を削除
これにより、いろんなものが、バラバラになり、チリジリになった。と。
つまり、ヤマタノオロチは、ヤマタの主であり、これが指すヤマタこそが
ヤマタイ(国)であり、前ヤマト王朝、となるワケです。
アマテラス=ツクヨミ、でないと困る人が、半分いて、
アマテラス=ツクヨミ、であると困る人が、半分いたのです。
そこで、夜を支配する「ツクヨミ」は、同じく「夜に政治(マツリゴト)を
するのを常」としていた「蘇我氏までの大和政治」と共に、古事記編纂の頃
に、完全に国史から消え去ります。
- 83 :
- 俺は>>67説に一切賛成してないが何か?
お前はヤマトタケルは義理の父とか主張してればいいじゃんw
- 84 :
- >>51
>次はジと訓むのだ、バカタレ。
読み方など一つに決まるかバカタレ。
>それにタバナ国は倭の東北と書いてあるのだから倭ではない。
>脱解が倭人だとどこかに書いてあるか? 目を皿にしてよく読んでみろ。
倭国(北九州)の東北・丹波だ、バカタレ。
しかも4世紀の慶州に布留式土器もでてるのだ、
どういうことか説明してみろカス。
>二十三年甲子(AD4年) <鵲>太子浮海入<新羅>
こういう所伝の方が遥かに信憑性があるのだ。
おまえAD4年に新羅なんて存在したと思ってるの?
医者に池。
- 85 :
- >>82続き
さて、この無駄に長い上記の推論を、あえて簡潔にしてみましょう。
・ヒミコはモモソで、ヤマタイはヤマタである。(→それが後代ヤマト)
・ヒミコはイザナギの墓(淡路島)を見守る巫女で、その近辺を本拠。
・ヒミコはアマテラスを崇拝する九州ヤマタと、ツクヨミを崇拝する
近畿ヤマタから共立される。
・ヒミコ外交は九州で行われるが、魏の外交官は「ヤマタイ国の場所」と
「ヤマタイ国の本質」に関しては不確定のまま帰国。(外交戦略)
・ヒミコ没後、崇神大王が(穏便かあるいはクーデターで)次の王権となる。
・沙保の乱で、ヒミコ→イヨの「毘売権威」は、伊勢へ移譲される。
<そして時は流れ>
・天智大王&天武天皇は、蘇我の神話体系を国史から削除する。(これにより
上記のヒミコ=モモソと、崇神王朝(崇神から数代)の記述は、大幅に削除、
改竄、簡略化される事となる。
・大物主・金毘羅等々は、蘇我の祖先神か、あえてその代わりに配置した
代役神。
・崇神大王代以降に西日本大和王権とは「別」とされた、東国の民と神話体系
は、国史神話体系から除外され、「エミシ(奇しくも蘇我の一頭領と同名)」
と呼ばれるようになる。
- 86 :
-
「拠って立つ王土の立地条件がそこに涌く女王の得意技の種類に影響を与える」
とゆうてーぜを貼っておいてあげよう
珠使いの「神功皇后タイプの女酋長」の「拠って立つ王土」のうちでスポットのあたる領域は
干満差のでかい領域で、そこは、新たに手中にした領域ということになります。
珠使いの「神功皇后タイプの女酋長」のプロパティはもとのが月をシンボルとする女王でございます。兎さんぴょんぴょん
「神功皇后タイプの女酋長」の武器の「満干珠」は「卑弥呼タイプの女酋長」経由で「海神」からの取得になります。
「高木神から一夜の宿で結界を張って云々」のは
「卑弥呼タイプの女酋長」のに「神功皇后タイプの女酋長」のが権限委譲を強いたとゆうことになります。
- 87 :
- 『日本書紀』巻一第四段一書第一◆一書曰。
伊弉諾尊=吾身陽元→男=日子
伊弉冊尊=汝身之陰元→女=月子
伊弉諾尊勅任三子。天照太神者。月夜見尊者。素戔鳴尊者。
ミ03060 クニうみて いかんぞキミを うまんとて ヒノカミをうむ そのミナを ウホヒルギまた
アマテラス オヲンカミとぞ たゝえます
ホ04143 ヲサナナの ウはヲヲヒなり ヒはヒノワ ルはヒのチタマ ギはキネぞ かれウヒルギの
ミコトなり キネはメヲトの オのキミぞ
- 88 :
- >>85続き(補足)
・沙保の乱の直後(〜しばらくしてから)、近畿ツクヨミはそのほとんどが
アマテラスに上書きされる。と同時にツクヨミの祟りを畏れて、大物主を
祭る。(代理神、或は鎮魂神として:基本構造は出雲神社と似た構図にて)
・前出雲王朝における「ヤマタノオロチ神話」こそが、その頃、前出雲と
ヤマタイが「対立」してた証。(だが、後代、これを明言されたくない勢力
が大和王権の主流となった時代に、事実性を濁される)→国譲りの一部まで
前出雲王朝は存続(古事記はこれを前倒しし、神代逸話に全てまとめる)
・この頃のヤマタイは九州と九州と同盟したい当時の四国&近畿とから成る
(つまり、現出雲地方を除く西日本一帯)地域の「連合国家」
・その「連合」のお題目こそが「イザナギ」であるので。
・結果として、イザナギ三皇子である、アマテラス(=九州)と、ツクヨミ
(=近畿)と、スサノウ(=出雲)は、イザナギをお題目として「対外同盟」
を組めるワケである。イザナギの墓を代々守ってきた巫女の末えいである、
モモソ(=ヒミコ)が、当時の西日本の名目上の盟主として共立できる条件
がここに全て揃う。(但し、出雲は先述より、この同盟には消極的)
・魏志倭人伝では、結果的に九州だけが邪馬台国で、それより以東の国は
黒歯国かのように表記される。黒歯国が、「ヤマタイ近畿勢力」にあたるか、
「それより東の幻の古代関東王国」にあたるかは、ここでは今は不問。
(但し、九州・出雲・近畿が全部この同盟に参加していた場合は、黒歯国は
幻の古代関東王国あたりと考えた方が妥当となってくる)
- 89 :
- >>88続き(あ、88もレス長です。しつれいしました(汗))
さて、一息。
>>56さんの仰っていた、「得意技」と言う点が、当方的には共感のポイント
です。ここで、あえて、A:ヒミコさん。B:モモソさん。C:神功さん。
の、得意技(スペック?)や政治手法の比較を当方なりに行っておきます。
A:鬼道(これは原典が中国書物なので仙道等を想わせる)/妖しで人を幻惑
B:蛇使い/夢判断にて謀反者を
C:筒使い・球使い/神託にて渡海をミカドに提案
まあ、Aは中国原典なので、門外漢の私なんぞがトヤカク言う気もないです。
当方は、ただただ、B、Cを、再検証・詳細分析して、よりどちらがAに
近そうかの感想を述べるだけとします。
面白いのは基本スペックだけだと「どっちもありそう」となる構図です。
一応、三種の神器になぞらえる方向での分析も同時進行中ですが、今回は
あえて、このモモソさんの「蛇使い」と言う点に注目してみたいと思います。
記紀から「蛇」を探してみます。すると、ヤマタノオロチとモモソヒメが
Hitします。(ヤマトタケルは一応後代とされてるので、ここでは除外)
記紀から「俣(マタ)」を探してみます。すると、ヤマタノオロチと
キノマタヒメ(大国主の妻の一人)と、イスケキヨリヒメ(神武の近畿妻)
と、二代目スイゼイ大王(幼名は名前ど忘れ陳謝)と、モモソヒメが
Hitします。
- 90 :
- >>89続き
ヘビとは何か?マタとは何か?これが具体的には、諸説や諸感がありそうで
しょうし、その逐一に関して当方が、真偽・是非を言う気もありません。
ここで重要なのは、「蛇」と「俣」にあたる文字や概念が、「前出雲」と
「前近畿大和」との「間でのみ発生している」と言う事実です。もし、先述
のように、「大物主神話体系」が「この(ヒミコの)時代にはツクヨミ」
だった場合、これは
「スサノウ信奉地域とツクヨミ信奉地域との間でのみ発生」と言い換えても、
ほぼ意味は同じです。これは同時に、「当時出雲と当時近畿大和との…」と
言い替えてもほぼ成り立ちます。
さて、いよいよスペック比べですね。
・アマテラス---神功---球で共通項として括れる
・スサノウ(&消されたツクヨミ)---モモソ---蛇・俣で共通項として括れる
・ヒミコ---→括れるとしたら、それはアイテム「鏡」
そこで、不思議ですよね。三種の神器です。球・刀・鏡ですよね?まあ。
球はアマテラス、刀はスサノウとしても、「鏡」はどこから来たんでしょう?
ほらほら、そこに「(消された)ツクヨミ」さんが、いるじゃないですか。
彼が「鏡」だとすると、何故かシックリ来るのは偶然の一致でしょうか?
そう、私個人の感想としては、ヒミコ=モモソ=ツクヨミの巫女。この構図
だと自然に思えるのです。ただ、ツクヨミさんにお隠れあそばして頂きたい
勢力は、当然モモソ=ヒミコさんにもお隠れあそばして頂きたい、となる筈
なんです。ツクヨミさんを消したい時代に、モモソ=ヒミコさんも消され
かける(但し完全にではない)となったと言う架説筋なんです。
信じるか信じないかは、真夏の夜の夢。お月様だけが知っている。
- 91 :
- >>90続き
「蛇俣と言ったり、鏡と言ったり、じゃあ、モモソさんは、結局前出雲なの?
それとも前近畿大和なの?」と言う、誤解お叱りを防ぐ為に、再度説明。
記紀の編纂の時代に「削除ターゲット」とされたのが「蘇我氏神話体系」
です。これで消された内容は当方は「崇神大王から数代」と想定しています。
それよりだいぶ昔の沙保の乱鎮圧時代(=崇神大王から数代)に「削除
ターゲット」とされたのが「ツクヨミ神話体系」です。これで消されたのの
代表格がモモソであり、結果的に=ヒミコが記紀から拾えなくなります。
なので、モモソの逸話(=特にこれこそが先述の紀での蛇神話等)は、記紀
編集時代には「ツクヨミの話?」である事が既に不明になっていて、むしろ
蘇我の神話体系の話に頻繁に印象的に出現するので、「蘇我の話?」と勘違い
され、少なくとも古事記においては、不可触として放置されます。
(日本書紀で、これが若干復元されるも、故意か過失かによって、卑弥呼とは
特定できない形で表記されてしまう)
つまり、古事記が「蘇我の痕跡」を拭い去った時に、一緒に、蘇我の祖先
(=これを当方は崇神大王以下数代と想定)の「敵対者」であった
「ツクヨミ信奉一族」の逸話も、同時に「完全に消え」てしまった。と、
こうなります。
- 92 :
- >>91続き
さて、当方がなぜ、このような一見無謀にも思える架説を言えるのか?
ですね。では、この推論の主軸をここで述べて、今日は終わりとします。
少なくとも、古事記から拾える範囲で「蘇我の祖先で一番活躍している人」は
だ〜れ?
そう、武内宿禰さんですね。あの、数百年生きたスーパースター(或は役職
名?)。
彼の名前は、崇神以降数代目から景行〜仲哀〜神功〜仁徳の時代に「出現」
します。つまり、「武内宿禰」さんの影が蠢く時代は、「蘇我の祖先の時代」
と考える考え方も、当然生じ得ます。
「蘇我憎し」の時代なら、尚更ですね。
だがしかし、いくら蘇我憎しでも、「自分の祖先」が大活躍する逸話は
「外せません」なぜなら、ヤマトタケル逸話には倭ヒメが登場大活躍します
し、神功逸話は対中国史・対朝鮮史に関して、強気に行ける武勇伝です。
従って、古事記においては、崇神大王時代の「前半」はほぼ「血脈のみで
逸話無し」となり、「後半(当方はこれを仲哀〜継体已然まで)と想定」
は「ヤマトタケル」と「神功」と言う、古事記編纂を命じた人々にとっても、
描ける・描きたいヒーロー・ヒロインを大活躍させます。
この表記上のマジックにより、本来「綺麗にはつながらない」筈の、崇神大王
の一族史と、倭姫の一族史は、スムーズにつながってしまうのです。
(但し:血脈が途切れていても、これは可能ですが、当方は血脈自体は
「組替え」はあっても、途切れは無いと想定しています)
おつきあい感謝を表しまして、今宵の架説はここまでにします。
- 93 :
- 誰かがきちんと記録つけててくれれば良かったのに、
みんないい加減なんだから!
そこの中国の使者、お前だよ、お前!!
- 94 :
- あ
- 95 :
- >>92
葛城には築山(月山)古墳があってだね、この辺から二上山、太子町が鍵。
ここの話を某宮司さんに興味深い話を以前伺っていたのだが、
公言しないでくれと頼まれた事がある。
- 96 :
- >>59
卑弥呼が遊女で娘が大勢いたなら男王をたてるまでもなく卑弥呼の娘が即位するでしょう
卑弥呼と男王の血縁は不明
その後女王になった壱与も卑弥呼の同族とされるだけで卑弥呼の娘ではない
とんでも説だとは思うけど卑弥呼が夫のいない未婚の母説はないわ
神職に就く伊勢斎宮や賀茂斎院も夫は持てないけど遊女にはなれるってことだもの
- 97 :
- >>84
わはは、迫力のない反論だな。
もう少し頭のいい奴かと思っていたが、やはり馬鹿だな。
では次をツと訓んだ例を出してみろ。
それから新羅は紀元前には建国されてるぞ。
三国史記にそう書いてある。
それが間違いだというなら、それが間違いだという証拠を示せ。
お前が信じているその史観を津田史観というのだ。
記紀の古代の部分は造作だとか、新羅の建国は実際はもっと遅いだろう、
などという史観は津田を始めとする日帝の学者が唱え、それに朝鮮の学者が追従したのだ。
本や教科書やネットに書いてあることだけが真実だと思うな、バカタレ。
どこかのアホな学者が、いいかげんな調査で、古代人の平均寿命は35歳などと書く。
それを読んだお前のような馬鹿が、ああ、そうか、と信じてしまう。
弥生時代の中国の文献を調べてみろ。人間が平均35歳で死んだと書かれているか?
どの時代だって、人間は70歳くらいは生きていたのだ。中国も日本も変わりはない。
巨大古墳を作ったような国力のある国だ。中国と同じように豊かな国だったのだ。
人間も当然70歳くらいは生きていたのだ。考古学に騙されるな。
- 98 :
- >>97
>では次をツと訓んだ例を出してみろ。
漢字の当て字はいくらでもある。
思いついた例だが地名の「あだ」を吾田、英多などと表記してる。
その時代地域によって違うのは当たり前だ。
次(つぎ)を「つ」に当てはめてもいいわけだ。
>それから新羅は紀元前には建国されてるぞ。
>三国史記にそう書いてある。
じゃ神武も百歳以上生きた紀元前の人間かwww
>それが間違いだというなら、それが間違いだという証拠を示せ。
4世紀の布留式土器と瓢公・脱解など倭人の記述だ。
考古学と文献が一致だ。
今度はおまえが紀元前の新羅建国の証拠を出せ、クソはげ。
- 99 :
- PS
>どこかのアホな学者が、いいかげんな調査で、古代人の平均寿命は35歳などと書く
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/3863/tyouzyu.html
>どの時代だって、人間は70歳くらいは生きていたのだ
底抜けのアホだなw
国勢調査が始まった昭和20年代で50歳代だぞ。
ド ア ホ!
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