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2012年07月心と宗教271: Osho,クリシュナムルティ,グルジェフetc. (660)
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Osho,クリシュナムルティ,グルジェフetc.
- 1 :2012/08/05 〜 最終レス :2012/10/30
- 死んだ伝統よりも、現代に新しく蘇った悟り、教え、メッソド、について語る。
EOやフーマン、アジズの話題もOK。
伝統宗教に飽き足らない人々、集え!
- 2 :
- 生における最大の神秘は生そのものではなくて、死だ。
死は生の絶頂であり、生の究極の開花だ。
死において、生のすべての総計が出され、死においてあなたは到着する。
生は死に向かう巡礼の旅だ。
生まれ落ちたその日から、死が近づきはじめている。
誕生の瞬間から、死はあなたのもとに近づきはじめ、あなたは死に向かって進んでゆく。
人間の心(マインド)に起こった最大の悲劇は、彼が死に対立するようになったことだ。
死に対立することで、あなたは最大の神秘を取り逃がしてしまう。
死に対立することはまた生そのものを取り逃がすことでもある。
なぜなら、それらは互いに深くかかわりあっているからだ。
それらは別々のものではない。
生は成長であり、死はその開花だ。
旅と目的地は別々のものではない。
旅は目的地において完結する。
死は高まりゆくものの頂点として受けとめられなければならない。
それによって異なった視野が開けてくる。
あなたは死を避けないようになり、死に対立しなくなる。
その神秘に身震いし、それを楽しむようになり、それについて黙想し、瞑想するようになる。
- 3 :
- 死はさまざまな形でやってくる。
あなたが死ぬことは、死の多くの形のひとつにすぎない。
あなたの母親が死ぬとき、それはあなたの死でもある。
母親はあなたに深くかかわり、あなたの存在の大きな部分を占めていたからだ。
その母親が死ぬ。
あなたのなかのその部分も死ぬ。
あなたの父親、兄弟、姉妹、友人が死ぬ。
敵が死んだときですら、あなたのなかの何かが死んでしまう。
なぜなら、敵もあなたの一部と化していたからだ。
あなたは何かを失って、何かが欠けてしまい、もはや二度と同じではない。
だから、死はあなたが死ぬときだけに訪れるのでわない。
死は多くの道を通ってやってくる。
死は常にやってきている。
子どもの幼さが消えて、青年になるとき、あなたには見えないだろうか?
そこに死が起こる。
子どもの日々が終わり、子供の日々が死んで、その扉が閉ざされる。
後戻りすることはできないし、取り戻すこともdきない。
それは永久に去ってしまう。
子どもとしてのあなたは死んだ。
いつの日か青春は老年へと移り変わる。
またそこでも死が起こる。
数えきれないほどの死がある。
実際のところ、深く、貫くように見るなら、自分が刻一刻と死んでゆくのを見ることができる。
なぜなら、あなたは刻々と変化しているからだ。
何かがあなたの存在から抜け落ちてゆき、何かがあなたの存在の中に入ってくる。
一瞬一瞬が誕生と死だ。
あなたはこの二つの堤、誕生と死のあいだを流れている。
あなたの生の川は誕生と死があってはじめて流れることができる。
しかもそれは刻々と起こっている。
- 4 :
- クリシュナムルティが多重人格だった可能性は多いにある
子どもの頃から神智学教団で虐待まがいの行為に晒されて、その間に解離することを身に付けたのかも知れない
幽体離脱してヒマラヤのマスターに会った話はあきらかに妄想だ
また悟ったとされるときの瞑想でも、伝記によれば釈迦の妄想を見ている
話の内容も当時の精神分析や心理学の知見を多いに利用していて、とくに条件付けがお気に入りのようだ
人格障害者は独特の魅力がある人が多いから見かけで騙された人も多かったことだろう
- 5 :
- >>4
要はカルトと一緒だよ。。
世間を批判、否定して、自分だけが正しい、自分の言うことの中にのみ真実があると言ってるわけだから。。
本来は、自分の中の世間を空じる、というだけであるのに。。
まあ空じなくてもいいというのもあるかもだけど、いったん卒業しないと使えないからね。。
仏法は、すべてを包摂する。
世俗を否定して、自分たちだけが正しいというのはカルトの始まりなのさ。。
- 6 :
- カルトなどなくならないんや。
宗教と関係なく、手を変え品を変えのさばるものなんやねん・・。
目には目を、カルトにはカルトを・・・。かもしれへんな。
自分がカルトだなんて気づいてないカルトも仰山あるやろて・・・
- 7 :
- 自分をカルトだと思っているカルトもはカルトじゃないでしょうね。
確信犯の場合はカルトというより、ビジネスですし。
悪意をを外部に投影し自分が正しいという側に立とうとするので。
例えば
「本来は、自分の中の世間を空じる、というだけであるのに。。
まあ空じなくてもいいというのもあるかもだけど、いったん卒業しないと使えないからね」
このロジック自体は近代宗教ではラーマクリシュナ以外はほとんどこのアプローチなのですが、
カルト的思考にとっては、自分がこういう場合、他は自分が否定する意見を述べているものでなければならないわけです。
他の宗教(考え方に対立が感じられる宗教)は、世間を否定し、包括していない、自分だけが正しく、他を批判していると、
そのようにみて相対的に自分が正しいのだと納得する作用が必要になります。
近代宗教はあるニュアンスで世間を批判することもありますが、全体の文脈で取れば、自身の心が全ての苦しみの原因であり、
外部に責任を求めても外部は変えられないからどうしようもないのだと述べています。
もちろんカルト的思考にあっては、その他者批判的な描写を部分だけ抜き取り全体の文脈は無視します。
カルトとは、外部への悪意の投影のことでしょう。それはなくなりません。
カルトだと自覚していないひとがみなカルトというわけではないですが、カルトはカルトであることの自覚がありません。
そしてカルトを冷静に描写できる人はカルトではないですが、カルトを強く批判する人ほどその人自身がカルトであることを示しています。
カルトは、外部に敵対するカルト集団を必要とするのです。
- 8 :
- そしてそういうカルト的な思考にあっては
「本来は、自分の中の世間を空じる、というだけであるのに。。
まあ空じなくてもいいというのもあるかもだけど、いったん卒業しないと使えないからね」
これは何を示しているかの理解はない。
カルト的思考にあっては、対立する考え方の投影−自分の正当性
という相対的な軸があるだけで、
絶対的な事実の、真実の描写、一元性というものは決して理解できない。
一元性を彼らが唱えるときは、彼らが2元性であると思ってるものを否定しているという意味でしかない。
言葉ではなく、ひとえにどのような精神構造かが、語る内容を示す。
精神構造が違うと、同じ言葉に全く想像もつかない意味がこめられている。
- 9 :
- ただ、カルト的思考はそれが強く出ているというだけに過ぎない。
これは良いがこれは悪い、というあるがままの世界を分割して認識するのが思考であり、
より強いものに目を取られてちゃっかり活動している自身のそれに無自覚になると目も当てられない。
相対的に自分がカルト的観念論者ではないと安心して、平凡な、もしくは瞑想によって静まりつつある思考も、
生きながらえ続ける。
- 10 :
- コレを読んでからだ。
http://koledewa.blog57.fc2.com/blog-entry-91.html
http://koredewa.blog57.fc2.com/blog-entry-24.html
- 11 :
- http://koledewa.blog57.fc2.com/blog-entry-24.html
- 12 :
- 私は自ら認識した精神の作用について語るだけで、引用はメインではないのであまり関係はありません。
借り物の言葉同士で語り合いたい人にとっては引用先は深刻な問題かもしれませんね。
真相はわかりません。光明を得た人といわれる人同士の関係でそれが確定ならお粗末ですが、
なにせ周りの人は普通の人です。
クリシュナムルティーより進んだ認識をあなたが持っていれば、彼の講和を同じ延長上でより進歩させて述べることができるでしょう。
それができないのであれば他者批判はせず口をつむぐべきでしょう。
- 13 :
- おれはクリシュナムルティと同程度の光明を得ているが、おれの見るところやつは怪しいなw
- 14 :
- 批判というのは実にお手軽に自分が何者かだと思える方法です。
批判の対象以上の創造、そして生きた対話、それこそが批判者の述べることが正しく
批判の対象がどこかで行き詰まっていることの証明になります。
創造も、生きた対話もできない、だが、批判はできる。
言いがかりをつければいい。
自分は何者かになった気になれる。
惨めで無知で混乱している自分を忘れられる。
創造4割、対話4割、批判賞賛2割、覚者の講話の分量ってこんなものじゃないかな。
それは仏陀のころからあまり変わらない。
- 15 :
- >>14
覚者って覚せい剤上手に打ってんの?
- 16 :
- 対象のいない言葉ほど空しいものは無いなw
- 17 :
- 覚者は子供が好き。責任が嫌いだがワールドワイドな責任については述べる。
その問題は結局個人に帰すると覚者は誰もが言う。一方先進国では責任は山積みで部分的にでも少しずつでも引き受けるのが
大人だという。あなたは子供の笑顔がすきですか?大人の笑顔がすきですか?
- 18 :
- ここは首から上の話ばかり。
事実に参じないうちはわからんよ。
わかったも首から上の話。
ここで首から上のおもちゃ自慢でもしときなさい。
- 19 :
- 首から上が無かったら光明を得るものもいないなからな
ソレはソレでアリかw
- 20 :
- なんだかんだ、このスレ伸びてるな
- 21 :
- なんだかんだでろんはうまいこと473を封じこめたな。
- 22 :
- ろんと473は拠り所にしてる教えが違うだけで
考え方は割りと似てる方だと思うよ
- 23 :
- 473はクリシュナムルティというより大野純一のコピーだからな
ろんとは違うだろw
- 24 :
- 思考に対する囚われ方の性質が似てるって言ったほうがよかったかな
- 25 :
- 大野純一? 知らないな〜。 あんな感じなのか気持ち悪い。
ろんは町野てやつのコピーだよ。
このおっさんブログちらっと読んだが、
「諸法無我 主張はないです 諸法無我 主張はないです」
の繰り返し。
主張してんじゃねーかwていう。 やたら否定ばっかだからろんそっくり。 いやろんがまねしてるだけか。
ttp://blogs.yahoo.co.jp/karupapa21sei/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=57
- 26 :
- 大野純一はkuri本の大半を翻訳した人だ
473の文章は、ハルキストの書く文章がみんな“ぼく”になるようなもんだw
- 27 :
- >>25
ろんは、せったんから破門された浪人だよ。
町野さんってのは文章が胡散臭すぎる。
ろんは歪なんだな・・・。
どっか変なの
- 28 :
- >>26
一瞬なんの本かと思ったが kuriてクリシュナムルティってことか。
473は現代げんだいとよく伝統宗教を二元で悪にするために言うとるがoshoて昭和6年生まれじゃねえかw いま平成24年だぞ どこが現代だよ。
クリシュナムルティにいたっては明治28年生まれwww
>>27
そうなんか? そういえば せったんのHPみてたら「アッハッハ」て書いてあったから ああ、ろんも真似してるなって思った。
あとあいつの。。。って町野の、、、の変形だろ。
影響がもろに出てるくせに偉そうに言うとるよなw
そんでナンパしたり仕事しながらオリンピックがどうのとか、
全然 禅が役に立ってない凡夫。
- 29 :
- >>28
使い手の問題でしょう。
伝統宗教への批判ではなく、われわれへの自己批判です。
伝統宗教は悪くない。あれは素晴らし過ぎて使いこなせない。
>>24
その性向は似ていると思いますよ。
エニアグラムでいうと5番です。
どうせなら仏陀も5番なので彼も混ぜて欲しいですけどねw
クリシュナムルティーはもっと実直な6番ですので、より感覚的でいい加減な5番とは印象を異にします。
絶えず今できる最善を考えてしまう癖があります。
でもそうすると、今できること=今これしかできないという在り方
が固定されてしまう。
なんか批評や比較のレスばかりですが、外側から物事を評価すると眠りが深くなります。
自身のこととして内側から実感してゆければいいのですが、つまりそれは他者ではなく自身に力点がなければなりません。
- 30 :
- と、他人を批判してみた
- 31 :
- >>29
うんうん そうだね〜。 なんで批評や比較レスが多いんだろうね〜。 自身を力点に気づこうね〜。
- 32 :
- >>28
クリシュナムルティが死んだのは確か80年代だろ
充分に現代じゃないか
- 33 :
- 思考は物事を2分して、仮想敵を、問題を作ってから、「どうしよう」「こうしよう」と考える。
自分のルールで生きる障害を作り出してからどうやって生きようか考える。
死にたくないから働かないといけない。
宗教的、社会的、文化的理想のために活動したい。
物事を最適化、効率化したい。
この3つはそれぞれが争い主導権を争う。どれがいいかどれかひとつにできないか迷う。
しかし、各々の3つが在るがままと対立し、各々の苦しみを生んでいる。
どれか、ではなく、どれも苦しみを生んでいる。
だが、3つどうしが対立していると、3つとも苦しみの種だとは気づきにくい。
oshoは祝祭の生を唱える。自分自身を祝いなさいと。あふれ出る泉のような生でありなさいと。
この表現は全ての疑問に答える。
3つのどれにも囚われず、だが3つの方向全てにあふれ出る泉のような生。
祝祭の生。他者を必要とするのではなく、自らを祝い、それは歓喜となって、行為となって、無心の知恵となって広がる。
祝祭に在っては広がる。3つのうちどれかを選ぶという問題はない。
- 34 :
- 知りたい、という欲は基本的に知りえないものに向かう。
何故なら、知りうることは、知ろうと欲するまでもなく直ちに知ることができるから。
知ることができるのは確定した過去の数値であり、過去に起こった2元性の概念である。
今である中心としてふさわしい広がりは知ることができない。
また未来も、他の人が知らないが自分が知っているとメリットがあるようなことは原則的に知りえない。
そしてそういうものに限って身の程知らずに知りたがる。
- 35 :
- >>27
禅の方便がこれは悪いように働くと見て、彼の成長に役に立つ環境にゆくよう促したのでしょうか。
その人にとって良く働くもの、よく目覚め、感情が浄化されるような環境。それは正しい。
宗教組織は必要な時機ではないかもしれないし、場合によっては必要ないものかもしれない。
世間で基本的な意識や、また良心、を見出さなければ宗教は機能しない。
宗教は世間より、より多くのものを修行者に要求するところだから。
その用意がなければ宗教に為しうることは何もない。
動物に宗教が適用できないのと同じである。
また、その宗教組織が助けられる限界を超えた修行者だった場合も、また自然と離れるか、別の形で追い出されることになる。
人はしがみつかなければ今時分に必要なところに流れ着くのでしょう。
- 36 :
- >>33
考える精神は誰のものでもない。
そして、
思考は物事を2分しない。<Cに聞かれてAはカフェにBが不在だったよと。Bがいるかいないか
考える(2分)するまでもなく不在を告げることができる。>
- 37 :
- 既に、いることと、いないことを区別している。
cにとって、またAにとってBがいることといないことは同じではない。
そこに区別がある。
それが認知を作る。
2分しないということは在と不在を2分しないということ。
2分しています。
2分していると、bが存在するかしないかに執着があります。
2分していなくば、bに対して全く執着がありません。ただ戯れとして個と個という夢を楽しんでいるのでしょう。
心ひとつで世界を作る。
そうブッダは言いましたが473が思考、というときもそのような意味で述べます。
ブッダは思考から離れて、一切の認知に巻き込まれず、生きた人と死んだ人を区別するという戯れをする。
しかし彼にとって生死は区別されないという。
しかし私が生死を区別するときは、認知がそれに巻き込まれている。
生があり死が在るように認知する。
33の意図は、生きるということはありのまま開示されているということ。
生き方を求める精神は、既に仮想的や自己創作の障害をつくっているということ。
- 38 :
- 精神は全て2元性の働きをする。
それに完全に目覚めていれば自由に夢に戯れることができるかもしれない。
しかし、完全な目覚めがなければ、あらゆる2元性に巻き込まれ深刻になる。
生死、美醜、効率非効率の無数の2元性とその内部葛藤。
そして、それらが作る認知は無意識的なものだ。
人は無意識の2元性が作る認知の世界に既に住んでいる。
思考というのはその後でどうこう考えるものだと人は思うのは自然なこと・
しかし瞑想者にとって思考は、無意識の2元性が作る認知そのものである。
- 39 :
- 完全に精神が静寂しない限り、普段私達が意思だと思っているもの、決定だと思っているものは、
「条件付けられた欲望の中で一番強いもの」でしかない。
基本的なことはわれわれは何一つ、何一つなすことはできず、無意識の欲望、外界の状況に左右されて
行為や思考や感情が起こるだけだということです。
何一つ自分の意思では行っておらず、行うこともできない。
できることは、起こることを見守ることだけです。
そして、起こすその主体の起源を理解する、それに目覚める、それを静めることによってのみ(悟り)為すことができるようになります。
それまで起こることを見守ることしかできません。
そして見守ることによって起こることそのものが変化してゆくでしょう。
何かしようとすることは起こることのメカニズムを抑圧したり分断したりしてより混乱を強めること意なるだけです。
そして、見守られていない心は宗教において戒められているような行いを起こしますし、見守られている心は
そうそう愚かな振る舞いを起こしません。
宗教における道徳というのはこうしなさい、ということではなく目覚め見守っているならこういう行為が起こるし、そうでないなら
ああいう行為が起こるという、ある種の科学的観察であり、善悪を述べているわけではないでのでしょう。
≫ノスさん ペケさん
というわけで、「あえてやったのです」などと、条件付けられた欲望や思考が起こしたに過ぎない言動と同化することはないと思います。
私達は何一つあえてすることなどできません。
できるのは心を見守り、一番ましなことが起こるように促すことぐらいのものです。
- 40 :
- 愚かだ、愚かでないの基準はどこから持ってきましたか?
具体的な経典を指すのですか?
- 41 :
- >>27
破門されてないし、弟子でもないし。。
彼は在家の人を弟子とか思ってないしな。。
町野さんは、雪渓師から、法を説くここと許されている。。
本の方が論理的にかっちりわかるけど、ブログでも同じだな、言ってることは。。
僕からすれば明快だと思うが、わからん人にはわからんのだろう。。
- 42 :
- >>28
。。は町野さんを知る前からやってるが。。w
- 43 :
- >>29
その分類はなんの役に立つんだ?
>>35
ぜんぜん違う、勘違い、思い込み100パーセント。。
意味ないの、言ってること。。
>>37-39
そのアタマの悪そうな悪文は、おまえの自己満足Rー以外のなんなの?
何の意味があるんだ?ww
- 44 :
- >>40
やりたいのだけど、苦しみにつながると自分でも分かっているようなどこかばかげたこと。
後は、仏教やキリスト教、ヒンドウのなになになかれ、の諸事を指しました。
- 45 :
- 自分は光明を得ているだろうか、得るまでは瞑想しよう、得るまでは何々できない。
などと監視していることに気づく。
しかしその監視者に光明の何が分かるというのだろう。
監視者はひとつの夢を見ているに過ぎない。
この監視者がいないということは、祝祭の生をただ生きるということなのでしょう。
- 46 :
- >>44
それらの本を選んだ基準はどこから持ってきましたか?
- 47 :
- 実体がない、無我と言うのが、仏法の根本で、これは悟らずともわかること。。
Aの実体がない、形、状態、静寂、混乱、善悪、こう言ったものには何の実体もない。。
議論したり、是非善悪する意味はない。。
是非善悪するものは、何にもわかっていない。。
錯覚、思い込みによって、踊らされている、惑っているだけである。。
オショーだろうが、クリだろうが、実体をあるもののようにして、論じているのは同じ。。
もっと頭の悪くて、マトモな論理的な文章が書けず、対話もできない473はもっと意味がない、R、妄想、公開Rーやってるだけ。。
という、単純なこと。。
- 48 :
- そういわれると39はあまり良い表現をしていませんね。
「そして、見守られていない心は宗教において戒められているような行いを起こしますし、見守られている心は
そうそう愚かな振る舞いを起こしません。」
あまり私らしくない。
やりたいのだけど、苦しみにつながると自分でも分かっているようなどこかばかげたこと。
見守られていなければ種種の欲望や怒りや恐怖が生まれる。
見守られていれば、自分の中で反発があるような欲望ではない行為が起こっている。
快活さと愛が花開く。
≫本
自分が何かを見出したらそこに既に書かれていたが気がついていなかった。
自分が自分の苦悩の正体をもう少し見極めたら、その苦悩について書かれていたが気がついていなかった。
自らの無知をあらわにする、そして自身の潜在性を既に体現している、そういう本。
自身の体験からこの本の正しさを証せられるという部分、そして、未だ分からないがこの本は絶えず自分の先を行っていた故の信頼という部分。
本との関わり方です。
- 49 :
- 本を読んで、悟りがわかるということはあり得ない。。
恣意的なも思いつき、思考、論理も全く意味をなさない。。
思考はすべてゴミ、Rである。。
知識、思考、自分に都合のいいような思い付きで、他を否定する、批判する、これが473のやっていることのすべてである。。
根本的に怨念、ルサンチマンが根底にあるので、何に対しても批判的なのである。。
まともに対話せず、批判されても、批判内容自体を無視し、批判行為が投影だ自己表現だなんだ、必ずメタレベルに逃げる、対話にならない。。
自己の推測と事実が区別できない。。
他の人のことをさもわかったように論じるが、頭の中の妄想垂れ流していることに気づかない、すべては妄想、投影である、長文連投アラシである。。w
- 50 :
- 要は、473のやっていることは、公開Rー、妄想垂れ流し、思い込み、勘違い、アラシ以外の何物でもない。。
- 51 :
- 悟りが分かったら、それを示唆する内容が本に書いてある。
もしくは分かっていないのだということを教えてくれる本。
48はそんな内容。
49の一行目は誰に対する言葉か。
基本的に人が述べていないことに対して返答する。
自身の妄想を他人に投げかけてそれに反論している一人芝居。
ありもしないものがあると思い込んでいる。
あなたが何度も体現していること。
- 52 :
- いや37、38、39のように私が日々引っかかっていることでもある。
濡れ衣は要らないけど、自分のやってることは自分もち。
- 53 :
- >>37-39
こういう風にアンカーつけろや、読みずらい。。
要は精神だ二元性だ、目覚めるだ、全体性だ、なんだかんだ、栗のモノマネ、可視光そうな風を装って、自己満足Rーしているというだけ。。
クリ自体が、実体視、寂滅主義、の勘違い野郎だから、その劣化コピーのなりきりはもっと、意味がない、Rだということ。。
- 54 :
- >>53
アンカーがきちんと使えないのは自他が未分化な人にありがちなこと
自分だけわかってれば、他者がわかるかわからないかとか
相手の手間がどうとか考えられないんだからしょうがないw
普通に仕事ができればそういう自他の視点の移動はできるはずなんだけど
難しい人には難しい
- 55 :
- >>39
>完全に精神が静寂しない限り
こういう他人の翻訳文をそのまま自らの境地であるかのように書き込むことが恥ずかしくないのか?
- 56 :
- そういう人は多々いるので本の影響は強大であったということでしょう。
即レスするときは自分もアンカー抜かします。
- 57 :
- >>55
完全には精神が静まっていないという自らの境地を表明することに
いったいどんな恥ずかしさがあるでしょう。
あなたがやっても大丈夫ですよ。
- 58 :
- 執着があれば実体があるように感じられ、執着がなければそれらについては実体はない。
実体というのは実存的、認知的、意識的なものであり、言語的表明に意味はない。
実体はないという言葉を多用すると、実態があると思う主体=自我、は白昼夢を見ることになる。
実体があるように感じているというのはわれわれの出発点であるから、白昼夢ではなく、実存的に執着からの解放、実体という認識からの解放を促す。
それは昔から同じでした。
白昼夢として働き始めた方便は昔働いていたとしても捨てられた。
言葉は言葉に過ぎない。
実存的なものはただ在る。(ただ生きる)
- 59 :
- >>55
静まったら多分物事は変わるのでしょう、というのは予測ですが、
その予測は予測としてとっておきましょう。
重点は精神の静寂という境地を目指すことではなく、見守ることしかできない。
が文脈の趣旨ですので特に問題ないとは思います。
めったに文脈をとったレスはこない。関係ないところをつつくだけ。
- 60 :
- >>58
ぜんぜん違う。。
何かがあると認識することが最初であって、それがなければ執着もできない。。
執着によって実体の認識が生じるなんてことがどうして言えるんだ?
全くの勘違い。。
誤った認識によって、ものがるように思う、が最初。。
その錯覚によって、執着が生じる、あるいは生じない、執着はどうでもよいこと。。
認識=実体があるように思うか思わないかもどうでもよいこと。。
そのような認識に実体がないとわかっていればよく、執着にも実体がないとわかっていればいいだけ。。
- 61 :
- >>55
そもそも静寂するって、日本語おかしいだろww
- 62 :
- そもそも認識せずに生きれるだろうか?
何でも実体のないものをあるかのごとく思うことで、生活は成立する。。
それはそれでいい。。。
その認識も含めて、全て夢と変わりがないとわかってれば位だけ。。
夢を消そうたって、消えるわけがないだろう。。
あっはっは、夢が消えなければならないと思っている=妄想、勘違い。。
もちろん、坐って、いったんは空じなければ、わからないが。。
- 63 :
- 執着がなければ区別そのものがない。
執着があってようやく実体が生まれる。
宇宙全体を区別せず執着すれば宇宙だけがあるし、それにすら執着しなければひとつである宇宙も認知できないのだから。
あると認識することが執着である。執着はあると認識すること。
同じ事を2つの角度で述べている。
金剛で(という思いがある)(執着がある)
と並べて連呼されていたでしょう。
ぜんぜん違うのはあなたの理解のしかた。
物事には文脈が在るのに単語で反応する。
- 64 :
- 真実は、人の最善の部分か最悪の部分を呼び起こす。
普通、最悪のものを呼び起こす。
(細部にこだわって自身が悪いと思うものを当てはめてそれを批判するというののその人なりの
精一杯露骨なもの)
だから、基本的に独り何も言わずに生きるというのが基底になければいけない。
基底にあれば自由に語るリスクも終えよう。基底になければ、振り回されるばかり。
- 65 :
- >>63
おまえアタマ悪いなー、ホントに。。
執着がなければ、山も川も区別がないのか?
バカもほどほどにしろ。。
- 66 :
- 心のあり方であったり無かったりするものを実体とはいいません。
- 67 :
- 執着ではなく、意図的にあると思えるのなら戯れなのでけど、
形態に、体に執着しているからこそ、そのあるという思い、実体という認識は
意図的なものではなくやすやすやめることもできない。
あるという認識は静的なものではない。これは全くの執着です。
- 68 :
- >>64
おまえみたいな妄想100パーの人間が、どうして真実なんて言える? ww
最悪とか最善とか妄想。。
一元とか二元とかも473の頭の中にしかない妄想R。
473の言うことは全て妄想R。。
- 69 :
- >>67
根拠はどこにあるの?
おまえの言うことは100パー根拠のないことの断定=妄想なんだよ。。ww
「執着があるがゆえに実体視が生じる」
はい、これを根拠を挙げて証明してくれ。。
できなければ妄想、思い込み決定な。。
- 70 :
- >>69
@瞑想のうちに見出すでしょう。
個人的な認識です。
A金剛経にそのような記述があります。
それがあるというのなら、かの思いがあり、かの執着がある
というような。
執着がなかったら、体と外界の区別はない。
認識は変わるでしょう。
認識者と認識の区分がなくなり純粋な認識になると聞きます。
体に執着はしませんが、覚醒と認識は今まで以上なのでしょう。執着せずに大切に体を扱ったようです。
今の認識は消える。
消すのではない。
消えると、生まれるかもしれない。
生まれると先達は説く。
- 71 :
- >>70
www
根拠を挙げて証明しろって言ってんのに、〜でしょうって推測、憶測、妄想。。
@は証明でもなんでもないので却下。。
Aも、執着と関係く、実体視とも関係ない記述。
勝手に妄想で、自説につなげている。。
普通に読めば繋がりようがないのに。。
以下も実体視と関係ない話。。
実体、という言葉の意味がそもそもわかってないない模様。。
アタマが悪すぎ・・問題外です!以上。。ww
- 72 :
- 私には他者のことは分かりかねます。
自身のことすら分かりません。
一つ一つの心の考察をするのがやっとです。
私のことが分かるという人は自身のこともお分かりでそれは平安な境地にいるのでしょう。
その境地を祝福いたします。
私が何をしなくてもしなくても幸せなのでしょう。
もし不快なのでしたら自身を知らねばなりません。
そういう時は自身を知っているであろう人に、生きている人でも死んだ人でもいいから、
心から神戸をたれてみてください。
- 73 :
- ≫Aも、執着と関係く、実体視とも関係ない記述。
6 スブーティよ、これら求道者・すぐれた人々には、 <ものという思い>もおこらないし、
同じく、<ものでないものという思い> もおこらないからだ。
また、スブーティよ、かれらは、思うということも、思わない ということもおこらないからだ。
それはなぜかというと。 もしも、かれら求道者・すぐれた人々に、<ものという思い> がおこるならば、
かれらには、かの自我に対する執着がある だろうし、生きているものに対する執着、固体に対する執着、
個人に対する執着があるだろうから。
もしも、<ものでないものという思い> がおこるならば、かれらには、かの自我に対する執着がある だろうし、
生きているものに対する執着、固体に対する執着、 個人に対する執着があるだろうからだ。
- 74 :
- >>73
執着が先で、それによって実体視が起こるということの証明にはまったくなっていないぞ。。
おまえの恣意的な解釈以外何物でもない。。
まず、実体視と言う概念が、中観以降で、初期経典の話とはつながらない。。
ものと言う思いがあるなら、執着があるだろう、単に心の在り方、を言っているに過ぎない。。
- 75 :
- >>72
不快でもなんでもないが、見苦しい、ジャマ、言ってることに意味がない、アラシだから、要らない、と言ってるだけ。。
- 76 :
- >>73
知らないということ。
観察者、眼耳鼻舌身意の六識に疑いを向けるのは仏教の初歩。
止めるべきは一方の見方に偏った哲学的断定。
- 77 :
- ≪ものという思い≫、これを実体視として取りました。
既に
「ものという思い=執着」
なら
「ものに「実体がある」という思い=執着」
なのは避けがたい。
後先?
これは同じものの異なる側面なのでしょうね。
執着は実体視で実体視は執着。呼び方と、見方の違いぐらいかと。
執着しないと実体視は起きないともいえるし、実体視がないと執着もないといえる。
でもどちらも偏ってますね。同じものの異なる側面。
瞑想に熟達しないとものに実体があるという思いという粗雑なものしか認識でき
ませんが、進むほどに、ものという思い
という簡素で繊細なものが深層の執着であると見出されます。
しかし、こういった引用よりも、それをこの時代に実際に見出して自分の言葉で
語るほうが大切です。
これは証明することではなく各々見出すことです。私のことは私が見出すしあな
たのことはあなたが見出します。
わかってるひとは多分あまり語らないのでしょうね。というのも、誤解されると
分かっているから。
わかってなく知ったかぶっている部分があってこそ、目に見える誤解の可能性に
盲目だ。
このあたり自戒です。
- 78 :
- 止めるべきといったというのがあなたの断定です。
相手が断定している、というのが断定する人の良く使う語法です。
相手が断定しているならこちらは被害者面して断定できます。
静まらない限り、、であると述べただけです。
静めるのが務めとブッダもダンマパダで述べています。
止める人も静める人もなく、心が静まることを説きます。
止めるべきというより、止めないと苦しみがやまないとそんな風に述べています。
- 79 :
- >>78
経の内容について述べたに過ぎない
- 80 :
- >>77
どうしてそんなに頭が悪いのか?
まず、執着と認識、実体視は別物。。
それでおまえは、>>63で、執着によって実体視が生まれると言っている。。
ありえないよ。。
上の経典の引用は、実体視があるなら執着があるだろうと、言っている、と読めないことはない。。
が、これは、執着によって実体視が生まれる、とは別のこと、わかる?
経典では、実体視があるならば、執着がある。。
これは、執着が実体視を生み出している、とは言っていない。
むしろ、実体視が執着を生む、実体視が先であるという僕の理解を例証するものであって、
おまえの誤解、執着が実体視を生むなんてバカなことは言ってないのよ。。w
- 81 :
- >>78
大乗経典である金剛経と上座の法句経ではアプローチがまるで違う
- 82 :
- >>78
あらあらまた始まった。。w
自分妄想、根拠なしの断定、これは事実。。
指摘は妥当・・これを断定だ、何だと非難し始める、被害妄想乙。。w
- 83 :
- >>77
嘘ついてしまった。
確かに、瞑想、実存上のことなのでロジカルには説明しづらい。
しかし、執着なく実体視はありえない。
宇宙に執着、全体に執着しなかったら、空であるし、
体に執着しなかったら体はなく宇宙があるだけである。
執着が、つまり「ある部分を抜き出すこと」が実体視をつくる。(宇宙の場合は全体を抜き出して全体に執着しているが)
「<ものという思い> がおこるならば、
かれらには、かの自我に対する執着がある だろうし」
起こるならば、あるだろうし、なんですよ。
もしそれが起こるなら、これがあるだろう。
起こるならば、これができるだろう、じゃなくて、あるだろう。
もし、それが起きるなら、もともと執着があるんですよ。
そういう意味の文章ですし、そう理解しています。(誤訳って可能性もありますが)
もともと執着があってこそ、起こる。そういってますね。
- 84 :
- >>78
では止めるべき、とはどこから?
73も止めるべきとは言っていません。
- 85 :
- >>82
言ってないこと指摘されたら無条件に相手の断定だよねえ。
そういう隙を見せないようにね。ろんさん。
- 86 :
- 般若経と言われるものの特性から。
有無のような二項対立するような概念には2つとも否定がつけられる。
- 87 :
- >>77
ものという思いがあるならば、執着があるなら同時です。
ものという思いが起こるならば、執着がある、というのは起こる前に執着があるので執着が先です。
経典より実際に見出すことが大切ですけれど。
- 88 :
- >>84
一人二役、自演なのか? ww
単にコテが抜けただけなのか?
自分に対して質問、大丈夫か?ww
- 89 :
- >>85
具体的に、執着が実体視を生む、がお前の根拠なしの断定、だというのは事実>>63
言ったことを言ってないと思う、妄想、アタマおかしいぞ。。
- 90 :
- 経典を引っ張り出してきてそりゃないよ。
- 91 :
- >>87
アタマ大丈夫か?
認識対象がないのに、執着だけがある?
だったら、その執着が何に対する執着なんだ?
対象が先でなく、執着が先なら、何に対する執着だ?
あり得ないだろ・・バカすぎる。。ww
- 92 :
- >>39CヶBのことを告げずBの在不在の価値判断をAが知らされていない時、AはCに即座に聞かれて
Bの在不在を既に知りようがありません。Aは即座に聞かれてBの在不在ではなく、単にいなかった
と「不在」を告げているのです。つづく。
- 93 :
- >>89
>>49や>>76のことですね。
89に関しては言いましたし、根拠は>>87と金剛経ですね。
それに、自分自身だけを根拠にのべていけないわけではない。
同意するしないは自由ですが、妄想と決め付けるのはこれまた妄想。
多分、その通り、多分、違う。
そうとしか言えない。
- 94 :
- 92は>>37
この事例から判断は常に思考は精神を二分するというのは嘘だと考えます。
- 95 :
- >>92
AはCの在不在に囚われている可能性があります。
A自身の存在、そしてCの存在に囚われている。
その上でBの在不在を認知するかどうかというのは非常に表面的な話です。
AにとってBは相当どうでもいいことですから、Bの在不在という思考にあまりつよく囚われないでしょうね。
Bが知り合いで執着していれば、Bがいるとうれしい、それは2元性です。
囚われていなければ、在不在も深刻にならない。
しかし、Aが自分自身の存在の在不在となるとパニックになります。
- 96 :
- ≫単にいなかった と「不在」を告げているのです。
いるかいないかをきかれて、いないと答えた。
2分がないなら、「いることといないことが区別できません」
ただ無限に広がる空間があり、Bがいてもいなくても区別つきません。
- 97 :
- 全>>95,96全然読めてないですね。わかってないのに反論するって、こういうことか・・・
事例が見えない。抽象思考もできてない。
- 98 :
- おまえらまたやってんのか〜!
amaスレ潰したんだからここでずっとやとけよ。
スレタイに禅も追加しとけ。
結局、おまえらそういう言い合いが好きなんだろ。
亡霊のように2chさまよって結局ここで書いてんだろ?
ループしてることに気づいてないだろ。
おまえらのループもう見たくないから誰もamaスレ立てようってやつがいないのがわからんのか。
結局あるないで言い合いしてるだけじゃねーかよ。
ろんにしたっておまえ見性したんか?お?
したんならここでループしねえよな? 一回転してそれかおまえ?
お互いが「相手がいる(ある)」と思ってるからクソレスが続いてんじゃねーのかよ。
おまえこそクソみたいなレス続けてんじゃねーよ。
おまえは頭で分かったっておもっとるだけだろ。
473は精神病みたいに文脈よめだの思考が精神がどうのって
出もしない答えにグジグジしてるから心身症みたいになってんだろ。
だいたいおまえ人に文脈よめゆうておまえ自身が金剛経の文脈読めてねーじゃん。
あれは要するに「空」だっていいてえんだよ。
おまえがあるあるゆうてるもんは無いつってんだよバカ。
おまえが一番白痴だってことにきづけ。
とにかくおまえらここで好きにループしていいから他スレで迷惑かけんなよ。amaは迷惑したんだよ。
- 99 :
- >>97
そう、バカだから相手にしないようがいいよ。。ww
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