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2012年08月戦国時代117: 【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】 (350)
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【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】 (350)
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【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
- 1 :2012/08/04 〜 最終レス :2012/11/23
- 戦列歩兵はどう並んでいたのか
決戦兵力としての予備兵はいたのか
車懸りとは? 鶴翼や魚鱗? 付城、野戦築城とは?
意外と謎だらけな戦国時代の軍事学について色々と語るスレです
- 2 :
- 当時の最高ブランド学府
足利学校
山本勘助も足利学校出身で、信玄に「足利学校出身なら信頼できる」と言わしめてます。
- 3 :
- 誰かに行軍の難しさとか語って欲しいな
親不知とか三国峠とか天竜川とか大変だったんだろ?
- 4 :
- 車懸りっていわゆる斜行陣による側面攻撃だったんじゃないかなと思う
俯瞰で見たら車輪の動きっぽく見えるはず
謙信を軍事天才だったなんてあんま思ってないんだけど(w)、
アレクサンドロスとかフリードリヒとか、戦の天才って言われる人間は基本的にこの戦術を持ってたし、説明はつく
- 5 :
- 車懸りなんて
後世の軍記にしか乗ってない妄想の産物
- 6 :
- まあ精緻な戦術というのはほとんど無理だっただろうな。全体的に大雑把なものばかりだっただろう
- 7 :
- 布陣(時代が下れば野戦築城含む。)と後詰め(予備の投入)
地域に詳しい在地国人に先駆けというなの前衛やらせて遭遇戦対策
後退戦闘の後衛に殿
普通じゃね
- 8 :
- 最近徳川家の旗本先手役に興味持ってるんだが、
先手役とは名ばかりで、家康はこれを決戦兵力として使ってたんじゃないかなぁと思う
姉川での榊原の横槍とか、関ヶ原の本多忠勝の動きとか見てそう思う
近衛兵といえば信長の赤母衣衆、黒母衣衆が浮かぶが、彼らがそんなことをしたという記録は多分無いんだよなぁ
- 9 :
- そりゃ、旗本なのに先手という意味不明な名称ですから
後、決戦兵力と言うよりは即応戦力という面が強いかと
- 10 :
- 信長の母衣は、伝令や連絡将校で
無線機以前の戦争では、指揮統制通信情報の無形戦闘力のための
重要な要素だけど直接的な戦闘は期待してないんじゃないかな
信長直轄の決戦予備ではなく、せいぜい信長の野戦指揮所の保営要員
- 11 :
- 陣形は中国の陣形から借用してるけどいちいち
「敵がこうきたらこの陣形に素早く配置転換!」とかやってらんねーよな
想像の産物でしかない。どうせ双方突っ込むしかないんだし
せいぜい右翼を側面に回り込ませて突けとか別動隊は迂回して背後から奇襲しろとかしかない
川を塞き止めて渡河中にドバーとかもあらかじめやっとかないと意味がないし
- 12 :
- >>10
伝令、連絡将校の動きって単騎(もしくは少数)で駆けて情報伝えるってイメージなんだけど、
信長の母衣衆って結構いいトコの家の人間で、たとえば利家って荒子城主だし
城主に一騎駆けなんて、そんなこと多分郎党が許さなかったと思うんだw
とすると連絡将校が動くときって必然的に部隊運動になるんじゃないかなぁって思うんだが、どうなんだろう
- 13 :
- 鶴翼みたいな本陣の負荷が大きい戦い方だと
母衣衆みたいな精鋭は前面に出されたりしないの?
- 14 :
- >>12
戦場で単騎だと危険というか、途中でやられてたら意味ないし
修練積んでるイイとこの家の子にある程度郎党の人数付けて連絡に使ってるとか
それに情報伝えるのって結構難しいから、教養も要るだろうし
- 15 :
- 真田の親父は信玄に誉められるくらいだから
連絡役は状況判断が的確でかつ自分の意見も言えないと駄目だろうと思う
ただの馬鹿には出来ない役目
- 16 :
- 中国の陣形図はたまに訳分からんのがある
こんなに複雑にしてもしょうがないだろう、みたいなのが
- 17 :
- >>13
川中島の戦いは旗本と旗本の決戦になったって言うよな軍記によればだけどw
兼松正吉は刀根坂の戦いで敵の首級取って信長から草鞋貰った人だけどこの人は信長の馬廻りだったはず
まぁ、刀根坂の戦いは例外かもしれんが。
- 18 :
- 「甲陽軍鑑」のなかで、
「唐の軍法、一に魚鱗、二に鶴翼、三に長蛇、四に偃月、五に鋒矢、六に方円、
七に衡軛、八に井雁行、是よきと申せど、皆合点仕らず候」 ってあって、
要するにわけわからんって言ってる
- 19 :
- 古代ローマだとウェリテスとかハスタティとか言って、
第一列が新参、第二列が若者、第三列が古参――っていう風に列を兵の熟練度で分けてたっていうが、
そういうのは無かったのかな
- 20 :
- 隊列を重視しないのが戦国時代の特徴
- 21 :
- 古代ローマだってマリウス改革で練度の区別なく大隊編成になったし
- 22 :
- >>20
どういうこと?
常に乱戦になるの?
- 23 :
- 要するに無双か。
- 24 :
- 結局は対陣後に弓鉄砲ぶっ放したあとにワァー!うぉー!と突っ込んでいくことに
- 25 :
- >>24
それでもさすがに隊列は最低限守ってたんじゃないのかな
結局さ、戦国時代の合戦像ってものを完璧に頭に描けてる人って学者も含めて誰もいないんじゃないかと思う
雑兵物語ぐらいじゃあ真の姿を見出すのはキツい
一番真の合戦像に肉薄してると言われるのがクレヨンしんちゃんのアニメだってんだからなぁ
- 26 :
- こんな感じ?
君主が出陣を決意
誰々がどこを担当するのか役割を決定
吉日を選ぶ(希望する日が出るまでくじ引きをやり直す)
農閑期に召集をかける
(これこれこういう理由で相手が悪いからこっちが正義の戦を仕掛けます
とあちこちに触れ回る)
いざ出陣!
兵糧等は現地調達という名の略奪か小荷駄隊がゾロゾロ
戦場(敵領内)に近くなると斥候を出す(遭遇戦)
対陣
弓や鉄砲の撃ち合いから槍での叩き合いに移行
騎馬で接近して下馬して(小物他もろもろと)突撃
乱戦
相手の一方が崩れた(壊乱)ため退却→追撃戦
落武者狩り、かちどき、首実験、感状等を下賜
撤収、新領国の代官を任命
- 27 :
- >>25
それは合戦前や足軽位は隊列を維持しているが、後者は突撃後は乱戦、
前者も一番効率が良いからそうしているだけ
>>26
鉄炮隊が何回か撃った後は乱戦じゃないかと
槍足軽も攻撃時はバラバラになっていた気がする
- 28 :
- ある程度の規模の軍団だと訓練が必要だと思うけどな
まあこの時代の権力構造だと訓練の為に召集なんて難しいだろうけど
- 29 :
- 実戦が訓練だった時代、江戸幕府が成立して戦が無くなると
家康は武経七書を発行したり、演習を兼ねた大規模な狩りを行うことで
練度の意地を図っている
- 30 :
- 雑兵物語なんてのもあまり参考にならんからね。
慶長年間に軍隊に編入された雑兵と戦国期の雑兵とは別物だろう。
- 31 :
- 自分の国の歴史なのになんでそんなにわからんの?(´∵)
- 32 :
- >>31
日本は世界でもトップクラスに解る方だぞ。他の国には400年前のことにこんなに史料は存在しない
- 33 :
- >>32
そうなん?西洋だとファランクスとかレギオンとかカタクラフトとか、
どう戦ってたかきっちりわかってる印象だったが違うんか。
- 34 :
- 中国は記録好きだから文官が記す制度やら人口やら地理・天文などは記すけど
軍事関係は卑しい軍人がすることで士太夫がすることではないというのがあったので
戦はあったが戦闘がどのように進んだかは詳しくは書かれないことが多い
日本は政権のために系統だてて書かれるというのが少なかったので
個人の日記やらで補うしかないのが現状
そもそも日本人は中国人ほど記録に執着してないしね(前王朝を打倒した正当性を主張する必要もなかったし)
源氏が平氏を打ち倒し得たのは非道な行いをして平氏の天命が去ったからだなんて聞いたことないし
- 35 :
- 記録があまりないということは、逆に厳密な操典がなかったことを意味する
- 36 :
- 「古代――ギリシャ、ローマの時代は国民皆兵であります。
――ギリシャ、ローマ時代の戦術は極めて整然たる戦術であったのであります。
多くの兵が密集して方陣を作り、巧みにそれが進退して敵を圧倒する。
今日でもギリシャ、ローマ時代の戦術は依然として軍事学に於ける研究の対象たり得るのであります」
石原莞爾『最終戦争論』
イチ見解として
「国民皆兵の制度が乱れて傭兵に堕落する」とも言ってて、傭兵に依存すると戦術が乱れるとのこと
足軽を傭兵と捉えるとあるいはそうかもなぁ
- 37 :
- >>36
シーザー率いるローマ軍は”志願兵”だし、ハンニバルの主力は傭兵だし
ファランクスが有名になったのはギリシャ傭兵がオリエント中で活躍したからだし……
日本が国民皆兵だったのは、律令制と明治以後だけなんじゃないかな
でも、大規模編成にあたってのコスト減のために、武士に農作業をさせることが増える
(一領具足や島津伊達家なんかも同様になる)
これは西欧でも同じで、16世紀仏も(金がなくなって)民兵制度を整えたりしてる
- 38 :
- >>37
傭兵の活躍は確かだが、彼らが戦術を共有する上で参考にしたのは、
やっぱり国民皆兵だったアテナイやテーバイ等ギリシャ各国の密集隊形であることは間違いないし、
カエサルを例に出すのも、マリウス以前の古代ローマの躍進を無視することになる
ハンニバルも結局“傭兵だから”負けたとも言えるしね
- 39 :
- まぁ、「戦術の深化には傭兵ではなく国民皆兵であることが重要」っていう結論をここから導き出せるとは思わんがw
- 40 :
- 「備」によって戦国中期以降は、兵科別部隊を組み合わせ
陣形を組んでの戦いになったよな。
前列に長槍組の横隊、その前もしくは両翼に鉄砲組・弓組、足軽大将や徒歩武者、その後ろに騎馬組
というのがオーソドックスな配置だけど。
備 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99
- 41 :
- 「雑兵物語」等によると長柄(長槍)組は、互いの肩が触れるくらいの間隔で1〜3列の横隊を数十人で組み、
号令や銅鑼によって進退し、攻撃は呼吸を合わせて一斉に槍を振り下ろした。
続いて一斉に槍を振り上げ、また一斉に叩き伏せた。
長柄はしなるので叩くのに都合がいい。武田の長槍は穂の横に打撃用の木槌がついていた。
長柄組は足軽ではあるが上から振り下ろされる槍への防御のため、陣笠ではなく兜を着用することがある。
騎馬に対しては槍衾を作って防御。
- 42 :
- 多分それ、鉄炮の発展で足軽の主戦力でなくなった時代の槍の運用法だと思う
それ以前は大河ドラマのようにある程度バラけた状態で、突き合っていたんじゃないかと
- 43 :
- 逆じゃないかな、いくら槍持ってても横一列で進んできたら、ただの的
朝鮮の役、関が原くらいだと、一斉射撃→その混乱中に突撃、ってなのが基本になるしね
- 44 :
- その頃になると槍足軽は防御任務にしか携わらなくなったかと
- 45 :
- は?
- 46 :
- >>41
その長槍隊を守る竹束隊みたいなのはいなかったのかね
- 47 :
- 走り回るのが基本なので、野戦では余り役に立たない
- 48 :
- >>47
鉄砲隊引き連れて走り回れるんなら竹束持って走り回れるだろw
- 49 :
- >>48
でかい、かさばる、木枠が必要
- 50 :
- >>46
遭遇戦ではなく対陣する時間があれば、竹束と掻盾(木製の置き盾)、更に柵を準備して矢戦から始めるよ。
鉄砲組と、その装填の隙間を埋める弓組が始めに戦う。
矢玉が少なくなると、双方の長柄足軽が進み出てやりあう。
崩れたところを見計らって、徒歩武者や騎馬組が突入して白兵戦。
ってな流れが典型的では。
- 51 :
- >>20
日本だとあまり大平原の会戦がないからかな
平地はあってもちょっとずれれば丘や山があるし
隊形を工夫するより地形利用するほうがいいわな
- 52 :
- 遮蔽物も豊富だし夜襲かけたりするにはちょうどいいもんな
平地じゃそうはいかねぇ
不勉強なせいか海外の戦で夜襲ってあんまりきいたことないな
いつも昼間やってるかんじ
- 53 :
- >>52
丁度クラウゼヴィッツ『戦争論』の夜襲の項目読んでたわw
守る側は陣地のことを熟知しているし、奇襲なら小さい部隊ですべきだけど小さい部隊でやっても敵は倒せないし、
大きい部隊で動けばばれるしで、正直限定的な効果しか望めないって
「夜襲は、本戦に従属する個々の部隊において実施されるのが通例であり、大会戦において行われることは滅多にない」
しかしみんな見てきたように話してるがどっからその見解は出てきたんだw
- 54 :
- センゴク呼んでたら明智が「殺し間」とか言って火縄銃の十字砲火してたけど
戦国時代にほんまにそんな言葉あったんかね
あの漫画、途中からやけに通説はこうだが古戦場を実地に調べたらどうのこうのとやっているが…
- 55 :
- >>54
センゴクは初期に鈴木眞哉の影響か、偏った解釈しすぎて批判くらったんで
途中から突飛なことは言わなくなったね・・・
- 56 :
- >>49
>>50
どっちだよw
- 57 :
- >>56
鉄砲持って走り回れても
束竹は邪魔なんで時間に余裕がある場合の対陣限定と読んだ
- 58 :
- まー時間あれば馬防柵とか立てたり土塁盛ったりもできるしな
- 59 :
- >>58
足軽<ヒソヒソ(まじかよ)
雑兵<ヒソヒソ(大将、柵は切るの運ぶの?)
小者<(どっちも勘弁してくれ…)
- 60 :
- >>40
要するに最小単位300の細胞壁の集まりと思っていいのかな
備制度ってどの段階で確立したんだろ
太田道灌あたりかな。そもそもあの辺りの戦の体系が謎だよね
- 61 :
- >>60
寄親(家臣)とその陪臣の主従単位で部隊分け(戦国初期)
↓
複数の寄親衆を集めて作った備(戦国中期)
↓
兵科ごとに再編成、足軽大将のもと組衆化した備(武田信玄・北条氏康等)
という流れかと。
- 62 :
- >>61
その当たりの流れ、長文で全然良いからもう少し詳しく説明してくれたら嬉しいなぁ
例えばそういう移行って戦国大名の中央集権化と関わりがあったと思うんだけど、
「備えってなんだよしちめんどくさい!」みたいな寄親の軋轢や戸惑いみたいなのって文献に残ってたりするのかね
- 63 :
- >>60
最小単位300?
なんぞそれ
- 64 :
- 大名が家臣から雑兵を一時的にとはいえ、取り上げることが可能か?
という問題点がある
- 65 :
- 〇アメリカはそもそも中立じゃない。
いつまでも、反日と精神的奴隷として生かす。
日本が目覚めると、困るのは、韓・中・米みんな一緒。
靖国では英霊が日本の為に戦ったというけど、何が日本の為、アジアの為だったのか見直さないといけない。
日本は人種差別問題の礎になった。それはインド、東南アジア多くの国が認めている。
http://www.youtube.com/watch?v=7QQzmAQ7wEc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=rjthSfB1RF4
- 66 :
- >>62
もろその手の内容の本が本屋の歴史コーナーにあったな
今度タイトル見てくるか
- 67 :
- すみません、どなたか言葉戦い(言葉合戦?)について実際のやり取りなどを見ることができる書籍などないでしょうか。
基本的に挑発だから乗るんじゃないよ、と定められていた、という風には聞きはするのですが、
あの時代の罵り合いなどというのはどのようなものだったのでしょうか。
私が見たことがあるのはマンガになってしまいますがセンゴクとそのスピンオフ作品のセンゴク兄弟です。
どなたかご存知でしたらよろしくお願いします。
- 68 :
- >>67
信長公記とか甲陽軍鑑とか落穂集とかの軍記読め
- 69 :
- >>68
ありがとうございます。
- 70 :
- 長篠の戦いで信長が大久保忠世に言った
「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」
から分かること
・戦場では個々の部隊の活躍が目に見えて分かる
・総大将はその活躍が見える位置にいた
・部隊と部隊は結構、ついたり離れたりするものだった
- 71 :
- 高台にいたんじゃないの
平地なら見えないだろうし
もしくは使い番が頻繁に出入りしてたか
あと常に部隊同士くっついている必要はない気がした
- 72 :
- 信長なら当時は家康の本陣にいた
- 73 :
- >>63
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99
>備の人員は一般的に300名から800名、本陣備の場合は1500名前後であるが、
>これらは大名の石高、戦時における戦闘要員、後方要員双方の動員、各備の任務により増減する。
>因みに石高一万石の領主を大名とする一つの基準は、備を一つでも編成できる事にある。
これハッとさせられたな。本当かどうかは分からんがw
- 74 :
- 「戦国の軍隊」学研
てのが読んでておもろかった
領主別編成か兵種別編成かの考察や
足軽の位置付け
戦国時代の兵站
兵農分離や農兵動員やら諸々
まぁ好みで諸説突っ込まれるんだとは思うけど
- 75 :
- 面白そうだな
まあ編成にしろ兵站にしろ大名によって様々なんだろうからな
あと、戦国前期か末期かによってもだいぶ変わりそうだな
- 76 :
- まぁ実際100〜50年くらい幅ある訳ですし
- 77 :
- 新しいよりよい編成方法が生まれたとして、それがどこで生まれて、どういう風に伝播していったか
本当に興味あるわ
歴史に名前が残ってないんだけどとんでもないアイデアマンとかっていたんだろうな
黒田官兵衛とか石田三成とか、豊臣政権を支えた幕僚にその匂いをちょっと感じる
- 78 :
- 豊臣の動員、編成なんて古いままなんだが
- 79 :
- 時代の最先端は徳川家
- 80 :
- その根底には武田家の編成法があるわけですが
- 81 :
- >>78
そうなの?
外様と(織田を含む関係者)豊臣親衛軍じゃ、相当に編制が異なりそうだが。
>>74
これは大変良かった。ただ、領主直属の「足軽」部隊と、城を中心として編制される「衆」(この著作中では小机衆が代表)
がどのように組み合わされて「備を立て」られるのかが不明だった。
つまり、鉄砲足軽隊(領主直属、指揮官はいわゆる「武士」が任命される)と
城を中心として集まってくる「武士」の部下たちを、槍、鉄砲、弓、徒侍、馬上と分けたときの鉄砲を持っている身分としての「足軽」の寄せ集め
がどのように組み合わされているのかが全く分からなかった。
- 82 :
- 『戦国の軍隊』西股総生著 学研刊 P187より
A.支配階級・ 常備兵 戦闘員・ 侍(領主およびその一族・郎党) ただし、着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制される
B.被支配階級 常備兵 戦闘員・ 傭兵としての足軽
C.被支配階級 臨時役 非戦闘員 領主が軍役によって動員した雑兵
D.被支配階級 臨時役 非戦闘員 侍に従属する小者・中間
E.被支配階級 臨時役 非戦闘員 陣夫として動員された百姓
Aの「着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制」された鉄砲組と、
Bの「鉄砲組」
との関係が分からない。
- 83 :
- すいません、82は間違いです。
『戦国の軍隊』西股総生著 学研刊 P187より
A.支配階級・・ 常備兵 戦闘員・・ 侍(領主およびその一族・郎党) ただし、着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制される
B.被支配階級 常備兵 戦闘員・・ 傭兵としての足軽。兵種ごとに組編制。指揮官は侍が任命される
C.被支配階級 臨時役 戦闘員・・ 領主が軍役によって動員した雑兵 ただし、着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制される
D.被支配階級 臨時役 非戦闘員 侍に従属する小者・中間
E.被支配階級 臨時役 非戦闘員 陣夫として動員された百姓
AおよびCの「着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制」された鉄砲組と、
Bの「鉄砲組」
との関係が分からない。
- 84 :
- っていうか面白そうな本だな。ちょっと高いけどポチるか
- 85 :
- >>80
比較したけど実はなさそう
>>81
Aは大名の家臣がそれぞれ引き連れた陪臣の足軽を指す
Bは大名が直接雇用した足軽を指す
個人的には兵種毎の再編成はないと考えるが
- 86 :
- 武田軍の足軽大将(山本勘助とか?)ってBの兵を操ることになるの?
- 87 :
- >>86さん
>「兵種別編成方式」に対して、軍役を付加された領主たちがめいめいに動員した兵士たちによって
>部隊を構成する方式を、ここでは仮に「領主別編成方法」と呼んでおこう。
>足軽の基本的属性を、傭兵、非侍身分、軽装歩兵と位置づけ
しかし、「馬上」の足軽もいて、ほとんど侍と変わらず、この足軽隊を指揮するのが「足軽大将」
こうした足軽大将も、領地を与えられ、侍身分として遇されるようになるが、最後まで「足軽」という区別は残った。
>兵力動員のあり方が、封建的原理に則っていなかったためであろう。
また、他国の援軍など「汚れ仕事」を担わせることが多かったからだ。
最後に山本菅助も足軽大将だと例で引かれている。在地外の武士を引き立てるのに足軽大将は好都合な在り方とも
※こうなると、侍大将と足軽大将の上下がよく分からなくなる。
※昔自分は、侍大将が複数の足軽大将を指揮下においていたと思っていたが、違うようだ。
※侍大将と足軽大将は、合戦場では同じレベルの指揮官だが、平時に身分としては侍大将が上ということらしいね。
率いていたのが、鎌倉以来の在地領主を中心とする軍勢か、傭兵かの違いしかないと言うことだろう。
※こう考えると、山本菅助が、軍議で馬場や香坂らに混じって『キツツキの策』を検索できるのも無理なく整合する。
以前は、下の身分のものが、こんな重要な献策が出来るものかと思っていた。
- 88 :
- >>87
軽装歩兵を傭兵にさせるってのはハンニバルの時代に通じて面白いねw
- 89 :
- この足軽と足軽大将が江戸初期の牢人の主体だったのかな?
- 90 :
- 北条早雲や斎藤道三も足軽大将(傭兵隊長)あがりなんかねぇ
- 91 :
- 北条早雲(伊勢盛時)は幕府奉公衆かつ幕府申次という高級官僚。
斎藤道三は「父親」が京の商人、「息子」が守護代家家老
- 92 :
- >>87
>昔自分は、侍大将が複数の足軽大将を指揮下においていたと思っていたが、違うようだ。
武田軍制における名称と、たとえば西国における名称って同じ言葉でも立場は違うのかもよ
陶晴賢は「西国無双の侍大将」って呼ばれたらしいし、この侍大将は「軍事指揮権者」ってニュアンスがある
- 93 :
- >>92
『戦国の軍隊』西股総生著 学研刊 P129より
岩付衆
太田源五郎(←北条氏政三男)が、「侍大将」
小旗 120余本・奉行3名
鑓・・ 600余本・奉行5名(長柄)
鉄炮 50余挺・奉行2名
弓・・ 40余張・奉行3名
歩者 250余人・奉行3名
馬上 500余騎・奉行6名
歩走 20人・・・奉行1名
合計 1580余
岩付衆に「足軽」は、いない。全体が「領主別編成方法」を取っている
- 94 :
- 鉄炮は岩付鉄炮衆とあるが
- 95 :
- >>93
このとき陣庭奉行の宮城四郎兵衛に届いた着到状では、
騎馬8騎(含本人)、槍17人、歩者4人、旗持4人、鉄砲2人、弓1人の動員が割り当てられている。
編成段階では、宮城のような家臣(給人)達が動員してきたそれぞれの主従は解体され、兵科別に再編成しているよね。
- 96 :
- >>94
たぶん「着到」が終了して「備を立て」(=兵種別編制が完了し)たあとの岩付衆の鉄砲隊のことだと思います。
じゃあ、その鉄炮を操作する「雑兵」は、どこから来たのかというと、ほとんどが領主が連れてきた者たちでず。
『戦国の軍隊』では、「宮城四郎兵衛」の軍役が例としてあげられています。
宮城は、本人1名(=馬上)と本人用指物役1名のほか
小旗3名、馬上7騎、長柄17本、鉄炮2挺、弓1挺、歩者4名の合計36名を動員し、
バラバラに、小旗、馬上、鑓(長柄)、鉄炮、弓、歩者、歩走の各組に組み入れられて、備が出来るというのが、
著者の西股氏の考えのようです。
岩付鉄炮衆という足軽(=常設傭兵)の鉄炮組は、この天正5年(1577年)7月13日付けの「北条家朱印状」の上では確認できません。
- 97 :
- 後、この岩付の陣定書は「今度之陣一廻之定」つまり臨時の軍備とある
個人的にはそれぞれは北条氏房の家臣だと思うけどね
- 98 :
- では、この「馬上」「組」(組は、便宜上勝手につけたもの)が、「騎馬隊」なのか、「騎兵隊」なのかという議論は、
「騎馬隊」「騎兵」「騎乗兵」などの定義によります。
「次々と通説を打ち砕く鈴木真哉」氏の定義
(『戦国「常識・非常識」大論争! −旧説・季節を信じる方々への最後通牒』 洋泉社 )によれば、
@騎乗する兵士が(常設的に編制され)組織化されたものが「騎馬隊」(具体的には騎兵中隊/騎兵連隊)であり、「騎馬隊」に属して騎乗する兵士が(兵種としての)「騎兵」
具体的には、ヨーロッパで16世紀後半から編制され始めた。
A馬に乗る兵士がヨーロッパでは「騎士」(日本では)「武士」。騎士が馬に乗ったまま「突撃」することはあっても、
(彼らが常設的に編制され)組織化されているわけではないので
「騎兵隊」とか「騎馬軍団」とかは言わない。「臨時騎士集団」ぐらいだろう。
- 99 :
- 馬上とは騎乗武士を指し、その中にはその武家奉公人も含まれている
だから軍役状にある馬上も自身以外は別個に武家奉公人を従えているはず
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