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戦国ちょっといい話35


1 :2012/10/18 〜 最終レス :2012/12/02
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/

2 :
新スレと>>1に八幡大菩薩のご加護がありますように

3 :
一乙!!!!!!!!!!!

4 :
>>1おつ!
セブンイレブンへ行って好きなおにぎりをわしに買ってきて良いぞ

5 :

末森城の戦いの時、前田利家は素早く末森城を後援したために佐々成政は敗軍した。
この戦いで本多正重は武者修行をして利家の備えを借りていたが、利家が士卒を
制して隊列を固めているのを見ると、馬を乗り寄せて声高に、
「恐れながら勝ちに乗るとは今ですぞ! 敵は崩れて一足も返しません!
御下知あるべき所なり!」と言った。しかし、利家は「お前に何が分かる!」と
大いに罵って城に入り兵を収めた。佐々軍が引いて後、利家は子息利長に話すべき
ことがあると、同道して七尾に帰った。
「私が正重の諌めを用いなかったのは思慮があったからだ。およそ武者修行の者は
自分の功を立てるのを目的とし本当の忠がない。あれは自分の一言で敵を追わせて
利を得たのだと他家の誉れにしようとしたのだ。もし私が負けたとしても正重の負け
にはならないし、仮合の徒である正重にとって損にもならない。
その上、道の往来を考えた時に後援の兵が三千から四千程度だと分かるところを、
その推測ができなかったのは成政の失敗だった。一旦は不意にあって敗れ去るとしても、
成政の志なら後援の兵が少ないと知れば、私が追わなくても兵を返してきたことだろう。
ましてや急に追ったなら総返しにされた。そうなれば味方の負けは必定であろう。
だから追わなかったのだ」
――『名将言行録』

6 :
金銀をケチって兵力が足りていなかったというオチが無ければ名将なのに

7 :
金銀をケチって譜代を増やしてなかったから
渡り奉公同然に主君を変えていく奴に
軍勢の一翼任せる羽目になってるんだろうな

8 :
こ、これは南蛮渡りの「あうとそーしんぐ」と言ぅてだな…

9 :
石田三成 小名浜に来たりて言う 『この浜、末は大繁盛の地とならん』と
宝暦六年(1756)に、岡小名村の日蓮宗安立寺住職日忍が記した「�集咄」(れんしゅうばなし)と題する、
怪談や昔ばなしを集めた本があった。日忍の自筆本は伝わらず、写本によってその内容を知るだけである。
その別名を岩城名所談ともいう。その中に、小名浜について記した次のような一節がある。
(文中略)古老の言ひ伝えに、天正年中、石田治部少輔此処に来たり、屋の上に登り上下を見渡し、
此浜末は大繁盛の地にならんと言いしとかや、不審なれ。(文中略) 
秋田藩家蔵文書にある天正十八年(1590)十月九日付の白土右馬助書状に「石田殿今日平へお着き」文書を
見いだしたことから、なるほど、これなら小名浜に来たとしても無理はないと考えた。さらに、「屋の上に登り」とある箇所は、
屋根に登るいうのは不自然であり、屋は崩し字では臺と紛らわしくなるので、「臺の上」であろうと推定した。(文中略)
小名浜の某寺の寺伝より引用しました。個人サイトなので詳しくは『小名浜 石田三成』で検索すれば出てきます。
公共サイトにもこの出来事について詳しい投稿記事があったので、こちらはリンクしておきます。
いわき地域情報総合サイト『いわきアイアイ』 ttp://www.i-iwaki.jp/modules/myalbum0/photo.php?lid=949
豊臣秀吉の奥州検地での出来事のようです。某寺院の開基は嘉吉3年(1443)、岩城下総守・岩城親隆とあり、
当時、小名浜は佐竹義重の三男である岩城貞隆の所領。岩城氏所有の館があったらしいとの記述も見えます。
後年、江戸時代に東回り航路が河村瑞賢により開発され、近隣の『平潟』『中の作』などが発展したそうですが、
近代になってからの小名浜港の発展と重要性は言うまでもありません。石田三成の『慧眼』の程が窺い知れます。
皆さんの地域の歴史や社寺の故事来歴を調べると、有名武将の『ちょっといい話』が埋もれているかも知れませんよ

10 :
ほう
興味深いな
たしかに郷土の寺の書や伝説はいろいろ掘ったら面白そうだ
でも小名浜自体はそんなに有名ではないとは思うがw
いわきのサイトおもしろいなwフラ丼食いたい

11 :
慶長5年(1600年)7月、家康を弾劾する『内府ちがいの条々』が
全国の大名諸侯にばら撒かれたときのこと。
弾劾文を受け取った大名のひとり蜂須賀家政は、
大坂の屋敷で考え事をしていた。

(続きます)

12 :
書き込み規制と忍法帳のおかげで細切れになってしなうなあ。

――嫡男の至鎮は内府の娘を娶ったし、今は内府について会津にいる。
蜂須賀家が内府に組みすると見られているのは間違いない。
――だが、藩主の自分と蜂須賀の兵がこっち(上方)にいるとなると、
いずれ大坂城(西軍)に取り込まれるのは避けられない。

(続きます)

13 :
――そうなったら、たとえその後の戦で内府が勝っても、蜂須賀家やばくね?
――よし、ならば……。
決意した家政は、ある行動に出る……それは別の機会に。

(続きます)

14 :
続きマダー?

15 :
連投規制か

16 :
書き込み制限食らっている人は、少し手間だけどこういう所利用するといいかも
★☆ 書き込めない人のレス代行します 90 ☆★
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/entrance2/1350652112/
シベリア郵便局・416通目【レス代行】
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/siberia/1350393984/

17 :
>>13以降の続きです。
本題はこちら。
上記は史実を元に家政視点で創作したものだが、第三者の視点では
家政の様子を次のように記している。
「殿は、湯漬をたてつづけに三杯おかわりした。
この大変な時にも食欲を失わないとは、なんと豪胆なことか」
どうやら家政さん、考え事は食事中にしていたようで。
これは創作ではなく、蜂須賀家の家譜に記録された本当の話。

竜頭蛇尾なネタで失礼しました。

18 :
>>17
創作は勘弁してくれ。

19 :
信雄の奮戦
小牧・長久手終盤、天正十二年六月
桑名で伊勢戦線を督戦する織田信雄に急報がもたらされた
『蟹江城の前田長定、滝川一益によってご謀反』
清洲城のわずか三里南に存在する蟹江城を謀略により征圧したのは、滝川一益と九鬼嘉隆の水軍
桑名(信雄)と清洲(家康)の連携を遮断するのがその目的だった
「こうしてはおれん。叔父上(有楽)、船団に触れを!」
報に接した信雄は蟹江城と九鬼水軍の連携を遮断すべく奮戦
『大船ニノリカケ敵船ヲ取リ人数討捕候』
と陣頭指揮をとって大いに活躍し、嘉隆らを撃退
一益の蟹江城を孤立させて戦いの勝利に大きく貢献した

家忠日記より、信雄さんの珍しく良い話お話でした

20 :
ちょくちょくやらかすせいで無能扱いの信雄さんだけど実際は無能ってほどでもないよなあ

21 :
対抗馬の信孝さんの方がよっぽど
外面は良かったみたいだから無能扱いはされてないが

22 :
織田信長のほっこりするエピソード
ポルトガルからやって来た宣教師ルイス・フロイスが信長さんに初めて会ったのは、
二条城を作っている工事現場の橋の上でした。
その時、信長さんはこの遠来の異人に
「年齢はいくつか、いつ日本に来たか?ポルトガルから日本までどのくらいの距離か?」
などの質問と共に
「お主の両親はポルトガルでお主に会いたいと思ってはいないのか?」
と聞いています。
つまり「両親は心配してないのか?」と聞いたわけです。
好奇心を満たす質問をする一方で、
相手の肉親を気遣う一面を持っていたのです。
――『マイナビニュース』
http://news.mynavi.jp/c_career/level1/yoko/2012/10/post_2399.html

23 :
石井源左衛門正澄は、原城一番乗りの弥七左衛門正之の次男。
彼はいつも親の名を汚すことのないようにと心がけ勇み立っていた。
綱茂公のお供として歩いていたときのことだが、
綱茂公が源左衛門をみて、
「源左衛門よ、その刀の差しかたはよくないぞ。
柳生流でも嫌っている差しかただ。
わたしの差しかたを見てみよ。
これこそが鍋島加賀守直能から伝授を受けた差しかたぞ。
そもそも落とし差しは抜きにく、えっ?」
そのお言葉が終わらないうちに、源左衛門は刀をさっと抜いてみせ、
「抜けますよ」
と言って鞘におさめた。
綱茂公は苦笑して、
「おまえは粗忽者だな(苦笑)」
と仰りなにごともなく済ませたとのことだ 【葉隠】

24 :
抜くな抜くなw

25 :
ていうかお供だから危険なかんぬき差しでなく落とし差しやってたんじゃ・・
あと周りの人間と鞘当しにくいし

26 :
えー、お祖父ちゃんと曾お祖父ちゃんは落とし差し派じゃないの?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5276.html

27 :
南龍公こと徳川頼宣が14歳で初陣した大坂の役で先陣を望むも許されず「14歳の私は、今しかない!」と嘆いたのはここのスレでは有名な話。
この役で同じように先陣を望み許されなかった男がいた。松平忠利である。
松平忠利はかの「家忠日記」で有名な松平家忠の息子で深溝松平5代目当主である。
深溝松平家の当主は2代目好景、3代目伊忠と徳川の重要な合戦で当主が討ち死にして宗家に忠義を示してきた壮烈な家柄である。
忠利は天下分け目の合戦の際の伏見城の合戦で覚悟の討ち死にをした父・家忠の仇討ちを願うも結城秀康に従い、上杉の抑えとして関が原の戦勝を聞いた経緯もあり、大坂の陣では先陣を切望したのは当たり前の事だと思われる。
しかし、大坂の陣でも忠利は先陣を許されるどころか徳川頼宣の補佐を命じられ前線での槍働きを制限されたのである。
これに対し、忠利の実弟、松平忠一が兄の気持ちを代弁するかのように、深溝松平隊にこのように訓辞をした
「大坂方は必ずや打ち破られるであろう。そうすれば天下に戦はなくなる。今もし激を励まさないということであれば、何時することができるであろうか。
 しかし、忠利は先鋒を望むもその命は下されない。しかし、自分、忠一は幸いに前線に属する事になった。必ずや先陣を切り、父祖に地下へと会いに行こうぞ。」と。
その言葉どおり忠一は大坂の陣の5月7日の激戦に最前線へ躍り出て、突撃を繰り返し、大坂方を押し返し、騎上にて「我、松平忠一である!」と高らかに名乗り上げ勇戦し、乱戦の中で己の命を散らしていったのである。
享年は26歳であったという。
ソースは深溝松平家菩提寺、本光寺の碑文です。

28 :
悶々と生きるより華々しく生きたいよなー

29 :
>父祖に地下へと会いに行こうぞ
とか言っちゃうのがなんとも厨二というかボンボンとうか軽い気がする

30 :
本当に会いに行ったんだから軽くはないだろ

31 :
そもそも隊の訓示だ
司令官の覚悟と父祖もそうだったと忠義の血を示してる

32 :

ある戦いで織田信長の先手が敗北し、既に旗本まで危うくなってきた。
この時、信長が「尾藤甚左衛門はいないのか」と家臣に尋ねた。
「三の備えにおります」
「ならば苦しからず」
そう答えた信長は騒ぐ様子もなかった。案の定二の備えも破られたが、
三の備えが受け留めて突き返し、敵は敗れて引き退いた。
――『名将言行録』
甚左衛門って…甚右衛門知宣のこと?

33 :
>甚左衛門って…甚右衛門知宣のこと
かもしれないね
あの人も九州以後の印象が悪すぎてなぁ…

34 :

細川忠興が明智光秀の邸宅に来ていた時、一人の小姓が縁側を通る際に
目通りするわけでもないのに腰障子の外で手を突き、目通りするかのように
慇懃に拝伏して行った。
忠興が光秀に向かい「あなたの小姓どもは律義なのですね。
目通りもしない障子の外を通るのに、手を突いて拝伏しましたよ」と言うと、
光秀は「それは三宅弥平治(明智光春)でしょう。お呼びになってみなさい」
と言った。そこで例の小姓を呼び名前を尋ねると果たして弥平治だったので、
忠興は殊の外褒め称えた。
――『名将言行録』

35 :
障子に穴を開けて覗きこんだのかと勘違いした…

36 :
そんなことやったら細川さんのとこだと37人目になるだろうなw・・・さすがに義父の家で通常運転する三歳さまじゃないよな?

37 :
嫁さん連れてたのか。

38 :
忠興センサー恐るべし

39 :
ある日信長が領内を視察していると
農民が真っ昼間からイビキをかいて寝ていた。
これはケシカランと共の者が農民を叩き起こそうとしたが
信長はそれを咎めて一言
「農民がこうやって寝ていられる世が俺の目指す治世だから」
おぼろげだけど戦国名将一日一言って本からの引用

40 :
さすがにそれは、後世の信長贔屓って感じしちゃうな

41 :
信長って弱い者を強い者が保護する事は当然って意識だったんだと思う。
自称弱者は遠慮なく処罰するんだろうけど

42 :
真っ昼間に野良やると暑いんだよな…。

43 :
農民は寝不足だったのだろうか

44 :
自称霊能者だかの信長話にも確かそういう話があったなあ

45 :
肉体労働だと昼飯後の30分ほどの昼寝をするとしないとだと午後の疲労感が違うからなー

46 :

黒田忠之とその老臣・栗山利章の間に訴訟があった時、
栗山の言うことに理があるとして黒田家の取り潰しが決まった。
その時、徳川秀忠は「安藤帯刀を呼んで意見を聞け」と言ったので、
老中は帯刀を呼んで彼の考えを聞いてみた。
「理非によって裁決するというのは尋常な時の話です。
君臣父子の間について、どうして理非を論じるべきでしょうか。
栗山の処罰は免れない。
今回、家臣の申すことに理があるからとその君主を罰するのなら、
もしそれがしと紀伊殿の間に訴訟が起きた場合に、
それがしに理があったならば紀伊殿を処罰するのでしょうか」
この帯刀の意見を受けて、いかにもその通りだということで
栗山は処罰され、黒田家は取り潰しを免れた。
――『名将言行録』

47 :
いい話なのかね?

48 :
幕府は改易のチャンスなのに、何で改易しなかったんだろうな。
安藤帯刀の言う君臣の関係の前例なんて、どうとでも繕えるだろうに。

49 :
紀州殿を手に余している状態だったんだろ

50 :
慶長五年九月二十四日出羽国長谷堂城でのこと。この日最上勢と直江兼続率いる上杉勢の戦いは一段と激しかった。
夜遅く、最上側が追撃にあった際、さしてあった総大将義光の指物が抜けないのを鮭延秀綱が気づき回収しようとした。
しかしなかなか固く抜けずに困っていると、義光が女三という法師武者をよこし、回収せよと命令してくる。
秀綱は女三に「この小旗は任せろ。鉄砲の応援を50か100頼む。射撃の合間に引き抜こう」と伝えたが、
応援はまったく来そうになかった。すると今度は義光その人が単騎で駆けつけ、直に回収を指示してきた。
秀綱は「今女三にも申した通り、ともかく鉄砲30騎ばかりでも援軍をください」と返答。
義光が承知して帰るとやっと鉄砲30騎ほどが駆けつけた。
さらに政宗からの援軍らしき二騎が来たので救援を依頼したが、聞こえなかったのかスルー。
ここへ最上衆の安食七兵衛が駆けつけてきたので、両者被弾しつつも鉄砲を撃たせ、なんとか指物回収に成功したのであった。
七兵衛はのちに「長谷堂の手負いは典膳(秀綱のこと)に撃たれたようなものだ」と笑って秀綱に語っていたという。
指物ひとつに命をはる、戦国武士らしいお話。

51 :
敵の旗は勝利の象徴だな
西洋でもそう

52 :
奪われたら
多聞兵衛「この旗は昨日、貴殿からお預かりしたものであるが、紋が違うゆえ役に立ち申さぬ。
お返しするゆえ、城門まで引き取りに来てくださらぬか?」(城内爆笑)
みたいな事になりかねないしねえ。

53 :
指物は長期保存可能なのも良いね
あれ、そういえば最上義光歴史観に直江方の旗が何故か有ったようなw

54 :
まーくん「なんと間抜けがいるもんだな♪」

55 :
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4513.html
直江「伊達家の旗ならどっさりありますが」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3646.html
政宗「最上弱い、最上弱い」
関が原の三家はじゃんけんみたいだ

56 :
乃木将軍が居た堪れない様子で見ておられます

57 :
北条綱成と武田信玄が八幡菩薩の旗を羨ましそうに見ています

58 :
加藤光泰は初め、斎藤龍興配下の「かつひさ」(姓氏不詳)という人物に仕えて信長と戦ったが、その際に秀吉によって見出され、「かつひさ」の没落後、その臣となる。
彼は男ぶりいかめしく、勇力は人に優れ、度々軍功を顕したので、腰母衣随一の士に選ばれ、武威を異国にまで轟かせていた。
元亀2年、竹中半兵衛らとともに近江の横山砦の守備にあたっていた時、浅井勢が突如襲撃してきた。
敵は多勢であったため、守将たちは城内に敵を引き入れて守る策を採る。
しかしながら光泰は一人槍を取り、城外へと出撃したのだ。
この時、例によって不思議なことを言ったのかどうかまでは記されていないが、兎にも角にも光泰は敵中に突入し、力戦したのである。そして数十人の敵に囲まれ、左の膝口に深手を負う。
最早これまで・・・と思われた時、半兵衛が城門を開いて救援し、彼は九死に一生を得るのだが、歩行不自由となってしまった。
しかし、三木城の戦いの時には、「病人・手負いの者は今回の戦に従軍せず、郷里に留まって農業をし、年貢を納めよ」という秀吉に対し、
「歩行が叶わずとも、田里に残って匹夫とともに居ることなどできません」と言って参戦し、毛利による兵糧搬入を阻止。その後の戦いでも数々の戦功を立てたのである。

59 :
そんな光泰が、ある時、伏見城において料理を賜わることがあった。
その折、秀吉手ずから引き出物を下されるというので、彼は頂戴するために立ち上がったのだが、いかんせん左足が不自由であったため体勢を崩し、膳をひっくり返して、飯や羹を座上に散乱させてしまった。
秀吉の近臣たちは光泰の無様な様子を見て笑みを浮かべたのだが、秀吉は彼らを見るや怒りをあらわにし、
「光泰の足が不便であるのは、武門にとって崇敬すべきことである。にもかかわらず汝ら、愚かにも笑うとは何事か!」
と、近臣たちを大いに叱り付けたという。
(加藤光泰貞泰軍功記、曹渓院行状記)

60 :
>>40
信長はそういう人だ、という認識がないと創作だとして成立しないからねー
実際、障害者を保護した話とか信長には弱者保護のエピは複数ある

61 :

関ヶ原の戦いの折、松平忠吉は手を負傷し、布で包んで襟にかけて
父の徳川家康の前に出てきた。その様子を見て家康が「下野は手に傷を負ったのか」
と言うと、忠吉は「たいした怪我ではありません」と答えながら座についた。
また井伊直政も鉄砲疵を蒙り、靱に手をかけながら忠吉に付き添って参上した。
直政は忠吉の勲功を報告して「逸物の鷹の子は皆逸物です」と誉め称え、
これに家康は「それは巧みな鷹匠が良い肉色当てをしたからだよ」と答えた。
続けて家康は「お前の傷はどんな具合だ」と言って懸硯から膏薬を取り出して
自ら直政の傷につけてやった。直政は畏まって「今日はそれがしの手より好んで
軍を始めたわけではありません。時分が良くなりましたので守殿と共に手始め
致しました」と言うので、家康はいたく賞美した。
――『徳川実紀』
息子の前でイチャイチャしやがって…

62 :
>>61
すいません少し訂正します。
×布で包んで
○布で肘を包んで
×勲功を報告して
○勲功の様子を報告して

63 :
>>61
家康の薬使ってもだめなら手術しかなかったんだな

64 :
>>59
蒲生氏郷にも似たような話があったな。

65 :
で宴会のときに脱がして傷を見せて・・・三河武士だと全員脱ぎだして某の傷は!某の傷は!ってなりそうだ

66 :
傷だらけのムキムキ男がいっぱいか
中川しようこ大喜びだなw

67 :
平八郎「ムキムキでも傷がないのはだめですかそうですか」

68 :
>>61
息子の前でというより諸侯勢揃いの中でイチャイチャしてますから
家康が息子そっちのけで直政に薬を塗っている間
東軍の愉快な仲間達は立ちっ放しで待たされていたという話がどっかに有ったよな

69 :
>>64
あと福島正則の家来バージョンもあった
なんかテンプレみたいなのがあるのかもしれないな
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-239.html

70 :
匿名「病気になってしまったので鼻を隠したら…ううっ涙」

71 :
長谷堂合戦終結後、城を守り抜いた鮭延秀綱は庄内方面へそのまま転戦し、
横手まで進み小野寺義道の降伏交渉を行うことになった。
そのとき主君義光に手紙を送ったのだが、それに対する義光自筆の返事を彼ははっきりと覚えていた。
「おまえたちの活躍で多くの城を勝ち取ることができ、私は大変喜んでいる。
横手へ送る書状の文面案を志村、里見を呼びにも見せたが、皆は読めなかったぞ。
だが私は、水でも流すようにすらすら読めたのだ。
いやあ、流石におまえの文面案は素晴らしいね。直すところなんかまったくない。
秀綱こそ文武両道だと皆にも話しておいたからな。
これからもミスのないよう、しっかりやるんだぞ」
別にこんなものいちいち言わなくてもいいかもしれんけどと…前置きしつつ、
回想ではしっかり残す秀綱。義光に褒められたのがよほどうれしかったらしい。
ちなみに字が義光にしか読めない=達筆だね、ということらしい。
鮭延秀綱、主君に褒められたちょっといい話である。
(『鮭延越前守聞書』)

72 :
あああのよくある流れたような文字はやっぱ同時代人でも読めない場合あるのね
安心したw

73 :
得意気そうな雰囲気が伝わってきてかわいいなw

74 :
鮭延(ドヤァ

75 :
トルネコとエンドールの王様か

76 :
下手に崩されると読めないよなぁ。
書状類も後世に写し間違いが多発してるし。

77 :
本人と鮭様しか読めない...。暗号だな。

78 :
鮭様も読めなかったけど、読めたフリして鮭に丸投げすることで面目を保った悪い話

79 :

関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いにおいて、
織田秀信の家臣・木造長正は奮戦して負傷し、岐阜近くの民家にいた。
福島正則はこれを聞いて使者を遣わし「今日の戦の怪我が気掛かりだ。
医者を申し付けたほうが良いのではないか」と、長正に伝えさせた。
これを聞いて長正は「厚いご好意は本当にありがたい。
軽傷ですから些かの御心遣いも無用です、とお伝え下さい」と言った。
その後、長正は前田利長に招かれたがこれには応じず、
正則の招きに応じて二万石を与えられた。
――『名将言行録』

80 :
酒の入ってない市松は本当にできた人だな
…酒さえ入らなければ本当に

81 :
そういう気配りのストレスを酒でどうにかしてたのかもなw
しかし最上って分限帳だと70万石越えてたのか
公式には57万石だっけ
ナニこれ?脱税?

82 :
市松はほんと下の人間に対して面倒見がいいよな。
・・・酒さえ入ってなければの話だが

83 :
しかし、酒絡みの失敗がない市松はただの福島左衛門大夫正則ではないだろうか

84 :
庄内の鮭が13万石分とれたとか

85 :
名将言行録だと長政じゃないのか

86 :
一見いい話のようだが前田家に仕えた方が...(´・ω・`)

87 :
ある人物が細川忠興の所有していた名物の茶入をいたく気に入り、熱心に頼み込み、遂にその茶入を譲って貰った。
そしてその謝礼として銀千枚と青江の刀を忠興に贈り、それに因み『青江の茶入』と名付け深く愛用した。
 
忠興を強欲な人物と批判する声もあったのだが、
青江の茶入を譲られた人物はというと、むしろ安すぎると考えていた様で後日改めて銀千枚を贈った。
忠興はこれを辞さずに受け取りつつ、
 「我は価(あたい)を重んずるにあらず、人に懇望せらるれば、
  其の価を論ぜず、唯義に依って、之を興(あた)ふるのみ。」と語ったという。
この話から、忠興は価格の高低を問う気持ちが無い事に注目するべきである。
        茶道美談より

88 :
忠興「もっと持って来てもいいのよ?」

89 :
銀を受け取ることで茶器の価値を高めてあげるよっていうことなら分かるけど、
単に価格の高低を問わないってなら、懇願する人にはタダで上げるのが義なんじゃないのか?

90 :
忠興さんが変なところで癇癪おこして斬りRんじゃないかとよんでてヒヤヒヤした

91 :
利休七哲の一人でもある三斎様がうっかり
「もっとよこせ」
とか
「そんなにいらないよ」
とか言ったらなかなかに向こうの立場がないからじゃないかなぁ

92 :
鮭延秀綱は、鮭延城主定綱の子として生まれた。
しかし二歳の時、父と兄・氏綱の争いに乗じた大宝寺義増が鮭延城をのっとってしまう。
父と兄に置き去りにされた秀綱は、そのまま庄内へと連行され、十四歳で大宝寺家に
小姓として出仕することになった。
父と兄は鮭延に戻ることなく没したが、二十一歳になった秀綱は器量を認められ、大宝寺配下の鮭延城主となった。
その翌年、事件は起こった。
かねてより評判の悪かった大宝寺義氏に対し、家老の前森蔵人が謀反を起こす。
前森に反対する者はなく、「もっと早くそうすればよかった」と皆口々に言う始末であった。
このとき秀綱はちょうど正月の挨拶ついでに、義氏のもとにいたのである。
秀綱は義氏の自刃に殉じるべく覚悟をかため、暗く放火された場内を探し回るが、
主君はいっこうに見当たらない。視界が悪いので名乗りつつ進んでいった秀綱は、
名乗ったとたん思いがけぬ目にあった。
「我こそは鮭延源四郎!(秀綱のこと)」
「何!」
敵はなんと、槍を捨てるとしっかりと秀綱を抱きしめてきたのだ!
「おまえは誰なんだ、はなせ!」
「放すもんかよ、おれは中村内記だ」
「あっ、中村のおじちゃん…」
この男中村内記は、まだ幼く実父と引き離された秀綱を、我が子のようにかわいがっていてくれたのであった。
内記は弟・孫八郎とともに秀綱を心配して二日間探し回ったがおらず、
あきらめかけていたところでやっとこうして見つかって喜んでいるのである。
「源四郎よう、あんな運の尽きた屋方に供をしてどうするんだよ。助かろうず」
「あんたたちが助けたくたって、前森はそうは思わないだろ! 後悔するだけなんだからはーなーせー!!」
秀綱は抵抗したが、怪我をして疲れ切ってもいたので兄弟に抱きかかえられて、町屋まで連れて行かれた。
内記が前森にかけあって、助命嘆願をしているにも関わらず秀綱は殺気だっていた。
「よう、源四郎。おまえよく助かったなあ」
「討手か!」
と、昔の仲間が様子を見に来てもこんな調子なので、まわりに誰も近づけないでいた。
孫八郎が、前森からもらった白米と薪を持ってきたところで、
「切腹を命じる奴にこんな日用品届けないよな」とやっと安心し、それから安眠したとのことだ。
命が助かった秀綱は、この数年後最上義光配下となり、八十五の長寿を得るのだがそれはまた別の話。
また軍記や通説では、前森蔵人の謀反は最上義光の謀略ということになっているが、
実際は関与していない模様(ただし義光はこのあと、蔵人を支援することとなる)。
(『鮭延越前守聞書』)

93 :
>>89
別に打ったわけじゃないから
謝礼を受け取らないというのは非礼にあたるんじゃないかな
なら、追加も受け取れっていう考えもあるけど、
そこまでいくと価値判断みたいになっちゃって嫌ってことかと

94 :
>>93
バットで茶器をホームランするシーンが浮かんだ

95 :
まーくんが打ってゲヒが金で接ぐと

96 :
朝鮮役にて、直茂公が高所から下を眺めると、
鍋島の母袋武者どもが、みな母袋を脱いでくつろいでいた。
直茂公は、
「陣中で物具を脱ぐなど戦場の覚悟が弛んでいるな。
誰かあそこに行って、一番最初に母袋を脱いだ者を見つけてこい。
処分をするから」
とお怒りになられた。
使者が母袋武者どもにそれを伝えると、
「どう申し上げようか・・・」
と、顔を見合わせ困り果てた。
そのとき、小山平五左衛門茂成が、
「直茂さまへ御返答申し上げる。
二十人の母袋武者ども、目と目を合わせ同時に母袋を脱ぎました」
と言った。
使者が戻ってこれを直茂公に伝えると、
「憎い奴らよ。それは平五左衛門の言葉だろう(笑)」
と仰せになった。
小山は竜造寺右馬太夫信門殿の子、
剛の者である 【葉隠】

97 :
>>96
母袋って・・・母衣の事かな?

98 :
母衣ってふくらんでないと、防御の役割なくね
じっとしてたら意味ないような
それとも軍服みたいなもんだから着ろと言ったのか

99 :
軍服の一種だから、制服にしておこう

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