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2012年08月戦国時代52: 戦国ちょっと悪い話34 (590)
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戦国ちょっと悪い話34 (590)
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【海道一の弓取り】今川義元、北条氏康に圧勝 (318)
織田勝長総合スレ (399)
島津家久公之スレ (320)
戦国ちょっと悪い話34
- 1 :2012/10/23 〜 最終レス :2012/12/01
- 戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
- 2 :
- >>1
骨折り!
- 3 :
- 人間無骨!
- 4 :
- 石田三成が斬首される直前、茶関係の弟子に耳と鼻を削ぎ落とされた
というのは本当ですか?
- 5 :
- 三成斬首の時の状況を表した詳しい記録は一切残っていません。
というか三成の茶の弟子ってなんのことやら。
- 6 :
- >>4
創作に決まってるだろうが
- 7 :
- >4
全裸で茶を被ったのも本当です。
- 8 :
- おそらくへうげものネタ
しかし、松永の遺児と利休の関係やら
荒木村重の遺児が高名な絵師になったやら
ググるまではフィクションだとおもってた
- 9 :
- 鬼武蔵はじめDQNネタ、ラスボスネタが印象に残ってる割には悪いスレって
いいスレより一スレ分少ないんだな
- 10 :
- そもそも悪い話スレが出来たのっていい話スレができて1年後くらいだったろ
- 11 :
- それは知らんかった
三歳様の奥方覗いてくる
- 12 :
- 斬るのは三歳様だけじゃないぜ!!
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- 13 :
- >>4
そもそも利休を切腹に追い込んだのが三成って時点で間違ってるからあの漫画
- 14 :
- 秀吉が信長斬った時点で(ry
- 15 :
- 海老で鯛を釣った時点で…
まああの漫画は史実や講談をベースにそれをちょっと外して来るのが基本なので、
割りと突拍子のないことでも根拠がある場合が多い
- 16 :
- ゆがみ要塞うぎゃぁとか
- 17 :
- 織部が松永弾正のところに使いに行った時点で・・・
- 18 :
- 下次右衛門の降伏はなかなかの美談として伝わるが(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6050.html)、鮭延秀綱の記憶によればもっとごたごたしていた。
最上勢に攻められた下次右衛門が籠城したまでは同じだが、籠城したのは谷地である。
そして経過は…
守備側「安全を保証するなら降伏します」
攻撃側「わかった、出てきなさい」
守備側「すみません、戦わないであっさり降伏とかしたら流石に馬鹿にされますよね。
やっぱキャンセルするんで攻めてください」
攻撃側「ふざけんな!だましたのかよ!わかったよ、堀埋めるからな、覚悟しとけ」
守備側「あわわわ、やめてください! まった、待ってください!
安全を保証するなら庄内の松本を切腹させますんで。大山取って義光殿に味方しますんで!
起請文もありますよ、ほら」
攻撃側「また騙されるかばーか! …と思ったけどちょっと待ってな」
攻撃側の志村光安らは起請文を義光に持参し判断をあおいだ。義光は、
「降る降る詐欺とかナメてんの? でもいいや、城から出して。攻めると味方損害出るしな。
長谷堂で長いこと戦ったばかりだしみんなおつかれさんだもんね。
早く終わったほうがいいだろ。なんかもういいや」
こんなぐだぐだだったらしい。
現実ってわりとかっこわるいんだなあ。
(『鮭延越前守聞書』)
- 19 :
- 昨日のヒストリアで放送した細川忠利の熊本城本丸御殿の逸話は、
ちょっと悪い話だな。
- 20 :
- >>19
結果、無駄金使っただけでしたと。
民主みたいだ
- 21 :
- 細川護煕は最終的に民主党だし
- 22 :
- 無駄金に関しちゃ民主どころか自民以前から続く官僚のお家芸だから…。
- 23 :
- いるのかいらないのか、やっぱりいらない公共事業なんて全部無駄金。
- 24 :
- 地元のDQNがストリートダンスやスケボーの練習場にしてるようなところは大体失敗した跡地。
- 25 :
- >23、公共事業は金を使うのが目的だけどなw・・・まあ尾張さまなら兎も角利家とかおにいちゃんだと必要なところにしか使いそうもないが
- 26 :
- ずばり聞きます
1.織田信長を本当に討ったのは明智光秀本人の意思ですか?
2.天海は明智光秀と思われますか?
- 27 :
- >>26
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1342945821/
- 28 :
- 慶長六年、東軍の勝利に乗じた鮭延秀綱は四月一日、夜のうちに酒田攻めに出立することとなった。
ところが具足箱にしまっておいた采配がなくなっている!
「なんか嫌な予感…あああ、ちゃんと勝てますように」
秀綱はそう思いつつ、そのへんにあった竹を切って代用した。
気を取り直して進む秀綱だが、四・五百人ほどの敵勢に待ち伏せをされてしまった。
しかもこのとき! なんと兜の緒が切れたではないか。
「今朝は采配なくすし、今度は兜かよ! 今日はもう討ち死にだろコレ」
すっかりヤケになった秀綱は兜を投げ捨てて進もうとした。
すると板垣牛之助という者が「おいおい、この大軍に兜なしで挑むとかありえないだろ」と止めに入る。
「ちょっと待って、今直するから」と牛之助はたくさんのこよりをより合わせ、即席の緒を作り、兜をかぶせてくれた。
秀綱は気を取り直し出陣、見事に活躍したのであった。
鮭延秀綱、ちょっと縁起の悪い話。
(『鮭延越前守聞書』)
- 29 :
- 待ち伏せされたにしてはずいぶん余裕あるような
- 30 :
- 後ろで采配してたんだろうな
いい話だ
- 31 :
- 雑魚武将の話を発掘してみる。
蝦夷に下国師季という武将がいた。
下国氏は安東氏の一族で茂別館に拠り下国守護を任じられていた。蠣崎氏と同格以上の家柄である。
また1551年にはアイヌと和人の講和が結ばれ平和な時代が訪れていた。
…にも関わらず、1562年なぜか師季はアイヌの攻撃を受け茂別館を落とされてしまった。
そうして松前に逃れて蠣崎氏を頼り、その臣下に甘んじることになる。
しかしそれだけでは終わらず、息子重季と不和になり、
挙句に頼っていた蠣崎氏から追放されてしまう。
そしてセタナイで1563年死亡した。
ただただ没落しまくったことしか記録がない地方の武将の話。
- 32 :
- 天庵様が興味を示されたようです
- 33 :
- こよりって戦場に持ち込むもんなんだろうか
- 34 :
- >32、天庵さまはちゃんと俸禄貰ってる身分で終わってるだろ
- 35 :
- 伊達政宗、フィ−バー・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1353.html
↑にある寛永十二年正月二十八日の政宗亭への将軍家光の御成。
政宗渾身の接待に家光も喜んだことこの上なく、後日同朋衆の佐野福阿弥を通して、
なんと直筆のこれを感謝する書状を送ったほどであった。
さて、この書状が届いた日は取り分けて天気快晴であった。
ところがどうしたことであろうか、政宗の座敷の前の庭に、一尺(約30センチ)あまりの鯉が空から降ってきた。
しかも空から落ちてきたくせに極めて生きが良く、庭でピチピチ跳ね踊っていた。
政宗の周りに居た侍たち、「こんな目出度い日に鯉とは!なんと折の良いことだ!」
とこれを捕まえ喜んでいると、政宗はすぐさま包丁を申し付け、これを料理し祝いの酒とともに列座の諸侍に
振舞ったそうである。
…空から降ってきたことは、特に疑問に考えていなかったようである。
が、その後政宗が仙台に帰国していた7月の初め、島津家の上屋敷より出荷があり、伊達屋敷も尽く消失してしまった。
人々は
「伊達屋敷が燃えたのは鯉が空から降ってきて、あまつさえ食べたせいだよ。」
と囁いたのだという。
(玉露叢)
- 36 :
- 竜巻にでも巻き上げられたのかねー
- 37 :
- 出荷じゃなくて出火だよね
一瞬島津さんとこが鯉を出荷したのかと
しかしどう対応したら正解だったんだ
- 38 :
- ファフロツキーズ(空から落ちてくるもの)の事例がまだあったとは、
FORTIANに連絡しなければ
- 39 :
- こちらが時空警察の捜査員が捉えた事件の真相である
ttp://fsm.vip2ch.com/-/hirame/hira123732.jpg
- 40 :
- 古代中国の怪異書 『捜神記』にも、 宮殿に魚が降った記録がある。その解釈は、
「魚には鱗があり、鱗は甲冑に、甲冑は戦に通ずる。それが宮殿に降ったということは、
即ち天下に戦乱が起きるということだったんだよ!!( AA 省略」
↓
ナ、ナンダッテー
↓
事実そうなった
どっとはらい
- 41 :
- 釣り人が釣り上げた拍子にバラしてしまったとか?
しかし魚が空から降ってきても不思議がりもせずヒャッホーしてるあたり政宗というかなんというか
案外、誰かが迷信の事を言い出す前に
とっさに縁起の良さに結び付けて場の空気が悪くなるのを防いだのかも
- 42 :
- 徳川家康がある時、この様なことを仰った。
「主君に対して、その政道の正しさをことさら取り上げ、人々は善政に潤っています、などと言ってくる者が居る。
そんな者の言うことなど、全く聞くに及ばぬ!
少しであっても、その政道に対して異論が存在していれば、主君は早々にそれを聞き出さねばならない。
『自分には誤りなど無い』などといって聞き捨てにしてはならないのだ!
しかし、それを何者がそう言ったかなど、糾明するような事もしてはならない。
主君の心ひとつに収めて、その異論をよく吟味し、改めるべきところを改めるのだ。
物には思いもよらない事というものがある。あの織田信長が、明智などにああも安々と討たれるなど、一体誰が
予想したであろうか?
また信長の織田一門は歴々たるものがあったというのに、秀吉に主親の敵を討たせて、彼の風上に立ってしまった事など、
全く時の至というものであり、天が秀吉に与えた福というべきだろうか。
こういったことから解るのは、例え天をも計り地をも察することができても、計り難きは人の心なのだ。
だからこそ、仮初のことであっても、主君たる者は心をかけて見聞きしなければならない。
主君や傍輩にも真実をつつみ隠すような佞奸の者は、世の人々の見解を鏡として、早く退けるべきである。
どんな佞奸の者でも、天下の見解まで包み隠すことは出来ないものだ。
また、主君に対しその様な異見が世間に存在することは、決して恥ずかしいことではないぞ。」
(武野燭談)
徳川家康の、主君は異論こそ聞け、世の中の言葉を聞け、というお話
- 43 :
- うちから火がでちゃったのはアイツのせいなんだよー!っていう責任転換の企み…じゃないよね。
- 44 :
- http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6455.html
使えなくても一応きちんと異論を聞く家康はえらいな
- 45 :
- 慶長五年、ご存じ長谷堂合戦の折。軍記ものでは颯爽と活躍している鮭延父子であるが、
その実態が当事者によって語られていた。
当時父の秀綱は38歳、子の左右衛門は15歳である。
子「父上、私も参戦したいです!」
父「ただでさえ味方が少なくて大変なのに、おまえごときに割けん。あきらめなさい」
子「ならば私ひとりで出るまでです」
父「あー、わかった。仕方ない、50人くらいつけてやる、がんばるんだぞ」
子「はい、父上!」
こうして出陣した左右衛門だが敵に深入りしてしまい、供回りの過半数が討たれ、
指物までとられそうになる始末であった。
父は子の窮地に気付き、半町ほど敵陣に入りこみ子を探すが見つからない。
父「むう、遅かったか。あとに残っているのかもしれんが…」
子「あっ、父上!」
父「これはいかん! 左右衛門、ついて来なさい」
父が探し回り子をやっとみつけ合流したが、父もまた大苦戦してしまう始末。
ついに父は子の目の前でありながら、余裕が全くなく半町あまりも先に退いてしまった。
「俺、息子の前なのに先に逃げちゃってかっこわるかったよね…」
と当時を振り返る秀綱であった。
それにしても正直に語り残さねば、颯爽とした活躍だけが記録に残っただろうに。
(『鮭延越前守聞書』)
- 46 :
- >>42
>しかし、それを何者がそう言ったかなど、糾明するような事もしてはならない。
・・・正純さん
- 47 :
- >>42
200年以上安定をもたらした初代はさすがだな。
>>45
余裕が無い状況って分かってるのに参戦したがる15歳って凄いな。さすが武家の子
- 48 :
- 悪い話を一丁。まとめにもないと思う。
関ヶ原の島津の退き口のとき、島津豊久は殿軍となって島津義弘を逃がし、
烏頭坂(岐阜県大垣市上石津町)で討ち死にしたというのが定説である。
だが異説によると、このとき豊久は生きていたという。
重傷を負った豊久は、生き残りの薩摩兵の手で近くの集落まで運ばれた。
この集落には七軒の家があり、薩摩兵は豊久の治療のため一軒一軒訪ね歩いたが、
関わりあいを恐れた村人は中に入れようとしなかった。
豊久は間もなく息を引き取り、亡骸は荼毘に伏され集落の近くに埋葬された。
そしてのち、この集落は明治まで続いたが、決して栄えることなく七軒のままで
あった。さらに豊久の墓のまわりには草木も生えなくなった。
これは豊久や薩摩兵の祟りだという。
この異説にはさらに別の説がある。村人は豊久を家に入れて必死で手当てをしたが、
村人に後難が降りかかるのを忍びなく思った豊久が自刃したという話である。
あなたならどの説を採る?
- 49 :
- あれ、異世界に漂流したんじゃなかったか
てのは冗談として、槍玉に挙げられたってのが本当なら普通そこで死んでそうだが
- 50 :
- 下国師季は謎が多い。
彼は安東家政の孫であるという。家政は1457年のコシャマインの乱の鎮圧にも参加した人物で、
1501年に没した。
またその子で師季の父に当たる家季は父家政より早く1492年に没したらしい。
よって師季は1490年前後の生まれのようだ。それから1563年に没しているので70歳以上は生きているなかなかの長寿。
問題は師季の妻だ。
師季は蠣崎季広の二女を妻にしているのだ。蠣崎季広は1507年生まれである。
長男の舜広は1539年生まれで、長女の嫁いだ南条広継は1529年生まれだから、
概ね二女の生まれはこの間の1530年代半ばくらいだろう。
となると、二人の年齢差は40歳以上…?
しかも二人の間には重季という子供もしっかり生まれている。
戦国時代の加藤茶とでもいうべきだろうか。
- 51 :
- >>50
山口直友パート2くらい言ってあげなよ。w
- 52 :
- 小少将と長宗我部元親は小少将がうんと年上だそうだが、これはどう呼ぶんだ
もっとも産んだ異父兄弟の年の差が40以上という無理ある話だが
- 53 :
- >48,>50
ドリフターズだな
- 54 :
- 加藤茶は現代だから注目されるけど
昔は年齢差が大きい結婚が多そうだよね
- 55 :
- 13歳くらいで嫁いだものの、高齢の夫に興味持たれないまま先立たれて、手付かずのまま生涯を終える姫とかいそうだよな
- 56 :
- >>54
そこそこ身分の有る人間が年寄りになると、
「あの方も寂しかろう」つうて勝手に周りが十代の下女兼愛人を世話してくれる時代なんだよなあ
- 57 :
-
松平信綱は大下戸であった。対して土井利勝は大上戸であった。
信綱は「天下の老中でありながら酒を飲むなど…」と心の中で誹った。
ある日、老中たちが神田橋を通った時、一人の酔っ払いが
ヨロヨロとみっともなく歩いていた。
これを見て「良い機会だ。利勝を困らせよう」と思った信綱は
「大炊殿大炊殿、向こうを御覧なされませい、見事な伊達歩みですぞ」
と言った。
すると利勝は「伊豆殿、御嗜みなさい。下戸が酒に酔うことほど
見苦しいことはありません」と返したので流石の信綱も返答できずに
困ってしまった。
――『名将言行録』
- 58 :
- 土井さんは大上戸だったのか
めんどくさい人たちが揉め事起こしたら
ベロンベロンに酔わせて権現様と錯覚させて解決させてたかも
- 59 :
- 飲まなきゃやってられないんだろう。
- 60 :
-
_,,..,,,,_ ,,_ ,,_ ,,_ ,,_ _∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧_
/ ●ω・ ヽ ヽ.ヽ ヽ.ヽ > そ、その動きは伊達歩み!<
l l .l l .l l  ̄∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨ ̄
`'ー---‐´‐´‐´‐´‐´
- 61 :
- いもむし!?
- 62 :
- 伊達巻かと
- 63 :
- ナルホド。がってん合点
- 64 :
- 色的にずんだ餅の材料かとおもった>イモムシ
- 65 :
- 後ろはまーくん色に染まった家臣団です
- 66 :
- 発掘研究などから下国師季が茂別館を追われたのは永禄5年(1562)は誤りで、
永正5年(1508)が正しいらしい。
18歳くらいで城を奪われて蠣崎の庇護に入った己を恥じて長く妻は娶らなかったのかな?
- 67 :
- ところで蠣崎氏といえば、二代当主の蠣崎信広って
若狭武田家という名門の子息として生まれる→出奔→南部家ののち蠣崎家へ
→コシャマインの戦いでアイヌの反乱を鎮圧→蠣崎家の婿養子として後を継ぎ、蝦夷地と樺太をおさめる
なんか御曹司島渡の貴種流離譚そのまんまのような
- 68 :
- >>64
原材料イモムシってそれ何処のゲテモノすぃ〜つ…。
>>60
見ようによっちゃずんだ豆?眼帯した豆キャラクターにしたら売れるかなw
- 69 :
- >>67
全般的にテンプレみたいな話ばっかだよね、蠣崎の歴史。
松前守護の安東恒季は粗暴で無実の民をRこともあったという典型的な暴君。
で、訴えられて安東宗家に滅ぼされる。
跡を継いだ相原季胤もアイヌ人を人身御供にしたとかでアイヌに滅ぼされる。
最終的に蠣崎氏が全部接収してるから、実は全部蠣崎が仕組んだことじゃね?とも言われてる。
- 70 :
- 全部は秀吉あたりに出仕する時にでもでっちあっぷした後付だなきっと
- 71 :
- 何となく意味は分かるが日本語になってねぇ
- 72 :
- 【テレビ】NHK「14年大河」ホントは「島津義弘」だった
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1351326083/
ソース:Infoseek ニュース/ゲンダイネット
http://news.infoseek.co.jp/article/27gendainet000177457
- 73 :
- <朝鮮出兵がネック>
3週連続で1ケタ台の視聴率にあえいでいるNHK大河「平清盛」。
21日の放送は関西地区で7.5%(ビデオリサーチ調べ)を記録し、
またまた過去最低を更新。最終回(12月23日)まできっちり放送するというが、
クライマックスの源平合戦を待たずして“討ち死に”状態である。
早くも話題の中心は次の大河に移っていて、13年は綾瀬はるか(27)主演の「八重の桜」、
14年は岡田准一(31)主演の「軍師官兵衛」と先日発表になったが「本当は『島津義弘』が当確だったが、
二転三転し、黒田官兵衛になった」というのはNHK関係者だ。
14年大河を巡っては、発表の1カ月前にも一部スポーツ紙が「明智光秀が有力」と報じている。
しかし、フタを開けたら「官兵衛」になっていた。舞台裏で何があったのか――。
島津義弘は、織田信長や豊臣秀吉と同世代に活躍した薩摩の戦国大名。
島津家中興の祖といわれた第15代当主・貴久の次男で、兄の義久を助けた島津家最強部隊の将だ。
関ケ原の合戦では300足らずの兵で敵中突破したことで有名。
他にも、文禄の役と慶長の役で朝鮮へ出兵し、明の大軍相手に
勇敢な戦闘力を発揮したことで知られる。
- 74 :
- 「その豪快なエピソードがネックになった。朝鮮出兵は義弘公の見せ場のひとつ。
“鬼島津”と恐れられたという資料も残っている。絶対に外せないシーンだし、
申し分ない“山場”です。が、8月に勃発した竹島の領土問題で日韓が揉めている中で、
局内から難色を示す声が出た。物議を醸すような事態を避けたわけです」(NHK関係者=前出)
義弘公の地元・鹿児島は県を挙げて大河の誘致活動に積極的だった。
数年前には鹿児島にゆかりのある人物でRュしようと署名活動までし、
09年には「観光かごしま大キャンペーン推進協議会」を発足させ、
昨年10月にNHKへ要望書を提出していた。
大河の舞台となった地元への経済効果は絶大で、
08年の「篤姫」は鹿児島県内に262億円をもたらした。
コトなかれ主義で弱腰なNHKと野田外交に振り回されては、
義弘公もいい迷惑である。(了)
- 75 :
- ソースはゲンダイネット、はい解散。
- 76 :
- NG余裕でした
- 77 :
- ゲンダイはおいておくとして朝鮮征伐はタブー化されてるよね漫画でもドラマでも。
- 78 :
- どうせ嫌々出兵してあっちの義兵とやらにコテンバンにやられたけどなんとか撤退できたみたいな流れにされるんだろうな
大河にするなら義久の方がいいと思う
自分は目立たなくても弟たちを上手く指揮した名将ってことでどっかの総理たちに見習ってほしい
- 79 :
- 清盛で儲けられなかった兵庫へのお詫びだと思ってた
- 80 :
- 鮭延秀綱の回想は誇張がなく、戦国武士の実際がわかるようでなかなか興味深い。
軍記しか材料がなく、わかりにくかった最上家の状況も、彼の証言によってあきらかになる部分もありそうだ。
22の歳に主君大宝寺義氏を失った鮭延秀綱だが、その後最上義光配下に入るのはご存じの方も多いであろう。
しかし、その課程には軍記と実際でかなり差があることがわかる。
「最上の鮭延攻めおよび秀綱拒否の動機」
軍記:
義光の優れた武勇と威光によって出羽はほぼ最上家支配下に入ったが、
気位の高い若武者・鮭延秀綱(16)は抵抗した。出羽統一のため、義光は鮭延へ出兵することとした。
秀綱の回想:
大宝寺家に仕えていた鮭延城主秀綱(24)は、二年前主家の滅亡にあうも、大宝寺にかわって
庄内を支配するようになった東禅寺筑前のはからいにより、城を確保できていた。
東禅寺は最上義光に接近し、義光もこれに応じて庄内攻めをしたいと考えた。
しかし最上と庄内のあいだには鮭延がある。
(庄内の)鮭を獲るためには鮭延をまず攻めよということで、義光は庄内攻めの先頭に立つよう依頼。
しかし秀綱は、「庄内あっての鮭延、なのに味方できるか」と拒否。
これを受け、延沢満延によって鮭延攻めが開始されるのであった。
「秀綱の夜襲」
軍記:
鮭延城を包囲した最上勢は、夜間水くみに出る鮭延勢を待ち伏せて攻撃していた。
そこで秀綱は一計を案じ、取水部隊に中に強者をひそませ逆襲、最上の武田兵庫を討ち取ったのである。
義光は秀綱の知勇に感じ入り、これに懲りて持久戦に切り替えた。
秀綱の回想:
秀綱はわずか三百で粘るが、最上側は氏家守棟も投入。
事態の打開のため、守備側は夜襲を思いついた。
秀綱は「よし、俺が偵察してくる」と自らこのとき城外に行くが、帰り道に敵だと勘違いした味方に襲われ、
あやうく同士討ちするところであった。
こんなに苦労したのに、戻ってみると「夜襲はやめましょう」とあっさり却下されてしまうのであった。
(つまり、実際は夜襲そのものがなかったと思われる)
「決着」
軍記:
いよいよ落城間近となったとき、秀綱たち一行は夜陰に乗じて城外に脱出した。
城を落としたあと、物資の尽きた様子を見た最上勢は「これなら力攻めしたら楽勝だったな」と感想をもらす。
しかし義光は「秀綱は見所があるから、敢えて見逃した。いずれ私のもとに来よう…」と言うので周囲はその度量と先見の明に感心した。
この言葉通り、秀綱は落城間際に庄内の大宝寺をたよって落ち延びたが、大宝寺滅亡後最上家に仕えるようになった。
秀綱の回想:
降着した事態は義光の根回しによって新たな局面を迎える。
秀綱が庄内の援軍を頼りに粘っていると考えた義光は、庄内の小野寺家から説得してもらうことにした。
秀綱本人は頑なであったが、小野寺家の説得を受けた家老が秀綱に意見し、ついに降伏して最上家に仕えることとなった。
こうして比較すると時系列が逆転していたり、夜襲をかっこよく描いていたり、義光の度量を強調している。
また、秀綱は武将の意地よりも庄内からの援軍を頼りに抵抗しているとわかり、
理想論だけではない戦国武士の現実的思考がわかるといえよう。
(『鮭延越前守聞書』)
- 81 :
- 秋山虎繁の矛盾
伊那郡代の武田家臣、秋山虎繁。
彼は信玄の西上作戦の折、別働隊を率いて東美濃に侵攻、遠山夫人おつやの方を誑し込んで岩村城を落とす活躍をしたと言われる。
しかしその一方で、信玄とともに三方原の戦いに参加したという記録もある。
あるぇー、どっちだあ??
しかも前者の場合、当初から同盟者信長に対して断交を宣言するものであり、上洛して天下を取ることを視野に入れた行動であったことを示すが、
後者の場合、あくまで狙いは徳川領の奪取だったということになり、その違いは大きい。
…どうやら答えはどうも後者のようだ。
秋山はずっと山県昌景と行動をともにしており、一緒に信玄と合流したという。
では岩村城はどうなったのだろうか?
実は信玄動くの報を聞き、自ら武田側に寝返ってしまったのが真相のようである。
また城主遠山景任は信玄が動くより以前に病没していたという。
そして岩村城に武田方から援兵として送られたのが秋山…ではなく、下条伊豆守という武将であった。
この後行われた上村合戦というのも裏切った遠山夫人に対する他の遠山一族との戦いだったようだ。
秋山虎繁が美濃に向かい岩村城に入るのは三方原の合戦も終わり、信玄が死ぬ直前になってからのようである。
各書物もこれを裏付けるような記述が見られる。
『甲陽軍鑑』においては「馬場信春が岩村城を落とした」など間違いはあるものの、
三方原の合戦の後「徳川の陣に織田家の平手らがいたのはうちへの敵意の表明だよな?」と言ってここで断交を宣言。
その後馬場が岩村城を落とした後、秋山が入城したとしており、流れ自体は概ね合っている。
『三河物語』にも武田軍は手引きをする者がいたので東美濃へ向かうことにしたとあり、
遠山夫人の裏切りを示唆している。
- 82 :
- 岩村城みたいな前線の重要拠点がろくに調略もされていないのに裏切るって、
そりゃ信長は怒り心頭にもなるだろうなぁ。まともに調略された武田崩れの時の木曽よりもアレかも。
しかも、場合によったら織田が武田崩れのような連鎖的造反になっていたんだものなぁ。
- 83 :
- だから逸話をだな
- 84 :
-
徳川家の家臣である小栗又一は己の武功を誇り甚だ人を軽蔑し、
多少の誉れのある者なら「米数米数」と言って嘲っていた。
ある時、又一は勝れた武功があってもそれほどの増地がないのに、
久世広宣と坂部広勝が知行を多く賜ったことに腹を立てていた。
そんな時に又一と広宣がばったり出くわした。又一は腹を立てた顔で、
「お前たちは何事をして、多分の御加増を取ったのだ」と言い咎めた。
これに広宣は「この耳たぶが厚いので御加増を取りました」と、自分の耳を
引っ張って見せた。これには流石の又一も白けて笑いながら通り過ぎた。
人々は「広宣の挨拶は奇妙だ」と感じあったという。
――『名将言行録』
- 85 :
- >>84
あっとちょっと訂正を
×これに広宣は
○これに広宣は笑って
- 86 :
- おつやの裏切りは武田にとってもプラスになってないんだよな。
これのせいでなし崩し的に織田と敵対する羽目になり、後の滅亡に繋がるわけで。
もっともあちこちに「俺近いうちに上洛するから」って宣伝しまくってた信玄にも問題があるわけだけども。
- 87 :
- 天正十二年、最上義光は天童攻略にかかり、十月にはついに城が落ちた。
ちりぢりになった天童家臣のうち、藤の山大膳ら十六人は、慈恩寺をめざし落ち延びていくこととなる。
一行は溝延の渡しまで来て、船頭に話しかけた。
「おーい、向こうへ渡してくれんかあ」
「山形から落人は渡すなと命令されていますが、見ればあまりにお気の毒なことで。
小さな舟ですが乗せましょう」
この言葉に安堵した一行は我先にと舟へ乗り込む。ほどなく岸につこうとしたところ…
事件は起こった。
なんとあの船頭が舟のふちにあがり揺さぶり、次から次へと落人たちを水へと落としたのである!
落ちたほうはたちまち溺死してしまった。
船頭が義光配下であったのか、ただ単に恩賞にでも目がくらんだのかはわからないが、
地味ではあるが後味の悪い話である。
(『天童落城並仏向寺縁起』)
- 88 :
- 天正19年(1591)、豊臣秀吉の奥州仕置への大きな反発の一つとして勃発した九戸政実の乱。
要害である九戸城に籠る政実に、浅野長政、蒲生氏郷などを中心とする6万の豊臣軍はこれを攻めあぐね、
戦線は膠着した。
そこで南部信直の献策により、浅野長政は九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者として
九戸城に送り、書状を以って九戸政実にこの様に申し入れた
『九戸がこのように籠城し、諸人をあい煩わせているのは意味のない行為です。何故なら、天下を敵に受けて
どれだけ防ぎ続けたとしても、どうして本望を達せられるでしょうか。終には城を攻め落とされて、皆々殺戮され、
一門郎党までも滅亡するでしょう。
ただし九戸は元来天下に対して逆意を持っているわけではありません。であれば速やかに降参し、前非を改め、
京に上がって右の趣を弁明すれば、秀吉公もきっとお赦しになるでしょう。その上私を始めとする諸大名があなたを
弁護するので、死罪、流刑ということには決してなりません。
よしなき謀反人となって一門が滅亡するよりも、戦をやめ降人となってどうか城より出てください。
しかし、もしこれに同心無いのであれば、致し方なく攻め果たすでしょう。』
これに九戸政実は動揺した
「その通り、私は元来天下に対して逆心があるわけではない。弾正殿(長政)さえ納得しているのなら、降伏したものを
死罪や流罪にまですることはないだろう。
それに、私自身の身の上はどうなっても構わない。だが心に懸かるのは11歳になるわが子亀千代のことである。
あの子が生き延び、どこの野の末、山の奥であっても健やかに生活していけるのなら、私はこの首を斬られても
少しも厭わない。」
これに対し政実の舎弟・彦九郎実親は
「殿の仰ることは尤もだと思います。ですが上方の習いとして、弓矢で以って敵を討つ事はせず、ただ謀略ばかりによって
骨折りすること無く人を倒すといいます。去年北条殿も、そのように謀られたために、小田原の城は落ちてしまったのです。
その上、仮に弾正殿が赦したとしても、私達が直接反旗を翻した南部信直が私達を許すでしょうか!?
侍というものは、死すべき場所で死なねば必ず後悔するものです。
今、この城を枕に潔く討ち死にすれば、名は後代に残り滅亡したあとも人々はその薫香を感じてくれるでしょう。
殿はこれをどうお考えか!?」
そう、はばからず発言し、これに九戸家中は、さもありなんと押し黙った。
しかし使者の薩天和尚はこれに
「彦九郎様の仰ることも一理あります。しかし弾正殿ほどの侍が、出家であるこの私に対し偽るとは思えません。
それに降参すれば命を助けると仰った以上、南部信直も自我を押し通して殺害するようなことはしないでしょう。
とにかく天下を敵に請けて、万が一にも遁れられません。一人の覚悟のためだけに万人をRというのは、仏神の
咎も深いものです。一旦敵に下り、身命を全うし子孫の後の繁栄を図るのは、これもまた孝行の道ではないでしょうか。
どうか恨みの心を止めて、これをお請けなさるべきです。」
この言葉に九戸政実の遂に、降伏を決めた。
当然、長政の嘘である
九戸城の本丸は蒲生氏郷が接収し、籠城衆はみな二の丸、三の丸に移された。九戸政実は重臣たちとともに
九戸城を出て浅野長政の陣に出頭した。
ところがここで彼らは「降人の作法である」と武器を剥ぎ取られ、囚人のように一ヶ所に監禁された。
「騙された!」
もう遅かった。
- 89 :
- 蒲生氏郷は「九戸の者で城から落ちようとするものがあれば、すべて殺せ!」と命じた。
政実の舎弟・彦九郎実親は降人に出ず、一人であってもこの城を守って自害しようと思い定めていたが、
浅野長政から様々に『命においては問題ありません。どうか下城してください』としきりに勧められたため、
疑いつつも本丸を降りて二の丸に至ったところで、蒲生氏郷の軍勢が本丸より銃撃し、撃ち殺された。
そして殺戮が始まる。
哀れを極めたのは九戸政実の北の方と子息・亀千代である。
城内に敵が乱入したため途方に暮れ、北の方は亀千代の手を取り落人に紛れ城の外に出た所を、蒲生軍に捕らえられた。
そして氏郷の陣に引き連れられると、氏郷は外池甚五左衛門に命じた。
「首を刎ねよ」
母子を後方の森に引き出し、甚五左衛門が太刀を取り後に回ると、北の方は
「少し待ってください。心静かに最期の十念をしてそれから討たれたいのです。」
そう言うと泣きながら亀千代の側まで近づき
「どうか、未練に見えないようにしなさい。西に向かって手を合わせ、南無阿弥陀仏と唱えていれば、必ず浄土に
迎え取られますよ。」と教えすと、亀千代はおとなしく合掌し、念仏を唱えながら言った。
「早く討たれよ」
そう言われて外池甚五左衛門は彼の後ろに回ったが、誠に容顔美麗な子供が、細い手をあわせて畏まって居るのを見ると
さすがに哀れだと感じ、暫く討つことが出来なかった。
この姿を見た者達、涙を流さぬものはいなかったという。
北の方は言った
「私から斬られるのが順というものでしょう。ですが、幼い者が母を討たれるのを見れば、きっと驚いてしまうでしょう。
先ず、その子を早く斬ってください。」
この言葉に外池は太刀を振るうと、亀千代の頸は前に落ちた。それを見た北の方は守り刀を取り出し自害した。
外池は母子2つの首を取って氏郷のお目に懸け、氏郷から弔うようにと、菩提寺である長光寺に送られた。
九戸城の二の丸に押し込められた九戸一族郎党は、四方より火をかけられ、猛火の中逃げでてくる者達は
弓・鉄砲・槍・長刀にて討ち取られ、刃を恐れ逃げる者達は、焔に巻かれ焼け死んだ。
老若男女の泣き叫ぶ声は天に響き、目も当てられぬ有様であった。
数代にわたって繁栄した九戸も、忽ちに一時の灰塵となって失せたのである。
(天正南部軍記)
九戸政実の乱、処分の?末である。
- 90 :
- 九戸政実の乱と肥後国人一揆については、ちょっと悪い話どころじゃないよな。
- 91 :
- 時勢を読めなかったってことなんだろうなー
- 92 :
- 名門でも無い雑魚大名は皆殺しがデフォだな
秋月が赦されたのが例外中の例外
楢柴パワーのおかげ
- 93 :
- 秋月は平家方に味方して大宰府現地長官の地位を追われた人の末裔
- 94 :
- ああ、すごく悪い話だな
- 95 :
- 汚いなさすが南部きたない
- 96 :
- >>50>>54
歳の差婚なら
家康(1543年生)の最後の子を産んだ英勝院(1578年生)は35歳差。
子を産んでない側室で一番年が離れてるのは、英勝院の侍女上がりの養儼院(1597年生)で54歳差。
親子の差どころか孫と同年代の側室www
年齢的に側室になったのは、早くても数え歳13(1609年)としても家康が満66歳の時。
大坂冬の陣(家康、満71歳)に養儼院を連れてきてるwwから、家康はほぼ生涯現役だったんだろうな
- 97 :
- 北海道駒ヶ岳の名の由来
道南十二館のうち大館の主で松前守護でもあった安東恒季は行状が悪く、訴えられて宗家檜山安東忠季の命による蠣崎光広の攻撃によって滅ぼされた。
その後は小館領主の相原季胤が松前守護の代理を務めることになった。
その頃海難事故が多発し、季胤は頭を悩ませていた。
ある時老占い師に「これは矢越岬の海神の怒りである、人身御供を捧げて怒りを鎮めるべし。」と言われた。
そんな怪しい神信じられぬと季胤は思ったが、恒季時代からの家臣である村上政儀に押し切られて実行することにしてしまう。
しかしそうは言っても誰を生贄にするか迷った。
領民から選ぶのも家臣の一族から選ぶのも気が引ける…。
しかし、そこで政儀は進言する。
「アイヌ人を人身御供にしちゃえばいいじゃん。」
こうしてアイヌ人の娘を20人ばかりさらってきて海に沈めてしまった。
これにアイヌ達は激怒。
大軍を率いて大館小館を囲んだ。
村上政儀は討死し、ついに落城。
季胤は二人の娘を連れて大沼へ逃れるが、逃げ切ること能わずと悟り、娘とともに入水して果てる。
この時乗っていた愛馬の鞍をとき、山へ逃れるよう言い聞かせた。
その馬は狂ったように啼き叫んだかと思うと、瞬く間に山へ駆け登った。
以来その山を駒ヶ岳と呼ぶようになった。また季胤が外した鞍を掛けた岩を鞍掛岩と呼ぶようになった。
その後も季胤の馬は生きていて、入水した7月3日になると馬の嘶きが聞こえるという。
- 98 :
- 自分を人身御供としたいい話
- 99 :
- 天正十二年、最上義光は夏から天童攻略のため調略にかかり、延沢満延はじめとする天童八楯らが次々と寝返った。
そして十月、かつての天童家臣である延沢勢はじめ敵が押し寄せる中、いよいよ天童城もこれまでかと思われた。
そのとき家老の成生伯耆守の家臣たちが城に火を掛けた。
伯耆守は急ぎ城に入ると、出羽奥州探題の系図を持ち出したのであった。
天童城下は炎に包まれ、怒り狂った天童勢は義光本陣松木清水へ攻め込む。
義光はすぐに畳石まで陣を退いたため、深入りした天童勢は次々と志村光安らに討ち果たされた。
失意の天童城主頼久はわずかな供とともに奥州へ落ち延び、天童衆たちもまたあるいは討たれ、
またほうぼうの寺に逃げ込み、そこで僧たちに落城の経緯を語り書き記すよう頼んだという。
のちに頼久擁立と天童家復活の試みもあったが、最上の残党征伐によってこの望みも潰えることとなる。
さて燃えさかる城から系図を持ち出した家老の成生伯耆守は、そのまま義光のもとへとはせ参じた。
義光は系図を手に入れ大層喜んだ。伯耆はこの功に応じて天童城を得られると思っていたが…
「他の者ならいざしらず、おまえは天童代々の家老であるにも関わらず心変わりした。いかがなものか。
城はやると約束はしたが、焼け跡は愛宕堂にしようと思う。おまえは命は助けてやるからどこへなりとでもゆけ」
と、足軽を護衛につけて放逐してしまった。
同じく寝返った蔵増安房守も、天童と縁が深いため義光は軟禁しようと考えたが、
約束した小国城をその子に与え、身柄を子に管理させることとした。
(のだが、のちに許されたのか安房守は最上家臣になっている)
これは寝返った家老でも切腹させないいい話ととるべきか、はたまた約束を裏切った悪い話とみるか…。
(『天童落城並仏向寺縁起』)
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