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2012年09月軍事83: 【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】 3 (515) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】 3


1 :2012/09/06 〜 最終レス :2012/10/27
モンゴル帝国が2度にわたって鎌倉日本に大敗した元寇を軍事的に考察しましょう。
前スレ
【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】 2
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1341220030/

2 :
復活

3 :
例のageて長文書く人はスルーの方向で

4 :
威力偵察名目の棄民戦略にすぎないモンゴルになんとか神威で勝っただけで
やーやー我こそはのパフォーマンスコンクールしてたガラパゴス武士が強いわけが無い
八幡関連と武家の報告で食い違いがあるのはそれぞれ別の戦いを記述してるだけ
武家は後半の負けを報告していない

の人か

5 :
待ってました!
左巻自虐史観の妄想"定説"じゃなく、純軍事的な検証がしたいね

6 :
>威力偵察名目の棄民戦略にすぎないモンゴルになんとか神威で勝っただけで
理解が足りないね。
>棄民戦略にすぎない
弘安の役はいざ知らず文永の役に棄民も屯田もない。
>なんとか神威で勝っただけで
神威もなにも、文永の役は勝っていない。
水城に撤退して博多箱崎を明け渡したのを勝ちとは言えない。
元軍も撤退したからいいとこ引き分け。
>武士が強いわけが無い
あの戦い方でも引き分けに持ち込んだのは武士の強さだ。

7 :
南無八幡大菩薩

8 :
師説を覆せない日本歴史学会の馬鹿学者共にはほとほと呆れ返る

9 :
>>7
八幡と言えば
室町幕府は八幡(源義家)の子孫であることから将軍就任の正当性を確保した都合で
八幡愚童訓を否定して元寇の再検証するのは難しかったんだろうな
江戸幕府(というか家康)にいたっては系図を(ry

10 :
>>8
師説ってなに?

11 :
まあ武士に痛撃を与えてこれで鎌倉の奴らもビビって服属するだろと思って兵を退いただけで負けてはいない
作戦目標を達しただろww

12 :
服属するだろうと思って撤退したなら、服属しなければ作戦目標を達成したことにならんだろ。
知恵遅れかお前

13 :
「官軍整わず矢尽き」て撤退したと元軍自ら認めてるのに、
さらに撤退中に悪天候で多数が溺死してるのに、
それを元軍勝利と言う連中は頭がおかしいの??

14 :
>>13
日本人の優秀さを世に出したくない人達がいるから

15 :
>>11
「入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰」
元史の記述だととても元軍が戦略目標を達成していたとは思えない
日本軍は破った、「而」(それなのに)軍の編成が乱れ矢も尽きたので、
「惟」(ただ)捕虜を捕まえあたりを略奪するだけで帰った、とわざわざ書いているのだから
遠征が思うように進まず、作戦中途での撤退を強いられたことは疑いようが無いだろう

16 :
威力偵察名目の棄民戦略にすぎないモンゴルになんとか神威で勝っただけで
やーやー我こそはのパフォーマンスコンクールしてたガラパゴス武士が強いわけが無い
八幡関連と武家の報告で食い違いがあるのはそれぞれ別の戦いを記述してるだけ
武家は後半の負けを報告していない
モンゴルは作戦目標を達成して帰った

17 :
普通は苦戦したら2度もモンゴルに攻め込もうと考えないよな
モンゴルが思いのほか弱かったから、逆に攻め込もうと考えたんじゃないのか

18 :
文永の役って結局博多はどうなったの?

19 :
>>18
博多は一時的にも占領された記録がない(別の寺や神社もあったのに)
箱崎に小規模の元軍別働隊が上陸して八幡宮を焼いて慌てて逃げ帰ったのは確からしい

20 :
上陸地点が早良郡だとすると博多の町まで来れて無いんじゃないかね

21 :
でも学者大先生方は文永の役はボロ負けだったと書くぞ
そんなボロ負けした連中が高麗征伐しようとか言い出すのもおかしな話だなw

22 :
>>15
それでいいと思うよ。
日本軍は元軍を鎧袖一触、海に追い落とすつもりだっただろうがそうは行かず、
大損害を出して水城へ撤退、博多箱崎を明け渡す、
元軍は出来れば水城大宰府まで行くつもりだっただろうが、思ったより日本軍の
抵抗が強くて損害も出たので、先の見通しが立たず1日で撤退。
だから引き分け。

23 :
「中世都市・博多を掘る」を見ると、当時の博多の地図が出ている。それを見て、今までの
自分の考えを改めたところがあった。
赤坂山は内陸にあったと思っていたが、違った。赤坂山は海に突き出た小半島だったのだ。
これを赤坂半島と仮に呼ぶ。
赤坂半島の東にある博多は海に突き出た砂洲だった。これを博多半島と仮称すれば、博多半島
と赤坂半島の間は入り江で、徒渉不可能だった。だから竹崎は住吉神社の前を通って入り江の
奥を迂回して赤坂へ行った。
赤坂半島の西には仮称・祖原半島が海に突き出ていた。祖原半島の北岸の砂浜(百道原)は横に
伸びて、赤坂半島との間に鳥飼の塩干潟を囲い込んでいた。
祖原山は上記・祖原半島の付け根にあった。だからこれも内陸とは言えない。
さて鳥飼の塩干潟は当然ながら干満があった。「文永十一年・冬の嵐」によれば当日の干満差は
約1.5m、干潮は午前6時、満潮は昼12時であった。満潮時は徒渉不能になり、もはや戦場には
なり得ない。
福田兼重らの武士たちは、菊池勢が敵を追い払った赤坂半島を基点として、鳥飼の潮干潟を渡って
百道原の砂浜に突入したのであろう。そしてその戦いは鳥飼潟が徒渉できる時間帯、恐らく午前十時
ごろまでのことだったのである。

24 :
>>22
引き分けの訳ないだろ
鎌倉側の勝利条件は侵略軍の撃退なんだぞ

25 :
そりゃそうだけどさ
敵主力をフルボッコしないと勝った気がしないのが人情ってもんだ
川中島の戦いだって武田の目的は北信濃の防衛なんだから戦略的には完勝してるのに
何故かいまだに引き分けみたいな話しになってる

26 :
てか戦闘での勝敗≠戦争の勝敗であることぐらいこの板の住人なら常識だろうに
日中戦争もナム戦も、戦闘で勝ってたかどうかは関係なく戦略目的を果たせなかった日本・アメリカの完敗だし、それは元寇も同じ

27 :
赤坂半島は砂洲ではなく、海面から聳える山であった。その海岸は砂浜ではなく、崖であった。
(したがって上陸適地ではないから、その後、防塁も築かれなかった)
鴻臚館は赤坂半島の突端、海を見下ろす景勝地にあった。それはベイビューホテルだったのである。
ただし、鴻臚館はこの時代にはもう存在していなかった。
「文永十一年・冬の嵐」は、その跡が城塞になっており、元軍襲来のときも日本軍が固く守っていた
と言う。「凶徒あかさかにぢんをとる」という蒙古襲来絵詞の記述も、元軍が赤坂を占領したという
意味ではなく、対向する攻撃陣地を築いたという意味だと言う。
だが本当だろうか。沖の浜に集結した武士たちが、「赤坂は馬の足場が悪い、どうせここまで攻め寄せる
だろうから、ここまで来たら犬追物の犬のように射てやろう」と言い合っていたという蒙古襲来絵詞
の描写からは、赤坂を守っていた別部隊がいたという様子は感じられない。
上に述べたように、鴻臚館跡は半島の突端で、博多との間は徒渉不能の入り江なのだ。いったん半島の
付け根を占領されれば、たちまちにして連絡が絶たれて孤立無援になる。そんな場所にわざわざ守備兵
を置いただろうか。少なくともそのように述べる史料はない。史料にないことは事実もない、という
流行りの論法に従えば、赤坂は無防備だった。

28 :
20日早朝、元軍はこの赤坂山を無血占領したのだ。しかし赤坂攻略の元軍は小部隊だったから、100騎
ほどの菊池勢に追い落とされた。上記赤坂の地勢から言って、菊池勢は、小半島の付け根から突端に
向かって、つまり南から北に向かって攻めた。追われた元軍は鳥飼潟を徒渉するグループと、入り江の
奥の陸地伝いに逃げるグループとに分かれた。菊池勢はそれらを打ち棄てて博多に帰った。
替わった竹崎勢はまず徒渉グループを追って取り逃がし、目標を変えて陸地伝いグループを追った。
期せずして攻撃方向は祖原山になった。竹崎勢は祖原山から下って来た迎撃部隊と戦って頓挫した。
その後を白石勢が継いで、迎撃部隊を祖原山に追い上げた。
では祖原山は落ちたのか? そのように述べている史料はない。ここでも、史料にないことは事実もない、
の論法を適用すれば祖原山は落ちなかった。福田兼重申し状を、元軍を祖原山から追い払って百道原に
撃退したと解釈する読み方は誤りであることを、日本史板の元寇スレに書いた。

29 :
太宰府を陥落させてたら武士の負けだろ

30 :
>>29
実際は陥落してないから武士の勝ちなんですけどね
>>9
偶然にもそこが八幡宮だったことが神風伝説につながるわけか
ぶっちゃけ八幡蒙古記(現地の神職が書いたやつ)の裏動機って
「うちだけ焼かれてむかつくぅ、こっちにも守備兵おいとかなかった武士の悪口書いちゃえ」だろ?w

31 :
前レスに>>19も追加

32 :
福田兼重申し状には「祖原山」の文字はない。福田勢は祖原半島の付け根にある祖原山の元軍を追い落と
して海岸の百道原まで追撃したのではなく、赤坂半島から鳥飼潟を徒渉して浜伝いに百道原に突撃した
のであろう。祖原山とは無関係である。
祖原半島の西には仮称・姪浜半島があって、同じように祖原半島との間に入り江を抱え込んでいる。
この入り江もまた潮干潟だったのであろう。一日に二度敵を破ったと言われる日田永基の二度目の突撃は、
百道原の浜を通り抜け、さらにこの潮干潟を徒渉して姪浜まで行ったのであろう。ちなみに日田永基は
このとき百道原で忠死し、戦後に子の基宗が替わって恩賞を受けたという言い伝えがある。
このような武士たちの浜伝いの突撃はそれなりに元軍を混乱させたであろうが、姪浜まで行ったところで
その奥には生の松原があり、さらに今津浜があり、これらにも元軍は上陸していた。武士たちの浜伝いの
突撃に対して、元軍は期せずしてとんでもない縦深陣地を敷いたことになった。
そのうちに潮が満ち始めると、武士たちは退路がなくなることを恐れて赤坂半島に戻り、攻撃は収束した。
満潮は正午だから、それよりかなり前、恐らく午前十時ごろまでのことである。
元軍もまた、浜伝いの進撃ルートがなくなっては海岸や半島部にいても意味がないので、おのずから
陸地部に進撃ルートを求めた。これまで各半島の海岸部で揚陸したり、日本軍に対応していた元軍は
陸地部に集結することになった。元軍のローラーが東に向けて回転し始めた。

33 :
いいかげんブログに書けよ

34 :
>>25
じゃあ秀吉の唐入りは日本の勝ちですか?っと

35 :
文永の役の日本側の戦闘記録としては鳥飼潟合戦の記録しかない、だからそれ以外の戦闘はなかった、と
いう説が流行っている。この説は、鳥飼潟合戦に敗れた元軍は百道原からそのまま撤退した、と続く。
だがこの考え方は大いに問題がある。なぜならば上に考察したように、満潮を考慮に入れるならば鳥飼潟
合戦は午前中の早い時間に収束したと考えられるからである。一方、高麗史には「諸軍與戦、及暮乃解」
つまり高麗軍と蒙漢軍がいっしょになって日暮れまで戦った後、自然休戦に至ったと書かれている。
「鳥飼潟合戦しかなかった説」と高麗史とを両立させるならば、お昼前から夕暮れまでに至る長い時間帯が
ぽっかりと空いてしまう。これは明らかにおかしい。
しかしその空白の時間に関する、日本側の記録がほんとうにないのかと言えば、八幡ノ蒙古記がある。
八幡ノ蒙古記は、「されども蒙古次第に強く、勝ちに乗じて攻め来、今津、佐原、百道、赤坂まで乱入
して、松原の中に陣を取りてぞ居たりける」と記述する。
これは上陸の進捗と軍の集結とによって元軍の勢力が次第に増強され、じりじりと東に向かって進撃して、
遂に赤坂に到達した状況を述べているであろう。そして八幡ノ蒙古記は、「軍(いくさ)、辰刻より始まり
しが、日も暮れ方になりしかば」と、武士たちが懸命に戦った後、夕方に及んで戦意喪失したことを述べる
のである。空白の時間はない。
なお、上記、八幡ノ蒙古記が言う元軍の「赤坂松原の陣」は、蒙古襲来絵詞で菊池勢に追い落とされた赤坂
陣地とは明らかに異なる。
絵詞の赤坂陣地は、武士たちが沖の浜に集結したばかりのときにすでに出現していたのであるから、八幡ノ
蒙古記が記述する赤坂陣地のような、それまでの前段階がない。恐らく朝の早い時間に小部隊が取り付いた、
偵察陣地だったのであろう。だから菊池勢によって簡単に追い落とされたのである。

36 :
なぜ、捕まえたモンゴル人を奴隷にしなかったんだろう?

37 :
人類は奴隷制が成立するまでは、捕虜を皆殺しにしてた
取って食ったり

38 :
夕方に及んで武士が戦意を喪失した状況だったなら、
何で夜中に船を置き捨てて慌てて玄界灘を逃げてくのか疑問に思わんのかね…
そこから始まってると言っても過言じゃないのにさ

39 :
>>22
あなたが思ってるよりもっとはっきりした戦況だっただろうね。少なくとも蒙古側には。
夜間に撤退を決めると言うのは既に撤兵論が主流になっている状況と考えて間違いない。
対馬壱岐の攻防の段階で軍内部に早期撤兵論が出てた可能性もある。

40 :
文永の役の解説してるサイト見たら頭痛くなってきた
曰く、高麗はわざと船を脆く作った
曰く、元軍は勝ってたけど逃げる武士を追撃せず船に戻った
曰く、その夜ちょうど台風が来て脆く作られた船は沈んだ
完全に信じ切ってるのな

41 :
35が言うような武士が懸命に戦って敗北したという後半戦とやらが存在したなら
武士たちは負傷・郎党の戦死をネタに散々に幕府に恩賞を要求したはずだろうに。
負傷・郎党の戦死は、当時では勲功となる。だから、一人も蒙古兵を討ち取っていなくて
負傷だけした福田兼重の申状のようなものが残ってる。
弘安の役での武士の書状でも蒙古兵を討ち取った内容より郎党の戦死や自らの負傷に関する
書状が多いのはそのため。

42 :
>>38
>夕方に及んで武士が戦意を喪失した状況だったなら
日本軍が戦意喪失して水城に撤退していなかったら、一兵一馬も残さず見事に乗船させる
ことは不可能だったろうね。
交戦中の水際撤退はダンケルク、ディエップの様相になったはず。
>何で夜中に船を置き捨てて
どんな作戦にも犠牲はつきもの。
夜間に未知の海域で900隻(本船は300隻)のうちたった1隻の座礁で済ませたのは立派なものだ。
また、救助のためにそれ以上の犠牲が予想されるなら、打ち棄てるのも軍隊として当然の判断。
>>39
>夜間に撤退を決めると言うのは既に撤兵論が主流になっている状況と考えて間違いない。
元軍のなかで撤兵論が主流になっていたことは、全くあなたと同意見だ。
当夜撤退のの要因としては:
1)季節的に言って、はじめからどこで撤退したらいいかで頭一杯の遠征軍だったこと。
2)元軍もまた損害、損耗が大きかったと考えられること。
3)日本軍が撤退した当日の夜が、損害最小で撤退するための絶好機であったこと。
が考えられる。

43 :
>>41
言っている意味がわからない。
日本軍の戦死者や負傷者は、いま残っている恩賞関係の書状の数だけしかなかったと
言いたいのか?

44 :
>>43
お前が言うように後半戦が大規模な決戦で日本軍が敗北したなら
戦死や負傷をネタに幕府に恩賞を要求した書状が残っていないわけがないだろう。
お前が言うように前半が小規模な局地戦だったとして、なぜ小規模な局地戦だけ
負傷を誇る武士の書状が残っているのか疑問に思わないのか?
大体、蒙古襲来絵詞では鳥飼潟の戦闘以降、竹崎が戦場から離脱していたのにもかかわらず
お前が後半戦としている八幡ノ蒙古記の該当部分の「大矢野、竹崎、白石等、更により合て、さんゝゝに戦ふ」
と鳥飼潟の戦い以降に竹崎季長が戦闘に加わって戦っていたと捏造されてる。
ちなみに文永の役における竹崎の勲功に関して、安達泰盛の「分捕りや配下の討ち死にはあったのか?」との問いに対して
竹崎は「配下の討ち死にや分捕りはありません」と答えている。
つまり、八幡ノ蒙古記の「大矢野、竹崎、白石等、更により合て、さんゝゝに戦ふ」ような後半の大敗北戦とやらは存在しなかったし
竹崎季長もそんな戦闘の存在を認めていない。
それだけじゃない。お前が後半戦としている八幡ノ蒙古記での赤坂の戦闘では「菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、
かけいて、頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ」とあり、菊池武房以外は全員戦死したことになっている。
ところが、実際は菊池武房の弟の有隆・康成らは生き残っている。
ということは「菊池はかりは、うちもらされ」たような戦闘はなかったということだ。
そもそも、元側の高麗史に「諸軍與戦、及暮乃解」とあるように元軍が決定的な勝利を得れなかったことが
確認されるんだから、八幡ノ蒙古記のような戦闘と高麗史の戦況は合致していない。
どちらが嘘をついてるか、状況判断と冷静に客観的に見れば一目瞭然だな。

45 :
だいたい八幡蒙古記(それを下敷きにして京都で書かれたと思われる八幡愚童訓も)
白装束集団とか火柱とかあまりにも荒唐無稽すぎてさすがに当時の人間でも信じないだろう
これ八幡神宣伝が主目的ならもっと現実味もたせて書くんじゃない?

46 :
各地で小規模の日本軍VS 元軍の大軍
結果:各地で日本軍の大勝利

47 :
なんで元軍連戦連敗なんだ?
武士相手だと相性が悪い?

48 :
>>47
十分に訓練された兵士には簡単に勝てない
日本は訓練された兵士を大量に動員できた

49 :
>>44
>そもそも、元側の高麗史に「諸軍與戦、及暮乃解」とあるように元軍が決定的な勝利を得れなかったことが
>確認されるんだから、八幡ノ蒙古記のような戦闘と高麗史の戦況は合致していない。
それについては高麗史と八幡ノ蒙古記は一致している。
八幡の蒙古記は夕方に武士たちが戦意を失って個々に撤退し始めたことを記述するが、本来なら元軍はここで
追撃戦を行って、日本軍を一挙に壊滅させなければならない。しかし八幡ノ蒙古記はそのように述べていない。
元軍はただ眺めていたことになる。(劉復亨の小部隊を除いては)
元軍にももはや軍として追撃戦を行う余力が残っていなかったのだ。
これこそが「及暮乃解」つまり夕方の自然休戦の姿であり、その点において高麗史と八幡ノ蒙古記は一致して
いるのだ。
その他にも高麗史と八幡ノ蒙古記との一致点は:
*日本軍の損害が大きかったこと(高麗史の「倭兵大敗、伏屍如麻」と一致)
*劉復亨が矢傷を負ったこと(八幡ノ蒙古記では流将公、流と劉の中国語音は同じ)
*元軍が当日の夜に撤退したこと(高麗史に「劉復亨当流矢、先登船」は一連のできごとを思わせる)
などがある。
注目すべきは、細かいことは抜きにして戦いの大筋において、高麗史と八幡ノ蒙古記の間に基本的な
一致が見られることだ。
我々は慣れているからなんでもないことのように思うが、実はこれは重要なことである。
なぜならばこの二つの史料が、互いに相手を参考にした可能性はほぼゼロだからだ。
これは二つの史料が互いに裏付け合って信憑性を高めていることに他ならない。

50 :
>>44
>前半が小規模な局地戦だったとして、なぜ小規模な局地戦だけ負傷を誇る武士の書状が残っているのか疑問に
>思わないのか?
私は>>23 で、ある本で当時の博多周辺の地形図を見て考え方を改めたことを書いたが、重要なことを見落として
いた。そのことに昨日、気がついた。
後半戦が存在したとして、その戦場はどこであったかと言えば、それは祖原山から赤坂山にかけての一帯だ。
祖原山は朝の早い時間に占領されていたことを蒙古襲来絵詞が記述しており、その後これが日本軍の手に落ちた
という記録はない。
恐らく元軍に占領されたままであり、後半戦に於いては元軍の進撃の支点になったと思われる。
また赤坂山周辺は八幡ノ蒙古記の記述において、終盤の戦闘の主戦場であったことが窺われる。
この二つの山、ないし半島の間が、「後半戦」の戦場だったのだ。
ところで、>>23 で述べたように、この地域は全て鳥飼の潮干潟の沿岸である。つまり、このあたりをひっくるめて
地域名で呼ぶならば、それは鳥飼潟なのだ。これが「鳥飼潟合戦」という呼び名の由来と思われる。
このことから必然的に次の結果が生じる。
福田文書や日田文書のように、海岸部の地名が入っていれば、それは潮の干満から考えて朝方の戦闘に違いないが、
恩賞関係の文書に単に「鳥飼潟合戦」と書いてあるならば、それは朝方の戦闘か、それともいわゆる「後半戦」か、
判別できないのだ。
「後半戦なかった説」の唯一の根拠は、かくして消滅した。
なお、私は>>35 において私は「鳥飼潟合戦は満潮によって収束した」などと書いているが、これは上記のことに
気づく前に書いたものなので、>>35 の「鳥飼潟合戦」は適宜「浜伝いの戦闘」などと読み替えていただきたい。

51 :
>>49
補足:
八幡ノ蒙古記と高麗史の重要な一致点はもうひとつあった。それは:
*戦いが夕方まで続いたこと。
八幡ノ蒙古記は「日も暮れ方になりしかば」、高麗史は「及暮乃解」と、互いに一致する。

52 :
>>47
日本軍は世界有数の軍事大国であり、屈指の弓馬の兵であって、
銅鑼と鉦で進退する蒙古軍3万程度で勝てる相手じゃなかったから。

53 :
「銅鑼と鉦で進退する蒙古軍は整然とした集団戦術で強い」と言われるが、
練度も士気も低い徴募兵はそうでもしないと動かせないのだろう。
そもそも鳴り物による命令伝達はパターンも少なく、柔軟な行動ができたと
は思えない。
対して個々の武士団は、常日頃寝食を共にしている騎馬と徒歩の郎党の
主従集団であり、練度も士気も高く、阿吽の呼吸で手足の如く動けただろう。


54 :
ぶっちゃけたった三万で落とそうなんて舐めすぎにも程があるよな
元軍は順当に戦って順当に負けただけだろ

55 :
元の戦力見積りが甘かったとしか
遊牧民族じゃないから舐めててたのと
朝鮮あたりから後進国と聞かされて真に受けたんだろうね

56 :
騎馬民族VS戦闘民族

57 :
元て自分達よりも高性能な弓持った弓騎兵との集団戦闘って経験あったのかね

58 :
>>47
慶長弘安でも連戦連勝
十分に訓練された武士は強いんだよ

59 :
文禄慶長やった

60 :
台風16号がまた神風化してる

61 :
阿津賀志山の合戦で、鎌倉・奥州の両軍は大規模な土木工事を行い双方で4万とも5万とも言われる兵が激突した
承久の乱も奥州合戦も、鎌倉方だけで10万に近い武士が動員されている。元軍は30万でも厳しいだろう。つまり日本の征服なんて言うは易く行うは…せいぜい米軍だけだな

62 :
小さい島国で大国同士並みの内戦を何度もやってる修羅の国を
征服しようと考えた元が哀れ

63 :
元は渡海作戦だから不利だっただけだ
武士に大陸を席巻して大帝国を建設するような軍事力があったとでも思ってるのか?
そこらの原住民に負けて逃げ帰るのが関の山だ
世界帝国を築いていたモンゴルの水準は当時は他の国とは隔絶しているよ

64 :
彼の先祖が七代に渡り蒙古と強制混血した結果ああなってしまったのだ。
生暖かく見守ってあげなさい。

65 :
>>63
じゃ当時の世界の大国で高度な防御性のある鎧を着て、高度な弓射技能を持った騎兵10万
ならびにそれに準ずる専門の戦闘員20万を動員できる国家を挙げてみな。

66 :
渡海作戦だったから不利?とんでもない。
玄界灘があったから蒙古軍は日本軍の追撃から逃れられたじゃないか
陸続きだったら九州武士団は高麗南部に殺到して略奪の限りを尽くしとるわい

67 :
>>62
日本は北海道を除いて30万平方キロ。現在のドイツは35万平方キロ。
イタリアと同等、イギリスより大きい。生産力まで考えたら、ぜんぜん小さい島国ではない。
大国。

68 :
要するに当時の日本側(武士)を過小評価したい人がいるのね

69 :
重装備の鎧着た武士達に弓を幾ら撃っても死なないで
弓矢でハリネズミ状態の武士達が突進してきて
鋭い日本刀で鎧ともども真っ二つにされる友軍を見て
蒙古軍「こ、こいつら不死身の化け物か!」
って逃げたんだろ

70 :
鎌倉時代の日本とモンゴルを軍事的に見ると ほぼ互角 兵力は双方とも50万 武器に
関して言えば日本は軟鉄の鎧 兜 モンゴルは皮で出来た鎧 兜 皮ジャンパーを五枚
重ねた程度のモンゴル軍の鎧は日本刀の前にひとたまりも無かった モンゴル兵の刀は
長さ1メートル 幅10センチで騎馬戦には向いても相手の刀を受け止めるようには、なって
いない ましてや日本刀を受け止めたら真っ二つにされてしまう。
モンゴル軍の弓は200メートル の長距離を届くので皮で出来た鎧には有効だが 
日本の鎧は軟鉄の鎧なので凹む事は有っても 突き破る事は不可能 
事実 日本軍は鉄甲に身を固めているので弓が役に立たないと書いている
反対に日本軍の刀はモンゴル騎兵を鎧もろとも斬ってしまうと 日本を征服しょうと思えば最低
50万の兵力が必要 三ヶ月以内にもう50万の兵力を送らないと征服する事は不可能 これだけの
兵力を送る為には少なくとも一万隻の船が必要 それだけの船を造ればアジアの山はことごとく
はげ山になる。

71 :
混戦の中、無我夢中で戦ってる武士に背後から何度も斬り付ける蒙古軍兵士
「ドンッ、ドンッ、ドンッ」
しかし、武士は無傷なので背後を斬り付けられてる事を知らない
しかし、頑張る蒙古軍兵士
「ドンッ、ドンッ、ドンッ」
背後からドンドンとする音に気がついた武士
武士「何だお前は!ドンドンうるせぇーぞ!」
「ズバッ」 「ズバッ」
蒙古軍兵士「ギャーッ」
                          END

72 :
つーかその気になれば陸路より海路の方が大軍運びやすいだろ
当時は今みたいに海上で阻止とか不可能だし

73 :
現代だって海路が一番安価で大量に物を運ぶ手段だよ

74 :
久しぶりに元寇スレ覗いたら、未だに長文の仮想戦記書く人が一日中張り付いてんだな

75 :
パフォーマンスさんが元寇を愛している同好の士なのは分かるが、やや的外れな愛なんだな

76 :
でも>>49-51に誰も反論できませんっと。

77 :
そりゃどっちも引いて痛み分けでしたってだけなら誰も反論しないんじゃね

78 :
妄想に反論も糞もなかろう。
元軍がどこから上陸したかもわかっていないにもかかわらず、今津から上陸していたと
根拠も無く断定するだけではなく、元軍は縦横陣地を構築していたとしたり、さらに飛躍して
元軍はそこから進撃して、資料には無い「後半戦」があったと断定するなど飛躍に次ぐ飛躍ばかりだ。
武士たちの記録では元軍は赤坂から鳥飼潟、さらに百道原、姪浜と後退しているところまでは
確認できる。しかし、後半戦なるものがあれば、記録が残らないはずがないだろう。
まして、後半戦とやらがあったとして、当時戦死や負傷は勲功となるにもかかわらず
後半戦の戦死や負傷だけは触れないわけがない。触れていないということはそんな戦闘は
なかったのだ。
恐らく、蒙古襲来絵詞など八幡ノ蒙古記の戦況に都合の悪い資料をどう捌こうかと考えた末に
ひねり出した妄想にすぎないのだろうが。
例えば、此の人は八幡の蒙古記と蒙古襲来絵詞を無理矢理整合性をはかろうとした結果、
「竹崎五郎兵衛尉季長、天草城主矢野種保兄弟、船にかゝりしほとは、よくふるまひたれと」
のたった一文を以って、蒙古襲来絵詞の戦闘の該当部分と断定して蒙古襲来絵詞と八幡ノ蒙古記の
矛盾した戦況の整合性をはかっている。
しかし、どう読もうが文永の役で竹崎季長が「船にかゝりしほとは」などという海戦を行ったことは確認されない。
そこで、此の人はさらに飛躍と妄想で八幡ノ蒙古記の著者は前半戦はほとんど知らなかったに違いない、海岸での戦闘だから
海戦のように書かれているのだろうと苦しいこじつけで納得するしかなかった。
後半戦とやらがあれだけ生き生きとこと細かく描写している著者が前半戦だけは知らなかったなど都合の良い解釈に
過ぎないのだ。

79 :
ところがだ。何とか妄想と飛躍で蒙古襲来絵詞を捌いたつもりになったものの、八幡ノ蒙古記と蒙古襲来絵詞
と矛盾点はこれだけではない。
上にもあるが、なんと八幡ノ蒙古記では此の人の言う後半戦とやらに竹崎季長が参加していたというのだ。
此の人のいう八幡の蒙古記の後半戦には「大矢野、竹崎、白石等、更により合て、さんゝゝに戦ふ」とあり
前半戦の蒙古襲来絵詞における鳥飼潟での戦闘で負傷して竹崎は戦場を離脱していたのにもかかわらず竹崎が
後半戦に参加していたというのだ。
ところが、蒙古襲来絵詞には以下のような竹崎季長と安達泰盛とのやりとりの記載がある。
文永の役の勲功に関して、恩賞奉行の安達泰盛が竹崎に対して、「分捕りや配下の討ち死にはあったのか?」
との質問に対して、 竹崎は「配下の討ち死にや分捕りはありません」と答えている。
ということは、竹崎ら一党は此の人のいう前半戦の鳥飼潟で負傷した時点で戦線を離脱していたのだ。
つまりは八幡ノ蒙古記は実際はその場の戦場に存在しなかった人物を無理矢理登場させたということだ。
そのことは後半戦とやらの存在の信憑性に問題も生ずるだろう。
ましてや、八幡ノ蒙古記の文永の役の結びには元軍を追い払ったのは
「白装束の人、三十人計、筥崎宮より出て、矢さきを、そろへて射ると見えしは、神の降伏し給ひしなり、此降伏に、
へきえきして、松原の陣をにけ」とあり、筥崎宮より現れた白装束三十人の集団が元軍を追い払ったとしている点は注目に値する。
結局は、この結びにたどり着くまでには、その場にいなかった武士たちも登場させて元軍に敗れに敗れた武士団が
必要だったということがわかるのだ。
蒙古襲来絵詞などと八幡ノ蒙古記にはこれだけではなく、まだ矛盾点が多々あるのだが、これらを見ていけば、
蒙古襲来絵詞と八幡ノ蒙古記との戦況の差異は、時間的差異などではなく、現場の武士と八幡の蒙古記の著者とでは
根本的に戦況の認識が違っていたということだ。

80 :
>>79
>そのことは後半戦とやらの存在の信憑性に問題も生ずるだろう。
いわゆる「後半戦」が無かったと言いたいようだが、高麗史金方慶伝にちゃんと「及暮乃解」
つまり「夕方に及んで自然休戦した」、夕方まで戦った、と書いてあるのに、
なんで「後半戦」がなかったと言えるのか?
しかも戦いが夕方に及んだということは八幡ノ蒙古記も「日も暮れ方になりしかば」と書いて
金方慶伝と一致している。
互いに参考にできない内外の二つの史料が一致することほど信憑性を高めるものはないと思うが。
恩賞関係の文書とかの話ではなく、金方慶伝の記述を信用しない理由を書いてくれ。

81 :
>>80
単に根拠の乏しい妄想でひねり出した「後半戦」とやらと戦ってるだけだと思う。
自分の妄想を解決してくれないから他人を批判するなんて本末転倒だよ。

82 :
>>81
では聞くが、高麗史金方慶伝と八幡ノ蒙古記の両方に述べられる夕暮れ時の戦闘は「後半戦」とは呼ばないのか?

83 :
夕暮れ時の戦闘が「後半戦」ではないという禅問答は置いといて、先に進もう。
>>50で得られたことは重要だと思うので、もういちどまとめて置く。
「中世都市博多を掘る」所載の地形図によれば、当時の赤坂山は小半島状に海に突き出た台地であった。
この小半島の西岸は鳥飼潟に接していた。
その西方約2.5kmのところに、仮称・祖原半島が海に突き出て
おり、その基底部に祖原山が隆起していた。
二つの半島を円弧状につなぐ海岸が、鳥飼潟の南岸を形成した。
祖原山は鳥飼潟のほとりに隆起していたと言って良い。
仮称・祖原半島の先端は東西に細く伸びる砂州になっていた。この砂州が百道原である。
このうち東に伸びる砂州が、鳥飼潟の北限を形成した。
このように、当時の鳥飼潟は今日我々が想像するよりもはるかに広大であった。
また上記説明に見るように、文永の役の記述に出て来る戦場はほとんど鳥飼潟周辺にある。
だから、文永の役の戦闘は「鳥飼潟合戦」「鳥飼潟陣」などの言葉でほとんど包含し得るのである。
もちろん赤坂山も包含される。
だから高麗史や八幡の蒙古記が述べる夕暮れ時の戦い(後半戦?)が、赤坂山をめぐって戦われたとしても、
それは鳥飼潟合戦のうちなのだ。
逆に言えば、「戦闘記録は鳥飼潟合戦のものしかないから、鳥飼潟合戦以外の戦闘はなかった。だから
後半戦は無かった」という言い方はできないのである。
鳥飼潟合戦が前半戦のみ、とは限らないからである。

84 :
すこし付け加える。
鳥飼潟そのものも戦場になった。竹崎季長も鳥飼潟に馬を乗り入れて敵を追っている。
私は鳥飼の潮干潟という言葉から、あのガタリンピックが行われる有明海の干潟を連想して、あんなところで
騎馬戦をやったのかと思って、げんなりしていた。
しかし最近見たテレビ番組で眼から鱗が落ちた。
それは厳島神社を撮った番組だった。あの海中に立つ大鳥居は、そばまで行くには小舟で行くしかないのだが、
引き潮の時は露出した海底を歩いて行けるのだ。その海底は固くしまっていて、人が歩いても足は沈まず、
なんの問題もない。
もし鳥飼の潮干型もあのようであれば、徒渉可能であるばかりか、むしろ絶好の騎馬戦場だったのではないか。
まあ実際の所はわからないし、竹崎は馬を「馳せ倒して」はいるけどね。

85 :
「前半戦」と「後半戦」に戦闘が分断されていたという主張自体、根拠に乏しい。

86 :
>>85
別に分断されていたとは言っていない。
私は朝方から夕方まで、ずーっと戦闘が続いたと言っているだけだ。
もちろん、戦闘はおのずから何回かの中断を夾んだだろうが、それはまた別の話だ。
後半戦と言う言葉じたい、私が言い出した言葉ではない。
戦いが早い時間帯(例えば午前中)で終結して、元軍がそのまま百道原海岸から撤退した、
と主張する人たちがいて、その人たちが主張する、戦闘がおわった時間があるわけだ。
それが何時頃なのか、まだ聞いて見てはいないが、ともかくそのような時間があって、
それより後の時間に行われた(あるいは行われたはずのない)戦闘を「後半戦」と、
その人たちが呼んでいるのだ。
私はその人たちに話を合わせて「後半戦」という言葉を使っているだけ。
そして私は、「後半戦」は確かに存在した、なぜなら戦闘は夕方まで続いたと、高麗史や
八幡ノ蒙古記に書いてあるから、と主張しているわけだ。実に簡単明瞭な話だ。
ところが「元軍そのまま撤退説」の人たちは、恐らくこの説を唱える学者連中を信奉している
ためだろうが、後半戦の存在を認めることができない。
だから、戦闘は夕方まで続いたかも知れないが「後半戦」は無かった、
と禅問答のような話になってしまうわけだ。

87 :
なぜ元軍が夜半撤退を決意したのかについては、その後半戦とやらで元軍など各所で敗れ、日没がなければ全軍崩壊の危機に立たされており、
翌日に日本軍の反攻が必至だったから それで済む話だな
自然休戦なら夜間までの僅かな時間で軍議を撤退に一決するほうが不自然だし、
高麗史の記述はそれで説明できる。矛盾が明らかな八幡蒙古記と無理に整合性を取る必要なんてない。

88 :
>>87
>日没がなければ全軍崩壊の危機に立たされており、翌日に日本軍の反攻が必至だったから
>それで済む話だな
日没に及んだ「後半戦」の存在を認めるわけか?
>高麗史の記述はそれで説明できる。矛盾が明らかな八幡蒙古記と無理に整合性を取る必要なんてない。
高麗史だけでは裏付けがない。八幡ノ蒙古記との一致があってはじめて高麗史の裏付けができる。
八幡ノ蒙古記の価値はそこにある。逆もまた真。
高麗史と八幡ノ蒙古記の一致については>>49 >>51を参照。

89 :
マヤの2012年人類滅亡預言と、IMFの2013年の世界の経済見通しも一致してるけど、
それは何らお互いの補強証拠にならないよw

90 :
>>89
いっしょうけんめい考えたけど、残念だったね。
IMFはマヤの予言を思い切り参考にできる(参考にしたかどうかは知らないが)。
高麗史と八幡ノ蒙古記とは互いに参考にする可能性がほぼゼロ。
>>49参照。

91 :
IMFがマヤの予言を参考にする可能性もほぼゼロだと思うがw

92 :
>>91
そりゃ常識的に言って参考にしなかっただろうが、IMFの人がマヤに凝っていて、
参考にしようと思えばできる。マヤについて書かれた本は世の中にあるのだから。
高麗史と八幡ノ蒙古記の筆者たちは、互いにいくら参考にしようと思ってもできない。
(書かれた時代が互いに近いことと、文化的に途絶していたことによって)
その違いだ。

93 :
>>90>>92
IMFの誰がマヤの予言を参考にするんだよw
何ら関連性なく書かれた2つの文書が同じ内容を示してると言う例なら、
キリスト教の外典と日本史の偽書だって同じ内容を書いたりしてるしオカルトではそういう「一致」を強調する
しかしそれがトンデモなのは言うまでもない
この場合、八幡蒙古記と高麗史の共通点は日没まで戦闘が行われたということしかなく、
その戦闘の性格について何ら一致点が存在しない。

94 :
どうしてそこまでして八幡蒙古記と高麗史の記述を無理やり一致させようとするのか。
普通に一方は史料的根拠としては採用しがたく、高麗史の記述は単に日没に及んで戦闘が停止されたと読む
それが素直な読み方だろう。その戦闘の経緯については他の史料から探るほかない
蒙古軍が勝利を得られなかったのは蒙古側史料でもその後の軍議の内容でもはっきり分かる
第一級史料と言い難い八幡蒙古記の当該記述にあくまでこだわるからそういう変なことになるんだよ
両者を一生懸命一致させようとしてるから、まあ元寇ファンなのは分かるけどさ

95 :
>>93
>キリスト教の外典と日本史の偽書だって同じ内容を書いたりしてるしオカルトではそういう「一致」を強調する
>しかしそれがトンデモなのは言うまでもない
その通りだな。
その偽書なりオカルトなりの主張する「一致」がなぜ価値がないのか?
それはその偽書が君の言う「キリスト教の外典」を「見て」書かれた可能性があるからだ。
実際に見たかどうかは問題ではない。見た可能性を否定できなければもうだめなのだ。
そこで君に聞くが、君は八幡ノ蒙古記が高麗史金方慶伝を「見て」書かれた可能性があると主張するのか?
あるいはまた、高麗史金方慶伝が八幡ノ蒙古記を「見て」書かれた可能性があると主張するのか?

96 :
>>93
>この場合、八幡蒙古記と高麗史の共通点は日没まで戦闘が行われたということしかなく、
八幡ノ蒙古記と高麗史の一致点はそれだけでないことは>>49ですでに言った。
それを見てもらえばいいのだが折角だからもういちど繰り返してあげよう。
1)日没まで戦闘が行われたこと(説明略)。
2)日本軍の損害が大きかったこと。
 高麗史の「倭兵大敗、伏屍如麻」と八幡ノ蒙古記の戦闘記述とが一致する。
 高麗史はじぶんが負けたときは「官軍潰」とか「以累戦不利」とかちゃんとそのように書くから信頼できる。
3)劉復亨が射落とされたこと。
 高麗史は「劉復亨当流矢」、八幡ノ蒙古記は少貳が水城街道で部下に射させた記述。
4)元軍が当夜に撤退したこと。
 八幡ノ蒙古記は翌朝元軍の船が消えていた記述、高麗史は「劉復亨当流矢、先登船」。
 高麗史は直接的ではないが、まさか一週間とか野戦病院で唸っていたという書き方ではあるまい。
ここで注目すべきは単に一致するというだけではなく、1)3)4)については、日本側では八幡ノ蒙古記しか
これを記録していないことだ。
いかに八幡ノ蒙古記の性格に問題があろうと、記録が「ある」と「ない」とではその差は無限大だ。
このような史料価値は決して無視していいものではない。
八幡ノ蒙古記に含まれる、当時としては当たり前な宗教的な部分をことさらに取り上げるのは
学者を含めて「元軍そのまま撤退説」派の宣伝に過ぎない。

97 :
>>96
96は馬鹿

2chといえども96が馬鹿であるという記録がある以上
96は馬鹿なんだろう

98 :
>>97
御見事ww

99 :
>>97
ワロタww

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