2012年09月戦国時代57: 真田幸隆・昌幸・幸村・信幸を語るスレ 5 (487) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら (381)

真田幸隆・昌幸・幸村・信幸を語るスレ 5


1 :2012/05/18 〜 最終レス :2012/10/25
前スレ
真田幸隆・昌幸・信繁・信幸を語るスレ 4
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1318053977/

2 :
さて信綱について語ろうか

3 :
信濃国松代藩主真田伊豆守幸貫は、閣老に起用され、従四位下侍従、信濃守に官位を改め、松平の姓を許され、松平信濃守幸貫と名乗り、海防掛を兼務した

4 :
幸村は信玄と会った事があるの?

5 :
祖父の幸綱が「これが孫です」と信玄に会わせた可能性が無きにも非ずだ。

6 :
スマホ向け地図で上田の魅力PR 真田歴史・ロケ地探訪など
(2012年5月17日)(提供:信濃毎日新聞)
http://www.shinshu-liveon.jp/www/topics/node_216755

7 :
「物事柔和忍辱にして、強しからず(忍耐強い)。ことば少なにして怒り腹立つ事なかりし」(「幸村君伝記」)
一度くらいはこういう幸村をドラマで見たいものだ
大河・徳川家康、真田太平記、大河・葵徳川三代等みんな猛将設定だったけど

8 :
>>4
甲斐に人質に出されていた時期もあっただろうから信玄が弁丸(幸村)を
見た可能性はあったと思うよ

9 :
でバックバージンを奪われたと?

10 :
真田太平記では幸村が人質として、いきなり春日山城に行ったことになっているが
『矢沢文書』では、幸村は、まず海津城へ。

上杉が真田に五千の援軍(『景勝一代略記』)(援軍五千は真田太平記でも採用)

幸村は海津城から春日山城へ。

11 :
第一次上田合戦で特筆すべきは沼田城の矢沢頼綱。
北条は三万8千もの大軍で沼田城を攻めたが落城せず撤退。
その2か月後、石川数正の出奔により徳川勢上田から撤退。
なお、石川数正出奔の後に
・木曾義昌 徳川から寝返り豊臣傘下へ。
・小笠原貞慶 同上

12 :
小田原征伐の北陸支隊
前田(1万8千)、上杉(1万)、真田(3千)、松平康国(4千)
※兵数は諸説あり
北条の大道寺軍との碓氷峠の合戦が幸村の初陣のようである。
「(前略)時ニ源次郎信繁、自身ニ働キ、手ヲ砕キテ高名アリ、敵ヲ追ヒ崩サル。」
真田太平記では虚空蔵山での小戦(vs上杉)が幸村の初陣となっていたが、史料なし

13 :
馬場彦四郎 (@真田太平記)のモデルとなった馬場主水
http://ameblo.jp/rekisi-shiro/entry-11005487369.html
http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page077.html
http://tikugo.com/osaka/busho/sanada/b-baba-mondo.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=1238
http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/jiten/kashi.html

14 :
慶長5年(1600)7月晦日 真田昌幸宛石田三成書状
http://museum.umic.ueda.nagano.jp/sanada/siryo/sandai/090502.html
上方の趣、大方御使者見聞候。先づ以っておのおの御内儀方大刑少(大谷吉継)馳走申され候の条、御心安かるべく候。

15 :
[【史料】][真田幸村の手紙と名言]真田幸村の手紙と名言
http://d.hatena.ne.jp/yukitoki/20090904

16 :
天正10年に勝頼まだ存命中の真田昌幸と北條氏邦(武蔵鉢形城主)の書状を探しているのだが
やはり無かった。
武田家や勝頼のことを頼む書状だったのか?
自身(昌幸)のことを頼んだ(相談した)書状だったのか?
・・・と何年か前に過去スレでも話題になっていたけど真相は闇の中か・・・

17 :
関ヶ原の戦いの少し前、犬伏で父や弟と別れた真田信幸は小山に駆けつけ、
舅・本多忠勝と同宿した。
夜になって、同じ信濃出身の保科正光が密かに訪ねて来て、信幸に耳打ちした。
「お主、なぜここに来られた?徳川は譜代が多い、外様がこの先どう扱われるか、
良くお考えあれ。かく言うわしも、真田より先に徳川についた身ながら、この戦に勝っても
遠い磐城へ移封されるらしい。
わしの今の失意、お主ならお分かりだろう?もう一度考え直されよ!」
信幸は答えた。
「私は既に決めたのです。もう言わないで下され。」
説得を断念した保科が去ると、入れ違いに忠勝がやって来た。
「今、黒い鎧の武者が出て行ったようだが、誰が来ておられたのかな?」
信幸が動揺を隠して黙っていると、忠勝が言った。
「フン、あの鎧は保科であろう。おおかた、「所領に帰れ」とでも説きに来たか。」
驚く信幸に、忠勝は続けた。
「なァに、あの帰り方では、あやつは逆にムコ殿の腹でも探りに来たのだろう。
何も心配する事はない。」
忠勝の言葉通り、戦後に信幸改め信之は父・昌幸追放後の上田領を相続できたし、
保科は本領・高遠を安堵された。
「このように、舅どのは戦の機微に練達するばかりでなく、洞察力も神の如しであった。」
後々まで信之は語ったという。

18 :
真田家は宇和島伊達家の血統になってしまった真田本家(公認子孫)の他に
自称子孫も含めると
・越前真田家  昌幸の兄で長篠で戦死した昌輝の子・信正の子孫。福井藩士。
・旗本真田家  昌幸の弟で大阪の陣で幸村を東軍へ誘った信尹の子孫。
・仙台真田家  幸村の子・大八の子孫。仙台藩士。
・真田勘解由家 2代藩主信政の嫡男信就の子・勘解由の子孫。松代藩士?。現在も松代に在住している。
があって、いずれも現在まで続いていて、仙台真田家は幸村の男系を主張しているが、一仙台藩士の家系なんてアテにならないと思う。
あと9代幸教の子・幸世が別家した真田男爵家もあるが、こちらは血統で言えば紀州系。ここも女系になってしまっている。
真田本家から他家へ養子に出たのは、いずれも4代信弘の子で、柳生家へ行った柳生俊峯と、本多家へ行った本多忠盈がいるが
俊峯は自身限り、忠盈は子の忠典で男系は絶えている。(女系が残っているかは知らない)

19 :
5代真田信安の娘が島原藩深溝松平家の松平忠恕の正室に入り、2人の子が松平忠馮で、
以後島原藩は、忠馮−忠候−忠誠−忠精と真田の女系が続くがここまで。
忠恕、忠馮は男子が何人かいるから、ひょっとしたらこちらに女系で残っているかもしれない。
真田は男系最後の6代幸弘のあと、7代幸専、8代幸貫と女系で繋ぎ、
幸貫も、松平忠馮の子を真田幸忠として養子にとるが、残念ながら亡くなってしまい、自分の孫の幸教に継がせた。
幸貫もなんとか真田の血統を残そうと努力したがダメだった。

20 :
天正8年5月23日、真田昌幸は沼田・吾妻に法度を発する。 長篠後、武田の勢力は日々に縮まりつつあったことから、これは真田昌幸の力によるもので、真田昌幸が自立の方向に歩み始めていることを物語っている。

21 :
天正9年(1581年)越後上杉氏v.s.真田氏
7月10日、真田昌幸は内応した須田新左衛門に南雲20貫文を与え、また屋敷地などを安堵。
岩櫃城代をつとめる羽尾幸光と羽尾輝幸の兄弟が、相模北條家重臣の猪俣邦憲の誘いに
応じて 真田昌幸に反旗を翻す。 矢沢頼綱や吾妻衆の活躍により事なきを得たが、真田
昌幸の沼田領掌握が不安定なものであったことをしめしている。 真田昌幸は沼田城に
矢沢頼綱を城代として入れ、岩櫃城は池田氏、鎌原氏、湯本氏の3名に預けて守りの体
制を強化した。

22 :
天正10年(1582年)
3月4日、真田昌幸は2500騎を率いて岩櫃城を立ち、戸石城へ入る。祢津氏、室賀
氏により高遠城の陥落と織田勢が今にも攻めてくるとの報せを受ける。真田家は一族と
ともに守りを固める。
3月11日、武田勝頼一族が天目山で自刃。
4月8日、真田昌幸は織田信長に馬を贈って臣従の意を表明した。
7月、北條氏直は東信濃に侵入、北信濃に侵入した上杉景勝と対陣したが、この時は真
田昌幸は蘆田氏、高坂氏、小笠原氏ら信濃国衆と談合して北條氏に属している。
9月、真田昌幸は弟加津野信尹らの勧めで、徳川家康に属す。
9月19日、徳川家康が屋代秀正に真田昌幸が徳川方に身を投じたことを報じる。10
月14日、真田昌幸は羽尾城に湯本三郎右衛門を城代に任命し、普請を命じる。10月
22日、真田昌幸は正式に相模北條家から離脱。報復の為に北條氏直が信濃佐久と上野吾妻へ兵を進める。
10月、徳川・北條の和議が成立し、真田昌幸は独立の地位を確保した。

23 :
>>17-22
コピペか自作かどっちか知らんが、ネタならもっと興味が持てて
鬱陶しがられないような内容にした方がいいと思うよ

24 :
地元外の博物館に親しもう 上田市6館巡るスタンプラリー
(2012年5月22日)
http://www.shinshu-liveon.jp/www/topics/node_217114

25 :
真田幸村を討ち取った越前松平藩士・西尾仁左衛門宗次。
彼が自分の菩提寺に造立した地蔵菩薩像は「真田菩薩」と呼ばれ、幸村の鎧袖を埋めて供養したものと伝えられた。
(なお、幸村の首の方は真田一族に奪い返されることを恐れて福井城下の某所に埋葬し、その場所は西尾家一子相伝の秘密としたという。)
やがて年月を経て地蔵菩薩は摩耗し、いつのころからか首が破損し落ちるようになった。
これを元通り載せようとするとその者は必ず熱病に悩まされたという。

ちなみにこの西尾宗次は幸村所用の兜・薙刀・采配等も戦利品として持ち帰ったとされ、現在でも一部が越葵文庫に収蔵されている。
(平成23年9月6日〜10月30日福井市郷土歴史博物館で展示)

26 :
2009年、朝日新聞
記事掲載時点では准教授、現在は教授
1987年4月。慶応大学理工学部で数学を教えている教授の前島信は、新入生の名簿を見ていて、ヤバイと感じた。
「真田幸俊」という名前の学生がいたからだ。
前島は東京育ちだが、先祖は「六文銭」の旗印で有名な信州の真田家に戦国時代から仕えた名門の家柄だ。
授業の後、「君、真田家と関係があるの?」と尋ねた。「14代当主です」と言われ、思わず「すいません」と口走ってしまった。
「もうハハーッて感じで。すぐに思ったのは、まさか悪い成績を『殿』につけるわけにはいかないんで、この子、本当に出来てくれるといいな、と」
幸いなことに成績は優秀で、現在、同じ学部の電子工学科で教える准教授になっている。
その真田幸俊が旧松代藩10万石、真田家の家督を継いだのは、父が亡くなった14歳の時だった。
翌年が善光寺の、数えで7年に1度の御開帳の年。回向柱の奉納は藩政時代から松代藩が行う伝統の儀式で、裃姿で出席し、挨拶状を読み上げた。
完璧にやらなければ、との思いから、緊張で声が震えた。
後日、菩提寺の住職から言われた。「失敗しても、お殿様はいいんです。その代わり、堂々としていて下さい」
なるほど、と合点がいき、以来、気が楽になった。
幸俊は大学生の頃から、毎年、秋の「松代真田まつり」に駆けつけ、有名な幸村の兄で藩祖の信之(信幸)役の騎馬姿で練り歩く。カナダに留学中も、このために帰国したほどだ。
長男が生まれた時、地元に報告すると、大喜びだった。次男の時は「これで真田家は安泰だ」と言われた。
恋愛結婚した妻の綾子は肩の荷がおりたとホッとしたが、幸俊が頭を悩ませたのは息子たちの名前だ。
「『幸』の下の字が、もう大変。先祖の名前になく、姓名判断でいい画数の漢字となると、残り僅か。息子の代では付ける漢字が殆どないはず」

27 :
コピペしている間は過疎スレになるのが判らんかな
まぁこのままコピペだけで最後まで逝くんだろw

28 :
>>27 こっちは嵐専用幸村スレってことで放置でいいんじゃね?

29 :
>>26
真田家家臣に前島氏は確かにいる。前島姓の家臣が複数いるので、数学科の前島さんが、どの前島氏かまでは分からない。

>息子の代では付ける漢字が殆どないはず

旧大名家はそこまで名前にこだわるものなのか
「幸○」でいい名前がないならば、「○幸」で名前を考えればいい。案外「昌幸」のようなイイ名前が見つかるかもしれない。

30 :
今後、真田視点で大坂の陣を描くドラマがあるならば、
・大谷吉継の息子・大谷吉治(名前が諸説あるが・・・)
・細川忠興の息子・細川興秋
・毛利勝永
この3人にもスポットをあててドラマを作って欲しいものだ
大坂夏の陣で大谷吉治と細川興秋は共に真田信繁(幸村)勢(兵数3千5百)の一員。
戦後、細川忠興の命で細川興秋が切腹に追いやられたなどドラマに使えるネタがある。
幸村と義兄弟の大谷吉治と幸村の会話は脚本家の腕の見せ所。

大坂夏の陣での毛利勝永隊(兵数4千)の活躍は凄まじい。
本多忠朝や小笠原秀政を討ち取る等、見事な活躍。
『真田太平記』では
草刈真田幸村「毛利殿は何故待てぬのか」と言われてしまい、損な役割を演じさせられていた。

31 :
松代藩 真田十万石祭り 平成23(2011)年10月 [松代テレビ局]
http://www.youtube.com/watch?v=BNuFXEp0uj4

32 :
大河ドラマ『武田信玄』では真田幸隆が重臣会議になぜか常に出席しているが、現実は先方衆。
勝頼期になっても真田(信綱、昌輝、昌幸ら)は先方衆のままだった。。。

33 :
サマーウォーズの話は出た?
真田家をモデルにした上田の旧家を舞台にしたアニメ映画。
「大変じゃない、ごはん食べてる場合なの?」
「遺言だからな」
「でも敵は圧倒的なんでしょ、勝てるの?」
「慶長20年の大阪夏の陣では徳川15万の大軍にご先祖は討って出た」
「でも負けたんじゃ」
「こういうのは勝ちそうだから戦うとか、
負けそうだから戦わないとか、そういうんじゃないんだよ。
うちは負けそうでも戦うの、それも毎回」
「バカな家族!でも私もそのバカの一人だわ。」

34 :
もう一つの削除対象スレより、こっちの方が断然盛り上がってるな

35 :
>>33
サマーウォーズの話題は過去スレで出たことがなく初出
私は見ていないのだが、上田観光コンベンション協会か何かが宣伝に熱心だったことが印象的です

36 :
真田昌幸は天正7年(1580年)に従五位下・安房守に叙任
主君勝頼は信長の妨害により無位無官
安房守は勝頼が昌幸に与えたのだろうか

37 :
>>35
劇中で第一次・第二次上田合戦の話やらが出て来るし、
屋敷は建物が上田城、地形が砥石城跡をモデルにしてて、
旧武田家家臣のアイデンティティー持ってたりとか、
なかなか楽しめる。
アニメ・映画としてもいい出来で面白い。
こんど上田に行ってみようと思ってる。

38 :
BS-TBS
THEナンバー2
http://tv.yahoo.co.jp/program/56349492/
http://w3.bs-tbs.co.jp/no2/

39 :
信玄の両眼と言われた真田昌幸と曽根昌世
第一次上田合戦に曽根昌世は徳川軍の一員として参加
真田の勝利が確定し徳川軍が敗走したとき真田昌幸は「曽根昌世(内匠)の退却はお前たちの追撃よりも見事
(内匠が逃ふりハ、おぬしらが追よりハ増して見えし。)と褒めたという。

武田家滅亡後の曽根昌世の生涯はよく分かっていない。会津若松城の築城で名前を残したが。

40 :
>>38 見たけど完全に腐女子仕様でしたなwww

41 :
>>40
しかも役者の演技が下手で俳優養成所のレッスンを見ているかのようだったw

42 :
子孫ネタで未出のをひとつ
真田信之→(中略)→真田信安→娘(建部政賢正室)→建部政醇→娘・道子(小栗忠順室)

43 :
真田家激動の天正10年
・3月3日、新府城で昌幸が勝頼に岩櫃城行きを勧めた
・3月11日、天目山にて武田勝頼自刃、武田家滅亡
・翌3月12日、真田昌幸のもとに鉢形城城主北条氏邦から1通の書状(真田家からの申し出への返事)が届く。
・3月15日に昌幸は織田信忠に服従を申し出ている

44 :
その辺最近のセンゴクでもやってたな

45 :
勝頼がもう少し持ちこたえていたら、北条氏邦からの返書は昌幸の黒歴史になっていたかもしれない

46 :
幸村(信繁)の側室(隆精院)は秀次事件を上手く乗り切った(逃げ切った?)
その結果、豊臣秀次の血を残すという貴重な役割を担った(豊臣秀次の娘が生んだのが三男・幸信、五女・お田の方)
大坂冬の陣のとき隆精院は娘のお田と共に大坂入城。
夏の陣で幸村(信繁)が討ち死にした二か月後に京都の町屋で左馬之佐(幸信)を生んだ

47 :
>>13
信之家臣のうち馬場主水は最悪(裏切り者か?どこかの間諜か?)

馬場主水と信之の家老とで、今でいう裁判のようなものが行われた

信之の無罪確定

馬場主水は真田家家臣により暗殺

48 :
徳川家光「伊豆守は天下の飾りである」→信之の隠居願いは許されなかった

49 :
真田幸村ゆかりの品
http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/tenji/kaisetsusheets/yukimura.pdf

50 :
>>46
自己解決
父・豊臣秀次の処刑の際は「既婚である」という理由で蓮座を免れた、とのこと。

51 :
難波2見たけど幸村役がアンガールズっぽくひょろい奴だったな
冬の陣の和睦後、不意打ちで家康秀忠を打ち取るチャンスあったのってマジカ?

52 :
>>51
>冬の陣の和睦後、不意打ちで家康秀忠を打ち取るチャンスあったのってマジカ?
実現性の是非はともかく“古くから”色々な雑誌・小説で取り上げられています(たぶん逸話)
『真田太平記』第39回あたりにも出ていたような

53 :
真田太平記のは(和議の直後に)「家康、秀忠を生け捕りに出来れば(今後の交渉が有利に)」って感じだったかも?
実現性は極めて低いけど、話半分として面白いかなと

54 :
>>51
よく聞く話だから講談が元ネタか?
『真田太平記』第38回の27分辺り
大坂城内の大野修理の陣屋を幸村が単身訪れる。
(略)
幸村「そのような和議、何故お受けになりました・・・」
(略)
大野修理「他に何か・・・」
幸村「茶臼山の家康の陣と秀忠の陣に夜討ちかけたく存ずる」
大野修理「左衛門佐殿!」
幸村「今宵が豊家の運命を決するぎりぎりの日じゃ!」
結局、幸村の案は大野修理によって却下された。

55 :
1712年に徳川家継が将軍となり、官位の昇任や名誉回復、また罪人を許す御赦免が実施された。
これにより(仙台真田家の)辰信は「真田」姓に復帰し、真田辰信と名乗ることが出来た。

56 :
1712年の「既に将軍家を憚るに及ばざる」は復姓直後のあとづけ、と推測。

57 :
慶長20年(1615年)5月6日の夜(大坂夏の陣最後の夜)
真田信繁(幸村)は真田源八郎を呼び、形見の自筆の一巻を持たせ、強いて上田へ帰らせた。
この真田源八郎は播州姫路城主池田備後守利隆に仕えて80歳まで長命し、信繁(幸村)の物語をした。

58 :
滝川一益
子・滝川一忠
孫・滝川一積
関東時代に縁を得た真田家とは非常に親しくなった様で、廃嫡された一忠は真田
家に身を寄せ、孫の一積は未亡人であった真田昌幸の娘(お菊、於菊)を娶っ
た。なお、一積は真田信繁(幸村)の娘達にも良縁を持ち込んでいる。
小説やドラマの影響でお菊は滝川一積に普通に嫁いだと、ついつい勘違いしてし
まうのだが、正確には、お菊は「宇多頼次室のち滝川一積室」なんだな。

59 :
滝川一益は神流川の戦いで北条に敗北した際、関東諸将から預かっていた人質を無条件で解放して
関東を退去。このことから、諸将は滝川との別れを惜しんだという。
諸将からの滝川一益の人気ぶりは、敗走する滝川を、上田の真田氏が木曽まで警固したという逸話からなんとなく読み取れる。
このことが孫の滝川一積の代にまで影響したのであろう。

60 :
戦線を維持出来なくなった滝川一益は敗残の兵を率いて領国伊勢へ帰国の途についた
帰国途上の滝川軍は手負いであり士気も低かった
今後、空白地となり混乱するであろう信濃勢にとっては北条や上杉への格好の手土産となり得る羊の群となり果てていた
しかし…
真田以下大半の信濃勢は何もしなかった、真田は護衛すら請け負った
真田には真田の考えはあっただろう、しかし一益はただただ感激に涙したという

61 :
慶長二十年(1615)三月十日付け、真田信繁から真田信之家臣・小山田茂誠・之知宛の書状
http://jhnet.maxs.ne.jp/petit/cb/note/syojyou_nobusige.html
徳川方の圧倒的有利にもかかわらず戦いに挑む不安と、死を覚悟している様子があらわれている書状

−小山田茂誠宛書状−
慶長?年2月8日
真田信繁(幸村)書状
http://sanadasandai.gozaru.jp/shojou/shojou-05.htm

62 :
まあ、なんにせよ
仙台や松代とかの真田さんが直系じゃないにしても、血は絶えずに傍系とかで日本のどっかにいるよね。
まあ俺かもしれんが

63 :
>>62
松代真田氏は血の繋がりこそないものの由緒正しい伊達の男系
仙台真田氏は途中で養子、女系が入って
誰の男系かも誰の女系かも分からない状態

他の色々な家に真田の女系が相当いるので真田昌幸の血筋は真田以外の名前の人たちに相当いるらしい

64 :
安房守(安房)、伊豆守(伊豆、豆州)、左衛門佐、薩摩守、主計頭、清州侍従、弾正少弼、但馬、
長門守、治部少輔(治部)、刑部少輔(刑部)、大和守、三河守、武蔵守、美濃守、佐渡守、右府、
修理、木工頭、左京大夫、越前守、左近将監etc.

NHK真田太平記では官職名がふんだんに使われていたのがいいよね

65 :
真田十万石の城下町・信州長野市松代
http://www.shinshu-tabi.com/matusiro.html
http://www.webkohbo.com/info3/shinsyu/matsushiro.html
重臣矢沢氏の家の門が立派

信之亡き後の沼田藩、松代藩
沼田改易と松代近代化
http://nakahori2.mints.ne.jp/shiseki/sanada14.html

66 :

仙台真田家 系図
片倉守信⇒真田辰信(真田姓に復姓)⇒信成⇒信経⇒養子・信親(田村顕道三男)⇒また養子・信珍(大條頼始三男)⇒(以下略

67 :
大條氏が入ってるって事はサンドウィッチマンと親戚って事ですな

68 :
岩櫃城に勝頼を迎えた後の昌幸
1・勝頼とともに徹底抗戦
10万の織田軍を相手にしても昌幸なら数日は粘れるかもしれない
けど真田軍は元々総動員してもせいぜい数千
織田に走る配下も多数出るだろうから、2〜3千ほど集まればいい方なのでは?
野戦で勝負するわけには行かないので、もちろん籠城
となると時間切れで織田軍が撤退することを望むしかない 、

2・勝頼の首を餌に信長に降伏
表裏比興の者と呼ばれたほどの昌幸なら、こっちの方が現実的
むしろ既に裏では信長か誰かと密約を交わしていたかもしれない
3・勝頼をどこかに逃がして降伏
上杉は御館の乱や織田軍の北陸攻勢の前に弱体化しているので、
勝頼を匿える余裕はなさそう
北条は織田の同盟軍なので匿うはずがないし、勝頼もそんなところに逃げないだろう
つーか織田と敵対してでも勝頼の身柄を確保したい大名など、当時日本にいるのか?

69 :
真田幸隆
本家海野氏ともども滅亡
上野にて浪人中に武田氏からの招請を受けて信濃返り咲き
村上氏討伐の功にて父祖の地+加増
絶家となっていた本家海野氏は武田からの養子によって再興

70 :
昭和時代になって「真田勘解由家文書」が分析された結果、小野お通のこれまでの伝承は誤りが多いことが判明しました。

71 :
小野お通については、真田淑子さんが書かれた『小野お通』という本が非常に詳しくて、正確な記述。小野お通はこれまであまり正体が分からない女性だったが、お通は「おづう」と濁る。
お通の『四季女文章』にも、題簽の下の方に「小野のおづう」とあり,
奥書にも「づう」と書いてある。そのほか小野お通の直筆本などにも明らかに「づう」と書いたものがある。

72 :
昔のNHK大河ドラマの武田信玄で真田幸隆ファンになった。
あそこから歴史が面白くなったと思う。
今見てもあのドラマは面白い。橋爪さんが演じる幸隆と馬場、鬼美濃のやり取りが絶妙。
まあ、あくまでドラマだけど、面白かったなあ。演技も皆うまかったし。
今の大河ドラマは見る気もしない。
スレチごめんね。

73 :
大河ドラマ『武田信玄』の幸隆は最高だった。コントか漫才のような調略で村上氏を攻略。
幸隆にピッタリ寄り添う大男の家臣矢島六郎太には実在のモデルがいたらしい。

74 :
石田三成書状 真田昌幸宛
石田三成書状 真田信之宛
http://www.city.nagahama.shiga.jp/section/rekihaku/news/info114/s5.html

75 :
加増移封は栄転ではなかった
>失意の心情を書き送った手紙
ttp://www.geocities.jp/kgjhaat/page/page_113.html
信之が松代に移った当時の松代がたまたま信之の手で記されている。それは転封
の当時の失意の心情を書き送った手紙で、京都の小野お通に宛てたものである。
小野お通は京でも最高の教養人の一人でとくに女筆家として有名であった。信之
は武将にして,文に造詣が深く、上洛の折には小野お通を心の友としていたらしい。
お通の娘お伏(二代目お通)と、信之の二男信政は結婚して信就をもうけてい
る。信就は信之とお通の孫になる。 信政は信之の引退後二代目藩主 を継ぐが半
年後父より早く死ぬことになる。初代信之が死んだのはさらにその半年後である。

76 :
昭和期に『真田勘解由家文書』が分析された結果、小野お通の
実在が確認され、従来喧伝されていた説に誤りが多かった点が
判明した。美濃北方の小野氏の出身で、森蘭丸長定の同僚で本
能寺の変で討死した塩川伯耆守に嫁いでいたというのが実際の
前半生のようである。その後、渡瀬羽林家に再婚。この間一女
を産んでいる。のちの小野宗鑑尼である。上田藩主であった真
田信之と親交を結ぶが、一説には豊臣秀吉や真田信之の側室と
据える説もある。元和8年(1622年)松代転封を命じられた
真田信之がお通に送った書状が残る。晩年は真田信政の側室と
なった長女を頼り、松代へ住んで寛永8年10月にこの地で没
したという。享年64歳。お通が永禄2年(1559年)に出生
し、元和2年(1616年)3月5日に没したとする説もある。

77 :
大坂の陣、大坂入城家臣
高梨内記(?〜?) 、横谷重氏(?〜1615)、飯島市之丞(?〜1615)
真田勘解由 (?〜?)、真田権太夫 (?〜?)、大塚清兵衛 (?〜?)、
高梨主膳 (?〜?)、海野小平太 (?〜?)、望月善太夫 (?〜?)、
称津小六 (?〜?)、柏田玄仲 (?〜?)、山岡軍平 (?〜?)、
角輪佐吉 (?〜?)、利光久兵衛 (?〜?)、沼田清次郎 (?〜?)
森川隼人 (?〜?)、滝川平太夫 (?〜?)、丹生弥二郎 (?〜?)
星田勘平 (?〜?)、馬淵六郎太夫 (?〜?) 、横谷庄八郎 (?〜?)
真田与左衛門 (1580〜1615)、真田源八郎 (1585〜1640)

78 :
>>72
今川義元、今川氏真、北条氏康、北条氏政が頻繁に登場する貴重なドラマ。真田幸隆は山本勘助と共にスター扱いだった。
武田四名臣のうち内藤昌豊がなぜか登場せず。勝頼が登場するためか、小山田信茂、穴山信君は未登場だった

79 :
風林火山の時も幸隆スター扱いだったような

80 :
街に活気を 上田
2012年05月29日
http://mytown.asahi.com/nagano/news.php?k_id=21000001205290001


81 :
真田左馬助信勝
弥十郎、左馬介、左馬之助ともいう。真田昌幸の三男として生れる。妻は牧野康成の娘。関ヶ原敗戦後、真田昌
幸、信繁(幸村)父子に伴い紀州へ従った。兄二人とは母も異なり、年齢も相当離れている。幕臣となっている
点からみて、九度山から戻ってからは長兄真田信之の引き立てがあったものと思われる。後に旗本となり、慶長
10年2月、将軍徳川秀忠上洛のとき大御番組として供奉した。慶長14年9月、江戸において戸田半之丞氏勝
(戸田興勝)と喧嘩して殺された。また一説には徳川秀忠に従って大番組として京都滞在中6月19日に戸田氏勝
と論争し斬殺されたともいう。

82 :
元和元年(1615年)大阪の陣では、真田河内守信吉は父真田信之の名代として真田藩士を率いて参陣した。和
睦成立後のある夜、叔父真田信繁(幸村)は真田信吉の陣を訪れた。23歳の若年であったが真田信吉は真田家
の総領、信繁は長らしく浪人していたことだから、どんな容儀だろうかと家臣たちが見守っていると、いかにも
真田信吉の叔父という貫禄で座上になおり「御辺4歳の時、対面してのち、今夜初めての対面であるが、思いの
外の成人、器量・骨柄、人に優れて立派なものだ。伊豆守どのが年寄られても心配なかろう」と言ったという。
信吉は「城から離れた出丸を御構えになり、御苦労なさったのでしょう。御扱いにならなかったら危ないところ
でした。」と言うと、信繁は、「おっしゃるとおり、天下の大軍で攻められれば、どうして敵おう。しかし、そ
う簡単にはやられません。」と答えたという。やがて盃が出ると、老臣の矢沢但馬守、木村土佐守、半田筑後
守、大熊伯耆守の4人を呼び出し、「久しぶりだなあ」と懐かしがり、一緒に酒を飲んで城中へ帰ったという。

83 :
真田は幸隆(幸綱)・信綱・昌幸と武田家の為に働いても他国衆・先方衆扱い
滝川一益与力の外様・新参ではよほどのことがない限り領土拡大は望めない

武田家滅亡・・・と本能寺の変は真田家にとって開運

84 :

上杉謙信と最前線で互角に戦いぬいたのは真田幸隆だけである
真田幸隆こそ戦国史上最強の鬼謀

85 :
長尾景虎(上杉謙信)をして「我、弓を取らば真田(幸隆)に劣らぬが、知謀は7日後れあり。真田(幸隆)いる限り信濃をとること安からぬ」といわしめた。

86 :
真田幸隆がスーパーチートである3つの理由。
・織田信長でさえ負けた上杉謙信と川中島の最前線で互角以上に勝負する。
・武田信玄が勝てなかった村上義清を1日で葬り去る。
・落とせなかった城が1つもない。

87 :
1543年頃、 真田幸隆は武田晴信に仕え佐久郡岩尾城代となり、信州先方衆として活躍を始める。
全てはここから始まった

88 :
浮浪者だった幸隆の鬼謀を一瞬で見抜いて採用した武田信玄も天才

89 :
上の方で幸村の側室「隆精院」について書いてあったけど
秀次事件の時点で既婚だったという事だが、関白の娘が何故
幸村の側室になっんだろう?
幸村は全然無名だよねこの頃。事件の後に側室になったという
のなら理解出来なくはないが。
それとも秀次事件の時の隆精院の相手は別の人なのか?

90 :
妄想してみる
隆精院は秀次事件のとき誰かと婚姻状態

秀次事件

既婚であるという理由で隆精院は連座を免れた

死別か?離別か?

真田信繁(幸村)側室
もしも、このストーリーなら、幸村の側室になったことが、ギリギリ説明可能。
大坂城での人質生活が長かった幸村は大坂城内では、そこそこ知名度あっただろうし。
以上、全部妄想で書いてみた

91 :
隆清院の父は豊臣秀次で、母は秀次の正室である一ノ台です。
豊臣秀次は1595(文禄4)年、秀吉によって自害させられました。
豊臣内部での家督争いを防ぐために、8月2日に秀吉は秀次の側室侍女34人と子供4男1女を京都三条河原で斬首しました。
この処刑から逃れることができたのは、隆清院と、同じく一ノ台が母である隆清院の姉の2人だけだったと言われています。
隆清院には秀吉からの追っ手があったはずですが、この危機を潜り抜けて育ったものと考えられます。
真田信繁(幸村)の側室になり、大坂の役が始まる前に信繁(幸村)と共に大坂城に入城しました。
http://www.rokumonsen.com/source-of-future/sanada-db/index.html

92 :
隆清院が既婚だったのか?それとも初婚の状態で幸村(信繁)の側室になったのか?よく分からない。
>"後に"真田信繁の側室になる隆清院
>咎人の娘を正室にすることはありません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
正室は大谷吉継の娘・竹林院で1594年に嫁いでいます。
1595年に豊臣秀次は謀反の罪で切腹させられています。
その際に遺児(4男1女)及び正室・側室・侍女39名が処刑されています。
難を逃れたのが何名かいますが後に真田信繁の側室になる隆清院もその一人です。
このように主君の一族ですが咎人の娘ですから妻にするのも容易ではなく咎人の娘を正室にすることはありません。

93 :
>>90
リアルな妄想だわ。
まあ時が時なら関白の娘としてどこぞの大名の正室に納まっただろうに。
咎人の娘となると流人の側室位にしかなれないのか。

94 :
>>79
>風林火山の時も幸隆スター扱いだったような
「風林火山」は最初の数回を見て脱落してしまったのだが、幸隆(幸綱)が「武田信玄」同様スター扱いなら今度見てみる
(古い映画「風林火山」は子供の頃テレビで見ました。勘助の由布姫への恋心?が未だに印象的)
大河ドラマ「風林火山」のwikiを見てみると「武田本隊と共に上杉勢を挟撃すべく妻女山を下りて来た際、幸隆の隊であることを示す六連銭の旗を見た勘助は、自軍の勝利を確信した。」
・・・と幸隆の扱いがかなり期待できそうな感じ。
ちなみに私が好きな大河ドラマは
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164129195/496

95 :
真田本家(伯爵家) 現当主は宇和島伊達家からの養子であった10代幸民の男系。伊達政宗の男系でもある。
真田男爵家 9代幸教の子・幸世が本家から別家した系統。8代幸貫の系統であり徳川家康・吉宗の男系だったが、現在は女系。
真田解勘由家 2代信政の長男・信就の系統。旗本から後に松代藩士となり明治維新まで存続。
http://minkara.carview.co.jp/userid/157690/spot/234501/
仙台真田家 信之の弟・信繁(幸村)の二男・片倉守信(真田大八)の系統。仙台藩士として明治維新まで存続。
越前真田家 信之の叔父・昌輝の系統。福井藩士として明治維新まで存続。
旗本真田家 信之の叔父・信尹の系統。旗本として明治維新まで継続。

96 :
幸村は豊臣の姓を与えられたそうだが、そういうのは珍しくないの?
人質でもよくあること?

97 :
信繁(幸村)は実質出仕みたいな形だし
また、秀吉は豊臣姓や羽柴姓を乱発してたので
さほど驚くことではないかと

98 :
豊臣姓下賜一覧表
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%B0%8F#.E8.B1.8A.E8.87.A3.E5.A7.93.E4.B8.8B.E8.B3.9C.E4.B8.80.E8.A6.A7.E8.A1.A8

99 :
直臣だろうが大名だろうが陪臣だろうが節操無さ過ぎ!

100 :
100

101 :
豊臣清正

102 :
豊臣という姓を秀吉も朝廷から賜っているわけで
豊臣姓を家臣に分け与える事で 禄を与えるのと同じ意味を持たせたんだろ

103 :
ところで秀吉に豊臣姓を与えてやると言われて
拒否した奴はいるの?

104 :
家康が拒否したとか云われるが 実際には豊臣を使用している
秀吉が生きていた時は拒否したヤツは居なかったんじゃないかなぁ
秀吉が死んだアトは家康や秀忠や徳川家臣一同が使わなくなったようだけど

105 :
とんでも説をひとつ
糀町光明院 1597〜1703年
真田幸村の長男。
真田幸村の落胤といわれる。真田の忍者であるともいう。真田の子なので武家になれなくて僧になったといわれている。
『甲陽軍鑑』には疑いありとて用いられることはなかったという。
光明院は大阪陣の時19歳だったが、108歳まで長生きして、藤堂勢が長宗我部隊に追われて竹薮を押し倒して逃げた話などを子孫に話したという。
ttp://koskan.nobody.jp/sanada_busyou.html

106 :
>>98
信長六男の織田信秀 (侍従)は羽柴姓に続いて豊臣姓も下賜されているな

107 :
大河「風林火山」第31回
真田幸隆の計略は苦肉の策とよく似て見えた。
しかし(?)存在感では「武田信玄」の真田幸隆のほうが格段に上。
橋爪功演ずる真田幸隆は際立っていた。

108 :
>>107
橋爪功最高だね。
一癖も二癖もある曲者っぽくて。

109 :

織田信長もフルボッコにされた上杉謙信と互角に勝負した武将は真田幸隆だけ
さすがはスーパーチート一族の開祖

110 :
>>109
小田は検診と直接戦ってないし
大敗は伝承にすぎない

111 :
小田っていうと関東の小田さんを連想してしまう

112 :
「松代藩真田家系図」や「真田家御事蹟稿」にあるように、
幸隆が棟綱の長男で真田郷に移り住んで真田を名乗った
というのは、日向畑遺跡や真田屋敷跡が幸隆以前の物で
ある可能性が高い事から、考え難い。
「幸綱」という諱は如何にも海野氏嫡流という感じもするけど、
子で「幸」が付くのは何故か三男の昌幸だけ。

113 :
何で突然昔俺がした発言をコピペするんだよw

114 :
第一部「栄枯盛衰」(長篠の戦い〜甲斐武田滅亡)
第二部「豊家臣下」(天正壬午の乱〜秀吉天下統一)
第三部「故郷上田」(秀吉晩年〜九度山蟄居)
第四部「日本一兵」(九度山脱出〜幸昌死去)

115 :
>>95
>伊達政宗の男系でもある。

伊達政宗(仙台@)−忠宗(仙台A)−綱宗(仙台B)−宗贇(宇和島B)−村年(宇和島C)−村候(宇和島D)−
山口直清(旗本)−直勝(旗本)−伊達宗城(宇和島G)−真田幸民(松代I)−幸正−幸治−幸長−幸俊(現当主)
れっきとした伊達政宗の男系の子孫です。

116 :
真田太平記に登場した山中内匠長俊
実際の長俊は、柴田勝家の家老を務めたのち、丹羽長秀を
経て豊臣秀吉の右筆を務めた。関ヶ原の戦いでは西軍に属
して浪人となり、京都で隠棲して慶長12年に没している。

117 :
大坂の陣で信繁(幸村)が使った旗印は「総赤に金線」
http://www.interq.or.jp/red/yukimura/sanada/gunki.html

118 :
>>105
トンデモ説に近いが、石田三成とその一族って本に真田大助生存説っていうのがあったね
親父と違って、別に秀頼を助けたりとかいう話はなかったけど

119 :
>>79
風林火山 (NHK大河ドラマ)ようやく見終わった。武田信玄 (NHK大河ドラマ)に比べて真田幸隆の登場回数の少なさにチョットがっかり。
しかし風林火山 (NHK大河ドラマ)を見て良かった。
花倉の乱や河越夜戦等にここまで時間をさいてくれたドラマは初ではないだろうか?と思った

120 :
>>119
幸隆の出番、自分は思っていたより多かった気がする
武田信玄見ていなかったからかな?
風林火山の幸隆は、かなり重要な役回りで嬉しかったよ

121 :
■昌幸時代の真田家家臣団概要
●譜代(幸隆・信綱の代からの家臣)
矢沢・常田・河原・春原・宮下・深井・矢野・丸山
●旧武田給人
大熊・浦野・海野・鎌原・池田
●吾妻衆
湯本・折田・唐沢・一場
●沼田衆
中沢・森下・田村
●寄騎衆(沼田攻略の際につけられた寄騎)
藤田・金子・恩田・渡辺・発地
●小県郡土豪(小県郡統一で臣従)
禰津・望月・室賀・出浦・丸子

122 :
実は保科の分家もこの辺りから真田家臣になってるんだよな
>>121の面子より位は低かったが

123 :
逸話、無口な景勝が
上杉家の人質であった信繁(幸村)が秀吉の人質になったとき、上杉景勝が秀吉に「大きに怒りて、かの源次郎信繁をきっと返し給わらん」とつめよったらしい。秀吉は聞き入れなかった(『藩翰譜』)。

124 :
慶長20年5月6日の道明寺戦の殿を引き受けた信繁。これは彼自身が強引に引き受け、しかも自身の強さのみを強調したやりかたで退却したものだから味方の諸将からは評判がよくなか
ったらしい(『北川覚書』)。「人々聞きて憤り、真田やゝもすれば己が武勇を自慢して諸人を蔑如する事奇怪なれ。この上は巳然の評議を破り、面々存分に任せ相働くべしと云う」とある。
これは信繁への妬みがかなり入ったコメントだと思うが大坂方の武将同士がうまくいっていない証拠でもある。

125 :
上田城には本家本物の小松殿の遺体を運んだかごが展示されているそうだ

126 :
確かに展示されているけど、本物かどうかはねぇw
でも、時代が合っているとすれば、かなり豪華なのは確かだ

127 :
信繁(幸村)の初陣時期
・神川合戦(第一次上田合戦)by『上田軍記』
しかし、このとき信繁は上杉の人質だった
・小田原征伐 by『滋野世記』
「時に源次郎信繁、自身に働き、手を砕きて高名(=功名)あり」
ただし初陣とは記されていない

128 :
>>127 秀吉の九州遠征に付き合ってたらしいので
そこのどこかで出陣してたのかもしれないが
とりあえず資料がないので何とも

129 :
天正11年(1583年)3月、真田昌幸は、埴科郡虚空蔵山にて上杉景勝軍を破る。
真田太平記第3回では、これが源次郎の初陣となってたが、ソースはあったのだろうか?

130 :
徳川家康−紀州頼宣−紀州光貞−徳川吉宗−田安宗武−松平定信−真田幸貫


131 :
>>130
真田男爵家。現在は女系。。。

132 :
真田が何気に登場する映画
http://www.youtube.com/watch?v=kYP_cYn8AQI&feature=relmfu
真田昌幸(演:角川春樹)「真田鉄砲隊放て!」
設定が川中島の戦いなので、幸隆かと思いきや昌幸。知名度重視で昌幸にしたのかも。

133 :
真田太平記、大坂冬の陣前
真田信之「ところがわしは将軍家の命により、この上田に居残りじゃ。徳川家の家臣というに・・・。わしは将軍様(秀忠)に信用されておらんようじゃ・・・。
寂しい話よのう・・・。が、これも一国の主なれば辛抱するしかあるまい。家臣や領民を路頭に迷わす訳にはいかんゆえのう・・・」
史実では信之は病床で出陣できず。
初陣の真田信吉・信政に信之も一緒に出陣していれば、夏の陣での信吉・信政軍(徳川方、幕府方)の敗走はなかったかも?
大坂方も徳川方も大坂冬の陣・夏の陣に参戦した武将の多くが、いくさ経験ほとんどなし。
家康は小身ながらもイクサ経験豊富な水野勝成を前線に配置したほど。
「天正年間」から戦(含む小戦)に明け暮れていた信之が出陣していれば、もう少しマシに戦えてたかもしれない。
しかし徳川方(幕府方)の真田軍は小勢だから結局史実同様苦戦したか?
と書いてるうちに堂々巡りになってしまったw
そもそも信之の初陣がどの戦からかも分からないのであった。

134 :
「信繁年若に付、矢沢三十郎軍代とし(て付き添い)、海野・望月・丸子等、合備と成て、上田勢百キづつ、春日山へ勤仕」(『真武内伝』)
天正十三年九月に上杉景勝は新発田治長攻めの軍を起こした。信繁(幸村)の軍代・矢沢三十郎は上田勢100余騎を率いて参陣し軍功を立てた。

信繁(幸村)は上杉の人質とはいえ厚遇されていたのではなかろうか。
『信繁、上杉景勝から1千貫文賜る』
上杉景勝は真田昌幸へ与えた起請文の中で、昌幸に沼田・吾妻・小県のほか屋代の跡を宛がうことにしている。
屋代の跡とは、上杉家を離反し徳川家康のもとに走った屋代秀正の旧領のことである。景勝は屋代の旧領3千貫文の内、1千貫文を信繁に与えている。

135 :
もうコピペは止めろ!!!!

136 :

真田幸隆が凄すぎ

137 :
信之には幸村以外にも2人弟がいたはずなんだが
そいつらの子孫はどうなったん(・・?

138 :
三男は次の代で実子なしで断絶
末弟は実子がないまま同僚との喧嘩が元で死亡

139 :
>>120
見てない人がいるのか。超高視聴率ドラマ武田信玄(1988年)は幸隆ファンには必見。実力派の橋爪功さんの神演技、橋爪功無双が強烈なんだけど、
番組全体としての幸隆ageが物凄かった。もしも当時ネットが存在していたら掲示板やブログに「また幸隆ageきた」と書かれそうなほど。
雑誌等で幸綱表記よりも幸隆表記が多くなったのは、このドラマが影響しているのではないか、とも言われている。
ただし、幸隆の策略の具体的な細かい描き方は風林火山(2007年)のほうが上。
武田信玄(1988年)の場合は視聴者が知らないうちに大須賀久兵衛が幸隆に調略されていて味方になっていた。

140 :
他スレより転載
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164953961/731
>直政が第一次上田で信之に惚れたってソースある?
>直政と信之が戦ったり信之が戦ってるとこ眺めてた訳?
信幸が戦っていたとき井伊直政はまだ上田に到着していないので戦闘の様子を眺めた可能性は皆無に等しい。

>>137
二人のうち真田昌親のほうには一応逸話あり。ただ全然面白くない逸話だけど。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1081.html
http://zizamurai.fc2web.com/ituwa/ituwa_masachika.htm

141 :
>>136
さすがは山本勘助までもが
その智謀尋常ならずと褒め称えて推挙した漢よ

142 :
NHK大河ドラマの平均視聴率の推移
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3967.html
NHK大河ドラマ/視聴率ベスト10
http://camui.secret.jp/rekishi/nhktaiga/sicyoubest.html
NHK大河ドラマ/視聴率ワースト10
http://camui.secret.jp/rekishi/nhktaiga/sicyouritu.html

143 :
誤爆orz

144 :
「真田信繁と呼ばせない厨」の投稿↓

仙台真田家当主のHP
http://www1.odn.ne.jp/cah49810/papa/index.htm
仙台真田家当主のHPの掲示板
http://6100.teacup.com/sanada1/bbs
真田幸村の実名は幸村(6) 投稿者:代々記 投稿日:2011年12月28日(水)10時44分20秒
真田幸村の実名は幸村(5) 投稿者:代々記 投稿日:2011年12月27日(火)11時20分59秒
真田幸村の実名は幸村(4) 投稿者:代々記 投稿日:2011年12月26日(月)11時04分18秒
真田幸村の実名は幸村(3) 投稿者:代々記 投稿日:2011年12月25日(日)10時24分31秒
真田幸村の実名は幸村(2) 投稿者:代々記 投稿日:2011年12月18日(日)13時47分31秒
真田幸村の実名は幸村 投稿者:代々記 投稿日:2011年12月11日(日)14時27分14秒

145 :
観光(含む真田祭り等)による収入だのドラマ化(視聴率)だのを考えると、「彼ら」にとって「真田信繁」が広まることは都合が悪いんだろうな

146 :
・年次不詳9月20日 宛先不明 「真左衛門佐 信繁」
・年次不詳極月晦日 木村土佐守宛 「真左衛入 信繁」
・年次不詳9月15日 関口角左衛門宛 「信繁」
・年次不詳6月23日 河原左京宛 「真好白 信繁」
・年次不詳2月8日 小山田壱岐守宛 「真好白 信繁」
・年次不詳12月29日 池田長門守宛 「左衛門佐」
・慶長20年(1615)正月24日 村松殿宛 「さへもんのすけ」
・慶長20年(1615)2月10日 石合十蔵宛 「真左衛門佐」
・慶長20年(1615)3月19日 小山田壱岐守・主膳宛 「真左衛門佐 信繁」

147 :
・犬伏の別れ 7月21日
・小山会議 7月25日

犬伏の別れから小山会議まで4日間

@ 去年の不評某大河では昌幸ならまだしも幸村がなぜか小山会議に出席していた
A 葵徳川三代では小山会議が終わった日の夜に信幸が昌幸、幸村の離反を家康に報告
B 真田太平記は時系列がしっかりしていた。
C 関ヶ原(TBS) では野原みたいなところで犬伏の別れ(3人の談合)をやっていた
>>134
その頃19歳の源次郎が書いた書状の名前が弁(弁丸)であることから、信繁(幸村)の生年を1570年と考える説も。

148 :
真田幸村と北条早雲と似た所は本人は一度もこの名で名乗ったことはない
違う所は早雲も本名が伊勢 盛時、早雲の名は号
北条は早雲死後、息子の氏綱の時代に名を変えた
なので北条早雲でも間違いじゃない

149 :
大坂夏の陣で真田信繁隊が突撃したとき
・家康、(換算すると)約3km後退『渡辺幸庵対話』
・家康の旗本、約12kmも後退『薩藩旧記雑録』
家康よりも旗本のほうが約4倍も後退

150 :
大坂夏の陣最後の決戦が終わった日。真田信繁(幸村)の首実検のとき
真田信尹「眉の内の傷は信繁(の首)か判別できない」
家康「お前は冬の陣後に信繁に二度も会っているではないか」(と怒る家康)
信尹「その時は夜中、殊に左衛門も用心仕り、近所へ近づき申さず、遠く罷り在り候(その会見の時は夜中で、しかも信繁が用心して近づけず遠かったので分かりませんでした)」(『慶長見聞書』)

151 :
>>40
完全にバラエティー番組だったけど・・・
・作家の井沢元彦が信繁という名前について説明していたのは民放の番組では珍しい
・信繁(幸村)の初陣を小田原の役のときとしていた(ソースは番組には出ていなかったが)

152 :
沼田藩(約3万石)の悪政による改易がなければ
松代藩(約10万石)と合わせて約13万石だったのになぁ

153 :
忠臣鈴木主水(鈴木重則)を失うことになった名胡桃事件(『古戦録』)
・猪俣邦憲の独断説  (鉢形城博物館より?)
・北条の命令説  天下の情勢に疎い北条氏の暴走(推測)
・豊臣秀吉の謀略説 (真田太平記よりw)
・真田昌幸の謀略説 (昌幸は名胡桃城を「墳墓の地」としてこだわっていたので、これはまずあり得ない)
Wikipediaには
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E4%BF%A3%E9%82%A6%E6%86%B2
「鈴木重則が守る上野国名胡桃城を、重則の家臣・中山九郎兵衛を買収し、偽手紙によって重則を城外へと誘き出し、その間に九郎兵衛に城を乗っ取らせるという謀略によって奪取」
鈴木主水重則の墓
http://nakahori2.mints.ne.jp/shiseki/hon109-11.jpg
真田太平記(演: 故・金内吉男さん)
http://nakahori2.mints.ne.jp/shiseki/hon109-21.jpg
北条による名胡桃城奪取で自分が下した裁定を反故にされたとみた秀吉は激怒し、小田原征伐を決意
>>132
懐かしい映画、戦国自衛隊
Youtubeのコメント欄に Yeah Sanada are Amazing!!! とあるのだが、俳優真田広之(確かヘリから飛び降りた武将)のことなのか。
それとも真田鉄砲隊のことなのか。
>武田信玄の幸隆と風林火山の幸隆
演技力を味わいたい人は断然前者、幸隆が具体的にどう行動したのか見たい人には後者、って感じ。両方見るのがベスト。
>>75
過去スレでは確か加増移封は栄転とか書いていた人がいたけど、実際はどっちなのか?上田藩の検地資料を焼き払ったり等々、移封に怒っていたのだろうか
>>98
>1594年真田信繁
信幸(信之)の名前がない。兄弟同時に下賜と思っていた私は記憶違いだった
>>117
ドラマ・映画で一度くらいはそれでやって欲しいところ
>>118
生存説は人気・支持のバロメーター。むかし官僚が信繁の子孫であると長文を雑誌に投稿していて、なんと生存説に基づいた自称(?)子孫だった
記憶と一致するのが、この人 http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/sanada/satsuma.html

154 :
もうええから名前は幸村だけにしろ
お前ら学生時代のテストにも天皇の名前を本名で書いたのか?
書かんかったやろ
それと一緒

155 :
>>146
どうしてこれを抜かすの(笑)
・慶長20年(1615)5月2日 蓮花定院宛 「左衛門佐 幸村」
以上にみるように、真田幸村の書状のうち、大坂入城後に「信繁」と署名しているものは、小山田壱岐守・主膳宛の1通
のみであるという事実である。
一方、5月2日付け蓮花定院宛の「幸村」署名の書状についてであるが、大坂城からの後藤・真田の出発が、陸軍参謀
本部編纂の『日本戦史 大坂の役』の記述とは異なり、『慶元記』によれば5月2日とされている。『慶元記』の「巻24 後
藤基次最後之暇ヲ請フ附幸村之事」には、5月2日、後藤基次は秀頼公に最後の御暇を申し上げ、真田幸村も御前に罷
り出て、「後藤が二ノ見」として河内路へ赴く旨を申し上げたと記載されている。この5月2日付けの書状であることについ
ては、大坂落城そして戦死を覚悟した幸村が、蓮花定院に形見の正宗の刀を届けさせたということであり、幸村の置かれ
た状況を察するに、まったく肯けるものがある。(了)

156 :
手紙がニセモノ 後世の物だという事は考えないのか?

157 :
そういう考え方なら>>146も手紙がニセモノと一刀両断に出来るが
自分でも何を言ってるのか分かってないな 

158 :
歴史を語る上でドコまで信じるかは絶対解決できない問題

159 :
結局、事実と思われる事を積み重ねて付き合わせて証明していくしか無いわけだからな
自分の目と耳で確かめた事実以外は すべて誰かの情報の又聞きだから・・・

160 :
今まで信繁に固執し続けてきたID:Koen+i36がとうとう狂いだしました(笑)

161 :
幸村の話なんて信じられない最たる物じゃないかw

162 :
そうだな

163 :
真田幸村の実名について、幸村の直系子孫である仙台藩士の「真田家」では、どのように伝えているのか記すこととする。
「滋野性海野氏真田氏略系」(真田徹氏所蔵)
 幸 村
  母ハ木曽氏族大庭木工国秀女阿瀧方。元亀元庚午年(1570)2月2日生ル。
  小字源二郎。(中略)
  元和元年(1615)5月6(7)日摂州大坂ニ於テ戦死ス。時年46歳。
  大光院殿日秀高白大居士ト諡号ス。
このように仙台真田家では、信繁という実名の記載はなく、あくまでも幸村と記載している。これは、最後の実名が幸村であった
ためと思われる。直系子孫の家において、先祖の名前が幸村と伝えられている事実は重視されてよい。軍記物に迎合して先祖
の名前を変えるなどということは、有り得ないのではなかろうか。
寛永17年(1640)に真田四郎兵衛守信(幼名真田大八)が仙台藩士に列し、江戸御番組馬上役を仰せ付けられ、永代二番座御
呼懸(召出)に召し出されたとき、仙台藩に幕府から系(いえすじ)調査の命があり、幕府へ書上系譜を呈出したものと同系統の系譜
(大八を夭死、守信を真田信伊の子政信の子とする偽系図)が片倉小十郎家に伝えられているので、次に記すこととする。
「滋野姓真田之系略」(片倉信光氏旧蔵)
 幸 村ー幸 昌(大助)
     大 八(7歳夭死)
     女 子(石河宗雲室)
     女 子(片倉小十郎重綱室)
     女 子(於奥州白石早世)
このように片倉小十郎家に伝えられた系譜においても、信繁ではなく幸村と記載しているのである。
このほか、仙台藩内に伝来した真田家関係史料は、次のとおり、いずれも「左衛門佐幸村」または「幸村」と表記している。
@『老翁聞書』(延宝・天和年間(1673〜84)成立)
A『片倉代々記』二代重長譜(初代から三代までは貞享3年(1688)完成)
B片倉辰信提出「勤功書」(仙台真田家二代辰信、宝永5年(1708)12月付)

164 :
 真田幸村の実名を「信繁」とする説においては、「文献上初めて「幸村」という名前が使われた軍記物の『難波戦記』が
成立したのが寛文12年(1672)と推定されている。」としている。
寛文12年成立の『難波戦記』とは、流布本の三宅可参が増補したものであり、内容としても寛永3年(1626)徳川家光上
洛時までを記している。『難波戦記』の原著者は、京都所司代板倉重宗の門客である万年頼方と老中阿部忠秋の家臣であ
る二階堂行憲であり、最も古体を示すものは、その内容が元和元年(1615)末の家康の江戸入りまでのものと、元和2年
(1616)4月家康の死までのものとが存在する(中村幸彦執筆『日本古典文学大辞典』)ことから、『難波戦記』の成立は寛
文12年を遡り得ることは間違いない。
また、北条氏長(北条流兵学の創始者)が編纂した『慶元記』は、寛永10年(1633)の自序をもっており、『難波戦記』の書
名を特記したうえで、凡例において「三年ニシテ成レリ」と記していることから、『難波戦記』の成立は少なくとも寛永7年
(1630)より以前に遡ることになる。ということは、『難波戦記』は大坂夏ノ陣から僅か10年程度後に成立した可能性があり
、ほぼ同時代史料といってよいように思われる。

165 :
ま〜た仙台真田家が暴れて荒らしている

166 :
>>155
学者たちに否定されているものを強引に押し付けようとするから
誰かさんは嫌われるのである

167 :
歴史的資料もすくないので議論しようとしても
できない人なんだよな信繁さん
逸話も少ないしね
それだけ無名だったからこその大坂だったのかもしれないが
だから史料レベルで見ていくと昌幸好きになるんだよ

168 :
捏造されたもの(>>155)を載せておくとはひどいサイトだ

169 :
>>155
真田幸村の実名は幸村(6) 投稿者:代々記 投稿日:2011年12月28日(水)10時44分20秒
・慶長20年(1615)5月2日 蓮花定院宛 「左衛門佐 幸村」
学会で偽ものと判明してますよ

170 :
いつ、どこの学会なのか?

171 :
>>170
嘘つきの癖に偉そうな口叩くな

172 :
筆跡で偽物ってわかるでしょ まして花押もないんじゃね…

173 :
数年前に蓮華定院に行った人が「幸村という署名のある書状を見た!」と言っていたけれど
素人が見られるようなものを歴史を研究している人たちが知らないはずないよね
それでも歴史研究家は「本人は幸村という名を使った証拠はない」と言っているのだから
やはりあの書状は本物としては認められていないんじゃないかな
使っていた証拠もないけど使っていなかったという証拠もないので
この論争はずっと続くんだろうね

174 :
>>173
そんな妄想と言い訳を書き込んだところで偽物は偽物

175 :
迷惑 投稿者:T.SANADA 投稿日:2012年 6月 9日(土)07時44分29秒
この場で言い合いは迷惑です。
広く伝わっていないのは現物がなくなっているからでしょう。
学者先生が二次資料の存在を知らないか無視しているか。
知らないで学者だ研究者だ俺が第一人者だというのが大勢いるから素人は混乱するよね。
学会なんてものは自分たちに不利になるものはそういう形で片づけるものです。
http://6100.teacup.com/sanada1/bbs?page=1&

176 :
うわ気持ちわる

177 :
仙台藩には北条氏直や三好義継の子孫がいるけど、
もしも本物なら何故家督を継がなかったの?という話。
真田守信というのも同じようなものでは?

178 :
>わざわざ信繁と言って「どうだ」って顔する人がこのごろ多いのは確かね。
>そういうのが嫌だな。わざわざ訂正することもない。まあ、お好きな方をどうぞ。
>そう言えば幸隆さんを幸綱としている学者(?)もいるよね。史実なんだとさ。
>どうすしても正確な史実の呼び名だと言い張るのだから多分
>天国(地獄かな)にでも行って本人に確認とって来たんだろうね。
こうまでボロカスに言われて何故反論しないの矢沢?
`ンちゃんと付いてるの?

>マジレス 投稿者:矢沢 投稿日:2012年 6月 8日(金)21時39分26秒
> >・慶長20年(1615)5月2日 蓮花定院宛 「左衛門佐 幸村」
>学会で偽物と判明しています。


179 :
>どうすしても正確な史実の呼び名だと言い張るのだから多分
>天国(地獄かな)にでも行って本人に確認とって来たんだろうね。
低レベルの発言にいちいち反論しないといけないの?

180 :
その低レベルの発言にすら反論できず沈黙の信繁厨(笑)

181 :
>>180
君にはそう見えるんだね。君だけにはねw

182 :
信繁でも幸村でもどっちでもいいわ
いつまでもやり合うネタじゃねえ
つんねえし

183 :
>>177 そりゃあ家の挌が違うもの
大名家の一家臣レベルに真田本家督が回ってくるはずもない
>>182 どっちでもいいのは確かだけど
本名をないがしろにするのはいかんと思う
逆は知ったか乙程度で済むけどね

184 :
あの殿はアレだからまともに相手しないほうがいいよ
偽書状を本物であるかのように偽りの投稿をした人
代々記
Remote Host: p4254-ipbf2106funabasi.chiba.ocn.ne.jp
戦国板の幸村荒らし
真武勇者
Remote Host: eaoska033200.adsl.ppp.infoweb.ne.jp

185 :
そりゃあ信繁厨は断固本物と認めるわけには行かず
感情的に偽と決め付ける他はないわな

186 :

昌幸や幸村より幸隆こそ大好きだ
なにせ渋すぎる上に上杉謙信も勝てなかったほど鬼才すぎ

187 :
>>185 幸村という名があるか?ないか?はどうであれ
真田左衛門信繁という人物の史実と史料は証明されてるわけで
信繁ということに何ら問題ないからな

188 :
>>185
あれを見て偽の書状と見分けられない人発見

189 :
初陣の時期をネット上で調べてみると(ネット的には)
・信幸の初陣
第一次上田合戦としているサイトが多い
・信繁の初陣
小田原攻めの松井田城・箕輪城攻防戦としているサイトが多い。だとすると23歳か24歳での遅い初陣となるので1570年生まれ説(>>147)のほうが自然なのかな?

190 :
秀吉が乱発した豊臣姓下賜は大して有難味がなさそうだけど、昌幸(大名)・信幸(小田原征伐後に大名@分家)・信繁のうち
信繁にだけ下賜されているのは、どういうことだろうか。
「豊臣家は次男を大切にしてますよ」というメッセージみたいなものか>下賜

真田をアクション映画的に楽しみたい人には映画「真田幸村の謀略」がお勧め。
加藤清正が朝鮮から連れてかえった大きな虎を熊本城で飼っているわ、真田十勇士が登場するわ、破天荒な設定&ストーリー。
幸村の首実検に信尹でなく信之(演:梅宮辰夫)が登場。
人によって評価が大きく異なる映画だと思う(当たり/はずれのギャップが大きそうな映画)。
核心部分を少しだけ、「幸村の首か」と問われた信之は心の中で「違う」と呟きながらも、幸村の首です、とか肯定し、
結果的には幸村を逃がすことになってしまうのであった。

191 :
>>188
信繁厨は見もせず偽と決め付けるから始末に終えん

192 :
>>191
お前がな

193 :
子供の頃に読んだ本にこんな逸話があった。
大坂冬の陣講和の後に信繁が徳川方の真田陣所を訪れたときのこと。
信繁は信之の庶子とはにこやかに喋ったが、小松殿が生んだ子とは顔を合わせようともしなかった。
信繁が小松殿(≒徳川)を憎んでいたという逸話だったが、考えてみればおかしなもの。
例えば、九度山蟄居の時代に昌幸・信繁は小松殿から好物を送ってもらっていて憎んでるはずはないのであった

194 :
それはそれ、これはこれ

195 :
小説・映画・ドラマでお馴染みの信繁(幸村)の影武者
「真田太平記」では影武者登場、「葵徳川三代」では影武者不登場など。
影武者は通常史料に明記されない。
しかし影武者の存在を明記した稀有な例もあった。それは山内一豊。(『一豊公記』か何かの史料)
種崎浜(桂浜)で長宗我部の遺臣を討ち取った為、一豊の命が狙われる可能性が高く、6人くらいの影武者がいたという。

196 :
目立つ兜を被るだけで即席・使い捨ての影武者の出来上がり

197 :
>>194
なるほど。
以下妄想で書いてみる
九度山蟄居

昌幸死去

昌幸死去で家臣の多くが信之のもとに戻り、いっそう寂しい九度山生活

信繁「父上(昌幸)が亡くなっても徳川は私を世に復帰させてはくれないのか」と徳川への憎しみが募る
みたいな感じで考えると>>193は結構まともな逸話だったのか。

198 :
>>197
あとコンビニでたまたま見つけた本で、犬伏の別れの頃の幸村(信繁)が
信幸を殺そうとして昌幸に止められたという話が載っていた
情報元は慶長年中卜斎記らしい

199 :
>>198
それは凄い逸話だ

200 :
直接殺そうとした訳ではないけどね
家族会議が終わった後、信幸のいる建物に放火しようとしただけで

201 :
小松殿の名前こそ出てこないものの>>193と類似の逸話があった
叔父甥(信繁、信吉、信政)会見
御辺四才の時対面して後、今夜初めて也。思いのほか成人となり、器量骨柄世に越えて覚えたり。伊豆守殿も年寄たまう共気遣いなし。(『翁物語』)
信吉が弟信政を紹介しても信繁は会釈するだけで、とうとう信吉としか話さなかったという。

202 :
今日は久しぶりに毒を吐いてみようか。
広く伝わっていないのは現物がなくなっているからでしょう。
学者先生が二次資料の存在を知らないか無視しているか。
どうして無視かというとね、自分の論文(物語)のスジが成り立たなくなるんだな。
そんな学者だ研究者だ俺が第一人者だというのが大勢いるから素人は混乱するよね。
学会なんてものは自分たちに不利になるものはニセとかそういう形で片づけるものです。
http://6100.teacup.com/sanada1/bbs?page=1&

203 :
ああ、”ガッカイ”という正体不明の生物がいると信じているのか。お気の毒に

204 :
>>203
>>169
> >>155
> 真田幸村の実名は幸村(6) 投稿者:代々記 投稿日:2011年12月28日(水)10時44分20秒
> ・慶長20年(1615)5月2日 蓮花定院宛 「左衛門佐 幸村」
>
> 学会で偽ものと判明してますよ

205 :
そもそも写しだって言ってんのに本物も偽物も無いと思うんだが

206 :
大坂夏の陣での信吉・信政については何を見てもろくなものがないなぁ。
大坂夏の陣で、毛利勝永にフルボッコにされ敗走しながらも無事帰国した真田信吉・信政兄弟に小松殿が「兄と弟、ふたりもいるのだからひとりくらい討死して忠節を尽せばよいものを。(あら、どっちか片方死んでも良かったのに。)」
信之、大ウケ。
信吉・信政、歯ぎしり。
こんな作り話が出るほど武功はあまりなかった

207 :
草津温泉と大谷吉継と真田信繁(幸村)
大谷吉継は、文禄3年(1594)に草津温泉へ。
直江兼続に宛てた書状に「草津の湯は眼に効いた」と書いていたらしいことから、その事実が確認できるかも?
草津の湯が病に効くことは当時から評判だったものと推測。吉継の娘は真田信繁に嫁いでいるので、その縁を頼って草津に来たのかもしれない。

208 :
>>201は正確には信繁(幸村)は信政ともほんの少しだけ喋っているのだが、信政が生意気にも叔父の信繁を挑発するような言葉を少し言い放っている。
素人の感想としては「偉大な父(信之)に似ず、ろくな武功もなかったくせに」だ。

209 :
>>193>>201>>208関連で
信吉「和睦が成立しなかったら真田丸は寄せ手によって押しつぶされていたでしょう」
信繁(幸村)「あの砦(真田丸)を押しつぶす?それは至難の業でしょうね」
こんなんじゃ信繁は信吉を相手にせず、信政とのみ話したわけだ。
「信吉嫌い」になりそうだ

210 :
>>206 そりゃあ皮肉だろう
小松は弟や矢沢さんに二人をお願いって頼み込んでるのに
生きて帰ることが一番の功だろうよ

211 :
>>209
信吉・信政をタイプミスしてた。。。。

212 :
信政「和睦が成立しなかったら真田丸は寄せ手によって押しつぶされていたでしょう」
信繁(幸村)「あの砦(真田丸)を押しつぶす?それは至難の業でしょうね」
こんなんじゃ信繁は信政を相手にせず、信吉とのみ話したわけだ。

※信吉と信政のタイプミスを訂正して投稿し直しました。

213 :
>>205
信繁厨は大嘘つきだからな(笑)

214 :
>>213
お前自身は嘘つきでないと言えるのか?

215 :
いや、だから写しに幸村って書いてたって何の証左にもならんって事なんだけどな。
こう書いてあったよって、書いてるだけなわけで。
堂々と写しだって書かれてる物を本人の直筆だって言ってる時点で完全にお花畑だろ。

216 :
マジレス 投稿者:矢沢 投稿日:2012年 6月 8日(金)21時39分26秒
>・慶長20年(1615)5月2日 蓮花定院宛 「左衛門佐 幸村」
学会で偽物と判明しています。

マジレス 投稿者:矢沢 投稿日:2012年 6月 8日(金)21時39分26秒
>・慶長20年(1615)5月2日 蓮花定院宛 「左衛門佐 幸村」
学会で偽物と判明しています。
マジレス 投稿者:矢沢 投稿日:2012年 6月 8日(金)21時39分26秒
>・慶長20年(1615)5月2日 蓮花定院宛 「左衛門佐 幸村」
学会で偽物と判明しています。
マジレス 投稿者:矢沢 投稿日:2012年 6月 8日(金)21時39分26秒
>・慶長20年(1615)5月2日 蓮花定院宛 「左衛門佐 幸村」
学会で偽物と判明しています。
マジレス 投稿者:矢沢 投稿日:2012年 6月 8日(金)21時39分26秒
>・慶長20年(1615)5月2日 蓮花定院宛 「左衛門佐 幸村」
学会で偽物と判明しています。
マジレス 投稿者:矢沢 投稿日:2012年 6月 8日(金)21時39分26秒
>・慶長20年(1615)5月2日 蓮花定院宛 「左衛門佐 幸村」
学会で偽物と判明しています。
http://6100.teacup.com/sanada1/bbs?page=1&

217 :
>>215 結局はそれは写しである時点で本物じゃないからな
幸村は本人が使ってたってという証拠にはならない
だからこそ難波戦記のころから使われ始めたでいいじゃないか…
それがなぜに駄目なんだろう?
真田信繁が幸村と言われているだけなのにな…
幸村オタの信繁否定が全く理解できない

218 :
幸村っていうのは物語の英雄であって歴史上の人物じゃない
仙台が幸村って云って顕彰していたのは「物語の主人公としての幸村」で勇猛でカッコいい人物であって
必ずしも信繁である必要は無いんだよ
幸村と信繁は別に考えないと駄目

219 :
>>218
あのなぁ、お前みたいなのがいるから幸村荒らしが出て来んのが分かんない?
そもそも歴史上の人物なんてほとんどが軍記・講談ベースで語られてるわけで、そこに諱は全く関係無い。
それとも難波戦記の登場人物の諱が全部違うとでも思ってる?
小身の者なら諱がはっきり分かっていなかったり、誤って伝わっていたりなんていうのは
山ほどあるわけで、そこに固執するのはあまりにも馬鹿馬鹿しい。

220 :
ま、幸村の話は全部物語なんで関係ないです。

221 :
真田家は全て幸村で記録を残してるんだけどな
まあお前みたいなキチガイはさっさと精神病院へ行くといいよ

222 :
>>220
ここは幸村のスレだ
信繁について語りたいのなら他のスレへ行けボケ!!!!!

223 :
本名を載せるとまずいくらいの重罪人だから
あえて偽名を使ってるだけの話だけどな

224 :
別に信繁についても語る気ないよ

225 :
>>223
そんなもんはお前の妄想

226 :
お前が言うな

227 :
完。

228 :
信幸が有名なのは信繁が英雄になったおかげ
根本が分かってないやつ多すぎる
信繁がいなければ信幸はもっとマイナーだったはず

229 :
53 :人間七七四年 :2012/06/11(月) 00:11:01.04 ID:1RXvk0H1
信幸が有名なのは信繁が英雄になったおかげ
根本が分かってないやつ多すぎる
信繁がいなければ信幸はもっとマイナーだったよ

釣り乙

230 :
大坂夏の陣後、信之が弟の墓を建てたいと思ったが、本名では藩取り潰し絶好の口実になるので
幸村という名前で墓を建てた
それで幸村という名前が定着して、真田本家も幸村で記録している
江戸時代芝居で石田三成の名を使うと幕府に咎められる危険があったから
「岩田光成」なる役名で登場させた例と同じっぽいですね

231 :
大阪の陣の頃に信幸は病気していたらしいが、何の病気だったんだ?

232 :
>230
で、その信之が建てた「幸村」の墓はドコに在るんですか?
松代 長国寺に在るのは後世になって真田家の方が建てた供養塔でかなり新しいですよ?

233 :
長国時の物は 真田幸昌と真田信繁の連名の供養塔です

234 :

お前らがこのスレで信繁の事ばっかり書くから、幸村厨がまた下のスレを荒らしてるないか
いい加減にしろ
幸隆信綱】真田家当主を語るスレ5【昌幸信幸信政
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1337431919/

235 :
>>229
釣りじゃねーよ
野球は巨人のおかげで昭和時代に国民的スポーツになり他のチームも恩恵を受けてる

236 :
>>232
信之は松代藩主になった後に武田典厩信繁の墓があった鶴巣寺を整備して典厩寺としているけど、
その信繁の墓所内にある五輪塔の一つが幸村(信繁)の墓だという説がある
弟と同じ名の典厩の墓を隠れ蓑のように使い、弟を偲んだのだとか
230は、その説と混同しているんじゃないか?

237 :
>236
はい、典厩寺なら知っています。 真田家として大切にしていたお寺ですね。

238 :
66 :人間七七四年 :2012/06/11(月) 22:28:30.58 ID:lkkiSDLH
幸村は「真好白」と名乗ってた時期もあったから
いよいよ死ぬという間際になって、父の「幸」を付けて死のうと「幸村」と改めても不思議でもなんでもない
現に写しであるにせよ「幸村」との署名がある以上、幸村に変えたのは間違いない
写しが史料にならないと言うのなら、大半の史料がアウトって事になる
らしい

239 :
真田幸村の実名は幸村(6) 投稿者:代々記 投稿日:2011年12月28日(水)10時44分20秒
・慶長20年(1615)5月2日 蓮花定院宛 「左衛門佐 幸村」

ヨイショしてくれるはずの地方紙からも地方自治体からも「一切相手にされず」w

240 :
どこの地方紙、地方自治体が幸村から信繁に変えたの?

241 :
それくらい自分で考えろ

242 :
>>240
>幸村から信繁に変えたの?
そういう意味ではなくて、本来なら「大発見」と大騒ぎしてくれる地元メディア、自治体にその史料らしきものがスルーされてるってことだよ

243 :
それは元から幸村で定着してしまっているので
わざわざ取り上げるほどの事でもないから

244 :
>>243
一般常識すらないのか・・・。
真田信繁が生前に幸村を名乗っている証拠が見つかれば
ほれ見たことかと大騒ぎ。
幸村ヨイショの長野や和歌山の地方紙は勿論のこと全国紙レベル。

245 :
>・慶長20年(1615)5月2日 蓮花定院宛 「左衛門佐 幸村」
これが証拠
写しだからと言って否定するのなら、日本書紀も否定する事になる

246 :
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81
じゃあwikiに書いてみろよw

247 :
夏の陣での死の2ヶ月前に「幸村」と改名したという説もあるが、大坂冬の陣と大坂夏
の陣の半ばの慶長20年2月に叔父にあてた手紙や兄・姉にあてた手紙にも「信繁」と記
されており、史料による裏づけはない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81
史料による裏づけはないw
史料による裏づけはないw
史料による裏づけはないw
史料による裏づけはないw
史料による裏づけはないw

248 :
素人キチガイのwikiなんか持ち出してアホか?

249 :
歴史学を否定するのは勝手だが、
書状写しだけで通説を覆せるほど甘くないよ。
書状写しが根拠になりうるのは、
別の史料で補強できるときだけだよ。
書状写し1通だけでは捏造の可能性が否定できない。

250 :
完全に否定する根拠にもならないのに
何を抜かしてるんだこの馬鹿は

251 :
そう思いたいんなら、ここに来るな
書くな、口に出すな

252 :
>>250 バカはお前だ
史料による裏付けがない以上
証拠がない限り幸村と生前に名乗ったということにはならない

253 :
挙証責任があるのは通説を否定する側だよ。
通説側が「完全に否定する根拠」を挙げるのではなく、
新説側が「完全に肯定する根拠」を挙げないといけない、
ということ。
書状の証拠が写ししか無いのなら、
同時代の日記で「幸村」と呼ばれている例を探すとか。

254 :
>>253
日本書紀は全部出鱈目なわけ?
何を抜かしてるんだこのアホは

255 :
>>247
せめてこういうような史料もあると、客観的な検証をしなければならないのに
それすら取り上げず、一方的に史料による裏づけはないと決め付けてしまっている
さすがは知障の巣窟だな

256 :
>>254-255
話をそらすな

257 :
話しをそらしてるのは信繁厨の方だ

258 :
釣り乙

259 :
引き続き幸村の嘘と文書偽造犯の話題をどうぞ

260 :
それは信繁厨の馬鹿が証拠も何もないのに
でっちあげの文書偽造と決め付けてるだけ

261 :
>>260
お前が失敗する度に他人に罪を着せてるのはもう分かってるよ

262 :

代々記
Remote Host: p4254-ipbf2106funabasi.chiba.ocn.ne.jp
真武勇者
Remote Host: eaoska033200.adsl.ppp.infoweb.ne.jp

263 :
信繁厨の矢沢は大嘘つき(笑)
こんな幼稚園でもバレバレの嘘をついて恥ずかしくないの(笑)
>マジレス 投稿者:矢沢 投稿日:2012年 6月 8日(金)21時39分26秒
> >・慶長20年(1615)5月2日 蓮花定院宛 「左衛門佐 幸村」
>
>学会で偽物と判明しています。


264 :
史料ないからなー
かわいそうな次男坊
信繁の名自体もあやふやらしいけど
こっちはちゃんと史料による裏付けがあるのよね

265 :
>>264
お前は日本書紀は史料と一切認めないわけ?

266 :
>>265
ちゃんと検証された結果認められてるもの
詐欺野郎の偽文書はそれ以前の問題

267 :
誰が検証したというんだ?
ゆうてみろボケ!!!!
で、これはお前の脳内だけで偽って決め付けてるだけだから、史料として否定されてない
>・慶長20年(1615)5月2日 蓮花定院宛 「左衛門佐 幸村」

268 :
多数の学者
例の幸村偽文書は素人でも偽者と見破れる程度のレベル

269 :
また嘘か
5月3日から7日までの信繁の書状でもあれば
これは100%捏造と決め付けてよい
信繁厨は幼稚園以下のアホだから本当に困るね(笑)

270 :
>>269
ご苦労様

271 :
それより大嘘つきの矢沢
なんでここで反論しないの(笑)
http://6100.teacup.com/sanada1/bbs?page=1&

ヘタレのチキン野郎に成り下がったの?(笑)

272 :
腰抜けはお前だろ

273 :
真武勇者の投稿は二つとも削除されてるねwww

274 :
個人サイトでは管理人=神、最高権力者
しかもアレな人が管理人だから耳障りのいいこと以外は書き込まないほうがいいよ

275 :
>>267 同時代の史料には真田左衛門佐でしかのってない
裏付けがない証拠のひとつ
本人の直筆も信仍か信繁のみ

276 :
あと花押の有無ね

277 :
ひたすら否定する信繁厨の馬鹿たち(笑)
>・慶長20年(1615)5月2日 蓮花定院宛 「左衛門佐 幸村」
よっぽど都合悪いからね(笑)

278 :
>>277
偽造なのに…。うん、お大事にね。

279 :
5月3日から7日までの信繁の書状でもあれば
これは100%偽造と決め付けてよい
信繁厨は幼稚園以下のアホだから本当に困るね(笑)

280 :
ファビョった信繁厨は
「ギゾー、ギゾー、ネツゾー、ネツゾー」と吼えるしかないからwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

281 :
警察相手にもこの口調で説得しろよ

282 :
武功夜話みたいに理路整然と偽書を説明できるのならいいけど
「ギゾー、ギゾー、ネツゾー、ネツゾー」と吼えてるだけじゃ誰も相手にしてくれないよ。

283 :
>>282
ここまでのレスおおまかにさえ読まずに書き込んでないか?

284 :
>・慶長20年(1615)5月2日 蓮花定院宛 「左衛門佐 幸村」

5月3日から7日までの信繁の書状でも出ない限り、偽造でも捏造でもない

285 :
「幸村」の名前の由来は「誰が、何のために」ってのが重要なんだよな
そこの辺りに確固とした何かがないからわけがわからない

286 :
伊達家

287 :
日本史板
真田幸村の実名は幸村だった
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1339568615/

288 :
vipにも同じスレ立てやがったな

289 :
>>288
あちらの板は日本史の知識が豊富な奴が多いから
お前も詭弁を書くのに大変だな(笑)

290 :
17 :日本@名無史さん :sage :2012/06/14(木) 00:11:07.93
>>15
極めて史料価値の高いとの評価がある
ただ信繁オタだけは断固、史料価値を認めない
まあ、任那日本府を絶対に認めないチョンのような物
(笑)

291 :
なんか今BSで真田丸の事やっているな
仕事でよく見れんが

292 :
>>291 nhkは再放送やるからまた見れるよ

293 :
見たが信繁って名前も怪しいって言ってたね!
残念だが再放送は今朝だったねw

294 :
>>291
残念ながら3人の出演者による信繁のイメージアップのための勝手な妄想像を語る番組と化していた。
感情的なファンなら大喜びする内容だろうが客観的なファンや冷静なファンなら間違いなく失望する。
昨今のテレビゲーム等で信繁を好きになった歴女が語る様な内容のレベル。

295 :
>>294
信繁など出て来なかった
幸村だろうが
目と耳がおかしいのか?

296 :
お前の価値観のがひどい

297 :
信繁厨は王仁が漢字を伝えたのは信じる癖に、任那日本府は絶対に認めないチョンと全く一緒

298 :
金がほしいまで読んだ

299 :
>>293 >>287のスレによると
信仍が一番の候補らしい
信賀とも
でも本人があまりに字が汚いので
判別が付きづらいらしい
わざと崩してる可能性もあるけど
信繁という名も最近の研究でわかってきたことらしいので
なんせ史料が少ないので謎だらけ
死んでしまってから有名になる人には往々にしてあることだ

300 :
信繁のみに拘る馬鹿涙目(笑)

301 :
幸村という虚構に執着する阿呆乙

302 :
幸村は物語の主人公だろ ソレで決まり

303 :
真田信繁 〜〜幸村と呼ばれた男〜〜
というタイトルでの番組を考えてるテレビ局があるそうだ

304 :
信繁って名前も怪しいって今日のテレビで言ってたのに
信繁厨はあまりの事にとうとう発狂したようだ(笑)

305 :
>>304 お前が必死で擁護している作られた幸村よりよっぽど信憑性あるんだぞ
信仍・信賀≧信繁>>>>史実の壁>>>>>>>>>>>>>幸村

306 :
大学院で日本史学やってるけど普通に幸村だな
教官も幸村って言ってるし

307 :
>>306 それは俗称だし一般的にはいいと思うよ
但し実際は信繁または信仍という名前だという事実は変わらないだけで
最近は歴女とかのブームの影響で
幸村=信繁っていうのは広がってきてる
実際にテレビなどでは信繁と注釈をいれてから
幸村として扱うところも増えてる
狂った幸村オタはそれが気に入らないみたいだけどね

308 :
眞田左衛門佐の本名って松代のどっかの蔵の書物に書いてないのかな?(笑)
兄 信之なら本名でカキコするだろうw
なんか24時間警備してた怪しい蔵があったみたいだね!

309 :
真田家の記録には全部幸村になってる
それ以外の名前など全くなし
信繁は怪しいって事だからもう幸村で決まり

310 :

代々記
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戦国板の幸村荒らし
真武勇者
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311 :
>>309
1594年に豊臣家から官位を授けられた時は、豊臣信繁として記録されているけどな

312 :
幸村を実在の人物だとするから騒動になる
幸村は物語の主人公
信繁やその他の人のエピソードが含まれた架空の人物


313 :
>>311
ねねも豊臣秀子と記録されてるんだけどな
しかし、誰も秀子なんて呼ばんだろ?
アホと違うかお前

314 :
>>313 俗称と区別のつかないアホ発見
>>312 その通りだと思う

315 :
まあ幸村の名前は信繁とは言えないってのは
先日のテレビで確定済み
これからは信仍か信賀とでも呼ぶ?(笑)

316 :
>>315 それはない
本人の直筆の書状には信繁と書いてるので

317 :
豊臣秀子じゃなくて豊臣吉子な
その程度の知識で人をアホ呼ばわりとは
元の名は寧だろうけど、叙位のときに諱を吉子とした

318 :
>>316
そもそも慶長20年3月10日に出した最期の手紙の内容からして、もう手紙を出す理由なんてないしな
出したら出したで武士としても偉い恥知らずだ
あとこの手紙には真左衛門佐 信繁(花押)ときちんと署名されている

319 :
>>317 信繁も意外とそうだったじゃないかな?と思ってる
幸村は論外なので触れませんが
官位を得る時に
親父からアドバイスを受けて信繁と名を改めたんじゃないかな?と

320 :
信繁厨完全敗北
涙目(笑)

321 :
幸村厨って何で史料を読まないのか不思議だ。
同時代史料では信繁(ないし信仍)と書かれているのに、
編纂物や写しを根拠にひっくり返せるとでも思っているのかな?
編纂物である日本書紀を例に、書状の写しを擁護したりw
たぶん編纂物と書状・日記との史料的意義がわからないのだろうけど。

322 :
信繁厨完全敗北
必死すぎて笑える

323 :
08NdGIaoよ涙ふけよ

324 :
真田家が編纂した『左衛門佐君記稿』には滋野幸村、初め信繁とあるので別に幸村と呼んでも間違いではない。
江戸時代の講談で真田「幸村」だ→講談は幕府に気を使った偽名だから本名は「信繁」だ
−と騒いでる人が多いだけでしょう。


325 :
高圧的に穴だらけかつ独りよがりの自説を
他者に押しつけようとするのが間違い

326 :
>>324
信繁厨完全大敗北
アホ丸出しの知障(笑)

327 :

こいつのように

328 :
間違えた、>>326

329 :
>>324 俗称としては幸村として間違いじゃない
なので幸村と呼ぶことはおかしなことじゃないんだ
狂った幸村オタである ID:08NdGIaoは
信繁と呼ばれること自体を否定したいらしい

330 :
>真田家が編纂した『左衛門佐君記稿』には滋野幸村、初め信繁とあるので別に幸村と呼んでも間違いではない。
>江戸時代の講談で真田「幸村」だ→講談は幕府に気を使った偽名だから本名は「信繁」だ

プッ!!!
幸村と信繁は別人などと大嘘ばっかりつく信繁厨完敗(笑)

331 :
>>330 はいはいID:IMRJxvbIに変えましたかwww
幸村厨乙

332 :
(・∀・)ニヤニヤ

333 :
>真田家が編纂した『左衛門佐君記稿』には滋野幸村、初め信繁とあるので別に幸村と呼んでも間違いではない。
信繁厨は幸村は小説の架空の人物などと馬鹿げた事を言ってたな
まともに物事を考える知能があるのだろうか?

334 :
お前が言うな

335 :
『左衛門佐君記稿』という物は1843年に編纂された物で
九州の薩摩 頴娃郡の浄門ケ嶽の麓に風来の山伏が住んでいて、それが幸村だったと云う話
結局、カッコいい幸村伝説

336 :
>>333 あははは(^−^)バカ丸出し
みじめだな幸村厨

337 :
でも、松代真田家が編纂した事に間違いは無い
「先公実録」の中の一遍
ウチの先祖にはこういう人がいたらしいよという伝記物

338 :
どこまで本当なのやら

339 :
真田郷は古代の官牧地域であり、経営には大伴氏があたっていたとされており、
滋野氏が入部する前から根を張っていたという説もある。
享保16年(1731年)に江戸藩邸が類焼したとき、多くの記録や文書が焼失し
たこともあり、さらに他大名に比べて家史の編纂事業が大幅に遅れていたことも
あって、真田氏に関する史料はあまりにも貧弱であり、幕末にやっと家臣河原綱
徳らが命により編纂した『真田家御事蹟稿』ができあがるが、『綱徳注記』によ
れば、すでに関連史料の多くが散逸してしまっていたという。『真田家文書』
『群馬県史』『信濃史料』『新編信濃史料叢書』など、近年真田氏の研究が進む
につれて、江戸期の編纂物に頼ってきた真田氏の歴史が見直されてきている。
>江戸期の編纂物に頼ってきた真田氏の歴史が見直されてきている。
>江戸期の編纂物に頼ってきた真田氏の歴史が見直されてきている。
>江戸期の編纂物に頼ってきた真田氏の歴史が見直されてきている。

340 :
普通に転載すれば、それなりに良かったものを
何で蛇足に等しい強調をするのかねぇ……

341 :
アホやから

342 :
わが町は仙台真田氏ゆかりの地
町ふるさとの歴史講演会
http://www.town.zao.miyagi.jp/koho/0912/kouhouzao542_hiroba.htm

343 :
仙台真田代々記 [単行本] 小西幸雄 (著)
絶版

344 :
http://www.town.zao.miyagi.jp/koho/0912/zaoko_image542/zaoko542_07.jpg

345 :
お花畑の郷土史家

346 :
(2010-11-8 7:47)
真田幸村や片倉小十郎について蔵王で対談
朝日新聞
対談したのは14代目の真田徹氏(62)=東京都杉並区=と、郷土史家の小西幸雄氏(62)=千葉県柏市。大坂夏の陣で戦った真田幸村と伊達政宗、片倉小十郎について、徹氏は「戦いの前から関係があり、子孫に関する約束があったのではないか」との見解を示した。
http://chiba.portal47.info/modules/news/index.php?page=clipping&clipping_id=12767

347 :
戦いの前から(性的)関係があり、子孫に関する(子供を作る)約束があったのではないか」

348 :
学者たちに相手にされないw代々記w

349 :
代々記age

350 :
井伊直政…菅貫太郎

351 :
なんでここ急速に寂れたわけ?

352 :
幸村厨が飽きたんだろw

353 :
信繁オタのキチガイっぷりに音を上げたんじゃないの?

354 :
>>352が呼び寄せた幸村オタの>>353が来た
わかりやすくてωαγοτα...φ(^Д^ )ギャハ

355 :
あげ
幸村の子孫はこの世のどこかにいるよね
俺も少し血が流れている

356 :
信繁の血が流れていると自慢する馬鹿は一人もいないが
幸村の子孫ならごまんといる

357 :
>>355
血の繋がった子孫はいません

358 :
氏素性の分からぬ輩を子孫として崇めている上田市、長野県などの自治体やテレビ局

359 :
某家の系図
江戸時代に3回も養子

(中略)

姉夫婦の子が養子として入り当主

360 :
大河真田は嵐大野が主役らしいな
怪物君しか見たことないけど結構棒だよね…大丈夫なんだろうか?
ジャニが主役だと嫌な予感しかしないわ

361 :
それガセだよ

362 :
幸村は上田城主 
信之は沼田城主
関ヶ原の10年前から沼田は上田とは別個の(いわゆる)藩として独立している。
そこを知らないと関ヶ原で何故兄弟が割れたかとか理解できないだろう
そして真田は代々関東管領の家来

363 :
幸村は上田城主じゃないぞ

364 :
大阪城では城主として遇されている
ポイントは上田と沼田は別個の組織

365 :
そういう意味ね
ところで、それに関連して幸村の正室が大谷吉継の娘じゃない可能性が
あるそうだがどうなんだろ

366 :
真田は元々関東管領の配下で、謙信が就任した時も真田は祝いの太刀を送っている。
その後、徳川に攻められた(第一次)時も景勝は上田城直近まで自ら救援に来てくれたし、秀吉を紹介してくれたり秀吉の前で沼田について庇う論陣をぶち上げたり相当に世話になっている。
昌幸は「秀頼にも徳川にも恩はない」と言っていたが、真田が恩を持ってるのは信玄と関東管領景勝のみなんだよな。
景勝は佐渡金山と直江港の超権益を豊臣に奪われているから豊臣嫌いだし、直江状の謀反(関東出兵)は真実だったとするならば、北条嫌いの佐竹と上杉臣下の真田と結んで関東を取り戻そうとしていたと見れる。
ってのはどうかな?もちろん関ヶ原とは別個の計画で。
途中で信之が裏切って徳川に走り昌幸と幸村の計画を漏らし、上杉討伐軍の本体である秀忠が真田を討ちに行った。
タイミング的には最良だし、秀忠が関ヶ原までの道のりを相当遠回りして一々真田を潰しに行ったという理由もそれならば説明がつく。



367 :
アホか。昌幸は景勝を何度を裏切ってると思ってるんだw
しまいにゃ景勝のところに人質にやった信繁を密かに脱出させて秀吉への人質にしてるし。
これだから講談小説脳は困る

368 :
信繁は景勝を仲介して移動させたと考えられないかな?
国人レベルの真田が単独で秀吉と交渉するのは実際はすごく大変な事。

369 :
石田三成は真田に「上杉との情報仲介役になってほしい」と申し出ただけで、兵を挙げてほしいとは頼んでいない。
なぜ数多く存在する大名の中で、上杉との仲介役に真田が選ばれたのか。
それは真田が上杉の下だからだろ。
関東管領たる景勝も相当に東北で粘ってるし、やる気まんまん。
ただ、直江兼続が思ったより戦争弱かったのが残念。

370 :
仲介役も何も三成は上杉の取次だぞ?直接のルート持ってる。仲介なんか必要ないわ。
どっからそんな阿呆な発想が出てくるんだ?

371 :
遠いからじゃん?
実際に仲介頼んでるだろ

372 :
>>368
ここは幸村スレじゃ!!!!
スレタイも読めない信繁厨はR!!!!!!!

373 :
>>371
自分で否定すんなやw

374 :
三成の書状では
  「上杉との情報やり取りの中継地点やってよ」
  「家康を西軍が叩けば上杉、佐竹、真田は関東乱入できるね」
だけ。
つまり、上杉(関東管領、主犯)、佐竹(藩北条)、真田(家臣)は共同して関東を切り取るつもりだった。
それを信之が家康に密告してばれたから上田に入って1月も後に、わざわざ上田くんだりまで上杉討伐本軍が攻略に来た。

375 :
上杉(関東管領)、佐竹(反北条、徳川)、真田(上杉配下)の関東乱入と三成の関ヶ原は別口で事前の共同歩調はとられていない。
最初から共同歩調を取っていれば、反家康的な大名も多かったので違った結果になったろうな。
某将昌幸は西軍の旗揚げを知って歯噛みしたに違いないな。

376 :
色々突っ込みどころがあるけど
「真田は代々関東管領の家来」という一文が謎すぎるんだが…
一体何の史料を見ればそう書いてあるんだ

377 :
ただの妄想だろ

378 :
>376
え、そっからですか??
家来って言葉がまずかったか??

379 :
幸綱以前の真田氏の動向を知ってるなら学会で発表すべし

380 :
真田幸村の幸は海野の諱。
真田は海野の支流ってこと。
そっからだとは思いませんでいた(汗
英語の話をしている時に、「アルファベットって何?」と言われるようなもので、ちょっと脱力でした(涙

381 :
そもそも真田が海野氏支流なんて自称にすぎないんだが

382 :
墓から骨掘り出してDNA鑑定でもするしか無いなw
湿気の多い日本では結構困難だが

383 :
真田=海野としても
「真田は代々関東管領の家来」てのは違和感
海野氏が関東管領の家来なり配下なり庇護下(全然守られてないが
だったのは1468年の海野大乱で海野氏が村上氏に大敗して勢力を弱めて以降だろ?
氏幸棟綱2代で代々って感じはしない
幸隆の代で関東管領とは切れてるし

384 :
実は↓を読んだんだ
真田一族―家康が恐れた最強軍団 相川司
けっこう高いし、それなりの知識を持ってる人しか買わないだろうけど、アマゾンのレビューでも全員が五つ星
本は友達に貸したから疑問には返答できない
面白かったんでよかったらどうぞ
この人の北条本も面白かった

385 :
なんだこいつ

386 :
頼むからその手の俗論臭満々の本の紹介はやめてくれ

387 :
俗論集?
読んでみると内容は非常に濃い
レビューの星が5だってのもわかる
表紙と表題はいただけないけどね

388 :
推理作家が書いたものを「非常に濃い」と言われても・・・
ちなみに1890円という価格は、歴史専門書ではありえないくらい安いぞ
「それなりの知識を持ってる人」はそんなもの買わないからレビューのしようがないぞ

389 :
1890円出す人ってのは本当に歴史が好きな人だな。
レビュー全員が☆5個。
まぁ読んでみ。
たいした額じゃないし。
ちなみに著者が書いた北条氏のも良かったが、あちらもレビューの星の数は最高。
おすすめ本だよ。読まないでグジャグジャ言うのはつまらないよ。

390 :
全ての疑問が氷解すると思う。

391 :
買って欲しいなら買って下さいと正直に

392 :
この面白さを他人に知ってほしい
買ってください
本当に目からうろこが落ちる本って少ないなぁ

393 :
どんな本を紹介しても、この手のスレでは叩きの材料と化してしまうよな

394 :
1円で中古本売っていれば買って見るけどなぁ
ネタ探しの為に買うのはめんどくさい

395 :
>>389
>1890円出す人ってのは本当に歴史が好きな人だな。
>たいした額じゃないし。
同じ文中で矛盾しててワロタ

396 :
>>390
学術論文に書き直して査読を受けたら、皆読んでくれるようになるよ

397 :
>戦国時代の馬は「ポニーサイズ」と断じ
レヴューのこの一文で個人的にパス確定

398 :
>>397
勉強してないことがまるわかりだよね、それだけでw

399 :
>戦国時代の馬は「ポニーサイズ」
違うの?
よく言われているじゃん。
今の競走馬みたいに大きかったのか?

400 :
>>399
間違いなく「ポニーサイズ」を誤解、もしくはミスリードしている事がありありと解る。

401 :
結局小さいんでしょ
393の言うとおり何でもネチネチ批判する
ここの人ってキモい
結婚したくないタイプだな

402 :
>>401
どう小さいと思ってるんだ?ポニーはどの程度の大きさだと思ってる?
そしてポニーだと何ができて何が出来ないか
言ってみろ

403 :
>>401
>戦国時代の馬は「ポニーサイズ」
というフレーズの由来を知らないから無邪気なことを言っているのだろうが、
さんざん議論された話題なので、少しは調べてから出直してほしい

404 :
まーたキチガイ武田厨が発狂してるのか
この板には真性キチガイ武田厨ってのが棲息していて
捏造戦国最強w騎馬軍団が実はタダのポニー軍団www
だと嘲笑されてるのが気に入らなくて嫌がらせするから気を付けて
キチガイはスルーというのがこの板のルールでもあります^^

405 :
正直言って、武田には興味無いので武田の話題は他所でやってくれ

406 :
たぶん大半が自分で飼ってる馬を戦場に連れてきたんだろうな
負け戦となれば繋いである自分の馬も心配だし
さっさと逃げるだろうね

407 :
>>404
なんか本当に気持ちの悪い人がいますよね・・・
唐突に絡んできたり、405みたいな仕切り屋とか
誰がどんなレスを付けようが自由なのに

408 :
こうやってこの板は過疎ってたんだろうな
やたら排他的な奴多過ぎだろ

409 :
お前みたいに自作自演で遊ぶバカが出てくるから過疎っていくんだよ

410 :
よほど悔しかったんだろう

411 :
武田の名を出すとやたら火病る奴いるよなw

412 :
384の本は確かに面白いぞ
史料を基にしているから説得力ある

413 :
そうか、じゃあその史料選択や解釈が正しいか、次は頑張って判断できるようになろうな。

414 :
読んでから言えよw
排他的な奴だな
日常生活送れてるか?

415 :
つかちゃんと読めてるのか?
理解の仕方に問題があるから突っ込まれてるんだろうに

416 :
排他的どころかものすごく丁寧に付き合ってるよな

417 :
何の根拠も挙げずに「読め」というのは、新興宗教の信者と変わらないな

418 :
まぁ読まないと否定出来ないので読んでみますw

419 :
良い奴だなw

420 :
秀忠の書状で、「上杉、佐竹、真田」が1セットで語られているのが残っている
上杉の有力同盟者の佐竹と被官の真田が同調して兵をおこしたのは間違いないだろうな。
佐竹は宇都宮、結城、蘆名の旧領を取り戻す因縁合戦的なものもあるし、徳川が人質だせというのを「ふざけるな!」って激怒して北条と近かった徳川に人質出せるかとつっぱねてる。
上杉から家紋をいただいている上杉配下の最上、伊達も上杉に同調するような書状を送ってたし、景勝は関東乱入をかなりの確率で成功すると思ってたろう。


421 :
当初の予定どおり、最上、伊達が上杉についたら火度由以前の様に関東は独立的な地域になってたかもね。

422 :
地理的な問題で 東北から関東へ攻める 関東から東北へ攻める どちらも結構難しいんだよね

423 :
三河物語にも「上杉、佐竹、真田」が西軍とは別に1セットで書かれている。
上杉の関東乱入が成功していたらなぁ。
三成が便乗して関ヶ原が勃発した流れだが、ときちんと連絡取ってればな。

424 :
真田は三成に応じて上田で籠城したのではなく、上杉と同調して出陣したものの小山で徳川勢が陣をかまえていたので上田に戻って籠城。
上杉討伐隊である秀忠は上田城を攻撃しに行く
間隙をついて西軍挙兵(上杉、真田、佐竹は西軍の挙兵を事前に知らず)
秀忠は慌てて関ヶ原へ→東軍勝利

425 :
上杉みたいな輜重の貧弱な家が関東になんか来れるかよw

426 :
上杉は国内大名格付け4位。
東北をまとめる奉行だったけどな。

427 :
ウィキに「松代へ移封した際には20万両という大金を持って入封した」
と書かれているけど、配流された父、弟の面倒もみてよく貯められたなと思う。
信幸も妻も倹約家だったと書かれているけど、倹約も限度があるだろうに。

428 :
父と弟の面倒を見てたのは真田家中だけじゃないし

429 :
農業や兵站を担う木曽馬が普及してた信濃や甲斐は
農業生産、輜重、重装備での行軍など
いろいろな面で活躍してた。
車のシフトチェンジみたいに、
馬力が必要なくひたすら早く走るだけの大陸の草原と違い、
山谷が多く起伏が激しい日本の国土では、
重い荷物を背負い傾斜の激しい峠を超えるため
馬力とスタミナが重視された。
これが木曽馬が文明開化前まで、
各農家で馬力を必要とする農業や荷物運びのために盛んに飼われた理由である。
家内で家族同然に飼われていた。
馬のサイズはむしろ

430 :
>配流された父、弟の面倒
早く焼酎おくって〜(泣  って位だから、大した援助はしてないんじゃないのかな
流人にあまりおおっぴらに援助するのもアレだろうし

431 :
それは月々の生活費に加えての分だろう

432 :
昌幸の「借金がかさんでいるので金を送って欲しい」という手紙は三男の昌親宛
幸村の「焼酎送れ」の手紙は九度山麓にいた家臣に宛てた手紙で
真田本家に対する物じゃないよ
真田本家としては表立って支援はできなかったんじゃないかな

433 :
真田日本一の兵のツワモノってどういう意味?
真田幸村自身のものか、真田隊に向けてのものか
ところで次次回大河ドラマは明智が急浮上か
真田も有力だったが厳しくなったな

434 :
大阪在住だけど大阪・上本町にはとんと縁がなく、昔そこにあったビクターのサービスセンターにお世話になったのと
ファミコン版ドラクエIIIを近鉄百貨店に買いに行ったぐらいでしたが、今月末に某所要で行くことになりました。
大阪冬の陣の激戦地だったここで逝ったかも知れない幸村のことを思いつつ、所要をこなそうと思います。合掌(-人-)
ちなみにこの辺、今でも土木工事やると普通に当時の戦死者の骨がゴロゴロ出てくるそうな…

435 :
そこではないよ
10万人の大虐殺があったのは大坂城本丸付近

436 :
10万人とか戦国時代の装備で殺せるかっつーの。頭おかしいわ

437 :
10万人って云う人間の単位がありえ無いわ
三国人の得意なねつ造だよ 日本人のフリをした在日大阪人

438 :
ドドンドドンドン 信繁!

439 :
真田幸村は日本ある限り永遠不滅の英雄です

440 :
学研の
まんが人物日本史シリーズの 「真田幸村―大阪冬の陣夏の陣」
病院の待合室で読んで驚いた
「日本史」と銘打ってあるのに真田十勇士が大活躍してたw
Amazonで見たらプレミア価格付いていやがるのw

441 :
既存マスコミが没落すれば今の秀吉以下の扱いになるかもなw

442 :
なあに今のチョンマスゴミからチョンが一斉に駆除される事なんかまずないから
安泰だよ
秀吉と皇室を蔑む内容が続くだけ

443 :
誰が至強か! 信幸!

444 :
>>440 真夜中なのに思いっ切り大笑いしたじゃないかwww

445 :
真田信幸って1590年の北条攻めの時の戦の戦歴ってどんな感じなのかな
色々本調べてるけどそこらへんの情報が殆どのってなくて
父弟と一緒にっていうのが定説だけど義父の忠勝指揮下っていう情報もあるし

446 :
1579年の小田原征伐の前哨戦 松井田城攻めがメインイベントだと思うけど篭城戦になってしまったからなぁ
前田利家、上杉景勝、真田昌幸 連合軍の中の侍大将クラスだろうから
信幸は物見としての活動くらいはしているだろうけど
持久戦1ヶ月後の4月22日に開城だから実戦闘は無いだろうな
次の年1590年、八王子城で同じ上杉景勝・前田利家・真田昌幸連合軍の中に信幸が加わっていたという資料は無いようだ


447 :
つまり、どこが持ち場だったか解らない訳ね

448 :
猿飛佐助の孫が主人公の時代劇テレビでやるらしい

449 :
>>433
今の大河なら大河化しない方が賢明。
こんな内容で大河化を切望してる奴は脳みそが腐ってんじゃんかろうかとさえ思う。
>>448
BS時代劇ね。
好評(高視聴率)なら薄桜記みたいに地上波でも放送されると思うが猿飛は正直厳しいと思う。
薄桜記は吉良家視点の忠臣蔵だから視聴者も食いつき易かった。
猿飛だと年配視聴者は子供騙しの時代劇として敬遠しそう。

450 :
>>440
学級文庫で置いてあるやつか。
本の表紙絵(カバーではない)の、幸村が騎乗で軍配を振っている姿がカッコよかった。

451 :
それかどうかわからないけど、中学校の図書室で借りた真田幸村、十勇士のマンガが格好良かったな。
影響でその後に出たファミコン真田十勇士を買っちゃったもんな。
ゲームも結構面白かった。
大河は直江兼続がアムロ化していてゲンナリ。
本当は権力欲とか凄くて景勝の長兄や藤田を追い出し、挙句の果てに家康領を攻め取ろうとしたのを恨みに思っていた家臣に密告されるような厳しい尖った奴だった。
兼続がもう少し安室だったら旧領復活と関東乱入も成功していたかもと思うとファンとしては残念。
しかし藤田め・・。
元巨人の藤田監督は藤田一族の末裔らしいけど許しがたい。
やつの出身は埼玉の寄居町用土だったかな。
見に行ったら用土城が再建築されてたな。


452 :
>>445
前田利家、上杉景勝と一緒に八王子城攻めに参加したはず。

453 :
長尾義景って若死にしたよね?

454 :
ネットで「真田幸村」「信州真田」を名乗る中年コスプレーヤー
よしお(群馬県沼田市・43才)中古下着集めが発覚し話題に
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298778555/

455 :
なんで幸村なのかが本気で理解できない
絡みや事績業績を考えるとどう考えても昌幸以外考えられない。

456 :
そりゃあ幸村の知名度が抜群だから

457 :
真田三代歴史検定
http://sanada3dai.web.fc2.com/

458 :
『関ヶ原合戦の際、信濃上田城(長野県上田市)で徳川秀忠軍を食い止めた真田昌幸・信繁(幸村)父子は、
紀伊国高野山麓の九度山での蟄居を命じられた。その生命を救ったのは東軍に付いた昌幸の長男・信之の
助命嘆願によるものであった。講談などでは、昌幸が打倒家康を果たすべく再起を期したというが、実際は
赦免を待ち望んでおり、国許から経済的援助を受けていたのが実情である。慶長十六年(1611)、昌幸は
無念のうちに病死し、信繁が大阪の陣で活躍する』
渡邊大門著「大阪落城」より

459 :
潰そうと思えば問答無用で潰せてんのに
徳川に嫌われながらも家を残したお兄ちゃん凄い!って奴はアホだよな

460 :
そもそも徳川に嫌われてたって話が嘘だから。
秀忠時代ですら譜代格で誰が見ても重用されておる。

461 :
で、実際のとこ真田信繁の武将としての実力はどうだったん?
一応同時代の数多くの史料にもその戦いぶりの凄まじさが載ってるが

462 :
講談本…。かな。

463 :
現場にいた人たちがビックリしたくらいだから相当なものだろう。
大阪城攻防戦でも大奮闘だし
野戦も城でもすごい。

464 :
>>461
真田信繁はスレ違い
スレタイも読めんのか
出て行けボケ!!!!!

465 :
真田信繁と書いて反応を見る

466 :
真田信ハゲ

467 :
10/28(日)は箕輪城祭りですが、本丸にて攻防戦にも参加します。
剣聖 上泉伊勢守秀綱VS武田典厩信繁もあり。
長野業正軍になるか武田軍になるかはまだ未定ですが、出来れば武田軍
がいいな・・・。ストーリー上は負けますけど・・・。
武田菱か真田六連銭の旗指物で出陣じゃ!エイエイオー!!

468 :
大河ドラマ「真田幸村」が実現しなくて残念だな

469 :
よしおウザい

470 :
>>461 大坂以外の史料ほどんど載ってないよ信繁さん
日本一の兵とは言うけれど将とは言わないことから
将としては並みだったのかな?と思う

471 :
信繁厨がキチガイの荒らし以外の何物でもないって事がよく分かったよ。

472 :
>>471 君が出ていけば良くね?チキガイ幸村オタ
信繁でも幸村でもいいんだよ
それが認められないなら真田家ファンとは呼べないから
このスレにいる必要もない

473 :
また自演ですか

474 :
>>472
お前のようなキチガイを排除するために
スレタイからわざわざ信繁を消して幸村したんだろうが
出て行けボケ!!!!

475 :
>>472
お前のような狂人の為のスレ
真田信繁を幸村と呼ぶ奴は失礼過ぎる
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300688625/

476 :
滋野一族の家系図で海野小次郎幸平室って書いてあるのを見つけてたのだが
この人の嫁ぎ先は真田幸隆のことで良いのだろうか?
海野棟綱の子か孫の代に海野幸平という人がいたのだろうか?

477 :
>>475 ???
失礼とか思ってないけど両方歓迎なんだよ俺
信繁でも幸村でもいいじゃんって思うから
一回一回信繁言うなーって奴はネタなの?
もしかして突っ込んだら負けってやつ?

478 :
>>477
お前がキチガイなだけ
さっさとあっちのスレへ帰れ!!!!

479 :
群馬県沼田市在住
田村よ○お 44歳
Rコスプレーヤ
女性中古下着愛好家
10月28日の箕輪城祭に出陣します。皆さん見にきてくらはい。
お願いしまいた。

480 :
よしお失せろ

481 :
笠松城って・・・・・
  http://www.hida-kankou.jp/spot/3216/

482 :
よしお失せろ

483 :
そしてこの板には誰もいなくなったw

484 :
大英雄幸村の決死の大活躍には今の人間に胸打つ物があるな

485 :
逃げたところを討ち取られたのに?

486 :
実際は家康は鉄砲の玉に当たって死んでいた
が、籠の中だったんでそのまま隠蔽し続けてた

487 :2012/10/25
負け惜しみ乙
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