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2012年1月1期戦国時代43: 剣豪将軍足利義輝 (612)
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剣豪将軍足利義輝
- 1 :06/06/17 〜 最終レス :12/01/05
- 五月雨は露か流れかほととぎす 我が名を挙げよ雲の上まで
- 2 :
- 義輝襲撃に久秀は関与してないとか
- 3 :
- 剣豪国司具教もよろしく
- 4 :
- やっぱ戦国といえば義輝公がいないと始まらないもんなあ
- 5 :
- >>2
史料によると実際に襲ったのが三好三人衆と松永久通ってやつだろう。
ただ、倅が参加してるところから察するに、うらに久秀がいた可能性は大だろ
- 6 :
- 結局新陰流と新当流どっちの使い手なんだ?
- 7 :
- >>6
両方の道を究め、近々足利流を創設する予定だったs(ry
- 8 :
- 義昭も剣の使い手なんだよな。
義輝は最期で随分イメージ的に得してる。
- 9 :
- 池上遼一の「信長」で義昭が義輝じゃないかというぐらい戦闘シーンがあったなあ
- 10 :
- 義輝の資料ってどんなの見ればいい?
- 11 :
- 当時の剣術は和歌なんかと同じ『芸』だから身分の高い人間がよく学んでいる
逆に言えば実戦派の中・下級クラスの武士にはあんまり縁が無く、不用と笑う雰囲気すらあったそうだ
- 12 :
- 高坂弾正曰く「太平な世の武士じゃあるまいし、剣だって乱世の武士は実戦でおぼえるもんだよ」
- 13 :
- 将軍が暗された事を民衆はどう捉えていたのだろうか
- 14 :
- どうも思わないだろ。
足利将軍家はされすぎ、廃嫡、都落ちしすぎ
- 15 :
- 南朝の親王が結構死んでるからな
因果応報かな
徳川の世ではありえない話になるが
- 16 :
- そういうな、義輝公は生まれが不幸なのさ
- 17 :
- こいつゲームでは結構強いんだけどね
- 18 :
- 義輝公よりひどい奴いただろ?
寺に首投げ込まれた奴が
- 19 :
- 義輝にも長慶暗未遂二件と義興毒の疑いがある
- 20 :
- >>19
あと長慶の岳父の遊佐長教暗にも疑いがある
- 21 :
- 足利将軍家ってすごい家だよな。
ある時、天皇をこえんばかりの権勢と実力をそなえ、
またある時はスパスパ将軍位の首を変えられ、命までとられてるんだからな。
- 22 :
- 義輝は、女将軍やったら燃え萌えやったんやけどな。
剣豪女将軍足利義輝たんを長慶・久秀と共に犯し倒すスレ(1001)とか……ハァハァ
- 23 :
- 次の将軍くじ引きで決めたりするからな
- 24 :
- きめぇ
- 25 :
- 『あの男はすのは簡単じゃ。最初は弱い雑兵を向かわせ義輝公をいきり立たせる。普通なら逃げるのだが、剣豪じゃからな。本心は人を斬りたくて斬りたくて仕方ないはずじゃ。で、前へ前へ出てきたとこで精鋭兵で囲めば討てる。』
松永弾正談。
- 26 :
- >>25
さすが久秀
リアリストだな
- 27 :
- >>25
それなんて小説?
- 28 :
- 25のどうじんしょうせつ
- 29 :
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「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」
- 30 :
- 「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」
これって辞世の句なの?
- 31 :
- うん こ
- 32 :
- >>30
そう
義輝のね
- 33 :
- 襲われて戦いながら「五月雨は〜」って辞世の句を書いてるの?
- 34 :
- 辞世の句ってのは前もって書いておくこともある。
- 35 :
- それが普通
- 36 :
- 戦死寸前に書いてる暇も無いし、予測できない突然死もあるし。
- 37 :
- ともあれ暇だったんだな
- 38 :
- ハァ?
- 39 :
- つまり、遺言状や遺書みたいなモンだったと。
- 40 :
- 本当かどうかは知らないが出てきたやつのコピベ
二条室町第に押し寄せた大軍を前に斬り死にの覚悟を決め、
愛蔵の名刀を幾振りか畳に突き立て、斬っては新刀に取り替え阿修羅のように剣を振るい、
もはやこれまでと覚悟した義輝はいったん奥に走り込んで、
「五月雨は露か涙かほととぎすわが名を遂げん雲の上まで」と辞世の句をしたためて
から、再びとって返そうとすところを、襖の陰から池田丹後守に槍でいきなり足を払われ転倒し、
何枚も襖をかけられて突きされた。義輝30歳であった。
- 41 :
- 二条御所襲撃の際も刀は数本畳にさして引き抜きながら戦ったと伝えられる。
- 42 :
- 秘蔵のコレクションを実戦で使わにゃならんのだから悲惨だよな
- 43 :
- 道具としては本望。
- 44 :
- 最後におもいっきり暴れられただけマシじゃまいか
毒よりマシ
- 45 :
- やっぱり剣術槍術弓術習ってるやつと
そうでない戦人には差があるんだろうか
氏真や朝倉の大将も習ってたみたいだけどそれを実践した記録ってあった?
- 46 :
- 六角義治は豊臣秀頼の弓術師範になったらしいからある程度の腕はあるんじゃないか
- 47 :
- 義輝は襲撃されたとき、蓄えていた金銀財宝を庭に投げ捨て、雑兵が戦うのも忘れて金銀財宝に群がったところを弓で射したという。戦上手!
- 48 :
- 頭はそこそこ回るっぽいし気概もある
もう少し幕府の権力がある時代に生まれてたらもっと活躍したかも知れんね
- 49 :
- 足利義輝の子供は生き残って足利義辰となって生駒氏に養育され細川に引き取られて
育ったらしい
- 50 :
- 義輝は個人的に好きだな。足利幕府の権威を取り戻すために強くなろうと努力したんだろうな、
そんな義輝に忠義を示したのが遥か越後の上杉謙信くらいしか居ないてのが寂しいな。
謙信がいると三好とかが大人しくなるが、居なくなると暴れ放題、
「足利将軍家」の危機と常に緊迫した状況にいた現実で義輝は精一杯もがいて戦ったんだな。
- 51 :
- 三好は三好でも長慶はあまり敵対するつもりがなかったように見える
まあ、だからって権勢くれてやるとは思ってなかっただろうが
- 52 :
- >>49
尾池玄蕃ですか
西山義辰は義晴の四男ともありますが・・・
- 53 :
- 足利義輝vsコモドゥス帝〜世紀の筋肉バカ対決〜
あと初歩的な質問で申し訳ないんだけどさ
どうして義輝に改名したの?
- 54 :
- >>53
名前を変えるのが流行ってたから
- 55 :
- 何では知らないけど、
天文二十三年(1554)だよね、義藤から義輝への改名
前年長慶に敗れて、近江朽木に逃れてるから、
心機一転とか、そこらじゃないかな
- 56 :
- >>52 尾池玄蕃
足利将軍家十三代義輝の子。諱は義辰、道鑑と号す。生没年不明。「全讃史」は玄蕃誕生の経緯を
次のように紹介している。「永禄八年松永弾正久通将軍義輝公を戮す。時に元妃烏丸氏方に娠めり。
近臣小早川外記、吉川斎宮、元妃を奉じて遁れ来り。尾池玄番光永(通称・嘉兵衛)の家に匿る。
数日にして義辰を生む。遂に御池を冒し、光永の嗣となす」
尾池氏は平頼盛の後胤とされるが頼盛の母を池禅尼と云う、この事から世の人々は頼盛の事を「池
殿」と称し、その子孫は「尾池」をもって氏とした。讃岐横井に采地二千貫を得横井城を築いた。
玄蕃は晩年讃岐にあって生駒家の庇護を受けたが、息西山右京が細川家に千石で召抱えられた。後
玄蕃も肥後入国、寛永十九年正月宮本武蔵と共に奥書院で藩主忠利に謁し杯を交わしたりしている。
又、一説ある。天文二十年(1551年)将軍義輝は三好長慶の謀反に会い、近江の朽木谷に逃
れる、その時に出来た子が玄蕃とされる。義輝は永禄八年(1565年)三好・松永の軍勢に襲撃
され自刃するが、浅井長政に預けられていた玄蕃は難を逃れる。長政が織田信長に滅ぼされた際、
三河の徳川家康の元へ落ち延び、後尾池光永の許に逃れ養子となったとされる。
はじめ足利左近、小池茂左衛門など称した。子孫は西山氏を名乗り、比着座同列定席の家格にて明
治にいたった。
- 57 :
- 尾池玄蕃
出自
父は足利義輝。母は愛妾の小侍従(義輝と同日にされる)とも元妃烏丸氏とも、名の伝わらぬ侍女ともいわれるが定かではない(烏丸氏が元妃(正妻)とあるが、義輝の正妻は近衛氏であり、この伝承は少々疑わしい)。
- 58 :
- 輝討死後、生駒家に仕えるまで
小侍従を母として
小侍従を母として生まれた玄蕃は幼名を宮千代丸といった。
永禄八(1565)年五月十九日、義輝と小侍従が三好・松永勢に
よってされたとき、二歳だった宮千代丸は近江高島郡日爪
城主尾池伊賀守のもとで育てられていたため難を逃れる。
以後、浅井長政の庇護を受けていたが、天正元(1573)年に
浅井家は滅んでしまう。そして宮千代丸は長政の子、万福丸かと
疑われて信長の前に引き出される。しかし信長が「万福丸」と
呼んだときは何も答えず、「宮千代丸」と呼んだとき初めて返事を
したので、疑いが晴れたという。それからは家康のもとに落ち延び、
のちには讃岐生駒家のもとにいた。
- 59 :
- 烏丸氏を母として
義輝がされたとき、烏丸氏は将軍近臣の小早川外記と吉川斎宮によって
讃岐横井城の尾池玄蕃光永のもとに落ち延びる。すでに身重であった烏丸氏は
数日して男子を生んだ。これが玄蕃である。玄蕃は光永の嗣子となり尾池を称した。
天正十(1582)年十一月、仙石秀久の家臣、上杉伊賀太郎が数百騎を率いて横井城を攻撃するが
玄蕃によって撃退され、伊賀太郎は討死した。のち生駒氏が讃岐の領主となると、千石をもって玄蕃を招いた。
侍女某を母として
義輝がされてしばらくのち、義輝の子を身ごもっていた侍女某は
男子を生む。これが玄蕃である。
そして義輝の家臣であった尾池帯刀は玄蕃を連れて讃岐に逃れた。
のち生駒家に仕えた帯刀は玄蕃を嗣子とした。
- 60 :
- 生駒家から細川家へ
生駒家で千石を領していた玄蕃は、のち知行を二分して長男伝右衛門と二男藤左衛門にそれぞれ与えたという話がある。また生駒家の重臣、前野助左衛門によって四百石召し上げられたという話もある。「生駒高俊分限帳」には
五百石 尾池藤左衛門
六百五石四斗 内五石四斗私田 尾池内蔵助
とあるという。尾池内蔵助(時期から考えて長男伝右衛門か)が領する六百石は当初の千石から四百石減じられた後の知行で、尾池藤左衛門の五百石は別に与えられたものか。
あるとき細川忠利(熊本初代藩主)は玄蕃のことを知り、玄蕃および一族を熊本に招いて客分とした。寛永十九(1642)年七月二十五日没。
- 61 :
- >>56-60
足利義輝の子、義辰の説明
- 62 :
- 剣豪将軍って側面が有名だけど、外交にも力を入れてたね。
紛争各地の調停や、長尾景虎や織田信長への謁見を許したりとか。
- 63 :
- その程度なら、みかどだってやってるよ
- 64 :
- なんせ曲がりなりにも室町殿なわけだから
ただ将軍は義材以来、京にいたりいなかったり
自然と朝廷と諸国大名の、直接交渉が始まった
これには朝廷の懐が非常に厳しいことも、関連してるが
- 65 :
- 義晴、義輝親子は気性が激しかったらしい
ともに近江に落ちながら、京に復帰してるから
まあ義材ってツワモノもいるけどね
- 66 :
- 京に戻ったってだけで気性が荒いってどうよ
- 67 :
- 気性はわからないけど義晴将軍の軌跡
大永元年(1521) 義稙が細川高国と不和、淡路に去る、高国の擁立により義晴が将軍に
大永七年(1527) 細川晴元が足利義維を擁立し、堺に拠る
同年 高国、三好元長や柳本賢治らに敗れ、義晴と近江へ逃亡、六角が庇護
享禄四年(1531) 高国が三好元長らに天王寺で敗れ、尼崎で自害
天文元年(1532) 晴元一向一揆の力で三好元長を敗死させ、近江より義晴を迎える
天文十六年(1547) 義晴が晴元と対立、義晴敗れ近江に逃れるが、同年和解し京に復帰
天文十八年(1549) 三好長慶に敗れ、義晴、晴元近江へ逃れ、六角を頼る
天文十九年(1550) 義晴近江穴太で病没
こんなとこかな?
- 68 :
- ふむ
- 69 :
- 辞世の句かっこいいな
- 70 :
- >>65
それだけ三好長慶が優しかっただけじゃないの。
死んだら速攻でされるし。
- 71 :
- 日本語でOK
- 72 :
- 一応訳すと
>>71二行目は
(長慶が)死んだら速攻で(義輝は)されるし
って事でしょ
- 73 :
- >>71二行目は→>>70二行目は
- 74 :
- 小説だけど、「剣豪将軍義輝」は結構面白い。
ttp://www.schizophonic.jp/MT/archives/2005/10/post_27.html
- 75 :
- このスレにいる人間で知らん奴はいないだろ
- 76 :
- 義輝ってある意味「売名将軍」だったよな
毛利輝元・今川氏輝・上杉輝虎・伊達輝宗・小野寺輝道・足利輝氏・細川藤孝・・・
結構な数に名前を売ってる
- 77 :
- 親父義晴も同じようなもんだ>名前の押し売り
あれでも地方大名としては権威付けになったんだろうね。
お手紙作戦も時代は違えど義昭と同レベルにやっている。
将軍家の権威再興ってやはり難しかったんだろうな。
その中では晴元、長慶の傀儡でありながら積極的に外交戦を展開したのは歴代では立派。
残念なのはやはり最期。戦国の将軍らしく何を捨ててでも近江に逃げなかったのはよくない。
生まれた時代が早くても遅くても成功しないであろう、異色の公方だったなあ。
- 78 :
- 義晴は調べれば調べるほど面白いね
- 79 :
- >>76
全部貧しいのが悪いんじゃ。
>>77
公方が逃げて縄目の恥辱に遭う不名誉を避けたのかな?
- 80 :
- というか足利将軍家は偏字ぶん撒いてる奴多いと思うが
- 81 :
- 鎌倉公方家は偏諱を受けなかったことが開戦理由になるくらいだったからな。
ただ幕府末期の義晴・義輝父子は押し売りに近いくらい名前を売っているな。
もっとも多くは守護大名クラス以上に対してで余り成り上がりには偏諱与えていなかったような。
- 82 :
- 京兆家みたいな特殊なところを除くと、
端緒は義材将軍かな
北畠材親とか伊達稙宗とか
- 83 :
- 大河ドラマにしたらいいのにな
そしたら義輝役は誰かな?
- 84 :
- 沖正也
- 85 :
- お塩先生
- 86 :
- 遺児を名乗る人物がそこそこいるが、真偽はどうかな?
>>83
北大路欣也
- 87 :
- この大河の出来は、松永久秀の俳優で決まる
- 88 :
- 豊川悦司松永久秀で。
- 89 :
- 朽木谷でのエピソードでも豊富にあれば大河になっても面白いんだがなあ。
都落ちの後は将軍就任、一時の返り咲き、そのあと朽木、帰洛してからは政治家、
そして壮絶な最期…
在京期間中の御内書外交戦は戦国大名オールスターが出てくるからど派手なんだが
自身の派手な合戦が最期くらいしかないってのがなあ。
帰洛のときの合戦は少数での陣取り争いだが妥協と外交って感じでいくさ好きにも
余り面白くないだろうし。
このスレで言うのは非常にまずいがどちらかと言えば松永久秀の大河が面白そう。
ただこれをやるのはちょっと視聴者に印象悪すぎるかな。
美化しようもない大悪人のイメージしかないからねえ。
- 90 :
- >>89
異聞のほうは読んだか?
脚本家の腕がよければあんなふうな話を注ぎ足せるだろう
- 91 :
- >>89
家康・秀忠・家光の3代でもやったんだから、義晴・義輝・義昭の
3代にすれば良いんじゃないかな。
ってあれ?12代・13代・15代?w
- 92 :
- >>89
松永大河は無理だろう。小説の主人公止まり。
大河はやっぱり主人公が「ヒーロー」か、
そうごまかせる美化要素がどこかにないと難しい。
皆があれだけ期待していた毛利元就のどれだけ無残だった事か。
尼子経久さんは最高だったが、松永もこういう風に脇で光るんじゃない?
- 93 :
- 呂宋助左衛門とか大村益次郎とか
獅子の時代とか山河燃ゆとかもあるし
- 94 :
- >>89
むしろNHK的には合戦がない方が美味しい
- 95 :
- >>93
大村益次郎はぜひ八嶋智人にやってもらいたいね
- 96 :
- >>86
何かで義輝役やったことあったよな
- 97 :
- >>18
誰?
- 98 :
- >>96
テレビ東京の「織田信長」みたい。
ttp://www.geocities.jp/kimkaz_labo/ashikaga.html
- 99 :
- >>98
なるほど。サンクス。
確か高橋英樹のやつだったか。
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