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2012年1月2期日本史21: 邪馬台国は西都原(宮崎県西都市)である (268)
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邪馬台国は西都原(宮崎県西都市)である
- 1 :11/01/31 〜 最終レス :12/01/19
- 邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
(日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
- 2 :
- 糞スレ乱立させるな。
九州説ヲタスレ統一でやれ。
- 3 :
- 霧島・新燃え岳の噴火が神武天皇東征の原因だろうな。
- 4 :
-
__ヘ_ヘ_ ___________
/∴∵(・) (・)∴\ /
/∴∵∴∵○∴∵ ヽ < おーい、またしょーもない
(∵∴∵●〜〜〜●∴) \ クソスレが見つかったぞ〜!
\∵∴∵∴∵∴∵/
\ ∵∴∵∴/
____
/ \
( ) ________
\ ∧ ∧ | /
| ・ ・ | < おめーさぁ、こんなクソスレ立てるから
| ○ | |○ | \厨房と言われてもおかしくねーんだよ。
| 凵 |
| ー |
|______|
___
/ \ ________
/ ∧ ∧ \ /
| ・ ・ | < おめーの事など必要としてるやつなんて
| )●( | \いねーからさっさと回線切って首吊って氏ねよ
\ ー ノ
\____/
- 5 :
- 黒板勝美は陵墓参考地の古墳を整形したり、日本書紀すら改竄した男だからな。
史書の抹はやってもおかしくないだろ。
- 6 :
- >>1 こと地家靖一
西都原に隣接する東都原(とうとばる)の地名はどう説明つくんだ?あ?
- 7 :
- いままで政府が邪馬台国の場所を必死に隠してた理由がよくわかりました。
- 8 :
- >>7
なんで?
- 9 :
- 本屋にいくと「天皇は朝鮮から来た」という書籍が多いけど違うやろ。
全ての歴史は現代史だから神武天皇をカムヤマトイワレヒコ命(朝鮮人)
にあてはめた維新直後当時の政府首脳たちの責任だろ
- 10 :
- >>3
今日の新燃岳の噴火のニュースで高原町の狭野神社が出ていた。
あの神社は神武天皇を祀ってある。
あの神社のもう少し新燃岳に近いところに皇子原という場所があって、
神武天皇はそこで生まれたとされる。
- 11 :
- あんだけ古墳造っといて
集落が分かんねぇんだよな
- 12 :
- 宮崎は、集落の跡なんかが出てきたら大変だと思っているんだろう。
わからないうちに、壊しちゃえ、なんてことがあるかもね。
- 13 :
- 宮崎には集落跡がたくさん出てるよ。
- 14 :
- 邪馬台国を隠蔽し大和=邪馬台国などとホラいいだしたのは実は「大正時代」からw
- 15 :
- 西都原はむかし、斎殿原(さいとのはる)とゆったの。
まんま、一大葬祭センターの意味よ。で・表題の話は・ちょん。
ここは古代名「児湯のあがた」。
児湯郡が、西都原をすっぽり囲んでるでしょ。まんま呼邑国です。
九州東側は山地の斜面が海岸まで迫っており、
数百年にわたって特定勢力が古墳を造りつづけるだけの生産力はない。
西の塚原古墳群と東西に配された倭国の国葬センターがいいところじゃない。
このトピックの運命も知れたね。
- 16 :
- >弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
小林氏がつくった「弥生の人口密集地」によれば、
筑後川東岸エリアから熊本平野と、飛んで諸県郡(都城から肝属郡一帯)。
もっと・しっかりした論拠を並べないと・いけませんね。
- 17 :
- 弥生時代っつっても、
前期中期後期で、全然違いそう。
- 18 :
- >前期中期後期で、全然違いそう。
違いそう・て。ただの推測?
前期中期後期で、ころころと人口密集地が変わったわけ?
いったい、何をいう気なんだい。
- 19 :
- なんか、どのくらいの古墳で、どのくらいの人数、あるいは土地面積が必要か
計算してみたいですね。
戦国から江戸時代にかけては、一万石当たり250人が、
労働力を拠出する目安のようです。
戦の時の兵はもちろん、江戸城普請なんかもこの人数が
基本にされたそうで。
- 20 :
- いったい・何をいう気なんだい。
- 21 :
- >数百年にわたって特定勢力が古墳を造りつづけるだけの生産力はない。
とりあえず、荒っぽく計測して、平野部分が400平方キロほどあるんですよね。
これは筑紫平野の1/3程に当たります。
水利や気候で筑紫平野と比べて、どの程度生産力が違うのかはわかりませんが、
ここで生産できる余剰生産力、言い換えれば古墳築造に割くことのできる人数が
どのくらいか、大雑把なオーダーは見積もれるのではないかと思います。
このうち実際に耕作する面積を1/4の100平方キロと見積もると、1反一石として
84000石なので、2000人強を常時農業以外に当てられる事になります。
ひとつの古墳で、のべ何人の労働力が必要になるかわかりませんが、
これくらいの人数はうごかせるでしょう。
これはかなり少なめに見積もっていますので、もうちょっと多いかもしれませんが
まあ、少ない方を採用しておいたほうが間違いは少ないでしょう。
- 22 :
- 西都原はかなり規模のデカイ古墳群遺跡だよ。人口30万人の邪馬台国にぴったりの場所。
- 23 :
- 倭人伝の行程は、末盧国から東南五百里に伊都国、その南に投馬国、邪馬台国だ。
伊都国は佐賀市付近。あとは必然的に日向が邪馬台国ということになる。
倭人伝の行程どおりで日向に至るということは絶対の強みだな。
- 24 :
- >数百年にわたって特定勢力が古墳を造りつづけるだけの生産力はない。
古墳を造り続けるのは、生産力がなければできないことか?
大和に生産力はあるか?
- 25 :
- 逆に古墳があるから、生産力があると考えるのが妥当。
日向の平野もそれなりに大きい、畿内の平野も大きい。
それでいい。変に我田引水の結論をひねり出さないのが大事。
- 26 :
- 日向市の地図を見ると耳川という川があるが、ミミは倭人伝の長官のミミだろうな。
そして奈良には耳成山がある。ミミナシ>ミミナリ(副官)だろう。
- 27 :
- >地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
都支国、好古国、伊都国にも都があったのだね。
>西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
西都原の古代名は「斎殿原」である。
7世紀の隋書は、対馬を「都斯麻」と書いている。
『8世紀初頭成立の日本書紀』は、都をことごとく「つ」と読ませる。
筑紫は地元では「つくし」と訛るが、地元の歴史書が「都久志」と書いている。
都を「と」と読むのは、唐音なるものが入ってきたあと、少なくとも8〜9世紀以降である。
そもそも「斎殿原」といった地名を、8〜9世紀に都を
「と」と読む時代巣に西都原と書いたと思われる。
そんなものを持ち出して、西都原には都がつくから憤怒んなどと、やってはいけない。
出だしの土台が願望空論だ。その上にいくら詭弁で構築しても意味はない。
地元迎合・地元びいきで前後不覚に暴走する九州説の典型として、
九州説がバカにされるネタをまくだけだ。
25 :日本@名無史さん
>変に我田引水の結論をひねり出さないのが大事。
この私にゆってらっしやるのでしょうか?。ね
- 28 :
- 好古国→→→好古都国
- 29 :
- 大古墳群がすなわち「都」があった証拠というならば、
日本列島には、時代ごとにそちこちに都が合った理屈になる。
短絡的我田引水とはこのことだね。
西都原古墳群も熊本の塚原古墳群も、倭国が設けた国家規模の墓域だろう。
ここには、朝鮮半島で戦死した人の墓も混じっている可能性がある。
副葬物は現地で仕入れた手みやげとか戦利品とか。キンキラ馬具や武具や。
その場合、副葬品だけで遺骸はないかも知れない。
こういう線で考えることのほうが重要だと思うよ。
- 30 :
- たしかに日向なら冬は温暖。奈良の真冬はさぶいさぶい
- 31 :
- 箸墓古墳を卑弥呼の墓だと言う人がかなりいるが、箸墓は前方後円墳で全長280mもあるのに
なんでこれが徑百餘歩の冢に見えるんだろ。おかしくないかい。
- 32 :
- >>31
箸墓を卑弥呼の墓に比定したのは、大正末期の笠井新也。
没年干支をいろいろ考えて、崇神天皇の時代と卑弥呼の時代が重なると考え、
その時代の倭迹迹日百襲姫を卑弥呼と考えた。
要するに、倭迹迹日百襲姫の墓である箸墓が卑弥呼の墓というわけ。
でも、その年代観は今となっては、ちょっと問題がある。
考古学的に箸墓の年代が遡り始めたのは吉野ケ里以降かな。
大きさも問題だったので、後円部が先に作られ、前方部はあとで継ぎ足された
という説も出た。後円部だけなら、径百歩に合うということだったのだろうが、
これは桜井市教育委員会の調査で完全否定。同時に作られたことがわかった。
このようにいろいろ問題がある上に、宮内庁の管轄で内部調査も出来ていない
わけだから、箸墓を卑弥呼の墓とするのはやっぱりおかしいな。
- 33 :
- 百襲媛と卑弥呼はほぼ同時代の女性だが別人だな。
前者のほうが少し早く亡くなっている。7〜8年くらいの差だ。
- 34 :
- 笠井新也氏はいい線を行っていたな。
だが、別人だよ。彼の言う崇神が卑弥呼の時代だということは、だいたい
合ってたのだ。
- 35 :
- >>11
だいじょうぶオレがカラダでわからせる
- 36 :
- 崇神天皇は350年前後じゃね
- 37 :
- 崇神活躍の代は卑弥呼の時代と重なるんだよ。
崇神のその年代は3世紀前半で、崩御はその半ばすぎ。
- 38 :
- 邪馬台国の比定地についてはいろいろあるが、日向ならば緯度的にみて
会稽東冶の東にもっとも近いということになるな。
- 39 :
- >>37
おい、太国 ◆yVAs7uaYlYさんよ。当時の人の歩く距離は1日で14キロ、2日で約28キロくらいでOK?
- 40 :
- >>39
今と大差ないだろう? まぁ現代より栄養不足とかなら、若干減らして
数字を考えるのは当然だろうが。しかし朝廷の場合は全国からうまいもの
なる食物がけっこう調達されて来てただろうから、減らす考えはそんなに
いらないと想うがね? その例として、仁徳天皇が当時の日本一の長寿者
と謳った武内宿禰がいるではないか。 彼は105歳だったと想える?
なんでそんなことを聞くのか? 例の半島渡海の論戦のことからか?
- 41 :
- そもそも福岡市近郊を奴国とする事が全ての間違いなんだよ
あの金印を素直に呼んで
漢の倭の奴国王ではなくて漢の委奴(イド)国王
委奴=怡土(イド)?福岡が奴国じゃないとすれば
魏志倭人伝の記述通りに末盧国=唐津、伊都国=吉野ヶ里、奴国=筑後川下流域そこから有明海を通って南に水行10日、そこから陸行1月
そう考えて行った方が自然じゃない?西都原じゃないとしてもその周辺、九州の南の方だと言う事は想像に難くない
- 42 :
- >>41
伊都国=吉野ヶ里ならば、そこはもう海だ。水行は伊都国から始まると考える
べきだろう。ということは、伊都国からの放射説が正しいということになる。
もっとも放射説でも、九州の南のほうであることはまちがいないだろうが。
- 43 :
- 女王国は、宇佐から西都原まで沿岸部に沿って存在した国であると比定しています。
一つの仮定として、『女王國東渡海千餘里復有國皆倭種』があり、女王国の東方
千里にまた倭種の国がある、とされている。
狗邪韓国〜対馬、対馬〜壱岐が千里とされているので、佐伯〜愛南なら
同程度の距離もあり、また倭種である。
『計其道里當在會稽東冶之東』とあるように、帯方郡より邪馬台国までの
方向、距離から推し量ると、その位置は、会稽、東冶のほぼ真東に当たります。
とされ、北部九州ではないことは明らかです。
ということで、北部九州でもなく、九州中東部全域を比定し、西都原には
限定したくありません。
- 44 :
- 宮崎県全部は間違いないだろう。熊本や大分にもかかるかも知れない。
卑弥呼がどこにいたかは遺跡などが発見されないと確定できない。西都原
は邪馬台国の主要な墓地の一つということだろう。
- 45 :
- >>31
方の部分は後代の付け足しだって説がある。
- 46 :
- >>23そのとおりだな。魏志倭人伝の記述通りだと、邪馬台国は西都原あたりになる。
魏志倭人伝の記述通りならば、近畿説は全く無理。
- 47 :
- 一昔前宮崎市に東都原古墳群があったそうです。140年ほど前まで。
宮崎駅の東側です。
西都原古墳群の倍の規模です。
当時中央から来た田辺という県令により整地させられ無に帰した
とさ
- 48 :
- >>26
耳川の河口が日向市美々津(耳津)神武大帝お船出の地とされ名物の餅は美々津の民が旅に出る神武帝に贈ったのが由来
木に何キロか行った日向市細島の元の名前は鋒島。
これも神武由来の地名。
- 49 :
- 東国バルが高千穂を江戸に遷します。
- 50 :
- 卑弥呼の時代は九州の南にあったと思うが
邪馬台国は時代によって首都が変わっていったと思う
- 51 :
- 九州の北じゃないの
- 52 :
- 北というには、水行十日陸行一月を無視するかトンデモ読みをしなければ
ならない。まともに読めば、南九州だよ。
- 53 :
- 西都原が邪馬台国かどうかはともかく、古代史を考えるうえで
重要な土地のひとつであることは確かだろう。
- 54 :
- >>53
同意。
西都原とその周辺がどの国に比定されるかわかったら,
邪馬台国がどこにあったかの有力な傍証になる可能性あるんじゃないかな。
- 55 :
- 邪馬台国は宮崎でした。
ですが、大津波で滅亡しました。
難民が新天地を求めて瀬戸内海を東へ旅しました。
俗に言う神武東征です。
- 56 :
- >>54
>西都原とその周辺がどの国に比定されるかわかったら,
>邪馬台国がどこにあったかの有力な傍証になる可能性あるんじゃないかな。
女王がどこに住んでいたかはともかく、西都原とその周辺も邪馬台国のうちだろう。
- 57 :
- >>26 >>48
支持します。
神武天皇の子には全てミミがつきます。日向から従った子はタギシミミ。二代天皇はカムミナカワミミ、
そのほかカムヤイミミ、キスミミがいます。
天孫降臨の神話から、日向が倭国の都とは思えません。
- 58 :
- 久留米から大分へ連なる耳納山。ミミ
- 59 :
- >>28
>日向市の地図を見ると耳川という川があるが、ミミは倭人伝の長官のミミだろうな。
>そして奈良には耳成山がある。ミミナシ>ミミナリ(副官)だろう。
ヒコホホデミ(神武)が投馬国(ツマコク)の官の家系である可能性が高い。
だとすると西都原古墳群も近い、西都市妻の都萬神社付近が、
投馬国の都と比定できる。
- 60 :
- >西都市妻の都萬神社付近が、投馬国の都と比定できる。
5万戸の大国の国名がそんな小さな地名になってるわけはないだろう。
- 61 :
- 対馬国、一支国、末櫨国、伊都国、奴国あたりまでしか、確定的に
場所を比定できなかった九州説が、投馬国を西都市妻と確定的に
統一的に主張できればおのずと狗奴国や邪馬台国が九州にあること
が見えてきます。
九州説統一の一歩と考えます。そして近畿説は消えるしかありません。
- 62 :
- け。
「いつ」と読むべきところほ「いと」と呼んだり、
「とうま」と読むべきものを「つま」と読んだり。
「邪馬台国論は自在なり」か。
いかにど素人の駄論・空論・願望ストーリーとはいえ、
少しは社会性というものを考えろ。
- 63 :
- 都城に「豊満」という古い地名がある。
あるサイトらよると、「とよみつ」を地元では「とっみっ」というそうだ。
これを「とま」と呼んでもいいか? どや
- 64 :
- 「みみ」にゴロ合わせするなら、やはり投馬国との関係だろう。
ミミとミミナリは投馬国の官吏だ。邪馬台国はその南。
バカづらさげた「続け読み」でいくと、
そこから水行10日と陸行30日だ。わっらわら
- 65 :
- >>58
>久留米から大分へ連なる耳納山。ミミ
耳納・水縄は「弥奴国」だろう。
- 66 :
- 都支→都城(つき)
- 67 :
- >>66
無知・無恥の・タコ。
都城という名がいつ誕生したのか、てめえで調べろ。
- 68 :
- 由来なんでいい加減なもんだ
- 69 :
- >>68
じゃ・はじめから・地名なんて・持ち出すな。
- 70 :
- >>65
西都市民だけど、妻のとなりに三納(みのう)という地区があるよ
三財と都於郡もなんかあるのかなあ?
- 71 :
- 俺が当初に書いたこと。再掲
>>15 :巨匠・伊作
西都原はむかし、斎殿原(さいとのはる)とゆったの。
まんま、一大葬祭センターの意味よ。で・表題の話は・ちょん。
ここは古代名「児湯のあがた」。
児湯郡が、西都原をすっぽり囲んでるでしょ。まんま呼邑国です。
九州東側は山地の斜面が海岸まで迫っており、
数百年にわたって特定勢力が古墳を造りつづけるだけの生産力はない。
西の塚原古墳群と東西に配された倭国の国葬センターがいいところじゃない。
このトピックの運命も知れたね。
>>16 :巨匠・伊作
>弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
小林氏がつくった「弥生の人口密集地」によれば、
筑後川東岸エリアから熊本平野と、飛んで諸県郡(都城から肝属郡一帯)。
もっと・しっかりした論拠を並べないと・いけませんね。
こんなクソトピック、放置して潰してしまえ。
- 72 :
- >>71
>児湯郡が、西都原をすっぽり囲んでるでしょ。まんま呼邑国です。
投馬国は児湯郡の領域より大きいと考えられ、西都市妻が児湯郡の中にある
から、投馬国の都ではないとするのは当たらない。
>>60
>
5万戸の大国の国名がそんな小さな地名になってるわけはないだろう。
国域が郡域より大きければ、国名は郡名では残らない。
大きな国名とその中心の地名が一致する例は、県名と中心域地名が一致する
例のようにある。
邪馬台国も領域が郡域よりも大きくて、郡名では見つからないために発見が
難しくなっていると考える。
- 73 :
- 30キロを2日で歩くんだよね
- 74 :
- >>72
>西都市妻が児湯郡の中にあるから、投馬国の都ではないとするのは当たらない。
て・あーた。
「とうま」と読むべきところを「つま」と読んで、
これを西都の都万(つま)に当てるのがフェアな手法だとでもいいうのかい。
- 75 :
- 投馬は「とうま」と読むべきと結論をだせるのだろうか?
児湯郡がまんま呼邑国です。とどうして結論を出せるのだろうか?
- 76 :
- あまり地名にはとらわれないことだね。伊都国=怡土もだめだし。
- 77 :
- 投馬國(つまこく)=薩摩國(さつまこく)
薩摩國(鹿児島県)は伊都國(糸島市)の南にある。
- 78 :
- そうか
- 79 :
- 末盧国(唐津)から投馬国(薩摩)に行くのに糸島経由はないだろう。
唐津で上陸して東南に歩き有明海に出たんだよ。
- 80 :
- 投馬はタウマだろ。ますますサツマからはなれるな。
倭国地名はせめて旧仮名字音で読んでくれ。タウマならタマの方が近い。
- 81 :
- 先のスレのように神武は投馬国の官、ミミまたはミミナリと思われる。
投馬国の都は西都市妻付近としても、その領域は児湯郡を超えて、
日向三代と言われている、ニニギが住んださつま地方、二代のヒコホホデミ
が活躍した霧島地方、ウガヤフキアエズが住んだ大隅地方を含む広大な領域
だったのでは無いだろうか。都も移動した可能性があると考えます。
薩摩という地名は、投馬(ツマ)の読みが、何かの意味でサがついて残った
ように考えます。
- 82 :
- >>77
筑後川の南の地域、久留米市の近くは、延喜式に三潴(みづま)郡とあり、その近くには
上妻郡、下妻郡もあった。このあたりが投馬国だった可能性もある。
また、この地域の南側は、延喜式の頃にはすでに山門(やまと)郡と呼ばれていた。
- 83 :
- それ邪馬九州道場だれか立ち上げて下さい。お願いします。
- 84 :
- >>82 ヤマトと山門のトは母音が違うんだろ。
- 85 :
- >>83
やってみたけど駄目だった。スレ立てはかなり難しいな。
- 86 :
- wiki見ると忍法帳のレベルが10以上なければならないそうなんだが、
そんなのいるのか?
いなかったらどうやってスレたてするんだろ?
- 87 :
- 都萬神社(鹿児島県)
http://www.kagojinjacho.or.jp/search/ohsumi/osaki/post-683.html
* 神社名:都萬神社
* 神社名カナ:ツマジンジャ
* 鎮座地:〒899-7305 曽於郡大崎町仮宿1589
* 例祭日:二月二十五日 十月二十五日
* 通称:
* 旧社格:郷社
* 神紋:
* 摂末社:4
* 社宝:銅鏡 籬ニ菊雙雀文様一面(国重要文化財・工芸品)
御祭神
* 木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)
* 立述命(彦火火出見尊)(タチノベノミコト(ヒコホホデミノミコト))
都萬神社(宮崎県西都市)
http://www.genbu.net/data/hyuga/tuma_title.htm
- 88 :
- 大崎町と言えば、大きな前方後円墳があったんじゃなかったかな。
鹿児島県で、肝属半島のあの付近は宮崎平野と文化的に似ていて、中部や西部とは異なる。
畿内色が強いというのか,他が独自の文化を残しているのと対照的。
- 89 :
- >>87
創建年代は不詳か。
古い言葉を残しているみたいだね。
- 90 :
- 当方の想定では、それより少し北と想定している。
北限は宇佐、本命は日田、南限は阿蘇。
それより南になる西都はこれから調べてみます。
- 91 :
- >>81
>投馬国の都は西都市妻付近としても、
投馬(とうま)を「つま」と読む無理横暴に比べれば、
児湯の県・児湯郡を呼邑国に結びつけるほうが説得力がある。
>>82
>延喜式に三潴(みづま)郡とあり、その近くには
>上妻郡、下妻郡もあった。このあたりが投馬国だった可能性もある。
これも投馬(とうま)を「つま」と読む無理横暴の上に成り立つ空論だ。
三潴郡これを「みづま」と書いたのは妻郡にくっつけるための交錯だろ。
三潴は「みずま」と書く。これはこの土地の水沼(みずぬま・みずま・みぬま)の君に由来する。
とんでもないねつ造か無知発言だ。
>>88
>肝属半島のあの付近は宮崎平野と文化的に似ていて、中部や西部とは異なる。
都城を含む諸県郡は九州東側で最も豊だったところ。弥生時代から人口密集地だった。
ここにはとくに前方後円墳が集中している。
>畿内色が強いというのか,他が独自の文化を残しているのと対照的。
そうではない。地下式横穴墓・装飾古墳が混在している。
地下式横穴墓は九州南部東側に多い様式だ。(九州南西側は地下式板石積石室が多い)
ともに、前方後円墳と(前方後円墳を含む)装飾古墳と混在している。
そしてその南部。
錦江湾周囲、大隅半島・薩摩半島には、隼人の立石土壙墓の世界がひろがる。
甘ちゃんばかりのようだが、日向説が安易で論拠薄弱な願望論だという証拠だな。
- 92 :
- >>88
日向国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%90%91%E5%9B%BD
沿革
7世紀に設立し、現在の宮崎県と鹿児島県の九州本土部分を管轄した。
大宝2年 (702年) に唱更国(後の薩摩国)が分立し、鹿児島県部分の西部(薩摩)が除かれた。
和銅6年 (713年) 4月3日に、大隅国を分立し、肝杯郡、贈於郡、大隅郡、姶羅郡(現代の姶良郡とは別)の四郡が移管した。
以後、明治初期まで日向国の領域(臼杵郡、児湯郡、宮崎郡、那珂郡、諸県郡の五郡)に変化はなかった。
- 93 :
- 93
- 94 :
- この際青森にしようよ
- 95 :
- 倭人伝が示すところ、邪馬台国は日向だよ。末盧国から東南陸行五百里、伊都国は
佐賀市付近だ。そこから、南水行となれば、有明海を南下したことが明白。北九州
もなければ、近畿も可能性はゼロ。
倭人伝全体を通じて邪馬台国が南の方にあるということは繰り返し語られている。
そして、周旋五千余里、女王国の東渡海千里また国有り、いずれも日向ならば何の
問題もない。その日向には古墳時代早期から大古墳が造られ、古墳時代を通じて繁栄
している。それらは、邪馬台国があった考古学的な証拠だよ。
- 96 :
- 邪馬壹(懿)国
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/kiya333h.htm
>●伊都国
>
>大率だいすい[呉音]
>
>「桓檀古記〜大震国本紀」日本には、もと伊国があった。伊勢(石上、磯城)ともいい、倭と隣り合った。
>伊都国は筑紫にあり日向国に服属していた。その東は倭に属した。その南東は定羅に属した。
>
> ※ 伊都国は磐余の古邑である。
日向国は女王国に比定できる。
女王国
http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/yamai07.htm
磐余は神日本磐余彦尊に比定できる。
神武天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
- 97 :
- 佐土原がかつて当麻と呼ばれてたっけな
- 98 :
- >>95
吉野ヶ里みたいな遺跡が出ていないのが不思議
- 99 :
- 九州山地という天然の要害に囲まれていたからね。環濠はあまり造らなかったのかも知れないな。
それに、住居址などは出てきてもこれまで注目されなかった。どこからでも出てくるのでそれを
まともに調査していたら何もできない、ってことで無視されてきたんだよ。
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