2012年1月2期日本史3: 坂の上の雲肯定スレ (53)
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坂の上の雲肯定スレ
- 1 :11/12/26 〜 最終レス :12/01/19
- 反対してる奴らなんなの?そんなに歴史を馬鹿にしたいの?
- 2 :
- まあ現代に生きてる日本人は大半が馬鹿だから。
日本があと数年で完全に崩壊する説もあるし。
- 3 :
- >>2
なかなか具体的ですな。
- 4 :
- 全DQNは全権利剥奪して虐されるべき
- 5 :
- 【ドラマ/視聴率】本木雅弘主演のNHK「坂の上の雲」最終回、視聴率は11.4%…足かけ3年、全13話が完結★2
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1324878340/
- 6 :
- 乃木有能説って、乃木があまりに叩かれているけど、あまりに忠臣なのは事実なんで
思わず擁護しちゃったってコトじゃないの?
- 7 :
- 乃木将軍の人格の高潔さを司馬は評価してるのに
ろくに読んでない奴は司馬は乃木を低評価してるって言うよね。
- 8 :
- 乃木希典
日露戦争勃発時の乃木は休職中だったが、日清戦争の戦績から野戦が得意な将軍と評価されており、
一般的にも高く評価されていた。旅順攻略戦が難航すると、東京の乃木邸に投石されたり、軍司令部
に批判の投書が多数寄せられるなど激しく批判された。その後攻略戦が勝利に終わり、水師営会見
などの美談が喧伝された事や、奉天会戦における活躍から、凱旋帰国時には非常に好印象をもって
迎えられた。日露戦後も概ね評価は高く、明治天皇大葬の際に殉死するに及んで神格化された。
- 9 :
- >>8 のつづき
その後、伊地知幸介第3軍参謀長と犬猿の仲であった井口省吾満州軍参謀が陸軍大学校長を六年半と長期に勤め、
またその後、陸軍内部において長州閥排斥の気運が高まり、陸軍大学の教官が結束して山口県出身者を入学試験
に合格させなかった事などがあった。井口が陸軍大学校長を務めていた時期に入校し優等で卒業した谷寿夫が、
後に陸大兵学教官となった際に日露戦争の政戦略機密戦史を著した。いわゆる戦争指導史であり俗に「谷戦史」
と呼ばれる。
つづく
- 10 :
- >>9 のつづき
「谷戦史」中の旅順戦に関する記述は、伊地知第3軍参謀と意見を異にした長岡外史参謀次長、井口省吾満州軍参謀の書簡を原資料としたものが大部分を占め、
実際の当事者である第3軍参謀部(伊地知幸介、大庭二郎、白井二郎、津野田是重ら)
による記録によるものがなく、一方的見地に偏った資料が用いられており、また誤りも多い。
以上のような経緯が、後世の第3軍の戦争指導ならびに乃木・伊地知らの評価に影響を与えた。
なお、近年、戦史研究家長南政義氏が、大庭二郎の日記を発掘し、大庭二郎の日記・回想録や
白井二郎の回想録、井上幾太郎の回想録といった第三軍側の史料を駆使した論考を発表しており、
谷寿夫『機密日露戦史』の記述に誤りがあることを指摘している。
つづく
- 11 :
- >>10 つづき
太平洋戦争後の昭和40年代に「谷戦史」が「機密日露戦史」と題して原書房から刊行された。
その後、小説家司馬遼太郎が、旅順攻囲戦で日本軍が膨大な戦死者を出したのは第3軍司令官の
乃木と参謀長の伊地知幸介の無為無策が原因とする考えに基づいて小説を発表した。
司馬のいわゆる愚将論は一般的に受け入れられ、これと同じ考えに基づく書籍が多く出版された。
しかし、これらには誤解・偏見を根底とした誤りが多く見られ、公平な評価とは言い難いものだった。
これらの点を考察し直して当時の状況を考慮すると、史実程度の損害は、これをやむを得ないものと
擁護する意見、またその程度で目的を達した事はむしろ評価すべきものであるという意見も出ている。
一方で、人気の高い司馬小説は解説・ガイド本の類が発行される場合が多く、その中では小説の記述を
事実とみなして書かれることが多いため、誤解・偏見を根底とした誤りに基づく評価も再生産され、
未だに根強く支持されている。以上のように現在も賛否両論があり評価は定まっていない。
現在、攻城戦間に乃木が記した日記の内容が一部公開され、また福島県立図書館の佐藤文庫には
「手稿本日露戦史」の旅順戦関連部分が所蔵されていることが明らかになった。これらの考察が深まるにつれ、
以後も評価は変化してゆくと思われる。
つづく
- 12 :
- >>11 のつづき
第3軍は第1回総攻撃は横隊突撃戦術を用い大損害を被ったが、第2回総攻撃以降は塹壕には塹壕で対抗する、
という正攻法に作戦を変更している。日本軍の損害のみが大きかったのは第1回総攻撃だけであり、第2回・
第3回総攻撃での日本軍の損害はロシア軍と同等もしくは少数である。
第3軍では多くの死傷者を出したにもかかわらず、最後まで指揮の乱れや士気の低下が見られなかったという。
また乃木がみずから失策を悔やみ、それに対する非難を甘受したことは、乃木の徳という見方と無能故の所作
という見方が出来る。
司馬の指摘では、乃木や第3軍参謀士官について、その軍事的能力以前に、旅順要塞が堅牢な要塞であることを、
認識する前にもした後にも要塞についてほとんど何も学ばなかったことを挙げている。白襷隊の惨戦のような
明らかな誤断もあり、評価が一定しない一因となっている。
つづく
- 13 :
- >>12 のつづき
司馬遼太郎のような乃木無能論と正逆の立場から乃木の作戦を評価する声として、当時の従軍記者、
スタンレー・ウォシュバン(Stanley Washburn、1878 - 1950)の記録が挙げられる。ウォシュバンの
指摘では、第一回総攻撃の後、乃木は即座に強襲策の無益さを悟り、工兵と一般士卒に、銃剣に変わって
鶴嘴ととシャベルという見栄えはしないが効果的な武器を取らせ、塹壕をなるべく攻撃目標に向かって延伸し、
余すところ200-30ヤードになった地点から、砲兵の援護射撃のもとに攻撃を開始するという攻撃方針に変更した
としている。さらに、203高地の重要性を指摘し第7師団を集中的に投入する方向で第三軍の軍議をまとめたのも
乃木であったとしている。
さらに、陸軍としての第3軍を指揮した乃木の能力云々のほかに、ぎりぎりまで陸軍の旅順参戦を拒み続け、
陸海軍の共合を軽視無視した海軍の方針、乃木第3軍参戦(第1回総攻撃)までの旅順攻略における
海軍の作戦失敗の連続といった、海軍の不手際も無視できない。また、日露開戦後に現地陸軍の総司令部として
設置された満州軍の方針と、大本営の方針が異なり、それぞれが乃木第3軍に指令通達を出していたという
軍令上の構造的な問題にも乃木は悩まされた。なお、海軍の要請を受けて、旅順攻撃を主目標としつつも、
陥落させることが不可能な場合は港内を俯瞰できる位置を確保して、艦船、造兵廠に攻撃を加えるという方針で
煙台総司令部(大山司令官)と大本営間の調整が付いたのは、御前会議を経て11月半ばになってからのことであった。
以上 wikipedia抜粋
- 14 :
- 旅順攻囲戦さらに続く
ロシアは、1898年の遼東半島租借以降、旅順口を根拠地とする旅順艦隊(第1太平洋艦隊)を極東に配備し、
旅順口を囲む山々に本格的な永久要塞を建設していた。日本が日露戦争に勝利するためには、日本本土と
朝鮮半島の間の補給路の安全を確保するために朝鮮半島周辺海域の制海権を押さえることが必須であり、
そのためには旅順艦隊を撃滅する必要があると想定していた。
1903年12月30日に陸海軍間の作戦協議が行われ、「旅順港外に停泊している旅順艦隊に対する奇襲を優先
すべき」との海軍側の主張と「臨時韓国派遣隊の派遣を優先すべき」との陸軍側の主張の間で調整が計られ、
陸軍側が譲って決着した。海軍側は第一段階として港外奇襲を行い、第二段階として港口を封鎖し、第三段階
として港外からの間接射撃によって港内の艦艇を撃破することを想定していたとされる。第一段階(奇襲)の
機密保持を重視して、30日に初めてこの構想を陸軍に知らせた。海軍側としては、陸軍の援助なしの海軍独力
による旅順の処理を望んだようで、事前調整の段階から陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した大本営
海軍幕僚もいたと伝えられる。
つづく
- 15 :
- >>14 のつづき
開戦後、港外奇襲と港口封鎖作戦が実行されたが、失敗もしくは不十分な結果で終わり、旅順艦隊の戦力は保全され続けた。
2月末頃からウラジオ艦隊が活動を始め、3月以降は第二艦隊をウラジオ艦隊専任に裂かねばならなくなった。これに加えさらに
現在ロシア本国のバルチック艦隊が極東に増援されることが予想されたが、海軍はなおも「海軍独力による旅順艦隊の処置」に
拘り、以後も港口の閉塞を目的とした作戦が続けられた。 3月27日、第二回閉塞作戦が実行されたが、閉塞は果たせなかった。
4月には機雷による封鎖策に転換され、12〜13日に実施された。その後5月3日に第三回閉塞作戦が実施されたが、これも不成功に
終わった。5月9日より、日本海軍は、旅順艦隊の行動の自由を制限するために港口近くに艦艇を遊弋させる直接封鎖策に転換したが、
15日には当時日本海軍が保有する戦艦の六隻のうち2隻を触雷により一挙に失う深刻な事態も生じた。現状では旅順艦隊の行動の自由を
制限するため、日本海軍は旅順港口に張り付かざるを得なくなり、陸上から旅順を攻撃する必要性が増していくことになる。
つづく
- 16 :
- >>15 のつづき
このような状況に加えて、開戦時にバルト海にあったバルチック艦隊が第2太平洋艦隊として極東に派遣されることが決定する(のち第3太平洋艦隊も組織される)。
いまだ健在の旅順艦隊とバルチック艦隊とを合わせれば、日本海軍の倍近い戦力となる。もし両艦隊の合流を許した場合、極東の制海権はロシア側に奪われ、
日本本土と朝鮮半島間の補給路は絶たれ、満州での戦争継続は絶望的になる。そのため日本軍は、バルチック艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要に迫られた。
このような経緯から海軍は、開戦当初から拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなった。
つづく
- 17 :
- >>16 のつづき
陸軍は満州平野を決戦場として想定しており、当初は旅順要塞は包囲するだけで充分であると考えていたが、3月の間接射撃の頃から、
結局は旅順要塞の攻略が必要になると見極めをつけ、攻城特殊部隊の動員、編成などの準備を進めつつあった。しかしながら開戦前の
協議のいきさつもあって海軍側から旅順攻略の要請が来るのを待っていたといわれる。このような経緯により攻城特殊部隊を擁する
第3軍の編成が行われ、戦闘序列は5月29日に発令された。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した経歴が
あった乃木希典大将が、参謀長には砲術の専門家である伊地知幸介少将が任命された。軍参謀らには、開戦後に海外赴任先から
帰国してきた者が加わっている。当時の先端知識を学んでいた人材、特にドイツで要塞戦を学んでいた井上幾太郎が参謀として加わっている事は、
旅順難戦の打開に大きく貢献した。軍司令部は6月1日に本土を発ち、8日に大連に到着した。当時すでに第1軍、第2軍が大陸に上陸しており、
金州城攻略戦を終え北上する第2軍から2個師団(第1師団、第11師団)が抽出され、第3軍の主力となった。
つづく
- 18 :
- >>17 のつづき
大連を越え旅順に向けて遼東半島を西進する第3軍が対峙したのは、要塞構築に長けるロシア軍であった。
遼東半島の各地には防御線が敷かれ、また旅順港周辺には近代要塞が築城されていた。日清戦争時の
宛然城塞都市の様な一昔前のものと異なり複数線の塹壕で繋いだ独立式堡塁を多数持ち3線の防衛線から
なっていた。この要塞を含めた地域一帯を防衛するロシア関東軍が新設され軍司令としてアナトーリイ・
ステッセリ中将、旅順要塞司令官にコンスタンチン・スミルノフ中将、守備部隊として東シベリア第7狙撃兵師団
(師団長:ロマン・コンドラチェンコ少将)と同第4師団(師団長:アレクサンドル・フォーク少将)総勢4万4千名、
火砲436門(海岸砲は除く)が籠っていた。
海軍は、旅順艦隊を砲撃によって旅順港より追い出すか壊滅させるよう1904年7月12日に伊東祐亨海軍軍令部長から
山縣有朋参謀総長に要請した。その頃第3軍は、6月26日までに旅順外延部まで進出。6月31日、大本営からも陸軍に
対して旅順攻撃を急ぐよう通達が出る。 7月3日コンドラチェンコ師団の一部が逆襲に転じるが塹壕に待ち構える
日本軍の反撃に撤退する。その後第3軍に第9師団や後備第1旅団が相次いで合流し戦力が増強された。準備を整えた
第三軍は7月26日旅順要塞の諸前進陣地への攻撃を開始する。
つづく
- 19 :
- >>18 のつづき
高地近辺諸陣地、北方に水師営近辺諸陣地、東方に大小狐山諸陣地が存在しており、当面の主目標は東方の大弧山とされた。
これらの防御施設は未完成だった。3日間続いた戦闘で日本軍2,800名、ロシア軍1,500名の死傷者を出し、30日に露軍は
要塞内部に後退した。そして乃木は、増援の砲兵隊の到着を経た8月19日まで総攻撃を延期する決断をする。
8月7日、黒井悌次郎海軍中佐率いる海軍陸戦重砲隊が大弧山に観測所を設置し、旅順港への砲撃を開始。
9日9時40分に戦艦レトウィザンに命中弾を与えた。旅順艦隊に被害が出始めたこと、また極東総督
アレクセイエフの度重なるウラジオストクへの回航命令もあり、ロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)
司令ヴィトゲフトは8月10日、ウラジオストクへ回航しようと旅順港を出撃した。海軍側が陸軍に要請した
「旅順艦隊を砲撃によって旅順港より追い出す」ことは、これによって達成された。
しかし日本連合艦隊は黄海海戦で二度に渡り砲撃戦を行う機会を得つつも1隻も沈没せしめることなく、
薄暮に至り見失い、更に旅順港への帰還を許してしまう。帰港した艦艇の殆どは上部構造を破壊しつくされ
旅順港の設備では修理が出来ない状況だった。結局もっとも損害が軽微だった戦艦セヴァストポリ (en)
のみが外洋航行可能にまで修理したのみで、旅順艦隊はその戦闘力をほぼ喪失した。
つづく
- 20 :
- >>19 のつづき
総攻撃を前に第三軍は軍司令部を柳樹房から鳳凰山東南高地に進出させた。
更に団山子東北高地に戦闘指揮所を設け戦闘の状況を逐一把握できるように
した。ここは激戦地となった東鶏冠山保塁から3キロという場所でしばしば
敵弾に見舞われる場所であった。以降、攻囲戦は主にここで指揮が取られる
事になる。
8月18日深夜、第三軍(参加兵力5万1千名、火砲380門)各師団は其々目標と
される敵陣地の射程圏外まで接近し総攻撃に備えた。
翌8月19日、各正面において早朝より準備射撃が始まる。使用弾丸数11万3千発
という前例の無い大砲撃が1時間強に渡って加えられ午前6時、日本第三軍は
旅順要塞に対して総攻撃を開始した。後備第11旅団は目標の大頂子山を3日連日の
猛攻の末22日に占領。しかし水師営方面を担当した第1師団と東鶏冠山方面の
第11師団は進撃できず大損害を被った。
第9師団は同じく大損害を蒙りながらも左翼の第6旅団(旅団長:一戸兵衛少将)が善戦、
配下の歩兵第7連隊では連隊長が戦死する程の死闘となったが20日に盤竜山東西堡塁の
占領に成功した。ここは半ば要塞の第二防衛線に食い込んだ要地で第二防衛線で
最も標高が高く旅順港全てを見渡せる望台の眼前だった。
つづく
- 21 :
- >>20 のつづき
乃木は占領地を維持し、望台を占領すべく第1師団・第11師団も盤竜山方面に投入する。
第6旅団も望台攻略の為疲弊した第7連隊を下げ先月30日に連隊長が戦傷の為交代したばかりの
歩兵第35連隊を投入する。しかし激戦となり22日には連隊長が戦死してしまう。23日には
第6旅団に替わり歩兵第12・22・44の計3連隊が投入されるが狭い盤竜山に集中した為周囲の
保塁からの砲撃と予備兵力の逆襲にあい一時的に望台を占領出来たのみで確保には失敗した。
翌24日、乃木は総攻撃の中止を指示、第一回総攻撃と呼ばれたこの攻撃で日本軍は戦死5,017名、
負傷10,843名という大損害を蒙り、対するロシア軍の被害は戦死1,500名、負傷4,500名だった。
第三軍はほぼ一個師団分の損害をだした事になる。
つづく
- 22 :
- >>21 のつづき
軍司令部は、大本営からの「速やかなる早期攻略」の要請のため、第一回総攻撃を歩兵の突撃による強襲法で行った。
しかし突撃による攻撃では要塞は陥落できないと判断し、要塞前面ぎりぎりまで塹壕を掘り進んで進撃路を確保する
正攻法と呼ばれる方式に切り替える(正攻法併用による攻撃計画の策定)。ロシア軍に近接するための塹壕建設を開始した。
30日にはコンドラチェンコ少将の独断による盤竜山への攻撃が行われたが日本軍の反撃で3割を失い失敗した。
9月15日、対壕建設を終えた第3軍は19日、占領した盤竜山と大頂子山から周辺へ陣地を拡大し安定化を目指した攻撃
(第2回総攻撃に向けての前哨戦)を行った。17時頃より南山披山と203高地へ2個後備連隊4,000名による攻撃が行われた。
その晩は月夜でロシア軍の攻撃は正確を極め前進することが出来ず、翌20日に突撃は延期された。20日5時より始まった突撃で
南山披山はわずか10分で守備隊が後退し占領。しかし203高地では激戦となり20日の夕刻には西南堡塁を占領するが東北堡塁の
露軍と射撃戦となる。21日には双方増援を出すが日本側は予備隊の配置が後方すぎた為、進撃中に激しい銃火を浴び到着は夜間
になってしまう。そのまま22時に東北保塁へ攻撃をかけるが失敗。22日の10時までに6度に渡る東北堡塁への攻撃は全て失敗し
日本軍は撤退を余儀なくされた。龍眼北方堡塁や水師営周辺の堡塁群などは制圧に成功し203高地以外の戦略目標の占領には成功した。
この戦いでの損害は日本軍は戦死924名、負傷3,925名。ロシア軍は戦死約600名、負傷約2,200名だった。
つづく
- 23 :
- >>22 のつづき
第一回総攻撃が失敗に終わった後、東京湾要塞および芸予要塞に配備されていた二八センチ榴弾砲
(当時は二十八糎砲と呼ばれた)が戦線に投入されることになった。通常はコンクリートで砲架
(砲の台座のこと)を固定しているため戦地に設置するのは困難とされていたが、これら懸念は
工兵の努力によって克服された。
二八センチ榴弾砲は、9月30日旧市街地と港湾部に対して砲撃を開始。20日に占領した南山披山を
観測点として湾内の艦船にあらかた命中弾を与えた。しかし黄海海戦で能力を喪失した艦隊への砲撃は
ロシア将兵へそれ程の衝撃とはならなかった。それでも良好な成果を収めたため逐次増加され、最終的
に計18門が第3軍に送られた。
第二回総攻撃(明治37年10月26日〜30日)
バルチック艦隊がウラジオストクに向かって出航したという報を受け、陸軍は海軍から矢のような催促を
受けるようになる。その様な中で10月26日、二八センチ榴弾砲を配備して、第二回総攻撃を開始する。
目標は突起部を形成している盤竜山及び竜眼北方保塁の周辺を占領し安定化させる事であった。
4日間に渡る二八センチ榴弾砲の威力は凄まじく、目標となった二竜山堡塁は兵舎が破壊され東鶏冠山堡塁では
火薬庫が爆発するなどの大損害を蒙った。29日にはロシア軍が反撃に転じるが失敗し、30日に今度は日本軍
第9師団が無名の堡塁(通称P堡塁)を攻撃し、第6旅団が苦闘の末夜半には占領する(後にP堡塁は一戸堡塁と
改称する)。日本軍は戦死1,092名、負傷2,782名の損害を出すが、ロシア軍も戦死616名、負傷4,453名と
日本軍以上の損害を受けた。日本軍は作戦目的は達成していたが占領したのはP堡塁のみであったため、
第二回総攻撃は失敗と考えた。
つづく
- 24 :
- >>23 のつづき
第三回総攻撃(明治37年11月26日〜12月6日)
203高地主攻に固執する参謀本部は御前会議で「203高地主攻」を決定する。しかし満州軍総司令官大山巌元帥はこれを容れず、
総参謀長の児玉源太郎大将は、10月までの観測砲撃で軍艦の機能は失われたと判断して艦船への砲撃も禁止を命じた。
こういった上層部の意見の食い違いは乃木と第3軍を混乱させ、第三回総攻撃案は両者の意見を全部取り入れた折衷案となった。
11月中旬に盤竜山・一戸両保塁から両側の二竜山と東鶏冠山保塁の直下まで塹壕を掘る事に成功し更に中腹からトンネルを掘り
胸壁と外岸側防を爆破する事を計画。参謀本部は内地に残っていた最後の現役兵師団の精鋭、第7師団を投入、部隊を第1、
第9師団の間に配置し203高地攻撃にも備えた布陣をする。
11月26日、東鶏冠山北堡塁と二竜山堡塁への準備砲撃を開始。午後には第11師団が東鶏冠山北堡塁を、第9師団が二竜山堡塁を
それぞれ攻撃した。しかし数波に渡る攻撃は失敗に終わり、夜半には有志志願による突撃隊を、中村覚少将の指揮のもとに攻撃を
行う。この突撃隊は夜間の敵味方の識別を目的として、隊員全員が白襷を着用したので白襷隊と呼ばれた。白襷隊は要塞へ決死の
奇襲突撃を試みるが、司令官が局所攻撃に没頭してしまったことや、予備兵力の少なさ、局所的に日本軍が密集してしまったこと
などの結果、大損害を蒙り失敗した。
つづく
- 25 :
- >>24 のつづき
当初の攻撃計画が頓挫したことで第3軍は27日、攻撃目標を要塞正面から203高地に変更した。
28日より第1師団による攻撃を始めるが、頼みの二八センチ榴弾砲も203高地の泥にささるだけで
効果は少なく1500名程にまで消耗していた第1師団は前進出来なかった。29日に新着の第7師団が
投入され、30日17時頃に西南堡塁を占領、数時間後には東北堡塁も占領するが露軍の激しい反撃
を受け翌12月1日早朝には西南部の一角以外を奪還されてしまう。
11月29日に旅順へ向かった児玉満州軍総参謀長が12月1日に到着。途上、203高地陥落の報を受けた
が後に奪還されたことを知った児玉は大山満州軍総司令官に電報を打ち、北方戦線へ移動中の第8
師団の歩兵第17連隊を南下させるように要請した。
日本軍は12月1日から3日間を攻撃準備にあて、攻撃部隊の整理や大砲の陣地変換を行なった。
12月4日早朝から203高地に猛攻を開始し、5日9時すぎより第7師団歩兵27連隊が死守していた西南部
の一角を拠点に第7師団残余と第1師団の一部で構成された攻撃隊が西南保塁全域を攻撃し10時すぎ
には制圧。態勢を整え13時45分ごろより東北堡塁へ攻撃を開始し22時にはロシア軍は撤退、203高地を
完全に占領した。翌6日に乃木は徒歩で203高地に登り将兵を労うが、攻撃隊は900名程に激減していた。
この攻撃での損害は日本軍は戦死5,052名、負傷11,884名。ロシア軍は戦死5,308名、負傷者は12,000名
近くに達した。ロシア太平洋艦隊の全滅が確認され、児玉は煙台にある満州軍司令部へと戻った。
つづく
- 26 :
- 要塞正面突破とロシア軍の降伏
12月10日、第11師団による東鶏冠山北堡塁への攻撃を開始。12日に勲章授与の為兵舎を訪れていた
コンドラチェンコ少将が二八センチ榴弾砲の直撃を受け戦死する。18日には日本軍工兵が胸壁に
取り付けた2トンもの爆薬による爆破で胸壁が崩壊、ロシア軍は僅か150名の守備兵しかいなかったが
果敢に反撃し第11師団は戦死151名、負傷699名もの損害を受け死闘の末夜半に占領する。ロシア側は
150名中92名が戦死するという玉砕に近い抵抗だった。
このため、乃木司令部は胸壁や塹壕を完全に破壊してから突撃に移る方針を固め、28日には第9師団
による二竜山堡塁への攻撃が始まる。胸壁に設置された3トン弱の爆薬により300名の守備兵の半数が
生き埋めとなるが残兵が激しく抵抗、水兵の増援もあり双方射撃戦になる。しかし後方に回り込んだ
歩兵第36連隊を見た守備隊長が撤退を決断したので29日3時には占領する。第9師団は戦死237名、負傷
953名の損害を被り、ロシア軍も300名以上の死者を出している。
つづく
- 27 :
- >>26 のつづき
31日、第一師団による松樹山堡塁への攻撃が始まりロシア軍守備兵208名のうち坑道爆破で半数が死亡、
占拠した二竜山保塁からの援護射撃もあり後方を遮断する事に成功、11時に降伏した。第一師団は戦死
18名、負傷169名の損害を被りロシア軍も生存者は103名だった。
203高地攻防で予備戦力が枯渇し、正面の主要保塁が落ちたことでロシア軍の士気は非常に落ち込み、
首脳部においても抗戦派は勢いを失う。1月1日未明より日本軍は重要拠点である虎頭山や望台への
攻撃を開始、16時半にロシア軍は降伏を申し入れた。5日旅順要塞司令官ステッセリと乃木は旅順近郊
の水師営で会見し、互いの武勇や防備を称えあい、ステッセリは乃木の2人の息子の戦死を悼んだ。
この様子は後に文部省唱歌「水師営の会見」として広く歌われた。こうして旅順攻囲戦は終了した。
日本軍の投入兵力は延べ13万名、死傷者は約6万名に達した。
以上 wikipedia
- 28 :
- 203高地
観測所としての価値を重視するこの考えは、203高地が攻略されて旅順艦隊が壊滅し、これによって
旅順要塞も存在意義を失って降伏したという見解に繋がるのだが、 実際には12月6日の203高地占領
から1月1日の要塞降伏までは25日もの日数が存在する。旅順要塞の存在意義をいうのならば、
艦隊の有無に関わらず、第3軍を可能な限り長く旅順攻略作戦に拘束する事にも大きな意義があるわけ
で、旅順艦隊の存否がロシア軍が降伏を決断したことの主要因とは言えない。
第3軍司令部は、攻囲完成以後の継続的な砲撃によって旅順艦隊の戦闘力は失われつつあることを認識
しており、大本営にもその報告を行っている。しかしながら大本営は203高地に執着しており、ここへの
攻撃を要求し続けた。 第3軍はこれに従わず、また第3軍が所属する満州軍総司令部も大本営からの容喙
に強く拒絶の意を示した。
大本営がこのように強硬に旅順戦に介入してきたのは、海軍側の意見を容れたものと思われる。このこと
から連想されたものか、203高地の攻略を陸軍に進言したのは海軍の秋山真之少佐であるとする説があるが、
根拠に乏しく、現在では否定されている。
- 29 :
- 第1回総攻撃では第3軍は203高地を主目標とはしなかった(大本営からの指令も、海軍からの進言・要請もなかった)。
しかし仮に、第1回総攻撃の時点で第3軍が203高地を主目標に含め、これを占領できたとしても、至近に赤阪山・
藤家大山という防御陣地が構築されており、また背後に構築された主防御線内の多数の保塁・砲台から猛烈な砲撃を
受けることは容易に想像でき、占領を維持することは困難であったと考えられる。 仮に高地の占領を維持できたと
してもこの時点で第三軍が所持する重砲は15センチ榴弾砲16門と12センチ榴弾砲28門、これに海軍陸戦重砲隊の12
センチカノン砲6門だけであり装甲で覆われた戦艦を撃沈出来る威力は無い。最大の15センチ砲にしてもこれは海軍
では戦艦や装甲巡洋艦の副砲程度の大きさでしかないし艦載砲より砲身が短いので初速、貫通力は劣る。
それでも仮に旅順艦隊を殲滅出来たとしても、要塞守備隊を降伏させられなければ第三軍は北方の戦線に向かうこと
ができない。艦隊殲滅後にやはり正攻法による要塞攻略を完遂しなければならない以上、包囲戦全体に費やされる
期間と損害は変わらないと予想される。むしろ史実ほど兵力を消耗することなく主防御線を堅固に守られてしまい、
要塞の攻略は、より遅れた可能性すらある。
- 30 :
- 旅順攻略については、各論として陸軍、特に乃木第3軍の分析が多いが、海軍の失敗を陸軍が挽回した
というのが総論として近年定着している。 開戦前の計画段階から陸軍の旅順参戦を拒み続けた海軍の
意向に振り回され、陸軍の旅順攻撃開始は大幅に遅れた。 開戦から要塞攻略戦着手までの期間が長すぎ
たために要塞側に準備期間を与えることになった事は、旅順難戦の大きな要因として指摘される。
しかし、近代戦における要塞攻防戦のなんたるかを知らなかった当時の事情、またそもそも当時の日本
の国力・武力を考えれば、結局のところ無理を承知でこのような作戦を行わざるを得なかったとも言える。
- 31 :
- 司馬の作品などで児玉らは203高地攻略を支持していたかのように描かれているが
児玉自身は第三軍の正攻法による望台攻略を終始支持している。正攻法の途中段階で
大本営や海軍にせかされ実施した2回の総攻撃には反対で準備を完全に整えた上での
東北方面攻略を指示していた。その為には港湾部や市街への砲撃も弾薬節約の点から
反対しており、当然203高地攻略も反対だった。
満州軍自身も児玉と同じく東北方面攻略を支持していた。しかし第三軍は第三次総攻撃の
成功の見込みが無くなると決心を変更し203高地攻略を決意する。これに満州軍側の方が
反対し、総司令部から派遣されていた参謀副長の福島安正少将を第三軍の白井参謀が説得
した程だった。
- 32 :
- 朝鮮人スレ立てんな
- 33 :
- 要らぬ中傷はおことわり
- 34 :
- >>32
俺は、坂の上の雲に感動して8巻全部そろえた、ただ批判している奴ら
が許せないだけだ。それを、チョン糞呼ばわりするとはお前こそ
チョン人じゃないのか?
- 35 :
- >>8-31
せめて1レスで要点を書いてくれ。
- 36 :
- >>35 絶対的要点
小説「坂の上の雲」の第3軍の表現は「誤りが多い」
- 37 :
- >>34 通
「坂の上の雲」はここに集う人々は、当然購入して熟読してる(と思う)。
しかし、「坂の上の雲」は日露戦争における表現に偏りが散見される。
で、>>8〜>>31掲載させていただいた。
- 38 :
- 意識して見てくれない人も多いと思ったのでコピペしましたが、
根気強く見ていただけるのなら、下のwiki見てくれれば幸いです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6
- 39 :
- 誰がウルトラ長文コピペなんて読むのさ……
- 40 :
-
http://cp2.uh-oh.jp/read_img/index/ab83e09400ff17d99f45ceee15a37e09.jpg
http://cp2.uh-oh.jp/read_img/index/a58c2ddc9cdbe45529ef0d58c95cc232.jpg
テレビに騙されるな(自称街の人-台本読んでるだけの業者)
- 41 :
-
NHKの極左捏造路線 何とかなりませんか? 新2
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/nhk/1316100353/
708 :名無しさんといっしょ:2011/12/30(金) 08:12:47.81 ID:ijyPQ0v/
日教組は批判されて当たり前
自治労も
709 :名無しさんといっしょ:2011/12/30(金) 21:16:37.08 ID:w7hxQ/s/
また公務員叩きをする底辺
710 :名無しさんといっしょ:2011/12/30(金) 22:31:54.26 ID:ZR9E62DW
自浄能力の無い公務員は叩かれ芸が売りなんだもんねーだ!
711 :名無しさんといっしょ:2011/12/31(土) 12:13:29.61 ID:nn32HQ6/
>>709
「親方日の丸」のくせに反日サヨクの公務員は、ただの学歴バカだろ?
(日本の歴史の縦軸も知らん)
712 :スパイ防止法は必須:2011/12/31(土) 12:17:56.80 ID:nn32HQ6/
>>711
あるいは筋金入りの工作員(エージェント)か。
- 42 :
- 源頼朝の肖像画が何百年も伝えられてきて実は違うという説が出たが
やっぱり最初が一番信憑氏が高いというのと同じで、
定評の逆を言うのは頼朝の肖像画が別人と言ってる派閥と同じ売名の徒とおなじ糞
- 43 :
- 坂の上のーていすれ
- 44 :
- アンチは出てってくれ
- 45 :
- >>43
んじゃさ、坂の上の雲を超える作品を書くことができるんだな?
- 46 :
- ドラマの第1期放送後のプライムニュースで
歴史学者が主張していた論旨は下記のようなものだったな
坂の上の雲の連載当時、日露戦争の研究はまともにされてなかった
研究されだしたのは、司馬の小説の影響が大きい
以後、研究が進み小説内に明らかな誤りが認められるようになった
ただし、研究進度を考慮するとやたらに批判するのはフェアじゃない
歴史として鵜呑みにされるのは困るが
良くできた小説であるので
平家物語や太平記のような歴史絵巻として親しんで頂きたい
- 47 :
- う〜ん、正論かな
- 48 :
- ≫46
理にかなう意見でござるな
- 49 :
- NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』オリジナル・サウンドトラック3
08 天気晴朗ナレドモ波高シ
http://www.youtube.com/watch?v=byJNPPw5JUQ&feature=related
- 50 :
- 谷寿夫の機密日露戦史は
吉村昭も参考文献にしちゃってるし、
当時なら仕方ない。
- 51 :
- そりゃそうだ
- 52 :
- まあ、当時はろくに研究すらされていなかったらしいからねしょうがないさ
- 53 :12/01/19
- 当時の歴史作家はけっこう明治を題材にした作品を書いてるが
一番面白いのはやはり司馬の坂の上だな
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