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2012年1月2期日本近代史96: 戊辰戦争時の仙台藩が弱かった件について (266)
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戊辰戦争時の仙台藩が弱かった件について
- 1 :10/10/16 〜 最終レス :12/01/11
- もっと強いと思ってたのに
- 2 :
- 62万石で実質100万石と言われてたのにね
- 3 :
- 馬鹿殿どもの既得権益固守のために大義の無い戦争に駆り出されてんだから、そりゃ士気も低いわ。
- 4 :
- もっと強かったら、会津にビビらずにまともに攻め込んでたんじゃないか?
- 5 :
- 最初の決断の通りに会津進駐と松平容保捕縛、征東軍への引渡しをしていれば、維新後も大きい顔をしていられたのに。
決断を曲げて列藩同盟を作っても、以後軸足が定まらなかった。
- 6 :
- 仙台藩が統率取れて一丸となって壮絶に大玉砕したら面白かったのに
- 7 :
- 謙信公と政宗公の子孫であるはずの上杉米沢藩と伊達仙台藩があんなに弱いとはな
- 8 :
- >>7
上杉の方はもう謙信の子孫じゃなかったろ。景勝からして200年前ぐらいに
分かれた分家の人だし、その100年ちょっと後からは吉良からの婿養子じゃん。
- 9 :
- >>8
検診子供いたんだ?初耳だ
- 10 :
- ドンゴリの汚名は永劫晴れぬ
- 11 :
- 兵の数はかなり多いはずなんだけどねぇ
兵力を考えれば徹底抗戦するなり、官軍につくなり、どう転んでも存在感を示せる存在だったのに、何もかも中途半端であっけなく終わってしまったのは残念
宇和島の殿様のほうが目立ってたし
- 12 :
- 伊達慶邦の顔、叱られていじけてる中年ニートみたい
- 13 :
- 四賢公の一人、伊達宗城の息子を嫡男にしていながら
伊達宗城から「徳川家はもうダメだ、天朝につけ」という
情報は来てなかったのかなあ。
伊達家なんてどうせ外様なんだから、秋田の佐竹みたいに
さっさと変心すりゃ良かったんだよ。なぜそれが出来なかったのかな?
伊達宗城の別の子の真田幸民の率いる松代藩は、何の迷いもなく西軍について
賞天禄でも薩摩・長州・土佐に継ぐ4位に輝いていて、仙台藩と対照的。
仙台も松代も、本来は外様だが、将軍との縁戚関係で親藩格と言う意味では同じ
- 14 :
- 次の仙台藩主は星野仙一か
星野仙一は山縣有朋の劣化版というイメージがある
- 15 :
- 仙台藩の美しい二十代が、怒って泉谷しげるを害したから朝廷の御不興を買ったんですよ。
- 16 :
- >>7
政宗自体過大評価だろ
対外戦や全国規模の合戦で功績があるわけでもないし
元からこんなもんだったんじゃないの?
- 17 :
- >>1
加賀も仲間に入れてやれよ
- 18 :
- 庄内藩と合わせれば、丁度釣り合いが取れているのではないだろうか?
- 19 :
- 幕末の仙台藩は薩摩とは仲悪かったの?
- 20 :
- いいえ。
庶民から一般武士は全然知らないし
藩主らは江戸で姻戚関係にどっぷりつかっていましたから、別に。
奥羽越列藩同盟結成の理由は、官軍としていきなりやってきて命令を下そうとした連中を、憎く思ったからでしょう。
お山の大将でしたから。
同時に米沢では戦国時代の旧領奪還として出兵の動きがありましたし、仙台が旧幕府の側で参戦すれば、
容易に薩長優位から逆転する、そして功績第一位は仙台となる、という考えがあったように思います。
お山の大将の上に、世間知らずだったんですよ。
- 21 :
- >>17
元々乗り気じゃない加賀とノリノリで抗戦同盟作った挙句の仙台じゃ立場が違うからなあ
- 22 :
- 内心武装蜂起なんて嫌がっていた他藩を巻き込んで地方全体を反政府に立ち上がらせたにしては、仙台は弱すぎ
- 23 :
- 仙台藩主は代を重ねると共にどんどん文系になっていたらしいよね。
そんなところって兵の指揮や能力にも影響あるのかな?
- 24 :
- 藩主もそうだし有名な仙台藩士が一人もいないってことが終わってんだろう。
みんな飯食って糞して寝てただけw
- 25 :
- 但木土佐さんが怒りますよ。
- 26 :
- 但木土佐さんもそれほど有名という訳でも……
- 27 :
- 独眼竜と謙信入道の子孫達が弱かった件について
- 28 :
- 但木土佐さんは、楢山佐渡をたぶらかした功績がありますな。
- 29 :
- 会津と一緒に徹底抗戦して玉砕すれば面白かったのに
もしくは単独で幕府に戦いを挑むとかw
- 30 :
- 豪族の集まりでお頭の集合の合図で各自現地集合。戦国時代から何も変わってなかった。
中央集権化できてれば少しは役にたてたかもな。
- 31 :
- 軍制改革が進んでいたら、江戸無血開城程度の時期に会津と庄内を征服して、
北関東の旧幕府掃討までやった上で、明治新政府での主要な地位を要求しているよ。
明治新政府樹立の動きに乗り遅れたから、逆に反新政府陣営なら主要な地位を占められると思ったわけで。
- 32 :
- 幕府は仙台藩の事はどう思ってたんだろ?
- 33 :
- 江戸無血開城後に旧幕臣が目指したのは会津・柏崎・鶴岡であって、仙台ではない。
仙台は金沢と同じで、決して動こうとしなかった。
幕府は、仙台を味方とは思っては居なかっただろう。
- 34 :
- >>30
同じく藩内に豪族だらけな薩長に改革が出来て仙台にできなかったのは何故?
- 35 :
- >>34
結局反徳川だったかどうかってことだろうな。島津毛利は基本反徳川だろ。
それに比べて伊達はぬるま湯に浸かってたというか徳川時代が
別に居心地悪くなかったっぽい。そのため富国(藩)強兵を怠り続けたんだろうな。
- 36 :
- 伊達正宗が10年早く生まれていたら勢力図も変わっていたが、
その末裔は、たいしたことないなぁ
毛利家も豪族だらけだけど、友情と学問大切にしていたところと、
尊王思想が強かった(京都の公家と親密)
江戸〜幕末期の仙台藩は、思想は、どんな感じなのかな?
- 37 :
- 伊達騒動って要は中央集権化を目指す改革派とぬるま湯体質保守派の内紛
美談になってるが、改革派が勝ってればどちらについても幕末で大きな勢力になったか、薩長と結ぶ尊攘派が出てきたのでは?
- 38 :
- 四賢公の伊達宗城と協調していればかなり大きな存在だったろうにね
伊達宗城次男を伊達慶邦嫡男としてもらってるけど、それ以降の交流はどうだったんだろう
宇和島と仙台じゃあ遠すぎて、変化する情勢に追いつかなかったのか?
- 39 :
- 分家した当初はともかくとして、3代目ぐらいのころから「どっちが格上か」での争が始まり、
江戸時代中期以降交流がほとんどなくなったらしいぞ。
どっちが悪いというわけではなく、どっちも権威を誇示した。
- 40 :
- 飢饉の度の人口の乱高下。
ttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/4/41/Demography_of_the_Sendai_Domain.jpg
稲作ばっかりに頼ったから、大飢饉で米の収穫量が減ると、
飢餓→疫病流行で、人口が1/3も激減する。
- 41 :
- へたれ仙台藩。これに尽きる。
第二次大戦のイタリア軍みたいなもんか。
- 42 :
- >>41
ヘタリアは別に、戦争をおっぱじめる口実を作るために
敵方勢力の使者を罠に嵌めて斬首してその生首を
糞壺漬けにするような真似はしてないだろ。
ヘタリアに失礼だぞ。
- 43 :
- イタリアは旧装備でフランスを極一部切り取った。アフリカに侵攻した。
仙台は全力で逃亡した。
- 44 :
- いや仙台藩の場合、列藩同盟に参加せず新政府に投降しようとした桑折の代官黒田節兵衛を拉致し、
陣屋を焼き払ったりしているよ。軍を持たない所に対してはめっぽう強い。
- 45 :
- 藤原家も頼朝にあっさり負けちゃうし東北の強い勢力は根性が足りないと思います!
- 46 :
- おのれ世羅め…弱國二藩とは何事ぞ。許せぬ。薩長がそのつもりならば、ドン五里の手並み見せてくれようか…
- 47 :
- 薩摩が琉球を支配してくれてたから今沖縄は日本領になっている。
北方の雄、仙台が積極的に北方に野心を見せていれば樺太は日本領になっていたかもしれない。
樺太をロシアに取られたのは仙台藩のせいだ。
- 48 :
- あれは幕府の北方政策があって、
・田沼時代の積極的な調査
・初期の松平定信による徹底的な無視・放棄
・外交事件に端を発する松平定信の方針転換・調査再開(間宮林蔵の調査等)
・幕府の東北諸藩への蝦夷地警備分担命令
といった形で、江戸時代には開発・入植を積極的に実行しなかった(コストに合わず、東北諸藩の負担が大きかった)ので、
条約上共同統治になっていた樺太が、江戸時代に小数の現地人とロシア人しかいない入植地へ変貌してしまったんだよ。
そのため、明治以降に積極的な入植に転じた頃には、樺太は既にロシア化していた。
仙台藩というよりは幕府に責任があるし、
入植に要する資金を出せなかったという点では、江戸時代の幕府政権が中央集権国家でなかったことの限界があった。
でも、松平定信ら幕府の放置によって松前藩の干渉下でも限定的なアイヌ民族の自治が保たれていた、とも言うことができる。
明治以降は黒田清隆・榎本武揚によって徹底した資本投入による日本化が図られた。
開拓使事件がなかったら、北海道も東北ももっと社会資本が整備されたのだろうけど、
東北の人は黒田追い落としに熱意を燃やし、中途で開拓史が廃止されると、この資金は朝鮮半島政策へと使われてゆくこととなる。
- 49 :
- しかし知り合いの福島県民は琉球は薩摩に迫害を受けてきた会津藩と同じ境遇だと力説しておりました
どこが同じなのかよくわからない…
- 50 :
- 東北とは思えない温暖な気候が有利だね
もっと人材輩出していてもおかしくない土地柄
- 51 :
- いわゆる伊達騒動は、改革派が勝っていれば、門閥層の力を押さえ、能力を持った下級武士にも登用の機会を与えるものだったが…
- 52 :
- 高見恭子的ムードの、
熊沢幸子って主婦も参加されたの?
- 53 :
- >>65
若干45歳の熟娘?
- 54 :
-
>>52
若干45歳の子持ち熟娘?
- 55 :
- 幕末の存在感なし
- 56 :
- >>36
下手にでかいとかえってボコボコにされて
城下とかの復興に時間がかかったかもよ
当時は統一か恭順しかないんだから
小田原でさえ力技でねじ伏せられたんだからな
- 57 :
- 戊辰戦争時の仙台藩が、弱いというより、東北諸藩の足軽たちが、兵としての機能しなかっただけでは?
江戸時代後期の東北諸藩の大半は、足軽たちに耕作させていたし、東北諸藩の藩校のほとんどは、兵学を勉強できるのを、上級藩士に限定していたから、戊辰戦争時に真っ先に、最前線に送られた足軽たちなんて、まともな兵として役にたたなかったと思う。
仙台藩でも、それをわかっていた藩士もいたけど、そいつは上に干された。
- 58 :
- 少し時代が広くなるけど、
仙台は林子平、大槻玄沢
福島は安積艮斎
岩手は高野長英
などなど先見の明を持った優秀な学者はいたが、生まれてくる時代が悪かったような気がする。この人たちの影響下で、単純な攘夷思想など生まれるはずもないし。
そういう訳で、東北諸般は水戸から始まり京都で燃え広がった(尊皇)攘夷騒動を冷ややかに見ていて時流に乗り遅れたという説はどうでしょうか?
- 59 :
- ちがうと思う。
仙台はともかく、他は徳川幕府側だから
特に福島の会津
- 60 :
- >>58
林子平は仙台藩や定信ちゃんに干され、高野長英や大槻玄沢の主な活躍の場は江戸で、
しかも長英はお尋ね者。
東北に影響と言える影響残したっつーと、一時期二本松の藩校で教鞭執った
安積艮斎ぐらいしか居ない様な……
- 61 :
- 伊達政宗「俺が、この時代にいれば天下とれた…」
- 62 :
- 仙台藩の方針があまり明確じゃなかったんだよな。
- 63 :
- >>61
仙薩長同盟で、明治維新の御三家だったかもね。仙台閥とかあったかもしれんのう。
陸奥宗光は紀州藩出身だけど、祖先は、伊達家なんだよね。
けっこう知っている人多いかな。
- 64 :
- だから生麦事件の頃から薩摩も岩倉具視も仙台藩を何度も誘っているのに、
結局来なかった
ようやく立ったのが江戸無血開城後、しかも反薩長で一旗上げようだなんて
下手なナンピン素寒貧というか
- 65 :
- こんな事言ったら切り無いが、伊達政宗の頭脳を持ってる藩主だったらと思うと仙台藩は勿体ないね。
仙台藩が明治維新後、国政に顔きかせてたら日本は軍事政権や小泉みたいな悪党は生まれなかったかもね
- 66 :
- むしろ戦前の軍国主義時代が仙台藩の子孫の時代だったわけで、
その点では、元仙台藩のあたりの人は軍国主義の罪を恥じるべきだと思うのですよ。
- 67 :
- 東北は逆賊→明治後冷遇される→貧しい農村続出→大陸に活路を見出す
→満州事変へって流れなので仙台藩がだらしなくて
東北が逆賊にされ冷遇されたのは後々まで尾を引いたんだよな。
- 68 :
- 冷遇というよりは、江戸時代の社会資本の後退がすさまじく、
明治以降の新政府による整備では、東北の貧困を解消できなかったんですよね。
江戸時代に人口が減りすぎですよ。
- 69 :
- それを明治政府に冷遇されたと悪意に受け取るんだよな
- 70 :
- 山形というか酒田あたりなんかは江戸時代も安定的に栄えてたんじゃなかったの?
乱高下状態の仙台藩の経済や、無理な稲作で悲惨だった岩手や青森と違って。
- 71 :
- 総体として、米を投機に使って飢餓地獄というのはどうなのか……
たとえば長州藩なんかは、天保の改革辺りから専売品の解禁や北前船の中継点という地の利を生かした政策で
資本を蓄積していったようだが、東北諸藩にその辺の手で成功した所はあったんだろうか。
庄内は栄えてた様だが。
- 72 :
- 官軍の使者をして晒し首にした仙台藩士について語ろう!
- 73 :
- 千石船と商品経済化というか、会津などではどぶろく作りが盛んだったようですよ。
清酒作りは、明治以降の政府による改良普及だったようですけど。
あそこも飢饉のたびに人口が減少して戻らなかった。窮乏期の備えが足りなかったのでしょうか。
- 74 :
- お山の大将だったから駄目だったんでしょう…
- 75 :
- >>71
庄内はやませが吹いて東北諸藩がのきなみ不作になっても、山脈にさえぎられてやませが吹かないもんだから、
それほど不作にはならないんだよな。だから、米値上がりする中ウハウハできる。そりゃ経済力もつくよ。
- 76 :
- 戦闘状態にない敵を一方的に襲うことにかけては最強クラス
- 77 :
- 幕末時に会津藩と仙台藩がガチで戦ったからどっちが勝つ?
- 78 :
- >>77
それ面白いそうだし、興味深いですね。
伊達政宗の頃は、畠山に勝ち、今の福島県の領土も仙台藩だったから。
東北だとは思えぬ温暖な気候、塩などでも儲けていたし。
兵器の性能や忠誠心、軍事においての作戦の上手さなど総合的に見るとどうだろう。
- 79 :
- 仙台というか東北は弱いイメージしかない。西日本の行動の速さがひきたつ。
- 80 :
- 白兵戦なら会津に分がありそうじゃね?
戦闘力は充分にあるだろ。
- 81 :
- 仙台一藩だと負けそうな感じが
- 82 :
- いや、しかし一対一のガチ勝負なら、攻め込むのは無理でも守るぐらいは……
- 83 :
- >>79
桂太郎や大山格之助が指揮する、薩摩長州の連合軍+新庄軍と庄内軍の新庄藩での戦いでは、薩摩長州軍は
口ほどにもなくもろくも負けてしましましたが何か?しかも、薩摩長州の方が兵員は多いのにね。
可哀想に、新庄の殿様はこの後秋田藩内を延々逃げまくる羽目に…
- 84 :
- 薩長というが、秋田口の長州藩兵は旋条銃中間第四大隊の一部しかいなくね?
薩摩は十五十六番隊と外城三四番隊と遊撃四番隊か。あと佐賀藩兵が750ぐらい?
これと庄内藩軍を比べると、さすがに庄内のが多いんじゃね?
秋田藩入れると逆転するだろうけど、それなら仙台藩も数に入れてやれ。
敗走しかしてないような気もするがw
- 85 :
- >>84
総兵力で比べるなよw 装備が違いすぎて比較できんしね。
新庄での戦いでは薩長兵の方が数が多かった。かつ、新政府側は桂太郎や大山格之助などがいた。
- 86 :
- 自分の目の前の戦いに夢中になって列藩同盟の崩壊にも気付かない、
そんな戦略眼皆無の大馬鹿者はこちらですか?
- 87 :
- 庄内や会津は朝敵!簡単に打ち破ってみせるから、俺たちに協力して攻撃すべし!
なんて言ってたのに、肝心の戦闘になると庄内に負け続け、延々退却するありさま。
残りは庄内だけって状況になったから、庄内も降伏したけど、はっきり言って西軍の口車に乗らず
会津の負けが決定的になるまで、態度を曖昧にしていた方がマシだった。
- 88 :
- 会津の口車に乗った仙台でも、同じ発言が聞こえるよ。
会津の口車に乗って参戦したが、白河一つ突破できずに敗戦、会津のせいで馬鹿を見たってね。
- 89 :
- ある意味>>79は出島が近いという当時の事情考えたらしょうがない気もする
たとえば阿片戦争を例にしても中国四国九州の諸藩は情報得て
「明日は我が身かも」で軍備増強とか出来るけど江戸以北の藩は
幕府が情報統制とかしちゃったら「阿片戦争?何それ」状態だろうし・・
あと技術革新するにもテキスト(洋物の医学書や工学書など)も流通コストの観点から
西側の藩のほうが安価に入手できた可能性も・・
- 90 :
- はあ?何仙台は被害者面しているんだw
仙台が会津をなんとかしていたら、(できなかった可能性は高いが)これほど被害が広がることは無かった。
- 91 :
- 態度を曖昧にしたとこを責められ、勝手に逆切れして東北全土を巻き込んだ戦犯が仙台だしな
- 92 :
- 経緯はどうあれ、関東に進出して権征夷大将軍!とか夢見てた仙台藩は、余り被害者とは見られそうにないと思うw
白河口の担当は会津に任せたじゃんしっかりしろよ!と言うならまだ分かる。
>>87
そらー薩長は、兵力的にも練度的にも北越方面と白河方面が主力だもの。
越後方面に出張ってた庄内藩軍は、会津もちゃんと戦えよ!ってブチ切れてたなw
- 93 :
- >>92
新庄方面に展開した薩長兵は奥羽鎮撫隊の主力なんですけど。なんで練度的に主力じゃないのw
ああ。世羅みたいなヤツが指揮官にいたから、兵の程度も推して知るべしってかw
- 94 :
- 世良は第二次長州征伐や鳥羽伏見でも活躍してる
仙台は自らの野心の為反新政府行動を起こしたのを覆い隠し
耐え切れずにやむをえず立ち上がったと言いたいが為に世良を殊更悪人に仕立て上げた
仙台って反新政府で旧幕軍と一致していただけの癖に佐幕派ぶったり
野心をもって戦って負けたと堂々としてればいいのに言い繕い方がださい
自分が勝手に引き込んだ小藩の離反を声高に裏切りと叫んだりするのも
- 95 :
- 仙台藩をドラえもんで例えるとスネ夫みたいな奴?
- 96 :
- 世良が捕えられた宿は、藩公認の上宿なのに、
後世の郷土家は勝手に遊郭認定してしまう。
白石城で上演されていた映像でも、世良は遊女と一緒に寝ていたところに、
怒りに狂った侍が突入したことになっていたけど、
実際は一週間前から暗計画を立てており、
前日に宴会を催し、遊女もわざわざ用意しといて、
寝首を押さえたというのが真実。
- 97 :
- >>93
司馬小説に毒された、かわいそうな教養の持ち主がここにもひとり・・・
- 98 :
- 世羅が人を説得できない言動をしていたってのは事実なんじゃないの?
- 99 :
- そりゃ、捏造に捏造を塗り重ねて斬首糞壺漬けを美化するような民族を
説得することはそう容易なことじゃないからな。
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