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2012年2月三国志・戦国41: 三国志末期と晋 再評価スレPartII (242)
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三国志末期と晋 再評価スレPartII
- 1 :09/03/08 〜 最終レス :12/02/10
- 孔明死後の人物の再評価スレです。
魏呉蜀晋仲良くやりましょう。
前スレ
http://ex24.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1229349708/l50
- 2 :
- 又か?
ま〜良いけど
- 3 :
- 「治世は大徳を以ってし、小恵を以ってせず」っての、結構変な意味で解釈されてんのな。これとか
ttp://plaza.rakuten.co.jp/ishihatakougyou/diary/200901290000/
寛の政治とか、猛の政治ってそんな意味だっけ?
- 4 :
- 「わが王朝が転覆し、呉は唇と歯のような密接な関係なのに、わが国の危難に同情することもなく、利を求めている。わしはどうして降虜になどなれようか!」
羅憲さんカッコ良過ぎ
まあいくら呉がセコいだけの悪党と言えども圧倒的な戦力差の前には踏みつぶされるのが歴史のリアリズムだが
それをひっくり返したのが三国志通の心を掴んでるんだろうね
- 5 :
- 陳寿が三国志を書きあげたのが284年だよね。
264年〜284年の間に晋朝にとり立てられていた
三国志の英雄や子孫がいた場合において、
陳寿が本当のことを書けなかった可能性はないのかな?
- 6 :
- ちょっと前まで閻宇と羅憲の区別もついてなかった奴が三国志通とか言うなよ
- 7 :
- >>4
羅憲厨乙
- 8 :
- >>5
それを言っては話が進まなくなるぞ
- 9 :
- >>8
そうなんだけどね。一応ピックアップくらいはしておく価値は
- 10 :
- >>9
じゃ
嘘書いていました
これでどうなる?
後はすべて妄想で話をするのか?
一様正史が一番信頼性があるんだけどな
- 11 :
- >>10
要点を外して書くことはありえるけど、嘘は書いていないと思う。
問題は「そういう」類の人物がどれだけいるかだ。
- 12 :
- どうせ自分好みの結論を出すために、史料を恣意的に扱いたいだけだろ?
だから真面目に話をする気にならないんだよ。
しっかり正史に記録されてる陳寿の「曲筆」なら晋書に有るよ。
陳寿の親父が諸葛亮に処罰されたから
意図的に諸葛亮を貶めた(臨機応変の用兵には長じてない等)とかって話。
すなわち実際の諸葛亮は三国志が示す以上に才能に溢れた英雄だったのだよ。
信じるかどうかは勝手だが、ちゃんと史書に残ってる逸話だ。
根拠のない「陳寿の曲筆」と比べてさてどうするかというのは別の話。
- 13 :
- 史書の記述を頭から信用しないのも問題だけど、全く疑わないのも問題
- 14 :
- 分かったから実際に歴代の史家が指摘する陳寿の曲筆の事例を書いてくれ。
寡聞にして俺は他には
・諸葛瞻に疎まれていたので「諸葛瞻の名声は実態以上だった」と書いた
・丁儀の子孫に無心をして断られたから、わざと丁儀の列伝を立てなかった
くらいしか知らないが、実際にはまだ有るだろう。
それら一つ一つの信憑性はともかくとして、それらを列挙すること自体には意味がある。
が、お前ら一般人の「○○だから陳寿は××について筆を曲げただろう」っていう憶測はいらん。
- 15 :
- 結局自分で調べるしかないのかよw
- 16 :
- >>14
なんか凄いな君の上から目線っぷりは
- 17 :
- 晋書の信憑性がどの程度なのか教えてほしい
- 18 :
- 柳隠厨乙
- 19 :
- 文体から見て>>12は>>1出現以来ずっと話の腰を折られたりイミフな反論を受けて来たからな。
それでも去年の年末くらいまで結構我慢してきた。
- 20 :
- >>14
まず趙翼の廿二史箚記でも読んで来い。
ネットに原文もあるし一般人でも読めるはずだ。
- 21 :
- 郤正は、黄皓と屋敷を並べて仕事する事三十年だった。
これは蜀が滅ぶまでの期間であっただろうから、郤正が官に就いたのは諸葛亮が薨去する前後であろう。
男子は弱冠で丈夫に列されるのであるから、郤正が官に就いたのも二十歳過ぎであろう。
本伝に「弱冠能属文、入為秘書吏」とあるのも、それを示しているだろう。
とすれば、郤正は蜀滅亡時に五十歳を過ぎた辺りだったという事になる。
それはともかくとして、何故孟光は秘書郎の郤正に太子について聞いたのだろうか?
秘書は太子に仕える官ではなく、それだけでは、彼が太子についてよく知っているという事にならない。
当時、太子璿には霍弋、羅憲、李譔、李密、蒋顕らが近侍しており、彼らに聞く方が早い。
恐らく、孟光は嫌われていたので、霍弋らは用も無く敢えて訪問する事が無かったのであろう。
そして郤正の師である譙周も太子に近侍していたので、孟光は、郤正が譙周を通して太子について知っていると考えたのであろう。
もう一つ、何ゆえ孟光が太子の学んでいる書などを訊ねたかであるが、
これは李譔が太子に近侍していた事に見出されるのではないだろうか?
李譔は古文をよくし、左伝についてもよく著述している。
対して孟光は、公羊伝を好んで左伝を批判していたのだから、李譔らとは学問上立場を異にする。
劉禅が崩御して太子が即位した時、李譔らによって主導されては孟光らの学派は更に立場が弱くなる。
孟光が太子の学問について意見を述べたのも、その辺に理由があったりするのかもしれない。
- 22 :
- つか蜀って魏に滅ぼされてから李特や羅尚が入ってくるまで誰が治めてたの
- 23 :
- >>17
捜神記の記述を引用しちゃう位の信憑性
あとは…分かるな
- 24 :
- だからといってそれだけで内容全否定できるわけじゃないぞ。
- 25 :
- 諸葛亮については、陳寿が諸葛亮に対して非常に敬意を示していることは
三国志自体の記述とか、他の陳寿が残した諸葛亮に関する文章などを見れば分かる。
そこらへんを考えれば、陳寿自身が諸葛亮に含むところが有ったとは考えづらい。
丁儀については、曹植に与して一族誅された人物であることから
・そもそも伝を立てるほどの人物なのか
・丁儀の子孫というのが本当に居たのか
などの疑問がある。
諸葛瞻については、別段強く否定できる要素は無い。
と、こんなところか。「晋書だから」って理由で否定するのはまあ乱暴だよね。
- 26 :
- >>22
司馬穎
- 27 :
- 課田法・占田法を考案したのは誰なの?
- 28 :
- >>26
その前がまだ25年ほどあるべさ。
- 29 :
- 益州を誰が治めていたかと言うと、これはその時の益州刺史が該当すると思う。
蜀が滅んでからの益州刺史は以下のように遷ってる。括弧内は刺史になっているのが判明している年ね。
師纂(263年)→袁邵(264年)→童策(268年)→皇甫晏(272年)→王濬(272年)→胡羆(280年)→栗凱(296年)→趙廞(296年)
- 30 :
- おお
続くのか、うれしい
今更ながら1乙
- 31 :
- >>29
益州出身者はいないのね。
- 32 :
- >>31
本貫のある州の刺史になる事なんて、そうあるもんじゃないと思う。
- 33 :
- >>27
戸調式の発案者なんて史料に無いんじゃないの?
「有司又奏」とあるんで、ひょっとすると当時の度支尚書である張華辺りかもしれんけど、
史書に書かれてるわけじゃないから何とも言えない。
- 34 :
- 屯田制:棗祗(曹操)
占田課田制:???(司馬炎)
均田制:李安世(孝文帝)
- 35 :
- こんにちは!こんばんわ!
このスレの前スレのログ、誰か分けてくだしあ
曹叡の生年は建安11年(206年)で没年景初3年(239年)享年36歳でバッチおkと言える
考えが浮かんだんだけど、も一度その辺りの議論を確認したいのです
確か前スレでやってたよね?
- 36 :
- 誰もいなさそうなので、ちょっとageさして貰うね
- 37 :
- >>36
前スレのログなら持ってますけど、該当箇所をこのスレに貼れば良いんですか?
- 38 :
- >>36
貴方が神か。捨てメでログ送って下さると有り難いですが。
アドレスは目欄で。
要旨は
文帝の黄初改元時、明帝の景初改元時で年齢がそれぞれ加年計算されてる可能性がある
少なくとも黄初時に年齢に1年加算されてるだろうことは文帝の典論自序から示唆しうる
典論自序から曹丕の生年は中平五年と推察できる。その場合、226年で享年四十は1年合わない
生年の中平五年が正しく、享年四十も正しいとするなら、漢魏禅譲時に年齢に1年の加年があった
と考えられる。陳寿はこれを考慮しなかったため享年に合わせて生年を中平四年としたのでは?
魏の改元に関しては前代と異なるルールがあったと考えられる。それを暗示する物件2つ。
それらを延長すると曹叡の生年が206年であっても享年三十六となりうる。
文帝紀 延康元年五月十五で武徳侯に封じられる。から計算。
延康から黄初への禅譲改元でその年の内に十六、あと景初改元で+1加年。
これで享年36。生年は206年。
- 39 :
- >>38
MHTML形式のファイルを送りました。
- 40 :
- > 文帝の黄初改元時、明帝の景初改元時で年齢がそれぞれ加年計算されてる可能性がある
それは面白い。
- 41 :
- >>39
確認しましたありがとです。
- 42 :
- なるほど、元号が変わることで歳が一つ繰り上がる、と言う可能性はあるかも
ね。後親族が亡くなった時は年末生まれでも年明けに亡くなると1歳加算される
とか、日本でも普通にあるぐらいだし、年の概念は今の西暦で無く、あくまでも
元号に拠る訳だから、そういう加算計算も充分あり得るね。
- 43 :
- >>42
いや、普通は年途中での改元でも年齢は重加算なんてしない筈なのよ。
だからこれは恐らく文帝が登極して魏の正朔を定めた時に決めたローカルルールっぽい。
そしてこのローカルルールの欠点は年途中の改元があると年と齢が1つづつずれてくこと。
んで、この年と齢が年途中の改元でずれてくのを防ぐためだろうけど、文帝→明帝、
明帝→斉王の時の皇帝崩御、新帝登極時には新帝が立ったのに改元せず前の皇帝の元号を
そのまま継続して使ってる。(>>38の魏のローカルルールの存在を暗示させる物件その1)
更に全三國文の明帝の文に景初改元時に発せられたと思われる詔勅があって、これがまた
「年途中で改元したけど不満とか言うなよ?言うなよ?」って言い訳してる。
わざわざこんな詔勅を出したってことはやはり魏には文帝が定めたローカルルールが存在
したと考えられるわけよ。(>>38の魏のローカルルールの存在を暗示させる物件その2)
これを調べてる途中で分かったことだけど、献帝はこのズレが無い。
しかしこれは献帝だけは漢の正朔をそのまま使ってよい特例だったからと考えられる訳で
献帝の事例ではこの仮説を否定する根拠にはならんのよね。
- 44 :
- >>43
>この年と齢が年途中の改元でずれてくのを防ぐためだろうけど、文帝→明帝、
明帝→斉王の時の皇帝崩御、新帝登極時には新帝が立ったのに改元せず前の皇帝の元号を
そのまま継続して使ってる。
いやそれはおかしいよ。
だって、新帝が立っても改元しないのが通常の改元規則なんだよ。前漢、後漢の改元を洗ってみなよ。
少帝即位時とかの方が異常なの。
これはその改元規則どおりにやってるだけだ。
正直、この年齢重加算はちょっち苦しいかな。
- 45 :
- >>44
そうなのか。それは失礼。
年途中の改元による年齢のダブルカウントは
曹丕の生年と享年は1年ズレてね?ってところから来たものだから。
その場合、曹丕が1つ歳を加算されてるのはどう考えたらいいだろう?
- 46 :
- >>45
なんで漢魏禅譲(延康から黄初への改元)と景初改元では1年加算されて、建安から延康の改元では加算されないのかが明確にならないとなんとも言えないな
文帝紀の享年の方が間違いという可能性もあるというか、典論との差を考えるとそういう結論が普通だと思うんだ
他の人物の例を示すか、当時に限って行われた理由も納得できるか、そういう要素がないと単なるこじ付けの域じゃないかな
もしそういう説得力持つ証拠があるなら失礼
- 47 :
- >>46
王朝交代に伴う改元だからと考えてる。
曹叡の生年問題は曹丕の享年のズレと同じ原因から生じてるんでは?と思ってる
典論の自序から曹丕の生年は恐らく中平五年だと同定できるにも関わらず
陳寿は曹丕の生年を中平四年冬としてる。これは享年の40に合わせたからじゃね?
という疑問があるわけだ。
文帝の享年40は朱建平伝でも黄初七年享年40で、文帝自身に「俺はやっぱ40で
死んじゃうんだ」などと言わせてるから軽々に間違いとは出来ないんじゃね?
だから王朝交代に伴う改元で何か理由をつけて齢を1年重加算してるんじゃ?
と思ったわけよ。
ただ曹丕だけだと事例1つで論拠として弱いから他に漢魏の交代期に生年と享年が
はっきりしてる魏の人間他にいないのかなと探したんだが、一人もいやしねぇw
碑文とかでて来てくんねーかなー
- 48 :
- >>46
おっと。景初の方。
景初の方は曹叡自身が自論の「三統暦循環論」を開陳して
年途中だけど正朔改めてしゃっきりしようぜとかやってるから。
でもこれは改めて考えると王朝が交代したわけじゃないから重加算の可能性は低いね確かに。
とは言えなにゆえ曹叡は年の途中で改元とか言いだしたの?何をしたかったんだろう彼は。
- 49 :
- >>48
景初は正月に黄龍出現という瑞祥が報告されたことと、改暦しようぜ、ってのが理由みたいだねえ
特にめでたいことがあれば年中でも改元することは大いにありえる
- 50 :
- 曹叡の場合は袁氏の血による再クーデターだったからという説明もできるね。
俺は支持できんけど。
それよりも黒タン説だと暦法が混乱するんじゃないか。
曹叡の干支は何年ってことになってるの?
- 51 :
- >>47
交替の歴法を変えたときに+1歳としたのではないかという説は裴松之が唱えているけど
(「35にはなるが36にはならない」というのは裴松之の計算ミスだよね?
「無理に数えれば」享年36で生年204年になる)
それが実施された根拠を求めるというアプローチは考えたことがなかったな
俺もちょっと探してみる
- 52 :
- 曹芳の兄の秦王ってどこいったんだろ
それに、なんでわざわざ年下を皇帝に立ててるんだか
- 53 :
- 255年頃の征(討)蜀護軍について調べているが、これがよく分からん。
征蜀護軍になった人物として、
・曹真(219年):徐晃らを率いて陽平で高翔を破る
・戴淩(陵)(231年):費曜、郭淮らと共に司馬懿の麾下に入る
・秦朗(234年):司馬懿の増援として歩騎二万を率いて五丈原に派遣される
・夏侯儒(?〜240年?)
・夏侯覇(241?〜249年)
・徐質(249〜254年)
・胡烈(263年)
がいる。
夏侯儒は黄初年間に護軍として征西将軍曹真の麾下に入っているが、
これが征蜀護軍だとすると、夏侯覇が彼に代わって征蜀護軍となったという記述と合致しない。
戴陵は曹丕を諌めて危うくされかけた人物だが、それ以外の経歴が分からないので何とも言えないが、
曹真、夏侯儒、夏侯覇は曹氏の縁戚、秦朗も曹操に養育された人物なので宗室に準ずる人物だろう。
正始の政変以前は、征蜀護軍は征西将軍と同様に宗室の就くポジションに見える。
政変以降に征蜀護軍となった胡烈は、父の胡奮が司馬懿の子飼いであるので、
恐らくは司馬氏派とも言える集団であろうから、征西将軍が陳泰ら親司馬氏に変わったのと同様、
征蜀護軍も親司馬氏の人物が就くようになったのだろう。
とすれば、徐質も、そして徐質の後任も親司馬氏の人物だったろうと思う。
もう一つ、征蜀護軍に似たもので征蜀将軍というものがあるが、
こっちは衛臻(231年?)、趙儼(239年)、司馬昭(244年)、陳騫(256年?)らが就いている。
衛臻と趙儼はどちらも都督が付されているので、征蜀将軍は相当権威ある将軍位だと分かる。
征蜀将軍と征蜀護軍が並立するのかどうかという点がまた問題になってくるが、
衛臻の征蜀将軍就任時期を考慮すると、どうやら並立はありそうではある。
並立しない職だとできれば、また色々解釈ができるのだが。
- 54 :
- 三国志末期で目立った武功のある武将って文鴬くらい?
- 55 :
- 馬隆
- 56 :
- 征呉戦の武将
- 57 :
- >>53
征蜀護軍に似たようなのは呉に対しては無かったの?
- 58 :
- 護軍、と言うと諸将の統括と防衛隊的な意味があるから、難しいな。この場合は防衛隊
としての意味と考えると将軍と並立してあったとしても別に不思議はないかなぁ。
もしくは司馬一族が権力を握った辺りから、意味合いが違ってきてるとか、そう言う
可能性はないかねぇ。
にしても高翔って伝とか立てられていないけど、あちらこちらで出てくるなぁ。まぁ
敗北の方が目立つから将軍としての能力には少々疑問符がつかないでもないけど、
最後は右将軍までなっているからそう言う意味では結構重要な人物?
- 59 :
- >>58
呉壱と呉班くらいの重要人物だろう。
- 60 :
- >>57
討呉護軍の張翰という人物が、呉を平定する際に王渾軍麾下として張悌と戦っている。
従って、張翰以外にも置かれていたとするならば揚州諸軍事に属す職だろう。
この張翰という名は、呉の大鴻臚張儼の息子と同じ名だが、恐らくは別人だろう。
>>58
曹真、夏侯儒、夏侯覇辺りの名前を見ると、征蜀護軍は枢要な職だったんじゃないかと思う。
ただ、231年の征蜀護軍が戴陵である事や、秦朗が中央から派遣されている事を考えると、
司馬懿が関中に赴任している間の征蜀護軍は重要性が薄れていたように思う。
その後、曹爽が権力を握って西方に夏侯玄が現れると、夏侯覇が征蜀護軍となっているので、
宗室が権力を増大させると征蜀護軍が重要になってくるものなのかもしれない。
夏侯儒が征蜀護軍だった時期もよく分からんね。
張既伝からは文帝の時代には征蜀護軍だったように読めるし、
夏侯淵伝の注釈に引く魏略だと、夏侯覇は夏侯儒に代わって征蜀護軍となったとあるので、
彼が正始年間にも征蜀護軍だったと読める。
しかしながら、その間には戴陵や秦朗がいるのは確実。
明帝が死に、司馬懿に代わって趙儼が雍涼州諸軍事だった頃の征蜀護軍を夏侯儒とすると、
この頃から宗室が再び西方を掌握し始めたという事になるのかもしれないが、
趙儼は司馬懿と親しい辛毗や陳羣と共に名を知られた人物なので、宗室が西方を掌握しているようには思えない。
- 61 :
- >>60
トン。討呉だと臨時の職の可能性が高いのかな。
揚州諸軍事がカバーする範囲に江陵も入っている?
- 62 :
- >>61
荊州は荊州諸軍事の管轄なので、江陵攻略の担当は荊州諸軍事となる。
甘露四年四月に襄陽周辺を分けて新たに江南諸軍事を立ててからは、
江陵方面はそっちの担当になると思う。
王渾の指揮下で戦った中には、討呉護軍の他に殄呉護軍の李純という人物がいる。
討呉護軍の方は揚州刺史周浚と共に張悌と戦ったんだけど、
殄呉護軍の方は王渾が別働隊として派遣している形になる。
ここで討蜀護軍を見てみると、248年までは郭淮の、249年以降は陳泰の麾下で戦っている。
そして255年、徐質の後任と思われる討蜀護軍の部署を、雍州刺史王経が決定しようとしている。
この辺を考慮すると、討蜀護軍は雍州刺史の麾下であると考えた方が良く、
討呉護軍も揚州刺史の麾下であった可能性も考えられる。
征蜀護軍の戴陵は雍州刺史郭淮と並んで司馬懿の麾下に入り、
同じく征蜀護軍の胡烈は関中都督鍾会の麾下に入っている。
夏侯覇は本伝では討蜀護軍、魏略では征蜀護軍なのだが、
殄呉護軍と討呉護軍の如く、実は両者は別物で、征蜀護軍は都督直属、
討蜀護軍なら刺史所属という形であったりしないだろうか、と思った。
- 63 :
- 初歩的な質問だけど、護軍と監軍って、やってる内容は同じ?
- 64 :
- >>63
護軍の場合、中護軍か雑号護軍かで大きく違う。
中護軍は中領軍の次官で武官の選挙を取り仕切る官職だけど、雑号護軍は将軍のような官職。
監軍は蜀平定時の衛瓘のように軍監としての職務を持つ事もあれば、
徐州監軍や巴東監軍、南中監軍のように都督としての職務を持つ事もある。
監青州諸軍事の石苞が、晋書文帝紀等では監軍となっているように、
都督としての監軍は「監〜諸軍事」を意味しているのだと思う。
- 65 :
- とんくす!
ただの護軍だとナントカ将軍と似たようなもんなのね。
中領軍>中護軍ってこと?
選挙を取り仕切るということは、人事権というか参謀みたいなもん?
監軍はエイカンみたいな軍監(軍を監視するって意味?)と
都督の意味のある監軍があるってことね。
セキホウは青州監軍って言いかえることもできるのかな?
同じ漢字だけど意味が違うということかな。
混乱しちゃいそうだね。
- 66 :
- というより、軍監も都督も「監軍」という同一の職務のある側面なんだと思うよ
監察官、監視役というのは往々にして実質的な指揮権を持つ場合がある
- 67 :
- ということは、都督に対して監軍は付かないってこと?
- 68 :
- 都督や監軍が何からどう派生していったかとかは分からんが、
宋書百官志によれば、都督諸軍(事)が最上位で、監諸軍がそれに次ぎ、督諸軍が最下位という事。
実際は衛瓘の就いた監軍も正式な官だったかは分からない。
彼は廷尉のまま持節監艾会軍事となってケ艾と鍾会の軍事を監督したが、
領した兵は僅か千人で、それも行鎮西軍司の職に基づくものだった。
恐らく軍監としての職務は、こっちの鎮西軍司の方にあったんじゃないかと思う。
結局は衛瓘も「監〜(諸)軍事」ではあるようだから、監軍って呼び方はこれの事だろう。
他に「軍司」となった人物として、安西軍司杜預、衛将軍軍司徐胤、安西軍司傅祗らがいる。
徐胤は、夜間に外出しようとした羊祜を割符を持って制したし、
傅祗は安西将軍夏侯駿を率いて氐族を討伐している。
軍司の権限の大きさが窺える。
ただ、鍾会が衛瓘にケ艾捕縛を命じた事を考えると、鎮西軍司と言えども、
鎮西将軍を完全に抑えられるわけではない事が分かる。
- 69 :
- 江南諸軍事というのも興味深い存在だと思う。
これが初めて設置された時、荊州諸軍事王基が新野に、江南諸軍事州泰が襄陽に鎮するという形であった。
その後、陳騫が州泰に代わって江南諸軍事となり、次いで荊州諸軍事となった。
陳騫が荊州諸軍事となると、今度は王沈が江北諸軍事となる。
それから数年の後、羊祜が荊州に赴任して荊州諸軍事となると、江北諸軍事が廃され、代わりに南中郎将が置かれた。
しかしながらその七年後、再び江北諸軍事が置かれて胡奮がその任に就き、
翌年羊祜が死ぬと代わって杜預が荊州諸軍事となった。
この辺りの流れを俯瞰すると、甘露四年に荊州に二人の都督が置かれるようになると、
新野に駐屯する都督を江北諸軍事、襄陽に駐屯する都督を江南諸軍事と呼ぶようになった。
そして両者の内で重きをなす方が荊州諸軍事と呼ばれたのだろう。
都督が二人と言う状況は羊祜の赴任と共に一旦廃止されるが、その晩年になって再び配置される事になる。
これは羊祜と何攀の考える征呉戦略によるものだろう。
羊祜らは、「荊楚の軍」と「平南の軍」という表現を用いているが、
ここで出てくる「平南の軍」というのが江北諸軍事の軍勢を指しているのだろう。
彼らの計画では、江陵と夏口とを同時に攻撃する必要があるので、都督の再配置が必要だったという事だと考えられる。
では何故、羊祜の赴任する十年も前に荊州の都督を分割したのか?
俺は王基の発案に拠るものと見る。
王基は251年頃、呉を討伐せんと欲する朝廷の議論に対して、地勢を鑑みつつ、
「軍備を充実させ大軍によって江陵(+夷陵)と夏口を同時に攻撃する事ができなければ、呉を攻撃するべきではない」と述べている。
王基はその直前、王昶指揮のもと、州泰らと共に、この王基の提案に似た作戦で呉を攻めているが成功しなかった。
この失敗から、荊州の戦力増強と、大きな権限を有する二人の司令官の必要性を感じ取ったのではないだろうか?
250-251年の戦役に参加した王基と州泰はこの後荊州を離れるが、
259年に再び荊州に戻ってくると、王基は荊州諸軍事、州泰は江南諸軍事となっている。
分かたれた時の都督がこの二人だった事は、決して偶然ではあるまい。
- 70 :
- >>69に関連しての事だが、平呉戦役において胡奮が江夏より軍を発したとされている根拠は何だろうか?
彼は江北諸軍事だったのだから、その駐屯地は新野か宛だろう。
俺も何も考えずに江夏としてしまったりしたが、胡奮がまず公安を攻略した事を考えるとやはりおかしな話だ。
以前は、江陵周辺部を攻略する事の重要性からだろう、と考えたが、
よくよく考えると、江夏より湿地帯を抜けて漢水を渡り、更に湿地帯を抜けた先にある公安に対して攻撃を掛けるのは、
やはりおかしいし、江夏より難路を抜けて公安を降すと、その難路を取って返して夏口に向うのもおかしい。
胡奮は新野を発ち、杜預と共に真っ直ぐに南下して公安を攻め、その後に東進して夏口へ抜けたと見るのが自然だろう。
出典のよく分からない江夏策源説を信じておかしな機動を取らせるよりも、
江北諸軍事である事を根拠として、新野から自然な進路を取らせた方が蓋然性は高いだろう。
- 71 :
- 呉には荊州諸軍事て居た?
- 72 :
- >>71
「荊州諸軍事」という名前は見られないけど、陸遜や施績、陸抗らのように、
荊州都督のような任に就く人はいた。
陸遜、その後任の諸葛恪、更にその後の呂岱らは武昌に駐屯して荊州全体を指揮したが、
施績以降、武昌は荊州都督の指揮範囲外になっている。
施績の頃に武昌周辺を指揮していたのは魯淑で、
それ以降は、西陵督張政の後任となった劉憲くらいしか名前が無い。
詳しくは調べてないから、探せば色々出てくるかもしれないけどね。
- 73 :
- 基本的に長江流域の各拠点にそれぞれ監や督を置いて数千くらいの軍隊で分散配置
太守なんかとは別扱いの兵力
- 74 :
- 武昌は一時呉の首都となったりしたように呉にとって西の行政府的な場所
大将軍や大司馬が駐屯することが多い
いわば臣下のトップクラスじゃないと任されることはないと思われ
呉では督は基本>>73のおっしゃるとおり一拠点に収まる
陸遜のころは荊州牧権限かも
諸葛恪と呂岱で武昌を中心に分割管轄
施績はたぶん楽郷督のまま、他の督への指揮権付与的な印象を受ける
後任の陸抗も楽郷駐屯になったので同じようにものかと
明確な広範地域都督を示す役職は見当たらない気がする
そういえば唐突に都護督ってのがあったけどよく分からん
ついでに陸抗が何故重要視していた西陵に駐屯しないのかという話もあるが
呉は基本的に血縁相続なので西陵督は歩隲から歩氏に相続という罠
- 75 :
- 呉はよく分からんね。
兵を世襲していた事は記述から分かるし、楽郷督を継いだ施績、西陵督を継いだ歩協らの例から、
拠点の督を世襲する事があるのも分かる。
施績や歩協らがいる一方で、濡須督を継がなかった朱異などの例もある。
皇帝が兵を取り上げる例もあるので、恐らく皇帝の介入もこうした違いの原因ではあろう。
戦争の際、基本的には、各地の督や水軍督の指揮権を付与された人物が、
それらの戦力を指揮して敵に当たるんだろうけど、当然中央軍も存在するので、
その中央軍の扱いがどうなっていたのかとかもよく分からん。
この辺の事を色々調べて考察すると面白いかもしれんね。
最後に名前の見える武昌監(督)は劉憲(留憲)だけど、これはやはり留贊の一族だろうか?
武昌督は、諸葛恪が陸遜の後を襲って以来、右部督と左部督に分かれていた。
これは孫皓の頃まで続いていて、右部督になった陸凱、左部督になった薛瑩、徐平らの名が見える。
留憲の時代までに左右の部が統合されていたのだろうか?
武昌右部督の指揮する範囲は蒲圻から武昌までと広く、留憲が西陵督と交代した事を考えると、
彼が単に武昌のみを督する人物であったと推測できる。
仮にどちらかだったとしたら左部になるのだろうか?
- 76 :
- >>75
訊いてばかりになるけど、同時代に江夏太守に劉朗という名があるけど、
彼も留賛の後裔?
それと武昌で晋軍に抵抗した将軍として、孫述、楊雍という人物もいるけど、
彼らは将軍号も何もわからない。
劉憲が西陵督に移った後は彼らが右・左部督だったのか、それも俺には
わからん。
- 77 :
- >>75
濡須督に関しては朱桓存命中から、張承が取って替わってる。
- 78 :
- 歩氏の世襲みたいな西陵督に陸胤が赴任したこともあるようですが…
まあ、諸葛誕の乱に伴う一時的な処置かもしれないけど
ついでに武昌監は名前が違うし督軍と監軍が微妙に異なるように
督とは違うと思うけど…監軍使者もいるし
そういや周瑜のころから官職を左右に分けるのが通例みたいになったようで
(※左大督:周瑜、右大督:程普)
呉の序盤では右大司馬とか左軍師の様に並列させまくってますよね
- 79 :
- 訂正
濡須督は朱桓→駱統→張承だった。
- 80 :
- >>77
駱統は朱桓去前に濡須督になっているけど、張承はどうだろうか?
張承が呂岱に手紙を送った事があるが、これが呂岱八十歳の時なので240年となる。
この時の張承の将軍位は奮威将軍で、濡須督になった頃の将軍位と同じ。
240年と言うと朱桓の死んだ翌年なので、朱桓存命中になっていたかは明らかではないと思う。
朱桓について気になるのは、胡綜害未遂事件を起こした時の話で、
「数月復遣還中洲」という記述がある事だね。
中洲と言うと江陵か濡須だと思う。
そして江陵には朱然がいたので、駱統が朱桓に代わった後、朱桓が再び濡須督になったと考えられる。
>>78
監については、確かに単純に督と同一視はできないかもね。
それでちょこっと調べたら、王濬が西陵を抜いた時の武帝紀の記述に、
「西陵都督鎮軍将軍留憲、征南将軍成璩、西陵監鄭広をした」とあった。
何の気なしに読んでいた時には気付かなかったが、都督と別に監がいた事がここで分かる。
逆に夷道では夷道督の名は見えず、夷道監の名しか見えない。
江陵では江陵督伍延の名がはっきりと見える事を考えると、
少なくともこの時期、夷道には督が置かれていなかった事が分かる。
まぁ、夷道督の存在が確認できない事を考えると、督が置かれる都市と置かれない都市があったと見てもいいと思う。
監の職務が監軍や監軍使者と同様なのかという点は、自分にははっきり分からない。
武陵監軍、夏口監軍などの名が見えるので、西陵監も夷道監も武昌監も、
それぞれ西陵監軍、夷道監軍、武昌監軍なのではないかと思うし、
そうであれば、所謂監軍としての職務を持っていたのではないかと思う。
- 81 :
- >>80
いやいやそこは討ち取った功績リストみたいなものだから
みんなされるわけでもなし、逃げられたりして討ち取れてないってだけでしょ
降伏した場所の人は名前ないし
「記述ない=いない」は乱暴過ぎないですか
「記述ない=わからない」程度でたのんます
- 82 :
- >>80
肅遺腹子淑既壯,濡須督張承謂終當到至
ちくまの訳では成人となっていたんだが、ちょっとよく分からない。
俺の手元のちゃちい辞書だと「壮=30歳頃」だけど
魯粛の遺腹の子が30歳になる頃には張承は死んでる。
壮丁=成人的な意味合いなら、上の話は237年頃かな、と。
若い魯淑の才能を見抜いたって話だろうし。
俺は駱統死去=張承後任と思ってたんだけど
出世スピードを考えると、再検討が必要か。
- 83 :
- 夏五月,權遣陸遜、諸葛瑾等屯江夏、沔口,
孫韶、張承等向廣陵、淮陽,權率大圍合肥新城。
234年の段階で濡須督になってるんじゃなかろうか
- 84 :
- >>82
はっきりとした記述が無いのなら再検討は必要だと思う。
だけど、俺も「中洲」という言葉にこだわり過ぎている感もあるし、
濡須督の前が長沙西部都尉だった事を考えれば、>>83の言うように234年には濡須督だったかもしれない。
ともかくも、240年には恐らく濡須督であっただろう、という事は分かる。
諸葛誕の乱の頃、朱異は虎林に駐屯していたので、その頃の彼の任地は廬江郡だっただろう。
赤烏四年に朱然の樊城攻めに付き従った記述の後に、魏の廬江太守文欽に関する記述がある。
文欽は正始の初めに廬江太守を免官になった後、曹爽が権力を握るようになってまた廬江太守に復帰した。
朱異が文欽と対峙するようになったのもその頃だろう。
従って、朱異は遅くとも240年代前半には虎林を督するようになっていたのだと思う。
朱異が赤烏四年以前から虎林督だったなら、朱桓も虎林督だった可能性をも考えられるが、
虎林督なら赤烏四年に六安攻撃に随行していると思うんだよね。
もう一つ考えられるのが、朱桓が江陵に駐屯していたという可能性かな。
施績は朱然の死後楽郷督を継いだので、朱桓と朱然が同時期にそれぞれ江陵と楽郷を守っていたという事も考えられる。
当初朱異が継いだのが江陵督或いは江陵監軍などだったとすれば、
赤烏四年に朱然と共に樊城に出た事は理解できる。
- 85 :
- 呂範は督扶州以下至海
賀斉は督扶州以上至皖
賀斉が死んで朱桓が仕事を引き継ぎ、
それに合わせて朱桓の濡須督は駱統が引き継いだ、とか?
- 86 :
- >>85
時期的にはあるかもしれんね。
仮に朱桓が扶州から皖までを指揮する事になったとすれば、再度濡須督に、とはならないだろうから、
駱統の死後の濡須督は、分かる限りで言えば張承になる。
張承だったとすると、彼は十数年間濡須督奮威将軍から動かなかった事になる。
あり得なくは無いが、駱統と張承の間に誰かいたかも分からんね。
- 87 :
- 保守
- 88 :
- そういや最近ジョミの字見ないな
三戦にも飽きたか
- 89 :
- >>88
毎日じゃないが、いる事はいるよ。
新しい事が思いつかないから書き込んでいないだけなんだな。
- 90 :
- >>89
思いつかないってことは飽きたのと大して変わらんね
- 91 :
- >>90
自分では似て非なるものだと思ってるけどね。
別に三国志に飽きているわけではないから。
恐らく、俺が何か思いつくには新しい知識が必要だが、
現状はそういう余裕があまり無い。
ゲリラ戦なんかも勉強しているが、三国志の考察にはさほど役立たないだろう。
既に主張した事のある内容を述べるだけならいくらでもできるんだけどね。
とりあえず、ケ艾が奇襲を行わなかった場合にどうなるかって事を考えている最中だが、
時間がさほど取れないので、結論が出て文章化するまで時間が掛かる。
- 92 :
- 陰平超え、グーグルアースで見るとほんと山奥なんだよな
あれ超えたの本当にすげぇ根性
- 93 :
- >>35-51
少なくとも曹魏では年次途中での改元で年齢が一歳加算されることが判った。
- 94 :
- >>93
kwsk
でもそれだと魏だけ年齢がどんどん実年齢と乖離していくね
- 95 :
- >>94
管輅伝。
管輅は正始九年(248年)に秀才に推挙されている。
この時裴注の管輅別伝では年三十六。これから逆算した生年は213年。
そして管輅伝では甘露元年二月(256年)に年四十八で亡くなっている。
これから逆算した生年は209年。4年のずれがある。
没年の記述もその原典は管輅別伝だろう。
この間に正始→嘉平→正元→甘露と年次途中で三度改元されている。
それぞれ改元時に加齢しているならこのずれは一歳の誤差ですむ。
(俺はこの一歳のズレも曹芳が廃されてあと曹拠で一旦話が決まったのを
皇太后が引っ繰り返して曹髦に決まったことが関係してるんじゃ?と
憶測してるが。)
これから管輅の生年を逆算すると年次途中に改元した景初、青龍、黄初で
加齢して数えて、生年は216年になんじゃね?となる。
三国志にはいくつか年の合わないイベントが記されてるが、これは陳寿が
拠った原典(恐らく別伝系のもの)でこういう歳の数え方してるのを、
全く気付かず普通に年齢計算して年号を合わせた結果生じたものである
可能性がある。
んで、これがそうであるとするなら、三国志の中には、曹魏の中で特殊な
数え方して記録に残された年齢と、陳寿が普通に数えて数合わせした年齢
とがごちゃ混ぜになって存在していることになるわけで、史料を読むとき
この点を踏まえて読み込まなきゃならんという非常にやっかいな問題が内
在していることになる。
- 96 :
- >>94
それから鍾会伝。
鍾会自身が書いた母の伝で正始八年(247年)に尚書郎になった時二十歳。
これだと逆算すると生年は228年。
そして蜀を攻略して死んだ時歳は四十。この時は264年。
これを逆算すると生年は225年。これだけで3年ずれる。
だから魏については年次途中での改元があった場合、歳も一つ増えると
考えるべきだと思う。
ただ、それでもこの加齢と年次途中の改元との数が合わないので、
年次途中の改元時に加齢したりしなかったりするのにまたルールがある
んだろうと考えられる。
- 97 :
- >>96
面白い話だしこれを突き詰めていったら楽しそうだとは思うけど、
>少なくとも曹魏では年次途中での改元で年齢が一歳加算されることが判った。
は流石に言いすぎじゃないかな、この時点では
- 98 :
- >>97
確かに。勇み足だったわ。
- 99 :
- でも今のここまでの流れは学術的にも結構衝撃的な内容じゃね?
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