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2012年3月日本史78: 新田と足利3 (747)
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新田と足利3
- 1 :
- 語ろう
- 2 :
- ぼくの親族も「新田」ですが関係ありますか?
新田恵利ちゃんは関係ありますか?
- 3 :
- >>2
新しく作った「新田(しんでん)」で田んぼに糞尿撒いてた次男三男坊の子孫です。
- 4 :
- 新田vs上杉・・・・・・・・・タッチ
新田vs国生・・・・・・・・・おにゃんこ
- 5 :
- >>4
ふむ、なかなか。
- 6 :
- 新田vs大空翼・・・・・・・・・
- 7 :
- 新田俊vs沸かしまず FW争いw
- 8 :
- 足利vs斑鳩
アシカがvsイルカが・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・イカルがじゃん
- 9 :
- 新田と足利共通の祖先である
義家の男系子孫って継続してるのか
- 10 :
- 最近中央公論社のさいとうたかを先生の『太平記』を読んでこの時代に興味を持ちました。
それにしても、どうも新田義貞はあまりにもちょっとなんていうのか、
損な役回りだなと同情してしまいました。
個人的にはああいう実直な人は好きなんですけど。
でも一応足利兄弟の相手になったりしているわけですし、
まんざらだめだめな武将でもないと思うのですけど。
ミネルバ書房の人物叢書の『新田義貞』でも読んでみたいと思っています。
- 11 :
- 間違えました人物叢書は吉川弘文館でした。
吉川元春は陣中で太平記を書写したそうだけど、
それぞれの武将をどう評価していたのか少し気になる。
読書感想文?人物評みたいな記録があったら見てみたい気もする。
でも、徳川家康が新田の子孫を僭称するくらいだから、
あんまり悪いイメージをもたれていたわけでもないのかという気もします。
- 12 :
- >>9
確かなところでは上杉が吉良の男系だからそこは義家の男系だな。
後細川も男系で続いているな。
- 13 :
- 【岩松頼有こそ、田島経政?】
暦応2年から伊予国守護、その後備後国守護として活躍する岩松頼有その人を岩松・田島経政の出家した姿か、後継者である可能性が高いという。
新田義貞の鎌倉攻めにおいて、岩松経家と並ぶ岩松軍団の大将として、新田遠江(田島)又五郎経政がその人であろうという。
『新田町史』
- 14 :
- 新田義貞まんせ〜
- 15 :
- 山名氏、里見氏も新田の一族だと知って驚きました。
- 16 :
- >10
太平記はじめ当時の読み物には新田義貞はなかなかの智将、猛将として描かれているよ
戦前に皇国史観で過剰に忠臣として持ち上げられた反動で、戦後、極端に貶められている
その意味で死後の毀誉褒貶が激しいひとりと言える
- 17 :
- 16の補足
智将というより配下の意見をよくとりいれて果断に実行に移すというシーンが少なくない
- 18 :
- 足利は源氏の足利が有名ですが、藤姓足利氏がその前にいました。
子孫の方、いますか?
- 19 :
- >>16
なるほどねえ〜そうだったんですか、
ほんとにだめだめだったら部下にも見放されていただろうし、
そもそも足利兄弟の相手にもならなかったと思うのです。
後醍醐天皇にも信用されてるし。
ノブヤボ風に表現すると足利、楠木武力90、新田80くらいの
イメージでしょうか。
- 20 :
- >>19
足利100に対して新田5くらいじゃないか。
つまり20分の1
- 21 :
- 高師直95
高師泰90
- 22 :
- 北畠顕家90
護良親王85
赤松円心80
- 23 :
- 名和長年50
千種忠顕50
結城親光50
- 24 :
- 佐々木道誉50
宇都宮公綱45
- 25 :
- 20倍の相手に互角に戦ったのに凡将扱いとは……
- 26 :
- 凡将かもしれないが
尊氏よりは有能だろう。
- 27 :
- 尊氏って面白い人だね、
なんていうのか、何が何でも天下取ろうとかじゃなくて
周りに押されてって感じが面白い天皇も敬っているし、
名誉とかを大事にして、すぐに出家とか、
死んだほうがましじゃとかいって戦国時代の武将とはまた違った趣がある。
- 28 :
- 素朴に思うんだけどこの時代の戦って
たとえば一回の中小御家人の新田義貞が
いきなり鎌倉攻めとかそういう大規模な作戦の
采配を振るうのってそういうのいきなりできるものなのかって疑問に思う。
戦国時代だと、大小の合戦で地道に采配の経験をつみながら
上達していくこともできたかもしれないし。
その変どうなんですかね?
新田義貞も個人的武芸とかの騎者三物とかはしていただろうし、
孫子とか六韜とか読んでそういう集団戦の演習みたいなものも
していたのだろうか?
- 29 :
- あと奥州勢が二回目の上洛のときその通った後は
兵糧の調達で民家は略奪されて、荒れ果てたとか
戦国時代でも略奪強姦虐とか当たり前にあったと思うし
ま、この時代もそういう感じだったんだろうな
そうやって略奪された集落とかこの時代食料とか
ものすごく貴重だったと思うし、大迷惑だったと思う。
餓死者とかも出たんだろうなって思う。
秀吉が評判よかったのも、略奪とかしないで、
ちゃんと現地で金払って物資を調達したかららしい、
秀吉クラスの経済力をもってやっとそういうことが可能だったんだろう。
- 30 :
- なんだかこの時代の戦争ってさいとうたかお先生の漫画読んだだけだけど
リーダーが現れて、そこに同調する武士団がわらわら集まってくるみたいな
感じだ、これを見て上杉謙信の小田原攻めとかと似ているなと感じました。
- 31 :
- 青野ヶ原の戦いとかでも傷ついてもう自力で歩けない兵士とかは
当然見捨てられて放置されていたんだろうなあ。
なんだかインパール作戦みたいでほんと哀れというか。
- 32 :
- 後この時代の戦争って戦国時代と比べて遠征の移動範囲が
広いですね、戦国時代は割りと国境紛争を延々としているという感じだ。
- 33 :
- >>28
新田と足利には源氏の棟梁格という大層な肩書きがある。
この時代、それだけで大将として振る舞えたんだと思う。
土地をめぐる小競り合いは日常茶飯事だったとも云うし。
- 34 :
- 足利も残ったのは分家末席の更に分家か
- 35 :
- 尊氏って頼朝や家康と比較すると凡庸な人間だよなあ。
もう少し有能な人間だったら南北朝内乱も、あれほど長引かなかっただろうに。
- 36 :
- 頼朝の功績は担ぎ手のお蔭
- 37 :
- それが解かってた頼朝と、勘違いした義経。
- 38 :
- 尊氏と直義とどっちがすぐれた武将だったんですか?
- 39 :
- カリスマ社長と事務畑の専務。
合戦武将としての直義は戦歴観る限り殊更弱いが
尊氏だって決して優れた武将とはいえない。
- 40 :
- ま、鬼のように戦に強い高師直がおるからねい。
- 41 :
- 高師直ってどうして強いんだろう
最後に負けたけど
- 42 :
- 高師直って東国の名門足利氏の執事なのに
東国の武士のタイプとは違い西国の悪党のような感じがする。
もともと足利氏には西国的な要素が存在したのかな?
- 43 :
- そりゃ元をたどっていけば河内源氏だからな
- 44 :
- 伊勢平氏は西関東出身だが
東国的じゃあないな
- 45 :
- 新田次郎の見解は
元々の勢力比が1:100にもかかわらず、
一時的には五分の戦をした義貞を名将としているな。
その中で、次郎は義貞の子孫でないと明記していたな。
- 46 :
- >>44
伊勢平氏って、小泉元総理の小泉氏のルーツとされてる平家の土地じゃん
小泉純一郎自身の系譜上の祖先は、江戸時代の江戸の大工までしか辿れてなかったようだったけど・・。
- 47 :
- >>45
ヤフーの百科でも、元々の動因兵力に差があったのに
対抗馬に仕立て上げられ、悲運の運命をたどった人と同情的に書かれていますね
俺もやっぱり、鎌倉攻めや一時的にでも五分に渡り合った所は評価できると思います。
でもやはり尊氏とか正成に武将として劣るとは思います。
- 48 :
- >>47
正成よりははるかにマシだろ。
正成の戦歴は千早赤阪城しかないし、和泉河内ニ国の守護なのに、一族郎党百数十騎しか動員できないし。
- 49 :
- >>47
足利は、尊氏が棟梁タイプに対して
弟の直義が謀将タイプってのがよかったな。
新田は義助も義貞と同じタイプだったからなあ。
- 50 :
- >>42
高軍は恩賞の評価方法が違ってたから(首じゃなくてもOKだっけ?)
無駄なく戦えて強かったとかじゃなかったっけ?
- 51 :
- 上と同じだけど、
師直軍は、
打ち取った証は、目撃者!制度にした。
従来や他は、首を持ち歩いてた。
だから強いって、見たわけではありませんが。
- 52 :
- バサラなんだろう
- 53 :
- >>44
> 伊勢平氏は西関東出身だが
> 東国的じゃあないな
伊勢平氏の祖は平貞盛だから東関東だろ。
その前の国香も高望も東関東。
- 54 :
- その前か前の前は桓武天皇で奈良→京都だったな
- 55 :
- 足利一族の一色・吉良・細川・今川は三河に名字の地である所領があった。
それから足利の姻戚の上杉氏も京都出身。
足利氏は西国的な要素が強いかもしれない。
- 56 :
- >>55
斯波は陸奥。
畠山は武蔵。
渋川・桃井は上野。
小俣・加古・板倉は下野。
西国的というよりは、
足利氏の所領経営の一端が垣間見えるようだ。
- 57 :
- 地方毎に有力分家1家+ザコ分家か
- 58 :
- 鎌倉時代末期に出てくる足利宮内大輔・足利上総三郎・足利上総前司・足利孫三郎
って吉良一族なのか?
- 59 :
- >>55
足利支族の領地は地方でも生れ育った屋敷は鎌倉だよ
尊氏の母親は丹波育ち
- 60 :
- >足利支族の領地は地方でも生れ育った屋敷は鎌倉
ソースお願いします。
- 61 :
- 土着してるほうが珍しいでしょ
- 62 :
- 上杉頼重って上杉庄にいたの?
- 63 :
- 清子も鎌倉の人?
- 64 :
- 空にのみ/ちるはかりにて/けふいくか/日をふる雪の/積らさるらん
贈従三位清子
- 65 :
- >>59
吾妻鏡を見ると足利の支族は鎌倉でひんぱんに将軍の供奉などをしているから
たぶん末期も同じだろう。
- 66 :
- 義貞は千早城攻にも参加してるね?
途中で帰国し一族とともに鎌倉攻めの兵を挙げた(最初は少兵)
南下するにつれ兵が集まり見る見るうちに大軍となった(この機会に一旗挙げようというものが大半)
成就の後は途中から参加した義詮(尊氏の息、まだ幼児)に集まる勢力が義貞のそれよりを凌駕
今後の事を考え少しでも自分にな有利な方に付いたという事だろう
北条の時代でも足利は従四位に行ける家柄(歴代は国守、守護に就いてる)
対して新田は従五位下が精一杯(それもほとんどいない、一人だけ)
もともと武士の間の声望は大差
- 67 :
- 頼朝が新田義重の娘を側室にしようとしたが
義重が政子の怒りを恐れて娘を他の男に嫁がしてしまい
頼朝の怒りをかったという事件があったけど
もし、頼朝と義重娘の間に男子が生まれたら血統的には申し分なく嫡男だろうね。
伊豆の小豪族出身の政子が生んだ頼家とでは雲泥の差がある。
義重が死んだ時に政子が、蹴鞠に興じる頼家をたしなめたのは
「義重が頼朝の要求を拒否してくれたおかげで、あなたは将軍になれたのだから感謝しなさい。」
という意味があったのかもね。
- 68 :
- >>55
尊氏や斯波ら有力御家人に子弟は鎌倉産まれ。新田クラスの中級は不明。
竹崎らの小物や直冬らの庶民階級生母組は生母出身地だろうな。
>>58
足利宮内大輔→足利泰氏
足利上総三郎→吉良満氏
足利上総前司→吉良貞義(鎌倉前期は足利義兼)
足利孫三郎→斯波高経
>>67
北条は弱小弱小よく言われているが三浦氏や土肥氏といった有力者の嫡流と合婿なんだよな。
- 69 :
- 鎌倉時代末期に出てくる足利氏のことだから
足利宮内大輔→足利泰氏・足利上総三郎→吉良満氏はありえないだろう。
- 70 :
- 足利上総前司→吉良貞義
足利孫三郎→斯波高経
ソースが知りたい。
- 71 :
- >>68
足利泰氏は宮内少輔。
>>58は、「光明寺残篇」に見える
足利宮内大輔のことを言ってるんじゃないかな。
「光明寺〜」の足利宮内大輔は、吉良貞家という説もあるけど、
佐藤進一のいうように、足利治部大輔の誤りだと思う。
足利上総三郎は、足利上総介の子供であるところの三郎だから、
義氏もそう呼ばれているし、
上総介になっている吉良満氏の子もそう呼ばれただろうね。
足利上総前司も、足利一族で上総介を辞している人物ならば
全て相当するよ。
- 72 :
- >>70
「北条貞時十三年忌供養記」
に出てくる足利上総前司と足利孫三郎じゃないの?
だったら、吉良貞義と斯波高経であってるはず。
- 73 :
- 楠木合戦注文に出てくる「足利蔵人三郎跡」って誰だろう?
- 74 :
- >>73
足利蔵人二郎=義助で、
桃井氏じゃないの?
- 75 :
- >>71
光明寺残編所収の「楠木攻撃軍編成表」の「足利治部大輔」は尊氏だが
「上洛編成表」の「足利宮内大輔」は尊氏が父の死で上洛できないから彼の代理人だと思う。
しかし、尊氏は喪中を切り上げて京都に向ったから攻撃軍編成表に載ってるのではないかと・・・。
- 76 :
- >>73
義助は鎌倉前期の人だろう
- 77 :
- >>75
幕府による当初の上洛計画の交名だからこそ、
尊氏が載ってるんじゃないの?
この交名の割注にある国名は他の人物を見ても
守護であることが分かるから、、
三河正守護である足利氏当主尊氏でないとおかしいんじゃないかな。
>>76
「跡」だから、むしろ鎌倉初期で良いんじゃないの?
同じ交名にある「山名伊豆入道跡」は
鎌倉初期の山名伊豆守義範の子孫を指すのだろうし。
- 78 :
- >>77
書かれてある人物が正守護と断定できるかどうか…。
例えば「武蔵左近大夫将監 美濃国」は、暗された北条時村の
子の貞熈か孫の高政あたりで、実際の美濃の正守護は連署の茂時ではないかと思う。
連署だから鎌倉を離れられず代理の人物に行かせたのじゃないかと。
だから、あの編成表に載っている人物は正守護とは限らないのではないかと。
- 79 :
- >>78
美濃の守護は政村流じゃなかったっけ?
(典拠は佐藤進一と伊藤邦彦)
たしかに正守護とは限らないのは仰るとおりで、
正守護の代行の可能性はあるだろうけど、
鎌倉時代の吉良氏で、八省の大輔への補任を確認できる人物が
いない以上、尊氏以外を想定することのほうが不自然じゃないかな。
- 80 :
- >>79
美濃国は政村流で時村が暗された以降も政村流だったと考えるの自然だと思う。
時村暗直後に子息の熈時等が安堵された関東御教書が出ているから。
佐藤氏は有時流の政高ではないかと推測してるけど違うと思う。
政村ー時村ー為時−熈時−茂時(連署)←美濃国正守護?
政村−時村−義村−高政(武蔵左近大夫将監)←美濃国守護代理?
政村−時村−貞熈(武蔵左近大夫将監)←美濃国守護代理?
たぶん「武蔵左近大夫将監」は時村男で熈時の養子になり茂時
の義弟だった貞熈の可能性が高いと思う。
- 81 :
- 尊氏の父貞氏は元弘1年9月6日(5日?)死去し、
幕府軍上洛が鎌倉を出発したのが元弘1年9月5・6・7日の3日間
だというから(鎌倉年代記)、いくら高時でもさすがに尊氏に父の
死去の当日か翌日に出陣しろとは命令できないだろう。
・・・とまあそう言うふうに考えると「足利宮内大輔」は尊氏ではない
のではと夢想してみただけです。
10月14日の楠木攻撃に参加しているから、喪が明ける前に出陣したのは事実で
太平記に書かれた「我父ノ喪ニ・・相催サル事コソ遺恨ナレ」と
いったのは元弘3年の時ではなくこの時の話だろうと。
- 82 :
- >>74
同じく義兼の子息である義氏が「上総三郎」と呼ばれている
から義助も「上総二郎」と呼ばれていたんじゃないかと。
そう考えると「足利蔵人二郎」が義助である可能性は低いように思う。
- 83 :
- >>81
貞氏が死ぬ前に出された交名だから
問題ないんじゃないの?
- 84 :
- >>80
佐藤進一は伊具政高とは断定してないんじゃないの?
- 85 :
- >>84
>>80佐藤氏は有時流の政高ではないかと推測してる
「推測してる」
- 86 :
- >>83
>貞氏が死ぬ前に出された交名
根拠は?
- 87 :
- >>86
佐藤進一「光明寺残篇小考」257頁。
この大将軍の一人にして、
上洛後楠木城攻撃の一方の大将となつた、
江馬越前入道の名が問題の交名の中に
見出せないことより考へて、
この交名は事実西上せる武将に非ずして、
当初の計画として記されたものと解すべきであらう。
とある。
9月5・6・7日に進発した上洛軍の交名そのものでなく、
それより前の計画ということであれば、
9月6日頃に没した貞氏の生前に出されたものという解釈で良いんじゃないの?
- 88 :
- 「此外諸国御家人上洛。図合二十万八千騎」(鎌倉年代記)とあるごとく
大兵力を上洛させたけど「光明寺残編」の上洛軍交名には約30人しか
ないから多数の漏れがあるだろう。
承久の変でも北条泰時は息子や弟を東海道上洛軍に同伴しているから
今回も北条氏が江馬越前入道などの一族を連れて上洛したのは不思議ではない。
逆に同伴しない方がおかしいと思う。
- 89 :
- >>88
『鎌倉年代記』や「光明寺残篇」を見ると、
江馬越前入道は大将軍の一人だよね?
とすると上洛当時の交名から漏れるのはおかしくないか。
ちなみに、承久の乱の際の時房の立場は、
『吾妻鏡』には東海道大将軍として載っているし、
慈光寺本『承久記』によれば、
東海道の第二軍だから、泰時麾下とはいえ、
一応独立部隊扱いなんじゃないか。
- 90 :
- 江馬越前入道(宗朝?)の江馬(江間)氏は光時の乱後は
守護職にも幕閣にもなれない傍流一族だから武蔵左近大夫将監(貞熈?)
を差し置いて大将軍になれるはずがない。
鎌倉年代記のこの部分はちょっとおかしい。
- 91 :
- 時房は泰時の叔父で、私が言ったのは、
泰時弟の有時や子の時氏や一族の北条五郎とかのこと。
- 92 :
- >>90
江馬越前入道は、
名越篤時の子時見に比定されてるんだけど。
「関東楠木城発向軍勢交名」を見ると、
西南の手の筆頭に記されており、
『鎌倉年代記』の記述を裏付けてると思う。
で、この交名に見える「遠江前司」が一応名越宗教に比定されてるよね。
私は同じ名越でも公篤じゃないかとは思うのだけど、
いずれにせよ官途から北条一門、それも名越流の可能性が高いと思う。
承久の乱でも名越朝時は泰時らとは別に北陸道の総大将であり、
北条一門、というよりも朝時の子孫、として扱われたんじゃないの?
>>91
承久の時点では、北条諸家は時房流以外は分家していないんだから、
当たり前じゃないの?
- 93 :
- >>92
1.「江馬越前入道」は江馬宗朝で間違いないと思う。
2.確かに「西南の手 江馬越前入道」となってますね。「遠江前司」(名越?)の上位だが、
江馬はそれなりの家格が有ったのかなあ?
3.尾張国守護は名越宗基だと思う。「遠江守・遠江前司」はその子供ではないかと思う。
で、例の上洛軍の編成表なんだが不思議に思うことが2つある。
1.「□(越カ)州御手 信濃国」とあるがどうして「越後守 信濃国」と書かないのか?
他の守護は「□□守 □□国」となっている。
2.勢田橋警固とはなんだろう。
もしかしたら、この編成表は六波羅北方越後守仲時の家臣が京都で作成したもので
後醍醐が楯籠もる笠置攻撃の編成表かもしれない。
だとすれば笠置攻撃路にあたる勢田橋を佐々木氏が警固する意味もわかる。
まあ、私の空想だけど。
- 94 :
- >>92
江馬宗朝は、『前田本平氏系図』と
『正宗寺本諸家系図』にしか登場しない人物だよね。
で、南北朝期成立の前者では
「江馬孫四郎」と注記があり、その子隆政(弥四郎)まで記載する。
成立年代を考えれば、越前守に補任されていれば
当然記載されていてしかるべきだと思うのだけど。
後者には確かに「越前守」の注記があるけど、
江戸時代成立の同系図がどこまで信用できるのか疑問だ。
これらからは越前守補任は各章がもてないんじゃないかな。
それとも、他に史料があるなら、御教示頂ければありがたい。
もっとも、名越時見も、先行研究での比定はやはり系図に拠っていて、
この点は疑問ではあるのだけど。
普音寺仲時の被官が作成したものというのは、
確かに興味深い説なんだけど、
そうなると、何故、
.「□(越カ)州御手 信濃国」
が交名中にまとめて記してある北条一門の中に含まれないのか、
仲時父基時が存命中にも拘らず、信濃守護は仲時が正員なのか、
そもそも、本当に欠損部分が「越」なのか、
色々疑問も出てくるね。
- 95 :
- ■「江馬江馬越前入道」の件
武家年代記に江馬遠江(守?)政俊卒とあり
嘉暦4年関東下知状に「江馬遠江守後家・江馬越前前司 伊賀良庄」
とあるから江馬姓で遠江守の子が越前守である人物は宗朝が適当ではないかと。
光時流の人物には一次史料で江馬を名乗る人が他にもいます。
例えば正和1年の関東下知の「江馬越後四郎光政」も光時子の光政らしい。(内閣文庫本平氏系図)
一方、名越流で江馬を名乗る一次史料はないようです。(私の見落としかもしれないが)
それから江馬越前入道が遠江前司の上位に来ているのは彼が江馬家の当主だからかもしれない。
■編成表の件
光明寺残編の日記は京都のみで関東の動静は書かれてないのに
関東が作成した上洛軍の計画書のみが存在するというのはちょっと不思議ですね。
「越州御手」が後ろの方なのは「御手」つまり被官が軍を引率する意味かもしれない。仲時は探題で出陣出来ないからかも。
それから楠木攻撃軍の交名ですが四カ国の軍勢が載っているが、守護や守護代が不明ですね。
太平記に塩田国時を裏切った人物に狩野というのがいるが、狩野氏は重時流の被官で信濃守護代なのかな。
- 96 :
- >>95間違えた
江馬遠江守後家→江馬遠江前司後家
- 97 :
- 新田貞方は命乞いして斬られた
- 98 :
- 新田と恵利
- 99 :
- 尊氏は朝敵の妻を捨てなかったの
なんで側室置かなかったの
新田は向当内侍ロマンあるのに
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