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2012年3月日本史38: 【源平も】甲斐武田氏総合スレ【戦国も】part2 (430) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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【源平も】甲斐武田氏総合スレ【戦国も】part2


1 :
源平争覇以前から古い歴史を持ち、戦国時代に興隆し
江戸時代にも高家や旗本として受け継がれ
現代まで存続している甲斐武田氏
そんな武田氏の長い歴史について総合的に語ろうというスレです
平安時代から鎌倉時代、南北朝、戦国時代、江戸時代、それ以降、
あらゆる時代OKです
武田の一族だけでなく好きな配下武将に領国統治、
総合的にいろいろ語り合いましょう
■前スレ
【源平も】甲斐武田氏総合史スレ【戦国も】
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1261648134/

2 :
スレ立て乙
武田氏の騎馬割合て1割未満だったってマジ?
北条以下の騎馬割合だったの?

3 :
>>1
乙です

4 :
>>2
それにはカラクリがあって、馬上本人を数えてないんだよね
不明な点は多いが、武田は15%弱くらいじゃないかな
上杉が約10%で、北条が20から30%弱くらい
武田は上杉・北条よりも鉄砲・弓の装備に力を入れていた

5 :
http://draft.hp2.jp/index.html

6 :
>>4
北条ちょっと多すぎね?

7 :
池田孫左衛門(相模国/元亀3)着到
馬上 20
鉄砲 ...3
弓   .5
鑓   22
旗持 ...2
指物 ...1
歩者 ...3
合計 56人
宮城泰業(武蔵国/元亀3)着到
馬上 ...8
鉄砲 ...2
弓   .1
鑓   17
旗持 ...3
指物 ...1
歩者 ...4
合計 36人
和田昌繁(上野国/天正11)着到
馬上 ...8
鉄砲 ...4
弓   .4
長柄 15
手鑓 ...1
小旗 ...4
指物 ...1
手明 ...3
合計 40人
武田家の場合は、馬上・鉄砲・弓の比率が同程度と思われる(天正4年前後の軍役)。

8 :
茨城県ひたちなか市武田(常陸国那珂郡武田郷)の
武田館がしょぼいので、なんとか盛り上げてください。

9 :
武田の故郷か

10 :
同じ源氏兄弟の佐竹家ですね

11 :
やはり武田勝頼に跡をつがせたのは間違いであった
甲斐人に対する神聖血脈尊崇というべく、ここは、武田氏駿河方面担当(駿河総合長)・江尻領主、穴山玄蕃入道をもって甲斐武田の跡を次がせるべきであった

12 :
武田家
北信濃長→高坂昌信(海津城)
中信濃長→武田勝頼(高遠城)
南信濃長→秋山信友(飯田城)
駿河長→山県昌景(江尻城)
西上野長→内藤昌豊(厩橋城)
武田家総合長→武田信廉
武田家理事長→穴山信君
武田家会長→武田晴信

13 :
鬼美濃は?

14 :
総信濃総主事兼信越方面参与 原虎胤

15 :
>>11
それなら弟の武田信廉にでも継がせりゃいいじゃないかw

16 :
甲斐の国の民衆の心をつかむのは大変なんだな
板垣退助の時代でもそうだったんだろ

17 :
騎馬隊とはな
要は運用なんだよ。馬の数ではない
西の方は足軽主体の運用に変化したが東は騎馬主体の運用のまま
東西の境が織田と武田
騎馬主体の運用は、騎馬が主戦闘兵及び下士官で足軽が補助兵
足軽主体の運用は、足軽が主戦闘兵で騎馬は下士官

18 :
柳沢は一番近い養子でも鎌倉期の分家?

19 :
柳沢って竹だの分家だったと聞いておどろいた

20 :
>竹だ
って何よ? まともな日本語書けない人?
分家の意味ってわかってる?

21 :
海上知明 信玄の戦争
戦国期ファンは、一度読むことをお薦めします。
鉄砲や農繁期の不利とか調査もせずに武田家を貶めていたデータが専門家の調査によってひっくり返ります。
武田信玄・上杉謙信が信長ともし戦わば・・が愚問と言い切る事ができる一書。
   ※ 信長が信玄・謙信に直接的な戦争で勝てることはありえない

22 :
>>21
http://kagiya.at.webry.info/200701/article_17.html
をを読んでから購入を検討するのをお勧めする

23 :
>>21
読んだこと無いからwktkしてきた
今度読んでみます 

24 :
海上 知明(うなかみ・ともあき)
1960年茨城県生まれ。84年中央大学経済学部卒。企業に勤務しながら大学院に入学して博士号(経済学)を取得。
現在,国士舘大学および東京海洋大学非常勤講師。著書に「環境思想 歴史と体系」(NTT出版),「環境戦略のすすめ エコシステムとしての日本」(同)など。
どう見ても専門家じゃないだろ。

25 :
そうなのか…やっぱ読むのやめたわ

26 :
ほう、武田の苗字の地は常陸なんか

27 :
そう。
もともと源義光は常陸で勢力を持っていた。
しかし、その息子で甲斐源氏の先祖が、悪さをして常陸にいられなくなって、
甲斐に移住した。

28 :
さらにその子孫が甲斐南部の苗字を名乗って陸奥に下向と

29 :
南部タンには密かに義信が住んでいたと思っている
謀反事件で自刃したということにして信虎さまのように追放した
武田遺臣の土屋がその秘密を知っていたが誰にも明かすことはなかった
(どこかでこんな話を小耳にはさんでロマンがあるなぁと…)

30 :
その話の中で飯富虎昌が生きてるのかどうかが気になるな。
てか信玄にとって飯富虎昌はどういう存在だったのだろうか。
やはり優秀な人材であろうと、権力を持ちつつあるor謀反加担の罪は、許せなかったのか。
引き合いに出せば勝頼は長篠合戦でいち早く戦線離脱した穴山梅雪などを軍律違反として切腹させても良いのにさせなかったし。
勝頼が甘過ぎて信玄が普通だったのかな?

31 :
>>30
勝頼の権力基盤が弱くてそれ>>穴山梅雪などを軍律違反として切腹
が出来なかったって言われてるね

32 :
そして最終的に処断しなかったゆえに裏切られて滅亡する。
そう考えるとやっぱり>>30で書いた信玄の処断は正当化だったんだろうか。
しかし高坂昌信でさえも梅雪に切腹させるべきだと言ったのになぜしなかったのかは疑問が尽きないなぁ。
もともとが対立するほど仲が良かったわけでもないし、俺なら梅雪を処断出来てラッキーな気分になるんだが。
軍律違反した梅雪を処断しても、家中分裂は起きない気もするし、やっぱ敗戦後に多くの名将失った後だから人材的に無理だったのかな?
主に駿河を任せれるような人がいなかったとか。

33 :
>>32
たぶん処罰されるとわかった時点で穴山が離反するでしょう
織田という外的を抱えた状態で内乱を乗り切るのは無理だと判断したんだろうね

34 :
そういう考え方もあるの忘れてた…お恥ずかしい。
新田次郎の勝頼読んでると御親類衆にはずっともどかしかった。

35 :
武田勝頼ってマイナスイメージしかないんだが。
いいとこってせいぜい高天神城を落とせたくらいじゃね?

36 :
>>35
攻めは強いが、守りに入ると弱いタイプなんだろうな。

37 :
正直、新府城の築城は失敗だったと思う。
なかなか躑躅から動かない家臣も多かったし。

38 :
そう言えば平安末期では逸見>武田で武田が最初から嫡流ではなかったという話を聞いたことがある。

39 :
穴山梅雪って暗されたの?

40 :
>>38
甲斐源氏の嫡流が逸見だからね。武田や小笠原は傍流。
でも、結果的に逸見は武田の軍門に降った。甲斐や若狭、安芸などで
武田家の内紛に絡むのは必ず逸見氏だよね。自分たちの方が格上という
意識があるのでは?その裏返しで武田への憎しみや恨みに変わったかも。
先日のテレビで土佐山内家と長宗我部家の子孫が出てたけど、長宗我部の
山内家や高知城に対する憎悪は平成の今でも消えてないのが、よく解った。

41 :
穴山陸奥入道は、惟任向州の警戒線に引っ掛かり、宇治川河畔で、惨。逢えない最期を遂げた。
暗ではない。
なお、旧穴山領は、家康の密命を帯びた岡部次郎左衛門正綱の調略により、徳川保護領と相成りました

42 :
>>40
>>甲斐源氏の嫡流が逸見だからね。武田や小笠原は傍流。
これはちょっと違うくね?
新羅三郎義光の子源義清が武田冠者になっていて、その嫡男の清光が逸見冠者
清光の子の信義が再び武田姓を名乗ってるから逸見氏が嫡流と言い切るのはおかしいし
むしろ、武田姓の方が嫡流という見方が強いと考えられる

43 :
新田と足利のようなものか

44 :
たしか清光は、若死にしているんだよね。
この時代、兄が若死にしたため残された兄の子供たちから、弟の家系に
領地とかその他が移っていくのは、よくあることだから。

45 :
聞ク所ニ拠ルト、コノ武田勝頼ト言フ人ハ、信玄ノ子供デハ有リマシタガ、甲斐ノ生マレデハ無ク、
母親モ、信濃生マレ側室ダッタ為ニ、甲斐軍団ヲ統率スルニハ、適当ナ人デハ無カッタ様デス。其ノ上、少々強引ナ所モ有ッタソウデス

46 :
太郎義信(勝頼よりは器量は上だったと言われてるらしいが)でも勝頼でもなくて優弟信繁が信玄亡き後の総大将になるのが一番能力面での人選としてはベストだったんだろうけどな。 信繁が川中島で討ち死にしなかったらではあるが。

47 :
東が安泰だったから織田信長は躍進できた
信玄が美濃を早々に攻め取ってれば信長は一大名で終わったはず

48 :
太郎義信に対する評伝は、「口が達者」とか「屁理屈屋」という意味らしいがな。

49 :
けんしんが不覚をとったと悔しがったほど攻め込まれたんだっけ

50 :
太郎義信が廃摘された理由は今川義元亡き後の弱体化して行った今川家に対する扱いを巡っての信玄との対立によるものと言われてるから、
どっちにしろ天下を取ろうとするなら今川家は倒さないと行かないのよね。
この時点で義信が反乱起こさずというifの仮説は成り立たないんだよな。
信繁の戦死も義信が上杉軍の挑発に乗ったからとも言われてるしな。
と言う事は、勝頼と言う本来分家の跡取りを継がさなきゃならず家中の分裂を生じるような状況を後々作ることになり、
信玄家臣団の最大の実力者であった信繁戦死のきっかけも作った長男・義信こそが武田家滅亡の真のA級戦犯とも言えるのかな?

51 :
謙信は義信挑発して討ち取ろうとしたが逆に切り崩されて慌てふためいた図が浮かんで
笑えるw 結構おっちょこちょいなのよね

52 :
義信と勝頼の仲ってのはどうだったのかは分からんが(俺的には良くも悪くもなかったのではと思ってるが)、信繁が信玄より長生きし義信が父信玄と対立せず跡継いでくれて信玄存命時同様補佐役に回ってくれてりゃ、信玄亡き後でも十分信長に対抗できたかも?
とは思うけどな。
まあ、この仮定はあまりに武田へのご都合が良すぎるが。

53 :
確か最初は勝頼は武田氏の家督じゃなく(後継者は彼の子)それの後見人じゃなかった?
(自身は信玄の生前に諏訪家を継いでいたので)
まあ戦国の世ではそんな悠長な事はやってられないって事か?
武田氏といえば若狭、安芸もそうだが松前氏の祖になった武田信広(若狭武田氏の出?)というのもいたな

54 :
全国に広がる武田ネットワーク

55 :
興味のある人は調べて検証してください
甲斐武田氏は源氏ではない。新羅三郎という朝鮮武士の子孫は南部
加賀美小笠原などで小笠原は信州深志あたりを支配。
小笠原が武田に敗れたあと浪人になったのは身分の低い筋違いの武田
の家臣になる屈辱に絶えられなかったから。
武田が戦国最強の騎馬軍団を作れたのは信州武士を取り込んだから
信長が武田を恐れたのは軍事力ではなくお互い嘘つきの名人であったから
武田が信州で勝った戦は騙まし討ちや調略がほとんどです
実際の戦国の戦の模様については宣教師などの資料を見よ
武田のルーツは高句麗武士。なぜ甲斐の国というのかがわかれば
真実が見えてくるでしょう

56 :
小笠原も甲斐源氏なんだけど

57 :
>>53
それ嘘だらけ
今更何を・・・って程度の。
wiki程度の知識くらい持ってからここで議論しようね

58 :
謙信どのは、西上野石倉城を攻め落とし、わが子晴信と、利根川を挟んで対陣したのでござりまする

59 :
>>46
義信が勝頼よりも器量が上?
その根拠は具体的にどういう事例があるのだろうか?
別にどちらが好きとか嫌いとかの関係ではなく
義信は家督しないで死んだため、大きな戦略や行政等の実績がない。
少なくとも(その戦績、行政等の是非はともかく)10年間は
武田家の当主であった勝頼と、能力や手腕についての比較はし辛いのでは。
ただ義信は正室の産んだ長子の男児であり、
次代の当主と周囲から当然のように目され甲斐国内で守られて育った。
その点は諏訪氏所生の勝頼より有利な点はあったかと思われるが。
>>52
だいたい勝頼は幼年時をどこで過ごしたのか、
明確に記述してある史料が無かったのでは?
正室三条氏の腹で御曹司として躑躅ヶ崎館に育った義信とは
仲が良いとか悪いとか、そんな小説ネタのような忖度するまでもなく
あまり交渉が無かったかと推測するしかない。
年齢だって、子としての立場も違いすぎる。
正月の賀の宴や法要等の場面で会う程度の面識かと。
>>53
あなたはかの歴史会の重鎮(または老害)の、
堂門センセイと同じようなレベルの知識を持っている!
「勝頼陣代説」の指示者としてファンレターでもだせば
センセイも大変に喜ばれると思うよ。

60 :
童門センセイ、ごめんなさい。
「堂門」なんて、漢字を間違えてしまいました・・・

61 :
sub?

62 :
勝頼の家督の件はそういう話もあるという思いつきで書いた
武田信広は甲斐武田に偏重の書き込みが多いので書いた
疑問形や”?”を付けたのはそういうわけ
まさか罵倒されるとは思って無かったよw

63 :
つまり仁科盛信が信玄の跡を継げば解決したんだな?

64 :
>>62
日本史板で思いつきで書かれても・・・
そういう話なら戦国時代板とか三戦板の方が向いてるし
そののりでこっちで書かれても罵倒されてもしょうがないわ

65 :
まっとうな盛信好きな人々が、多く口にする意見。
盛信は年齢的なこともあり、
また行政実績や戦績の記録も少ないので、検討のしようがない。
「盛信が家督を継げば勝頼よりましだったはず」
という意見には、盛信贔屓の自分でも賛同しにくい。
ただ母親が油川氏なので、諏訪氏腹の勝頼ほど
甲斐国内での風当たりはきつくなかった・・・かも、しれない。

66 :
甲斐武田氏(特に信虎、晴信(信玄)、勝頼の三代)を見ると戦国大名の典型的な栄枯盛衰が現れてると思う
・信虎 一族、国人を押さえ込み分国法を制定するまでにこぎつけたが支配を継続するには
 新領土の獲得に走るしかなく家臣団の分裂を招き挙句の果ては追放の憂目
・信玄 基本は同じだが領国を成功りに拡げ民生、経済政策にも成果をだした
 それでも家臣団の統制には苦慮、義信の話はその一角
・勝頼 もともと脆弱な基盤の家督継承だし信長などと対抗するには個人能力以前の問題で難し過ぎた
 長篠の敗戦以降家臣団の離反を招き、最後は一族の裏切りで滅ぶのはそれ以前の経緯を見ると仕方が無いのかな

67 :
>>55
高句麗といえば長野だろ
古代史では結構有名だぞ

68 :
「真下家文書」の山本菅助文書、年未詳だった武田晴信文書の年代比定ができたみたいね。
平山優さんが『戦国史研究』で発表されたみたいだけど、まだ未見。
病床にあった「当家宿老小山田」に対する見舞いと信濃方面での「揺(軍事作戦)」が指示されてる内容で、
はじめは「小山田」は越中守信有とされてたけど、備中守虎満って可能性もあると考えられてきた。
で、どういう根拠になるのかはわかんないけど、小山田虎満にとするのが妥当みたいだね。
ということは文書は永禄年間のもので、川中島関係である可能性大。
もう、「山本勘助」に比定しちゃっていいだろうなぁと、個人的には思うよ。

69 :
源義光の「新羅三郎」は、円珍の請来した園城寺の新羅明神の前で元服したことによる。
兄貴の義家の「八幡太郎」とか、義綱の「賀茂次郎」と同じ事情だよね。都を守護する神様の名にあやかっている。
ただ、武田がはじめて甲斐に土着した市河荘とか韮崎あたりは巨摩郡の領域で、巨摩郡は渡来人を集住させて立評させた地域ではある。
それに、田辺史氏とか馬史氏とか古代甲斐の国司には渡来系氏族が着任していて調停への貢馬をしていたわけだけど、そういう
渡来系技術者集団を掌握するために新羅明神にあやかった名乗りをしている可能性はあるんじゃないかなぁ。
古代史の段階では、やっぱり半島との関わりはあるよ。

70 :
新羅三郎義光の元服が、白村江からいったい何年経っていると思っているんだよ…。
「古代」でくくるな。アホ。

71 :
平安時代までは「古代」だと思うけど。
まぁ、確かに甲斐において渡来系集団の消長がどこまで確認されるのかは、よくわかんない。
再移住したのか同化してしまったのか。もし渡来系集団が馬産技術とかをもって残存していたのだとしたら、
彼らを掌握する意図もあって「新羅三郎」名乗ったのかなって。

72 :
一口に古代と言っても400年も離れているのに、まとめて語るなってことだ。
薩摩の苗代川みたいに強力な支配者が特殊技能者を比較的高い待遇を
与えた上で閉じ込めていたのならともかく、飛鳥・奈良・平安期の巨摩郡だと
人の行き来を苗代川のように制限することはどう考えても不可能。
それに、8世紀初頭に高句麗遺民を武蔵の高麗郡 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E9%83%A1
に移したため、wikipediaの巨摩郡の項にもあるように ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E6%91%A9%E9%83%A1
巨摩郡からは8世紀には渡来人の痕跡は消えてる。

73 :
べつに、そのことを立証しようだなんて、思ってもないけどね。

74 :
>>73
「可能性はあるんじゃないかな」というアレな推論に対して、
強固な理由で「ありえない」という回答がもらえてよかったね。

75 :
考古学的に、甲斐に残存した渡来系集団の存在が確認されることは、ありえると思うけど。
義光の勢力基盤は甲斐のみではなかったであろうし、東国各地に散在する渡来系集団を支持基盤におく意図で
「新羅三郎」を名乗ったって考えはできると思う。
はっきりいって>>55のような考え方はアレだと思うけど、でも古代甲斐において渡来系集団の
消長があることはあまり知られていないかもと思って、紹介しただけ。
なんか、この程度の推論までいちいち批判されると、やりにくいな。
いろいろ提供できる情報もあるのに。

76 :
諏訪のタケミナカタと大国主系が多いんだが、
出雲人が多いんだろうか? 騎馬民族と
海洋民族、縄文系がごちゃまぜのようだ。

77 :
諏訪から一山超えた松本盆地の西側の安曇野は、古代の海人族安曇氏に
由来していたりするね

78 :
そういやお家は違うが城井宇都宮氏はよく本家の下野宇都宮の問題とかに介入してたけど、甲斐武田家は若狭武田家とそういうのはないのかな?

79 :
可能性としては想像するくらいはいいと思うけど、ただ甲斐源氏が市河荘とか逸見地方にはじめに土着したのは
巨摩郡が渡来人集団が移住して空白化していたからではないだろうか。山梨・八代郡は古代豪族三枝氏の勢力がまだ残存していて
甲斐源氏の進出が遅れることは、網野善彦氏によって指摘されている。

80 :
三枝、これまた三つの木を支えてんだよね。
さすがにこの勢力地域には進出できないだろうな。

81 :
山県の婿養子であり奥近習六人衆の一人であり
まるで若獅子のようといわれた三枝さんの親戚?

82 :
いや違う。古代甲斐の在庁官人。国府所在地だった八代郡に勢力をもってた一族で、
八代荘停廃事件という三枝氏が没落した事件が甲斐源氏の定着前にあって、甲斐源氏が
土着できた一因でもあったのだろうね。
武田家臣三枝氏の先祖だとは到底思えないけど、由緒を求めたりはしているのかもね。

83 :
いらっしゃ〜い

84 :
日本史は素人だけど、八田村はやっぱりはったの子孫が
たくさん住んでたんですかね。今まで考えた事もなかった
んだけど。

85 :
八田は古代の八田牧に由来する。
あのあたりは御勅使川扇状地の水害常襲地だから定住困難かと思われてたけど、
最近は奈良・平安期の集落が確認されるようになってきて、今の南アルプス市の真ん中あたりに
巨摩郡の郡衙ではないけど政治的拠点があったのではないかって考えられてるよ。
百々遺跡っていうこの地域の奈良平安期の遺跡からは馬骨も出てて、相変わらずだけど残存した渡来人もしくは
渡来人の馬産技術をもった集団が甲斐源氏の土着した巨摩郡には残ってたんじゃないかって思うけど、まぁそれはいいや。
ttp://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/topics/1-100/0066.html

86 :
源氏ってやっぱり縄文人に近い

87 :
勝頼陣代(名代)説は根も葉もない説でもないよ。
『甲陽軍鑑』では信玄死没の三年秘匿といっしょに信玄の遺言とされていて、
三年秘匿は文書上からも実際に確認されている。丸島和洋さんも甲陽軍鑑のこの記述には、
それなりの政治的背景があったはずだとしているしね。

88 :
>>87
>>『甲陽軍鑑』では信玄死没の三年秘匿といっしょに信玄の遺言とされていて、
>>三年秘匿は文書上からも実際に確認されている。
から
甲陽軍艦の記述は信用できる!→勝頼は陣代だった!
は幾ら何でも飛躍しすぎだろう

89 :

信玄の三年秘匿の遺言は実行されているから、勝頼名代も一定の信頼性がおける、ということだよね。
「武田勝頼のすべて」に丸島氏の一文があるんだけど、陣代(名代)とあるから、おそらく文書上で確認されるのは「名代」の用語。
なんだけど、「名代」と正式な当主を区別することはできないとうこと。
勝頼は陣代であった、だから正式な当主としての権威が無かったではなく、逆に将来的には正式な当主となる
立場にあった信勝を擁していたからこそ、勝頼の政治的立場も磐石だったのではないか、という考えもできるじゃないか
っていうのが、丸島氏の説。
で、これは武田家中内の政治的立場で、親族衆筆頭の立場にあった穴山信君も武田家中内では勝頼に対抗できなかったけど、
信長のような外部の軍事的背景を手に入れることで対抗できたのではないのか。武田滅亡時における信君の離反も、
そういう武田家中の政治的状況から考えるべきじゃないか、っていう提示だよね。

90 :
>>56
甲斐源氏の家格が
逸見>小笠原>武田
だったからでは?諸説あるので、異論はおありでしょうが。

91 :
常陸の国からぼーくらの為に きーたぞーわれらーの甲斐源氏武田! 

92 :
源清光(逸見清光)の子が上から逸見光長、武田信義、加賀美遠光、安田義定など。
小笠原は加賀美遠光の次男くらいの小笠原長清が始祖。
治承・寿永の内乱時点で武田は甲斐源氏を率いて棟梁格になってる。
なんで小笠原が武田より上なの?

93 :
小笠原が武田の軍門に下らず諸国を流浪したのはよほど悔しかったのかw
べつに武田としては小笠原を滅亡させる気はなかったろうに 同族だし

94 :
一族ほど対抗意識が強いんじゃないかな。
穴山氏だってそうだよね。穴山は信懸(のぶとお)という信君の曾祖父の頃から
武田宗家の親族意識があるからこそ張り合っていて、信懸の父信介と宗家の武田信重は
相次いで死んでいて、信懸自身も信虎の差金と言われる実子に暗されている。
そういう宗家と穴山氏の関係の延長線上に信君の離反もあるんだと思うし。

95 :
武田信玄は元々奈良の人で、武田街道を通って信州に行った。
そこで武田を名乗った。武田信玄こそ秦。帰る場所は四国なん
です。    
            って誰かが言ってた。

96 :
あげ

97 :
逸見太郎光長、武田太郎信義、同じ日に生まれた兄弟
太郎が二人必要だろうか?伝承者は一人でいいはずだ。  

98 :
一子相伝か 武田神拳継承者

99 :
名代と陣代って言葉の定義自体が違うような気がする。
甲陽軍鑑を全否定はしていない派だけど、
取扱いに注意せねばならないものだと考えているので
「甲陽軍鑑」にあるから・・・という根拠だけでは何とも言い難い。
っていうか、89のレスの文意がつかめない。

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