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2012年3月三国志・戦国12: 【別部司馬】三国志・官位から見る実力【主簿】 (118)
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【別部司馬】三国志・官位から見る実力【主簿】
- 1 :
- 孫堅、劉備ともに別部司馬から大きくなった。
正史から官位を見ることによって、間接的にどれくらいの能力があり、
どれくらいの信望があったかなどを考察するスレです。
なお、官僚制についての考察など幅広く受け付けます。
- 2 :
- ではまず劉備から考察。
安喜の尉、下密の丞、高唐の尉となり、昇進して令となった。
ここまで全て武勲による物である。しかしこの当時賊軍の勢力は大きく、
白波族あたりの黄巾族に打ち破られて中朗将の公孫サンに身を寄せる。
ここで別部司馬に任命されるのである。
そこでたびたび戦果を出して平原の令代行となり、相にまで登る。
もちろん盧植グループの一員としてという名前が効いたのは確かであろう。
しかし別部司馬という職はたびたび登竜門として登場しているのは間違いない。
- 3 :
- また、面白い事に劉備は平原の相となると同時に、
関羽と張飛を別部司馬として任命しているのである。
彼らは劉備が天下の豪傑と交わった際に護衛官として任用されていたのであり、
言ってみればどこの骨ともわからない人間である。それを起用する。
上表はしたのであろうか? 独自任用だったのであろうかなどと疑問は尽きない。
そもそも別部司馬とはどれくらいの兵を動かせるのか。
遊撃部隊として独自の兵権を持たせてもらえる事自体が実はとても名誉な事なのである。
- 4 :
- このスレは三戦一の考察スレになればイイですね( ^∀^)ゲラゲラ
と、足跡残しと言いませんが、別部司馬の官職に就いた人物といえば
呉の凌統が居ますが、彼は盪寇中朗将⇒右部督⇒偏将軍となり49歳で
病死したと凌統伝に書かれています!!
- 5 :
- >>4
曹仁・呂蒙など各勢力の鍵となる人物に与えられていますね。
ここから中朗将→校尉→将軍になっていきます。
…つまり将軍ってのは本当にその勢力内で限られた人物な訳なんです。
みんな大嫌いな士人や糜芳、張達なんかも将軍なんだけど(笑)
- 6 :
- 話を戻すと、別部司馬の動因兵力はだいたい500〜1000と予測されます。
では平原の相だった頃に劉備はどの程度の兵を使えたでしょうか?
偏屈で有名な孔融が助けを求めたときに劉備は3000の兵力を貸与しました。
元黄巾族は当時そりゃもう散らばってて管亥とか于毒とかそりゃもうてんやわんやでした。
彼らは独自に6000から1万の兵力を扱えた事により各地に襲撃を繰り返しました。
劉岱、王肱はこれで実際に滅んでいる。さらに曹操、袁紹クラスもガチでやばかった。
つまりポンと出せる限界の援軍兵力が3000だった訳です。
そして信頼に値する将に預ける軍が1000程度。だいたい動員できて最大でも1万くらいでしょうか。
- 7 :
- また、公孫瓚は実は界橋の戦いまではガチチートでした。第二の董卓っても過言じゃないくらいに。
幽州の一部、青州、徐州、冀州の半分あたりの土地を持ってました。いや、ガチで。
そして遼東の騎兵を持っててそりゃもうとんでもない。天下に一番近いくらいに。
また、あの袁紹に対して「武勲があった」為に平原の相にしているのです。
劉備軍の精強さもここから読み取る事ができます。
ただ劉備軍を任命したのが界橋の戦い後かどうかは微妙な所です。
ここでは田カイとともに東に向かい駐屯したという記述から界橋の戦い前と考えることにします。
- 8 :
- 別部司馬といえば陶玖=アンジェ
- 9 :
- >>8
陶玖…浅学にして知らないのです。申し訳ない。
ちなみに、田カイを助けて袁紹を防がせた時に趙雲も随行して主騎になってますね。
ここからこの田カイを助けた武勲から平原の相になったのだろうかと推測されます。
別当司馬としてはとてつもなく劉備は優秀ですね。関羽、張飛の分も含まれてるにせよ。
- 10 :
- さて、界橋の戦いが始まりました。袁紹派閥に居た曹操は支援の為に公孫サン閥の陶謙に攻撃します。
劉備は私兵千人あまりと、幽州の鳥丸騎兵、さらに飢えた民衆数千を引きつれやってきました。
ちなみに田階も共に来ています。彼も約五千ほどで来たのでしょう。
この民衆ってのはこの時代溢れていて募兵する時に真っ先にやってくるのはこの手の手あまり者だったりします。
あと囚人とか。それはいいんですが、見かねた陶謙に劉備は丹陽兵四千も与えられます。
ここで小沛に留まってたんですが多分公孫サンが負けたんでしょうね(笑)
田階から抜けて陶謙に身を寄せます。同じ派閥の人間だったし…英雄だし、で徐州ゲット。
さて、この私兵。あくまでも私兵です。もしかしたら幽州の旗揚げ時からの義勇兵も含まれてるかも。
平原の守りには人を残しておかなければいけない。にしても少なすぎる。
つまり官軍は正式に使えなかったという事なのでしょうか?
別部司馬としては関羽・張飛辺りに流民を鍛兵させたのでしょうけど少なすぎる。
- 11 :
- また、徐州を治めるに当たって「私の希望に沿ったものである」と袁紹に言わせてるし、
この時点で完全に公孫瓚閥を裏切ってますよね。だから曹操も攻めてこなかったのでしょう。
長子を茂才に挙げたのも平原がいつの間にかその袁譚の物になってるのも面白い。
と言うわけで劉備の嫌らしい点を苦笑しつつ彼のサクセスストーリーはここから始まるのであった。
ちなみに汝南に派兵された当時に、曹操軍の蔡陽を撃破したりと遊撃軍としての劉備は光り輝いています。
劉備軍本来の部下数千人を率いての結果なので如何に少数での劉備軍が強かったか…。
- 12 :
- さて、別当司馬に任命してくれた公孫瓚を華麗に裏切って出世した劉備さんは置いておくとして。
汝南に派遣されて「袁紹軍」を率いていた劉備を打ち破った曹仁さんにスポットを当ててみます。
彼もやんちゃでした。
豪傑がいっせいに蜂起した時に千人あまりを味方につけ、淮水のあたりを暴れてました。
ただのsラですよね! まぁ、色々あって曹操の配下に属して別当司馬に任命されます。
多分、この頃の千人あまりをそのまま指揮してたんだと思われます。ヤンチャだね!
- 13 :
- 校尉にそのまま上がってしまうので曹仁の別当司馬時代は少ないんですが、
それでも袁術を曹操が撃破した際に多大な軍功を上げていました。
また、曹仁の記述に多く見られるのは別軍として動いていることです。
例えば陶謙の大将、呂由を攻撃した時は別軍として動いていました。
張繍を征伐した時には別軍として近接県を攻略して三千人あまりを捕虜にしました。
そして劉備を汝南で討伐。
面白い事に公孫瓚・袁紹が劉備に行わせた事と同じ動きを曹操陣営では曹仁が担っています。
- 14 :
- 曹操の幸運は曹仁が「親族」であったこと。
公孫瓚・袁紹の不幸は劉備が「外様」であったこと。
一番辛い時には政権を放り出して逃げてしまうのです。
でも、もしかしたら公孫瓚陣営に居続けた劉備が都督になってたかもしれませんね。
歴史にIFはないので幻想をぶちした麹義さんに盛大な拍手を。
- 15 :
- さて、ここで呉にもスポットを当てなければなるまい。
我らが孫パパさんです。海賊退治とかして17才で警察官に。やったね!
紆余曲折あって、郡の司馬になります。
あれ、別部飛び越えてない? とりあえず許昌とかいうふざけた宗教勢力を会稽で駆逐。
後世における于吉とかも正直その手のカルトなのですがとにかく乱発していました。
何故かと言うと世の中が乱れたから! ここら辺は省略しますが、宦官を使うのにも訳があるみたいです。
この乱は数万人と言われていますが…千人でなんと鎮圧。ぱねぇ。
しかし千人しか率いれなかったという事実から別部司馬と大差ないデビューでした。
ただの信仰者が鍛え上げられた精兵には敵わないという事でしょうか。
それにしても劉備達と比べて何という華々しいデビューかと勘違いはしてしまいますが。
- 16 :
- さて、この乱を鎮圧した事により県の丞となります。
劉備も下密の丞となって居る事からこれが妥当な報酬だったのでしょう。
丞より戦果を残せなかったら尉という感じでしょうか。
下邳県の次官などを歴任している間に程普らの駒が揃います。
宗教勢力が頻発していたと前述していましたが、
来ました、黄巾の乱。ここで孫堅は中郎将であった朱儁の元に集います。
さて、奇しくも中郎将であった公孫瓚の元に身を寄せた劉備と被りますね。
でも劉備は時期が遅かった。孫堅は正式な漢軍であったのです。
この頃の劉備はあくまで義勇兵としての参加でした。ワンテンポずれているのです。
- 17 :
- 朱儁の下で蒼天航路では劉備一党が退治していた波才を撃破。
これに加え賊が支配していた宛城に真っ先に突入した功績を持って、
来ました。別当司馬に就任!
まだ漢が漢として機能していた時期に正式に別当司馬になったのです。
これは大きい。公孫瓚の下で独自に別当司馬になった劉備とは格が違うのです。
その頃の劉備は多分県令をしばいて下野してました(笑)
- 18 :
- この後、区星を駆逐したり韓遂を追い払ったりして長沙の太守に認められます。
見事なステップアップですね。ここからは怒涛の将軍孫堅として北上をしていく訳です。
後は省略しますが大体この頃に集めた人材というのが魏・呉・蜀におけるどの勢力でも中核となっています。
別当司馬としての主君の功績にひとつの国を作った忠臣達も含めるならば当然ではあるのですが。
ただ、曹操だけは特別だったでしょう。何せ、別当司馬になるのではなくていきなり別当司馬に配下を任命できたのですから。
ここが町民あがりの孫堅と一応盧植閥だったが袁術に田舎者と誣告された劉備との歴然とした差でした。
- 19 :
- すいません、別当司馬となっているのは別部司馬の誤植です。
さて官僚制についての考察に入ります。
基本的には郷挙里選が取られており、賢良・方正・直言・文学・計吏などから選出されてました。
しかし後漢時代には孝廉が最重要視されるようになりました。
父母への孝順及び物事に対する廉正な態度が一番の重要ポイントなのです。
儒教的な名声ですね、さらに誰に推挙されるかというのも大きなポイントでした。
- 20 :
- 当時は推挙された人のグループに入ると言う事が当然であり、
それは一生就いて回るものでした。恩人、先生とは推挙してくれた人の事を指します。
よって袁譚を茂才に推挙した劉備は袁紹陣営における先生だった訳です。
イメージ的には大学の盧植ゼミに劉備と公孫瓚が居た。
そのツテを頼んで劉備は公孫瓚に官吏への就職を斡旋してもらった。
しかし、途中で袁譚の家庭教師に劉備はなり、そして官吏に推薦した。
袁譚は恩師であり先生であるので歩兵・騎兵をひきいて劉備を出迎えた。
袁紹は鄴から二百里も出た地点で劉備と出会った。
さんざんに劉備に苦杯を舐めさせられたにも関わらず。
うーん、腹芸。
- 21 :
- 劉備は盧植ゼミに居たことにより孫乾を手に入れたりと色々得しています。
地味な所で袁カンとか見出したり、結構眼力もありました。
しかし、そんなのが霞む位に荀ケが凄かった。半端なかった。
曹操はあくまでも宦官の末裔なので一段下に見られていました。
そこで荀ケの登場。武官は親族含めて曹操の魅力なんですが、文官はほぼこの人のお陰です。
荀ケが孝廉にて推挙する。その人物がまた有意な人物を孝廉で推挙する。芋づる式。
劉備軍においては劉備くらいしか清流派(?)で通じる人が居なかったのは辛い所でした。
また折角手に入れた陳羣を手放したりと運もなかった。
袁カンは見出しても袁術 → 曹操と行ってしまったり。希求力があまりなかったのでしょう。
- 22 :
- 話を戻します。
とにかく推挙による結びつきという事もあり、官僚制は腐敗が付き物でした。
後漢末期の益州を例に取ると郤倹の課する租税がでたらめだったり、
どんどん腐敗するし、賄賂はつきものであるしでもうてんやわんや。
しかし官僚制は皇帝がいくら無能でもある程度回る機構でもありました。
皇帝であれど体はひとつ。なので、腐敗はするけど優秀な彼らを切るに切れない。
何故、宦官が台頭するのかの答えがここにあります。使いやすいからです。
皇帝直属である彼らを使う事によって各官僚グループの利権などを抑えようとします。
しかし、宦官はもっと腐敗しています。そして爆発的に増えて権力を握ります。
一説には性欲を権勢欲に変えているとも考えられています。
だから王朝は最終的に行き詰るのです。派閥が大きすぎて身動きできなくなったその日から。
- 23 :
- さて、今日はとりあえずここまでです。
ですが関羽や張飛の実力なんて対してないんじゃないかという疑問は払拭されたのではないでしょうか。
別部司馬に任命される時点で信頼・実績共に超一流なのです。
具体的な事跡は省略されていたとしてもそこに彼らの輝きを見れる筈。
主簿としては楊儀辺りを再評価したいと思います。
性格は最悪なのですが果たして・・・。
- 24 :
- 孫策時代は陳武、周泰、呂蒙なども別部司馬となっていますね。
これらは全て若手のホープとして捉えられていた叩き上げという事でしょう。
実際にバックボーンがそれほどない若者を任命するに最適だったポジションだと言えそうです。
- 25 :
- 続百官志に、「長官とは別に部下を持つのが、別部司馬だ」とあります。
つまり独自に部下を任用できる権限を持っていたのでしょう。
こう考えると別部司馬の部下と言うのは戦国時代における陪臣の陪臣みたいな感じでしょうか。
別部司馬の部下の中でも優秀な人間が居れば直臣として取り上げられていたと考えられます。
今の時代に例えると会社内の子会社が独自採用していたような物なのかもしれませんね。
- 26 :
- 情報量多すぎて読みにくい。サイトでもつくってくれよ
- 27 :
- >>26
このぐらい普通に読めなくてどうするの
- 28 :
- >>26
さて、すいませんね…。後で別部司馬についてまとめたいと思います。
今日は主簿とはどんなもんかとか誰がついてたとか書きたかったんですが、
別部司馬についていた人達を簡単にまとめると面白かったのでもうちょっと考察してみます。
- 29 :
- 魏政権の有名どころでは梁習と夏侯淵も別部司馬になっています。
夏侯淵の場合はより早く、挙兵時に。
曹洪+曹家の資産を投げ出して旗揚げ。衛慈などと共に徐栄を攻撃します。
淵、惇、仁、洪は常に付き添っていました。
惇はヒ将(おそらく部隊長?)、淵・仁は別部司馬、洪は曹操の護衛と言う形をとりました。
曹操自体の官職は名目上は驍騎校尉に一応なったようです。あるいは典軍校尉。
校尉がどれくらいの軍を率いれるものなのか。多くとも曹操の率いる軍が少ないという記述から数千だったようです。
また、張邈は数万の兵を挙げていた事から衛慈に数千は兵を持たせていたと推測できます。
この時点で張邈軍には典韋もおり、司馬の趙寵に付き従っていたようですが対徐栄戦には出なかったようです。
もしかしたらこの時点で典韋が居たら…。それは過大評価でしょうか。
衛慈は討たれます。負け戦でした。ここで一旦、曹操の軍は壊滅状態に陥ったと見ても良いでしょう。
- 30 :
- 軍が壊滅してしまったので曹洪が私兵千あまりを率いて揚州の陳温に募兵しに行きます。
そこで精兵二千を借り受け、丹楊に行きさらに数千を手に入れます。
曹操と合流したのですがそこで反乱が起こります。四千の兵が四散してしまいました。
ふたたび兵を収容して千人あまりを手に入れます。
これを見る限りは曹洪の指揮力が無かったのか、それとも苛烈な評判に兵が恐れを成したのか。
とにかくこの時点で曹操に連なる将は全員千あまりの兵を動かす事を体験しています。
この失敗は後に大きな経験となります。淵は陳留太守。惇は校尉と東郡太守。
仁は袁術戦前後に校尉に。曹洪は呂布戦が終わると同時に校尉に。
こう見ると惇がリーダーであった事が良くわかります。曹洪は遅い昇進でした。
- 31 :
- これをどう見るか。後に方面軍指令官となる夏侯淵と曹仁は早いうちに別部司馬になっています。
最初は将として位が一段上であった筈の夏侯惇の戦績は冴えません。抑えとして回されたのでしょう。
では一人浮き気味の曹洪は能力が無かったのでしょうか? そんな事はありません。
彼は大飢饉を救い、呂布に攻め落とされた郡を奪還しました。守将寄りだったということでしょう。
- 32 :
- 梁習は中期の別部司馬でした。
曹操が司空になると同時に召し寄せたので、献帝を手に入れた直後でしょう。
彼は袁紹軍を滅ぼした後に手に入れた并州の刺史となります。
当時并州には蛮族が大挙していました。そこをようするに平定しろという意味合いでの任命でした。
つまり、初期の別部司馬とは意味合いが違ってきます。
蜀なら馬忠、呉なら賀斉。この手の対蛮族のエキスパートという意味合いでの任命でしょう。
また、この場合は別部司馬であると同時に并州刺史として起用しています。
馬忠は太守として、張翼は太守、呂岱は丞、賀斉は長。
時代は違いますが、概ねこの時代においては別部司馬より上の位に就いています。
これは単に君主が権力を持ったからでしょう。
この時代においては無理に別部司馬につける意味はなくなったのだと解釈できます。
- 33 :
- さて、初期とはまた意味合いが変わったとしても優秀な人物が就いている事には代わりがありません。
呉に目を向けてみましょう。
孫堅時代には黄蓋、韓当。
孫策時代には蒋欽、周泰、陳武、董襲、凌統、徐盛、呂蒙、潘璋が別部…
なにこのゲシュタルト崩壊。というくらいに任命されていました。
司馬は朱治が担当していた事から彼の下で戦っていたと推測されます。
というかもう説明するのが面倒くさいんですが孫策軍は本当若かったのです。
フレッシュ溢れる軍だったのでしょう。彼自身は都尉でした。
- 34 :
- 失礼、一応は孫策は殄寇将軍という雑号を送られていました。
そして別部司馬に任命された彼らなのですが、
やはりほぼ清流派であるとか、儒教とは関係ない人々だったのです。
許靖は死ぬほど嫌がり交州へと逃げます。これが歓心されたという事なので、
よっぽど野蛮な軍に見られたのだろうなと推測できます(笑)
あるいは袁術派がよっぽど嫌いだったか。
こう見ていくと三国鼎立した勢力は必ず別部司馬に重臣を就けています。
ここに成功の鍵があったのではないかと。
少なくとも彼らが軍の中心であった事は間違いないでしょう。
そして呉の抜擢の成功っぷりの異常さから兄の遺産がどれほど大きかったか、
孫権は思い知ったことであろうと推測できます。
呉は人材の質が豪族中心にへと変貌するのですが、それはまた後のお話。
- 35 :
- それではざっと総まとめ。
漢軍に任命された別部司馬 → 孫堅
公孫瓚に任命された別部司馬 → 劉備
孫堅に任命された別部司馬 → 黄蓋、韓当(程普は役人経験のため、都尉)
曹操に任命された別部司馬 → 夏侯淵、曹仁、梁習
劉備に任命された別部司馬 → 関羽、張飛
孫策に任命された別部司馬 → 蒋欽、周泰、陳武、董襲、凌統、徐盛、呂蒙、潘璋
外れがいねぇ…。
という事で別部司馬というのがどれほどその勢力にとって、
重要な存在として任命されたかお分かりいただけたでしょうか。
そして彼らの多くは別部司馬を経験しなければ世に出れない人でした。
時代が名声ではなく功績や実力によって推移していった事が大きく分かる官位ですね。
- 36 :
- さて、閑話休題。主簿に行きたいのですがそれは明日に回します。
誰か臧洪主役の物語でも書けよとか思いつつ、呂布の話。
最期に劉備に向かい「この男こそいちばん信用できないのだぞ」とのたまいます。
実際その通りでした。それは置いといて何故その時点でそう言えたか。
ただの呂布の悪あがきでもあると考えますが、
この発言が出たのは劉備が公孫瓚を裏切ったからに他ならないと考えます。
袁術も、公孫サンも劉備が袁紹閥に就いた事は寝耳に水だったのではないでしょうか。
少なくとも袁術は同盟相手だった公孫サンから徐州を譲り受けれると考えていたフシがあります。
まぁ、何考えてるかよく分からない呂布のせいでめちゃくちゃになるんですが(笑)
袁術視点から見ればもうヤケクソで成皇帝にでもならなきゃやってられません、本当。
これはまたどこかで。
逆に曹操と袁紹は得になる寝返りだった為に裏切りを重要視しなかったのだと思います。
呂布に劉備が追い出された後に豫州刺史に劉備を任命する時期があるんですが、
これは陶謙に一度劉備が任命されている実績があるのです。
追い出された劉備にやけに優しいなと思ってたらそういうカラクリでした。
それにしても甘い、と思っていましたが徐州を治めていた時から既に曹操に鎮東将軍を貰っています。
IFでしかありませんが劉備が裏切らなかった場合、どうなったのか考えてみるのも楽しいかもしれません。
それに曹操が袁紹を裏切ったので、元々袁紹閥の劉備が裏切った事にはならないとも考えられます。
- 37 :
- このスレすごく勉強になります。
良かったらスレタイの別部司馬と主簿だけでなく、
他の官職についてもご教授願えませんか?
- 38 :
- さて、厚遇の理由としては曹操は対袁紹に向けて劉備の軍団が欲しかったのだろうと考えています。
人材としても魅力的でした。万人の敵と張飛、関羽は述べられています。
さて、なぜここまで魏陣営が高評価するのだろうかと考えました。
袁術には勝ったり負けたり程度、呂布には城を奪われると散々な結果でした。
褒めるほどの成果ってないんじゃないの、と。
公孫瓚陣営に居たときに対袁紹で結果出してるんですね。
それで曹操陣営としては劉備軍を袁術戦が終わった後に袁紹と戦わせたかったのかと。
だから左将軍という高位に就けました。優遇しました。味方について欲しいので。
徐州陥落という最悪の結果となりましたが、関羽を手に入れる事はできました。
関羽は相手方の先陣である顔良を見事討ちました。
文醜と劉備が出てきました。文醜は倒したけど劉備は倒せませんでした。
ついでに関羽は帰りました。
敵に回すとウザすぎる勢力なんですね、気づいたら後方霍乱してくるし。
曹操か旗本クラスが行かないと勝てないしでもう最悪です。ストレスが胃に来ます。
余と君だけが英雄だという評もあながち間違いじゃないんだなぁと思いつつ、
味方の時に弱くて敵になると鬱陶しいとか2チャンネラーそのものだなと思いましたとさ。
- 39 :
- このスレは凄く参考になりますので、今後の>>1さんの活躍を激しく期待してます!!
と、始祖でもある孫堅も別部司馬に任命されていたので、呉の場合は別部司馬の
官職に就けば出世(将軍への)の糸口だったのかも知れませんね?
って、少し意味合いが違うと思いますが、江戸時代だと奏者番に任命されれば
寺社奉行⇒京都所司代⇒若年寄⇒老中のような出世コースが約束されたと解釈できますねw
あと、>>1さんのサポートを少しでも出来ればオイラ自身幸いです( ^∀^)ゲラゲラ
(主簿:文書・帳簿・印鑑を司る文書作成係。漢では御史台などに置かれた。後ほど>>1さん
からも説明があると思いますが、并州刺史の丁原の主簿だったのがアノ呂布らしいですw)
- 40 :
- >>37
疎い知識なのでどこまで出来るか分かりませんがなるべく頑張りたいです。
それにしても呂布軍でも曹操軍でも劉表軍でも劉璋軍からもせっていわれてた劉備って素敵。
どの陣営に居てもどんな立場からでも数千〜一万規模を集めてしまう恐ろしさ。そりゃ堪らないですよ、ええ。
- 41 :
- >>39
仰るとおり呂布が主簿って言う事をネタにしようと思ってましたw
主簿はどっちかと言うと秘書官という意味合いが強かったみたいですが、
とりあえずざっと洗い出して太守とどんな関係だったのかなど考察したいと思います。
いろんな主簿が出てくるよ! 禰衡関連とか。
- 42 :
- 小魔玉がいると聞いて参上。
主簿は郡でも州でも自分で属間を選べる人の幕府でも、腹心中の腹心を任命するポストやね。
位階は低いけど、制度上の副官より重要。
群雄の主簿経験者は、主君の勢力が大きくなるにつれて出世するね。
平常時でも、上司に信用されやすいから、優先的に孝廉や茂才に推薦されることが多い。
別部司馬が武官の登竜門としたら、主簿は文官の登竜門。
別部司馬が登竜門になったのは、黄巾の乱のちょい前からの反乱祭りからだけど、
主簿はもっと古くからエリートコース。
後漢の主簿経験者で一番有名なのは、劉秀が更始帝の武将だった時代の主簿だった馮異やね。
太樹将軍って言った方が有名かも。名将として有名だけど、主簿だった頃は劉秀の参謀格として活躍してた。
- 43 :
- 時の話題やビッグニュースを掲示板の書き込みで一発理解。
2ちゃんねる 全板勢いランキング(RSS生成可)
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ニュース板に特化した全ニューススレッド勢いランキング『2NN』(RSS生成可) や、一覧性が高いニューススレッド新着ヘッドライン『BBY』もどうぞ。※両者とも2ちゃんねるトップページ最上部にリンクあり。
- 44 :
- 今日すいません中止で…。
>>42
主簿はその後文官になったり武官になったり面白いですよね。
とりあえず適正を見る上でも単純作業に従事させるという事でしょうか。
呂布なんか典型的なように主簿はお気に入りの人材を近くに置くためのポストと思います。
- 45 :
- 別部司馬と主簿を取り上げるというのも、なかなか面白い趣向だな。
別部司馬というのは、その名の通り別に置かれた「部」の司馬であり、
将軍の直下に置かれる五部とは別に置かれた軍の指揮官となる。
また、部の下には曲が置かれる。
司馬とは、属官の内で軍事を司る最高職であり、通常は一人しか置かれない。
本来は部の指揮官は校尉であるが、別部に限っては司馬が置かれている。
これはすなわち、本来の部校尉よりも大きな裁量が求められるという事だろう。
つまり、通常の部はそれ自体が戦略単位たり得ないが、
別部司馬の指揮する別部に限り、戦略単位としての働きが与えられているという事と考えられる。
すなわち、部は戦闘部隊、別部は管理自営部隊という事だ。
>>29
いつの時代の軍制を指しているかは不明だが、通典に、
「二曲を以って部となし、二部を以って校となし、二校を以って裨となし、二裨を以って軍とする」
とある。
また、資治通鑑周紀五の注に、「裨将軍は軍の副将である」とある。
- 46 :
- 中止と言いつつボーッと大学の大講義室を眺めてて思った事。
この教室全員で大体500人か。これを一人で統率してたんだなぁと。
本当数字だけじゃ見えてこないですね。
さらに将軍クラスを考えてみる。1万人。
一万人を体感したい人は立ちっぱなしの人気ライブ行くのもいいかと。
別部司馬に任命された人達はようするに数千の兵を動かすのには長けてたんです。
じゃあ将軍クラスの才もあったのかと言われると一概にそう言えない部分も。
あれは別の才だと考えます。しかし数千の兵も動かせない人間が万を動かせる訳も無い。
こうして考えると古代の戦争ってすごいなぁと思いますよね。
ヨーロッパの封建領主はせいぜい500しか兵出せなくてしょぼいと思ってたんですが、
活きが良い中堅企業全員くらいの人数動員してるんですよね。
そりゃ戦争金かかるわけです。戦死したら遺族になんらかの保障もしないといけないし。
そんな所で。
早く主簿編に進んで楊儀が居たら関羽の北伐成功した説となえたいんですが、
眠いのでまた後日。
- 47 :
- >>45
わぁ、生Jominianさんだすげぇ。蜀後期の考察いつも拝見させてもらってます。
官位から動員兵力とか逆算できるかなって思ってこんな企画してます。
- 48 :
- >>47
どうもありがとう。
まぁ、忙しくなければ三戦にはいるので、そんな珍しいものでもないけど。
動員兵力と官位を結びつけるという作業を本気でやるなら、
各国の軍制について深く迫るような考察が必要になると思う。
なかなか壮大な企画になるかと。
- 49 :
- >>48
とりあえず中原の刺史、太守が各々数万の軍勢を動員できるという事を叩き台にしつつ考えています。
陶謙、陳温などが人に寄与できる兵数が大体数千を行き来してるのであながち間違いではないでしょう。
もしかしたら世界共通の認識である十分の一のバイアスをかけてみるべきかもしれませんが…。
そうすると別部司馬なんか五十人〜百人程度を率いるくらいになってしまいますね。若干しょぼい。
しかしちょうど彼らの位置づけがローマにおける百人隊長と考えると、面白かったり。
それらを手足のように使うのが孫策や劉備のような指揮官であった…とすると整合性も取れてます。
まぁ、軍勢一万が戦闘員だけで成り立っている筈も無いので五百人は率いてたと考えた方がロマンはありますよね。
- 50 :
- 最終的に生産面からどれくらいの兵力動員できたのかと言う事でしか実兵力は見えないという事に落ち着きそうなので、
これは空恐ろしい事を言ってたとようやく気づいた件。とりあえず大言吐かないで主簿と別部司馬だけに絞ってみます。
正史に記載されてる数字すら疑わなければ駄目とか恐ろしすぎる…。
それにしても廖化こそが真の意味での関羽の後継者だなと常々思います。
ここら辺、関羽がどういう風に劉備を想ってたかという事が透けて見えて泣けます。
主簿を紐解くことで見える歴史ミステリー…的な、まぁ独自解釈を。
- 51 :
- >>44
属官なら、まだまだ官吏としてはスタートラインに立ったばかりだから、
その後はどんなコースを歩むかまだ決まってないし、
武官コースでも中央官僚コースでも地方官コースでもありだね。
世に出た時の最初の官位が郡の功曹・主簿・掾や州の従事など、
太守や州刺史の高級属官っていう有名な武将はけっこういるしね。
- 52 :
- >>45
別部司馬って官職は歴史が浅くて、初見は桓帝の永寿二年に中郎将宗資が泰山の賊公孫舉を討つために、
抗徐を別部司馬に任命した時。黄巾の乱の28年前。
後漢後期に反乱多発して、それに対応できるように実戦的かつ機動力のある官職が求められて、設置されたんだろう。
黄巾の乱以降に別部司馬が急増するのは、やむ事のない反乱に対処するのに、
まとまった兵を率いるけど独自行動ができない校尉よりも、
独立行動ができる小部隊という別部司馬が何より便利だったからだろうな。
必要に応じて別働隊にも機動戦力にも決戦戦力にもなれる別部司馬は、かなり重宝したと思う。
- 53 :
- >>49
別部司馬、という事だけでは指揮する兵力は一概には言えないだろうね。
特に後漢末と言うと乱世なので、編成だって決まりきったものではないだろうし。
仮に戦略単位足りうるのであれば、輜重等も引き連れた部隊になるので、
数十という数にはならないと思う。
劉備も烏丸の騎兵を率いているし、官渡では文醜と共に5,6千の騎兵を率いている。
曹仁は別部司馬の頃より常々騎兵を率いていた。
騎兵単科という事であれば、実は輜重は不要で、輜重の無いまま自活できた可能性がある。
騎兵は戦闘における働きはもとより、その機動力を生かしての略奪や徴発が大きな意味を持つ。
ハンニバルがイタリアで活動した時期も、彼の麾下にあったヌミディア騎兵が徴発・略奪をよく行っていた。
それ故に、当時のイタリアではヌミディア騎兵は異常なまでに恐怖されていた。
つまり、騎兵だけであれば村落の略奪によって食料と秣を補給し、
一定期間本隊を離れて単独で行動する事も容易であったという事。
別部とするにはもってこいという事だね。
- 54 :
- >>46
董卓と関東諸侯が決裂する以前の将軍と、それ以降の将軍、そして三国の将軍だと、
率いる兵の桁が違うから、個々に考察が必要かも。
後漢の支配が安定してから、董卓に対抗して関東諸侯が挙兵して、
有力者が将軍を名乗り始めるまでの将軍は、一万を超える兵を率いて一方面の戦いを指揮する。
董卓の乱以降は、将軍は群雄が自分の権威を高めるために自称したり、
有力な従属勢力や自分の代わりに一方面の総指揮を任せるような有力な将軍に箔を付けるために授けたり、
あるいは他の群雄を懐柔するために贈ったり、権威を高める道具になったけど、
それでも一方の旗頭になるような人間しかなれなかった。
曹操が河北征伐の過程で、武功のあった将軍を昇格させるようになって、将軍の暴落が始まり、
数千を率いる部将程度の人物が将軍になるようになって、
あげくの果てには数百程度しか指揮しない将軍まで出現するように。
こんな感じで数十年単位でも一つの官職の位置づけってのは変わってくるから、
考察はすごく難しいと思うけど、面白いから頑張ろう。
- 55 :
- >>49
陶謙は劉備を対曹操の前線の総司令官にするんだから、
自分の保有兵力の何割かぐらい奮発しないと、安心できないし、
陳温が曹操にあげた兵は、すぐに反乱を起こして散り散りになってるから、
自分の手兵じゃなくて、臨時に募った兵だろうね。
陶謙は身を削ってでも劉備の兵を増強しなきゃいけなかったし、
陳温はもともと自分の兵じゃない兵を集めてプレゼントした募兵代行のようなことをしただけで、
どっちも右から左へ余剰兵力をあげたわけじゃないから、
万単位の兵は人口百万規模の大郡の太守や、他の郡を支配下に置く有力太守や、
数多くの太守を従えられる実力のある州刺史じゃないと、数万の兵を動かすのは難しいんじゃないかと。
別部司馬は経験者がだいたいその後、県長や県令、校尉などに昇進することを考えると、
指揮兵力が千人を超える事はないように思う。
- 56 :
- 色々な助言や考察ありがとうございます!
略奪と言えば呂布の部隊は略奪しすぎて袁紹から追い出されていますよね。
ハンニバルの場合はカラーブリア地方など敵国だったので戦略的な意味もありそうですが、
統治すべき本拠地で略奪されたらたまったもんじゃないですよね。信望も下がりますし。
孫策などは略奪を禁止したから人気が出た記述もあるので如何に略奪が蔓延してたか。
劉備も略奪してますしね。やっぱ戦争怖いです。
別部司馬の場合は仰るとおりその後位が上がっても騎馬を率いてるパターンが多いですよね。
曹仁も淵も騎馬を操りますし、機動性を活かした遊軍という立場だったのでしょうか。
- 57 :
- 孫策なんかは袁術から任命された雑号将軍ですが数千しか兵を持たされていないのでそこら辺加味する必要はありますよね。
やはり間接的に兵力を見ると言うのはかなり無理があるかもしれないです。
昇進速度から見て、間接的に実力、どのような立場であったか、またどのような方向へ進んでいったかなどを見ていった方が賢明でしょうか。
中原の刺史、太守と地方の太守は確かに動員兵力が変わってきそうです。
それにしても徐州は揚州兵を動員する場合が多いですよね。あれは何でなんだろう。
やはり精強として知られていたからなのか、しかし言語さえ違う場合もたびたびあったとか。
同じ民族だが中原からは若干野蛮として見られてたんですかね。面白い物です。
まぁ、山越大すぎワロタなので住みにくそうではあるとは感じましたが。
山越平定からのしあがるパターンが多かったので試金石としても使える事は使えましたが、
呉はそれ故に動員兵力に限界がありましたよね。蓬莱なんか探すから一万の兵を…。
- 58 :
- さて、主簿行こうかと思ってましたが面白い題材だなと思ったのでまだまだ別部司馬。
まさに馬という視点から見ていこうと思います。
武門の棟梁である劉備、孫権、曹操にはいずれも馬によるエピソードがあります。
さて、この馬なのですが中世にあんな重武装した騎士が乗れるくらいだから誰でも乗れるんじゃねと考えがちです。
そんな訳がありません。鐙が発明されたからこそ中世では騎士が成立したのでした。
鐙発明以前まではある種の特殊技術でした。だからこそ騎射が上手いという事は史書に特記される事例となりうるのです。
劉備は幽州騎兵を操るのに長けていたと考えられます。
その後、麾下の張飛と関羽もまさにそういうタイプだったのでしょう。
公孫瓚の下で烏丸兵を率いていた所から多いに戦乱初期から馬術を磨いてきていた実績があります。
以前の皮製鞍から木製鞍にへと転換があったにしろ軍団の強さに馬術が多いに左右したのでしょう。
また、馬術の巧みさは遁走の上手さにも繋がってきます。故に劉備は負けないのです。
- 59 :
- また劉備は「私はつねに馬の鞍から離れませんでしたので、髀の肉はみな落ちておりました」と記述しています。
有名な髀肉之嘆の事ですね。自らが言うくらいなので相当劉備軍は騎馬の扱いが上手かったのでしょう。
前述の通り、文醜と劉備を挑戦させています。そして文醜がされた事から袁紹軍は大恐慌に陥りました。
しょうもない武将がされた事で軍は大恐慌に陥るでしょうか。
顔良、文醜ともに匹夫の勇と誣告はされていますが勇将であることは間違いありませんでした。
劉備軍は生きて帰りました。別部司馬の頃から流石の歴戦だったのでしょう。
話を戻します。
さて、別部司馬ですが呉の場合は馬術が上手かったという記述が少ないので判断がつきにくいのですが、
基本的には中原において任命される場合はやはり馬術どうこうにあると考えています。
現場監督としての指揮の上手さ、馬術の上手さ、または馬上においての射撃の上手さなどでしょうか。
この時代に鞍で一騎打ちをするというのは非常に難しいと考えられるので総合的にそれを加味して任命されたのでしょうか。
あとは一族、あるいは腹心として信頼できる者としてという面もあるでしょう。いくら親族でも能力が無ければ任命できない物でした。
それを考えると曹操の従兄弟連中って本当チートですよね。惇は戦術面じゃなくて人に懐かれたので無問題。
- 60 :
- 呉において馬術が左右されたかどうかは逆に全然上手くなかった人から考察しましょう。
我らが厳o曼才さんです。知ってる人は知ってますよね、魯粛の後任を任された人です。
彼は諸葛瑾や歩隲に並ぶ名声を得た人でした。そしてあの張昭に見出され騎都尉に任命されます。
さて、魯粛の後任として一万の兵を持たされる筈でしたが辞退しました。
何故でしょうか。「馬に乗れるか試したところ、鞍から落ちてしまった」からです。
呂蒙がその立場を継ぐことになりました。…ですが、まず馬にも乗れない人を何故都尉にとの疑問が生じますよね。
この点、呉は中原と比べて将軍の武勇をさほど意識してなかったという事でしょうか。
しかし魯粛もバリバリの武勇を誇る訳ではありませんが、剣術と弓と騎馬を習っていた経験があります。
一番大きいのは彼が兵法の練習を行っていた点にあるでしょう。
そしてこの頃の時代は転換しつつありました。個人的武勇で将が率いる事から兵法を重視するようになっていったのです。
厳o曼才は兵法は見るべき所があったのでしょう。よっていきなり大部隊を任されそうになりました。
でも個人的武勇にそんなに拘らないと言ってもやはり限度ってあったのでしょうね。というお話でした。
- 61 :
- 馬…なのですが、涼州兵の強さは言うまでもありません。
かの董卓もたぐいまれな腕力を有しており、馬を疾走させながら左右から弓を射れました。
彼も個人的武勇と騎馬の扱いに長けていたので司馬にへと昇進した事が始まりだったりします。
司馬を経験した後に、従事となり騎兵を操り胡を撃ち破り四桁にのぼる蛮民を斬りしたりしています。
その後は羌討伐時に彼だけが軍を損いる事なく帰還していたりして、
裏で密約があったのか単に統率力が異常だったのか見解が別れますが、
ただものではなかったという事が推測できます。その後は皆さん御馴染み長安遷都コースですね。
主簿経験者の呂布さんが色々やらかして李カク、郭シ達に政権が引き継がれる訳ですが、
ここで馬騰や韓遂達と合流して洒落にならないくらい膨張する時期を迎えました。
仲間割れさえしなければ、天子が逃げ出さなければ、李カクが巫女に萌えなければ…。
曹操が中原を支配することはなかったのかもしれませんね。それくらい精強でした。
そしてその涼州兵の一部は張済を経て張繍に引き継がれます。
劉表との同盟が大いに利した事もありましたが、曹操を打ち負かします。
あの曹操の軍勢をです。呂布、袁術を撃ち破り、劉備も遁走させたあの曹操を。
絶影の逸話もここで出てきます。武門の棟梁である曹操もやはり馬術に長けていました。
息子二人を討ち死にさせるというのがどれほどの危機か。さらに長子をです。
降伏を決意するまで張繍軍勢は宛を支配し続けていたのでした。
- 62 :
- そんな涼州兵を率いていたから呂布も強かったんだな!と思いがちですが、
呂布に関してはおそらく并州兵を基盤として残りは兗州兵、徐州兵のちゃんぽんだと考えています。
涼州兵に敗れて一軍を率いていた彼はかの有名な兗州乗っ取りを成功させます。
後述になりますが色々あり敗れてしまい、張遼や魏続などは曹操に降れましたが呂布はされてしまいました。
さて、彼の率いていた并州兵なんですが数百騎で張燕の率いる一万の精兵と数千の騎兵をついには壊滅させた事があります。
有名ですね、袁紹時代のこの事跡。その後、張揚と合流します。ここにおいて精強を誇った呂布軍の中核が作り上げられます。
その軍の騎都尉に任命されていた張遼の能力は曹操時代にも発揮されて、有名な遼来来を引き起こします。
なにこの人やばすぎワロタという事で孫権は駿馬をかけらせ、津の橋を渡って逃げることが出来ました。
やはり棟梁は馬術に長けている必要があるという事を示す一例ですね。それにしても涼州兵も并州兵も総じてやばすぎるという良い例でした。
- 63 :
- このまま行くと馬超考にまで発展してしまい留まる事をしらなくなるのでここで打ち切ります。
大幅に話がそれてしまいました。
端的に言うとつまり、
軍を率いる事が上手いが無名
あるいは個人的武勇がある → じゃあ司馬か別部司馬にするか。
さらに加えて名声があるんだ → じゃあいきなり都尉にするか。
という事を中郎将の人は考えてたんだと思います、抜擢するにおいて。
そして別部司馬などを任されている間に核となる中心人物や軍が構成されていきます。
それが後に独立軍となり乱世の群雄となっていくパターンが多いので、
別部司馬や将軍職の乱発が正しかったかどうかは定かではありません。
しかし、乱発しないと国がひっくり返るくらいに漢という地盤が弱体化していたのでしょう。
そして事実上、漢は曹丕により滅ぼされることとなりました。やんぬるかな。
- 64 :
- 今日はここまでという事で。お疲れ様でした。
主簿に結局行けなかったのですが、明日には多分!
主簿から見る荊州争奪戦とかやりたいです。
なお、全てこれらは独自解釈と断っておきます。
また偉大なる先達に助けられつつ大きな感謝を。
- 65 :
- 最後に劉焉が任じた別部司馬を紹介。
彼の第三子である劉瑁、漢中で五斗米道を広めた張脩。
米賊と呼ばれていた導師の息子張魯は督義司馬に任命され別部司馬の張脩と共に漢中太守蘇固を攻撃しました。
しかし張魯は何を思ったか張脩を襲撃、そして張脩は害される。張魯はその軍勢を奪い取りました。
こうして張魯の地盤は築かれます。つまり漢中軍はもともと劉焉軍の兵士を中核とされていたのです。
張脩があらかじめ漢中に五斗米道を布教していた事も上手く利用したのでしょう。腹黒い。
また、正式に漢に任命されていた漢中太守を攻撃させた事から劉焉の野望も伺える良い事例です。
両方食わせ物だったという良い事例ですね。張魯はつまり武将としての才もあったのでした。
劉瑁にも将軍の才があったのでしょうか。息子だから任せたのでしょうか。
少なくとも息子達の中では将器があったのでしょう。曹操から後に平寇将軍の官位を貰っています。
その後、精神病を病んでしてしまい死んでしまいました。
その未亡人は呉氏であり、劉備は入蜀後、自分の後妻にしました。
この呉氏が、後の穆皇后となりました。
- 66 :
- 朱儁の別部司馬はかの張良の子孫張超
- 67 :
- 張良の子孫と言えば張翼も実は張良の子孫(を自称)だったりしますよね。
良い血統は良い才能を産み出すのでしょうか。
ちょっと明日の為に主簿をざっと洗い出しておこうとしたんですが、
それにしても丞相の掾に任命された人が魏書には多い。
曹操時代にはこれがエリートコースの始まりだったのでしょうか。
どうも丞相主簿と同じような位置づけだったと考えますがどうでしょう。
- 68 :
- また、魏においては功臣の二代目が最初に黄門侍郎に任命されるパターンが多いように感じます。
これは親の七光りが影響してるのでしょうか。確かに身元の知れない人間をいきなり天子に侍らせることは難しいでしょうが。
- 69 :
- いえ、冷静に考えると賈逵で考えてみると分かるかもしれない。
司空の掾から(丞相の掾と同義)丞相主簿にとりたてているとの記述から、
この当時のスタート地点は掾であり、丞相主簿とは大きく意が異なる事が見て取れる。
つまり、主簿と丞相主簿とは当たり前だが大きく異なるという事なのだろう。
その意味合いにおいて掾と主簿が実質的な意味では似通っているのかもしれない。
- 70 :
- そしてこのスレにおいてはあくまでも「エリートコースのスタート地点」を考察する。
故に今回は掾、主簿を対象する事にします。
- 71 :
- エリート官僚のスタートと言うと、真っ先に思い浮かぶのは郎官だな。
- 72 :
- >>71
戦史オタクは黙ってろ
- 73 :
- あら、確かにエリート官僚は郎官経験を必ずしてますね…。
「スタート地点」と定義するには間違いでした><
特に拘らずに掾、主簿の事例を見ていくことにします。
仰る通り間違いなどがあれば指摘していただくと助かります!
- 74 :
- 浅学の極みなので恐縮なのですが、掾入れたら夥しい量になってしまいますねこれ。
掾属、曹掾、曹属も含めるのかとなったらもう正史の文官を全て挙げる勢いになってしまいそうですし。
やはり王脩あたりの純粋な主簿だけに限った方が良いのだろうか。悩む所です。
- 75 :
- ちょっともう一回読み直して再整理します。
うん、文官関連に関しては最初から大きな勘違いしてました。
主簿自体が郡吏などを経験して優れた業績を達成してから、
お偉いさんに召しだされてようやくなれる物ですね。
- 76 :
- そして主簿経験者から茂才に推薦されて令になったり、将軍になったり。
どっちかと言うと従事とか功曹の方がのスタートラインだったりするのかもと再認識。
うわぁ、政治関連に関して語れるレベルにないと思うのでもうちょっと時間置かして下さい><
- 77 :
- 最下層から這い上がるとしたら郡役人から推挙される場合もあります。
郡の小役人には少なくとも16才でなれる。
郡の高官を歴任するなどの業績を挙げれば孝廉に挙がる場合もある。
孝廉で黄蓋、賀斉などが実際に選ばれています。
郡の太守が行うのが孝廉。
刺史が行うのが茂才。
- 78 :
- そして以前説明してもらった通りに、主簿は腹心中の腹心を育てる場所である。
郡が任命した主簿が居たり、州で任命した主簿が居たり。
そして中央が任命した主簿が丞相主簿でした…という事ですね。はい。
場合によっては武力を持って主簿になったり、知力を持って主簿に取り立てたり。
刺史は州。太守は郡を治めます。
つまり刺史である丁原が任命した呂布は州の主簿であったという事です。
太守が任命した場合は郡の主簿であるという事になります。
- 79 :
- 孔融は太守であった為にいわゆる郡のトップでした。
ここで王脩を主簿として任命します。つまり郡の主簿として任命したという事です。
主簿として任命される為にはやはり何か光る物が必要だったのでしょう。
王脩の場合は張奉という人物の一家を看病したという名声が後押ししたと考えられます。
呂布はもう単に武勇でしょう。
- 80 :
- という風に色んな主簿が居て独自に任命されていたのですが、
中央というのが厄介な物で三国時代になるとそれ自体が単純に三つになります。
魏の中央、呉の中央、蜀の中央。
つまり主簿も三倍に増えて万々歳ですねという感じですね。
しかしそれ以前に三国時代になると蜀の郡主簿などはもうはなから記述されなくなります。
太守クラスでも蜀(と言うか彼らは漢と呼んでいたんですが)は怪しくなるのでこれはやはり小国の悲しさでしょうか。
- 81 :
- と言う風に展開させていきたいと考えています。
丞相の掾と丞相主簿が同じような物とか考えていた自分が恥ずかしすぎて泣けます。
ちなみに郡の主簿や、州の主簿が何故茂才や孝廉に推薦されやすくなるかというと。
それは太守や刺史自らが抜擢した人間であり仕事振りも間近でチェックできるからです。
そりゃ中央に入りやすくなるわけですよね。基本的に主簿は有能であると考えて間違いないでしょう。
しかし、有能である事と性格が品行方正である事とは=ではありません。
そこで関羽さんという有能だけれどプライド高すぎる(自称)襄陽太守が抜擢した人間を見ていきましょう。
と言う風に繋げていきたいと思います。呂布なんかあれ儒教的にはどうしようもないですよね。
- 82 :
- 孝廉に上げられたうえに更に茂才に上げられてる人とかいるよね
- 83 :
- 楊彪などがそれに当たりますね。喪などで召集に応じなかったりするとそうなったりするらしいです。
よっぽど優秀で魅力的な人材なのでしょうか。実際に楊彪は司徒までなりました。
特に三国時代は茂才や孝廉を無視して抜擢したりするのでややこしくなりますよね。
陸遜は関羽を討伐した時点でようやく茂才に取り上げられました。無名と侮るのも仕方なかったのかも。
- 84 :
- >>63
名声があったら、そもそも別部司馬なんぞにならないんじゃないかな?
それなりに名声があるエリートが最初に軍を率いるのは、
州の従事として州の兵を率いたり、県令や県長として県の兵を率いる時じゃないかと思う。
過去に戦功があったか、あるいは強そうだったり自分に忠実だったりして指揮官として使いたい人間を、
最初に指揮官に起用するポストとしてちょうど別部司馬がハナってたって感じだと思う。
- 85 :
- >>81
陰脩という郡太守時代に誰でも知ってるような超有名人を四人も郡の高官や孝廉に取り立てた人がいて、
荀ケはその主簿だったけど、荀ケ伝本文には載ってないから、
主簿は歴史家的には伝に書いても書かなくてもどっちでもいいぐらいな官位だったんじゃないかな。
有名な人でも、孝廉や茂才になる前の職歴が、州吏だの郡吏だのしか分からない人も多いから、
中には主簿経験者がそうとういてもおかしくないような。
郡の役人は、郡の宰相とも言われる功曹が一番の格上で、
功曹出身者は後漢から三国初期を通じて、後に宰相や大臣になるような文の大物が多い。
あと、最初から掾や計吏になるような人も出世コース。
- 86 :
- >>83
陸遜は孫権の属官から、いきなり屯田都尉になって、海昌県の事も領してる。
領ってのは、格下の官位を兼任することだから、屯田都尉が県長より格上だと言うことが分かる。
そして、孝廉や茂才は、通常は郡の功曹や主簿や掾や計吏とか、州の従事とかが推挙されてなるもの。
そして中央で登用されて郎官や三公の掾を経験した後、地方に出て県長や県令を経験する人が一番多い。
つまり、陸遜は孝廉や茂才をすっとばして、県長より高い官位に就いてるわけで、
その後も地方で文武に功績をあげて順調に出世してる。
でも、この時代は司馬などの下級武官や、県丞とか県尉のような下級地方官から、
孝廉や茂才をすっとばして県令や県長になる人も多かったから、任官秩序はかなり乱れてたんだろうね。
それでも孝廉や茂才は名誉だったみたいで、県長や県令、尚書郎などを歴任した蒋エンが推挙されてるけど。
- 87 :
- レッドクリフ見てたら曹なんちゃらが別部司馬に任命されてましたね。
となんか思いましたとさ。蹴鞠は長安に大規模な蹴鞠競技場があったくらいみたいですね。
誰か三国サッカーとか馬鹿みたいなゲームでも作ればいいなと思いつつ。
- 88 :
- 五官右左中郎将を経なくても県令に任ぜられる人が増えてきたと言うのは
それだけ中央の統制が乱れてきたと言うことなん?
- 89 :
- 良
- 90 :
- おぉ!?今度は主簿の議題になっているようなので少し書かしてもらいますw
と、オイラが主簿の官職に就いた人物でで真っ先に思い浮かぶのは、やはり蜀でも
魏でも名将の名を轟かした劉璋の家臣・黄権(字・公衡)ですね!!
黄権は劉璋幕下の中では反劉備派を貫き、劉璋が劉備を蜀に招き入れた時も反対し
広漢の県長に左遷されながらも劉璋が劉備に降服するまで投降せず(普通なら左遷
されればそれを恨み直ぐに投降しそうなものですが)、後にその絶対的な忠誠心か
気骨を買われたのか偏将軍⇒鎮北将軍と累進しています。
また、魏に投降してからも重用され、鎮南将軍⇒車騎将軍と累進していますね?
あとこのスレは凄く参考になりますので、別部司馬や主簿だけでなく色々な官職を
知りたいですが、一度に何個もの官職を語ってしまうと収拾が尽かなくなって
しまうと思いますので、ここは>>1さんの判断で一つの官職の議題を出してもらい、
議論尽くしたら>>1さんの判断で次の官職議論に移ってもらえれば、オイラは大変
嬉しいです!!(終わった官職でも引き続き語っていくのも良いかな?)
オイラ的には官職に就いた人物の一覧表を作ってみたいと思っていますので、時期が
来れば“まとめサイト”を作ってみるのも楽しいかもです( ^∀^)ゲラゲラ
- 91 :
- >>90
まとめサイト頼む!
- 92 :
- ぶっちゃけいつか書きたい三国志とか見ると面白いと思うのでこのスレの書き込み最後にしてみます。
あれは正史をキチンと読み込んだ上でのトンデモ考察が面白いので楽しいですね。
郡国記とか読み込んでみたんですがそんなもんは皆さん読んだ上で考察してらっしゃるのでもう無理だなぁと。
後は曹操時代に若い儒の徒が碌に勉強もしないので駄目だなぁとかあったので、
今の大学とかとそんな変わらないなぁと思ったり。あの頃の儒ってのはぶっちゃけ内容とかじゃなくて、
それを学んだ事を証明する事であ、この人は偉いんだなって思わせるツールだったんではないかと思います。
もちろん学んだ内容も大事なんですけどね。大学の教育がそんなに役に立つかい?ってそんなに立たないわけで。
教養みたいなもんでしょうね、多分。
- 93 :
- 曹操がわざわざ丹陽兵を募兵しにいったのは丹陽兵が精強だったからであり、
孫策が強かった理由は丹陽兵を用いたからであり、
徐州を劉備が手放した理由は丹陽兵に背かれたからであり、
太史慈が群雄でありえたのは丹陽兵を率いていたからであり、
丹陽兵ってのはつまりもう、そりゃ凄かったんだろうなぁとかいう事を思いましたとさ。
并州兵と丹陽兵に追い回された劉備さんが生き残ってるのってとんでもないですね。
広陵とか食料無さ過ぎてワロえない状況にまで追い込まれましたが、それでもしぶとく生き残る。
- 94 :
- 予断として糜竺が劉備を妄信してて何この人気持ち悪いと思ってたんですが、
ちょうど劉備が丹陽兵を使って曹操を防ぎつつも攻め込まれちゃった東海の豪族だったんですね、あの人。
つまり本当に生死を共にした仲間だった訳です。曹操は呂布さんがやらかしたので帰りますが。
それはもうとんでもない信頼を劉備に託して、全財産を預ける気持ちになったのもわかりますね。
曹豹は陶謙の武将でした。劉備と共に戦いました。でもどこまで言っても陶謙の武将です。
この人は陶謙に丹陽兵を任されていました。陶謙の遺臣、劉備+徐州(東海閥)、外敵として袁術。
そこに呂布が入る。陶謙の遺臣とくっつく。陶謙の遺臣の気持ちって何だろうと考えます。
公孫サン閥なんですよね、陶謙って。それを劉備が裏切って袁紹閥に入った。
虐をした曹操の仲間になった訳です、劉備は。川で塞き止められるくらいに人をされました。
そんな奴の下に入るのってどうだろうと。じゃあ裏切ってやるか。
そこに呂布を招き入れる。徐州の虐を間接的に止めたのは呂布である。
さらに加えて呂布は曹操と戦って善戦した実績がある。ついでにまだ張超が頑張っている。
袁術と戦って劉備は居ない。じゃあ迎え入れるか。
張飛単体で抑えれる訳なんかないんです。馬鹿だった? んなわきゃぁない。
こう考えるとあそこら辺面白いですね。公孫サンがどこまでも付いて回る。
余談ですが。
三国志のゲームとかやってて厳白虎さんが呉の太守してますが、絶対あれ許貢ですよね本来。
正式に漢に任命されてるんです。別に董卓に任命されてたとかいう訳でもなく。
そして太守は基本的には領土外に兵を出さない。という原則がある。
孫堅は漢に任命された太守をして北上しました。
孫策も基本的に同じ事をしています。基本は漢に任命された太守をしていく。
どこが漢の忠臣なんだろうねという事ですね。孫呉が漢の忠臣説がありますが多分あれは嘘です。
- 95 :
- 色々と見えてきますよね。本当、面白い。
いつも考えていました。陶謙がなぜ劉備を任命したのか。
袁術に田舎者と誣告された、あの劉備をです。それは戦果を挙げたからでしょう。
そして糜竺達のような徐州閥の推薦があったからというのも確かです。
でも、劉備なら公孫瓚閥として憎き曹操と戦ってくれる、と。信じたんじゃないでしょうか?
基本的に陶謙には将が多くありません。呂由等も曹仁に破られたりね。
しかし兵は精強でした。ベースは丹陽兵なんですから。陶謙は丹陽を出身地にしています。
そこに劉備という袁紹との戦いで名を挙げた武将が来る。
逆に考えましょう、陶謙は劉備以外に誰に指名できたでしょう?
実績を挙げているのは劉備なんです。そして実際に曹操は退きました。
曹豹と劉備のタッグならば徐州を守ってくれるな、うん。ポックリ。
なんで、袁術に任せた方が良いと劉備が言ったか。自明の理です。
あんな大物なかなか居ないから。さらに加えて公孫瓚との同盟相手だったから。
公孫瓚自体は離れてて保有できない。じゃあ袁術に任せたらというのは当たり前ですね。
- 96 :
- 陳羣は諌めます。「分不相応である」と。
「南に袁術、西から呂布が徐州を狙うなか、危険である」
実際、そうでした。その通りすぎました。
袁術は「劉備? なんだあの田舎者」と侮ってるんですから。
ここの因果関係は良くわかりません。
袁術に攻められたから袁紹閥に入って庇護を求めた、のか。
袁紹閥に入ったから袁術に攻められる羽目になった、のか。
いずれにせよ曹豹のような陶謙の遺臣からしたら実際たまったものではない訳です。
気づいたら袁紹閥に入っていたぜ、なんてこったい!と。
さらに言えば張飛が曹豹が邪魔になったのでそうとしてきた訳です。
劉備と曹豹はツートップでした。今は劉備の方が立場は上ですがそりゃ遺臣なんて基本は邪魔です。
もう呂布に寝返るっきゃないですよ、うん。そして張飛も劉備の権力強化の為に必要な仕事をしただけです。
結局、袁術と勝ったり負けたりしていたからこそ起きた事なんですけどね。
大体が徐州としては何で袁術と戦ってるの?って感じでしょう。
曹操と戦うために任命したんだよね、じゃあ何で袁紹の手先になって袁術と?
それで疲弊したんだよね? それなのに曹豹達はされそうになる。
もしかしたら劉備は曹豹達から丹陽兵を取り上げたかったのかも。
そりゃ劉備は信頼できないのだぞ!と呂布が言いたい気持ちもわからんでもないね。
もうひとつの例として。
もし、曹操を恐れた劉備が裏目の公孫瓚を裏切った。
…が公孫瓚はそれを恨みに思い、袁術を裏で動かしたなんて事だったとしたら。
面白いですね、師弟同士骨肉の争いです。絶対に考えすぎでしょうけど。
- 97 :
- みたいな別部司馬と関係ない話しかできないのでスレタイがちょっと関係なくなりつつあります。
官位から見る実力ってのもよく分からないですし。
さらに加えていつか書きたいさんの焼き直しみたいな事でしかないので。
そして劉備好きすぎるだろうという。もしこんなんで良ければ続けたいですが。
蜀の実情とか政治体系をいつか考察してみたいですよね、本当。
劉巴達によって紙幣経済が既に完成していた。塩を専売する事によって儲けた。
蜀科ってのはどんなもんだったんでしょうね。そしてどういう任命方法をしていたんでしょうね。
少なくとも酒を禁止しようとはしてたくらいですから厳しいものではあったでしょう。
しかし諸葛亮は信賞必罰を心がけていました。威徳が行き届きました。
官位から見る実力というか信頼というか。
糜竺がなぜあんなに高位だったかは理解できると思います。
ある意味、彼が劉備の始まりだったのです。キングメーカーというか何と言うか。
盟友すぎて笑えますね。妹を嫁にしていますし。
三兄弟の友情ばかり取り沙汰されていますが糜兄弟との信頼こそも取り上げるべきでしょう。
そして、糜竺ともう一人の糜芳。糜芳です、あの。江陵太守の。
荊州で劉備が失ったのは関羽だけではなく、糜芳もです。
糜芳が何故裏切ったのか、そして孫呉で何故活躍できたのか。
ぶっちゃけ糜芳は再評価しなければいけない武将だと考えています。
といったよく分からない所で筆を置かせていただきます。
主簿に関してはもうどうしよう…。諦めようかな。
- 98 :
- いずれにせよ荊州問題は取り上げるべき最大の問題です。
荊州問題。ぶっちゃけてここが三国志というか後漢末において一番の見所のような気がします。
関羽ファンの人にとっちゃしんどい場面でしょう。最初は大抵蜀ありきで考えますから。
糜芳と士仁は裏切り、そのまま劉備は狂ってしまう。
じゃあ何でそうなったか。士仁の出身地は幽州広陽郡です。
幽州広陽郡です、考えてみてください。ぽっと出じゃないんです。
簡雍とか田豫(どっか行ってしまいましたが)くらいの挙兵した時からの仲間です。
ずっと付き従っていた腹心中の腹心な訳です。糜芳も先ほど述べました。
関羽を単体で残した訳じゃなく、糜芳と士仁と関羽を残したから安心と思ったのでしょう。
ずっと傭兵として戦ってきた彼らならば荊州を任せられる、と。
裏切る訳がないんですよね、本来。そして彼らは実際問題として「劉備」を裏切りませんでした。
当時の主簿として廖化が居ました。関羽のようなタイプだったのでしょう。
ですが、ぶっちゃけ楊儀を用いるべきだったのです。しかし、蜀に持っていってしまった。
惜しいかなと本当に思います。楊儀を嫌いな人も多いでしょう。確かに人として下衆いのですがとんでもない。
- 99 :
- 逆に考えましょう。何故、楊儀があそこまで性格に問題があるのにあんなに出世できたのかと。
いや、性格に問題があるとか以前に人として破綻しています。
主簿に任命してくれた傅羣を裏切る。主簿って秘書官みたいな腹心中の腹心です。
それをポンと裏切る。別に関羽に攻め込まれたから仕方無くとかいう訳でもなく。
それを関羽は見初めます。関羽も性格に問題がありました。もっと言えば彼の主簿の廖化も問題がありました。
変な方向に気があったというか。関羽自体が性格に難があるけど実力はあるから許してねというタイプです。
というか劉備軍自体がもうそう言う人間が多すぎるというか何と言うか。
とにかく実務能力にとんでもない所がありました。
彼は関羽の使者として劉備に送られます。ですが劉備が手元においてしまいます。
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