2012年3月戦国時代215: 【伊達三傑】鬼庭綱元【能吏】 (164) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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【伊達三傑】鬼庭綱元【能吏】


1 :
武の伊達成実
智の片倉景綱
と共に吏の鬼庭と謳われる伊達三傑の一人
名将・鬼庭綱元について語りましょう

2 :
伊達三傑でひとつにまとめたらどうだい。
伸びると思うが。

3 :
妾巡って政宗と対立して出奔したと言うのは実話?

4 :
きにわつなもとって読んだやつは出てけ!!

5 :
このスレを立てた>>1の戦国センスは屈指かもしれない。期待。

6 :
親父の方が良かったんでないかい?

7 :
三傑のうち3分の2が出奔してるよね、伊達

8 :
大河では小十郎も出奔しようとしてたしな。綱元は出奔じゃなかったけどw

9 :
( ´゚ω゚` )

10 :
>>2
【武勇】戦国最強!伊達成実【無双】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1163695586/
【伊達三傑】鬼庭綱元【能吏】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164706052/
【伊達の】戦国最強陪臣は片倉景綱【智将】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1162708402/
全員単独でスレが立ってる

11 :
まとめたほうが面白く比べたりできそうだね(^_^)

12 :
>>7
めっかちの人望のなさがよく現れているな。

13 :
>>12
三傑を勘違いしてはいないか。

14 :
出奔が相次いだのは伏見に10年ほど缶詰にされていた特殊状態の時代ですからねぇ・・・

15 :
出奔は策ですよ

16 :
この人あんま詳しくしらないんだけど、逸話とかあるの?

17 :
得意としたのがとにかく地味な補給らしいので派手な逸話などあるはずがないが
朝鮮出兵のときは独自兵站ルートを確保し、伊達勢に一人も飢死者を出させなかったという。

18 :
綱元と小十郎、喜多との複雑な血縁関係が面白い

19 :
鬼庭左月斎===女===片倉景長
            │      │     │
         鬼庭綱元  喜多 片倉景綱
鬼庭左月斎===女===片倉景長
    │      │     │
  鬼庭綱元  喜多 片倉景綱
どっちだったっけ?

20 :
>>19
下だよ

21 :
亀田!最高

22 :
地味に長生き
親子揃って

23 :
それが素晴らしい事だよ

24 :
秀吉が綱元のダシが入った残り湯を飲んだほどだからな

25 :
伊達三傑みんなスレあんのな

26 :
いかりやさん

27 :
綱元って何歳で亡くなったの?

28 :
92歳です
政宗公より20歳近く年上ですが政宗公より4年あとに亡くなりました

29 :
ありがとうございます☆

30 :
伊達信者の皆様!良い年でありますように

31 :
秀吉、家康、天下人達が惚れた名将におわす

32 :
このスレも92年は生きます

33 :
天下の名吏

34 :
その通り

35 :
綱元の嫡男良綱も88才まで生きたお( ^ω^)

36 :
勉強になりました

37 :
>>15
なんか柳生十兵衛の公儀隠密みたいでカッコ(・∀・)イイ!!

38 :
サニー千葉

39 :
政宗と女の取り合いで出奔したんでしょ?

40 :
石見湯

41 :
伊達騒動の時の周防定元って綱元の孫?ひ孫?

42 :
綱元の子で宗根だけ「モト」の字が元じゃないなんて
ワケありなのがバレバレじゃないか〜w

43 :
伊達巻き晒しage

44 :
幕末の茂庭家は短命すぎる

45 :
百姓誘導

46 :
>>24
それマジ?ww

47 :
そうらしいよ

48 :
age

49 :
鬼庭よりも茂庭の方がいい気がしないでもない
どっちでもいいけど
宮城に茂庭台ってあるけど、そこらへんに屋敷があったのかね

50 :
多分屋敷があったんだろうね
支倉とか国分とかと同様に…

51 :
伊達巻き晒しage

52 :
>>49
仙台の茂庭屋敷は片平にある仙台大神宮に元々あった。
茂庭台は茂庭の知行地があった茂庭の近くだからそういう名前がついたのでは。
日頃は本来の知行地である大崎市松山千石にいたはず。

53 :
茂庭台のあたりってほんとに辺鄙なところだからねえ。
昔あそこで巨大な野犬がうろついててびっくりしたよ。
江戸時代は熊だらけだったろうな。

54 :
仙台の団地なんて、昔は山だったところばかりだからな
パークタウンだってたまに熊が出るとか出ないとか

55 :
サッカーの茂庭選手って鬼庭の子孫かな?
自称眞田幸村の子孫で野球選手の真田選手よりは、苗字人口も限られているから可能性はあるよな。

56 :
野球選手の真田がどうかは知らない。
ただ真田姓の中には慶尚慎氏を祖に持つ「朝鮮系真田氏」が多いのを忘れてはいけない。
戦前に移住した慎氏は家柄も悪くないだけに、現代日本でも普通に「真田さん」だったりする。

57 :
伊達巻き晒しage

58 :
綱元はキリスタンだったよね?
なんか意外!
政宗も何気にそうだし‥

59 :
名と違って姓を変えられるのは侮辱じゃないかえ

60 :
中世、茂庭氏の城があった伊達郡茂庭村はダムとなりほとんど沈んだな

61 :
お気に入りの妾盗られればそりゃ難癖付けたくなるわな

62 :
それでも主ににしたがったは綱元は、案外ストイック?
この件に関しては、政宗が大人げないね!
子供の世話までさせて

63 :
>>62
政宗は常に大人気ないじゃんww

64 :
まあ、せっかく出来た宇和島伊達藩を、一時の怒りにまかせてぶっ潰そうとしたからなあ。

65 :
>>63
一生大人気ないとも言うな。

66 :
この人、四年後政宗と同じ日に死んでる‥
意味あるのかコレ

67 :
綱元って太閤に気に入られた男だよね。側室もらっちゃって。
政宗には頼られまくりだし。
なのに、なぜ目立たないの?

68 :
能ある鷹だったから
秀吉徳川時代は勝手に戦出来ないし
外様は特に謀略成功して俺の仕事だって表に出る事は有り得ない
バレたらまた白装束磔で今度こそ政宗ヤバス

69 :
まあ成実と小十郎のキャラが濃いから目立たんのだろうな>綱元
個人的には劉邦三傑の蕭何とイメージがダブる。

70 :
綱元マンセーでつ

71 :
綱元よく過労死しなかったな…
すげぇ仕事っぷり
晩年の政宗がやっていけたのは綱元のおかげ
って気もする
小十郎が病気じゃ、他に心から頼れる家臣は綱元か
景綱はぶっちゃけ白石嫌だったんじゃないか、息子に任せっぱなしで
政宗なりに色々考えたんだろうけどさ

72 :
景綱の病気、綱元も結構考えてるような?
両家は繋がりもある。
政宗は病には敏感だしな。綱元が元気な爺さんで助かった

73 :
( ´゚ω゚` )

74 :
そうですな

75 :
有能綱元保守。

76 :
過大評価w

77 :
長寿

78 :
あげ

79 :
妻を政宗に略奪されて妊婦にされてからもうイラネって突っ返された家臣ですね。わかります。
これで謀反しないようじゃ男じゃねーよ去勢野郎が!

80 :
長生きしたね

81 :
親父も長生き

82 :
>>81
いや、70過ぎだから早死。

83 :
>>82
だね。

84 :
片倉重長って大坂の陣で彷徨ってた雪村の娘を乱取り略奪して
戦利品として奥州に連れ帰ったんだろ。
大坂の陣から3年して重長の正妻が死去すると
やっと死んだと喜んで、まだ10代の幸村の娘を後妻にしたとか。
また略奪して大坂から連行されたから
不仲だった。それで子ができなかったとも言われてるよな。

85 :
>>84
> また略奪して大坂から連行されたから
> 不仲だった。それで子ができなかったとも言われてるよな。
(公認された)子ができなかったのは、普通に諸系図など大抵の関連書を見ればわかるけど不仲ってのは出典あるの?
子があっても不仲な夫婦はいくらでもあるし、子がなくても不仲ではない夫婦もいくらでもあるだろ。

86 :
長寿

87 :
新年おめでとう

88 :
香の前

89 :
名将

90 :
綱元はどこの城主だったんだ?

91 :
松山

92 :
嘘つくな

93 :
陸奥国志田郡松山城主(宮城県大崎市。平成十八年まで松山町)

94 :
長生き

95 :
長生き一家

96 :
健康なんだね

97 :
うむ

98 :
逸話も残ってるのに、何故か全く盛り上がらないなぁ

99 :
例えばどんな逸話があるのですか教えて下さい

100 :
政宗が妻をレイプして妊娠してから返した

101 :
綱元が風呂に入った残り湯を豊臣秀吉が飲んだ

102 :
秀吉に「負けたら自分の家臣、勝ったら側室を一人譲る」と、囲碁をして見事勝利。
美しい京女を手に入れた。
まぁ、その後政宗が……ね…

103 :
鬼庭綱元と言えば、犬HK独眼流正宗で、いかりや長助が好演した父親鬼庭左月斎良直。
お笑いとしては有名だけど、まだ役者としてはあまり知られて居なかったいかりや長助が
その才能を思い切り見せ付けた好演が印象に残る。
一度、主演で有名な武将役をやらせて見たかった。島左近とか。

104 :
大河のは美化されてたね
史実ではなんら良い部分はなく瞬されて無駄死にしただけ
ただ単に仙台が橋上で敵の大軍を防いだ張飛ネタをパクってきた話に過ぎません。

105 :
現場見てきたような切り捨て方やの。

106 :
伊達の強さは、劣勢でも終わっていると領土が増えている事だからね。
人取橋の合戦の2度あるけど、両方とも終わったときに伊達の領土は増えていた。

107 :
最高の武将

108 :
>>106
人取橋が終わった後は佐竹に伊達は粉砕され二本松城に籠城用の兵糧を入れられ
二本松城がまったく落ちずに涙目で伊達領に逃げ帰ったじゃねぇかw
どこが領土増えてんだ大嘘つきが。
へっ?人取橋が2回あった!?なんだ佐竹に二回やられて鬼庭が二回死んだのか。
それとも窪田の戦いで伊達が囮に引っかかって佐竹に大敗敗走し砦に引きこもって震えてた戦いと混同してんのか?

109 :
宇和島

110 :
伊予

111 :
子孫は砂糖王。

112 :
長生きですね

113 :
どなたか、>>17の出典というか原典を知りませんか?
逸話としてはよく見るのにもともと何処から出てきたのかわからないので探しています

114 :
良スレ

115 :
保守

116 :
>>113
調べてみたがぜんぜん存在ないんだなこれが。
お世話になっていた浅野に政宗が
秀次切腹事件に巻き込まれて失脚した際の浅野宛に
朝鮮で食料援助受けれず困難だったのはお前が横領したからだと絶縁状を送ってるところから
秀次事件で秀吉に釈明できなかった政宗が
巻き添えを喰いたくないあまりに失脚した浅野は俺には一切関係ないと主張しつつ
伊達の補給がうまくいかなかった八つ当たりもついでにやってるようだけど。

117 :
>>116
小田原陣で木村吉清って政宗をあまりに強硬に弁護しまくり、
なんでそんなに弁護すんだって秀吉が大激怒して木村吉清をそうとしたんだよね。
なのに政宗ってこの人を大崎葛西の乱を使って陥れて失脚させてる。
マジで政宗って畜生同然の悪辣さだよね。

小田原で政宗のために浅野長政と一緒に弁護した木村吉清でさえ政宗はこの扱いですよ・・・
伊達と浅野お互いの子孫は江戸城ですれ違っても口もきかない間柄だった。

118 :
そもそも政宗は自分の妻や配下すら大切にしないからね…

119 :
政宗「配下なんてただの捨て駒、兵なんてただの消耗品ですよ」

120 :
伊達家の執事だった作並清亮が大正4年に東藩史稿で
「成実人トナリ英毅大略ナリ。一時勇武無双ト号ス」
と捏造を発信し初めて豪傑武将として有名になったが
それ以前はまったくの無名。
勇武無双に出典なし。

121 :
まったく無名の人が徳川家光に謁見できたんですね面白いね

122 :
無名でも伊達家で地位があれば謁見できるだろ。

123 :
>>117
木村可哀想だ…さすが天下一の鬼畜政宗公

124 :
成実の家族は皆しされたのに政宗に土下座して帰参が許されたものの養子に政宗の9男を貰うことになった。
だから亘理要害主として仙台藩一門第二席亘理伊達氏を創設することができた。
政宗の子の宗実が死ぬことは成実の命の担保喪失=死を意味していたので成実は非常に気を使っていたと言う。

125 :
大変遅くなりましたが>>113です
>>117さん、ありがとうございます
文禄の役くらいまでは名護屋にいたっぽいので綱元さんが兵站関係を
(豊家奉行衆に混じってでもそうでなくても)やっていたのなら
それらしい記録が残っていてもいいのになと思って探していました
本当にありがとうございました

126 :
仙台の公式記録で書かれている伊達家臣の業績
茂庭綱元
父の仇を許したので政宗が感嘆して部下に付けた。
文禄の役の時に名古屋に留守してる時に秀吉に寵遇され伏見に屋敷を賜うが断り
愛姫阿種を賜う。秀吉から鬼庭から名前を変更を命じられる。
政宗に幽閉される。江戸へ行くと家康が禄を与えたいというが固辞すると
卿は大国の老だから徒歩はまずいと馬と槍をプレゼント。
このように豊臣徳川から明達にして世事に老練な綱元は豊臣徳川から優遇された。
政宗の寵遇も初めの時に戻り国老となる。
留守政景
秀吉の小田原参陣に遅れたので秀吉が留守の城を攻め取ると激怒したが政宗の叔父だから許された。
直江の最上攻めの時に助けたから家康から褒められた。
片倉景綱の功績
小田原へ行って土下座することを勧めたから伊達が安泰。これ景綱のおかげ
豊臣氏が景綱に三春5万石を断り徳川氏が江戸に邸宅を与えるのも断ったから純忠高義の人だ
大坂の冬の陣で歳を取り過ぎたから息子が代わりに出たが
景綱はこの戦いは必ず和睦になり決戦は明年になると言ったので先見の明があるとみんな服した
伊達成実の生涯唯一の武功が摺上原の戦いでの
金上盛備と佐瀬平八の討ち取りだと大々的に自慢してるが
そもそも金上盛備を成実は討ち取ってないから捏造なのは明白。
それで佐瀬平八とは何者か調べたんだが下記の人物なんだわ。
葦名が敗走中にこのレベルのを討ち取って自慢になるなんて伊達ってショボイね。
葦名修理太夫盛氏旗下之大名
佐原氏葦名五黨ト称ス者
葦名四天老中四人並ニ小頭附ケタリ老中同心八十人 
若年寄四人並小頭四人附同心
用人五人並取次十人
側用人五人並取次五人
奉行四人並用人役祐筆兼諸役兼勤者八人
郡代十七人並小頭十七人附同心百七十人但同心十人宛
下郡代十七人但シ下郡共勘定頭共云フ
侍大将十二人 同組士外様三百六十人
旗頭八人並與力野士八十人小頭八人其組足軽八十人
弓大将四人並與力士四十人小頭四人足軽四十人
鑓大将四人並與力士四人小頭四人足軽四十人
使番十二人
奏者番十二人
大目付四人
寺社奉行四人並小頭4人附同心四十人但一組十人宛
寺社小役十二人
町奉行四人並小頭四人附同心四十人m一組十人宛
足軽大将三十人並小頭六十人m一組二人宛足軽九百人m一組三十人宛
大番組八人並組士七十二人
佐瀬平八組←やっと登場wwwwwwww
下妻市太輔 神原源左エ門 賀ガ見村右エ門 杉田平右エ門 笠尾藤右エ門 
神尾利右エ門 関脇十郎兵衛 金山吉右エ門 岩永太左エ門

127 :
>>126
やっぱり伊達家中の武将はぜんぜんすごくねーな。
まぁwikiに書いてあるのはことごとく捏造軍記と妄想マンセーだけだしな。

128 :
葛西大崎一揆
同時に転封に伴う伊達家中の知行再編が行われたが、
減封の影響によって知行高は軒並み削減された上、
転地の際にはそのままでは収穫を見込めない荒蕪地・野谷地を多く宛われたため、
困窮した家臣団の不満が高まった。
転封を拒んだ北目城主・粟野重国が居城を攻め落とされたほか、
伊達成実・国分盛重・鬼庭綱元・遠藤宗信ら重臣の出奔が相次いだ。
また、広大な知行地を与えた重臣達に領地復興を丸投げする格好になったため、
仙台藩において地方知行制が幕末に至るまで残存する原因となり、
集権化は大幅な後退を余儀なくされた。

129 :
公称62万石で実高100万石なのに餓死者続出の伊達藩w南部津軽佐竹は小藩で公称と実高に大して差はない
本当に公称と実高で倍近い差があったなら、餓死者続出させた伊達藩主は無能の極みw
政宗存命の時から大借金抱えてて徳川綱吉時代には財政が破綻して仙台藩を潰したいって願い出て却下されたのにwww
この事実から逆恨みして仙台藩が将軍暗したって庶民から噂されたくらい周知の貧困藩だったじゃんw
仙台は財政崩壊して金が無く足利さんに顔を合わせたくないから参勤交代もわざわざ遠回りした恥ずかしい記録まであるしw
豊臣秀次が乞食大名政宗に大金を貸したばっかりに秀吉に謀反を疑われて…政宗に関わるとロクなことにならないな。
仙台藩は飢饉で武士まで餓死してるからなww伊達家に仕えた家臣は日本一不幸だし最底辺の負け組だなww
仙台平野という肥沃な大地を持ちながら餓死者20万人(しかも武士階級含む!)出した無能伊達
米しか頭に無かった無能伊達が招いた人災ですがw まあ当初計画だと江戸城よりデカい縄張りで築城開始して
絶対無理で途中放棄し天守まで作れない財政行き詰まりの青葉城のアホらしさを見た幕臣が、
相馬城下と見比べて相馬の士気の方が上だなって発言してたし 米沢城を一切改築したりせずに武士個人の鍛錬に力を入れた直江をみても
いかに伊達の家風がダメダメなのがわかるわ。
馬鹿な伊達厨まだやってんのかw
破綻の話で言えば政宗は秀吉の会津召し上げの時点からもう財政崩壊して秀次から大借金してるわけだがw
自分のメンツを一番大事にして追い詰められるまで小田原に行かなかった馬鹿ぶりを棚に上げて必死だなw
政宗には経済政策の才覚を持つ賢臣も豊臣政権や徳川幕府の有力者と昵懇になって便宜を図ってもらうような
文化芸術と言った広範な知識を持った賢臣もいないからずっと虐めを受け続け財政破綻を維持させられてただろうが。
仙台ってアホだから米を増産すればするほど米価が下がってさらに財政悪化w
藩財政が悪化することが理解できずに他の換金性のある物を作らなかったw
だから凶作になると米価が10倍に跳ね上がり財政崩壊挽回のチャンスとばかりに
米価高騰に目が眩んでガンガン江戸や京に持ち込んで売却w
しかし継続して凶作が続いたもんだから今度は必死になってさらに高値でもいいから購入しようとするともはや誰も売ってくれないw
また金融政策を理解できずに幕府発行の金貨である正金の藩内での流通禁止にして
仙台藩製造の銀札と鋳銭を発行したが銀札と金の交換相場を決めてないから銀札の価値は実質ゼロw
こんな通貨と交換したらやべぇwってことで完全に仙台の物流はストップw 仙台藩は見事に30万人が餓死しますたw
一方、松平定信白河藩も米沢藩も米以外の換金性ある物で金を得て早期に金で米を買って凌いで餓死者ゼロ
完全に仙台藩の藩の失政による人災で藩の役人達は異常気象を嘆くばかりで最後まで無策だったw
浅間山噴火や天変地異で未来を予見する能力より藩の破綻財政を米価の高騰を利用して回復させようなど馬鹿のやること。
やっぱり米のみに依存した石高より経済金融政策が立案できる人材育成だよな〜。
伊達は慶長の飢饉などで苦しんだが特に徳川家光の寛永の大飢饉で早くも大崩壊してるし
米にのみ依存した旧態依然とした武士層による民衆搾取体制で地獄を作り出した愚藩。
飢饉になればなるほど新田開発して生産量を増やそうとする無策藩。
民衆にさらなる負担の労役で米を運ぶ運河を作り運び出し江戸で安い価格で売り仙台で餓死者を作るアホぶり。

130 :
南部や津軽や佐竹は仙台平野のような肥沃な土地を治めていたのか?
またこれらの藩も仙台藩の実高について伊達厨が言うように公称の倍近い実高だったのか?
南部や津軽は岩木山噴火の火山灰による被害があったからやむを得ない
3つの大河が流れる肥沃な仙台平野 豊富な海産物のとれる三陸海岸 奥州街道最大の商業都市・仙台
どんな初心者モードだよってくらいこれだけ恵まれてるのに武士を含む20万もの餓死者を出せる伊達ってどうなってるの?
南部や秋田も餓死者は少ないが出てるよ 武士が餓死してる記録は見たことないけど
正確なのはわからないけど秋田も南部も申告してる石高は妥当なものだったはず
そもそも凶作の対策をしたりするのが統治者の役目なんだから石高以外の収入が期待できなきゃ普通はあまり大きく言わない
たしかに津軽富士と言われた岩木山噴火の影響をかぶっていた津軽・南部・秋田の被害はやむを得ないよね。
津軽民の一部が流民化して秋田へ脱走し秋田城下の橋下に食を求めて集まってきたから秋田側が迷惑したって言うね。
凶作対策していた秋田側は粥の配給場所を作ったけど集まり過ぎて間に合わなかったってね。
でも秋田民の困窮逃亡までは無かったんじゃないか?やっぱり仙台の無能が秀でてるな〜。
伊達の公称石高自体がデタラメで諸大名に伊達が見栄を張っただけだし
帳尻あわせで民衆からさらなる収奪に武士階級が勤しんだ結果 仙台藩のどこにも食料がない
大飢餓を発生させただけだしな…飢餓とは財政崩壊した藩の重税に 困窮した武士階級による
さらなる民衆搾取の結果だからね。仙台が地獄藩だったのは間違いない。確かに餓死者の絶対数では南部より伊達のほうが多い。
だけどこれは率で比較すべきでは?伊達62万石に対して南部は10万石程度。規模が全然違う。
南部は1回の飢饉で藩人口の20%が餓死したこともあったし。
率で言ったら総人口80万の仙台藩で20万人の餓死者なんだから25%だな
どっちにしても無能伊達であるという結論は変わらないどんなに言い繕おうが仙台藩が餓死者20万人出した時に米沢藩はゼロだからな
これはもう藩主の有能無能どころの問題ではない藩祖以来の思想や政治構造などの要素も大きいのだろう
藩主自ら率先して乱痴気騒ぎの浪費をしまくった伊達家と質素倹約に努め食糧の備蓄を怠らなかった上杉家の違いと言える
仙台の失政による人災じゃねーかw そもそも仙台がやまさの影響を受けるなら米作にむいてない土地でなんら無策で
米作の生産を続けたこと自体が無謀な暴挙だろw やませの影響をかぶらないように
青森県から三陸海岸の影響範囲は畑作や牧畜が中心
関東地方の太平洋岸の影響範囲も畑作・牧畜中心 仙台はアホでしたw
さすが秀吉が左遷した僻地仙台は米が作れない不毛の地だった。
さすが秀吉が左遷した無能政宗は米が作れない不毛の地で今までの食べ物を作らせず米作りを強要。
そもそもやませの影響を受けるために米作りがむいてないにも関わらず黙し、
むちゃくちゃな計画で開墾しまくって広大な田んぼを作って
竿を入れて田の質の階級を引き上げて過大評価田園を大量に打ち出しし民草から搾取し公称百万石
しかし実態は百万石なんてまったく取れない為 現実は鬼のような収奪をしていたわけだ。
南部や津軽の石高が低いのはやませの影響を考慮し田んぼを新たに作らず畑作をしてたから。
つまり伊達はやませの影響で毎年負ける確率が非常に高いギャンブルをしていたのである。

131 :
そして予想通りに人災による餓死地獄を繰り返したのは歴史の知るところだ。米作に向かない土地で飢饉の心配をして
畑作で食料確保を図らず米作りに依存し石高を倍にするなどアホの失政以外の何ものでもない。なぜこんな愚行を行うかと言えば
藩創設当時からすでに財政崩壊していた仙台は飢饉になると米価が10倍に跳ね上がることから仙台は飢饉を待ち望むバカだったからだ。
さらに平時は安値の米を増産することで財政崩壊を何とかしようと図る事で余計に安値誘導している事実に気づかないアホで
他藩が物価が比較的安定している物や特産品作りなど飢饉時でも金と交換できる物に努力している間に田んぼ作りを奨励したバカである。
飢饉が進み過ぎて異常高値になった米が買えない仙台の致命的バカは救えない。
西国諸国は飢饉にはなっておらず米が収穫され米価格が異常高値でも米自体は足りない状態では無かったが
仙台には自藩発行の大量の仙台銀札以外には金が無かった。
もちろん紙屑同然なのでそんな信用ゼロの貨幣で仙台藩に米を売るバカはいなかったし
強制使用を命令された仙台藩民も米を買えなかった。いつの時代でも大飢饉ってのは人災で、全体を見渡せば餓死者を十分賄える食料が必ずあるらしい、
まあ何処かで食料を止めてる奴がいて、普通は商人とかが高値を見込んで蓄えるとかなんだろうけど、
飢饉なのに止めるどころか逆に他国に全部出しちゃうってすごいよな、しかも藩みずから。
なるほど地獄の大飢餓の元凶たる貞山堀の大賦役こそ 政宗最大の愚行大土木建築だったんだな。そして餓えの恐怖を想像しながら
仙台の民草は貞山堀から大量に米糧が船で搬出されていく姿を眺めながらいくたびも仙台藩主を呪い続けていたと言うことか。
祖宗歴世の法(祖法)を変ずべけんや
藩祖政宗が立藩した時の政策のせいで 仙台の民草がずっと塗炭の苦しみを味わい
もっともヒドイ年の天保7年には米の生産高は10万石だけだったというし、
幕末では日本一の臆病者の仙台兵と馬鹿にされドンと大砲が鳴ると五里も逃げる兵とされた仙台藩兵を生んだわけか。
仙台藩の統治体制は非常に後進的な封権制度に政宗が戻したことが挙げられる。
そして幕府に城として認められた白石城の他に、藩内20カ所に城館が存在しこの城館を「要害」と呼び
城・要害・所・在所といった拠点を総称して「48館」と号していた。
その実態は封権の昔の地方市町村への領袖の割拠による分権であり 藩士への地方知行によって小さな殿様が領内に散在することを意味し
藩士の仙台城下集住がまったく進まなかった。これは他藩では見られない愚かな統治手法であり政宗の領主としての権力が確立しておらず
逆に家臣団によって制圧されていたことに起因する。
家光の頃になると石高制の崩壊と商人の台頭による貨幣経済の浸透の萌芽が見える。
仙台は買米専売制を施行し百姓に資金を貸付けてやる代わりに藩への年貢米の他の余剰米を
農民から強制的に全て押収し江戸へ廻漕して売却する暴挙に出る。
しかし安く買い叩かれてのこの負け確率が非常に高いあほギャンブルが成功したのは
わずかに享保17年における西国の蝗害・飢饉で江戸の米価が暴騰した時だけであった。
しかし覚せい剤のようにこの成功例は伊達を狂乱化させてしまったのである。

132 :
相馬 天明大飢饉の直後の天明8年に幕府巡回使古川古松軒は東遊雑記に
仙台の武風に感ぜず相馬の武風に感ぜしなり。制度正しき故と思われ侍る。
元禄時代に土佐の谷秦山は相馬は国を立て武職を守ること700年 薩摩は500年と言うが真の武職は相馬だけだと賞嘆。
忠胤と幕府から伊達との和解を勧められたが「婿の身で先祖代々の宿敵とたやすく和睦してはかえって先祖に申し訳ない」と拒否
昔は化学肥料が無いから穀物が売れ残って棄てるほどの生産量は無いどころか常に不足気味。
むしろ他藩は米の不作に備えての代替え収入を考えて畑を広げて特産品作りをしていたから大量餓死を避けれた。
南部や津軽は津軽富士と言われた岩木山の噴火被害を受けて天明の大飢饉になると秋田佐竹が大した被害にならなかったのに
仙台が大量餓死で壊滅したりとアホっぷり。政宗やその後の仙台藩だけが次々に田んぼを拡大させていくのも
政宗が知行地方制と言う中世支配構造のまま放置したために一致した協調歩調ができず
米価が商人によって操作されて下落しまくるから収入激減に対応してさらに田んぼ面積を増やし、さらに米価が下がってた悪循環を繰り返した。
財政崩壊してる仙台は飢饉でも悪魔の賦役で作られた貞山堤から米が江戸に出荷されていくのを民衆は恨みながら眺めていた。
ついには仙台領から食べる物すら無くなり果てた時にあまりに高騰した米価格に買うことすらできず、
経済が理解できない仙台は内外で信用ゼロの破綻財政仙台独自紙幣の使用を強制するから食べ物を誰も売ってくれないアホぶりまで晒す。
10万石しか取れなかったって津軽並みじゃんwww そりゃあ明らかに仙台は米作に向いてねーな。
墓を暴いて死者を鞭打つような文化は日本にはありません。そういうことしてきたのは中国ですね
無知から来る傲慢さ 日本人はそんなことしないという根拠のない自惚れ
あるよ。幕末の仙台藩。 世羅を斬首して糞壺に投げ込んだ。しかも家老公認。今でも佐幕派の連中はあの行為を武士の美徳として崇拝しているし。
あそこの文化は日本じゃないだろ仙台は仙台だけで独立国家なのだろう。
通りすがりの巡礼女を拉致して人柱にした伝説もあり、 政宗が治めただけのことはある。
結論 
たしかに百万石取れる広さの田園はあった。しかしそもそも仙台は稲を育てる環境ではなかった。
よって百万石などという大きな収穫など最初から期待できなかった。
天保7年には米の生産高は10万石のようにミジメなものであり
ただ単に伊達の大名としての格付けというメンツのために田を広げたに過ぎなかった。
そしてその三見栄がバレないように農民の過大な困窮の労役で作った貞山堀より江戸へ米が輸送され続けた。

133 :
すごいすごーい
天才現る

134 :
>>128
父が輝宗に殉死してる遠藤宗信ですが
この人は輝宗に殉死した罪を問われたとか
出奔の罪は親類に及ぶとかで
22歳で政宗に謀された説があります。

135 :
父が輝宗に殉死したことで冷遇された
須田伯耆が政宗が大崎葛西一揆に内通を蒲生に密告している。
政宗は輝宗暗してるだけに父への殉死をした息子達を徹底して弾圧してたんだろうね。

136 :
慶長9年には兼続は農政に力を入れて郡中百姓相定覚を定めたり
近江国住友村や堺から呼んだ技術者を使って鉄砲密造したり、鉄や薬の研究したりしてる。
慶長11年金鉱採掘政策を発布。
慶長12年京都の要法寺で文選三十冊発行。
慶長13年には9年発布の十五箇法度を修正し農村救済
慶長14年織絹業を興し、桑・青芋・綿・紅花などの強化を打ち出し、
6月4日には信夫地方が干魃気味になりそうだと予想して米の輸出禁止処置をしてる。
兼続の対応は早く6月下旬には幕府から10万石の軍役免除を貰い財政負担の1/3を減少を農村救済に当てた。
12/8には米や大豆高騰に備えて餅や酒や豆腐製造を禁止、米輸出禁止・米殻輸出制限と穀物節約通達。
政宗家臣ってこういうことをちゃんとやっていたの?
箇条書きにして具体的なことを教えて。

137 :
慶長4年に家康の方から和議の申し出があったって言うし
慶長5年に家康が景勝や直江を見て、その武功を褒め称えて歓迎したよな。
交渉相手は家康の信頼を得ている要路の重鎮たる本多正信と直接やっていて
宰相殿の空弁当吉川広家みたいに
黒田長政・福島正則・榊原康政・本多忠勝なんてアテにならない人間と交渉してない。
親しくなってきたので慶長7年もしくは8年頃から本多正信の息子を養子にもらう申し出をしていて
慶長9年に養子政重が直江に養子入りしてる。
本多正信により10万石の軍役免除をはじめ、いろいろと便宜を図ってもらってる。
その際たるものは慶長15年の景勝の江戸桜田邸への将軍秀忠の来駕だろう。
ここで景勝の子の玉丸を秀忠が千徳と改名させて上杉後継の安堵がもらえた。
この大仕事を終えた養子政重は翌16年春に、父の岩槻領に帰り17年に前田家へ行き
3万石家老になって政重家臣団形成のため上杉家の人員整理を兼ねて引き取ってくれた。
他にも佐竹・伊達とともに高田城の普請を命じられたが、
本多正信の好意によって奉行を送り込めば、わざわざ現地へ赴かなくってよいよ!って
言われており、佐竹義宣も現地へ行かない工作に成功したようで
結局、政宗だけが高田城へ赴いてて、帰りがけに米沢を通過した政宗の屈辱感はいかばかりだろう。
元和元年に直江嫡男が重態になるや土井大炊頭利勝・酒井雅楽頭忠世・安藤対馬守重信らが
その事を秀忠に告げて急ぎ道三法印を派遣して診療させたが、このメンバーは秀忠側近中の側近で
のちの家光政権でも大いに辣腕を奮っている最重要人物たち。
元和2年の家康や本多正信が相次いで死去する状況による政変でも
政重は言うに及ばず、土井利勝を通じて上杉家は安泰だった。こういう家臣は政宗の下にはいないな。

138 :
圧政を敷いてたと聞いた

139 :
>>138
輝宗時代と真逆に政宗は悪政か・・・軍役と見栄しか彼にはないから仕方がないか。
@日本で最初の図書館(誰でも書物を見れる寺)禅林文庫を造った 。興譲館や各地藩校が出来る実に200年以上も前。
A直江版と呼ばれる日本で最初の印刷本(銅活字)を造った 。全61巻、国宝:禅林文庫に所蔵。
B蛮天連教令後も景勝とキリシタン(信教の自由)を保護。「米沢藩領に切支丹これなく候」との幕府宛書状。定勝期に転換。
C最上川上流で暴れ川で有名な松川に石堤を作り洪水防止。庶民生活の安寧を図り、 表石30万石を約15年で実石高51万石まで引き上げることに成功(米沢は四方を山に囲まれ平地が少なく開墾には不向きだが他藩に先駆け実行)。
 紅花、青苧、楮、ウコギ等商品作物栽培を奨励し鉱山開発を行い、家臣召し放たず、藩財政を潤した。半米半金税(半分が米半分は紅花等商品作物で納める:日本初)を敷き商品作物栽培奨励。
 例えば紅花は山形藩(河北町)や仙台藩(村田町等)まで普及し、他藩財政を潤した。兼続死後その政策は無視されたが、約200年後に鷹山が兼続政策を自ら実践・政策実行し有名となった。
D朝鮮出兵で、貴重な論語や漢詩等を持ち帰り禅林文庫に収めた(他の武将から「馬の肥しにもなるまいに」と言われ「頭の肥やしに為り申す」と答えたと言う:まさに傾奇者)。
E直江家の婿になり、いとこのお船と結婚(生まれた子供は早死) 側室も持たず、春日山林泉寺には、戦国武将の墓として珍しく、夫婦全く同じ大きさの墓が並ぶ。
F武田から菊姫を景勝の妻を迎えることに成功、武田家血筋も残すことに尽力(六男信清の子孫が今も米沢に在住)。
G伊達家存続に尽力(伊達政宗に小田原早期参陣を促す書状何通か現存(仙台市博物館他)佐竹等への対策で上杉領上野を通過させた)。
H直江状(会津転封まもなく、公共工事等で内政忙しい。謀反など全くないことを説明(上杉家として一戦も辞せずとの考えはあり、謙信の二十三回忌で諸将に対決方針を確認)。
 豊臣(家康)衆は、経済発展のための道路建設事業等まで「戦いの準備」ととらえた。上杉ならずとも反論したくなりますわな。
I兼続自ら約500の兵で殿を務めた最上領からの電撃撤退作戦。
 撤退路は狐越街道という難所だが成功。その相懸引き作戦は旧日本陸軍「日本戦史」でも取り上げられ撤退戦の手本となった。
 敵将最上義光曰く「直江は古今無双の兵(つわもの)なり」と。家康も「聞き及びしより、いや増しの武功の者」と賞賛。
J戦争抑止力としての鉄砲を重視、東北の地で初めて鉄砲製造を行った。約1,000丁と言われる。鉄砲の撃ち方指南書(1604年 鉄砲稽古定)を書いた。
 今福・鴫野の戦い。上杉軍約五千で大野治長・後藤又兵衛(負傷)軍2万数千を打ち破り、大阪城に撤退させることに成功。

140 :
L数々の漢詩(例:1599年の「春雁、花に背いて帰る」の詩には豊臣からの誘いを断って会津に帰る決心が読み取れる。亀岡文殊堂1602年初詣詩会で奉納した「元日」の短冊には、つつがなく新年を迎えた人々を見て安堵する兼続の姿が浮かぶ)。
M1604年、四季農戒書(養子の本多政重が加賀藩へ行ったため、加賀藩に残っている)商品作物の奨励と仕事を楽しくするための心得等。
N米沢と庄内を繋ぐ「朝日軍道」を引いた(天地人のオープニングに流れた雪山行軍は「朝日軍道」を彷彿とさせる)。
O神指城建設事業←若松城では城下が手狭。小田山からの攻撃に弱い面を見抜き(270年後の戊辰戦争で兼続が懸念が露呈)。平地に城下を大規模(若松の約2倍)にし道路も整備。経済発展を工夫。完成した神指城、見てみたかった。
P上杉の人質となった真田信繁を謙信の景虎に対するが如く、侍従として丁重に扱い、「義」の精神を伝授。第一次上田合戦では上田城防衛のため上杉軍の援軍を入れ、また「軒猿」と呼ばれる忍者を使い、徳川軍を翻弄。
R世襲制限を自ら実践し、直江家の録を返上し断絶させた。
S会津⇒米沢へ、堀立小屋しかなかった小さな城下町へ三万人の上杉軍を無事生活できるよう手配し町割。 その頃から景勝は「御館様」直江は「大旦那」と呼ばれていた。
 農村や神社仏閣を積極的に回り、地主や農民の意見を聞いていたという(宮内の熊野大社に直江山城守名が刻まれた寄進の短冊現存、亀岡文殊堂等にもあり)。
21徳川秀忠に藤原惺窩と朱子学を紹介。道徳や愛、義等の政治がいかに大切かを説き、幕府の正教として朱子学を導入することに成功。
 藤原惺窩は幕府に入ることを拒否。弟子の林羅山を紹介した。
また、商品作物(例えば紅花)を最上川流域や近隣伊達藩まで半米半金という
現代税制にも参考になるような画期的な政策を導入し発展させたことも、一般には知られていないが彼の功績の一つ。
直江山城守の業績はまだまだ(魚津城や新発田(新潟)開港)等あれど疲れたので止めます。

141 :
新発田攻略においてもっとも効果が高かったのは
兼続が治水工事をして新発田の水利権を奪う事に成功し
継戦経済力を削いだからだよ。
新発田にしろ長谷堂にしろ、基本的に直江は有利な状況のまま戦わずして熟柿が落ちるのを待つタイプだからな。
最上戦では10/3の政宗の書状に「最上弱すぎ」とか
「上杉との戦いで最上が弱っているので無念千万」って桑折宗長宛に書かれてるし。
直江も秋山伊賀宛に「畑谷城や梁沢城を落としたほか近隣の城5、6
さらにこの他30ヶ所が降伏し征服地の手配りを充分に施行しています。
庄内軍は寒河江を接収し在陣中です。この書状書いてる途中に敵の軍事行動がありましたが首200を討ちとったよ」って
進軍より占領地行政を優先し時間をかけていると思われる手紙もある。
講談話を抜いて書状だけで判断したら直江は悪い指揮はしてないぜ。
まぁ実際史実だと、畑谷城13日陥落→長谷堂攻撃は15日に包囲攻撃開始。継いで24日攻撃。
撤退寸前の29日の三回しか攻撃してないんだよね(最上家伝覚書)
しかも29日は撤退前の牽制攻撃らしい。
どっちにしろ直江は庄内軍が南下するのを待ちながら長谷堂で様子見してたのが実情でしょう。
この24日の戦いってのも、残された史料に拠れば
長谷堂城下に谷口を堰でとめた小さい湖水(篭城用飲料水)があるようなんで
直江が物見を出す→城から阻止するために兵を繰り出す。
物見の兵が応戦を始める→直江が物見がなぜ戦い始めるんだと激怒。
直江は上泉主水に物見を引き上げさせるように命令→上泉が血気に走り暴走し湖端まで到達して暴れまわる。
前田慶次らまでやってきて先陣争い開始。
直江が上泉に夕暮れも近いから早く撤退しろと重ねて命令→さらに暴れて、力尽きて、最上の将と一緒に谷底転落し討ち死に。
しかしこの隙に湖の堰は上杉軍によって破壊されて最上涙目で24日の戦いは終了。

142 :

俺は鬼庭綱元が圧政を敷いてたと聞いたことがあるだけで
直江兼続のことなんざ言ってないが

143 :
>>121
それも伊達家側がそう主張してるだけで根拠はありませんから。

144 :
兼続って本多正信に働きかけて
慶長14年7月に10万石の幕府の役儀を免除してもらったり
永楽銭を大量に集めていたのか、永楽銭を幕府が一貫文を
金子1枚で買い上げしてくれてボロ儲けし
景勝領中御加増下され候ように上下喜んでいるって正信に書状出してるよね。
外交が巧みすぎるだろコレ

145 :
ちなみに鬼庭は政宗に突然
拉致監禁され、隙を見て夜逃げして関東まで徒歩で逃走した。

146 :
呆れきった側近家臣達が出奔しても絶対に再就職させない陰湿さが政宗公の持ち味

147 :
>>132
南部のわんこそばは南部藩の食糧政策から根付いたもんだからな。
南部鉄技術といい南部はよくやってるな。
栃木県が米文化の一方で隣県の群馬県が小麦粉文化なのも
上野国が米作にあまり向いてないから石高増大を目指さず麦を植えることを藩が奨励したからだしな。
伊達の失政ぶりは凄まじいな。

148 :
>>1
そういう風に呼ばれ始めたのって戦後からだろ

149 :
成実は武だけの人じゃないよ。開墾や治水などの内政手腕も高いようだし

150 :
》149
ソースは?

151 :
ソースは忠宗時代の仙台藩

152 :
1640年からの検地で
1反=360歩から1反=300歩に変更して
伊達領の石高を多くみせる小細工したけど
成実領の石高が想像以上に低かったから一部の領地を没収されたのに?
1676年から作られた御知行被下置御帳で1614年時点での成実石高の捏造をしてるのが笑えるがw

153 :
そして天明の大飢饉で弘前藩領内は人肉市場が盛況となるのである

154 :
米沢藩と南部藩の残党の私怨がすごい

155 :
仙台藩で餓死者20万人のソースはあるのか?

156 :
仙台250万石、200万石と同様、餓死者数万人〜20万人は雑記から持ってきた数字で根拠はない。
ただ、人口の大幅減少が起こったのは確か。
天明の飢饉のときの陸奥領内郡方人口の変化を細かく見ると、
もともと少子化傾向が続いていて人口が減っているんだが、
1780年:503,931
1781年:502,124
1782年:不明
1783年:493,245
1784年:478,894
1785年:413,191
1786年:411,496 (この時仙台藩総人口596,282人)
1787年:410,974
1788年:410,196
1789年:409,632
1790年:410,401
と2年間で7万人人口が減少している。実際には餓死による死者よりも、
飢餓状態で抵抗力の落ちているところで流行った疫病での死者の方が多い。

157 :
天保の大飢饉のときは、以下のような感じでデータが欠落しているが、
1822年:479,281 (この時仙台藩総人口は699,334人)
1832年:495,501
1852年:478,613
高木正朗・新屋均らが磐井郡の9村の人別改帳の人口変化を、
1832年〜1852年の仙台藩陸奥領郡方人口に対してあてはめて人口変遷を推定したところ、
こちらも2年間で7万人程度の人口減少が起こっていたことになる。
1832年:495,501
1833年:497,422
1834年:496,047
1835年:484,877
1836年:483,503
1837年:472,689
1838年:424,828
1839年:401,813
1840年:403,556
1841年:408,326
1842年:415,323
1843年:422,231
1844年:432,701
1845年:436,848
1846年:444,914
1847年:451,733
1848年:454,900
1849年:461,808
1850年:466,578
1851年:473,842
1852年:478,613
飢饉前には人口飽和状態のストレスからくる緩やかな人口減少、
飢饉後には多産による人口回復という傾向は、天明・天保の大飢饉共に同じ。

158 :
実のところ米沢藩も、天明、天保の大飢饉前後で人口の減少が起こっている。
ただ、餓死という記録は残っていない。
もっともお隣の会津藩も大飢饉の前後で酷くは人口が減っていないので、
藩の政策というより、大飢饉が起こった天候不順地域の辺境であったために、
被害が少なかったというのが真実な気がする。
(弘前藩、久保田藩も飢饉でひどい人口減少が起こっている)
人口データに関しては南部藩は18世紀後半以降、慢性的に改竄し続けたため、
何が本当の調査人口なのかもはや不明。
『盛岡タイムス』によると
>また、飢饉などに際して餓死者の数を記載するものがあり、
>ここに記録する人口との乖(かい)離を指摘する研究者もままあるが、
>史料の性質を無視した意見であると云えよう。
http://www.morioka-times.com/news/2006/0611/24/06112404.htm
とのことで、実際に南部藩では飢饉など発生せず、ずっと一定の人口を維持し続けた!
ということを堂々と主張している郷土史家もいるけど、そもそも最初に藩の公文書の人口と、
裏帳簿の南部藩の人口との乖離を論文にしたのは、明治時代の地元南部藩の旧武家の人だったりする。

159 :
ちなみに天明の大飢饉のときの弘前藩の人口変遷は
弘前藩は
1781年→1800年
246,822人→173,863人
天保の大飢饉のときの久保田藩の人口減少は
1833年→1843年
435,262人→322,999人
人口データが持続的に残っていないので、仙台藩の例に比べて正確な分析は無理だけど、
仙台藩、南部藩、弘前藩、久保田藩で、大飢饉のときの被害に大差はない。

160 :
喜多と綱元が異母姉弟
喜多と小十郎が異父姉弟…でいいんだっけ?

161 :
多分合ってる
昔読んだ本では全員の母が直子さんだったがw
喜多のあと長く子供が出来なくてやっと男子(綱元)産んだのに出てくってことは無いだろうし

162 :
政宗からの手紙が150通くらい残ってるんだよね
自筆だから大切にしてたのか、あの政宗だから何かあったときの証拠にするためか

163 :
age

164 :
戦乱や火災で焼失しなかったからじゃないかな。
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