2012年3月戦国時代190: 【世界の】鍋島直茂・勝茂スッドレ【葉隠】 (374)
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【世界の】鍋島直茂・勝茂スッドレ【葉隠】
- 1 :
- そうです。直茂野スレなのです。
- 2 :
- 455 :人間七七四年:2008/08/26(火) 20:23:57 ID:sl7TL7qg
本読んだら、鍋島直茂は怪力で敵兵300人は倒したらしい
- 3 :
- 三島が影響されちゃった葉隠カコイイ
- 4 :
- >>1
重複氏ね
とレスしようと思ったら鍋島スレは本当になかったのか
- 5 :
- この人やたらゲームだと能力高いけどそんなに凄いことやったの?
- 6 :
- ・今山の戦いで竜造寺を勝利に導く
・沖田畷後の竜造寺家を滅亡の淵から救う
・簒奪成功
後は何かあったの?
- 7 :
- >>6
鍋島直茂は怪力で、今まで300人の敵を倒したらしい。
- 8 :
- >>6
それでも充分すげーだろww
- 9 :
- 大軍はかえって油断して逆に破りやすいんじゃないかな。
- 10 :
- >>8
まぁそう言われるとそうだったな
大名家を乗っ取るには十分な功績だ
>>9
お前がやってみろwwwwwww
- 11 :
- 活躍と言えば朝鮮出兵にょろよ。
- 12 :
- >>11
興味あるんで是非教えてください。
立花とか島津はあちこちで見るけど鍋島はどういう活躍したんですか?
- 13 :
- >>12
焼き物
- 14 :
- >>12
>>11じゃないけど返答。
朝鮮侵略の時は首の代わりに鼻をそいで秀吉の下へ送り、その量で武功が決まっていた
数多くの大名家が鼻を送ったが最も多かったのは鍋島家だったという…
- 15 :
- 化け猫
- 16 :
- >>14
うーん。
そういうんじゃなくてもっと何々の戦いで誰の軍勢破ったとか大将したとか無いんですか?
- 17 :
- 島原の乱での功績は?
- 18 :
- >>16
華々しい活躍だけが武功ではない。
- 19 :
- >>18
正規の兵じゃないのも入ってるんじゃないのそれ。
民間人とかもさ。
そんなにずばぬけて敵兵すか捕らえるかすれば何かしら活躍話があるだろ。
- 20 :
- 直茂の鑓捌きはかなり早かったそうだ。
- 21 :
- 鍋島の非戦闘員も含めたすざまじい鼻削ぎについては地元ですら認められている。
http://sf01.asahi.com/saga/news.php?k_id=42000170710030001
- 22 :
- 30万の明軍を3000人で撃退したんじゃなかったっけ?
- 23 :
- ちゃんとした正規兵相手に活躍した武将
加藤清正、立花宗茂、島津義弘
住民虐鬼畜男
鍋島直茂
- 24 :
- 弟子「先生、を貴重だと思う男は多いです」
孔子「その通りだ」
弟子「しかし逆には女に気持ち悪がられます」
孔子「確かに」
弟子「おかしいじゃないですか、何故このような意識の違いが生まれるのですか」
孔子「それは一度も侵入を許していない砦は頼もしく、一度も侵入に成功しない兵士は頼りないからだ」
弟子「では30年も侵入を許していない砦は相当頼もしいのでしょうか?」
孔子「建てられてから30年も経つと、砦はどうなるかね?」
弟子「多くは朽ち果て、場合によってはうち捨てられます」
孔子「そのような砦を攻める者はいないということだ」
- 25 :
- オススメの本とかないですか?
史伝 鍋島直茂 以外で。
- 26 :
- >25
如何せん、鍋島はいうに及ばず龍造寺にも言えるが、
一般的に知名度が低いもんで、
北部九州以外でそれらについての本を探すのは殆ど不可能。
然るに小生佐賀まで買いに行った次第。
以下、購入できたものをご紹介奉る。
@「日峯さん 佐賀藩祖鍋島直茂の日日 田中耕作著 佐賀新聞者刊」
A「初期の鍋島佐賀藩ー藩祖直茂、初代勝茂、二代光茂のことどもー 田中耕作著 佐賀新聞社刊」
B「五州二島の太守 龍造寺隆信 川副博著 佐賀新聞社刊」
C「肥陽軍記 原田種眞著 勉誠社刊」
@は読み物的な感じで、直茂・龍造寺信周、同高房、円空尼等の話もあります。
Aは佐賀藩のシリーズもの、4冊(初期〜幕末)の内に1冊。直茂の野望みたいな書き方してます。
Bはやっぱ龍家無しには・・・ということで、南北朝争乱から沖田畷まで、細かく資料を提示しながら書いてます。肥前周辺の情勢、人名が豊富です。
Cは肥陽軍記の現代語訳
他に、九州の戦国争乱に関する資料としては、
吉永正春って人の本なんかがあると重宝します。大友寄りの本ですけど・・・。
以上!
- 27 :
- dキュー! 九州まで往けないんであきらめるわ。
ヨッシーの本は「筑後戦国史」しか持ってないな。
たまたまブクオフに有ったから買えたけど、うちの地域からすると浮いてた。
- 28 :
- ______ ______ __ __ __ _ _
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 ̄ ̄ ̄| | r― 、 / / \__| | | |  ̄ ̄ ̄| | |
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- 29 :
- 家宰として、小早川隆景とか直江兼続とかと同じような評価を秀吉にされていたとか。
器は小さいが、知恵と勇気は一級品だとか。・・・微妙に当てはまるような。
- 30 :
- >>29
天下の三陪臣の逸話ですね
秀吉曰わく、
「天下は大気、勇気、知恵、この三つさえ備わっていれば難なくとれる。
陪臣の中でこのうち二つまで身につけている者がいる。
小早川隆景、直江兼続、鍋島直茂の三人である。しかし、
隆景は大気と知恵は有るが勇気に欠ける。
兼続は大気と勇気は有るが知恵が足りない。
そして直茂は勇気と知恵は有るが大気が無い。
このうち一つでも欠けていれば天下はとれぬ。」
- 31 :
- 何気に陪臣の中では一番の勝ち組か…。
- 32 :
- 大気ってなんですか?
- 33 :
- >>32
大気=大志でおK
- 34 :
- >兼続は大気と勇気は有るが知恵が足りない。
凄いなぁ見事に予言してるわ。
- 35 :
- 確かに、兼続の部分はその通りかもな
良く言えば誇り高いような、悪く言えば鼻持ちならんような
兼続自身のエピソードと妙にリンクする逸話だな
- 36 :
- >そして直茂は勇気と知恵はあるが大気が無い
そうか?肥前を乗っ取った張本人なんだが…
- 37 :
- まあ仮に野心で肥前を乗っ取ったとしても、結局はそこで終わりじゃん直茂の場合は。
中央進出や地方統一に乗り出すこともなく所詮田舎のローカル止まり。
- 38 :
- 知恵が足りないが一番ムカつくな
- 39 :
- っていうか…
ここまで一回も話題に出てない勝茂カワイソス。。
- 40 :
- 最後まで龍造寺を立ててたから野心が無いのはわかる
- 41 :
- むしろ竜造寺の皆さんが面倒事直茂に押し付けて
自分らはそれなりに権力のある親類格として収まった
なんてことを言われたりもするけどね。
- 42 :
- 毛利に例えると政家が隆元で家信が隆景で家種が元春だな、鍋島は宍戸で十分
- 43 :
- 直茂の簒奪は詰め将棋のような見事さがあるな。
とはいえ、それゆえ竜造寺が延命したともみるべきかまもな。
精々10年程度だたけど。
- 44 :
- その詰め将棋の繊細さが大気がない部分なんだろうな
多少強引でも後に傷が残っても踏み込む度胸がないと天下はとれんと秀吉さんは言ったのだろう
別に誰もが天下を望む訳ではないが
- 45 :
- 龍造寺=鍋島の関係は特異というか奇妙とういうか・・・
何にしても、切っても切れない関係だから
天下盗りにはどちらの家も欠けて無いことが必要条件かなと思う
- 46 :
- というか、状況が悪すぎる。
直茂が実質的に龍造寺家を乗っ取ったのは沖田畷で隆信が戦死した後なんだが、
その後は島津に半従属化してるし、秀吉の九州征伐があったりで家の存続に手一杯だったのだろう。
天下取りに乗り出すタイミングなんか無かったのでは?
- 47 :
- 大友勢力に近接していたのが運の尽き
反大友を貫き勢力を拡大したのは見事だけど強い猜疑心と慢心が身を滅ぼした
沖田で有馬や家久を討ちとっていたとしても九州統一は無理
その前に肥後で手間取る、赤星あたりに
- 48 :
- >>30
天下の三陪臣は小早川隆景、直江兼続、堀直政だろ。
なんで勝手に鍋島を入れてんだよ。
- 49 :
- 龍造寺家を守った忠臣という評価と
龍造寺家をのっとった不忠者という評価と二つあって困るわ
- 50 :
- 龍造寺時代の鍋島氏は自前の城って持っていたの?
- 51 :
- 柳川城
- 52 :
- >>51
ありがとう
でも柳川城は天正九年まで蒲池氏の城だったと思う。
入城したのはその後だよね。
- 53 :
- >>48
龍造寺四天王みたいなもんだ。
直茂を入れる説も直政を入れる説もある。
- 54 :
- 小早川、直江との比較でなくて、陶晴賢との比較だとどう?
- 55 :
- 奥方とは仲良かったんじゃね
- 56 :
- お互い再婚だったはずだね。
- 57 :
- あ〜なんだ〜
- 58 :
- 立花宗茂との確執は溶けた?
- 59 :
- who are you? what is this man.....
- 60 :
- >>58
奴はそういう遺恨はあんまり引きずらないことで有名だから・・・
- 61 :
- 盛り上がらんね
- 62 :
- 鍋島も一緒に戦ってくれたら島津もあんな早く敗れなかったのに。
おまいはイタリアか
- 63 :
- 息子の勝茂はゲームでも低評価だな。
島原の乱で結構やったのにな・・・。
- 64 :
- 鍋島さんはアナウンサー。
http://www.whitemagic-inc.co.jp/talents/nabeshima/
- 65 :
- >>64
「ぼたもち会」には参加してるんだろうか
親父が出ているかな
- 66 :
- / `ヽ
/ ヽ
/ /\ |
| i| ノ \\\ ノ
i| ( i| (●) (●)ソ <じ〜ぶん〜らーしーい〜こーいをそぉお〜♪
) ( ソ ~" ) "~ |)
. ( ) ) __ /
__ ) ( (i\ /)__
`ー⊂`) ̄ ̄ノ ノ ノ \__フ ノノ  ̄`)つ
 ̄` ̄ ̄ ̄ヽ ヽノ ̄ ̄´ ̄
| ,,ノ ,ノ
/ ,/
/ー- -一<
<_ _,r-、\.
`\ー'"ヽ |'´
> ) |
/`ー/ ,イ
/ / |`ー/
三 ( < | /
`ー'' ノ <_
ー- '
- 67 :
- age
- 68 :
- 因果!
- 69 :
- 化け猫のタタリ
- 70 :
- 螺・螺・螺 螺旋
- 71 :
- 隆信と直茂は一応義兄弟の契りを結んでた
- 72 :
- 隆信はバスク、直茂はシロッコって感じだな。
- 73 :
- おい!鍋島津ッ!!お前最近調子にノリマンディーちゃうんか?!
- 74 :
- 意味がわからない。
- 75 :
- 幕末でも無名w
- 76 :
- この男、かなりエロイ・・・・・
相当なプレイしてっぞ なもし。
- 77 :
- 鍋島一族は陰険な奴が多い。
昭和の御代に皇太子と美智子妃のご成婚を強硬に反対し、美智子妃を虐めた松平信子も
鍋島一族。
- 78 :
- たしかに腹に一物持ってそうだよなw
- 79 :
- 九州の米所と云われた佐賀平野の主
- 80 :
-
やっぱこの男も宗茂みたいに大男なの?
- 81 :
- じつは戦国の裏番長
- 82 :
- ひょっとして嫌われてる?
- 83 :
- 主君死んで得した家臣。
@真田が成功した罠
- 84 :
- しかし、佐賀藩の実権を握ったのは龍造寺一門だったりする。
- 85 :
- >>84
諫早家や武雄家などは鍋島藩の政治の中枢にいるし、藩主家も
藩内の一門や龍造寺ファミリーに気を使わねばならず、直轄領が
少なくなってしまっていたというしな。
- 86 :
- ,j;;;;;j,. ---一、 ` ―--‐、_ l;;;;;;
{;;;;;;ゝ T辷iフ i f'辷jァ !i;;;;;、
ヾ;;;ハ ノ .::!lリ;;r゙
`Z;i 〈.,_..,. ノ;;;;;;;;>
,;ぇハ、 、_,.ー-、_',. ,f゙: Y;;f. そんな風に思っていた時期が
~''戈ヽ `二´ r'´:::. `! 俺にもありました
- 87 :
- 鍋島@化け猫騒動
- 88 :
- 石高の割には動員兵力がスゴいんだよな鍋島
関ヶ原の時の筑後攻めでも三万以上動員してるし
- 89 :
- 浪人かき集めたんじゃないの?
- 90 :
- 六十歳までの強制労働だよ。杖突ながら出かけた老人もいただろう
- 91 :
- >>88
実際の筑後攻めの動員兵力は、大体2万人ぐらいらしい
それでも1万石当たり550人ぐらい動員した計算になるが。
- 92 :
- 維新、明治で獅子奮迅の役割を果たす大隈を
輩出した気風を育んだのが一番の功績か
大隈自身は、それらを尊重しつつも、時代的には
葉隠れクソ食らえだったらしいけれど
- 93 :
- 大隈もだけど、江藤、大木、副島が今の日本の
金融、司法、教育、外交の基本を作っている。
つまり今の日本は佐賀が作っている。
- 94 :
- 大隈、江藤、大木、副島は鍋島に見切りをつけて脱藩し活躍した。
薩長土肥の肥はおまけで鍋島自体は維新に後向きだった。
- 95 :
- 鍋島直正の財政改革により佐賀藩は日本1の
軍事力をてにいれ、戊辰戦争では連戦連勝で
日本を統一している。
- 96 :
- どちらかというと技術的な方向に特化した藩だった気がする
政治や軍事の美味しいとこは薩長に持ってかれたような
- 97 :
- 戊辰戦争開始時、薩長の主力武器はミニェー銃なのに
対し佐賀藩は7連発スペンサー銃、アームストロング砲、
臼砲連隊という西洋の1流国並の装備だった。
戊辰戦争で薩長が敗走を繰り返したのに対し佐賀藩は無敗で
函館までいっている。
- 98 :
-
【世界の】鍋島直茂・勝茂スッドレ【葉隠】
鍋島直茂・勝茂についての結論は化け猫だった。
- 99 :
- >>62
鍋島が島津のために頑張ればというか、不利な状態で時間稼ぎしただけで
直茂は大阪で秀吉に会い、島津攻めに協力すると申し出ている
- 100 :
- 所詮、風見鶏的な男だった
- 101 :
- 風見鶏どころか一貫して反島津だろ
- 102 :
- 直茂と秀吉は昔からつながっているから
島津に味方することはないな。
- 103 :
- この親子、確執とか無かったんかな?
朝鮮での鼻削ぎやら原城の虐やら血は争えな
- 104 :
- 百姓が相手だと強い鍋島
- 105 :
- >>103
鼻削ぎは他の大名家もやっているよ。
あと、原城については
「皆しという事にして(ry」
という疑惑がある。
- 106 :
- 筑後攻めは、あわよくば領有化狙ってたよな鍋島さん
役目済ましで送る兵数じゃない
- 107 :
- 沖田畷で直茂が先鋒だったらねぇ、みすみすあんな惨敗はしなかったか?
- 108 :
- 直江の次は鍋島直茂が大河ドラマ化だな
- 109 :
- >>107
勝ったとしてもクマが当主のままじゃ内乱おきまくって結局自滅してたんじゃないだろうか・・・
- 110 :
- >龍造寺=鍋島の関係は特異というか奇妙とういうか・・・
鍵を握ってるのは隆信の母慶ァ尼ですな。
この人が凄いのは夫に先立たれ髪をおろして尼になったにも関わらず
龍造寺家の行く末を案じ鍋島家との絆を強めるために自ら家臣の鍋島清房
と再婚したことである。
吉岡妙林尼、立花ァ千代と並び称される戦国九州の三女傑の一人である
ことは間違いないでしょう。
- 111 :
- >吉岡妙林尼、立花ァ千代と並び称される戦国九州の三女傑の一人である
>ことは間違いないでしょう
慶ァ尼を妙林尼、ァ千代と一緒にするとは鍋島が考えそうなことだなw
- 112 :
-
イギリスは、薩摩の砲台は全部破壊し尽くしましたが、上陸しての白兵戦は行いませんでした。
中国(アヘン戦争)では、上陸したうえで相当に内陸部深くまで攻め入り、文章にするのもおぞましいほどに、かなり酷い振る舞いをしました。
(インド⇒中国の英国戦略は、陳舜臣さんの「阿片戦争」参照…で良かったと思います。記憶が正しければ…^^;)
しかし、日本では…薩摩「示現流」の武士を相手に白兵戦をするのは余程に恐ろしかったらしく、砲台を破壊するに留めて、あとは外交で解決する道をとりました。
(⇒この話は司馬遼太郎さん「竜馬がゆく」参照)
- 113 :
- >>110
立花ァ千代は、何か功績があるの?男勝りな性格なだけでは?
- 114 :
- 374 名前:日本@名無史さん 投稿日:2008/08/30(土) 21:38:01
>「葉隠」の説く武士道を考える
> -「葉隠」武士道の犬死理論の陥穽-
>著作と責任/佐藤弘弥
http://www.st.rim.or.jp/~success/hagakure_ye.html
佐藤弘弥なる視野狭窄な御仁による珍葉隠論。
珍文章のしょっぱなから、ヒステリックなー全開である。
「ヤンキースのマツイ」のたとえだとか、
そこらの中学2年生も感涙にむせびそうな、すばらしい思考のお綴りである。
この特大場外ホームラン級の知性が書いた小児的ファンタジーが
ネットで上位にひっかかり、目に★な方も多いだろうから、
とりあえずこのスレで駆除しておく。
377 名前:日本@名無史さん 投稿日:2008/08/30(土) 22:47:23
>>.374
佐藤弘弥(笑)
空き樽は音が高いっていうか、キジも鳴かずば打たれまいに・・・
閑古鳥が鳴くサヨ系じゃんじゃんで市民記者を
しょぼしょぼやってればええのに(笑)
【検索ワード】
葉隠、佐藤弘弥、馬鹿、思い込みの禿しい爺さん、三島由紀夫
武士道、山本常朝、田代陣基、新渡戸稲造
- 115 :
- >>58
宗茂と腐れ縁なのは龍造寺家晴の方だな。
関ヶ原での柳川攻めにも家晴は参加してるし。
- 116 :
- 直茂と因縁が深かったのは道雪の方かね
両方とも筑紫方面で長い間対陣していた訳だし
自分が若ければ鍋島なんかに負けはせんみたいな事言ってるし
- 117 :
- >>116
道雪の場合は秋月種実じゃね?
ただ、遺言の内容から道雪が家晴を恨んで死んだのは分かる。
- 118 :
- 鍋島家現当主
http://www.mukogawa-u.ac.jp/~seibiken/2-teirei-18.htm
- 119 :
- 先月半ばの話なんだが、とある店で戦国フィギア物色してたら身長260cm位の人に
「すいません、上にある鍋島直茂取ってもらっていいですか?」って話し掛けられた
ウドの大木という形容がよく似合う俺が、棚に手を伸ばしつつ「MGのF2ですね、甲冑ver.ですか?」と尋ねたら
「オフッwww直茂って言ったら家老しかないじゃないですかwwオフフwww
甲冑なんて忍びねぇwwwwオホフww忍びねぇよウフフwww」
とかテンション急上昇されて怖かったので、「佐賀藩よ」って言って逃げてきた
- 120 :
- 鍋島から本庄に移ったのに、改名しなかったのはなぜ?
- 121 :
- >>120
本貫が鍋島だからでしょ。
毛利が毛利庄から移っても毛利を名乗り続けたのと一緒。
- 122 :
- >>121
レスありがとうございます
鍋島氏は鍋島に居住する前は、長岡氏を称してたようですが
鍋島に下向した際には、長岡天神から分祀して館内で祀ってるのに改名しています。
また天神様を態々長岡から分祀してるのは、何か特別な理由があるのでしょうか?
鍋島家は神仏をとてもよく敬ってるように思えるのに、以上の事が不思議です。
- 123 :
- >>122
鍋島氏の出自が長岡氏ってのは詐称だよ。
本当は鍋島村の地侍上がりっぽい。
- 124 :
- >>123
有難うございます。
では直茂の祖父、鍋島清久の頃なら問題ないですかね
清久は妻として野田大隈守の娘を娶ってますが、三瀬の野田氏は
すでに三瀬氏に改名(1409年)してますので、この野田大隈守とは誰なのかという疑問が生じます。
三瀬に野田氏が居住して100年以上経過し、分家した形跡もなく改名してるのは、野田氏の本筋が現れたからではないのか?
もしこの野田大隈守の祖がそれに当たるなら、鍋島氏口伝による長岡から下向というのも否定出来ないのではないか
と考えてみたのですが如何でしょう
- 125 :
- >>124
憶測の域を出ないからねえ・・・。
- 126 :
- 保守
- 127 :
- >>106
関ヶ原の戦いが終わった後の出兵だから、領有化なんて無理。
それに、宗茂は柳川城に籠城していた訳で、
兵力はいくらあっても不足はない。
- 128 :
- 軍・政・人格的にチートキャラくさいんだけど大きな失敗とか人格疑うエピはないの?
- 129 :
- 未亡人(後の嫁)の家に夜這いに行って足を刺された
- 130 :
- 嫡子の勝茂を嫌っており、勝茂を江上家に養子に出した事がある。
直茂が溺愛したのは、勝茂の弟・忠茂だった。
- 131 :
- おお!良スレ☆
俺も彼の息子に産まれたかったわ。
お爺ちゃんは哀れ過ぎて合掌するしかない・・
- 132 :
- >>131
祖父はどういった理由で哀れだったの?
- 133 :
- 日和見屑大名
- 134 :
- >>101
島津が怖くて怖くてたまりませんでした
ワタシは島津にかないませんので騙して存命しましたヘタレ大名です WWW
- 135 :
- 慶ァ尼 立花ァ千代
- 136 :
- 慶ァ尼は酷すぎw
パパが可愛そう。
- 137 :
- 直茂の死因は梅毒だろ
- 138 :
- 天下三陪臣の逸話が葉隠ではなぜか直江、小早川、鍋島父になってる
不思議。堀涙目
- 139 :
- >>137どこでもらって来たん?
- 140 :
- 鍋島氏の出自を3パターン妄想してみたw
@坊門家末裔説
北部九州の各地で荒神信仰があるが、これは瀬戸内海沿岸地方でも多く見られ特に岡山県が最も盛んであったようである。
その岡山県笠岡市にある真鍋島という島には荒神社があるが、大納言の藤原氏が移り住んだという言い伝えがあるようだ。
この藤原氏に該当する者は見当たらないが、この頃断絶している坊門家がこれに当たらないだろうか?
また鍋島家は江戸時代、品川の海雲寺境内に千躰荒神を祀って事から荒神信仰を継承している事が分かる。
以上の事から、真鍋島の藤原氏が佐賀に下向して鍋島と称したと考えられないだろうか?(こじつけかなw)
A熱田社家長岡家説
14世紀半ば、中島郡鈴置郷の熱田社領を妙興寺に寄進した際の文書から藤原清重という大宮司を確認できるが
この寄進された熱田社領は現在の愛知県稲沢市祖父江町付近であり、地名には長岡や鍋島、野田といった所も確認できる。
また同時期の熱田社家には長岡家というのがあったらしいが、この長岡氏が清重末裔と共に下向した可能性はないだろうか?
B米原市長岡の息長氏末裔説
後鳥羽上皇の近臣だった藤原能茂(熱田大宮司篠田家)の子孫が後鳥羽院御影堂領の管理をしており
息長氏末裔と共に下向した説。
可能性として一番高いのはAの説になるが、長岡京に熱田社家の長岡氏が居住していた事を裏付ける物はないが、
西岡被官衆には野田氏がおり熱田の流れを汲む可能性があるが、いまだ未確認。(長岡京市史を物色中w)
※余談だけど、文永の役で少弐景資の配下に見える篠田氏、多々良浜の合戦で南朝方に見える星野氏
少弐氏の庶流と言われてる筑紫氏などが、官位や家紋の一致により熱田大宮司家の可能性が出てくるんだよなぁ
- 141 :
- >>138
葉隠自体が、裏付けのない証言集だから。
佐賀藩も葉隠は禁書扱いだし。
まあ、堀直政を天下の三陪臣と一人としている
「名将言行禄」も信憑性は低いけどな。
- 142 :
- >>141
もともとどの記録が一番古いからわからないが、明治時代の名将言行録まで
いかずとも、江戸時代の書物にも三陪臣の話は出てる。
18世紀末の米沢藩の記録では直江と小早川しか出てこないが、形はだいたい
同じ。
- 143 :
- 名将は江戸時代の逸話のまとめ本だからな
- 144 :
- >>141を読み直したが
>天下の三陪臣と一人としている
じゃなくて
>天下の三陪臣の一人としている
だった。打ち間違えた。
しかも「名将言行録」も間違えてるし・・・。
本当に申し訳ない。
- 145 :
- 天下の三パイ臣
- 146 :
- 佐嘉城下絵図展を開催中
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1424963.article.html
- 147 :
- 保守
- 148 :
- 保守
- 149 :
- 微古館所蔵の鍋島光茂、吉茂伝来の太刀はいずれも鎌倉時代中期、後期の山城国で
粟田口一派によって作られた物のようだけど、肥前の地侍が簡単に手に入れれる代物なのかなぁ
- 150 :
- 他大名等からの粗品じゃないの
話は変わるが>>146を見に行ったが拝観料300円とは
1時間以上もかけて行く価値もなかった
- 151 :
- 刀を粗品として扱う武士なんて、いるのかね
肥前の歴史って研究してる人っていないのか?
偶然ばかりで片付けられないだろw
- 152 :
- 波多氏や神代とか龍造寺に圧迫された後に秀吉時代に鍋島傘下になった国人が多すぎて肥前国の戦国は難しいね。
有馬晴純なんて大村、松浦、志岐、千々石に養子出したみたいだけど波多親も実子だって説もあるみたいだし。
- 153 :
- 粟田口一派と書いたが、来一派だったorz
ウィキによると国光作の太刀がもう一口、松原神社から行方不明になってる
勝茂伝の太刀は村正作だし筑前、筑後の刀鍛治が作った物が全くないのも、偶然だろうか
このほか、秀吉や家康に謁見した際に献上した刀もあったのだろうか?
- 154 :
- >>151
鍋島は主家筋から国を乗っ取ったし、ついてきた者の中には
土豪の人もいて取り入る為に刀ぐらい献上する人もいたろう。
徳川に系図譲った吉良みたいなもんだよ。
- 155 :
- 勿論系図なんてのは稀で、大体が茶器・刀・鎧だけど。
むしろ大大名と類される家の当主で明治維新まで続いた名家なら
昔の刀を持ってない家なんてないと思う。
- 156 :
- >>85
諫早領は表向きは1万2千石だけど実高は10万石と言われていて、
貧乏大名家というのは建て前で、諫早家は
本当は物凄く裕福だったらしい。
また、諫早家は前領主・西郷氏の政策を継承して善政を敷いていて、
移封当初は西郷氏再興の一揆を起こすなど
諫早家に反抗した領民も、諫早家を名君と慕う様になったそうな。
- 157 :
- >貧乏大名家というのは建て前で、
諫早家が大名って初耳だな
- 158 :
- まあ規模は大名と言っても差し支えないよな
隣に諫早と似たような規模の大村藩があるし
- 159 :
- >>157
諫早家始祖の龍造寺家晴は
秀吉に直接、旧西郷領の領地を安堵されている。
家晴の死後、二代当主の諫早直孝が
徳川幕府に大名の地位の返上を願い出て、認められた。
- 160 :
- バ隠の間違いだろ?県民性を見ても・・・・
- 161 :
- 直茂・勝茂スレで直茂・勝茂が不在とは凄いスレだ
- 162 :
- 公家の花山院家から後陽成天皇の曾孫が、鹿島藩の第2代藩主鍋島直朝に嫁いでるけど
この頃の鍋島家ってこんな家格高かったのかな?
それから300年程経た戦後まもなく(?)、花山院家の末裔の方が困窮してか鍋島家を
頼って来られ高校の古文の先生をしておられたが、直朝との間の子供は早世してるようで
血の繋がった親族が居ないにも関わらず鍋島氏を頼ったのは
背に腹は代えられなかったからだろうか?
時代が違えど直朝に嫁ぐ300年程前の鍋島家の氏素性を、当時の花山院家は知っていた
可能性もあるんじゃないか?
- 163 :
- 姫のことだな
- 164 :
- うん。
晩婚といっても鍋島家の出自が地侍だったらいくら大名家になろうとも
嫁がないんじゃないのか?
龍造寺(村田)家も、戦後困窮して家財や土地まで処分してるが、こちらは行政
すら援助してないからな
家主は町民の名前は呼び捨てだし、金の無心までしてたからな
隆信の頃から伝わる歴史的価値ある物もあったようだが、町民から嫌われてれば
行政も何も出来なかったのかな(昭和30年代後半かな)
また西銀座デパート(龍造寺の屋敷もこの辺にあったのかな?)で雑貨屋していた
某名家から嫁いだ方は上品で御綺麗な方だったようだが
良い話は聞かなかったらしいよ
- 165 :
- なるほど
- 166 :
- 最近鍋島関係の本読み始めたけどおもしろいね
大河でやってほしいわ
- 167 :
-
「我輩は鍋である」
- 168 :
- やっぱ、葉隠れの船酔いゲロまみれエピソードがかわいいよ
- 169 :
- 猫の恩返し
- 170 :
- >>153自己レス
神代家に伝わる刀も南北朝時代の山城国産の物があるな
神代、鍋島両家に伝わる刀いずれも山城国産と言うのは、これまた偶然なのでしょうかw
>>154
亀レスになりますが
肥前の土豪や地侍がどのようにして山城国産の刀を手に入れ、鍋島氏に献上したのでしょう?
また山城国産の刀を献上して取り立てられた家は、当然藩の着到帳に記載されてると思うが
どのような家が考えられるでしょうか?
肥前から遠く離れた山城国産の刀ばかり何振もあるのは、さすがに不自然じゃないのかな?
あと、産地の山城国って言うのも意味があると思うのだが
- 171 :
- そういや初代忠吉の師匠が山城の埋忠明寿だったな。
捕捉すると忠吉は元々は龍造寺家臣で、佐賀藩のお抱えになった人物。
日本刀の半可通としては、忠吉経由で山城刀が入って来たんでね? と推察。
神代家の方は高良神社の伝手か、鍋島家から拝領したか……か?
ついでに書くと……
筑前の刀は、新刀期の筑紫信国系は黒田家中で独占してたので他国にまず流出しないし、
古刀になると有名所の左文字は南朝に付いて玉砕したらしいから、少弐関係者の方で忌避したのかも知れん。(平戸左ってのもいたけど)
筑後の刀鍛冶については、江戸時代には有名所は少ないし、古刀では離散した左文字系の大石左がいるけど左文字の縁で同上。
他に三池典太こと光世も筑後だけど、平安時代のだから真作は余程の運とか縁が無い限り拝むことすら出来んだろう。
ヲタの悪い癖が出てしまったw
- 172 :
- >>164
地侍を蔑視している事は分かるが、何を主張したいのか分からん。
- 173 :
- 鍋島には一つも褒め称えることってないのかい
- 174 :
- 鈴木で全国統一したところ何故か伊勢守になってた鍋島直茂
- 175 :
- あれ、うちのご先祖?
- 176 :
- 寒いときは鍋物に限るな
- 177 :
- >>173
隆信が死んだ後のボロボロの龍造寺家を存続させたのは凄い。
直茂本人の外交能力が卓越したものがあるし、
隆信の親族で優秀な武将を部下として使いつつシンパに取り込んだり、
直茂には、武将というよりも
有能な経営者というイメージを持ってしまう。
- 178 :
- >>177
でもなー。
隆信を死に追いやったのは直茂だと云われているしなー。
わざと会社を倒産させてそのあと再建したから偉いとは云えないしねー。
- 179 :
- 島津方軍記には沖田畷の戦いで川上左京に隆信の居場所を教えたのは直茂だと書いてあるが
- 180 :
- 大友宗麟が薩摩を撃退しつつ島津義弘を寝返らせる
↓
島津義弘率いる大友軍が肥前を攻め落とす
↓
竜造寺隆信を処刑して鍋島直茂を佐賀城主に任命
↓
勢いに乗った大友宗麟は立花某に命じて伊予を攻め落とさせる
↓
島津からその隙を突かれて豊後を奪われ大友宗麟は伊予へ逃がれ大友(家)は島津に寝返る
↓
ほどなくして毛利軍により伊予陥落し大友宗麟は処刑され立花某と大友(盛)は毛利に寝返る
↓
鍋島直茂が肥前で後を継いで大名に
↓
鍋島軍が薩摩→豊後→安芸と立て続けに攻め取る
↓
豊後からは大友(家)が伊予を攻め取り毛利輝元を処刑し
↓
鍋島軍は軍事力増大中←今ココ
それにしても鍋島直茂の金集めの上手さは異常
- 181 :
- 有田焼…伊万里焼…
- 182 :
- うちの先祖が鍋島の家臣として朝鮮の役で戦死してるんだけど文禄か慶長かが不明
名前は分っているんでどこかに戦死者名簿がないかな
- 183 :
- >>179
> 島津方軍記には沖田畷の戦いで川上左京に隆信の居場所を教えたのは
直茂だと書いてあるが
それはウソくさい。
- 184 :
- >>164
> 晩婚といっても鍋島家の出自が地侍だったらいくら大名家になろうとも
> 嫁がないんじゃないのか?
いや、大名になら嫁いだでしょ。
- 185 :
- >>183
沖田畷の戦い(抜粋)
此レハ偖置此処ニ又川上左京久堅ハ、軍ハ今カ花ト心得テ、我手三百余騎ヲ引テ桑原ノ陣ヲ忍ヒ出テ、
寺山カ死シタル籏ヲ奪ヒ取リ、肥前ノ軍衆ニ様ヲ替へ、陣屋々々ヲコナタコナタニ廻リ玉ヒシカ、
鍋島ニハタト行合、「如何ニ申サン、鍋島殿。某ハ士ノ身ニテ未練ナカラモ今中務殿ノ横入ニ目暮ンテ、
我身隆信公ノ御陣所ヲハタト忘レ候ヒシカ、教エ玉へ、鍋島殿」ト泪ヲ流シテ申シケル。
鍋島モ、勢ヲ見レバ薩摩勢印シヲ見レバ、肥前方、暫シガ間ハアキレ果テテゾ御座シマス。
鍋島殿運ノ尽キニヤ、大敵ノ薩摩勢ヲ味方ト心得テ我君隆信公ハアナタニ見へシ。
小松原ノ本陣ニ三十六騎ヲ御側ニ召サレ、母衣カケ武者ニテ御坐シマス。急キ参レ」ト
教エケレバ川上殿ハ鍋島カ教ニ行キ頓テ小松原ニモナリヌレバ左京モ□□□ノ中ト心得テ装束改メ
「我レヲ誰トカ思フラン。薩摩ニ於テモ、島津義久カ郎等川上左京久堅トハ我事ナリ。
此度、赤星兄弟子供カ恨ミニ太刀ヲ請玉へ」ト大音揚ケテ申シケル。隆信聞シ召サレ、
偖テハ薩摩ニ於テ家アル士カ、又ハ家ナキ士ナラバ、目下廻り首ヲ討テ」ト申シケル。
左京聞シ召サレ「偖ハ中々思ヒモ依ラン仰カナ。士カ士ヲ討ツニ、目下目上ノ差別アルマシト、
去フヨリ早ク三尺六寸ヲ抜キ持テ隆信カ弓手ニ廻リ隆信カ首ヲ水モタマラス打チ落ス。
年ヲ申セバ五十七。御側ノ三十六騎ハ此ノ由ヲ見ルヨリ、主ヲ討レテハ叶フマジト切テ掛レバ、
左京ハ隆信ヲ討チタル勢ニテ爰ヲ戦度ト戦エバ三十六騎モ同シ枕ニ討チ伏スル頓テ隆信カ首ヲ
太刀ノ切リ先キニ貫キテ本丸陣ヲ心静カニ立出テ小松原行ケバ鍋島四洲添島彼ノ両大将ハ此ノ由ヲ
一目見ルヨリ、扨テハ中々、我敵何国マデ落チ行ク。逃スナト云フヨリ早ク切テ掛レバ、
川上ハ心得クリト云フ儘ニ士卒ニ下知シテ群カル敵ヲ迫ツマクリツ爰ヲ戦土卜戦へバ、
又向敵一千余騎ハヤスヤスト打取リ仕スマシタリト云フ儘ニ陣所ヲ差シテ引テ行ク。
頓テ隆信ノ首ヲ中務殿御覚ナサレ心得タリト云フ儘ニ、小高キ所ニ走セ登リ、大音揚ケテ名乗ル様、
「肥前ノ大将龍造寺隆信ヲ川上左京久堅カ討チ取リタリ」ト呼ハレケル。
- 186 :
- 佐賀藩鍋島家の居城で、大規模な堀を有する佐賀城の東堀が埋め立てによって姿を消してから、
80数年ぶりに復元するらしい。
本年度から3年計画で堀の一部(長さ約230m)を掘り返し、地中に眠る赤石の石積みを発掘。
この石積みを生かして護岸を整備し、往時の風情をよみがえらせる。
佐賀城の堀は、開発にさらされながらも北堀、西堀、南堀が逆コの字形に現存。
江戸期の絵図や文献によると、東堀は70メートルを超えたが、1939(昭和14)年までに埋め立てられたという。
- 187 :
- >>185
疎まれて隆信によって柳川へ飛ばされた信生は隆信を恨んでたからな。
そもそも信生主導で蒲池滅亡させて、筑後の国人たちの恨みを隆信1人に押し付けて人心を隆信から離反させたのも信生
- 188 :
- 死人に口なしだよな
直茂にとって都合の悪いのは隆信の仕業にして記録を残してるのがみえみえする
- 189 :
- >>1
世界のナベアツ
- 190 :
- まぁ隆信は祭り上げられたバカ殿で
実権を握って実務やってたのは宰相の直茂って感じでしょ
結局は権力闘争で直茂がじわじわと権力を奪っていく。
それに気づいた隆信が柳川へ左遷したもんだから島津に隆信をさせた。
- 191 :
- >>190
軍事的才能にかんしてのみ
隆信 > 直茂
という説があるようだが。どうなの?
- 192 :
- 隆信の討ち死に場所が最右翼の有馬陣の真ん前なんだよな。
島津は最左翼にいて前方の鍋島隊と戦わずに隆信のいる位置までやってきていて不信感がおきない方がおかしい。
- 193 :
- 島津は戦時諜報に長じているから不思議ではない。
朝鮮出兵でも戦時諜報で明軍の弱点を突いた戦いをしている。
- 194 :
- >>193
朝鮮での戦いだって島津マンセー捏造だし
- 195 :
- そもそもが出陣前の佐嘉城軍議で直茂は柳川城にいて筑後の押さえと決定してたのに、
軍議を無視して島原にいるのがおかしいだろ。
- 196 :
- 大友の家紋まで使ってる信生は実に怪しい。
今山でのピンポイント奇襲も大友家臣との内通がなせる技なんでは?
討ち死にした大友総大将からして経歴不明の変なやつだったし。
今山での小勝ちでも龍造寺の不利な状況はまったく変わらなかったし
その後の和睦で実質的に大友に降伏してる。
そのために毛利支援を龍造寺はやれなかった。
- 197 :
- 直茂って明らかに敵対国に内通してきてるよな。
大友側から情報をもらってたのが今山で
島津側に情報を与えたのが沖田畷だろうな。
秀吉には龍造寺の内情を率先して流して信頼を得て纂奪したんだろうね。
- 198 :
- 水戸黄門でもこんなエピがあったし
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm5688585
5:36から
- 199 :
- これいつだったか再放送でたまたま見たなあ、光茂だっけ?と老公が町で婆さんに叱られるのがおもしろかったw
- 200 :
- 義の武将として信生を大河ドラマでマンセーしてほしいな!
むちゃくちゃ荒れるだろうなw
- 201 :
- >>186
あのへん一部暗渠になってんぞ
多布施川だが
- 202 :
- 鍋島公が素敵なのは異論を挟むことなく認めるんだが、
葉隠という本は、山本さんという取り立てて優秀でもなかったKYな爺が
嫉妬僻みで有名人をこき下ろして、実践してもいない空論ひけらかして
自分は凄い覚悟なんだって自慢しているようにしか見えなくて苦手。
エピソード集としては面白いんだが、思想書としては……
このスレで言うことじゃないかもしれんが。
- 203 :
- 今山の戦い大友軍6万は誇張だと思うんだが、
またそれほどの軍を指揮する親貞の系図関係が不明なのも変な話。
まあ宗麟の弟とする人が多いようだが。
甥という記述はよく見るね。誰の子か知らんが。
今山合戦で龍造寺が勝利したというのは、ある程度事実ですが
大友が大敗したとか宗麟が逃げ帰ったとか言うのは捏造です。
佐賀藩以外の史料で検証してみましょう。
八月十三日付けで、今山合戦直前に肥前国人の横岳鎮貞・江上武種に知行充行状が発行されてる。
宛がわれたのは肥前の龍造寺氏の所領か勢力圏で、その後、今山合戦の後の十一月八日付けで
与える坪付が充行状通りに両名に発給されてる。
他に充行状は残ってないが、神代長良に、佐賀・小城両郡内で二千町を超える恩賞が与えられてる。
「九州治乱記」にも引用されてる書状に、八月二十日付で大友宗麟から田尻鑑種宛に
今山敗戦に接し、自ら肥前国境を流れる筑後川を越え、対岸の肥前千栗まで兵を進めると書いてある。
すなわち、今山合戦後も大友の本隊は依然として高良山に駐留しており、健在だった。
その後、十月二十三日付けで、大友宗麟から龍造寺隆信・鎮賢父子宛てに起請文が出てるが
それには隆信が大友の年寄へ起請文が提出して降伏の意を伝えてきたので、それを受け入れると書いてある。
その五日後、宗麟は隆信を赦免して、十一月まで戦後処理を行なって帰陣してる。
その後、元亀三年に隆信と筑紫広門・横岳鎮貞との間に所領紛争が起きるが、大友が三者間の調停に乗り出し
それが不備に終ると大友は「逆臣顕然」という理由で、隆信討伐の軍勢を、勢力圏内の諸勢力へ催促してる。
結局、隆信は天正五年に周辺勢力を仲介して、大友の裁定に従ってる。
また、天正六年には大友から龍造寺に対して、日向方面への出陣命令が出てる。
以上の事から、今山合戦で龍造寺は勝利したものの、局地戦での勝利に過ぎず
今山合戦を含む元亀元年の戦いは大友が勝利して、今までの通説であった
「今山合戦後に肥前から大友の勢力を駆逐した」というのは間違いであり
その後も大友氏は肥前に多大な影響力を及ぼしてる。
- 204 :
- >>203
> 今山合戦で龍造寺が勝利したというのは、ある程度事実ですが
> 大友が大敗したとか宗麟が逃げ帰ったとか言うのは捏造です。
龍造寺が持ちこたえたので、大友も攻めあぐねて撤退した。
ということだと思う。
- 205 :
- いや毛利の侵攻を迎撃するために
竜造寺を許してやっただけ。
- 206 :
- 龍造寺勢の活躍は認めるが鍋島には疑問
のちに鍋島が創作したんだろな
- 207 :
- >>205
それは1569年の多伏口合戦の時のことで、今山は毛利戦の後
- 208 :
- 葉隠れはなんで出回ったんだろう?
- 209 :
- >>202 なぜそう思うんですか?葉隠れについていろいろ知りたいんですけど。
- 210 :
- 葉隠れの賛否両論
- 211 :
- N鍋S島N直S茂って語感が良いよね
リズムが良い
- 212 :
- 「葉隠」は鍋島を皮肉った内容だよな
- 213 :
- 202>>山本さんは優秀じゃなかったの?なんでそう思う?ちなみに、葉隠れの筆者の田代さんは龍造寺嫡流の末裔だよ。
田代さんのご先祖の後、龍造寺隆信に龍造寺家を継がせたんじゃなかったかな〜?
- 214 :
- 葉隠に中二妄想炸裂してる記述があるよね。
匿名だけど妄想が数百年伝わるって…
- 215 :
-
鍋島氏の信仰の対象を調べてみると、直茂の祖父清久は徳善院に英彦山から分霊を勧請しております。
この祭神である天忍穗耳命は天火明命の長男(次男?)であります。
また西与賀町大字相応津にある日子神社の祭神も天忍穂尊命であり、第3代藩主綱茂が創建に係っています。
他にも直茂が建立した日子神社もあり、代々信仰の対象だった事が知れます。
徳善院北側にある八幡神社は鶴岡八幡からの勧請とありますが、鶴岡八幡の祭神にない
仲哀天皇が祭られています。
この祭神は、三瀬に1264年に下向したとされる野田周防守大江清秀が建立した杉神社も同じで
こちらは香椎宮から分霊を勧請している。
少し脱線するが八女の星野村を領した星野氏だが、戦国期、星野氏の重臣である樋口実長の墓には
「星野胤実十四代嫡孫藤原実長之墓」とある。 ※なぜか賜姓の調姓から藤原姓に改姓(復姓)している。
領内にある麻生神社は宇佐神宮から勧請したようだが、ここも仲哀天皇が祭ってあるようだ。
- 216 :
-
鍋島氏と1382年に下向したとされる野田周防守を調べてみた。
鍋島清久の妻は、野田大隅守の娘であるが、この野田周防守は大隅守の祖にあたる人物と思われるが
1264年に三瀬に下向した野田周防守とは、無関係という事で話を進めてみたいと思います。
まず現在の野田姓の分布を調べると、愛知県と北部九州に特に多く、中でも愛知県一宮市
には著しい偏りが見られる。
これは、信雅親王を守護し土着した野田氏の末裔と見られ、楠木氏の末裔と言う事に系図ではなっており
南北朝時代には堺市にある野田城に居住していたとされる。
楠木野田氏の祖とされる人物は野田清房(野田四郎)といい、三瀬に下向した野田清秀の子孫
「房儀」に繋がる可能性もある。
この野田城付近には百舌鳥という場所があるが、このあたりに勢力を誇った物集女(もずめ)氏は
「万代」「毛受」「毛須」「裳伏」「藻伏」とも書かれ、室町時代には西岡被官衆として将軍家の家臣
であったようだ。
読み方が違うが、柴田勝家に仕えた毛受(めんじゅ)氏、愛知県一宮市の毛受という小字名がついた場所
などもあることから、楠木野田氏との関係もうかがえるのではないか
この西岡被官衆には名前の通字に「泰」を使用する野田氏がいるが、熱田家系図にある
「泰重」に繋がる可能性がある。
さらにこの楠木野田氏の末裔と見られる家の家紋は、目結紋が多い事も分かっており、
鍋島氏と下向した野田氏も同じ紋を使用していたら同族の可能性が高いと思われる。
- 217 :
-
以上のような事や、鍋島家に伝わる刀が山城国産である事等を考えてみても、同氏の出自は
尾張氏男系の末裔もしくは南朝皇族の末裔の可能性があり、
土豪や地侍上がりの小豪族ではない事は明らかだと思う。
余談だが、多々良浜の戦いでは、尊氏家臣の富永氏が旗を使って敵を欺いたとされてる。
その功により尊氏より現在の新城市や設楽郡あたりに所領を得るが、ある時期より菅沼氏に代わる。
この菅沼氏は清和源氏土岐氏流とされるが、家紋は釘抜紋である。
土岐氏流の明智氏の家紋は、桔梗紋であるが、同じ土岐氏流の菅沼氏は釘抜紋(目結紋)。
また明智氏の祖は長山遠江守で、熱田大宮司家長山氏の可能性はないのだろうか
調姓の星野氏、黒木氏、河崎氏の家紋は亀甲四つ目結や裏桔梗を用いていたような記述もある。
また、坂本竜馬の家紋は組み合い角に桔梗紋であるが、それ以前は丸に田の字紋であったようだ。
以上、鍋島氏の出自を調べて判明した事と関係するであろう史実を書いてみた。
風呂敷を広げすぎてしまったがw
- 218 :
- >>217
> また明智氏の祖は長山遠江守で、熱田大宮司家長山氏の可能性はないのだろうか
それは考えたことがなかった。
- 219 :
- 保守
- 220 :
-
八女市大籠には、筑紫氏、中園氏、埜田(野田)氏の墓があるがいずれの家の戒名にも共通の字が書いてあるようだ。
また正八幡宮が近くにあり、祭神は応神天皇、神功皇后、武内宿禰と菅原道真を祭る。
この正八幡宮神社は、川崎三郎源定宗が川崎庄の宗廟として建立した神社を、筑紫広門が接収したとされる。
川崎氏は星野氏や黒木氏と同族である調姓のはずだが、ここでは源氏を称してる。
【筑紫氏と鍋島氏】
*筑紫氏
経稔ー経重ー尚重ー尚門ー秀門ー惟門ー広門(1556-1623)ー晴門
*鍋島氏
経秀ー経直ー女子ー清直ー清久ー清房ー直茂(1538-1618)ー勝茂
両家とも目結紋を用いていたので系図を並べてみたが、「経」の字を使ってる年代(世代)が
ほぼ同じ頃と言うのがわかる。
筑紫氏、鍋島氏、中園氏、野田氏、三瀬氏、星野氏、黒木氏、河崎氏、樋口氏 これらは祖を辿れば藤姓熱田大宮司家祖
藤原李範に行き着くはずである。
また八幡愚同訓は、この氏族に書かれたんじゃないかと思う。
- 221 :
- 書き忘れたが
この八女市大籠の埜田氏の祖は埜田仙長といい、この埜田家より分家した中薗家の
家紋は五瓜に剣唐花である。
このような事から年代的な裏付けは出来ないものの、有馬、大村両氏との繋がりが想像でき
この関係を利用し、鍋島氏が武器を調達し龍造寺家内での勢力を増す一因となったのかもしれない。
- 222 :
- 八女市に邪馬台国があったという説を唱えている人もいるね。
- 223 :
- そう云えば卑弥呼の里って看板が立ってたな
- 224 :
- 家系に女子を挟むのは斬新だな。
- 225 :
- そもそも鍋島の系図が嘘なのは万民が知ることだから
- 226 :
- でもまあ、肥前中世史研究の権威、佐賀大学三好不二雄名誉教授によると
肥前には平家の滅亡によって没落したと思われる武家の存在は認められないし、
元々小規模な名主的土豪が群立してた状態であって鎌倉時代になっても変動無し。そのまま個々に御家人に編入されただけだそうだ。
余程の確かな系図か下知状でも無いと村の地頭クラスの祖は箔をつける為のでっち上げだろう
- 227 :
- 鍋島氏が1382年に千葉氏を頼って鍋島村に下向するも僅か18年後には経直が少弐氏に従ったため本庄村に本居を移したが
それにしては初めて知行与えられたのが1530年の田手畷の戦いでの功績による本庄80町(龍造寺氏から)
有名な赤熊軍だがその格好はどう見ても百姓だったそうで、やはり名主(有力百姓、庄屋)と思うけどね
- 228 :
- それに1400年に本庄に本居を移したとなってるが菩提寺である本庄高伝寺は1552年に創建。
それまでは鍋島観音寺が鍋島家代々の菩提寺で152年も経ってやっと自領に菩提寺立てるのもおかしいだろう。
実際は鍋島村の名主で田手畷の戦いでの功績で初めて武家に昇格し本庄を領地にしたのでは
- 229 :
-
ttp://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=702
ここ読むと鍋嶋経秀の記載が、天台宗の寺院の過去帳に書かれてるようだけど
当時は農民でも天台宗の寺に埋葬できたのかな?
長岡経直が建立したとされるここ↓は、菩提寺ではなかったのですかね?
ttp://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=119
>赤熊軍だがその格好はどう見ても百姓だった
敵を欺くのが目的だから、何も問題ないと思うのですが
- 230 :
- >>229
当時は厳密に武士と百姓の区別が無かったからなあ、名主クラスならおかしくないでしょ。土豪とそれ程変わらないよ。
南北朝の戦乱期に名主的土豪クラスになってそれで通例の地元の鍋島を姓としたが知行認められない
(「御恩と奉公」関係になって無い)以上、正式な武士って訳にもいかず田手畷の戦いで初めて当てはまったとみるべき
>>長岡経直が建立したとされるここ↓は、菩提寺ではなかったのですかね?
鍋島家の菩提寺になったと記録がなければ違うでしょ
- 231 :
- >>228
この鍋島観音寺というのは観音様を祭っていたのですかね?
1324年に後醍醐天皇が長岡庄(現在の岐阜羽島のあたり)に北野天満宮を創建してるが
これの別当寺に祭る大須観音と関係ないかな?
>>140のAに書いた妙興寺に寄進された中島郡鈴置郷の熱田社領は、この長岡庄に建立した
北野天満宮と木曽川でしか隔てておらず、やはり熱田大宮司家との関係が考えられるのですが
上の「鍋島家の由来」を読んで、今まで長岡天満宮と思ってたので結びつかなかったが
北野天満宮という事だったので
- 232 :
- それは鍋島家の由来というより鍋島村の由来じゃないか?
- 233 :
- >>232
言葉足らずで、すいません。
229のURLに書かれてる事と、関連性ないかと思ったのです。
>>230
田手畷の戦いでの赤熊一団だった石井一党や野田氏は、鍋島氏の家臣という事になってますが
御恩も無しに鍋島氏に奉公していたのですかね?
石井氏は、菩提寺や家紋から桓武平氏の流れを汲む事が想像でき、また鍋島清久の室は官位(大隅守)
を称する娘であることから、この両家が武士か百姓の区別つかない鍋島氏に従ったとは考えにくいのですが…
- 234 :
- >>233
いやだから石井一党や野田氏も鍋島と同じw家紋なんて気に入ったものを使ってるだけだし、
当時の地方武士の官位は殆ど自称だよ。
- 235 :
- 名主的土豪とは有力百姓が武装した集団。当然、名子、被官も武装=武士になる。
鍋島町には地名に鍋島伊勢入道(佐々木伊勢守藤原経秀)の館跡と思われる横馬場、立町、北少路、南少路などが残ってるからな。
それにね。本家の苗字名乗れるのは嫡流のみで庶子は知行地を苗字にするから、
鍋島家臣の野田氏が熱田大宮司の一族野田氏と関連するわけないでしょ。
苗字、家紋、官位、氏神とかそういった物で地方武家の出自を調べようというのがそもそも間違い。
それが適用出来るのは名門の本家筋のみだよ
- 236 :
- >>208
葉隠は元々は怪文書だからね。
佐賀藩は鍋島家が龍造寺家を乗っ取ったと言われるが、
実際は諫早・多久・武雄鍋島・須古鍋島の龍造寺四家が
藩の実権を握っていて、藩政を運営していた。
鍋島藩といいながら、実は藩は龍造寺が仕切ってた訳で、
そういう体制に反感を持っていた藩士も結構いたんじゃない?
- 237 :
- >>185
やっぱ武将としては総合力で
信生>>>家久だよな〜。
- 238 :
- 島原合戦では三万五千の大群を率い、抜け駆け。のち閉門。永蟄居
- 239 :
- 島原大変 肥後迷惑
寛政4年(1792年)4月1日、雲仙岳媚山が崩壊し、津波が発生した。
その津波により、肥前、肥後両国で1万5千人の人命が失われた。
- 240 :
- >>234
肥前では室町末期から百姓が苗字名乗ったり、家紋を使用したり、官位を称していたのかも知れないけど
鹿児島には紀姓伊集院氏族で家紋は四つ目結紋の野田氏。
熊本には佐々木氏族で家紋は四つ目菱紋の野田氏。(都道府県別姓氏家紋大事典より)
随分と偶然が重なるんだなw
- 241 :
- >>240
佐々木氏を名乗る以上、家紋もあわせるだろw辻褄合わせしないといけないからな。家紋使用に制限は無い。
鹿児島には野田町があるから伊集院氏野田は知行地が野田だったからじゃないのか?
- 242 :
- ちなみに鍋島家も佐々木氏出と称してるから元の家紋は四つ目結
- 243 :
- >>242
鍋島の元の家紋が四つ目結とは初耳だな
鍋島の四つ目結は少弐との偽系図からだろ
- 244 :
- >>243
他人の初耳なんて知ったこっちゃ無いよw。佐々木氏の代表紋が四つ目結。
ただ、婚姻や流行りだったとかでも家紋は使うから家紋=出自とは考えない方がいい
- 245 :
- >>240鹿児島県出水市野田町、熊本県玉名郡和水町野田とかあるから、
まず両野田家の最初の苗字と本貫地調べてみないと解らんね。手元に資料無いからよろしくな。
本家の苗字名乗れるのは嫡流のみで庶子は知行地を苗字にするから、当初から野田姓なら佐賀の野田家と
何かしら関連あるんじゃね?知行地を苗字にしたなら只の偶然か
- 246 :
- >>245
有難う御座います。
鍋島氏が下向したとされる1382年と言えば、大和町に曹洞宗の玉林寺が千葉氏家臣の鎰尼信濃守季高によって
建立され、大隅から来た藤原氏の無着禅師が開山している。
鍋島氏も千葉氏を頼ったとされてるので、もしかすると関係してくるのかもしれませんね。
自分は関東在住なので郷土関係の資料は国会図書館行かなければわからないし…
ちなみに
佐賀の四つ目結紋の野田氏は清源族となっている(都道府県別姓氏家紋大事典より)
- 247 :
- ここからが本題なのだが
三 蒙古襲来絵詞の作製地
ttp://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/sato/index.htm
平治物語絵詞を見ることができた人は限られているらしいが、熱田大宮司家の人間が絵師を伴ってこれを閲覧し
蒙古襲来絵詞に加筆し利用した可能性はないだろうか?
梅松論によると多々良浜の戦いで熱田大宮司家野田氏が、足利家の鎧や小袖を着て参戦した事が書かれており
旗を用いて敵(南朝方)を欺いたとされる。
この旗は熱田大宮司家が持っていた錦の御旗であり(目結紋の可能性は?)、結果多くの南朝方の同志を失った為
その後出自を偽らざる得なかったのではないか?
この辺が、鍋島氏が出自を偽った原因と考えるんだけど…
- 248 :
- 【蒙古襲来絵詞と熱田大宮司家との関係】
蒙古襲来絵詞が伝わったとされる名和氏の家紋は帆かけ舟であるが
羽継原合戦記による熱田大宮司族野田家の家紋と同じである。
この熱田大宮司家祖は行氏と考えられるが、同年代の名和氏の名前には「行」の通字
が使われてる事から、何らかの関係が考えられる。
また竹崎季長が元寇後に賜った海東郷は、海東氏(大江氏)の所領と思われるが、海東氏は熱田宮司家の
養子となっている。
- 249 :
- まだやってんの?
- 250 :
- >>224
> 家系に女子を挟むのは斬新だな。
野球の継投でも途中で左腕をはさむ。気にするな。
- 251 :
- なるほどね
- 252 :
- >>251
納得しちゃダメだよww
- 253 :
- 沖田畷で直茂が裏切りとかよく見るけど、どういう状況だったん?
なんで裏切ったのにその後藩の中心人物として動いているのさ?
- 254 :
- 鍋島が外交を通じて豊臣政権に取り入り
秀吉も鍋島を利用して肥前での朝鮮出兵を円滑に進めたいこともあり
中央政権との交渉に鍋島が無くては立ち行かない空気を作ることで
龍造寺諸家もやむなく味方になったところで龍造寺本家から政権を纂奪したからだろ。
- 255 :
- Wikipediaの鍋島直茂の項目も大概妄想だらけだよね
なんで島津の軍が村中城を包囲してんだよw
- 256 :
- 隆信の首持って10人ばかりで包囲したので、鍋島は城内で震えてたらしい。
- 257 :
- ワロタ
- 258 :
- 直茂の初陣は隆信の村中城復帰戦
勝茂の初陣は巨済島沖の海戦
どちらもなかなか派手な戦での初陣
- 259 :
- 村中城奪還後の蓮池城攻めが初陣だよね。16歳
- 260 :
- >>255
3000の兵で城を包囲は当時の戦の規模なら割と普通にあると思うけど?
村中城なんて武装化した屋敷の程度だったろうし
- 261 :
- 隆信が死んで潰走していく龍造寺軍に追撃もかけられない3000の兵が
どうやって島原から佐賀まで行くのか
方法があるならお聞かせ願いたいんだけど
- 262 :
- >>261
なぜ行けないと思うのかが解らないのだが?本気で数人程度で首持参して城明け渡せと交渉すると考えるほうが無理がある
- 263 :
- まあそもそも信生の島津への内通が原因で隆信が討ち死にしてるし
隆信の首を持ってきたところで取引が成立しないのは島津軍だってわかってるはずだし
その佐賀までやってきて包囲エピソードは成立しないわな。
- 264 :
- >>262
城を明け渡せってエピソードなのあれ?
首の受け渡しの話だと思ってたんだけど
首の受け渡しだけなら島原から80キロ近く離れてる佐賀まで行く必要は全くないし
手勢を引き連れての行軍なら龍造寺の本拠地ド真ん中まで3000が素通り出来るものなのか?
- 265 :
- >>264
おいおい、、、二つは別の話だと思ってたわけ?
沖田畷の戦いで龍造寺傘下の肥前豪族は軒並み討ち取られてる。村中城までは守る将無き空き家同然
- 266 :
- つかフロイスの記録には
隆信の首を国主に見せるべく
薩摩に運ばれたとしか書かれてないし
- 267 :
- >>265
討死したのは主に隆信の馬廻り衆、とても肥前の豪族軒並みとは言える規模じゃない
江上・後藤の軍勢は大した損害も無く佐賀に帰還していて、しかも後藤の根拠地は島原‐佐賀の中間にある
それと沖田畷合戦の後、諫早の西郷が逆襲するという風聞がたち島津と有馬は島原の防備を固めたとフロイスの書状や上井覚兼日記にある
ついでにフロイスの日本史だと隆信の首はしばらく島原の城に留め置かれた後、薩摩に送られた事になってる
- 268 :
- 薩摩に送られた隆信の首を赤星統家の嫁が「憎っき、子供の仇!」と思いきり蹴飛ばしたそうな。
サッカーボールじゃあるましいし。
- 269 :
- 6キロ以上あるものをサッカーボールみたいに蹴ったら普通は青あざ出来きちゃうよね
- 270 :
- 平将門伝説レベルの話を作っておけばヨカタ
- 271 :
- まぁ鍋島氏による捏造は否定できないだろ。
- 272 :
- 鍋島領内に大きな領地と権威を持つ龍造寺一族と
その龍造寺に臣従していた家臣団がそのまま残っている中で
鍋島氏が仮に悪い逸話を捏造しようとしても
真実を知ってる人間とその身内が居る限りは無理だと思うんだがね
- 273 :
- >>272
鍋島に不満があろうが
叛旗を翻したら
たちまち鍋島藩ごとみんな揃って改易されるだけだし
鍋島に反抗なんてできないだろ・・・
- 274 :
- そんな鍋島VS龍造寺一族みたいなバチバチ関係だったん?
- 275 :
- >>274
そうでもない。
鍋島は竜造寺一族のメシを保障して、プライドにも配慮してガス抜きをしていたから。
- 276 :
- 政家の子孫が騙されて家督を奪われたって
言ってんだから鍋島が簒奪したのは明白じゃん。
- 277 :
- >>276
その時、竜造寺一族の大半は鍋島を支持した
(少なくても反旗をひるがえすことはなかった)。
- 278 :
- 龍造寺一門の中でも鍋島直茂に批判的なのって本当にごく一部(っていうか1人?)だもんねー
たとえ本心では直茂に不満があったとしても、それを言えなくさせたのは
背景(豊臣政権や徳川幕府)でもあろうし、龍造寺家家臣としての実績でもあろうし
何より家臣団全体の信頼じゃなかったかと思う。
家臣団の中に不満があれば龍造寺回帰の動きがあってもおかしくないからね。
肥前の熊さんは一代の英雄であったとは思うけど
人心掌握という点ではちょっと問題ある人ではあるよな
- 279 :
- そこで隆信の弟の家系からすると
隆信の息子の家系に・・・
いまさら大甥如きに
デカイ顔されたくない大叔父たちの
対抗意識もうまく利用したんだな。
- 280 :
- >>267
隆信の首は薩摩の何処に弔われてるの?まさかそのまま捨てた訳でもないだろう
- 281 :
- >龍造寺一門の中でも鍋島直茂に批判的なのって本当にごく一部(っていうか1人?)だもんねー
朝鮮の役で死んでくれたのでホッとしたろうな。
- 282 :
- >>280
鍋島閑叟が肥後の首塚から高伝寺に改葬したって事になってるけど
隆信の首に関しては胡散臭い話が多すぎてどれが真実なのかわからんね
- 283 :
- 全国にたくさんある首塚って実際に首が埋まってた実績ってあるんかねぇ。
墓からして各地にたくさんある人物や
中国の人が逃げてきた日本で死んだ伝説の徐福や楊貴妃の墓まであるしね。
- 284 :
- 鍋島の軍は赤熊兵っていうぐらいだから
みんな幕末の官軍みたいな格好してたんだよね?
- 285 :
- 勝茂はなんで甥っ子の正茂を追い出したんだろう?
独自に幕府と繋がりを持っていたのを警戒したのかな?
- 286 :
- 勝茂が鬼嫁を怖かっただけだろ
- 287 :
- 鍋島三生ってどんな功績があったの?
- 288 :
- 文系的な智恵者
理系な成富に出来ない事をしてた
- 289 :
- >>288
> 文系的な智恵者
たとえがよくわからんww
- 290 :
- ぶちゃっけ聞きたいんだけど直茂どの程度の能力持ちだと思う?
出世できたのは竜造寺の血縁だったからだし主な功績は
今山 お家維持 主家乗っ取りだけど、主家乗っ取りに関しては元々家老
だったわけだし実質上の当主が討死してるわけでそこまで難しい話とは
言い難い。今山は確かに凄いけど大友にとっては所詮局地戦に過ぎない
わけで後は御家維持をどう評価するかだよなあ。
- 291 :
- まぁ関ヶ原で西軍に参加しながら本領安堵した手腕は高く評価されるんじゃないの
- 292 :
- 総合的に言えば、バランスの取れたいい武将、っていうイメージだが
特に何の能力に秀でてたかといえば、やはり知略と人望ではなかろうか
知略は戦での功績でも分かるし、やはり>>291の言うところの評価は大きい
人望は、体裁は主家乗っ取りであるのに、竜家一族含め家臣一同が割れることなく
従ったところに認められる
おそらく隆信の後半時代からすでに家臣の信頼は直茂にあったんではないかな
- 293 :
- 云万人も動員して本拠地を一年近く完全包囲しておいて大量に犠牲者を出し撤退
所詮局地戦って負け惜しみ以外の何ものでもないだろ
厳密に局地戦ではない戦争なんて国家総力戦以外無いんだから
- 294 :
- まあ佐賀一帯に対して行われた『大局的』な包囲戦に対して
今山で行われた戦闘を指して『局地戦』と呼ぶのなら分からないでもない
今山の戦いという言い方自体が当時一部将でしかない直茂視点のものだから
- 295 :
- 徴古館で直茂勝茂展やるね
- 296 :
- 佐賀藩:栄城=佐賀西
小城藩:黄城=小城
鹿島藩:鹿城=鹿島
唐津藩:鶴城=唐津東
佐賀の高校の別称は江戸時代当地の呼び名だよね
蓮池城は跡地が学校になってないから知られてないだけで蓮城とか芙城とか呼んでたのかな
- 297 :
- 信生の才覚は明らかに島津に内通して隆信をさせ自軍を大敗させたのに
龍造寺一族が文句も言えずに従わざる負えない程の権臣になって纂奪に成功してること。
今山で勝ったところで何にも情勢は好転してないじゃん。
そもそも包囲の大友総大将自体が何者だか不明なやつだし。
- 298 :
- だががまた妄想フルスロットルで電波飛ばしてんな
井沢の小説を根拠に歴史を騙るな
- 299 :
- http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251381553/236
鍋島の内通は島津側の記述にある。
- 300 :
- それ>>185にも全く同じものコピぺしてるけど出典なに?
- 301 :
- ちょろっとググったら出典と思しきページ発見
http://edu-project.com/akahosi.htm
赤星の琵琶語りが原典じゃないか
赤星がえらく活躍してるから何かおかしいと
- 302 :
- そもそも>>301の内容は島津方軍記からのパクりだろ。
- 303 :
- 島津方軍記というのは具体的に何を指してんのか分からない
それに「そもそも」と言える根拠は何よ?
ちゃんと出典挙げれば簡単に済む話だろ
- 304 :
- つーか
鍋島は柳川方面防衛の任があったはずなのに
いつの間にか戦場にいるし
しかも島津は何で鍋島軍の近くを素通りして
長駆確実に隆信の居場所に怪しまれずに近付いて隆信をせたの?
鍋島が案内したから怪しまれずに近付けたとしか思えないんだが。
そこら辺りの回答を頼むわ。
- 305 :
- 沖田畷の布陣状況とかわかるサイト無い?
- 306 :
- 鍋島が柳川攻めに関わってんのに
なぜか隆信だけが道義を弁えない恩知らずと罵られ人心が離れていくとか
明らかに鍋島が隆信を罠に落として裏切って纂奪してるのは明白だよな。
- 307 :
- 明らかに明白・・・
- 308 :
- 鍋島いいね
- 309 :
- 柳川の件でそんなに人心離れたのかね
- 310 :
- 思いっきり離れただろ。
もし人心が離れてなければ
佐賀県はもっと広かったかもなw
- 311 :
- どうも柳川蒲池攻めで竜造寺の過失を問うのは結果論な印象がある
恩がある蒲池を討ったから罰が当たったんだという話で終わらせちゃ駄目な問題だろう
- 312 :
- 龍造寺から実権を盗んだ鍋島が
自らの正当性を出すために
人心が隆信から離れたストーリーを作って
纂奪を人心の話に転化しただけだろ
- 313 :
- なんかどうしてもこの話題になると鍋島=悪の簒奪者って仕立て上げたい人が
いるんだけど(たぶん全部同一人物なんだろうけど)
前後の状況を研究すれば研究するほど龍造寺隆信という人物の人間性から
当然の帰結っていう結論しか出ないんだよねw
簒奪でも下克上でも委譲でもなんでもいいけど
結果的に肥前にとっては最高の選択だったのは間違いないわけで。
そしてそれをほとんどの「龍造寺一族」もまた納得していたとしか思えないわけで。
ついでにいえば「龍造寺こそ正統な肥前の支配者」だと最後まで思っていた龍造寺旧臣は
たぶん鍋島直茂本人だったわけで・・・w
- 314 :
- 高房は不満があったようだけど、実の息子その3の家信はそうでもなさそうだよね
- 315 :
- 鍋島が外交を通じて豊臣政権に取り入り
秀吉も鍋島を利用して肥前での朝鮮出兵を円滑に進めたいこともあり
中央政権との交渉に鍋島が無くては立ち行かない空気を作ることで
龍造寺諸家もやむなく味方になったところで龍造寺本家から政権を纂奪したからだろ。
吉川広家や直江兼続や佐竹義久や北信愛や深水長智や伊集院忠棟らと違って
隆信を罠にはめては敗死させ、柳川攻略を推奨した鍋島の罪を隆信の汚名に押し付けたことで
主家が衰えたのを良いことに簒奪したのが鍋島直茂
高房成人後藩政を高房に戻す旨の請文を直茂はガン無視した。
5歳で家督を相続した龍造寺高房の死に様が凄くて、江戸屋敷で妻をし、自分も毒を飲んで自害しようとしたがなかなかず、
毒の回りを早くするため馬に乗って町中を走り回って死んで鍋島への遺恨を表した。
高房の死後わずか1ヶ月後には、肥前に隠居していた父政家も変死。
そして高房の息子の伯庵は龍造寺の正統な後継者だと主張したため佐賀藩は軟禁する。
幕府も鍋島氏の藩政が安定化しつつあったため、この問題に関しては真剣に取り合うことがなかった。
化け猫伝説も鍋島を暗に非難する目的から作られた。
- 316 :
- 庶子が僧籍にあったことを拡大解釈で軟禁扱い
伯庵が誰に相談もせず還俗して幕府にをを起こした事は無視
自体も水ヶ江家当主の証言で伯庵に理無しと早々に証明された話
化け猫騒動の原作である瀬川如皐の花野嵯峨猫魑稿は1853年の創作
- 317 :
- まぁ当時の真実なんて誰にも分からんわな
しかしじゃあ龍造寺隆信がもし生き残ってその後もお館として
君臨しつづけたらどうなったかって想像してみると
龍造寺家は完全に消え、江戸期の肥前に大領主は存在しなかったかもな
直茂が隆信を罠に嵌めて云々というのはまさに好き嫌いのみ(笑)で
見解が分かれる部分なので議論するつもりもないが、
当時の武将たちは少なくとも長年の主家・龍造寺よりも
それに取って代わった鍋島を支持した
龍造寺の求心力はその程度だったってことであり
晩年の隆信が著しく人望を失っていたのは間違いないと見る
- 318 :
- >>316
あんまりいじめちゃいけないw
>>315の文章に突っ込もうと思ったら上段にも下段にもツッコミどころはいくらでもあるw
- 319 :
- なんか夜中に自演までやって必死過ぎてワロタw
やっぱりムキになって鍋島擁護するのは子孫かなんかなんじゃないのか?
しかも白庵って、本当なら小領でも与えるのが筋なのに僧籍にしやがって鍋島は不義だって怒ってんじゃん。
鍋島が危険人物認定し僧籍を強制して軟禁したんだろうが。
誰にも相談しないなんてことはない。
龍造寺主膳正や朝山将監らに相談してるし。
水ヶ江って形骸化してんだろ。
まあ龍造寺長信→多久安順を指してんだろうが。
そもそも水ヶ江を継いでいた龍造寺鑑兼→諫早家晴は鍋島と仲が良くて鍋島と共に柳川統治にも絡んでいて
隆信が沖田畷に出陣する時に鍋島と一緒に柳川城で筑後肥後の留守を守れと命じられている。
その家晴は隆信が暗した蒲池旧臣まで厚遇してる。
あからさまに水ヶ江関係者は鍋島と同調して隆信謀に関与してるだろ。
政家が隠居した際に幼少の長法師の代わりに鍋島に運営は任せたが
家督は長法師=高房に譲ってる。
さらに直茂→高房→勝茂の順で家督を譲るはずだったが高房が死んだから勝茂とか意味不明な弁解をしてるし。
この白庵と安順が幕府評定所で対決したってことになっているが
そもそも安順だって今更、白庵なんてガキが自分らの主上になるなんて容認できるわけもない。
さらに多久・諫早・後藤の肥前藩三国老がみんなそれに同意した証拠もない。
幕府の意向を安順が汲んだだけのただのデキレースとしか思えない。
- 320 :
- 慈円て
とりゃーず島津側の軍記ってなんなのかググっても2ちゃんのスレしかヒットしないけんが
どういう史料なのか教えてくれん?
- 321 :
- 中央にいた隆信の戦死場所は海岸線から
わすが30メートルと左翼に偏った場所。
隆信は薩摩の川上を味方だと誤認して斬られている。
右翼の鍋島や神代らが川上らを自軍だと偽って
右翼から中央を経て左翼にいた隆信の元に案内しなければ不可能な離れ技を川上はやっている。
- 322 :
- 単に右翼よりも中央が突出してたからはないん?それ
- 323 :
- 龍造寺中軍が突出したって描写は特に無いと思う
宣教師の文書とかで分かるのは龍造寺勢が冗談みたいな量の砲を撃ち込んだから
連合軍が後退しながら弓矢で応戦した事ぐらい
- 324 :
- 中央は赤星が陣で銃撃していて前進が停滞してる一方で
森岳から出陣した有馬軍の鋭鋒に左翼の竜造寺軍が圧倒されていたから
隆信が督戦に左翼へ進出してきたんだろ。
右翼の鍋島は傍観しててて軍事的連携も支援もしてないから。
>>319
隆信の祖父の弟の子である鑑兼の家系は水ヶ江の家督を巡って
隆信と対立していた家系で立場が隆信兄弟や子と違うからな。
家晴は水ヶ江の領地を奪われていたから(隆信の弟の長信に与えられていた)
豊臣政権によって政家が肥前安堵を受けた時に領地が無くなった。
下関で秀吉と交渉して諫早を西郷から奪って領地にして良いと言われてるが
ここでも豊臣窓口の鍋島に恩を受けているはずで、家晴と鍋島の絆は固いよな。
多久安順なんて鍋島の次女の千鶴を正室にして癒着してるし。
親類同格4氏といいながらも一番地位が低かったとされる信周なんて
どんな実績があったかも不明で無能だろ。
高房に続いて変死した政家の弟の後藤家信に至っては幕府評定所に呼ばれさえしてないから不都合なことがあったんだろ。
- 325 :
- 不勉強な俺にはよくわからんから風の絵で解説してくれ
- 326 :
- 赤星が連れて来た手勢は50人だったろ
それで大鉄砲持ってる隆信の馬廻りを食い止めるって凄すぎるなww
- 327 :
- この時の赤星は息子と娘を龍造寺にされたからむちゃくちゃ敵愾心あったからなあ。
全身真っ赤の装束に縄襷で目が血走ってたらしいからな。
田畑にある細い畦道を進軍する龍造寺中央隊は左右展開しての銃砲支援も難しいんじゃないか?
甲冑姿で田んぼに足を踏み入れるのはヤバいしな。
- 328 :
- 553 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/12/21(火) 00:21:56 ID:5P2DmDpx [1/2]
>>534
一斉射撃についてルイス・フロイスが1584年に薩摩で見聞した記録がある。
直訳された文章の抜粋で判りにくいが、この事例では槍や弓矢の運用についても記録しているので、戦国時代の実戦を知ることができる。
ドン・プロタジョは山上に留る能はず、また旧位置に引返すことも困難であるを見て徐々下山し、敵の銃撃の大部分を受くべき所に到った。
この間に隆信の軍は非常な勢で月の形になって進撃し、中務とドン・プロタジョの陣を包囲し、第一に銃五百挺を一斎発射した。
わが軍はほとんど皆地上に伏してこれを避け、銃撃が終った後槍隊の突撃せんことを期待したが実現した。
日本人は我等の如く楯を用ひない故ドン・プロタジョとその兄弟ドン・エステバンは銃撃に面して非常な危険を冒してゐた。
備前守殿といふ武士が、彼らの前に幅二パルモ〔約半メートル〕高さは人の腰まで達する鉄の戸を置いた。
これによって彼等は辛うじて銃丸を避けることができた。
敵は激しく銃を発射し、暫くの間弾丸は雨の降るやうであったが、ドン・プロタジョとその兄弟は長く腰を屈めてゐることができず、立って体を露出した時、大きな弾丸が激しくドン・エステバンの兜に当り、彼は地上に倒れた。
ドン・プロタジョは直に救助に駈けつけたが、その兄弟は死したやうであった。
併し再び見た時少しく動き始めたので、手をもって抱き上げたところ、不思議にも傷なく意識を回復した。彼等両人は二回敵銃隊の中に突入して死せんとしたが、部下が彼等を抱き止めた。
戦は四月二十四日の朝八時に始まり、正午過ぎまで続いた。最初の銃撃が終って、一時間槍をもって激しく戦ったが、隆信の軍は槍と共に銃を用ひ、その兵数が比較にならぬ程多かったため、わが兵はその寨内に退くに至った。
・・・・・
敵は再び寨を攻めたので、薩摩の兵は打って出たが、すでに頗る疲労してゐた。而して隆信の兵は多数の銃と少数の弓、長き槍と短き剣を持ってゐたが、薩摩の兵はこれに反して銃器は少数で、弓は多く、槍は短く剣は長かった。
・・・・・
戦闘は激しく行はれ、双方槍を使ふ余地なく、薩摩の兵は前に人なきが如く突進した。
銃は弾丸を込める時がないためこれを用ひず、薩摩の兵は甚だ弓に熟練し大いにこれを用ひ、敵は少からずこれに苦しめられた。
戦闘の最も激しい時薩摩の部将の一人は、最も勇敢なる兵士数人と共に偶然他の兵に離れて進み、隆信の駕籠の側に到って戦ひ始めた。
隆信は部下の兵の間に争が起ったものと考へ、高声に今は互に戦ふ時にあらず、汝等は隆信がここに在ることを知らざるかと言った。
この際彼の轎夫達は槍をもって突かれて駕籠を棄てた。川上左京殿と称する薩摩の青年武将は彼の名を聞き、その起ち上ったところを襲ひ、我等は汝を尋ねて来たと言って槍をもって突いた。
彼に槍をつけた人に直に首を斬られた。
竜造寺隆信の死が伝って、その軍隊は恐怖のあまり混乱し、皆背を転じて急に逃げ始めた。
彼等は啻に鎧のみならず、衣服をも脱し、身を軽うして追撃する敵より遁れんとし、負傷者及び死者の上を越えて逃げた。
かくの如き場合に恐怖は人に翼を与へ、重荷となるものは皆かくの如く急な破滅を免れる邪魔となるものである故、彼等は携へた物を棄て始め、
啻に槍、銃、弓矢、立派なる鎧及び黄金の飾を施したる兜のみならず、後方に聞えた叫喚は前方の死の像を示した故、剣も長剣も棄て、一層早く走るため、或る者は一切脱して裸体となった。
また乗馬の純然たる疲労のため地に倒れて死するものもあった。
▼火縄銃について語ろう▲
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156341397/
これだと薩摩兵が偶然隆信の前面に至ってそのまま首を獲ったという事になってるね
- 329 :
- >>328
その文章はところどころ捏造してあるじゃねーかw
ドン・プロタジョの有馬軍は後方の島津が陣取る山への合流をしようとしたが
島津からの援兵もなく合流も拒否られたから
山上の島津の下の麓で、島津前衛として敵を迎撃していて
有馬の船の大砲2門と共同でドン・プロタジョは迎撃して
隆信の息子2人ら最有力の軍勢を圧していた。
そして海岸の一部の竜造寺軍は敗走を始め、中央からやってきた軍勢と合流した。
それを眺めていた敗北必死の島津軍が有馬の闘いに驚嘆していた。
隆信は圧倒的優勢下に愉快げに「勝利は確実だ」と言い
島津軍は滅亡寸前で最後の自的抵抗をして少なからず敵を悩ませた程度だった。
たまたま戦闘の現場から離れていた島津の幾人かの兵が
しばらく徒歩で歩いて隆信の駕籠の前方に現れた。
後方の騒ぎ程度の認識だった隆信は味方同士で争っている場合じゃないと言ったら
川上左京が「我等はあなたを探し求めてきたのです」と言って槍で隆信を刺した。
息子達の敗走を止めるために隆信が中央から海岸の左翼の支援にきたのだろうが
戦端が開かれてない傍観していた右翼の鍋島の内通で
川上がゆるりと歩きながら中央を通過して左翼の隆信のところまで
鍋島の案内ゆえに迷いもぜずに至ったと思われ、それゆえ味方だと誤認した隆信が
あっけなく討ち取られているのがわかる。
- 330 :
- もうちょい分かりやすくしてちょ
- 331 :
- こいつにそんな事言っても無駄だし読んでも意味がないので
気になる単語だけ他所で調べたほうがいい
- 332 :
- >>330>>331
無駄に>>328は長い駄文で誰も読まないよな〜
捏造に必死になる前に
まずはまとめる能力を学んだ方がいいわな。
- 333 :
- 最初川上はどこにいたのよ、場所的には
鍋島隊を通らなければ進めない位置にいたん?
http://www.geocities.jp/fummyextra/0202.html
このサイト参考にするとそうは思えないんだけどさ
- 334 :
- >>333
そもそもそのサイトは島津の活躍を捏造してる。
実際の島津はほとんど活躍してないどころか負けてただけで
有馬と赤星が活躍が頑強に抵抗してたに過ぎない。
- 335 :
- 竜造寺軍左翼の戦闘正面である矢と銃撃と大砲の雨下を堂々と徒歩で隆信のところまで歩いていけるわけないわな。
そもそも有馬と竜造寺の最激戦地を突っ切るとか無理だしな。
- 336 :
- >>332
お前の事だsub
- 337 :
- 混戦になってたなら、抜けてきたとしても不思議ないと思うんだけど
- 338 :
- 乱戦になっていたとしても、隆信より前に居たはずの家種と家信が普通に撤退できてるのが不思議なんだよな
背後で本軍が士気崩壊起こしてるのに
- 339 :
- >>337
例えば戦史の数々でそういう事が頻繁に起きてきたから
同様な事例が起きても不思議じゃないと主張するの?
同様のことが起きた数々の戦いの具体例を挙げて下さい。
- 340 :
- じゃあ政家も家種も家信も全員して隆信廃そうとしていたでいいよもう面倒くさいし
- 341 :
- 後藤家信って隆信死後に気違いと決め付けられて鍋島や江上家種によって無理やり幽閉されただろ。
その後、開放されると鍋島の命令を聞く良い子に変身してる。
すると今度は江上家種が勝茂を養子にしたりと必死に
鍋島に迎合して関心を買おうとしてるが結局、
朝鮮出兵で鍋島配下として出陣し鍋島により釜山で狂死扱いされてるし。
- 342 :
- 討ち死にしたのは隆信とその馬廻衆だけだから
龍造寺軍を恐れている島津軍3000は追撃すらしてない。
だから江上や後藤も鍋島軍同様に大した損害もなく領国へ帰ってるどころか
諫早の西郷が島津や有馬に逆襲すると風聞がたち島津や有馬は島原防備に専念してた。
島津と赤星がサッカーボール扱いしてた隆信の首を所持した10人ばかりの島津軍が島原〜佐賀間にある後藤の領土を堂々と威圧行軍し佐賀城を包囲し隆信の首の返却を申し出る。
龍造寺幹部は降伏やむなしと震えていたが
1人鍋島のみが「籠城を続け降伏しないし、武運が絶望的に無い隆信の首なんて受け取ったら、こっちに不幸が移るからいらねーよ」と島津軍に言い放ったんだよな。
- 343 :
- 朝鮮での活躍があまり語られないのは残念。
- 344 :
- 女子供の耳鼻を塩漬けするのが忙しくて・・・・。
- 345 :
- >>333
google earthで現在の地形を見てみる
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1861388.jpg
・緑の◯枠で囲った部分が沖田畷
・水色の部分は川
・赤い点が隆信が討死した地点
・鍋島隊の居たのは本光寺と川を挟んで0.4km程の位置で林がある場所付近
隆信は三会(赤い□枠)から2.3km進撃して渡川直後の地点で討たれた
川上の初期配置はおそらく本光寺から隆信が襲撃された地点までの1.5km内
青線上付近のどこかになると思う
- 346 :
- 神代での軍議で隆信本隊→山手、鍋島隊→中央、家種・家信隊→浜手と決定し進軍してたが
三会軍議で突然に隆信本隊→中央、鍋島隊→山手へ入替る。
鍋島の諜略で隆信は中央の泥沼を進軍する事となった。
- 347 :
- 鍋島はもともと留守番役だったのに
いつの間にか戦場にやってきて
正面の島津軍と一切戦わず
追撃を受けず撤退も無傷
隆信の首の返却も受け取り拒否
いったい何しにきたんだ…
しかも島津軍迫るって危機的状況で
鍋島は佐賀に支援に来いって呼び戻し命令に
「それがしは死んだも同然」とか
何ら活躍もせず無傷の軍を持ちながら意味わからん返答して拒否り島津軍進軍阻止行動すら取らずに龍造寺本家を焦らせる始末。
結局、隆信の母が鍋島は隆信の兄弟も同然だからすべて任せるから来てくださいって頼まれるまで傍観を決め込む。
鍋島が佐賀に来るとすんなり兵を引く島津軍…
鍋島の自作自演臭が激しいよな。
- 348 :
- 1584年の4月だと大友も筑後高良山に侵攻していて
龍造寺全体が四方八方からフルボッコにされてる時期なので信昌も動くに動けない状況
- 349 :
- >>348
そんなにヒドい状況になってない
耳川敗戦以来、ベテランがいない若者だらけの大友軍は黒木氏攻めで大苦戦してたから
龍造寺は倉町信光の派兵程度で対応できてる。
そもそもそんなにヤバいなら鍋島に佐賀に来いなんて言わないし、
鍋島本人も佐賀に行かないだろ。
鍋島が拒否したから龍造寺一族が困りきって
宿老代表で龍造寺信周が筑後川を渡り迎いに来て初めて動いてる。
それまで島津の侵攻を傍観してたのが鍋島。
督戦のため中央から移動してきた隆信の死んだ場所は右翼の有馬隊がいた森岳前方1500メートル。
隆信の前方には龍造寺左翼にあたる海側の江上と後藤隊が有馬隊と戦っている最中。
赤星の中央は小川・納富軍が陣に攻め寄せてくるのを死守。
島津隊は左翼に展開し猿亘・伊集院・新納と並んで左翼陣を形成し
龍造寺軍右翼の鍋島と神代と対陣していたと言うか両軍は傍観していた。
- 350 :
- 鍋島真っ黒すぎるな。
無理やり擁護してるやつって
関係者じゃねぇかと思っちゃうわ。
- 351 :
- どう見てもアホのお前が一人で盛り上がってるだけじゃん
- 352 :
- どんだけ沖田畷好きなんだよ、ってな
それはともかく、鍋島の文禄慶長の功ってどのくらいなん?
- 353 :
- >>352
他の武将が体壊すなか、一人だけピンピンしてた。
何気ない所にチート臭がする。
- 354 :
- 太って帰ってきたのは鍋島ぐらいだろな
- 355 :
- 参平連れて来たり、朝鮮で何やってたんだろう
- 356 :
- 加藤・鍋島隊と小西・宗隊の配置が逆だったら遼東まで侵攻出来ていたと思う
王子二人も小西達の方が上手く交渉に使えそうだし
- 357 :
- 沖田畷が釣り野伏せだの包囲殲滅だの言われるようになったのは何故だろうか
ちょっと調べれば戦術が華麗に決まった訳じゃない泥仕合だった事は分かるのに
- 358 :
- やっぱ勝った方としてはきれいに作戦が決まったってことにしたいんじゃない?
- 359 :
- 少数が多数を破る時って必ず何かしらの作戦が華麗に決まった時!
っていう幻想を抱いてる人が研究者の中にもいるんじゃない?w
でも実際の戦国時代ってごちゃごちゃの泥仕合の中で勝敗決まることが多いよなw
通信手段も発達してないし組織戦術も完全に確立してないわけだし。
大勢で勝ってても目の前の戦場でそこの指揮官がばその方面は壊走するしな。
全体では勝ってるから味方が救援に来るまで粘ろう!っていう意識はほとんどないわけで。
まぁそれが味方であっても各武将ごとに指揮系統が独立してる戦国の常識だし
だからこそ寡勢であっても相手の武将さえ倒せば勝利をもぎ取れるチャンスがあるわけだが。
- 360 :
- 保守
- 361 :
- 読者を楽しませるため
軍記で戦がスペクタクルな脚色をされるのは仕方が無い
- 362 :
- 忠茂が下総に領地貰ったのは千葉氏との縁も関係してんのかな
- 363 :
- >>362
従五位下ももらっているな。
- 364 :
- 朝鮮の役後、小川家の名籍と遺領を継いで小川直房と名乗ってたね。
- 365 :
- 俺の田舎に忠茂公の墓があるな
中学のころになぜ九州の大名がこんなところにと思ったもんだ
墓前でなんどもサッカーしたことあるわ
いま思えばとんでもないわな
- 366 :
- http://chibahatu.jugem.jp/?eid=894
ここか、茨城の鹿島と混同する人も居そうだ
- 367 :
- 肥前と言えば熊本県です。 で思わずイラッとしてしまった
- 368 :
- 鹿島藩の創設時の家臣は馬乗侍37人、平、歩行侍が60人、足軽140人で合計237人。
(忠茂公御代之馬乗歴々、平侍并歩行次第不同記より)
侍の1/3以上は元々龍造寺の家臣でまた下総国から来た者もいるとある。
- 369 :
-
おれが聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な中国に戻るらしい
もう経済は破綻してて、取り戻すのは無理なんだそうだ
その世界では有名な政府関係者筋から聞いた確かな情報だよ
まあお前ら頭の良い連中には、今さらなくらいのネタだね、
お前らからすればもう常識的なくらいの知識だろ?
- 370 :
- 保守
- 371 :
- 鹿島鍋島家は岩国の吉川家と同じ扱いで
正確には大名扱いの陪臣なんだよね。
- 372 :
- 幕末時の城主格への昇格が認められていたら五稜郭ばりのヴォーバン式要塞が鹿島か蓮池辺りに建てられていた
- 373 :
- あげ
- 374 :
- 鍋島が台頭したのは清房と勝茂が子作り方面で頑張ったから
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