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2012年3月文芸キャラ39: ∞三島作品の名キャラ&名文句∞ (347) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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∞三島作品の名キャラ&名文句∞


1 :
三島由紀夫(本名、平岡公威)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bf/Yukio_Mishima_1931.gif
http://image.rakuten.co.jp/auc-artis/cabinet/s-2540.jpg
http://www.c21-smica.com/blog_century21_nobu/img_1596165_27088893_0.jpg
http://ecx.images-amazon.com/images/I/51PADZ21PEL.jpg
http://image.blog.livedoor.jp/maccy1977/imgs/8/e/8e3b520d.jpg

2 :
戦後の頽廃は、すでに戦時中銃後に兆してゐたのだ。戦後のあのもろもろの価値の顛倒は、
卑怯者の平和主義は、尻の穴より臭い民主主義は、祖国の敗北を喜ぶユダヤ人どもの陰謀は、
共産主義者どもの下劣なたくらみは、悉くその日に兆してゐたのだ。ああ、金色の
ヴァルハラの広場に、ヴァルキュリーたちによつて運ばれた、気高い戦場の勇士たちの
亡骸は、ひとたび霊に目ざめるや、祖国ドイツのこの有様をのぞみ見て、いかに万斛の涙を
流したことであらう。楯の格天井、鎧の椅子は、卓上の焔に照り映えて、悲嘆の響きを
鏘然(さうぜん)と高鳴らせたことであらう。
もう貧血症の、屁理屈屋の教授連は一切要らん。銃一つ持てないほど非力だから、我身
可愛さにヒステリックな平和主義の叫びをあげる、を置き忘れたインテリは一切要らん。
少年に向つて亡国の教へを垂れ、祖国の歴史を否定し歪曲する非国民教師どもは一切要らん。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

3 :
レーム:…俺は、お前が腐敗と反動の後釜を継ぐのには反対だぞ。折角俺たちの力で一新した
この新らしいドイツを裏切つて、買弁資本家やユンカー一族、保守派の老いぼれ政治家や
老いぼれ将軍、将校クラブで俺を鼻であしらつた貴族出身の無能な士官たち、革命や
民衆のことを一度も考へたことのないあの様子ぶつたプロシア国軍の白手袋たち、朝から
ビールとじやがいものおくびをしてゐる布袋腹のブルジョアども、官僚といふあの
マニキュアをした宦官ども、……あんな連中の上にのつかつて、あんな連中にへいこらしながら、
シーソオ・ゲームに憂身をやつして、お前が大統領になるなら反対だぞ。断乎として反対だぞ。
俺が腕づくででも止めてみせる。
ヒットラー:エルンスト!
レーム:きけ。俺はお前に大統領になつてほしいと思つてゐる。心からさう思つてゐる。
しかし、それには力を協せて、この腐つた土地の上のごみ掃除をやつてのけてからだ。
軍部が何だ。口だけではおどしをきかせるが、軍服の中身はからつぽの、あんな金ぴかの
案山子(かかし)のどこが怖い。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

4 :
クルップ:雨になつたやうだ。
ヒットラー:大した雨ではない。妙なことだ。私が演説をしたあとではきつと雨になる。
クルップ:君の演説が雲を呼ぶのだらう。
ヒットラー:雨が広場を黒く濡らした途端に、どのベンチからも人影が消えてしまつた。
何といふ無趣味ながらんとした広場だらう。人つ子一人ゐない。ついさつきまでここを
群衆が埋めて、とどろく歓声と拍手で熱してゐたとはとても思へない。演説のあとの
広場といふものは、発作のあとの狂人の空白のまどろみのやうだ。どこまで行つても
人間は人間を傷つける。どんな権力の衣にも縫目があつてそこから虱が入る。クルップさん、
絶対に誰からも傷つけられない、どこにも縫目も綻びもない、白い母衣(ほろ)のやうな
権力はないものですかね。
クルップ:なければ君が誂へたらよい。
ヒットラー:あなたがその仕立屋になつてくれませんか。
クルップ:それには寸法をとらなくてはね。ヒットラー:どうでした?
クルップ:残念ながら、まだちと寸法が足りないやうだ。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

5 :
クルップ:仕立屋といふのは慎重なもんだよ、アドルフ。仕払つてもらふ宛てがなければ、
おいそれと着物も仕立てられない。仕立ててあげたいのは山々だが、寸が足りなくては
芸術的満足が得られない。それに仕立ててあげたものを、快適に着てもらはなくては
つまらない。ゆるやかに、楽々と、まるで着てゐるかゐないか本人にもわからぬやうな、
そんな着方をしてもらはなくては。……私は窮屈なチョッキは上げたくない。狂人に
狭窄衣を着せるのとはちがふんだから。
ヒットラー:もし私が狂人だとしたら……
クルップ:私も何度かさういふ経験を持つてゐる。自分を狂人だと思はなければとても
耐へられぬ、いや、理解すらできない瞬間にぶつかる場合は……
ヒットラー:さういふ場合は?
クルップ:自分ではない他人をみんな狂人だと思へばよいのだ。
ヒットラー:クルップさん、ひとつ私に狂人用の窮屈なチョッキを誂へてくれませんか、
両手を拘束されて人を傷つけることはできないが、又決して人から傷つけられることもないやうな……
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

6 :
レーム:…生れ落ちてから薬や医者には縁のない、永遠の若い鋼の体、このレーム大尉の
体が病気になるつて?
ヒットラー:だから……
レーム:誰がそんなことを信ずるものか。俺を傷つけることができるのは弾丸だけさ。
といふよりは俺の体の鋼鉄が、いつか俺を裏切つて、同じ仲間の鉄の小さな固まりを、
俺の体内へおびき寄せるとき。さうだ、鉄と鉄とが睦み合ふために、引寄せ合つて
接吻するとき、そのときだけだ、俺が倒れるのは。しかしそのときも、俺が息を引取るのは
ベッドの上ではない。
ヒットラー:さうだな、勇敢なエルンスト、いくら大臣になつても、お前はベッドの上で
死ぬやうな男ではない。しかし、ともあれ、お前は仮病を使つて、声明書と共にその旨を
発表するのだ。一、二ヶ月の療養ののち、再起と共に突撃隊を以前よりも精鋭な軍隊に
叩き上げると約束するのだ。
レーム:しかし誰がそれを信じる。
ヒットラー:信じられないからこそ、隊員みんなは信じるだらう。つまり、こいつは、
よほど已むを得ない事情だといふことを。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

7 :
レーム:…書類を喰つて生きのびた年寄の山羊どもが、首を長くしてお前の餌を待つてゐる。
お前はサインをのたくつて日々をすごす。剣を揮ふ腕の力は見捨てられたままになつてゐる。
権力とは何だ。力とは何だ。それはただサインをする蒼ざめた指さきの細い細い筋肉の
運動にすぎなくなつたのだ。
ヒットラー:それ以上は言はなくてもわかつてゐる。
レーム:だから、友よ、だから言ふのだ。お前の権力がその指さきの運動にではなく、
遠くからお前の一挙一動を憧れの眼差で見戍つて、素破といふときはためらひなく命を
投げ出す覚悟の若者たちの、逞しい腕の筋肉にあることを忘れるな。どんなに行政機構の
森深く踏み迷つても、最後に枝葉を伐つて活路を見出すには、夜明けの色の静脈と共に
敏感に隆起する力瘤だけがたよりなのだ。どんな時代にならうと、権力のもつとも深い
実質は若者の筋肉だ。それを忘れるな。少なくともそれをお前のためにだけ保存し、
お前のためにだけ使はうとしてゐる一人の友のゐることを忘れるな。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

8 :
ヒットラー:レームが羊ですつて? あいつがきいたらどんなに怒るか。
クルップ:羊でなくても、レーム君が抱いてゐるのは群の思想さ。さうではないかね。
しかしレーム君と別れたあとの、君の暗い額にひらめいたのは、羊でもなければ牧羊犬でもない。
それこそ嵐そのもの、さう言つては持ち上げすぎなら、暗くはためく嵐の予兆そのもの
だつたのだ。峯々を稲妻の紫に染め、世界を震撼させ、人々の活きた魂を電流をとほして
一瞬のうちに、黒い一握の灰に変へてしまふ、あの嵐の兆そのものだつた。君はおそらく
自分ではさう感じはしなかつたらう。
ヒットラー:あのとき、私は怖れてゐた。迷つてゐた。悲しんでゐた。それだけです。
クルップ:人間の感情を持つてゐることを、いくら総理大臣だつて恥ぢるには及ばない。
ただ、人間の感情の振幅を無限に拡大すれば、それは自然の感情になり、つひには摂理になる。
これは歴史を見ても、ごくごくわづかな数の人間だけにできたことだ。
ヒットラー:人間の歴史ではね。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

9 :
シュトラッサー:…歌はもうあの鋭い清らかな悲鳴と共通な特質を失つてしまつたのです。
死者の目に映る遠い青空は、変革の幻であつたのに、今、青空は洗濯の盥の水にちりぢりに
砕けてしまつた。あらゆる煙草は、耐へがたい訣別の甘いしみとほるやうな味をなくして
しまつた。
(中略)
どこかで遠い昔に嗅ぎ馴れた腐敗の匂ひ、落葉のなかで、猟犬が置き忘れた獲物の鳥が
腐つてゆくときの、森の縞目の日光をかすかに濁らすやうな独特な匂ひ。いたるところで、
その腐敗の匂ひが、人々の指先の感覚を、癩病やみのやうに鈍麻させてゆく。かつて
闇のなかで道しるべの火のやうに敏感に方角を知らせた指は、今では小切手に署名をするのと、
女の体をこじあけるのにしか使はれなくなつた。脱落、脱落、目に見えない透明な日々の脱落、
この感覚を、レーム君、君だつてつぶさに味はつて来た筈だ。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

10 :
シュトラッサー:もう一度革命をやらなければならぬ、と君が考へてゐることを私は知つてゐる。
ところで、私も、もう一度革命をやらなければならぬ、と考へてゐる。二人で話し合ふ
話題には、事欠かぬ筈ぢやないか。
レーム:しかし、方法がちがふ。目的もちがふ。
シュトラッサー:鏡をのぞいてみるやうに、君の右は私の左だ。しかし私の右は君の左だ。
だから却つて鏡を打ち破れば、われわれはぴつたり合ふかもしれないのだ。
シュトラッサー:君はすでに病気になつたのだらう、さつきも言つてゐたやうに。
信頼といふ病気にかかつたのだ。
レーム:されるのか、処刑されるのか。
シュトラッサー:おそらくその両方だらう。君は拷問に耐へる自信があるか?
レーム:誰があんたをそんなひどい目に会はさうといふんだね、心配性の弱虫君。言つて
ごらん、そいつの名を言ふのが怖いのかね。言つただけで呪ひがかかるとでもいふのかね。
シュトラッサー:アドルフ・ヒットラー。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

11 :
レーム:…友愛、同志愛、戦友愛、それらもろもろの気高い男らしい神々の特質だ。
これなしには現実も崩壊する。従つて政治も崩壊する。アドルフと俺とは、現実を
成立たせるこの根本のところでつながつてゐるんだ。おそらくあんたの卑しい頭では
わかるまい。
われわれの住むこの地表はなるほど固い。森があり、谷があり、岩石に覆はれてゐる。
しかしこの緑なす大地の底へ下りてゆけば、地熱は高まり、地球の核をなす熱い
岩漿(マグマ)が煮え立つてゐる。この岩漿こそ、あらゆる力と精神の源泉であり、この
灼熱した不定形なものこそ、あらゆる形をして形たらしめる、形の内側の焔なのだ。
雪花石膏(アラバスター)のやうに白い美しい人間の肉体も、内側にその焔を分ち持ち、
焔を透かして見せることによつてはじめて美しい。シュトラッサー君、この岩漿こそ、
世界を動かし、戦士たちに勇気を与へ、死を賭した行動へ促し、栄光へのあこがれで
若者の心を充たし、すべて雄々しい戦ふ者の血をたぎらせる力の根源なのだ。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

12 :
ヒットラー:…いつかあなたは言はれましたね。自分自身を嵐と感じることができるか
どうか、つて。それは何故自分が嵐なのかを知ることです。なぜ自分がかくも憤り、なぜ
かくも暗く、なぜかくも雨風を内に含んで猛り、なぜかくも偉大であるかを知ることです。
それだけでは十分ではない。なぜかくも自分が破壊を事とし、朽ちた巨木を倒すと共に
小麦畑を豊饒にし、ユダヤ人どものネオンサインにやつれ果てた若者の顔を、稲妻の閃光で
神のやうに蘇らせ、すべてのドイツ人に悲劇の感情をしたたかに味はせようとするのかを。
……それが私の運命なのです。
ヒットラー:あの銃声が、クルップさん、ドイツ人がドイツ人を射つ最後の銃声です。……
これで万事片附きました。
クルップ:さうだな。今やわれわれは安心して君にすべてを託することができる。
アドルフ、よくやつたよ。君は左を斬り、返す刀で右を斬つたのだ。
ヒットラー:さうです。政治は中道を行かなければなりません。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

13 :
女の貞淑といふものは、時たま良人のかけてくれるやさしい言葉や行ひへの報いではなくて、
良人の本質に直に結びついたものであるべきだといふことですわ。蝕まれた船は蝕む虫と、
海の本質を頒け合つてゐるのですわ。
女が男にだまされることなんぞ、一度だつて起りはいたしません。
私がずつと前からアルフォンスを知つてゐたといふ気持は、ひつくりかへりはいたしません。
あの人に急に尻尾が生えたり、角が生えたりしたわけではないのですもの。私はともすると
あの人の陽気な額、輝く眼差の下に隠されてゐた、その影を愛してゐたのかもしれませんの。
薔薇を愛することと、薔薇の匂ひを愛することと分けられまして?
三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

14 :
幸福といふのは、何と云つたらいいでせう。肩の凝る女の手仕事で、刺繍をやるやうな
ものなのよ。ひとりぼつち、退屈、不安、淋しさ、物凄い夜、怖ろしい朝焼け、さういふものを
一目一目、手間暇をかけて織り込んで、平凡な薔薇の花の、小さな一枚の壁掛を作つて
ほつとする。地獄の苦しみでさへ、女の手と女の忍耐のおかげで、一輪の薔薇の花に
変へることができるのよ。
サン・フォン:…奥様、快楽にだんだん薬味が要るやうになると、人は罰せられた子供の
たのしみを思ひ出し、誰も罰してくれないのを不足に思ふやうになります。ですから
見えない主に唾を引つかけ、挑発し、怒りをそそり立てようと躍起になるのでございます。
それでも神聖さは怠けものの犬です。日向に寝そべつて昼寝に耽り、尻尾を掴まうが、
髭を引張らうが、吠えることはおろか、目をひらいてさへくれません。
モントルイユ:あなたは神を怠けものの犬だと仰言るのね。
サン・フォン:ええ、それも老いぼれた。
三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

15 :
恥ずかしさの底にゐるときには、同情のやさしい心持も残つてはをりません。同情は
上澄みで、心が乱れれば、底の澱が湧き昇つて上澄みを消してしまふ。
想像できないものを蔑む力は、世間一般にはびこつて、その吊床の上で人々はお昼寝を
たのしみます。そしていつしか真鍮の胸、真鍮のお房、真鍮のお腹を持つやうになるのです、
磨き立ててぴかぴかに光つた。あなた方は薔薇を見れば美しいと仰言り、蛇を見れば
気味がわるいと仰言る。あなた方は御存知ないんです。薔薇と蛇が親しい友達で、夜になれば
お互ひに姿を変へ、蛇が頬を赤らめ、薔薇が鱗を光らす世界を。兎を見れば愛らしいと仰言り、
獅子を見れば怖ろしいと仰言る。御存知ないんです。嵐の夜には、かれらがどんなに血を
流して愛し合ふかを。神聖も汚辱もやすやすとお互ひに姿を変へるそのやうな夜を
御存知ないからには、あなた方は真鍮の脳髄で蔑んだ末に、さういふ夜を根絶やしにしようと
お計りになる。でも夜がなくなつたら、あなた方さへ、安らかな眠りを二度と味はふことは
おできになりません。
三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

16 :
ルネ:私が人間の底の底、深みの深み、いちばん動かない澱みへだけ、顔を向けてきたのは
本当だわ。それが私の運命でした。
アンヌ:だからそれには思ひ出はないわ。あるのは繰り返し、それだけだわ。
ルネ:私の思ひ出は虫入りの琥珀の虫。あなたのやうに、折にふれては水に映る影ではないわ。
さう、あなたはうまいことを言つた。私の思ひ出は、いつも必ず私の邪魔をするの。
この世で一番自分の望まなかつたものにぶつかるとき、それこそ実は自分がわれしらず
一番望んでゐたものなのです。それだけが思ひ出になる資格があり、それだけが琥珀の中へ
閉ぢ込めることができるのよ。それだけが何千回繰り返しても飽きることのない、
思ひ出の果物の核(さね)なのだわ。
あなたは神の釣人の糸にかかつた魚です。何度か鉤(はり)をかけられて遁れながら、
あなたは実のところ、いづれは釣り上げられることを御存知だつた。浮世の水にかがやく
鱗を、神の御目(おんめ)のきびしい夕日のうちに、身もだえして閃めかせながら、
釣り上げられるのを望んでおいでだつた。
三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

17 :
悲しい気持の人だけが、きれいな景色を眺める資格があるのではなくて? 幸福な人には
景色なんか要らないんです。
朝子:お答へにならないところを見ると、それが秘密だからといふばかりでなく、前以て
人に知られたくないやうな、花々しい立派なお仕事なのね。
久雄:とんでもない。恥知らずのやる仕事です。
朝子:殿方が命をかけてやらうとなさつてゐることを、御自分で卑下なすつたりしては
いけません。世間がどんな目で見ようと、よしんば法律の罪だらうと。
久雄:ではこれだけ申します。仰言るとほり僕は命を賭けてゐます。明日の太陽を仰げるか
どうかわかりません。しかしそれは無意味な行為で、歴史に小さな汚点(しみ)をつける
だけのことでせう。
三島由紀夫「鹿鳴館」より

18 :
政府の大官や貴婦人方のお追従笑ひは、条約改正どころか、かれらの軽侮の念を強めて
ゐるだけだ。よろしいか、朝子さん。私は外国を廻つて知つてをるが、外国人は自尊心を
持つた人間、自尊心を持つ国民でなければ、決して尊敬しません。壮士の乱入は莫迦げた
ことかもしれん、しかし私はそれで政府に冷水を浴びせ、外国人に肝つ玉の据つた日本人も
ゐるぞといふところを見せてやれば、それで満足なのだ。
清原:あなたの髪、……この黒い髪、……会はないでゐた二十年といふもの、夜の闇が
夜毎に染めて、ますます黒く、ますます長く、ますますつややかになつたこの黒髪……。
朝子:この髪の夜は長くて、夜明けはいつ来るとも知れません。髪がすつかり白くなり、
私が女でなくなるときに、曙がその白髪を染めるのですわ。悩みもない、わづらひもない、
その一日に何もはじまる惧(おそ)れのない曙が。
三島由紀夫「鹿鳴館」より

19 :
骨肉の情愛といふものは、一度その道を曲げられると、おそろしい憎悪に変はつてしまふ。
理解の通はぬ親子の間柄、兄弟の間柄は他人よりも遠くなる。
政治とは他人の憎悪を理解する能力なんだよ。この世を動かしてゐる百千百万の憎悪の
歯車を利用して、それで世間を動かすことなんだよ。愛情なんぞに比べれば、憎悪のはうが
ずつと力強く人間を動かしてゐるんだからね。
花作りといふものにはみんな復讐の匂ひがする。絵描きとか文士とか、芸術といふものは
みんなさうだ。ごく力の弱いものの憎悪が育てた大輪の菊なのさ。
この世には人間の信頼にまさる化物はないのだ。
政治の要請はかうだ。いいかね。政治には真理といふものはない。真理のないといふことを
政治は知つてをる。だから政治は真理の模造品を作らねばならんのだ。
三島由紀夫「鹿鳴館」より

20 :
僕の考へる旅はますます美しい、ますます空想的なものになつたんです。つまり汽車だの
船だのが要らない旅になつたんです。この虚偽に充たされた国にゐて、僕があるとき、
海のむかうの、平和で秩序正しく、つややかな果物がいつも実つて、日がいつも照り
かがやいてゐる国のことを心に浮べたとき、汽車だの船だのは、もう僕にはまだるつこしい。
僕がさういふ国を心に浮べたとき、まさにその瞬間からですよ、僕がもうその国に
居るのでなくては、その瞬間から、僕の空想してゐた果物の香りが現実の香りになり、
僕の夢みてゐた日光が頭の上にふり注いで来るのでなくては。……それでなくては、
もう間に合はないんです。
お嬢さん、教へてあげませう。武器といふものはね、男に論理を与へる一番強力な
道具なんですよ。
三島由紀夫「鹿鳴館」より

21 :
朝子:清原さんの仰言るやうに、あなたは成功した政治家でいらつしやる。何事も
思ひのままにおできになる。その上何をお求めになるんです。愛情ですつて? 
滑稽ではございませんか。心ですつて? 可笑しくはございません? そんなものは
権力を持たない人間が、後生大事にしてゐるものですわ。乞食の子が大事にしてゐる
安い玩具まで、お欲しがりになることはありません。
影山:あなたは私を少しも理解しない。
影山:ごらん。好い歳をした連中が、腹の中では莫迦々々しさを噛みしめながら、
だんだん踊つてこちらへやつて来る。鹿鳴館。かういふ欺瞞が日本人をだんだん賢くして
行くんだからな。
朝子:一寸の我慢でございますね。いつはりの微笑も、いつはりの夜会も、そんなに
永つづきはいたしません。
影山:隠すのだ。たぶらかすのだ。外国人たちを、世界中を。
朝子:世界にもこんないつはりの、恥知らずのワルツはありますまい。
三島由紀夫「鹿鳴館」より

22 :
自ら奏でる楽の音(ね)が、月影のやうに湖のお顔に注ぐと、きらめく漣のやうなその微笑が
現はれる。すべては音楽の霊妙な作用なんだ。水は音楽だ。だから彼女はそれを支配する。
人間の体は水でできてゐる。だから彼女はそれを支配して、それは音楽に変へてしまふ。
血は水でできてゐる。だからそれを支配して、血は音楽に変つてしまふ。
璃津子:このさき日本はどうなるのでせう。
経広:僕たちは、つてききたいのではない?
璃津子:その二つは同じことだわ。
経広:さうだね。同じことだ。
璃津子:お国の右の腕が痛むと
経広:僕たちの右腕も痛むのだ。そしてあの海のかなたへまで晴れやかにひろげられた
お国の裳裾が引き裂かれると
璃津子:私たちも引き裂かれるのだわ!
経広:その引き裂かれた絹の叫びが
璃津子:かうしてゐても海のむかうからきこえてくるわ。……もしかすると、日本は
負けるのではないかしら。
経広:それは世界が夜になることだ。この世でもつとも美しい優雅なものが土足に
かけられることになるのだよ。そんなことにさせてはいけない。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

23 :
経広:海が僕を惹き寄せる。何故だか知れない。絶望と栄光とが、押し寄せる海風のなかに
いつぱいに孕まれてゐる。かうして海から来る風に顔をさらしてゐると、絶望と栄光の砂金が
いつぱい詰つた袋で頬桁を張られてゐるやうな気がする。なぜ、又、いつから海が僕を
非難するやうになつたのか。
君にも話したね。中等科のころまでは、僕は新聞の貨物船の広告を見て夢を描くのが
大好きだつた。寄港地の名前はみな宛字の漢字で書いてあつた。新嘉坡(シンガポール)、
波斯湾(ペルシャわん)、亜歴山(アレクサンドリア)、……僕はそのへんな漢字の
どれもが読めるのが得意だつた。貨物船と近東風の月夜と、ペルシャ湾の毛足の長い
絨毯のやうな重い夕凪とが、海への僕の憧れのすべてだつた。それほどやさしい海が、
いつから僕の頬桁を張り、僕を非難するやうになつたのか。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

24 :
経広:わかつてゐる。海が死と絶望と栄光の金の食器を、敷きつめた青い波のテーブル・
クロースの上に満載して、僕の着席を待つて向うから、用意を整へ、しづしづと近づいて
来てからといふものだ。その食卓には今潮の中から引き揚げられたばかりの珊瑚が山と
積まれ、熱帯の積乱雲が飾り立てられてゐる。御紋章つきの金のコンポートには、
色さまざまな熱帯の果物が盛り上げられてゐる。そして僕がその一つを口に入れれば、
それは死なのだ。これほど飢ゑてゐながら、僕が食卓に就かないのを海は非難してゐる。
僕の飢ゑの烈しさを誰よりもよく知つてゐるのは、海だ、おそらく君よりも。
璃津子:女はみんな知つてゐるわ、どんな女でも、男の方のさういふ飢ゑを鎮めることは
できないのを。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

25 :
悲しみのあまりだつて? 人はさう言ふ。悲しみは慰められても、悲しみよりもつと遠くへ
行つた人間に、人の慰めなんぞが追ひつくものか。
生きてゐる間は若様でした。私は自分の卑しさのすべてをかけて、あの子を若様と呼びました。
……今はちがひます。あの子は死ぬと同時に、青い空の高みからまつしぐらに落ちてきて、
ここへ、ここへ、この血みどろの胎の中へ、もう一度戻つて来たのですわ。もう一度私の
賎しい温かい血と肉に包まれて、苦しい名誉や光栄に煩はされることのない、安らかな
眠りをたのしみに戻つて来たのですわ。今こそ私はもう一度、ここにあの子のすべてを
感じます。あの子の眼差、あの子の微笑、あの子のしつかりした手足をこの中に。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

26 :
経隆:経広はおそらく知つてゐたらう、自分の小さな死は無益(むやく)であり、たとへ
その死を何万と積み重ねても狂瀾を既倒に回(めぐ)らす由もないことを。しかし又
知つてゐたらう、このやうな御代に生き御代に死んで、すでに閉じられようとしてゐる
大きな金色の環へ鋳込まれて、永遠に歴史の中を輝やかしく廻転してゆくその環の一つの
粒子になることを。身を以て空にかけた悲しみの虹の、一つの微粒子になることを。
……どんな苦しい戦況であらうと、経広は男として満ち足りて死んだ筈だ。
おれい:まるでその場に居合はせたかのやうに。あの子の肌が割けた痛みの万分の一も
御存知でないあなたが。
経隆:苦しみをこえる矜りといふものがあるのだ。たとへば木は大地につながつてゐる。
それは苦しみだ。痛みだ。しかし梢にかかる白い雲は青空に属してゐる。私たちはその
美しい横雲と樹木とを、いつも一つの絵のなかに見るではないか。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

27 :
……しかし私が気が狂つてゐたとすると、それはどんな狂気だつたのだらう。果して
私自身の狂気だつたらうか。それともはるかかなたから、思召しによつて享けた狂気だつたか。
たとへ私が狂気だつたにせよ、あの狂気の中心には、光りかがやくあらたかなものがあつた。
狂気の核には水晶のやうな透明な誠があつた。
翼を切られても、鳥であることが私の狂気だつたから、その狂気によつてかるがると私は
飛んだ。……今はどうだ。お前は私が正気になつたといふかもしれない。私にはわからない。
自分が今なほ狂気か正気かといふことが、自分にはわからう筈がない。只一つわかることは、
その正気の中心には誠はなく、みごとに翼は具へてゐても、その正気は決して飛ばない
といふことだ。あたかも醜い駝鳥のやうに。私は知らず、少なくともお前たちみんなは
駝鳥になつたのだよ。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

28 :
光康:…もう時代は変つて、手袋を裏返しにしたやうに、すべては逆になつたのに。
経隆:写真の陰画が陽画になつただけかもしれない。絵はもともと一つなのだ。
海と雲とは一色(ひといろ)の重い苦患に融け合ひ、沖に泊つてゐる外国の船の白い船腹を、
苦痛にむきだした白い鮮やかな歯のやうに見せてゐる。日本の船はどこにも見えぬ。
日本の船は悉く沈んでしまつた。
経広があこがれたのは決してこんな海ではなかつた。ただあいつの死の刹那に、海が
青かつたことを私は祈る。あいつのためには、海は晴れやかに青く輝き、そこにこそ
誉れの火柱は高くあがり、若者のおびただしい血潮は、透かし見られる朱い珊瑚礁のやうに
亜熱帯の海を染めなした。あの島をめぐる海は、経広の最後の日に、雲の影一つないほど
晴れ渡つてゐたことを私は祈る。あいつは朱雀家の代々が使はなかつた黄金造りの太刀の、
明るい花やかな朱いろの下緒(さげを)のやうな死を選んだと思ひたい。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

29 :
なぜといへ、それを最後に、日本は敗れ、滅びたからだ。古いもの、優雅なもの、
潔らかなもの、雄々しいものは、悉く滅びたからだ。かつて気高く威光さかんであつた
一帝国は滅びたからだ。もつとも艶やかな経糸(たていと)と、もつとも勇ましい
緯糸(よこいと)とで織られてゐた、このたぐひまれな一枚の美しい織物は、血と火の
苦しみのうちに、涜され、踏みにじられ、つひには灰になつた。歴史の上で誰も二度と
ふたたび、同じ見事な織物を織り成すことはできまい。
すべては去つた。偉大な輝やかしい力も、誉れも、矜りも、人をして人たらしめる大義も
失はれた。この国のもつとも善いものは、焼けた樹々のやうに、黒く枯れ朽ちて、
死んでしまつた。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

30 :
雪がふつて来たな。
この浄らかな冷たさ、雪はすべてを和める力だが、それといふのも、すべての身を一様に
慄(ふる)へさすからだ。雪は女神に似てゐる。冷たく、美しく、矜り高く、残酷な
女神に似てゐる。その女神の冷たい嫉妬のおかげで、夏のかがやかしい日々は消されてしまつた。
璃津子:滅びなさい。滅びなさい! 今すぐこの場で滅びておしまひなさい。
経隆:(ゆつくり顔をあげ、璃津子を注視する。……間。)
どうして私が滅びることができる。夙うのむかしに滅んでゐる私が。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

31 :
僕は社会をひつくりかへすために陰険な策謀をめぐらしたり、無辜(むこ)の市民を傷つけるやうな計画を立てたり、
日本の歴史と文化の伝統を破壊しようと企てたり、そのために友を裏切り、恩人を裏切り、目的のためには
手段をえらばぬと云つた、さういふ連中を憎みます。一市民として憎みます。これが僕の信念です。
全学連の女の子が、われわれに怒鳴つた言葉はこたへたなあ。今でもときどき思ひ出しますよ。女子学生がですよ。
かりにも教養のある女子学生がかう言つたのです。「そんな顔でお嫁が来ると思ふか。もつと心を入れかへて
勉強しろ。バカ。無智。人し」つて。われわれの親は貧乏で、心を入れかへて勉強しようにも、大学へ
進めなかつたんですからね。
…まあ、女子学生にそこまで言はせた、大きな国際的陰謀があるわけですよ。
三島由紀夫「喜びの琴」より

32 :
国際共産主義の陰謀ですよ。あいつらは地下にもぐつて、世界のいたるところで噴火口を見つけようと窺つて
ゐるんです。世界中がこの火山脈の上に乗つかつてゐるんです。もしこの恣まな跳梁をゆるしたら、日本は
どうなります。日本国民はどうなります。日本の歴史と伝統と、それから自由な市民生活はどうなります。
われわれがガッチリ見張つて、奴らの破壊活動を芽のうちに摘み取らなければ、いいですか、いつか日本にも
中共と同じ血の粛正の嵐が吹きまくるんです。
地主の両足を二頭の牛に引張らせて股裂きにする。妊娠八ヶ月の女地主の腹を亭主に踏ませて踏ませてす。
あるひは一人一人自分の穴を掘らせて、生き埋めにする。いいかげんの人民の結果、いいですか、中共では
十ヶ月で一千万以上の人が虐された。一千万といへば、この東京都の人口だ。それだけの人数が、原爆や
水爆のためぢやなくて、一人一人同胞の手でされたのだ。それが共産革命といふものの実態です。それが
革命といふものなんです。こんなことがわれわれの日本に起つていいと思ひますか。
三島由紀夫「喜びの琴」より

33 :
片桐:……考へてみろよ。二・二六事件の将校は英雄になつたが、彼らに射たれて死んだ警官は名前も忘れられ、
ただガラスのケースの中の英雄になつた。俺たちは永遠の脇役で、権力と叛逆者の板ばさみになつて、
つまらない人間のためにも身を捨てるんだ。そのとき残るのは何だと思ふ。同じ立場の俺たちの信頼だけだ。…(中略)
瀬戸:…警察官も一つの職業だよ。人を疑ふのが商売で、それに徹すりやいいんだ。疑つてるうちに、カンも
発達してくる。さうすりや、疑はないでいいことと、疑ふべきことの区別がついてくる。善良な市民に迷惑を
かけるおそれもなくなる。実績も上つてくる。さうなるための第一歩は、まづ何でも疑つてかかることだ。
人を見たら泥棒と思へ、さ。まづそこからはじめるんだ。さうして疑ふ技術を洗煉するんだ。人を信じるだの
信頼するだのつて、耳や目が遠くなつてからでもゆつくりできるぜ。
三島由紀夫「喜びの琴」より

34 :
野津:この雪の中のあちこちで、毛唐や三国人があひかはらず、悪事をたくらんで動きまはつてゐる。
堀:しかし管内には犯罪がなくて助かるよ。
野津:白い悪魔の粉のごとく、のごとく雪はふる、か。
俺はストライキのことしか知らないが、群衆心理つてのは怖ろしいもんだぜ。一人がワッと叫ぶと、みんな
その気になつちまふんだ。まあ、いはば、蕁麻疹みたいなもんだ。それに乗せられるのも一時はいい。一時は
いいが、気をつけろよ。手綱を引きしめるのを忘れるなよ。こんな説教みたいなことは言ひたくないが、
君はまだ若いんだし、今日の午すぎからでも、急にそんな人気者にならないとも限らんし、今のうち言つて
おくのがいいと思ふんだ。マスコミちふのは軽薄だからな。ぽんと乗せて、ぽいと捨てる、そりやあよつぽど
気をつけなくちやいかんぜ。
三島由紀夫「喜びの琴」より

35 :
はじめから憎んでゐたものが憎らしいのは当り前の話さ。……なあ、片桐、思想といふのは、いろんな形をとるものさ。
あるときはライオンの。あるときは可愛い小鼠の。憎むんだから、そいつから目を離さず、そいつの千変万化の
変身にあざむかれず、この世界のあらゆるものにそいつの影を見つけ、花にも自転車にも雲にも小さなマッチ箱にも、
怠りなくそいつの影を読みとらなければならないんだ。それには力が要る。綿密な注意が要る。そりやあ物事を
本当に信じるのとほとんど同じくらゐ力の要る仕事だ。
やはりお前は裏切られた怒りを選ぶのか。そんならこの傷は手ひどく祟るぞ。一生痛みつづけるぞ。それも
みんなお前の罪なんだ。思想よりも人間を選んだお前の罪なんだ。こんなまちがひは若い栗鼠しかやらない。
くるみとゴルフのボールをまちがへるやうなことは、公安のおまはりは決してやつてはならんことだ。
三島由紀夫「喜びの琴」より

36 :
俺はな、ずうーつと前からよ、ずうーつと前から松村を臭いと思つとつたよ。あいつと佐渡との関係も臭いと
睨んどつたよ。カンだな。永年のカンちふものは怖ろしいよ。あいつの目つきから、顔つきから、何から何まで
気に入らない。何かよくわからないが、プーンとアカの匂ひがしとつたんだね。垢の匂ひか。まあ、おんなじ
やうなもんさ。アカは匂ひを立てよるよ。腐つた魚みたやうな。お前、留置場の匂ひを知つとるだろ。あれだ。
はじめから暗い場所へ入るやうにできてる人間は、さういふ匂ひを立てる。今ごろ松村は、いちばん自分の匂ひに
ぴつたりの場所にゐるわけだよ。さうだよ。なあ。
三島由紀夫「喜びの琴」より

37 :
片桐:あなたきこえるんですね。あの琴が。
川添:きこえるとも。たしかにきこえる。
片桐:実は、僕にもきこえるんです。……どうです。あの澄んだ、静かな、心の休まるやうな
やさしい音楽。
川添:お前もきこえるのか。
片桐:さうです。今きこえはじめたんです。しかし今、僕は一寸ミスをやりました。
川添:ミスつて?
片桐:うつかり同僚に「あれがきこえるか」つて訪ねてしまつたんですよ。どうやら
やつらにはきこえないらしいんです。自分一人にきこえるんだつたら、それを秘密にして
おくべきですね。
川添:わしはみんな喋つちまふ。だから莫迦にされるんだ。
片桐:あ、きこえる。きこえる。みんなにはきこえないんだ。
川添:わしら二人だけだ、この世界に。
片桐:いつかみんなにきこえるやうになりませんかね。
川添:無理だらう。わしはどれだけみんなに宣伝したか。何しろ天からまつすぐに、
澄み切つた琴の音が落ちてくるんだから。
三島由紀夫「喜びの琴」より

38 :
この世の絶頂の倖せが来たとき、その幸福の只中でなくては動かぬ思案があるのです。
その思案は波間をかすめる太刀魚の背鰭のやうに、幸福の海へ舟出をしてゐる時でなくては
見えないのです。
一つの建築が一つの夢になり、一つの夢が一つの現実になる。さうやつて巨大な石と
おぼろげな夢とは永遠の循環をくりかへすのだ。
今の王様にとつては、ただこのお寺の完成だけがお望みなのだ。そしてお寺の名も、
共に戦つて死んだ英霊たちのみ魂を迎へるバイヨンと名づけられた。バイヨン。王様は
あの目ざましい戦の間に、討死してゐればよかつたとお考へなのだらう。
この世のもつとも純粋なよろこびは、他人のよろこびを見ることだ。
三島由紀夫「癩王のテラス」より

39 :
私の前にはただ闇があるだけ。色もない。形もない。死も私にははじめて会つたやうな
気がしないだらう。なぜならそれは、この世と一トつづきの闇に他ならぬからだ。
精神は必ず形にあこがれる。
崩れたもの、形のないもの、盲ひたもの、……それは何だと思ふ。それこそは精神のすだただ。
おまへが癩にかかつたのではない。おまへの存在そのものが癩なのだ。精神よ。おまへは
生れながらの癩者だつたのだ。
何かを企てる。それがおまへの病気だつた。何かを作る。それがおまへの病気だつた。
俺の舳(みよし)のやうな胸は日にかがやき、水は青春の無慈悲な櫂でかきわけられ、
どこへも到達せず、どこをも目ざさず、空中にとまる蜂雀のやうに、五彩の羽根をそよがせて、
現在に羽搏いてゐる。俺を見習はなかつたのが、おまへの病気だつた。
青春こそ不滅、肉体こそ不死なのだ。……俺は勝つた。なぜなら俺こそがバイヨンだからだ。
三島由紀夫「癩王のテラス」より

40 :
森:…やつぱりこんなに月の明るい静かな秋の夜だつた。兵隊たちは忍び足で、まつ白な
月かげに剣附鉄砲を光らせて、浜づたひにやつて来たのだ。クウ・デタ。失敗したにしろ、
栄光にみちた言葉だ。とにかく十・一三事件はすばらしい事件だつた。わしはその二年前、
大蔵大臣に任ぜられて、時の内閣に列なつたときよりも、十・一三事件に狙はれたときのはうが、
もつと高い栄光の絶頂に立つてゐたのだ。
豊子:いつもそれを仰言るのね。そのときは慄へていらしたくせに。
森:わしが怖がつたの怖がらなかつたのといふことは問題ぢやない。狙はれたといふことだけが
重要なんだ。暗者に、それも一個中隊の叛乱軍に狙はれる。これこそ政治家の光栄の
絶頂だ。よくも狙つてくれたものだ。あの若い兵隊たちの鼻の上には、いつも憎いわしの
銅像が、国賊の銅像、資本家どもの守り神の銅像が、のしかかつて笑つてゐたのだ。
あの一人一人の兵隊の鼻の上に、昼となく、夜となく……。あとでそれを思ふと、わしは
喜びでぞくぞくしたもんだ。
三島由紀夫「十日の菊」より

41 :
あのころ上層部の生活のちよつとした動きまでが、下級将校の耳にピリリと伝はつた。
同じ血潮の夢をゑがきながら、あんなにまで老人と若者がお互ひに近づいたことはなかつた。
あいつらは知つてゐた、百梃の機関銃の前には内閣も大銀行もフェルトの帽子のやうに
脆いことを。あいつらは一寸それを頭にのつけて洒落てみたいと思つたのだ。実に
若者らしい夢だつた。そのためには老衰した水つぽい血がほんのすこし流れればよかつたのだ。
……それでもお父さんはされはしなかつたぞ! 若者たちの夢を裏切つてやることが、
大人たちのつとめだからだ。いや、そんなに固苦しくいふことはない。わしはやつらの夢を
愛してゐたから、するりと身をよけて遠くのはうから、やつらの夢を嘲笑つてやることも、
同じやうに愛してゐたわけだ。……わかるかね、豊子。……十六年前の今夜、白刃と
ピストルと機関銃とに取り巻かれてゐた輝やかしいわしが、今夜はかうして、不恰好な
トゲだらけのサボテンに囲まれてゐる。……いいかね。これが人生といふものだ。
三島由紀夫「十日の菊」より

42 :
怨みは時が積れば忘れもしようが、一旦人に施した恩は忘れようとしたつて忘れられる
ものぢやない。
稲妻のやうにあの事件が、青い光りをここの御家族へ投げ入れます。……あの晩、はつきり
申し上げますわ、私は旦那様の妻でした。誰も否定できませんわね、旦那様。あの晩私は、
この身一つであなたに歓びを与へ、この身一つであなたのお命を助けようとしてゐる
完全無欠な妻でした。
歴史といふ奴はごみための封印さ。たつた一行書き直しても、封印が破けてしまふ。
そしてそこから数しれない怪物が、翼をひろげて飛び出すのだ。
酔つぱらひの介抱役がいつも介抱するめぐり合はせになるやうに、一度人助けをしたら
どこまでも人を助ける羽目になるものかしら? 私はゆうべ今さらながら、しみじみと
感じたの。助けた人間と、助けられた人間とは、決してわかり合ふことなんかない。
それは王様と乞食みたいに、別々の世界にとぢこめられた人間なんだつて。
三島由紀夫「十日の菊」より

43 :
重高:菊さん、死んだやつはみんな仕合せだ思はないかね。こんな澄んだ秋の朝空には、
死んだ奴らの霊が喜々として戯れてゐる。空は奴らの霊でひしめいてゐる。満員の
高架鉄道みたいに。しかし肩をすり合はせ、肱をすり合はせてゐても、奴らは厭ぢやない。
個体といふものがなくなつて、透明な全体の中に溶け合つてゐるからだ。……われわれのやうに、
生きてゐるといふことは、つまり何ものかに嘲られてゐるといふことだ。その大きな
嘲笑ひの前には、われわれはちつぽけな虱(しらみ)だよ。
菊:さういふ考へ方もございませうね。しかし生れついての虱だつたら、そんな風に
考へることはございますまい。
豊子:あ、男がコートを草に敷いて、女と並んで座つたわ。女の肩に手をかけた。……
女の肩にはどうしても男の固い重い掌が要るんだわね。恋が女の制服なら、男の重い掌は
そのいかつい肩章なのね。あの掌から女の体に伝はつて来るもの、あれは濃い葡萄酒を
血のなかへ注ぎ込むやうなものだわね。
垣見:さあ、どうでございませうか。ずいぶん感じの鈍い女も沢山をります。
三島由紀夫「十日の菊」より

44 :
豊子:…時折風に乗つて、あの若い動物たちの麝香の匂ひがここまで伝はる。若いの。
どれもこれもみな若い。あの若さが潮風みたいに、当つてゐるときは気がつかなくても、
あとでひりひりするいやな痛みをこちらの肌に残すの。若いといふことがどうしてそんなに
偉いんでせう。
垣見:第一腰が痛みません。関節が痛みません。それだけでも大したことでございます。
豊子:若いといふことは非難や中傷とおんなじで、人を陥れる働らきをするんだわ。
若さといふものは陰謀なんだわ。悪辣な陰謀なんだわ。さうでなければ、「私たちは若い」
と語つてゐる男や女の目が、あんなにお互ひに素速い親密な目くばせをすることなんか
できない筈だわ。
垣見:陰謀なんて、そりやあ御思ひすごしでございませうな。強ひて云へば、同盟といふ
やうなものかもしれません。いづれにしましても、あんまりお金には縁のない同盟なんでして。
三島由紀夫「十日の菊」より

45 :
菊:醜い裏切りが美しい犠牲に、化けられるとでも仰言るんですか。助けられた人が
助ける人に成り変れるとでもお思ひなんですか。いいえ、決してそんなことが……
重高:今度は俺が君の確信をこはす番だ。一生のうちにたつた一瞬かもしれないが、
人間はその役割を交換することができるんだ。それができなかつたら、人生に一体何の
値打がある。その一瞬が今朝来たんだ。
重高:…今しがたわかつたんだ。津波はあの海から起るのぢやない。津波は或る朝、
俺の中の死んだ海から、来る日も来る日もいくら釣糸を垂れても魚一つかからない死んだ
海の只中から、突然起るんだと。それがわかつたんだ! 菊さん、津波は今起つたんだよ、
疑ひやうもなく。
三島由紀夫「十日の菊」より

46 :
森:…ところでわしにも、お前の知らない思ひがあつたのだ。例の事件の只中に、
わしがその抜け穴から逃げ出して、暗い山道を駆けてゐたために、つひに見ることの
できなかつたのが心残りの……。
菊:何をでございます。
森:お前のそのときの輝やくばかりの裸をだよ。
菊:え?
森:ここにお前のその裸が、百年に一度とないほどの歴史の光りに照らしだされたお前の
裸が、倒れた記念碑のやうに横たはつてゐたのだなあ。兵隊たちの吐きかけた唾のおかげで、
ますます誉れを高めたその美しい裸が。……菊、われわれはそのときこそ一心同体だつたんだ。
罵られ、唾を吐きかけられながら、誰も犯すことのできなかつたその神々しいほどの女の裸は、
正に絶頂に達したわしの栄光の具体的なあらはれだつたのだ。お前の裸がわしの栄光であり、
わしの栄光がお前の裸だつたのだ。……しかし残念なことに、わしはそれを見なかつた。
十六年間、このベッドを見るたびに、ここにわしはその夜のお前の寝姿を思ひ描いた。
本当だよ、菊、本当だよ。
三島由紀夫「十日の菊」より

47 :
若いやつの死だけが、豪勢で、贅沢なのさ。だつてのこりの一生を一どきに使つちやふんだ
ものな。若いやつの死だけが美しいのさ。それはまあ一種の芸術だな。もつとも自然に
反してゐて、しかも自然の一つの状態なんだから。
デカダンばつかりですからね。それにみんな半病人ですから、自分の個体の存続にばかり
気をとられて、国の永遠の生命といふものを見失つてますからな。
喜んで国のために死ぬといふことと、真理探究とは、両立すると俺は思つてゐる。
人間つて、自分が思ひ込んだとほりのものになるものでねえ。ジャン・コクトオが面白い
ことを言つてゐる。「ヴィクトル・ユウゴオは、自らヴィクトル・ユウゴオだと信じた
狂人だつた」と。諸君はひよつとすると、自ら無気力だと信じてゐる狂人なんぢや
ありませんかね。
日本が敗けたことが何ともないのか。だから俺はインテリがきらひなんだ。の
ない男をインテリといふんだよ。があつたら、祖国が野蛮人の前に膝を屈するのを
黙つて見てゐられるか。
三島由紀夫「若人よ蘇れ」より

48 :
占領とは何だ。占領とはつまり、自分の国の幻滅のありたけをその国へ持ち込んで、
そこで幻滅のない国を夢みることだよ。
しばらく物を云はないで。……その窓にあなたのきれいな横顔がある。実に贅沢で、
豪華な横顔ですよ。あれだけの戦争を、いつときのシャワーみたいにくゞり抜けてきて、
日本の古い歴史の高価で蕩な血を伝へて本当の東洋の貴婦人らしいあなたの横顔がある。
伊津子:あなたは小さなかはいゝ箱庭を手にお入れになつたのね。でもさうやつて、
人を命令して従はすのつて、すてきでせうね。人をだましたり、人と相談したりして、
結局自分の思ふところへ引張つてゆくといふのは……何だか卑怯みたいね。
エヴァンス:それが民主々義といふもんです。
神様を信じてゐて悪いことをするはうが、信じてゐないでするよりもすてきぢやなくて。
三島由紀夫「女は占領されない」より

49 :
私、占領された日本の男の人たちから、「占領された」つていふ悲しい顔をとつてあげたいの。
哀れな、卑屈な、不如意な男の人たちの顔を、みんな私の顔みたいに、明るくて、呑気で、
のびのびした顔にしてあげたいの。だつて女といふものは、やすやす占領なんかされて
ゐないんですもの。
日本といふ国は、占領軍がゐたつてゐなくたつて、蜘蛛の巣におつこちた蝶みたいに、
何一つ思ひ切つたことはできないやうになつてるんだ。
僕のたくさんの上官も、その上に威張り返つてゐるマッカーサーも、いや、最高政策を
刻々ワシントンから指令して来るあのオールマイティの連合国委員会も、何一つ、誰一人、
絶対の意志と絶対の権力を持つてゐるやつはゐないんだ。すべては世界の潮流のまゝに
流されてゐる木切なんだ。大きい木切も、小さい木切も。……ごらん。夜の海のまつくらな面が、
ふくらんだり退いたりしてゐる。潮の流れが沖のとほくのはうからすべてを支配してゐる。
それに従つて木切は動く。そして自分で動いたと思つてゐる。……僕も木切にすぎない。
さうして君も……。
三島由紀夫「女は占領されない」より

50 :
エヴァンス:僕は一生わすれないだらう。
伊津子:私のことは忘れてもいいわ。たのしさだけはおぼえてゐてね。
エヴァンス:何もかも、僕は一生わすれないだらう。年をとると、何もかもがたのしい
夢のやうに思へてくるだらう。占領政策だの、焼趾だの、革新党内閣だのはみんな
忘れられて、広重の描いたやうな小さな可愛らしい日本だけが残るだらう。それだけが
僕の一生の夢、小さな幸福の思ひ出になるだらう。
伊津子:そのときなら私も安心して、絵の中の女になるでせう。白髪のおばあさんに
なつたときの私なら、喜んで今の私を、絵の中の女だと思ふでせう。
三島由紀夫「女は占領されない」より

51 :
大切なのは今といふ時間、今日といふこの日だよ。その点では遺憾ながら、人のいのちも
花のいのちも同じだ。同じなら、悲しむより楽しむことだよ。
楽しみといふものは死とおんなじで、世界の果てからわれわれを呼んでゐる。その輝やく声、
そのよく透る声に呼ばれたら最後、人はすぐさま席を立つて、出かけて行かなくちやならんのだ。
相容れないものが一つになり、反対のものがお互ひを照らす。それがつまり美といふものだ。
陽気な女の花見より、悲しんでゐる女の花見のはうが美しい。
三島由紀夫「熊野」より

52 :
むかし俗悪でなかつたものはない。時がたてば、又かはつてくる。
私を美しいと云つた男はみんな死んぢまつた。だから、今ぢや私はかう考へる。
私を美しいと云ふ男は、みんなきつと死ぬんだと。
どんな美人も年をとると醜女になるとお思ひだらう。ふふ、大まちかひだ。美人は
いつまでも美人だよ。今の私が醜くみえたら、そりやあ醜い美人といふだけだ。
一度美しかつたといふことは、何といふ重荷だらう。そりやあわかる。男も一度戦争へ行くと、
一生戦争の思ひ出話をするもんだ。
人間は死ぬために生きてるのぢやございません。
僕は又きつと君に会ふだらう、百年もすれば、おんなじところで……。
もう百年!
三島由紀夫「卒塔婆小町」より

53 :
いろんな感情の中に、同時にあたくしが居ます。いろんな存在の中に、同時にあたくしが
居たつて、ふしぎではないでせう。
高飛車な物言ひをするとき、女はいちばん誇りを失くしてゐるんです。女が女王さまに
憧れるのは、失くすことのできる誇りを、女王さまはいちばん沢山持つてゐるからだわ。
昼のあとに夜が来るやうに、苦しみはいづれ来ますわ。
六条:どうしてこの世に右と左が、一つのものに右側と左側があるんでせう。今あたくしは
あなたの右側にゐるわ。さうすると、あなたの心臓はもうあたくしから遠いんです。
もし左側にゐるとするわ。さうすると、あなたの右の横顔はもう見えないの。
光:僕は気体になつて、蒸発しちまふほかはないな。
六条:さうなの。あなたの右側にゐるとき、あたくしにはあなたの左側が嫉ましいの。
そこに誰かがきつと坐るやうな気がするの。
三島由紀夫「葵上」より

54 :
複雑な事情などといふものは、みんなただのお化けなのですわ。本当は世界は単純で
いつもしんとしてゐる場所なのですわ。少なくとも私はさう信じてをります。ですから
私には、闘牛場の血みどろの戦ひのさなかに、飛び下りて来て平気で砂の上を、不器用な
足取で歩いてゆく白い鳩のやうな勇気がございます。私の白い翼が血に汚れたとて、
それが何でせう。血も幻、戦ひも幻なのですもの。私は海ぞひのお寺の美しい屋根の上を
歩く鳩のやうに、争ひ事に波立つてゐるお心の上を平気で歩いて差上げますわ……。
この世の終りが来るときには、人は言葉を失つて、泣き叫ぶばかりなんだ。たしかに僕は
一度きいたことがある。
背広といふ安全無類の制服、毎日毎日のくりかへしの生活に忠実だといふ証文なんですね。
三島由紀夫「弱法師」より

55 :
僕の魂は、まつ裸でこの世を歩き廻つてゐるんだよ。四方に放射してゐる光りが見えるでせう。
この光りは人の体も灼くけれど、僕の心にもたえず火傷をつけるんです。ああ、こんな風に
裸かで生きてゐるのは実に骨が折れますよ。実に骨が折れる。僕はあなた方の一億倍も
裸かなんだから。……ねえ、桜間さん、僕はひよつとすると、もう星になつてるのかもしれないんです。
川島:われわれはみんな恐怖のなかに生きてゐるんだよ。
俊徳:ただあなた方はその恐怖を意識してゐない。屍のやうに生きてゐる。
俊徳:みんな僕をどうしようといふんだらう。僕には形なんか何もないのに。
級子:形が大切なんですよ。だつてあなたの形はあなたのものぢやなくて、世間のものですもの。
三島由紀夫「弱法師」より

56 :
年齢が何だつて言ふんです! 年齢が! 年齢といふものはね、一筋の暗闇の道なんです。
来し方も見えず、行末も見えない。だからそこには距離もないし、止つてゐるも歩いてゐるも
同じこと、進むのも退くのも同じこと、そこでは目あきも盲らになり、生きてゐる人間も
亡者になり、僕同様杖をたよりに、さぐり足でさまよつてゐるにすぎないんです。
赤ん坊も老人も青年も、つまりは同じ場所で、じつと身を寄せ合つてゐるのにすぎない。
夜の朽木の上にひつそりと群れ集まつてゐる虫のやうに。
三島由紀夫「弱法師」より

57 :
僕はたしかにこの世のをはりを見た。五つのとき、戦争の最後の年、僕の目を炎で灼いた
その最後の炎までも見た。それ以来、いつも僕の目の前には、この世のをはりの焔が
燃えさかつてゐるんです。何度か僕もあなたのやうに、それを静かな入日の景色だと
思はうとした。でもだめなんだ。僕の見たものはたしかにこの世界が火に包まれてゐる
姿なんだから。
(中略)
世界はばかに静かだつた。静かだつたけれど、お寺の鐘のうちらのやうに、一つの唸りが
反響して、四方から谺(こだま)を返した。へんな風の唸りのやうな声、みんなでいつせいに
お経を読んでゐるやうな声、あれは何だと思ふ? 何だと思ふ? 桜間さん、あれは
言葉ぢやない、歌でもない、あれが人間の阿鼻叫喚といふ奴なんだ。
僕はあんななつかしい声をきいたことがない。あんな真率な声をきいたことがない。
この世のをはりの時にしか、人間はあんな正直な声をきかせないのだ。
三島由紀夫「弱法師」より

58 :
不満といふものはね、お嬢さん、この世の掟を引つくりかへし、自分の幸福をめちやめちやに
してしまふ毒薬ですよ。
自然と戦つて、勝つことなんかできやしないのだ。
三島由紀夫「道成寺」より
もう一度仰言つて下さい。「許しませんよ」ああ、それこそ貴婦人の言葉だ。生れながらの
けだかい白い肌の言はせる言葉だ。私はその言葉が好きです。どうかもう一度……
三島由紀夫「朝の躑躅」より
太七:船軍で攻められては
源五:たちまち雑魚の佃煮で
弥三:茶漬にして喰はるるまで
岩次:胃の腑の地獄の三丁目
玉市:鱗で涙が
一同:拭かれうか。
人は最期の一念によつて生(しやう)を引く。ふたたび波の越えざる隙に、とくとく
追ひつき奉らん。
三島由紀夫「椿説弓張月」より

59 :
女はシャボン玉、お金もシャボン玉、名誉もシャボン玉、そのシャボン玉に映つてゐるのが
僕らの住んでゐる世界。
女の目のなかにはね、ときどき狼がとほりすぎるんだよ。
女の批評つて二つきりしかないぢやないか。「まあすてき」「あなたつてばかね」
この二つきりだ。
子供が生れる。こんなまつ暗な世界に。おふくろの腹の中のはうがまだしも明るいのに。
なんだつて好きこのんで、もつと暗いところへ出て来ようとするんだらう。
三島由紀夫「邯鄲」より
お嬢さま、色恋は負けるたのしみでございますよ。
あたしあなたの、その不死身が憎らしいの。誰も愛さないから、誰からも傷を負はない。
お母様がさういふあなたをどんなに憎んでどんなに苦しんで来たか、よくわかつたわ。
苦しみを知らない人にかかつたら、どんな苦しみだつて、道化て見えるだけなのよ。
三島由紀夫「只ほど高いものはない」より

60 :
世界といふものはね、こぼれやすいお皿に入つてゐるスープなの。みんなして、それが
こぼれないやうに、スープ皿のへりを支へてゐなければなりませんの。
僕はどこまでも行くんだよ。たくさんの雲が会議をひらいてゐるあの水平線まで……。
人間の住む屋根の下では、どんなことでも起るんだよ。
飲みのこしたコーヒーはだんだん冷えて、茶碗の底に後悔のやうに黒く残るの。それは
苦くて甘くて冷たくて、もう飲めやしないの。コーヒーは美味しいうちに飲んで、さうね、
何もかも美味しいうちに飲み干して、それから、「おはやう」を言ふときのやうに元気に、
「さよなら」を言はなければ……。
三島由紀夫「薔薇と海賊」より

61 :
帝一:「さよなら」を言ふときも、「おはやう」を言ふやうに朗らかに、つて君言つたよね。
楓:ええ。
帝一:牛配達も来ない朝、窓のカーテンの隙間に朝の光りが、金いろの若草が生ひ
茂つたやうに見えもしない朝、鷄といふ鷄はされて時も告げない朝、……もし今が
朝だつたら、そんな朝だもの。どうして「おはやう」つて言ふだらう。そんな朝には誰だつて、
「さよなら」つて言ふだらう。さうしてされた鷄のために泣くだらう。
楓:ちらばつた血まみれの羽が、朝風にひらひら飛んでも、朝が来れば私たちは、
「おはやう」と言はなくては。
三島由紀夫「薔薇と海賊」より

62 :
定代の幽霊:薔薇は枯れることがございません。
勘次の幽霊:この世をしろしめす神様があきらめて、薔薇に王権をお譲りになつた。
定代の幽霊:これがそのしるしの薔薇、
勘次の幽霊:これがその久遠の薔薇でございます。
定代の幽霊:薔薇の外側はまた内側、
勘次の幽霊:薔薇こそは世界を包みます。
定代の幽霊:この中には月もこめられ、
勘次の幽霊:この中には星がみんな入つてをります。
定代の幽霊:これがこれからの地球儀になり、
勘次の幽霊:これがこれからの天文図になるのでございます。哲学も星占ひも、みんな
この凍つた花びらのなか、緋いろの一輪のなかに在るのでございます。
三島由紀夫「薔薇と海賊」より

63 :
恋愛といふやつは、単に熱なんです。脈搏なんです。情熱なんていふ誰も見たことのない
好加減な熱ぢやない、ちやんと体温計にあらはれる熱なんです。
恋愛といふのは、数なんです。それも函数(かんすう)なんです。五なら五、六なら六だけ
生へ近づく、それと同時に、おなじ数だけ死へ近づくといふ、函数なんです。
夜の空に太陽を探しだすのはむづかしい。向日葵が戸惑つてゐるのも無理はない。
……しかし夜は長くない。いづれ朝が来る。向日葵は朝になればにつこりする。
三島由紀夫「夜の向日葵」より

64 :
あなたらしさつていふものは、あなたの考へてゐるやうに、人が勝手にあなたにつけた
仇名ぢやない。人が勝手にあなたの上に見た夢でもない。あなたらしさつていふものは、
あなたの運命なんだ。のがれるすべもないものなんだ。神さまの与へた役割なんだ。
人のために生きるのが偶像の運命ですよ。
あたくしは人造真珠なの。どこまで行つてもあたくしは造花なの。もしあたくしが豚だつたら、
真珠に嫉妬なんか感じはしないでせう。でも、人造真珠が自分を硝子にすぎないとしじゆう
思つてゐることは、豚が時たま自分のことを豚だと思つたりするのとは比べものにはならないの。
大丈夫よ、自分を本当の真珠だと信じてゐれば、硝子もいつかは真珠になるのよ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より

65 :
豊:美濃子! 俺の気持がわからないのか。
美濃子の声:いけません。いけません。あなたの気持などを仰言つては。
豊:美しい美濃子! 俺の二十歳の生涯に、君ほど美しい人は見たことがない。
ある日、天から降つた花びらのやうに、君の清らかな姿は、俺の瞼に落ちかかり、
俺の目をふさいでしまつた。それからといふものは、世界は俺にとつては一片の花びらだつた。
世界は君の姿の形、一片の花びらの形になつた。美濃子! 君のおかげで、意味あるものは
意味を失ひ、とるにたらぬものが香りを放つた。むかしは荒野が俺の住家、今はその住家が
いとはしい、君のやさしい顔の小函、それを夜も昼も家に飾つて、眺めあかして暮らすので
なくては、美濃子、俺の住家はもう墓場だ。それがなくては俺は屍、その小函だけで
世界の幸が買へるのだ。美濃子、君が好き、君が好き、君が好きだ。
美濃子の声:私を好いてはいけません。
豊:なぜだ。
美濃子の声:私たちは結ばれない星の下に生れたのです。
三島由紀夫「美濃子」より

66 :
僕たちにおそろしい妄想を見せるのは臆病といふ病気ですよ。僕たちを縛つてゐるのは
僕たち自身ぢやありませんか。みんな仮の名に、仮の姿におびえてゐるんです。
幸福な思ひ出は不幸な思ひ出よりも人を臆病にさせるものなのよ。
三島由紀夫「灯台」より
恋と犬とはどつちが早く駆けるでせう。
さてどつちが早く汚れるでせう。
恋愛といふやつは本物を信じない感情の建築なんです。
笑ひなさい! いくらでも笑ひなさい! ……あんた方は笑ひながら死ぬだらう。
笑ひながら腐るだらう。儂はさうぢやない。……儂はさうぢやない。笑はれた人間は
死にはしない。……笑はれた人間は腐らない。
今の世の中で本当の恋を証拠立てるには、きつと足りないんだわ、そのために死んだだけでは。
三島由紀夫「綾の鼓」より

67 :
共産主義は資本主義経済内部の一現象にすぎん。資本主義に出来たおできみたいなものだな。
いづれは凹まなければならんものだ。あれは「理想」といふものぢやない。
君にはわからない。おほぜいの盲人の中で、自分一人目がさめてゐると感じることが
どんな苦しみだか。気違ひの中で自分一人が正気だと感じ、大ぜいの馬鹿の中で自分一人が
利巧だと感じること、こいつは決して永保ちのする感じ方ぢやない。もし永保ちすれば、
それは偽物だね。
理想に殉ずるといふことは美しいことだ。
人間が作つたものは、大きければ大きいほど、広ければ広いほど、高ければ高いほど、
不安定になつてしまふ。
がむしやらにうどんを呑み込むやうに時間といふ奴をつるつる呑み込んで、いつか
そのうちに顎の下に山羊みたいなまつ白な毛が生えてくるのを待てばいいのさ。
人生といふ奴は毛生え薬だ、同時に脱毛剤さ。
三島由紀夫「魔神礼拝」より

68 :
誰だつて空想する権利はありますわ。殊に弱い人たちなら。
余計なことを耳に入れず、忌はしいものを目に入れないでおくれ。知らずにゐず、
聴かずにゐたい。俺の目に見えないものは、存在しないも同様だからさ。
夢をどんどん現実のはうへ溢れ出させて、夢のとほりにこの世を変へてしまふがいい。
それ以外に悪い夢から治ることなんて覚束ない。さうぢやないこと?
喜んだ顔をしなくてはいけないから喜び、幸福さうに見せなくてはいけないから幸福に
なつたのよ。いつまでも羽根のきれいな蝶々になつてゐなくてはならないから、蝶々に
なつたのよ。
一度枯れた花は二度と枯れず、一度死んだ小鳥は二度と死なない。又咲く花又生れる小鳥は、
あれは別の世界のこと、私たちと何のゆかりもない世界のことなのよ。
淋しさといふものは人間の放つ臭気の一種だよ。
三島由紀夫「熱帯樹」より

69 :
あたしも暴力はきらひだわ、でも女はか弱いものなのよ。か弱いものが暴力をもつのは
合理的なことだわ。象はおとなしいけど、蜂はすぐ刺すでしよ。
三島由紀夫「溶けた天女」より
残酷だつて思ふのは人間だけだよ。小鳥だつて、花だつて、樹だつて、もつと残酷な世界に
しづかに生きてゐるんだ。ごらん、むかうの松林、樹といふ樹が、海風にさらされて、
ものも云はずに、しづかに立つてゐる。あの樹があんなに静かな様子をしてゐるのは、
人間よりももつと残酷な心を隠し持つてゐるからかもしれないんだ。それといふのも、
心なんかを想像してみるからなんだよ。心が在ると思ふからだよ。心がなければ、
残酷さなんて生れないんだ。
三島由紀夫「三原色」より

70 :
朝は、朝はなあ、自炊の朝飯を喰つて、軽い体操をして、晴れた日には、灯台の前の
空地の旗竿に、WAYの旗をあげる。W……A……Y。『汝の愉快なる航海を祈る』か。
朝風に旗がひらひらする。一寸した幸福。旗つてやつは、風がはらむと、幸福らしくなる。
しかし弔旗つてやつもあつたな。まあ、どつちでもいいや。幸福でも不幸でも、
旗つてやつは、感情に訴へるよ。心なんてあんなものだ。風をはらめば、ひらひら、ひらひら。
風がなければ死んでしまふ。内容は風だけなんだ。それだけなんだ。
三島由紀夫「船の挨拶」より
死といふやつは、当り籖(くじ)のやうに身をひそめてゐるんです。
三島由紀夫「大障碍」より

71 :
凍てたる轍は危なやなう。
蹄は裂けて痛やなう。
もうおお、鼻輪は血ゆゑに濡れたわなう。
もうおお、なう、もうおお、なう。
三島由紀夫「室町反魂香」より
猿源氏:…輿の内なる上臈を、一目見しより恋となり、あけくれ思ひ煩ひて、心もそぞろの
呼び声が、かくの始末にござりまする。
海老名:ウム、そんなら恋の病ゆゑ。
猿源氏:ハイ面目次第もござりませぬ。
海老名:これはまたおやぢにも似ぬ不甲斐のないせがれぢや。折ふし教へおきたるとほり、
恋の手引は、ナウ、それ敷島の道ぢや。物の本にも、「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
男女(をとこをうな)の仲をも和らげ」とある。老いたりといへどもこの海老名、
せがれが恋歌の仲立は、胸三寸にあるわいやい。
猿源氏:チエエ忝(かたじけな)い、おやぢどの。なあみだぶつ。なあみだぶつ。
したが相手は雲の上人、こなたは卑しき鰯売、叶はぬ恋となりにけるかな。
三島由紀夫「鰯売恋曳網」より

72 :
人間はみんなこの地球の上の居候さ。
……ほら、二階の窓があきます。喪服の老夫人が謡をうたつてゐます。あれは日本の悲しみと
過去の象徴なの。あそこから死と思ひ出の歌がひびいて来ます。それから……ほら、
中二階の茶室の障子があきます。静かな中年の夫婦がお茶のお点前をしてゐます。あれが、
何もかも忙しさの中に見失ふ年ごろの人たちに、静けさの意味を教へるんですわ。ええ、
もちろんお客様はいつでもあの部屋へ行つて、お茶を習ふことができます。……今度は……
ほら、向うの橋から、凛々しい若者がやつて来ました。あれこそ日本の雄々しい若さ、
それもつつしみ深い、礼儀正しい若さの姿ですわ。日本の青年はみんな全学連に入つて
ゐたり、町角で女の子をからかつてゐるわけぢやありません。もしお客様がお望みなら、
あの人はよろこんで弓の手ほどきをするでせう。どう? これが私たちの独特のホテルの
おもてなしなのよ。
三島由紀夫「恋の帆影」より

73 :
この左手が春の橋、私たちのくぐつてきたあの橋が夏の橋、家のうしろに秋の橋と冬の橋が
あつて、家のまはりがみんなああいふ低い粗末な橋に囲まれて、だからむかしこの邸は、
四つ橋屋敷と呼ばれてゐましたの。(中略)
梅さんの操るこの小さな和船、そして今にも落ちさうな朽ちかけた小さな橋、それだけが
この家と外界をつなぐよすがなんです。舟が沈み、橋が朽ちたら、ここは外界から
ぱつたりと縁を絶たれ、ここにあるすべてが本当の夢になるんです。今いらしたせまい川を、
梅さんの小舟が、まるで体をすりつけて甘える小猫みたいに、あやめのまじる川岸の草に、
船ばたをこすりつけながら来たでせう。あれでなくてはいけないんだわ。両側の岸から
さし交はす枝々が、たえず木影を舟に辷らせ、ときどき真菰(まこも)の草むらから
かはせみが翔つ。それでなくてはいけないんだわ。ここではすべてが何かから護られ、
じつと大人しく日本の美しさの中に閉ぢこもつてゐることができるんです。帆舟なんて、
ざわざわと風にはためく帆舟なんて、決してそんなものが……。
三島由紀夫「恋の帆影」より

74 :
お客とは何ぞや。それは不幸な、いらいらした、始終幸福を求めてゐる人たちなのです。
ホテルの窓の数ほどに沢山な苦情の種子を見つけ、自分がホテルからどの程度に重んじられて
ゐるかを気にし、水道の出が一寸わるくても、ドアの鍵の具合が一寸わるくても、忽ち
そのホテルを三流ホテルときめつけます。それといふのも、偶然の故障などといふものを
お客はみとめず、それをすべて自分が軽んじられてゐる証拠だと思ひ込むからです。
何故自然をありのままに売物にできないんです。私たちの自然な日本人の生活を、
不自由は百も承知で、そのまま売物にできないんです。
みゆき:私たちは世界に対して閉ざされた宝石になるのですね。日本の美しさと艶やかさを、
氷の中の花にしてしまひ、誰にも手を触れさせないで、誰にも微笑を向けて暮すんですね。
正:それこそ姉さん、あなたにぴつたりのホテルですよ。
三島由紀夫「恋の帆影」より

75 :
みゆき:…本当の姉弟がこんなことをするかしら? 本当の弟がこんな風に姉さんの胸を
探るかしら? 本当の姉弟がこんな風に? 今、喜死鳥(かはせみ)が立つたわ、青い
羽根をかがやかせて。ああ、私たちは何度もここへ帰つてくる。そこでは世間は嘘の鎧で
しつかりと私たちを護つてくれ、その中で私たちの体は虹のやうに融ける。嘘は私たちの
ことぢやない。嘘はただ世間が私たちにくれた免罪符だわ。それをまちがへちやいけないわ。
正:なぜあなたは自由が欲しくないんだ。なぜ曇つたままの鏡が好きで、それを拭き取らうと
しないんだ。
みゆき:七色の滴に覆はれた鏡のはうが、ずつときれいに映るからだわ。女には正確な
鏡なんか要らないのよ。
正:今なら僕たちはみんなに大事に護られてきた嘘の温室の硝子屋根を打ち割つて、
公然と……
みゆき:公然と、何をするの?
正:結婚することだつてできるんだ。
みゆき:結婚? まあ、いやだ、そんな下品なこと。
三島由紀夫「恋の帆影」より

76 :
がまがへるの目には、がまがへるが美しいし、俺の目には、こんなおかちめんこが美しいのさ。
地球の目には月が美しく、月の目には地球が美しい。宇宙に鏡があれば地球もその
あばた面の美に目ざめ、ほかのあばた面の星を探しに出かけるだらう。思想家には眼鏡が
美しく、芸術家にはお金が美しい。
あの方を見ると、すべてが救はれ、あの方と話してゐるあひだは、どんな曇りの日にも
青空が見え、雨の夜にも月がかがやくんです。遠くからあの方の紺絣のお姿、弓を手にした
凛々しいお姿を見ただけでも、一日の仕合せが買へるのです。そんな安い私の仕合せなのに、
私の苦しみと不幸はもつと安くて、ほとんど只みたいに無尽蔵に湧いて来ます。同じ水から
生れたものでも、仕合せは虹、不幸は霧、虹はつかのまに消えてしまふのに、霧は全部を
包んでしまふ。……それといふのも、どうしたらあの方に愛されるか、私にはわからない
せゐなんだわ。
三島由紀夫「恋の帆影」より

77 :
啓夫人:今ごろ、あの子は嵐の荒れ狂ふ湖へ、あてどもなく漕ぎ出してゐるんだわ。
啓:罪のない者は美しく死なせてやれ。罪を重ねた奴には、そんな死に方はできやしない。
どうせ脳溢血か胃癌がオチさ。……それに罪のない者がゐなかつたら、あいつらの純白の
カンヴァスがなかつたら、絵具と絵筆はどうして暮したらいいんだね。私たちはその
カンヴァスをいつも探してゐたんぢやないのかね。そして今夜やつとそれを探し当てたんぢや
ないのかね。
みゆき:私は知つてゐます。私たちのことを告げ口されたら、きつとあの娘は死ぬでせう。
それはあの娘が純なばかりでなく、あなたにははつきり女を死なせるだけの力があるわ。
女の私の言ふことだから、まちがひがない。どう? これで満足が行つたでせう。
正:だから僕は……
みゆき:お待ちなさい! さうやつて立上がるあなたは滑稽だわ、啓様の言ふやうに、
自分の己惚れの、自分の魅力のおそろしい結果をたしかめるために、いそいそと
出かけてゆく滑稽な男だわ。
正:ちがふ!
三島由紀夫「恋の帆影」より

78 :
みゆき:…死ぬわ、あなたもあの娘も、助けようとする力がす力になり、お互ひが
生きようとして沈め合ふわ。ああ! 溺れた人のおそろしい力、何か別の力がのりうつり、
底のはうから手助けでもしてゐるやうな、あの夢の中で胸を押へる夢魔よりも非情な力、
あれに取り縋(すが)られたらもうおしまひだわ。死ぬわ、いいえ、あなた一人だけでも。
嵐の中をさすらひ求め、叫ぶ声も涸れ、漕ぐ腕も萎え、舟はまるで茶碗の底へ銀の匙のやうに
らくらくと沈む。あなたは溺れるわ。溺れるわ。水があなたの内側まで充たさうと、
外側からひしめき合つて雪崩れ込む。わかつてゐるの? 水は人の外側から、人が浮ぶのを
支へてゐるのにすぐ倦きる。湖の水は人の内側にあこがれる。そこにどんなに美しい、
どんなに暖かい、水のねぐらがあるかを知りたいんだわ。水は自分の古い親戚の、
海のやうに塩辛い人間の血に、その暖かいねぐらで直に会ひたいんだわ。だから勢ひ込んで、
軍隊のやうに、水はあなたの中へ攻め寄せる。息を追ひ出し、息よりももつと濃い命で
あなたを充たし、……さうしてあなたを自分のものにするために。
三島由紀夫「恋の帆影」より

79 :
狸の銀:心づくしの狸汁で、帰りを待つが子分のつとめ、けふの狸はどうぢや知らぬ。
こりや上乗の狸ぢやわい。
鴉の権:肌あたたむる狸汁
梟の八:おんなじ肌のぬくもるにも
狐の拳:女と狸ぢや大きな相違
熊の胆:都恋しき朝夕なれど
狸の銀:ここの稼ぎもやめられぬ。
鴉の権:ハテ親分はもう帰られさうなものぢやなア。
鴉の権:蝦蟇丸(がままる)親分の
子分一同:おかへりだわい。
鴉の権:シテ今宵の首尾は?
蝦蟇丸:獲物も獲物、二つとない品ぢや。花嫁御寮を連れて戻つたわ。
鴉の権:見れば姿もあでやかに、月にたたずむ姫御前は、まことに菩薩か天人か、
拝んだだけで身がとろける。これは結構なお土産を、ヘイありがたう存じまする。
蝦蟇丸:たはけめ、貴様にやるものか。
鴉の権:そんならどなたの
子分一同:花嫁御寮か。
蝦蟇丸:わしのぢやわい。
鴉の権:モシ親分、それではすみますまい。
蝦蟇丸:何がすまぬ。
鴉の権:ぢやと申して、
蝦蟇丸:シーッ。
子分一同:ヘーイ。
三島由紀夫「むすめごのみ帯取池」より

80 :
菊姫:こりや何の羹(あつもの)ぢやわいなア。
蝦蟇丸:腹中を温むるに、これに如(し)くものなしと古伝の羹、まづ召されい。
菊姫:何やら茶めいたものなれど
鴉の権:ハイ狸汁でござりまする。
菊姫:ヒエエ、狸ぢやとエ。
蝦蟇丸:コリャ姫の御気色直さんため、いつもの踊りを早う早う。
子分一同:ヘーイ。
蝦蟇丸:踊りのあとは盃事、用意の盃、早う持て。
狸の銀:ハア。
菊姫:いかい武張つたお盃、こりや又何のお盃事かいなう。
蝦蟇丸:言はずと知れた、三三九度ぢやわえ。
菊姫:山賊(やまだち)にも似ぬよい殿御と、思ひ定めて来し身なれば、今さらおどろく
いはれもなけれど、夫婦の固めの盃に、無粋な衆の列座もいかが、皆の衆退らしやんせ。
鴉の権:女房気取でぴんしやんと
梟の八:都をしばらく見ぬうちに
狐の拳:とんと近ごろの姫御前は
熊の胆:蓮葉なものでは
子分一同:あるめいか。
蝦蟇丸:何をつべこべ。退れ。退れ。
子分一同:ヘーイ。
三島由紀夫「むすめごのみ帯取池」より

81 :
今宵は望(もち)の橋渡り、七つの橋を願事(ねぎごと)の、心づくしに綿帽子、
三々九度も夢ならず。されどきびしき掟には、
かたき掟も守るべし。お供したやと心せく、二人を尻目にみなはただ、呆然として欲気なく、
小弓は色香も置きわすれ、お座敷がへりの空腹を、勝手馴れたる居催促。
月に芒(すすき)や猫じやらし、猫に小判と言ふものの、小判はほしや、老いづけば、
金よりほかにたよる瀬もなし、お金、お金、お金、お金ほしやの、お月さま。
金と意気地とどつちが大事、それもこの世はあなたまかせの、旦那次第や運次第、
松の太夫の位がほしや、春と秋との踊りにも主役になりたや、お月さま。
忘られぬ、ぬしが面影、映し画よりも、うつつに見たるお座敷で、二言三言交はせしが、
シネマスコープの恋となり。今は何でもハッピー・エンドがわが願ひ、恋よ恋、恋、
映し画になすな恋とは思へども、恋の成就を、お月さま。
三島由紀夫「舞踊台本 橋づくし」より

82 :
どうして作者が主人公を救つたりする必要があるんです、そのためにたとへ地獄へ落ちようと。
安物の小説家は、安手な救済を用意します。あれは安いです。小説の中に
「生きるための手引」なんぞを上手に織り込みます。あれは売薬の広告です。……もちろん
小説を書くといふこと、実在のまねをして人をたぶらかすこと、それは罪だと私は知つてゐます。
だからせめて私は、救済のまねごとまでは遠慮したんです。
私がまねようとした実在、その結果世間の人がみんな信じるやうになつた実在、あの
五十四人の女に愛された光といふ人間は、はじめからそこらにある実在とはちがつて
ゐたんです。どうちがつてゐたか? どうしてそれが特別の実在だつたか? それは
月のやうな実在で、いつも太陽の救済の光りに照らされて輝いてゐた。だから女たちは
その輝やきに魅せられて彼を愛した。彼に愛されれば、自分も救はれるやうな気がしたからです。
三島由紀夫「源氏供養」より

83 :
いいですか。私のしたことはといへば、この救済の光りだけを存分に利用しておいて、
救済は否定したといふことなの。これが天の妬みを買つたんです。そんじよそこらの実在と
安手な救済との継ぎはぎ細工なら、天は笑つて恕すでせうに、私の場合は恕せませんでした。
何故つて光のやうな人間こそ、天が一等創りたい存在だからです。救済の輝やきだけを
身に浴びて、救済を拒否するやうな人間こそ。……わかりますか。天はそれを創りたくても
創れない。何故なら光の美しさの原因である救済を天は否定することができないからです。
それができるのは芸術家だけなんですよ。芸術家は救済の泉に手をさし入れても、
上澄みの美だけを掬ひ取ることができる。それが天を怒らせるのよ。
三島由紀夫「源氏供養」より

84 :
光:僕はもう夢は怖くない。
看護婦:葵さんは夢にされたんですよ。
光:僕は男だ。
看:お気をつけなさい。真夜中にでる幽霊なんかは、知れたものですわ。もつと怖ろしいのは
午後の幽霊なのよ。こんな、何とも云へない退屈な、いい日和の、いつまでもつづきさうに
思へる午後、それは突然現はれるの。午後の幽霊……それに会ふときがあなたの本当の
敗北の時、でもその時こそあなたの本当に自由になる時かもしれないわ。いづれにせよ、
あなたはもうぢきそれにお会ひになるでせう。
光:(時計を見て)さア、もう君は病院へかへらなきやならん時間だぞ。
看:(立上つて)あなたが時間を知らせて下さることはないのよ。
光:(立上つて)I just remembered something funny …………
三島由紀夫「LONG AFTER LOVE」より

85 :
今急に俺の家の猫がペンキ壷を引つくりかへしたやうな気がしたのだ。
それも私の罪ぢやないのさ。私の知つたことぢやないのさ。さつきお前さんが恋人たちを見て、
星だの大空だのと愚にもつかぬことを言つた、それとおんなじ気持に溺れて、いい気持で
死んで行つたんだよ。恋が自然にその身を滅ぼし、夢みただけの報いをうけ、私が手を
下すまでもなく、……さうさ、行き倒れの酔つぱらひの上に雪が静かにふりつむやうに、
やつらの上に死がふりつんだ。
(強く)……私に何の科があるものかね。私の顔の美しさから、つまらぬ幻を引き出して、
その報いに死んだだけのことだもの。それ以来私は、私の顔を美しいといふ男は、きつと
死ぬもんだと思ふやうになつたんだ。
三島由紀夫「LONG AFTER LOVE」より

86 :
私は物と物とがすなほにキスするやうな世界に生きてゐたいの。お金が人と人、物と物、
あなたと私を分け隔ててゐる。退屈な世界だわ。さうぢやなくつて?
きれいな顔と体の人を見るたびに、私、急に淋しくなるの。十年たつたら、二十年たつたら、
この人はどうなるだらうつて。さういふ人たちを美しいままで置きたいと心(しん)から思ふの。
年をとらせるのは肉体じやなくつて、もしかしたら心かもしれないの。心のわづらひと
衰へが、内側から体に反映して、みにくい皺やしみを作つてゆくのかもしれないの。
だから心だけをそつくり抜き取つてしまへるものなら……。
ダイヤでもサファイアでも、宝石の中をのぞいてごらんなさい。奥底まで透明で、
心なんか持つてやしないわ。ダイヤがいつまでも輝いてゐていつまでも若いのはそのせゐよ。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

87 :
小さいときから、宝石のやうに大事にされ、可愛がられて育つてきて、私、買はれるより
盗まれるのを夢みるやうになつたんだわ。
私を欲しがる人は、盗むくらゐの熱がなくつちやいや。厚い硝子の窓に守られ、
天鵞絨(ビロード)の台座に据ゑられた私を、硝子ごしにのぞいて通る人の目の中に、
諦らめや怒りや尊大な強がりや、さういふものが浮ぶのを見るのに飽きて、私はいつか
勇敢な泥棒の目ばかりを待ちこがれるやうになつたんだわ。
若くてきれいな人たちは、黙つてゐるはうが私は好き。どうせ口を出る言葉は平凡で、
折角の若さも美しさも台なしにするやうな言葉に決つてゐるから。あなたたちは着物を
着てゐるのだつて余計なの。着物は醜くなつた体を人目に隠すためのものだもの。
恋のためにひらいた唇と同じほど、恋のためにひらいた一つ一つの毛穴と、ほのかな産毛は
美しい筈。さうぢやなくて? 恥かしさに紅く染つた顔が美しいなら、嬉しい恥かしさで
真赤になつた体のはうがもつときれいな筈。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

88 :
宝石には不安がつきものだ。不安が宝石を美しくする。
人間は眠る。宝石は眠らない。町がみんな寝静まつたあとでも、信託銀行の金庫の中で、
錠の下りた宝石箱の中で、宝石たちはぱつちりと目をひらいてをる。宝石は絶対に夢を
見ないのだ。ダイヤモンドのシンジケートが、値打ちをちやんと保証してくれてゐるから、
没落することもない。正確に自分の値打ち相応に生きてる者が、どうして夢なんか見る
必要があるだらう。あーあ。なあ、さうだらう、早苗? 夢の代りに不安がある。これは
ダイヤモンドの持つてる優雅な病気だ。病気が重いほど値が上る。値が上るほど病気も重る。
しかもダイヤは決して死ぬことができんのだ。……あーあ。宝石はみんな病気だ。
お父さんは病気を売りつけるのだ。澄んだ、光つた、純粋な小さな病気を。透明な病気、
青い病気、緋いろの病気、紫いろの病気。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

89 :
危機といふものは退屈の中にしかありません。退屈の白い紙の中から、突然焙り出しの
文字が浮び上る。
犯人が黒い色で考へるところを僕が白い色で考へて、一枚の写真のやうに、ぴつたり
絵柄が合ふところまで行ければね。なかなかさうは行きません。これだけ沢山の事件を
くぐつて来たのに、犯罪といふものには、僕にどうしてもわからない部分が必ずある。
或る難事件が起るたびに、僕は自分が犯人であつたらなあと思ひますよ。僕が犯人なら
何でも知つてゐて、解けない謎はない筈ですから。だから僕は一心に犯人をまねる。
犯人の考へたやうに考へ、行つたやうに行はうとして精魂を傾ける。……しかしもう一歩の
ところで、惜しいかな、僕は犯人になりきれない、何かが心の中で僕の邪魔をして……。
犯罪といふものには、何か或る資格が要るのです。いいですか。犯人自身にもしかと
つかめない或る資格が。
どんな卑俗な犯罪にも、一種の夢想がつきまとつてゐる。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

90 :
明智:…今発射したところで、射的の人形のやうに忽ち夜が倒れて、そのむかうから朝の
太陽が顔を出す筈もありません。このピストルはただ夢み、常識を逸脱し、一つのことを
待つてゐるのです。一つのこと、つまり、夜がはつきり脈を打ち、体温を帯び、徐々に
動物特有の匂ひを得て、一人の人間の姿に固まつて現はれる瞬間を。
緑川夫人:それでそれがあらはれたら、あなたは法律の名に於て発射なさる……。
明智:いいえ。夢想の名に於て。われわれ私立探偵の役割が刑事とちがふのはそこなんです。
夢想で夢想を罰する。犯罪の持つてゐる夢の要素を、僕の理智のゑがく夢で罰する。
それ以外に何の生甲斐があるでせう。
今の世の中ぢや。善いことといふのはみんな多少汚れてらあね。だからあんた方は
汚れた善いことの味方だから、いつまでもぱつとしないんだよ。そこへ行くと明智先生は
ちがふわね。あの先生はこの世の中で成り立たないやうな善と正義の味方らしいわ。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

91 :
トリックはなるたけ大胆で子供らしくて莫迦げてゐたはうがいいんだわ。大人の小股を
すくふには子供の知恵が必要なんだ。犯罪の天才は、子供の天真爛漫なところをわがものに
してゐなくちやいけない。さうぢやなくて?
私は子供の知恵と子供の残酷さで、どんな大人の裏をかくこともできるのよ。犯罪といふのは
すてきな玩具箱だわ。その中では自動車が逆様になり、人形たちが屍体のやうに目を閉じ、
積木の家はばらばらになり、獣物たちはひつそりと折を窺つてゐる。世間の秩序で
考へようとする人は、決して私の心に立入ることはできないの。……でも、……でも、
あの明智小五郎だけは……
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

92 :
黒蜥蜴:あのときのお前は美しかつたよ。おそらくお前の人生のあとにもさきにも、お前が
あんなに美しく見える瞬間はないだらう。真白なスウェータアを着て、あふむき加減の
顔が街灯の光りを受けて、あたりには青葉の香りがむせるやう、お前は絵に描いたやうな
「悩める若者」だつた。つややかな髪も、澄んだまなざしも、内側からの死の影のおかげで、
水彩画みたいなはかなさを持つてゐた。その瞬間、私はこの青年を自分の人形にしようと
思つたんだわ。
黒蜥蜴:…その夜のうちに、お前は私の人形になる筈だつた。……でも、どうでせう。
気がついてからのお前の暴れやう、哀訴懇願、あの涙……
雨宮:それを言はないで……。
黒蜥蜴:お前の美しさは粉みぢんに崩れてしまつた。死ぬつもりでゐたお前は美しかつたのに、
生きたい一心のお前は醜くかつた。……お前の命を助けたのは情に負けたんぢやないわ。
命を助けてくれれば一生奴隷になると言つたお前の誓ひに呆れたからだわ。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

93 :
今日も何事もなく日が沈む。この大都会、白蟻に蝕まれたやうに数しれない犯罪に
蝕まれたこの大都会に日が沈むんだ。人、強盗、誘拐、強姦……、言葉にしてみれば
他愛もないんだが、みんなその一つ一つに人間の知恵と精力と、怒りと嫉妬と、欲望と
情熱がせめぎ合つてゐる。その一つ一つが狂ほしい道に外れた人間の、それでも全身的な
表現なのだ。こいつのどこから手をつけたらいい? 依頼主か。こりやあ自分のことしか
考へない。犯罪の本質にいつも向き合つて、その焔の中の一等純粋なものを身に浴びなければ
ならないのは僕なのだ。僕には犯罪の全体が見える。それはたえず営々孜々とはげんでゐる
世界一の大工場みたいなものだ。ほとんど無数の工員。昼夜兼帯の作業。あの夕映えを
見てゐると、その工場のものすごく巨大な熔鉱炉のあかりみたいな気がする。……今ごろ
黒蜥蜴はどうしてゐるだらうか?
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

94 :
今の時代はどんな大事件でも、われわれの隣りの部屋で起るやうな具合に起る。どんな
惨鼻な事件にしろ、一般に犯罪の背丈が低くなつたことはたしかだからね。犯罪の着てゐる
着物がわれわれの着物の寸法と同じになつた。黒蜥蜴にはこれが我慢ならないんだ。
女でさへブルー・ジーンズを穿く世の中に、彼女は犯罪だけはきらびやかな裳裾を
五米(メートル)も引きずつてゐるべきだと信じてゐる。……さういふ考へは、僕にも
分らんことはないよ。
僕の惚れ方は相手の手も握らずに、相手をぎりぎりの破局まで追ひつめることしかない。
これほど清潔でこれほど残酷な恋人はないだらう。僕のやさしさは、相手を破滅させる
やさしさで、……これがつまり、あらゆる恋愛の鑑なのさ。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

95 :
明智:この部屋にひろがる黒い闇のやうに
黒蜥蜴:あいつの影が私を包む。あいつが私をとらへようとすれば、
明智:あいつは逃げてゆく、夜の遠くへ。しかし汽車の赤い尾灯のやうに
黒蜥蜴:あいつの光りがいつまでも目に残る。追はれてゐるつもりで追つてゐるのか
明智:追つてゐるつもりで追はれてゐるのか
黒蜥蜴:そんなことは私にはわからない。でも夜の忠実な獣たちは、人間の匂ひをよく
知つてゐる。
明智:人間たちも獣の匂ひを知つてゐる。
黒蜥蜴:人間どもが泊つた夜の、踏み消した焚火のあと、あの靴の足跡が私の中に
明智:いつまでも残るのはふしぎなことだ。
黒蜥蜴:法律が私の恋文になり
明智:牢屋が私の贈物になる。
黒蜥蜴&明智:そして最後に勝つのはこつちさ。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

96 :
この「エヂプトの星」はかうして私の手に渡つて、私の胸にかがやいてゐるのに、
露ほども私に媚を売らうとしない。女王さまの胸につけられてもきつとさうだらう。
宝石は自分の輝きだけで充ち足りてゐる透きとほつた完全な小さな世界。その中へは誰も
入れやしない。……持主の私だつて入れやしない。……人間も同じこと。私がすらすらと
中へ入つてゆけるやうな人間は大きらひ。ダイヤのやうに決して私がその中へ入つて
ゆけない人間。……そんな人間がゐるかしら? もしゐたら私は恋して、その中へ入つて
行かうとする。それを防ぐにはしてしまふほかはないの。……でも、もしむかうが
私の中へ入つて来ようとしたら? ああ、そんなわけはないわ。私の心はダイヤだもの。
……でももしそれでも入つて来ようとしたら? そのときは私自身をすほかはないんだわ。
私の体までもダイヤのやうに、決して誰も入つて来られない冷たい小さな世界に変へて
しまふほかは……
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

97 :
明智:君は……
黒蜥蜴:捕まつたから死ぬのではないわ。
明智:わかつてゐる。
黒蜥蜴:あなたに何もかもきかれたから……
明智:真実を聴くのは一等辛かつた。僕はさういふことに馴れてゐない。
黒蜥蜴:男の中で一等卑劣なあなた、これ以上みごとに女の心を踏みにじることはできないわ。
明智:すまなかつた。……しかし仕方ない。あんたは女賊で、僕は探偵だ。
黒蜥蜴:でも心の世界では、あなたが泥棒で、私が探偵だつたわ。あなたはとつくに
盗んでゐた。私はあなたの心を探したわ。探して探して探しぬいたわ。でも今やつと
つかまえてみれば、冷たい石ころのやうなものだとわかつたの。
明智:僕にはわかつたよ。君の心は本物の宝石、本物のダイヤだ、と。
黒蜥蜴:あなたのずるい盗み聴きで、それがわかつたのね。でもそれを知られたら、
私はおしまひだわ。
明智:しかし僕も……
黒蜥蜴:言はないで。あなたの本物の心を見ないで死にたいから。……でもうれしいわ。
明智:何が……
黒蜥蜴:うれしいわ。あなたが生きてゐて。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

98 :
雪の中に、(をとめ)の肌のやうな花々が咲いてゐる。その雪の花は百合といふのだ。
百合は聖なるを意味する。更に、嬰子のやうな純潔な心を意味する。汝らはそれに
接吻するであらう。その夜、聖なる命が世に放たれるのだ。
いとしい娘よ。そなたは未だ持つてゐるだらう。わしのやつた五つの宝石函を。
その一つは、海のなかゝら、人魚たちが捧げ持つて来る真珠で満たされてゐる。
それらは、女たちの心をうつし取るたからだ。それらは牛の風呂で浴(ゆあ)みする
女の肌に似てゐる。牛の風呂で浴みする若い女の房のやうだ。真珠を月に向つて
透かして見るがよい。そなたの希ふ女の像や心が、その表面に映るであらう。それは殆ど、
三百を数へることだらう。そなたのまるい、すべすべした肩は、真珠が大変よくうつるだらう。
真珠は、なべての悲しみや、希ひをやぶられた女の秘かな歯噛みや、清純な諦めなどを
現はしてゐる。だから、真珠の曇りは清い曇りなのだ。
三島由紀夫「路程」より

99 :
>>63の前
人生のいちばんはじめから、人間はずいぶんいろんなものを諦らめる。生れて来て何を
最初に教はるつて、それは「諦らめる」ことよ。そのうちに大人になつて不幸を幸福だと
思ふやうになつたり、何も希まないやうになつてしまふ。
幸福つて、何も感じないことなのよ。幸福つて、もつと鈍感なものよ。
幸福な人は、自分以外のことなんか夢にも考へないで生きてゆくんですよ。
一分間以上、人間が同じ強さで愛しつづけてゆくことなんか、不可能のやうな気があたしには
するの。愛するといふことは息を止めるやうなことだわ。一分間以上も息を止めてゐて
ごらんなさい、死んでしまふか、笑ひ出してしまふか、どつちかだわ。
愛するといふことは、息を止めることぢやなくて、息をしてゐるのとおんなじことよ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より

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