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2012年5月哲学364: 功利主義的自由主義を打ち破る (112)
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功利主義的自由主義を打ち破る
- 1 :12/02/13 〜 最終レス :12/05/05
- 俺は功利主義的自由主義こそ決定的倫理規範であり
この思想の前ではカント主義も相対主義も不可知論も厭世主義も
ニーチェ主義も「モウコネーヨ!」と泣いて逃げ出してしまうに違いないと考えていた
しかし、先日2ちゃんねるのニュース+板でネトウヨどもと卒業式の席で
君が代を歌わない先生について話していたが、どうにも話が通じない
無論、俺は君が代強制反対の立場なのだがネトウヨとは根本的に話があわなかった
単に彼らが倫理学的素養を欠いていたという問題なのだろうか
そして俺は今日、仕事しながら、おのれネトウヨとネトウヨ批判を脳内で展開していたのだが
ふと、新しい倫理学的アプローチを発見したのである!
それは人が自分の思想、快楽を社会において実現したいと欲する生き物
または自己を社会の展開との関係において実現したいと欲する生き物だということである
多くの思想家は書物を書き、弟子を取り、議論を戦わせる
それは自己の思想を社会的に実現したいという人間の根本的欲求のあらわれである
この事実を新たな倫理学の発展に生かさない手はない
この人間の根本的な快楽の構造を基礎に新たな倫理学が開けるのではないかと
俺の嗅覚が感づいた!
今日はここまで
- 2 :
- 思想の社会的実現とは
人は自分の快楽を自分の中だけで追及するにとどまる動物ではなく
社会と自己との関わりの中で社会が自己の要求を満たす構造に改築されることを
望むということである。
- 3 :
- >>1
30点。却下
不合格
- 4 :
- 忘れないうちにもう一つ重要なポイントを書き込んでおく
それは思想・快楽は人の数だけ、それを社会的に実現し、社会をそれに合わせて改善しよう
とする欲求も人の数だけ存在する
それに対し世界は一つだけという事実である
- 5 :
- 社会改革の欲求はその内容が相反するものは
たった一つの世界というパイの獲得のために
相争う。これがホッブズともルソーとも違う、根本的な自然状態の人間である
否人間の自然である
- 6 :
- ◆Twitterやってる日本人哲学者や思想家および文筆家リスト(bot含む)
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- 7 :
- \ /
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\( ^o^)/ うわああああああああああああああ!!!!!!!!!!
│ │
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│ │ 〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○
( ω⊃〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○
/ \ 〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○
/ \ 〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○
/ \
/ \
- 8 :
- >>6
ゴミしかいねーじゃん
- 9 :
- ちょっと方向を変えて絶望という事象に目を向けてみる
絶望は自己と自己の理想とする自己、否自己を含む世界との間に歪み、乖離が生まれている状態である
社会的問題にかかわらず、たとえば自己の健康状態などでも人は絶望する
それらも世界は一つという事実から来ている
- 10 :
- う〜ん、ここからだな
- 11 :
- >>4
だからおのずと強者が決定されるだけだよ。
- 12 :
- \
⓪ / ⓪〜
⓪
l
⓪
〜⓪,, '´ ̄ ヽ⓪〜
〜⓪ 〜⓪l ≼⓪≽ l⓪〜 ⓪〜 知弁和歌山による明晰な合理主義的世界像は
ヽ、___ノ⓪〜 深淵たる無限を姿勢するのかね?
⓪ ⓪
/
⓪ ' ⓪ ⓪
/ l \
- 13 :
- 近代は「外部」をせん滅した。すべてが内部になった。
従って世界はひとつしかなくなった。
ポスト近代はそれを是認し、さらなる内部化を実行する。
ということは、じつは外部はある。ということ。
- 14 :
- 一日中働きながら考えるということはなかなか難しく、仕事が終わった後にようやく考える時間がえられた
一日たってまず気が付いたのは、世界の一性を強調しすぎるとあまりにも超難問になるという事である
はきいりいって俺にはまるで取りつく島がない
そこでまず、より現実に即した世界を想定することとした。つまり分割可能な世界である
人間の生活の多くの部分はYESかNOか、全か無かという問題ではない
分割することが可能な事柄の方が多い。この現実を否定し、形而上学的一を追求することは
社会哲学のフィールドにおいては少なくとも特殊な分野に位置づけることができよう
よって当面は分割可能な世界を想定して考えることとする。
- 15 :
- これからの考察の基本をおさらいしてみる
想定@ 人間は個人において快楽を追求するばかりでなく、社会構造を自己の快楽に即したものに
改築しようとする動物である。
想定A 世界は分割可能である。(分割不可能な事柄においてはここでは扱わない)
- 16 :
- 環境心理学
- 17 :
- まず気づいたのが、分割可能な世界においては自然状態の人間はまず”妥協”を発見するという事である
世界の資源を100として、世界に10人の人間が存在すると仮定する
(この世界の人間は力関係において対等である)
もし10人の中の1人が100の資源を独占したとする。この世界をA
一方、10人がそれぞれ10の資源を保有する世界を想定する。この世界をBとする
世界Aと世界Bについてどのような社会変化が生じるかについては
単純な功利主義では考えることができない。
単純な功利主義では1人が100を保有する世界と、10人が10を保有する世界は等価値であり
世界Aと世界Bで生じる人間の不満は問題にならない
だが俺の考えは違う
世界Aにおいては1人が全てを有し、残りの9人が何も有さない世界である
この世界は大変不安定である。この世界の構成員は社会を自己の欲求通りに改築しようとする欲求を有している
この欲求のもとで世界の富を独占していた1人は残りの構成員9人に殲滅される
一方で世界Bにおいては、互いが対等な取り分を得ることで、それ以上の取り分を要求することを
放棄とまではいかなくとも当分見合わせる。
というのは戦争状態の不安定な社会にあることは構成員全員にとって望ましい事ではないため
自分の取り分に不満が残っても、全てないよりはよく、かつ合理的根拠に基づいて
世界の富の配分がそれ以上各自にとってより有利なものを望むことができないものである場合
人はこの世界を是とする。
これが妥協の始まりであり平等の始まりである
- 18 :
- 世界Aから世界Bへとあれこれ試行錯誤を繰り返しながら移行すると俺には思える
詳しくは誰かコンピューターでシュミレーションしてほしいものである
- 19 :
- 注意してほしいのはこれが社会契約論ではないという事である
各人はあくまで自己の欲求に忠実な人間達である
このような人間に原初的な契約の観念は無意味である
各人が自由に欲求を追求するうえで最も実現可能な世界
それがたまたまBの世界に落ち着くという事である
- 20 :
- この世界を「より進歩した功利主義」においては最少不幸という観念でとらえる事ができるのかもしれない
各人の不幸が最少の世界に結局は落ち着く。
だが、この思想には社会変革を望む人間精神の”動”の部分が忘れられている
功利主義は結果状態に重きを置くため、そのモデルとなる人間精神は”静止”したものになりがちである
(もちろんジョン=スチュアート=ミルの功利主義的自由論を”動的でない”などとは
全く思わないが)
- 21 :
- 今日はこの辺でネタ切れ!
- 22 :
- huntet blade登録したお!
- 23 :
- バカサヨうざい
- 24 :
- >>1
随筆みたいな主観的文章を書かれても、
意味を理解するのが禿しく面倒だ。
きみは、君自身のコミュニケーション障害を改善するために、
まずは文章の書き方を改善しろ。
1. 最初に、「概要」を短く簡潔に書き、
2. 「各論」は番号をつけて箇条書きにし、
個々の論は、改行2つで段落分けし、
3. 暗黙の前提知識を含む
「新しい概念」をスレに導入するときは、
直後もしくは注釈で説明を加え
4. 最後に、「結論」を簡潔にまとめる
- 25 :
- × huntet blade登録したお!
○ hunter blade登録したお!
- 26 :
- >>24
そのコピペもすっかりウザくなってしまったな
- 27 :
- さあ。山に行こうか!
- 28 :
- >>26
放っておけ。
個人的限界点に達していまい停滞しているのだよ。
スランプというやつだ。
もう抜け出せない老化性のスランプ。
- 29 :
- >>28
しかも言付けの中身をみてみれば体裁にかかわることのみ。
その辺はパソコンのソフトで整形させるのが時代の選択。
仮にまだそのようなソフトが現れてないとしても、ね。
ソフトの出現と同時に、その老人はこの世から姿を消すよ。
- 30 :
-
- 31 :
- 今日は朝、チャリンコを漕いで職場へ向かう15分間の間に考えた。
先日の世界Aから世界Bへ移行するという説明は変だ。もしこれが人間の本性に沿った社会であれば
世の中はもっと平等で均等な社会になっているはずである。世界中が共産主義国家になることが
実にたやすい自明の理のようにすら思われる理屈である。が、現実はそうなっていない。
- 32 :
- アメリカではほんの数%の人々が社会の富の何割もを占有しているような格差社会である。
このような社会になることが、先日の理屈では到底説明がつかないのである。
そう考えた時、俺は直感的に、何の根拠もなく、思いついた。
これは原始社会が”生産”と”組織”を伴う社会へと移行することで説明できるのではないか?
- 33 :
- 先日の理論は人々が”資源”を取り合う段階、つまり”生のままの世界”を取り合う段階において
説明がつく話であった。それはもし本当に実現していたとしても縄文時代以前の未開の社会においてである。
ポイントはやはり社会変革への欲求である。
- 34 :
- 人間はより大きな快楽を求めて生のままの世界に改造を加え始める
採集から農耕へ、狩猟から畜産へ、より安定的に大きな、持続的な快楽を得るため人々は
生のままの資源をより効率的なものに改良しはじめる。
そのために人々は集団を作る。原始的な組織の誕生といえる。それが効率的だからだ。
- 35 :
- ここでもあえて言っておくがこれは社会契約論ではない。
人々の欲求が拡大し、その欲求のために世界を改造しようとする人間モデルにおいては、
契約を伴うことなく自然に、自動的に生産手段の進歩と人々が組織化した社会に
移行するのである。
(やっと書き込めた)
- 36 :
- 思想的に近いものが集まってできる非営利的組織、学閥、党派、宗派もその原初は
契約によらず成立する。というのは前にも言った通り人間には自分の思想を社会的に
実現しようとする欲求がある。この欲求があるかぎり、全く同じではないにしろ
同じような思想の持ち主が集まり世界の一部にでも自己の思想を実現したコミュニティーが
創造され、自分もそこに参加することは快楽なのである
- 37 :
- このようにして人は自己の快楽を追求しつつ、結果的に群れを形成するのである
まとめ
資源獲得競争の結果各人が平等になり戦争状態が回避された社会では、
快楽拡張のために生産活動が開始される。それに伴い各人が平等に役割分担した
生産のための組織が形成される。(平等の役割分担でなければ戦争の種となるからである)
- 38 :
- すべては功利。宗教的道徳を遵守することのエクスタシーも頭がちがちのオッサンが儒教道徳に従うことの安心感もな。
そしてそれは基本的にそいつの自由。
ただし、自由は最大多数の最大幸福に向かう方向に軌道修正しつつ保障していかねばならない。放任はダメ。
- 39 :
- >>38
少数の犠牲によってなりたつ多数の幸福はいいの?
- 40 :
- 今日はあまり思索が進まなかった。というかある難問に突っ掛ったのだ。
それは、もし実際に存在していなかったとすれば、とても想像すらつかない概念である
あたかも地中から化石が発見されなかったとしたら我々が恐竜が存在したという事を
想像すらつかないというように
それは”権利”と”義務”という概念である。
- 41 :
- 目標である格差社会の成立の説明にはどうも権利と義務という概念を考える必要がありそうだと
俺はほとんど直感的にひらめいた。おそらく社会に権利と義務の概念を持ち込むことができれば
とても容易に格差社会を説明できるだろう(と思う)
だが権利と義務の性質を考察してみるととても一筋縄でいくような概念ではないとわかる
それは”功利主義の自殺”とすら言いうる側面をもっているからだ
- 42 :
- まず言っておかねばならないのは権利と義務という概念も人間の営みから生まれた以上
功利の概念から派生したことは確実であると思われる。
現に今現在も人間に重宝がられている。役立たなければこんな概念が存続するはずがない
というか、人間の行動において功利以外の行動原因など存在しない。
(というのが俺のスタンスである。)
- 43 :
- それにもかかわらず権利、義務の概念は特殊である。
ワンコやニャンコも自分のエサを取り上げられたら怒る。
だがこれは目の前の快楽を取り上げられたことに対する怒りであり、彼らが自分の権利を
主張しているのではない。
権利と義務は非常にテクニカルな、余程ややこしい理論によって成立しているに
違いないと俺は直感した。こんな概念を最初に発明した人物は人類史上有数の天才哲学者だと
断言できる。
何より不思議なのはこの概念によって”功利主義が自る”ということである
- 44 :
- 功利主義の自殺といっているのは下記のような事柄についてである
仮に”人から殺されない権利”と”人を殺さない義務”を負った10人の
構成員からなる社会において、1人(Aと呼ぶ)が核兵器を持っていたとしよう
Aがある日発狂し、残りの9人に核兵器を投下しようとしたとする。
功利的に考えれば当然残りの9人はAを殺して自分たちを守ろうとするだろう。
A1人の快楽により9人が犠牲になるという最悪の世界は功利主義において
到底受け入れる事ができない。
にもかかわらず、権利・義務の概念はこの最悪の世界へといざなうのである。
実に愚かしいことであるが、これが権利と義務という概念なのである。
”他人に害を与えない限り権利や義務を負っているのだ”という主張は実は的外れである
というのは上記のパラドックスは権利と義務という概念そのものに内包されているのであって
”他人に害を与えない限り”という注釈をつけたところで、権利と義務という概念それ自体は
微塵も揺るがないのである
- 45 :
- 権利は少なくとも建前上はいつ、誰に対しても主張できるものである。そうでなければ権利があるとは言えない
義務は絶対に破ってはいけない。そうでなければ義務があるとは言えないのである。
だから社会的に最悪の状態に至ったとしても、権利と義務は貫かれるのである
”法律のもとに制限された”権利と義務というのも存在する。これは余程進歩した社会において見られるだろう
だがそれは先に述べた原初的な権利と義務の概念それ自体を縛るものではない。
しかしながら、条件付きの権利義務という問題はまた個別に考えねばならなさそうな気がしている
。
- 46 :
- >>39少数の大きすぎる不幸は大きすぎる全体功利の損失。
少数の富裕の功利のさらなる増大はさしたる全体功利の増大にはならない。
基本はこの意味での功利主義でよい。
- 47 :
- 問題は先日考えた生産と組織を兼ね備えた原始社会の人間がどのうようにして
権利義務を受け入れるかということである。
今まで原始の人間達は自分の欲望のために社会を建築してきた
そこに権利義務を伴うような社会契約は一度もなされてこなかったのである
権利義務の概念は人々の欲望に著しい制限をかけることになる
功利的に見た場合最悪の事態すら受け入れねばならなくなる権利義務を受け入れるというのは
殆ど冗談のように思える
「組織ができる以上ルールが生まれるのだから権利義務の概念は容易に生まれるだろう」
というのはいささか早急すぎる。人々が自由気ままな快楽追求を捨てて権利義務社会へ
移行するのはほとんど革命的な事態であるからだ。
そして今日はその解決策が全然浮かばなかったのである。これでネタ切れ!
- 48 :
- 農業の発明、つまり産業の開始が所有と労働と階級という観念を産んで
それが厳格な権利義務の観念につながっていったんだろうと普通におもわないか?
狩猟採集社会でも簡単なお約束程度のことはあったかも知れんがな。
- 49 :
- 正直言うと俺がここで述べている権利義務の概念はノージックの
リバタリアリズムの影響が強い
純粋に功利主義的に説明しようとすれば権利の誕生は容易に説明できる
権利と義務とは表裏一体の概念である。権利は他人に主張できるだけでは
何の意味もない。他人がその権利を認め権利者の主張に従う義務を負うと認めるとき初めて
権利は有効なものになる。よって権利義務概念はそれを許容した”社会”がなければ存在しない
で、功利主義的に言うと権利の発生はそれが都合がいいから生まれたと一言で説明できる
誰もが盗み・殺人をされないという権利は保障されたいと願うものだから
皆でそれをしない権利と義務を作った。というのは功利主義者たる俺が前から考えていたことだ
だがこれには問題がある。というか単純すぎる。
- 50 :
- さっき言った権利義務のパラドックス。権利義務の概念は自分や社会そのもの
を滅ぼしかねないもろ刃の剣である。
悪法も法なりという言葉がある。権利義務のパラドックスの最たるものである。
こういうのに目を向けたいと思っている
>>48
所有と労働までは権利義務概念がなくても説明できそうな気がするが
階級は権利義務社会へ移行してからでないと説明できないだろうと思う
- 51 :
- 今日はなかなか思索が進んだ。難問解決の糸口は幾つかの仮説を打ち立てることで
見えてきた。今回は最初に権利・義務の概念について考察してみた。権利と義務は誰が誰に対しても
主張できる概念である。したがって仮にAとBという人間がいてA→Bという権利関係が成り立つ時、
AとBを入れ替えて、B→Aの権利関係も成り立つはずである。この代替可能な関係には今まで考えてきた
原始の人間達が持っていた”個”性というものは全然問題にならない。あれだけ自己の快楽のみを追求
してきた人間の快楽追求の絶対的主体としての”個”が、権利義務の存在する社会においては埋没する。
この”没個性”の概念が権利義務の概念に含まれる。
しかしこの没個性は何も権利義務の専売特許ではない。権利義務の概念もルールという概念の一つであると
考えられる。没個性はこのルールという概念に由来していると考えた。
- 52 :
- やすむににたり
- 53 :
- 原始の世界でルールはどうやって生まれたか?「俺がルールだ」と傲慢な権力者は主張する
だがこれはルールではない。支配者と支配される人間との間の一次元的な権力関係にすぎない
ルールとは支配する側も支配される側もそれに支配されるところの第三者的権力である
だから先の例では権力者と非権力者の互換性はない。Aが権力者であったとしたら
Aと非権力者を入れ替えてみても、やはりAが権力者になるにすぎない。
実のところ原始社会においては個人的能力の高さというのはあまり問題にならない
仮に抜きんでた力の持ち主があらわれ、他の人々に対する権力を持ったとしても
その権力は個人に依存するものであり、権力者が老い、死んでしまえば何の効力もなくなるのである
よって原始時代を考察するには個人の能力などは些細な誤差程度にしかすぎず
力関係において平等と考えても何の問題もないのである。
- 54 :
- で、ルールの発生であるが、快楽の追求者としての絶対的自己が埋没しないかぎり
ルールという代替的関係は誕生しない。いかにして個性は埋没したか?
ここで俺は仮説を立ててみた。それは”全体への愛”である。(批判は甘んじて受ける)
組織を作った原始の人間達は、自分が組織の一員であること自体に快楽を感じ
自己の属する組織が利益を上げること自体に快楽を感じだした。と仮定したのである。
古典的功利主義においても快楽追求の道具でしかなかったものが、快楽の目的それ自体に変化することは
指摘されていた。守銭奴という概念は良い例である。ミルにいたっては「ベンサム論」において快楽は
無限に広がるとまで言っていたと記憶している。
- 55 :
- また自己を絶対的なものではなく、相対的な、代替可能な存在として認識しだしたのは
組織における役割分担だという仮説も立ててみた。自己を相対的に認識するには
自己を含む全体を認識せねばならない。各自が一人で生きていた時代には
到底そんな概念が生まれるはずもなかった。人々が組織を作る段階で初めて
全体の中の自己の役割を意識するのである。また、自分が怪我や病気で働けなくなったとき
自分の代わりの人間が自分の仕事を引き受ける姿をみて、自分が代替可能な存在であると
いう認識も芽生えただろう。組織の誕生によって”個人”の絶対的優位は崩れるのである。
- 56 :
- あえて自己批判を展開しよう。ルールが効力を持つには少なくとも組織の大部分の構成員が
”全体への愛”を持たねばならないのだが、俺自身おかしいと思うのは原始の人々は
個々人が好き勝手に自分の快楽を追求しているにもかかわらず、多くの人々の快楽の志向が
何故組織を愛するという方向に収斂されるのか全然説明されていないのだ。
だから仮説です。
- 57 :
- >>52
まぁ俺自身大した考察ではないと思う。底が浅いし穴だらけで、ひょっとすると的外れな事を
いっているかもしれない。ぜひ優れた考察をお披露目してほしい。
- 58 :
- このように疑問点が残ったままなのだが、ここはこのまま次の思索へ移ろうと思う
もしかしたらこの問題点が後々の主張のネックになる事があるかもしれないが、
そうなったらそうなったでそれはその時考えよう。
”全体への愛”は現実的にも多くの人間が持っている快楽であるから
問題となるのはそれが原初においてどのように発生したかという点だけである
- 59 :
- ルールを受け入れるための没個性の社会の下準備はできた
ルールの内容は組織の維持、管理のための実務的なものであり、
現実的な様々な問題の解決策が帰納的に集約され、ルールとなる
ルールができると罰則という概念も生まれる。
個々人にとっては自分以外の人間はルールを守り、自分だけはルールを破ることは
大変都合のいいことである。NHKの受信料を払わない俺のようなものである。
だがこれではルールの意味がない。ルールはそれを守ることが要請される者には没個性的に
自己の利益を追求しない事が求められる。そこでルールの内容が重要であれば
あるほどそれを守らせる仕掛けが必要になる。それが罰則である。
今日はこれでネタ切れ
- 60 :
- ここで、余談だが今日は>>14で考える事を後回しにした一としての世界についても
少し考えてみた。考えたといっても世界の一性がどのような時に問題になるかについて
考えてみただけである。次のようなものが思いつく
世界の物理的制約:世界中のリンゴの所有権は分割可能だが、ここにあるこのリンゴの
所有権は分割不可能である。この時このリンゴの所有を争う者は
自分の所有である”べき”だと主張する。領土問題などはこれにあたる。
世界の観念的制約:人間や組織はかくある”べき”だと主張するとき、あるべき人間像や組織像は一つしか
ないからその理想をめぐる問題は世界の一性をめぐる対立となる。
世界の現実的制約:理想とされる事態に対して現前した世界は一つしかないため世界の一性を
めぐる絶望が生まれる。このとき自分はこうある”べき”だと主張される。
どうも世界の一性をめぐる問題は”べき”論の形態をとって現われるらしい
”べき”論とは何か?それは観念的世界を問題とする時の現われかたである
つまり観念、イデアが問題になってきそうである。そりゃ超難問なはずだ。
- 61 :
- 上記に述べた以外にも何か世界の一性が問題になる事態があるかもしれないが
それもどうやら”べき”論と無縁ではなさそうである。
で、今日考えたのはこの程度である。
- 62 :
- http://www.qoly.jp/images/stories/mavikthumbnails/images/stories/topics/2011/12/2011-12premierleague-500x505.png
- 63 :
- 三日間何も考えなかった。というか何もインスピレーションが降ってこなかった。
で、今日は2つの事について考える事ができた。まず1つ目は権利義務について考えていた
ような超天才哲学者を想定することなしに、自然発生的に権利義務の概念が生まれたのではないか
という気がしてきたのである。そしてもう一つは、ちょっと功利主義の破綻をきたしそうな事実について
考えざるをえないことになりだという点である。
- 64 :
- まず権利義務についてだが、権利義務と単なるルールはどこが違うかという点について
考えてみた。それはその禁止または許可することの絶対性である。
ルールはその時々の必要性に応じて刻々と変化するものである。スポーツのルールも
会社のルールもルールである以上時代時代、その時々の必要性に応じて変更されてきた
それは不可侵性が低いのである。
一方で権利義務は絶対的である。ここが単なるルールと権利義務の決定的な違いだと考えた
さらに法的義務と道徳的義務を明確に区分するべきだとも考えた。
法的義務は道徳的義務に裏打ちされて作られる単なるルールである。
その道徳性は道徳的義務に根拠があり、ある種の法律における”非”道徳性は
それが単なるルールであることに由来する。こう考えると
悪法に対して従うべきかという問いとは、悪法も法であるからその内容は絶対的であるというのではなく
ルールを守ることは道徳的かという問いである。畢竟ルールはルールでしかない
それは中立的概念である。それを守るかどうかも中立的である。
サッカーのルールが気に入らなければサッカーをしなければいい
だがルールがなければ社会が形を維持できない。サッカーも成り立たない。
だから罰せられるかもしれないがそれはまた別の問題である。
悪法を破ること自体は道徳的だと言える。
- 65 :
- また、道徳的権利義務について古典的分類方法を思い出した。
完全義務(権利)と不完全義務(権利)である。
言うまでもなく完全義務は絶対に守られるべき権利義務
不完全義務は絶対に守る必要はないが道徳的に推奨され成すと称賛される行為である。
道徳的義務にもその絶対性において差異がある。
ルールと道徳的権利義務にも絶対性な差異があった
で、単なるルールのうち絶対的なものが道徳的権利義務になったという進化論をピッカっと
思いついたのである。
先ほど法的義務(ルール上の義務)は道徳的義務に裏打ちされていると書いたが、この逆の事が
原始においては起こったのである。
だがこう考えただけでは功利主義の自殺を説明することはできない。
ルールが全体の功利により変更されるものであるなら、それから生まれた道徳的権利義務はなぜ
功利に適合した結果を志向するとは限らないのか。
これはは権利義務がなぜ絶対的になったか
つまり絶対的過ぎて後先考えることすらできないほど絶対的になったかという
ことについて考える必要がある。
- 66 :
- ここまででこの話は終わりである。今日のところは。
もう一つ考えた功利主義の破綻とは以下のようなものである。
道徳的権利義務についてその内容を考えてみた
まずJ-S-ミルに多大な影響を受けた俺としてはまず挙げるのが
自己防衛の権利である。自己の生命・財産を侵犯されない権利義務は
その必要性において第一に絶対的なものと見做されそうである。
殺さない義務、盗まれない権利が道徳的権利であるという主張は一見
誰の目にも明らかなように見える。だが俺はこう考えた、
「今この日本においてはそう言える」と。
- 67 :
- 古代の南米や中国なんかでは神や皇帝の生贄として神殿や陵墓で多くの人々が
殺された。この事実を道徳について理解しない未開人の蛮行などと片付けるのは
早々にすぎる。彼らにとっては死後の世界の存在が前提とされていたし
神や皇帝のために生贄になることは寧ろ大変名誉なことであった。道徳的ですらあった。
突飛な話に何を言いたいかというと”殺されない権利”という絶対的に見える
道徳律ですら文化により異なるということである。
日本においても死刑による死は単なる法律上の問題でなしに道徳的要請であると考えられている
(これは道徳的罰則、即ち”正義”の問題であり単純ではないが)
死刑ということにしても、日本においては殺人へ刑罰のみに限られているが
敬虔なイスラム教国においてはアッラーへの冒涜は即、死を意味する。それはイスラム法にそうあるからだけではなく
道徳的にもそうなのである。”命の価値”に対応するものが違っていると言える
”殺されない権利”だけではない、”親孝行”という道徳律もその内容は
ある国ではを舐める事だったり、かつての国では親の死体を食らう事だったりした
だがどこの国でも、いつの時代でも勝手に人殺ししたり盗んだりするのが不道徳とみなされたであろうことは
想像に難くないし、内容は違えど親孝行はどこの文化でも道徳的だと言われるであろう。
とても混乱した事態である。
- 68 :
- 異文化間の道徳律が異なるというのは功利主義において致命的である。
同一文化間では社会における人々の要請の公約数である道徳律はすくなくとも
一見(功利主義の自殺を考えなければ)功利主義で説明できそうである。
だが異文化間の道徳律を”完全に”調停するような道徳律
道徳律の道徳律を功利主義は見出す事ができないのではないかという気がしてる。
国連で決めているのは道徳律ではなしにルールである。ルールを決める事において
功利主義の右にでるものはない。
国連で決議されてきた人権宣言にしても異文化の差異を完全に超越した道徳律とは言い難い
もしそうなら世界中の国が一挙に批准するであろう
つまり世界をまたにかけた絶対的道徳律を功利主義が見出すことはできなさそうである。
というか文化の壁を超越するような絶対的道徳律はないのである。
(ある文化での道徳律を他文化に対し主張することは例の”一としての世界”の問題を持ち上げることになる)
一方で先ほどの親孝行の話では内容が違えど親孝行はどこでも道徳的であると言った
アッラーの悪口を言うと死刑になるというのも、その敬虔さという点においては
日本人でも理解できないものではない。要するに文化の差とは
ある善に関しその志向するものが違うという事が言える。より功利主義的に言えば
ある快楽を得るための対象が異なるのである。
敬虔さ、勇気、誠実、それらが意味する対象は違えど、その動機(となる快楽)自体は同じ人間から
生まれた以上共有できないものではない。道徳的動機においては人類は共感しあうことができる。
では俺はカント流の動機論者になるべきなのだろうか?
- 69 :
- 俺は今日はこの問題を問題提起という形にとどめておいて、あまり突っ込んで
話す気はない。
そもそも話が前後しているし、議論の順序を考えればここで
話すべきでない話までしている。
つまり俺も混乱しているのである。今日はこれでネタ切れ
- 70 :
- ここまで自分の意見をダラダラ書くだけに終始してきたが、俺の本意としては
>>52みたいな煽りは論外として皆の意見を聞いてみたいと思っているのだ。
出来れば反対意見が大歓迎である。というのは俺はひょっとしたら大変
的外れな事を1人で考えているのではないだろうかという疑問が常に付きまとって
いるいからだ。自分一人で考えたことなどたかが知れている。そういう安っぽい
思想ではとても新しい事(ひょっとしたら結局既存の思想に落ち着いてしまうかもしれないが
それであろうとも)など生まれようはずもないからだ。
- 71 :
- 万人の万人に対する闘争的原初状態があってそこから脱け出すものとして社会ができる
とするホッブズ的社会契約論への批判として人の歴史を見るに、始めから群れで暮らしており
話がフィクションであるということと、フィクションであることは置いといても、
やらねばやられ。話し合いもできない。といった状態からどのように協調への一歩を踏み出しうるのか。という疑問がある
- 72 :
- 注意深く考えると、その一歩の飛び越えが非常に困難なものであると考えられることからも
人が始めから群れで暮らしていたと考えるほうが説明がつくし
また、社会と呼ばれるものもそうした人の営みの延長として
考えるほうが説明がつくんじゃないかと考えられます。
そう考えると、個人の優位の崩壊が社会の成立においてあったとするのは変
- 73 :
- >>65
不完全義務に対応する権利はない。不完全権利なんて言葉は端的に矛盾してる。
義務違反が権利侵害にならないというのが不完全義務の不完全性だ。
私が募金しなかったことが(募金すべしという義務に対応するはずの)誰かの権利を侵害したといえるか?
- 74 :
- まずはこんな長文に付き合っていただいた事に心から感謝いたします。
>>71
無論俺の議論はフィクションである。事実であるかもしれないが、おそらくそれを
確かめるすべは考古学がどれほど進歩しても無理だろうと思う。
だが俺が人間に対して定義した”自己の欲望に合わせて社会変革を望む個人”の姿は
どうしても社会の変転を通じてしか考察できないものであり、社会変化の様子を語らざるを
えないものである。それが結果のみに着目する古典的功利主義との違いである。
>>72
俺の規定する人間像は功利主義的人間、すなわち先を見通し、より強い欲望、より継続的な欲望を満たす
ために必要であるならば他人と組むのをいとわない人間像である。
自己中心的ではあるがホッブズ的な自己中よりも、より大所高所に判断する人間像である。
なお群れで生きていた人間という考えは確かに俺もそう思う。生物学的には寧ろそうかもしれない。
が、社会変革と社会倫理を考える上でまず個人から考え始める事は誤りではないと思う。
>>73
その通りです。俺の間違いでした。
- 75 :
- >>74まあフィクションであることは置いておくとしてもさ
もしバラバラの個人から協調する組織になっていくというとしたら
どのようなプロセスを経てそれが可能になるかという問題があって
その解答がまあ社会契約論であるわけですが。解答として全く不十分と思うのです。
- 76 :
- 昔昔、好き勝手やってた個人がある日
「今まで殺し合っていたけど、それより互いに殺し合わないルールを共有したほうがいい」
とか「一人で食べ物とるより分担して仕事したほうが得じゃん」とか気づいたとして
彼が、そのためなら好き勝手やる権利を幾つか放棄しても、彼にとっては良かったとしてもさ
好き勝手やってる状態から他人と協調する状態へ飛び越える 一歩はどのようにされるか
- 77 :
- もっと言えば、たとえバラバラの個人が全員、権利なんて放棄しても、殺されたくないと思っていたとしても
そこから「互いに殺さないようにしようね」に至るには、どのように可能でしょうか。
「みんなそう思ってるんなら自然にそうなるじゃん」なんて考えるのは短絡なのです。
私はこの問題が解けないので、バラバラの個人から協調する社会へ〜などという
歴史観に極めて否定的で、個人がどんなに何かを望んでも、それがどのように社会に通用されうるかを考えるに
前もって何らかの共有する何かがあったんじゃないかと思う次第です。
- 78 :
- >>75
まず俺の社会倫理の説明は社会契約論の手法をまねているがその展開の中であえて
”契約”という概念を用いていない。功利主義が契約論と相いれないとは俺は思わないが
俺の直感が社会倫理が契約によって成立するはずないし、それで説明できるはずもないと言っているので
現在のところその説明は用いたとしても最後の手段だと思っている。
>>76
俺の考えでは人々は殺し合いから平等社会へと資源配分をめぐり自動的に移行する(>>17参照)
この段階で戦争状態はとりあえず終息している。戦争状態で組織を形成することは不可能である。
{>彼が、そのためなら好き勝手やる権利を幾つか放棄しても、}
ここで言っておきたいのは組織が成立するまで人は”権利”を持っていない
寧ろ概念すらないと言えるだろう。人々はただワンちゃん猫ちゃんのように自分の欲望を主張しているだけである
権利は社会が存在し、そこにおいてそれを認めあう人間関係がなければ成立しない(>>49参照)
自然のままの人間はいかなる権利(自然権)も有していない。
- 79 :
- >>77
{>殺されたくないと思っていたとしても そこから「互いに殺さないようにしようね」に至るには、どのように可能でしょうか。
「みんなそう思ってるんなら自然にそうなるじゃん」なんて考えるのは短絡なのです。}
それは権利の問題ではなくルールを守るかどうかという問題に思える
俺は権利概念より先にルールの概念が生まれていたと考える。
個々人が自分の主張ばかりしていてはルールが成立しない。
だから”個性の没落”が必要になる。
個性の没落について俺は組織という手段が目的へと変化した(>>54参照)
というかなり厳しい飛躍した説明と、相対的・代替可能的自己の発見(>>55参照)
という説明を用いた。
権利義務の”内容”はその社会で必要とされる公約数が帰納的に、自然に道徳律として
集約されると考える。
- 80 :
- だがなるほどな、組織が生まれるのは生産のための必要性というだけでは
説明として弱いと言われるかもしれない。
農耕畜産社会の成立の段階においても”社会の明確なルール”以前の原ルールを想定したほうが良いかもしれない
農耕畜産社会の原初的組織において人々は平等な役割分担を負うが
実務的な仕事の手順、それぞれの役割を決める段階で原ルール的なものがあるかもしれない。
- 81 :
- 本能・社会・生産・利・規範・道徳
家族について考えてみると面白いんじゃない?
- 82 :
- 権利義務の絶対化という事について考えていた。が、この数日アイデアが閃かなかった。
だが本日は少し進展があった。
というのは、権利義務の絶対性と良く似た事例を発見することができたのである。
権利義務と良く似た絶対性、功利主義の自殺を伴う行動原理
それは戦場の行為様式である。
- 83 :
- 戦場では上官の命令は絶対である。それが倫理的である、とまで考えられて
いるかどうかは軍隊経験がない俺にはわからない。
だがこの戦場の行動様式は道徳的権利義務の実態によく似ている
上官の命令には反対しようがなく、それを守れない場合は死すら伴う。
道徳的権利義務によく似ている。
また、上官の命令はいかに荒唐無稽で無謀な作戦であってもそれに従わなければならない
功利主義的には説明しがたい自殺行為である。
これも道徳的権利義務に似ているのである。
互いに似ているものは、それが似るに至った理由についてもまた似ているかもしれない。
この絶対性は決して自然発生したものではない。軍隊というのは極めて人為的に
形成された組織である。よって(組織内での些細な文化が自然発生すること
はあるかもしれないが、)この組織における根本的な規律も人為的に作られており、そこには
明確な理由が存在しているはずである。これは自然発生した道徳的権利義務を直接
考えるような場合より把握しやすいという利点がある。
- 84 :
- 軍隊で上官の命令が絶対的になった理由について考えてみた
まず、常に危険と隣り合わせの状況で組織内での規律を守るためという事が
考えられる。
そしてもう一つ、(これが俺にインスピレーションを与えたのだが)
刻々と変化する戦局に対し、”合議”によって功利的対処法を選択する余裕はなく
非効率的だということである。
多くの組織は軍隊と同じようなトップダウンの形態をとっているものであるが
それでも組織内の意思決定機関としては責任者達の合議をはかる機関が置かれる
ものである。
軍隊でも大局の作戦決定のための合議がなされる。が、作戦の展開の上で新たな戦局に
至った時、あるいは作戦展開中の個々の隊に降りかかる個々の戦局においては
合議により組織の功利的意思決定を図る時間的・物理的余裕はない
だが隊の方針は決定しなければならない。
このため軍隊内の階級がより上位の者の”個人による意思決定”を隊の方針とする
というルールを事前に決めておくということで対処しているのである。
- 85 :
- 上官の命令を絶対視するというのは合議に代わる軍隊の意思決定機関である。
この機関が有効に機能するには意思決定する士官が経験と知識が豊富
で有能な人間でなければならない。
反対に無能な人間が士官につくと目も当てられないことになる。
組織の”機関”として”一つの行動様式”を”有能な人間が行使すること前提で”定めておき、
個別具体な時局に対処する。これが軍隊における上官の絶対視の正体である。
- 86 :
- 道徳的権利義務についても同じことが言えるのではないか
それは社会において個々人が社会へ影響を与える行為について、
社会が個々に合議によりその行為に賛否の決定をするより
”機関”として行動様式である道徳的権利義務を設けておき、
後は個別的対処について個人の意思に任せる
という事の方が時間的物理的に現実的なのである。
だが、これは社会全体の功利について認識配慮できる人間が権利義務主体であることを
前提として設定されている。
だからそれを理解しない人間がいれば目も当てられない事態になるのである。
- 87 :
- 道徳的権利義務は事前に行動様式について定めておき
その個別的内容については個々人の判断に任せられている
という点で白紙委任されていると言える。
道徳的権利義務自体はそれが全体の功利について理解できる人間が主体者と
なり、社会の全員がそれを守るという前提さえあれば功利にかなった規律である。
だが、前に>>44で言及した核兵器を持つ狂人Aのように道徳的権利義務を放棄
した人間が現れた場合は、そういう場合を想定しないで作られた行動様式だけが振り回されることになる。
また個別的判断については白紙状態で委任されているため、上記のような異常事態については
なんの内容も引き出すことができないのである。
- 88 :
- >>80
>実務的な仕事の手順、それぞれの役割を決める段階で原ルール的なものがあるかもしれない。
才能とか能力の差異?
- 89 :
- 原始社会であれ家族であれ最初にあるのはまずもって集団や社会であって、個人はその分化した先にあるものだと思うんだが、個々人を前提として社会組織を考えるから理論的な人為的調整が必要になる。
個人の欲望よりも集団の欲望が時間的に先行しているのが現実ではないか。
- 90 :
- >>89
それ、フロイトの少年時代の発想だろ。
- 91 :
-
ただ単純に モテなかっただけ なんじゃないの?
あと なんか極端な コンプレックスかかえてたとか
- 92 :
- >>89
欲望の時間的な先行としたら個人が先にあって当然でしょ。
産まれる前から生物としての欲望が存在してる。
産まれるし、死ぬ。ここからは逃れられない。
集団の欲望はうつろう不確かなものだが個人の根源的な欲望は変化しないものではない。
- 93 :
- 間違えた。
個人の根源的な欲望は変化しない。
- 94 :
- 欲望を追求していくのが我々人間の原理原則であるならば、
むしろ楽して目的を達成するほうを選ぶのでは?
功利主義は結果を重視するあまり、結果を出し続けていく継続性、
モチベーションに弱い考え方かと思われます。
必ずしもカントの言う無条件の肯定が
我々を理性的に保たせてくれるとは限りません。
- 95 :
- >>94
こういう考え方はできないの?
人はそれぞれ先天的に欲望を持っている。その欲望の大きさはどこまでも広がる。
しかし、その欲望は自分一人の力で達成することができるかどうか不安である。
だから集団に属する事で自分の最大限の欲望をあきらめる代わりにある程度の保証を得る。
社会 お金というツールを使い、それぞれの生産・サービスなどの共有
国 税金を支払い、最低限の生活を保証
企業 労働力を支払い、企業の利益を共有
- 96 :
- >>95
しかしよりよく生きるために
自分の最大限の欲望をあきらめるだけの価値が
個人にとってあるのかどうかが問題です。
- 97 :
- よりよく生きるということは
結果的によりよく「死ぬ」ことを目指すということになりますよね?
しかし果たして死ぬまでの過程の中で、これまで自分の欲望を
制限してきたことに対し、その努力が意味あるものとして個人に
返還されるでしょうか?
- 98 :
- 功利主義の考え方に従うならば、
「終末の最大多数の幸福実現」を理想としなければ、その場限りの幸福達成に
依存することになってしまいます。
われわれ人間はよりよく生きたいという欲望はあっても、
よりよく「生きている状態」を求めているわけではありません。
- 99 :
- >>96
「最大限の欲望をあきらめるだけの価値が会社にあるかどうか」ではなくて?
会社に属する事 最低限の生活の保証+利益の共有
と
属さない事 最大限の欲望の可能性+最低限の生活の無保証
のどちらをとるかは個人の自由でいいんじゃないか?
俺は最大限の欲望の可能性を選択してる側の人間だけどさ。
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