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2012年6月クラシック171: モーツァルトの生涯(生い立ち・エピソード・伝記) (318)
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モーツァルトの生涯(生い立ち・エピソード・伝記)
- 1 :10/03/09 〜 最終レス :12/06/30
- モーツァルトの生涯、つまり生い立ちやエピソードなどについて語りましょう。
何歳の時何処を旅したとか、そこで誰と会って何したとか。
父レオポルトや母アンナ・マリアや姉ナンネルや妻コンスタンツェやハイドン兄弟やサリエリとの人間関係とか。
アロイジアに失恋したこととか。
モーツァルトの伝記みたいなものです。
- 2 :
- 本スレでもいいんじゃね?過疎ってるし
モーツァルト総合 KV10
http://jfk.2ch.net/test/read.cgi/classical/1254542819/
- 3 :
- >>2
だめだ。
ここはモーツァルトの生い立ちやエピソードなど伝記的な部分を語るスレにする。
曲や音楽論などを語るスレではない。
- 4 :
- >>3
じゃあ板違いじゃね?
- 5 :
- >>4
モーツァルトの生涯について語る板なんてここしかないだろ。
だから板違いじゃない。
- 6 :
- モーツァルトについての色々なエピソードの根拠が
どのような資料に基づいて、どの程度確かなものといえるのか
ということなんか議論すると面白いかも。
たとえば、「楽器の好き嫌いについて」俺の思いつくところでは
@少年の頃、トランペットが嫌いだった:シャハトナーの証言による
Aフルートが嫌い:本人の手紙の内容から。ただし根拠は強くなさそう。
Bクラリネットが好き:資料的根拠は特になし。作品中における
積極的・効果的な使用法からそう判断される。
Cビオラが好き:資料的根拠は特になし。
- 7 :
- モーツァルトはヴァイオリンよりピアノの方が好きだったよね。
そういう本人の証言あったようななかったような。
ヴァイオリン協奏曲は5曲しか作ってないけど、ピアノ協奏曲はたくさん作ってるし。
まあ自身がピアノ弾いて予約演奏会で発表する為でもあったんだが。
- 8 :
- >>1がコテ付けてある程度責任持ってやってみるスタンスだと上手くいくスレになると思った
- 9 :
- ちょうど例に挙がったので便乗するけど、モーツァルトのフルート嫌いの
根拠とされる手紙って複数残っているんだっけ?1つしか知らないんだが。
これに限らず思うんだが、たとえばこの例で言えば人生35年のうちのある一瞬に
書いた手紙にフルートが嫌いとあったとしても、真実はわからないと思う。
我々だって、本当は好きなのにある時何かのことで「あんなの大嫌いだ!」
と愚痴ることだってあるでしょ?
有名な手紙は注文を受けてフルート曲を次々と書かされている時期で、
依頼主の不誠実にも腹を立てていたわけだから、いささか食傷して
「フルートは嫌いだ」の愚痴のひとつも手紙に書いた可能性も人間である以上
考えないといけないだろう。
やはりこういうのは曲を見ていくのが最もたしかな根拠になると思う。
魔笛などはフルートが象徴的でもあるし神聖さを代表している楽器だし、
コシ・ファン・トゥッテの序曲にしてもフルートはオーボエと同等に
働いているなど、多くの曲でフルートは存分に活用されている。
たしかに当時のフルートは音程が不安定で扱いにくい楽器だったんだろうけど、
作品を聴いていくと、フルートはむしろ好きだったんじゃないかとさえ
思ってしまうな。
- 10 :
- フルート嫌いの件については、たしかマンハイムから父親にあてた手紙の中に
「大嫌いな楽器のために作曲するのは気が進みません」みたいなフレーズがあるんだよね。
ただ、この手紙の本音は、惚れこんでしまったアロイジアのいるマンハイムから
旅立つ気がしない、ということであって、このフレーズは滞在が長引いていることの言い訳
のひとつにすぎない、という解釈もよくおこなわれている。
- 11 :
- >>10
というか、現在ではそういう解釈のほうが一般的でしょ。
- 12 :
- >>6
Bはマンハイムでの父親宛の手紙に
「ああ!ぼくらもクラリネットを持てたらなぁ」
という記述が残ってるようです
- 13 :
- >>1の態度がとっても偉そうで気に入らない件について
- 14 :
- 余計なお世話かもしれないが新規にスレを立てたときは
本スレ(>>2)に報告とリンク貼りをするのがマナーらしい
一応こちらでやっておいた
- 15 :
- 初めてクラリネットを使った作品である、ディヴェルティメント変ホ長調K.113は
あまりメジャーな作品ではないかもしれないが、まるで子供が新しいおもちゃを手に入れて
喜んではしゃいでるような、ほほえましい作品だよね。
- 16 :
- >>15
それに類似な感じがする曲は、ピアノ協奏曲第9番も同じ感じがします。
「初めてのピアノのための協奏曲で」、はしゃいでるというか意気込みが感じられる。
特に最初の、あの有名なピアノの入り方なんてそうじゃないでしょうか。
「 」・・・意外と知られてないよね。
1〜8番はチェンバロ想定で作曲、そして初演された曲ですから。
- 17 :
- >>9
タミーノ役歌手がフルートを得意としていたから
フルートが活躍するようにした。
- 18 :
- >>7
ヴァイオリンと違って、当時ピアノはちょうど発展途上の楽器だったから、
世間の注目もモーツァルト自身の関心も高くて、新しい性能を生かした
作品を次々に書く動機が強かったこともあるだろうな。
- 19 :
- モーツァルトほど話題に事欠かない作曲家はいない。
だからこのスレは伸びると思う。
- 20 :
- 荒らしがなければ全く伸びないだろwww
- 21 :
- 幼き日のモーツァルトがマリー・アントワネットに「僕のお嫁さんにしてあげる」って言ったエピソード本当なのかな?
- 22 :
- 書きたいことは山ほどあるが>>1が立てるだけ立てて投げ出すようなら遠慮する
- 23 :
- 「一本のフルートよりも最悪なのは二本のフルートです」とかな
- 24 :
- とはいえ良スレの予感
>>21
最初期のモーツァルト伝の作者ニーメチェックの記述によると
モーツァルトが、マリア・テレジアの部屋に入って皇子や皇女たちに囲まれたとき、
彼は磨かれてつるつるする床を歩くのに慣れていなかったために、転んでしまい
ました。そこへひとりの皇女がやってきて助け起こしてくれたのですが、その皇女
こそ、のちにフランス王妃となるマリー・アントワネットでした。モーツァルトはとても
感動し、すぐにマリア・テレジアのもとに駆け寄って、彼女の親切心を褒めたたえた…
とされています
プロポーズのエピソードは後付けされた可能性が大きいでしょう
- 25 :
- 訂正
ニーメチェック→ニーメチェク
- 26 :
- >>24
やはりプロポーズは後付けの可能性が大きいですか。
でも転んだモーツァルトをマリー・アントワネットが起こしてくれたのは本当みたいですね。
- 27 :
- 俺のケツを舐めろ!!
- 28 :
- モーツァルトは下ネタが好きだった
- 29 :
- >>28
あなたは嫌いなの?
少年や若い男が下ネタを面白がっていても普通だと思うが。
- 30 :
- モーツァルトは、というより当時は一般的だった説もある
- 31 :
- >>30
そういうのを読んだことあるな。
モーツァルトはカサノヴァやラクロと同時代人だからね。
その後の「清く正しい」時代とは違って、エロさや
お高くとまっている人間だってするだろう的な
「本音」が劇や小説で盛んに表現されていたらしい。
- 32 :
- モーツァルトは子供の頃書いた手紙で既に高位聖職者を
さんざんにこき下ろしていたくらいだからなぁ。
諸権威に無条件で叩頭するような人物ではなかった。
言葉として残さなかったものの、神や来世を本気で信じていたのかすら疑わしい。
少なくとも自分は、モーツァルトの作品からそのような印象を受ける。
- 33 :
- >>32
それはベトの方がよっぽど当てはまる希ガス
モーツァルトは人に対する観察眼が異常に鋭かったんだと思う(書簡などを見るに)
才能がある人物に対しては絶大な賛辞(含オマージュ)を送ってる一方で、
才能がない人物をこき下ろした、批評家としての顔を垣間見ることができる
宗教音楽やフリーメイスンのための音楽の量・質をみても宗教・信仰に一定の理解
があったのは間違いないでしょう。ただしモーツァルトの多面的な側面のいくつかは
権威や宗教には収まらなかったのも間違いなさそうです
- 34 :
- モーツァルトの身長は150cm程しかなかったって本当ですか?
当時のドイツ・オーストリア人の平均身長がどれくらいかは知りませんが低すぎだと思うんですけど。
- 35 :
- >>34
具体的な身長は知らないけど、子供の頃から
当時としてはすごく肉体的に過酷だった
長距離旅行を繰り返したダメージが大きくて
体格の成長に影響したというようなことは
読んだことがある。
- 36 :
- モーツァルトの話題をしてるとき、必ずと言ってよいほどベートーヴェンの名を
出す人がいるね。
逆にベートーヴェンのときにはモーツァルトの話は出ないんだよな。
モツオタとしてその辺が悔しい。
ベートーヴェンとの比較や話題を出さないとモツの話題は続かないのかと思うと。
考えすぎですかね?
- 37 :
- おいらのことかな?
ベトの方が諸権威に対して、より批判的・攻撃的だったという指摘はいけませんか?
近い時代の人間としてハイドン達の話もしたいけど興味ない方が多いでしょ?
ベートーヴェンのスレは覗いたこともないからわからないけど、他スレと比較しても意味はないでしょう
みなさんが何に興味があるのかが見えれば盛り上がるかもと期待、とりあえずスレ汚しスマソ
- 38 :
- >>37
べつに悪いとは言ってないよ。
あなただけじゃなく、評論家から一般クラシック愛好者までベートーヴェンの名を
出して話を進める人が必ずいるという印象があるだけだ。
そういう話の進め方が悪いはずもなく、あなたの言ってることは特に間違えでも
ありませんから。
だからこそ悔しいのです。
- 39 :
- まあ、悔しいというのも大げさで、少し違うような感情だと思うけど。
- 40 :
- >>36
そうかな?
ベトオタの人もモーツァルトを引き合いに話題に出す人多いと思うけど。
- 41 :
- 良くも悪くもベトは音楽愛好家や研究者にとっては、意識せざるを得ない巨人なのでしょう
もしかするとみんなが出来ることなら避けて通りたい、と思っているかもしれないが、
彼の方から頭をもたげてくることもある…
さて、今日から少しずつ伝記的な資料や歴史上の人物の発言なんかをカキコしてみようと思う
「……ついでにお知らせしますが、1月27日、夜の8時に、妻は無事に男の子
を出産しました。でも、後産除去をしなくてはなりませんでした。そのため、
家内はひどく衰弱しました。しかし、ありがたいことに、今では子供も母親も
元気です。よろしくとのことです。子供はヨアネス・クリソストムス・ヴォルフ
ガング・ゴットリープといいます……」
1756/2/9 レーオポルトからヨハン・ヤーコプ・ロッター宛
ヨハン・ヤーコプ・ロッター(1726-1804)レーオポルトの「ヴァイオリン教程」を
出版したアウクスブルクの出版者
- 42 :
- 「ベートーヴェンが曖昧で、統一を欠いているように思われるのは、
よく称賛されるように、野性的な独創性があったからではない。
むしろ、ベートーヴェンが永遠の原理に背を向けていたからだ。
モーツァルトは、決してそんなことをしなかった。曲の各部分が
自分の流れを持っていて、他の部分と調和しながらひとつの歌を
形づくり、その歌に従っていく。そこには、プント・コントラ・プント、
対位法がある。」
フレデリック・フランソワ・ショパン
- 43 :
- うーむ、ショパンはわかっているな。
天才同士の相互理解というのは、実にすばらしいものだ。
- 44 :
- 「彼は和声をよく知っているが、それだけにかえって難解で
何回も聴かねばならない」
音楽事典編者 ゲルバー
「彼は天才でたくさんの楽想を持っている。しかし
多すぎて息がつけず、覚えられもしない。」
作曲家 ディッタースドルフ
「私はモーツァルトから、会話をするように、平易にものを言うことを学んだ」
劇作家、音楽評論家 ジョージ・バーナード・ショー
「音楽から科学的なものを取り除かなければならない。音楽は、ただ〈楽しませる〉
ことだけに努めるべきだ。偉大な美は、そういった制限の中に初めて存在するの
だろう。極端な複雑さなどは、音楽とは正反対のものだ。美は、〈感じとれる〉もの
でなければならない。ただちに喜びをもたらし、我々が捕まえようと苦労しなくとも、
我々の内にしみとおってくるものでなければならない。レオナルド・ダ・ヴィンチを
見よ。モーツァルトを見よ。あれこそ偉大な芸術家だ。」
クロード・ドビュッシー
こうした矛盾するような評価のされかたは、かえってモーツァルトの多彩さを映していて興味深いですね
前者2人は同時代人、後者2人は19世紀以降の人物だと種明かしすると、モツ享受の歴史を象徴して
いるとも言えそうです
- 45 :
- 「ひと口で言うと、レオポルトは凡庸な人物であった。決して天才としての資質を
備えていたわけではない。だが、彼が後世に残したヴァイオリンの教則本や教会
ソナタを見ると、教育者としては希にみる天分の持ち主であったことがわかる。
その痕跡は、ヴォルフガングが最初に受けた教育の中にも認められる。
母親については……陽気で、ものごとにこだわらず、天真爛漫な想像力を持った
人だった。……はっきりしたことは、ナンネルやヴォルフガングの書いたものを見
てもよくわからない」
エマニュエル・ビアンゾ
- 46 :
- モーツァルトはジーだった
- 47 :
- >>46
>>30
- 48 :
- 当時のフルートについて
フルートとはいわゆる横笛のことですが、笛の仲間で最も古いのは縦吹きの笛、
リコーダーです。12世紀ごろ登場したリコーダーは、1600年ごろから1750年ごろ
にかけてのバロック期に盛んに使われ、当時の作曲家が独奏曲や協奏曲など
を数多くつくりました。しかし、リコーダーには、音は出しやすいが、音量や音域、
表現力に欠けるという欠点がありました。
そこで、フランスのオットテール一族はじめ、多くの楽器製作者たちが改良を重
ねて作り出したのがフラウト・トラヴェルソといわれるもので、これがモーツァルト
の時代に使われていたフルートです。黄楊(つげ)などの固い材質の木で作られ
たこの楽器は、柔らかく温かみのある音は出ますが、半音階を自由に奏するの
は困難でした。横笛には、強く息を吹き込むと音程が上がり、弱くすると音程が
下がるという宿命があります。
音に異常に敏感だったモーツァルトが、音程の不安定な楽器に満足しなかった
のは間違いなさそうです。既出(>>10)のようにアロイジアに理由を探すことや、
作曲に思うように時間を割けなかったフラストレーション説など…
理由は(一つじゃなくて)いくつもあっていいんだと思います。
- 49 :
- 名探偵コナンに対する当て付けですね
(真実はいつもひとry
- 50 :
- >横笛には、強く息を吹き込むと音程が上がり、弱くすると音程が下がるという
>宿命があります。
これはリコーダーも同じだと思うんだが。エアリード楽器は基本的にみんなそう
なんじゃないの、縦横関係なく。
- 51 :
- 程度の差はスルーですか
そうですか…
- 52 :
- ナンネルについて
モーツァルトの姉マリーア・アンネ・ヴァルブルガ・イグナーツィア
1751年7月30か31日〜1829年10月29日(78歳)
ナンネルもやはり神童であったが、弟の成功の陰に隠れてしまった。
しかし、弟の作った曲を演奏したり、弟と連弾を楽しんだり、父のヴァイオリン
の伴奏をしたりと、ピアノ演奏は続けました。また、ピアノを教えて、わずかな
がらの収入を得ていたようです。時代には逆らえなかったのです。
33歳で母の生まれ故郷の地方官吏官ベルヒトルト・ツウ・ゾンネンブルク
と結婚し、次第に疎遠になっていった。弟の死後は生き証人として弟の
ことを語り、それが初期の伝記に貴重な情報を提供することになった。
1801年に夫が亡くなると、故郷ザルツブルグに戻るも4年後に長女を亡くし、
1825年には盲目になるという不幸に見舞われる。
遺言によって、同じザルツブルグにありながら父とは別の墓地(聖ペテロ墓地)
に埋葬された。
弟の性格が母に似ていたのに対し、ナンネルは父の性格を受け継ぎ、几帳面
で思慮深い女性だったようです。
- 53 :
- 訂正orz
マリーア・アンネ・ヴァルブルガ・イグナーツィア
↓
マリーア・アンナ・ヴァルブルガ・イグナーツィア
- 54 :
- 我ながら寝ぼけてる…
地方官吏官→地方管理官
補足するとナンネルの夫は資産家であり男爵だった、ナンネルは3人目の妻
- 55 :
- モーツァルトのお姉さんといい、メンデルスゾーンのお姉さんといい、才能があったのに
女だからという理由で十分な活躍が許されずに終わった人を見ると、なんともったいない
ことを…と思う。
男尊女卑の考え方とか、女は家庭に入るべきだとかいう考え方から、せっかくの才能を
生かせずに終わった人も多かったに違いない。もったいないことだ。
- 56 :
- べつに音楽に限ったことじゃないでしょ。
- 57 :
- モーツァルトの存在を、「青空に光輝く太陽」に喩えたドヴォルザーク
- 58 :
- 聖マルクス墓地は
近くに高架道路や空港行き電車が走り回り
郊外という感じはまったくない。
下町の公園という感じだな。
- 59 :
- メンデルスゾーンの姉ファニーは、父親から演奏は許されても作曲は封じられたようですね
曲を弟の名前で発表するように命令されたそうです。もっとも夫のヘンゼルはよき理解者
だったらしく、晩年の数年は自らの名前で創作・出版に意欲的に取り組んだとされています
弟フェリックスは12歳の時に文豪ゲーテにピアノ演奏を披露し、彼の神童ぶりはモーツァルト
を凌ぐ、と言わしめたそうです。ゲーテは60年程前にフランクフルトで幼少期のモーツァルトに
会っている
しかしメンデルスゾーンの場合「十歳で天才、二十歳で秀才、三十歳になると唯の人」を
地で行った印象は拭えない。彼の傑作はほぼ十代に集中してると思う
リストが「こんにちのピアノで再現できないものはない」と豪語してるのに対して
「モーツァルトのト短調交響曲の冒頭8小説をピアノで演奏し、ヴィオラの繊細な音型も含めて
、オーケストラのように響くのなら信じてもよいがね」と語ったというエピソードがある
- 60 :
- >>56
そうそう。19世紀英国の女性数学者にAugusta Ada Lovelaceというのがいたけど、
彼女は数学、科学、バイオリン、語学に長けていて、特にコンピュータープログラマーの先駆け
とされている。語学の素質は、たぶん、実の父である詩人のバイロン卿から
きたのかもしれない。
- 61 :
- >>58
行かれたことがあるんですか?羨ましい!
>>57のエピソードを見つけたので…
ドヴォルザークがプラハの音楽院で学生たちに質問した。
「モーツァルトとは何か?知っている者がいるかね?」
学生たちはひどく狼狽して、月並みな文句ばかり並べた。たとえば、古典派だとか、オペラ作曲家だとか、
ハイドンの後継者だとか、ベートーヴェンと対立する者だとか、ロマン派の先駆だとか。―先生は首を横に振るばかりだった。
「そんなことを言ってるようじゃ、君たちの音楽的センスと感情を疑うね。誰も答えられんのかね?」
と、いちだんと声を高めた。
ついに彼はしびれを切らして、いちばん手前にいた学生の肩をつかんで、窓のそばに連れていった。
「さあ、わかったかい、見えるだろ?」
「何も見えませんが。」
「なんだ、じゃ君はあの太陽が見えないのか?諸君、モーツァルトはあの太陽なのだ!」
ドヴォルザークは真面目に、断固たる調子で、心からの感動をこめて言ったという。
- 62 :
- コンスタンツェについて
コンスタンツェ・ヴェーバー 1762年1月5日〜1842年3月6日(80歳)
レオポルト側の目線で語られ、ネガティブな印象が根強かった
彼女の名誉が回復したのは比較的最近のことである
ヴェーバー家の4姉妹は全員歌が得意で、長女ヨゼーファは「夜の女王」の初演を務めている。
次女がモーツァルト22歳時に失恋したアロイージア、すぐ下の三女がコンスタンツェ
モーツァルトが1778年、マンハイムで一家と知り合った当時、彼女の父はマンハイム宮廷の
バス歌手で、劇場プロンプターや写譜の仕事もしていた。
その翌年にアロイージアがウィーンの宮廷劇場と契約を結んだのを機に一家で移り住む。
父はまもなく急死したため、未亡人となった母が下宿屋をして生計をたてる。
アロイジアのことが忘れられなかったのか、モーツァルトは5月からヴェーバー婦人の〈神の眼〉館
に下宿している。アロイジアはヨーゼフ・ランゲ(モーツァルトの有名な未完の肖像画(1783)の作者)
と結婚していた。
一家の悪い噂ばかりを耳にしていたレオポルトは、息子が〈3年以内にコンスタンツェと結婚しなけれ
ば、年300フローリンを支払う〉といった内容の結婚承諾書に署名したと聞き結婚に猛反対しました。
この承諾書はすぐにコンスタンツェが「あなたの言葉を信じているから約定書なんていらないわ」と
言って破り捨てたようで、モーツァルトは懸命に父を説得しようと試みるも、承諾は得られなかった。
結婚式を挙げたのは1782年8月4日、モーツァルト22歳、コンスタンツェ20歳のときだった。
続きやモーツァルトの借金問題については後日また触れたいと思う
(補足・訂正などあったらどんどんお願いします)
- 63 :
- 訂正orz
モーツァルト22歳、コンスタンツェ20歳のときだった。
↓
モーツァルト26歳、コンスタンツェ20歳のときだった。
- 64 :
- モーツァルトはコンスタンツェのお母さんの策略に引っ掛かって結婚
することになったんだと思うけどね、これって古い説なの?
ただ、コンスタンツェ自身がどんなふうに母親と
共犯関係にあったのかはわからないけど。
でまた、モーツァルトはそれはそれでまあ幸せだったと思うけどね。
- 65 :
- いや、今でも定説だと思うけどねw
承諾書をコンスタンツェが破ったという話は、モーツァルトが父への手紙において
感動的な筆致で報告しているくらいだから事実からそう遠くないのでしょう。
しかし、オヤジさんはこれを三文芝居だと見なしていた。
黒幕兼演出家はウェーバー夫人とその後見人だと考えていた。
モーツァルトへの返事には「夫人と後見人には『若者の誘惑者』と書かれた
プラカードを首から下げたままウィーン街頭で奉仕活動をさせるべき」とあったとか。
- 66 :
- コンスタンツェは実は良妻だった
- 67 :
- 結婚後モーツァルトの仕事は軌道に乗り、多くの友人と夫の愛に包まれて、
コンスタンツェは幸せな生活を送ることになる。
モーツァルトは精力的に活動し、収入も上がり順風満帆のように思われた。
ところが1788年以降には借金地獄が訪れる。
ちょうど88年の7月にはコンスタンツェが脚を患い、バーデンで温泉治療を
するようになり、莫大な出費になった。またバーデンで療養中の妻に宛てた
夫の手紙の中で、行動に注意するように書いてあり、これも悪妻説の根拠に
なっている。さらには息子のフランツ・クサーヴァーはバーデンでコンスタンツェ
に付き添っていたフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーの子供ではないか
という憶測まで生むことになる。
なにはともあれ、コンスタンツェはモーツァルトが終生深く愛した女性である。
モーツァルト死後のコンスタンツェは、2人の幼子を抱えながらてきぱきと動いた。
年金受領の手続きを取り、夫の遺稿を整理して換金できるものは換金し、下宿人
を置いた。1809年には下宿人の1人、外交官のニッセンと再婚し、しばらくコペン
ハーゲンに住んだ後1820年頃ザルツブルグに移り住んだ。
夫の協力も得てモーツァルトの遺産を整理し、大半を後世に遺すことに努めた。
ニッセンはモーツァルトの伝記を執筆するも1826年に亡くなり、この伝記は2年後
にコンスタンツェによって刊行された。
コンスタンツェが亡くなったのは1842年3月6日、モーツァルトの記念像除幕式を
半年後に控えた時だった。
- 68 :
- モーツァルトの多額の借金を根拠に、夫婦そろっての浪費家で、家庭のきりもりが
できない悪妻だと言われてきた。さらにはモーツァルト・ギャンブラー説までも一人
歩きしていた。近代ではそれらはかなり見直されている。
1791年に作成された遺産目録には、高価な衣装類や家具、食器のほか、ビリヤード
台まで記載されている。仕事柄、貴族階級を相手にすることも多かったとあれば、
それらの贅沢品は「必要経費」だったと思われる。もしかすると、現金ではなく
「現物支給」の場合もあったかもしれない。
また当時のウィーンは、対トルコ戦争などで軍事費に膨大な予算がかかり、物価も
安くはなかったようだ。モーツァルトの経済状況を苦しめたのは、その戦争が引き
起こした不況とインフレだった可能性が高い。
もうひとつの悲劇は1790年2月に最大の保護者を失ったことである。ヨーゼフ2世は
モーツァルトには寛大でなかったものの、実力者であり文化・芸術の保護者であった。
新皇帝のレオポルト2世は宮廷作曲家の地位こそ据え置いてくれたが、モーツァルト
にほとんど関心を払っていない。
モーツァルトが返す当てが全くなければ、プフベルクも多額の現金を貸し付けることは
なかったに違いない。モーツァルトの突然の死によって当てが外れてしまうのである。
モーツァルトがあと数年でも生きていれば、事情は違ったのではないでしょうか。。。
>>65
興味深い話をありがとう
- 69 :
- このスレにふさわし話題かどうかよくわからないですけど、
「四つの管楽器の為の協奏交響曲K.297」について意見を求めてもよいでしょうか。
近年の研究では、この作品は独奏楽器の部分だけがモーツァルトのオリジナルで、
オケ部分は他人の手になるものである、という結論に落ち着いているようですね。
私は統計的研究というのがどういうものがよくわからないので、それがどの程度
信頼できる結論なのかよくわかりませんが。いちファンとして素朴にこの曲に耳を
傾けていると、この曲がモーツァルトのものでないとは信じがたい気がしてきます。
いくらモーツァルト自身の手になるソロパートが完成された状態で残っていたとしても
それに対してこれほどまでにモーツァルト的な響きのするオケ部分をつけることのできた
補筆者って、いったい誰だったのでしょう?他の作品の現代人による補筆完成版
(VnとPfの為の協奏曲、三弦楽器の為の協奏交響曲、ホルン協奏曲第一番第二楽章の
オリジナル版など)を聴いても、これほどモーツァルトらしい響きをつくることは
できていないように思います。私の勝手な(願望的)結論としては、やはりK.297はいちど
書いた作品をモーツァルト自身があとから思い出して、ザルツブルクかウィーンで
もう一度書き直した。その際クラリネットの追加とフルートの削除がおこなわれた、
と考えても良いのではないかと考えています。皆さんはどう思われますか?
- 70 :
- >>69
よくマリナー指揮のものを聴いていますが
全体的に違和感はありません。
個人的にはオリジナル曲だと思っています。
- 71 :
- K.297bは別人の作だと思うけどな。
近い時期のK.299あたりと比べると
スカスカなかんじがして、とてもモーツァルト作と思えない。
特にオーケストラにそう思います。
ただ、この曲自体はすごく魅力的なので結構聞いています。
- 72 :
- 71さんのようなご意見のかたの場合、そうすると現在一般的に聴かれているK.297の
オケパートを書いたのは、モーツァルトと同時代の他の作曲家だとお考えですか?
それとももっと後の時代になって(現代においてよくおこなわれているように)
補筆がおこなわれたのでしょうか、私はそのあたりにとても興味があるのです。
- 73 :
- >いくらモーツァルト自身の手になるソロパートが完成された状態で残っていたとしても
>それに対してこれほどまでにモーツァルト的な響きのするオケ部分をつけることのできた
>補筆者って、いったい誰だったのでしょう?
レクイエムを例に挙げれば、あれだってモーツァルト的な響きでしょう。
モーツァルトの手が全く入っていない後半は確かに変てこな響きはあるが。
- 74 :
- レクイエムや大ミサが好きなのですが
最近「魔笛」のパパパの2重唱がとてもお気に入りです
生きる喜び、生きるということ、そして人間という存在への賛歌ですね
試練に耐えられなかった弱きパパゲーノにも未来がある
シカネーダーの脚本ではあるのでしょうが、強くない人間というものに対する暖かい眼を感じます
モーツァルトという人物は本当に興味深いです
レックス・トレメンデなどに見える崇高で気高い部分と魔笛などに見られる大衆的な部分が同居しているわけですからね
- 75 :
- モーツァルトの子孫のひとりがレーシング・ドライバーとして一時期ちょっとした話題になっていました
F3というクラスでF1レースの前座でも走っていたのですが成績は今ひとつぱっとせず
スポーツ心理学者に転身したといいます
上のほうにもモーツァルトの人間に対する洞察力の深さが挙げられていますが
どことなくモーツァルトは人間観察や批評の好きな人物だったのではないかという感じもします
- 76 :
- モーツァルトの子孫だと? いるはずがないが…。
- 77 :
- >>74
幼い頃から王侯貴族とも接し、調子の良いときには
あれこれ擦り寄ってくる一方で下り坂になると見向きもしなくなる
人間の薄情さも骨の髄から実感し、もちろん庶民のことも
よく知っている。人間の表と裏、一見善人のようでも裏もあり、
逆に悪人かと思うと優しい面もある。考えてみれば当たり前の
このような人間の有り様を実体験で知悉していたのが
モーツァルトといえるでしょうね。
「モーツァルトのオペラには普通の意味での善人も悪人もいない」
という誰かの言葉には大いに共感を覚えます。
- 78 :
- >>76
子孫はいないのですね
同姓ということで話題になっていたのでしょうか
「音楽はさっぱりだけど後ろに誰がいるかはミラーを見なくてもわかるよ、エンジンの音でさ」
とジョークを飛ばしたりパドックでもちょっとしたいたずらをするなど陽気で茶目っ気なところがありました
>>77
小さい頃から大人たちに囲まれていると少々ひねた性格にもなりそうなものですが
モーツァルトは表面上はあまりそういうところを感じさせませんね
幼少の頃から英才教育を受け旅から旅へだったモーツァルトには子供時代にいっしょに遊ぶ友人がいたのでしょうか
成人してからの親しい友人というとどんな人たちになるのでしょうか
- 79 :
- >>73
ご指摘のとおりだと思います。
ですから私の個人的推測としては、レクイエムの場合と同じように
協奏交響曲の補筆もモーツァルトの弟子のような立場の人か、
そうでなくても当時の音楽語法によく通じていた同時代の
作曲家によってなされたものなのだろう思っています。
現代人がおこなった補筆完成や、(これも結論はでていないようですが)
ヴァイオリン協奏曲6番/7番などとは、かなり質が違うように
思えてなりません。
- 80 :
- >>78
>小さい頃から大人たちに囲まれていると少々ひねた性格にもなりそうなものですが
>モーツァルトは表面上はあまりそういうところを感じさせませんね
たしかにそうだと思うが、ドン・ジョヴァンニやコシ・ファン・トゥッテなどにおける
サディスティックな皮肉が相当なものであるのも事実ではあるね。
それでいながらサディスティックな皮肉の対象のドンナ・エルヴィラの純真な心も
同時に表現している二面性がすごいところだと思う。
- 81 :
- 『この十八世紀人の単純な心の深さに比べれば、
現代人の心の複雑さは殆ど底が知れているとも言えようか』
小林秀雄の例の評論を全面的に支持しているというわけでもないが、
この一節は深く印象に残っているな。本質に迫っているというか。
- 82 :
- 流れを遮るようでスマないが子供や友人の話題が出てるので
モーツァルトとコンスタンツェの間には、およそ9年間の結婚生活で6人の子供が生まれたが、
生き残ったのは次男カール・トーマスと四男フランツ・クサヴァーだけだった。
モーツァルトが死んだ時、前者は7歳になったばかり、後者は生後4ヶ月余りだった。
幸い父の友人・知人たちが2人に援助の手を差し伸べてくれた。
ふたりとも生涯独身だったため直系の血統は残っていない…
(本を探せなかったので詳細は覚えてませんが)ナンネルの子孫も絶えてしまったようで、
モーツァルトの血筋で20世紀まで生き延びたのは〈ベーズレ〉の子孫だけといわれています。
カール・トーマス 1784年9月21日〜1858年10月13日(74歳)
カール・トーマスは父の死の翌年、プラハで教授をしていたニーメチェクに引き取られ、
教育を受けることができた。その後商人や音楽家の修行を積むも、ミラノのナポリ副王
に仕える役人の道を選んだ。
フランツ・クサヴァー 1791年7月26日〜1844年7月29日(53歳)
フランツ・クサヴァーはのちにコンスタンツェがヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(2世)
と改名させ音楽活動をしており、ヨーロッパ中で演奏旅行を行い成功を得ている。しかし父親
の名声が上がるにつれ自ら身を隠していったといわれる。古来から天才の父親を持った息子
たちは、重い看板を背負って苦労するようだ。ながらく地方都市レンベルクに住んでいたが、
1838年にウィーンに戻り、父の没後50年の1841年には「大聖堂音楽協会兼モーツァルテウム
(現ザルツブルグ国際モーツァルテウム財団)」の名誉会員に、母、兄とともに任命される。
その翌年モーツァルトの記念像除幕式では自作とともにニ短調協奏曲K.466を演奏しており、
拍手が鳴り止まなかったといわれるが、これが最後の舞台となった。カルルスバートで亡くなった。
なお彼が師事した音楽家は父と縁の深いドゥーシェク、フンメル、サリエリ(!)、ベートーヴェン
の師でもあるアルブレヒツベルガーなど錚々たる名前が並ぶ。母の従弟にあたるカール・マリア・
フォン・ヴェーバーとも交流があったようだ。
- 83 :
- モーツァルトの友人は主に交流のあった音楽家や支持者たちだったと思われる。
なかにはこんな微笑ましいエピソードも…
1770年4月フィレンツェで、当時有名だった女流宮廷詩人モレッリ・フェルナンデスを訪れた際、
トーマス・リンリというイギリスの少年と知り合う。彼はモーツァルトと同様、著名な作曲家の父
に教育を受け、8歳でデビューし「神童」と言われていたヴァイオリニストだった。モーツァルトは
同い年(14歳)の彼と意気投合し、フィレンツェを出発するまでの数日間、二人でヴァイオリンを
弾いて興じ合った。レオポルトは、2人が「しょっちゅうお互いに抱擁を交わしながら、一晩中交代
で演奏していた」こと、そしてリンリがモーツァルト親子の出発の日に何度も別れを惜しみモレッリ・
フェルナンデス作の一遍の詩を送ってくれたことを書き記している。
しかし2人はこの後2度と会うことはなく、リンリはこのわずか8年後に世を去ってしまう。
21歳のモーツァルトが父の故郷アウクスブルクで会った〈ベーズレ〉(=従妹ちゃん)はもしかすると
友達以上の仲だったかもしれない?! レオポルトの弟フランツ・アーロインスの一人娘マリーア・アンナ・
テークラ(1758〜1841)はさっぱりした気性の持ち主で、従兄弟があけすけな冗談たっぷりな手紙を
送ってきても、いっこうに動じていない。いわゆる一連の〈ベーズレ書簡〉である。
アロイジアに失恋したモーツァルトを慰めたのは他ならぬ彼女であった。
彼女は1784年にヨゼーファという名の私生児を生んだが、父親は高位聖職者といわれている。
1814年に娘の結婚にともなってバイロイトに移り、83歳で亡くなった。
ウィーン時代にはホルン奏者のロイトゲープなどは、24歳も年長ながらモーツァルトの格好のからかい相手
だったようだ。ホルン協奏曲第2番 K.417の自筆譜には「ロバ、牝牛、間抜けのらイトゲープを憐れんで」
との献呈の辞が添えられている。また第4番 K.495では赤、青、緑、黒と4色のインクで楽譜を書いている。
第1番(4曲の作曲順は2→4→3→1とされる)の草稿には「ロバさん、勇気を出して―急いで―つづけて
(……)―愚か者―おお、何たる調子っぱずれ―ああ!―悲しいかな―やったぞ、あわれな奴め!」
といった書き込みが見られる。
- 84 :
- >>83
俺もモーツァルトとトーマス・リンリとのエピソード好きだよ。
トーマス・リンリはモーツァルトがフィレンツェを去る時、門まで駆けつけて悲しさのあまり泣き崩れたそうだね。
二人がどんなに仲良くなっていたのかがよくわかります。
モーツァルトの少年時代の良きエピソードだね。
- 85 :
- ここは、モツ関連の中で一番まともなスレだな。
フランツ・クサーヴァー・モーツァルト作曲のピアノ協奏曲ハ長調を聴いたこ
とがあるけど、親父の影響下に書かれただけに曲想や雰囲気がそっくり。
モツのピアノ協奏曲が好きな人には一聴を勧める。
- 86 :
- 困窮のうちに世を去ったと伝えられるモーツァルト(1756〜91年)は高給取りの浪費家だった−。
各国のモーツァルト研究者でつくるグループが新たに発見した100以上の史料を分析、新説を
まとめた。現在の通貨で15万ユーロ(約1900万円)相当の年収を得ながらも、酒などに散財
していたという。オーストリアのメディアが6日伝えた。
モーツァルトは同国ザルツブルク出身。グループはオーストリアやスイスなど各国の24人で、
モーツァルトの晩年の10年間の家計などを5年がかりで調べた。
その結果、モーツァルトの年収は先輩として慕っていたオーストリアの作曲家ハイドンの2倍
以上で、当時の大学教授の約15倍だった。モーツァルトは7つの部屋と厩舎(きゅうしゃ)を
備えた快適なアパートで生活。貴族的なライフスタイルを好み、散財したという。
グループはモーツァルトが作曲活動や音楽のレッスンなどで得た収入と、衣装代から楽譜の
購入費まで日常生活の支出を詳細に分析。モーツァルトが住むアパートに店を構えたワイン
小売商の価格表も参考に「収入の17%を酒宴に費やした」とはじき出した。
ザルツブルクのモーツァルト研究者ギュンター・バウアー氏は地元メディアに「モーツァルトは
従来知られていたよりも2倍は(経済的に)豊かだった」と説明。研究をまとめた著書を近く
発表するという。
モーツァルトはウィーンで35歳の生涯を終えた。晩年は友人に借金を重ねたとされ、遺体は
初め集団墓地に埋葬された。
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp1-20100407-615107.html
- 87 :
- 規制解除マダー?
- 88 :
- 解除キテタ━(゚∀゚)━!
>>86は新説という程でもないですね、前からあった説を資料的に裏付けた感じでしょうか
ただ、いわゆる「晩年の悲劇」を覆す形で提唱された新説は逆のベクトルへの揺り戻しも
含みながら真相を探ろうとしているのが現状のようです
真実は永遠に闇の中と言えるでしょう
一応補足させていただくと、モーツァルトは引っ越し魔だったこともあり
>7つの部屋と厩舎(きゅうしゃ)を備えた快適なアパート
に居たのも数年だけではないでしょうか
それと既出の対トルコ戦争やナポレオン戦争による大インフレの結果、お金の価値が五分の一
にまで下がったという説もある位ですから、ちょうど晩年は厳しい時期と重なったのだと思います
それでもやっぱりモーツァルトが身の丈以上の生活をしたのは間違いないのでしょう
- 89 :
- >>88は我ながら分かり辛い…
ナポレオン戦争は戦争による大インフレの一例でした
- 90 :
- >7つの部屋と厩舎(きゅうしゃ)を備えた快適なアパートに居たのも数年だけではないでしょうか
いわゆる「フィガロ・ハウス」在住は1784年9月〜1787年4月とのこと。
ソース:「ウィーンのモーツァルト史跡探訪」(ヘルムート・クレッチマー著、白石隆生訳、音楽之友社、1991年)
フィガロハウスは見学したけれども、スペース自体は狭かった。
狭いスペースにも関わらず、それでもビリヤードルームを設けたのだから、
余程好きだったのだろうかと思った。
- 91 :
- >>90
なるほどあのフィガロ・ハウスのことだったんですね!
モーツァルト自信もビリヤードや九柱戯が大好きであり
客人への最高の持て成しでもあったのでしょうね
そういえばいわゆる「ケーゲルシュタット・トリオ」や「ケーゲルデュエット」
もこの時期の作品ですね
あと、フィガロ・ハウスはパトロンから提供されたものという説もあるようですが
結局引っ越すことになったのは提供者側の都合でもあったのか、そもそも
その説が根も葉もないデタラメなのか…
- 92 :
- 携帯規制?
- 93 :
- 何かモーツァルトのおもしろいエピソード教えてください
- 94 :
- モーツァルトって、漢字で「莫差特」と書くらしい。74へぇ。
- 95 :
- モーツァルトの生涯が書いてある伝記で一番いい本教えてください
- 96 :
- >>95
岩波文庫のモーツアルトの手紙。
2巻本だけどコンパクト。注釈に伝記的事実が補ってある。
これでモーツアルトの生涯だいたいわかるよ。
手紙だから一次史料(翻訳だけど)だし、
解説にあるエピソード、付録の信憑性の疑わしい手記も
読んで面白かったね。
- 97 :
- 「アマデウス」
この場面だけ見ると、モーツァルトってちょっとアレな人だったの?
http://www.youtube.com/watch?v=rjmmjXGwarU
- 98 :
- 映画を真に受けるなんて・・
それなら、初心者スレで質問するのがいいと思うよ
- 99 :
- >>97
本当にそんな人だったらおもしろいですね
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