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2012年6月演劇・舞台役者523: 【三島】★平岡公威とペルソナ☆【由紀夫】 (546) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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【三島】★平岡公威とペルソナ☆【由紀夫】


1 :10/03/06 〜 最終レス :12/03/11
平岡公威(筆名:三島由紀夫)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bf/Yukio_Mishima_1931.gif
http://image.rakuten.co.jp/auc-artis/cabinet/s-2540.jpg
http://www.c21-smica.com/blog_century21_nobu/img_1596165_27088893_0.jpg
大正14年(1925年)1月14日、東京都四谷区(新宿区)永住町2に
父・平岡梓(元農林省水産局長)、母・倭文重の長男として誕生。

2 :
…応援席の中から、中等科一年生を見分けることはたやすかった。学帽や徽章は、「貫禄」をつけるためわざと
よごされていても、襟章の金の桜のま新しさは残っていた。それになにより、カン高い声、彼らは小鳥のように
たえず動いていた。一年生は、付属戦の応援を休むことはできない。彼らにとって、上級生は教師よりこわかった。
…その一年生の中にいるはずの平岡公威、のちの三島由紀夫を探しに行った。私は高等科三年だった。
私は一年生の集団に近づき、うしろに立っている一人の肩をたたいた。彼はふりかえると、直立不動の姿勢をとった。
「平岡公威(こうい)という人はいないか?」「は。おります」
彼の視線は、最前列のベンチで、帽子をとり合ってはしゃいでいる一群に走り、そこでとまった。
「あれです。あの白い奴です」「すまないが、呼んで来てくれ」
人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。
目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。
坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

3 :
「平岡公威(きみたけ)です」
高からず、低からず、その声が私の気に入った。
「文芸部の坊城だ」
彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。
「きみが投稿した詩、『秋二篇』だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた」
私は学習院で使われている二人称「貴様」は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。
…「これは、文芸部の雑誌『雪線』だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである」
三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。
三島は一瞬躊躇し、思いきったように、挙手の礼をした。このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は
少年のやさしい魂を垣間見たと思った。
坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

4 :
そのまま私はたち去ったが、同級生の質問責めにあっている少年を背後に感じた。
あの人の稚児ではないか、といったからかい半分、やっかみ半分の質問をかいくぐって、最前列のベンチへもどる
まっ白な少年が、目に見えるような気がした。
そのころの学習院では、稚児遊びが盛んだった。私も中等科一、二年のころ、上級生から、厚い封筒を
おくられたことがある。(中略)
しかしこうした稚児遊びは、男色と呼ばれるようなどぎついものではなかった。むしろ、初恋よりも淡々しい、
思春期の、一種なまめかしい情緒だった。
そうして三島と私との場合、私を三島に結びつけたものは、肉親にめぐり逢うたようななつかしさ、とでもいおうか、
昭和十二年秋、三島十二歳、私は二十歳、たとえば上記のようにして、私たちは邂逅した。
坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

5 :
三島にわたした文芸部の雑誌『雪線』第三号には、私の小説『鼻と一族』が掲載されており、それは二・二六事件に
関した作品であった。この二・二六事件が、後年の三島に大きな影響をもたらしたことは周知の通りであるが、
事件の起こった昭和十一年二月には、三島はまだ初等科五年、私は高等科一年であった。(中略)
(三島の)感じやすい魂は、事件の背後にあるものを、本能的に読みとったのではあるまいか。それは、三十年後の
『天人五衰』に、本多の考えとして書かれている「日本の深い根から生ひ立つたものの暗さ」である。
われわれのはるかなるふるさとの、暗いともし火である。それは『春の雪』に結実した「優雅」であるとともに、
『奔馬』における「暗い熱血」でもあった。
…しかしふたつながら、「近代」の前に消え失せようとしている、すでに不在の残像かもしれない。
その火影を、三島は十二、三歳の歳、みずからも手の届かない心のおくがに、見てしまったのではなかったろうか。
坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

6 :
昭和十五年夏、私は信州追分の泉洞寺の離れに一室を借りて、国文科の卒業論文を書いていた。(中略)
落下傘のやうに 開かぬこともあるのかしら 咲き遅れた月見草よ
七月、私はこんな詩を、東や三島に書き送った。三島は、「落下傘のやうに」という比喩を褒めてくれた。
「時代の不安」が、そこはかとなくあらわれている、といって。
(中略)短い一行のなかに、三島が「時代の不安」をよみとってくれたことはうれしかった。
その年の九月、三島に送った詩はつぎのとおりである。
新たな眠りに半身の侵される儘に 
額に額をおしあてたままに 
見るとなくあなたを眺めるとき
近過ぎて朧げな唇は 青い空気に湿つた
不機嫌に目覚めた山肌から 
立ち昇る香の漂ひに 
幽かにしののめが響いてきた
頬にもつれる髪の潤ひ 
髪にもつれる息の静けさ
冷え冷えと 
冷え冷えと 
光ほのかに白らむ窓
…そのころの作品を読みかえしてみると、このように、至るところに、少年三島が投影していることに気づくのである。
坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

7 :
『詩を書く少年』の先輩Rは、私である。Rは少年に自分の恋愛を告白する。(中略)
私はこの恋愛を『舞』と題する小説に書いた。昭和十六年から十七年にかけてのことである。
三島は『舞』が、事実にもとづいて書かれたものであることを百も知っているのに、まったくの虚構としてあつかい、
たとえば、「こんな会話はあり得ません」とか、「こんな情景はあり得ません」といった言い方をした。
今になって考えると、三島の言葉には省略があった。「われわれ(貴下と私)の文学の世界においては、
こんな会話はあり得ません」という意味であった。三島は『文章読本』で、「格調と気品」を守るためには、
多少の現実性は犠牲にしても、会話における倒置法などは用いない、と記している。ところがそのころの私は、
実際の会話をそのまま写して、得意になっていた。だから三島は、「こんな会話はあり得ません」といったのである。
坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

8 :
(中略)三島は度し難いと思ったのであろう。手をかえて、この女主人公は下品だとか、野卑だとか言い出した。
あるいは、この地の文は、新聞記事のようで個性がない、とか。
私はその時気づかなかった。十六歳の三島は、すでに脱皮していたということに。三島はもう『詩を書く少年』
ではなかった。清水文雄氏はじめ、『文芸文化』の同人にみとめられ、『小説を書く少年』になっていたのである。
Rの中に滑稽なナルシスムを発見した少年は、みずからのナルシスムにも気づいたのである。(中略)
こうして、私の恋愛は、ひそかに私が期待していたのとは反対に、三島からも、そうして東からも、何の尊敬も
同情も得られなかったばかりか、むしろそのために、私は彼らから見棄られた恰好になった。
彼等は、私のかわりに徳川義恭を仲間に入れ、『赤絵』を創刊した。それは私に対する叛旗であり、私の恋愛に
対する、彼らの復讐のような気がしたのである。
坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

9 :
(中略)私から完全に消え去るためには、三島はあまりに高名であった。私はいやでも神輿をかついでいる
彼の写真や、ボディ・ビルできたえた肉体のそれを見なければならなかった。
…私にはそんな三島が、いたずらに、鬼面人を驚かす貝殻に、つぎからつぎと宿ってみせる、宿かりのように
見えたのだった。勿論、三島の真意は、そのような趣味の問題ではなかった。最も不慣れな、不器用な面で、
彼は生きようと欲したのである。この血のにじむ「生」のなかにしか、彼の求める「創造」はあり得なかった。
ある時、末弟俊周がこんなことを言った。「三島さんに会ったらね、俊民さん、お元気、って聞いていたぜ。
三島はこのごろ、変な映画を作ってるといって、俊民さん笑っていなさるだろうな、って」
三島の共通の知人に出会うと、これに似た三島の言葉が、何回か伝えられた。しかし、所詮は戻ることのできない
彗星の小さき影として、三島は私のはるかな空に、またたいているにすぎなかった。
…かくして二十年の時はながれた。
坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

10 :
昭和四十五年正月のある日だった。偶然手にした月遅れの婦人雑誌の新刊書紹介の欄に、『春の雪』の梗概が出ていた。
「やった。とうとうやった」と私は思った。私は早速『春の雪』を購入、ひと息に読んだ。『春の雪』の世界は、
三島の世界というよりも、私の世界に近かった。登場人物のすべては、あるいは私の肉親であり、親戚であり、あるいは
その召使であるような気がした。広大な松枝邸も、鎌倉の別業も、かつてそこに遊んだ記憶があるように思われた。
三島が十四、五歳のころ、私は『夜宴』という散文詩を書いた。
「今度はぼくに書かせてください」三島は言った。「坊城伯の夜宴を」
三十年前のこの約束が、今、目の前に果たされたのを、私は見た。三島と私との、二十年に及ぶ空白は、一瞬にして
消滅している。三島は少年の日のように、ふたたび私のかたわらにある。奇蹟は、まさに起こったのである。
坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

11 :
そうして、読後のこころよい興奮のうちに、『源氏物語』をはじめて読んだ日々のことが、二重写しになって、
おもむろに浮かんできた。
…今になって『源氏』が読みたくなった…(中略)
『夕顔』にいたるや、小躍りして私は思った。これこそ『源氏』だ、と。ふたつのイメージが重なったばかりでなく、
重なると同時に、忽然、ひかりを発し、匂いを発し、小天地はおのずから展開してゆく。私は静かな熱狂を覚えた。
そのしずかな熱狂が、『春の雪』読後、私によみがえった。
それは、この国の暗い地下水、「優雅」に対する讃嘆であった。
坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

12 :
(中略)優雅とは、洗練された、優美繊細なものと一般に言われているが、その根底には、いつも野性を秘めて
いなければならない。(中略)
優雅とは、地上のあらゆる権勢富貴を、つねに見おろす魂の高貴さにあり、言い替えれば、すべての物質に
対する精神の優位を示すものである。(中略)
まことの「優雅」は、現代人のいわゆる「優雅な生活」を棄てた人たちの手によって、受け継がれて来たのである。
(中略)私は『春の雪』が、三島のすべてではないことを知っている。しかしそこには、作者三島のふるさとがある。
三島ばかりでなく、日本文学が、否定しようとしても否定できないもの、脱皮しようとしても脱皮できないもの、
ひとたびは回帰すべき、この国の「深い根」が描かれている。「優雅」が描かれている。だから私は『春の雪』を、
『豊饒の海』の第一巻としてばかりでなく、三島の全作中の、最も高い位置に置きたいのである。
坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

13 :
(中略)「坊城さん、ぼくは五十になったら、定家を書こうと思います」
「そう。俊成が死ぬとき、定家は何とか口実を設けて、俊成のところへ泊らないようにするだろう?あそこは面白かった」
「あそこも面白いですが、定家はみずから神になったのですよ。それを書こうと思います。定家はみずから
神になったのです」三島の眼は輝いた。(中略)
今になって思うのだが、三島は少なくともそのころ、四十五年正月ごろは、進むべきふたつの道を想定して
いたのではなかったろうか。ひとつは、世人が皆知っている、自決への道である。これを三島の表街道とすれば、
裏街道は、定家を書く道であった。裏街道をたどらざるを得ないことが起こったとすれば、それは三島にとって
不本意にはちがいなかろうけれども、私は後者をとってほしかった。
坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

14 :
(中略)きみは自決の六日前、最後の手紙を書いてくれた。
「十四、五歳のころが、小生の黄金時代であったと思ひます。実際あのころ、家へかへるとすぐ、『坊城さんの
お手紙は来なかつた?』ときき、樺いろと杏子いろの中間のやうな色の封筒をひらいたときほどの文学的甘露には、
その後いきあひません。」(中略)
フロベエルの、なつかしい『トロワ・コント』モオパッサンの『メエゾン・テリエ』こうした題名を目にしただけで、
あのころの学習院が、きみとはじめて会ったころの、昭和十年代の学習院が、瞼に浮かんでくる。きみは中等科一年、
ぼくは高等科三年だった。きみが『春の雪』に克明に描いている、天覧台の芝生、お榊壇、血洗の池……。
そうして、誰がいつ掃除したのかもわからない、古い寮の一室、すなわち、雑然たる文芸部の部室。(中略)
…ラディゲもまた、反近代の戦士のひとりに数えられるだろう。伝統の美神の帰依者だった。これら文学の
大先輩達を、われわれはいかに讃美したか。あのころ、きみは十四、五歳。ぼくは二十二、三歳であった。
坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

15 :
(中略)三島由紀夫の最期は、私にとって、みずからが生きるみちの困難さを、思い知らされるものがあった。
(中略)現代とは、アメリカの一作家によれば、「社会が、熟練した、facelessな人間を求めている時代」である。
即ち、人間は、その故郷の灯を見失おうとしている。忘れるということならば、思い出すこともあろう。
けれども、忘却ではなくて、喪失の時が来てしまったような気がする。(中略)
絵文字のやうに
楔形文字のやうに
我等の詞華は滅びるであらう
しかし 誰か人あつて我等の廃墟を訪ひ
たれか人あつて我等の文字を目にする時……
三島由紀夫とめぐり逢うた二十歳のころ、私はこんな詩句を彼に示した。
…この気持は少しも変わっていないので、ここに揚げて結びの言葉にかえたい。
坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

16 :
三島由紀夫、本名平岡公威氏は、府中市多摩霊園十区一種十三側三十二番、平岡家の墓碑の元においでになる。
…私が墓参に行くと、かつては真紅であったろうと思われる薔薇がドライフラワー状態になって手向けられてあった。
…「真紅の薔薇」には忘れ得ぬ記憶がある。
昭和四十五年十一月二十五日。
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹された翌日、検死の済んだ御遺体が、詰めかけた人々で騒然としている御自宅に戻られた。
パテオに屹立していたアポロンの立像の脚元に三十本余りの真紅の薔薇が文字どおり放り投げられて散乱していた。
鎌倉の御自宅から駆けつけて来られた川端康成氏が線香をあげられたあと、その光景を凝っと視ておられ
「薔薇って怖いね」と私の耳許で呟やかれた掠れ声が今も鮮明である。眼に薔薇の炎。耳に巨匠の声。――
増田元臣
「美しい人間の本性」より

17 :
三島さんの交誼を頂く事になったきっかけは、私が未だ慶應義塾大学の塾生だった時である。
私は幼年期から映画に取り憑かれており、塾生でありながら、増田貴光というペンネームで書いていた
「映画の友」という月刊誌の寄稿文を映画好きの三島さんが読んで下さった事にある。その月の私のコラムは
「ヴィスコンティの美は禁色にあり」と題したもので、その時初めて手紙を頂いた。
手紙の御礼に御自宅に赴いた私を、三島さんは楽しげにもてなして下さった。
…数日後三島さんから二通目の手紙が届いた。差し出し名は平岡公威となっており、その内容はざっと
次のようなものだった。
「今後、君と付き合ってゆくにあたり、先生という敬称はやめて欲しい。君との友情に距離感が生じるようで
寂しいではないか――」そして文通するについての差し出し名は平岡公威にする、と書かれてあった。
以来私も三島さんへの手紙は本名の増田元臣とした。
増田元臣
「美しい人間の本性」より

18 :
私が映画評論家として米国に滞在していた時、「憂国」の映画が完成したという連絡を頂き、急遽帰国した。
原作、脚本、監督、主演すべて三島さん自身の作品だった。
三島さんは私独りの為に、三島さんと親交の深かった葛井欣士郎氏の劇場で「憂国」を観せて下さった。
試写が了り私が泣き濡れた顔で廊下に出て行くと、葛井氏となにやら談笑していた三島さんが驚かれた様子で、
「ほとんどが割腹シーンで占められているこの映画で、何故そのように悲しむのか」と訊かれたので、
「この映画は三島さんのダイイング・メッセージと解釈致しましたので」と私はお応えした。
その事があって以来、私は三島さんとの数々の思い出で日々を送った。
増田元臣
「美しい人間の本性」より

19 :
特に、三島さんがイタリアに取材に行く時と、私がローマのチネチッタ・スタジオのフェリーニとの
コンタクトの時が一致して、私がお供をする形になった時のことである。
私達がフォロ・ロマーノの遺跡に立った時三島さんは冗談めかして、
「もし私がハドリアヌス帝だとしたら、君はアンティノウスになれるか」
と尋ねられたので、私は、
「勿論です!」と勢い込んで即答した。
あの時の三島さんの嬉しげなお顔は、忘れる事が出来ない。
「三島由紀夫文学」については周知である。しかし、平岡公威、という美しい人間の本性は、深海の如く神秘で、
容易に理解することは出来ないだろう。
増田元臣
「美しい人間の本性」より

20 :
私が松濤二丁目のこの商家に嫁いだのは昭和二十二年の春のことです。当時は、近隣一帯は空襲で一面
焼け野原になったままでした。
…私は二十三年に長女を産み、その子を連れてよくご近所を散歩したものです。
その折、始終三島さんの家(「平岡」という表札でした)の前を通りました。
(略)…洋館のほうの二階の窓によく三島さんをお見かけしました。夕方になると電気スタンドが点っていて、
その光の中で白いシャツを着た三島さん(白がとてもお好きだったようです)がいつも何か書きものを
なさっていました。
人に聞くと「あの人はいまに小説家になる偉い方だ」という話でしたが、当時は私は三島由紀夫という名前は
知りませんでした。
東大に行っている時分に小説を書いて一躍有名になった人ということで、とにかくいつ行ってみても、
机に座って仕事をしておられたのが印象深いのです。
原義穂
「渋谷大山町の頃の三島さん」より

21 :
私の家はタバコを商っていましたので、お父さまも三島さんもよくタバコを買いに見えました。(中略)
息子さんの三島さんはよく「光」をお求めになりました。
もっともあの頃はまだ銘柄も少なかったうえに極端な品薄で選り好みなどできませんから、「光」がなければ
何でもお買いになりましたが。
どこかにお出かけになる前に立ち寄り、買ってすぐ一本抜き取ってお吸いになるというのが、あの方の習慣でした。
タバコを受け取るその手が細くて華奢だったのをよく覚えています。
それにしても三島さんはおしゃれでした。
戦後間もなくの頃ですから、おしゃれをしている人などあまり見かけることはなかったのですが、三島さんは
いつもピシッと決めていて一分の隙もなく、大山町あたりでさえすごく目立ちました。
原義穂
「渋谷大山町の頃の三島さん」より

22 :
夏など、真白の詰襟、真白の半ズボン、真白のハイソックス、真白の靴という、上から下まで白ずくめのいでたち。
たまに帽子をかぶっていることもありました。サファリ帽というのでしょうか、猟の時に使うような帽子で、
外国にでもいらしたことのある方かと思っていました。
服装だけでなく、三島さんはすごく清潔感のある方でした。
手もほんとにきれいでしたし、お顔なんか毎日当たるんでしょうね、頬など青白く見えるくらいでした。
いつもポマードのいい匂いをさせていました。でも、無駄口をたたくようなことはほとんどなく、どちらかといえば
「謹厳実直」という印象を受けました。
…ご一家が住んでおられた借家も今は取り壊されてなくなり、このあたりもずいぶんさま変わりしました。
原義穂
「渋谷大山町の頃の三島さん」より

23 :
三島さんの葬儀の日の少し前、実行委員会の打合わせがあった。
(略)…式の段取り、各委員の仕事の分担、注意事項の検討、弔辞を読む方々の紹介があった。
その時、御父上が突然私を指名された。
思いもかけない発言に私は動転し、そのような大任の資格が私には無いと辞退した。
すると川端先生が例の鋭い目で、「資格のある人間はどこにも居ません。おやりなさい」と宣言された。
当日、私は緊張と悲しみに耐えながら弔辞を読んだ。
「私のこれまでの人生で、最高の喜びは、三島さん、あなたにお会い出来たことであり、最大の悲しみは、
あなたを喪って今ここにこうして立っていることです……」と。
私が三島由紀夫という名を識ったのは、昭和十九年、書店で見つけた「花ざかりの森」で、何故かすがすがしい
感じがした。戦後、雑誌『人間』で「煙草」を読んだ時、私はすぐ「花ざかりの森」を思い出した。
藤井浩明
「私の勲章」より

24 :
終戦前の昭和二十年一月、私は中島飛行機小泉工場へ勤労動員され、戦闘機を造っていた。私たちの寮の隣りに
東大法学部の学生たちがいた。その中に三島さんがいて、明日をも知れぬ状況の中で、後に発表された小説
「中世」を書き続けていたことを、ずっと後で知って驚いた。二十五歳までに戦争で死ぬものと覚悟していた
私たちが、生きながらえて後に親交を結ぶとは……不思議な運命を感ぜずにいられない。
私が初めて三島さんに対面したのは、昭和三十一年、「永すぎた春」映画化の交渉の時である。
…私は既に大映企画部にいて三島作品の映画化を夢見ていた。
緑ヶ丘の平岡邸で眷恋の人に対面した時、私は自信に満ち溢れた、それでいて折目正しいこの青年作家に圧倒された。
以来、私は三島文学の映画化に挑戦していった。
「金閣寺」(「炎上」)、「お嬢さん」「剣」「獣の戯れ」「憂国」「複雑な彼」「音楽」「鹿鳴館」。
そして、三島さん主演の「からっ風野郎」等。
藤井浩明
「私の勲章」より

25 :
「炎上」のシナリオ作業が難行している時、三島さんが「創作ノート」を見せて下さった。
絢爛たる文学が構築されてゆくプロセスが明解に読み取れ、目が開ける想いがした。
この映画は三島さんから最大の讃辞を頂き、以来、私は三島さんとの交友を深めていった。
時折、三島邸の書斎で話し込むことがあった。私は天才的文章の錬金術師の仕事場へ忍び込んだような気持で、
よく文学のことを質問した。三島さんは門外漢の私に丁寧に誠実に答えて下さった。
当時のメモを繰ってみると、例えば「憂国」の製作準備をしていた年など、年間七十回も会っていた。
…「からっ風野郎」の後、日仏合作映画のため市川崑監督と私はパリへ飛んだ。
思いもかけず三島さんが空港へ見送りに来られた。
たまたま別便で発つ永田雅一大映社長がいた。社長は私を別室に呼んだ。
「お前のような若造を天下の三島が見送りに来る訳がない。それはお前が大映の社員だからだ。俺に感謝しろ」と。
ワンマン社長は大の三島ファンで、明らかに私に嫉妬しているのだ。三島さんには万人をひきつける魅力があった。
藤井浩明
「私の勲章」より

26 :
死の四日前、三島さんからいくら晩くても電話が欲しい旨の伝言があった。深夜帰宅した私は電話で話した。
「憂国」がイタリアで上映され大好評だと伝えると、三島さんは大そう喜んで詳しいことを調べて欲しいと言った。
四日後に死を決意していることを知る由もない私は、連休明けに報告しますと約束した。電話を切ってから、
三島さんが「さようなら」と仰言ったことが何故か気に懸った。いつもは快活に話してさっと切る人が……。
〈藤井氏はいついかなる場合にも、この作品に対する完全な愛着と信頼を少しでも失ふことがなかつた。
それがスタッフ全員をどれだけ力づけたかわからない〉
三島さんが「憂国 映画版」に書いて下さった文章は私の勲章である。
三十年祭の遺影の前に佇みながら、三島さんが以前、暇が出来たらポルトガルの鄙びた漁村を舞台に映画を作ろうと
話して下さったことを思い出した。いつの日か私はその海辺で映画を撮影したいと思っている……。
藤井浩明
「私の勲章」より

27 :
私と彼とは文体もちがい、政治思想も逆でしたが、私は彼の動機の純粋性を一回も疑ったことはありません。
(略)最近の彼は、私など好きでなかったかもしれないが、そんなことは一向にかまいません。むしろ、彼に
嫌われるやりかたで、私は、彼を好きのままでいてやりたいと思います。
武田泰淳
週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号のコメントより

28 :
息つくひまなき刻苦勉励の一生が、ここに完結しました。
疾走する長距離ランナーの孤独な肉体と精神が蹴たてていた土埃、その息づかいが、私たちの頭上に舞い上がり、
そして舞い下りています。
あなたの忍耐と、あなたの決断。あなたの憎悪と、あなたの愛情が。そしてあなたの哄笑と、あなたの沈黙が、
私たちのあいだにただよい、私たちをおさえつけています。
それは美的というよりは、何かしら道徳的なものです。あなたが「不道徳教室講座」を発表したとき、私は
「こんなに生真じめな努力家が、不道徳になぞなれるわけがないではないか」と直感したものですが、あなたには
生まれながらにして、道徳ぬきにして生きて行く生は、生ではないと信じる素質がそなわっていたのではないでしょうか。
あなたを恍惚とさせる「美」を押しのけるようにして、「道徳」はたえずあなたをしばりつけようとしていた。
武田泰淳
「三島の死ののちに」より

29 :
人間的に中身も何もないような、若いタレントのような人たちが、自衛隊の反応は正しかった、とか社会的な
影響はどうだとか、三島さんを断劾するようなことをしたり顔でテレビやラジオでいっているのを聞くと、ばかげてる。
ほんとに蹴とばしてやりたくなりますよ。
倉橋由美子
週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号のコメントより

30 :
三島さん、あなたがこの世を去られてから、ちょうど二十年の歳月が流れました。長いようでもあり、
短いようでもあります。
二十年前、あなたのあの壮烈な死の直後、私はこの「題名のない音楽会」であなたへの弔辞を捧げました。
そのなかで私はこう言いました。
「三島さん、あなたが自らの死によって訴えたかったこと、それはあの檄文の最後にある言葉
『我々の愛する歴史と伝統の、国日本を日本の真の姿に戻そう。生命尊重のみで魂が死んでもいいのか。』
この言葉にあなたの思いは集約されていると私は思います。
最後のバルコニーの演説でも冒頭にあなたはこう言っている。
日本は経済的繁栄に現を抜かして精神的には空っぽになってしまった。君たち、それがわかるか、と。
自衛隊の存在も含めて潔癖なあなたは政治的ごまかしを許すことができなかった。
黛敏郎
平成2年11月25日「題名のない音楽会」より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

31 :
現在の日本が世界に冠たる経済的繁栄を誇りながら、それに反比例して政治の腐敗とごまかし、精神の不在と荒廃、
人間の疎外と断絶、こういった憂うべき事態を深めつつあることは心ある人々の認めるところでしょう。
明治の文明開化以来、西欧流の物質主義が日本文化を支える精神主義を危殆に瀕せしめている。
あなたが自ら畢生の大作と呼んだ最後の作品「豊饒の海」であなたは唯識論と輪廻転生という東洋の思想を踏まえて、
この風潮に文学的というよりはむしろ哲学的な鉄槌を下している。あの作品の最後の部分で主人公が蝉時雨の
降るような尼寺で、意外な結末に茫然と立ち尽くすあたりはまさに無の境地としか言えません。
文学ならば無で済みます。しかし、現実はそれでは済まない。
あなたは自らの命をわざわざ人が犬死にと評するような一見、愚劣な方法で劇的に絶つことにより、
心ある人々に一大衝撃を与えた。まさに皮肉で逆説好きな、いかにもあなたらしい芸術的なやり方でした。
黛敏郎
平成2年11月25日「題名のない音楽会」より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

32 :
あなたがもし、政治家だったとしたら、こんな方法は絶対にとらなかったでしょう。
あなたが意図したことはだから、自衛隊に決起を促すクーデターではなかった。心ある人々の魂にぐさりと
突き刺さる精神のクーデターだったのです。
(間)♪♪♪♪♪
三島さん、二十年前、あなたがあの壮烈な死を遂げられた直後、私は「題名のない音楽会」でいま言ったような
弔辞を捧げました。そして、あなたが自らの死を以て暗示してくれた精神的クーデターは近い将来、必ず
起こるはずだから、どうか、あなたのこよなく愛したこのワグナーを聴きながら、幽明境を異にした天界で
日本の将来を期待とともに見守っていて下さい、このようにお願いをしました。
それから二十年。日本は変わったでしょうか!残念なことに、本当に残念なことに少しも変わってはいないのです。
あなたが、死を賭して訴えた自衛隊の問題にしても未だに決着はついていません。三島さん、あなたの名前は
今でも一種のタブーです。あなたの数々の作品は芸術的には高く評価され、あなたの才能を疑う人間はいないけれど、
あなたの思想は依然として危険視されています。
黛敏郎
平成2年11月25日「題名のない音楽会」より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

33 :
いまの日本は、二十年前、あなたがいみじくも予言した通り
「私はこれからの日本に希望が持てない。このままいったら日本は無くなってしまう。そのかわりに無機的な、
空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済的大国が極東の一角に残るだろう。
それでもいいと思っている人たちと私は口をきく気にもなれない。」
こういったあなたの言葉通りが現実なのです。本当に残念なことです。
三島さん、あなたがいなくなってからの二十年は、あなたが望んでいたような二十年ではありませんでした。
また、これから先の日本が果たしてどうなるのか、誰にも予断はできません。しかし、今までの二十年と同じく
あまり期待のできない将来であることは、おぼろげながら予測できそうです。ともあれ、いま、幽明境を異にした
あなたに私ができることといえば、あなたの好きだったこの曲を捧げることくらいでしょう。
この曲がうたっている死とはかり合えるほどの重さを持った愛の尊さをあなたと一緒にかみしめましょう。…
黛敏郎
平成2年11月25日「題名のない音楽会」より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

34 :
少年の頃、父親の書棚に見つけた「美徳のよろめき」にこころが騒いだ憶えがある。
その見知らぬ言葉の配列は、油断すると血の匂いでも嗅いでしまいそうなたしか暗緑色と褐色の曲線でデザインされた
装幀以上に、こころが傷つけられたような印象がした。
そのせいか、多いとはいえない父親の蔵書にひととおり目を通したはずなのに、「美徳のよろめき」だけは、
書棚が設えてあった陽当りの悪い坪庭に面した廊下で床板の軋みを聞きながら読んだ記憶がない。
…いまでも読み返すことの多いこの作品をはじめて読んだのは、暗い意匠のほどこされた箱入りの本でではなく、
それに比べたらむしろ軽やかな印象さえする硬質なタイポグラフィで表紙が飾られた文庫本でだった。
実家を離れて東京の予備校に通いだしてからだったと思う。
売野雅勇
「言葉の音楽」より

35 :
当時、通学に一時間以上かかる私鉄電車の中で繰り返しページを開いていた文庫本が二冊あって、ひとつが
「コクトー詩集」で、もう一冊が「不道徳教育講座」だった。
…優雅さや皮肉といった、大人の秘密の匂いの予感に怯んだのが「美徳のよろめき」だとすれば、「不道徳教育講座」は
(そして、おそらく「コクトー詩集」も)、それらを享受するための練習だったのかもしれない――
それにしてもなんと贅沢な練習だろう。
「不道徳教育講座」のなかで見つけたのは、ユーモアに満ちた軽い語り口とは裏腹に、誇りや気高さといったものの
「実践の標本」であったし、俗に通じはじめた魂をふたたび無垢へと導く倫理だった。
そして、生活の細部にまで張り巡らされた美意識そのものだった。
三島由紀夫がどこかで「詩人とは新しい生き方を教えてくれる者である」といった意味のことを書いていたと思うが、
詩集のようにそれを毎日繰り返し読ませたものは、新しい生き方を発見しようとする幼くて切実な欲望だったのだろうか。
売野雅勇
「言葉の音楽」より

36 :
そのような迂回を経てふたたびたどりついた「美徳のよろめき」を、あっけないほど簡単に読めてしまったのは
――主人公の放つ匂いに恋してしまったということもあるが――、むしろ、もうひとつの愛読書だった
「コクトー詩集」のせいだったのではないかとも思う。
それを、言葉で書かれた、言葉で精確に組み立てられた音楽のように感じた。
粗野な感受性が直感した言葉は、コクトーの言葉の連なりのなかで不意に鳴りはじめる、あの聴きなれた音楽だった。
表象の宇宙的な連関を魔術にも似た不真面目さで透視させたり、世の中の価値や常識を一撃にして転覆させてしまう、
比喩や警句が、繊細な風景描写や明確な心理描写とともにそれを鳴らしていた。
詩人が秘密裏に共有するコードででもあるかのように。
なんて贅沢な小説だろうと、読み終えたばかりのページをふたたび開き、何度もため息をついたことを憶えている…。
売野雅勇
「言葉の音楽」より

37 :
…そのようにして三島作品と接してきたが、主人公たちの耳にも聴こえる音楽といえば、即座に「岬にての物語」で
海岸の断崖に近い草叢を歩きながら少年が聴いた、一音だけ鳴らない音がある壊れたオルガンを思い出す。
最初に読んだときから、少年が聴いたその音を想像するよりも、聴こえない音の方に想像力が働いた。
陰画を光にかざして眼を凝らすおなじ身振りで、その失われた音に意識が集中してしまう性癖のようなものが
こころのうちにあるのだろうか、――あるいは、そのように意識を誘導する意図のもとに書かれたものなのだろうか。
それはともかく、「美徳のよろめき」を知って以来、聴こえない音楽を聴くことが、三島由紀夫の作品を読む
最大の快楽のひとつになっている。
言葉の音楽である。
売野雅勇
「言葉の音楽」より

38 :
亀はしあわせをよぶという。
私の手許に、甲羅に彫りの入った八ミリほどの小さな金の亀のペンダントトップがある。これは私が十代の頃、
三島さんに頂いたもの。
戦後間もなく、現在のように海外渡航が自由でなかった頃、三島さんはいち早く外国に足を運ばれた。
この亀はその時のおみやげである。
…私のアクセサリー箱の中では一番の古株、出番も多く、いわばお守りのような存在だ。
私が三島さんにお目にかかるのは、いつも我が家が「鉢の木会」のお当番の時だった。
…今では、大岡昇平、中村光夫、吉田健一、福田恆存、三島由紀夫の各氏、それに私の父の神西清はみな故人となった。
三島さんは会の中では一番若く、そのせいか口うるさい面々の恰好の揶揄の対象になることもしばしばで、
その場合三島さんの逃げ道は二つ。
まずはあの豪快な笑いで、からみつく蜘蛛の糸を振り払い、次の手はゴロッと横になって高鼾をきめこむ。
神西敦子
「三島夫妻と二つの亀」より

39 :
元々が個性の強い人たちの集まりである。お酒の飲みっぷりも各人各様で、見飽きることがなかった。
酒宴が進むほどに、笑い声も賑やかになるのだが、三島さんのそれはいつも大きく際立っていた。
一人一人の顔にそれぞれの特徴ある笑い声が重なり、懐かしく往時を思い出す。
連歌を楽しみ、時にはお互いの仕事に対する鋭い批判も交錯し、この上なく濃密な時だった。
父の死後、「鉢の木会」が二階堂の家でひらかれたことがある。
三島さんは新婚間もなくで、座は瑤子夫人のお目出度の話題で盛り上がっていた。襖越しに耳にした
「医者に診てもらえと云ったんだ」という、三島さんのひときわ高い誇らしげな声は忘れることができない。
その時お顔は見なかったが、きっとあの大きな目が特別輝いていたことだろう。
神西敦子
「三島夫妻と二つの亀」より

40 :
たった一度だけ、三島さんと銀座を歩いたことがあった。
私の大学卒業に際し、「鉢の木会」が腕時計をくださるということで、和光に出向いた。三島さんはいつもどおりの
笑いを振りまき、もとより知られた顔だから、集まる人々の視線が眩しく、とても気恥ずかしかった。
三島さんは、大変几帳面で礼儀正しく、細やかな心遣いをされる方だった。
父の生前は父に、亡くなってからは母に、筆、あるいは万年筆で署名された三島さんの著書が律義に届けられた。
なかには、「神西清様」と記された名刺がはさんであるものも何冊かある。書体は均整がとれていて美しい。
…装幀も凝ったものが多い。
…代表作「金閣寺」の限定版は、年数のたった今も、手にとるとふんだんに使われている金箔が指につくほど豪華で、
本箱のたくさんの三島本の中でも王将格である。奥付には、本書は二百部を限定刊行す、その内二十部は
無番号著者家蔵本、本書はそのNo.、とあってナンバーはついていない。
これをみても三島さんが、いかに父に礼を尽くして下さっていたかがわかる。
神西敦子
「三島夫妻と二つの亀」より

41 :
季節毎の心遣いも、瑤子夫人が亡くなるまで途切れることなく続いた。稀有なことである。
瑤子夫人死去の報は、ご病気を知らなかったこともあり、私を大そう驚かせた。
夫人の通夜の晩はむし暑く、三島邸前の道路は別れの時を待つ人で埋めつくされ、月も動きをとめ、大気は重く
悲しみに沈んでいた。天空にあった細い月は夫人の魂をいざなうかのように、やがて視界から消えていった。
日ならずして、夫人を偲ぶ品が届けられた。
小箱の中には、甲羅が緑色、足が紫色の石の、美しい大きい亀のブローチ。
偶然とはいえ、この不思議な巡り合わせに私はしばし言葉もなかった。
金の亀と緑の亀。二つめの亀の出現で、三島夫妻は私の中で一つの像となった。
神西敦子
「三島夫妻と二つの亀」より

42 :
主人比呂志は一九八一年の秋に逝った。
…三島さんと比呂志は、文学座時代の演劇の仕事を通じて、約十二年間のおつき合いがあった。(中略)
後年の「黒蜥蜴」(六三年)は、三島さん脚色、演出は松浦竹夫さんで、比呂志は探偵明智小五郎、女賊は
水谷八重子さんだった。
終演後、ロビーで今は亡き顔見知りの方々と談笑されていた三島さんは私を見付け近寄って来られ
「今夜の芥川さんは、六代目(尾上菊五郎)のようでしたよ」と仰言った。
帰宅後主人に伝えると「三島一流の皮肉だよ」と苦笑して云う。その時は解らなかったが、あとで三島さんの
評論集「美の襲撃」を読むと比呂志の言葉が理解できた。三島さんが、不世出の名女形として高く評価していた
六世中村歌右衛門と、六代目菊五郎についての、比較論めいた文章にぶつかる。
芥川瑠璃子
「鮮やかに甦るあの頃」より

43 :
ながい劇団関係のおつき合いともなると、さまざまな出来ごとがあり、三島さんも比呂志も文学座を離れることになった。
(中略)三島さんは比呂志宛に、数多くの署名入りのご著書を贈ってくださり、私も時々借りては読んだ。
「美しい星」(新潮社)の読後、何やら興奮した比呂志は三島さんにお電話した。
劇化したい旨の相談だったらしいが、長電話に辟易されたのか断られた様子。
その時は迚も残念そうだったが、常々うちで三島さんのことが話題になったりするとき
「三島、あれは天才だよ」は変らなかった。
芥川瑠璃子
「鮮やかに甦るあの頃」より

44 :
…後年、三島さんがお亡くなりになる一ヶ月前に、浪曼劇場で「薔薇と海賊」が再演された。終演後に
三島さんが涙を浮べ「海賊だらけになっちゃった」と呟かれたという。
同じ頃、学習院時代の先輩で「赤絵」の同人誌などで親交のあった、早逝された東氏を悼み
「東文彦作品集」(講談社)のために序文を書き、刊行の労をとられたという。
一流の皮肉や、あの有名な高笑いのかげに、「三島由紀夫十代書簡集」の頃の面影が浮ぶ。純粋な心情と
あたたかさを想う。
三島さん没後、夫人の要請をうけて、主人は病躯を押して「サド侯爵夫人」を演出。
逝く二年前には「道成寺」も演出したが、「源氏供養」は念願のみで終ってしまった。
――三島さんと主人の過した、さまざまな演劇の世界、時の流れは今も消えず、折々の想念のなかに、
いまも鮮やかに甦りをつづけている。
芥川瑠璃子
「鮮やかに甦るあの頃」より

45 :
三島さんに初めて逢ったのは、一九五一年の夏だったと思う。
小さい頃から行っていた群馬県の高原の村に、吉田健一さんの山小屋もあった。
三島さんはその頃、吉田さんや大岡昇平、福田恆存、中村光夫さん達の「鉢の木会」というグループに入る事に
なっていて、夏の一日、吉田さんの家で例会があり、父(岸田国士)の所に十人位で遊びにみえたのだ。
姉とわたしはお茶を運んだりしながら、ユーモア溢れる会話に聴き耳を立てていた。
何といってもイジメの対象は、他の人より一廻りは若い三島さんで、三島さんも又、からかわれるのが嬉しいように、
あの独特の笑い声を挙げていた。
皆、その夜は村のクラブに泊まって翌日帰京なさる中で、三島さんだけは二、三日帰るのを延ばすことになった。
「仕事は夜するから」といって、昼間はわたしたち、夏の遊び仲間やその友人と、目一杯遊んだ。
年長の作家たちとのお付き合いでは満たされないものを、少し年下の大学生や芸術家の卵たちと、体を使って
取り返そうとでもするように。乗馬、ボート、ダンス。
岸田今日子
「わたしの中の三島さん」より

46 :
…この村が気に入ったという三島さんは、翌年の夏も一週間ぐらい滞在した。帰りはわたしも一緒だった。
旧軽井沢のパーティーに寄ってそのお家で泊まることになっていた。ちょっと危ないメンバーだったみたいで、
一晩中、わたしの枕元で仕事をしていた三島さんを忘れない。
…その年の秋、わたしは文学座の研究生になった。
文芸部に所属していた三島さんは、一年おき位に作品を提供していて、わたしは文学座にいた十年の間に、
外部出演も含めて三島作品七本、潤色と演出それぞれ一本ずつに出演した。
三島さんは稽古場にもよく顔を見せた。
舞台の出来も気になっただろうけれど、その後で若い俳優たちと遊ぶのが楽しみだったように見えたのは、
わたしの勝手な思い込みだろうか。
皆、作品については十分敬意を払っていた。でも運動神経やファッションセンスに関しては、言いたい放題だった。
自虐的な所のある三島さんが、それを喜ぶことを知っていて、一種のおもねりだったと言えるかもしれない。
岸田今日子
「わたしの中の三島さん」より

47 :
ボディビルやボクシングを始めた時も、遊びのふりをしていたような気がする。
何回戦だかの試合に出た時は皆で見に行った。かなり痛々しかったけれど、いつものように後でさんざん
悪口を言ってあげた。三島さんは嬉しそうに、大きな声で笑った。
舞台の初日には女優の楽屋の化粧前にカトレアの花が届けられ、客席と楽屋を往ったり来たりするのも嬉しそうだった。
本公演ではたった一本の演出作品「サロメ」の時は、見違えるように真剣だった。
様式的な舞台を創ろうとして、俳優たちに一せいに左右へと首を廻すように指示した時、わざと反対の方を
向く人が一人いて、あんなに怒った三島さんを見たことがない。いつも血の気のない顔が、死人のように蒼白だった。
岸田今日子
「わたしの中の三島さん」より

48 :
映画「からっ風野郎」出演の時、ちょうど仕事で同じ撮影所にいたので、三島さんのセットを覗きに行った。
ビールを抜いてたくさんのコップに注ぐ所で、三島さんは何度もNGを出していた。
増村保造監督の「もう一度」の声に、三島さんはますます緊張してリズムが崩れ、ビールが足りなくなって
小道具さんが酒屋に走った。
完成すると三島さんは自宅で試写会を開いた。
さんざん悪口を言われて、やっといつもの自分に戻ったようだった。セットを覗いた話はしなかった。
芥川比呂志さんはじめ、これから一緒にやって行こうと思う若手の俳優たちが、レパートリーに不満を持って、
文学座脱退のことを福田恆存さんに相談しているのは知っていた。福田さんに誘われたわたしは
「三島さんが一緒なら」と言った。
「もちろん僕から誘います。三島君に言うと直ぐ洩れるから話さないように」と念を押された。
お家に招ばれながら黙っているのは辛かったけれど、お二人は「鉢の木会」以来の親友だからと、自分に言い聞かせた。
岸田今日子
「わたしの中の三島さん」より

49 :
京都に撮影で行っていた或る朝、新聞に脱退の記事が出た。三島さんの名前はない。
帰京してすぐ三島さんのお家へ行くと、「新聞に出る前の晩に聞かされて、動けると思う?」と言われた。
福田さんにだまされたと思ったけれど、どうしようもなかった。
「『双頭の鷲』は生きられないんだよ」。福田さんと三島さんのことだ。慰めだったろうか。
「そのうち、又、一緒に何かする機会もあるから」と言われて、帝国劇場で『癩王のテラス』を上演する時、
六年ぶりに呼ばれた。王の病気が感染して、焼身自る妃の役だった。
御自身も文学座を脱退し、楯の会を作った三島さんは遠い人のようで、あまり話もしなかった。
初日には、やっぱりカトレアが置いてあった。
「精神が滅んでも肉体は滅びない」という逆説に満ちたこの芝居が、三島さんの最後の戯曲になった。
岸田今日子
「わたしの中の三島さん」より

50 :
生前の三島さんを語り合える人も数少くなってしまったが、いま劇場でその劇作は絶えることなく上演され、
「サド侯爵夫人」「鹿鳴館」「近代能楽集」等、舞台を通じて三島さんへの追憶にひたる機会にこと欠くことはない。
文学座を脱退した三島さんは劇団NLTを創立、一九六五年五月、「近代能楽集=班女・弱法師」を、私が
支配人をしていたアートシアター新宿文化で上演することになった。(中略)
その公演の初日直前のある日、知人から電話があった。「葛井さん今夜劇場を貸してほしいんだが、映画の試写、
何分極秘裡に願います。素晴らしい人を紹介しますからお楽しみに……」と。
夜九時すぎ、白い細身のスラックスに皮のポロシャツの男性が颯爽と事務所のドアから現われた。
「三島由紀夫です。今夜はよろしく」
あとは例の破顔大笑、その夜上演されたのは、完成したばかりの映画「憂国」であった。
葛井欣士郎
「花ざかりの追憶」より

51 :
(中略)終了後、私は戦慄と興奮で暫く席を立つことが出来なかった。言葉を失なったまま三島さんに視線を
向けると、満足げに微笑みを湛えて見返した三島さん。これが三島さんと私の出逢いのはじまりであった。
その夜は酒場「どん底」で祝杯を重ね、ツール映画祭への出品が決った。
(中略)
「憂国」はアートシアター創立以来の大入りで二ヶ月余のロングランとなり、連日三島さんと過す日が続いた。
私にとって三島さんは友というには偉大すぎ、私は敬愛こめて「三島先生」と呼んでいた。作家としての深淵は
私には判る筈もないが、ひたすら慣れ親しんで夜の巷で遊び廻るのが常であった。
然しその交流の中で私は多くの教えを受けた。細やかな気遣いと優しさに充ちた雑談の中で、芸術、文学、
人生について貴重な話をきくことが出来た。
葛井欣士郎
「花ざかりの追憶」より

52 :
ある時はテネシー・ウィリアムズやトルーマン・カポーティに会った印象、ジャン・コクトオ、レナルド・
バーンシュテインの話、外国の舞台、バレエ、オペラ、音楽など直にその場に居合せ、まるでその人々と
対峙しているように、生きた挿話は私を夢中にさせてくれるのであった。(中略)
夏、下田のホテルできかされた連載小説「命売ります」の荒唐無稽な仕掛けの話、焼玉蜀黍(とうもろこし)を
かじりながらの深夜任侠映画、丸山(美輪)明宏さんのリサイタルゲスト出演のためトレーニングの成果を
聞かせるからと「造花に殺された船乗りの歌」の背景にふさわしい場所でと横浜埠頭まで駆り出された夜、
映画「人斬り」では付人として京都まで随行、自衛隊富士学校への面会、森田必勝君にテーブルマナーを教えると
フランス料理店にお供した夜、「椿説弓張月」の舞台稽古と楯の会の国立劇場でのパレード、等々短かい歳月の間に
数えきれない程、多くのエピソードを残して、三島さんはあまりに早急に逝ってしまった。
葛井欣士郎
「花ざかりの追憶」より

53 :
そして遂にあの日が来た。
七〇年十一月二十五日、ニュースをきいて私は三島邸に駆けつけた。涙があふれ、唇は乾ききって唾液も
飲み込めない。到着して直ぐ何かの用で三階へと向った。そこは左右対称の円形の部屋で、壁龕には嘗て
「これがぼくの総てだよ」と指し示めされたとおり、三島さんのミニチュアブロンズ像、「癩王のテラス」の
舞台模型、外国語訳の自著群が並び、主を失った部屋は静謐に沈んでいた。
視線を移したその時、片隅のテーブルにレコードプレーヤーが置かれ、蓋が開け放たれ、そこにLPの
レコード盤が残されたまゝになっていた。私は茫然と見詰めていたが、何故か触れることをためらった。
若しもあの日の前夜、三島さんが最後に聴いた曲だとしたら……
然し瑤子夫人も亡きいまとなっては、もはや確める術もない。
葛井欣士郎
「花ざかりの追憶」より

54 :
本当の天才とは、簡単には説明することのできない能力の持ち主のことだ。
シェイクスピアは天才だった。モーツァルトも、レオナルド・ダヴィンチも、紫式部も天才だった。
私がこれまでに出会ったすべての人々のなかで、「この人は天才だ」と思った人は二人しかいない。
一人は中国文学および日本文学の偉大な翻訳家であったアーサー・ウェイリーである。(中略)
そして、私の出会ったもう一人の天才が三島由紀夫である。
ドナルド・キーン
「二つの祖国に生きて」より

55 :
あの時(ノーベル賞を)受賞したのが川端であり、三島由紀夫でなかったのは、何かの行き違いだったかもしれない。
すなわち、国連事務総長だったダグ・ハマーショルドが1961年に亡くなる直前、三島の「金閣寺」を読み、
ノーベル賞委員会のある委員に宛てた手紙で大絶賛したのである。
こういった筋からの推薦は小さくない影響力を持っていた。
また1967年のこと、出版社の国際的な集会がチェニスで開かれ、私はその集いが授与する文学賞、
フォルメントール賞を三島にと試みたが失敗に終わった。この時、スウェーデンから参加した有力出版社ボニエールの
重役が私を慰め、三島はずっと重要な賞をまもなく受けるだろう、と言ったのだ。ノーベル賞以外にはあり得なかった。
ドナルド・キーン
「思い出の作家たち」より

56 :
彼(川端康成)は、確かにこの受賞に値した。それでも今もって私は、どういうわけでスウェーデン・アカデミーが
三島でなく川端に賞を与えたのか不思議でしようがない。
1970年5月、私はコペンハーゲンの友人の家に夕食に招待された。同席した客の一人は、私が1957年の
国際ペンクラブ大会の時に東京で会った人物だった。日本で数週間を過ごしたお陰で、どうやら彼は日本文学の
権威として名声を得たようだった。ノーベル賞委員会は、選考の際に彼の意見を求めた。その時のことを思い出して、
居合わせた客たちに彼はこう言ったのだった。「私が、川端に賞を取らせたのだ」と。
ドナルド・キーン
「私と20世紀のクロニクル」より

57 :
この人物は政治的に極めて保守的な見解の持主で、三島は比較的若いため過激派に違いないと判断した。
そこで彼は三島の受賞に強く反対し、川端を強く推した結果、委員会を承服させたというのだ。
本当に、そんなことがあったのだろうか。
三島が左翼の過激派と思われたせいで賞を逸したなんて、あまりにも馬鹿げている。
私は、そのことを三島に話さずにはいられなかった。
三島は、笑わなかった。
ドナルド・キーン
「私と20世紀のクロニクル」より

58 :
(中略)
東京に着いたのは1月24日の三島の葬式の直前で、私は弔辞を述べることを引き受けた。
ところが、私の親しい友人三人は葬式に出席してはいけないと言う。私が弔辞を述べることで、三島の右翼思想を
擁護しているように取られてはまずいと言うのだった。最終的に彼らの説得に応じたが、
それ以来私は、自分がもっと勇気を示さなかったことを何度も後悔した。
私は三島夫人を訪問した。三島の写真がある祭壇に、私は彼に捧げた自分の翻訳『仮名手本忠臣蔵』を置いた。
その本には、下田で会った時に三島自身がこの浄瑠璃から選んだ次の一節が題辞として揚げられていた。
国治まつてよき武士の忠も武勇も隠るるに
たとへば星の昼見へず、夜は乱れて顕はるる
ドナルド・キーン
「私と20世紀のクロニクル」より

59 :
三島の天皇崇拝は、彼の存命中ずっと在位していた天皇、裕仁に向けられたものではない。
短編「英霊の声」では、二・二六事件の首謀者と昭和二十年の神風特攻隊員の霊が、自分は神ではないと宣言して
彼らを裏切った天皇を激しく責める。天皇の名の下に死んだ者たちは、天皇が普通の人間と同じ弱さを持った
人間であることを知っていたが、天皇という資格(キャパシティ)にあって、天皇は神であると確信していた。
もし、天皇が二・二六事件に関わった青年将校を支持し、なかんずく、彼らに自裁を命じたのだとしたら、
その行為は、老いて堕落した政治家に囲まれた単なる統治者ではなく、神としてのふるまいだったであろうに。
しかし、神風特攻隊員が天皇を叫びつつ喜びに満たされて死んだ、それからわずか一年も経たずに、自分は
神ではないと宣言した時、天皇は彼らの犠牲を哀れで無意味なものにしたのだ。
ドナルド・キーン
「思い出の作家たち」より

60 :
三島は、天皇無謬説を唱えたことがある。無論これは天皇の人間としての能力をさした説ではない。
より正確に言えば、天皇は神の資格において、人間の姿をした日本の伝統そのものなのであり、日本民族の
経験が保管された唯一無二の宝庫である。天皇を守ることは、三島にとって、日本そのものを守ることだった。
このような政治観を日本の右翼と同一視するのは誤りであろう。
彼は確信していた。日本の景観を無慈悲に切り刻んで顧みない貪欲と、それが舶来だからというだけで事物や習慣を
表面的に受用する西洋化、この二重の脅威から日本文化の崩壊を救えるのは若者の純粋さ、すなわち信念のためには
死を辞さぬ若者の覚悟だけだと。
ドナルド・キーン
「思い出の作家たち」より

61 :
三島は高度の知性に恵まれていた。
その三島ともあろう人が、大衆の心を変えようと試みても無駄だということを認識していなかったのだろうか。
…かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。アレキサンドロス大王も、ナポレオンも、仏陀も、
イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。
人類の大多数は惰眠を貪っている。あらゆる歴史を通じて眠ってきた…(略)大衆を丸太みたいにあちこちへ
転がしたり、将棋の駒みたいに動かしたり、鞭を当てて激しく興奮させたり、簡単に(特に正義の名を持ち出せば)
殺戮に駆りたてることはできる。しかし、彼らを目ざめさせることはできない。
ヘンリー・ミラー
週刊ポストへの特別寄稿より

62 :
三島は殺傷の目的でやったとは思わぬ。これは覚悟の事件でおそらく自分の考えていることを完結させる必要上、
三島から言わせれば義挙の正当防衛として妨害を排除したのであろうと私は想像する。彼は非常な愛国者であって、
日本文学の声価を国際的にも高めているし、ともかく非常に天才的な作家であるということを考えて、三島君のものは
出来るだけ読むようにしている。私が三回会ったときの印象では文武両道の達人だという印象をもったが、特に
愛情の厚い人だということを非常に感じた。
中曽根康弘
三島裁判の証言より

63 :
実は新聞記者に内閣の考えを出せと執拗に責められたが、内閣側は黙して語らずで、官房長官もなんの発言も
しなかった。自分としてもこれはむしろ内閣官房長官が談話を発表すべきものであると思うが、止むを得ず
自分が新聞記者会見をやった。そして排撃の意思を強く打ち出したのだ。
誤解のため鳴りつづけの電話その他で、随分ひどい目に会った。
三島君が死を賭してもやらなければならんという問題については、私自身もかなり政治家としてショックを受け、
率直に申してその晩は実は一睡もしなかった状態であった。(中略)
もし実際に運動を起して蠢動するような部隊が出てきたら大変なことになると思い、断固としてあえて強い
語調の言明をしたというのが私の心境だ。
中曽根康弘
三島裁判の証言より

64 :
訴えんとするところは理解できるが、その行動は容認できない。三島君らの死の行為の重みに対しては、我々が言葉で
とやかくいってもとても相対しうるものではないと私は思う。やはり死ということは非常に深刻厳粛なることと思う。
これに対し口舌を尽すことは好まない。しかし他面死を以て行なった行為に対して、彼はなにかを我々に
言わせようと思って死んだのかもしれない。それを黙っているということは、死という重い行為に相対するに
適当なりやという煩悶も実はあるわけで、あれこれ私は熟慮の末、この法廷に出てきたのだ。
死は精神の最終証明である。たましいの最終証明は死である。精神というものは死ぬまで叫びつづけて
いなければならない。たとえ少数であろうとも。むなしいことかも知れないが、すぐはききめがないにしても、
歴史の過程において聞いてくれる人は出るだろう――そういう期待でやったのではないかと私は把握した。
中曽根康弘
三島裁判の証言より

65 :
三島事件とは美学的な事件、芸術上の事件ではなく、一個の思想上の事件であって、日本の思想史の上からみても
あとをひく問題になる。我々はやはり正直にそれを受けとめて、おのおのこの問題を自分で精神的に解決して
いかなければならない問題である。やった人間個人をにくむ気持はない。三青年(楯の会の)も別に情状酌量や
刑期の短縮を考えている人間ではないだろうと思う。私も情状酌量してくれとかなんとかいうことは申しません。
ただ彼らがなんでやったかということだけは十分に調べて正確に判断し、後世に示していただきたい。
檄の内容については、彼自身の祖国愛、一種の理想主義というか不易な精神、歴史的理想主義をここで鮮明にして
世を覚醒しようとした気持はわかる。我々も、これを十分にかみしめ消化すべきで、我々はこのことを回避したり
ごまかしたりしてはいけない。三島君は吉田松陰の
『かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂』、そういう気持でやったのだと思う。
私は彼と考えは違うけれどもその行動自体を憎む気持よりも、むしろいたわりたい気持だ。
中曽根康弘
三島裁判の証言より

66 :
三島由紀夫の仏教理解が、いかに徹底したものか。
三島は決して、そこらへんの日本人がやりたがるように、『般若心経』の解説なんぞはしない。宗教音痴の
日本人に仏教の神髄を理解せしむるために、『ミリンダ王の問い』を(「暁の寺」で)引用し解説する。
これのみにて三島の仏教理解の深さ、はるかに日本人を超えていると評せずんばなるまい。(中略)
阿頼耶識も、実体として存在するのではなく、つねに変化のなかにある。刹那に生じ刹那に滅する。
実体として存在するものは何もない。「万物流転」である。
このありさまを、(略)…三島由紀夫は、(「天人五衰」で)海の波で表現している。
…仏教における因縁のダイナミズムを、これほど見事に表現した文章をほかに知らない。
唯識論の視点から見るならば、阿頼耶識は水、その他の識を波、縁を風だとすればよいであろう。
小室直樹
「三島由紀夫と天皇」より

67 :
唯識論入門として、(「暁の寺」は)これほど簡にして要を得たものを知らない。
難解なことで有名な仏教哲学の最高峰が、われわれの足下に横たわっているのだ。
仏教を研究しようとする学徒のあいだでは、よく、倶舎三年、唯識八年、といわれる。『倶舎論』を理解するのには
三年かかり、唯識論を理解するのには八年はたっぷりかかるというのだ。それが僅か三島由紀夫の作品では
十二頁にまとめられている。エッセンスはここにつきている。くりかえし精読する価値は十分にある。
小室直樹
「三島由紀夫と天皇」より

68 :
「五十になったら、定家を書こうと思います」三島由紀夫は、友人の坊城俊民氏にそう言った。
「…定家はみずから神になったのですよ。それを書こうと思います。定家はみずから神になったのです」
神になった定家。それは三島由紀夫にほかならない。(中略)
三島由紀夫は「定家はみずから神になったのです」と話している。
これは何を暗示しているのだろうか。
仮面劇の能だが、仮面をつけるのがシテ(主役)である。シテは、神もしくは亡霊である。
亡霊をシテにして、いわば恋を回想させる夢幻能は、能の理想だといわれる。死から、生をみるのである。
時間や空間を超えたものだ。
三島由紀夫が、定家を書こうと考えたとき、やはり能の「定家」が頭にあったに違いない。
小室直樹
「三島由紀夫と天皇」より

69 :
現代では、生の世界と死の世界は、隔絶したものにとらえられている。だが、かつて(中世)は、死者は
生の世界にも立ち入っていた。
定家は神になって、生の世界に立ち入ろうとした。そう考えた三島由紀夫ではないだろうか。
生の世界にあっては成就できない事柄を、死の世界に往くことによって可能たらしめようとしたのが、三島由紀夫だった。
…死の世界で「生きる」三島なのだ。
(中略)あえて死の世界へ往き、守ろうとした存在があったのだ。
小室直樹
「三島由紀夫と天皇」より

70 :
(中略)近代西欧文明がもたらした物質万能への傾倒が、いまや極点に達していることは言うまでもない。
人間としての存在が、どうあらねばならないのか。それを問う時はきている。
三島由紀夫は、究極のところ、そのことを人々に問いかけたのだ。
作品によって問いつづけ、さらには自決によって問うた。いや、問うたというよりも、死の世界に生きることを選び、
この世への「見返し」を選んだ。
五年後、十年後、いや百年後のことかもしれない。だか、そのとき三島由紀夫は、復活などというアイマイな
ものでなく、さらに確実な形……存在として、この世に生きるであろう。
小室直樹
「三島由紀夫と天皇」より

71 :
私が三島さんに初めてお会いした、というよりは顔を見たのは学生時代、写真家・林忠彦さんの助手をしていた
昭和三十年頃だった。林さんの鞄を持って目黒のお宅に伺った。
純日本風の二階建で、有名作家の家にしてはちょっとボロ屋だなと思ったことを覚えている。
撮影は二階の書斎だったが、そのうち突然三島さんが立上がり、「屋上の狂人」をやりましょうかと、出窓の
向うの玄関の屋根瓦に足を掛けた。
「危いからいいですよ」と林さんと編集の人があわてて止めた。
「青の時代」や「仮面の告白」から受けるイメージとは全然違ってチャメっ気のある人だなあと思った。
折角なのにと残念でもあった。
帰りがけに三島さんは玄関で「歳をとった人って皆いい顔してますね。うらやましいなあ!」と突然言った。
「どういう意味かな。早く歳をとりたいということなのかな」と林さんは首をかしげていた。
齋藤康一
「ファインダーの中の三島さん」より

72 :
私は大学四年の時、林さんの助手から秋山庄太郎さんの助手に替った。
ある時秋山さんはどこかのお嬢さんのお見合写真を頼まれた。
…私たちは麻布今井町のスタジオで待機していたが「お嬢さん」は一向に現われず、連絡もつかない。
秋山さんは次の仕事が入ってしまっているので、「齋藤君、あとを頼むよ」と大慌てで出かけてしまった。
私は女性を撮るのは苦手、困ったなあと思っていると、女性が得意の助手仲間のアッチャンがやって来たので、
彼にうまく押しつけて帰ってしまった。ところがこれが逃したスクープ。半年だか一年だか経った頃、
この「お嬢さん」の家からアッチャンに結婚式を撮ってほしいとの依頼。お相手は三島さん。
お見合写真の「お嬢さん」というのは言うまでもなく杉山瑤子さんだったのだ。
齋藤康一
「ファインダーの中の三島さん」より

73 :
ある夜、「T社のSだけど、これからすぐ行くから、ちょっと写真を撮ってもらいたいんだが。暗いけれど
ストロボは使えないと思う」という電話。大急ぎで仕度して待っていると、黒塗りの車が到着した。
後部座席に乗っていたのは三島さん。「男の子が生まれたのでね」とひと言。虎の門病院に向う。
病室のガラス越しに赤ちゃんの顔を見詰める三島さんは、これまでとは違ってやさしいやさしい顔だった。
長時間の撮影中はいろいろとお喋りをする。
…「くだらない話ですけれど、先生のセイで、S社を落とされたことがあるんですよ」と冗談まじりに言うと、
三島さんは「なぜ」と問い詰めるように訊かれた。
齋藤康一
「ファインダーの中の三島さん」より

74 :
「実はS誌のグラビアのデスクが、うちに来ないかと誘ってくれたんです。ノコノコ面接に出掛けて行くと、
副社長  君、スポーツは?
私  高校の頃、器械体操やっていました。
副社長  三島さんの「仮面の告白」は読んだことある?
私  はい。
副社長  あの作品の中に、器械体操をやる人間はエゴイストだと書いてあるから、君は会社勤めには
向かないんじゃないかな。……
というわけで、あっけなくチョン」
三島さんは黙って聞いていたが、私が話し終ると例の声で豪傑笑い。
「それはよかったね、フリーで自由にできて」
何日間か撮影のために三島さんに密着したことがある。
最後日に、その頃はもう後楽園ジムになっていた旧講道館で空手の稽古を撮影した。
洋服姿の三島さんはボディビルのため上半身は立派だが、下半身は細身のズボンを好むせいもあってか、
どうしても貧弱に見えバランスが良いとはいえない。しかし、稽古着に身を包むと実に格好がいい。
齋藤康一
「ファインダーの中の三島さん」より

75 :
薄暗い道場の中で三島さんは十人近い若者の稽古を見守っていた。
「あれが森田で、こっちにあるのが古賀。その隣りが……。皆いい連中です」。
照明のせいか、気のせいか、彼等の表情はなぜか暗く見えた。
…二時間近い稽古が終り三島さんと一緒に外に出ると晴天だった。
水道橋駅に向う歩道の手前で礼を述べると、「もう終りなの?」と残念な様子。
じゃあと手を振って向う側に渡って行った。
それは三島さんが亡くなる六日前のことだったが、後になって思い返すと、楯の会の会員の名前をわざわざ
教えてくれたり、もう終りなのかと名残り惜しがってくれたり、やはり何かの思いがあったのかもしれない。
齋藤康一
「ファインダーの中の三島さん」より

76 :
イタリア最大の出版社の一つであるモンドダリは、二年後(投稿時2002年)に、三島由紀夫選集を出すことを
企画している。ローマ大学のマリアテレーサ・オルシ教授を編者とするこの選集の目的は、三島文学の美しさを
あらためてイタリアに紹介することにある。
その目標を達成するため、序文、解題と共に訳文の精確さが大切なポイントとして顧慮され、日本語からではなく
英語などから重訳されている作品も、今度は新しく日本語から直接翻訳される。
その中には…(中略)「鏡子の家」等も含まれる。この最後の作品は私の担当作品なので、少し考察したい。
周知のように、三島がひたすら情熱と才能を傾けて書いた「鏡子の家」は非常に評価が低かった。
予想を裏切る反応に作者は落胆したが、昭和42年にはこの小説を「自分の好きな作品」に数えている。
それにも関わらず、この作品はあまり研究の対象になっていない。評判が良くなかった理由は様々に書かれて
いるが、ここでは反論するよりも、私にとって興味深く、秀逸と思われるところをすこし分析してみたい。
マティルデ・マストランジェロ
「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

77 :
「鏡子の家」は構成が見事である。その枠組みの中に、美しく表現力豊かな文章や隠喩がちりばめられている。
冒頭に〈みんな欠伸をしてゐた〉という、短いが意味深長な一文がある。
「みんな」に含められる登場人物たちは、生との関わりに困難をきたし、倦怠感に蝕まれている。
群小人物の光子と民子は倦怠を逃れるため銀座の美容院に行って満足する。
他の主要人物たちは自分の内面世界と外界との関係に支障をきたしている。
俳優志願の収は自分の身体を明確に知覚できず、身体と存在を同一視するに至る。画家の夏雄は突然視界が
消滅する出来事に遭遇して以来、絵が描けなくなるが、内面世界をより狭くすることで再び描けるようになる。
拳闘選手の峻吉は記憶空間のない生活を構築する。鏡子は自分の内面世界についてあまり考えないようにし、
友人たちの経験、思想に満ちている「家」に住んでいる。
マティルデ・マストランジェロ
「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

78 :
しかし冒頭の「みんな」には、会社員である清一郎が意図的に挿入されていない。清一郎は一番俗世に混じって
生活している人物で、日本だけではなくニューヨークに住んでいる時も問題なく仕事環境に溶け込める。
しかしその能力は世界崩壊を固く信じることから来るものと言うべきである。
「鏡子の家」の完璧な構造では、鏡子が友人たちを追い出して自分の家を“閉める”という経緯が作品の
結びとなる。つまり小説の終わりと“家の終わり”が一致するのである。
そして冒頭と同じく、光子と民子はつまらなそうに「仕方なし」に銀座の美容院に行く。
三島の描写は暗示的で、しかも読者の目前に見えるような印象的なイメージが豊かである。
最も顕著で、優雅なイメージ操作は「鏡」をめぐるものであろう。
タイトルとなる女主人公の名前を始め、すべての人物にそれぞれ自分の「鏡」がある。
マティルデ・マストランジェロ
「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

79 :
収は本物の鏡に映るとほっとするが、鏡より肉体を強く感じさせる女性と出会った時、その人間的な鏡と
死ぬことを決意する。
夏雄は自分の絵におのれを投影する。それゆえ、絵が描けなくなった時、一旦自分を見失う。
峻吉は力を自分の鏡とする。しかし喧嘩で手を怪我して拳闘ができなくなると、自分の鏡である力を右翼の
青年団に入って使う。
鏡子は自分を皆の鏡であると思いながら、他人を自身の鏡として使う。最後に娘と互いに映しあう鏡遊びで、
どちらが娘かどちらが母か、どちらが女らしい魅力と欲情をよりそなえているかわからなくなる。
ちょうど金閣寺が素晴らしく金色に輝く姿を鏡湖池に映すように、「鏡子の家」の人物たちは自らを
映す物なしでは生きられないのである。ひょっとしたら、作者も小説に自分を映したのかとも思われる。
登場人物に三島自身の投影が認められるかどうかは別として、隠喩やイメージが豊富で、とても面白く読める
作品である。
マティルデ・マストランジェロ
「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

80 :
個性的であざやかな表現が多いので、翻訳する側はそれをうつし変える困難を何とか切り抜けなければ
ならないが、作者の力量や熱意がページごとに感じられる。
古典文学を翻訳するとき、イタリアの読者に伝えにくい雰囲気、理解しがたい習慣等がある。
しかし「鏡子の家」の場合、そのような難しさはなくて、例えばサルトル、モラヴィアを読んだ者には
感じやすい倦怠感もあり、場面がニューヨークになっているページもあるし、それほど遠い文化が感じられる
ところはないと言える。
ただ、完璧に文体の美しさを伝えることはやはり容易ではない。しかし、それは読者より翻訳者の問題であろう。
原文の美しさに感服しつつ、同レベルの文体の文章を作ろうと格闘中の私には、何故今まで「鏡子の家」が
訳されなかったのか不思議に思われる一方、その任を受けたことを幸いに思い、この作業がたいへん有意義な
経験となることが確信されるのである。
マティルデ・マストランジェロ
「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

81 :
ハラキリにおいて死は消滅する。死という人間的諸条件を、ある人間の意志が、自由に否定する行為であるからだ。
ハラキリにおいては、より高き倫理価値が自己に対する超越のかたちによって、死に対する克服のかたちによって
肯定されているからである。
切腹をかびくさい前世紀の遺物のように片づけることは、人間における最も「神聖なるもの」への冒涜である。
アンドレ・マルロウ
来日時のインタビューより

82 :
三島にとっては死は行動として一つの強烈な現実性を持っていた。日本の偉大な伝統と、儀式とによる死。
それでも異常なことだが、西欧ではローマ人的なこの死とロマンティックな自殺とを、混同するに至っている。
西欧のロマン主義者は、決してこのような方法では自殺しなかった。どのような文明も、死を祭儀的行為として
提議してはいないのである。
ある意味では日本の武士道精神がそれを提議した。
アンドレ・マルロオ
竹本忠雄との対談より

83 :
三島事件の直後、新聞記者たちの質問は、三島の行動が日本の軍国主義復活と関係あるか、ということだったが、
私の反応は、ほとんど直感的に「ノー」と答えることだった。
たぶん、いつの日か、国が平和とか、国民総生産とか、そんなものすべてに飽きあきしたとき、彼は新しい
国家意識の守護神と目されるだろう。
いまになってわれわれは、彼が何をしようと志していたかを、きわめて早くからわれわれに告げていて、
それを成し遂げたことを知ることができる。
エドワード・サイデンステッカー
昭和46年4月「時事評論」より

84 :
天賦のもの、その質量ともに、作家としてこゝ何十年来、無類の人だつた。
その才能を人工する努力と、その多彩さに於ても、想像を絶した人だつた。
しかも絢爛とした人工造形に、天恵の感情がつねに匂つてゐる、かういふ評語を、殆ど第一級点で当てることが
出来るやうな文士だつた。
その上に、わが使命観を自ら律したその今生の風懐は、エヴエレスト山の頂を超えた。それは不思議なことか、
当然のことか、彼は、学ぶ以前に、知つてゐた。わが平安盛期の文脈の情意の如きも、それを学んだと思へない先に、
少年の彼は、驚くべき濃密度で知つてゐたことだつた。
彼を初めて知つたころから、東京帝国大学の学生だつた時代にかけての印象である。
私が彼を知つたのは、その中学校時代の終り方だつた。
保田輿重郎
「たゞ一人」より

85 :
日本の民と国との歴史の上で、天地にわたる正大なる気を考へる時、偉大なる生の本願を、文人の信実として
表現した人は、戦後世代の中で、日本の文学の歴史は、三島由紀夫たゞ一人を記録する。
過渡期を超越したこの人である。
…三島氏は、日本人について、「繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐい稀な結合」と云つた。
そして「これだけ精妙繊細な文化伝統を確立した民族なら、多少野蛮なところがなければ衰亡してしまふ」と云ふ。
この史観と実践倫理を、彼の一代の生き方の上に重ねた時、わが身心は、たゞおののく感じである。
保田與重郎
「たゞ一人」より

86 :
三島由紀夫氏の最後の四巻本の小説は、小説の歴史あつてこの方、何人もしなかつたことを、小説の歴史に
立脚した上でなしあげようとしたのであらう。さういふ思ひが、十分に理解されるやうな大作品である。
三島氏も、人のせぬおそるべきことを考へ、ほとほとなしとげた。
そこには人間の歴史あつてこの方の小説の歴史を、大網一つにつつみ込むやうな振る舞ひが見える。
人を、心に於て、最後に解剖してゆくやうな努力は、私に怖ろしいものと思はれた。
三島氏ほどの天才が思つてゐた最後の一念は、皮相の文学論や思想論に慢心してゐる世俗者よりも、さういふものとは
無縁無垢の人に共感されるもののやうにも思はれる。
その共感を言葉でいひ、文字で書けば、うそになつて死んでしまふやうな生の感情である。
保田與重郎
「日本の文学史」より

87 :
私が三島由紀夫氏を初めて知つたのは、彼が学習院中等部の上級生の時だつた。
…そのあと高等部の学生の頃にも、東京帝国大学の学生となつてからも、何回か訪ねてきた。
ある秋の日、南うけの畳廊下で話してゐると、彼の呼吸が目に顕つたので、不思議なことに思つた。
吐く息の見えるわけはなく、又寒さに白く氷つてゐるのでもない。
長い間不思議に思つてゐたが、やはりあの事件のあとで拙宅へきた雑誌社の人で、三島氏を知つてゐる者が、
彼は喘息だつたからではないかと云つた。
私はこの齢稚い天才児を、もつと不思議の観念で見てゐたので、この話をきいたあとも、一応そうかと思ひ、
やはり別の印象を残してゐる。
保田與重郎
「天の時雨」より

88 :
彼がそのわかい晩年で考へた、天皇は文化だといふ系譜の発想の実体は、日本の土着生活に於いて、生活であり、
道徳であり、従つて節度とか態度、あるひは美観、文芸などの、おしなべての根拠になつてゐる。
三島氏が最後に見てゐた道は、陽明学よりはるかにゆたかな自然の道である。
武士道や陽明学にくらべ、三島氏の道は、ものに至る自然なる随神(かんながら)の道だつた。
そのことを、私はふかく察知し、粛然として断言できるのが、無上の感動である。
保田與重郎
「天の時雨」より

89 :
三島氏らは、ただ一死を以て事に当たらんとしたのである。
そのことの何たるかを云々することは私の畏怖して自省究明し、その時の来り悟る日を待つのみである。
私は故人に対し謙虚でありたいからである。
三島氏の文学の帰結とか、美学の終局点などといふ巷説は、まことににがにがしい。
その振る舞ひは創作の場の延長ではなく、まだわかつてゐないいのちの生まれる混沌の場の現出であつた。
国中の人心が幾日もかなしみにみだれたことはこの混沌の証である。
保田與重郎
「天の時雨」より

90 :
私は日本民族の永遠を信じる。
今や三島氏は、彼がこの世の業に小説をかき、武道を学び、演劇をし、楯の会の分列行進を見ていた、
数々のこの世の日々よりも、多くの国民にとつてはるかに近いところにゐる。
今日以後も無数の国民の心に生きるやうになつたのだ。
さういふ人々とは、三島由紀夫といふ高名な文学を一つも知らない人々の無数をも交えてゐる。
保田與重郎
「天の時雨」より

91 :
総監室前バルコニーで太刀に見入つてゐる三島氏の姿は、この国を守りつたへてきたわれらの祖先と神々の、
最もかなしい、かつ美しい姿の現にあらはれたものだつた。
しかしこの図の印象は、この世の泪といふ泪がすべてかれつくしても、なほつきぬほどのかなしさである。
豊麗多彩の作家は最後に天皇陛下万歳の声をのこして、この世の人の目から消えたのである。
日本の文学史上の大作家の現身は滅んだ。
保田與重郎
「天の時雨」より

92 :
国のため いのち幸くと願ひたる 畏きひとや
国の為に 死にたまひたり
わがこころ なおもすべなし をさな貌
まなかひに顕つを いかにかもせむ
夜半すぎて 雨はひさめに ふりしきり
み祖の神の すさび泣くがに
保田與重郎
昭和45年11月某日、哀悼の句

93 :
「日本語の堪能な留学生が入ってくる」というので、室の者全員が待機していると、
「平岡です。よろしくお願いします」といって現れたのが、何と三島氏だった。昭和四十二年四月十九日のことだった。
彼は、久留米の陸上自衛隊幹部候補生学校で、その春防衛大や一般大学を卒業して入校したばかりの候補生を視察した後、
我々が教育を受けている富士学校普通科上級課程に「戦術の勉強をしたい」との目的で途中から加わってきたのだった。
…誰もが三島氏の研修目的を詮索したり、文学や芸術の話を持ち出したりすることもなく、ひとりの友人として
自然に接したせいか、すぐに打ち解け、室の雰囲気は一段と明るくなり、女性談義に花を咲かせたりした。
私はこの室の室長兼班長だったが、これに加え三島氏の対番学生(学友として寝食を共にしてお世話する係)を命ぜられた。
菊地勝夫
「三島氏の感激と挫折」より

94 :
教場では平岡学生と私は一番後方の長机に並んで座り、教官から出される問題を一緒に考えた。
…三島氏は問題の意味するところや私が作る案の内容の細部を真剣に聞き、自分でも「連隊長の作戦命令の方針」を
起案して発表したこともあった。彼の案は、自衛隊の専門用語や文書の形式にとらわれていない実に力強い雅びな表現で、
固定観念に固まっている我々には、はっとさせられるものがあり、教室の雰囲気を和らげてくれた。
…夜は室で談笑したり、腹筋運動にエキスパンダーを使用したトレーニングをしたり、ある夜は自演の映画
「憂国」をクラスの全員に見せてくれたり、私といっしょに洗濯をしたりした。当時の洗濯はまだ洗濯板に
固形石鹸の時代だったので、固形石鹸をシャツにつけていた三島氏の子供っぽい仕草が今でも目に見えるようだ。
菊地勝夫
「三島氏の感激と挫折」より

95 :
入校後一週間ぐらい過ぎた日に、私と話がしたいというので、彼が原稿を書いたり、東京から来る客と応対したり
するために充てられていた個室で、真剣な話を三時間以上も続けた。
「私は日本男子として国防に参加する名誉ある権利を有する。従って貴方たちは私に教える責任がある」
と彼は切り出し、次々と質問してきた。
その主な質問は、「クーデター」「憲法」「治安出勤」「徴兵制度」「シビリアンコントロール」についてだった。
その真剣さに私は、彼の入隊の本当の目的は、七十年安保に向かって騒然としつつある国内情勢に鑑み、特に
防衛大出身の幹部クラスの考え方や心意気、精密度などを肌で確認することにあったのではなかろうかと思った。
菊地勝夫
「三島氏の感激と挫折」より

96 :
彼はその後、同じ富士学校で教育中の幹部レンジャー課程の学生として自衛隊で最も厳しい訓練を体験し、
爽やかな印象を残して去っていった。
以後、三島氏は「檄」文に表現されたような感激を自衛隊で体験していくことになる。
三島氏は民間防衛を荷う祖国防衛隊を組織する夢を抱き、四十三年春、まず厳選された学生三十名を連れて
富士教導連隊で一ヶ月間の訓練を受けることからはじめた。
自衛隊にとっては三島氏のような知識人に自衛隊を理解してもらうことは歓迎すべきことであり、さらに、将来、
国の広い分野でリーダーとして活躍するであろう大学生の体験入隊は、特に当時の状況から願ってもないことであって、
マスコミによって潰されないように配慮して受け入れたものである。
菊地勝夫
「三島氏の感激と挫折」より

97 :
しかし、全国組織を目指した祖国防衛隊の構想は、政財界の協力が得られずに挫折し、自分の力で世話のできる
少数精鋭の「縦の会」へと展開していく。そして彼は彼なりの情勢分析により、自衛隊が治安出勤する事態が
来ると信じるようになる。「縦の会」は自衛隊の尖兵としてデモ隊に突入し、あるいは皇居に乱入する暴徒に
体当たりで斬り死にするという考えに変わっていったものと思われる。
だが、四十四年の一〇・二一反戦デーの騒乱で、自衛隊の治安出勤は起こりえないと見てとった時、ほんとうの
挫折を味わい、三島氏は自衛隊にとって象徴的な場所で、自衛官たちに心の叫びで訴え、武士の最期を遂げたのだった。
菊地勝夫
「三島氏の感激と挫折」より

98 :
三島は結局、自衛隊市ヶ谷駐屯地を己の死に場所とした。
…多くの自衛隊員の前で演説し、そして腹を切るという壮烈な死の花道として、士官学校、大本営、参謀本部など、
かつて日本陸軍のメッカといわれた市ヶ谷を選んだ。
…三島は隊員に決起を促すため方面総監室を占拠し、総監を人質にするという暴挙に出たが、そのために三島を
恨んだり、非難する声は今でも自衛隊内部では少ない。
事件の当日、会議中に総監室の異状を知った方面総監部三部の防衛班長中村菫正(のぶまさ)二佐は、隊員の通報で
総監室に駆けつけ、幕僚長室から総監室に通じるドアを体当たりで開けて中に飛び込み、振りかざした三島の刀で
右手を二回にわたり斬りつけられる。(中略)
思いもかけなかった刃傷事件の発生に、総監部の各事務室の片隅に警棒が常時置かれるようになったのは、
この事件以降のことである。
原竜一
「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より

99 :
(中略)しかし、こんなとんだ災難にあった中村二佐だが、三島を恨もうとはしていない。
「三島さんは私を殺そうと思って斬ったのではないと思います。相手を気ならもっと思い切って斬るはずで、
腕をやられた時は手心を感じました」とあとで語っている。
斬られながらも相手の手加減を感じるなど、剣道を知らない者にはわからないところだが、中村二佐は旧軍の
軍人だから剣道の腕も相当なものがあったのだろう。
自衛隊の良き理解者だった三島について「まったく恨みはありません」と断言した中村二佐はその後、陸幕広報班長、
第三十二連隊長、総監部幕僚副長、幹部候補生学校校長を歴任し、昭和五十六年七月、陸将で定年退官するが、
最後の職場が、かつて三島を教育した久留米の幹部候補生学校だったとは、皮肉な巡り合わせである。
原竜一
「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より

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