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2012年6月日本史25: 謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!66 (396)
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謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!66
- 1 :12/05/17 〜 最終レス :12/06/08
- 其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛
邪馬台国は、三世紀に日本列島に存在したとされる国の一つであり
古代史最大の謎として人々の関心は高い。
この日本建国に関わる邪馬台国、女王卑弥呼について議論をしましょう。
前スレ http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1329999700/
リンク http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listtitle
- 2 :
- 卑弥呼
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC
・・・卑弥呼の死
・・・卑弥呼の死んだ時期は弥生時代から古墳時代への移行期に当たり、邪馬台国畿内説では卑弥呼の墓は古墳の可能性がある。箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)とする説もある。九州説では、平原遺跡を卑弥呼の墓とする説[2]などがある。
天文学者の斎藤国治は、248年9月5日朝(日本時間。世界時では9月4日)に北部九州で皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。
井沢元彦も『逆説の日本史』でこの説を支持している。[3]さらに、橘高章と安本美典は、247年3月24日夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、
247年の日食が原因で卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり壹与が即位したと唱えた。これらの説は、邪馬台国北九州説や卑弥呼・天照大神説と密接に結びついている(ただし不可分ではない)。
しかし、現在の正確な計算では、いずれの日食も、邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり[4]、
部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。・・・
- 3 :
- 卑弥呼さんの主食はたぶん稗だったんだらとはおもふが
稗神社は日吉神社に名札かえて首にぶら下げちゃっているんだよな
稲の神様って狐だけど稗栽培していた人たちにも狐は鼠とる益獣
なああんか列島の犬はなんかきつねっぽい狗だな
たぶん鮮卑の先祖の東胡とか
そのまたそれの先祖の土人なんかも狐はお友達のぱあとなあだったんだよな
- 4 :
- では踊らせていただきます
♪ わたしーのー ラバさーん 酋長の娘ェー
色はー 黒いーがー 南洋じゃ 美人ー アソレ
赤道ォー 直下ー マーシャル群島ー
ヤシのー 葉陰で− テクテク踊るー アソレ
踊れ 踊れー 踊らぬ人にィー
誰がー お嫁にー ゆーくーものかァー アソレ
昨日ー 浜で見たァー 酋長の娘ェー
今日はー バナナのー 葉陰でェ眠るー
失礼いたしました
- 5 :
- たぶんさ
「ヒエ」は「稗」って書くけど
もとのは「稗穢」だったんだとおもふよ
遼東遼西あたりで展開していた古い時代の土人のシンボルのの龍が
のちの時代になって中華に導入されたっぽいってゆうよね
- 6 :
- ヒエ喰うときにはぽろぽろこぼれちゃうから
おちゃわん持って喰わんといかんらしいけどな
- 7 :
- なんで? ダイエットとか健康ブームとかで?
- 8 :
- なあんかしらんけど
おちゃわん持って喰うスタイルってとても珍しいらしいよ
- 9 :
- >女王卑弥呼の共立を何時とするか?
>そして、何のための共立か?
>何もなければ、無理をして共立する必要は無い。
倭人伝の書き方をみれば、共立は魏志が対象とする時代、すなわち魏時代の出来事である。
そのことは、倭人伝、後漢書が共立時の卑弥呼を「年已長大」(かなりの年齢)などとしている
ことで裏づけられる。共立された後の卑弥呼の業績が何も記載されていないことも共立されて間
がないためなのだ。
卑弥呼が魏へ使者を送ったのは、自らの就任あいさつだ。倭国は乱が収まったばかり。
だから、実質的敗者である以北の国々は女王国の厳しい監督下にあった。
- 10 :
- 「年已長大」は(かなりの年齢)ではないのね
くだんの生徒に虐められるのお好きなぢいちゃんが
かって三國志全体の用例調査したとかの知らんのかな?
- 11 :
- 調査の結果、いくつ見つけたのかな? 百、それとも千?
- 12 :
- 共立は魏代ではない
『桓霊間倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼。』(後漢書)
桓帝在位期間(146年ー167年)
霊帝在位期間(168年ー189年)
少帝在位期間(189年)
献帝在位期間(189年ー220年)
『漢靈帝光和中、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子卑彌呼為王。』(梁書)
光和 (178年ー184年)
- 13 :
- 後漢書も梁書も倭人伝をどう解釈したらいいのか迷ったあげくの誤訳にすぎない。
そんなものを頼りに倭人伝を解釈しようってのが間違いなんだ。
- 14 :
-
ふざけた都城人が考えることよりはるかに信頼できる。
- 15 :
- 後漢書は、倭国乱の時期を「桓霊間」とする。これは、146年ー189年の間という
長い期間をいっている。これは分かるだろうね。
一方、梁書は、「漢靈帝光和中」と表現しており、光和中すなわち178年ー184年
の間、すなわち僅か5、6年の間の話だと言っているんだ。
後漢書と梁書は倭国乱の期間というものがまったくちがっている。どちらかは、
完全に間違えている。両方まちがえている可能性も十分にある。
そんなものがあてになるかな?
- 16 :
- 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩狥葬者奴婢百餘人
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女壹與 年十三爲王國中遂定
土人の酋長さんたちはお互いに血縁関係とかがあっても
もめるとすぐに殺し合いとかするから痛いのな
てかもめているのが常態でいつも乱れていたりしたんだろ
さらっと千餘人くらい殺しちゃうし
酋長さんが死んだらさらっと百餘人とか道連れにしちゃったりするんだよね
- 17 :
- 『桓霊間』というのは146年から189年の間ずーっと乱だったとは書いてない
靈帝光和中に倭国大乱が始まったとも書いてない
少帝、献帝在位中に倭国が大乱だったとも書いてない
これらから倭国大乱の開始時期については不明確であるが、一女子が共立され乱が治まった時期は
ある程度絞られる
- 18 :
- >共立は魏代ではない
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
後漢時代には、倭奴國は、それ相応の勢力を誇っていた。
その倭奴國は、靈帝光和中(183年寒冬、後漢の乱れはじめ)から乱れはじめ、
遞相攻伐,歴年無主。←公孫氏と対峙中 魏使が倭奴國を訪れ、朝貢を要請する。
朝貢は、倭国の代表として出なくてはならない。
だから、倭奴國は、大和(邪馬台国)までの協力を得て、卑弥呼を共立するのである。
この朝貢が無ければ、分裂のままでも何の問題もない。
狗奴国と対峙していても、何の問題もない。
問題なのは、魏が東夷倭国を冊封体制へ組み込むためである。
半島南部は、小国家群であった、そこに認められたのは、馬韓人の辰王のみ。
倭国においては、卑弥呼と倭王の2王位体制ではあるが、この2王は離れた地域である。
239年に女王卑弥呼は認められる。
正始元年に倭王を認める。
女王卑弥呼だけでは、不安であったから、邪馬台国に倭王をたてる。
- 19 :
- >『桓霊間』というのは146年から189年の間ずーっと乱だったとは書いてない
光和年間以外は治まっていたとも書いてないな。
>靈帝光和中に倭国大乱が始まったとも書いてない
そうかね。私は光和中に始まり、光和中に終わったように読むが。
君の読み方だと、光和中に終わったとも書いてないとなるね。
>少帝、献帝在位中に倭国が大乱だったとも書いてない
治まっていたとも書いてないよ。
>開始時期については不明確であるが、一女子が共立され乱が治まった
>時期はある程度絞られる
そうかなあ。後漢書によれば靈帝の末か少帝、献帝の時代になりそうだが。
- 20 :
- >>19
>後漢書によれば靈帝の末か少帝、献帝の時代になりそうだが。
前のレスは読んでる?
>>12なんだけどな…
- 21 :
- 靈帝の時代ころが日本の孝靈天皇の時代あたりに位置する。
- 22 :
- 崇神天皇十年冬十月乙卯朔。詔群臣曰。今返者悉伏誅。畿内無事。唯海外荒俗。騷動未止。
崇神天皇十一年是歳。異俗多歸。國内安寧。
考古学がいう、2世紀末に各地の土器が纏向にもちこまれた。
それが、崇神11年であるから、詩人5,6年の飢饉は、新羅192,3年であり、
後漢193年 6月寒風冬のごとし。この時空になる
倭奴國においては、乱の始まりから10年が経過している、そこへ追い打ちをかける
飢饉が襲ったのであれば、倭奴國も持ちこたえられず、大王を立てることが出来なくなる。
“暦年無主”の時空がここにある。
- 23 :
- 崇神5,6年≠新羅192,3年
- 24 :
- 漁師でもない航行未経験の千人もの腹ペコ農民が畿内から半島渡海なぞ
出来ない。これを出来るで強行する野郎は、精神病院ご歓迎。ww
ガソリンの無い自動車千台が走行で出来っこないのと同様だ。
- 25 :
- 新羅本紀によれば、卑弥呼は既に173年に新羅に遣使している。
で、仮に173年に共立されたとし、そのとき35歳だったと仮定する。
そうすると景初2年(238年)のときは100歳である。
>>21
細国先生、孝霊天皇の在位は前290〜前213でおます。
- 26 :
- >>20
>>>12なんだけどな…
どうゆう趣旨かな? どう読んでいるのか分からないが。後漢書だけの
読み方でね。
- 27 :
- 後漢書ってちょっとまぬけなそそっかしいあれだろ
- 28 :
- >>26
>>9からの話の流れ見えてる?
- 29 :
- >孝霊天皇の在位は前290〜前213でおます。
朝鮮にいた氏よ。あんたもコチラのコテハンを傷つけるのか?
その年代は見かけの年代であり、実年代はそこではない。
- 30 :
- >新羅本紀によれば、卑弥呼は既に173年に新羅に遣使している。
これは、天日矛来訪の姫大神の渡海であり、その姫を追いかけて天日矛が来訪するのである。
169年 大彦誕生
173年 新羅 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神。
同年 (天日矛) 姫を追いかけ渡来。
176年 モロスケ 多遲摩母呂須玖
187年 開化崩御 .184年 彥坐皇子命
196年 ヒラナギ 多遲摩比那良岐
203年 山代大筒城真若王
209年 伽耶(任那)建国。新羅、伽耶に援軍
216年 多遲麻毛理。次多遲摩比多訶。次清日子。(ホツマでは、田道間守は清日子の子と成って
いるがキヨヒコを長男とし、田道間守の親代わりと見た方がよさそう)
222年 迦爾米雷王
239年 田道間守の渡海
240年 田道間守殉死
240年 多遲摩比多訶児、葛城 之高額比賣命
240年 息長宿禰
259年 気長帯姫誕生?
274年 気長帯姫 応神を産む。
- 31 :
- 何を言いたいのかな? 後漢書だけで読むことはしないってことかな?
- 32 :
- 大祓祝詞の天津金木の段は、大中臣からのインチキ編年を壊滅させよと
いう、古代から未来人への下命文面である。
天津金木(天津神算木)とは崇神紀の三輪山の説話のある三輪(半径3の
円)の球化の 体積=表面積 の数式をいう。 天津神算木は
4πr**3/3=113.0973355292・・・ (r=3;**は冪乗)
大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて
3≠113.097335 B.C.3113年 9月7日 マヤ文明元年 始原年月日
右辺の主値は ☆1/13 B.C97 崇神天皇 即位
右辺第二桁目から ★死値 A.D.130 景行没年
崇神即位年の真の年代は右辺の数列を3分して 113 097 335 とする時
113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位見かけ年 B.C.97(0は 西暦0年 除去)
335←崇神即位の真の年代への誘引ジョーカー数 335年
335−97=238年 西暦0年を除くから1年分詰まり、以下を得る。
238−1=237年=景初元年=崇神天皇即位元年(実年代)
天津神算木の右辺第二桁から
1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位
を得る。主値 崇神から仁徳の年代までが一つの区切りの時代であることを
天津神算木は教示している。これが三輪王朝年代である。その後は後三輪
王朝年代に入るのだ。
- 33 :
- >>31
ああ、お前都城かよww
>倭人伝、後漢書が共立時の卑弥呼を「年已長大」(かなりの年齢)などとしている
ことで裏づけられる。
後漢書が共立の時期を間違えてると読んでるんだろ?
倭人伝の共立が239年直前で「年已長大」、後漢書は共立が190年前後で「年長不嫁」
だったら後漢書は裏づけになってないだろ
- 34 :
- >>24
>畿内から半島渡海なぞ
どの文献にも「畿内から・・・」とは書かれていない。
創作か?
6月倭(倭)に大きい飢饉があって男女千余人が船に乗って来て食糧を物乞いした.
南側田舍のんびりする地に住むように命じて食糧と働き口を与えた. これが
ウェポ(倭圃, 倭人たちの菜麻畑)だ.
>崇神即位年の真の年代は右辺の数列を3分して 113 097 335 とする時
これは、太タヌキ殿の創作であることを認める。
考古学とも文献とも整合しない。
- 35 :
- >後漢書は共立が190年前後で「年長不嫁」
>だったら後漢書は裏づけになってないだろ
190年前後で「年長不嫁」だと言った覚えはないがね。
- 36 :
- >>35
>そうかなあ。後漢書によれば靈帝の末か少帝、献帝の時代になりそうだが。>>19
- 37 :
- 献帝の在位期間は、189年ー220年だろ。幅があるわけだ。
それに、「後漢書によれば靈帝の末か少帝、献帝の時代になりそうだ」と言ったのは、
あなたの読み方ならば、ということだ。
私は共立が190年前後だとは、言っていないよ。
- 38 :
- おおぉ!!! 太陽が・・・・・・・・!!!
- 39 :
- こんなことで卑弥呼をか?
- 40 :
- いい加減基地外オタばっかで気持ち悪い。
邪馬台国関係者はこんなんばっかだし
そりゃ専門家ほど邪馬台国とは距離置くわけだw
- 41 :
- >>34
整合しないなどとほざくだけで、抽象的文句の域を出ない。
オマエの主張でなく、どこがどのように整合しないのかという話を全然
言うことができない。
崇神即位元年=237年
ということは、3倍年暦で年代を下降すれば、崇神没年=259年 となる。
このことは古事記の 崇神没年=258年(戊寅) の説と1年違いで整合
して来る。つまり文献と整合しないというオマエの文句はデタラメであり、
古事記とは権威ある文献であるから、整合しないと言ったオマエの書きこみ
はオオウソである。
崇神天皇崩御は259年であり、1年違いは正解内に在る。
- 42 :
- >神功元年前年は日食が数日間も続く←嘲笑ww
これは、空腹多ヌキ殿の創作であることを認める。
これこそ考古学とも文献とも整合しない。
今朝の日食を見ても数日間も継続はありえず、それを数日間継続すると
言い張る宿主は、熱帯ジャングルの蛮族級の〜超S級妄想の脳内と判断出来、
宿主は精神病院に寝泊りすることが求められる。ppp
- 43 :
- >>37 シラス都城
>歴代の史書は、いずれも魏志をひねくりまわして書いているだけだ。
そんなくだらん史書は全て横に置いて、魏志を素直に読んでみろ。
誰かとのやりとりで後漢書は裏づけには使えんように書いてたようだが?
- 44 :
- >>41
崇神天皇 在位 前97〜前30
- 45 :
- >>44
>崇神天皇 在位 前97〜前30
だからこれは見かけの年代だよ。実年代ではない。
- 46 :
- >>43
重要性の問題だよ。まずは魏志をちゃんと読めということ。
倭人伝以外もまったく役に立たないとは言っておらん。
書かれている意味を良く考えれば、役に立つこともある。
素人には難しいかも知れんがね。
- 47 :
- >どこがどのように整合しないのかという話を全然 言うことができない。
正朔とは、春1月朔とあれば、それを認めなければ“正朔”にならない。
朔は29.53日ごとに巡り、12ケ月を1年とする。これでは、太陽と整合しないので
19年に7回の閏を置く。
太国3倍年は、書紀の3年を充てる。
書紀の1年は、12ケ月を1年とし、朔と季節でそれが正しいという主張をしている。
崇神天皇五年 國内多疾疫。民有死亡者。且大半矣
崇神天皇六年 百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。
崇神天皇十一年 異俗多歸。國内安寧。
崇神5年は、飢饉と餓死。
翌春崇神6年 逃散(離散)のピークをむかえる。
崇神11年には、四道将軍派遣の結果として、各地の人々が纏向に集まる。
その崇神世中に任那建国もある。
太タヌキ殿は崇神世を、太国2倍年と言うが、崇神5,6年が1年となることは無い。
また 崇神即位元年=237年 239年からは、半島を魏が管理する。その時代に
任那建国は無い。伽耶などは、魏の決めた辰王に従うだけである。
辰国はもと6国、分かれて12国となる。これが、魏の関与する前の伽耶の実態。
- 48 :
- >正朔とは、春1月朔とあれば、それを認めなければ“正朔”にならない。
朔は29.53日ごとに巡り、12ケ月を1年とする。これで、日食は継続するので
274年に数日の蝕を置く。
全然オマエのは計算狂い。ww
- 49 :
- >これで、日食は継続するので
これは、太タヌキ殿の書紀の読み方である。
だから、そのように読むのであれば、太国倍年で証明すれば良いことである。
なお太国倍年で百済王家を見る場合、太国倍年で、太国1年とするためには、百済本紀の数年が必要となる。
だから、”倍年”は成立しない。
- 50 :
- 宿主空白年は、書紀の0年を充てる。
書紀の0年は、12ケ月を空年とし、朔と季節でそれが正しいという主張をしてない。
>太国2倍年言ってはいない。言ってないことを言うんじゃない。
崇神の代は3倍年暦だ。デタラメを言うな。おっ、そうだったな。オマエ
は退院歴が忘れられないわけだ?ww
空腹多ヌキ殿は成務世を、57年分空年と言うが、成務元〜60年が空年となることは無い。
また 崇神即位元年=237年 239年からは、半島を魏が管理する。その時代に
任那建国は有る。伽耶などが、魏の決めた辰王に従おうと関係ない。
- 51 :
- >これで、日食は継続するので
これは、空腹多ヌキ殿の書紀の読み方である。
だから、そのように読むのであれば、宿主空年で証明するのが出来ないことである。
なぜなら、権威たる現代天文学の日食学は皆既日食での全欠け(暗黒)が
日を経ての数日間でなく、常夜にならない少夜の数分間にとどまる。
なお太国倍年で百済王家を見る必要はなく、宿主空年で、宿主0年とするためには、百済本紀の120年が撹乱妨害となる。
だから、”空年”は成立しない。
- 52 :
- 太国倍年で説明してくれ。
神功皇后摂政四九年(己巳二四九) 千熊長彦
神功皇后摂政五十二年(壬申二五一)九月 七支刀
神功皇后摂政五五年(乙亥二五五) 百濟肖古王薨。
神功皇后摂政五六年(丙子二五六) 百濟王子貴須立爲王。
神功皇后摂政六四年(甲申二六四)百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。
神功皇后摂政六五年(乙酉二六五) 百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。
応神天皇三年(壬辰二七三) 百濟辰斯王立之失禮於貴國天皇。
応神天皇十六年(乙巳二八五) 百濟阿花王薨。
応神天皇二五年(甲寅二九四 百濟直支王薨。即子久爾辛立爲王。王年幼。
- 53 :
- 宿主空年で説明してくれ。
しかも具体的にな。
いままでの抽象的飾り文句羅列の誤魔化し書きこみはけっこうだ。
神功皇后摂政四九年(己巳二四九) 千熊長彦
神功皇后摂政五十二年(壬申二五一)九月 七支刀
神功皇后摂政五五年(乙亥二五五) 百濟肖古王薨。
神功皇后摂政五六年(丙子二五六) 百濟王子貴須立爲王。
神功皇后摂政六四年(甲申二六四)百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。
神功皇后摂政六五年(乙酉二六五) 百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。
応神天皇三年(壬辰二七三) 百濟辰斯王立之失禮於貴國天皇。
応神天皇十六年(乙巳二八五) 百濟阿花王薨。
応神天皇二五年(甲寅二九四 百濟直支王薨。即子久爾辛立爲王。王年幼。
- 54 :
- >なお太国倍年で百済王家を見る必要はなく、
なお太国倍年で日本書紀の記事を見る必要はなく、
↑ こういう主張か?
であるならば、実践しているからご心配なく。
- 55 :
- ではないから心配はない。百済王家は日本書紀ではない。
- 56 :
- >しかも具体的にな。
具体的もなにもない、日本書紀の記事はこの年代で読めばよい。
それ以上の説明は必要が無い。
神功皇后 275年〜343年・・・69年
神功52年 326年 七支刀。
応神天皇 344年〜386年・・・43年
仁徳天皇 313年〜399年・・・87年
- 57 :
- >朔は29.53日ごとに巡り、12ケ月を1年とする。これでは、太陽と整合しないので
>19年に7回の閏を置くが、さらに整合しなくなる空年をたらふく うんと入れる。
こんなので当時の年代が把握できるなら、オマエのやる前に誰かがすでに
やってるぜ。ww そん単純計算で真の年代把握が出来ると思って
いるオマエは、小賢しい脳内だな。ww オマエの単純幼稚性がミエミエ。
今朝の日食でその経済効果は264億数千万円であることを関西大学大学院の
某教授が解説していたが、万円までだぞ。
オマエ1円玉計算をしてないがどうなるのか? 教授に質問してみい。
す〜ぐこいつは紀違いだとオマエが影で冷笑されるだろう。ppp
- 58 :
- >>56
つまり説明が出来ないことを認めたわけね。ww
ハハッ、無説明論なら誰でも出来る。即興で恣意的勝手にオマエが決め
たということよ。つまり価値は0点以下だ。
- 59 :
- >百済王家は日本書紀ではない。
日本書紀には、百済王家が書かれている。
これは、差し込み記事では無く、日本の記録である。
PS
嶋王も日本の記録であり、金石文と合致する。
- 60 :
- >こんなので当時の年代が把握できるなら、オマエのやる前に誰かがすでに やってるぜ。
太タヌキ殿には思いもつかなかった手法である。
そして、明治以来 百済本紀を正しいとして編年は考えられてきた。
七支刀=369年で16日丙午の存在しない年。
これを正しいとするかぎり他の文献とは整合させられない。
考古学はこの数字を捨てて、50年ほど年代を遡上させた。
この考古学に合わせれば、崇神は2世紀末からになる。
だから、崇神世と整合する文献が存在する。
明治時代以来の”倍年“が存在出来ないことも史学は認めている。
残るのは太陰暦しかない。
しかし、太陰暦は百済本紀と整合しない。
- 61 :
- 空腹多ヌキ殿
金石文は改刻痕がある。つまり単純に整合してるなどとは言えない。
嶋王は日本人だと言い張っても、半島専門だ。猫氏がマラソンに出られないこと
を考えれば、嶋王で簡単には整合してるなどとは言えない。
考古学はこの数字を考えて、50年ほども年代を遡上できてない。
この考古学に合わせれば、崇神は3世紀前半からになる。
だから、崇神世と整合する文献(→大祓祝詞:天津金木)が存在する。
zzzzzz・・・・・
- 62 :
- 唐松山氏も太国氏も、崇神天皇の代に任那が建国されたという点では意見が一致しているようだ。
たしかに書紀には、大駕洛国にミマキの名を与えてミマナとしたという話が一説として書かれている。
しかし桓檀古記に面白い記述がある。
番韓は蚩尤の後孫の蚩氏から始まり、それが30代ほど続き、徐氏がその後を継ぎ、それが40代ほど続き、
その後を箕氏が継ぎ(いわゆる箕氏朝鮮)、それが6代続いて衛氏朝鮮となるのだが、
その徐氏の4代目に任那という王がいる。
ついでにいうと、馬韓の王に瀆蘆とか斯羅という王もいる。
瀆蘆は例の南で倭と接する瀆蘆、また新羅は斯羅とも云った。
桓檀古記は面白いぞ。貴重な情報の宝庫。これを読んで数々の疑問が氷解した。
また、エッ、まさか、と思うような情報もある。
契丹古伝と桓檀古記。これを読まずして満州、遼東、朝鮮について語ること勿れ。
- 63 :
- 契丹古伝と桓檀古記
偽書に惑わされおって。見ちゃいられん。
- 64 :
- 神功四十九年己巳春三月。・・・千熊長彦
神功六十四年甲申。百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。
【383】ネムル王(奈勿聖帝)7年 正月, 修養制(水羊祭)を行った. (323年癸未、神功49年)
三月夫余流民三十戶又來降・・・倭臣熊彦美而善辯・・・熊彦=千熊長彦
【384】ネムル王(奈勿聖帝)8年 (338年神功64年甲申)
夫余謹須殂枕流立 其母阿尒執政 遣千世吊之 (384年甲申)の位置の記事
付与の斤数(謹須)が死んで(□) チムリュ(枕流)が立った.
323年 奈勿聖帝7年 三月夫余流民・・・千熊長彦。
324年 奈勿聖帝8年甲申 夫余謹須殂
奈勿聖帝紀と神功紀は同じ記事であるが、年代が整合しない。
そして、【383年奈勿聖帝7年】とした場合、韓国考古学の言う北方扶余の遺物
(4世紀初め)が60年ほど狂う
考古学と整合させるためには、崇神を2世紀末まで引き上げたと同様に
60年ほど引き上げねば、整合しない。
奈勿聖帝7年を“323年癸未、神功49年”と60年引き上げ
奈勿聖帝8年甲申の記事を【338年神功64年甲申】の差し込みとする。
- 65 :
- 欽明天皇二年(五四一)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
ホツマ ホ34129 ミマナのアヤ 崇神58年
ミヅカキの ヰソヤホハヅキ ミユキして ケヰヲヲカミに もふでます モロいわふとき
ツノひとつ あるヒトこゝに たゝよえり
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)加羅に援軍を送る。
ホツマによれば、崇神58年にツノガアラシトの訪問を受け、兵を授ける。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラ、金官伽耶、任那)は存在する。
考古学が50年遡上したのであれば、文献史学も50年遡上しなければ整合しない。
- 66 :
- 小用で起きちまったな。w
明治時代以来の”空年“が存在出来ないことも史学は認めている。
明治時代以来、”臭魔伝“も存在出来ないことも史学は認めている。
残るのは記紀と天津神算木位しかない。
しかし、空白年は記紀と整合しない。
さあてと、こんどこそ練る。zzzzz・・・・・・
- 67 :
- くうらんばかりでなんもみえね
- 68 :
- 考古学が50年遡上してないんだから、文献史学も50年遡上しないで整合する。
なお秀魔電とはそんじょそこいらにいるタダのオッサンが妄想を入れこんで書き
こんだ危険史想の書であり、各々方は宿主のように脳内を宿主のように秀魔虫に
蹂躙されないよう重々用心されたい。
- 69 :
- 契丹古伝は浜名寛祐が奉天で入手した文書で、その文書がデタラメな文書であるかどうかは不明である。
「契丹古伝」は、その文書についての浜名寛祐の考証研究の書であって、その考証は十分読むに値する。
桓檀古記はさまざまな撰述者の書を集めたものであって、中にはややいかがわしいものもあるとはいえ、
偽書として葬り去るには惜しい、貴重な情報に溢れている。
ホツマ伝は読んだことはないが、これだって、真偽は自分で読んで判断すればよいのであって、
偽書とされているから読まない、というのは惜しいことである。
記紀だって、疑おうと思えば疑えるのであって、事実、津田左右吉以来、
日本の学者はそれを全面的には信用していない。
私は、卑弥呼の当時の朝鮮や中国東北部の民族や国家の正確な分布図を把握したいために
契丹古伝や桓檀古記を読んでいるのであって、そういう興味のある人は、まず読んでみればよい。
偽書であるか否かは、読んで自分で判断すればよい。興味のない人は読まなければよい。
- 70 :
- >考古学が50年遡上してないんだから、文献史学も50年遡上しないで整合する。
つまり、現在の考古学年代を信じるんだな?
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html
纏向新偏年
崇神 188〜216年(基本的に38年の空白)
新羅に合わせれば188年から29年間、後漢に合わせれば189年から28年間。
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年]
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神11 年異俗多帰]
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?任那建国]
216年 任那より朝貢、
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年]
纏向2類(中)・纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁末年]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳 埴輪(庄内式穴あき壺)田道間守の殉葬。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利を派遣
景行 240〜261年(38年の空白)
晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 景行による九州
纏向4類(前)・纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]
成務 262〜265年(基本的に57年の空白) 仲哀 266〜274年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
- 71 :
- ホケノは布留0出てるのに、どういうわけだかあえて無視してるよ。石野談
- 72 :
- >>70の編年は妖魔の毒書 秀魔電 に染めたインチキ創作であ〜る。
>現在の考古学年代を信じるんだな?←宿主は現在の考古学年代を信ぜず。
大中臣の下命
古代からの真の年代を計測する贈り物たる天下の宝器。これが天津神算木
(天津金木)である。天津祝詞の太祝詞事には大中臣からのニセ編年壊滅
せよとの下命がある。天津神算木の文がそれだ。
天津神算木(天津金木)とは三輪山の山名たる三輪(半径r=3の円)の
球化の 体積=表面積 の数式をいう。崇神紀には三輪山の話がある。
天津神算木:表面積(右辺の 」 は先頭から20桁目の区切り **はベキ)
4πr**2=113.09733552923255658」46・・・
右辺先頭あたりに 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけ年代)がある。
大祓祝詞に曰く 「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」
太祝詞事は二十(フト)祝詞事であり、右辺を20桁での区切りを示唆。
20桁目にかかっての三数は 658 だが、等号にまたいで左辺先頭から三数
の 421 を得る。(文字数は除く) つまり天津金木の両端数である。
658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年
の実年代を得る。これに外れる編年は完全なデタラメである。。
本物は天津金木だ。 当然 崇神即位年≠188年
- 73 :
- >景行 240〜261年(38年の空白)←↓大ウソ
景行の代に38年分の空年は存在しない。
ここが↓合わない限り、それ以前の数字に迫ることはできない。
【景行在位年代年表】
景行元年 景行天皇 即位:紀
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后:紀
景行3年 紀伊行幸:紀
景行4年 美濃行幸:紀
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建 :由緒等
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建:同上
景行7年 国々の神社に奉幣:九鬼文書
景行10年 赤神神社(秋田県)赤神山竹生島と同頃発現:由緒等
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生:紀
景行13年 熊襲平定:紀
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生:由緒等、紀
景行17年 宮崎県 子湯 行幸:紀
景行18年 筑紫諸国 行幸:紀
景行19年 筑紫から還幸:紀
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ:紀
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座:由緒等
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ:法勲寺跡 讃留霊王神社伝承
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命:香川善通寺市神社伝承
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立:由緒等
景行25年 武内宿禰 北陸巡察:紀
景行26年 景行天皇 軍議を開く:佐賀 王子権現 高寺縁起
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定:紀
景行28年 日本武尊 凱旋復奏:紀
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀:由緒等 〜続く
- 74 :
- 景行の代に空年は存在しない。
【続 景行在位年代年表】
景行31年 比地良山 杉の大木 香を放つ:伊豆山縁起
景行33年 久留米 大善寺玉垂宮 創建:高良玉垂宮神秘書
景行36年 胆咋宿禰 五十琴姫を妃とし五十功彦命を生む:大成経
景行39年 始めて熊野新宮を建つ:歴史徴(radio氏)
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す:紀
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立:由緒等
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建:由緒等
景行43年 日本武尊 死:紀
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ:由緒等
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る:由緒等
景行51年 若帯日子 立太子:紀
景行52年 播磨稲日大郎姫 死:紀
景行53年 東国 行幸:紀
景行54年 東国から還幸:紀
景行55年 彦狭島王 死:紀
景行56年 御諸別王を東国領に命ず:紀
景行57年 坂手池を造る:紀
景行58年 近江巡幸:紀
景行59年 熊野行幸:熊野年代記
景行60年 景行天皇 崩御:紀
- 75 :
- >景行の代に38年分の空年は存在しない。
神功皇后摂政四九年(己巳二四九)三月 千熊長彦
神功皇后摂政五十二年(壬申二五一)九月 七支刀
神功皇后摂政五五年(乙亥二五五) 百濟肖古王薨。
神功皇后摂政五六年(丙子二五六) 百濟王子貴須立爲王。
神功皇后摂政六四年(甲申二六四) 百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。
神功皇后摂政六五年(乙酉二六五) 百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。
1年のながさをごまかすと、百済王家の説明が出来ない。
つまり、景行治世が60年であると主張した場合、60回四季が巡る時空が必要である。
まあ、1年の日数も主張できない太国倍年であるから、“2倍年”には四季が2順する場合もある。
そうした場合、編年は、若い年代から積み上げただけのものである。
神功紀でつまずいているから、景行までたどり着けていない。
- 76 :
- 景行元年春三月,辛未朔 275468日とした場合。
景行元年秋七月,己巳朔 275586日。
景行二年春三月丙寅朔戊辰 275823日。
景行三年春二月庚寅朔 276147日。
景行四年春二月甲寅朔甲子 276531日。
景行四年冬十一月庚辰朔 276797日。
書紀は1年の長さを、“朔”と季節で主張している。
ここに、太国倍年の入る余地は無い。
書紀の主張を認めつつ、書紀の編年を正常な長さにするためには空白年の差し込みが有効である。
この空白年の差し込みを書紀は認めていない。であるならば、後世にこの空白年を記事で
埋めても、書紀は否定しないが、その場合正しい編年を正朔で求められなくなる。
だから、正しい長さは考古学と文献の整合性に求められる。
- 77 :
- > 658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年
ホケノ山古墳(225〜250年)楽浪鏡・壺型埴輪・石囲い木槨墓(楽浪方面の墳墓)
桜井茶臼山 最初の△鏡の副葬墓。
ホケノ山を崇神天皇即位元年あたりで説明する必要がある。しかし、考古学は
2世紀末に各地の土器が纏向に持ち込まれたとする。そして
ホケノ山と箸墓(260±10年)の中間に庄内式土器が九州に持ち込まれる。
658−421=237年 この計算値は、考古学も文献も関係しない無意味な数字である。
- 78 :
- ホケノは箟被のついた銅鏃が出てる。
これを4世紀に二次埋葬したという解釈を合理的と考えるかどうか。
他にもたくさん出ている小型丸底土器も布留1。
発掘担当者の関川もホケノは4世紀説。
- 79 :
- 卑弥呼が死に、しばらくは男王たちの共存か卑弥呼がわりの王を建てたが
うまくいかなかった。
で、とよの擁立と相成った。
うまくいかなかった理由はなんだろう?
また最初から、とよを擁立しなかった理由はなんだろう?
- 80 :
- たいしたことないのにえらそおにふるまいたがりのがおったのさ
女の王さまがふつうのところ空気嫁ないのがでしゃばって男王に自薦したんだろさね
- 81 :
- とよちゃんちっちゃかったから
- 82 :
- http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku277.htm より
ホケノ山古墳のある纏向には垂仁天皇の纏向の珠城の宮や、景行天皇の纏向の日代の宮が
あり、この地域に都があったころ纏向遺跡も作られたと考えれば、垂仁・景行天皇の時代
(4世紀後半)にホケノ山古墳が作られたことと整合する。
考古学と文献が合致しなければ、正しいと言えない
上記の主張であれば、崇神は3世紀末になるが、3世紀半ば以降半島は、魏・晋が管理する。
だから、この時代に、崇神世の任那建国が設定できない。
ホケノ山は、初期の埴輪、埴輪発生期の墳墓である。埴輪は、垂仁末からになる。
魏志、邪馬台国官伊支馬 伊支馬はイクメと読み、垂仁とすれば、垂仁は239年崩御であり、
ホケノ山に埋葬される。このホケノ山に田道間守の殉葬墓は付加される。
ホケノ山は、任那建国から1世代の時空がある。
238年に魏使は狗邪韓国を訪れる。当然大和の情報も手に入れている。
239年 共立卑弥呼の朝貢、この時点で女王卑弥呼は認められている。その翌年
240年 カテイ等は邪馬台国を訪れ、その王に倭王位を認める。
倭王位を認められたのは、景行からとなり、景行が倭国を統一する。
箸墓(260±10年)は最初の大王墓。
垂仁・景行天皇を4世紀後半に設定する文献が存在しない。この設定は、七支刀=369年でもない。
つまり、設定にその基準が認められない。
- 83 :
- 気候と社会の共振現象 年輪降水量。
http://w3serv.nagoya-u.ac.jp/envgcoe/images/events/seminar/fyh21/others/20100309/ppt/lecturer/nakatsuka.pdf
日本の歴史を、年輪降水量に合わせると。
西暦20年代 唐古、鍵の環濠を埋める洪水(降雨)。考古学:弥生中期後葉。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。
降水量が多い時期が続く=異常気象である。
年輪降水量グラフは、年輪年代法に基づく。
日本に於いても、183〜193年頃は寒冷期である。
新羅 192年 4月大雪。(後漢 193年 6月寒風冬の如し。)
新羅 193年 6月倭人飢餓の為渡来する。=弥生後期末の出来事である。
新羅 209年 伽耶に援軍。三国遺事 加羅 541年 建国330年で新羅に身を寄せる。
唐古、鍵遺跡や近江伊勢遺跡など各地の遺跡が衰退する。=居住地の放棄。
青谷上寺地遺跡の人骨は食人を表す。
2世紀末 纒向遺跡に各地の土器が集まる。
この出来事を書紀に当てはめると
崇神5年 民の疫病=餓えの病、餓死。民の疫病は朝廷に及ばない、ただ困惑させる。
崇神6年 民の離散。逃散は「餓え」でのみ説明出来、疫病では説明出来ない。
同12年の記事 寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。
(高句麗本紀 256年 九年 十二月 無雪 大疫。この“大疫”は飢饉である。)
考古学:唐古、鍵の住民は居を山辺に移す。
崇神11年 四道将軍の派遣の結果として、異俗多帰。地方の民を連れ帰る=考古学:2世紀末各地の土器。
崇神58年 新羅209年ころ
崇神5年=新羅192年・崇神58年≒新羅209年。崇神世は西暦187〜220年の域を出ない。
- 84 :
- >1年のながさをごまかすと、百済王家の説明が出来ない
半島文献を基点とすれば、120年の大揺れで編年の真は壊滅する。
120年のこんな年代差がある半島文献を中心において年代をああだこうだ
言っても、その悪魔のささやきには動じない。半島文献はこのため参考に
しかなえめらず、この大揺れのため半島文献のほうは合わないのは別に
不合理にはならない。w
具体的に言えず抽象的書きこみで実際には〜
1年の日数も主張できない宿主空年であるから、“空白年”には四季が0順する場合となる。
そうした場合、編年は、若い年代から積み上げただけのものである。
永元元年=499年でつまずいているから、顕宗までもたどり着けていない。
- 85 :
- >また最初から、とよを擁立しなかった理由はなんだろう?
とよ=壹與=五百野姫13才
五百野姫は、240年景行元年生まれと思われる。
卑弥呼が共立された239年には生まれていない。
- 86 :
- >>84 訂正
× 参考にしかなえめらず
○ 参考にしかならず
書紀は1年の長さを、“朔”と季節を後つけで主張している。
ここに、宿主空年の入る余地は無い。
書紀の主張を認めつつ、書紀の編年を正常な長さにするためには空白年の差し込みが有効でない。
この空年は>>73>>74で誤魔化しが効かない。全然空年がないのだ。wwwww
- 87 :
- 崇神即位=188年 この計算値は、考古学も文献も関係しない無意味な数字である。
なぜか? 宿主は説明したことがいまのいままで1度もなく出来ない。
魏志、邪馬台国官伊支馬 伊支馬はイクメと読めず、垂仁とならず、垂仁は239年崩御でない。
239年鏡の多出する事由が説明できず、ウインドウズ95使用が1995年でなく2045年だとかいうよう
な○ンマな編年である。ww なお官は絶対天皇にはなれず、インチキは軽く露呈している。
- 88 :
- 壹與≠五百野姫13才
邪馬台国では「臺」の字とつかい、ここでは「壹」の字を使っており、
インチキ勝手な恣意的メチャクチャである。つまりデタラメそのもの。
- 89 :
- >邪馬台国では「臺」の字とつかい、ここでは「壹」の字を使っており、
邪馬台=ヤマトでは「臺」の字とつかい、壹與=五百野姫では「壹」の字を使っており、読みが違う。
>崇神即位=188年 この計算値は、考古学も文献も関係しない無意味な数字である。
崇神5年=新羅192年であれば、崇神即位は187年。
計算値と言うほどのものではない。
>邪馬台国官伊支馬 伊支馬はイクメと読めず、
238年時点の楽浪方面の発声を漢字に変換したとすれば、この程度はその許容範囲、範疇に入る。
- 90 :
- >邪馬台=ヤマトでは「臺」の字とつかい、壹與=五百野姫では「壹」の字を使っており、読みが違う。
それが恣意的だということよ。いずれか一方しか使えない。これを好き勝手に字を選択してたということであり、
デタラメ・メチャクチャ論そのものだ。ppp
崇神5年=新羅192年でないから、崇神即位は187年でない。
>邪馬台国官伊支馬 伊支馬はイクメと読めず、
>238年時点の楽浪方面の発声を漢字に変換したとすれば、この程度はその許容範囲、範疇に入る。
まったく許容はされない。官はわが神州では絶対に天皇にはなれない。
つまり朝敵が言い出すデタラメだ。
- 91 :
- >書紀は1年の長さを、“朔”と季節を後つけで主張している。
その文献は?
無いんだろ。
書紀の太陰暦には、計算値でも正しい朔でもできない小さなユラギがある。
計算値や19年7潤の積み重ねであれば、後付はできるが、この小さなユラギを再現せねば
日本書紀の太陰暦にならない。
だから、後付が出来ないんだ。
- 92 :
- 崇神5年≠新羅192年・崇神58年≠新羅209年。崇神世は西暦187〜220年の域を出る。
- 93 :
- 道鏡さんとかなんかは可能性とか絶無ではなかったんだよな
8世紀になっても皇位継承のルールとかてきとおでふらふらだったんだよね
- 94 :
- 西暦 年号元旦朔 増し(章)調整(日) 暦日 朔干支 中国朔
42年 神武元年庚辰朔 3章1日 0日 辛卯 辛卯 東漢光武帝建武18年 西元42年2月9日
64年 綏靖元年壬申朔 1章1日 8033日 甲申 甲申
78年 安寧元年庚申朔 13142日 癸巳 癸巳
83年? 懿徳元年己卯朔 3章0日 安寧と同じ暦
94年 孝昭元年丙戌朔 3章0日 18988日 己未 己未
120年 孝安元年乙酉朔 4章2日 28467日 戊午 戊子 ☆
146年 孝霊元年壬辰朔 3章1日 37976日 丁亥 丁亥
165年 孝元元年辛未朔 2章1日 44916日 丁卯 丁卯
184年 開化元年庚午朔 3章0日 51856日 丁未 丁未
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 52948日 己未 己未 開化と同じ暦、調整前
217年 垂仁元年丁丑朔 4章1日 63904日 乙未 乙未
240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日 辛亥 辛亥 ☆
262年 成務元年甲申朔 3章1日 80352日 癸卯 癸卯
266年 仲哀元年庚寅朔 0章0日 81799日 庚戌 庚辰 成務と同じ暦の可能性が有る
275年 神功元年丁酉朔 85106日 丁巳 戊午 ☆
313年 神功39年丁巳朔 太歳 98986日 丁丑 丁丑
313年 仁徳元年丁丑朔 98986日 丁丑 丁丑 ここより中国の暦とほぼ同等
400年 履中元年壬子朔 130761日 壬子 壬子 ここより中国の暦と同等?
「増し」は、4章(6940日×4)に付き1日(調整)を減ずる。合計33章−9日の増し
神功39年太歳の年を、仁徳元年とする。
書紀の暦日から、使われたであろう日数を中国の暦と同期させた。
書紀の主張“正朔”は正しい。これは古記の主張する閏を使用し、
仲哀9年を章の最後の年とする。
2重暦であれば、上記の如きユラギが朔に生じる。
このユラギまでをも一つの計算式でははじき出せない。
だから、後付は否定される。
- 95 :
- その文献は?
在るんだよ。一例でいいのは臭魔電だ。
これには四季がついてない年月日冒頭文がうんとある。書紀は四季がその
殆どについてるんだから、臭魔電が書紀の原典ならば書紀が臭魔電の四季の
ついてない文に季語をつけて書紀を完成させたのさ。ww
つまり〜
立派に文献で後つけだと分かる。かように朝廷の書庫の書紀の原文に
なった原書群には四季が全部ついてるわけがなく、ついてない書がうんと
あったのさ。書紀はほとんど四季がついてるんだから、後つけだ。ww
>計算値や19年7潤の積み重ねであれば、後付はできるが
19年7潤がどうのこうの言っても、これくらいで全編年が出来ると思
ったら大アマだ。そんなんで出来るなら、とうの昔に誰か編年を完成して
おる。暦は途中に暦法の変更を行った時代がかなりあるので、その単純さ
では到底到達できない。出来るは浅薄脳男のすること。pp
そうだろう、1円玉数えも○ンマな遊びでは・・・ハハハッ・・・www
シヌまで真の年代の策定は到底できない。
zzzzz・・・・・
- 96 :
- zzzzzzzzz・・・・・×
>>94の編年は妖魔の毒書 秀魔電 に染めたインチキ創作であ〜る。
>現在の考古学年代を信じるんだな?←宿主は現在の考古学年代を信ぜず。
大中臣の下命
古代からの真の年代を計測する贈り物たる天下の宝器。これが天津神算木
(天津金木)である。天津祝詞の太祝詞事には大中臣からのニセ編年壊滅
せよとの下命がある。天津神算木の文がそれだ。
天津神算木(天津金木)とは三輪山の山名たる三輪(半径r=3の円)の
球化の 体積=表面積 の数式をいう。崇神紀には三輪山の話がある。
天津神算木:表面積(右辺の 」 は先頭から20桁目の区切り **はベキ)
Cπr**A=@13.09733552923255EDG」46・・・
右辺先頭あたりに 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけ年代)がある。
大祓祝詞に曰く 「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」
太祝詞事は二十(フト)祝詞事であり、右辺を20桁での区切りを示唆。
20桁目にかかっての三数は 658 だが、等号にまたいで左辺先頭から三数
の 421 を得る。(文字数は除く) つまり天津金木の両端数である。
○数字〜
658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年
の実年代を得る。これに外れる編年は完全なデタラメである。。
本物は天津金木だ。 当然 崇神即位年≠188年
zzzzzz・・・・・
- 97 :
- >崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年
崇神5,6年の百姓猛災は?
崇神11年の異俗多帰は?
崇神世の任那建国は?
これらすべてが存在しない年代である。
だから、魏使は、238年に倭奴國に朝貢を促す。
239年にそれに応えるかたちで、卑弥呼共立と朝貢。
240年 カテイ等が邪馬台国を訪れる。
- 98 :
- 瀆盧國についてはこういう情報もある。
密記注曰:蓋馬國,一云熊心國,在北蓋馬大嶺之北,距勾茶國二百里。
勾茶國,舊稱瀆盧國,在北蓋馬大嶺之西。
月漬國,在其北五百里。稷臼多國,或稱賣句餘國,舊在五難河,後爲瀆盧國所破,遂移于金山居之。
勾茶國,本艾、蒜所産也,艾煎服以治冷,蒜燒食以治魔也。
北蓋馬大嶺というのはどこか知らないが、長白山脈だとすると、その西にあったのだ。
かなり古い時代からあった由緒ある国だと思われる。
倭人伝の瀆盧國も、われわれは弁辰の中の一国としか捉えていないが、
かなりの大国だった可能性がある。
ちなみに熊心國というのは今のハルピンあたりにあったのだ。
五難河とはどこかまだ調べていないが、こういうのをコツコツ調べるのが学問の醍醐味である。
- 99 :
- 一部訂正
熊心山は今の舒蘭(吉林の北、ハルピンの南)とあるから、
熊心國もそのあたりだと思われる。
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