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2012年6月鉄道懐かし297: 【歴史の】70系客車【生き証人】 (206)
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【歴史の】70系客車【生き証人】
- 1 :09/11/02 〜 最終レス :12/05/05
- 400両に満たない小さなグループながら客車、電車、17m車、20m車、3軸車
と多彩なルーツを持っています。
早々に荷物車などに改造され晩年は救援車として後輩たちの活躍を見守って
いました。
なんと言っても資料が少ないのが残念です。
スエ7815が解体され現存するのは小樽のスエ785のみ。
そんな70系客車を語りましょう。
- 2 :
- オハ時代に乗車したことある人いるのかなぁ
ご存命でもかなりお年を召しているはず…
オハユニ71なら昭和40年代の始めまで水戸線にいたから乗車した人がいるかも
- 3 :
- スエ78なら乗った人いるんじゃないの?
JRになってからEF55と旧客でイベント列車につながれることもよくあったし
- 4 :
- ガキの頃新鶴見操車場に置いてあった、モニタールーフ・3軸ボギーの
救援車の番号覚えてないorz
- 5 :
- >>4
スエ78は復旧された際、丸屋根か折妻にされたので、モニター屋根で3軸ボギーということは
たぶんスエ38ではないでしょうか?
- 6 :
- >>5
これはどうも失礼しました…
- 7 :
- このスレは戦災復旧客車スレでも良いの?
- 8 :
- クハ55そのまま復旧もあったよね
- 9 :
- >>8
スヤ71もクハ55を復旧した車輌ですね。
- 10 :
- オハ71の500番台が500から付番されていたり、電車復旧のスニ71 18が最初はマニ77 5だったりと突っ込み所ありすぎ
- 11 :
- wikiにスニ71 18はマニ77 5を(改造して)編入したので、他の車両に比べて心皿間の距離が短いって記述があるけど、
単に番号をマニ77をスニ71に変更しただけならおかしいと思うのだが…
- 12 :
- 所詮はwikiだしな
- 13 :
- スニ73とマニ76がまだ洞爺丸と一緒に海に沈んでいるんじゃないの?
- 14 :
- あぼーん
- 15 :
- 昔、グリーンマックスのカタログに70系客車のネタが載っていたな…。
何号だか忘れたが…。
- 16 :
- >>13
洞爺丸と他の台風で沈んだ連絡船はみんな引き揚げられたんじゃなかったっけ?
- 17 :
- ピクで特集されるかRMライブラリーで取り上げられるのかのどっちが先か…
個人的には巻頭のカラーグラフがある以上ピクは厳しいのではないかと。救援車の写真ばかりだとね…
戦災復旧車は20年くらい前の鉄道史料に連載記事があったはず。
ただ誰にでも手に入るものではないからねぇ。
JTBキャンブックスの国鉄鋼製客車1・2は全形式の形式写真もあって、基礎的な知識は充分得られるが、
解説文が某サイトを丸写ししたような内容なので残念。
電車復旧の荷物車は昔のピクに載った記事がアーカイブスセレクション16にもあるのでこれも入手しやすいかもね。
- 18 :
- キハ41000、キハ42000にも戦災廃車になったのがいるから戦災復旧されてれば面白いかも
- 19 :
- >>18
実際戦災廃車になったキハ42000がそのままの姿で救援車になってた
- 20 :
- >>19
ナエ2703ですね
- 21 :
- 戦災に遭っても元のスハ32、オハ35に復帰できた車もいたのにね
- 22 :
- 上ゲ
- 23 :
- 戦災復旧客車が製造されたときは鋼体化の60番台も製造されてなくて50番台も空いていたのに
何で70番台にされたのかな?
- 24 :
- >>23
鋼体化(オハ60)は着工していないだけで設計は
済んでいたのではなかろうか
実際に電車は戦時中も鋼体化クハ79が出場したし
- 25 :
- >>21
少数だけどそんな車もいたね。
ただし、新製扱いなので番号は新たに付けられたけど。
- 26 :
- >>23
50代も43系特ロに宛てられる予定で既に確保されていたのかも知れないな。
- 27 :
- >>23
オハ70、71の第一陣が落成したのが1946年の終わり頃。
鋼体化が始まったのが1949年で、スハ43系が製造されたのが1950年。
戦災復旧客車が登場したのは戦後の車輌不足を打開する為に応急的に復旧させたものだから
戦後の混乱が納まれば制式客車が製造されることも考えて十分に数字空けて70番台にしたんじゃないかな。
- 28 :
- 状態のいい客車は占領軍に接収されちゃうし、木造客車は老朽化が進んでたしね
社会の教科書で貨車に乗り込んで買い出しにいく人たちの写真が乗っていたのを思い出した
せっかく復旧されてもまともに座席もないような車輌だったからあくまで急場をしのぐための車だったのかな
- 29 :
- >>25
オハ35やスハ32の新製扱いで復旧したのと戦災復旧客車で復旧された差って何なんですかね。
スハ32には折妻になっていたのもいたし。
どうせなら窓も1m幅にすればいいのに。
- 30 :
- >>29
おそらくは「予算の関係」。
被害程度も絡んでくるのかもしれない。
復旧に際して、「廃車の復活」では予算がかかりすぎるので、「新製車」として処理したんだろうね。
実例の一つが オハ35 82→694
70系の場合は、戦災車の「復旧」と言うよりは、「廃資材の活用」なので、予算の意味が違ってくるのかな?
- 31 :
- >>30
ご指摘の通りかもしれませんね。
廃車になった車輌を一つ一つ元の車輌に修復するのにも莫大な費用が掛かるだろうし、比較的被害が軽微なものを
復旧する際に新製扱いにしたんでしょうかね。
スユニ72 32は1段広窓でしたね。オハ時代も1段窓だったのかな?
状態がよければこの車もオハ35で復旧してあげればよかったのに。
- 32 :
- >>17
完結1つ前の鉄道データファイル299号は戦災復旧客車載るよ。
悪評高い出顎だからどんな風に解説されるか楽しみだがなwww
- 33 :
- 戦災で廃車になって復活したのに台風で海に沈むなんてどこまでもついてないな
- 34 :
- http://cu1.web.infoseek.co.jp/200911.jpg
http://cu1.web.infoseek.co.jp/200801.jpg
http://cu1.web.infoseek.co.jp/200711.jpg
http://cu1.web.infoseek.co.jp/200709.jpg
http://cu1.web.infoseek.co.jp/200611.jpg
- 35 :
- 戦災復旧客車と言えば東洋レーヨン
- 36 :
- 日本海船渠モナ
- 37 :
- マニ72 5はマニ72の中で唯一TR13を履いていたが、これはゲルリッツ台車を履いていたスハ32 479がマニ72 5のTR23を履き
マニ72 5は廃車となったスニ30 15のTR13を履いた為。
スニ30は替わりにゲルリッツ台車を履いて解体される工場に向かった。
- 38 :
- ゲルリッツ台車が後にTR23に交換されてことは知っていましたが、
そのような経緯があったのですか
そういえばマニ60をマニ61にする時、スハ32の台車を交換して
オハ56、オハフ35が誕生したけど、あれは70系のTR23でもよかった
ような気もします。
70系はTR11履いた車もいたことだし。
- 39 :
- オハ70とオハ71とオハ77の欠番はいつ埋められるのですか?
- 40 :
- 食堂車って戦災復旧客車の連載してるのか。
部外者にも販売してくれないかな…
- 41 :
- >>38
あれはスハ32をTR11にすることでオ級に収めるという理由があったから
- 42 :
- >>40
グランデでも売ってないか…
- 43 :
- 友の会の会報は一般の書店で置いてるとこもあるみたいだけど、
研究会の会報となるとなさそうですね。
- 44 :
- スエ78は惜しかったね
本線走行できないまでも鉄博か横川で保存して欲しかった
- 45 :
- 確かにもったいなかったですね。
何でもかんでも保存しろとは言わないけど、戦時下改造・戦災復旧と
身をもって戦中戦後の動乱を経験してきた車両。
こういうのこそ後世に残す意義はあると思うんだけどな。
- 46 :
- 保存できないほど状態悪かったのか?
オハ31なんてぶった切って搬入したのに
全部は無理だったとしてもせめて台車だけとかね…
- 47 :
- >>41
なるほど、そのような狙いもあったんですね。
しかしスハ32自体が車齢も高いこともあってか結構短命でしたね。
中には台車だけ供出してすぐに廃車になったのもいたようで。
- 48 :
- >>46
台枠が逝ってたんだっけ?
- 49 :
- 小樽のスエ78も状態良くないみたいだね
貴重な車両だし後世まで残してほしいが…
- 50 :
- >>78
スエ78は旧客の運転がしばらく中断して、他の保存車両と共に錆だらけに
なって放置されてたんだよね。調べたら台枠が逝ってしまっていて、車体が
傾くほどフレームもガタガタだったと聞いたけど・・・。
こりゃ駄目だって事で除籍されて、放置の後解体。既に鉄博に
入れる車も決まってた後だから、どうにもできなかったんじゃないかね。
走らせるのも危険だったのかも。他の旧客は全て復帰できたが、やはり
戦災復旧車、車齢、救援車時代にも放置でガタガタだったんだろうな・・・
残念なことした。
- 51 :
- 現存する唯一の70系客車のスエ78も場所柄か状態がよくないみたいだね。
貴重な車両だけに後世まで残してほしいが…
- 52 :
- 空襲の他に、機銃掃射で被災した客車も含まれてますか?
12.7mm機銃だと、台枠が曲がってしまったり穴が空く。
- 53 :
- >>51
小樽のスエ785か?
- 54 :
- 保守
- 55 :
- 電車復旧車は元の番号が詳しくわかっているケースが多いけど、客車復旧車は少ないね
- 56 :
-
- 57 :
- >>50
オハニ36とかやはり全く使われずにスエ以上にボロボロだったナハフ10共々だったね。
最後は吾妻線の砕石場がある引き込み線に放置プレー。
オハニ36がサルベージされた以外はあぼーんだった。
- 58 :
- >>57
あの時代にナハフ10って残ってたんだっけ?ナハフ11なら横川へ
行ったけど。高崎周辺で放置の上解体されたので確認したのは、
マヤ41(元マイネ41)、オハフ61、スエ78だったかと。
余りの旅客車4両は北海道へ引き取られ、
オハニやスハフ32は博物館視野で、あとは全車廃車の危機だった。
よく助かったよ。
- 59 :
- >>55
電車はほとんどが東京、大阪の都市近郊で運用されていたから被災場所、理由が明確になってる。
客車は全国に跨がって運転されているから、被災した形式や両数のみの場合が多い。
まぁ電車にしても同じ場所で多数の被災車が出たり、判別できないほどの損焼してたりするから
推定の域をでない場合もあるけどね。
- 60 :
- 電車復旧で、車体も流用は何両くらいあったのでしょうか。
オハフ71 1や71 2は車体流用のようで、他にもあるようですが全体的には少数のようです。
- 61 :
- >>60
電車復旧の客車についてはピクのアーカイブスセレクション16に詳しい記事がありますね。
半流の生き残りがボロボロの木造客車とともに牽かれていく姿を想像するだけで
胸が熱くなるな。
- 62 :
- 東京モノレールのそばでハゼ釣ってるといつも近くで一人ぽつーん
と竿上下に動かしてボラ釣りしてるおっちゃんがいた。ある時40センチくらい
のボラを上げたので走って見に行った。おっちゃんは片腕が無かった。
話すと優しい感じなんだけど漂う人生終わった感と孤独感。どうも片腕は
戦争で無くしたらしい。
東京の下町の風呂なし安アパートで夜になるとひっそりと銭湯に行く婆さんが
いる。訳アリなぽつーんとした雰囲気。どうしてあの年で一人暮らしであんな
アパートに住んでる?巡り巡って来た話だけれどこの辺は戦後いわゆるパンパン
やってて脳梅毒からも生き残った女性がその後身寄りもなくひっそり一人で
住んでる、そんな人達がいるらしい。
日比谷線下りに乗っていると南千住あたりで隅田川の操車場が見える。手前で
ポツーんと佇んでいるオエ78だかスエ78だかの救援車と書いてあるぼろい客車。
夕方などはどこかの照明を反射して外板のボコボコが一層目立った。
戦災復旧車ということは知っていた。戦災って言っても30何年も昔のことでだから
何なんだ?と、ゴミのような車両でもあったからまったく興味の対象にならなかった。
今考えてみれば80年代はそんな戦争の名残が思いもしないところで見られたものだったんだな。
- 63 :
- >>62
隅田川に3軸ボギーがいたかなぁ?
北スミの救援車はスエ71 28とオエ61なので、元はマニ74。
話は違うが、マニ74は改造時1輌しかTR13(または11)付きは無かったのに、
救援車に改造した際多数のTR11付きが発生した。
TR23を供出させられたのだろうな。相手は何だろう?
- 64 :
- 状態の悪い初期TR23の置換用予備じゃね?
TR23って緩むらしいし
- 65 :
- >>64
オハ47、スロ62、オハ64等へ改造用の台車振替もあるしね。
- 66 :
- オハ47はオハネ17改造時に種車から貰ってるし、スロ62はTR52でしょ
- 67 :
- ちょっとスレ違いですが・・・
信じていいのかわかりませんが
wikiのオハ47の記載(脚注6)に興味深いことが書かれています
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%84%E3%82%B9%E3%83%8F43%E7%B3%BB%E5%AE%A2%E8%BB%8A
- 68 :
- >>66
×スロ62
○スロ54
間違えた。オハネ17改造時のTR23は二重屋根車などの初期車が多かったので
状態によっては必ずしも種車からもらってないようだけど。
台車ってどっかで入れ替わったりするんだよね。
オハ35が何故かスハ32初期型の履いてたりしたし。
>>67
そうそう、実際帳簿上と中身が違ってたりとか普通にあった時代だしね。
- 69 :
- >>68
タネ車がそもそも3軸台車装備車で流用不可ってのも多かったらしい。
- 70 :
- オハ35でも当初TR11で落成した車もあったようだし、その辺とも振り替えたのかな?
この板では客車に特化したスレって少ないんだね、過去にあった10系スレ、今生きているスレだと
ここと20系スレ、JTスレしかなかった。
- 71 :
- スヤ71
- 72 :
- スユ72
- 73 :
- スニ73
- 74 :
- マニ74
- 75 :
- 珍車スニ75 151
オハ31の復旧車だが、オハ71 500と共に客車初の4ドア車。
- 76 :
- マニ76
- 77 :
- マニ77 5
電車復旧車でのちにマニ71 18に改番されているが、単に誤付番による
改番だったのか、それとも他の理由があったのか…
- 78 :
- スエ78
- 79 :
- クハ79
- 80 :
- >>77
台車振替なんて可能性はないのかな
- 81 :
- キハ81
- 82 :
- >>80
一応台車振り替えというのが定説になっているはず。
ボギーセンター位置がwikipediaの言うように違うのかどうか
イマイチ鮮明な写真が発表されておらず、
判定できないのだが、
そもそもクハ55だった車輌に、3軸ボギーを付けられたのか?
という疑問は残るね。
- 83 :
- >>82
鉄道博物館行けばTR73は単体でじっくり観察できるけど
同様のTR23がないから互換性があったかどうかの判断ができないorz
台枠が干渉する、とか無ければ
心皿の寸法形状と位置が適切であればブレーキなんかどうにでもなりそうだし
- 84 :
- 当時のAVブレーキは各車シリンダ1個のロッド連動だから、ロッドは現物合わせにすればいいしな
- 85 :
- ロクサンからの復旧車
ttp://cu1.web.infoseek.co.jp/yuni/2607.JPG
尾灯の位置はナニゆえこんなトコなの?
- 86 :
- >>85
戦災復旧車に限らず60系客車にも尾灯の位置が高い車輌が存在していたそうです
- 87 :
- >>85
基本的に電車からの復旧車に限られる特徴ですな。
例えば妻板裏面の補強の入り方など、もともと客車のものと異なっており、
通常位置にすると支障する何かがあったのだろうか?
- 88 :
- >>87
自己レス。
考えてみると、妻板流用とは限らないよねorz
すると、60系初期車ともども、
何かの実験だったのかなぁ?
- 89 :
- >>85-88
昭和22年の運転取扱心得の改訂によって従来1灯掲示だった標識灯を2灯掲示することが義務づけられて、
人員及び保守が増大する為に標識灯埋込固定化が検討されました。
標識灯の埋め込み位置は当初の規定では後方監視窓のある車輌は床板面から380mm、無い車輌は1000mm
とされていました。
この規定は昭和25年末の改訂にて380mmへ統一されています。
よって、標識灯位置の高い車輌は昭和25年末より前に製造(改造)されたものが該当します。
その後の改造で380mmに改められた車輌もありますが、1000mmのままだった車輌がありました。
出典:車輌史編さん会 オハ61形の一族上巻
話しは変わりますが、トラス棒のついた車輌がありましたな。
しかも昭和40年初めまで現役で居たという。
- 90 :
- マニ77 5って実際に台車振り替えしてマニ71になってたの?
いくら情報の少ない時代とはいえ3軸台車の電車復旧車がいたら
写真が一枚くらい残っててもよさそうだが
- 91 :
- 三軸ボギーから二軸ボギーへの振替したとして
心皿位置は一緒だっけ?
台枠との干渉とかは三軸→二軸なら特に問題はなさそうだけど
台車中心間距離が変わるとさすがに問題でしょう
- 92 :
- マニ71 2018については実際に見た人が少ないから困るねw
元々はクハ55なのだから、当然TR23が原形だし、
車体形状からして台枠枕バリはいじっていないので、
台車中心位置はTR23に合わせてあるはず。
スハ32系のUF21台枠は、2軸・3軸ボギー両用の設計で、
中心ピン位置を3軸の場合は350ミリ車体中央寄りに移す設計。
仮に実際マニ71 2018が3軸ボギーを履いた時期があるとすれば、
台車全体が350ミリ程度外側にはみ出したはず。
ということでサハ48のデータになるけれど、
車体端面から台車中心ピン位置の距離は2800ミリ。
TR73台車の軸距離は1740+1740ミリ。TR23は1225ミリ+1225ミリ。
するとその差は515ミリもある。
もしクハ55の台枠で実際に3軸ボギーを付けたとすると、
車体端面から1060ミリの位置に第1軸の中心が来る。
ブレーキシューや台車端バリなどは、正確な寸法はわからないとしても、
写真や図面などから判断するに軸中心より800ミリ近く外に出る。
すると車体端面からわずか20センチちょっとのところにもうブレーキシューの
端が来るわけで、台車端バリと連結器緩衝器が干渉しそう。
台車か台枠に特殊な改造が施されていて、その不具合が後年の台車振り替えにつながったのだろうか。
- 93 :
- >>90
マニ71 18と電暖取付後のマニ71 2018の写真ならとれいんの連載に載ってた
どちらもTR23履いている
- 94 :
- >>92
となるとやはり単純に付番間違いだったんだろうね
- 95 :
- >>93
とれいん誌の画像は、92を書いてから見てみた。
見方によっては、TR23台車が内側よりに付いているようにも見えるね。
ドアとの関係でそのようにも見える。
wikipediaの記述は正しいのか?
仮に心皿の位置を改造して、一度は3軸ボギーを付けたとするなら、
つじつまが合わないこともない。
>>94
その可能性も否定できないよね。
例えばあの時代、オハ70 43(オハ31復旧の4ドアの客車)は、
出場直後の写真には、検査表記22-12三井造船となっているそうな。
それに対して実際の車籍編入は23-6。すると半年も「無車籍」で走っていたことに。
こういう書類の不備はオハ35の新製車にもあったようだから、
間違った付番がその後発見されて、名目上台車振り替えということにして
処理した可能性も。
真横の写真があれば一発なんだけどねぇ〜。
- 96 :
- 客車だけじゃなく戦災復旧“貨車”なんてのもいたらしいな
まぁ資料も少ないだろうし全容が明らかになることもないだろうが
- 97 :
- >>96
ある程度は吉岡心平氏が、
書籍とHPの両方で解説しているが。
戦災復旧タンク車などが有名だね。
東洋レーヨン・車輌部という銘板は貨車用だとか。
- 98 :
- 鋼製雑客車には木造客車の台枠を利用したチホニ1900なんてのがいたけど、
あれも広義の戦災復旧車と言えるかもしれないね
- 99 :
- 西武の電車にオハ31かナハ22000改造した車いたよね。
あれは廃車の譲渡?
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