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【孫氏】中国古典兵書研究スレ【六韜】


1 :08/03/31 〜 最終レス :12/05/31
戦史を紐解きながら兵書を研究するスレです

2 :
おや >>2か

3 :
惨状!いたたキチガイ。

4 :
         ,,-――-ヘ    敗 戦 記 念 ♪
       . /./~ ̄ ̄ヽ ミ http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d4/Macarthur_hirohito.jpg
        | |    . | |  マッカーサー元帥の下に呼び出され、戦犯ヒロヒト記念撮影
        | |━- -━| |  http://en.wikipedia.org/wiki/Hirohito
 General . |/=・=| =・=ヽ|
        (6|   |__i . |9)        / ̄ ̄~ ̄\
. MacArthur |   ._,  |         /./ ̄ ̄ ̄\ |
         \_____丿        |┏━  .━┓|
      ,--―|\   /|¬―、  .   |/‐(◎)-(◎)‐|.|
    /   .|/~\/\|    \  (6|    |_」  . |9)
   /    __ /・  __|   |   丶  ━━  /
 /   /| | ・ | |・  | ・  |   |    \ ' ̄~ /
<   .<  |  ̄ ̄ |・   ̄ ̄~| . )   /| ̄ ̄ ̄|\
. \  \ .|___|・____/  /  /\| ̄▼ ̄|/\
  .\  \|____回___|  /  /   |\▲/|   ヽ
   . \ /          \/  /.戦犯 |  ▼  | ヒロヒト |
      /            | . |      ̄~|~ ̄      |
      |      i      | . |  |    | o  . |   |
      |      |      |  |  |   . | o     |   |
      |      |      |  |  |  .  ∧    |   |
    .  |     ||    .  |  |___|   / ヽ .  |___|
    .  |     ||      |   | |   /  | .\   ||
       |    . | |     |.  .巛|u  /. / |  ヽ  u|》》
     . |    | |     |      |/  /  |   \|
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     .  |    | . |   . |      |   |  |    |
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       (  )   (   )       (_丿  ヽ_)
        `ー"    `ー"

5 :
┌──────────────────┐
│                              │
│    しばらく空腹のまま お待ち下さい。 .... │
│                 ノ⌒ヽ          │
│             (( (  ○ ), ))       │
│      (⌒⌒)       ヽ__メ´           │
│       |__|   _____ 彡"         │
│       (・ω・)ノ━ヽ___ノ'''゙ ッパ      │
│       ノ/ :/                     │
│       ノ ̄ゝ                    │
│        Now Cooking ...        │
└──────────────────┘

6 :
「孫氏」というタイトルからして不安になる。スレ立て主は廟算を軽視する向きがあるようだな。
真面目な話はできそうに無いな。

7 :
孫子 計編
曹操:計は将を選び、敵を量り、地形を判断し、兵卒を考慮し、遠近・険易を廟堂において計ること。
李筌:計は兵の上である。太一遁甲もまず計をもって徳宮に神を加え、主客成敗を断じる。
    故に孫子も兵を論ずるに計を最初に持ってきたのだ。
杜牧:計とは計算すること。何を計算するかといえば、以下の五つ、即ち道・天・地・将・法である。廟堂の上で
    まず彼我のこの五つの優劣を計算し、然る後に勝負が定まる。勝負が定まってから、然る後に動員し
    戦争する。用兵の道はこの五つより先に考えることはない。したがってこの編を最初にしたのだ。
王ル:計とは、主将・天地・法令・兵衆・士卒・賞罰を計ることである。
張預:管氏(管仲?)いわく、「まず国内で計画を定め、しかる後に兵を国外に出す。」故に用兵の道は計が
    最初に来るのだ。こう聞く人もいる。「兵は敵に臨んで上手く運用するのが重要なのに、曹操が廟堂
    での計算を重要視したのは何故か?」将の賢愚・敵の強弱・地の遠近・兵の衆寡について、先に計算
    せずしてどうするか。両軍相臨むに至って、それなりの変化はありうる。しかし、現場で将軍が処置
    できることには限りがあるのだ。

8 :
孫子曰く、兵は国の大事
杜牧:左伝にいわく、「国の大事は祭祀と軍事である。」
張預:国の安危は兵に在り。故に武を講じ兵を練成することが、実に先務である。
死生の地、存亡の道、察せざるべからず。
李筌:兵は凶器であるが、死生存亡はこれにかかっている。したがってこれを重んじ、
    人が軽々しく使うのを恐れるのだ。
杜牧:国の存亡、人の死生、皆兵による。故に考慮しなければならない。
賈林:地とは、場所のことであり、また陣地を作り、行軍し、戦闘する地域である。その
    利を得れば生き、その便を失えば死す。故に「死生の地」という。道とは運用により
    勝利を得る道である。これを得れば存し、これを失えば亡ぶ。故に察せざるべから
    ざるなり。書経にいわく、「存する道にあるものは、これが堅固になるのを助け、
    亡ぶ道にあるものは、これの滅亡を助ける。」
梅堯臣:地には死生の勢いがあり、戦いには存亡の道がある。
王ル:軍事には、死生存亡が関わっている。
張預:民の死生は我に兆し、国の存亡は敵にかかっている。死生を地に求め、存亡を道に
    求めるのは、死生は勝負する地域にかかっており、存亡は得失の道によるからだ。
    慎重に考慮せざるを得ないではないか。

9 :
 故にこれを経(はか)るに五事をもってし、これを校(はか)るに計をもってし、その情を索(もと)む。
曹操:この後に述べる五事七計で、彼我の状況を求める。
李筌:この後に出てくる五事のことである。校は量ることで、遠近を量り情報を求め敵に対処する。
杜牧:経とは計ることである。五とは、このあとの所謂五事である。校は量ることである。計とは
    最初に出てきた計算のことである。索は捜索することである。情は彼我の情報である。この
    文は、先ず第一に五事の優劣を量り、次に計算の得失を量り、しかる後に初めて彼我の
    勝負の状況を求めることが出来ると述べている。
賈林:彼我の計謀を量り、両軍の情実を求めれば、(両者の)利点欠点が分かり、勝負も判明する。
梅堯臣:五事を量り、計算した利点を明らかにする。
王ル:経とは常態を把握することであり、また経緯の把握でもある。計とは、以下に出てくる七計である。
    索とは、全てを網羅することである。兵の大経は、道天地将法の範囲からはみ出るものではない。
    七計をもって量れば、彼我の勝負の情況を明らかにすることが出来る。
張預:経とは経緯である。上段は五事の優劣を分析し、下段は五事によって彼我の優劣を量り、勝負の
    情況を探索することを述べている。

10 :
一に曰く、道
張預:恩と信で民を使うこと
二に曰く、天
張預:上は天の時に従うこと
三に曰く、地
張預:下は地の利を知ること
四に曰く、将
張預:賢能に委任すること
五に曰く、法
杜牧:これが五事である。
王ル:これが五事を量るということである。用兵の道は人の和を本となす。天の時と
    地の利は、その補助である。この三者が具わって初めて戦争が出来る。
    戦争するためには有能な将が必要であり、有能な将がいて軍規が修まる。
    孫子がこの順番で書いたのは、こういう意味があるからだ。
張預:節制厳明なこと。将と法は五事の中では優先順位が低い。それは戦争の際
    廟堂で先ず恩信の厚薄を察し、次に天の時に従っているかを見て、さらに
    地形の険易を判断し、三者が明らかになってから将を任命して部隊を編成
    するからだ。軍が国外に出てからは、法令は将に一任される。そのために
    この順になる。

11 :
道とは、民をして上と意を同じくせしむるなり。
張預:恩信道義をもって人々を慰撫すれば、三軍は心を一つにし、使われることを楽しむ。
    易経に曰く、「難を犯すをもって悦びとし、民はその死を忘れる。」
故にこれとともに死すべく、これとともに生くべく、危うきを恐れざるなり。
曹操:教令のことを道という。危うきとは、恐れ疑うことである。
李筌:危うきとは、亡ぶことである。道をもって人々を教化すれば、人々は
    自ら変わるものだ。一致団結して運用されるなら、亡ぶことなど
    考えられない。
杜牧:道とは仁義のことである。李斯が荀卿に軍事を聞いたときの返答は、
    「仁義により政治を修めることだ。政治が修まれば民は上に親しみ、
    その君主(の治世)を楽しみ、その維持のために死すら軽んじる。」
    また趙の考成王に対し兵を論じていわく、「百将が心を一つにすれば、
    三軍は協力して力を発揮する。臣下が君主に対し、また下級のものが
    上級者に対するとき、子が父に従い、弟が兄に従うようになる。まるで
    手足が頭部や胸部(のような重要部位)を守るように。」このようになれば
    初めて上下が意識を統一し、死生を共にし、危険や疑念を恐れないよう
    になる。

12 :
(続き)
陳r:杜牧に同じ
孟氏:「人疑わず」とするテキストもある。終始二心を抱かないことである。また「人危うからず」
    とするテキストもある。政令をもって道とし、礼教をもってこれを整えれば、士民を教化し
    心服させることができ、上下心を同じくすることができる。用兵の妙は権術を道となすに
    ある。大道廃れて法があり、法廃れて権があり、権廃れて勢があり、勢廃れて術があり、
    術廃れて数がある。大道は朽ち果て、人情は落ちぶれ、権謀術数でこれを得なければ
    欲するところが得られない。故に権謀術数でも民をして上下同じ方向に向かせ、愛憎を
    共にし、利害を一にする。そうすれば人心は徳に帰り、人の力を得て無私に至る。故に
    百万の衆もその心を一つにし、これと共に死すべく力を動かし、危亡に至らざるなり。
    臣下が君主に対し、下級者が上級者に対し、子が父に従うように、弟が兄に従うように
    手足が頭部や胸部を守るように動くようになる。このようになって、初めて上下意を同じく
    すべく、死生を共にし、危疑を恐れなくなる。
賈林:将は道をもって心となし、人と利を同じくし患いを共にすれば、士卒は服し、自然に心は
    上級者と同じになる。士卒が我を父母のように慕い、敵を仇のように思うには、道に非ざれば
    不可能だ。黄石公いわく、「道を得るものは昌(さか)え、道を失うものは亡ぶ。」
杜佑:これを導くに政令をもってし、これを整えるに礼教をもってすることをいう。危とは疑うこと。
    上級者が仁を施すなら、下級者は命をかけて従うことができる。故に生きるか死ぬかの難局を
    共にし、危険な敗戦も恐れることがない。晋陽の包囲の際、かまどが沈んでカエルが住むように
    なっても、反乱が発生することがなかったように。

13 :
(続き)
梅堯臣:危とは、不安のことである。君主が有道であれば、政教が行われる。人心が同じなら、危険や
     不安は去る。故に君主が安心すれば共に安心し、君主が不安なら同じく不安になる。
王ル:道とは、君主が有道であれば民心を得られる事を言う。民心を得れば死力を尽くさせることができる。
    死力を尽くさせることができれば、患難を乗り切ることができる。易経に曰く、「難を犯すをもって悦びと
    し、民はその死を忘れる。」 このようになれば、危難を恐れる必要があるだろうか?
張預:危とは、疑うことである。士卒は恩に感じ、死生存亡を上と同じくして恐れ疑うことがない。

14 :
中国だけだと過疎落ちするから
欧州の古典も含めた総合スレで建てた方がよかったのでは

15 :
孫子 作戰第二
夫鈍兵挫鋭、屈力殫貨、則諸侯乘其弊而起、雖有智者、不能善其後矣。
訳:(国家が疲弊して)兵力が鈍り鋭気が挫け、国力を失い財政破綻すると、すぐに近くの諸侯が兵を起こして攻め込んでくる。
いかに知恵者が居たとしても、善後策なんぞ立てようもくなってしまう。
・・・この一文だけでも百篇は書き取りさせたい。
誰にって?
つい60年ほど前、常々やばいと言われてた隣国に、戦争終結のための斡旋を依頼したら、
その隣国にこの文そのままの形で攻め込まれたどっかの国の国家指導者達に、だ!

16 :
意外にも良スレの予感…
とりあえず保守!
>>14
それだと大風呂敷に過ぎる気がしない?
中国兵書に限っても十分研究する価値はあるだろうし…。

17 :
中国の兵書だけでも、独立したスレが欲しいところだが
語れる人が少なすぎる
軍板で武経七書などの中国古典兵書の話が出来る人は
クラウゼヴィッツの戦争論やマハンの海上権力史論まで語れるだろうしな。
それで、中国と欧米でジャンル分けすると、日本の兵学関係の古典はどうするという話になる。
一箇所の総合スレを用意して、スレ住人が増えてきたら、分野ごとにスレを独立を検討するのがいいのでは?
なんにしろ、1さんが頑張って、住人を増やさないとね。
参考
軍事百科事典 孫子・クラウゼヴィッツから佐藤大輔まで戦理解説
ttp://www003.upp.so-net.ne.jp/Zbv/sub22.htm

18 :
天は、陰陽、寒暑、時制なり
曹操:天に従いて戦争を行うには、陰陽四時の制による。故に司馬法曰く、「冬夏には師を興さず。民を兼愛する所以なり。」
李筌:天に応じ人に従い、時に因りて敵を制する。
杜牧:陰陽とは、五行、刑徳、向背の類である。(陰陽家には)巫咸、甘氏、石氏、唐蒙、史墨、梓慎、裨竈といった人々の
著述があるが、結局重要なのは人間の行いである。呉が越に滅ぼされ、秦がその暴政で滅びたとき、星による兆候は
現れたかも知れないが、それは地上の人間の行いが反映されただけのことだ。
 刑徳向背(軍の態勢についての俗説。例えば「背水の陣は負け」など)は、もっと信用できない。周が殷を滅ぼしたときは
そうしたいわれに反していながら、わずか2万人強の軍勢で紂王を破ったではないか。現在でも、我が国(唐)は元和年間
(9世紀初頭)以来今に至るまで30年間のうち、4回も山西に出兵して昭義軍(軍閥の一つ)と戦い、十万と号する軍勢で
臨城県を包囲したが、東西南北から攻めても陥落しなかった。攻囲戦は通算すれば10年くらいになろうが、その間に
「刑徳向背」とかで良しとされている方角から攻めたことが何度もあるはずだ。陥とせなかったのは、ただ単に守りが堅かった
からではないか。歴史を見ても、秦が長年にわたり国力を強め他の6国を征服したのは、200年間運がよかったからでは
なくて、人材を集め富国強兵に励み法令を明確にしたからだ。
 梁の恵王が尉繚子にこのように聞いている。「黄帝は刑徳という方法で百戦し百勝したというが、本当か?」尉繚子の答えは
「違います。黄帝の刑徳のうち、刑とは武力で他国を攻めること、徳とは道義で国を治めることです。今世間で言われる
刑徳ではありません。人材登用はいつでも大切だし、良法制定は占わなくても必要だし、表彰栄典は先祖に祈らなくても重要です。」
(続く)

19 :
(杜牧註の続き)
 周の武王が殷の紂王を征伐したとき、様々な凶兆が表れたが、太公望呂尚は「軍事は天に
従わなくてもいい。暴政で民意を失った紂王を攻めるのに、占いなどに従う必要はない」として
先頭に立って進み、勝利した。(南北朝時代)宋の高祖(劉裕)が(南燕皇帝)慕容超を広固で
包囲して攻撃をかけるとき、「日が悪い」と諌められたのに対して「敵にとっての厄日だ。」と
攻撃を開始し、勝利している。また後魏の太祖武帝(道武帝・拓跋珪)が後燕の慕容麟を討った
ときも、「紂はこの日に敗れました」と言われたのに対し「周の武王はこの日に勝ったんだ」と
言い返して攻撃を続行し、勝利した。同じく太武帝(世祖・拓跋Z)は夏の統万城で赫連昌を
攻めたとき、天候の急変を「ただの自然現象だ」とする部下の忠告に従って戦闘を強行し
勝利している。それほど陰陽向背が信用できないなら、孫子は何故これを書いたのか、という
疑問もあるだろう。それは、暴君や暗君を説得する上で有効だからである。
 寒暑や時気は、その行動を節制するに止まる。周瑜が孫権に曹操の四敗を説いたとき、
そのうちの一つに「今は真冬で馬の飼葉がない。中原の兵隊を集めて遠く長江まで連れて
くれば、環境が合わずに病気が発生する。これは用兵上避けるべきこと」としている。寒暑も
天の時と同じことなので、一緒に述べているのだ。
孟氏:兵は天の運行を法とする。陰陽とは剛柔盈縮のことだ。陰とは行動を秘匿することであり、
陽とは勢いに乗って迅速に行動することである。先手を取られたら陰を用い、先手を取ったなら
陽を用いる。陰であれば敵は行動が秘匿できず、陽であれば敵に行動を察せられない。陰陽に
決まった形はないので、兵は天に従う。天には寒暑があり、兵には生殺がある。天はこと
(植物が枯れることなど)で物事を制御し、兵は戦機で態勢を制御する。故に先ず天があるのだ。

20 :
賈林:時制を読み時気を為すとは、良い時期に従い、気候の利を占めることだ。
杜佑:天に順じて誅を行うとは、陰陽四時剛柔の制によることである。
梅堯臣:兵は必ず天道に従い、気候に従い、時をもってこれを制する。これが制ということだ。
司馬法曰く、「冬夏には師を興さず、民を兼愛する所以なり。」
王ル:陰陽とは、天道、五行、四時、風雲、気象をまとめたものだ。これに精通すれば勝利に
つながる。とはいえ特別な人からその秘訣を聞かない限り、習得は難しい。黄石公が張良に
書を授けた、太公兵法(三略)のようなものだ。書いてあることは天機神密であり、普通の人に
分かるわけがない。何十もの解釈が出ているが、取り上げるほどのものはない。寒暑は呉起が
いうように疾風、大寒、盛夏、炎熱の類だ。時制とは、時期の利害によって適切に制御する
ことである。范蠡は「天の時は作為できないが、人に主導権をとられるな」といっている。

21 :
張預:陰陽とは、孤虚向背とかではない。兵には自ずから陰陽がある。范蠡は「後手に回ったら
陰を用い、先手を取ったなら陽を用いる。敵の陽節を出し尽くさせ、我は陰を活用し、主導権を
奪う。」といい、また「右に備えるのを牝といい、左に備えるのを牡という。朝夕は天道に従う」と
ある。李衛公(李靖)はこれを解釈し、「左右とは人の陰陽、朝夕は天の陰陽。奇正とは天と
人とがそれぞれ変わることの陰陽である。」としている。これらの言葉は、兵には自ずから陰陽
剛柔の用があり、天官日時の陰陽ではない、ということを言っている。今尉繚子の天官の篇を
見れば、その意味は最も明らかである。太白陰経も天無陰陽の篇があり、これらはそれぞれの
書の冒頭に来ている。世の人の混乱を治めたいからだ。
 太公望呂尚は「聖人は後世の戦乱を招かないために、いろいろ偽書を作成して、天道に頼って
勝つという軍事的に無益なことを広めたのだ」と書いている。唐の太宗(李世民)もまた、「凶器は
軍隊よりはなはだしいものはない。戦争が政治に有益であるなら、それを避けることが疑われる
ようになるだろう」といっている。
 寒暑とは、冬や夏に戦争を行うことである。漢が匈奴を攻めたとき、(凍傷で)多くの兵が指を
失った。馬援が南方を征服したとき、多くの兵は疫病で死んでしまった。皆冬や夏に戦争を行った
からだ。時制とは、天の時に合わせて戦争を行う、ということだ。太白陰経では、天の時とは水害や
旱魃、蝗害や雹のような荒れた天候のことで、孤虚向背で言う天の時ではない、としている。

22 :
>>17
割と新参者のせいなのか、
考えてみると古典的な兵書を研究するようなスレって見かけないですよね
一応中国古典兵書となっていますが、
場合によっては西欧や日本も含めて良いかもしれませんね。
孫子などの中国古典と戦争論など西欧古典の共通性などの比較や
相互関係を見るというのも必要だと思いますし。
で、もし次スレ立つような時には総合スレにするって感じで…w
ところで、例えばイスラム世界などには
孫子などに匹敵するような兵書の類は無いんでしょうか?
オスマン帝国なんか一時はかなり強大でしたし
結構興味深いと思うのですが。

23 :
地は、遠近、険易、広狭、死生なり
曹操:九地の形勢は同じではなく、時制によって利があることを言う。「九地編」の中で
説明される。
李筌:形勢の地を得ることにより、死生の勢いを有する。
梅堯臣:形勢の利害を知ることである。
張預:およそ用兵には、先ず地形を知ることが重要である。遠近を知れば即ち迂直の
計をなすことができる。険易を知れば即ち歩兵と騎兵の利点を活かすことができる。
広狭を知れば、即ち大部隊・小部隊の運用に活かせる。死生を知れば、即ち戦うべきか
避けるべきかを判断することができる。

24 :
将は、智、信、仁、勇、厳なり
曹操:将はこの五徳を備えなければならない。
李筌:この5つは将の徳であり、故に戦争は「人材の比較」」とも言われるのだ。
杜牧:先王の道は仁を最初に挙げるが、兵家では智を最初に挙げる。智とは組織を
掌握し、変化に応ずることである。信とは部下に賞罰に対する疑念を抱かせないことである。
仁とは人や物を愛護し、いたわりの心を持つことである。勇とは決勝の勢いに乗り、逡巡しない
ことである。厳とは権威と刑罰とで三軍を統制することである。楚の申包胥は越(実際は秦)に
使者としていき、越王勾践に呉を攻撃するよう、戦争を促している。このように、戦争には智が
重要であり、仁がこれに次ぎ、勇がこれに次ぐ。智でなければ、国力の限界を知ることができず、
天下の大勢を判断することができない。仁でなければ、三軍と飢えや苦労を共にすることが
できない。勇でなければ、疑念を廃して計略を断行することができない。

25 :
賈林:智に任せすぎると大義を失い、仁に偏りすぎると臆病になり、信を守りすぎると愚行となり、
勇に頼りすぎると粗暴になり、厳に行き過ぎると残虐になる。この5つを兼備し、それぞれを適所に
使えば、将帥というべきだろう。
梅堯臣:智は計謀を案出できること。信は賞罰を公平にできること。仁は兵士の信望を集められること。
勇は果断に決心できること。厳は威厳のあること。
王ル:智とは先見の明があり惑うことなく、計略を案出でき変化に応じることである。信とは命令が一貫
していることである。仁とは思いやりの心があり、人心を得ることである。勇とは大義に従い懼れることなく、
果断に決心することである。厳とは威厳をもって群集を統制することである。この5つは全て必要であり、
一つが欠けてもいけない。したがって曹操は「将はこの五徳を備えなければならない。」と言っているのである。
何氏:智でなければ敵の動きを読んで戦機に応ずることができない。信でなければ部下を統率することが
できない。仁でなければ部下の兵士はついてこない。勇でなければ決戦することができない。厳でなければ
強制力で部隊をまとめることができない。この5つの全てをもって、将の体をなすのだ。
張預:智にして乱されず、信にして欺かれず、仁にして軽率にならず、勇にして懼れず、厳にして犯されず。
五徳が皆備わり、しかる後に大将となすべし。

26 :
法は、曲制、官道、主用なり
曹操:部曲、旙幟、金鼓の制である。官とは百官の身分である。道は補給路である。
主は軍事費の管理である。
李筌:曲は部署である。制は統制手段である。官は職位である。道は道路である。
主は管理である。用は軍用の資材等である。皆戦争のとき常に必要となるものであり、
将が管理すべきものである。
杜牧:曲は部曲隊伍の組織のことである。制は金鼓旌旗の統制のことである。
官は上下の職位制度のことである。道は陣地を設けたり出陣するために必要な
道路のことである。主は倉庫や家畜の管理を運営させることである。用は
車馬器械といった、軍が必要とする物のことである。荀子は「装備品には定数が
ある」としている。兵は食をもって本と為すのであり、まず補給路を計画した後で
開戦するのだ。
梅堯臣:曲制は部曲隊伍であり、組織には統制が必要だということである。
官道は上下の職位であり、統率には道理が必要だということである。主用とは
軍の各種装備や消耗品の管理であり、計画が必要だということである。
王ル:曲は兵士の所属のことである。制はその行動を律する統制手段である。
官は各級の職位である。道は軍が行動し、宿営する地域のことである。
主は所掌の事務に専念させることである。軍の用とは、輜重糧積のようなことである。
張預:曲とは部署である。制とは統制手段である。官とは上下の制度であり、
道とは補給路のことである。主は補給・経費担当者であり、用とは所要の物資を
見積もることである。この6つは用兵の要であり、上手く処置するためあらかじめ計画する。

27 :
保守
補給の要は遥か昔から指摘されてたということですね…

28 :
凡そこの五者は、将の聞かざるなく、これを知るものは勝ち、知らざるものは勝たず
張預:上の5つは、誰でも同じように知っている。但しその変極の理に深く通じているものは勝ち、
そうでなければ負ける。
故にこれを校(はか)るに計をもってし、その情を索(もと)む。
曹操:この5者を同じように聞いても、その変極を知っている方が勝つ。その情を索むとは、勝負の
情報のことだ。
杜牧:上の5事は、将軍が知りたいことであり、彼我の優劣を比べ、その後情報を調べる。これが
できれば勝ち、できなければ負ける。
賈林:書経に曰く、「これを知るは難きに非ず。これを行うの難きを惟る。」
王ル:まさに知を尽くすべし。五事は周知のことだといっても、その情報を十分入手しないと7計が
できない。
張預:上で既に5事が明らかになった。この後は彼我の得失を考慮し、勝負の情報を入手しないと
いけない。

29 :
曰く、主孰(いず)れか有道たる?
曹操:道徳智能のこと。
李筌:孰とは「実」である。有道の君主であれば、必ず智能の将がいる。范増は楚を辞し
陳平は漢に帰した。即ちそういうことだ。
杜牧:孰とは「誰が」という意味である。我と敵の主君のどちらが佞を遠ざけ賢に親しみ、
委任した相手を信用するか、ということを言う。
杜佑:主とは君主である。道とは道徳である。必ずまず両国の君主のどちらが有能かを
比較する。荀息が虞公を貪欲で宝物を好むと判断し、宮之奇を臆病で強く諌めることが
できないと判断したようなものだ。
梅堯臣:どちらが人心を得ているか、である。
王ル:韓信が項王を「匹夫の勇・婦人の仁であり、覇とはいっても天下の人心を失って
いる」といい、漢王(劉邦)が武関に入ったとき秋毫も犯すところなく秦の苛法を除いた
ため、秦の民は劉邦が秦の王になることを望んでいると言った様な事である。
何氏:書経には、「我を撫せば即ち后となり、我を虐げれば即ち讎となる」とある。撫虐の
政治はそれぞれどうか、ということだ。
張預:まず二国の君主で、どちらが恩信の道に従っているか、即ち上下が心を一つに
するような政治をしているかを比較する。淮陰候(韓信)が項王を仁勇とも高祖(劉邦)
より上だとしながら、功績ある部下を賞しないため「婦人の仁」と評したのも、これに
あたる。

30 :
将孰(いず)れか有能たる?
杜牧:将のいずれが有能か、とは、上で出てきた智信仁勇厳のことだ。
梅堯臣:杜牧に同じ。
王ル:漢王(劉邦)が魏の大将柏直を問い、「臭い若造で、韓信に敵うわけがない」と
判断したようなことだ。
張預:彼我の将を観察し、智信仁勇厳の能力を比較する。漢の高祖(劉邦)が魏の将
柏直を韓信にかなわないと判断したようなものだ。
天地は孰(いず)れか得たる?
曹操と李筌:天の時と地の利のことである。
杜牧:天とは上で述べた陰陽、寒暑、時制である。地とは上で述べた遠近、険易、広狭
死生である。
杜佑:両軍の拠るところを観察し、どちらが天の時と地の利を得ているかを知る。
梅堯臣:天の時に合っているかを調べ、地の利を詳細に観察する。
王ル:杜牧に同じ。
張預:両軍が行動しているところを観察し、どちらが天の時と地の利を得ているか見る。
魏の武帝が真冬に呉を攻めたり、慕容超が大「山見」(地名)を利用しなかったりした
のは、天の時や地の利を失うものである。

31 :
age

32 :
法令は孰(いず)れか行はるる?
曹操:設けて犯さず、犯さば必ず誅する。
杜牧:法を作り禁止事項を明記し、身分の上下に関わらず執行する。魏絳が(主君の弟の)御者を
処刑したり、曹操が(自らを罰する代わりに)髪を切ったりしたのは、このためである。
杜佑:発出された号令に対し、部下が敢えて犯すことなく従うのはどちらか、というのを比較する。
梅堯臣:法をもって軍を整え、令をもって統一する。
王ル:どちらの方が法が明らかで令が現状にあっており、また部下がそれに従っているか(を比較する。)
張預:魏絳は楊干(君主の弟で、会盟時列を乱した)を処刑(実際は彼の御者を処刑)し、司馬穣苴は荘賈を
(出陣に遅刻したため)斬り、呂蒙は同郷人を(笠を盗んだため)処刑し、諸葛亮は馬謖を斬った。こうしたことは
いわゆる「法を設けて犯さず、犯さば必ず誅する。」ということである。どちらがこのような状態か判断する。
兵衆孰(いず)れか強き?
杜牧:上下が和同し、戦闘で勇敢であることを「強」という。また兵卒や戦車が多いのも「強」である。
梅堯臣:内和して、外に附く。
王ル:強弱は対陣した場合の陣形で分かる。
張預:戦車が堅固であり軍馬も良く、将校は勇敢で兵隊は気が利き、(前進の)太鼓の音を聞くと喜び
(後退の)銅鑼の音を聞くと不満に思う。どちらがこのような状態かを判断する。

33 :
士卒は孰(いず)れか練れる?
杜牧:旌旗や金鼓という信号が良く伝わり、戦闘や進退、機動に関する戦術を良く知り、
弓矢や斬り合いについて訓練していることである。
杜佑:どちらの兵器が強力で、士卒の訓練が行き届いているか、ということである。故に王子
(不詳)は「兵士が訓練されていなければ、戦争時に恐れ混乱するばかり。将校が訓練されて
いなければ、戦争時にすべきことが分からない」と言っている。
梅堯臣:車騎等の運用は、どちらの国が上か。
王ル:どちらの訓練が精到か。
何氏:勇怯強弱は、敵味方全く同じに考えることはできない。
張預:離合集散の法や、坐作進退の令は、どちらが訓練されているか。
賞罰は孰(いず)れか明らかか?
杜牧:賞をみだりに与えず、刑もみだりに加えない。
杜佑:善を賞し悪を罰するのは、いずれが公明かを判断する。故に王子曰く、
「賞にけじめがないと、賞しても恩と思われない。刑にけじめがないと、処刑しても
威力がない」と。
梅堯臣:功あるものを賞し、罪あるものを罰する。
王ル:いずれが功績に合わせた賞を執行し、状況に合わせた罰を与えているか判断する。
張預:褒賞すべきものは、親の仇であっても必ず記録し、罰しなければならないものは、
親子といえども容赦されない。司馬法にも「賞は時を逾(こ)えず、罰は列を遷らず」とある。
どちらがこの通りにしているかを判断する。
吾此れをもって勝負を知る。
曹操:七事をもって比較し、勝負を判断する。
賈林:以上七事で彼我の政治を比較すれば、勝敗を予測することができる。
梅堯臣:こうした状況をよく調べれば、勝負を知ることができる。
張預:七事が全て優れていれば、戦う前に勝利すると分かる。七事が全て劣って
いれば、戦う前に負けが分かる。従って勝負は予知できる、というのだ。

34 :
将我が計を聴き之を用うれば必ず勝たん。これに留まらん。将我が計を聴かずして、これを
用うれば必ず敗れん。これを去らん。
曹操:計を定めることができないのであれば、即ち退いて去る。
杜牧:若し彼が自ら護りに備え、我が計に従わず、形勢が均等で相加わること無ければ、戦っても
必ず負ける。辞めて去るべきだ。故に春秋では、「允当則ち帰す」とある。
陳r:孫武は闔閭に書をもって曰く、「吾が計策を聴きて用うれば、必ず敵に勝てる。我はこれに留まり
去らず。吾が計策を聴かざれば、必ず負けん。吾之を去りて留まらず。」闔閭はこれに感動し、必ず
用いようとしたのだ。だから闔閭は「子の13篇は、寡人尽くこれを見る」と言っている。この時闔閭は
戦争に当たり、多くは自ら指揮をしている。そのためここで「主」といわず、「将」といっている。
孟氏:将とは、部下の将校である。吾が計画を聴いて勝つなら、これを慰留する。吾が計画と違うことをして
負ければ、即ちクビにする。
梅堯臣:孫武は13篇の兵書を呉王闔閭に示すとき、最初の篇にこの言葉を入れて印象付けたのだ。
つまり王将が吾が計を聴きて行えば、兵を用いて必ず勝ち、我はここに留まる。吾が計を聴かずに行い、
兵を用いるなら必ず敗れ、我もここから去る、と。
張預:将とは、まさに、と読む。孫子は、今まさに紹介する計略を聞いて兵を用いれば必ず勝ち、我はこれに留まる。
まさに我が計画を聞かず、兵を用いれば必ず敗れ、我も他国に去ると言った。この言葉で呉王を刺激し、登用を
促したのだ。

35 :
計利をもって聴かるれば、即ちこれが勢を為して、以ってその外を佐(たす)く。
曹操:常法の外である。
李筌:計の利が既に定まれば、即ちこれが形勢に乗じる。以ってその外を佐(たす)くとは、常法の外である。
杜牧:利害を計算するのは、軍事の根本である。利害は既に観察され、用兵も(君主に)聴かれた以上、
常法の外においてさらに兵勢を求め、考察した利の助けとする。
賈林:その利を計り、その謀を聴き、敵の情報を得て、我は通常ではない形勢で状況を動かす。外とは、
あるいは助攻、あるいは後方の撹乱であり、正面の戦闘を補佐する。
梅堯臣:内に計を定め、外に勢を為し、以って勝ちを成すを助ける。
王ル:我が計の利は既に聴かれ、また変化に応ずることを知り、その他を助ける。
張預:孫子はまた我が計の利を言い、それが既に聞き届けられているなら、また兵勢を為すところに戻り、
考察した利を外部から助長するようにする。兵の常法というものは、人に明言することが可能だが、兵の
利勢は、須らく敵によりて為す。
勢は、利によりて権を制するなり。
曹操:制は権により、権は事により制する。
李筌:時勢によりて謀る。
杜牧:ここで常法の外というのは、勢のことである。勢とは先見することができず、あるいは敵の弱点から我の
長所を見つけ、または敵の長所から我の弱点を見つけ、しかる後に始めて機権を制し勝ちを取る事ができる
ようになる。
梅堯臣:利によりて権を行い、これを制する。
王ル:勢とは、変化に乗ずることである。
張預:いわゆる勢とは、須らく事の利によりて、制して権謀と為し、以って敵に勝つのみ。故に先には言えない。
これより、権変と略される。

36 :
兵は詭道なり
曹操:兵に常形は無く、詭詐をもって道と為す。
李筌:軍は詐を厭わず。
梅堯臣:譎(いつわ)りでなければ権を行えず、権が無ければ敵を制することはできない。
王ル:詭は敵に勝つために使うものであって、味方を統御するには必ず信による。
張預:用兵は仁義に基づくものだが、勝つためには必ず詭詐を使う。柴を曳いて塵を揚げるのは欒枝(晋の文公の将)の
譎である。万弩を斉発したのは孫「月賓」の奇略である。千牛をともに奔らせたのは田単の権である。土嚢で川を
せき止めたのは淮陰候韓信の詐術である。これらは皆詭道を用いて勝ちを制したものである。
故に能にしてこれに不能を示し
張預:実は強にしてこれに弱を示し、実は勇にしてこれに怯を示す。李牧が匈奴を破り、孫「月賓」がホウ(广の中に龍)涓を
斬ったようなことだ。

37 :
用にしてこれに不用を示し
李筌:自らは軍を運用する準備を整えておきながら、外には恐れていると示す。漢将陳「豕希」が反し、匈奴と兵を連ねたとき、
高祖は10回使者を送り込み、状況を観察させた。全員撃つべしと言ったが、婁敬を送り込んだ時は、「匈奴と戦うべきではない」
と報告した。高祖がその理由を問うと、それに次のように答えた。「両国が相対するときは、通常自分の強さを誇示するものです。
今私が使者として行きますと、疲労した兵しかいませんでした。これは能にしてこれに不能を示しているものです。撃つべきでは
無いと思います。」高祖は怒って曰く「斉の捕虜は口舌で官職を得ただけだ。我が軍を混乱させるとは!」そして婁敬を広武(地名)に
監禁し、三十万人の軍をもって白登(地名)に至ったが、高祖は匈奴に包囲され、7日間飢えに苦しんだ。これが師はこれを外に
示すに怯をもってするという意味である。
杜牧:これはすなわち詭詐は形を蔵(かく)すということである。形とは、敵に見せてはならないものであり、敵が形を見れば、必ず反応する。
左伝にいわく、鷙鳥まさに撃たんとするや、必ずその形を蔵(かく)す」と。匈奴が漢の使者に疲労した兵を見せたようなことだ。
杜佑:我が実際には能力があり、使えるのに、外には無能で使えないと見せ、敵をして我に対する備えをさせないようにすることだ。
例えば、孫「月賓」がかまどを減らしてホウ(广の中に龍)涓を制したようなことだ。
王ル:強にして弱を示し、勇にして怯を示し、治にして乱を示し、実にして虚を示し、智にして愚を示し、衆にして寡を示し、進にして退くと示し、
速くして遅いと示し、取るのに捨てると示し、彼(遠方)にあるのにここにあると示す。
何氏:能にしてこれに不能を示すとは、(匈奴の)単于が弱兵を見せて高祖を誘い、これを平城に包囲したようなことである。用にして
これに不用を示すとは、李牧が雲中(地名)に兵を按じ、匈奴を大いに破ったようなものだ。
張預:戦いを欲するもこれに退くと示し、速からんと欲するもこれに緩いと示す。班超が莎車(国名)を撃ち、趙奢が秦軍を破ったようなものだ。

38 :
近くしてこれに遠きと示し、遠くしてこれに近きと示し
李筌:敵をして備えを失わしめる。漢の将韓信が魏王豹を虜としたとき、初めは舟を揃えて臨晋を渡らんと見せかけ、
部隊を迂回させて木のカメで川を渡り、夏陽から安邑を襲わせたため、魏は備えを失したのだ。耿エン(合の下に廾)が
張歩を攻めた際、また先に臨シ(さんずいと、巛の下に田)を攻めた。皆遠きの勢を示したものだ。
杜牧:近くで敵を襲わんと欲するならば、必ず遠く去るの形を示す。遠くにおいて敵を襲わんと欲するならば、必ず近くに
進撃する形を示す。韓信が兵を臨晋に集結させて、しかし夏陽から渡河したが、これは近き形をもって遠くに敵を襲った
例である。後漢末、曹操と袁紹は官渡で相対峙していたが、袁紹は郭図、淳于瓊、顔良等の将を派遣し東郡太守劉延を
白馬に攻めることにした。袁紹は兵を率いて黎陽に至り、まさに黄河を渡河しようとした。曹操は北に向かい延津を救おうと
したが、荀攸曰く「今は兵が少なく敵いません。兵勢を分ければできます。公は兵を延津に至らせ渡河し、敵の背後に回り
ます。袁紹はそれに対応するため、必ず西に向かうでしょう。そこで軽装備の部隊で白馬を急襲すれば、その不備を突く
ことができ、顔良を捕虜にできるでしょう。」曹操はこの助言に従った。袁紹は曹操軍が渡河したと聞くと、自分の軍は停止させ、
一部を西に派遣して対処させた。そこで曹操が部隊を率いて白馬に向かうと、十余里も行かないうちに顔良は驚いて
駆けつけてきたため、張遼と関羽を前進させ撃破し、顔良を斬って白馬の包囲を解いた。これが遠形を示して近くに敵を襲った
例である。
賈林:去就は我にあり、敵は何によってそれを知ることができようか。
杜佑:近からんと欲すればその遠きを設け、遠からんと欲すればその近きを設ける。敵軍を誑かし、これに遠いと見せかけ、
その近きに従う。韓信が安邑を襲ったようなものだ。
(続く)

39 :
(続き)
梅堯臣:敵が我の行動を測れないようにする。
王ル:同上
何氏:遠くしてこれに近きと示すのは、韓信が臨晋に舟を集め、しかし夏陽から渡河したようなことだ。近くしてこれに遠きと
示すのは、晋候がカク(妥の女を寸に変えたものに、つくりは虎)を攻めるため虞に道を借りたようなことだ。(唇歯輔車の故事)
張預:近くにこれを襲わんとすれば、かえって遠きを示す。呉と越が夾水(川)で対陣した際、越は左右に別働隊を出し、各5里
離して、夜間鼓を鳴らして進撃させた。呉は部隊を分置してこれに備えた。越は密かに渡河して、呉軍の中央に出てこれを撃破し
呉は大敗したような例がある。遠くにこれを攻めんとすれば、かえって近きを示す。韓信が兵を臨晋に集め、夏陽から渡河したような
例がある。

40 :
利にしてこれを誘い
杜牧:趙将李牧は大勢の牧人で野に満たしたが、匈奴が小規模に侵入したときには、偽って逃げ
勝とうとせず、数千人の捕虜をとられた。単于はこれを聞き大いに喜び、大軍で侵入してきた。
牧は意表をついた陣地を多数設け、左右から挟撃し、匈奴の十余万騎を大いに破り殺した。
賈林:利をもってこれを動かす。動けば形が明らかになる。我はその形によって勝を制する。
梅堯臣:敵が利益に弱いなら、貨をもってこれを誘う。
何氏:利にしてこれを誘うとは、赤眉(新末後漢初の反乱軍)が輜重を委ねてケ禹(後漢の将)への好餌と
したような例がある。
張預:小利をもって示し、誘いてこれに勝つ。楚人が絞(国名)を討つとき、莫傲(本名は屈瑕)はこう進言した。
「絞は小国で軽々しい。武器を持たない木こりをもって誘致しましょう。」ここにおいて絞は楚人30人を
捕虜とし、次の日も絞人は争って出撃し楚の木こりを山中で追いかけたが、楚人は山の下に伏兵を設けており、
大いに破った例がある。

41 :
乱してこれを取り
李筌:敵が利を貪るなら、必ず乱れる。秦王姚興が禿髪シン(人偏に辱)檀を攻めたとき、部内の牛羊を悉く
駆って野に散放させ、秦人が略奪するがままにさせた。秦人は利を追求し、既に行列など無くなってしまった。
シン檀は十将を密かに分置し、これを伏撃させ、大いに秦人を破り、7000あまりの首級を得た。乱してこれを
取るとはこういうことだ。
杜牧:敵に混乱があれば、それに乗じてこれを取る。左伝にいわく、「弱を兼ね昧を攻め、乱を取り亡を侮す。
武の善経なり」
賈林:我は奸智をもってこれを乱し、乱の兆候を得てこれを取る。
梅堯臣:敵が乱れれば、即ちそれに乗じてこれを取る。
王ル:乱とは節制無きを言う。「取」とは易と読む。
張預:偽りて紛乱を為し、誘いてこれを取る。呉越が相攻めたとき、呉は罪人三千をもって整わざるを示し
越を誘った。罪人はあるいは逃げ出しあるいは止まり、越人はこれと争い、呉の破るところとなる。
敵が乱れた後にこれを取るというのは間違いである。春秋では「取」と書いてあるところは、「易」と
読む。魯の師が「寺におおざと(不詳。国名?)」を取るといったように。

42 :
実なればこれに備え
曹操:敵が実を治めているなら、これに備えなければならない。
李筌:敵の実情に備える。蜀の将関羽は魏の樊城を包囲しようとしたが、呉の将呂蒙がその背後を襲うことを
懼れ、多くの兵を残して荊州を守らせた。呂蒙は密かにこれを知り、仮病を用いることにした。関羽はそれを
信じて荊州に残した兵を引き上げたため、ついに呂蒙に攻め落とされ、荊州全体が呉のものとなった。
このような意味である。
杜牧:陣地で対峙しているときは、虚実を問わず、常に警戒することになる。この文は、むしろ平時において
国境を接する隣国が、国内の政治で実を治め、上下相親しみ、賞罰は明確で信頼され、士卒の練度も高いなら
これに備えなければならず、戦争が始まってから軍備を進めるようであってはならない。
陳r:敵が若し動きが無く内実を堅固にしているようであれば、我もまた防備を厳にし、内実を充実させて
敵に備えなければならない。
梅堯臣:敵が実を備えているなら、我はそれに対し防備を固めないといけない。
王ル:敵将は我の備えていないところを突いてくる。
何氏:敵の充実しているところだけ明らかであり、虚となっているところが明らかになっていないのであれば
実力を蓄えこれに備えなければならない。
張預:易経に「対戦して余りの有るところと不足しているところとが明らかになる」とある。余りの有るところとは
充実したところで、不足しているところとは空虚なところである。この文は敵の兵勢が充実しているなら
我は負けないようそれに備えなければならず、軽挙してはいけないということである。李靖の「軍鏡(兵法書?)」
には「その虚を観れば即ち進み、その実を見れば即ち止まる」とある。

43 :
強ならばこれを避け
曹操:敵の長所を避ける。
李筌:力量のことである。楚子(楚の武王熊通)が随を攻撃した際、随の臣季梁は「楚では左側を
尊ぶため、君主は左翼に陣取ります。王(の親衛隊)と正面衝突しないよう、敵の右翼を攻めてください。
右翼にはろくな兵がいないから、必ず敗れるでしょう。片翼が崩れれば、全軍を捕虜にできます。」
と進言したが、将軍の少師は「敵の王と対戦しなければ、戦いとはいえない」と従わなかったため、
随軍は戦いに敗れ、随の君主は戦場から逃走することになった。敵の強点を攻めたための敗北である。
杜牧:敵の強点を避けることである。この文は敵の兵士が強く士気が揚がっているなら、これとの決戦を
避け、その勢いが衰弱するのを待って、その隙を突くべきだ、ということである。晋末に嶺南(広州)の
反乱軍盧循と徐道覆が防備の薄かった建業を攻撃した。劉裕はこれに対し、「敵軍が新亭から直接
こちらに向かってくるなら、いったん退避するべきだ。蔡洲に戻るなら、決戦して捕虜にするのみ」と
言っている。徐道覆は舟を燃やして退路を断っての直接攻撃を主張したが、盧循はこれに反対して
蔡洲に戻り、結局敗れている。
賈林:弱をもって強を制するには、変化を待つのが理である。
杜佑:敵の軍費が充実しており、士卒が強いのであれば、退避してその衰えを待ち、変化を見てこれに
応ずるべきである。
梅堯臣:敵が強いなら、我はその鋭鋒を避けるべきである。
王ル:敵兵が精鋭であり、我が軍が少なく弱いなら、退避しなければならない。
張預:易経に「正々の旗を邀(むか)ふるなかれ、堂々の陣を撃つなかれ」とある。敵の縦隊や陣地が
整斉としており、節度がよく守られているなら、我はそれを避けて、軽々しく戦うべきではない。秦と晋が
相戦い、お互いに兵を引いて、惨敗にならないよう気をつけていたように。

44 :
怒らせてこれを撓め
曹操:その勢いが弱まるのを待つ。
李筌:怒りっぽい将は、その計略も乱されやすく、性格に堅固なところもない。漢の大臣陳平は
楚を弱体化させる計略として、楚の使者に太牢(豪華なもてなし)をしておきながら、対面すると
驚いたふりをして「なーんだ、亜父(項羽の軍師である范増)の使者かと思ったら、項羽の使者か。」
といい、以後ぞんざいに扱った。これが怒らせてこれを撓める実例である。
杜牧:大将で剛直なものは、挑発して怒らせるのが容易であり、そうなると感情に任せてすぐに
決心してしまい、士気は乱れ、本来の戦略に思いが行かなくなってしまう。
孟氏:敵が激怒しているような場合は、挑発するべきである。
梅堯臣:敵が怒りやすいなら、これを撓めるべきで、そうすれば軽々しく不利な戦闘を挑んでくる。
王ル:敵が慎重なら、怒りを誘ってこれを撓める。
何氏:怒らせてこれを撓める例としては、漢軍が曹咎を水で攻撃したようなものがある。
張預:敵の性格が剛直であるなら、辱めて怒らせるべきだ。そうすれば士気が乱れ、よく考慮せずに
軽々しく進撃してくる。晋軍が宛春により楚を怒らせたようなものだ。尉繚子には「寛大な者は挑発して
怒らせることができない」とある。性格が寛大な将は、挑発して我が計略に嵌めることができない、ということだ。

45 :
卑(ひく)くしてこれを驕らせ
李筌:贈り物を多くして甘い言葉を言うのは、狙いが大きいからである。後趙の石勒は王浚の臣となると称したが、
王浚の部下はこれを攻撃せよと進言した。王浚は「石の奴が来たのは、俺の部下になりたいからだ。変な進言する
奴は斬る!」と言って宴席を準備した。石勒は牛羊数万頭を贈り物とし、上礼をもって各街角を回ったので、王浚の
部下も手を出しようが無かった。そして薊城に入り、王浚を捕らえて斬り、燕を手に入れたのだ。「卑(ひく)くして
これを驕らせ」とは、こういう意味である
杜牧:秦末に匈奴の冒頓単于が即位したときは東胡が強く、冒頓に使者を出して千里の馬を要求した。冒頓が部下に
助言を求めると、全員「国宝だし、渡すべきではない」という意見だったが、冒頓は「隣国との友好のためだから、馬の
一頭くらいどうってことない」と言って与えることにした。次に東胡は「単于の寵姫を一人くれ」と使者を出してきた。
冒頓はまた部下に助言を求めたが、全員「東胡は無茶だ。戦うべし」という意見だった。しかし冒頓はまたも「隣国との
友好のためだから、寵姫の一人くらい」と与えることにした。しばらくして、東胡は「使ってない土地があるようだけど、
くれない?」と使者を寄越してきた。冒頓が部下に意見を求めると、「やってもやらなくてもいいんじゃないでしょうか」という
意見があったが、冒頓は大いに怒り「土地は国の本だ。やるわけにはいかん!」として譲渡に賛成した部下を全員切り捨て、
さらに「今回の戦争に従わないものは斬る」とお触れを出して東胡を攻撃した。東胡は冒頓を馬鹿にして防備を怠って
いたので、冒頓はこれを滅ぼした。冒頓はさらに西の月氏を攻撃し、南の楼煩、白羊、河南を征服し、北は燕や代州に侵攻し
秦の蒙恬に奪われた匈奴の土地を全て回復した。

46 :
(続き)
陳r:欲するところがあるならば、必ずこだわらないと装い、敵の心を惑わせ、玉帛をもって
その気持ちを驕らせる。范蠡や鄭の武公の謀である。
杜佑:敵は国を挙げて戦争を行い、怒りにより進撃してくる。したがって外には屈従すると
見せかけ、敵の気持ちを上滑りさせ、その弱体化を待ってから攻撃する。王子(不詳)が言う
ように、「善く法を用いるものは、狸が鼠に対するように、力と知力によって、当初負けを装い、
静かになってから急襲するのである。」
梅堯臣:我の弱さを示し、敵の驕りを誘う。
王ル:我が弱さを示して敵を驕らせ、敵が我に備えなくなったら、そこを攻撃する。
張預:例えば言葉をへりくだり贈り物を贈り、また戦って偽って敗退するなど、敵を驕らせ
防備を緩めさせる策である。呉王夫差が斉を攻めたとき、越王句銭も軍勢を率いて参加し、
呉王やその部下に賄賂を送った。呉人は皆喜んだが、呉子胥のみ「これは呉を滅ぼす」と
懼れた。その後、呉は越に滅ぼされることになった。楚が庸を攻撃した際、7回遭遇したが
楚軍は全て逃げた。庸軍は「楚軍恐るるに足らず」と戦備をおろそかにしたため、楚は2隊を
もって庸を攻撃し滅ぼした。これらがいい例である。

47 :
佚にしてこれを労し(あるテキストでは、引いてこれを労し、となる。)
曹操:利によって敵に無駄な動きをさせる。
李筌:休んでいる敵を我が動かすのは、よい働きである。呉が楚を攻撃するとき、公子光は伍子胥に計略を聞いた。
伍子胥は「3個の部隊を編成しましょう。我が1コ部隊が侵入すれば、敵は必ず動員して出撃してきます。そうしたら
我が軍は引き上げます。こうして敵が疲れ、誤判断をするようになってから、3コ部隊全部投入すれば、必ず勝てます。」
と助言した。公子光はこれに従った。楚が呉の攻撃に悩むようになったのはこれからである。
杜牧:(前半は李筌とほぼ同様)楚の将子重はこのとき1年で7回出陣することになった。これにより呉の攻撃に悩む
ようになり、首都の郢を奪われた。後漢末曹操は劉備を破り、劉備は袁紹の下に逃走して曹操と戦うよう仕向けた。
それに対し田豊は「曹操は戦上手であり、軽々しく戦うべきではない。機会を待つべきだ。将軍はこの堅固な山河に拠り、
4州を治めているのだから、外は同盟軍と結び、内には富国強兵に努め、精鋭を練成して奇兵とし、敵の虚に乗じて
出撃させて河南を混乱させるべきだ。右を救えば左が危うく、左を救えば右を撃つというように敵を振り回し、民衆が
生業に専念できないようにすれば、我は労せずに敵を疲労させることができる。3年もしないで勝てるだろう。今こういう
必勝の策を捨て、乾坤一擲の勝負に出るのは、失敗して後悔しても遅い」と助言したが、袁紹は従わず、敗北した。

48 :
梅堯臣:我は労せず、敵の疲労を待つ。
王ル:ゲリラ戦を活用する。敵が出撃したら我は退き、敵が帰ったら我は出撃する。左を救えば右へ、右を救えば左へ。
このようにして敵を疲労させるのだ。
何氏:孫子は部隊を節用することを書いている。敵に余裕があるなら、我はそれを振り回して疲労させる。その後に
勝利を追求するのだ。
張預:我は力量をフルに使えるようにし、敵は疲労させる。晋と楚が鄭のことで争ったときのように、引き伸ばして決定的な
戦果を与えない。晋の知武子は四軍を3部隊に分け、それぞれが動くたびに楚の三軍を誘致した。こうして疲弊した楚は
戦争を継続できなくなった。また、申公巫臣は呉に楚を攻撃する方法を助言し、そのため楚の子重が1年に7度も出兵
することになったようなことである。

49 :
親しみてこれを離し
曹操:間者により離間する。
李筌:その行約を破り、敵の君臣を離間して、その後に攻める。昔秦が趙を攻めたとき、秦の大臣応候(范雎)は
趙王に伝わるように「趙が趙括を任命するのが怖い。廉頗なら組し易し」と言いふらした。趙王はこれに引っかかり、
趙括を(それまで秦軍の攻撃を撃退していた)廉頗に代えて任命した。このため趙は敗れ、秦軍は趙の捕虜
40万人を長平で生き埋めにしてしまった。こういうことを言っているのだ。
杜牧:敵が若し上下相親しんでいるのであれば、利によって離間するべきだ、ということだ。陳平は漢王(高祖)に
「項羽の頼りになる部下は、范増、鍾離昧、龍且、周殷くらいなもので、何人もいません。貴方が数万斤の金を
ばら撒いて、君臣の間を離間すれば、敵は内部で闘争が始まります。そこで漢が挙兵して攻めれば、楚は滅ぼせ
ます」と助言した。高祖はこれに従い、4万斤の黄金を出して陳平に使わせ、敵を離間させた。このため項羽は范増を
疑いだし、(高祖が包囲されている)ケイ陽への攻撃が弱まったため、高祖は脱出できた。
陳r:敵が爵禄を与えないなら、我は進んで与えるべきだ。敵が財貨を惜しむなら、こちらは惜しげもなく使うべきだ。
敵が刑罰を峻厳にするなら、我は緩やかにするべきだ。こうして敵の上下を互いに疑わせ、離間するのである。
由余が秦に従い、英布が漢のために働くようになったように。

50 :
(続き)
杜佑:利益でこれを誘い、各種の間者を全部使うとともに、弁論の上手い人間を送り込み、君臣それぞれと
親しくさせて離間する。秦が反間により趙の君主を欺き、廉頗を辞めさせ趙奢の子を登用させて、長平の
敗戦を誘ったように、である。
梅堯臣:杜牧に同じ。
王ル:敵が相親しんでいるなら、計略をもって離間するべきである。
張預:或いはその君臣を工作し、或いは同盟関係に対して工作し、離間した後にこれを陥れる。応候が趙に
工作して廉頗を辞めさせたり、陳平が楚に工作して范増を追わせたのは、君臣離間の例である。秦と晋が
協力して鄭を攻撃した際、燭之武は夜密かに秦伯を説得し、「今鄭を得ても、結局晋のものになって秦には
利益にならない。鄭を残して東側の同盟国にしておくべきです」といって、秦伯を撤退させた。同盟関係を
離間した例である。

51 :
その備え無きを攻め、その不意に出ずる
曹操:その懈怠を撃ち、その空虚に出ずる。
李筌:懈怠を撃ち、空虚を襲う。
杜牧:その空虚を撃ち、その懈怠を襲う。
孟氏:その空虚を撃ち、その懈怠を襲い、敵をして備えるべきところを分からなくする。故に曰く、
「兵は無形を妙と為す」と。太公望は「動くは不意にするより神なるはなく、謀は識らざるより善はない」と。
梅堯臣、王ル:同上

52 :
(続き)
何氏:その備え無きを攻めるとは、魏の太祖(曹操)の烏桓征伐の例がある。郭嘉曰く「胡はその遠きを
恃み、必ず備えを設けざらん。その備え無きにより、卒然としてこれを撃てば、破り滅ぼすべきなり」と。
太祖は行軍して易水に到着した。郭嘉はまた進言して、「兵は神速を貴ぶ。今遠距離の敵を攻撃しているが、
輜重が多ければ、利点を追求しようとしても上手くいかない。軽装備部隊に裏街道から進出させ、奇襲を
追求するべきだ」という。即ち密かに廬龍塞に出で、直接単于の直轄地域に進出して戦い、大いに敵を
破った。また、唐の李靖は十策を述べてもって蕭銑を図るため、三軍の指揮を李靖に委任させた。
八月、兵をキ州に集めた。銑は当時秋潦にいたが、長江の水位が上がり、三峡の路が危うくなったため、
李靖は絶対進撃できないだろうと考えて、備えをしなかった。九月、李靖は兵を率いて進撃し、「兵は神速を
貴ぶ。機は失うべからず。今兵を集結させたことは、銑はまだ知らないはずだ。漲る水の勢いに乗り、
城下に至るならば、所謂疾雷耳を掩うに及ばず、ということになる。例えこの状況を知ったとしても、急な
ことで対応できるはずも無く、必ず我の捕虜になるだろう」と予測していた。(李靖の)兵が夷陵に至ると
銑は警戒しはじめ、江南の兵を動員したが、結局間に合わず、李靖の兵に包囲され、ついに降伏した。
(さらに続く)

53 :
(続き)
その不意に出ずるとは、魏末に鐘会とトウ(登の右におおざと)艾を派遣して蜀を攻めさせた例がある。
蜀の将姜維は剣閣を守り、鐘会はこれを攻めたが勝てなかった。トウ艾は進言し、「陰平から裏道を通って
剣閣を出て、西から成都に入りましょう。奇襲部隊が敵の重要地域を突けば、剣閣の軍は必ず救援のため
後退します。そうすればこちらも進撃できるでしょう。もし剣閣の軍が後退しないなら、成都を守る兵は
少ないままです。(そうすれば我が撃破できます。)軍志(不詳)には、その備え無きを攻め、その不意に
出ずるとあります。今その空虚を掩(おお)えば、必ず撃破できます。」と言った。冬十月になり、トウ艾は
陰平から無人の地を七百余里も進撃し、山を削って道を通し、橋等を作成したが、山は高く谷は深く、その
険しさは大変なものだった。また糧秣の補給も尽きかけ、危うく自滅するところまで追い込まれた。トウ艾は
自ら絨毯で身を包み崖から転がり落とさせたり、将士は皆木や崖を手がかりに上り下りし、真っ直ぐ
続けた。まず江油に登り至り、蜀の守将馬バク(しんにゅうの中に貌)は投降した。諸葛瞻は綿竹(線行)に
向かい、布陣してこれを防ごうとしたが、トウ艾はこれを大いに破り、瞻や尚書の張遵らを戦死させた。
さらに進軍して成都に至り、蜀の君主劉禅は降伏した。
(さらに続く)

54 :
(続き)
 また、斉の神武帝(北斉の高歓)が東魏の将だったとき、兵を率いて西魏を攻め、蒲坂に宿営して三道の
浮橋を作成し黄河を渡る準備をした。またその将竇泰を派遣し潼関を、高敖曹に洛州を包囲させた。西魏の将
周文帝(宇文泰の間違い?)が広陽から軍を出し、諸将を召して言った。「敵は今我を三方向から攻め、
また黄河に架橋して渡河し、我を牽制してその隙に竇泰を西から攻めさせるつもりだろう。持久戦に
なれば敵の策に陥り、良策ではない。且つ高歓の用兵では、常に竇泰を先鋒としているため、
その配下には精鋭が多く、しばしば勝っているために驕りが見える。今その不意に出で、これを襲えば
必ず勝てる。竇泰に勝てば、高歓は戦わずに逃げていくだろう」と。諸将はこれに対し、「敵がすぐ
そこにいるのに、先に遠い方を攻撃するなんて、失敗したら取り返しがつきません」と進言したが、文帝は
「高歓は以前潼関を攻撃しているが、その時我が軍は覇上までしか行っていない。今敵は、我が出陣してい
ないのを見て戦意が無いと思っているだろう。また敵は勝ちに乗っており、我を軽んじている。これに乗じて
攻撃すれば、勝てないわけが無い。敵は架橋しているが、まだ渡河はできないだろう。この五日ほどで
竇泰を必ず破る。疑うことは無い。」といい、六千騎を率いて長安に戻り、「隴右に行く」と触れ回らせた。
辛亥(日付、不詳)に密かに出陣し、癸丑(2日後)朝潼関に到着した。竇泰は敵が出現したと聞いて
慌てて山によって布陣したが、それが完成する前に攻撃され、文帝に撃破されて長安でさらし首にされた。
高敖曹は洛州を陥落させたところだったが、竇泰の敗北を聞き、輜重を焼いて城を捨て、逃走した。
(もういっちょ続く)

55 :
(続き)
張預:その備え無きを攻めるとは、つまり懈怠のところ、敵の予想していない時期に攻撃することだ。
燕が鄭の三軍を恐れたのに制(国名)に備えなかったため、制に破られることになったようなものだ。
不意に出ずるとは、虚空の地、敵が予想していない場所を攻撃することだ。トウ艾が蜀を攻撃したとき、
無人の地七百余里も進撃したようなものだ。
此れ兵家の勝(勢とするテキストもある。)、先には伝うべからざるなり
曹操:伝とは、漏洩のことである。兵に常勢無く、水に常形無し。敵に臨んで変化し、先に伝うべからざるなり。
故に敵を料(はか)るは心に在り、機を察するは目に在るなり。
李筌:備え無きと不意とは、此れを攻めれば必ず勝つ。これは兵の要であり、秘にして伝えざるなり。
杜牧:伝とは、言うことである。これは、上で述べられたことは尽く用兵上勝ちを得るための策ではあるが、
もとより一定の制度があるわけではなく、敵の形を見て、初めて運用することができるのであり、事に先んじて
言うことができない、ということである。
梅堯臣:敵に臨んで変に応じ宜しきを制するのであって、事前に予測できるものではない。
王ル:計略を策定し兵を運用するのには、いわゆる常法がある。しかし機に乗じ勝ちを決めることは、事前に
予測して伝えられるようなものではない。
張預:上で述べられたことは、兵家の勝策であるが、敵に臨んでこれを制するには、事前に予測して
言うことなどできるわけが無い。

56 :
それいまだ戦わざるに廟算して勝つ者は、算を得ること多ければなり。いまだ戦わざるに廟算して
勝たざるものは、算を得ること少なければなり。算多きは勝ち、算少なきは勝たず。いわんや算無きに
おいてをや。吾此れをもってこれを観れば、勝負見(あら)わる。
曹操:このようにして観察するのだ。
李筌:戦争とは、廟堂において勝ちが決まり、しかる後に敵と利を争う。およそ反乱軍を攻撃し遠方の
国を懐柔し、亡国を復活させ現状を維持させ、弱い国を併合しダメな国を攻めるのは、皆状況が
見えるものである。国内外で反目があるとき、例えば周が殷を滅ぼしたような戦争は、いまだ戦わざるに
廟算して勝つ者である。太一遁甲における置算の法は、六十算以上を算多きとなし、六十算以下を
算少なきとなす。攻者の算が多く算が少ない相手に当たれば、攻者が勝つ。攻者の算が少ないのに
算が多い相手に当たれば、防者が勝つ。このように勝負が簡単に判断できるのだ。
杜牧:廟算とは、廟堂の上で勝敗を計算することである。
梅堯臣:算が多ければ、戦う前の廟堂での会議で勝てると分かる。算が少なければ、戦う前の廟堂での
会議で勝てないと分かる。算が無ければ勝てるわけが無い。
王ル:この文は、読者が「先には伝うべからざる」というのを気にして、(廟算の意義について)混乱する
のを防ぐため、再び計編の意義について強調したものである。
何氏:計には巧拙があり、それが成敗につながる。
張預:昔は戦争をする前に、将軍を廟堂に呼び出して、成算があるか計算させて、その後に派遣した。
これを廟算という。慎重に策をめぐらせば、その計が得るところ多く、したがって戦う前に勝ちが明らかに
なる。計略が浅薄なものであれば、その計が得るところ少なく、したがって戦う前に敗戦が分かる。もし
計が得るところ無ければ、勝てるわけが無い。だから、「勝兵は先ず勝ちてしかる後に戦いを求め、
敗兵は先ず戦いてしかる後に勝ちを求める」と言われるのだ。計があるものと無いものとでは、勝負は
明白だ。

57 :
孫子 計編 了
底本:宋本「十一家註孫子」(北宋 鄭友賢編)
疲れた〜。13篇はとても続きそうに無いです。こんなに大変だとは思わなかった。

58 :
乙です

59 :
さあ、ここまでのを実際の戦史にあてはめて研究してみよう

60 :
墨子扱った本で何か良いのない?(墨攻って言わないでね)

61 :
三十六計とは、どんな内容ですか?

62 :
右手と床しか知らない

63 :
>60
韓非子

64 :
戦国策とポリュアイノスの戦術書とどちらが優れていますか?

65 :
>>64
後者は知らないが、戦国策は兵法書や戦術書の類ではないだろ。
あれはあくまで政治・外交に関する文言を集めた説話集。

66 :
>>61
逃げるに如かず

67 :
>>65
権謀術数も戦術の一つと考えれば、同列に批評は出来ると思うが。

68 :


69 :
グルジアの件が乱立傾向にあるな・・・保守

70 :
作戦篇
曹操:戦わんと欲すれば必ず先ずその費を算し、務めて糧を敵に因る。
李筌:先ず計を定め、然る後に戦具を修める。是を以て戦いを計の次の篇とする。
王ル:計を以て勝を知り、然る後に戦を興し軍費を具える。猶久しきを以てすべからざるなり。
張預:計算すでに定まり、然る後に車馬を完くし、器械を利し、糧草を運び、費用を約し、
もって戦備を作る。故に計に次ぐ。

71 :
孫子曰く、凡そ用兵の法は馳車千駟、革車千乗、帯甲十万
曹操:馳車は、軽車であり、四頭立ての馬車である。革車は重車であり、一万騎の輜重を運ぶ。四頭立ての車両で、三万人を率いる
が、(一車当り)二人の炊事係、一人の武器係と二人の馬係という5人の使用人がいる。歩兵十人当りには、牛が挽く大車で輜重を
運ぶが、それとは別に二人の炊事係と一人の武器係で3人の使用人がいる。帯甲十万と言うのは、それらを含めた士卒の数である。
李筌:馳車とは、戦車(チャリオット)である。革車とは、軽車である。帯甲とは歩兵の数である。車両1両は四頭立てであり、歩
兵70人を率いる。千駟の軍を計算すると、帯甲7万人と、馬4千匹になる。孫子は軍資の数を約するのに十万の軍をもって例とし
た。ここから、百万の軍でも計算可能だ。
杜牧:軽車とは、戦車のことである。古代では戦車で戦った。革車は輜重用であり、重車である。器械や財貨、衣装を搭載した。司
馬法に曰く、「戦車には甲士(乗員)3人、歩兵72人、炊事係10人、武器係5人、馬係5人、薪水係5人がつく。軽車は(戦闘
員)75人、重車は(後方要員)25人が付属する。」とある。故に(軽車と重車の)2乗を兼ね、100人で1隊とする。十万の
軍を動員すれば、革車千乗となる。それに必要とする費用を基準とすれば、百万の軍を動員した場合でも計算できる。
梅堯臣:馳車とは、軽車である。革車とは、重車である。凡そ軽車1乗には甲士歩兵25人が、重車1乗には甲士歩兵75人が付属
する。2車それぞれ千乗ずつ合わせれば、帯甲十万となる。

72 :
王ル:曹操は「軽車は4頭立てで、これを千乗」と書いているが、馳車とは革車を動かすことではないか。一乗に四頭を駟といい、
千駟即ち革車千乗となる。曹操は「重車」と言っているが、革車とは戦車のことではないか。五戎千乗の賦では、諸侯の大なる者を
指している。曹操は「帯甲十万とは、歩兵の数である」としているが、井田法によれば兵車一乗あたり甲士3人、歩兵72人であり、
千乗ならば7万5千人となる。ここで帯甲十万と言っているが、当時の兵制を反映したものなのだろうか?
何氏:十万とは、切りのいい数字にしたものだ。
張預:馳車とは、攻撃用の車両である。革車とは、防御用の車両である。曹公新書では、攻車1乗の前方に1隊、左右に2隊配置し、
合わせて75人。守車1乗には炊事係10人、武器係5人、馬係5人、薪水係5人の合わせて25人。攻守2乗を合わせて100人。
十万の軍を動員するときには、2千乗の車両を用い、軽重半々とする。この編制と同じである。

73 :
千里に糧を饋(おく)れば
曹操:千里に越境する。
李筌:遠くへ遠征する。

74 :
即ち内外の費、賓客の用、膠漆の材、車甲の奉、日に千金を費やし、然る後に十万の師興る。
曹操:報奨金はこの他にかかる。
李筌:軍が外征する場合、国内の蓄えはほとんど尽きてしまう。千金というのは、多額であることの例えである。千里の外に食料を
送るとしたら、二十人の後方支援要員で一人の戦闘員を養うことになる。
杜牧:軍でも諸侯との外交交渉を行うことがあるので、賓客の用というのを挙げている。車甲器械を完全な状態に修繕する他に、
膠漆と言っているのは、その微細な例を挙げている。千金とは費用の多さを例えたものだ。その他にまだ報奨金がある。
賈林:費用を計算して不足であれば、軍を動員するわけにはいかない。故に李太尉(李靖)曰く、「三軍の門には、必ず賓客の
論議がある。」
梅堯臣:十万の軍を動員し、千里に糧を送るのであれば、一日の戦費はこのように多額となるので、長期戦は避けなければならない。

75 :
王ル:内とは国内のこと、外とは軍の所要である。賓客とは、諸侯の使者が軍中に来た場合の饗宴等にかかる費用である。
膠漆や車甲とは、大きなものの例や微細なものの例を挙げたものである。
何氏:長期戦は財貨を浪費するので、智者はこれを懸念する。
張預:国を去ること千里になれば、食料は現地調達すべきである。もし国内から送るなら、内外は騒動になり、運搬経路で
疲労を招き、損耗は極まりない。賓客とは軍使の供応や兵士の慰労である。膠漆とは器械の修繕のことである。
車甲とは金属や皮革のことである。その費用として一日に千金を費やし、然る後に十万の師興るとしている。千金とは費用の多さを
例えたものだ。その他にまだ報奨金がある。

76 :
その戦に用いるや、勝つといえども久しければ即ち兵鈍り鋭挫け、城を攻めれば即ち力屈し
曹操:鈍るとは、疲弊することである。屈するとは、尽きることである。
杜牧:勝つの久しきとは、戦争が長引いた後に勝つということである。即ち敵と持久戦になったあげく勝ったということで、
甲兵は疲弊し、鋭気は挫け、城を攻めても人力は使い尽くされ失敗する状態である。
賈林:戦って敵に勝つといえども、長期戦では利益は無い。兵は勝ちを全うするを貴ぶもので、兵鈍り鋭挫け、
士傷つき馬疲れたようであれば、屈するだけである。
梅堯臣:勝つといえども長期戦では、即ち必ず兵士は疲弊し、軍の士気は下がっている。城を攻めて長期になれば、
戦闘力を出し切って屈してしまう。
王ル:屈するとは、困窮することである。長期戦になれば、軍は疲労し士気は下がる。攻城戦ならさらに甚だしい。
張預:戦闘を開始してから長時間が経ってしまうなら、勝ったとしても兵は疲れ士気は低い。千里遠征して城を攻めるならば、
戦闘力は必ず使い尽くされてしまう。

77 :
久しく師を暴(さら)せば即ち国用不足す。
孟氏:久しく千里の外に師を暴し衆を露(さら)せば、即ち軍国の費用は相供するに不足す。
梅堯臣:師を久しく外に暴せば、所要の物資を送ろうにも送りきれない。
張預:日に千金を費やし、師を久しく暴(さら)せば、即ち国の用を給することができるだろうか?漢の武帝が外征して深入りし、
長期戦になって泥沼にはまり、その国庫が空虚になるに及んで、哀痛の詔を下したようなものだ。

78 :
それ兵を鈍らせ、鋭を挫き、力屈し、貨を殫(つ)くせば、即ち諸侯その弊に乗じて起こり、智者ありといえどもその後を善くするあたわず。
李筌:十万の衆を挙げ、日に千金を費やせば、ただ外に頓挫するのみにあらず、また財は内に尽く。これをもって聖人は師を暴(さら)すことなきなり。
隋大業初年、煬帝は兵を重んじ外征を好み、力は雁門の下に屈し、兵は遼水の上に挫く。黄河から淮水まで運河を引き、広範囲から物資を輸送して
万里の外に出征し、国用不足す。ここにおいて楊玄感や李密がその弊に乗じて起こり、例え蘇威、高エイあるといえども、謀を巡らすことなど
できるわけがない。
杜牧:蓋し師久しくして勝たず、財力共に困窮し、諸侯がその弊に乗じて起これば、智能の士ありといえどもこの後のことを上手く処理することなど
できようはずが無い。
賈林:人離れ財尽き、伊尹・呂尚の生まれ変わりであっても、この亡敗を救うことはできない。
杜佑:当時用兵の術ありといえども、その後の患いを防ぐことはできない。
梅堯臣:勝ちを取り城を攻めるも、師をさらして久しいならば、即ち諸侯その弊に乗じて起こり、我を襲う。我に智将ありといえども制するあたわず。
王ル:その弊甚だしきをもって、必ず危亡の憂いあるべし。
何氏:その後とは、兵勝たず敵がその危殆に乗じるをいい、智者もその善計を尽くして全きを保つことができない。
張預:兵はすでに疲れ、戦闘力もすでに困窮し、財もすでに尽きている。隣国はその疲弊によって、兵を起こしこれを襲う。例え智能の人がいても、
その後患を防ぐことができない。呉が楚を討って郢に入り、久しく帰らず、越兵ついに呉に入る。この時伍員、孫武といった名臣はいたが、
この後のことを上手く図ることは結局できなかった。

79 :
故に兵は拙速を聞くも、未だ巧みの久しきを睹ざるなり。
曹操、李筌:拙いといえども、速きを以て勝つあり。未だ睹ざるとは、無いということである。
杜牧:攻取の間は、機知に拙いといえども、神速を以て上とする。師老(つか)れ、財費やし、兵鈍る患(わざわい)無きを、即ち巧となす。
孟氏:拙いといえども、速きを以て勝つあり。
陳r:所謂疾雷耳を掩(おお)うに及ばず、卒電目を瞬くに及ばず、ということである。
杜佑:孟氏に同じ
梅堯臣:拙くとも尚速きを以て勝つ。未だ巧にして久しきの可なるを見ざるなり。
王ル:久しければ即ち軍隊は疲労し財貨は費消し、国は空虚となり人は困窮する。巧とはこの患無きを保つことである。

80 :
何氏:速ければ拙いといえども、財力を費やさない。久しければ巧といえども、後患の生ずるを恐れる。後秦の姚萇と苻登が対峙していたとき、
萇の将苟曜は逆万堡に拠り、密かに苻登と通じた。萇は登と戦い、馬頭原に敗れ、敗残兵を集めてまた戦おうとした。姚碩徳は諸将にこのように
言った。「姚萇さまは軽々しく戦わず、計略で敵を倒した方がいい。今回の戦いではすでに不利、さらに敵と戦ったら、必ず失敗する。」
姚萇はこれを聞くと、姚碩徳に対し、「苻登の用兵は遅滞しがちで、虚実を知らない。今軽兵で直進し、道を吾東に拠っている。必ずや苟曜と
連結しているだろう。事久しければ変成し、その禍は測りがたし。それ故速戦すれば、苟曜の謀も成就せず、問題が困難になる前に押さえ込める。」といい、
果たして敵を大いに破った。また武后初年、徐敬業は江都に兵を挙げ、皇家を復すると称した。魏思恭を軍師とし、計略を聞いたのに対し、
魏思恭は次のように応えた。「武后が皇帝を幽閉したのが明らかであり、皇家を復するつもりで挙兵したなら、兵は拙速を貴びます。速やかに淮北に渡り、
自ら大軍を率いて、真っ直ぐ洛陽に入りましょう。山東の将士は、貴方が勤皇の兵を挙げたと知れば、皆死ぬまで従でしょう。このようにすれば、
短期間で天下は安定します。」徐敬業はそれに従おうとしたが、薜璋がこれに対し、「金陵の地には王気がすでに見えています。これに早く応じましょう。
長江を障害として地盤を固めるべきです。さらに常州や潤州を攻略し、その後から兵を率いて北上すれば、負けても帰るところがあるし、
勝てば不利なところはありません。良策ではないですか。」と進言したため、これを認めた。そして薜璋自ら4千人の軍を率いて南に渡り、潤州を攻撃した。
魏思恭は密かに杜求仁に対し、「兵勢は統一するべきで分割すべきではない。今魏思恭は兵力を分割して淮河を渡り、山東の兵を率いて洛陽で合一
しようとしているが、必ずや失敗するだろう。」と言っている。果たして徐敬業は敗北した。
張預:勝ちを取るには、むしろ拙速であるべきで、巧久はない。司馬宣王が上庸を討った時、一年かかるといわれた作戦を一月で済ませ、死傷者の数にかまわず、
糧秣を競争して運ばせた。これは拙速を欲したといえるだろう。

81 :
それ兵久しくして国が利するは、未だこれ有らざるなり。
李筌:春秋に曰く「兵は猶火のごとし。おさめざれば将に自ら焚す。」
賈林:兵久しければ功無く、諸侯に(逆)心生ず。
杜佑:兵は凶器なり。久しければ即ち変生ず。智伯が趙を囲み、年を越して帰らず、卒(にわ)かに襄子の擒(とら)えるところとなり、
身は死して国分かるるが若し。故に新序伝いわく「戦を好み武を窮め、滅びざるもの未だあらざるなり。」
梅堯臣:力屈し貨つくし、何の利かこれある?
張預:軍隊は疲れ財貨は尽き、国に何の利があるのか。

82 :
故に尽く用兵の害を知らざるものは、即ち尽く用兵の利を知ることあたわざるなり。
李筌:利害は相依るところに生ずる。先ずその害を知り、然る後にその利を知るなり。
杜牧:この害とは人を疲労させ財を費やすことで、この利とは敵を破り国境を開拓することである。我の害を顧みないのであれば、
今現在の味方であっても、敵国のために尽くすことになる。敵人から利益を得ることなどできるだろうか?
賈林:将が驕り卒は惰り、利を貪り変を忘れる。この害が最も甚だしい。
杜佑:国を謀り軍を動かし師を行うと言い、先ず危亡の禍を慮ることをしない。これでは利を取ることなどできない。
秦伯が鄭を襲うの利を見て、コウ函の敗を顧みなかったようなものだ。呉王が斉攻撃の功を知り、姑蘇の敗戦の禍を忘れたようなものだ。
梅堯臣:再籍せず、三載せずというのが利である。国民が虚となり、国庫が費やされるのが害である。害を知らずして、
利を知ることなどできようか?
王ル:久しければ勝てたとしても、害を生ずることになる。速ければその利を尽く収めることができる。
張預:先ず兵疲れ貨を尽くす害を知り、然る後に敵を擒え勝ちを制するの利を知ることができる。

83 :
善く兵を用いるものは、役は再籍せず、糧は三載せず
曹操:籍とは、兵役のことである。民を一度兵役に徴用し、その兵隊で勝ちを収め、帰国してからまた徴兵することがないということだ。
当初は兵糧を輸送するが、その後は敵地における徴発で食料を入手し、帰国するときも兵糧を準備することがないということだ。
李筌:籍とは、徴兵名簿のことである。再び籍に記載しないのは、民が疲労して恨みを生じることを恐れるのだ。秦が関中の卒を発し、
これにより陳勝・呉広の乱が起きたようなものだ。軍が出陣した後、遠近によりこれに補給し、帰国するとき兵糧を準備してこれを迎える。
これを三載という。越境したならば敵の穀物を徴発するようにすれば、三載しなくてもいい、ということだ。
杜牧:敵を攻めるべきと判断し、我も戦争ができると判断してから、然る後に兵を起し、敵に勝ってから帰国する。鄭司農の周礼註によれば、
役とは、戦争に動員することで、籍とは伍籍(兵籍)のことである。参籍ではなく伍籍というのは、内政のための徴用をもって
軍役に充てることを示している。この伍籍によって、軍を動員し、兵を徴用するのだ。
陳r:籍とは、借りることである。民を借り上げ徴用することだ。糧とは、出陣のときに積んでいき、帰国のときにこれを迎えるために準備する。
(この2回だけ準備するので)三載せずというのだ。兵は困窮せず、国力が尽きることも無い。速戦の利を説いている。
梅堯臣:陳rに同じ。
王ル:曹操に同じ。
張預:役とは、戦時に国民を動員することを言う。故に師卦註曰く、「任大きく役重く、功無ければ即ち凶」という。籍とは徴兵名簿のことであり、
漢の制度では尺籍伍符といった。一度の徴用で勝ちを収め、国内で再度の徴用などあってはならない、ということだ。兵糧は出撃時に積んでいき、
越境したならば敵の穀物を徴発し、帰国するときにこれを迎えるため準備する。これが三載せずということだ。以上のことは、
兵を久しくさらすべからず、ということを言っている。

84 :
用を国に取り、糧を敵に因る。故に軍食足るべし。
曹操:兵甲戦具は、国内の用で取る。糧食は敵に因る。
李筌:我の兵器を具え、敵の食による。千里に出師するといえども、欠乏することは無い。
杜佑:兵甲戦具は、国内の用で取る。糧食は敵に因る。資材や我が国から送り、糧食は敵の倉庫に因る。晋の師が楚の穀物を徴発し
保管したようなものだ。
梅堯臣:軍に必要な物資は国内から送り、軍の糧食は敵に因る。
何氏:因るとは、兵が国境を越えてからは、分散して徴発し、敵に勝ち城を抜くに及んでは、その蓄えを得ることである。
張預:器物の用を国に取るとは、(比較的)軽量で取り扱いやすいからである。糧食を敵に因るとは、兵糧は重くて輸送が困難だからである。
千里に糧を送れば、兵士に飢色あり。故に敵の食料を奪えば足りる。
国の貧しきは師が遠輸すればなり。遠輸すれば即ち百姓貧し。
李筌:兵役しばしば起こり、賦斂重ければなり。
杜牧:管氏曰く「粟三百里を行けば、即ち国に一年の積無し。粟四百里を行けば、即ち国に二年の積無し。粟五百里を行けば、
即ち衆に飢色あり。」こう言うとおり、兵糧は重量物なので、軽々しく輸送できない。輸送しようとすれば、農夫や耕作用の牛が徴用され、
田畑を失うことになる。故に国民は貧しくならざるを得ない。
賈林:遠輸すれば、即ち財は道路輸送で消耗し、転運に疲弊し、国民は日に日に貧しくなる。
孟氏:兵車を千里の外に転運すれば、財は即ち道路に費やされ、人は困窮者あり。
張預:70万家の力をもって、十万の軍隊を千里の外で補給することになる。即ち、国民は貧しくならざるを得ない。

85 :
師に近きは貴売し、貴売すれば即ち百姓財竭(つ)く。
曹操:軍が国境を越えていれば、軍の近くにいる商人は財を貪り、皆高く売りつける。そうすると住民はインフレで財産を失う。
李筌:軍に近ければ必ず軍市ができる。住民は自分の財産を買い上げられ、蓄えも尽きてしまう。
賈林:軍隊が集まるところでは、物価は皆暴騰する。住民は非常の利を貪り、財物を尽くしてこれを売る。初めは利を獲ること殊に多しと雖も、
終には当に力疲れ貨尽きるべし。またこういう説もある。すでに非常時の税がかけられており、売るものはとにかく高値で売ろうとする。
一般国民は力を尽くしてこれを買うも、自然と家も国も空虚になる。
杜佑:軍隊に近いところでは、市場には非常の売買が多く、その時は利を貪って高値で売るが、後には財貨を使い尽くしてしまい、
家も国も空虚になる。
梅堯臣:遠ければ役務で輸送し、近ければ利を貪り高値で売りつけてくる。皆国や民を貧しくする道である。
王ル:遠輸すれば人力を浪費し、近くで軍市を設ければ物価が騰貴する。これゆえに長期戦は国の患いである。曹操は
「軍が国境を越えていれば、軍の近くにいる商人は財を貪り、皆高く売りつける。」と書いているが、私は「軍が国境を越えようとすれば」
ではないかと思う。
張預:軍隊に近いところの住民は、必ず利を貪り、遠くから輸送してきたものも高くなる。即ち財力を使い尽くさざるを得ない。

86 :
財竭(つ)きれば即ち丘役に急なり。
張預:財力が尽きれば、即ち丘井の役を激しく迫り、国民はなかなか提供できなくなる。或いは曰く、丘役とは、
魯の成公が作る丘甲の如きを謂う。国用が急迫したため、即ち丘に甸が出すほどの兵士を出させるという、
平時と違う状態である。丘は16井(村落の単位)、甸は64井。
力屈し、財殫(つ)き、中原は家内に虚しく、百姓の費、十に其の七を去る。
曹操:丘は16井である。国民の財産が使い尽くされても戦争が終わらなければ、兵糧を輸送しても原野で力尽きる。
十に其の七を去るとは、破産することである。
李筌:兵久しく止まず、男女怨曠し、輸輓丘役に困し、力屈し財殫(つ)き、百姓の費、十に其の七を去る。
杜牧:司馬法に曰く「六尺を歩と為し、歩百を畝と為し、畝百を夫と為し、夫三を屋と為し、屋三を井と為し、四井を邑と為し、
四邑を丘と為し、四丘を甸と為す。丘は蓋し十六井なり。丘には戎馬1匹、牛四頭。甸には戎馬四匹、牛十六頭。丘には車一乗、
甲士三人、歩卒七十二人。」今兵解けずというは、即ち丘役益々急に、百姓糧尽き財竭き、力は原野に尽き、家業十のその七を耗す。
陳r:丘とは、集めることである。税金や兵士を集めて軍の所要に応じるが、このようであれば即ち国民の財産を尽くし、困らない人はいなくなる。
王ル:急とは、税を厳しく取り立てることをいう。魯の成公が丘甲をつくったようなものだ。このようであれば国民の財産の大半を使い尽くし、
公費も減ることになる。故に十分の七という。曹操は丘を十六井だとし、兵解けざれば即ち糧を運ぶに力原野に尽きる、としている。
何氏:国は民を以て本と為し、民は食を以て天と為す。人の上に居る者は、宜しく重惜すべし。
張預:糧を運べば即ち力屈し、餉を輸すれば即ち財殫(つ)く。原野の民、家産は内に虚しく、その費やすところを度(はか)れば、十にその七無し。

87 :
公家の費、車破り馬罷(たお)れ、甲冑矢弩、戟楯蔽櫓、丘牛大車、十に其の六を去る。(十に其の七を去る。とするテキストもある。)
曹操:丘牛とは、丘(村落の単位)が所有する牛である。大車とは、轂の長い戦車である。
李筌:丘とは、大きいことである。ここで出てくる物資は、皆軍需物資である。遠近の費、公家の物、十にその七を損じるという。
梅堯臣:国民は財糧や役務で軍の所要を満たすが、十の財産のうち七を使い尽くす。公費は牛馬や兵器を軍の所要に支出するが、
十の国財のうち六を使い尽くす。これをもって国費が尽き兵窮まり、国民は疲弊する。役務や税を無理に取り立て、民は貧しく、
国家は空虚となる。
王ル:楯とは、干(大型の盾)である。蔽とは、覆い隠すことができる、という意味である。櫓とは、大きい楯のことである。
丘牛とは、昔の言い方の匹馬丘牛である。大車とは、牛車である。易経に曰く「大車は以て載せる。」
張預:兵は車馬をもって本と為す。故に先ず車馬が疲弊したという。蔽櫓とは、楯のことである。今では彭排という。丘牛とは、
大きい牛のことである。大車は、必ずや革車のことだろう。始めに破車疲馬といったのは、攻戦で使う馳車のことである。
次に丘牛大車といったのは、即ち輜重に使う革車である。公家の車馬器械は、また十に其の六を損じる。

88 :
下がりすぎ

89 :
上げとく

90 :
90なら加藤ジーナとできる。
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※拒否や無効化,棄却、取り消しはできません

91 :
中国兵書を紹介してるサイトでどっかいいところある?
兵書買いたいのだけど

92 :
中国関連書類
ttp://www.h3.dion.ne.jp/~china/BOOK.HTML
ここくらいしか知らん

93 :
>>44
「撓める」の意味がよくわからないんだけど。。。
なだめるってことかな?

94 :
辞書ぐらい引け

95 :
故に智将は務めて敵に食む。敵の一鐘を食むは、我が二十鐘に当る。「草冠に忌」「禾干」一石は、吾が二十石に当る。
曹操:六斛四「豆斗」を鐘と為す。「草冠に忌」は、豆がらである。「禾干」は、稲藁である。石とは、百二十斤である。
転輸の法では、二十石を費やし一石を得る。一に曰く、「草冠に忌」の音は「忌」であり、豆のことである。七十斤を一石と為す。
吾が二十に当るとは、遠距離からの輸送にかかる費用をさす。
杜牧:六石四「豆斗」を一鐘と為し、一石は百二十斤である。「草冠に忌」とは、豆がらのことである。「禾干」とは、稲藁である。
或いは言う、「草冠に忌」とは、稲藁である。秦が匈奴を攻めるに、天下に糧を運ばしむ。黄「月垂」、瑯?、負海といった郡から起ち、
北河に転輸するに、三十鐘を率いて一石到る。漢の武帝の建元中、西南夷に通じ、作者数万人、千里に饋糧を負担し、
十余鐘を率いて一石到る。今孫子の言を校(はか)るに、敵の一鐘を食むは吾が二十鐘に当るとは、蓋し平地千里の転輸の法を
約すべし。二十石を費やし一石を得るは、道が遠いからというわけではなく、その間の消耗によるものだろう。黄「月垂」とは、
音は直瑞の反、又音は誰と読む説もある。東莱にあり。北河とは、今の朔方郡である。
李筌:遠くの師に一鐘の粟を転ずるに、二十鐘を費やしてまさに達すべし。軍将の智なるは、務めて敵に食み、己の費やしを省くなり。

96 :
孟氏:十斛を鐘と為し、千里を転運するを計れば、道路に耗費し、二十鐘も軍中には一鐘致すべし。
梅堯臣:曹操に同じ。
王ル:曹操は「「草冠に忌」は、豆がらである。「禾干」は、稲藁である。石とは、百二十斤である。転輸の法では、二十石を費やし一石を
得る。」といっているが、上の文で千里に糧を饋るとは、つまり転輸の法の例えで千里と言っているだけだろう。「草冠に忌」とは、今は
「箕」と作る。「禾干」とは、昔は「芋」と書く書もあったが、「禾干」とするべきである。
張預:六石四「豆斗」を鐘と為し、百二十斤を石と為す。「草冠に忌」とは、豆がらのことである。「禾干」とは、稲藁である。千里に糧を
饋(おく)れば、二十鐘・石を費やして、一鐘・石を軍に到るところとして得る。若し険阻を越えれば、即ち猶足らず。故に秦の匈奴を
征するや、三十鐘を率いて一石到る。この言は将に必ず敵に糧を因るべきだ、と言っている。

97 :
故に敵をは、怒なり
曹操:威怒敵に到る。
李筌:怒とは、軍威なり。
杜牧:万人が心を同じくして皆怒ることなど出来はしないのに、我が之を激して勢いに任せることだ。
田単が即墨を守るに、燕人をして降者の鼻を切らせ、城中人の墳墓を掘らしめたようなものだ。
賈林:人の怒ることなければ、即ちことを肯んぜず。
王ル:兵は威怒を主とす。

98 :
何氏:燕が斉を即墨に囲んだとき、斉の降者は尽く鼻を削がれ、斉人は皆怒り、愈々堅守す。田単はまた反間により曰く、「吾は燕人が
吾が城外の塚墓を掘り、先人を辱めるのを懼れる。寒心を為すべし。」燕軍は尽く墓を掘り、死人を焼く。即墨の人は城の上から望み見、
皆泣いて、出でて戦わんと欲し、怒りは自ずから十倍す。田単は士卒が用いるべきと知り、遂に燕の師を破る。後漢の班超は西域に
使いし、ゼン(善におおざと)善に到る。その吏士三十六人と会し、共に飲む。酒酣となり、激怒によりて曰く「今共に絶域にあり、大功を
立て富貴を求めんと欲す。虜使は到って数日にして、王の礼貌即ち廃す。吾が属を匈奴に送り、骸骨は長じて豺狼の食とならん。」
官属皆曰く、「今は危亡の地にあり、死生は司馬に従わん。」班超曰く、「虎穴に入らずんば虎児を得ず、今に当っての計は、独り夜に
因りて虜を火攻するのみ。彼に我が多少を知らざらしむれば、必ずや大いに震怖せん。皆殺しにできるだろう。この虜を滅すれば、
即ち功成り事立たん。」衆曰く「善し」と。将吏士虜営に奔る。天の大風に会い、班超は十人に鼓を持たし
め、虜舎に隠し、約して曰く、「火が燃えるを見れば、当に皆鼓を鳴らし大いに叫ぶべし。」余人は尽く弓弩を持ち、門を挟んで伏す。
班超は風に順じ火を放ち、虜衆は驚き乱れ、衆尽く焼死す。蜀のホウ(まだれに龍)統は劉備に益州の牧劉璋を襲わんと勧めるも、
劉備曰く「此れは大事、倉卒にすべからず。」劉璋が劉備に張魯を撃たんと使いするも、(劉備は)劉璋に従うが万兵と資宝を求め、
東に行かんと欲する。劉璋はただ兵四千を許し、その余も皆半ばを給す。劉備は激怒によりその衆に曰く、「吾は益州の為に強敵に
征し、師徒は勤めに疲れ、寧居する暇あらず。今帑蔵の財を積み、しかして賞功に吝たり。士大夫為に死力を出だして戦わんと
望むも、その得べきや。」これによりて相ともに劉璋を破る。
張預:吾が士卒を激し、上下同じく怒らしめれば、即ち敵べし。尉繚子曰く「民の戦う所以の者は、気なり。」気怒れば人々皆
自ずから戦うを謂う。

99 :
敵の利を取るは、貨なり。
曹操:軍に財無ければ、士来たらず。軍に賞無ければ、士往かず。
李筌:利は軍の実を益するなり。
杜牧:士をして敵の利を取るを見せしむるは、貨財なり。敵の貨財を得るに、必ず之を賞するをもってすれば、人皆欲有りて、各自為に
戦わしむる。後漢の荊州刺史度尚は、桂州の賊帥卜陽、潘鴻等を討ち、南海に入り、その三屯を破り、多く珍宝を獲る。
しかして潘鴻等党は猶衆を集めるも、士卒は驕り富み、闘志あるなし。度尚曰く「卜陽潘鴻、賊をなすこと十年、皆攻守を習う。
当に須らく諸郡力を併せて之を攻めるべし。今軍は射猟をほしいままにす。」兵士は喜悦し、大小相共に禽に従う。度尚はすなわち密かに
使いして人を潜ませ、自らの営を焼く。珍積皆尽き、猟者来たり還りて泣かざるなし。度尚曰く「卜陽等財貨、数世を富ますに足る。
諸卿ただ力を合わさざるのみ、失うところは少なし。何の意に介するに足るか。」衆聞きてにわかに憤踴し戦を願う。度尚は馬に秣し
食を蓐し、明晨賊屯に赴く。卜陽、潘鴻備えを設けず、吏士鋭に乗じ、遂に之を破る。之すなわち是なり。
孟氏:杜牧に同じ。
杜佑:人敵に勝ちて厚賞の利あるを知れば、即ち白刃も冒し、矢石に当る。進戦を楽しむものは、皆貨財酬勲賞労の誘いなり。
梅堯臣:敵をは、即ち吾人が怒りをもって激すればなり。敵を取るは、即ち吾人が貨を以て利すればなり。
王ル:厚賞を設けるを謂うのみ。衆が利を貪り自ら取らしむるごときは、或いは節制に違うのみ。
張預:貨を以て士に食らわせ、人をして自ら戦いを為さしむれば、即ち敵の利は取るべし。故に曰く「重賞の下、必ず勇夫あり」と。
皇朝の太祖が将に命じて蜀を討つに、諭して曰く「獲得した諸州や町は私のものだ。しかしその間に手に入れた敵の財貨をもって
士卒に振舞え。国家が欲しているのは土地だけだ。」ここにおいて将吏は死戦し、至る所は皆下して、遂に蜀を平らぐ。

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