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2013年02月戦国時代31: 戦国ちょっといい話36 (317) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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戦国ちょっといい話36


1 :2013/01/05 〜 最終レス :2013/02/06
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1356968224/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/

2 :
>>1

3 :
「そくしぼうし」を変換したら即死法師になってしもうた

4 :
その法師様は森殿の前に立ちふさがりでもしたのでしょう
南無阿弥陀仏

5 :
軍評議の事
永正七年三月上旬の事なるに、治部大輔江北中の諸士を廻文をまはし召集め相談して申けるは、]
佐和山の城を六角かたへ被2乗取1、江北の恥辱此所なり。
何とか思案をめぐらし江北へ切かへし可レ申旨、屋形被2仰出1候にいかにと申ければ、
堀能登守頼貞、磯野伊予守員吉申けるは江南の侍共に江北の侍共まくべきにあらざれと
屋形の御出馬も候はず。又は侍中間も和せざるゆゑに先年六角方へ乗取候。
今度はよく/\人数を組給ふべし。惣じて軍法を相定めらるべしと申せば泰貞申けるは先佐和山の一里此方、
米原太尾山に要害を拵此方出張の足たまりにして、人数二手にわかち、
海手へまはし磯山に楯籠る小河孫七郎を責べし。其内に観音城より六角勢をいださるべし。
此方人数はすりはり米原の難所に陣取対陣して相戦べしと被レ申ければ、列座同音に尤よろしかるべしと申上れば、
さあらは日限を相定べしとて同十六日、打立べしとの手はづをとり其日の評議はやみにけり。
浅井三代記

6 :
だから何なのさ

7 :
>>5
ここのコピペじゃねーか
http://www.ikedakai.com/bunken/asai.html

8 :
>>7
酷でぇ。ホントに丸コピーじゃねーか。

9 :
前スレ最後あたりで、また「いい話だ」の基地外が湧いたから、
これもたぶんそいつの仕業だな。Rばいいのに。

10 :
流れを変えたいので雑談
天正2年(1574)1月、佐竹に土浦城を攻められた際、
もう落城という時に、天庵様を逃がす時間稼ぎのため
佐竹の陣に斬り込んだ十六騎の武者のひとりが俺の先祖なんだが。
どうにか逃げ延びたらしい。
これは自慢できる?微妙だよねw

11 :
佐和山へ押よする事
かくて上坂治部大輔泰貞は同十日に屋形へ参扣して軍評議を申上けるに、
高清入道打えみ給ひて首途の御祝儀として御秘蔵の御馬御重代の御腰の物を給はる。
同十一日には治部大輔横山へ取のぼり味方の勢を揃見んとて同姓信濃守、同伊賀守、
同掃部頭をめしぐして其日の辰の刻ばかりに打出給ふに内々江南勢にあなどられし事をいきどをりければ我も/\
と馳あつまる。先一番に磯野伊予守員吉、同右衛門大夫員詮、子息源三郎為員、井の口宮内少輔(
後弾正にあらたむ)、大野木土佐守秀国、三田村左衛門大夫定元、西野丹波守家澄、同與八郎氏常、
安養寺河内守勝光、浅見対馬守俊孝、阿閉三河守貞義、堀能登守頼貞、野村伯耆守直定、
同肥後守定元、今井肥前守頼弘、新庄駿河守信家、横山掃部頭家盛、同肥後守、
千田伯耆守有義、子息帯刀、東野左馬助行成、熊谷弥次郎、同新次郎、伊部清兵衛尉為利、
大橋善次郎秀元、浅井新次郎教政、野一色、片桐富田、尾山彦右衛門、田部助七、
木村海北助左衛門、同善右衛門、雨森主計、同弥兵衛、赤尾與四郎、同筑後守、
同孫三郎、宗徒の侍として四千余騎雑兵共に二万余とぞ申ける。かくて治部大輔御名代を仕るしるしとやおもひけん。
物頭の方へ酒肴を出しければ上下さゝめき喜びける。斯て泰貞物頭共に向て申けるは、
某屋形の御名代を申上ると云ども江北の諸侍などが下知にしたがひ給はんと思ひしに、
如レ此残らず出馬せらるゝ事満足なりと悦びて、さあらば打立べしとて永正七年三月十六日に横山を立て、
米原口へ押出す諸勢三手にわくる。堀能登守、新庄駿河守、野村伯耆守、
同肥後守浦手へ向ふ。大野木、三田村、阿閉、西野は醒ケ井口へまはる。
治部大輔は残る勢を召具し米原山に陣取る。斯て佐和山の城へ江北の軍勢残らず馳向ふよし、
かねてより風聞すれば観音城へ注進す。観音城には定頼、義実打より物頭共よび集め軍評議をとげ給ふ。
末座の若者共あなどり申けるは何そ評議し給ふ。物頭一人被2仰付1なば、我々罷越即時に敵を追払ふべしとて、
手に取るやうにそひしめ、きける中にも進藤山城守(父山城守なり)、後藤但馬守進み出て申けるは、
今度は御大事の戦ひなるべし。数年鳥井本口にをいて相戦へと佐和山へは敵に足をためさせざるに、
今かくもよほして来たる事は無二の一戦とげんとの儀たるべし。屋形の御出馬尤たるべしと申ける。
かくて寄手の勢は三方より押まはし、鬨を憧とあげ先遠取巻にぞしたりける。城中にはしつまつて防き、
矢も射さりけれは、治部大輔此由を見て、使番を以て味方の軍勢率爾に責よすべからず。
江南より多勢もよほし後巻有べきとおもふなり。様子を見て明日未明より責べきとて、其夜は軍をやめ陣取て太尾の要害こしらえける。
(浅い三代記)
お前ら歴史好きなら訳してみ?低レベルなのはいないよなwww

12 :
コピペしないと誤字がひどい低レベルなのはいるみたいですが

13 :
訳せなくて悔しいのか

14 :
誤字がひどいって誰と間違えてるんだ

15 :
>>10
ええやんか
ご先祖様はここのアイドルを逃がすために体を張った勇士だぞ

16 :
そういや上坂って爺さまにハメられたんじゃねえかな
って思うわ

17 :
訳せない簡単な古文も読めずに逸話だけを口パクして求めてるゴミどもですね

18 :
細川家中た伊達家中が俄に騒がしくなってきた気もしますが
展示品だし略奪もムリですので大人しく入場券を買いましょう

http://mainichi.jp/select/news/20130108k0000m040124000c.html
王羲之:「書聖」唐代の模本発見 東京国立博物館で公開へ
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1569
日中国交正常化40周年 東京国立博物館140周年 特別展「書聖 王羲之」
平成館 特別展示室 2013年1月22日(火) 〜 2013年3月3日(日)

19 :
>>17
はいはいここはレベルが低いスレです。これで満足か?
ところで、お前は訳せるのか?コピペするだけなら今時の小坊にもできるぞw

20 :
王羲之と言えば、米?さんもおもろい人なんだよね・・・

21 :
軍評議の事
1511年の3月上旬のこと、治部大輔は江北中侍を廻文で集め相談して言うには
佐和山の城が六角方に切り取られてしまった、これは江北の恥である。
なんとか思案をめぐらして切り取られた江北(佐和山のこと)へ反撃したいと言い
屋形にこれの命令はどうしますと申すと
堀能頼貞、磯野員吉は[江南の侍共に負けるべきにあらず
屋形も出馬するはず、そして侍や中元も結束しなかったので先年六角方に乗っ取られてしまった。
今度はよくよく人数を組み与えるべしすべて軍法を定めるべき」と申した。
米原太尾山に作り、兵の拠点とし、人数を二手に分け海手に送り磯山に籠る小河孫七郎を責める。
後ほどに観音城より六角勢をが出てくるであろう。
その時は軍勢をすりはり米原の難所に陣取って相対すべしと申し上げれば、満場一致でこれはよろしいと皆が賛同した
それならば日時を定めるべきとし16日には打ち立てるべきとの手筈を行いその日の評議は終わりを迎えた
(浅井三代記)

22 :
組み与えるべし×
組みたもうべき→組むべき○

23 :
毛利元就が出雲に出陣した時のこと。
ある日、元就の具足箱の上に、夜の内に誰が置いたともなく、絹の袋に入った一巻の書があった。
元就は大変不審に思い、これを開いて中を見てみると、なんとそれは、軍法礼書数箇条が書かれた巻物であった。
これを見て元就は「これはきっと、軍神が我等に下された御勅宣である!」と有り難さに大いに喜んだ。
そして常には拝見することを恐れ慎み、最初の三ヶ条は人にも見せていたが、その後は他者に明らかにせず、
件の袋に納めて、これをお守りのようにして信仰されたということである。
(吉田物語)
毛利元就も元に現れた、謎の軍書についての逸話である。

24 :
>>23
もしやこれが日本最古の兵法書、闘戦経なのか?

25 :
第四条以降には「衆道のやりかた・実践編」が書かれていたりして

26 :
>>25
デートの誘い方から相手が死んだときにやるべきことまでみっちりと…
っておいw

27 :
いきなり導入しようとしても反発あるから神仏の加護という権威付けをしたというところですかね

28 :
軍神「無くしたと思ったらそこにあったのか!我が越後に返してくれ」

29 :
>>23
これはいい話なのか?
確かに都合の良い話には違いないが。

30 :
>>24
いや、多分これ元就の書状によく出てくる「張良か一巻之書」だと思われ。
今でも毛利家の家宝になってるはず。
隆元と輝元の書写本は公開されてるけど。
内容ですが兵法書というよりは呪術書です。

31 :
ある時、毛利元就が遠国への調略のため派遣した家臣が、道中や調略先での状況により、
見咎められるような事態に陥り、様々な偽りを言ってどうにか切り抜け、危うい命を助かり
帰国する道すがら、つくづく思った。
『武士の奉公ほど難儀な物はない!帰城したら早速、御役御免を申し上げ、所領を子供に譲って
隠居し、山中あたりに引き籠って余生を過ごそう!』
そう決心し帰国し出仕すると、すぐに目通りを許された。
元就が先方の様子を尋ねた時、この家臣はそこで難儀に遇ったことを申し上げた。
すると元就、これを聞くやボロボロと涙をこぼした。
そして様々な忝い御意を示し、さらに褒美をその手自ら下した。
このような元就の態度にこの家臣は、さっきまでの決心はどこへやら、
『また明日であっても御用が申し付けられたら、どこの国であっても必ず参る!』
という気持ちになったそうである。
(吉田物語)
毛利元就の家臣操縦法?についての逸話である。

32 :
仙人、黄石公から兵法書もらうには早起きしなきゃならないと聞いた

33 :
毎日ハンコを押してもらうのだな?

34 :
>>32,>>30
張良さん、夜中に出かけてやっとこさ入手できたんじゃなかったっけ
まあ、半分以上伝説だろうけど

35 :
>>31
元就「では、天竺にありがたいお経を取りに行ってくれないかのう?」
家臣「・・・その前に強い猿を探してきます。」
秀吉「へっくしゅん!」

36 :
昔のことを調べていると、
一つの事柄にもいろいろな説があり、これだと決めかねる場合がある。
そういう時はわからないものはわからないとすればよい。
三条西実教卿の言葉に、
「わからないことの中には、わかるようにしてあるものもあり、
また自然にわかるようなこともあり、
いくら考えてもわからないこともある。
それが書物の面白さだ」
というのがある。
いかにも深遠な言葉だ。
神秘に閉ざされたこと、広大無辺なことはわからなくて当然だ。
簡単にわかることは浅はかな知識のみである 【葉隠】

37 :
>>35
ラスボス「儂は唐天竺を平定する事にしたぞ
ついては言い出しっぺの法則で出陣ヨロシク頼むわ!>TERU」

38 :
>>37
TERUは言ってないよ(涙)

39 :
現状三条放置だなんてそんな殺生関白な…

40 :
磯山の城責落す事
翌日十七日未明より浦手へ向ひし堀能登守、新庄駿河守、野村伯耆守、同肥後守此四人の人々磯山に楯籠る松原弥三右衛門尉成久か城へ押よせ鬨を憧と作ける。
城中よりも、二百五拾騎にて打て出て、明神山の上にてしばしか程はさゝへしか。
味方六百余騎面もふらず切てかゝればこゝは防ぎがたき所なりとて、城へ引取り門をちやうとうち城を丈夫にかためたり。
観音城には佐和山表へ敵働き出るとて、定頼卿諸卒引具し出張し給ふ。
相つゞく人々には、進藤山城守、後藤但馬守、伊庭美濃守、目賀多伊豆守、蒲生筑後守、三上伊予守、平井加賀守、落合因幡守、永原安芸守、
奈良崎源五左衛門尉彼を宗徒の大将として、都合其勢九千三百余騎の着到にて、十七日辰の一天に観音城を立て佐和山表へ進発すばや、
前勢は清水村平田辺までみち/\たり。それより二手にわけ、一手は上道佐和山海道へ打むかふ。一手は海手へをしまはす。
上道の士大将には進藤山城守なり。相つゝく人々には伊庭、目賀多、三上、蒲生、永原四千余騎にてかけむふ。
海手の大将には後藤但馬守相したがふ人々には奈良崎源五左衛門、
平井加賀守二千五百騎にてかけ向ふ。定頼旗本平田山に二千五百騎にて落合因幡守并に御馬廻衆守護し申さるゝかゝりける所に、
磯山の合戦急なる由注進したりければ、後藤一里半計の所をもみにもんでぞ急きける。かくて味方は見次勢きたらぬさきに攻落すべしとて喚叫て、
攻入けるにはや惣かまへを打破四方八方より込入れは城中には塀際まで近づくすきまもなく、
あるひは射立又は切て出、命も不レ惜防ぎける。後藤五十町濱をすぐに打て急ぎけるか。去夜雨車軸に降て四川水増り、
白浪せかいを打夥敷中々可レ渡様もなかりけり。此磯山と申は、東は佐和山の尾つゝき二町ばかり聞きれ入江廻て底ふかく、
南は四ツ川常は歩わたりなれども、入江/\の水すそなりければ、水出ぬれは二町ばかりも海の面になり可レ渡たよりなし。
西は湖水渺々としてきはもなし。北も入江に引つゝむ入江と海の間はゝ一町半ばかりの陸路あり。
磯築間朝妻と詠せし村も此間に打つゝき味方は大きに道の便もよし。南はこれに打かへて以の外の難所なればよせて川端にしばらく猶予してゐたりける奈良崎、
後藤に向ひ舟にて渡すべし。いかゞ候らんと申ければ、後藤尤とて舟をそこ/\にもよほそけるに、
やゝ時刻も移ける。味方は是に気を得て四方すきまもなく、取囲み息をもつかせず攻めたりける。野村堀に向て言けるは、敵は四ツ川のあなたにひかえたり、
昨夜の雨にて水さぞ深かるらん、渡る事はなるべからず。是も天のあたへなれば此図をぬかし給ふな。或は敵のをさへにむかふべしと云をてゝ
明神山の麓に百四五十騎ばかりすくつて、一文字に攻よする敵を待たりける。後藤もさすが功有兵なれば兵船七八艘をし出す。奈良崎心やさぞせきぬらん。
平駄といふ小舟三艘に取のり、一文字にをしぬけんとす。肥後は此由見るよりも明神山の高みより敵を見おろし、さしづめ引つめ雨のふる如く射たりけり。
よせても舟よりいく程ともなく射いたしけれども、味方は高み敵は海上なれば、味方事ともせず防きければ、
さしも進む佐々木勢舟をよせかねてぞゐたりける。味方の兵ども卯の刻より午の刻迄の戦なれば少たゆむやうに見ゆれば、
堀、新庄大音あげてきはわづか三百には不レ可レ過。かほどの小城をせめあぐむか、見次勢は川を越かぬると見えたり。不レ来。
さきに攻取と下知すれば、塀逆もきどもいはず、乗越/\攻入けるに、城中の者共弥三右衛門が郎等七八人踏留て戦ひ、枕を並て討死す
。其隙に成久は腹かき切てぞ失にける。江北方の者どもは城を攻取剰弥三右衛門討取悦事は限りなし。今日の軍に敵雑兵百十三騎討とれば、
味方も四十八騎ぞうたれにける。奈良崎は眼前にて味方をうたせしがのみならず城を敵方へ取れぬれば、猶も舟をしよせ、肥後と勝負を決せんとしたれども、
後藤物なれたる兵なれば、奈良崎を怒て申けるは、尤敵は今朝よりの軍につかれたりとは申せども、おもふまゝに打勝いきほひかゝつたる時節なり。
殊に舟の上にてのかけひきかなひがたし。一旦利ありとも後の大事たるべしとて、其陣十町引取五十町濱に備立てぞゐたりける。磯山討手の者共も敵人数を引とれば、磯山に陣取りしばらく息をぞつきにける。
(浅い三代記)

41 :
 ある時、本阿弥光悦は小袖屋が所蔵している瀬戸の茶入れを見て気に入り、小袖屋の主人と
交渉して金30枚で茶入れを購入することになった。
 持ち合わせがなかった光悦は金10枚を自宅を売り払って手に入れ、残り20枚を人から
借りてそろえた。それを聞いた小袖屋は、そこまで執心してくれるのであればいくらか値引き
しましょうか、と申し出たが、光悦は「値を引くなら買うまい。この茶入れは金30枚の価値が
ある立派なものだ。それ以下の値で買うのは偽りである」と言って、結局、金30枚で買った。
 京都では この話が評判になり、人々は光悦のことをおかしな奴だと言ったが、家康がその話を
耳にすると、「いやいや、見事である。さすがは光悦である」と、ほめたたえた。

42 :
借金が多過ぎると、もはや細かい事は考えなくなると…

43 :
金そろえるのに身の回りの物全部売るぐらいならまだしも、
自宅を売り払うって発想はさすがに無いわw
さすが芸術家は一味違うw

44 :
30両の茶入れを抱えてスタイリッシュ住所不定

45 :
>>30
遅ればせながら、ありがとうございます
呪術書をチラ見させたり隠してみたりと大はしゃぎの元就さん
可愛いというか恐ろしいというかw

46 :
????「ものを作れれば金はいくらでもつくれますぞ、ゲヒヒヒヒ」

47 :
徳川家康は毎度秀忠にこのように教訓した。
「我が領分は勿論、天下一統後の公領の民百姓までも我が子孫万代を
願っていると聞く。それは三河以来の旧例で年貢の取箇目方を諸家よりは
少分に取れと申し付けているからだ。
この法を子孫まで第一に守るべきなのはもちろんだが、注意すべきなのは、
太平が続いて上は奢り下はへつらうようになり国用も乏しくなってくると、
勘定奉行などは取箇の少ない時に代官に不平の顔色をしてきちんと勤めろ
と言うようになり、代官も今が良ければよしとして後に構わず法外の年貢を
取立てて百姓を困窮させ、上を疎むようにさせてしまうのだ。
左様な不了見の勘定奉行を御為めなどと言って、年寄どもや側近どもが
立身を取り持ち、加増をも遣わすようになったなら、それは国家の衰微と
知るのだ。
我が百年の後でさえも、天下兵革が起こるような事にはならないだろう。
ただ、百姓の心は離れ、上の冥加気運も薄くなることが、歎かわしいこと
なのである。斯様の事は、中主奉行以下は、執政の者の志次第である。
水は能く船を浮かべるがまた船を覆す。ただ、この事をよくよく心得られよ」
――『良将言行録』

48 :
ミンス糖の連中に聞かしてやりたい言葉だ

49 :
大増税してしまう吉宗さんであった。

50 :
百姓は生かさず殺さずだな

51 :
佐渡「俺そんなこと言ってないのに(´・ω・`) ショボーン」

52 :
諫言をするには言葉の使い方が大切であろう。
殿を、何もかも完璧な欠点のない聖人君子に育てて差し上げよう、
などと思いながら諫言を申し上げたなら、
聞き入れてもらえないばかりか、かえって害となる。
「趣味、娯楽のことなどは、好きなことをしてください。
民、百姓が安穏に暮らせるように、
また家中の武士どもが気持ちよく奉公できるように、
これだけをいつ何時にも心の片隅にあるようにしてくださるなら、
下々の方から国のお役に立ちたいと考えるようになるので、
自然と国の政治はうまくゆくものです。
これならさほどお骨の折れる難儀なことでもございません」
と申し上げたなら、殿も納得がゆくであろう。
すべて諫言や意見は和の道である。
じっくり話し合わなければ役に立たない。
あとひとつ、諫言意見するとなるとやたら礼儀に拘り堅苦しくなる者があるが、
諫言、意見の場では堅苦しく改まった言葉使いだと、
角を突き合わせる形となって、簡単なことも難儀となり直せなくなるものだ【葉隠】

53 :
長政「!!」

54 :
黒田家のアットホームな雰囲気が正しかったんだ

55 :
同じことを言うにしても、言い方ひとつってことだね。
でも、そんな器用な人間ばっかりではないわけで・・・
>>54
アット・・・ホーム・・・?

56 :
 ある時、本阿弥光悦は家を売ったり借金したりして集めた黄金30枚で見事な瀬戸の茶入れを購入した。
その後、光悦は伏見にある前田利長の屋敷を訪れて その茶入れを使って茶を点てた。その時、その茶入れを
気にいってしまった前田利長は白銀300枚で買い取ろうと申し出たが、「お見せするために持ってきたので
あって売り買いのために持ってきたのではありません」と言って光悦は断った。
 そして、家に帰った光悦がこの一件を母の妙秀に伝えると、妙秀は「よくぞ断った。もし その白銀を
受け取ったら、せっかくの茶入れがすたるところであった。そのような根性では そなたは生涯 茶の湯を
楽しむことが出来なかったであろう。よくぞお請けしないできた」と、大いに喜んだ。

57 :
>>55
就職情報誌「初心者大歓迎!アットホームな職場です」

58 :
この母にしてこの子か。
つーか前にも逸話に出てたなと思って今まとめ確認したら
本阿弥光悦の逸話の半分にこのオカアチャン絡んでたんですけどw
信長に飛び付いたり何モンなんだ一体。

59 :
この時代そういうやせ我慢を強いるのが流行ってるよね
現代の人で経済的に余裕のない人ならほぼ売り飛ばすだろうに

60 :
清貧を美徳化した話をバラ蒔いてビンボー武士たちの不満を抑えてたのかねー。嫌だなー

61 :
この茶入については評判を守ることに比べれば300両では足りないということじゃないの?

62 :
>>60
う〜ん、金には執着してないけど物には恐ろしく執着してるから清貧ではないような。
むしろ物欲の権化・・・。ベクトルの向きはアレだけど。
この時代の茶人て変人ばっか?

63 :
師匠がゲヒ殿だし

64 :
これはつまり、30金で買った茶入を300金で転売するような、そんなマネは本阿弥光悦はしない、って話だろ。

65 :
単位が違うから等価なのか大儲けなのかもピンと来ない

66 :
金1枚は10両。銀1枚は銀43匁に相当。
当時の換算レートが金1両=銀50〜60匁くらいだから
金30枚より銀300枚の方が価値が低いかも。

67 :
それって、利長が安く買いたたこうとしたってこと?
さすがは前田の家系…って悪い話になっちゃったぞw

68 :
そうなるねw
そのころには既に
金銀の品位鑑定は試金石でかなり精度よくできるように
なっていてふつうは純度だけで計算するのだけど、
すごく品位の高い銀塊はそれ自体の貴重さもあって
すこしプレミアが付いたらしいけどね。
白銀というのがそれなのかな?

69 :
>>57
後藤又兵衛「ブラック田の家中に仕えてるんだが、もう俺は限界かもしれない」

70 :
>>64
そうそう、気に入ったから買ったのであって
金儲けのために買ったわけじゃあないってプライドの話だよね

71 :
徳川家康は武田勢の遠州田中城を攻めること数ヶ月に及んだが、
いまだ落とすことはできなかった。城中には西郷伊予という者がいて
しばしば戦いに及んだが、彼は驍勇比類無き人だったので家康は憂いていた。
ある夜、老兵たちは菅沼大膳(定盈)と西郷を討つ術を考えていた。
この時、十八歳の侍臣朝日千介が進み出て「私なら西郷の首を取れます」
と言った。菅沼はこれを聞いて「お前のような小僧に何が分かるか!
西郷の剛勇は諸老輩といえども易々とはいかないほどだぞ。
それを妄りに討つなどと口にするとは傲慢不遜も甚だしい!」と叱責して
手を払って下がらせた。千介は退くと「明日を待て」と独り言を言った。
千介はその夜更けに、密かに菅沼の愛銃を取って何処かへ出て行った。
まさに夜が明ける時、岡部の陣にいた家康は西郷が単騎で数卒を率いて
来たのを確認した。「敵がまた出てきた! 誰か西郷の首を取れ!」と家康が
言うやいなや、路傍の竹林より一発の弾丸が飛んできて西郷の肩に命中、落馬した。
すると、何者かが躍り出て直ちに西郷の首を切り、家康にこれを献じた。
その者こそ朝日千介であった。家康は嘆賞して「お前は一人の少年だが、
老兵たちには為せぬことを為したな! 剛者であるぞ!」と言った。
――『近古史談』

72 :
浅井三代記訳しました
レベルが足りないため投稿は後日になります

73 :
西郷伊予って奥さんが亡霊になった人?

74 :
新納忠元は島津忠良を烏帽子親として元服して以降50年余りの歳月を陣中で過ごしてきたが、
晩年は寄る年波に勝てず床に伏せる日々が続いたという。
その衰弱振りたるや、「(掛け)布団が(体に架かって)苦しい」と訴えるなど、かつての雄姿からは想像も出来ぬほどであった。
家の者は敷き布団の四隅に低く切った柱を置き、その上に掛け布団を被せて忠元の体に布団が直接掛からないように気遣ったが、快癒の兆しは一向に見られなかった。
忠元には二人の息子がいたがいずれにも先立たれていた。
特に次男の忠増を関ヶ原の後に失ったことはよほど応えたらしく、忠増の忘れ形見である幼い忠清の将来を思いやって
懊悩する日々であった(長男の忠堯は子を残さぬまま、龍造寺との合戦で戦死)。
時の島津家当主である忠恒はこれを気の毒に思い、使者を遣わして忠清に大口地頭の地位を約束した。
主君の気遣いに忠元は涙を流して喜んだが、「畏れ多いことながら」と謝絶した。使者が帰った後、孫を枕元に呼んで曰わく、
「お殿様は忝くも、お前にこの爺と同じ地位を約束してくれた。
 じゃがそれは爺の方からお断り申し上げた。大口地頭は肥後からの守りを担う重要なお役目じゃ。
 才覚も定かでない幼い者がそのような重要な立場にあって、主家が安泰を得た例は古今東西無きに等しい。
 研鑽と鍛錬を怠らなければ、いずれお殿様はお前にふさわしいお役目を与えてくれよう。」
と不相応な地位を望まぬよう諭した。そして
「爺のようにただ強ければよい、戦に勝てばよい、という時代は終わった。
 これからはよく主を支え、時に諫め、外にあっては上方の者に侮られぬよう教養を身に付け、
 駆け引きにおいても遅れをとらぬようにせねばならんぞ」
と付け加えた。
忠元の体調はその後も回復せず、義久、義弘、忠恒ら歴代島津家当主の祈りも虚しく悪化の一途を辿った。
いよいよ死期を悟った忠元は呻き声を出して忠増の妻を呼んだ
(衰弱が進んだ忠元の言葉を聞き分けられるのは、身の回りを世話していた彼女だけだったという)
(続く)

75 :
(続き)
彼女によって家中の者が集められ、忠元の言葉が伝えられた。
「儂の身体を国分の方へ向けよ」
国分は先々代の当主、義久の居城である。おそらくは最後の暇乞いをなされるのであろう……
主人の覚悟を察した一同は、出入りの大工に命じて大きな木の板を設えた。
忠元の体を敷き布団ごと板の上に乗せて身体を国分の方角へ向かせると
「お義父上様、国分でございますよ」忠増の妻の言葉が聞こえたか、布団のなかで姿勢を正した。
心中で別れを告げたか、次は義弘の居城の加治木、その次は忠恒の鹿児島へと向きを変えさせた。
そして最期に「肥後へ向けよ」と命じた。
名将にして難敵、加藤清正の治める地である。
長年振るってきた愛刀を持って来させると、死期を迎えた老人とは思えぬ力強さで刀を握り、眼前に構えた。
刀とその先にある肥後を睨みつける眼光に周りは昔日の鬼武蔵を見る思いだったが、それも長く続かず、
刀を戻すと疲れきったていで忠元は布団ごと床にもどされた。
暫くして意識を取り戻し、「儂の念を刀に込めておいた。されば肥薩の境が侵されることは当面あるまい」
言い終わると眠るように目を閉じた。
忠元の死後は多数の殉死者がでることと想われたが、家人の長老格であった伊地知清人と宮内九兵衛が先手を打って
「我々二人がお供をするゆえ、決してあと追わぬように」と切腹して果てたため以降の殉死者は出なかったが、
自らの指を切って殉死の代わりとしたものが後を絶たなかった。
その遺骸は大口天龍寺にて火葬に付し、霊屋を祥雲寺に建ててその中に夫人の碑と並べて安置した。
法名を耆翁良英庵主。
忠元が死の床にあってなお警戒し続けた加藤清正は忠元と同じ年にこの世を去り、
後を子の忠広が継いだが家臣団を統御しきれず改易。肥後は加藤家に変わって細川家が入ることになった。
忠元が最後に語ったとおり、加藤家によって肥薩の国境が侵されることはついになかったのである。

76 :
>>72
そろそろコピペはやめとけ

77 :
上のを訳した別人じゃないのか

78 :
悪家久さん、嫁さんもそれ位気遣ってあげて下さい

79 :
こういう名将の最期は悲しさよりも寂しさの方が先に立つな…
なのにどうしても悪久の名前に目が行ってしまう

80 :
>>71
朝日千介さんのいいお話、なんだけど、西郷伊予さんちょっと不用意すぎるでしょ
わざわざやられるために出てきたみたい
あと、細かい点だけど、「大膳」を名乗る菅沼さんは、野田の定盈の方じゃなくて、
田峯の本家の方の菅沼さんちですね。代々当主が「大膳」を名乗ってます
野田の定盈は織部正です
田中城攻撃の頃の大膳は、たぶん菅沼定利
ちなみに、田峯の菅沼家は、結局武田と運命を共にしたので、悲惨なことになって
しまいました
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1013.html

81 :
>>79
デ新納さんほどの人物が「武辺の時代は終わった」と言うと
ほんとに戦国の終わりを実感させるよなぁ

82 :
上総の真里谷武田氏は原氏や千葉氏に負けてばかりであった。
そこでこの状況を打開せんと、古河公方高基の弟・足利義明を大将軍として
軍兵を催した。
この義明は累代武将の家に生まれ、心はどこまでも大胆でおそれを知らず、
力強く骨太で武器に熟達した当代無双の英雄である。
そのため、上総・下総・房州の辺りで管領に背いた輩は一人残らず馳せ来たり、
義明に従った。その勢いは近国を覆い、三年の間に原氏は敗れて小弓城を
奪われた。
その後、高城越前守父子を討ち取り同下野守を追い落とし、原野次郎をも
討つと、近国の兵共は我も我もと群がって付き従った。安房の里見氏は
猛勢の大将であったが、何を思ったかこれもまた義明に従った。
義明は血気無双の人なので、やがては関八州をその手にし古河公方を
配流して鎌倉に御所を立て、関東の公方になるという野心を抱いていた。
彼はこの志を公言することを思いとどめようとしても、すぐに表情に出して
ほのめかすので、付き従う血気の若者たちは皆その願いが叶うようにと励んだ。
そのような情勢だったので古河公方に一味する人々は心穏やかではなかった。
北条氏綱も足利晴氏の舅なので内心苦々しく思っていたが、大敵の上杉と
敵対していたので義明とは無事を保ち、互いに使者を交わして捧げ物を送る
こともあった。これも一時の智謀である。
――『異本小田原記』

83 :
ええ話や・・・って、どこがやねん!

84 :
足利義明でググると義昭のウィキペディアが一番上に。
変換間違いだと思われてるんだろうなあ

85 :
義明公は脳筋で里見に呆れられて死ぬんだよなあ
そしてそんな義明公の奮戦する錦絵が船橋の図書館にある(はず)
自分の嗜好で図書を入れたり捨てたりしてたおかしな司書がいたとこだからなあ
いまはどうなってんだろ

86 :
名前で検索すると地球皇帝の件ばかり引っかかる、
二代目堀越公方様と良い、マイナーどころはどうしてもなぁ

87 :
>>86
元ネタの人物しか知らない人が見たら吃驚するだろうなぁこれ

88 :
豊臣秀吉がまだ微賎の時、刀を失った人がいた。その時の秀吉は
貧しかったので人は皆秀吉を疑った。
そこで秀吉は城下の民家であまねく聞き込みして質屋に刀があることを
尋ね出し、ついには犯人を捕らえた。
そして秀吉は織田信長が狩りに出る時に訴え出たので、信長は感心して
初めて微禄を与えたのだとか。
――『老人雑話』

89 :
後年疑った連中を根絶やしにしてそうで怖い

90 :
俺は過去に、秀吉に対してひょうきんで親しみやすそうな武将みたいなイメージを持ってたけど
いい悪いスレを読むようになってからは
いつ何時も心の内が読めない、絶対敵に回したくないイメージになった

91 :
信長死後の秀吉は、猜疑心強いイメージあるな

92 :
>>90
むしろ単純すぎて扱いやすいわ

93 :
>>85
あれって船橋市だったのか
考えたら怖くなってきたw

94 :
>>92
いや、そりゃ死亡フラグだろ

95 :
>>93
市川・船橋って近代でも戦場になってたぞ、地味に

96 :
 書道・絵画・陶芸などで業績を残した本阿弥光悦は収集家としても有名であり、
借金してまで高価な名物を買い求めたりしていた。
 そんな光悦であったが、年をとってくると彼の心境に変化が訪れた。
「名物は それが名物なればなるほど『やれ落とすな、やれ失くすな』と それに心を取られ、
心の平安を失わせる。そんなものに心を乱されるくらいなら いっそ持たぬにしかぬ」
 そう考えた光悦は所有していた高価な茶器など名物の類をみな人にあげてしまい、
自分はごく普通の雑器で茶の湯そのものを楽しむようになった。

97 :
茶はさびて心はあつくもてなせよ 道具はいつも有合にせよ
釜一つあれば茶の湯はなるものを 数の道具をもつは愚かな
かず多くある道具をも押しかくし 無きがまねする人も愚かな
利休居士はとっくにお見通しだった様で

98 :
もし、「お前の人生最後の食事だから好きなもの注文していいよ」って言われたら、
フツーの米とお茶と沢庵のお茶漬けを曜変天目茶碗で食べてみたいw

99 :
>>96
>高価な茶器など名物の類をみな人にあげてしまい
一方、心の平安を乱された奥州の誰かさんは茶器を叩き壊した…

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