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2013年05月戦国時代3: 【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その16 (263)
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【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その16
- 1 :2013/03/03 〜 最終レス :2013/05/08
- 徳川家・松平家とその家臣団まで包括するスレです。
炎上して無い関連スレは、過疎回避にこちらへ誘導願います。
人の一生は、重荷を負いて遠き道を行くが如し
急ぐべからず 不自由を常と思えば不足なし
- 2 :
- 人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
つ>>1 長文荒らしは完全スルーで!!:
つ>>2 毛利の長文連呼バカは、
東軍総大将スレにまで邪魔しに来てるんだから
論点まとめてシンプルにしたり、スレ番で引用する知恵持て( ´,_ゝ`)
- 3 :
- >>1
乙です。百姓の三回忌も近いから、盛り上げよう。
- 4 :
- 秀家わろたw
- 5 :
- ミクシで15代の知名度みたいなのがあったけど
家斉さんが下のほうなのが意外だな。
一般ではそんなもんか。
- 6 :
- 教科書に出るような事績が少ないから仕方ないかも
家康、秀忠、家光は文句なしとして、綱吉は生類憐みの令、
吉宗は享保の改革と暴れん坊将軍、慶喜は大政奉還や戊辰戦争。
これ以外だと新井白石とセットで家宣とか、家光直系の断絶とか
最年少の将軍で家継があがるくらいか
- 7 :
- 歴史に興味もないであろうおっさんの友人が
「オレ15代いえるよ、暗記させられたもん」といって
キャッチボールしながら暗誦したのには
びっくりしたな。
豊田市の近くに住んでるんだけど
名古屋ではあんまり聞いたことがない、暗記とか。
- 8 :
- >>1
乙ぢゃ。
家康の天下取りは我々現代人に多くのことを教えてくれる。
幼少期の人質時代の屈辱。信長との同盟を守りきった律儀さ。
武田信玄との対戦。小牧・長久手での熟練した軍略。
豊臣政権下での着実な勢力伸張。そして文句なしの関が原での勝利。
天領400万石の圧倒的な徳川幕府。天下泰平250年。江戸は世界最大
の都市の一つとなった。
東京が首都となったのも、家康が始原。
死ぬまで階段をかけ上がった人生の達人。
- 9 :
- ショーグンってのが英語でも通用するのは
今の東京を作った人、みたいな理解のされ方で
通じやすいんだよね。
鎌倉だろ、とか細かい話は置いといて。
- 10 :
- 滝山寺(愛知県岡崎市滝町山籠107)
・創建:伝・天武天皇時代(673年 - 686年)
・開基:伝・役小角
12世紀
【1122年】仏泉上人永救、物部朝臣・伴氏女を檀那として再興、最初の本堂を建立し、鎮守として山王・白山社を勧請する
【1130年代】三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)、仏泉上人永救に弟子入り、入山する
【1138年】仏泉上人永救、死去する
【1140年】藤原季範(源頼朝の祖父)、夫婦(夫人は源行遠の娘)で蓮華寺造営、仏性灯油料として額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進する
【1151年】藤原範忠(源頼朝の母の兄)、滝山寺の本堂(2度目)を建替える、10月8日の供養の時に延暦寺より招いた導師に馬3匹を贈る
【1155年】藤原季範(源頼朝の祖父)、死去する
【1159年】藤原範忠(源頼朝の母の兄)、弟の三河法橋裕範の要請を受け、大檀那として滝山寺の四至を確定し、 田畠1町2反づつを寺へ寄進する
【1159年】三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、姉の由良御前(源頼朝の母)が死去した際、49日の仏事を差配してその菩提を弔る
【1160年】三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、頼朝が罪人として伊豆国の配所に送られる際、郎従を付けて送り出す
【1182年】寛伝(藤原範忠の息、源頼朝の従兄弟)、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
【1188年】任憲(三河法橋裕範の息、源頼朝の従兄弟)、鎌倉で源頼朝に引見する
【1191年】源頼朝、任憲(三河法橋裕範の息、源頼朝の従兄弟)の熱田社領御幣田をめぐる争いの仲裁をする
【1199年】源頼朝、死去する
- 11 :
- 13世紀
【1201年】寛伝(藤原範忠の息、源頼朝の従兄弟)、頼朝公の3回忌に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を」安置する
【1205年】寛伝(藤原範忠の息、源頼朝の従兄弟)、死去する
【1222年】足利義氏(3代目足利氏当主)、滝山寺本堂(3度目)を建替える
【1226年】大平惟行(高階惟行)、大谷惟伴(坂上惟伴)と連署で、額田郡阿智波郷名越(愛知県岡崎市阿知波)の田地8反を惣持禅院に寄進する
【1229年】大平惟行(高階惟行)、常行堂の造営にあたり娘と一緒に大檀那となり、足利義氏に相談してこの堂へ料田3町8段を寄進する
【1230年代】藤原俊経(藤原俊継の父)持仏堂を造営、古市場御油畠(愛知県豊田市古市場)を寄進する
【1233年】足利義氏(3代目足利氏当主)、舞童装束などの調進のため150貫文を奉加する
【1238年】藤原俊経(藤原俊継の父)、京都東山一切経の谷で死去する
【1240年代】大谷惟伴(坂上惟伴)、持仏堂(延福寺)を造営する
【1244年】】大谷惟伴(坂上惟伴)、死去する
【1254年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
【1254年】足利義氏(3代目足利氏当主)、死去する
【1255年】藤原俊継、故足利義氏の法華堂(宝幢寺)造営し、藤原俊継は田畠3町3段、足利家氏は壁海郡碧海荘の青野の田2町、宇祢部の畠1町2段を寄進する
【1257年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、一切経蔵を造営する、足利頼氏(5代目足利氏当主)、一切経蔵の経会料所として、額田郡阿知波郷(愛知県岡崎市阿知波)を寄進する
【1261年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、山王社の宝殿を改築する
【1263年】大平惟行(高階惟行)、死去する
【1274年】藤原俊継、鎌倉で死去する
【1283年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、鎌倉滞在中に死去する
【1284年】足利貞氏(7代目足利氏当主)、故足利家時(6代目足利氏当主)追善の如法堂を造営する
- 12 :
- 14世紀
【1301年】足利貞氏(7代目足利氏当主)、家時17回忌、如法堂に額田郡上村の田3反と正観坊跡大門屋敷を寄進する、同時期、熱田大宮司家ゆかりの蓮華寺へ願文を奉納する
【1335年】足利尊氏(8代目足利氏当主)、中先代の乱で足利直義と三河で合流、滝山寺に千寿王と赤橋登子を預ける
【1330年代】輔阿闍梨貞円(高師泰・高師直の弟)、滝山寺に入山
【1380年代】足利義満(3代目足利将軍)、滝山寺本堂(4度目)を建替える
15世紀
【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、滝山寺寺領内に神のお告げで万松寺を創建する
- 13 :
- 足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が三河守護になる
【1357年頃】明阿(父・高師泰、夫・高師冬(高師直養子))が、高一族の本拠であった菅生郷(愛知県岡崎市)に一族を菩提する深恩院(総持寺の前身)を創建、住持は兄・高師世の娘
【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫、烏帽子親は足利貞氏(足利貞氏の父))の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服
【1368年】天恩寺(愛知県岡崎市)創建、永源寺2世弥天永釈開創、足利尊氏遺言の寺、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】御馬城(愛知県豊川市)築城を管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】甘泉寺(愛知県新城市)創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫、烏帽子親は足利貞氏(足利貞氏の父))を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、永源寺(愛知県岡崎市)創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願、三河国碧海郡碧海荘(愛知県岡崎市)は斯波氏先祖代々の墓所がある所
【1380年代】滝山寺(愛知県岡崎市)の4度目の本堂を建替
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進
【1388年】富士山遊覧、矢作宿(愛知県岡崎市)に宿泊
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、屋敷跡に蓮性院(愛知県岡崎市)を創建
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家
【1397年】永源寺(愛知県岡崎市)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡をを京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】管領・畠山基国に乙川(愛知県岡崎市)の六名堤造営を命ずる、下流の下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮(侍所頭人、近江他6ヶ国守護)から苦情が入る
【1399年】高一族菩提の為に建てられた深恩院(総持寺の前身、愛知県岡崎市)へ三河国額田郡比志賀郷(高一族の旧領、愛知県岡崎市)を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が生まれる
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去
- 14 :
- 伊勢氏(初代・藤原俊継) 滝山寺縁起
■藤原俊経(〜1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は滝山寺僧侶
・滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去
■藤原俊継(1217〜1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去
■円辰:初代伊勢氏・藤原俊継の叔父
・藤原俊経の弟
・相模法橋
■増恵(1209〜1283):初代伊勢氏・藤原俊継の従兄弟
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去
- 15 :
- つ>>1 長文荒らしは完全スルーで!!:
- 16 :
- 仙台藩百姓の三回忌、南無南無。
成仏してくれ。
- 17 :
- 地獄でこのスレを見守ってくれてるだろう。
- 18 :
- 地獄なのかよw
- 19 :
- 足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、菅生郷(愛知県岡崎市)に一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫、烏帽子親は足利貞氏(足利貞氏の父))の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄(愛知県岡崎市)に天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫、烏帽子親は足利貞氏(足利貞氏の父))を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願、三河国碧海郡碧海荘は斯波氏先祖代々の墓所がある所
【1380年代】滝山寺(愛知県岡崎市)の本堂(4度目)のを建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、矢作宿(愛知県岡崎市)に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家
【1397年】永源寺(愛知県岡崎市)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡をを京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下流の下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮(侍所頭人、近江他6ヶ国守護)から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去
【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、滝山寺寺領内に神のお告げで万松寺を創建する
- 20 :
- 足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、菅生郷(愛知県岡崎市)に一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄(愛知県岡崎市)に天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願、
【1380年代】滝山寺(愛知県岡崎市)の本堂(4度目)のを建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、矢作宿(愛知県岡崎市)に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家
【1397年】永源寺(愛知県岡崎市)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡をを京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去
【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、滝山寺寺領内に神のお告げで万松寺を創建する
- 21 :
- 足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、菅生郷(愛知県岡崎市)に一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄(愛知県岡崎市)に天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】滝山寺(愛知県岡崎市)の本堂(4度目)のを建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、矢作宿(愛知県岡崎市)に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】永源寺(愛知県岡崎市)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)をを京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、滝山寺寺領内に神のお告げで万松寺を創建する
- 22 :
- テンプレで貼るのはいいんだけど思い出したように何度も貼るなよ
- 23 :
- >>22
スルーでよろしく
- 24 :
- 利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)として開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を、政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)のを建替える
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺寺領内に、神のお告げで万松寺を創建する
- 25 :
- 家康公はなぜに江戸を拠点にしたのかな?普通は小田原だよね?家康公が入る前の江戸は湿地帯の糞田舎だったらしいが。とにかく、現在の東京の繁栄を鑑みるに、家康公の先見の明は偉大だよね
- 26 :
- 200万石の本拠地に成りえる
広い平地が江戸だったとかじゃ無いの?
- 27 :
- 丘陵地だらけであまり田畑を潰さずに済むのが気に入ったらしい
- 28 :
- 足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺寺領内に、神のお告げで万松寺を創建する
- 29 :
- >>27
田畑潰さないでいいならそのまま小田原でよくね?
- 30 :
- 足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
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【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺寺領内に、神のお告げで万松寺を創建する
- 31 :
- >>25
当時の江戸が糞田舎ってのは無いな。
北条氏の支城としてさえ有力な城だった。
そもそも、当時の家康が江戸を選定したのは旧北条領国を
統べる為であって、天下を基準に選んだわけじゃない。
江戸が大坂を超える大都市になるには、幾多の天下普請を
経る訳で、そこを無視して先見の明と言うのはおかしな話だ。
- 32 :
- 大阪だって、本願寺の拠点だったのを、秀吉が普請させたわけで、そう古いものじゃない。
まあ、江戸と違って、堺とか色々と開けたところが周辺にはあったけどね。
- 33 :
- 小田原征伐のとき、秀吉が家康を誘って連れ小便して
関東への国替えを申し渡すと共に治所を江戸にするよう奨めた
って話を、秀吉の先見性を誇示するかのように司馬遼あたりが
よく書いてたけど本当なのかね?
- 34 :
- >>33
小便は江戸期の俗説。
秀吉が江戸を勧めた話は、後世の編纂物ばかりなので
本当にあったかと言われると微妙。
- 35 :
- 足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する、当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
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【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺寺領内に、神のお告げで万松寺を創建する
- 36 :
- 逸話の真偽はともかく、10万人で半年かけても落とせなかった小田原城を家康に使わせたくないという秀吉の意向はあったんじゃないかと思う。
- 37 :
- いやいや、小田原城は謙信に囲まれた時は一ヶ月にも満たず
信玄は数日、秀吉も3ヶ月程度しか囲んでないよ。
半年は盛りすぎ。
- 38 :
- 50万石規模であの辺の好きな所へどうぞ〜なら小田原を選んでたかもな
- 39 :
- >大阪だって、本願寺の拠点だったのを、秀吉が普請させたわけで
むかしどこかで「日本の主要都市は、ほとんど愛知県民が作った」
って力説してた人の持論パクって、愛知県民自称してるんだけど
これってかなりマトモな説なの?
確かに、東京・静岡・松本・金沢・岐阜・大津・大阪・神戸
広島・土佐・熊本とか愛知県エリアの人が拓いた気が、、、
- 40 :
- 更地から全てを作り上げた都市なら「拓いた」もアリだけど
大抵は元からあった都市を拡張してるだけだからな。
そういう意味では、そこに挙げられた都市は愛知起源を
主張するのは無理。
つーか、そんな半島人みたいな発想キモいだけだぜ
- 41 :
- 長期休みに親戚の家に滞在した、総計数ヶ月しか住んでない愛知出身自称
→リアル田舎モンが過剰反応→家康公信者の土地勘完全に信じ込まれる
→リアル出身地(もっと田舎)口走っても実家とは思われない大成功
狙ってるから、むしろ多少反感買わないと困るw
三成襲撃から守ったのと同じ論法。
俺、伊達藩百姓より数倍酷い粘着居るんだ(′・_・`)
- 42 :
- >>39
名古屋人だけだろw
名古屋人(センゴク馬鹿)は、今も昔も井の中の蛙、世間知らずの田舎者だからな
三河人が威張りちらかす(やろうと思えばいくらでも出来る)とか聞いた事がないだろ
今も昔も、他人思いで謙虚なんだよ
- 43 :
- 確かに、例えば旅行を計画したとすると、、、
世代も同じで、名古屋からも離れてるのに、、、
三河方の親戚:近隣県で温泉でも浸かってゆっくりしたい
ほかの親戚:ハワイだろハワイ!!
なノリでキレイに分かれるなw
- 44 :
- なんで征夷大将軍なのか?わかるか?
- 45 :
- 名古屋って200万人もいるのに案外人が少なく感じる
んだよね。
通勤の地下鉄は混むけどあのぐらいなら
どこでもありそうな感じだし
何時間も待たされるのは確定申告と
免許更新ぐらいでそれでもうまくやれば待ちは
ゼロみたいな時もある。
どこに生息してるんだろうと思うわ。
- 46 :
- 俺も江戸城そば住んでるけど、
夜は過疎地だぞw
スーパーの半額惣菜とかほとんど競合しない。
警官比率激増で、ケッタ(名古屋弁)停められまくるけどwww
- 47 :
- 首都圏と名古屋を行き来してるが名古屋はブスが多くて電車のっても雰囲気暗くていやだわw
横浜はかわいい子めちゃめちゃ多いなー 東横線横浜線相鉄線乗ると名古屋と別世界w
- 48 :
- アイドル同士で比較すると、
SKEには小木曽しおり や受理菜が居るけどなw
通り過ぎるばっかの名古屋はよく観察して無いけど
確かに東京だとアキバですらAKB余裕で凌駕するアイドル系を
ちょくちょく見掛ける。
- 49 :
- 秋葉原かわいいかな?
世田谷・目黒・江東区・葛飾区とか都心からちょっと離れたベッドタウンのがかわいい気がする
小岩の高校生とか神レベルだし。
離れすぎるとレベルダウンするけどな
- 50 :
- 名古屋とか地方は平均は明らかに低い(地下鉄乗ってるとわかる)
でもたまにかわいい子や飛びぬけた子もいる
でも首都圏はそういうのうじゃうじゃいる。東横線沿線はマジ楽園
- 51 :
- 世田谷、目黒と江東、葛飾、江戸川を一緒にするなよ。小岩なんてほとんど千葉じゃねーか。
- 52 :
- 小岩は田舎くさいが、素朴で田舎っぽくてかわいい子多いよ
東京の西側はおしゃれ派で東側は素朴派というイメージ。どちらもかわいいね
- 53 :
- 岡崎の偉人は足利義満
その功績は、徳川家康など、足利義満の足元に及ばない
- 54 :
- >>36
小田原は六か国の本拠にするには位置が偏りすぎだな。
- 55 :
- 当時の江戸だと水運が中心かな、本格的に街道を整備するのは関ヶ原以降の筈だし
- 56 :
- 水運が便利で、関東の中心として偏りすぎず、田畑を潰さなくて済む丘陵地がちのところ・・・
と考えると大体場所は決まる
- 57 :
- >>56
千住大橋や六郷大橋を架けたり、宿場整備を行なっている
家康としては豊臣家が東海道を攻め上った場合は、小田原城で拘束して
旗本と本多忠勝を率いて相模台で野戦を行うつもりだったんでしょうね
- 58 :
- 同じだけの封土を持ってた北条がアッサリ潰されてるのに
その程度の手当で、豊臣家と戦うなんてのは幻想でしか無いよ。
城や家臣の配置状況を見れば、防御の重点はあからさまに東側だし。
- 59 :
- >>58
中山道・北国街道方面は多くの城による固守により
東海道で決戦するまでの時間稼ぎを行う
最悪の状況でなおも勝利を求めた場合の計画でしょう
- 60 :
- あほくさww
公儀が求めた東国鎮護の役割を誠実にこなそうとしただけだろ
- 61 :
- 小田原城
築城主大森頼春
築城年1417年(応永24年)
大森氏・葛山氏
大森氏の祖惟康は三河高橋の領主で甲斐・駿河両国の守となり,以後大森氏は親康,親家と続いて鎌倉御家人を輩出した。
葛山氏は親康の弟惟兼の流れをくむもので,惟兼の子惟忠を経てやはり鎌倉御家人を多く出している。
関東人、万年パシリも大概せい
- 62 :
- >>59
そんなの100%無理だよ。
小田原征伐の結果を見れば明らかだが、天下の大軍を引き受けて
時間稼ぎのしようもなければ、決戦しても滅多打ちになるだけ。
秀吉が天下を統一してない小牧長久手の頃でさえ、長久手や蟹江で
局所的勝利を拾うのがせいぜいで、伊勢、伊賀をガッツリ侵食されても
まったく対応できなかった。
- 63 :
- >>60
北国街道よりも中山道に重点配置している
上野国など、全土が要塞化されたと言って良い
>>61
秀吉には長久手で機動戦により敗れた恐怖がある
- 64 :
- 旧領から連れて行った譜代はともかく、関東で召抱えた新規の現地武士がどこまで徳川のために命捨ててくれるかと言ったらねえ
北条とか成田とかの旧主君を担ぎ出して、大名復帰を餌に旧臣への内奥働きかけをさせるだろうしねえ
- 65 :
- 中山道、北陸道は上野国にいる大名衆による城郭陣地帯による相互支援防御
東北は鬼怒川から街道沿いの城郭で敵戦力を減衰
佐竹は筑波山と香取海を防衛線とする
東海道の主力は小田原城で拘置
その間に上総・下総の大名と旗本を編成し敵主力を撃滅
こういう恥ずかしい脳内妄想はブログでも作ってやれwww
- 66 :
- 江戸を居城としたこと自体、戦闘より和平前提の殖産興業を中心でやっていく意思の表れだが、
江戸の町が江戸城を中心とした攻められにくい渦巻き状の町並みになっていることからわかるように
軍事的なシミュレーションを完全に捨てたわけではあるまい
仮想敵の最大のものは豊臣だから、対豊臣戦のシミュレーションがなければほとんど意味はないな
- 67 :
- >>62
無知すぎてワロタwwww
135000総軍率いてきたのにわずか16000〜7000の雑魚信雄相手に
小牧長久手では一万人ぶち殺され蟹江・二重堀・浜田・長久保・河波・戸木・松ノ木・東駒野など
各城郭で敗北し寝返りだらけで崩壊状態・天正11年からの徳政連発で疲弊しきった信雄領国を尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
- 68 :
- >>伊勢、伊賀をガッツリ侵食されても まったく対応できなかった。
秀吉が優勢だったのは伊勢で神戸関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・松ノ木地方近辺の諸将・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めた三月の攻防だけ
美濃からの池田・森の尾張上陸に対応した家康軍が尾張に転進したため
がらあき状態になった伊勢方面に不意打ち的に尾張上陸ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
- 69 :
- 脳内仮想戦記を垂れ流した挙句、発狂か・・・
- 70 :
- >>62
北条は豊臣方235000に対し三万そこそこしか集められず
しかも抗戦派主戦派で割れるような戦意0で皆川とか笠原とか寝返りまくって氏勝もへタレ戦線放棄するような
気概0のヘタレ軍団だったし大道寺や松田など重臣連中ですら勝手に降伏しようとするようなアホだったから勝てただけ。
しかもそんな規格外の兵力と圧倒的優位な状況ですら秀吉は一柳・堀尾嫡男・前田重臣・依田・平岩弟が戦死し
氏家が負傷。小田原1000や忍城500に手も足も出ず韮山数百にも苦戦する雑魚っぷりだったし
普通にガチンコで戦えば徳川が勝つに決まってる。
氏直より弱い滝川でも天正11年の伊勢攻防で秀吉軍跳ね返してるしな
>>64
徳川家臣なんて元々ほとんど外様だろ
最も本願地とされる三河ですら譜代系がいるのは西部のちょこっとで
あとは奥平だの菅沼だの鵜殿だの豪族が割拠してる領土を他大名と変わらん寄子寄親制で支配してるにすぎん。
- 71 :
- 何せ長久手合戦後は8.5倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず長久保戸木松ノ木東駒野河波二重彫り蟹江浜田など砦クラスの小城軍で負け続け
尾張半分すら切り取れなかったんだからこのままガチンコ戦闘継続してたら秀吉は戦死してたのは間違いない
- 72 :
- 小牧長久手の戦いが秀吉勝利とかアンチ徳川糞史観のアホ堀に毒されすぎだろ
長久手で7.5倍の兵力差でもってガチンコ決戦で1万人ぶち殺された上に
松ノ木浜田蟹江二重堀東駒野河波戸木神戸長久保と各城郭で敗北し続け
135000の圧倒的兵力差で以って伊勢・尾張・伊賀と離反が連続し瓦解状態の信雄領国を尾張半国すら切り取れなかったのに
秀吉勝利とかアホすぎる
- 73 :
- 徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包・小島・榊原・岡本など地元諸将がこぞって羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
- 74 :
- 徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
- 75 :
- だが襲来wwwwwww
- 76 :
- 秀吉・織田徳川方史料で各城郭攻防が激しく行われているのがわかる
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
- 77 :
- 3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
- 78 :
- つ>>2 毛利の長文連呼バカは、
東軍総大将スレにまで邪魔しに来てるんだから
論点まとめてシンプルにしたり、スレ番で引用する知恵持て( ´,_ゝ`)
- 79 :
- 7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
- 80 :
- 実際秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
- 81 :
- 秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝
3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
- 82 :
- >蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
そもそも両者には会戦当初から秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字
その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した
また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
そして陣立書や書状から秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
●二重掘合戦
細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、
- 83 :
- 徳川史観という言葉が最近流行っているが、正直かなり胡散臭い
- 84 :
- てか誰かこの長文読んでるの(′・_・`)?
- 85 :
- 堀や小和田を初めとするアンチ徳川の糞講談が出回ってるからね
堀のアンチ徳川のアホ本は谷口とか池上とか先人の論文を批判する癖に自分はろくに根拠となる史料も出さず
他者の論文を都合よくひっぱったりするだけで何も論文の体をなしていない講談小説
正直まだ江戸期の講談の方が信憑性あると思うわ
- 86 :
- 上方の圧倒的国力・先進的装備&135000もの圧倒的大軍の豊臣軍が
わずか17000程度で寝返り続出中で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!!
ってまるで漫画だな。
アホすぎる
さすが戦国最強豊臣軍
- 87 :
- 家康公は何で本拠を江戸に置いたのか〜を聞いた者だけど勉強になったわ。なにわともあれ、江戸の発展に関わった全ての人に感謝ですな
- 88 :
- >>83
徳川史観は逆にも作用するからタチが悪い。
家康がエスパーのように全てを見通して行動してることになったり
大名の改易は全て幕府の陰謀になったりする。
- 89 :
- 一番大切なのは想定外の事態に対してどうリ対応するかなのにね
- 90 :
- 想定外の馬鹿はどうしようも無いと思うのだが
- 91 :
- 馬鹿なら行動を成果に繋げないから、対応は容易
- 92 :
- 小早川秀秋
- 93 :
- おぉ、SKEでしおりんに来るとは
さすが徳川スレは目が高い。
- 94 :
- 築城主大森頼春
築城年1417年(応永24年)
大森氏・葛山氏
高橋惟康の孫親家が大森に住んで大森氏となり、子惟兼が葛山に住んで葛山氏となった。
『吾妻鏡』に葛山太郎とか葛山次郎とみえ、惟兼−惟忠−惟重のころ、源頼朝の時代にあたり、
家伝によれば、源頼朝に従って石橋山の合戦に参加して、軍忠を尽くして恩賞を与えられた。
そして鎌倉幕府御家人として駿河国駿東郡に勢力を伸ばしていったのである。
大森氏
高橋惟康(三河国高橋荘領主、源頼朝の曽祖父の妹の息子)→高橋親康→大森親家
葛山氏
高橋惟康(三河国高橋荘領主、源頼朝の曽祖父の妹の息子)→高橋惟直→鮎沢惟兼→葛山惟忠→葛山惟重
葛山景倫
高橋惟康(三河国高橋荘領主、源頼朝の曽祖父の妹の息子)→高橋惟直→鮎沢惟兼→葛山惟忠→葛山景忠→葛山景倫
金剛三昧院
建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建された
承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰された
貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立した。
関東人、万年パシリも大概せいw
- 95 :
- ■小田原城
築城主大森頼春
築城年1417年(応永24年)
大森氏・葛山氏
高橋惟康の孫親家が大森に住んで大森氏となり、子惟兼が葛山に住んで葛山氏となった。
『吾妻鏡』に葛山太郎とか葛山次郎とみえ、惟兼−惟忠−惟重のころ、源頼朝の時代にあたり、
家伝によれば、源頼朝に従って石橋山の合戦に参加して、軍忠を尽くして恩賞を与えられた。
そして鎌倉幕府御家人として駿河国駿東郡に勢力を伸ばしていったのである。
大森氏
高橋惟康(三河国高橋荘領主、源頼朝の曽祖父の妹の息子)→高橋親康→大森親家
葛山氏
高橋惟康(三河国高橋荘領主、源頼朝の曽祖父の妹の息子)→高橋惟直→鮎沢惟兼→葛山惟忠→葛山惟重
葛山景倫
高橋惟康(三河国高橋荘領主、源頼朝の曽祖父の妹の息子)→高橋惟直→鮎沢惟兼→葛山惟忠→葛山景忠→葛山景倫
金剛三昧院
建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建された
承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰された
貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立した。
関東人、万年パシリも大概せいw
- 96 :
- >おぉ、SKEでしおりんに来るとは
>さすが徳川スレは目が高い。
それより数段上なのが俺のNO1森田美位子な(σ^▽^)σ
長年NO1の小倉優子の座を発見数週で奪った。
ボルトとナットいじって癒される変な娘だけどなw
昔は水着ギャルだったのが少し残念だが。
- 97 :
- >>92
秀秋は多少ぶれただけ
- 98 :
- 鯛の天麩羅を食べて脂肪
- 99 :
- 食べてから亡くなるまで3ヶ月。どう考えても死因では無いな。
- 100read 1read
1read 100read
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