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2013年06月戦国時代6: 【だが】歴史改変事件を考察するスレ【Sub】 (133) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
最大版図を築き上げるも家を没落させた当主を語れ (190)
0の状態から大名になった人 (115)
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戦国最大の謎 (115)
戦国武将で理想の野球チームを組む【1回の表】 (198)

【だが】歴史改変事件を考察するスレ【Sub】


1 :2013/06/10 〜 最終レス :2013/06/14
2013年3月にだがが起こした自作自演事件
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360505139/119

なぜだがは教科書を改変してまで自説を書き込んだのか?
だがが追い詰められた屈指の事件を下に、歴史の改変の是非を考察しましょう!

2 :
>>1
前スレ
【だが】上洛スレ64を検証するスレ【敗北】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360505139/

3 :
都合が悪くなったからコピペ爆撃で書き込みできないようにしたか
多くのヤツが気にしてないとか自演してるし、相当通報されたくないみたいだな

4 :
気にしてないは誘導情報だよ
歴ゲー板では普通に通報されてた
ところが歴ゲー板で露見してから
だがが運営スレに介入してきたからな
気にしてないよ、と言って裏で通報している奴は多いよ
歴ゲー板はそうだったし

5 :
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/
アスペルガーだがWiki
【みんなの】だがを見守るスレ【アイドル?】
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1340075105/

6 :
この間運営側の人達が雑談するスレみたいなので
今回の通報騒動についてちょっと話題に出てた
運営側の人でも知ってた人はそれなりにいたけど
すぐに対応どうしようみたいな話の流れにはならず
別の話題へと話は進んでしまってた
とりあえず知ってもらえてるなら良し、これが続けば動きもあるかもしれん

7 :
コピペ貼ることだけが社会との接点であとはウンコ流すぐらいしか自分でしてないんだろうな
受け売りを披露するための本もコピペを書き込むためだけのパソコンも親の金

8 :
今回の事件はアスペルガーだがの嘘から始まった
アスペルガーだが
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360505139/111
 武田崩れがおきて滅んだなんて日本人の常識だろ。
 最初から寝返りの連鎖で抗戦する奴皆無なんだから普通に考えりゃ何か領土内・領土外など
 偶発的外発的要因などで離反の連鎖がおきまくったとわかる
 信長が騙しうちを使って北条戦や徳川戦で弱りきってる所を奇襲した時たまたま浅間山が噴火して撤退に追い込まれたなんて
 歴史家の間では常識だしそんな基本的なこともしらんからみんなから馬鹿にされるんだよ
 
 織田家が光秀に滅ぼされたのも日本人の常識で小学レベルの基本。

一般名無し(自ら率先してソースを提示しだがにソースを要求)
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360505139/113
 >織田家が光秀に滅ぼされたのも日本人の常識で小学レベルの基本。
 武田が織田に滅ぼされたことは教科書(東書や帝国など)に書いてある
 しかし日本の小学校の教科書に「織田家が光秀に滅ぼされた」ということは記載されていない
 記載されていると嘘を吐きとおすならどこの教科書会社に記載されているか列記してみろ
 
 まあ嘘吐きだがは私の質問に答える知能があるかどうか疑問だがな
 
 それと既に昨日からお得意の自演戦法もバレているからそろそろ新しい戦法を考えた方がいいぞ
 また上洛スレ64の時みたいに自演自爆するぞ

アスペルガーだが(ソースを提示せず嘘のゴリ押しで逃げ切りを図る)
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360505139/119
 教科書には織田家が滅んだ事くらいのってる。
 信長と信忠が殺されてそれで滅亡だろ
 秀信とか信雄とか戦争の大義名分で担ぎ上げられただけで誰も主君として仰いでいないどころか
 主君に向けて攻め込んだり勝手に居所を変えたり改易したり織田家臣ならありえない事を皆しまくってるし

一般名無し(別の人がだがにソースを要求)
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360505139/120
 で、どこの教科書会社にそんな嘘出鱈目が書いてあるんだ?
 何頁の何行目なんだ?
 いつまでも逃げてんじゃねーよ
 だが、さっさと答えろやwww

一般名無し(さらに別の人がソースを再提示しだがの狼狽を誘う)
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360505139/126
 (俺の考える妄想の中での)歴史家の間では常識
 (俺の考える妄想の中での)日本人の常識
 
 俺の手元には浜島書店、帝国書院の歴史教科書があるが
 いずれも「織田家が滅ぼされた」なんて記述はない
 豊臣秀吉の天下統一事業の項目にはっきりと織田信雄、三法師の記述まである。
 ちなみに学校や市の図書室図書館によく存在する「小学館 まんが日本の歴史」でも
 豊臣秀吉の天下統一にきっちりと織田三法師や織田信雄の勢力が描かれているな。
 
 おまえが学んだ歴史の教科書はどこの国のものだ?朝鮮か?w韓国か?w

9 :
アスペルガーだが(小学レベルの基本と豪語していたにもかかわらず発狂して教科書を否定し墓穴を掘る)
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360505139/128
 光秀が信長や信忠を殺したら皆好き勝手に行動しだしたんだし無主状態で
 皆独立大名として動き出したんだし本能寺で終りだろ
 あと小学校の教科書はいまだに兵農分離とか鉄砲の三段撃ちとかデタラメ書いてるし
 桶狭間の奇襲とか講談ソースのデタラメ書いてるから論外

一般名無し(だがの醜態を見事に指摘)
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360505139/129
 日本人の常識と大見栄きったくせに日本人の教科書否定するのかおまえはw
 ちなみに俺が名前出した浜島書店の教科書は通常高校の授業で使われる代物だ
 小学校、中学校、高校の教科書を全部否定したうえで成り立つ「日本人の常識」ってなんなんだろうなw
 朝鮮学校の常識か?w

一般名無し
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360505139/131
 >あと小学校の教科書はいまだに兵農分離とか鉄砲の三段撃ちとかデタラメ書いてるし
 >桶狭間の奇襲とか講談ソースのデタラメ書いてるから論外
 日本の教科書は一般常識なわけだがwww
 おまえは何所の国の教科書を使って一般常識としてるんだ?
アスペルガーだがは戦略的にも戦術的にも大敗北して敗走

10 :
上記のようなだがの敗北記録はよく見るけどだがの勝利記録ってあるのか?
悪いが一度も見たことがない
もしあるならURL付で教えて欲しいが無いものは無いか?

11 :
一応信長の野望過大過小事件はだがの唯一の勝利と言われている。
しかし内容は過疎スレをコピペ連投で埋めまくり、スレ住民を全滅させたと言う
逆に涙を誘うような内容だが。
http://www.logsoku.com/r/gamehis/1361372948/
信長の野望で過大過小されてる武将106人目

12 :
ソースを提示し理路整然と主張を展開し正々堂々の議論とかを期待したんですが無いの?
ゴミ投下による埋め立てが勝利が唯一とかって哀れすぎるな
つーかそれって勝利なの?
それが勝利ならコピペ荒らしは全て勝者になるよ
何はともあれ返レスありd

13 :
人生の敗者だからな

14 :
ここ最近は戦国時代スレでも歴史ゲームスレでも
それぞれ自演ID3つを駆使して自演するってのが
だがの戦術だったので分り易かったんだけど
今日の信長の野望・創造スレではID6つ使ってる?
それぞれ書き込んでる時間帯を見ても6ID共に同じような時間帯に書き込んでいるので
だがの書き込みをまねた他人のイタズラのようには見えないし…
もし全部だがなら一人で延々と120レス前後書き込んでるんだな
まあ全部運営に通報されてるのが笑えるけどw

15 :
>>12
そんな正々堂々の議論で相手を理屈で納得させるような人間なら
まとめサイト作って晒し上げなんてマネは続かないだろう。
だがの登場は確定でも2010年、濃厚なSubだが同一人物説なら大体2008年か2007年頃の登場。
ただの私怨なら今まで続いているわけがないだろうな、歴ゲー板にも立ってるし

16 :
だがのかまってちゃん行動はわかりやすい
3IDでも6IDでもやってることは全く変わってない

17 :
>>15
まとめサイトができたころはこんなサイト意味があるのかと思ったけど今となっては結構重宝している
だがも言いたいことがあるならサイト立ち上げてまとめておけばいいのにね

18 :
>>17
まとめサイト系は1人でやるとかなりの労力だよ
なんせネットに常に張り付いて全部まとめなきゃいけない
いくらだががニートでも流石にそれは無理だと思う

19 :
ゲーム脳いい加減にしろ、と。

20 :
勝手に俺の武田レスをコピペしまくってあちこちには貼っては、追い討ち自演で荒らし認定してまわんじゃねぇよカス織田在日チョン。
俺は不等号なんてガキくさいもん使って序列なんてつけないわ。つか俺のコピペから織田厨として一番不都合な部分は編集削除してんのなw
パクるなら下記みたいにキッチリ全文コピペしろや!
1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【美濃は尾張半国を取っている】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば←NEW
信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
ボロ負けの連続の信長は信玄の武威を借りたいがため・・・
龍興16歳1565年11月に信玄を恐れていた信長は
苗木遠山氏の娘を貰い受けて養女となして勝頼へ嫁がせて同盟を結ばせて頂いている(重要な外交政策なのに公記が隠蔽している)
これをぶっ壊そうとしたのが後の家康で元亀元年10/8に謙信へ宛てて甲・尾の縁談の儀を事切れるように風諫せしめ候と書いている。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数(義昭による六角義秀・斉藤・織田・徳川・北畠共同上洛作戦が
信長の裏切り斉藤攻め奇襲で失敗し、激怒した三好に近江矢島御所を攻められた義昭は若狭を経て越前へ逃亡・六角義秀失脚)
その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すもまったく美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角義秀主導で浅井と織田の婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中で←NEW
信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている。
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてきた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城/織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城/城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった
美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし、近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。
信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。

21 :
結局、義昭と朝廷や公家と深いパイプを持つ江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先) 義秀が朝廷工作をやっていて信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京西や京南での親義昭側との攻撃に対処すべく撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて
信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。

22 :
つか秀吉軍相手の小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000とかそんな少ないわけねーだろw農民町人も関係なく15歳から70歳男子を対象に郷へ動員かけてるのに
小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた)
(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう)
城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になるだろアホw
早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が
4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww
下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。
ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。
しかも北条に対して秀吉軍が兵糧不足で敗北寸前だったとかお前は書いてるが、
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状については、
そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない)
つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww辻褄があわねぇwww
前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw
3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw)
松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw

23 :
毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家から
ソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのになぜ逃げまくるんだよwww
萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
>>熊見川だってちゃんと史料にいっぱいあるし顕如の書状にも織田方3000人討ち死
もう滅茶苦茶だなお前wそれ山中ら尼子復興軍の敗退の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
毛利の捏造ぶりの参考例・・・折敷畑合戦はなかった
1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
ttp://samuraiworld.web.fc2.com/rediscoverofhistory-thebattleofoshikibata.htm
先祖代々の恨みのあまり秀吉・石田憎しで捏造歪曲ばっか吐いてんじゃねーよ在日織田厨くんよぉwww

24 :
信長公記を読むと、秀吉と荒木への援軍として5/6に信忠や信雄や信孝や佐久間らの大軍が明石に到着し、
神吉城や志方城や高砂攻略を開始。
6/18に高倉山に陣する秀吉は播磨より罷り上がり山中ら救援を嘆願しに信長に会談しに出発してるが、
信長は高倉山で長陣張っても意味ないから陣を引き払い信忠らと合流し三木城の支城である神吉や志方を攻めて播磨平定を優先せよと命じてる。
秀吉撤退の信長の意向を受けて秀吉への撤退支援として丹羽や明智や滝川が、
秀吉軍の高倉山から書写への退却支援のために三日月山に到着したのは6/29だから、退却はそれ以後の話なわけだ。
決して大敗して書写に逃げたわけじゃない。
6/21に信長の意向を無視して司令官秀吉もいない織田軍が毛利軍と無意味に戦うわけがない。
毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25だから顕如の上月城下での討ち取り書状は日付も合わないから熊見川の戦いのソースにすらならない。
つかこんな中途半端な日付に3000討つとか明らかに毛利側の嘘宣伝でしょ。
だいたい熊見川の戦いにしたって敵前渡河した吉川騎下の有地元盛が1番槍で突っ込んで中国探題羽柴秀吉と直に槍を合わせ撃ち勝った挙句に、
織田全軍を二番手の杉原盛重と共に標高360メートルの高倉山を駆け上がり叩き出す大勝ぶりで、
さらに追撃を緩めず曲輪や堀切りを突破し尾根続きの仁位山城をさらに追撃し、
ついには姫路市北西の書写山の円教寺に逃げ込んだ秀吉を追い詰めたなんて作り話でしょう。
よって顕如の書く討ち取り数は百歩譲っても尼子残党とのものでしょう。
顕如の書状には7/5に上月城落城とあるが、実際は7/1にすでに降伏開城してるし、
7/3には尼子一族が責任を取り自刃してる。その頃の秀吉はすでに但馬で国衆を召し出し、生野銀山を押さえる竹田城に弟を配置し、
信忠らの撤兵後を視野に入れた三木城包囲のための資金と兵集めをしてる頃でしょう。
そして7月は荒木が勝手に有岡城へ帰国したため謀反の噂が立ち上り始める月でもある。
摂津一国支配を仰せ付けたにも関わらずそれを捨ててまでの荒木の謀反理由は朝恩を誇り別心を構えたからであり、それならばもはや是非に及ばずだと言う。
朝廷の恩ゆえの誇りが謀反に駆り立てたと言うのはのちの光秀と同じだろう。
是非に及ばずとは朝廷の意向の前では是非を考える必要性すらないと言ったところか。
さて7/16には神吉城が落城し志方城も降参したので信忠らは秀吉方に両城を引き渡し帰陣し、
秀吉単独での三木城攻略が再開。 信長が8/15に相撲大会のために1500人を安土に集め始める中で、8/17に信忠が播磨から帰り着き納馬。
本当に熊見川で毛利が織田軍に大勝利して書写山包囲し秀吉捕縛間際だったなら指呼の距離の姫路城へも勢いを駆って進出するはずだし、
信忠の大軍だって呑気に支城攻めを続けてから相撲大会見学のために帰国しねぇよ。
4月中旬に毛利や宇喜多らが上月城包囲し、秀吉荒木が高倉山に近接対陣開始の一報が入った時は、
信長本人が出陣するって危機感持って言い出してたのに、明智や丹羽らの現地報告聞いてすっかり出陣する気持ち無くなって、
馬廻や小姓を連れて祇園会の見物をしてたり、信忠が岐阜で飼ってた鷹を鷹師に持ってこさせて一足没収して楽しんでんのは秀吉が大敗なんてしてねーからだろ。

25 :
じゃあ一次史料はどうかと言えば、6/18付け信長→荒木宛書状では宇喜多、八幡山罷越候由、無論不可有差事候
などと信長は宇喜多軍が八幡山まで進軍してきたが大したことはできんだろうと言っていて毛利軍自体が実は来てないし
6/25付け信長→家康宛書状では就播州面之儀〜去廿一日敵罷出候を追散、首十四討捕候、可然者共候由候、是式不物数人共申候
などと6/21に攻めてきた宇喜多軍なんて、これしきのの兵はモノの数ではないと楽観してるし←日付で言えば熊見川があったようだなw
9/6付け信長→黒田宛でははやくも至備前面可進発候、就其差越羽柴筑前守候〜
などと秀吉を派遣するから宇喜多を追って備前へ攻め込めと命じてる。実はそもそも黒田がいただけで秀吉自体もいなかったのがバレバレ。
早くも備前へ侵攻命令wとても播磨西部で毛利に負けてるようなでっち上げ話は信用できんわな。
毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家から
ソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのになぜ逃げまくるんだよwww
萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
晋曾寺文書だって原本書状がない信用性ゼロの後世作成文書だろううが。
萩藩は資料収集の際に偽書状であろうが、真偽の認定を避けて、つか藩士の先祖を疑えない空気で口出しできなかったから
アホみたいにたくさんの軍記を元ネタにしたような軍功感状が湧き出てきて収録されてる。肝心の毛利本家に書状案などの形として
領地宛がいの根拠となる記録の書留めの記録すらない完全に根拠ゼロのな。
どこの大名家でも家臣が所持していた感状なんて稀で貴重なものなのに、萩藩はとにかくアホみたいにある。
上杉氏の文書写ですら藩士の所持していた感状なんてほとんどない。
どの大名家でもせいぜい口述筆記による記録や覚書や家系譜などに記されているレベルで信憑性に疑問がつくのがほとんど。
これは武田の武名から江戸期に武田家からの感状がアホみたいに偽造されて、
現代では武田氏研究会や山梨県史編纂の過程でほとんど偽書状認定されて取捨選択されたのと萩は対照的だ。
特に北条や上杉の書状と照らし合わされて研究される武田書状と違い、毛利は敵対勢力の生存がほぼなく、
他大名との接点から遠かったため他有力藩からクレームもなく捏造しまくりの先祖武功大会状態。

26 :
>秀吉軍相手の小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000とかそんな少ないわけねー
関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料にある
>小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた)
根拠なし。太閤記の糞講談妄信の馬鹿学者乙
>>(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう)
北条200万石程度でそんなありえない巨大兵力だせるわけねーだろクズ
天正壬午の時ですら昔は4万とか5万とか軍記ソースのデタラメ数字が並べられてたが最近の研究で2万(家康書状)とされてるし沼尻の戦いの時も同じような数字だし
>城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になる
そんな所も瞬殺できないからこそ秀吉は雑魚といってるわけで。
>早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww
何が問題なんだ?
>下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。
>ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。
それら含めて1000で問題ないだろ。何が問題なんだ? 北条方は国力しょぼくその割りに防衛ラインは上野武蔵相模伊豆下総上総下野と広範に及ぶのだから
一点に集められる兵力は減るのは当たり前
>>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類
>(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない
根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。
20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww
後から届けさせたか現地調達するつもりだったんじゃね
>前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
それだけ用意させながら兵糧不足に陥るのだからよほど規格外の大軍だったとわかる
。 >2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw
根拠なし
>3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw)
300程度の山中城(秀吉は3000とかおおぼら吹いてるが)に5万騎で攻めて氏勝やら城主も抗戦意欲なしで逃げ出した戦闘で重臣一柳戦死するとか
相当の雑魚戦下手なのが秀吉(銃弾当たったから秀吉の責任じゃないとかないわ。敵方の迎撃をうまくかいくぐって最小の被害で即効瞬Rるのがうまい城攻め)
>松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw
北条氏勝以下数百程度の山中篭城組に5万で挑みかかった糞戦闘をそんな自慢気に語られれても
>藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
>毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書
根拠なし。毛利の負け戦もちゃんとのってるし史料の編纂作業なんてどの大名でもやっている。上杉の語年譜とか歴代古案とかと同じ
>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家からソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのなぜ逃げまくる
児玉家文書だの晋曾寺文書やらいろいろ出してるが無視しまくって捏造扱いしてるのがお前

27 :
>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略  昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書

28 :
>>信長は高倉山で長陣張っても意味ないから陣を引き払い信忠らと合流し三木城の支城である神吉や志方を攻めて播磨平定を優先せよと命じてる。
それ信長公記や太閤記の講談ネタで兵庫県史資料編とか細かく洗ってみてもそんな書状一切出てこない
>>秀吉撤退の信長の意向を受けて秀吉への撤退支援として丹羽や明智や滝川が秀吉軍の高倉山から書写への退却支援のために三日月山に到着したのは6/29だから
根拠は?
>>退却はそれ以後の話なわけだ
そもそも退却後に彼らが到着という流れでも全く問題なく話しがつながるわけで。
>>6/21に信長の意向を無視して司令官秀吉もいない織田軍が毛利軍と無意味に戦うわけがない
なぜ秀吉がいないことになってるのか不明。普通に上月救援しようと思ってたら毛利軍と遭遇して大破されて逃げ帰ってきたと考えればいいだけ
>>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25だから顕如の上月城下での討ち取り書状は日付も合わないから熊見川の戦いのソースにすらならない。
顕如書状でも>>419の文書でも6/21になってる
>>つかこんな中途半端な日付に3000討つとか明らかに毛利側の嘘宣伝でしょ。
なんで顕如の書状が毛利の嘘宣伝になるのか不明。顕如は織田の敵対者だが毛利一族でもなんでもない
>>だいたい熊見川の戦いにしたって敵前渡河した吉川騎下の有地元盛が1番槍で突っ込んで中国探題羽柴秀吉と直に槍を合わせ撃ち勝った挙句に、
>>織田全軍を二番手の杉原盛重と共に標高360メートルの高倉山を駆け上がり叩き出す大勝ぶりでさらに追撃を緩めず曲輪や堀切りを突破し尾根続きの仁位山城
>>をさらに追撃しついには姫路市北西の書写山の円教寺に逃げ込んだ秀吉を追い詰めたなんて作り話でしょう。
根拠不明。信長記の講談引用がソースなら毛利の日記やら萩藩閥越禄やら陰徳太平記の引用も普通にありだろ
>>よって顕如の書く討ち取り数は百歩譲っても尼子残党とのものでしょう。
根拠不明。上月城下なんだから尼子残党ではなく秀吉軍だろ。上月城内ではないし戦死した日時は21日。これで尼子残党の事だと考えるほうが無理がある
>>顕如の書状には7/5に上月城落城とあるが、実際は7/1にすでに降伏開城してるし7/3には尼子一族が責任を取り自刃してる。
んでそれがなぜ6/21に上月城下で戦死したものが尼子勢の事にすりかえられるのか不明
>>本当に熊見川で毛利が織田軍に大勝利して書写山包囲し秀吉捕縛間際だったなら指呼の距離の姫路城へも勢いを駆って進出するはずだし、
>>信忠の大軍だって呑気に支城攻めを続けてから相撲大会見学のために帰国しねぇよ。
毛利が本拠地からの距離と大友参陣と輝元のヘタレっぷりを理由に安芸にヘタレ退却する雑魚だったから信忠らも秀吉支援に乗り出す必要すらなかっただけだろ
>>馬廻や小姓を連れて祇園会の見物をしてたり、信忠が岐阜で飼ってた鷹を鷹師に持ってこさせて一足没収して楽しんでんのは秀吉が大敗なんてしてねーからだろ
全くの妄想願望乙。毛利にビビリまくって現実逃避したか毛利が安芸にヘタレ退却したから後詰する必要なくなっただけ
以下が正しい日付年表ね
4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む
5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、
仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、
6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す
6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る
7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、
又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、

29 :
>>毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
>>毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
根拠なし。毛利の負け戦もちゃんとのってるし史料の編纂作業なんてどの大名でもやっている。上杉の語年譜とか歴代古案とかと同じ
>>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家からソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのなぜ逃げまくるんだよwww
児玉家文書だの晋曾寺文書やらいろいろ出してるが無視しまくって捏造扱いしてるのがお前
>>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ。
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
あと荻藩閥閲禄やらの件でも探しても
>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。
>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
こんな記述どこにもねぇわカスw

30 :
>>戦国板 山口県史資料編3目次解説凡例
>>山口県史資料編凡例2ページ目
はぁ?お前の書いてる書状って萩藩閥閲録からの転記だろが。なんで山口県史史料編の注釈を持ち出して
萩藩閥閲録収録の輝元御印と書いてるだけの写しを偽書状写しじゃないと証明しようとしてるわけ?まったく関係ないだろwwwwwwww
だいたい萩藩閥閲録からの転記の
>>天正6年8/10毛利輝元→児玉
>>去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
敵数多討捕なんて書いてないからw書いてあるのは及鑓合被疵左足併郎従1人令討死だし
>>天正6年6/26輝元→児玉
>>態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
小次郎事と無比類の間には、被疵之由候、無心元候と書いてあるのに、なんで削除してんだよw
つかさ、萩藩閥閲録収録の巻115の湯原文左衛門186通の中からお前は抜粋してるようだが、
山口県史料で本物認定して収録してある児玉文書はたった6通だけだぞwwww
しかも湯原分で調べると児玉文書第3(天正8年12/28)・4号文書(天正9年1/21)だけじゃんwww
>>熊見川だってちゃんと史料にいっぱいあるし顕如の書状にも織田方3000人討ち死
もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、ずっと篭城を続けた
山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.
1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
先祖代々の恨みのあまり秀吉・石田憎しで捏造歪曲ばっか吐いてんじゃねーよ在日織田厨くんよぉwww
史実の虎倉合戦
宇喜多の攻勢により備中・美作で敗勢著しい毛利軍が巻き返しを図るために
輝元・隆景・元春まで出張ってきての虎倉城攻略作戦で(虎倉合戦)
10万石前後の小勢であった伊賀久隆にまんまと毛利軍が大敗し
粟屋元信など大物が討ち取られる。
伊賀家久の帰属に関わる萩藩士の先祖の由来があるため無かったことにできない戦ですら
捏造王の萩藩閥閲録・毛利家日記は負け戦を負けと認めず捏造歪曲する糞資料。
あれは合戦では無かったので毛利の敗北とするのは間違えなので
デッチアゲ虎倉合戦では無く正式名称は加茂崩れと呼称する始末。
毛利軍は有漢から福山への陣替のために
近習が夜に先発し移動開始したけど
現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。
そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、
これによって伊賀家久が我が長州藩の家臣となった。

31 :
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書
仁保元棟洗米返事
御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押
同左近大夫殿
御返報

32 :
本願寺が朝廷の和議に応じた後に信長が天正8年8月に出された佐久間親子弾劾状には
明智が丹波、柴田が加賀をそれぞれ一カ国平定したことを挙げているが
秀吉の場合は数カ国比類ないと信長が述べていて天才秀吉が別格扱いの実績を叩きだしてる。
その攻略スピードの速さと言い異常すぎる。毛利に苦戦とかギャグかよwww
毛利は国人合議の一揆連合から脱皮出来なかったから石高に応じた軍備と兵役の賦課のできない織田旧体制のままの武辺道重視の柴田に
圧勝した改革派秀吉に対して、天正11年12/15に安国寺が、毛利の一方的譲歩で和睦決断するように、
輝元、元春、隆景に問題を先送りして正月に休んだりしようとしてる場合じゃないと、
強く決断を促す時に、高機動の秀吉軍は10日か15日で罷り出れるが、
輝元、元春、隆景らは中途までうち出すのすらも50日や30日はかかると書いて動員の遅さを挙げてる。
ドン臭い動員ではもはや秀吉には勝てないし、これでは秀吉に一方的に押し込まれるはずだと安国寺は喝破していた。
ところで安国寺はなかなか先が読める人間で1584年正月11日の書状でも秀吉を褒めまくっている。
(秀吉は信雄に年賀の礼に来るように命令し信雄が拒否し秀吉と険悪な状況になっていた)
安国寺はさかんに秀吉と毛利の領地の堺について大きく譲歩してでもはやく和睦締結するように主張してる。
近年において信長がいた時も羽柴羽柴と騒がれ戦をすれば羽柴、城を攻めるも秀吉と盛んに評判になっていたが
いまでは日本を手の内にしており名人であり明日の不慮も考えられないと書いている。
これにより毛利と秀吉の正式な和睦が成立し、3月に入り秀吉は安心して家康信雄と激突する選択ができた。
いくら秀吉を貶そうとも耶蘇会の1584年の年報にも
はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。

33 :
お前、それ家わけ文書に載ってると誤解してんの?w
家わけ文書すら理解できてない無知ぶりを晒しまくってワロタwww
そんなクソ内容は家わけ文書には無いわwwwアホ乙www
>>4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
>>5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む
>>5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
>>5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
>>5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
>>5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、
>>仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
>>5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、
>>6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す
>>6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
>>7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る
>>7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、
>>又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、
上記の文はネットで東京大学の大日本史料データベースで年代検索かけて
綱文だけ拾ってきてコピぺ転記羅列してるだけじゃねぇかアホ屑チョン
綱文内容が一次史料を元に書いてるわけねーだろ無知すぎてワロタw
だから下記みたいなカス資料の無意味な羅列しかお前はできないんだw
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

34 :
>緒戦寄せ集めでバラバラだから
>一揆勢は防戦だけでプロ武士団がなく指揮系統があいまいだから
いつものことだが全くソースがないね。そもそも指揮系統の話なら箕浦合戦で秀吉の与力として奮戦したことが
『信長公記』に記録されてる樋口直房は旧浅井家臣で堀秀村の直臣、当時の秀村は十二万石の大名だったのに対し
秀吉は僅か五万石に過ぎず秀吉より遥かに格上で従わせるのが難しい存在だったわけで
『当代記』には「(堀・樋口は)木下秀吉同心なりしが、小谷落去以前は、
秀吉は五万石、堀二郎は十万石の領主たるに依りて、 秀吉異見に服さざる条、間柄快からず」という記述がある
>秀吉が雑魚なのは対別所明智柴田滝川徳川信雄北条などで証明済み
>よって一揆勢が雑魚だったでFA
「証明済み」なんて言ってるのはコピペ連投基地外の君だけじゃん
秀吉が苦戦したと言えるのは対徳川戦の緒戦だけで後は普通に勝利してるし、
対斎藤浅井朝倉毛利戦で相手より少ない兵力で活躍してる
それに君の「(一揆衆は)指揮系統があいまいだから弱くて当然」
って理屈なら箕浦合戦の堀・樋口もそうだが、
本能寺の変後織田政権で同格以上だった諸将を率いて
戦ってきた秀吉の統率は当然+αの評価をされなくちゃいけないね
つうか早く箕浦合戦で秀吉が砦に籠ってただけ、ってソース出してよ
お得意の捏造はもう良いから『信長公記』とか『浅井文書』とか
それっぽい名前出せば誤魔化せると思ってるのかね
『信長公記』なんてネットで原文と現代語訳読めちゃうのに恥ずかしいw
キチガイ秀吉アンチのアホは松下文書どころか 志賀の陣の翌年の元亀2年5/11付けの
徳山宛の秀吉書状すら知らずにデタラメ書いてる愚か者。
5/6に堀秀村の箕浦城を長政が派遣した5000で攻撃されるのを察知した秀吉が
横山城を出陣して箕浦城に入った後、下長沢→八幡(長浜)で戦いが続き
秀吉軍が浅井井規と湖北十ヶ寺一揆連合軍を打ち破ったのも知らん無知ぶりを晒し
箕浦合戦は捏造とか連呼する救いようの無いバカ池沼。
総見記には元亀3年に浅井井規・赤尾清冬らがまた横山城を攻撃してきたが、横山城から竹中重虎が、
背後から秀吉が攻め懸かり挟撃される恐れから浅井軍が撤退したとも書いてる。
依然として秀吉も苦労していたようで、宮部継潤らを調略して自軍強化してる。
信忠の初陣では、無謀な山本城攻めを秀吉はさせられるなど信長がやってくると散々。
この時期、松永久秀も近江に7/7までに来ないと許さんと
追い詰められている信長に無茶を命じられキレてるほど織田軍内は険悪。
宮部継潤らが味方になったことから信長は横山城との連結が可能となった虎御前山に7/27に築城開始。
8/28暴風雨を利用して朝倉景盛が柴田の城郭を放火したら
どんどん延焼して織田軍は大混乱になるなど苦戦続きの織田(9/5長政書状)
これにこりた信長は宮部城を修復し佐久間隊を入れ、虎御前山と宮部城に土塀と堀で囲った軍道を作ることになる。
9月に入り、ついに信玄西上開始。

35 :
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書
仁保元棟洗米返事
御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押
同左近大夫殿
御返報

36 :
天正12年の秀吉と家康による伊濃尾の戦いでの家康勝利歪曲。
小牧長久手ののち、秀吉の戦略は尾張西部へ攻撃対象を変更した。
一柳直末に大浦城(羽島市)の普請を命じ、楽田から岐阜へ移動。
5月、秀吉は尾張富田(一宮市)に進出し加賀野井城(羽島市)包囲を開始。
この城は信雄首脳陣たる林・楠・千草・小坂らが篭もっており、
信雄が救援に木曽流域にきたところを捕捉殲滅しようと策した。
しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず、6日には籠城衆が脱出を図るところを大量に討たれた。
その次に竹鼻城攻めが開始された。この城が水攻されたのである。
一両日で水に沈み抗戦不可と悟り、不破らは信雄の許可を得て長島へ退去し一柳が入城した。
滝川が清洲(徳川軍策源地)と長島(北畠軍根拠地)の連絡を寸断すべく蟹江城を乗っ取った。
一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
9月に和議が持ち上がり、蒲生氏郷に秀吉は南伊勢五郡の知行を与えている。
和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し
信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
秀吉軍は2手に分かれて北伊勢から信雄のいる長島城を脅迫するべく10/25近江から行動開始。
秀長も木曽川に沿って大垣から長久保(海津市)まで南下。
秀吉の行動に対応して伊勢筋からの信雄の注進により10/23に松平家忠が清洲に入っていたが
(酒井忠次が10/17清洲へ移っていた)家康も桑名表の危機的情勢を聞きやむなく11/8に尾張へ明日出陣を伝え
清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
秀吉自らは11/10長島目前の桑名町屋川まで押し詰め付け城を構築開始(11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある)
これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
結論
信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
無条件降伏を飲む形で集結し、小田原征伐に乗じて家康は国替
信雄は北畠家から強制出家させられ小者1人付きだけの秋田流罪にされる。

37 :
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 08:34:39.71
>>7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
蟹江から眼前の大垣近辺にいたのに滝川の軍事行動しらないわけねえだろアホ
>>さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる。和議による条件交渉ではなく
普通に攻撃失敗して攻略できなかっただけ
>>城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
そら信雄がたまたま秀吉の示威行動にビビッて和議結んだからなんとかなったってだけだろ
尾張半国すら切り取れないのに圧勝も糞もない
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけ。滝川が降伏したのは7/3でこれも単に秀吉が後詰にこず単独で抗戦不可になっただけの可能性高い
>>秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
三河方面への侵攻計画書状で書きまくってるのに信雄討伐以外視野に入っていないわけねーだろアホ
>>滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
ようは家康が怖かっただけだろ。新たに楽田留守居部隊も追加されてるし
>>すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる
そら眼前にいた秀吉から何の支援も得られなかったってだけだろ

38 :
>>さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる

7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる

39 :
>>家康が来ないからまんまと狙いが外れた
>>木曾川流域まで進出したら兵力で圧倒的に劣る家康は危険すぎただけ
つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
>>鼻救援に行くには加賀の井城を攻略しないといけないのだから
秀吉は加賀の井城を攻略後に竹鼻城へ水攻めを開始している。
つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい
秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
>>滝川がへたれなのではなく清洲と長島を分断する大チャンスで秀吉がなぜか放置するような雑魚だから降っただけ
7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
>>信雄唯一の南伊勢の拠点も消失
すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
>>和議は信雄書状や家忠日記に書かれるように秀吉が申し出て信雄が蹴った
秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
>>長久保は徳川方に奪回されてるのが一次資料で確認できる
羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
しかも吉村に対して11/7・11/8で相次いで信雄が福田の裏切りへ対処するように行ってる状況下で。
まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
ただ単に裏切ったばかりの福田を討っただけでしょこれ。秀吉の敗北カウントになんねーよカス
どっちにしろ家康には何ら功績などない。 つか秀吉敗北カウントに入れてる城攻めの一次ソースでちゃんと明示しろよw
>>家康は美濃方面に出て遠山と共に羽柴と戦っている
家康が出陣していたとは書いてないだろ捏造すんなw秀吉書状には敵が東美濃へ攻めてきたから
自分も10/20に出陣すると書いているが、10/22には敵が退散したから、出陣部隊は美濃ではなく伊勢へ行くと
方針変更を伝えているだけだし。しかも10/18付けで家康は味方の遠山半左衛門尉討死を伝えているし
9/23には飛騨の金森が美濃郡上へ秀吉のために動くなどと書いているし美濃東部戦線も秀吉有利に進んでるわけだがw
>>家康は85年までずっと戦闘態勢を解いていない
そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
家康が優位なんてバカなことはない。しかも結局、酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
徳川が人質じゃないって言い訳してるが、徳川有利ならそんなに人質送るハメにならんだろw
そもそも信雄が2/22着で大坂城へ土下座しに行ってる時点で家康の大敗は確定的。
そもそも家康には天正12年6/27付け書状からわかるように秀吉へ人質を出していた上杉という敵までいるしw
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。

40 :
>>目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
>>たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして尾張東部へ攻め込んだだけ。
当初も糞も最初から最後まで徳川討伐と三河遠州への侵攻意思表明してるのにたまたまも糞もない
>>いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
攻められてる地域無視してなぜ他の地域転進するのか意味不明。しかも楽田に留守居部隊2万も残されてるのに
>>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
傍観というかそもそも1万足らずの兵力じゃ何もできんだろ
>>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀野井を後詰したら危険な敵地&木曽川流域で秀吉の大軍に潰されてアボーン
>>その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
失策も糞も最初からまともに会戦できる兵力差&状況じゃねーわアホ
>>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
戸木城は敵地のど真中で敵占領地の奥深くに孤立した地域にあるのに海使わないと兵糧搬入
なんてムリなんだから風吹いたら搬入できるわけねえだろカス
>>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。
兵力差が圧倒的なんだから当たり前
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される

41 :
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をしたために
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?
>>細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
>>羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事
秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事
から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている
>>滝川が自分の意思で調儀しただけで、
>>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて
全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ
>>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために
危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ
蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし
>>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
秀吉が後詰しなかったからだろ
>>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
秀吉は其の間なにやってたのって話だわな
佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉
>>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが
>>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで
5か月もようしているのは蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期
どうみても秀吉の失態です。

42 :
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ 大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし 蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが 大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。

43 :
戸木城開城は他でもない木造家の編纂した木造記に具体的に無事を扱って開城したと書いてある。
(藤田達生氏の新著の「蒲生氏郷」でもそれを支持している!)
そこには伊勢国奄芸郡(現・三重県津市一身田の浄土真宗高田派本山)
一身田高田山専修寺の御門跡大僧正尭慧上人が戸木城へ来て
木造親子を宥められて扱い入れてくれたことで木造家は無事になった。
(関が原の戦いにおいても安濃津城の戦いで一身田高田山専修寺は開城交渉に乗り出しており
安濃津城主富田信高・伊勢上野城主分部光嘉らは一身田専修寺へ退去しているように伊勢での和議斡旋の中核を担っている勢力)
10月下旬に左衛門佐具康父子が戸木城を退出し信雄の清洲へ退いた。
それにより木造・小倭の領地は上野介信兼(織田信包?)へ付けられた。
(ちなみに木造記にも戸木城攻め総大将を織田信包と書いている)
信雄・信益・中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵の政権運営メンツが
人質を出してるのに最有力重臣木造親子が一切、人質を出してないのは不自然。
お前は勢州軍記を木造記の内容パクり先だとやたら主張してるが、お前ほんとは読んでないだろ?
勢州軍記の方は信雄が和睦したので木造家も城を渡したとさらっとしか書いてない
しかし木造軍記は奄芸郡一身田高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が
無事を扱ってくれたので開城したと具体的に書いてあって内容がぜんぜん違う。
(家康が兵糧輸送を諦めたため7/28の時点で木造の和睦を請う態度に秀吉は本人と家老2人に
人質を出せと命じており尭慧上人の斡旋で和睦条件が緩和したので木造は速攻で秀吉に降伏したんだろう)
10/28秀吉の脇坂(伊賀上野に駐留して11/3に伊賀城割開始))宛書状には
桑名まで押し詰め付け城4、5ヶ所申し付けって書いてるし
同日の丹羽宛秀吉書状には書状が浜田表に届いたが、浜田城は滝川三郎(雄利)の持ち城だが
取り巻いて付け城4、5ヶ所申し付けって書いてあって、もう完全に信雄方は追い詰められていて
清洲までやってきた家康も近づけない有様になってると見ていい。
しかも大和から筒井勢を新たに動員し始めてるし、丹羽は利家への援軍を出してるし
秀吉側はかなり兵力に余裕をもって伊勢でやりたい放題やってる。
信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
11/6の大垣にいる加藤宛秀吉書状にはあちこち落として、あちこち砦を造り
北五郡之儀無残所任存分候条って言ってる。翌日の土倉宛ての秀吉書状では東駒野取詰 即時乗崩と感状を出して
美濃でも攻勢を開始してるのがわかる。
>>和睦条件がデタラメ
これは本や史料によって解釈がまちまちで正直わからん。
尾濃葉栗見聞集によると、木曽川西北羽栗・中島・海西の三郡割り秀吉方へ
勢州度会郡・篠島(知多郡)・海西の三郡割りを信雄領
天正12年甲申年9月の秀吉朱印状には
壱志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・渡会郡・大和宇多郡の
大半を氏郷とその与力に与えていたりするしこれ取り消したりしないだろうし。
講和条件については 「北伊勢四郡相渡」の文章の解釈が難しい。
しかも細部の内容がまったくわからないし。
実際、虫あき的な状態で秀吉給地となった場所も多かったと思う。
尾張に関しても犬山(丹羽郡)・甲田(葉栗郡)は秀吉人数入れ置きと書いてるが、
別な史料を除くと岩倉も秀吉方だと書いてるものもある。
川中島は一円、長尾方と書いてあるが実行されたんだろうか?
解釈が難しいが検地から逆算すると桑名・員弁・朝明郡の三郡は返却されたかも知れない。
尾張北東部では丹羽郡〜葉栗郡東部・春日井郡北部などが奪われたか。
尾張北西部も西加賀野井などが奪われたか。それとも返却されたのか不明。
どちらにしろ、家康完敗であって、家康の優勢勝ちなんて判断は一切できない。
そして秀吉が信雄に遠慮して、家康を討つと言い換えていたなんて
トンデモ理論を持ち出す織田厨のバカさが突き抜けたキチガイぶりで笑えたw

44 :
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
>秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから
強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう

45 :
講和になり抵抗していた者たちから人質を秀吉が取る時に
源五殿実子(織田有楽斎)を人質に出すことになってる。
滝川雄利も実子または母を出すとなっているが、
北畠時代からの信雄最有力重臣の木造長政の名前がないのは、
この時点ですでに秀吉方に降伏してるからだろ。
家康も秀康を「養子」として出すと吹聴してるが
秀吉方では「人質」としてる。石川数正も人質を出してるが
のちに家康を裏切り出奔するフラグだな。
秀康を人質に送って先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで
戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
信雄は秀吉の先鋒として家康の味方である紀州雑賀攻めの先鋒までやってる。
家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで
秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw
結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく
家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。
岡崎を吉川広家に占拠されただけでなく、
駿府に入った秀吉を見た家臣の本多重次にまで
家康は「自分の居城を開けて他人に貸す国主とかwww」
「じゃあ、今度はお前の女房衆を借りたいとか言われた貸すのwww」などと
散々にキレられながら言い放たれて勝手に自分の宿に帰っていかれちゃうほど
情けないことになっちゃったんだがw
>>尾張北西部も西加賀野井も奪われたか
奪われてるね。竹鼻城は水攻め落城後に一柳直末が入っていたが
のち天正13年のことだが11/3付けで竹鼻における不破広綱の領地を
池田輝政配下の伊木忠次に与えてる秀吉書状がある。
天正14年の木曽川大氾濫で流路変更がおきて尾張国から美濃国扱いになってしまったが
当時はまだ尾張領。しかもここからすぐ下流の長島城まですぐだから
信雄は完全に頭を抑えられた格好になってる。
まぁ天正13年11月の天正大地震で長島城はぶっ壊れたから
清洲へ移転することが天正14年2月に決まったが
実際は長島の修理をせずに、竹鼻城から遠い清洲へ逃げた格好だろうね。
信雄にしてみれば、おちおち枕を高くして眠れないからね。
なんせ長島城の堅固さは関が原の戦いでも正則の弟の福島高晴が籠城してる中で
西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してるしね。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけど
そもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。

46 :
当時の当主は北畠具房(具教の嫡男)であり
まず北畠具教と木造具政(晴具三男・具教の弟)の内訌において
木造が織田の力を借りて内訌を有利に運ぼうとしたことが挙げられる。
北畠に苦戦した織田は義昭の和睦調停において茶筅を人質に出して安全撤退した。
(北畠は人質を出してない)その時に茶筅の安全を守るため織田家から津田一安が付けられ、
木造からは滝川雄利(木造一族)と拓植三郎左衛門(木造重臣)が警護に付けられた。
さて成長し茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
そして具教や具房の奉公人である山室氏(9/16・10/13・10/14・10/16・10/29)や
鳥屋尾氏(10/13・10/16・10/19・10/晦)によって大湊への軍事動員書状が発給されてる。
9/20頃に伊豆の敵船が大湊入り津田一安が現地入りして糾明に乗り出し大湊諸衆と交渉してる。
しかし大湊の船主たちが軍事動員に反対して拒絶している姿が山室氏の書状で判明する(太田家古文書)
つまり大湊の船主の総意は織田に従いたくないという大前提が見て取れる。
また天正元年11月15日に山田三方中と北監物に信雄は文書発給しており
大意としては両御所様御同前に北監物(伊勢大神宮御師)の息子の
福島左京亮(皇大神宮御師)の跡職相続を認めたもの。
これも9/16・9/22・10/22に山室氏から奉書が発給済みのもの。
天正元年の信雄の具豊名での発給文書はこの3通のみ。
このように信玄が死去し義昭が追放された後になってやっと信雄の発言力が多少向上してるに過ぎない。
ここに至っても伊勢水軍が織田に服属してないのが理解できる。

47 :
次ぎに信雄が発給しているのは天正3年7/24から「信意」の名前で発給開始している。
つまり天正2年はまったく書状を発給していない。
よって7月の伊勢長島一揆討伐の軍事動員も具房らが主導していると見てよい。
ではなぜ天正3年から発給が開始されるのか?そして「具」ではなく「信」が使用されるのか。
それは多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。

48 :
信雄は天正2年はまったく書状を発給していないことに着目し
信雄が織田家に突っ返されてしまったとする考え方もある。そして天正3年6月に再度、伊勢入部したとする。
その後、8月の越前一向宗殲滅戦には信雄はなぜか大和衆を率いる塙を部下としているように見え
(塙の大和支配もあくまで信雄の配下としての行動に過ぎないのではないか)
滝川一益や津田一安は信長の命に従っているように見え、信雄とは別系統とも思える。
伊勢衆は信雄の統制下にはまったく置かれてない独自行動してるのがわかる。
北畠は結局、兄弟内訌で滅んだだけだしね。
木造具政は織田を利用して兄の北畠具教を滅ぼして戸木御所を自称してた張本人で
信雄を傀儡擁立にした木造家本家を継いだ首脳人物だからね。外様なわけが無い。
(息子は木造長政・具康・長正・長忠など別名多数)
吉村は単に史料が大量に遺されていただけの話で、
しかもその内容は家康や信雄から「前線の様子の報告ありがとう」な内容の書状ばっかりで
正直、内容も書かれてないので役に立たない書状ばっか。これで首脳とかありえないから。

49 :
>>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ
>>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
傍観って小牧山周辺をガチガチに砦と2万もの兵力で囲われてるのに
放置して他地域にいけるわけないだろアホ
>>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
加賀野井城陥落は家康にとって地理不案内の上に圧倒的兵力差&小牧山留守居部隊がいたってだけ
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理
>>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
>>完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
竹鼻陥落から5か月もたった後での事持ち出されても。
そもそも戦略的大敗も糞もない圧倒的兵力比&信雄領国寝返りばかりの圧倒的有利な状況なんだから
勝って当たり前。そんな戦闘で長久手二重堀戸木松ノ木蟹江など負けまくって自力では1年かかって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
蟹江合戦当初の6/16はまだ秀吉が大垣あたりにいたと思われる。大垣から蟹江なんて半日もかからんだろ
伊勢の楠本から大阪まで2日程度で移動してるし
>>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
南伊勢楽に切り取れたのは関や神戸・田丸・信包など地元勢力が秀吉の味方についたのと
池田に対応するため家康が尾張に転進したおかげ
>>秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
勝つまで2か月も経ってるな。しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
天正13年家康が領国内問題で離反した対真田の敗戦と同じく前年離反した木曽や
天正13年離反の小笠原への対応などで困窮したおかげで秀吉にとって圧倒的優位な状況
が生まれるがこの状況ですらまだ家中では主戦派が主だったが秀吉派であった石川・水野の離反と
軍事機密露見と天正大地震と天正11年からの徳政連発で困窮した家康は従わざるをえなくなっただけ
しかもそんな今川氏真でもかてそうな圧倒的優位な状況で母と妹人質に出したのが秀吉
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
そら信雄と一緒に和議結んでるのに勝手に盟約違反する馬鹿はいないだろ
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも国力やら状況が糞みたいに秀吉有利なんだから家康優位なわけないだろアホ
石川も徳川方史料だろ天正12年秀吉との対決時でもすでに秀吉に篭絡されつつあったし
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
>>15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
これは単に陣夫として輸送や調達など非戦闘業務が主と本多氏が定本徳川家康で書いてるな
家康は兵力8000そこそこだからな(当代記・家忠日記その他合戦記や家記・家譜)
残りは信雄の兵力だし
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
7〜8倍もの圧倒的兵力差で兵力が余りまくらないわけないだろアホ
そんな勝って当たり前の兵力で苦戦しまくり尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉

50 :
>>しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず
恐れてるのは明らかに秀吉の方
家康・信雄は圧倒的に兵力に劣る上、楽田の留守居2万や美濃の後詰部隊放置して
加賀野井・竹鼻にむかったら別働隊に追撃されるなり小牧山襲撃されて退路たたれるなりしてアボーン
>>一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
滝川からすれば物資はすぐ近くの秀吉陣からもたらされると思ったんだろう
>>すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
滝川がヘタレなのではなく秀吉がビビッて放置したから降るしかなくなったのが滝川
7/3まで持ちこたえているがこれも秀吉が見捨てただけからってだけの話だろ
秀吉は三河方面への攻撃を想定していたのに結局この合戦の失敗で延期して信雄戦にきりかえる事になったんだから明らかに秀吉の失態
>>和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
これは木造記(軍記物)の造り話。ちなみに秀吉も7月には木造の事に触れてるのに
この時は何も触れていないし中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵こいつらより
貫高で勝る連中も普通に人質出していない。木造記は具政を具康としてるくらいでただの軍記の信憑性だし別名木造軍記ともいうもの
>>清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
そりゃ8000そこそこで8万も10万もの秀吉軍とガチンコでやりあうなんて無理
そんな勝って当たり前の状況と兵力差で苦戦しまくって1年無駄にしたのが秀吉
>>もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
戸木も小牧山も松ノ木も小牧山周辺の砦郡も似たような状況で落とされなかったのにこれで勝ったような事いわれても
>>11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある。これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
あくまで秀吉が言ってる事なんでおおいに疑問
9月にも信雄が人質を出して懇望してきたけど許さなかったとか書いてるけど
なんで秀吉は11月になったら許すのかって話だし
>>重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
ビビリ信雄が勝手に和議を結んだから大義名分失って和睦せざるをえなくなっただけ
>>(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
秀吉の書状なんて全部自分に都合いいことしかかかれてないし
家康領国が天正大地震と離反の連鎖と徳政連発で困窮してる状態ですら母と妹を人質に出した程のヘタレぶりかましたのが秀吉
>>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康領国は合戦前や合戦当初から徳政連発で十分困窮してるのがわかる
元々貧国ばかりだし上杉や北条の変心に備え大部分の兵力を領国に残してたからな
>>信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
そんな史料にない妄想いわれても
>>秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
野戦回避してたのはむしろ家康がいた小牧山避けてしかも小牧山からでられないように
まわり砦で囲いまくって2万も残して一方で自分はこそこそ家康の出てこれない
木曽川筋の諸城圧倒的大軍で攻めるだけだった秀吉の方
>>家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
7倍もの兵力比で歯がたつも立たないも糞もない
>>無条件降伏を飲む形で集結
母と妹差し出すのが無条件降伏とかアホですか

51 :
>>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ
>>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
傍観って小牧山周辺をガチガチに砦と2万もの兵力で囲われてるのに
放置して他地域にいけるわけないだろアホ
>>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
加賀野井城陥落は家康にとって地理不案内の上に圧倒的兵力差&小牧山留守居部隊がいたってだけ
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理
>>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
>>完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
竹鼻陥落から5か月もたった後での事持ち出されても。
そもそも戦略的大敗も糞もない圧倒的兵力比&信雄領国寝返りばかりの圧倒的有利な状況なんだから
勝って当たり前。そんな戦闘で長久手二重堀戸木松ノ木蟹江など負けまくって自力では1年かかって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
蟹江合戦当初の6/16はまだ秀吉が大垣あたりにいたと思われる。大垣から蟹江なんて半日もかからんだろ
伊勢の楠本から大阪まで2日程度で移動してるし
>>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
南伊勢楽に切り取れたのは関や神戸・田丸・信包など地元勢力が秀吉の味方についたのと
池田に対応するため家康が尾張に転進したおかげ
>>秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
勝つまで2か月も経ってるな。しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
天正13年家康が領国内問題で離反した対真田の敗戦と同じく前年離反した木曽や
天正13年離反の小笠原への対応などで困窮したおかげで秀吉にとって圧倒的優位な状況
が生まれるがこの状況ですらまだ家中では主戦派が主だったが秀吉派であった石川・水野の離反と
軍事機密露見と天正大地震と天正11年からの徳政連発で困窮した家康は従わざるをえなくなっただけ
しかもそんな今川氏真でもかてそうな圧倒的優位な状況で母と妹人質に出したのが秀吉
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
そら信雄と一緒に和議結んでるのに勝手に盟約違反する馬鹿はいないだろ
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも国力やら状況が糞みたいに秀吉有利なんだから家康優位なわけないだろアホ
石川も徳川方史料だろ天正12年秀吉との対決時でもすでに秀吉に篭絡されつつあったし
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
>>15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
これは単に陣夫として輸送や調達など非戦闘業務が主と本多氏が定本徳川家康で書いてるな
家康は兵力8000そこそこだからな(当代記・家忠日記その他合戦記や家記・家譜)
残りは信雄の兵力だし
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
7〜8倍もの圧倒的兵力差で兵力が余りまくらないわけないだろアホ
そんな勝って当たり前の兵力で苦戦しまくり尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉

52 :
それ全部、家康方の吹聴してた捏造戦果。
小早川隆景も情報元を尾張の犬山の高尾又兵衛尉なる者が昨日やってきた時に聞いた「世上如風聞」と書いてるし
むしろ顕如はのち落ち着いた後に情報収集の結果として正確な数字を書きいれてる。
実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。 いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
必死な政略的宣伝工作かがわかる。しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して、
同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ、秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
それどころか4/9の池田・森の失策の報復として、早くも4/17には家康本拠地三河国の渥美まで
秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
無防備ガラ空きの背後を見事に襲われたのが渥美郡にある常光寺の日記でバレてしまった家康www
1万討ち死と書く小早川隆景も情報元を尾張の犬山の高尾又兵衛尉なる者が
昨日やってきた時に聞いた 「世上如風聞」と書いてるし、明らかに家康・信雄が吹聴してたネタを聞いただけ。
むしろ顕如はのち落ち着いた後に情報収集の結果として 正確な数字を書きいれてる。
実際、一万討死なんて非現実的過ぎる数字だわなw 関が原の戦いより死んでるとかありえんんわw
この戦役後に家康は敗戦処理として秀康を人質に送って先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで
戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
信雄は秀吉の先鋒として家康の味方である紀州雑賀攻めの先鋒までやってる。
家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで
秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw
結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく
家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。
岡崎を吉川広家に占拠されただけでなく、駿府に入った秀吉を見た家臣の本多重次にまで
家康は「自分の居城を開けて他人に貸す国主とかwww」
「じゃあ、今度はお前の女房衆を借りたいとか言われた貸すのwww」などと
散々にキレられながら言い放たれて勝手に自分の宿に帰っていかれちゃうほど
情けないことになっちゃったんだがw
1万討死は確かに現実的な数字じゃないよね。
当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと
八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
しかし長宗我部は逆に秀吉の要請で毛利の侵攻が開始される始末。
そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って
友軍の離反を繋ぎ止めてるが、もちろん秀吉は佐竹を使って北条を牽制してるし
新発田との争いを止めさせた上杉も参戦してきたから家康は完全に追い詰められてた。
20万人が戦った関が原の戦いですら
旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を8000人としているわけだし。
一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。
顕如日記の3000討死ってのが現実的だろうね。
家康の策源地である三河からして完全に崩壊してるのが現実だし。
三河渥美郡にある常光寺の日記
4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために
在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており
徳川・織田連合軍は秀吉によってどんどん領地を奪われていき
空手形の発行をする始末だからねぇ。
誰がみても秀吉の優勢は明らかで、秀吉にビビッて家康は友軍を見捨てていくから
家康をどんどん見限って秀吉に付いていく状況だからね。
どう考えても家康の方が秀吉より優勢なんておかしな解釈はできない。

53 :
>>秀吉からしたらまんまと目論見が外れた結果
目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして尾張東部へ攻め込んだだけ。
>>家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。
秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
秀吉軍を呼び込めばいいだけ。長島城が危機的になり敗北確定になるまで
なんら無策で信雄が追い込まれていくのを秀吉を恐れ傍観してただけなのが家康。
>>鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より
加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
落とされた家康の失策でしかない。というか家康は戦略的に完全に追い詰められているよね。
7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
>>この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかり
>>その間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
その後、あらたに大きな軍事行動を秀吉が開始したのが10月下旬で長島直撃作戦だ
城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
>>どうみても大チャンスにまんまと手をこまねいていただけ
いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる。

54 :
さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
ちなみに佐竹への書状でも秀吉は対外宣伝としては、そんなに大法螺は吹いてない。
>>戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
いつの日付の誰宛の話をしてるかわからんから調べてない。日付書いてくれ。
が、圧倒的戦力をもっていた秀吉が4/8の小牧長久手で敗れるまで勝利まじかと書くのは普通だろ。
それに伊賀や伊勢でもすでに開戦初頭からだいぶ蹂躙していたし(池田の犬山奪取で戦略変更したが)
詳しい情勢を知らない遠方への対外外交で誇張するのは信長だってやってる。
でも身内への書状で秀吉が書く内容と一緒にするのはおかしいだろ。
>>お前の主観なんて聞いてない
本当に大活躍なら、それを機に家康が後詰めするなり、信雄の粘り籠城が継続するだろ。
独力で秀長の大軍南下が阻止できないだろ。
>>信雄がへタレて
ヘタレないように軍事支援するのが家康の役目のひとつだろ。無策傍観で信雄もこりゃダメだと悟ったんだろ。
>>一貫して秀吉は家康への討伐、そして家康は秀吉に対する抗戦を想定
そんな想定してない。間に大坂で土下座して秀吉配下同然になった
信雄が入っていて(秀吉の雑賀攻めに信雄も参加)秀吉方の人質要求を家康に出すように伝えたりと
完全に信雄を折衝道具としての条件闘争をしているだけ。外交技術として強気の姿勢を示してるだけ。
実際は、佐々や長宗我部や紀州勢を家康は見捨ててる。
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してる
9/23には飛騨の金森が美濃郡上へ秀吉のために動くなどと書いているし
>>家康は85年までずっと戦闘態勢を解いていない
そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも信雄が2/22着で大坂城へ土下座しに行ってる時点で家康の大敗は確定的。
そもそも家康には天正12年6/27付け書状からわかるように秀吉へ人質を出していた上杉という敵までいるしw
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
で、結局、北条の援軍こなかったよねw信玄西上の時は北条も援軍出しているのにw

55 :
>>蟹江合戦が秀吉の敵地分断戦略の一環なのもしらんとか馬鹿すぎ
ププッそれ軍記の太閤記に出てくる「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてる
清洲城と長島城を分断すると言う講談話の妄想戦略だろ・・・
そんなことを秀吉が命じたソースはないし
(秀吉本人も中割戦略として6/4の佐竹宛の秀吉書状で加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っている)
滝川が自分の意思で調儀しただけで、
(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
当然のように危険極まりない行為をしたために
16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
19日には家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で
7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
当の秀吉は竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だし
>>馬を収めるつもりでいたら信雄が種種懇望してきたと書いてる
曲解してるだけだろ。信雄と家康がすでに追い詰められているのを
秀吉は知っていたからもうすぐ、この戦いはじき終わると終戦までのビジョンを
持っていて、見通しが付いていただけの話。
そしてきっちり講和条件に秀吉は人質を取ってるし。
家康らに戦局を挽回する力はまったくないのだから。
>>砦を数箇所構築したので納馬する予定である
だからさぁ、それ砦をたんまり構築して桑名表を制圧して
長島を威圧してる体制を構築したから納馬すると言ってるだけで
信雄を完全に八方塞りにしてんじゃんよ。秀吉は信雄を追い詰めてんだよ。
あとは放置してても信雄は降伏するしかない状況で王手してる。
11/13には長島にも押詰城々数ヶ所と書いてて完全に包囲してる。
しかも納馬先として大坂ではなく、伊勢国の縄生城で
秀吉が越年する姿勢に信雄が恐れて懇望してんのがわかる。
そして信雄の実子や有楽斎の実子など人質に取る条件だし。
つうか太田牛一の書いた太閤記は軍記であり、自分の仕えた秀頼の正当性を強調して
秀次を貶しまくるなど曲解を平気で書いてて まったく史料として扱えない糞講談なのも知らんのか?
秀吉貶したいチョン君がいくら家康が圧倒的に有利だったと捏造しても
無駄だよ。家康は長島救援のために秀吉軍を引き付けるために
軍事行動を東美濃で起こすことすらできずに清洲城で震えて信雄の降伏を傍観してただけなんだから。
まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍に来たら良かったのにねwww
>>楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論
どこが暴論だか意味不明。

56 :
>>石川派遣
それ10/5の書状で木曽谷で放火した話だろ。で、結局、遠山半左衛門が討死してんじゃんよ。
それに応じて、秀吉が東美濃へ行くって10/19に宣言したけど
10/22付けで坂本まで出陣したけど、俺が向かったら敵は逃げちゃったから
このまま伊勢へ乱入するよって言ってて
結果的に信雄の降伏を早めただけなのが先がまったく読めないアホ家康の東美濃での攻撃。
11/7には美濃の東駒野でも田中真吉宛て戸田勝隆書状や土倉四郎兵衛に戦功を賞してる秀吉の姿がわかるし
>>木造の軍記を引用してた
軍記じゃないよ家譜だよ。そもそも兵糧不足で刈田をやったり、家康が兵糧搬入のつなぎ城として
浜田城を建設するように命じていたりと早くも苦境ぶりが露呈してたし
7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
それを受けて7/28付の小島・蒲生宛文書ですでに木造は和睦交渉を開始してるし
さらに具体的に奄芸郡一身田の高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が戸木城へ来て
木造親子を宥められて扱い入れてくれたことで木造家は無事になったと書いてるんだから
正当な理由があって木造氏が開城しただけで不利とか関係ないだろ。
南伊勢を唯一支えていた木造の降伏が伊勢失陥確定となり信雄は即降伏したとみるべき。
>>勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
そりゃあ、あれだけ完全に秀吉に信雄が包囲され王手に至ってんだから
その状況になるまで、なすすべなく傍観していた家康が悪いに決まってるだろ。
そして当初は家康と石川だけが人質を出す条件だったのに、結局酒井まで人質を出す羽目になる。
家康単独で秀吉に敵うわけもなく、家康には従うしか選択はないのが現実。
あとは信雄を間に挟んで条件闘争をするしかない。
>>秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生
伊木、池田・荒尾どころか土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ完全にに周知の事実だw
そもそも11/6に実際に加藤嘉明に縄尾(縄生)・桑部の両所に譜請を申しつけてる。
だいたい南伊勢戦線は戸木城が兵糧尽き、東美濃戦線でも圧倒的有利に秀吉が展開してたし、
上杉も信濃戦線に参加したから木曽をはじめ離反大会になりつつあり家康の信濃戦線はもはや崩壊前夜じゃねぇかw

57 :
>しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず、6日には籠城衆が脱出を図るところを大量に討たれた。
秀吉は家康や信雄を野戦につり出して大破する目論見があったのに
家康が来ないからまんまと狙いが外れた
木曾川流域まで進出したら兵力で圧倒的に劣る家康は危険すぎただけ
>一両日で水に沈み抗戦不可と悟り、不破らは信雄の許可を得て長島へ退去し一柳が入城した。
当たり前。場所的関係から言って竹鼻救援に行くには加賀の井城を攻略しないといけないのだから
そんな芸当神でもないと無理。逆にこの2城取っても信雄領国で崩壊が起こっていないのが戦局に対して影響がなかった事をあらわしている
>一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
そんな資料ありません
>すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
滝川がへたれなのではなく清洲と長島を分断する大チャンスで秀吉がなぜか放置するような雑魚だから降っただけ
>9月に和議が持ち上がり、蒲生氏郷に秀吉は南伊勢五郡の知行を与えている。
このときの和議は信雄書状や家忠日記に書かれるように秀吉が申し出て信雄が蹴った
>和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し
>信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
ソースは軍記のみです
>秀吉軍は2手に分かれて北伊勢から信雄のいる長島城を脅迫するべく10/25近江から行動開始。
>秀長も木曽川に沿って大垣から長久保(海津市)まで南下。
長久保は徳川方に奪回されてるのが一次資料で確認できる
>(酒井忠次が10/17清洲へ移っていた)家康も桑名表の危機的情勢を聞きやむなく11/8に尾張へ明日出陣を伝え
>清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
家康は美濃方面に出て遠山と共に羽柴と戦っている
>もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
>秀吉自らは11/10長島目前の桑名町屋川まで押し詰め付け城を構築開始(11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある)
信雄は救援不可能になったのではなく苅田や放火の応酬にビビって勝手に和議を結んだだけ
三河物語や当代記に書いてある。つーか84年初頭からずっとこんな圧倒的兵力差で一進一退が続いているから
継戦不可能といわれても根拠なし
>これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
降伏なんかしていない。ただの和議。その証拠に領土が信雄に北伊勢5郡と尾張の信雄方の城(尾張国内ほとんど)
>重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
ヘたれ信雄がビビって和議結んだから単独で抗戦できなくなっただけ
>(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
なら秀吉も母と妹を翌年差し出したから秀吉は家康に降伏したということでいいな
>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
>家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
家康は85年までずっと戦闘態勢を解いていない
その後も秀吉に対して抗いつづけているしまだまだ戦い続けるつもりだったんだろう 574:名無し曰く、:2012/05/06(日) 15:57:15.33 ID:3YvKmTkl >信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
カチカチになっていたのは秀吉の方
7倍もの圧倒的兵力差なのに短期決戦で大敗したため家康の無防備な小牧山やその他スカスカの城郭をガチで攻め切れず
家康が後詰にこれない木曾川流域の城を圧倒的大軍でこれみよがしにせめるのがやっと
>秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
秀吉は家康からみて進出するのが危険な河川越えて後詰するしかない地域を荒らしまわって
釣り出そうと必死だったが完全に見抜かれていて無駄な骨折りだった
>家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
秀吉は神戸・松ノ木・長久保・二重掘・蟹江・戸木と各城郭で苦戦・敗戦したため
家康にしてみれば雑魚すぎるぞこいつという感じだった
>無条件降伏を飲む形で集結し、小田原征伐に乗じて家康は国替
木曾小笠原真田水野石川が出奔し徳川の軍事機密も露見し圧倒的国力差が生じ
今川氏真でも勝てそうな状況で母と妹を人質に出し家康に大領土与え、豊臣滅亡の要因を直接作った
秀吉の大敗

58 :
そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
しかも北国勢も合流予定と圧倒的戦力差を秀吉は見せ付けてる。
顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
(つか関が原の戦いで両軍併せて17万〜20万が投入された際の戦死者ですら6000〜8000なのに非現実的すぎるわwww)
4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
酒井忠次に至っては2万討ち取りなどと吹聴している始末で、超誇張戦果吹聴で騙して味方を増やそうと必死な情報操作w
5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦局を逆転するには長宗我部が毛利・宇喜多らに襲われるのを無視して
秀吉の背後を襲ってくれることしか道が見えないことが判明する。
5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して
北条から援軍が来たら秀吉を敗北させるからなどと家康はついに白昼夢の夢物語を語り始める始末。。。
6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
6/3には竹鼻城は降伏していいと言って完全に打つ手なし。この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。

59 :
>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に「必家康後巻可仕儀にて候間」書いてるように後詰決戦行う事だから
秀吉からしたらまんまと目論見が外れた結果
家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
竹鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理。そして大河を越えて少ない兵力で敵地へ飛び込むとかそれこそ馬鹿
>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
滝川が蟹江・下島・前田の三城を奪ったのは6月13日。また九鬼嘉隆も船で進軍
蟹江は清洲と長島を分断する位置にあった事から秀吉側からすれば大チャンスだった。
秀吉は10日頃まで尾張で戦い25日でも伊勢にいるのが書状で確認が取れる
どうみても大チャンスにまんまと手をこまねいていただけ
>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
>他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包が秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ
>秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
>それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ
>羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
お前の主観なんて聞いてない
>まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ?
>そんなの去勢張ってるだけ
真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
家康は十月二十八日に浜松評定を行った結果秀吉に対する強硬論派が過半を占め
また岡崎や東部の普請を始め、軍法の改革に着手し三河国衆の婦女子を遠州に移す段取りをしている
また本多重次を新たな岡崎城代に任命するなど秀吉に対して抗戦を想定している
また天正14年初頭に秀吉は上杉景勝にあてて家康討伐にあたり軍勢派遣を要請している
一貫して秀吉は家康への討伐、そして家康は秀吉に対する抗戦を想定していたが
母と妹を人質に送ってきたから上洛しただけ
>>583
木造が編纂しようが所詮は江戸期の軍記
誰々が降ったとかの注進が事細かになされていて木造に関しても7月頃書状で述べられているのに
降伏時だけ何も触れられないとか明らかに不自然
また土方雄良・雑賀松庵この二人より大身(織田信雄分限帖)の吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊
小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない。信包が秀吉方は家忠日記にある
木造が北畠領において実質的に権力の頂点にあったのは本能寺前の頃
この頃は全く権力関係が異なり、いわば外様中の外様みたいなもの。夏ごろ秀吉に寝返りを画策してたようだしな
>信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
家康も書状でもうすく勝ちで終わると書いている

60 :
>>戸木城開城はたしかに一次史料には無いけど他でもない木造家の編纂した木造記に具体的に無事を扱って開城したと書いてある
普段は軍記引用すると批判する一次資料厨なのにこういうときだけ軍記引用とか基地外だな
>>そこには伊勢国奄芸郡(現・三重県津市一身田の浄土真宗高田派本
>>10月下旬に左衛門佐具康父子が戸木城を退出し信雄の清洲へ退いた。
そんな重要な事項が何も秀吉も家康も触れてないとかありえないだろ
大体木造の事は秀吉も家康も書状でなんやかやと触れてるのに
>>ちなみに信雄・信益・中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵のメンツが
>>人質を出してるのに木造親子が一切、人質を出してないのは不自然。
信雄は織田政権時とは全く異なり領地替えまであったのにこの頃まで木造が首脳だというソースよろしく
土方雄良・雑賀松庵この二人より大身(織田信雄分限帖)の吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊
小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない
>>勢州軍記の方は信雄が和睦したので木造家も城を渡したとしか書いてない
>>しかし木造軍記は奄芸郡一身田高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が
>>無事を扱ってくれたので開城したと書いてあって内容がぜんぜん違う。
なぜ内容も違う上に一次資料にもみえない事柄が事実といえるのか不明
>>10/28秀吉の脇坂(伊賀上野に駐留して11/3に伊賀城割開始))宛書状には桑名まで押し詰め付け城4、5ヶ所申し付けって書いてるし
>>同日の丹羽宛秀吉書状には書状が浜田表に届いたが、浜田城は滝川三郎(雄利)の持ち城だが
>>取り巻いて付け城4、5ヶ所申し付けって書いてあって、もう完全に信雄方は追い詰められていて
>>清洲までやってきた家康も近づけない有様になってると見ていい。
小牧山も戸木も松ノ木も似たような状況で落ちずしかも小牧山周辺の砦すら落とせず二重堀で逆襲くらったのに
囲っただけで勝ったようにいわれても
>>しかも大和から筒井勢を新たに動員し始めてるし、丹羽は利家への援軍を出してるし
>>秀吉側はかなり兵力に余裕をもって伊勢でやりたい放題やってる。
当たり前だろそもそも秀吉陣営は135000くらいいるんだから
筒井はしかも新たにどころか春から動員され続け丹羽も当初から長重派遣、途中から長秀も尾張に参陣
とめちゃめちゃ圧倒的大軍なんだから
>>信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
秀吉は9月にも同じ事言ってるのに11月まで終わらなかったし家康も10月にもうすぐ勝つと書状で書いてるし
そもそも秀吉書状なんて都合いい事ばら撒いてるだけだから味方に当てたものでもデタラメばっかり
>>11/6の大垣にいる加藤宛秀吉書状にはあちこち落として、あちこち砦を造り北五郡之儀無残所任存分候条って言ってる。
砦みたいな小さな所分捕っただけだろ。長島も桑名も浜田も囲って苅田してただけで攻撃もろくにかけてないのに
勝ったように語るとかアホですか
>>翌日の土倉宛ての秀吉書状では東駒野取詰 即時乗崩と感状を出して 美濃でも攻勢を開始してるのがわかる。
美濃方面は当初からずっと攻めてるだろ。んで結局この頃まで攻め落とせなかったと。
>>尾濃葉栗見聞集によると、木曽川西北羽栗・中島・海西の三郡割り秀吉方へ勢州度会郡・篠島(知多郡)・海西の三郡割りを信雄領
なぜ信憑性が見聞集>>>書状なのか不明
>>天正12年甲申年9月の秀吉朱印状には壱志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・渡会郡・大和宇多郡の
>>大半を氏郷とその与力に与えていたりするしこれ取り消したりしないだろうし。
信雄は家臣達に蹂躙された南伊勢に代わって北伊勢与えてるのに秀吉に渡すわけねえだろうがアホ
>>講和条件については 「北伊勢四郡相渡」の文章の解釈が難しい。しかも細部の内容がまったくわからないし。
そもそも和睦条件についての話なのに細部の内容持ち出すとか意味不明
>>実際、虫あき的な状態で秀吉給地となった場所も多かったと思う。
和睦の条件は信雄の領地で秀吉が攻め落とせなかった所は信雄の物で秀吉が攻め落とした所は秀吉の物だったってだけだろ
>>尾張に関しても犬山(丹羽郡)・甲田(葉栗郡)は秀吉人数入れ置きと書いてるが、別な史料を除くと岩倉も秀吉方だと書いてるものもある。
だからなんで他の史料持ち出す必要あるんだカスが
>>川中島は一円、長尾方と書いてあるが実行されたんだろうか?
関係ねーわアホ
>>解釈が難しいが検地から逆算すると桑名・員弁・朝明郡の三郡は返却されたかも知れない。
返却も糞も占領すらしてねえだろうが馬鹿

61 :
>>どちらにしろ、家康完敗であって、家康の優勢勝ちなんて判断は一切できない。
いや戦闘レベルでは秀吉が家康ではなく「信雄に」完敗。家康はちょろっと兵連れてきただけだし
信雄が秀吉が攻めるぞってポーズ見せたらビビッて和議結んだから何とかなっただけ
>>講和になり抵抗していた者たちから人質を秀吉が取る時に源五殿実子(織田有楽斎)を人質に出すことになってる。
>>滝川雄利も実子または母を出すとなっているが、木造長政の名前がないのは、この時点ですでに秀吉方に降伏してるからだと思うがな。
吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊 小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない
むしろ秀吉や家康が木造の事に何も触れていないのが不自然
>>家康も秀康を「養子」として出すと吹聴してるが秀吉方では「人質」としてる。石川数正も人質を出してるがのちに家康を裏切り出奔するフラグだな。
降伏ではなく和議なんだから養子だろ。人質なんて秀吉が都合よく妄想したにすぎん
石川は長久手戦頃から秀吉に篭絡されつつあったのが徳川史料にあるんだから人質どうこうはさして影響ないだろ
>>秀康を人質に送って先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
軍備ちゃんと整えたり真田攻めたり浜松会議で主戦派がメインだったりするのに単なる条件闘争なわけねえだろアホ
>>家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw
そら領国が困窮してたのと和議結んだからわざわざ破る馬鹿はいないだろ
>>結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく
>>家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。
秀吉にそもそも従ってるのに借りた事が関東への転封につながるとか意味不明
>>岡崎を吉川広家に占拠されただけでなく、駿府に入った秀吉を見た家臣の本多重次にまで
>>家康は「自分の居城を開けて他人に貸す国主とかwww」「じゃあ、今度はお前の女房衆を借りたいとか言われた貸すのwww」などと
>>散々にキレられながら言い放たれて勝手に自分の宿に帰っていかれちゃうほど
>>情けないことになっちゃったんだがw
そら臣従したらその軍事行動にしたがわなきゃならないし遠征するのに協力するのは当たり前だろ
なぜそれが情けない事になるのか意味不明。本多の逸話そんなんあったっけ?
>>目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
>>たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして尾張東部へ攻め込んだだけ。
当初も糞も最初から最後まで徳川討伐と三河遠州への侵攻意思表明してるのにたまたまも糞もない
>>いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
攻められてる地域無視してなぜ他の地域転進するのか意味不明。しかも楽田に留守居部隊2万も残されてるのに
>>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
傍観というかそもそも1万足らずの兵力じゃ何もできんだろ
>>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀野井を後詰したら危険な敵地&木曽川流域で秀吉の大軍に潰されてアボーン
>>その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
失策も糞も最初からまともに会戦できる兵力差&状況じゃねーわアホ
>>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
戸木城は敵地のど真中で敵占領地の奥深くに孤立した地域にあるのに海使わないと兵糧搬入
なんてムリなんだから風吹いたら搬入できるわけねえだろカス
>>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。
兵力差が圧倒的なんだから当たり前
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される

62 :
お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞw
いかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかをよく知らしめることしか書いてないw
家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
しかし毛利と宇喜多が背後から攻撃してくるのを無視して長宗我部がやってくるわけもない。
しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
北条を牽制する佐竹には秀吉からの書状で状況を理解してるしwww
上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、
信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
結果、尾張では丹羽郡〜葉栗郡東部・春日井郡北部の尾張北西部を秀吉に削り取られ
替地を用意できない信雄は三ケ一引などと旧知行高の三分の一を一律に減らさざる負えなくなる始末じゃんよw
>>279
>>長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
軍記の太閤記に出てくる「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてる
清洲城と長島城を分断すると言う講談話の妄想戦略で
その妄想をそのまま流用しただけの谷口氏もまったく一次史料によるソースを書いてないどころかまったく根拠を書いてないアホくさいデタラメ。
秀吉がそんなことを命じた書状も皆無。ちゃんと佐竹に加賀野井城・奥城攻めを敵城中割だと秀吉は伝えてるし
さらに秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
>>二重掘合戦
これも一次史料にまったくない細川家の自称武功捏造。お前があるある詐欺してる家忠日記にも当然書いてない。いつなのか日付提示しろよw無理だろうけどw
つかお前が主張する「秀吉は東駒野・松の木・河波・神戸・長久保などで相次いで敗戦する醜態ぶり」とやらの具体的ソースを早く出せよこの嘘つきw
>>280
>>堀氏のアンチ徳川馬鹿論文にその後のうわさでは3000人ばかり…
>>というのが顕如日記にあると書いているが嘘そんな記述はどこを探しても見つからない
堀をアンチ呼ばわりとか都合がいい頭してんなw無知なくせに「どこを探しても見つからない」などとほざくアホぶりを晒してまでw
つか出典元すら明示してあるのに、こいつ最強のアホちゃう?アンチ秀吉過ぎてマトモな思考すらしてないな。
「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
キッチリ書いてあるんだがw噂レベルの話の場合は顕如日記には必ず雑説と書くが、この文にはそんなことは一切書いてない。
>>陣立書から名前がみえなくなる
違う場所へ転戦しただけだろwだいたい名前が見えなくなるのではなく、そもそも陣立書に最初から名前なんて書いてないから。
それに二重掘で背走したので改易した神子田ってストーリーはあきらかに2種類存在する講談話ネタからの流用解釈だろ。
1.秀吉が陣替えで移動開始したので、その後ろを噛み付こうとした徳川軍らをながめていた秀吉が
神子田の才覚なら撃退するだろうと思ってたら忠興が撃退したので、秀吉が嫌味を言ったら秀吉批判を神子田がしたので失脚
2.撤退する時に神子田が首級を挙げていて、秀吉がさすが!と褒めたら神子田が嫌味を言ったので失脚
じゃあ史実はどうなんだと言えば、信純=信張(同じ左兵衛佐だから)なのは有名だから知ってるよな。
んで、信張の名前で花押付きのものを5/7に香曽我部に書状出してる。
そこには二重堀なんて出てこないぞ。しかも秀吉は同月朔日にはすでに陣を
払っていることを報じているので秀吉自体もいない。
(信張は撤退理由として秀吉が敗北の体にてなどと自称してるが)

63 :
>>7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
蟹江から眼前の大垣近辺にいたのに滝川の軍事行動しらないわけねえだろアホ
>>さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる。和議による条件交渉ではなく
普通に攻撃失敗して攻略できなかっただけ
>>城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
そら信雄がたまたま秀吉の示威行動にビビッて和議結んだからなんとかなったってだけだろ
尾張半国すら切り取れないのに圧勝も糞もない
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけ。滝川が降伏したのは7/3でこれも単に秀吉が後詰にこず単独で抗戦不可になっただけの可能性高い
>>秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
三河方面への侵攻計画書状で書きまくってるのに信雄討伐以外視野に入っていないわけねーだろアホ
>>滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
ようは家康が怖かっただけだろ。新たに楽田留守居部隊も追加されてるし
>>すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる
そら眼前にいた秀吉から何の支援も得られなかったってだけだろ
>>さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

64 :
それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
無駄な対陣しても仕方ないので付け城を小牧に三箇所申し付け
軍を移動させ加賀野井城を落とし、奥城では信長舎弟の信照を捕虜にして落城させ
明日から竹鼻城の包囲を開始すると書いていて秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
5/9の家康書状にも二重堀で勝ったなど書いてないし、5/9の信雄書状も秀吉が小牧から引き払って
濃州の境目に逗留してるから喰い留め置くべく一戦、是非手合わせ油断べからずと書いてて
二重堀で勝ったなんて書いてない。むしろ家康が消極的でビビっている反面、
信雄の方が秀吉にビビってない。
だいたい秀吉は体調が悪く大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
キチガイ織田チョンは「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
しかも秀吉は大坂へ納馬する時もきっちり手を打っていて、上杉の新発田攻め計画を止めさせて
8/2に上杉景勝が家康与党攻撃で北信濃出兵してるし(6/25の段階では新発田を討つため近日越後下郡出馬予定だったが)
続いて10/26には佐々を攻撃して越中宮崎城を攻略してる(来春には必ず下郡出陣したいと10/10には述べてる)
また中国四国戦線では毛利軍が四国へ上陸開始し
8/21には毛利軍の杉原就良が大筒を使って伊予の新居郡御代島の構を落として
そのまま伊予に駐留開始し、長宗我部は毛利への対応を余儀なくされ讃岐攻略作戦どころではなくなったw
そんな状況も知らない情報諜報能力の皆無な家康・信雄は長宗我部に三カ国を宛がうからと
執拗に執拗に上陸して秀吉の背後を襲ってくれ書状の連投(淡路すら長宗我部のものでないにも関わらず)
家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。

65 :
>>蟹江合戦の敗戦
この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
反論あるなら一次史料で証明してみせろよ。
>>二重堀合戦は家忠日記にある
お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ
細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
5月朔日たる5/1には秀吉が小牧表から移動したと家忠が書いてる。
4/26時点ですでに秀吉は美濃鵜沼へ陣替済なのを家康は知っている。
ちなみに5/2付けで秀吉は犬山に加藤、羽黒に山内、楽田から小牧原は堀、
尾口西南は稲葉に守備を任せていると書いてる。
同じ5/2で秀勝らが竹鼻城攻めを開始いてるのが信雄書状でわかるし、
5/3に信雄も長島へ帰ってるのが家忠日記でわかる。
5/4に羽柴勢が加賀野井城の包囲をしてるのが家忠日記でわかる。
5/5の秀吉書状でも5/3に竹鼻・祖父江を放火しまくり
加賀野井城の外構を乗り崩し5、60討ち取り堀一重に押し寄せ陣取りと書いてる。
それに対して家康や信雄は救援すると口約束をするだけで見殺しにしてるだけ。
あぁ?家忠日記のどこに二重堀合戦の記述があんだよ?嘘ついてんじゃねーよw日付明示してみろよw
>>滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事
だからなんなの? 俺が書いた文章がチョンだからちゃんと理解できてないの?
「この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
反論あるなら一次史料で証明してみせろよ」と書いてるのに
なんで滝川敗戦後の話を持ち出して、蟹江攻略が当初からの
秀吉の戦略の一環だったことの証明できんの?まったくできてないだろ。
秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
そもそも秀吉の出陣先は6/21書状から伊勢であり、蟹江じゃないから滝川の後詰めをしようとしていたわけでもない。
むしろ滝川がアホな敗戦したから7/5付けで秀吉は出陣日まで仕切りなおししただけだろ。
>>秀吉のマンセー太閤記や書状なんて日付どころか内容自体デタラメだからな
その軍記の太閤記にだけ「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてるんだがwww
家康がいる清洲城と信雄のいる長島城を分断すると馬鹿馬鹿しい講談話の妄想戦略だろ・・・
そんなことを秀吉が命じたソースはないし滝川が自分の意思で調儀しただけで、
(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う
当然のように危険極まりない行為をしたために
滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。

66 :
俺の質問には一切回答しないでコピペしてるだけじゃねぇかwww
俺は回答待ちして待ってるのにそのまま誤魔化す気満々だなw
そもそも家康の擁護に 〜だったから 〜のおかげ 地元諸将が秀吉の味方についたから楽に蹂躙できただけ
とかひたすら言い訳しないと成り立たない無理くり秀吉批判が笑えるw
つか読む気が失せる垂れ流し駄文で、
論点を曖昧に誤魔化してるだけだし。

秀吉にガンガン侵食されていくばかりで与える領地もない信雄は、吉村が今尾で放火した功を報告してきたことに対して
3/28に粉骨を褒めて、続く4/6にいまだに秀吉方の森寺忠勝の今尾城を与えると書き
さらに4/25には駒野周辺を守っていた高木貞利にまで今尾城を与えると信雄は家臣の土方雄良に言わせて
二重約束の空手形まで発行する背信までやらざる負えないほど追い詰められてる。
ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
これにより11/7になると信雄は完全に切羽詰って、吉村まで疑心暗鬼になって疑いだすんだよなw
長久保の福田別心と書いて秀吉の調略に乗って寝返りかましたことに触れて
日原まで平手大炊助を派遣すると書いた後に、お前の妻子は俺が預かってるとか
わざわざ恫喝してどーすんだよw
11/10にはちゃんと吉村が謀反した福田を討ち長久保を落として忠義を示してるのに。
しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れはこの地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、
年次不明の2月朔の信長書状では今尾城の守備について
当時の今尾城主だった貞利の父の高木貞久に申し付けたとして
諸事相談して協力して守るように吉村・木村・田中・西松ら近在土豪らに宛てた書状があり
ここらの顔役だった高木の降伏は家康・信雄らには完全に決定打だよ。
策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
士気が崩壊した信雄軍という状況は秀吉の戦略通りに事態が遂行されていった結果だといえる。
(これは戸木城にも言えることで地域の有力国人である小島民部・田丸具直・榊原(徳川四天王榊原の本家にあたる)
も秀吉に調略され付け城を相次いで造られ外部との連絡がまったくとれず完全包囲された)
まぁどうせお前は>>地元諸将が秀吉の味方についたから楽に蹂躙できただけ
などといつものフレーズを言い出すだけだろうがな・・・
家康の無理くり擁護に 〜だっただけ 〜だったから 〜のおかげ
とかひたすら言い訳しないと成り立たない無理くり秀吉批判が笑えるw
気持ち悪いほど家康贔屓の偏りっぷりだな。朝鮮人の史観って気持ち悪いわ・・・
木曾小笠原真田水野石川の出奔とかこれ全部、家康の明らかな劣勢さからの離反でなく
ある日突然降り掛かった自然災害みたいな表現で繰り返し連呼し続けるお前のチョン脳が理解できんわwww
史料を読む限り秀吉が余裕かましていて、家康が長曾我部や北条の援軍が来ないと何も出来ない
ヒッキーに過ぎないのが判明してるんだけどな。しかも秀吉によって上杉や毛利が北条や長曾我部と開戦してしまい、
完全に追い詰められた家康ってのが事実。秀吉は丹羽を北陸に派遣する兵力的余裕すらあり、
この戦役の主導権を終始握り続けていた。 また秀吉は人質を取っての戦勝和睦が成立したと思ってたら、
家康が騙していただけだったりと切羽詰まっていた家康が誤魔化しまくっていたのが現実。
家康には打開策がまったくなく、ロクに援軍出さないため次々と家康は味方の離反を受け、
ついに信雄まで家康の援軍が期待出来ずに屈服。
屈服後は家康の味方の紀州や越中まで信雄が家康から離反させるなど信雄からも追い詰められる始末。

67 :
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる

68 :
:人間七七四年 :2012/09/07(金) 00:23:55.64 ID:tmEzeG0L >>ちなみに佐竹への書状でも秀吉は対外宣伝としては、そんなに大法螺は吹いてない。
>>いつの日付の誰宛の話をしてるかわからんから調べてない。日付書いてくれ。
3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
>>が、圧倒的戦力をもっていた秀吉が4/8の小牧長久手で敗れるまで勝利まじかと書くのは普通だろ。
なら9月や11月に秀吉が勝利まじかと書いていたって勝利が近い信雄を追い詰めた状況の証明には全くならないわけで。
しかも家康も春頃勝利眼前・上洛まで程なくとか秋にも勝利まじかと書いていて全く追い詰められて焦ってる文面ではない

69 :
>>それに伊賀や伊勢でもすでに開戦初頭からだいぶ蹂躙していたし(池田の犬山奪取で戦略変更したが)
伊賀はフロイスの日本史だかイエズス会年報によると戦わず降伏しただけだし
伊勢も家康が尾張に転進したおかげと神戸田丸信包関など地元諸将が秀吉の味方についたから楽に蹂躙できただけ
>>詳しい情勢を知らない遠方への対外外交で誇張するのは信長だってやってる。
信長の比ではない程秀吉は基地外じみたはったり誇大喧伝
>>でも身内への書状で秀吉が書く内容と一緒にするのはおかしいだろ。
上記のように身内宛書状でも士気高揚のためデタラメハッタリばかりなのが秀吉書状
>>本当に大活躍なら、それを機に家康が後詰めするなり、信雄の粘り籠城が継続するだろ。
>>独力で秀長の大軍南下が阻止できないだろ。
家康は清洲方面固めてただけだろ。信雄は示威行動にビビって和議を結んだだけで
家康も名文を失いそれに従わざるをえなくなっただけ
>>この家康と信雄と家康の対陣中の書状をみるとちゃんと〜城と書いてるじゃん。
>>長久保にはそれがない。秀長が南下したあとに長久保の陣の守備兵でも蹴散らしただけじゃないかね。
落居って言葉がこの攻防の中何回か使われてるが城が落ちたとき以外使用されていない上に
織田・徳川方が蟹江落としたときも城という言葉省略で落居といってるし秀吉も「城」という言葉省略しまくってる
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる お前は全体的に秀吉側に都合のいい妄想しか言えない馬鹿だから1から勉強し直せ
>>ヘタレないように軍事支援するのが家康の役目のひとつだろ。無策傍観で信雄もこりゃダメだと悟ったんだろ。
むしろ浜田も長島も桑名も砦に囲まれて苅田行われただけで和議結ぶ行動をヘタレじゃないと見る方が不思議
上記の城より小規模のはずの小牧山や松ノ木・敵中孤立の戸木ですら落ちなかったのに
>>そんな想定してない。間に大坂で土下座して秀吉配下同然になった
そんなら天正13年秋の浜松会議で主戦派多数になったりしないし融和派石川が身の危険を感じて出奔したりしない
北条との関係強化や真田攻撃など行っているしな
ちなみに天正14年初頭段階でも秀吉は家康討伐を考えていたのが各資料でわかる
>>信雄が入っていて(秀吉の雑賀攻めに信雄も参加)秀吉方の人質要求を家康に出すように伝えたりと
>>完全に信雄を折衝道具としての条件闘争をしているだけ。外交技術として強気の姿勢を示してるだけ。
いやいや何の史料だったか忘れたが実際に迎撃計画はあったな
>>実際は、佐々や長宗我部や紀州勢を家康は見捨ててる。
そりゃ和議を勝手に反故にして単体で秀吉に歯向かう程馬鹿じゃないだろ
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してる
これは単なる小荷駄隊要因。家康の軍勢は夏に半分を返していて夏の対陣のときわずか1万たらずだったのが
当代記や家忠日記でわかる
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
虚勢じゃないから秀吉が母と妹出すまで上洛拒否を貫き実際に城の普請や修築や軍備整備なども行っている
>>だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
木曽は前年小笠原との領土内の問題で離反。真田も北条との上野問題で離反
小笠原は石川が小笠原の人質連れて出奔したから離反。石川は小牧長久手時で
すでに篭絡されつつあったから家康が同盟者を見捨てたこととは直接関係ない

70 :
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そりゃ信雄が勝手に和議を秀吉と結んだ事に端を発するというだけ
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
家康の軍勢の大半は領国に残されており夏の対陣の時はわずか1万足らず(家忠日記・当代記・御当家記念禄・御年賦徴考等)
年奇衆への軍役は単に小荷駄隊の役目と本多氏が書いている
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
そら圧倒的兵力差なんだから余裕あるに決まってるだろ
>>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
>>家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
開戦前から徳政の連発で領国は困窮している。会戦時に家康が大軍を動員したなんて書いてる資料は一つもなく
圧倒的に寡兵であったのが徳川軍。元々貧国しかないしな
>>で、結局、北条の援軍こなかったよねw信玄西上の時は北条も援軍出しているのにw
当たり前。北条はあの時点で仮想敵国みたいなもので同盟関係にもかかわらず書状のやり取りが少ないばかりか
家康は北条の敵対者皆川や佐野などと頻繁に連絡をとっており氏政がたくらみの深い武将で家康の留守居をついて
駿河に乱入するとの風聞も垂れ流されて家康はそれに備えて軍勢を領国に多く残していたほど(御当家記念禄・御年譜徴考・小牧陣始末記など)
>>ププッそれ軍記の太閤記に出てくる 「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてる清洲城と長島城を分断すると言う講談話の妄想戦略だろ・・・
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
>>そんなことを秀吉が命じたソースはないし滝川が自分の意思で調儀しただけで、
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をしたために
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
>>19日には家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
>>当の秀吉は竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だし
家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>曲解してるだけだろ。
お前がな 11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
お前は史料もまともに見取らんチンカスだから一から出直せこのタコ
楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論だな

71 :
>>吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊 小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない
よくそんな飛躍した妄言を思いつくもんだなw
吉村とかは信雄の家老でもなんでもねぇ末端城主で政策に関与してる立場じゃねぇだろが同一視すんじゃねぇよアホ。
だいたいその織田信雄分限帖って秀吉との和睦成立後の論功行賞後の奴だよねぇw遡って大身だからとあぁだこうだいうんだw
そもそも大身の基準ってなに?吉村の参千貫文程度が大身なのかw羽柴三郎兵衛(滝川雄利)の13万8370貫は超SSS大身とか呼称するしかねーなw
そもそも木曽や真田や小笠原ら信濃最有力国人3氏が家康から離反した理由は、真田が家康への不満を吐いた諏訪郡知行宛行約束で騙しておいて
その約束を忘れて沼田割譲しろなんてお前はアホかと離反した事実経緯を分析した池亨氏が家康からの離反組は秀吉との戦いにおいて約束された所領の獲得が
実際には家康の空手形でなんとか必死に出鱈目発給で繋ぎとめてたが、その誤魔化しも限界に達したからで、その最終段階でついに岡崎城代石川数正まで離反したんであって
ウソの連発で必死に繕ってた張子の虎のような徳川軍が秀吉軍とまともに戦えるような状況にはなく、時間が経てば経つほど徳川が一方的に不利になるだけの話。
>>天正大地震で壊滅的被害受けたのは信雄領国の尾張や三河だタコw
天正地震は飛騨の白川断層説と尾張美濃の養老断層説で議論が分かれているのに三河と尾張でしか被害がなかったわけねーだろキチガイw
近江では琵琶湖で津波がおき多数の被害者、長浜城も被害を受け越中でも木舟城が被害を受け
伊勢でも人家多数倒壊死者続出、京の東寺や大和興福寺でも被害続出で混乱しとるし、三十三間堂でも仏像600体倒れて、公家や僧は祈祷しまくりだぞw
天正14年の木曽川被害も信雄や家康だけ被害とか頭が壊れてるとしか思えんwむしろ被害をもっとも受けたのは
信雄や家康との戦いで秀吉が削り取った尾張北西部だわwなんせ葉栗郡などの地形が河川氾濫洪水で大きく変化してしまい
美濃と尾張の国境が東に大きく移り郡の分断が起こってしまったほどだからなw
イエズス会日本報告集
御本所は三河国主を味方にして羽柴に敵対した。
彼は父の下僕が高い地位に上り、父の子である自分が羽柴の家臣に留まることが我慢できず除こうとした。
しかし羽柴は優れた武将であり、大きく優位にあったので彼らは降伏し和平を乞わざるおえなかった。
羽柴は和平を認め三カ国のうち、一カ国半を自分のために取り、一カ国半だけを彼に残し
彼の娘と三河国主の長男を人質として取った。
尾張の国で戦が始まるときに都に敵が来る事件が起きた。
都の副王(前田玄以のこと)も留守で大騒ぎになったが、都の反対側から三里のところに
羽柴が兵を配置しておいた1人の武将が助けに向かい敵は殺されたり連行され、副王が厳重に調べた。
すると都の二街の住民が逃げ出した。このことを聞くと羽柴は捕らえた者を餓死させようとした。
この中には裕福な者もいたので賄賂を贈り、内裏の太子に助けを求めた。そして仲介の労をして
街へ戻らせた。羽柴殿は尾張から戻ると坂東のほかの国主や大身も味方になっていた。
というのも彼の戦での成功を見たからである。

72 :
日本西教史
羽柴はもっぱらその帝国を堅固にせんことに励み、信長の三男は、その父の臣下が簒奪をもって
己らを制御するに堪え忍ぶことあたわず、三河殿とはかった。
中略(水攻めの話が続く)羽柴は2人を許した。
信雄追放について
イエズス会日本報告集
御本所と称される信雄に別な国を授けることにしたが
父の形見なのでと申し出た。
関白殿はただちに、その所領も他の国も有することまかりならぬ。
汝はただ1人の召し使いのみを残し置く。
中略
じつに従順な姿勢で願ったというのに。
日本史
関白はその返答に激怒し領国を持つことを禁止し
1人の草履持ちだけしか家来を伴うことを禁止し
中略
関白はただ1人の小者と称せられている若者しか
仕えることを許さなかった。そして日本の最果ての地に流された。

どこに家康の勝利なんて書いてる馬鹿がいるんだよwww

73 :
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ
楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究 木造記成立の論考
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
>>信雄と家康がすでに追い詰められているのを
>>秀吉は知っていたからもうすぐ、この戦いはじき終わると終戦までのビジョンを
>>持っていて、見通しが付いていただけの話。そしてきっちり講和条件に秀吉は人質を取ってるし。
>>家康らに戦局を挽回する力はまったくないのだから。
小牧山や戸木や松ノ木ですら圧倒的大軍&周囲砦でガチガチな状況で落ちなかったのに
なぜ砦築いただけで勝ったかのように語るのか不明
>>だからさぁ、それ砦をたんまり構築して桑名表を制圧して長島を威圧してる体制を構築したから納馬すると言ってるだけで
>>信雄を完全に八方塞りにしてんじゃんよ。秀吉は信雄を追い詰めてんだよ。
敵中孤立の戸木や周囲砦ばかりの小牧山や松ノ木ですら攻め崩せなかったのに
桑名や浜田や長島落としてもないのに制圧とか追い詰めてるとかアホかと。
>>あとは放置してても信雄は降伏するしかない状況で王手してる。
信雄が降伏したのは勝手にヘタレただけで降伏するしかない状況という根拠は全くなく
長島なんて秀吉が落とせなかった上記3城よりも遥かに堅固だから防戦なんて余裕
>>11/13には長島にも押詰城々数ヶ所と書いてて完全に包囲してる。
包囲しただけで城が落ちるなんて妄想もいいところ。三木に2年も要した雑魚秀吉じゃ尚更
>>しかも納馬先として大坂ではなく、伊勢国の縄生城で秀吉が越年する姿勢に信雄が恐れて懇望してんのがわかる。
秀吉が越年するなんて秀吉が本心で考えたかどうかではなく秀吉からみた信雄の考えってだけだろ
信雄が秀吉が越年して城を攻める「様子」を見て取ってなどと秀吉が法螺ぶいているが丹羽宛では大阪に兵を納めるといっているし
>>そして信雄の実子や有楽斎の実子など人質に取る条件だし。
信雄が勝手に和議結んだから当たり前
>>つうか太田牛一の書いた太閤記は軍記であり、自分の仕えた秀頼の正当性を強調して
>>秀次を貶しまくるなど曲解を平気で書いててまったく史料として扱えない糞講談なのも知らんのか?
木造記を引用する馬鹿に言われたくないわ
>>家康は長島救援のために秀吉軍を引き付けるために軍事行動を東美濃で起こすことすらできずに
>>清洲城で震えて信雄の降伏を傍観してただけなんだから。
なぜ攻められている長島を無視して他地域に転戦するのか不明
ただでさえ圧倒的の大軍の秀吉は一部隊を東美濃に派遣して余裕で対応だろ
んで家康の後詰の心配のなくなった秀吉は長島攻略に専念できる絶好の状況創出だな
震えていたなんて史料は全く存在しない
>>まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍に来たら
仮想敵国なのに来るわけねえだろアホ
>>伊木、池田・荒尾どころか土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
>>完全に周知の事実だよ。
>>そもそも11/6に実際に加藤嘉明に縄尾(縄生)・桑部の両所に譜請を申しつけてる。
秀吉の書状は伊勢で越年し長島を攻略する、ではなく伊勢で越年し長島を攻略する様子を信雄が見て取って
等と信雄の目線を秀吉が勝手に推測してるだけで秀吉は納馬する予定なのが実際
そこにたまたま信雄が和議にのったから助かっただけ

74 :
兵農分離の先駆けは天正13年卯月22日付けの秀吉朱印状が嚆矢。
紀州の雑賀・根来を討ったときに刀狩りを命じていて
その際に頭領の者を選んで皆殺し、平百姓は許すと書いていて
明確に兵と農を区別して国人指導層を殺し、武器を没収して完全な農民にしている。
信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある
(生産力・経済の概念は遠征補給兵站思想と、重商主義的な朝鮮出兵ビジョンが視野にあるから)
そのため島津に対して豊後の民を返還しろと命じたり、
宣教師に奴隷売買すんなや!と激怒し、宣教師が苦し紛れに
日本人が売るからポルトガル人が買うだけで私たちは苦しく思ってたと釈明していたり
キリシタン禁止理由として「本願寺一向宗のように国を奪い戦を起こすようにする企みがあり
しかも本願寺は百姓を惑わしたが、キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
秀吉の諸政策は、織田狂信者のエセ作家によればすべて信長の脳内にすでにあったと捏造してるのが笑えるw

75 :
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
一次史料をみる限り石山本願寺が降伏する以前の織田軍兵力は1万?3万しか動員出来てない。
織田軍が攻めこんだ先は摂津や河内・大和など一国亡国と記述されるなど、
軍が略奪による現地調達方式なので多方面に敵を作るデメリット付き兵力分散して軍を養う必要性から大軍集中が無理。
しかもそこを領国にしても荒れ果ててる。
よって国力の単純比較は成立しない。
信長の軍事政策にはまるで評価されるところがない。
常備軍や兵農分離なんてデタラメであるばかりか
そもそも基本である法度に従って寄子を取り締ることもしてないし
貫高に応じて負担する軍役の内容を細かく指示したこともない。
それをやったと思われるのは最末期の光秀だけである。
さらに秀吉は太閤検地と身分法令において人口戸籍まで作らせて言わば国政調査をしている。
例えば伊達が朝鮮出兵で飛ばされている間を狙って石田豊前守にやらさせたりしてる。
また朝鮮出兵は看羊録によれば国内で変事を起こさせないように
兵を消耗させる意図があったとする。
また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。
そもそも信長は分国法すら作る知識も能力も無かった。
ちなみに天文16年の甲州法度の最後の条文が、
史学において誉れ高いんだよね。
晴信が法を犯したら、
貴賎の身分を問わず目安に申し立てよ。
晴信が法治国家の魂をちゃんと理解していたのがわかる。
また甲州の治水技術は関東開発に役に立ったが織田は治水をやらないために後世に残る織田治水などは一切残らなかった。
秀吉が治水をしているのも田畑開発、水害防止、大坂から京への海上経済通商政策を理解しているから。

76 :
>>そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
そんな状況で全く攻められず攻めたら大敗したのが秀吉
>>顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
>>などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
覚悟が堅固とか言ってる割に急いで楽田修築やら砦普請で防衛ガチガチに固めて
思いっきり持久戦体制に入ってる。圧倒的兵力差がありながら。それほど負けが痛かった証拠
顕如がいたのは思いっきり秀吉領国だから秀吉に都合いい捏造のフィルターで歪曲された情報が入っただけだろ
>>家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
そんなもん我彼の圧倒的戦力差ってだけだろなんせ兵力比7倍くらいだからな
>>しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
>>(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
>>しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
なぜ最初の注進が間違いで後の沙汰(噂(堀氏訳は噂であって注進ではない))が本当なのか不明
しかもこれ以外の史料はこぞって戦死者1万人多くて2万としてるし
秀吉側に都合いい情報ばかり捏造して書かれるイエズス会年報や日本史などでも1万
また秀吉同盟者の小早川書状でも1万。そもそも家康は身内にあてた手紙でも1万といってるわけで
3000等と歪曲して書かれてるのは顕如日記のみ
>>4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
そんなもん弱気な言葉書く馬鹿がいるかアホw士気にかかわるだろうが
>>稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
そら13万もいればそのうち1万死んでもまだ圧倒的優勢な兵力に変わりないってだけだろ
秀吉は9/23羽柴秀吉訓戒書で木下兄弟戦死残りの連中の討ち死にが大変迷惑だと書いている
外聞迷惑、於秀吉非可失面目儀候間、手討に可致候と秀次に怒りをぶつけており
自分の失態を秀次になすりつけているが(滝川の蟹江合戦も同じ)それだけ敗戦の精神的実質的損害は大きかったという事
>>それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
松ヶ島は三月に崩壊した伊勢戦線の続きで長久手合戦と直接の関係も糞もないのに何が「それどころか」だ
神戸田丸信包関など地元諸将の帰参と家康の尾張転進で楽に蹂躙できただけの続きの戦だろうがw
>>秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
兵力比の差ってだけだろ
>>秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
>>(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
深々は別に非難のニュアンスはない。家康も長州我部あてに深々と働く事肝要とか言ってる
あと深々と働いた「ので」敗戦したとは書いていない。深々と働き敗戦したとは書いてる。因果関係を直接文中に見出す接続詞はない
4/8秀吉→丹羽長秀  池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる

77 :
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるという
かなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。柏井にいる一柳宛書状に
『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる。しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としか
いいようがない。池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
あらしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
>>5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
>>2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
は?楽田から敗走して加賀野井・竹鼻攻撃に移ってるのに何が納馬なんだ?馬鹿か?
>>秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
>>2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
例のごとく信雄に大敗した話はひた隠しで都合いい情報しか書かれてないのが秀吉書状
正確には家康を攻めたら1万も損害だして圧倒的大軍があるけど自分じゃ戦闘がゴミカスレベルに弱すぎて攻められませんってのが正解。
家康は城から出てこないどころか蟹江合戦でも長久手合戦でもちゃんと動いている
>>しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
捏造戦果を書くことが追い込まれてる証拠なら秀吉は家康の百倍追い込まれてる証拠なのが佐竹その他宛書状でわかる
>>5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
>>信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
間宮らの反撃や蟹江の敗戦など含めると一進一退だろ。松ノ木や戸木も結局落ちなかったし
木曽川以西の家康が寡兵で後詰行動起こすには危険な地域を圧倒的大軍を使ってこれ見よがしに攻めてただけなのが秀吉
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
>>秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
なぜ後詰誘引に失敗し二重堀でも大敗した秀吉が余裕なのか意味不明
>>5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
>>はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦闘では寡兵なら援軍なしに抗戦無理だろ。

78 :
>>5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して北条から援軍が来たら
そりゃ圧倒的兵力が劣るから単独で後詰なんて無理だろ。楽田で留守居兵も残されてるんだし
>>6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
単に信雄の情報収集能力が劣っていたか兵力が集まらなかっただけだろ
>>この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
長島なんて伊勢方面から攻め立てればいいだけだからはじめから視野に入ってるだろ
>>この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
圧勝ってただ家康がでてこれない木曽川流域わずか3城をこれみよがしに圧倒的大軍で攻めただけじゃん
蟹江敗戦・二重堀敗戦・松ノ木敗戦・戸木敗戦で完全に尾張方面の拡張は滞っているのに。
>>そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
小田原合戦の時と同じでただのパフォーマンスだろ
>>そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
滝川は秀吉の意思だろ。そもそも家臣なんだから勝手に行動するわけないし単独行動なら九鬼がついてくるわけないし
蟹江から秀吉陣の大垣なんて寸での距離だし谷口氏や愛知県史資料編も秀吉の敵地分断作戦
や尾張方面の攻撃の前哨戦と位置づけているし秀吉は三河方面攻撃計画を諸大名あてにつづってるし
長島も東西から攻撃可能になるし滝川退城で秀吉は三河方面攻撃を断念して延期してるし
>>お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞwいかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
>>よく知らしめることしか書いてないw 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え1年一杯粘ったのが家康と信雄
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が
蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。
注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう
>>違う場所へ転戦しただけだろw
どこに転進したのは史料をもって詳しく

79 :
>>そこには二重堀なんて出てこないぞ。
二重堀と書いてなくても敗北の体にて撤退といってるから二重堀の敗戦が史実だと容易に想像がつく
>>それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>付け城を三箇所申し付けた
あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
>>加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
>>秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
間宮らが南伊勢で反撃しまた蟹江でも二重堀でも大勝。松ノ木・戸木も秀吉軍撃退
>>ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
自軍有利な情報書いてるだけなの秀吉書状だろ
>>信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
普通に家康討伐しにきて1万人も戦死者出す大敗して退却なんだから全然デタラメじゃないだろ
>>むしろ家康が消極的でビビっている反面、信雄の方が秀吉にビビってない。
そして信雄以上に信雄に対してびびってるのが秀吉
>>だいたい秀吉は体調が悪く大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
そんな史料ありません。見舞いの事なら陣中見舞いってだけだろ
大体大阪に帰る理由に滝川退城を秀吉書状であげてるじゃねぇかw蟹江で敗戦して諦めて帰っただけだわ
>>8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
湯治なんて病気の時以外でも健康維持のために行うだろ。家康でも。
>>「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
実際に蟹江で負けて諦めて退却してる
>>家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。
そんな絶望的な状況で自力では尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。
ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない
11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り

80 :
興福寺(永禄8年・永禄10年)や浅井氏(永禄9年)の撰銭令の猿真似をした
織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、
他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。
そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw
元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり
そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。
豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。
金本位体制ともいうべき信玄や秀吉の政策と違い
信長は生野銀山を手に入れていながら活用できず経済に暗かった。
血球億、生野銀山を活用したのは秀吉であった。
一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において
無礼にも流通拒否される悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。
このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。
秀吉は兵站補給概念を持っていて奉行衆による計画的な物資管理や
大軍進駐に伴う排便処理による衛生管理を編み出すことで
信長には不可能だった「位攻め」戦略を多用し瞬く間に天下を統一してしまった。
位攻めとは、圧倒的大軍を用いて相手の軍の士気を崩壊させ服属を強要する戦略。
信長の現地調達方式では大軍の集中は不可能であり、
戦力崩壊を起こす攻勢限界点が存在する。
すでに美濃の隣国信濃への出陣である武田攻めにおいて、
遠陣だから率いる人数を抑えることで兵糧が続くように。
しかし戦力ダウンにならないように剛力の者を選んで引き連れよと人数調整をしていた時点でお察し。
信濃より遥かに遠い備中えの遠陣である毛利攻めで旧来の遅れた兵制の信長は討死していただろう。

81 :
また高山右近が高槻に続き転封先の明石で寺社を破壊してたのを施薬院全宗が秀吉にチクったことで
激怒した秀吉が博多でポルトガル人の奴隷売買を糾弾したり、
牛馬は人間に仕え有益な動物なのになぜ食べるのか?と言ってたが、
(秀吉の基本思考・・・ポルトガル船でも純粋な交易のためなら寄港するのも問題なし、
秀吉から2000貫以上を給付される者がキリスト門徒になる場合は自分の許可を得よ。
それ以下の者の場合、日本の宗派は八宗あるが、キリスト教が加わり九宗になっても大して変わらんから
信教の自由は保障し何を信じようが構わない。但し、秀吉から給地を与えられた者が、権力を以って
庶民にキリスト教信者になることを強制したら罰する。)
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
信長のような蒙昧暗愚の暴君と秀吉の差は天地の開きがある。
重商主義的・帝国主義的な植民地化がすでにフィリピンにまで押し寄せている中で
秀吉のみがキリシタンの野望を喝破し、逆に朝鮮への遠征を行うことで
日本の武威を知らしめ、陶工などを連れ帰り現在に至る名産品を生む。
信長が高く評価したと軍記が伝えるが実はアホ池沼だった我妄氏郷
高山右近が明石の寺社を破壊しまくっている中で
伊勢を秀吉から与えられた氏郷の動向に恐怖した伊勢神宮が
大政所や北政所の帰依を受けている慶光院周養を運動して
秀吉から伴天連追放令の禁制を貰う。
これにより池沼氏郷が伊勢神宮を破壊する行動が不可能になった。
こんなアホだから伊勢は任せられないと感じた秀吉に
会津へ飛ばされたんだろうな・・・

82 :
織田一族が既存の土地に執着する古い豪族の連合体で
武田家などは集権化が比較的進んでいたことが判明しているんだよね
織田一族の領域では在地構造がそのまま温存されたり
私的な関係や便宜的な寄子寄親関係で適当に済ませてるケースが非常に多いが
武田家の領国では代官支配や主城主を中心とした再編成が多く見られる
ざる統治だったので、ちょっと体制を整備しようと
取り敢えず重臣2人のクビ斬ってみたら、反動で連続謀反が起き死亡ってとこじゃね
織田に離反が多いのも私的な主従関係を築いて一蓮托生な国人が多いから。
信長は織田家による領地支配を全く考えていなかった。
完全に内政丸投げ。
織田軍統一の規則自体がまるで無く
しかも一職支配権を与えて丸投げするから、
勝手に在地国人たちと主従を結んでいるにすぎ無い。
そのために大規模謀反が多発。
結果、信長死んだら織田の命を無視する一職支配権者が自立乱立したために
秀信を擁して専横されて
家臣と主従関係が逆転し下克上されて織田は引きずり落とされた。
一職支配権とは簡単な話、
室町幕府における守護設置みたいなもん。
信長の好い加減な統治により、
家臣らが軍閥化していた。
信長の死によって簡単に、
大身家臣が安易に自立できるだけの在地と一職支配家臣の主従関係が成立していた。
信長と在地国人には統治の仕組みは存在せず、
織田政権が脆く崩壊する構造だった。
織田テキトー政権は、そもそも足利幕府に寄生してただけ。
いずれ大身家臣が信長を下克上するのは当然の結果。
なぜなら家臣と在地が主従であり、
在地と織田に内政政策による介在がなく、従って主従関係が無い。
光秀の命令を聞いて信長をR軍隊であり
軍隊は信長を主人だと思ってない。
家臣の力量、懐柔、苦楽を共にする戦友家中が戦闘集団である。

83 :
> 池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
>
> 「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。
> これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
> 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
> 従って武篇道と戦果が問題となる。
>
> (中略)
>
> 信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
> それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
> 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
> 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
>
> 信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を
> 戦っていかなければならない。
> 拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
> なされていないからこそ生じた問題であろう。
> それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
> それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
> 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
>
> この問題の解決は秀吉の課題となる。

84 :
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは
軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
功績泥棒信長信者によって秀吉は信長の脳内の構想をパクッただけだと捏造されている現状。
武器を狩り仏像を立てて内乱をなくそうとした秀吉。
アメリカじゃ、いまだに銃器の害に悩んでいる。家康の幕府に至っては全国支配を諦めた地方分権統治に後退。
兵農分離の先駆けは天正13年卯月22日付けの秀吉朱印状が嚆矢。
紀州の雑賀・根来を討ったときに刀狩りを命じていて
その際に頭領の者を選んで皆殺し、平百姓は許すと書いていて
明確に兵と農を区別して国人指導層を殺し、武器を没収して完全な農民にしている。
信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある
(生産力・経済の概念は遠征補給兵站思想と、重商主義的な朝鮮出兵ビジョンが視野にあるから)
そのため島津に対して豊後の民を返還しろと命じたり、
宣教師に奴隷売買すんなや!と激怒し、宣教師が苦し紛れに
日本人が売るからポルトガル人が買うだけで私たちは苦しく思ってたと釈明していたり
キリシタン禁止理由として「本願寺一向宗のように国を奪い戦を起こすようにする企みがあり
しかも本願寺は百姓を惑わしたが、キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
秀吉の諸政策は、織田狂信者のエセ作家によればすべて信長の脳内にすでにあったと捏造してるのが笑えるw

85 :
信長が刀狩しただとwww
織田の先祖という説もある忌部氏が神官を勤める
越前劔神社に対して「刀さらへ」をしないと書いてあるってやつだろw
「刀さらへ」なる謎の言葉を
刀狩のことに違いない!と妄想解釈して
さらにこれは越前全域で柴田勝家が一向宗殲滅した時に
武器没収したもんだよ絶対!
そうだそれに違いない!と
二重妄想をしただけだろw
でさ、いつどこで、どんな刀狩政策を信長や柴田はやったのか
具体的に教えてくれよ。

大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地
興福寺大乗院跡750石
興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
つかできない。

86 :
敵中孤立で信長から捨て駒にされての横山城で浅井の攻勢を寡兵で圧倒していた秀吉の軍才がなければ信長が近江攻略どころか敗死していた。
だいたい本能寺前夜の秀吉は
宇喜多の属国化や播磨や但馬や因幡や淡路など
自勢力で100万石越えの実力者。
信長も秀吉を警戒して安土に召還したり
宇喜多を独断で許してるのを激怒したりと猜疑で見ていた。
しかも耶蘇会の1584年の年報にも
はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。
信長には分国法すら無く、
単に室町幕府に寄生してたら下克上された
歴史的意義の無い
実質10年弱で淘汰された畿内政権だからね。
三好や細川高国政権の方が長命だし、
なにより天正元年の発足と同時に、
安国寺から高転びすると簡単に予測できたほどずさん蒙昧政権。
信長は義昭の息子を擁立して
毛利とかにこれからは義尋に挨拶にくるようにとか命じたりしてんじゃんw
しかも義昭にも帰ってきてと哀願して拒否られただけじゃんw
それでも幕府の政治体制になんら手を加えた形跡もなく
そのまま幕府組織も継続してるし。

87 :
安国寺はなかなか先が読める人間で1584年正月11日の書状でも秀吉を褒めまくっている。
(秀吉は信雄に年賀の礼に来るように命令し信雄が拒否し秀吉と険悪な状況になっていた)
安国寺はさかんに秀吉と毛利の領地の堺について大きく譲歩してでもはやく和睦締結するように主張してる。
近年において信長がいた時も羽柴羽柴と騒がれ戦をすれば羽柴、城を攻めるも秀吉と盛んに評判になっていたが
いまでは日本を手の内にしており名人であり明日の不慮も考えられないと書いている。
これにより毛利と秀吉の正式な和睦が成立し、3月に入り秀吉は安心して家康信雄と激突する選択ができた。
新領国の早い安定化を達成できた撫民政策や民政力ある大名に信長は該当しません。
むしろ一揆や謀反や反乱平定に追われる暴君や失政、無策な大名です。
信長殺して
宿老4人の合議で当主傀儡とか
あきらかに時代が30年は遅れてることをやる織田・・・
幼君を傀儡として擁立して
実力ある者が専横しようとするのは
古来からよくある事例。
織田は1500年代前半に相次いだ下克上ブームも
とっくに終わったはずなのに
まぬけにも光秀・秀吉とダブルで起こされた稀有な事例
暴君足利義教が油断しまくって
配下の赤松に暗殺された時に
自業自得とか犬死と書かれたが、
信長がまさに瓜二つの生き方だからなあ
豚死にした自業自得な信長
こういう結末になるのは公家や京都五山の僧から情報収集してた
安国寺にすでに予見されていた
当然の末路だった。
足利義教が家臣に暗殺された時に
看聞日記は諸大名同心か・自業自得と書いている。
さらに建内記には義教が殺され、人々恩赦の時分と書かれ
義教暗殺が幕府の大名達にむしろ歓迎されており
義教の恐怖政治と理不尽な処分を受けた者達が恩赦される方向に変更された。
そして義勝9歳を傀儡擁立し専横を開始した。
信長もまた自業自得で家臣団から暗殺を歓迎され
幼君を擁立し家臣団が好きなように振る舞い織田主家は下克上された。

88 :
>>この地域での秀吉の優勢を示す、
尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で 終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できず
ヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉

89 :
>>秀吉の戦略通り
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
>>この戦いに秀吉はなんら関わってない滝川が独断で失敗してる
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をした
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ。伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山に
いたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな 家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>二重堀合戦はいつ?細川家記が5月朔日
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思い細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造し
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし

90 :
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事
秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事
から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている
>>滝川が自分の意思で調儀しただけで、
>>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて
全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ
>>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために
危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ
蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし
>>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
秀吉が後詰しなかったからだろ
>>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
秀吉は其の間なにやってたのって話だわな
佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉

91 :
>>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが
>>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで5か月もようしているのは
蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期 どうみても秀吉の失態です。
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ 大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし 蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが 大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要

92 :
本能寺の変が起こるとと待ってましたとばかりに20日後には後陽成天皇は教如の赦免を提案・・・
池上裕子
武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹
信玄の永禄10?12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。
秀吉は帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し
大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで
戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
秀吉のように実力で押さえつけた全国統一と各地に蔵入り地設置をしなかった家康。
家康は諸大名の支持を取り付ける手法だったので
地方分権による幕藩体制に妥協していたので
秀吉が世界に見せた武威がなければ、植民地化の流れの前に
秀吉と違い、家康では政宗がスペインに内通とかで撃退できなかったかもしれない。
それに朝鮮出兵で陶器技術の向上が無ければ、しょぼい陶器を江戸時代も使っていただろう。
陶磁器技術は日本幕末でも主力輸出製品だったし、
買取価格大下落していた中で貴重な特産品として現金収入源になっていた。
北条なども検地を通して軍役を賦課してるし
ほぼ武田と同様になってるよね。
すると軍事・統治で言えば、畿内は関東よりもはるかに遅れてるね。
畿内でも浅井や六角などは主君が重臣に議題を諮って合議により決断し
連名書状を出すし、
その大名や重臣権力を支えた惣村や堺などの自治も発達。
尾張の田舎者の信長が旧体制に畿内を力ずくで逆戻りさせたって感じだよな。
関東は進化し、畿内は時計の針を逆戻ししただけ。
信長なんて天正元年からたった10年満たずして
崩壊した政権だぞ。
細川高国や三好などの政権の方が長く続いてるわ。
信長は義昭の息子を擁立して
毛利とかにこれからは義尋に挨拶にくるようにとか命じたりしてんじゃんw
しかも義昭にも帰ってきてと哀願して拒否られただけじゃんw
それでも幕府の政治体制になんら手を加えた形跡もなく
そのまま幕府組織も継続してるし。

93 :
排便などの衛生管理は非常に重大な問題で
北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても
一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万?3万くらいだよな。
秀吉はそういったシステムを作る天才だから
速攻で全国制覇したし、海外遠征まで実現できた。
いまだに織田は兵農分離とか言ってるバカいるしな。
さらにアホなのは兵農分離と徴兵制を混同してるやつも多い。
安堵を乱発し国人や地侍の解体さえ為されてなかったのに。
身分が固定されたのは強力な権威を背景に全国で不完全ながら
刀狩りと検地を組織的に施行した豊臣政権から始まって身分固定がなされた江戸時代なのに。
論拠にしても織田以外は農繁期は出兵しなかったとか主張するが、
そもそも一番人手が必要な時期に刈田もせずに出兵していくなんて普通にやってたし、
次いで農閑期に出兵するからと主張するが冬季に入るや撤兵して帰国したなんてのも普通にある。
そういう都合の悪いことは黙Rるんだよな。
そもそも農繁期と言っても戦国期の農民は米ばかり作っていたわけではなく、基本
米を刈り取ったらすぐに麦を植え春先にはその麦を刈り取りまた米を植え、という形だったので、
少なくとも春先と秋の2回農繁期があった。(米の二期作も併用している地域は夏も)
ここからも「織田以外は農繁期は出兵しなかった」という変な考えは完全に成り立たないことがわかる。
信玄とか謙信は普通に刈田もやらずに出兵してるよな。
そもそも稲を植える時期、3月とか普通に信濃出兵してること多いし。
織田厨って稲を植える時期を何月で、
刈田をする時期を何月だと思ってるのか本当に謎w
織田だけ兵農分離してると主張する際に客観的なデータやソースを絶対に出さないし。
デタラメばっかり吐く自演基地害の織田厨の言ってることは
もともと完全なウソなんだからデータなんて絶対に出せないでしょ。

94 :
天正2年1/9付けの謙信→榊原康政宛てで
謙信は勝頼を経略名之下ニ候と酷評してるから
勝頼なんてただのバカでしょ。
そんな勝頼さんは2/6に丹波の赤鬼さんに、
雪解けしたら早速、信長を攻めるよ!と書状を出してる。
ちなみに本隊は雪解け待ちのようだが、
先鋒はすでに出陣しててちょうどこの時期には
明智城を陥落させている。さらに櫛原城や神篦城を攻略している。
尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
それもそのはず高天神城が6月に落城するのに
わざと遅く援軍へ向かうヘタレぶりを晒す信長。
信長は謙信からも責められていたようで、6/29には信濃出陣の約束を破った言い分けの弁解までしてる。
その際に信玄の掟を守って謀略があるので勝頼は油断できないと泣き言まで言う始末w
11/4の佐野氏宛て書状では武田軍は家康がいる浜松城下までやってきて放火し、掛川や久野に付け城を構築完成などやりたい放題。
積雪で信濃国境は封鎖された閏11/9になって、
のこのこと三河で鷹狩しに行くよなどと家康監視目的で
来援する信長を歓待すると申し出る家康の心中は複雑だよな。
少ない兵を引き連れた勝頼が完全に織田をナメくさって長篠の戦いで無謀な突撃をかましたのがよくわかる。

3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
史料から、信玄軍の強盛振りと徳川の累卵が如き危うさを伺えるね
信玄すげぇな。6万も動員できるほどの改革と組織化を達成してたのか。
信長がただの暴虐なアホでなんらプランもないバカだったのもわかったが、
天才秀吉のおかげで過大評価されてたのが信長なんだって
改めて分かったわ。
やはり数万単位の動員の場合の排便処理問題って大きいよね。
幕末の会津藩も籠城してたけど、わずか一ヶ月で
ウンコ充満になって開城したしな。

95 :
秀吉は自身が旧織田領土を支配した後、というか支配する前から
信長がろくにやってなかった畿内の利権や流通の整備や再編成を始め、
それこそ関東から東北、九州、さらには外国にまで10数万の兵力を送り込めるほどの
流通システム再編を行っている
統治システムも体制も信長のものより遥かに進んでいる
島津が「こんな遠くに秀吉はこないだろう」と思っていたのは本当
それは別にお前さんが言ってるような政治的理由なんか関係ない
博多があろうとなかろうと、島津は秀吉はこれないと思っていた
それはなぜか?距離の問題だ
適当体制の信長が武田攻め程度の距離で、兵糧におっかなびっくりになってた事実を
考えてみろ
旧来の放任主義な適当体制じゃ、九州まで10数万もの兵を送り込んで維持する事はできない、
送れる兵力なんてたかが知れてる、それなら島津が遅れをとる事はない、
これが島津の目算だったし、それは実際にある程度ただしかった
信長政権のままだったら九州に大軍で侵攻する事は難しかったろうな
しかし、当時には東国で既に今川・武田・北条・上杉をはじめとして領内に細かく指示を出して、領国を整備・掌握し、
それによって軍役や軍事力の構成、さらには兵站を円滑化させようとする試みが進められ、成功していた
秀吉はそれと同じような要領で、信長がそれまで手をつけなかった畿内の流通や利権の掌握・整備を進めていき、
10数万もの大軍を九州まで送り込み、維持する事が出来る体制を作る事に成功したわけだ
西国の領国統治体制は東国の先進的な有力大名達ほどには進んでいなかったので、島津は自分達を前提にして
畿内政権の兵站を測ったし、それは信長政権に関する限り正しかった
豊臣政権にしても、ここまでしても九州平定までの間、兵糧が持つかは常に危機感としてあったから
島津は決して根拠ない目測をしていたわけじゃなかったわけだ
実際に信長生きてる当時と豊臣政権の安定度はまるで違う
信長は兵站に苦労しながら小規模に兵力あちこちに送り込むか
反乱鎮圧に躍起になって生涯終えた気がする
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は帰る必要が無い
知識が40年以上前から進展せず、知恵が小学校低学年のまま進歩しないのが信長厨

96 :
兵科別の編成がなされていたから
北条・上杉・武田は部隊別の兵種の占める割合がわかるんだよね。
だけど織田はそんなことやってないからまったく不明
織田はただのチンピラ集団だから組織と言うより
単なる烏合の衆の集団。
天下布武は別に天下統一を目指していたと言う解釈にはならんし
単に地勢的な理由から将軍が頼ってきただけ。
天下布武が天下統一と解釈するのも無理矢理。
しかも上洛してわずか14年で信長死亡。
細川高国政権19年や細川晴元政権18年や三好政権19年
と続いたことからわかることからわかるように
京を掌握した勢力のチートぶりは凄まじく低難易度である。
そしてだいたい20年近くは持つのが当たり前。
しかしなぜか信長政権は非常に短命でぐちゃぐちゃにかき乱して殺戮しただけだった。
毛利は国人合議の一揆連合から脱皮出来なかったから、
織田旧体制のままの柴田に圧勝した秀吉に対して、
天正11年12/15に安国寺が、
毛利の一方的譲歩で和睦決断するように、
輝元、元春、隆景に問題を先送りして正月に休んだりしようとしてる場合じゃないと、
強く決断を促す時に、
秀吉軍は10日か15日で罷り出れるが、
輝元、元春、隆景らは中途までうち出すのすらも50日や30日はかかると書いて動員の遅さを挙げてる。
ドン臭い動員ではもはや秀吉には勝てないし、
これでは秀吉に一方的に押し込まれるはずだと安国寺は喝破していた。
秀吉軍はその経済政策により、信長のように現地調達・恐喝・虐殺略奪による
一国亡国と言われる略奪型軍隊で常に金がない状態ではないので
秀吉の九州征伐ではその財力を生かした畿内軍の軍備に対して、
あまりにも九州の武士たちの装備が貧弱すぎて
笑いものにされていた。そのため畿内の者たちにバカにされて萎縮してしまっていて
士気に影響していると聞いた秀吉が九州人の武装嘲笑禁止令を出している。
それくらい遅れているのが九州。案の定、さしたる抵抗もなく楽勝で島津を鎧袖一触した。
これら中国や九州のマヌケな状態は徳川・上杉・武田・北条では見られない。
秀吉も関東甲信越の先進システムを模倣したゆえに
小牧長久手の戦いで徳川と互角に戦えたと言える。

97 :
秀吉は全国に蔵入地を設定することで
遠隔地も監視できる体制を造り
取次と指南によって大名家の内政にまで介入しているなど
まさに中央集権による絶対君主制を目指していた。
しかし体制維持の事なかれ主義に後退した家康は内政不干渉&地方分権で妥協してしまった。
本能寺の変勃発で千載一遇の大チャンス到来。
しかし機を見るに敏な天才秀吉の口からのデマカセ詐術に
見事にひっかかる古今東西最強のバカ兄弟隆景&元春
織田厨は相変わらず無知だな。
不利どころか毛利にとってむちゃくちゃおいしい条件だった。
なんせ備後、備中、出雲、伯耆、美作の五カ国が毛利へ割譲されると言う
話で決着が図られていたと言うスーパーいい加減なデタラメ口約束だったんだから。
だから本能寺の変直後の秀吉と毛利側の和睦起請文にはこの条件はまったく明記されてない。
これがのちのち大問題に発展する。
つうか小早川と吉川が毎回バカな方針対立するから毛利の騙しやすさは異常w
当然この時の約束なんて交渉の切欠でも何でもない。早く退却したい秀吉の口からでたデマカセ。
当初の秀吉側へ因幡・美作・伯耆半国・備中半国割譲で手打ちなんてのは途中で話が摺り変えられていたわけだ。
しかも起請文には明記していないと言う詐欺的手法で秀吉の手玉に乗せられ見事に毛利は騙された。
光秀を討ち落ち着いたときに秀吉側が美作などの早期譲渡を要求するが驚いた毛利は話が違うと拒絶。
このため境目の領主は宇喜多と毛利に半分づつ年貢を納める半収で対応するしかなかった。
美作の草苅や中村、備前の伊賀などが毛利方の先兵として宇喜多に攻撃をかける始末。
柴田への対応に手一杯の秀吉は秀家に「西国の表裏」への対応を指示してる。
(毛利は隆景が秀吉、元春が柴田とつながりを持ち、双方への戦勝祝いの書状まで事前に用意していた)
柴田を片付けると宇喜多の重臣の岡家利をバックアップする形で蜂須賀と黒田が毛利へ圧力を加え
美作・備前は宇喜多で毛利は備後・出雲・伯耆三郡と領域が妥協するも備中では平行線。
最終譲歩ラインである備中の西半分と備前児島だけは何とか確保したい毛利側と交渉が続いた。
家康と信雄との対決が迫る中で、和睦が正式決定して
宇喜多側が児島を含む備前・美作・備中東部を領地として最終決着。
その後の秀吉は宇喜多勢を小牧長久手・紀州征伐や四国遠征などに投入できるようになった。
(ちなみに小牧長久手では小早川秀包も秀吉への援軍で従軍していた)

98 :
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。

99 :
6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め

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