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2013年08月日本史58: 【庄内】古墳黎明期を語る-参-【布留】 (194) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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【庄内】古墳黎明期を語る-参-【布留】


1 :2013/07/01 〜 最終レス :2013/08/03
祭祀制度、鉄器流通、土器様式など地域的に多様な基盤が存在した弥生時代が終わり、
前方後円墳、布留式土器など画一的要素が北部九州から関東までを席巻する古墳時代。
この西日本をほぼ統一する規模の古代王権が、どのようにして成立したかを語るスレです。
前スレ ttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1367800413/
【注意事項】
 ・邪馬台国の所在地論争を楽しむためのスレではありません。
   それを語りたい方々は、それ用のスレでお願いします。
 ・文献史学と実証史学の優劣、主従関係を語るスレでもありません。
   それを語りたい方々は、それ用のスレを立てて、そちらでお楽しみください。
 ・社会の発展と特定個人の実在性は別問題です。
   古代ヤマトの地に突如として花開いた王権成立のメカ

2 :
ニズムについて語り合いましょう。 

3 :
どっかからのパクリ
─────────────────────────────────
次の意見(老教授氏)に関して議論するスレなのだ!
「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
それが王権の礎になったってことです。
その母体は、参加時期や規模の差はあるが
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
後の大和朝廷だと考えられています。
そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね

4 :


5 :
まだやるのか
キチガイ記紀厨が来るだけだぞ

6 :
キキキ○ガイは、何故このスレに来るか分からない。
考古学重視のこのスレで、記紀に書いてあることは正しいを前提に、
2〜4世紀を語られても失笑の対象なだけなんだけどw

7 :
>>5 >>6 ← たぶん同じやつ
考古学重視なら「考古板」でやればよい。
ここは「日本史板」なので、考古系も文献系も鳥越のような民俗学系も当然あり。

8 :
8世紀成立の文献に書かれた2・3世紀の出来事についての信憑性など
頭ごなしに否定しないまでも保留するのが普通の態度だと思うんだが
そこの根本認識は絶対に溝が埋まらないんだな

9 :
>>8
突き詰めれば標本の上下関係にしかすぎない土器の個人的な印象による編年の信憑性など
頭ごなしに否定しないまでも保留するのが普通の態度だと思うんだが
そこの根本認識は絶対に溝が埋まらないんだな

10 :
土器編年で分かる前後関係はかなり精度が高いと思うがな。
ていうか編年って、そういうものだしw
最近まで暦年代が印象で語られていて、
佐原とか小林が適当に思いつきで書いてた、いい加減な暦年代が
理化学年代で漸く修正されつつあるという。
佐原とかは考古学の大御所だったから、長らく権威として広まってしまって、
未だにそのいい加減な暦年代観を引きずっている輩もいる。
このあたりまでさえ理解出来ない輩と、話していても仕方がないと言うかw

11 :
ネウォティ

12 :
空気を読まずにレスしてみるw
>>3
冒頭の「2世紀末頃」以外については、たいていの人は同意なんじゃないかな。
この部分は、3世紀半ばと見る人もいれば3世紀末あるいは4世紀初頭だと言う人もいる。

13 :
いやまあ、マキムクの実年代に関しては、未だに決定とは言えないのは確か。
しかしほぼ二世紀末から三世紀初頭がマキムク開始で間違いない。
その可能性が高いのは事実。
なんか記紀読んで実年代を復元した!
とかw
畿内説の陰謀で、
とかw言ってるバカが喚いてる印象。

14 :
,つうか纏向の開始が2世紀末という根拠は纏向の土器だけでみればないだろう
この根拠をはっきり言えるやつはいるか

15 :
東田土坑、辻土坑の土層、あるいは高杯や小型器台の出現から
相対的な年代は間違いないと思われるが
では年輪年代をあてにしない場合で実年代の定点となるものは何なのか
西新や惣座、あるいは廻間との共伴でもいいが
このあたりを詳しく論じられるやつはいるか

16 :
白石とか考古学そのものの研究に関してはすごくまともなのに、
ヤマト王権の確立の問題とかなると、
なんでデンパ説に嵌ってしまうのか。
考古学なんていうのは所詮は傍証研究
ということに堪えられなくなってしまうのかもしれない。

17 :
考古学者は発掘調査報告書や論文によって評価されるべきもので
一般向けの新書やシンポジウムは古代史フアンを盛り上げるための要素もあるからねえ

18 :
そもそも一般向けなら、いくらか色を付けて話しても許されると思うのが間違い
いつでもどこでも学者は学者であるべき宿命。

19 :
>>15
弥生甕と庄内甕が混在している畿内の実年代は難しい
ただし西新と庄内の共伴例は多くあるので
大陸系の遺物が多い北部」九州のほうが実年代の定点としてはとりやすいだろう

20 :
畿内の土器と九州の土器との併行関係からある程度分かるんじゃないの?
そもそも佐原とかが言ってた「古い」実年代観は、大陸遺物が殆ど無い畿内の遺跡で、
倭国乱を弥生後期初めに当て嵌めただけなんであって

21 :
古い土器編年の実年代観は小林が崇神没年を当時の文献史学の流れによって
318年としたことでああなった
古墳時代開始が4世紀からというのは実は根拠はない
その当時から畿内編年と北部九州編年のズレは指摘されていた
ただし纏向が2世紀末から、つまり纏向編年の1類がそのあたりというのは
北部九州との並行関係を考えた上でも大きな根拠はない
かなり前後に幅をとって考える必要があると思われる

22 :
小林の年代観がどうしてそうなったかは
弟子の都出比呂志がきちんと書いている

23 :
>小林は崇神を実在の天皇と考え、かつ伝崇神天皇陵をその墓と考えた
  崇神の没年に関する「古事記」の崩御干支を西暦に換算すると318年となる
  したがって伝崇神天皇陵は四世紀初めの古墳と考えてよいが、この古墳は
  前方後円墳としては非常に整った完成された形式である
  このような整った形式の前方後円墳の登場以前に、もう少し形式の整ってない
 古い段階の古墳があったに違いない
 したがって最古の前方後円墳は四世紀初めよりも一世代くらい古く
 三世紀末くらいに考えるべきだ、というものです
都出比呂志 「史話日本の古代二 直木孝次郎編 作品社」
古い実年代観はこのような小林の影響下に編まれ、亡くなるまで変えにくかった

24 :
現在の年代観に光谷年輪年代が微妙に影響を与えているのは否定出来ない
これが正しいかどうかはともかく現状では追試がきかないため
考古学者は積極的にこれを活用しにくい
論文に取り入れても光谷こけたら自分もこけたという怖れがあるからだ
かなり難しい状況になっている

25 :
そうなんだよな。
考古学者の大半は土器編年で語り、暦年代で語りたがらない。
暦年代無視だから、当然邪馬台国問題にも興味がない。
素人からすれば、それが不満。逃げてるように見える。

26 :
土器編年の暦年代は縦から追うか横から追うかだが
横から追うというのは共伴が認められ並行関係にあると確認された土器が実年代の定点を持っているかどうか
縦からというのは庄内の前の弥生土器、あるいは布留の後のTK土師器に定点を求める
さらに縦横の軸は交差している

27 :
○TK須恵器

28 :
古代は資料が少ないから考古学の占める要素は大きいが、
それをもって、たとえば壬申の乱の時や
はたまた家康の時の「関ヶ原」なんて語ることはできない。
考古学遺物がないからといって、
まだまだ「記紀」は恣意的に自説に都合のいいように
切り貼りされすぎている。

29 :
考古学に軸足を置いて、古代ヤマト王権の成り立ちを語る
ってのがこのスレの趣旨。
記紀は間違いが多いが、全部否定するのではなく、
考古学で検証して使えそうなところは使う、くらいかな。
考古学>倭人伝>>>>>記紀になるのは仕方がない。信憑性で言えば。

30 :
ひとまず実年代はおいといたほうがいいんじゃね
纏向が2世紀後半とか言い始めるとおかしくなる

31 :
実年代を置いとくと、倭人伝が使えないからな。
まあ、記紀の実年代を復元したとかのキ○ガイを相手にするのは疲れるがw

32 :
>>29 記紀は間違いが多いが、全部否定するのではなく、
上面だけ読み流して「記紀は間違いが多い」ですまして、気にいらないところを飛ばせば事足りるとか言うのではなく、
”なぜ”記紀の記述はおかしいのか? もっと踏み込んで考える段階に来ていると思いますが。

33 :
同じく纏向くを発掘した石野と関川ですら年代観が違うのだし
考古学者の受け売りで実年代を言っても、その根拠を自分のレスで説明できなきゃ
たいして意味がない
もっと言えば土器でも鏡でも自分でどう形式が変化をしてるのか
きちんと見て調べておくことは大切だと思う
そうでないとただの考古学厨と言われかねない

34 :
>>32
やはり同時代史料でないからな>記紀
後世の混乱やら錯誤、改変、脚色があったと見るべきだろう。
八世紀で既にかなり混乱していたからこそ、記紀を編纂しようとなった訳だしな。
考古学で分かってきたヤマト王権の成立プロセスとは大分違うし、
天皇陵の比定もかなり混乱している。

35 :
>>34 考古学で分かってきたヤマト王権の成立プロセスとは大分違うし、
へぇ〜 どう違うんですかね〜? 私には書記の内容と >>3 に書いてあることとは概略一致しているように読めるんですけどね〜。

36 :
まず、万世一系というのが違う。どうやら複数の王統があったようだ。
これは倭人伝の共立の記述とも合致する。
あと、初代大王の即位の場所が違う。
恐らくヤマト王権の最初の大王は、マキムク近く三輪山付近で即位しているだろう。
記紀にも崇神をハツクニシラスとする伝承が残ってはいるが。
神武伝承にあるような派手な遠征やら軍事的衝突は見られず、
むしろ各地の勢力がマキムクに集まって、比較的穏健に大王権が始まっている。
日向の影響がマキムクに見られない。
むしろ日向の西都原がマキムクの影響を受けている。ベクトルが逆。

37 :
>>36
↑ このクソジジイ無茶苦茶や。

38 :
近年、益々「記紀」否定論者の願望にかかわらず、
の記述が考古学事実とも合致していることが顕著になってきた。
というよりも戦後の逆皇国史観が未だに根強く残っているし、
遺伝子学が発達してきているのに、
未だに稲作半島渡来説を捨てきれない現在の研究者も多い。

39 :
モノを遠方に大量に運ぶより、コトを遠方に大量に運ぶほうが楽

40 :
>>37
まだ>>36の見方はマシな方だよ。
考古学者は記紀を出鱈目として全く相手にしない人が多い。
考古学関係の本を読めば分かる。殆どが記紀には触れていない。
まあ確かに、どうとでも解釈出来てしまう記紀の記述を
安易に史実とみるのは学問的ではないし、むしろ神話学やら民俗学的知識が必要。

41 :
口伝えの歴史は神話である

42 :
記紀に断片的な真実がぱらぱらと入ってるのは確かだろうが
それだけ選んで取り出すのは不可能に近い

43 :
>>42
そうでもない。
たとえば、崇神紀十年となっている「是後倭迹迹日百襲姫命為大物主神之妻・・・・」から十一年の前までの箸墓に関するひとまとまりの記述は、あきらかに差し込み記事。
これは崇神十年だけのことではない。
景行紀の「九州巡幸」「日本武尊西征」「日本武尊西征」もそれぞれ独立した差し込み記事として読める。本来の逐年記事はきわめて少ない。
さらに神功紀十年以降の半島に関する記述も差し込み記事 等々・・・・・・
これまでの「既にできあがった体裁は神聖不可侵にして絶対に崩してはならない、そのまま解釈しなくっちゃあならない」という上面だけをなぞる段階から、それぞれの原典に遡って考察しようと言う段階になってきている。

44 :
>>43
○ 「日本武尊西征」「日本武尊西征」
× 「日本武尊西征」「日本武尊東征」

45 :
>>43
「明らかに差し込み記事と分かる」ってのがすでに恣意的なんだよw
他の記事が差し込みで無い保証がないというw
記紀の前に、そのプロトタイプになる歴史書があって、
古くから比較的正しい史実を伝えてる、てのは希望的観測、幻想だろう。
少なくとも八世紀には卑弥呼が誰か分からなくなっていて、
神功皇后に当てられるという混乱ぶりなんだから。

46 :
その辺は新約聖書でも議論が尽きないところだね。Q資料とか。

47 :
現代の記紀研究の水準で言えば、比較的信用出来そうなのは崇神から、
ということらしい。
神武伝承は、初代大王は華々しい武勲を挙げたから初代大王になったという始祖顕彰の物語。
考古学から見る限り、突然奈良盆地に超巨大中央集権国家が生まれたとは思えない。
西日本の拠点集落の首長たちが談合して共立したのが初代なのだが、
それでは王権の正当化が出来ないから、天孫降臨やら神武東征とかが追加されたと。

48 :
>>45
コイツもバカ
記事の内容別に分類して、それぞれについて妥当性を検討しようという考え方のどこが恣意的なのかな?
他の記事が差し込みで無い保証がないというw
書記の記述は各代冒頭の「帝紀」の部分以外全部差し込み記事。
この後もいちいち書き込みをするのもばからしいので省略

49 :
論理的に反論出来ないとすぐに馬鹿とか言い出すからなあw
記紀の内容の妥当性を検証するツールが何か?ということなんだよ。
それは本来、考古学であり倭人伝。
記紀を検証するのに記紀を用いるとか、
リアルに書いてるから史実じゃね?とかw
妄想と言われても仕方がないw

50 :
>>47
> 神武伝承は、初代大王は華々しい武勲を挙げたから初代大王になったという始祖顕彰の物語。
だから初めから「神日本磐余彦」すなはち「大和が成立する以前に、その先駆けとなることを行った人」という贈り名が付けられているわけで。
> 西日本の拠点集落の首長たちが談合して共立したのが初代なのだが、
それはこの前のスレで既に出ている。以下コピペ
崇神紀七年
命伊香色雄而以物部八十手所作祭神之物・・・・・・
為祭倭大国魂神之主。然後卜祭他神、吉焉。便別祭八十万群神。仍定天社。国社。及神地。神戸
日本各地の物部系の人々を笠縫に集めて大がかりな祭祀の準備をさせた。ここで物部系というのは、吉備や筑紫、讃岐、播磨などの首長連合とほぼ同義。巻向出土の土器の地域ともほぼ同じ。
そして日本中の神々に対する祭祀を行った。つまり祭祀権を掌握したと言うことはその下にある統治権も掌握したという事ね。
この祭祀は大殿祭(おおとのほがい ← 検索)と呼ばれる物のようで、つまりこの祭祀に招請されたのが張政等であり、その様子が倭人伝に記述された邪馬台国での状況と言うことになります。

51 :
いやだからさー
崇神紀のその部分が史実とする根拠は何なのよ?w
更には、張政とか勝手に追加してるしw

52 :
>>51 更には、張政とか勝手に追加してるしw
まず始めに 宗女壹與十三歳 = 豊鍬入姫 と置く(これは作業仮説で、最終目的ではない)そして崇神六年 天照大神の祭祀が巻向から笠縫へ移行する。
この崇神六年と壹與が張政にあった正始八年(AD247)の関係を考えると、崇神六年は247年以降ではあり得ない。逆に遡りすぎると斎王に就任した年齢が幼くなりすぎる。AD244〜246年頃と考えるのが妥当。(ここで文献上の”仮”定点が出てくる)
そして上にも書いた 崇神紀七年
命伊香色雄而以物部八十手所作祭神之物・・・・・・
為祭倭大国魂神之主。然後卜祭他神、吉焉。便別祭八十万群神。仍定天社。国社。及神地。神戸
張政はこの崇神紀七年に笠縫邑の磯堅城神籬で行われた大がかりな祭祀に招請されたと推測する。
この天照大神を祀る笠縫邑の磯堅城神籬というのがつまり
「名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。
王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。」 
だいたいの所はお分かりかな?

53 :
今まで誰も考えなかった笠縫(未発掘)というのが出てきました。
この時代の出来事は何でもかんでも強引に巻向に結びつけるのではなく、「巻向 → 笠縫」のナガレの中でプロットしていくべきだと思います。

54 :
>>47
>考古学から見る限り、突然奈良盆地に超巨大中央集権国家が生まれたとは思えない。
>西日本の拠点集落の首長たちが談合して共立したのが初代なのだが、
これらの根拠は?

55 :
>>52
>だいたいの所はお分かりかな?
ゴメン、わからんです。
さらには、何で、このスレで自論を展開することに固執されるのかもわからんです。
貴説の推敲は、別スレ立てて、じっくりと取り組まれた方がよろしいかと思います。

56 :
>>55
まあ 笠縫を掘り起こしてみればだいぶ判るでしょうね。
もっとも あそこは古くからの住宅密集地なので、すぐには発掘不可能。100ねんかそれ以上かけて住宅の建て替えの時を狙ってちょこちょこ掘ってみるしかないようですが。
笠縫のすぐ南の多遺跡でもチョコットは出ているみたいですが。

57 :
>>52
ていうか、「僕は記紀をこう読み解いた!」ってだけでw
そこから先の議論なんてないんじゃないの?
チラシの裏に書いておけレベル

58 :
>>57 そこから先の議論なんてないんじゃないの?
・ 統合国家としての大和は笠縫で成立した。
・ 巻向はそのための準備段階であり、これを実際に仕切っていたのは欝色雄・伊香色雄の父子(物部)。
・ 笠縫を拠点に、後年元伊勢と呼ばれるような抵抗勢力に対して、天照大神の名で討征軍を派遣していた。
というのが大筋かな。
まあ 実際に笠縫を発掘してみて、何か出てきてからの話ではあるが・・・・
視野は広く持った方が良いと思いまあす。

59 :
>>58
頭おかしいだろ

60 :
なんだ、カシハゲくんかw
相変わらず頭がおかしいなあ
マキムク=物部王権とか言ってるけど、
その超巨大豪族モノノベは、どのように生まれたんだい?

61 :
>>59 >>60
> マキムク=物部王権とか言ってるけど
孝元、開化、崇神の元で、実際に仕切っていたのは欝色雄・伊香色雄の父子に決まってるだろう。 日本書紀を読んだことがないのか?
> 超巨大豪族モノノベ
物部というのは簡単に言えばニギハヤイの尊を祖神とする各地の首長の連合体みたいなもの。単一の豪族名ではないぞ。日本史の基本な
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海とか各地にいる。

62 :
全く回答になっていない件

63 :
その超巨大豪族モノノベの奥津城、墓域は、マキムク石塚から始まったとして、
どのように変遷してるんだろうか?
思いつきで適当なこと書いてましたと謝るなら今のうちだよw

64 :
>>61
俺の住んでる新潟県上越市に、「武士(もののふ)」という地名(大字)があるんだけど、
その近くに物部神社があるんだよな。
最終的な「武士」という字が充てられたのは近世だろうけど、「もののふ」という地名が
ついているあたり、物部の進出はけっこう古い気がする。

65 :
物部が大和朝廷の東国経営に携わって、各地の豪族たちを
同族化していったのは事実だろうし、実際、古代史研究でもそう言われているのが通説。
ただ、カシハゲが言うような二世紀三世紀ではなく、
五世紀以降とされてるんだよな。
物部氏は八十物部と言われる位同族が多いと言われているが、
大半は五世紀、ヤマト王権が全国に版図を拡げる中で、
全国各地の豪族たちを取り込んでいって、擬制的氏族関係を結んだ。
全部に血縁があったとか、バカな妄想。

66 :
>>62 >>63
↑ コイツラ日本史の基本的なことを全く理解していない。
物部のルーツは北九州遠賀川の流域(鳥越)、そこから出発して各地に支族を分散させながら河内までやってくる。やがて奈良盆地に侵入し
後からやってきた凶暴な天皇氏の元で、磯城津彦など先住部族と色々悶着があったあげく他の物部系の氏族と共に確立したのが大和。
> その超巨大豪族モノノベの奥津城、墓域は、マキムク石塚から始まったとして、
> どのように変遷してるんだろうか?
布留あたりに本拠地があるのに、なんでマキムク石塚が物部になってしまうの?

67 :
>>65
> ただ、天才様が言うような二世紀三世紀ではなく、
> 五世紀以降とされてるんだよな。
「物部」と言う名前ではなく、それ以前の名前である越智(恩智(河内)、愛智(えち 尾張)、愛知(滋賀 息長)など)で考えような。まさか知らなかったりして
地域名としては「三島」というのがある。摂津三島、河内三島、伊予三島などなどたくさん。
これらの名前は当然弥生時代に遡りうる。

68 :
いやまあwそれじゃあ
遠賀川から派生した超巨大古代豪族モノノベの
奥津城の変遷を書いてみたら?w六世紀まで。
ホントからかい甲斐があるなあ

69 :
>>68
↑ コイツ本当にバカダネエ!

70 :
モノノベが大王と並ぶ位の大豪族で六世紀まで続くなら、
当然大規模な古墳群を造営してる筈だけどなw
そんな痕跡どこにもないんだけど?

71 :
>>70
オマエひつこすぎ。私は一度も物部が大豪族だと言ったことはない。
> 当然大規模な古墳群を造営してる筈だけどなw
> そんな痕跡どこにもないんだけど?
おまえ高井田の横穴古墳群とか見たこと無いのか?

72 :
なんでマキムクから何百年も後の高井田が出てくるんだよ?w
あとまあ、三島古墳群にしても三世紀後半の弁天塚はあるが、
同時代の奈良盆地の桜井茶臼山とか西殿塚とかと比べるて明らかに小さい。
山城の椿井大塚やらと同規模なんだが?

73 :
論理的に反論出来なくなると、すぐに「お前シツコスギ」
と言うよなw>カシハゲくん。
あとまあ、カシハゲを天才に勝手に脳内変換してるのはワロタwwwww

74 :
>>72
それは当然そうなるでしょう。
大王墓の築造に人員を供出して、さらに自分の所でも人民をこき使うとかあり得んわな〜。

75 :
>>73
「しつこい」ではなく、正しい大和言葉では「ひつこい」な。
「ひきつく+こい」→「ひつっこい」が正しい。

76 :
遠賀川流域の横穴墓群も6世紀以降とされてるんだが
公州丹芝里の横穴墓群も2、3世紀にする気かいな

77 :
>>76
鳥越憲三郎 大いなる邪馬台国
内容はかなり古くなっている部分もある。

78 :
>>55
>>57
>>59
>>60
>>62
>>63
>>65
>>68
>>70
>>72
>>73
>>76
よっぽど悔しかったみたいね。

79 :
なんと低レベルなやり取りだこっちゃ。アキレタ。これが畿内説だね、

80 :
「ひつこい」は「しつこい」が訛った方言だろw
正しい、間違いとかじゃねーし
何かお前、全体的に考え方がズレてるよ。

81 :
宮内庁管理の古墳で盗掘図る 侵入男「地層知りたくて」 
宮内庁が陵墓として管理する奈良県天理市の前方後円墳、西殿塚(にしとのづか)古墳(全長約230メートル)で昨年、
考古学愛好家の男が盗掘を図っていたことが分かった。男は巡視中の宮内庁職員に見つかり、被害はほとんどなかったという。
関係者によると、男は昨年8月、宮内庁が第26代継体天皇の皇后、手白香皇女(たしらかのひめみこ)の墓として管理する同古墳に侵入。
前方部頂上にある一辺約22メートルの遺構「方形壇」の表層をシャベルで掘り返していたところ、書陵部畝傍陵墓監区事務所の職員に見つかり、
天理署に引き渡されたという。
ttp://www.asahi.com/national/update/0710/OSK201307100015.html

82 :
>>80
日本史の根幹を成す大和の成立を扱うスレにやってきて、「大和言葉は方言だぁ」とかwwww

83 :
ひつこいだろうが、しつこいだろうが、どっちでもいいw
そんなことにこだわる頭がおかしいよ、と折角教えてやってるのにw
ホントお前はズレてるよw

84 :
>>81
この「考古学愛好家の男」の職業は何でしょうね?ちょっと気になる。
・・・・・・ひょっとして 職業も考古・・・・だったりして・・・・

85 :
ずーっと現代語で書いてて、なんで「ひつこい」だけ大和言葉にするのかわかんないんだけどwww

86 :
現代語と本来の自分たちの言葉の間に断絶があるのは、明治維新によって標準語(笑)とかを強制された東京とかだけ。
畿内 とくに大阪は「あなにやし えぇおとこ」以来現代に至るまでずっと断絶のない大和言葉。

87 :
「あなにやし」を大阪で使う?

88 :
>>87
「あなかしこ」というのは お祓いの言葉として微かに残っているね。「あなおそろし」なんかもある。

89 :
「〜やし」というのは普通に使う。「あなにやし えぇおとこ」を現代で使われている形にすると、「すごいにーちゃんやし えぇおとこ」。

90 :
>>67
物部氏の拡がりはヤマト王権の成立する大分以前からあった、
と考えると、
「記紀」や「旧事本紀」の記述が問題となる。
それによると、物部氏の祖ニギハヤヒの河内、ヤマトへの定着は、
神武と同時期か少し前ということになる。
物部氏の勢力拡張についてはまだまだよくわからない。
>「三島」
という地名と物部氏との関連とはどういうこと?

91 :
>>90
だからーw
何度も書いてるけど、記紀の記述の内容の真偽は、
考古学で検証しないと駄目だろ?
記紀ってのは皇室氏の正当化という意図と、
豪族と皇室との繋がり、関係性をあらわした書。
豪族たちは自分の祖がいかに古くから、天皇に職掌を与えられ、仕えてきたかを自慢したい。
記紀はそういった豪族の始祖伝承を取り入れている。
物部にしても同じで、五六世紀に台頭し、自分たちの祖先を粉飾したとも考えられる。

92 :
>>90
物部の氏族である中臣が奈良へ本拠地を移す前の枚岡神社の近くに鬼塚遺跡と言うのがあります。
http://ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/1577/1/rekisikenkyu12_p30-54.pdf
この遺跡は中臣氏に関係するのではないかという説があります。そうすると中臣が河内にやってきたのは弥生時代初期にまで遡る可能性ガ出てきます。
本体の饒速日ガ何時やって来たのかはよくわらりませんが、これもかなり古い可能性があるとおもいます。
神武については巨勢谷の掖上に拠点を確保したのは、倭人伝などにある桓霊の大乱の7〜80年前、だいたい1世紀の中頃のことではないかと現時点では見ています。
ただ神武紀を読むと、背後の吉野川・紀ノ川流域も勢力下にある様にも思われます。これだけの範囲を短期間に押さえ込めるものかどうか?
「三島」については下記のHPのズット下の方の 陸上経路を描いていない地図とその周辺記事を読んでみてください。
http://www.eonet.ne.jp/~organism/yamato-1_3.html#1-3-30
ものすごく単純化すれば、「越智グループのうち水運に関係する氏族が住んでいる地域が三島」と言うことになりそうです。伊予三島もオチ氏(←字を忘れた)。河内三島というのは古河内湖の湖岸にあります。
http://goo.gl/maps/cdOxD
大三島というのは、遠賀川流域から河内へ進出到達するまでのある時期、航海技術を持たない縄文系氏族に攻撃される可能性の少ない中間的な重要拠点だったように思えます。

93 :
98 :日本@名無史さん:2013/06/14(金) 11:16:37.40
宮本常一氏の研究によれば、三種類の海民が、瀬戸内海にみられるという。(「瀬戸内海文化の系譜」)
第一は、男女共漁をする海民で、北九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは宗像三神を信仰し、あわびや魚、海草を採取しながら移動する定着性の低い海民であった。
尼崎、海部などの地名が残っているのは、かれらの居住地と推定できる。
第二は、男漁女耕をする海民で、南九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは大山祇を信仰し、四国側を中心に定着し、後に村上水軍などの海上の武装勢力を形成した。
第三は、半農半漁をする定着民で、瀬戸内海に定着していた在来海民である。
かれらは、住吉の神を祀り、遠浅で磯漁の条件の良いところに居住した。
貝の採集に優れた技能をもっていたかれらは、あわびの採取、交易、製塩などに従事し、供御人などに任ぜられて朝廷との関係を結んだ。

94 :
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1317289551/98

95 :
>>91
>豪族たちは自分の祖がいかに古くから、天皇に職掌を与えられ、仕えてきたかを自慢したい。
逆。真人と朝臣の優劣は近親か否か。
多くの朝臣の始祖は、欠史八代。

96 :
うーん、どうなんだろ?
確かに吉備とか葛城などの皇別は、始祖が昔大王だったと言い、
反乱伝承などが多い。
対して神別の大伴や中臣などは、天孫に随伴したなど、
いかに古くから大王に仕えていたか?を誇っているように思いますが。

97 :
おいローガン >>91 は学校かどっかで習ったことをそのまま受け売りで並べ立てているだけだぞ。
そいつに触っちゃダメ!

98 :
>>92
>三島
については、貼ってもらったところをざっと見たが、
やはりよくわからない。
それと確かに物部と中臣は近い関係にあるが、
>同族
といえるかどうか。
「記紀」や「新撰姓氏録」その他を完全に信用するわけではないが、
やはり力関係で(物部は政権中枢、中臣は神官)
中臣はそれなりに独立性は保ちながら、物部の下につくことによって、
地位を上げたのではないか。
「日本書紀」では(神話部を除いても)
昔からかなりの地位にあったような記述があるが、
これは制作主体の藤原史が祖先の中臣氏の過去を潤色したことによるから、
割り引いて考えなければいけないだろう。

99 :
日本書紀の製作主体が不比等?w

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