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2013年17歴史難民65: 【捏造】兵力や戦果を捏造し過ぎだろ【辺境】 (240)
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【捏造】兵力や戦果を捏造し過ぎだろ【辺境】
- 1 :2008/05/12 〜 最終レス :2013/08/15
- 信長・謙信・信玄ら人気武将は研究され尽くしている。
しかし辺境大名の兵力差や戦果の捏造は放置されたままだ。
戦の基本は大軍が勝つという大原則が存在している。
捏造SAランク(伊達政宗)
12万石の佐竹VS80万石の伊達政宗の人取橋や郡山合戦
捏造AAランク(毛利元就)
周防17万石の陶VS安芸20万石の毛利の厳島合戦
捏造Aランク(島津義久)
常套手段である釣り野伏は大軍が寡兵を挟撃→包囲する作戦なのに寡兵の島津が行なう不可思議さ。
- 2 :
- 大友家臣団
http://c.2ch.net/test/-/history/1182505705/i
島津は対して強くない。
- 3 :
- 堀は秀吉軍の先陣でスゴイ速さで南下し薩摩兵50人以上を捕虜にした時に邪魔になったので逃がしてやったんだよな。
当初、島津は日向に主力を集結してたが
堀のあまりの神速に、日向戦線を早期に解決して肥後南部へ戻り薩摩防衛しなくちゃならず焦って大戦略が崩壊、
別働隊の秀長軍先陣に無謀な夜襲をしかけたあげくに救援にきた藤堂高虎(1万石で兵500)に翻弄されまくって時間を浪費したあげくに到着した小早川・黒田に挟撃され日向戦線が崩壊し降伏に追い込まれたんだよw
堀は秀吉から蒲生氏郷よりも評価されてたぜ。
なんせ堀は関東で徳川の備え、蒲生は奥羽の備えにする予定だったくらいだからな。
関東なら200万石級大名だぜ。
島津の田舎大名と織田系の首脳クラスの武将のレベルじゃ明らかに織田系首脳クラスの方がすごいわな。
堀を雑魚とか大した事ないとかどんだけ無知なんだよw
ノブヤボしかやった事ないだろw
島津は織田系主流じゃなかった藤堂高虎でも充分に相手できたわけだがw
小牧長久手の戦いでは堀が榊原康政・大須賀康高を破り、
堀が唯一の勝利を秀吉にプレゼントしてるのに。
呪術的占いが大好きな野人隼人の島津は、鎌倉の昔から相も変わらず占いで豊後侵攻路を決めたあげくに大苦戦したんだよ。
島津が大好きな神様に騙されたよねw
そういや上井覚兼は秀吉が大友に味方するって決まった途端に改めてくじ引きをまた引き直しやがってと激怒してるしね。
西国のくじ引き軍が畿内以東より強いわけがないね。
- 4 :
- http://c.2ch.net/test/-/sengoku/1154094080/i
【戦国屈指の】 毛利元就総合スレッド 【策君】
- 5 :
- たしかに伊達の戦果はまったく信用できないな。誇張というレベルをはるかに超えている。
- 6 :
- 個々の大名叩きをやりたいなら他でやれ
- 7 :
- 彼らの兵力に対する裏付けはないな。
一方的に自分らをマンセーしてるだけ。
過大広告や羊頭狗肉だわな。
辺境大名だから興味もないし研究すらロクにやられてないしな。
- 8 :
- 石高からある程度動員兵力は推察できるのでは?
もっとも石高誤魔化してたらアテにできんが
- 9 :
- 関ヶ原がたしか旧日本陸軍参謀本部が石高から動員兵力を概算したんだっけ?
なんだかアテにならないが…
- 10 :
- >>1
間違いない。
- 11 :
- 寡兵の島津の陣は厚みが薄く
それをさらに分散して釣り野伏しなどをやるために
軍を分散したら各個撃破されるのがオチ。
よって島津は常に相手より多い大軍だった。
- 12 :
- 薩摩28万石
大隅17万石
日向12万石
明らかに薩摩の国力は他を圧倒してます。
よって島津が寡兵で勝ち続けたと言うのは捏造です。ありがとうございました。
- 13 :
- >>8
当時は貫高制では。後に記録された時点の石高とどこまで生産量が一致するか・・・。
>周防17万石の陶VS安芸20万石の毛利の厳島合戦
陶というか、大内が周防一国だけだったとは思えないのですが。
- 14 :
- 山野ちゃん、このスレ立てたの戦国板でも有名なキチガイだからあまりレスしない方がいいよ
- 15 :
- >>14
論破された基地外がよく悪意のレッテルを貼るって聞いたけど、あなたみたいな人々を言うのですね。
- 16 :
- 毛利と島津は明治維新における勝者にして日本統治の正当化のため、
戦前までの歴史研究において捏造に捏造を重ね常識化させる事に成功したと言える。
伊達は藩祖があまりにもアホだから必死に神格化した。
政宗は戦えば負けまくり相続時は80万石→60万石まで激減させたDQNで山形館3万石の伊達従属下の傀儡最上の自立を許したばかりか57万石と肩を並べる大名にまで追いつかれてしまった。
たださえ出羽の石高は非常に低いにも関わらずだ。
- 17 :
- 西国の桶狭間と言われてる島津や毛利の戦いは捏造だしね。ほんといい加減だよこいつら。
- 18 :
- 伊達が最強捏造王
- 19 :
- http://c.2ch.net/test/-/sengoku/1197266689/403
伊達信者発狂www
- 20 :
- 伊達が最上を従属下?
どこの薄ら馬鹿だ?
- 21 :
- 伊達が山形館に乗り込んだ際に正室に伊達家の女を押し付けて
さらに最上一族を分断する為に傍流の中野のガキを伊達が擁立したじゃねーか
そのガキが義光の父の義守だろが。
義守と義光が家督を巡る争いした時も輝宗が山形館のすぐ南の上山城主と結んで軍事介入しただろが。
- 22 :
- オマエら難しく考えすぎw
簡単な話なんだよ。単純に周防17万石VS安芸20万石の戦いだよ。
陶は大内義長を自分の手のうちに収めるために手勢を置くだろうし
北九州にも備えが必要だし、内藤氏の内紛でも援軍を送らないとだし
石見にも和睦したとは言え多少の駐留軍が必要だが
毛利は全軍を投入できる。よって陶軍が寡兵で毛利軍の方が多かった。
陶の視点からだと毛利の事をどう思ってんだろ。
郡山城攻防戦の時に隆元とともに陶は援軍を派遣するように大内義隆を説得する助太刀してたし
陶と元春は武勇バカ同士でホモ文通するくらい仲が良かった。
陶が謀反する時は事前に毛利に知らせて同意を得ているし
謀反成功後は毛利に安芸は好きなようにしていいよって言ってる。
陶からしてみれば毛利に裏切られ火事場泥棒される理由が見当たらないんだよな。
- 23 :
- 実際は水上兵力を含めれば毛利より少なかったりしてなw
なんせ当主を殺してしまったので主従が疑心暗鬼になり、まとまりにかける陶軍は石見で大苦戦して和睦せざる負えなくなったくらい追い詰められた軍だし
石見から強行軍で中国地方を縦断して進軍してきたら使役の割に褒美がもらえるかもわからんし部下も離散するだろう。
長門守護代の内藤氏すら甥と叔父が内紛中だし。
周防の残留軍は火事場泥棒した毛利にすでにやられてるし北九州にも一応は備えないとだし石見にも兵力を拘置しなきゃならん。
陶は背後に多くの火種を抱えて戦力集中はできないのは明白。周防の石高から6000も動員できないんじゃないか?
元就の壮年期はセックル大好きでひたすらガキを作りまくって成長後には親戚作りをやってたんだろう。
外交的にはことなかれ主義で主に大内の庇護と援助をうけていた。
家督問題介入で怒ってたが尼子にも良い顔をしたりと卑屈だが八方美人をしてた。
大内としても安芸守護武田の支配に対して昔から反抗していた国人一揆の議長役をしていた毛利を通して安芸支配を固めていた。
尼子も武田がダメなら安芸支配のポイントは毛利だとして吉川氏経由で支援して優遇していた。
要するに大内と尼子の勢力圏の緩衝地帯に毛利がいたってわけ。
だから双方の傘下に両属し厚遇された毛利はけっこう美味しい地位にいたし力を蓄える事ができた。
またセックル好きのおかげでガキに恵まれ自身も地域の長老になるとかなり有利になった。
毛利は典型的な他力本願タイプで寄生虫・宿り木・小判鮫をして主家が衰退するのを待って地位を簒奪したと言える。
毛利家は代々の安芸国人一揆の議長役という地位が非常に有効になったんだろう。
- 24 :
- 大内と尼子の自爆待ちで
気付いたら当時の平均年齢50歳でみんな死んでて
自分が地域の長老になってたので
死んで他に誰もいないのでやむをえずみんなに推戴され
(元就視点ではもともと安芸の国人一揆の盟主の家柄だし当たり前じゃボケ国人どもめ!)
吉川も小早川も普通に跡継ぎいないから次男か三男くれない→いいよ別に!
大内義隆が陶の謀反を知り調伏の護摩焚いてたらマジに陶が殺しにきた→陶が山田事件起こす→石見国人謀反→討伐中に元就火事場泥棒→
厳島でなにやら占いや気をみたりする陶がここ数日は大凶だから休戦日だな!→大凶?関係ねーよと元就襲撃→卑怯なり元就ぃ!
→石見銀山ゲット!ってあれ晴久突然死→20歳義久は毛利をビビリ石見を毛利にプレゼントするから和睦しよ♪→石見の国人見捨てられる→
うっひゃひゃ銀を出雲国人にばらまけ和睦なんて関係ねーし侵略じゃ!
- 25 :
- ん?勝家が長島で大敗してんのも織田史では隠匿されてたのか?
あれはたしか勝家が殿を努めたが猛烈な追撃を受け旗指物を奪われ大負傷しために
柴田軍が殿を勤められなくなり変わって殿をした氏家直元が戦死したろう。その後の柴田は怪我療養中で動きがない。
相変わらず織田史観では手取川といい柴田に優しいんだな。
と思ったら、今度は秀吉が朝倉2万近くの兵を一人で阻止したって?
当時は信長の後詰めが横山城のいたから朝倉が決戦を避けただけ。
織田厨史観では熊見川の戦い自体を否定して上月城は見捨てただけで秀吉が勢力圏を保持したと主張するし
(実際は姫路に信忠の後詰めがあったから毛利が決戦回避しただけ)
織田史観ってほんと相変わらず柴田と秀吉にだけはとことん甘いよな。
光秀が波多野秀治を騙して和睦を引き出し処刑し丹波平定
細川が娘を嫁がせてから一色義定を謀殺して丹後平定とか全然かばったりしないのに。
それに義昭が挙兵した時でまだ信玄が生きていた頃の信長は進退に窮して
4月5日には正親町天皇から勅命を出させて何とか義昭と和睦してもらってたじゃん。
志賀の陣でも、のちの本願寺との和睦もそうだけど信長は苦戦の末に正親町天皇に頼りまくってるじゃん。
- 26 :
- >>25
信長公記に載ってない出来事はすべてアンチの妄想捏造です。
信長公記以外の史料はすべて一次史料ではありませんので史料的価値はまったくありませんと歴史学者はみんな言っております。
はっきり言って信長は世界最強の天才ですから。
- 27 :
- まぁ織田厨ってのは信長公記しか読んだことない無知ばかりだから他の根拠を出されても論議できないから、
バカの一つ覚えでそういう否定の仕方しかできないんだよなw
- 28 :
- >>25
佐々成政もまったくかばってもらえてないなw
秀吉と柴田が対立してる時期に佐々が魚津城で景勝らと和睦開城を約束しておきながら卑劣にも騙し討ちして魚津城の上杉軍を大量殺戮しまくってる。
織田軍って信義のかけらもない詐術や約束反故や大量虐殺などを常套手段にする理不尽なヤクザも真っ青な悪魔犯罪集団なんだよな。
- 29 :
- 斎藤義龍に信長は最低でも2回は負けてるのに信長公記には桶狭間の後に義龍に負けた話が見事に書かれてない。
さらに信長公記では桶狭間の戦いの日程自体が間違っている。
これは意図的な操作だろうか?
こんなもんを持ち出して当時としては珍しく良質な資料である信長公記に書いてないから信長や勝家や秀吉は負けてないと全否定の主張をする基地外織田厨が多い。
いや公記以外は読んだ事がないシッタカなのであろう。
- 30 :
- 信長公記マンセーな織田厨が見事にシカト
http://c.2ch.net/test/-/sengoku/1153157857/757
- 31 :
- >>12
甲斐親直に負けまくりの島津なんて大してことないよ。
- 32 :
- >>3>>24
西国はまだまだシャーマニズム的な呪術的な戦場判断が一般常識として存在してたから畿内や東国の軍勢の機を見るに敏な用兵には敵わないよね。
毛利・大内・尼子・大友・島津あたりはみんな論理的ではなくて戦場や城かた立ち上る気や天文が地上に与える影響やら
呪術やクジ引きおみくじの神託やら悪日や大凶日や易や暦を盲信してるからね。
島津の上井覚兼の日記なんてみたら笑っちゃうw
あと大友側の角隈石宗の占いとかなw
立花道雪が戸次鎮連に忠義を示さないと怨霊になって祟るぞって言ったり、
耳川敗戦後に家中に対して道雪が景林にと言う易者に占わせてから戦ったら勝てたから今後もその習慣を守れと言ったり
大友吉統は関が原での大友復興作戦で豊後上陸の場所を戦略面を考えずに
宗麟が運を開いた縁起のいい場所であった立石に上陸して結果的に黒田如水の派遣した軍に大敗してるしw
元就も山吹城を攻めようとした時にどこぞから家臣が連れてきた呪術者に易をさせたら
「占ったところ食料2年分に水も豊富にあるよ」と言われ見事に騙されて攻めずに安芸に帰ったり
陶の怨霊封じの儀式もやってたな元就w
元就が元春が暗殺した本城常光を暗殺した為に出雲の国衆が尼子側に戻ってしまった時に尼子調伏の呪法やったり、
尼子側も出雲大社や佐久佐社や伯州の大山権現で毛利降伏の祈祷やってたな。
もう呪術合戦状態www
西国の戦いってのはこういう素地が背景にあってのアホレベルの戦いばっかだからマトモに考えちゃダメだよ。
- 33 :
- >>32
関が原の戦いで毛利家中が分裂し、統制できなかった理由もこういうところにあるのかもね。
また徳川はそういう西国大名達の弱点を知り尽くしていたと。
- 34 :
- 越後39
越中38
能登21
加賀35-5=30
佐渡1
上野49-34=15
信濃+出羽+飛騨+下野=6
かなり小さく見積もって150万石ってところか。
あまりに小さく見積もりすぎて削りすぎかな???
さすがに上野は削りすぎかも・・・
加賀も削らなくても良いのかも知れんね。
+10の160万石でもぜんぜんおかしくないような気がする・・・
門司城攻防戦
宗麟との同盟軍の尼子軍が後方で侵攻開始し
宗麟が政戦略外交を駆使して毛利を屈服させ香春岳城・松山城・門司城を大友に返却し和議させる。
この際に宗麟は自分から将軍に大金をつんで和議斡旋を頼んでおきながら元就が困って和議を受託しようとしたら
条件を次々に出してなかなか和議を結ばないという卓越した外交交渉をしてのけたので元就の一方的譲歩になった。
1566年尼子滅亡
多々良浜の戦い1569年
宗麟の謀略として大内輝弘の逆上陸が開始され
後方では隠岐国から上陸した尼子残党が出雲一国をほぼ奪回寸前になり
毛利軍は多大な犠牲と苦戦の末に落とした立花山城を大友に返却し撤退。
1571年に元就死去。
1574年山名氏から援助を受け尼子軍が因幡国より出雲侵攻。
1577年織田軍に参加した尼子残党が播磨上月城を攻略
- 35 :
- 宇喜多直家は勇武で鳴る三村家親を暗殺し翌年1566年7月には息子三村元親を明善寺合戦で破り
備前西部・美作から三村氏を追い払い備中深くまで侵入し
1568年には撫川城(備中南東)・猿掛城(備中南西)・斎田城(美作・備後国境沿い)と宇喜多の前に次々落城し、
最後の仕上げとして直家の調略で備中の名族庄氏が裏切り備中中枢の松山城の居城を奪われ三村氏は崩壊。
三浦氏(美作西部の有力者)も三村氏より美作西部の要衝高田城を奪還。
1569年元就が対大友戦で長府へ(翌年正月に輝元をおいて元就は吉田へ帰る)
大友との多々良浜の戦いが開始され大友に支援された大内軍が後方の周防国へ上陸し
破竹の進撃を開始しついに山口攻撃を開始し無視できない状況に。さらに尼子残党が隠岐より上陸し出雲一国をほぼ制圧してしまう。
毛利は大損害を出しながら何とか確保した立花城さえ大友に譲渡し九州完全撤退を決意し交渉に入る。
毛利軍が備中猿掛城を落城させるも備中斎田城で宇喜多勢に大敗。毛利方香川春継が尼子・三浦氏より高田城奪取。
1570年2月尼子残党の月山富田城攻略失敗。尼子と宇喜多直家は手を結ぶこととし、
尼子勝久・山中幸盛らは備中より美作へ1000の援軍を派遣し三浦氏を支援し10月には毛利軍を破り高田城は落城。
尼子勢は備中を次々に降し幸山城(倉敷北方)・松山城などの諸氏は尼子に降り毛利方の城攻めを開始しほぼ毛利は備中失陥。
同年に宇喜多配下の花房職秀は荒神山城を築城し美作支配の拠点とする(宇喜多が美作をほぼ制圧完了)
9月に元就重症の急報あり尼子残党を元春に任せ、輝元と隆景は大友の動きを警戒しながら元就のもとへ急行。
1571年6/14元就死去。
8月に新山城で山中幸盛を元春が捕縛するも逃げられる(尼子勢力が減退し始める)
毛利が備中中部で反撃を開始し松山城落城させるも備中幸山城が備中北部を制圧していた尼子に攻められ降服。
1572年毛利の支援で三村元親が佐井田城を奪取し松山城に居城を移す(備中の軍事バランスが毛利方へ)
宇喜多と毛利はこの後も一進一退の抗争を繰り返す。
1574年対織田で宇喜多・毛利は同盟し毛利の背反に激怒した三村氏は織田へ。
1575年毛利が松山城や猿掛城を落城させ三村氏を滅亡させ備中平定に成功。
1576年毛利氏が美作高田城奪取。
1577年宇喜多によって浦上は滅亡へ。
- 36 :
- 周防16
長門13
石見11
出雲18(尼子残党が暴れていたが詳細不明につき削らない事にする)
備後18
安芸19
備中17-10=7(尼子残党とそれを支援する宇喜多同盟軍がかなり攻勢に出ており三村滅亡寸前だが元就死去後には挽回し始めている)
隠岐4(尼子残党の拠点になったりしてるので元就時代に領有してたか不明だが+する)
美作と備前(元就死去時はほぼ宇喜多支配下)
毛利元就死去時の石高は106万石
九州(大友の四国侵攻による宇和郡領有による伊予での河野氏支援も含む)と中国東部での無意味な二面作戦という愚策で
東部・西部ともに劣勢に追い込まれるが死去寸前に愚かさを悟り九州から完全撤兵(健康への不安からか?)
謙信が関東を放置し上洛戦で北陸に戦力集中したのと違い元就は戦略変更が遅すぎて宇喜多や大友の支援で尼子残党が巨大化してしまった。
元就死後に中国東部のみに敵を絞り込み反攻しある程度の成功を収めてるところを見ると老害が出始めていたかも。
伯耆(10万石)因幡(8万石)情勢
1564年 西伯耆の要衝たる尾高城は毛利方の杉原盛重が派遣される。
1568年 毛利氏の九州出陣で伯耆の領主たちが九州に赴いた隙を狙って
尼子勝久・山中幸盛らによる尼子再興戦が開始され伯耆各地を奪回し始める。
1569年 山中幸盛らの尼子残党に尾高城を奪われる(陰徳太平記)
1571年 毛利と同盟して因幡を乗っ取った武田高信が但馬侵入するも山名氏の塩冶高清に大敗。
西伯耆の浄満原で杉原盛重が尼子氏残党(信長の支援で但馬因幡の山名氏を復興させた)と戦う(陰徳太平記)
1572年 因幡国人の大半が山中幸盛側になびき武田高信の大敗で鳥取城陥落し因幡が完全に山名領国化。
西伯耆と分断された東伯耆の国人の南条宗元は毛利と同盟しているが
孤立無援の中でかなり苦戦してると思われる(毛利に援軍派遣の余裕はない)
※陰徳太平記は毛利氏によって編纂されているので毛利贔屓になっている。
よっておそらく杉原盛重は浄満原で負けていると思われる。
- 37 :
- 元就死後に元春のがんばりで対尼子の出雲情勢が好転してくる状況で、なおかつ美作国方面はほぼ宇喜多の手に落ちている。
よって伯耆以東は尼子の勢力圏化が進み連絡線も断たれ孤立した各国人が独自の防衛政策で必死に守っており
毛利の軍事プレゼンスも期待できない以上は影響力が皆無に等しく毛利領と見なすのはかなり無理がある。
しかも出雲・隠岐もかなり尼子に蹂躙されているが>>693ではまったく石高を削っていない状況なのでさすがに伯耆分は追加不能。
厳密に計算したら元就死去時の石高は、ほぼ100万石くらいまで落ちる気がする・・・がそんな事したら毛利厨が過小評価だと騒ぎ出しそうだし遠慮しとこう。
>>645>>650
微妙なところなんで謙信の場合はあいだをとって155万石とするか・・・160万石でもおかしくなさそうだがそんな事したら毛利厨がヒイキとか騒ぎ・・・w
やはり隠岐は毛利領から石高削るべきだな
隠岐は現在こそ島根県だから近いように感じが実際は出雲と伯耆の境目の北海上にある。
また山中鹿之助が拠点を置いていたのは新山城といい松江市の北だ。
とするとさらに背後にある隠岐はまだ安全圏だろうし新山城の位置から万が一には隠岐に脱出するルート保全もあったと思われる。
ちなみに羽柴秀吉の中国遠征軍(てきとうに概算)
播磨35万石
但馬11万石
因幡8万石
伯耆10万石のうち東部3郡羽柴方の南条6万石
宇喜多備前22万石+美作18万石
合計100万石
あーもう石高で同等に追いついちゃってるよ・・・
これじゃ毛利軍はどうあがいても100%かなわないわ。
そういや他にも近江長浜からつれて来てる兵や信長からも与力つけてもらってるし
淡路6万石
長宗我部に侵攻され滅亡寸前の三好讃岐領もあるんだよな。
- 38 :
- 信長公記に書かれている
斎藤義龍が范可と署名した時期がおかしい。
また范可とは唐時代の人で止むを得ない事情により父親を殺さざるを得なかった経歴を持つとの事を書いているが
そんな人物は唐はおろか史記など過去に遡っても見当たらない完全な捏造話である。
- 39 :
- 毛利元就200万石って大ウソなんだな…85歳って天下統一した家康の年齢と同じだけ生きたのに50歳過ぎでやっと安芸一国統一レベルじゃな…
- 40 :
- 昨年の歴史読本6月号だったか!?
に歴史学会の新説についての特集が
あり、そこでは厳島合戦での陶軍の
兵力は8千人との新説が紹介されていた!
それによるといままでいわれていた2万
の兵力は陶側が各地の戦線に配置した総数
とのこと(いわゆる桶狭間の今川軍が2万
5千人中の5千人のようなもの)
- 41 :
- 戦国最末期の佐竹
当主佐竹義宣11万石
隠居佐竹義重1万石
叔父佐竹義久1万石
その戦力の大半が対北条に備えていた。
伊達政宗の家督相続時は80万石
佐竹は常に伊達を圧倒しまくった。
どんだけ弱軍だよ伊達って。
のちに越後から会津に移った上杉は関ヶ原の最上戦線で苦戦。強兵の越軍ではなく米沢や福島の伊達旧領の新兵がむちゃくちゃ弱かった。
- 42 :
- 過大評価って戦国大名にはつきものなのか、とも思うね。
「来島扶持を以て隆元、我ら頸をつぎたる事に候」(永禄十一年 元就書状)
厳島の戦い後、十三年経っても、あの戦いは来島水軍の助力がなければ、毛利家滅亡の危機
であったことを元就自身が白状している。現に合戦当時、厳島の宮の城から隆景に「来島が
来てくれなければ万事休す、何としても助力が得られるよう交渉しろ」と、哀れなほど追い
詰められた書状も出している。これらは、毛利家文書、小早川家文書に現存しているよ。
何が起こるか予想のつかない現実の戦場で、講談のごとく、何から何まで計算通りにいく、
なんてあるわけ無いでしょ。
折敷畑合戦はなかった
tp://www.mmjp.or.jp/askanet/rediscoverofhistory-thebattleofoshikibata.htm
1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、
この合戦に関して発給されてたとされている感状である。全部で五通あるが、
そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論
- 43 :
- 有田中井手の戦いもウソ臭い。従来よく言われるのが元繁が討ち死にし武田氏は衰退滅亡したということ。
だが実際には跡を継いだ武田光和は勇猛な英主で、父の死去の影響はまったくない。
1524年、大内義興・義隆親子は3万余の大軍を率いて、武田光和の居城佐東銀山城を包囲したが徹底的に抵抗し
尼子経久の援軍が来るまで持ちこたえたし、厳島神主家の後継者争いにも介入し勢力を拡大し続けた。
父が毛利に敗退し衰退してる姿など微塵も感じられない。
熊谷信直の討伐を進めていた矢先に33歳の若さで嫡子を残すことなく急死した事で事態は急変。
若狭守護武田氏の養子をもらう事で重臣の主導権争いが勃発し内紛により武田信実が若狭に逃亡し衰退したのだ。
それでも安芸における更なる拡大を目指し尼子詮久に毛利攻めを要求し実際に毛利攻めの際の武田氏は佐東銀山城に集まり、
大内の大軍の猛攻を支え続ける勇猛ぶりを発揮し毛利への援軍を阻止し陶の別働隊を組織し毛利援軍へ派遣せざるおえなくなる。
毛利が尼子の軍を相手に籠城したことばかりを過大に宣伝するバカがいるが
実際には大内領に隣接した武田の士気の高さと防衛ぶりの方がすさまじい。結局、尼子の撤退で孤立無援でフルボッコ。
なおも耐えていたが尼子経久の死去に伴い尼子派国人領主が大量に大内氏へ寝返ったため完全に孤立し滅亡した。
- 44 :
- >>43
安全圏の伊達領の政宗は自領の心配はまったくせずに良かった。
田村は一人娘を政宗に嫁がせ男子が生まれたら田村の世継ぎに欲しいといった状況で、いつも被害担当みたいに毎回、政宗のせいで佐竹や葦名のフルボッコを防ぎ続けた。
政宗は無能だが防波堤のように踏ん張った田村がスゴイってのと同じだね。
- 45 :
- どうでもいいが、元就や家康の享年は75じゃなかったか。
- 46 :
- 各国最盛期を演出した大名と跡を継いだ不肖の息子達
駿河 英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)兄氏輝(〜1536年)の死後に家督争いに勝った
義元は補佐役太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。
越前 英主 朝倉孝景(〜1548年)
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟に裏切られる。
南近江 英主 六角定頼(〜1552年)
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)
美濃 英主 斎藤義龍(〜1561年)
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。
跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り
円滑に家督を継いだ信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。 また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解。
一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
ttp://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html
- 47 :
- 安芸の武田光和は確かにすごいね。
早死にしてなかったら毛利が滅亡してたかも知れん。
強いと言えば相馬もお見舞いで三春に行った時に伊達の騙し討ちで重臣多数が銃撃され弱体化する前はやたら強かった。
最上義光の異常な拡大もスゲェ。
佐竹や葦名から伊達を守り続けてフルボッコされまくった田村氏の頑強さにも驚かざるおえない。
その佐竹も北条の大軍相手に鬼追撃をかけたりと余りにも精強過ぎる。
信玄や謙信の強さはもはや神レベル!
だが由良氏も悪魔レベルの抵抗をしてるな。つか金山城の鉄壁ぶりは特筆すべき。
石山本願寺も大阪城の原型だし地の利は得てるな。
大友宗麟も家督を譲った後の二重権力の混乱とキリスト教狂い以前は鮮やかな外交戦で完璧に毛利を押さえこんで覇権を確立してたな。
阿蘇氏を支え島津をフルボッコしまくった甲斐宗雲もかなり強力!
戦いってのは相手の失敗や不幸に乗じて突き崩す事に他ならないが以上の大名にはあまり隙がなかったと言えるな。
- 48 :
- 視点論点
- 49 :
- 周防も安芸も同じ瀬戸内海だから平等な土俵じゃないか。
水運経済は水軍に依存しており毛利だって小早川水軍を持ってたから通行税やら湊使用料を同じように取ってたろう。
だったら差を分けるのは地力
瀬戸内海があるから比較できないなら琵琶湖水運があるからとか日本海貿易があるからとか伊勢湾があるからとか河川流通があるからと何一つ比較できないだろが。
毛利厨だけがそうやっていつも逃げるんだよなw
陶は大友にもある程度備えないとだし
大内義長が拉致られないよう兵を置かなきゃならん
長門の内藤氏の内紛にも兵を出し介入し自派に勝って貰わなきゃならん。
石見で苦戦しまくり和議したものの破棄して背後を襲ってこないようにある程度の兵を置いて備えなきゃならん。
安芸に振り分けられる兵力なんてごくわずか。
- 50 :
- >まず義長が大内にいるのに大友に備えてというのは不自然。 これでは義長がいる意味がない。
それと大友義鎮の書状で「義長に援軍頼まれたけど毛利との約束で自分は泣く泣く弟を支援しなかった。
その辺のことを考えて、九州の大内領は大友が継承するのを認めてね。
あと秋月とか筑紫が反大友で騒いでるけど支援しないでね。」みたいな文書が残ってる。以上から大友に備えてと言うのは不自然
→これは大友が義長を犠牲にして毛利に内通してることを現しているって事です・・・
それに基地害になった陶は野上房忠に命じて筑前守護代杉興連を殺害し豊前守護代杉重矩も殺したり宗像騒動で北九州情勢は不穏です。
>義長が拉致されないようにと言うけど、厳島合戦に参加しなかった多くの大内氏家臣や内藤隆世は守ってくれないわけ?
→ 娘婿である毛利隆元とその父元就を支持する五男・隆春派と内紛中で山口にまで抗争は波及してます。
>毛利だって尼子に備えて兵を置かなければならず、宍戸隆家が残ってる
→石見も備後も大内領国化していて安芸は安全圏になっている。
尼子晴久の戦力集中は東側で1551年〜1554年に渡り備前に出陣し播磨の浦上政宗と結んで宗景の居城である備前天神山城・沼城まで進出
1553年4月備後北部の三次盆地に勢力を持つ江田氏は毛利氏を中心とした大内氏方国人の攻撃を受けた。
江田氏を支援するため、晴久は自ら備後国高へ出陣して萩瀬にて毛利の援軍の陶晴賢率いる大内軍と激突したが勝敗つかず、
10月には江田氏の居城・旗返山城は落城し山内氏も大内方へと下った。尼子側国人宮氏も滅亡し備後は大内氏側へ。
1554年新宮党を謀Rる。この年の前後には相変わらず浦上氏と敵対し尼子の戦力は備前へ。
1555年に厳島合戦により石見の大内勢力が大減退によりやっと尼子が石見に再進出。
1556年に毛利軍を忍原にて撃破(忍原崩れ)9月には石見銀山を奪取する→尼子晴久急死
→尼子義久20歳が銀山ごと毛利に譲渡し和睦を願う→元就が約束を裏切って銀山収入を使って出雲国衆を裏切らせる。
- 51 :
- >毛利は安芸の大内陶派を討って安芸をほぼ統一したのが厳島の数ヶ月前
1年ほど前までは安芸の中枢部沿岸部はほぼ大内の支配下にあった
→元就が尼子から大内氏に寝返ったときに、大内氏から広島湾に近い飛び地の所領数カ所をもらっている
>対する陶は、当主義隆を討った後に家中をまとめあげ、更に大友家から当主養子を
迎え実質的に九州からの脅威を排除するという政治的センスもある男
→陶は北九州を混乱させ恐怖政治の殺戮だけでなく無能の石見守護代の問田隆盛を信任して
石見の吉見正頼の謀反が鎮圧できず津和野三本松城の戦いなどで陶自らが周防から遠征し大苦戦し実質敗北の失策続き。
>毛利の影響下にあるのは山間部ばかりって言えるし
→山間部でも相当な収益を上げていました。毛利氏の足元の安芸吉田で駒足銭という通行税を徴収する権益を井上氏は持っていた。
吉田は出雲街道の要衝にあり石見銀山や石見、安芸の国境地
帯に広がる当時我が国最大の一大製鉄「工業」地帯に往来する商人達の通行が
多く駒足銭の徴収権は重要な経済的な権益だったが井上を滅亡させ元就は横領した。
また正妻の実家である吉川氏を奪い貴重だった鉄の生産地も手に入れ(謙信も毛利から鉄を買っていた)
元就は高橋氏に出した人質の娘を見殺しにして高橋氏を滅ぼし木材売買も手に入れた。
>大内全体の軍事指配を行っていた西国無双と呼ばれた陶
→陶は実力でのし上がってきた男ではありません。少年時から美男で義隆に寵愛されただけ+父の威光の七光りの無能。
直情型で独断専行な性格で文官の相良武任との政争に負けた挙句に追い詰められ破れかぶれの無計画な謀反です。
陶は主家殺しで疑心暗鬼になり片っ端から有力大内家臣団を虐殺し自らまわり中に敵を作りまくり自爆した。
末期症状で自分の領国の周防さえ満足に統治できなくなってたろう。
陶の主力となった元就をよく知る勇将江良房栄の殺害を安芸守護代弘中隆兼に
身の潔白を示すために殺せと命じ軍のさらなる不和を演出w
さらに慎重論を進言し再三諫めたら弘中隆兼を臆病者呼ばわり。
渡海後に弘中隆兼が武王の例を引用し宮尾城の準備ができてないので運気や占いを信じずに今すぐ落城させろと
陶に進言するも大凶日は休戦日として軍備を解き無駄に日数を費やすアホぶり。
- 52 :
- それコピペだぞ
- 53 :
- 朝鮮出兵で鬼島津と呼ばれ恐れられたって話に根拠はありませんw
大陸で鬼と言えば幽霊…討ち死にしてバケて出た島津(笑)って意味になります。
鬼=強いって使い方するのは日本人だけで明らかに島津の自称w
- 54 :
- 中国側の資料で大敗したとあんだろ。この板はドリーマー多いな。
- 55 :
- 保守
- 56 :
- 信長公記に関しては天正3年以降の日付はかなり正確になってきたが
それ以前の日付などは間違いも多いし
信長公記の内容も天理本とか池田献上本などいろんな種類によって内容が違かったりするからアテにならんし2ちゃんに書き込みしてるやつで
たまに信長公記を引用してるやつはどれの翻訳から引用してるかも分かってないデタラメ。
そもそも巷で織田マンセー研究者が一次資料と喚いているがちゃんとした史実家はあれを一次資料とは呼ばない。
- 57 :
- 厳島に囮として宮尾城を築城し桂元澄が陶に偽りの内通をさせて郡山城に行かせずに宮尾城に誘き出した。
まったくの大ウソ
宮尾城は以前から厳島に存在してたし桂元澄内通の偽起請文なんて存在してないデタラメだし、
1540年に陶が郡山城を救援しに行った時も岩国から厳島に渡海してる交通路。
しかも厳島合戦に従軍した名前に内藤や杉の名前はなく戦死者の名前も陶氏の家臣や周防南部の武士ばかり。
どう考えてみても周防からの動員数しかいない。
毛利の記録はウソばかり。
- 58 :
- 厳島合戦で毛利が勝ったのは
能島村上水軍が陶
因島村上水軍が毛利
そして来島村上水軍がどっちに付くかで毛利は来島水軍が味方についてくれなきゃ終わりだと言ってた。
瀬戸内海の水運権益を手放して大幅常歩した結果、来島水軍が味方になり毛利が勝っただけ。
毛利は何もしてない。
- 59 :
- 最近の甲陽軍鑑は飛躍的に再評価されてきている。
読む場合に注意すべき点は
軍鑑と史実の年記の食い違いがあるので対照年表を見ながら読むべし
ごくまれに偽文書が挿入され操作をしている
特に史実と食い違うのが山本勘助がらみの誤記創作が多いと言う事で勘助自体が存在しないと言われる所以である
原因は高坂弾正の口述を猿楽者大蔵彦十郎と春日惣次郎が筆記した作品を小幡景憲がのちに自家のために加筆し歪曲捏造改悪をしていると言われている。
市河文書「武田晴信書状」に山本菅助の名前があり存在が確認され晴信側近である事がわかり軍鑑では足軽衆である事がわかる。
この文書では勘助と共に原与左衛門尉が足軽大将衆であったのがわかる。
この原の舅が小畠景憲の祖父である虎盛であり東信や北信で活躍しており勘助との関わりが見える。
また小畠景憲は出版する金がなかったから出版出来なかったと言うのが通説だが出版出来なかった理由が自家に都合がよく改悪捏造したからとも考えられる。
三条藩主稲垣重種が筆写のために借りた軍鑑を宇佐美勝興に書写された時に無断で密にもう一つ筆写して京都で出版したと言う。
- 60 :
- >>43
毛利の資料ってほんとデタラメだよな。
武田もそうだけど尼子も経久死去した後に晴久が暗愚だったから新宮党を虐殺し衰退したみたいに書かれてるけど
実際は晴久時代の尼子が最盛期なんだよな。
晴久の急死後に20歳の義久が石見銀山ごと石見国を毛利に譲渡する和睦を結んだのが致命傷になっただけで。
大嘘つきの元就が見事に約束を反故にして出雲の国人を次々に切り崩して月山富田城まで侵攻された。
- 61 :
- 角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は40以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
他にもいろいろ載ってますので興味ある方は歴史読本8月号のバックナンバーを買おう!
- 62 :
- 伊達厨・織田厨・毛利厨は
まとめて精神科に行かなければならない重症患者だとよくわかりました。
- 63 :
- >>32
島津の上井覚兼の日記は
完全な一次資料だから占いで戦略を決めていた話は否定できないよね。
- 64 :
- なんか難民って感じだな
各スレで相手にされなくなった人達がって感じで
- 65 :
- しかし書いてる内容は素晴らしい知識力
- 66 :
- デタラメだの捏造だのと判断している基準が好き嫌いで決まる小学生低学年レベル。
研究者を気取って周りを不快にさせるくらいならファンタジー歴史小説でも書いてた方がいい感じ。
- 67 :
- しかし間違ってはいない。
最近の学説を書いているし。
書かれてるものもファンタジーではないし。
- 68 :
- 答
上杉・武田最強
- 69 :
- このスレだけなぜか講談ではなく学術的な事実が書かれてるな
- 70 :
- 猿楽の大蔵彦十郎ねえ・・・
大久保長安は迷惑してるよねたぶん
- 71 :
- 後北条と上杉の川越野戦はひどすぎないかな?
落ちぶれた上杉にあの人数は普通無理だろう
- 72 :
- 川越夜戦は捏造なのは有名
- 73 :
- 長州藩にも小早川隆景と大内義隆が衆道関係を自慢する記述がありますが毛利厨ってなんで衆道を否定したがるんだろ。。
- 74 :
- 別に否定はしてないだろ。
- 75 :
- 442:人間七七四年 07/05(土) 00:00 GDTejgsP
最近の資料では耳川の戦いは大友軍(日向方面軍)4万3千人に対し、
島津軍は4万9千人プラス高城兵3千人と大友軍に勝る大軍を動員して
いる。
- 76 :
- 三好厨あげ
- 77 :
- 813:人間七七四年 2008/07/12(土) 02:49:28 ID:Y0UvPWxx
僕は本当のところ何も知りません。でも元就が好きで負けの事実があったことすら我慢ならないんです
でも、それすら知らなかったなんて元就好きの僕は口が裂けても言えませんし
何より他の人から見て
「あっ。いつもの三好厨がまた無知曝け出して教えてもらってるよw」
と思われるのが、とても悔しいので素直にお願いします。と言えないのです
どうか、こんなバカな僕の気持ちを汲んで、元就の大敗した戦を教えて下さい
・・まで読んだ
- 78 :
- >>1
一々宣伝するなR!!
- 79 :
- このスレは三戦に占拠されました、なりきりレスと糞レス以外は書き込めません、、、、、
- 80 :
- >>66
俺はかつて、某歴史研究会の幹部で誹謗中傷にかなり力を入れてる人と交友があったけど摘発(法的手段以外の制裁も含めて)の話を聞いたら身の毛が逆立ったな
冗談抜きにマジで人生終わる、法的に大した傷は追わなくてもまず間違いなく業界流の制裁を加えられる
またはそれ相応の代償を支払わなければいけない
本当、割に合わないと思ったね
おまいら、書き込むからにはそれ相応の覚悟をしてやれよ、昔から歴史研究会と金貸しは裏でどんな連中が仕切っているかわかってるだろ?
幹部たちはプロだから警察とのパイプも持ってる、様々な状況に対応できるように仕込まれてる、だからこそ幹部になれたとも思えるがね
妬みひがみやで書き込んだために、ズドンされた時に泣いただけじゃすまない事を憶えておいた方がいい
ちなみに俺は同業者とかじゃないからな
なんか脅しみたいになってすまん、つまり言いたい事はおまいらが思ってる以上にハイリスクだってこと
- 81 :
- >>80
バカw
君はソビエトや北朝鮮や中国で歴史を学んだのかな?
言論狩りと勝者の一方的な捏造歴史のおしつけをいまだに定説と思ってる古老ですかw
蒙昧な方ですな
- 82 :
- >>81
これコピペだよw
歴史研究会のところを、ほかの組織に変えるといろいろ流用できる。
まあ、このスレの流れ自体どこか気持ち悪いのは事実だが
- 83 :
- 改易されて記録がまともに編纂されてないので
薩長肥によって不当に貶められている大友宗麟。
江戸明治歪曲捏造史観に騙されるな!
- 84 :
- 信長公記の斉藤道三の記述はウソ
六角氏の記述した道三2人説の方が史学では支持されている。
- 85 :
- 信長公記と六角氏の記録だと
六角氏の家督などもまったく違うんだよな〜。
信長公記を真実とすると、斎藤や六角の記録の大半を闇に葬るしかなくなるくらい激しく食い違う。
- 86 :
- なんかキチガイが立てたらしいが
とりあえずカンネーの戦いは少数の軍が包囲殲滅戦を行い
大勝したんだよと教えてあげよう。
あと佐竹の石高まちがってるし。
- 87 :
- 西洋の戦史は本朝の国土自然伝統文化や動員力とは違い過ぎて比較する意味はまったくない。
日本は山々や河川ばかりで万を超える大軍同士が展開できる地は少なく包囲戦自体が起きない。
佐竹の石高は佐竹スレでの論争の結果である。
ちなみにカンネーではなくカンナエの地で起きたからカンナエの戦いであり、優勢な騎兵による包囲が動揺を引き起こしパニックが生じ自滅したもので本朝に類似する点はない。
- 88 :
- カンネとも表記するね。
日本語表記は正解はないのに粘着するのは馬鹿っぽいのでやめな。
山がちならよけい大軍が負ける可能性たかくなるやん。
山ならさらに戦術が生かせる
カンネは平原なら大軍が大抵勝利するのに作戦で勝てるという話
。
ちなみにパニックを起こしたから負けたのではない。
主戦力のローマ歩兵が無力化したから。
中央突破が失敗した時点で敗北はほぼ決定。
騎兵の包囲は全滅を狙うためと陣の弱点を攻撃するため。
平原でさえ軍の数を戦術でまかなえるのにやまがちな場所ならなおさらである。
日本と違うといっても関ヶ原の半分くらいの動員力。人間のやる事に凄い違いはない。
大体君のパニック説が正しいのなら大軍がパニックを起こして負けた富士川の戦いは捏造でなく
戦術で戦力比は関係なく戦争の勝ち負けが決まる事がある。
つまり戦術により大軍が負けることはままあるとなる。
- 89 :
- 沖田畷の戦いは島津の捏造。
実際は有馬晴信が宣教師やキリシタンが多大な援助の元で戦っている
最新大量の鉄砲が提供されており、龍造寺撃破はこれらの威力によるところが大きい。
朝鮮出兵でも有馬の軍は南蛮式の武器も船も最新鋭で他の大名達がビックリしてる
当時の有馬氏は南蛮貿易ですごい金持ちだった
島原の乱を起こすだけの余力がこの地の民衆にはあったのだ
- 90 :
- >>89は>>87かい?
いい加減馬鹿な事いうのやめな。
- 91 :
- 大友の大戦略シナリオの通りに操られた島津は
大友の想定通りに都合よく蠢き続き、迷走自滅した。
http://c.2ch.net/test/-/history/1182505705/232
http://c.2ch.net/test/-/history/1182505705/233
- 92 :
- 島津は実際、むちゃくちゃ弱い。
一見すると派手に見えるから厨房の目は誤魔化せるが、政戦略が欠如してるから労多くして利少なしなんだよな。
毛利に続いて島津も大友蟻地獄に完全にハマってたな。
- 93 :
- 高みの見物をする大友は外交力を用いて、
夷には夷を以て制するが基本姿勢だからな。
- 94 :
- 大友<宇喜多<島津<毛利
- 95 :
- 日本鬼子と言ったら中国人が日本人に悪口を言う時の蔑称
島津鬼子と言ったら中国人が勇猛な島津兵を恐れと畏敬の念から発した言葉
- 96 :
- 237 :人間七七四年:2009/04/13(月) 09:32:14 ID:y5abqY9Q
鬼の高利貸し北条が善政なんてw
しかも破綻民衆が流民化する危機に
徳政令を発布せざる負えなかった。
最初に直轄地以外で徳政令出させたが、
高利貸し達から非難ばかりが来たから、次の北条直轄地では高利貸し元締め北条の徳政令の内容が大幅後退した内容になったしwww
314 :人間七七四年:2009/08/10(月) 12:53:03 ID:Ve0WGNdk
北条は度重なる徳政を行わなければならないほど民を困窮に追い詰めていた。
中世の徳政とは、善者の積極的施しではなく、
徳政しなかったら暴動起こすぞ!施ししないならお前ら殺してでも強奪する権利がこちらにはある!
と言う強迫力を民衆はもっていて力ずくで実力行使に出ると言うことを内包していた。
54 :人間七七四年:2009/05/06(水) 20:45:05 ID:BFlw7MB3
トイチを超えた高利貸し失政が元で永禄2年末〜3年の間に氏康が引退せざるおえなくなるほど民衆が不満ピークになったんだよね。
http://c.2ch.net/test/-/sengoku/1186064619/61
67 :人間七七四年:2009/08/08(土) 10:13:10 ID:S64ivuT4
>>61を見ると天正期にも北条領は徳政を出すほど民衆は安定してなかったのか…
永禄初期には氏康は民衆の困窮の責任を取り隠居したって言うし
越後甲斐は天候不順だった記録はあるけど、関東平野にそんな記録はないので、氏康が民衆の困窮を無視して上野侵攻したりと戦ばかりやりすぎの人災なんだろうね。
氏康って上杉や武田が侵攻してくると民衆を見捨てて小田原に籠もるのはどうかと思う。
北条って春に民衆が金を借りて、秋の収穫時期(三島大社の酉祭)が返済時期なのに、民衆はさっそく返済できなくて質流しされてるよね。
武士階級が刀や鎧を質に出して流されたり。
少なくとも越後や甲斐は敵の侵攻はないわけだから、北条領より生活は良かったんじゃないかな。
それに越後は田で米を作る人々より、塩作りに多くの人々が働いていたけど、これはある程度、天候不順でも何とかなる商売だし。
また服の材料になる植物は不作であれば、京ではそれに応じてより高く買ってくれるほどの需要があった。
そういう交渉も謙信がやってくれた。
北条は善政って言うけど越後領民からしたら生活が安定した?北条領へ逃げるなんてバカなことはしないと思うし。
68 :人間七七四年:2009/08/08(土) 16:45:05 ID:S64ivuT4
北条の証書を作っての高利貸し体質は裏切り謀反防止や、
敵勢力の内応に有力な手段となった。
- 97 :
-
73 :人間七七四年:2009/08/10(月) 07:20:20 ID:Ve0WGNdk
>>72
良民を放棄し自らの命を惜しんで逃げ回って隠れるヘタレ北条の致命的な無能さは大罪に価するな!
145 :人間七七四年:2009/05/29(金) 23:02:33 ID:IRsz9UBN
>>135
不当な高利貸しだったので、民衆からまったく支持を得られず
信玄や謙信と野戦決戦するだけの士気が無く、さらに兵力を集める事もできなかった。
北条の支配拡大は金の貸し借りが力の源泉で言わば地上げ屋であり、借金をカタにした領地の巻き上げ。
148 :人間七七四年:2009/05/31(日) 10:33:14 ID:u9lqE3Gn
>>146
遺臣が再仕官のために書いた軍記以外に
伊勢北条を誉める記録が皆無なんだよね。
後北条の呼び方もおこがましい。
158 :人間七七四年:2009/06/13(土) 12:43:48 ID:e2XeZNiT
まぁ北条なんて単なるこそ泥レベルだよな
関東管領山内上杉を弱体化させたのは長尾景春だし
扇谷上杉を降伏に追い込んだのは長尾能景だし
山内上杉を崩壊に追い込んだのは長尾為景だし、氏綱はその為景に媚びて贈り物を贈って拒否られたりしたもんな。
主戦場は上野や武蔵で相模なんて重視されてなかったし。
長尾一族ではもっともレベルが低い謙信ごときに苦戦するようじゃ北条はたかが知れてる。
47 :人間七七四年:2009/04/28(火) 20:51:35 ID:cE4RvpxQ
後北条の悪政のために、相模や武蔵に後北条を祭るような催しは基地害小田原市以外にない。
むしろ相模や武蔵は執権北条氏の業績や上杉家の重臣の太田道灌の業績こそ評価している。
下記は後北条の悪魔支配
http://c.2ch.net/test/-/sengoku/1234172504/330
55 :sage:2009/04/29(水) 07:21:35 ID:1j2FDi52
>>47
民衆に鬼高利貸で搾取しておいて
武田や上杉の小田原侵攻では
民衆を見捨てるとかどんだけ…
- 98 :
-
101 :人間七七四年:2009/05/10(日) 04:06:28 ID:0GO+oSGL
>>55
天正12年簗田領の民が北条高利貸し金融に破綻に追い込まれた。
高城胤則
「おいコラ北条!簗田んトコの民に米を貸してやったんだが、奴ら徳政が出たから返さなくていいとか言ったぞ!ふざけた真似すんなや」
高城文書10/16北条「簗田領だけ徳政を出すわけないじゃないスカっ!むしりとってください」
民衆「何が徳政だよ騙された…」
天正13年いつものように再び北条の高利貸し政治で民衆生活が破綻。
ここ武蔵国は小机城の河輪郷では領主の北条氏規に困窮を訴え徳政をもらった。
高利貸し業界が実質的支配する北条氏に対して河輪郷に金を貸していた鈴木氏が怒り狂って文句を氏規に言ってきた。
「おいコラ氏規!河輪のバカどもがお前が金返さなくていいとか言ったって言ってんぞ。お前が代わりに払うんか?」
鈴木文書12/13氏規「あ、すいません鈴木殿。民衆のウソです。まさか私がそんなこと言うわけないじゃないっすか」
民衆「また北条に騙された(涙)」
まさに悪徳北条金融の恐ろしい手口で民衆は泥沼。
102 :人間七七四年:2009/05/10(日) 04:41:41 ID:0GO+oSGL
高利貸し「山内扇谷上杉はワシらの貸付金をちゃんと保護しねーから使えねぇ」
北条「民衆にはキツくあたらないとだよね」
高利貸し「おっ!わかってんじゃねーか。よし北条を支援して上杉を追い出そう」
こうして関東は民衆が悲惨な目に合う暗黒時代を迎えたのです。
関東でいまも尊敬されている人
上杉憲実 長尾景仲・景信親子 太田道灌
小田原市だけが観光収入の為に北条をマンセーしてるだけ。
103 :人間七七四年:2009/05/11(月) 10:56:14 ID:IDVgEDcl
北条は領民や国人を搾取する高利貸しの既得権益を擁護しまくってるじゃん。
徳政なんて領民への単なるポーズで実際は骨抜きにされてるし。
だいたい北条直轄地で徳政やる前に、直轄以外で実験で施行して非難轟々になり、
びびった北条はのちの直轄地でさらに高利貸し有利に法を曲げて施行してんじゃん。
121 :人間七七四年:2009/05/14(木) 09:29:08 ID:OXIIwaQg
ほんと北条はクズだな。口先では「善政やってるよ。でも国人とかがクズだから俺の政治が行き届かないだけなんだよ!だから俺に協力すべき。異論は認めない。」
民衆「うそつけ詐欺トイチ野郎!」
123 :人間七七四年:2009/05/14(木) 10:12:10 ID:OXIIwaQg
覇業の地関東で唯一失敗した者は後北条のみ
なぜなら外資系ハゲタカ金融の悪行で関東を搾取したから。
- 99 :
- 140 :人間七七四年:2009/05/15(金) 06:43:33 ID:NUZZRq7H
>>129
江戸期も百万石なんていくわけないし、収入をはるかに超える借財を抱えてた破綻財政が仙台藩の実態だった。
そもそも政宗生前から江戸の空堀作りや高田城築城の使役や普請をたくさん命令される集中イジメを受けていたから、
政宗死去すぐに幕府から借金してるし。今度は空堀を水堀にしろ橋をかけろと嫌がらせを受ける始末。伊達騒動まで引き起こさせられたしなw
いまの中央線の脇に大規模な川があるが、あれは恐ろしく多額の借金をして伊達が作らされたもんだ。
>>133
http://c.2ch.net/test/-/sengoku/1234172504/349
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