2013年17戦国時代205: 武田信玄上洛成功part2 (925) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
■ 明応の政変 ■ (919)
【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る6 (560)
週刊安土城 (256)
【直家】備前宇喜多氏を語るスレ 2【秀家】 (651)
豊臣と徳川、なぜ差がついたか。慢心、環境の違い (403)
末路があまりにも悲惨だった人物 (797)

武田信玄上洛成功part2


1 :2012/02/06 〜 最終レス :2013/09/16
武田信玄は病気が奇跡的に治癒した後、尾張、美濃に侵攻し織田軍を打ち破りそのまま上洛した。
信長の身は敢えておわなかったという。
※その後どうなるのか考察するスレです。史実の話は他所でやってください。

2 :
消去法でいった方が早いだろうと思う。
とりあえず信玄ができないのは
・本願寺は絶対に相手にできない。やれば信濃が終わる。
・足利義昭も相手にできない。
 武田より国力のある織田が包囲網に敗れたという前提なのに、それ以下の武田が相手にできるわけがない。

3 :
ところがどっこい!
武田の魔法の軍略なら総て武田に都合良く動いて対する相手は総て都合悪くなるから出来るんだなこれが!

4 :
上洛成功てことは岐阜城も落としてんのか
甲斐・信濃・駿河・遠江の大半・三河・尾張・美濃が武田支配下
家康は討ち取るか暗殺か和睦か
それなら上洛はできるだろうけど
信長は伊勢あたりで抵抗続けてんのかね

5 :
義昭のやりたいようにやりはじめて信玄は幕臣として忠実に…はないか
書状で言ってる事が全部本音だったら足利の天下が再来するんだが如何せん信玄だし
信玄は関白や太政大臣には興味ないだろうしどう天下を取るもんかね

6 :
信玄の天下とはいかないだろうが
信長の天下もない戦国時代が長引く事は確かだろうね
北は伊達 中央は武田 織田 南は島津、毛利と日本にいくつかの大勢力
が誕生し各々独自の国家を形成なんて事になってたと思う。

7 :
>>5
その書状って信玄の死後に送られたものらしいという話。
鴨川氏の著作を当たってないけど、その辺はどうなの?
そうだとするとこの時期の反信長勢力の中心人物が義昭とはちょっと思えないフシがある。
義昭挙兵以前から信長と戦ってきた朝倉・浅井や本願寺を差し置いて、信玄がどれだけ権力を持てるかだね。

8 :
ああ、なんか変なこと言ってる。
本願寺は大名じゃないからちょっと違うかもね。ゲーム脳全開だったわ。

9 :
で、どうすんの?
斉藤は美濃返せ、六角は南近江返せって言ってくるのは確実なんだけど。
浅井・朝倉への恩賞は?
浅井と六角との調停は?
やる事は山積みだぞ

10 :
六角はシカトしていいんじゃない?
それより官位だ官位
官位がなきゃ名分も手に入らん

11 :
第二の信長になって包囲網しかれるのがせいぜいだと思うけどな。
まさかせっかく取った土地を返せって言われて素直に返すとは思えんし。
信玄には寿命が何より足りていないから包囲網潰す前にくたばりそう。

12 :
武田は正当な源氏だし、
領地安堵してやれば、
六角とかも喜んで騎下に入るだろう。
そして比叡山を再興し、
信長のように他者を侮るような事もなく、
義昭から自然と人心も信玄へと帰結する。

13 :
妄想すぐるwwww

14 :
小物だと家康的に困るから持ち上げられただけの過大評価野郎

15 :
信長的にも謙信的にも氏真的にも氏康氏政的にも困ろうな。

16 :
>>12
信玄がわざわざ領地返せって言われて返すかな…?
近江や美濃なんか重要な地点なのに返すか?

17 :
>>16
つうか信玄が美濃尾張で信長を破ったとしたら、近江は北からは浅いが南からは六角が自力で抑えるんじゃないか?

18 :
自力奪回した領地を安堵してやればいいだけだろ。
もっと領地が欲しいなら、
全国平定に向けて切り取り自由にすりゃあいい。

19 :
>>18
信玄にそんな権力が握れるかねえ?
以前から信長と戦ってきた朝倉、浅井、三好その他が黙ってるとも思えない。
後乗りの形で参加してきた義昭を尊重するか怪しいもんだ。

20 :
>>7
404:人間七七四年 02/07(火) 10:45 R2Ct6aXj
>>年が明けてようやく信長に反旗を翻した義昭
はいはい無知乙www
元亀2年5/17信玄→松永家臣岡周防宛て書状
「公方様被対信長御遺恨重畳候故、為御討伐」を
2007年に鴨川が信玄の死去後に
信玄が生きているように装って出された書状だと捏造しただけ。
2009年に柴辻が「はぁ?信玄死去後に信玄が出したように装っている
書状は印文「晴信」方朱印を花押の代わりに用いてるものしか無い。
信玄死去後に「花押」で出されたものは皆無なのに、何言ってんだ?」
これで反論もなく議論終了済みだアホw
405:人間七七四年 02/07(火) 10:56 R2Ct6aXj
>>404の内容を根拠として関係書状を全部、
信玄死去後に鴨川がズラす強引な手法で
元亀3年5/13義昭御内書→法性院(信玄)宛て
「天下静謐之馳走」に及ぶべきであると書く書状まで
ムリヤリ元亀4年に移動させただけ。
最初は衝撃的な内容で話題に上がっていたが
2009年にはすでに飽きられた内容。

21 :
信玄が信長を討った後の政治についてははっきりと述べてるだろ。
元亀4年1/11信玄→義昭側近上野秀政宛て
家康押妨神社仏閣諸仏物(三河一向宗弾圧のこと)
害民事利欲心、恣振逆威条、前代未聞之次第也
然而信玄起一挙之義兵、靡大軍令発向処
と信玄は民を救うことを誓って大義の軍を出してるじゃん。
さらに所詮誅伐信長・家康以下逆党、静謐天下旨趣になると宣言し
抑信長企逆乱、山上山下消亡(延暦寺)、諸仏物落取、已厳私用、
極栄花諸人閉口、頻申眉仕立、偏仏法王法破滅、天魔破旬変化也、
合昇殿登高官、奉軽尊体之咎、無所遁其罪、
一、不弁己叵(己の立場を弁えることができない)、夫向月卿雲客、
猥令放言、侮権門、無礼之咎、不浅其罪
ニ、洛中洛外徘徊、相懸徳分之課役、押領砂金財宝咎
三、累年之錯乱以来、或成敵或成味方族有之、然而一度令赦免、
彼高槻今中城(高槻市今城町?)高宮以下士、忽行死罪、併同籠鳥何以為実、
何以為頼哉、誰不悪之其罪、
四、去永禄十三年、至東坂本、義景与信長互連魚麟・鶴翼之陣、決雌雄之刻、
掛忝蒙 勅命、同被成
御下知之上、捧数通之起請文令和睦、自他下国訖、然而翌年元亀二年九月、
令上洛、坊舎仏閣成廃燼、非背 勅載(裁?)耳、御下知云、天罰也、旁以悪逆無道之其罪
五、此五逆者、千古未聞、況於末代哉、若彼逆徒等、被宥置者、讒巨乱国、
窮鼠却而噛猫、還而滅怨敵、欲傾国有企、此条隠(雖?)未入上聞、諸国普所知也、
行及猶予、可起可成大乱元歟、早信長・家康以下之凶徒等、可致誅戮之旨
などと信長の罪を5つ挙げて糾弾し、
百民開愁眉処安寧、苟信玄以不背(肖?)之身、尽正儀、運策於帷幄之内、
静四海逆浪、台嶺之伽藍・七社霊鑑遂建立、并顕蜜(密?)兼学成霊地、
現世安民之政、燿日月余光、可致天下静謐之功、宜被達上聞、誠惶誠恐謹言
と信長を討った後の政策を掲げている。
天皇がこの文章を読んで感激のあまり筆記して保存していたため
写しが真言宗醍醐寺理性院文書として残っていた。
信長のように、自分に従わない者はすべて敵として禽獣のように
アチコチで戦争と貧困を輸出するキチガイと違って、信玄は和を以って貴しと成すを掲げ
政治的解決で民を救い天下を安定させると述べている。

22 :
>>4
> 上洛成功てことは岐阜城も落としてんのか

岐阜城を落とさずに上洛するってのは不可能だろうか?

23 :
>>21
村上さんには領地返すの?小笠原は?
父親追放してほったらかしてる信玄がそんな事言っても綺麗事乙で終わりそう
浅井朝倉斎藤六角あたりはどうすんの

24 :
村上や小笠原にまで、
なんで返却しなきゃならんのだアホ乙
帰順して槍働きして恩賞を貰うとこからスタートしろよ。

25 :
信玄には無理だ 秀吉のようなまとめる力はない

26 :
>>21
この年の12/12付けで来年には公家にでもなろうがその後に信長は高転びを断言した
安国寺もこれ読んだんだろうなあ。

27 :
>>21
結局具体的な政策も方針も言ってないじゃん。
分かるのは仏教は保護するつもりだろうな、という事くらい。
>>24
元の領主だからだよ。
「和を以って貴しと成す」んだろ?
だったら不法に奪い取った土地は返さなくちゃ。
それをしないというなら信玄は「自分に従わない者はすべて敵として禽獣のようにアチコチで戦争と貧困を輸出するキチガイ」
ということになるな。

28 :
まあ返すわけないし
本願寺みたいなでかい奴等には丁寧にやるだろうが
村上小笠原どころか六角も斎藤も門前払いにして追い返すだろ

29 :
んで、両者を調停しようとする義昭。
ここでどうするかだな。

30 :
そもそも>>21の文は
「信長はあれもダメこれもダメあんなのもダメのダメダメ尽くし
 だから俺様が信長倒して民に安寧と静謐をもたらしてやるんだい」っていう意気込みじゃんw
民主党のマニフェスト以下のクオリティで他人の批判しかしていない

31 :
まあ信玄が返そうという気になったとしても家臣達が許さないだろうしね
何のために俺たちは頑張ったんだと不満爆発だわ
恩賞が何もなかったら家臣達が離反して武田は崩壊するだろう

32 :
秀吉政権みたいな感じになるだろうな。

33 :
謙信あたりが領地返せ!って義昭に言ったら義昭も何とかしようとするだろうしなぁ
なんてめんどくせえ将軍だ
寺に戻ってもらって三好みたいに傀儡でもたてるんじゃねえか

34 :
>>32
まず政権を作れるかどうかの問題がある。
秀吉の場合本能寺でなぁなぁになってくれたからこそあの形態の政権になったわけで、
この時点ではまだ中央にいくつも勢力があるのに連合政権なんてやったら
「信玄ごときに我が物顔されてたまるか」って勢力が絶対出てくるよ

35 :
浅井なんて書状で信玄様とか書いてるし。

36 :
信玄が信長を殺してその勢力を組み込んで「武田幕府」を作った場合
上杉謙信「ププw信玄じゃしょうがないな」
今川氏真「これも世の流れというものか・・」
北条氏康「・・・・様子見」
毛利隆元「徹底的に抗戦するぞ!」
長宗我部元親「降伏かな」
島津義弘「誰?」

37 :
浅井は義兄すら平気で裏切るような奴だから信用ならんな
朝倉に上洛促して浅井諸とも滅ぼすのが正解 信玄が上洛したら畿内にいた奴等は邪魔物でしかない
本願寺と結託してりゃ朝倉潰した後越後まで平定できるだろうしその時はみんな従属してくるだろう

38 :
最初期の信長包囲網で一気に美濃を攻めとって足利義昭を幽閉して、
天下に号令をかけた場合ですね
小心者の信玄にできるとは思えません

39 :
浅井朝倉は信用できる連中ではないが協力者には違いない
天下への示しとしてとりあえず本領安堵+美濃あたりに飛地を加増10年ほどしたら改易
あくまで足利の臣として振る舞い勝頼を名目的に義昭の養子にして将軍位を禅譲される
信長は逆賊・奸臣として所領没収一族は奴隷として売り飛ばし信長は市中で晒したうえで高野山に追放
帝から衆庶に至るまで信玄を称える

40 :
>>39
随分おめでたい妄想ですね

41 :
普通なら信濃なんてほっといて、義元亡き後の今川を攻め滅ぼして、
その勢いで小田原城を落として東日本の太平洋側を統一して駿河を本拠地にして、
京都に攻めいるか、または、関ヶ原の戦いになるだろ
どうせ、謙信に信濃を治める力は無いし ほっとけば自爆するタイプだった

42 :
>>20
ああ、そうなの?
それは知らんかったわ。
だとするともっと変だわw
早くから盟主的存在だったはずの義昭の挙兵を傍観した朝倉・浅井。
信玄が挙兵しなくても対信長戦を優位に推し進めていたのに、信玄死去後半年も待たずに滅亡した朝倉・浅井。
不思議だなあ。
それらをすっ飛ばしたとしても、そうした朝倉・浅井を差し置いて対信長陣営の中心に居座れるのかねえ?
なんかいろんな事知っているようだけど、「木を見て森を見ず」というか「郡盲、象を撫でる」を地で行ってるな。

43 :
>>41
それをしなかったから信玄は無能なんだよ

44 :
>>39
信玄の権力で改易なんかできるわけないじゃんw
義昭がそんな都合よくいいなりになる人間じゃないのは信長への対処で分かってること。

45 :
>>41
それしたかったけど息子がゴネたんだろ。
最終的にはゴネ息子を殺したけど。

46 :
寿桂尼の術中にはまった哀れな信玄

47 :
信玄といえば中井貴一なわけだが・・・

48 :
>>41>>43
家督をすでに譲渡していた義元が
永禄3年5月19日に桶狭間で討死した一次史料は存在してないし
その後の今川は相変わらず精強のまま。
今川の衰退は永禄6年12月から始まるとされているのも知らん無知ぶりを
晒すあたり、織田厨ってほんと何も知らんな。
遠州錯乱とか遠州忩劇と呼ばれる
遠江での相次ぐ大規模反氏真
国人達の自立行動により
三河とも連絡が取れなくなったから。
その隙に家康が永禄7年6月に吉田城を徳川方にしてしまった。
義元は重臣達との合議体制を敷いていたが
氏真は三浦正俊や小野道好ら側近を重用し独裁した為に、
遠江曳馬城主飯尾連竜が、
犬居城主天野景泰・元景父子、二俣城主松井宗恒ら
政権から外された遠江の国人重臣達を誘い今川から離反した。
しかし駿河衆は今川に忠誠を誓っているのが確認されている。
それなのにわざわざ信玄が今川を攻めて背後に敵を作るバカな真似はしないだろう。
そもそも信玄が今川を攻めたのもやむを得ないこと。
だいたい直前まで上杉と戦ってんのに、今川攻めをするリスクを犯してまで
信玄は駿河攻めをしなければならないほど挟撃の危機を感知していた。
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、
このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようと
この一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が情勢報告してるから、
信玄が今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた。
永禄11年11/3にはすでに今川は駿河と甲斐の国境封鎖を開始し
11/25に氏真が謙信に信濃攻めを依頼するなど、明らかに今川が敵対を露にしてる。

49 :
今川の崩壊は女大名の死亡が原因だろ
孫の氏真は馬鹿ではないにしても戦国大名や支配者自体向いていなかったみたいだし
諏訪姫がどうの謙信がどうのと無意味な侵攻をしていた信玄は寿桂尼の手のひらの上だったと


50 :
>>48
じゃあ永禄6年に攻め込めばよかったよなw
なんで5年も無駄に費やしているの?w
やっぱ信玄無能だなw

51 :
だから駿河衆が離反も内応もせずに
今川に忠誠誓ってるのに
なんでそんな強固な駿河を攻めて苦戦しないといけないんだよバカか。

52 :
たった15万石の駿河が強固www
なるほど信玄にとっては強固だわなwwwww

53 :
>>51
信長が美濃攻め開始した時も美濃衆は離反の気を毛ほどもあらわさなかったが(離反したのは美濃攻め後半)
信玄にはせいぜい信濃の弱小山賊勢力を倒すのが精一杯だったというわけですねw

54 :
は?北条と共同で上野で謙信と抗争して
西上野領有安定までもう少しと言うタイミングの永禄6年に
わざわざ今川を攻めて北条とも敵対する気なのかw
それじゃ信玄は滅亡するだけだろw

55 :
最初っからそんなところに手を伸ばすのがもう戦略性ゼロだろw

56 :
信長が小牧山に移ったのとはえらい違いだな

57 :
>>56
西美濃侵攻にたびたび失敗してた信長だったが、
その西美濃衆が竹中を代表に稲葉山城を奪いとって占拠を続けていた政治状況だったし、
清洲や名古屋は平城だが、
小牧山は要害だからね。
時代は山城から平城への流れだったのに、
信長は時代の流れから逆行して山城ばかりに住んだアホ


58 :
>>57
1563年 信長、小牧山城に本拠地を移す
1564年 半兵衛の稲葉山城乗っ取り
基本的な事くらい調べて書けや。指摘してる方が情けなくなってくるぜ。
そんでここに移したから敵もすぐ近くの城を明け渡さざるを得なくなった。
次の稲葉山城も山城だしな。
要するに信長は時代の流れを知った上で、必要とあらばそれと逆を行くという決断もできた人物だという事。
またしても信長をageてしまったなw

59 :
時代に逆行したも何も信長の時代ではそこまで平城は流行っとらん
平城が増えてきたのは秀吉の頃からだ

60 :
あいかわらずボケ役大杉www

61 :
おかしいな信玄が上洛したはずのスレなのになんで甲信から動いてないんだ

62 :
>>58
小牧山移転が永禄6年って公記がソースだろw
それに伴い犬山城が落城したとするストーリーにしてるやつw
公記がデタラメ過ぎて、
おかげで犬山城落城時期まで操作してるから、
この問題が大論争なのも知らんのか?
さらに竹中らが稲葉山占拠してた話も隠蔽してるし(しかも半年に渡り占拠してたのに)

63 :
>>62
お前の脳内ではそうなんだろうよ。

64 :
>>63
相変わらずの無知乙

65 :
>>64
自分に都合のいい事は大論争(と捏造)
都合の悪いことは確定、もしくは存在しない

66 :
犬山城落城永禄8年説に従うと
小牧山移転は永禄7年になるわけだがw

67 :
お前の好きなようにしとけw

68 :
信長公記の捏造まとめ
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽

69 :
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い


70 :
・武田信玄無能伝説

対村上義清
数で勝る村上義清に連戦連敗、板垣信方、甘利虎泰、横田高松といった重臣を数多く死なせる。
上田原では勝ちに奢った板垣が自滅した、と敗戦責任を家臣に転嫁。その後敗戦した後も意地になって数十日も陣を張り続け戦果ゼロ。
砥石崩れはさらに酷く、3分の1程度の村上勢に1000人近い犠牲者を出すという無様すぎる大敗北を喫する。
どうしようもなくなった信玄は真田幸隆に哀願して村上方の矢沢頼綱(幸隆弟)を寝返らせようやく村上を信濃から追い出した。
対上杉謙信
同じ場所で5回も睨みあい戦果ゼロという後世に残る屈指の馬鹿戦を繰り広げたことでも有名。
ここでも武田信繁、諸角虎定といった重臣を失い10数年も続いた上杉攻略も結局頓挫する。
中央情勢どころか東海情勢すらまともに把握できないまま10年間も無駄に時を費やした信玄を擁護するのは難しく、
やむなく最強竜虎の対決とお題目を立てた甲陽軍鑑の作者の苦心たるや察するに余りある。
対今川氏真
桶狭間で今川義元が死んでから既に8年も経ってようやく攻撃を開始。勢力を伸ばしつつあった徳川家康と協力し、
ちゃっかり家康を出し抜こうと考えるも逆に当時20代の徳川家康に出し抜かれ今川北条徳川の三勢力に駿河侵攻を阻まれる。
今川攻めの前に嫡子義信と飯富虎昌を失った犠牲にあまりにも見合わない収穫、結局今川氏真の駿河再復帰はならなかったものの、
北条に敵対されるわ徳川とも不和になるわで周り敵だらけ。無能の上に何も学習しない、息子も用済みとなればポイという非道な信玄であった。
・対織田信長、徳川家康
何も考えず行き当たりばったりで戦争をふっかける無能信玄は義昭の甘い誘惑に乗って後出し勝利を狙い当時最大勢力であった織田信長と敵対。
ところが既に信長と敵対して押されつつあった浅井朝倉がガス欠寸前で織田に対する軍事行動を一旦終息させる。
そんな時期外れの状況でかつ巨大勢力織田信長と直接対決にビビったため信長子分の家康を筆頭に親信長の第三勢力を憂さ晴らしにいじめぬく。
三方が原で家康を2倍とも3倍とも言える兵力で幸先よくRしたはいいが野田城攻めに1ヶ月近く費やす。
冬場に1ヶ月近くも長待陣したせいで体が弱ってしまいそのまま撤退することに。欲をかきすぎた人間の末路である。
結局何をしにきたのかわからないまま甲斐に戻ることなく信濃の路上で野垂れ死に。死後お家は信長に滅ぼされるというおまけつきであった。


71 :
捏造してたと言っても信玄が信長どころか家康すら滅ぼせずに死んだのは事実だしなぁ
しかも53 信長謙信は49だというのに…
長生きしたらとか仮定を持ち出すが体調管理も出来ないアホが長生きしたところで…w

72 :
川中島の兵力と結果を思えば、三方ヶ原もかなりビクビクもんだったろうな
信玄としちゃ

73 :
>>65
織田厨って無知なのに恥を知らないで、
掲示板にウンコなレスしかしないから困るわ。
快川和尚が永禄8年7/25に美濃友人からの書状で、
犬山城と瑞泉寺炎上した報告を受けてることから、
ほぼ永禄8年で確定してるんだが。
公記盲信の狂信者はガチで気持ち悪いわー。

74 :
さすがデタラメ軍記講談信長マンセー公記
全く信用出来ん。

75 :
逃亡先はここか

76 :
キチガイ嘘長公記は三次史料以下だな。

77 :
○天文十五丙午年(1546)
三月、晴信公信州戸石に於いて村上義清と合戦御勝利。首百九十三人、
栗原左衛門手に於いて首二十二討ち捕り晴信公に感状を賜わる。
註》戸石は現上田市。砥石城合戦は『妙法寺記』では天文十九年九月。
『甲陽軍鑑』は天文十五年。
武田の史料同士で矛盾してるな。

78 :
誰も後者の甲陽軍鑑をソースに出してないけどw
織田厨涙目必死乙

79 :
まず史実で信長が武田滅ぼしてるんだから武田厨みたいに泣くような事はないから安心しなさい^^
織田どころか徳川すら滅ぼせないのが無能信玄
そんな信玄が上洛したifスレのifを語らない時点で武田厨がどんだけ織田にコンプレックスがあるかわかるな

80 :
信玄率いる武田軍と寿桂尼率いる今川軍が御殿場で戦ったらどっちが勝つと思う?
もちろん、北条氏康も参戦する

81 :
>>80
真面目に聞くと何で御殿場なの?
信玄の目的は駿府じゃないの?
それとも後詰に来ると思われる氏康を先に叩くという戦略?
まあ細かいことは置いておきますが文の流れで考えると武田軍と今川軍の戦と想定して
北条軍が既に着陣して参戦するのであれば兵数の多い方が単純に勝つ
武田軍の方が多ければ信玄の勝ちだし今川・北条連合軍の方が多ければ寿桂尼が勝ち
兵数が互角であれば地の利がある今川・北条連合軍の勝ち

82 :
武田家>>>>>>決して超えられない壁>>>>>織田家
織田家は山形に飛ばされ上杉・伊達に頭下げさせ貶められていたけど、
武田家は高家として優遇され、その采配は伝説として崇められた。

83 :
江戸時代の高家なんて完全に気休め。
高家高家言ってるが正式名称は「高家旗本」で大名より格下。
甲斐源氏の名門がそんじょそこらのぽっと出の家に頭下げ続けるとか哀れすぎる

84 :
頭下げる???旗本>大名って事も知らんのか。アホだな

85 :
だがさんそれ教科書レベルの知識っすよ
江戸時代の旗本は石高低いっす

86 :
石高の話なのかw
本当に頭悪いなーwww

87 :
>>82
× その采配は伝説として崇められた
○ 捏造神話が形成された
>>84
お前の中ではそうなんだろうよ。

88 :
またまた馬鹿が現れたかwww
旗本と大名の地位関係も知らないとはwww

89 :
まあ恐らく将軍直属というところを指して旗本>大名などと吹聴かましているんだろうけど、
将軍に近侍して将軍の治政を中枢で支えるような旗本は数多いる旗本のごくごく一部だからな?
特に武田のような「滅ぼされたけどお情けで入れといてやるか」という高家旗本からはほとんど出ることはなく、
実際武田家の子孫で旗本ながら立身した人間はいないのだがw

90 :
ちなみに、だがの希望を打ち砕くようで悪いが、武田家の滅亡があまりにアレすぎたのか、
あるいは徳川将軍家が武田家を嫌っていたのかは不明だが、武田家が高家旗本に列せられたのは
武田信玄の息子竜芳の息子信道の息子信正の息子の武田信興の代になってからで、
しかもその高家武田家は2代目の武田信安の代で血統断絶し柳沢吉保の孫が養子に入って武田信明を名乗り相続する有様。
これで信玄の血は高潔だの伝説だの言うんだから飽きれるばかりである。

91 :
>>89
やっと辿りついたか。
じゃあ馬鹿君にクイズをプレゼントだ。
従四位下と従五位下が出会ったら、どちらが頭を下げるのでしょう?www


92 :
頭が悪いから瞬殺され、一生懸命勉強しても結局駄目。
織田厨君の人生は暗いなーwww

93 :
>>91
誰と誰を比べて言ってるんだか皆目見当がつきませんね。
まさか養子によって血統が絶たれて3代目以降の柳沢吉保の威光で水増ししているとは思いたくないけどなw

94 :
ていうか、朝廷の位階だと信玄は信長に勝ち目ないんだけど
そのへん分かって言ってんの?

95 :
ちなみに可哀想な事実その2
織田家が江戸時代になると信長子孫の主流は信雄系になるが、
この信雄系の中のまた主流信良系(大名)は明治維新になるまで全て信長直系の血族で継承されている。
身内からの養子縁組は数回続いたが全て織田親族のもので、明治維新をすぎた後の織田信敏の代になってようやく相馬家から養子をもらった。
信長の血脈は山猿信玄と違い何代も続いたというお話

96 :
やれやれ>>83>>89>>90は完全に撤回かな?
物忘れが激しい馬鹿は困るwww

97 :
掘り返すようだが撤回する気はさらさらないなw
若年寄や側用人といった要職には旗本もいるにはいるが結局は譜代大名の方が占める率が高い。
旗本が立身出世して要職についたというミクロケースを誇張して「旗本より大名の方が格下」なんて馬鹿な意見を賛同する気は皆無。

98 :
いつから織田家が譜代大名になったんだぁぁぁ
もうグダグダだなwww

99 :
>>98
だからおまえはアホだと言われるんだよ。
織田は譜代大名じゃないな、それはそうだ。
ただ旗本で大名に比肩、凌駕するのは一部の存在だけ。
たった2代しかいなかった信玄直系の武田家から若年寄や側用人のような要職持ちがでたのか?
ちなみに同じ高家旗本の今川家からは出てるぞ?高家旗本は不遇なんて言い訳はするなよ?w

100 :
>>99
あんたが自分で頭下げるとか言い出して苦しんでるだけだろwww
で、どっちが頭下げるんだ?(爆)

101 :
>>100
おまえ本気で言ってるの?
まさか幕府という武家社会にいる人間が公家社会の朝廷の官位に左右されると?
もしおまえが言うとおりなら武田家の連中は皆織田に頭下げなきゃならんし、
無位無官の人間とか悲惨すぎるが・・・せめて両方の人間が誰であるか、
またその両人が幕府内でどんな地位を占めていたのかを言ってもらわないと何とも言えん

102 :
そもそも官位というのは家単位で与えられるもので人に与えられる役職なんざと切り離されて扱われるくらい
わかっているものと思っていたが・・・

103 :
だから官位で比べるのが正しいとw

104 :
それじゃあ石高で比べるのも変わらんだろ

105 :
まどっちでもいいが

106 :
>>1
六角、浅井を家臣化すれば、京都を完全に掌握できる。
あとは勝頼に任せるしかないな。

107 :
春先には田植えのために撤退するしかないでしょ?>武田軍
上杉謙信が上洛したものの短期間しか京都に在留できなかったのと
同じで
しかも雪解けになると上杉の脅威が信濃に。。。。

108 :
残念ながら謙信も信玄も田植えや収穫でいちいち戻ったりしてないからw

109 :
農業に合わせた進軍退却説なんて
都合が良い部分だけを切り抜いてるだけの糞説じゃんw
そもそも織田軍すら兵農分離なんてしてないのに何を言ってんだっていうw

110 :
家の事を言えば、
正真正銘の源氏で代々守護職の武田が、どこの馬の骨とも知れない守護の下の守護代織田弾正忠家の
さらに下の傍系の信長ごときに従えるわけはない。

111 :
国人たちの王国甲斐
武田信重が甲斐に行きたくないと西国に逃げたり
無理やり甲斐入国させられた挙句に穴山に暗殺される最後を迎えたりと
甲斐での武田統治は難易度SSSレベル

112 :
当時は戦国実力主義とはいえ家柄がコンプや対抗心や行動の原動力になるほどのものだった。
その中でも信玄のプライドの高さは異常。
まず自分をお山で至高にするために最も邪魔になる親父を叩き出し、生涯土を踏ませない。
従一位左大臣三条家の娘を母とする義信と、大井という武田本家より下の娘を母とする信玄。
武田家中にあって血筋的に自分より遥か上の嫡男にコンプを感じて殺害。
母が諏訪の自分と大差ない勝頼を可愛がる。
甲斐信濃のなかでお山の大将的に自分より上を消して至高の存在を指向して実際そうなった。
代々そのようなものがあったんだろう。
お山の中で上の血筋の者に対しては忠誠度ゼロ。亡き者にしたいと考えるだけ。
国人たちは武田に内心ケッ!と唾棄しながらやはりコンプを抱える。
本家滅亡に加担し自分の子に武田の名跡を継がせる穴山のように。
そんな沼に放り込まれ殺害された武田信重は哀れ。

113 :
あげ

114 :
>>108
少なくとも謙信は戻ってるよ。
例外は関東出兵だが、その時に連れて行ってる兵は5000が限界w

115 :
>>114
別に戻ってない。
さらに戻ったように見えて、そのまま信濃や越中へ行くなどしてる

116 :
>>155
うん、戻って農作業して、それから信濃や越中に出兵ね。

117 :
>>116
いつの話してんだよデタラメ乙w

118 :
>>117
いいえ、真実です。
否定するなら武田・上杉が1万以上の兵をつれて1年以上帰ってこなかった例を挙げてください。

119 :
信長はあったっけ?

120 :
ばっかじゃねぇの。
兵力が一次史料に書かれてないことをいいことに
無理な要求してやがんのw
織田厨が糞なのがよくわかる。

121 :
今川義元死亡と同時に駿府を攻めて本拠地を移しておかないと話にならない
信玄じゃあ今川軍に大敗する可能性が高い
さらに斉藤道三を攻めて美濃に本拠地を移す
ゲームだと簡単なんだけどな

122 :
>>120
おいおい、フロイスの書簡(言うまでもなく一次史料)を元に、西上作戦の武田の兵力を6万としているのはお前の方じゃないかw

123 :
つまり織田兵一万というのも暴論と

124 :
つか織田兵1万って三河物語だと朝倉軍の3分の1しかないからな。
天正元年の足利攻めの際にも尋憲記で織田が1万しか集まらなかったとだがは主張しているが、
常識的に考えて武田がどうなるかもわからんのに全兵力足利に回せるわけないんだけどな。

125 :
公家や宣教師とほとんど縁が無いこともあり、
関東の信頼性高い史料ですら、
兵数を明言してるようなもんはほとんど無いだろ。

126 :
論点ずらしキター

127 :
age

128 :
あげ

129 :
age

130 :
無事上洛され京都で天皇とsexしました。

131 :
上洛したいだけなら、できただろ。
織田と同盟関係にあったんだから、ちゃんと話を通して東海道を上ればいいだけ。
それを全くやらない当たり、京都にも天下にも興味がなかったとしか思えん。

132 :
age

133 :
天皇は新しい性に目覚めました

134 :
age

135 :
斎藤龍興による河野島大勝は大嘘だった

河野島の戦い全文
一去月廿九日織上当国境目へ出張候、其時分以外水迫候て、河表打渡、河野島へ執入候、即時ニ竜興懸向候、依之織上引退、川縁ニ居陣候、
国之者共限堺川詰陣を取続相守候、自出張之翌日、風雨濃水ニ付而、自他不及行候き、漸水引候間、取懸可相果之由令儀定候之処、去八日未明ニ織上敗軍仕候、川へ逃入、
没溺水候者共不知数候、残党於川際少々討候、兵具已下捨候為躰、前代未聞ニ候、不遂一戦退散候之間、数多不討取事無念不少候、雖然此方任存分之条、可御心易候、
織田在陣中可注進申候へ共、無程落居候間、無其儀候、此等之通御伝語可畏存候、可得尊意候、恐惶敬白、
ここからわかる斎藤方の嘘
・行き道は凄く増水していた木曽川をなんなく渡河したにもかかわらず、帰りに水が引いた木曽川を渡る際に溺死者が多数出た点(其時分以外水迫候て、河表打渡、河野島)
・織田方が命令に背いて攻撃した(その前の信長弾劾)にも関わらず斎藤方が木曽川よりさらに先の境川に来ただけで軍を止める織田勢(即時ニ竜興懸向候〜国之者共限堺川詰陣を取続相守候)
・水が引いて斎藤が攻撃をかけようと考えた何日か前、既に織田軍は撤退していたにも関わらず斎藤方がその一部始終を見たと記している点(去八月八日〜前代未聞ニ候)

斎藤方の9割近くの誇張でできた河野島
だがのような無知無能なる人間に対する喧伝、アピールのためにこういった誇張が生まれたのだろう。


136 :


137 :
げ 織田厨涙目w

138 :
自分の願望妄想・屁理屈から「思った」ことを書くだけで
その戯言には一次史料による裏づけ・根拠が一切、存在しない織田厨。

139 :
戯言に対してなら戯言で十分だろw

140 :
織田厨涙目w

141 :
織田厨が瞬殺されましたwww

110 :人間七七四年:2012/03/28(水) 23:26:31.00 ID:+QObi/ER
織田厨マジでアホw
130 :人間七七四年:2012/03/21(水) 22:16:33.30 ID:rG6ktPb9
北畠家臣
北近江国人
甲賀衆
摂津国人
雑賀衆
大和国
伊賀衆

このへんは殺して何が悪いの?レベル

111 :人間七七四年:2012/03/28(水) 23:51:52.68 ID:yu/C1NF1
>>110
それはお前の方がアホだな。

112 :人間七七四年:2012/03/29(木) 22:47:04.15 ID:lrPfYtZW
>>111
順番に説明してくれ。
北畠家臣はなぜ殺されて当然なのか?
北近江国人はなぜ殺されて当然なのか?



142 :
信長「信玄!おぬしに都は不似合いじゃ!」

143 :
坪内「あんたが言うなyo」

144 :
織田厨涙目w

145 :
267 :人間七七四年:2012/04/02(月) 22:18:52.09 ID:DrM5JO3b
だがさんなんで最近ゲームの板なんかで暴れるんですか!!
せめて議論しがいのあるここで自己の主張を闘わせてくださいよぅ…

268 :人間七七四年:2012/04/02(月) 22:23:56.03 ID:2lmlmTbn
のぶやぼ厨涙目w

146 :
織田厨涙目w

147 :
のぶやぼ厨はゲーム板に帰ろう!

148 :
信玄率いる武田軍二万と信長率いる織田軍四万が長良川畔安八で戦う最中、水害が発生して織田と武田が滅亡すると解しまする

149 :
甲府から離れられなかった小心者には何も期待出来ない

150 :
織田厨の法則
一.本拠地移転の効果は絶大無比。(信長の野望より)

151 :
のぶやぼ厨涙目w

152 :
のぶやぼ厨涙目w

153 :
2012年4月7日第41回信玄公祭り〜日本最大の武者行列〜
http://www.yamanashi-kankou.jp/shingen/
出陣の議で山本勘助役の伊吹吾郎が上杉謙信討伐に出陣を願い出ると
武田信玄公役の沢村一樹は
笑いながら 「いいよ〜!!」とふざけまくり!! ギャラリーから非難の嵐・・

154 :
>>135
ウソとは思えないな。
そのコピペ文は実際にはもっと長い文章で
該当部分より前の部分では
公方様御入洛のために信長への矢留に同心が忠節と言われて
細川幽斎に罰文まで龍興は提出したと書いてある。
また細川は尾張に下向して催促したが信長は令に違変し、
公儀は言語道断だとし、江州にもいられなくなり若狭へ去り
信長は天下の嘲笑だと
安藤・日根野・氏家らの連署で書かれているが、
実際、義昭の書状を見ると閏8月26日に信長乱入儀驚入候と書いていて
明らかに信長が約束を破って美濃へ乱入したと思われることが書かれてるし
9/13の義昭文書にも織田尾張守出勢相違故
若狭へ逃げたと書いてる。
前段の文章もほぼ正確に書いているのは間違いなく、
例えば義昭の6/11文書には尾張にいる細川幽斎が申し上げてきたので、急いで和田を尾張に行くように命じていたり、
7月朔では濃・尾・三其外可有出勢之由言上候と飯河信堅が上杉の直江に書状出してる。
7/13の義昭は信長と斉藤の無事が成立したことを書いてる。
ほとんど書いてる内容に一致が見られる以上、
他に反論する一次史料が提出できないなら
信長が公儀主宰の斉藤と織田の和議を破って美濃を攻めた挙句に大敗したのは間違いない。

155 :
上洛をする気でいるなら信長が美濃通るのは当たり前
美濃の国境についた途端に龍興は岐阜城から軍を出して応戦
信長は戦うそぶりすら見せず川岸に撤退

どう見ても斎藤が破っている

156 :
岐阜城じゃないこの頃は稲葉山城か

157 :
>>155
じゃあなんで義昭が織田の行動に驚いたりしてんだよw

158 :
>>157
その書状のソースは何?

159 :
そもそも織田が違約して斎藤に大敗したと言うのは斎藤の文書を見ても違和感だらけで
織上当国境目へ出張候、其時分以外水迫候て、河表打渡、河野島へ執入候、
即時ニ竜興懸向候、依之織上引退、川縁ニ居陣候
という記述が斎藤方の中島文書にあるが、本気で信長が隙を見て斎藤をぶっ潰そうとする判断を持っていたのなら
斎藤龍興が出てきただけで戦うどころかいきなり軍を返して陣を張ると言うのは不自然であり、しかも陣を張った後で何をするでもなく
国元に帰るというのは、どさくさに紛れて斎藤を滅ぼすつもりなのならありえない行動である。
これは>>154にもある義昭の書状の言葉を盲信したとしても話が通る。記述では「織田尾張守出勢相違故」であり、
信長が予定通り上洛するための軍を出さなかったことしか咎めていない。斎藤をだまし討ちにしようとしたということについてはこの記述では触れていない。

160 :
のぶやぼ厨涙目w

161 :
のぶやぼ厨即死w

162 :
のぶやぼ厨涙目w

163 :
のぶやぼ厨あげ

164 :
>>159
お前の願望妄想はチラシの裏に書けよ。

165 :
>>164
なにも反論できず涙目の織田厨君w

166 :
正直、織田厨のレスはデタラメや講談引用ばっかりで
真偽不明のカキコミが多くて困る。

167 :
のぶやぼ厨無残w

168 :
>>160から全部だが

169 :
さんざん論破された癖に都合の悪い事は忘れてしまうだが

170 :
だがの場合ガチで忘れてるっぽいからな…

171 :
のぶやぼ厨涙目w

172 :
のぶやぼ厨即死w

173 :
のぶやぼ厨涙目w

174 :
のぶやぼ厨即死w

175 :
戦国時代を平定した秀吉
なんでもかんでも秀吉の業績はすべて信長が脳内で構想していたと
バカみたいに主張する織田チョンの歪曲を糾して
秀吉を正当に評価しよう。
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/l50


176 :
のぶやぼ厨涙目w

177 :
天下を取った英邁なる秀吉と甲州の田舎雑魚大名で終わった信玄を同一視するなんて
いかにも妄想まみれのアスペルガーがやりそうなことだなw

178 :
英邁なる秀吉←笑うとこwww

179 :
織田厨のソース皆無の秀吉貶し悪口中傷キャンペーン始まりましたw
相変わらずミジメだな織田厨ってw

180 :
のぶやぼ厨涙目w

181 :
>>178-179
また武田厨同士で内輪揉めか。
もう少し協力したら?君ら

182 :
のぶやぼ厨涙目w

183 :
武田信玄が上洛する方法
1.甲斐信濃その他勢力を領する
2.織田信長と同盟関係を維持しつつ長生きする方法を模索する
3.織田信長に臣従しつつ勢力を拡大
4.本能寺の変発生、一気に織田と手を切り明智を支援する
5.そのまま織田家の後釜に座り上洛、天下統一を進める

言っててなんだけどまんま徳川家康の生涯みたいやな

184 :
武田と北条合わせて300万石くらい?
織田、徳川と結構互角かも。

185 :
最初から謙信なんか相手にせずに今川北条を攻撃していれば良かったんだよ
北条に従ってた関東の豪族も信玄なら従っただろう 少なくとも佐竹までは

186 :
というか北条氏康の同盟破棄の判断は狂ってると思う。
武田信玄をどれだけ恐れてるんだよ。
というかもしうまくいって武田家滅んだら、関東は上杉謙信の一人勝ちだし。
恐怖で正常な判断力を失っていたとしか、、

187 :
功績泥棒捏造常習犯の織田チョン涙目www
戦国時代を平定した秀吉より一部抜粋
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/l50
家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
なされていない
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
一次史料をみる限り石山本願寺が降伏する以前の織田軍兵力は1万〜3万しか動員出来てない。
織田軍が攻めこんだ先は摂津や河内・大和など一国亡国と記述されるなど、
軍が略奪による現地調達方式なので多方面に敵を作るデメリット付き兵力分散して軍を養う必要性から大軍集中が無理。
しかもそこを領国にしても荒れ果ててる。よって国力の単純比較は成立しない。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地→興福寺大乗院跡750石&興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地→興福寺春日社は2万1000石とされて、この膨大な差が大問題となった。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。つかできない。

秀吉は兵站補給概念を持っていて奉行衆による計画的な物資管理や
大軍進駐に伴う排便処理による衛生管理を編み出すことで
信長には不可能だった「位攻め」戦略を多用し瞬く間に天下を統一してしまった。
位攻めとは、圧倒的大軍を用いて相手の軍の士気を崩壊させ服属を強要する戦略。
信長の現地調達方式では大軍の集中は不可能であり、戦力崩壊を起こす攻勢限界点が存在する。
すでに美濃の隣国信濃への出陣である武田攻めにおいて、
遠陣だから率いる人数を抑えることで兵糧が続くように。
しかし戦力ダウンにならないように剛力の者を選んで引き連れよと人数調整をしていた時点でお察し。
信濃より遥かに遠い備中えの遠陣である毛利攻めで旧来の遅れた兵制の信長は討死していただろう。

188 :

排便などの衛生管理は非常に重大な問題で北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。
秀吉はそういったシステムを作る天才だから速攻で全国制覇したし、海外遠征まで実現できた。
信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある
(生産力・経済の概念は遠征補給兵站思想と、重商主義的な朝鮮出兵ビジョンが視野にあるから)
隣国武田攻め自体が補給の問題から兵数調整してる上に
(人数少なく召し連れることで在陣中の兵糧がつづく様に〜中略〜
但し人数多く候様に剛力粉骨の者を召し連れるように)
そもそも農繁期と言っても戦国期の農民は米ばかり作っていたわけではなく、基本
米を刈り取ったらすぐに麦を植え春先にはその麦を刈り取りまた米を植え、という形だったので、
少なくとも春先と秋の2回農繁期があった。(米の二期作も併用している地域は夏も)
ここからも「織田以外は農繁期は出兵しなかった」という変な考えは完全に成り立たないことがわかる。
だいたい武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は帰る必要が無い
信玄とか謙信は普通に刈田もやらずに出兵してるよな。
そもそも稲を植える時期、3月とか普通に信濃出兵してること多いし。
織田厨って稲を植える時期を何月で、
刈田をする時期を何月だと思ってるのか本当に謎w
織田だけ兵農分離してると主張する際に客観的なデータやソースを絶対に出さないし。
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
勝頼が当主の天正2年尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
組織改革がなされていた武田・上杉・北条>>>織田

189 :
なのに織田軍を倒せなかったのかw

190 :
>>189
のぶやぼ厨涙目www

191 :
のぶやぼ厨沈黙w

192 :
空しく1人であげるだが・・・

193 :
言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。
5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣と元禄初期の織田の動員力は2万。
そして柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚と並び称された
坂井政尚と森可成が討死しただけでなく織田信治・蒲生定秀の弟の青地茂綱らが討ち取られる志賀の陣で
(青地氏も六角の重臣の1人で湖東草津方面の豪族で六角家中では山岡と並び称されていて、
その人物が討死じゃ長光寺城の柴田・安土の中川の領地支配も揺らいでる事態)
信長は屈服するなど次第に追い詰められていく織田の兵力が激減し朝倉浅井3万の前に
織田は1万まで減少して志賀の陣で土下座
(三河物語にも信長が朝倉に負け宣言をして天下は朝倉殿が取りたまえ。私は2度と天下を望まないと発言)
公記で織田3万と記述されてるのは下記の2回。
長篠の戦いで織田徳川双方を合わせた連合軍が3万と
長篠の戦い後に一向衆に奪われた越前に織田が攻め入った時の記述において、
かき集めた牢人衆や朝倉旧臣や浅井旧臣らも率いてた上でやっと3万に達してる。
尾張伊勢長島一向一揆衆には朝倉滅亡前の段階で林道政以外にも
織田信興・氏家卜全・蜂須賀正勝の弟が殺され柴田勝家も負傷。
そんな状態で、ついに金も兵糧も鉄砲も足らず三条河原で軍列を整え
知恩院に陣した総兵力織田軍たった1万だけ(年代記抄節)しか動員できず
(叡山焼討ちで言継卿記が伝聞から3000〜4000人殺されたと驚いているのを
年代記抄節はおよそ1600余人と誇張に惑わされずに冷静に書いてる)
朝倉軍は浅井の援軍として25000(朝倉始末記)もしくは2万(信長公記)を動員しているわけだ。

194 :
天正元年には慈敬寺文書によれば有岡城(伊丹城)を荒木に奪われていた
伊丹親興も織田に挙兵し京都西岡地方(幽斎の所領)でも土一揆。
三好康長や篠原自遁は12月に長岡京のある大山崎で禁制を発布してるし、
桂川の渡河先の淀城には石成友通がいる。
10/2付け六角承偵書状の内容には義昭側近六角義堯からの話として
信玄西上開始の秘密情報と共に三好甚五郎に四国衆の渡海を命じてるなど
三好勢も大規模上陸軍の編成をしてるようで総力あげてる。
(三好神五郎政長の子である三好政勝?姉妹は池田信正の正室だね。その子が池田長正でそのまた子が勝正)
よって幽斎が勝竜寺城を維持できている可能性はゼロ。京の西側はすでに三好勢力圏。
荒木と幽斎はすでに家無き子になって信長の上洛にやってきていたと考えるべき。
その後の伊勢攻撃でも帰陣中に一揆勢に先回りされて襲撃され豪雨で鉄砲が使えず林が討死し
夜間を信長は大垣まで敗走する中で多くの兵が凍死したし。
その後に越前が再び一向宗の手に落ちるわ、勝頼に明智城や高天神城を落とされるは踏んだり蹴ったりでしょ。


195 :
3/23義昭は京都聖護院門跡道澄を通じて小早川と浦上宗景の出陣を命じる(成?堂古文書)
たった織田軍が1万だけなのは年代記抄節にキッチリ書いてあるし
丹波の実力者内藤如安は義昭に味方しないと信長は決めつけていたが、
その内藤(松永久秀の弟の子)が射撃手1000を含めた5000で参加
3/6付で兄の義輝殺しの三好義継と松永久秀を義昭はついに許していて
「京都に集結してくれるてはめでたい。足利家について奔走してくれ」(尋憲記)
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領したという3月下旬の報告がある。
朝倉の書状で既に小谷に先発隊が入って普請を行っている事があり義景自身も敦賀にまで出陣して5月まで在陣してる
武田軍が野田表から撤退を確認した信長が2/23に上洛して畿内平均宣言したが
2/26に御内書が出された武田に東美濃(加治田城・つぼ城)で暴れられてビビッて中止。
(ついでに二条城の魔改造完成&朝倉軍出撃のお知らせ付き小島氏所蔵文書2/26浅井書状)
琵琶湖最大の商業地の堅田村の郷士達が本願寺や浅井の味方になってしまい
坂本を居城とする明智軍は大津で苦戦し立ち往生しているのがわかる。
この時期の摂津では荒木や高山重友が織田に謀反して和田惟長を殺し高津帰城攻撃開始。
(和田惟政が殺された後、信長から幽斎が惟長を御指南するよう言われていた)
2/27には右京兆(細川昭元)の中島城が落城し、信長はさてもさても惜しきと落胆。
伊丹の謀反で賀島城が落ちて絶言語候と驚愕する信長w
石成友通が味方かどうか不安だから気遣いしろとビビる信長w
灰方や中嶋も内藤に馳走してるから一味・丹波の宇津も内藤と同じ義昭方だと完全に動けなくなる信長。
岐阜城で震えていた信長は3/25と1ヶ月後にやっと上洛するため岐阜出発。
しかもこれも信玄死去を知らない義昭が3/6信長からもらった人質を突き返して
新たな堀を作り始め挑発したからで京に誘き出されたのは信長の方。
北条の武田軍への援軍2000・織田の徳川軍への援軍3000など義理で派兵した北条と大差なしの織田兵力に余裕無し。
近江横山城で朝倉・浅井にビビって家康の援軍待ちをしてたのは秀吉。
秀吉なんぞ無視して浅井軍は自由に高島郡を経由して西近江の滋賀郡などへ出兵して支配下に置いてる。
明智軍が崩壊してたために援軍として派遣された柴田・丹羽・蜂屋らは
六角と一揆勢に街道封鎖されているので琵琶湖経由でしか行軍不可。
大商業地堅田村を一向宗側が取り込んでいるため、
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで援軍にきた織田軍が大敗している。
信長本隊がやっとやってきての全兵力がたった1万。
京都を火の海にして義昭と和睦したあとに来た家康の使いの小栗に
近江横山城への出陣は必要なくなったと4/6に伝えたように
(信長は宛名に三河守殿 進覧之候などと家康にまで気を使う始末w)
兵力不足から浅井・朝倉を押さえていた秀吉と信玄にフルボッコされて間もない家康を交代させようとするほど逼迫
家康に援軍いらないと信長が発言したのも4/4禁中不慮の時は避難と聞いた天皇が
4/5義昭と信長の講和を斡旋した翌日4/6の発言だし
(4/7義昭と呼応して信長の背後を閉鎖した近江百済寺一揆と六角の攻撃に急ぎ出発するほど追い詰められていた)
安国寺恵瓊 天正元年(1573年)12月12日付
「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。
左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」
公家や寺社との付き合いのある安国寺には信長のやり方ではどっちにしろ破滅する末路しか見えないのだった。
本能寺の変後に義昭は毛利の乃美への「信長を討ち果たした」
島津義久には「織田は天命のがれがたく自滅した」と語ってる

196 :
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書いてるが完全にデタラメ。
ちなみに謙信→長景連への3/19書状には
(菅屋・林・佐々・松井と供に長連竜(長続連の子)が織田配下として書かれてる)
信長が謙信に比叡山再興を約束してる土下座モードで謙信も納得したとか書いてるwww
(4/24謙信→関東の小田守治で氏政を足蹴倒すぞと報せていて、武田攻めする気なしwww
おそらく3/5の遊足庵への謙信書状で葦名と佐竹が和議になることと葦名が北条へ手切れ
佐竹・宇都宮連合が氏政を29日夜に多功原で大破し数千人を討ち取り、
岩槻へ氏政がたった一騎で逃げ入った報と義昭の側近六角義堯による甲越同盟が影響してる。
謙信は信玄と氏康同陣の時にたびたび俺が乗り出してきても決戦せずに退散するくせにと愚痴ってる)
朝倉義景が一乗谷城から越前府中まで3/11には出陣してきたことを報じている。
また濃州・信州境を用心しろとも書いていて、信玄の美濃侵攻が近いことがわかる。
3/7信長→幽斎書状にも長与一(長景連)が味方だと書いてる。
706 :人間七七四年:2011/11/23(水) 03:34:29.75 ID:YvL+q4gF
朝倉滅亡後の9/29には小瀬清長・織田信次・織田信直・織田信広・織田信成・織田信昌・織田秀成
佐々成政の長男・佐治信方・平手久秀・山田勝盛・和田定利が戦死してるなど
実際の織田軍は朝倉平定戦において大きく兵力が消耗していたと思われるね。
そもそも非常に珍しいことに織田親族の軍まで出さざるおえなかったくらい
兵力が足らずにかき集めていたのが見える。信玄死去後の
朝倉攻め時点でさえ織田軍が3万動員できていたなんてありえない。
河内上国+松永の軍勢に河内下国の畠山昭高はボコボコにされて
孤立無援のまま高屋城篭城して織田の援軍待ちじゃん。 しかも遊佐信教に6月に暗殺される始末。
三好義継の河内を本願寺の前衛と捉えて支援してますがwww
(河内が落ちると河川のない大坂南へ通ずる四天王寺方面へ織田軍が進出できる為)
近江すら平定できない信長・・・
4/7  六角義治の籠城する鯰江城を佐久間、蒲生、丹羽、柴田に攻撃させる。
4/19 鯰江城攻撃失敗。柴田に十河存保への援軍として義継の若江城攻めを行うように命じる。
6/25 高屋城で遊佐信教が畠山昭高を暗殺。
7/14 信長、内応するか悩んでいた畠山昭高を遊佐信教が暗殺した事に怒り
信教を必ず討つべし、指令については柴田に命じると言っているので
柴田は若江城攻めどころか高屋城まで敵方に落ち織田は河内国を見事に失陥。
河内国から柴田敗走か。なぜか近江にいて朝倉攻め参加する始末・・・
9/4  柴田へ鯰江城の攻撃を命じる。
浅井・朝倉滅亡後に佐久間の石部城包囲で
天正2年4月 六角承禎が4/13に石部城から信楽に向けて退城
山中山城らが敵を追い払ったから無事に信楽に着いたことを書いた感状だけど
出した日付は12/24だから天正3年前後も信楽でまだ織田に抵抗。
ちなみに伊賀国は六角氏綱の子が仁木氏を継承し仁木義政を名乗って以来、六角勢力圏。
天正4年以降になっても承禎は近江や伊賀でがんばって抵抗。
11/25北畠具教が信長によって謀殺された後に
北畠庶子家坂内氏が逃亡し、具教の弟の朝親も還俗し坂内へ書状出してるし坂内も勝頼に書状だしてる。
その時に沙弥承禎の名前で坂内氏に12/18付けで書状出してるが
国司御一類御生涯付〜北畠殿相続無き場合はあなたが家督を継ぎなさい。
そのこと大本所へ意見しますよって言ってる。ちなみに具教の正妻は承禎の妹。
年不詳12/7付け武田刑部大輔宛朝倉宮増丸書状では
佐々木源兵衛なる者が朝倉残党や加賀一向宗と連絡とってるし
これ吉川文書収録だから、鞆にいた義昭側近の若狭武田氏や大本所六角義堯に佐々木源兵衛は関わりある人物だね。
天正6年に義堯は阿波・淡路の軍を率いて境に上陸するから、それ以前の文書だと思う。
六角氏は朝倉と北畠再興運動やってひたすら信長に対抗してる。
義昭側近の一色昭辰も天正3年8/24に元春に修理大夫一色義辰(一色義道)の本国丹後の儀につき
輝元御出勢の刻は本意に任せるので頼みます。 (毛利を)御馳走することは本望です。
などと言っていて毛利は丹後も傘下に収めているんだよな。

197 :
三好の内紛は信玄死去で義昭追放と信長が反攻を開始してから
織田との和睦派と抗戦派の間で勃発しただけ。篠原長房もこの政変で死んだ(讃州燎乱)
義昭の外交を担う義堯が信長から離反したのが元亀3年。
10/2六角義堯が三好甚五郎(三好神五郎政長の子か?)に四国衆渡海を命じてると義禎親子に伝えてる。
三好康長や篠原自遁は12月に長岡京のある大山崎で禁制を発布してるし、
桂川の渡河先の淀城には石成友通がいる(義昭が淀城を信長の金で修繕していたwww)
京の西側は三好による平定が完了し、すでに三好勢力圏になってるわけですがw
天正元年2/20の義堯が東(武田)北(上杉)此通候間と書いて同盟の存在を示している。
3/23義昭は京都聖護院門跡道澄を通じて小早川と浦上宗景の出陣を命じる(成?堂古文書)
4/21一向衆の懇望による和議が成立し謙信が春日山へ帰城。
8月再び、謙信は越中出陣し加賀朝日まで侵攻したのち信玄死んだ武田攻めするどころか8/下に帰国し年内は完全休養宣言。
10月に謙信が神保弥次郎の相続を認め、神保が日宮城に復帰完了し謙信の越中平定完了。
謙信が信長を無視して武田を一切、攻めようとしないのは甲越和与によるもの。
ちなみに天正6年に義堯は阿波・淡路の軍を率いて堺に上陸している。
信玄が死んだ軍事的バランス崩壊後に
浅井朝倉が滅び義昭が追放され義継が滅ぼされ松永が降伏した
一連の大変革による三好内の政変で反織田の篠原長房が失脚し死んだとみるべき。
1572年12月に篠原自遁は大和守と大山崎に禁制を出しており
大和守はおそらく長房の嫡男である以上この時点では自遁と長房は対立してないとされてる。
なんせ長房&息子は四国で自遁に殺されたことになってるから
だからできるだけ早く死んだと見積もっても1573年7/16以降だとされてる。
(もっとも1574年讃州繚乱まで事件らしいものの証拠はないが)

198 :
織田滅ぼして上洛した前提なのに何故かだがの中では織田と戦う武田が続く
日本統一しても織田と戦い続けるんですね

199 :
だれか相手してやれよ

200 :
>>198
そもそも元亀年間の織田信長の領土は多く見積もっても
美濃、尾張、伊勢一部、近江一部、三河一部くらいで
これを全部取って信玄の領土と足しても大体300万石いくかいかないか。
つまり信長倒したところで大した意味はない。想定される状況としては
・織田信長の代わりに足利義昭を奉じることになる
・織田信長が荒らしまくった領地の返還(特に六角氏など)
・足利義昭に嫌われて第二の信長になる
というのが想定できる範囲で、当然この間に信玄が死ぬこともありうる。
まあどっかの誰かさんは将軍足利家よりなぜか源氏傍流の武田氏出身である信玄が
なぜか他の大名や領主から慕われて足利からスムーズに武田に実権が移ると妄想吐いてるけど

201 :
元亀4年初頭の織田なんて
離反だらけで100万石きってるわな。
だって尾張も長島一揆に南西部を切り取られ岐阜から三里に砦を作られ
美濃も北美濃の遠藤氏が鉈田尾城を築城して織田に叛意を示してるし
東美濃だって勝頼の子の母の実家の苗木城だって、実際は親武田だろ。
美濃中部も加治田城や津保城が信玄に申し合わせて甲州勢が乱入するって言ってるし
近江だって、柴田らは街道が使用できずに琵琶湖で移動してる始末。
そもそも織田軍は1万しか動員できないほどだし。
武田は150万石くらいか。

202 :
石高で勝っていたのに倒すことすらできなかったのかw
今川氏真以下の無能大名武田信玄なだけはあるなw

203 :
そういや長政は信玄様と書状で書いてるから
すでに武田の配下も同然だな。

204 :
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
もっとマシなこといえよwwww

205 :
お前がもう少しマシな事を書くべきだw

206 :
ついいおうむ返ししかできなくなったかw
哀れ哀れwww
浅井が武田の家臣だというなら武田はそんなに強大な勢力だったんだなw
つまりそれを破った信長はもっと凄いということになるwww
敗者をいくら虚飾講談ででっち上げても勝者や生存者には惨めに映るだけだよwww
ましてや武田なんて甲斐守護という一流の名門格なのに戦国時代を生き残れず滅亡したという
負け組の代表格なんだからw

207 :
信玄は織田に圧勝して死去。
信長は信玄への屈辱感にさいなまれたままで終わった。
信玄を信長が破ったことなど
一度たりともない。

208 :
まだ直接対決もしてないのに勝利宣言wwww
負け逃げトンズラも誇張次第でどうとでもなるという典型ですなwwww

209 :
>ID:mPEJkY0E
嘘と妄想ばかりでつまらないぞ
そんな浅はかな事ばかり書いているからアスペルガーだがと言われてしまうわけで

210 :
直接対決してるじゃん。
織田家最強の家臣、佐久間信盛を投入したのに惨敗。

211 :
>>210
頭悪い人丸出しレスでワロタ

212 :
信長は信玄にビビってた

213 :
上洛したいなら信濃から一気に美濃に入ればいいのに徳川に向かった時点で信玄は信長を怖れるチキン

214 :
だがスレ消した奴最低

215 :

斉藤利治の領地って美濃国のあちこちに分散してて
永禄8年11/1に新加増として13箇所2184貫文を信長から貰ってる。
その新知扶助分には「かちた」や「つほ」の地名がある。
これらに斎藤利堯ら兄弟・親類を配して統治してたのだろう。
だから加治田城や津保城が信玄西上に内通してたと言うのは
双方の領地を知行していたのが美濃斉藤氏という共通点から
やはり間違いないだろう。
北美濃の両遠藤氏も本願寺から書状もらってるし
彼らとともに斉藤氏も武田に内通していたのは間違いない。
また土岐氏も松永久秀の居城から美濃へ帰国しており
長島一向宗も岐阜から三里に砦を構築。
完全に美濃が武田に奪われるのは時間の問題。

216 :
斎藤が内通していたといいながら一向に武田方における行動を示さなかった斎藤www
本当に武田方として行動していたのなら三河の次に美濃に来るという戦略性くらいは把握しているはずw
さすが内応させた奥平に嘘吐いて半年持たずに寝返られた信用ゼロの武田www

217 :
恐ろしく武田に甘い想定をしても、所詮は木曽義仲の二の舞にしかなりそうもないなあ。
本拠地から遠く離れてどうやって大軍を維持するんだ?

218 :
上野国から武蔵国経由で相模国の小田原城へ進軍するより
岐阜城へ行く方が簡単だな。

219 :
と、地理的背景も全く無視して妄言吐くか、コピペしかできない病人はお帰りくださいw

220 :
信濃から岐阜に行くの簡単なのにわざわざ三河経由した信玄バカスwww
徳川と遊んでないでさっさと信長たたけよ

221 :
>>217
それは木曽義仲に失礼過ぎる
義仲には至れない、それが信玄

222 :
朝倉が織田主力を手一杯にしておいてくれたから、好き勝手やれたって自覚は信玄自身がもってたからなー。
だから一時退陣程度で大慌て。
ってか同盟相手が雪国が根拠で、出てくるだけで大変って情報ぐらい掴んどけよと……。
まぁ無理押しで岐阜攻めたら返り討ちで全滅だろうけどさw

223 :
>>大慌て
はいはい大嘘乙
信玄はせっかく朝倉が織田に勝利したのに
帰っちゃうなんて驚いた。
兵を労わるのは大切だけど
慎重すぎると労多くして功なしになっちゃうよと書いてるだけ。

224 :
まあまず朝倉が織田に勝ったというのが武田の妄想ソースだからなw
恐らく武田は「朝倉が織田に勝ったみたいだし所領横取りするか」って言うのが大方のスタンス
結局信玄が死んだ頃から「織田っていつになったら滅びるの?」という疑念が生じ、
武田に騙されていたんだ、とブチ切れた奥平貞能が半年足らずで徳川に帰参、ここから長篠に至るというのが史実

225 :
まぁまぁ、スレタイがアレなんでそういう事をここで言うのも・・。
話の方向性としてはどんだけたられば積み上げたら上洛成功するかで
良いんじゃないかな。
義元のほうがまだ上洛の可能性はあったはず(1560年時点じゃなくて)。

226 :

戦国時代に魅力を感じている一流小説家→信玄・謙信の上洛は可能
戦国時代に魅力を感じている研究者  →信玄・謙信の上洛は可能
織田信長研究者と尾張民       →信玄・謙信の上洛は不可能
この構図は永久に崩れない気がする。

227 :
>>226
小説家 → 信玄・謙信の上洛は可能
研究者 → 信玄・謙信の上洛は不可能・もしくは極めて難しい
なんですけど現状。

228 :
上洛っていうか織田を打倒可能なほど有利なら、信玄の死は反織田陣営にとって致命傷とはなりえなかっただろうしね。
仮に何かの奇天烈な事件で信玄が上洛できても、信玄包囲網が今度は組まれるっていう無限ループに陥るだけだろうが。

229 :
>>227
そもそも成否についてまで言及してるのは一昔前の学者までだろ

230 :
一流の小説家は可能性を上手に広げて読者を楽しませるよね。
そしてその読者が大学や郷土の研究家になっていくのだから、
織田信長が万能だと思い込んでいる人にとっては苦々しいよね。

231 :
今は武田派が優勢なのか

232 :
信長+万能
スレ内検索結果:1
何か妄想を見ているようです

233 :
>>232
君、頭悪い。
そのレスで、信長+万能は2つ。
このレスで、3つ。

234 :
>>233
>>232が書き込む前は1つしかありません。
よってバカはお前。

235 :
確かに信長は万能じゃないよね。
戦は2流だったから。

236 :
自演失敗か?w

237 :
このスレって>>1によると、信玄が上洛できるできない関係なく
「上洛した。」という妄想が前提で考察しろというのだから性質が悪いねw
上洛に至る過程も状況もすべて情報がないし、だから真面目に考える事じゃない
創作物語なら、作者の意のままに、面白、おかしくどうぞって感じか。
武将にチート能力を発揮させるもよし、妖術つかうもよしw

238 :
>>1の書き方が悪いな
1572年12月  武田信玄が徳川家康を三方ヶ原で撃破 徳川家康は不運にも討死
1573年1月   織田信長が岐阜にて落馬、急死
1573年4月   武田信玄が京に上洛、織田領は武田にそっくりそのまま吸い取られ滅亡
これくらいはやるべきだった、投げすぎ 

239 :
じっさいのところ家康は3度くらい死んでもおかしくないとこまでいってたって、
谷口先生の本に書いてあった。

240 :
>>238
二つ目がありえなさすぎ…
晩年相撲大会で一番暴れてるぐらい元気だし、そもそも馬術とか得意な方だったみたいだからなあ

241 :
織田や徳川に背信攻撃せず、隠居後に非軍事的に上洛するだけなら楽勝だったのにw

242 :
とくがわに はいしん こうげき って いってる ひと 
あたま だいじょうぶ なの www

243 :
>>242
信玄自身が「あれは部下が暴走しちゃったんだよ! ごめんね!」と書状出してますがw
まあ、その後を見ると確信犯だろうけどな。

244 :
>>240
そら信玄上洛なんて無理な話を前提にするんだからそれくらいの無理矢理設定はしないと
なんなら
1573年1月 織田信長 岐阜城で何者かの刺客にかかり急死
でもいいぞ。
少なくとも信長生きている間に信玄の上洛は無理だから

245 :
勝頼父子がそうなったように首だけになって上洛、とか笑えん結果になるからな……。

246 :
>>244
ふつうに北条氏康がうらぎらなければだけでいいとおもわれ。

247 :
信玄は天下を治める器じゃないしね。機会主義的に周りを侵略しているだけ。
上洛どころか美濃や三河を掠め取ったらとっとと妥協しちゃうかも。

248 :
鴨川氏が家康に一撃を加えた後に東美濃の別働隊と
信玄が合流して岐阜を攻めて信長を滅ぼせたかも知れないと主張しているが、
森田善明も新著で鴨川氏の意見に賛同して
信玄が朝倉や浅井に5月を目標スケジュールに据えていたのは
飯田から東山道を使って東美濃へ進出する際に通過する
神坂峠の雪解けを考慮していたからだと主張してるな。
信玄は野田城攻略完了して信濃へ進軍した時は
まだ花押も書けるほど元気で、その後に急に病状悪化し急死したと。
(信玄は面倒な時は朱印で誤魔化していた)
そして信玄が死去した時期がちょうど雪解けして進軍可能な時期になっていたと。
(永禄の暦だと雪解け3月下旬から4月上旬)
だから信玄は「信長滅亡の時がきた」と自信を漲らせていたと主張してる。

249 :
>>247
さすがにそれはないね

250 :
>>248
「花押も書けるほど元気」www
元気のレベル低いのなwwwww
>>249
もう、いいっ…
もう、休めっ…

251 :
信玄と対峙する敵陣に神風あらわれ、敵大将もろとも吹き飛ばし
時には、雷鳴とどろき敵大将の頭上にイナズマ落ち
時には、地響きと共に地面裂け、敵大将を突き落とし
人々は、信玄を神の化身と恐れ
まさに戦わずして勝った信玄は、向かうところ敵無しで上洛したのであった

252 :
ただの魔物じゃねーかw
まあそれぐらいじゃないと織田には勝てないか武田……。

253 :
魔物じゃ第六天魔王には勝てない気がするのw

254 :
なるほど。
やっぱり織田信長ってもってるんだな。
正直羨ましい。

255 :
結局は運の良い奴が勝つ。
いつの時代もいっしょだよな。

256 :
ヘ:::::::::;;: -‐''''""( )1
 ゙、::::::::-‐''""" ̄"'i
  :V;;||:::: '~ニ=ッ, r='| 
  i!f !:::::      ゙、i
  i!ゝ!::::     ‐/リ
  i::/:、 :::、  /''ii'V
  ̄ハ:::::\ "''il|バ''
 ショカツリョウ
 諸葛亮 曰く 『勝負は時の運です。』

257 :
武田は、織田のピンチに背後からつけこめるという幸運が巡ってきてさえ勝てなかったからねえ。

258 :
信長は運だけ人間だな。
はっきり言って破壊屋でしかない。

259 :
運だけの人間に滅ぼされた武田以下の勢力とはなんだったのかw

260 :
運すらない単なる壊し屋って事だろw

261 :
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

262 :
まあ武田の場合は同盟者である織田を自分から切って攻撃しかけて、それで滅ぼされたわけだから……。

263 :
>>262
お前ほんとのキチガイだよなw
織田チョンってしつこさだけがとり得だなw

264 :
×織田チョン
○武田チョン

265 :
>>239
家康は本当によく逃げ切ったよね。
それが無かったら、信長は完全に終わってたと思う。

266 :
家康の強運に助けられて棚ぼたの信長の更に棚ぼたで秀吉の天下か
最終的には家康の強運にかえったけど

267 :
家康が棚ボタとか無知乙としか
西三河で独立した時なんて額田・碧海郡くらいしかなかったし
三河一向一揆では譜代衆半分も敵方として交戦するなど前途多難な状態だったのに

268 :
史実を真摯に追及する精神の者以外は歴史に関与してはいけない
日本にはそういう厳粛な姿勢で臨む文化がない
勿論、お隣の国は完全に真逆で捏造してでも歴史を改竄してやろうという精神で来るが
そこまでして何の意味がある
そこまでいくと宇宙の創造の否定というか宇宙が存在する意味がないと思う
極論すれば、そんな宇宙は誰か一人の存在の脳内妄想でいいわけだ
わざわざ大掛かりに広大な宇宙を神が顕現しなくてもよいのだ

269 :
あんまり言いたくないが、やってることがまんま半島系だもんな
元来、日本人は感情のみで動く非合理性の生き物だけどな

270 :
610 :名無しさん@実況で競馬板アウト:2012/05/26(土)
ส็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็
http://keib

271 :
6ydvpHLq0
ส็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็

272 :
>>267
信長は三方が原以降、ろくに援軍を出さなかったから、
家康に凄い引け目があったのかも。
娘婿の粛清も簡単に許可してるし、水野も潰してあげてるし、
饗応も最上ランクの対応だし。

273 :
>>267
はっ?三河一向一揆で活躍したのは大久保一族で家康はなんもしてないじゃんよ。
最前線の上和田にいた大久保忠俊の息子や甥はみんな目を射られて失明しまくり。
それでも奮戦して講和の契機を作り出したのも大久保。
大久保のおかげで永禄6年秋開戦で、翌年2月降伏とたった半年で一向一揆を軽く平定できた。
しかも三河三か寺と本宗寺の破却、首謀者追放、帰参者の強制改宗の条件で。
信長死後の天正11年まで20年間一向宗禁制にしてる。
これ松平記でも三河物語でも共通してて、アホ信長みたいに一向宗と10年も無駄に争うこともなく
大久保のおかげでさっさと三河一向宗戦を片付けて内戦を華麗に終結させ、
続く今川大内乱の遠州錯乱とか遠州忩劇へ介入し火事場泥棒したり
信玄の駿河侵攻と信長が下克上されて死んだ後の旧武田領泥棒、関東移封で250万石、
秀吉死後の豊臣家内の争いに介入して関が原など、
完全に棚ボタの連続じゃんよ。
家督をすでに譲渡していた義元が
永禄3年5月19日に桶狭間で討死した一次史料は存在してないし
(公記では天文21年5/17と信秀死後直後に起きた戦いと書き、しかも信秀の死去年まで操作捏造。
戦の経過もむちゃくちゃで、平地の中島砦から2000未満で出撃した信長は
高台に陣していた今川勢45000に正面から挑んで破ったとデタラメ捏造軍記ぶりを晒す)
実際、その後の今川は相変わらず精強のまま。
今川の衰退は永禄6年12月から始まるとされているのも知らん無知ぶりを
晒すあたり、織田厨ってほんと何も知らんな。
遠州錯乱とか遠州忩劇と呼ばれる
遠江での相次ぐ大規模反氏真
国人達の自立行動により
三河とも連絡が取れなくなったから。
その隙に家康が永禄7年6月に吉田城を徳川方にしてしまった。
義元は重臣達との合議体制を敷いていたが
氏真は三浦正俊や小野道好ら側近を重用し独裁した為に、
遠江曳馬城主飯尾連竜が、
犬居城主天野景泰・元景父子、二俣城主松井宗恒ら
政権から外された遠江の国人重臣達を誘い今川から離反した。
しかしこの時期の駿河衆の団結は固く今川に忠誠を誓っているのが確認されている。

274 :
んなアホな論法でいちゃもんつけるなら秀吉が一番棚ボタ
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
対柴田戦でも柴田が雪でも動けて稲葉や勝豊や信雄が柴田側で前田や不破・金森が兵を引かずに
佐々も全軍で出てこれたら秀吉は負けてただろうし
結局織田家のゴタゴタにつけこんで火事場泥棒したにすぎん

275 :
戦国時代を平定した秀吉
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/
本願寺が朝廷の和議に応じた後に
信長が天正8年8月に出された佐久間親子弾劾状には
明智が丹波、柴田が加賀をそれぞれ一カ国平定したことを挙げているが
秀吉の場合は数カ国比類ないと信長が述べていて
天才秀吉が別格扱いの実績を叩きだしてる。
その攻略スピードの速さと言い異常すぎる。
さすがその神速で明智と柴田を速攻で滅ぼして天下統一しただけある。
神が与えた大略を持つ秀吉がいなければ信長は朝倉軍にぶっ殺されて終わってた。
しかし謙信や丹波の赤鬼が死去するラッキーがあり
さらに天才秀吉が宇喜多を調略してしまったことで
毛利は大幅に戦線を後退させざるを得ず、
播磨兵庫・摂津尼崎・淡路岩屋に軍を駐留させていた毛利軍が
撤退した為に荒木や別所が降伏することになった。
愚かな信長は宇喜多の調略成功を報告にきた秀吉に激怒して
追い返してしまった。
やはり信長は戦略眼が無いが
毎回、危機的な状況での秀吉の天才ぶりが光る。
排便などの衛生管理は非常に重大な問題で
北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。
秀吉はそういったシステムを作る天才だから
速攻で全国制覇したし、海外遠征まで実現できた。
敵中孤立で信長から捨て駒にされての横山城で浅井の攻勢を寡兵で
圧倒していた秀吉の軍才がなければ信長が近江攻略どころか敗死していた。
だいたい本能寺前夜の秀吉は宇喜多の属国化や播磨や但馬や因幡や淡路など
自勢力で100万石越えの実力者。
信長も秀吉を警戒して安土に召還したり宇喜多を独断で許してるのを激怒したりと猜疑で見ていた。
しかも耶蘇会の1584年の年報にも
はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。

276 :
信長には分国法すら無く、単に室町幕府に寄生してたら下克上された
歴史的意義の無い実質10年弱で淘汰された畿内政権だからね。
島津が「こんな遠くに秀吉はこないだろう」と思っていたのは本当
それは別にお前さんが言ってるような政治的理由なんか関係ない
博多があろうとなかろうと、島津は秀吉はこれないと思っていた
それはなぜか?距離の問題だ
適当体制の信長が武田攻め程度の距離で、兵糧におっかなびっくりになってた事実を考えてみろ
旧来の放任主義な適当体制じゃ、九州まで10数万もの兵を送り込んで維持する事はできない、
送れる兵力なんてたかが知れてる、それなら島津が遅れをとる事はない、
これが島津の目算だったし、それは実際にある程度ただしかった
信長政権のままだったら九州に大軍で侵攻する事は難しかったろうな
しかし、当時には東国で既に今川・武田・北条・上杉をはじめとして領内に細かく指示を出して、領国を整備・掌握し、
それによって軍役や軍事力の構成、さらには兵站を円滑化させようとする試みが進められ、成功していた
秀吉はそれと同じような要領で、信長がそれまで手をつけなかった畿内の流通や利権の掌握・整備を進めていき、
10数万もの大軍を九州まで送り込み、維持する事が出来る体制を作る事に成功したわけだ
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地
興福寺大乗院跡750石
興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
つかできない。
武田や北条では常識だったが貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。

277 :
一次史料をみる限り石山本願寺が降伏する以前の織田軍兵力は1万〜3万しか動員出来てない。
織田軍が攻めこんだ先は摂津や河内・大和など一国亡国と記述されるなど、
軍が略奪による現地調達方式なので多方面に敵を作るデメリット付き兵力分散して軍を養う必要性から大軍集中が無理。
しかもそこを領国にしても荒れ果ててる。よって国力の単純比較は成立しない。
信長の軍事政策にはまるで評価されるところがない。
常備軍や兵農分離なんてデタラメであるばかりか
そもそも基本である法度に従って寄子を取り締ることもしてないし
貫高に応じて負担する軍役の内容を細かく指示したこともない。
秀吉は兵站補給概念を持っていて奉行衆による計画的な物資管理や
大軍進駐に伴う排便処理による衛生管理を編み出すことで
信長には不可能だった「位攻め」戦略を多用し瞬く間に天下を統一してしまった。
位攻めとは、圧倒的大軍を用いて相手の軍の士気を崩壊させ服属を強要する戦略。
信長の現地調達方式では大軍の集中は不可能であり、
戦力崩壊を起こす攻勢限界点が存在する。
長篠の戦い直後の6/13の謙信への信長書状では嘘がすぐバレると思ってか
「数知らず」と書いて討取り数を明言しなくなっている。
さらに家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
本能寺の変勃発で千載一遇の大チャンス到来。
しかし機を見るに敏な天才秀吉の口からのデマカセ詐術に
見事にひっかかる古今東西最強のバカ兄弟隆景&元春
織田厨は相変わらず無知だな。
不利どころか毛利にとってむちゃくちゃおいしい条件だった。
なんせ備後、備中、出雲、伯耆、美作の五カ国が毛利へ割譲されると言う
話で決着が図られていたと言うスーパーいい加減なデタラメ口約束だったんだから。
だから本能寺の変直後の秀吉と毛利側の和睦起請文にはこの条件はまったく明記されてない。
これがのちのち大問題に発展する。
つうか小早川と吉川が毎回バカな方針対立するから毛利の騙しやすさは異常w
当然この時の約束なんて交渉の切欠でも何でもない。早く退却したい秀吉の口からでたデマカセ。
当初の秀吉側へ因幡・美作・伯耆半国・備中半国割譲で手打ちなんてのは途中で話が摺り変えられていたわけだ。
しかも起請文には明記していないと言う詐欺的手法で秀吉の手玉に乗せられ見事に毛利は騙された。


278 :
んなもん信忠勢らの大軍での援軍と毛利が圧倒的なチャンスを台無しにするようなヘタレで
南条や宇喜多に足取られてたからってだけの話だろ
別所や播磨国人らによって序盤は大ピンチで雑魚の毛利軍に熊見川で蹴散らされてたし播磨一国にかなり苦戦してたし
毛利がヘタレすぎて助かっただけにすぎん
対浅井朝倉が秀吉のおかげで勝てたとか公記ソース脳丸だしじゃねぇか
箕浦の戦い=一次資料にないデタラメ
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
対柴田戦でも柴田が雪でも動けて稲葉や勝豊や信雄が柴田側で前田や不破・金森が兵を引かずに
佐々も全軍で出てこれたら秀吉は負けてただろうし
結局織田家のゴタゴタにつけこんで火事場泥棒したにすぎん

信長が運よく本能寺で殺されて光秀が運よく逆賊の汚名背負い大義名分得たおかげで味方が多く集まり楽に戦えたおかげで勝てただけ
その後信雄信孝の内紛につけこんで織田家を火事場泥棒しただけ
周辺諸大名も味方する者多数
棚ボタ中の棚ボタが秀吉

279 :
必死に罵倒しても、史実で武田がその罵倒した相手に滅ぼされているんだから全部……ねぇw

280 :
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

281 :

>>序盤は大ピンチ
それは義昭上洛した時の永禄12年の織田軍の播磨・但馬侵攻の時は
2万の軍勢だったが、天正5年10月に秀吉が京都から播磨へ出発した際は
織田軍与力がなく、ほぼ長浜衆独力で中国へやってきていたから。
そこで秀吉は但馬銀山を早期制圧して資金面の貧弱さを補うべく
播磨から一気に奇襲北上しているが、その際の兵力はたった3000。
永禄12年の時は10日で養父・朝来郡18城を陥落させたが、
天正5年の秀吉軍は18日で両郡を平定して、前野長康に銀山支配を委任してる。
このあまりの強さと速さに出石有子山城の山名祐豊も毛利軍もどうすることもできなかった。
さすが天才秀吉である。完全にビビった山名に出石・城崎・美含・ニ方の4郡を
信長には黙って独断で安堵の条件を出してる裏で、北但馬各地の国人達へ夜も休まず
使者を派遣しまくって秀吉方に付くように説得しまくった結果、
天正6年春には山名氏政が土産をもって秀長の但馬竹田城へ訪問し但馬全域平定。
>>信忠勢らの大軍での援軍
これ上月城に籠城する尼子を見捨てろ命令とセットで
信長が毛利との決戦を避けただけで
秀吉はメンツ丸つぶれになったんだが。尼子を見捨てることに秀吉は落涙したと言うしな。
せっかく尼子軍と秀吉が共同して毛利の先陣でやってきた宇喜多軍を撃破して
上月城を落城させ播磨但馬両国を平定成功し士気があがってたにも関わらず。
そもそも三木別所が離反したのは赤松家臣として同列だった別所と浦上の関係を無視して
浦上の配下に別所を繰り入れた信長の失策が原因で、
のちの荒木の謀反もそれまで荒木が指揮していた地位が奪われていき摂津戦線を佐久間に、
播磨戦線を秀吉に取られて、ゆくゆくはリストラされるのではと考えたから。
さらに秀吉同様にほとんど兵力も、調略の下準備もなく信長の気分で丹波へ派遣された光秀が案の定大敗して
秀吉は畿内との連絡も断たれる中で独立勢力同然に孤軍奮闘していた。
絶望的なのは信忠の軍も東播磨の神吉・志方郡でチョコっと軍事行動したらさっさと帰り
(6/16に秀吉が上洛して報告→三木城の支城で神吉城は7/20落城し、それをみた志方城は人質を出して8/10開城)
三木城攻めは実質、秀吉軍独力でやっていた。毛利水軍の兵糧運び込みも阻止するために
秀吉は各地に砦を造り毛利軍の排除を行っている。
しかも同時に光秀の苦境を救うために秀長の但馬衆4000を三木城包囲から抽出して西丹波へ侵攻させ
無茶な夜久野高原迂回奇襲で波多野氏が何ら手立てを及ぶ前に天田・何鹿郡をわずか7日で平定し、
波多野氏の本拠地の氷上郡へ乱入。これに光秀軍も合流してきて落城に追い込む。
天正7年に入り、吉川元春が但馬攻略を目指し「八木・竹田をまず抱えて」と竹田城に付随する銀山再奪取を目指し
毛利方に呼応した但馬衆と合流すべく8月に但馬へ大軍で侵攻してくるが、ここでも天才秀吉の尋常ない辣腕ぶりを発揮。
元春の背後の南条元続と宇喜多直家を見事に調略して元春の背後を見事に封鎖し、
元春に味方した因幡の山名豊国の動向すら怪しくなってくるし、丹波派遣中の秀長軍も来援との風聞を流す。
元春が逃げ帰る中で、毛利に呼応した西播磨の国人達を制圧するや、
毛利方に呼応した但馬衆は秀長6000でフルボッコ、秀吉は因幡へ侵攻開始。
>>熊見川で蹴散らされてたし
熊見川は一次史料にはない。毛利講談軍記の捏造。
完全に天才秀吉が独力で中国地方を平定していってる。
信長はむしろ秀吉の足を引っ張ってるだけ。

282 :
>>281
妄想はいいからソースを出してくれ

283 :
東京大学史料編纂所HP
毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記

[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記

[参考]柏崎物語
【管理番号】
020100216456
【編/冊/頁】
10編911冊179頁
【綱文和暦】
天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】
毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、

【区分】
史料綜覧

284 :
また織田厨の負けか。

285 :
勝ち負けとかw
こっすいなwww

286 :
適当な史料を引っ張ってきて
適当に捏造した長文を書き
最後に「また織田厨が負けた」と書く
いつものアスペルガーだがの仕事ですw

287 :
少なくとも所持する情報の質と量においては、完敗だよね。

288 :
どっちが?w

289 :
どっちとか言う以前に、織田厨は何の史料も提示してないよね。
ぶっちゃけ負け犬の遠吠えしかしてなくね?
285とか286とかw

290 :
>>289
そりゃあだがが言ってきた事だからな。
だがが史料を出すのが当然だろう。

291 :
そもそもここまで一連の流れは全てだがの自演
わかりやすいのが>>282>>283
282 :人間七七四年:2012/05/26(土) 18:26:29.11 ID:ljVAdvEn
>>281
妄想はいいからソースを出してくれ
と言っているにもかかわらず、>>283では同一IDの人間が史料を出している
283 :人間七七四年:2012/05/26(土) 19:47:21.10 ID:ljVAdvEn
史料の名前を延々
「無知な織田厨」というのを自ら作り出し、ドッペルゲンガーとして作り出した「無知な織田厨」を
延々と叩き続けるアスペルガーだが。甲陽軍鑑を出せなかったことがよほど悔しかったと見える
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/24.html
上洛スレ60事件

292 :
こいつは武田ファンの聖典()・甲陽軍鑑すら平気で捏造するカスだからなぁ……。
原典を写真うpでもしてくれないと信用されんのは自業自得。

293 :
>>273
家康凄いね。

294 :
ส็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็

295 :
>>283
それのどこに一次史料があるんだよwww
無知過ぎてワロタwww
そんなザコ名を挙げて証明したつもりなのかwww

296 :
>>295
東京大学資料編纂所の綱文じゃちゃんと雑魚吉が負けた事になっている
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記

297 :
で、それがいつもの武田厨最底辺である「だが」の捏造じゃないという証拠は?w

298 :
秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚
毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが
備前・美作方面に出兵すると大苦戦
元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい
絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ

299 :
ID

300 :
ID変えてのコピペはいらんから。捏造じゃないって証拠だせよw
できないのかな〜???

301 :
東京大学資料編纂所HPで検索すればでてくる

302 :
そもそもスレ違いだし。
途中の小さな局地戦敗北(しかも捏造疑い濃厚)を言い立てて貶しているだけだし。
しかも最後には優勢になったことを、ひねくれつつも結局認めざるを得ない状況なわけだしw
こいつは本当に何がしたいんだ。
批判されることそのものを喜ぶマゾ荒らし?

303 :
局地戦てか主力級連れてきたんだから主力決戦だろ

304 :
もう恥ずかしいにも程があるなw
東大の名前を出せば一次史料に変身するのかwww
でさ該当部分の文章を抜き出して書いてみろよwww

305 :
狂った武田厨は、武田に勝って滅ぼした織田系の武将が嫌い。
ここまでは分かるが、嘘ついてまで貶めるレベルとなると全く理解不能だ。

306 :
東京大学史料編纂所HP
毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記

[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記

[参考]柏崎物語
【管理番号】
020100216456
【編/冊/頁】
10編911冊179頁
【綱文和暦】
天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】
毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、


307 :
もう恥ずかしいにも程があるなw
東大の名前を出せば一次史料に変身するのかwww
でさ該当部分の文章を抜き出して書いてみろよwww

308 :
まぁ、尼子を織田が見殺しにしたことだけは本当だろ

309 :
毛利家の資料は偽文書だらけだからな。
というのも毛利の歴史編纂事業で
藩士に資料提出を求めた際に
資料の信憑性を一切問わずに
言ったもん勝ちで記録していったからなあ。
つか疑うなんてことが、
できなかったのが現実なんだけどね。
研究において毛利家文書や吉川文書レベルじゃないと一次史料扱いされない。
それですら元就や吉川広家らが生前に記した書状には
自己擁護・自己弁護・自己正当化をやっていて問題が非常に多い。

310 :
おまえのレスは偽情報だらけだがな

311 :
毛利にも苦戦。
結局あの時点で、織田信長に勝ち目ないってことか。

312 :
武田厨ってそんなに苦しいの?
スレ違いプラス捏造プラスコピペ爆撃に連日必死で。
まともに論争したら、捏造と知識なしがぼろぼろ出て恥かいた「だが」一人がID変えてやてるのやっぱ?

313 :
なに?どういうこと?

314 :
織田戦争弱すぎだな
こりゃ信玄生きてれば余裕で上洛できたわ

315 :
毛利との戦いで苦戦って、上杉謙信上洛戦の時か。
織田信長って、マジで2大英雄に滅ぼされかけてたんだね。

316 :
いや、そんな堂々と自演されても・・・

317 :
もし毛利元就が本気で上洛しようとしたらできたかも。
武田信玄とどっちが強いんだろう?

318 :
>>317
毛利は後ろに大友がいる限り無理だろ

319 :
>>317
その場合北九州は全て放棄するしかないな、つまり博多を完全に諦める
ことになる。そうしたら大友が背後を襲う可能性はかなり低くなると思う。
しかし大友に負け続けた元就が東に向かえば勝てるという保障はどこにも
無いだろうね。

320 :
織田厨はソースを出さずに
妄想を語るアホ。
そして論破宣言の連続w
しかしその論破したレスを教えろと言っても黙Rるだけw

321 :
大友は大内再興という名分もあるんで北九州どころか周防と長門放棄せんと無理じゃね?

322 :
それは無理っしょ。
大内当主はかなり早い時期に使い捨てにしてるし。

323 :
>>320
まあ史実で武田は織田に滅ぼされてるからなぁ…w
妄想でしか勝てない武田厨と違い躍起になる必要がないんで

324 :
>>320
ソースを出さずに妄想から論破宣言のゴリ押しはアスペルガーだがの得意技
オマエ自身が自己否定しているところに笑える

325 :
織田厨はソースださんから
読む価値ないし、黙殺スルーで大半のレスを読んでないな。

326 :
煽りの質もおちたな
煽りの内容すらも妄想

327 :
>>325
>読む価値ないし、黙殺スルーで大半のレスを読んでないな。
お前自身が都合の悪いソースを無視してることに気づいたか
墓穴掘ったな

328 :
>>320>>323-327
きみたち、ばかすぎて、ぎゃくにおもしろい。
もっと、もっと、ここで、どうでもいいその、
かいわを、つづけてほしい。

329 :
ぼけつをほったな っていわれたひと がんばって はんろん !

330 :
信玄が政権を掌握したときの土地分割は次の通り
武田本家
甲斐、信濃、駿河の富士川以西、遠江、尾張、美濃、
浅井長政
近江
徳川家康
三河
北条氏政
駿河のうち富士川以東
明智光秀
伊賀
松永久秀
大和
朝倉義景
越前、若狭
武田勝頼
摂津、河内
以上

331 :
>>330
三好・本願寺・六角・機内の小勢力はそろって粛清か。
浅井が領地倍増以上なのに朝倉は若狭だけ、浅井は武田に賄賂を
送ったに違いない。

332 :
本願寺をいったいどうやってそんな簡単にw
信玄とも縁戚関係にあるのにwww

333 :
本願寺顕如、三好義継、荒木村重は、勝頼によって粛清されたのだろう。
信玄以上の名将と評される男だしな。
ところで伊勢はどうなったんだろう?

334 :
別に本願寺は摂津一国を欲しがってたわけじゃねーだろ。
加賀能登越中でも与えてやれば、上杉を牽制してくれるだろうし。
浅井なんて、そもそも朝倉配下みたいなもんだから
朝倉与力扱いで充分。
六角にも本領安堵してやればいい。
近江が武田味方勢力なら問題ないし、
叛旗したら本願寺に一揆を頼めば良いだけ。
彼らに軍役をかけて中国地方に攻め込むだけだろ。
義昭が勝頼を養子にでもするんじゃね。
義昭の実子なんて0歳児だし。

335 :
御料地として天子に寄進したに決まってるだろ

336 :
では、
もともと北条氏とは富士川以東を割譲することを前提に援軍を依頼した経緯があるから、
武田…甲斐、信濃、駿河西部、遠江、尾張、美濃
北条…駿河東部
徳川…降伏して三河
三好…南摂津、和泉、河内、淡路、阿波
足利…山城
六角…南近江、伊賀
浅井…北近江
朝倉…越前、若狭
明智…丹波
荒木…播磨
本願寺…布教権益
なお、足利義昭は統治機構から切り離され、オーナーとして奥に退いている

337 :
紀伊…堀内
伊勢…龍興

338 :
龍興は武田家臣に編入した上で
東美濃に領地を宛がえばいいだろ。
伊勢は北畠が武田と懇意だから渡せないだろ。
甲陽軍鑑には、天正3年に信長が長篠への援軍拒否した際に
家康が「援軍くれないなら同盟はあなたが破ったので、
私は三河を勝頼にあげて、代わりに武田の先鋒になって
尾張を勝頼からもらう」と言って脅迫したと書いてるから
三河を武田領化する代わりに
家康も武田家臣化した上で尾張半国くらいやろう。
いずれも新領土の円滑な支配を達成するために
地域の事情通を配置する目的として有効だろう。
家康や龍興は武田軍の先鋒としてコキ使って中国征伐へ向かおう。
東国は本願寺と北陸一向宗&北条氏政に一任しとけば安心だろ。

339 :
三好や畠山には分割した河内の上下でも与えて
西国切り取り自由にしてテキトーに働かせておきゃあいい。

340 :
もっとも龍興はとりつぶし含みでの加増ではアリマス

341 :
この流れ訳が分からない
上洛後武田包囲網できて織田よりも悲惨な運命辿って終わりだろ
将軍建てた大名家は三好にせよ織田にせよ同じ運命たどっとるわ

342 :
三好長慶は天寿をまっとうしてますが何か?

343 :
>>336
>なお、足利義昭は統治機構から切り離され、オーナーとして奥に退いている
織田信長がやったことの繰り返しかよwww
足利義昭は武田追討令を諸大名に送り(ry

344 :
そして
「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」
となるわけですね。

345 :
そそ
そして今度は北条氏政あたりが足利義昭の要請に応じ武田信玄を討ち取って上洛成功
歴史は繰り返されるってやつですね
織田→武田→北条→蘆名→伊達→小野寺→斯波…

346 :
足利義昭最強スレかよ

347 :
>>336
徳川、浅井、六角、斎藤なんかは問答無用で西国方面に国替えだろ。
先祖伝来の土地に戻すなんて危険すぎる。
明智も義昭付きとしてこれも西国方面へ飛ばすか。
当面の粛清対象は荒木と浦上だろうか。三好は内部分裂を煽らないといけないだろう。

348 :
そんなもん承服するわけがない

349 :
>>347
いざとなったら一向一揆をそれぞれの領国で起こさせるから問題ない。
足利と同じ河内源氏だし、
東国に本拠を持つ源氏ブランドこそ至高だよな。
将軍か、その息子の義尋のどちらかと松姫や菊姫の婚姻をさせて
ついでに義尋を養子に迎えて将軍後見人に信玄がなればOK
氏政に関東管領職でもやれば、泣いて喜ぶだろw
一向宗と家康と長政とを先陣に幕府の旗の下に毛利征伐開始だな。
三好のガラクタどもも義昭に降ってたから、西国案内に利用してやろう。
河内半国はやるが和泉は召し上げて、西国切り取り自由。
畠山も河内半国と紀伊を安堵してやるから遊佐ともども西国出馬。
まぁ大友あたりは外交センス抜群だから、すぐ寄ってくるだろうから、三好らとともに毛利を挟み撃ちにしてやろう。

350 :
武田厨の恐ろしく馬鹿な発想が痛々しい
織田が健在の時は本願寺、北条、三好、松永、朝倉、浅井、六角、斎藤、北畠を名将の如く讃え
武田が実権を握った途端、彼らは無知無能の愚将の如く扱う御都合主義の極み
せめておまえらの妄想世界でも反武田連合を結成する彼らの気概を見せる活躍の場を与えてやれよ
正直つまらん展開だ

351 :
>>349
当面の敵はやはり毛利元就か。かなりの強敵だな。

352 :
そもそも不可能な上洛が成功してると言う前提で語ってるから仕方ない

353 :
ということは武田信玄も織田信長と全く同じことをするだけということだな
武田厨の妄想も織田信長の後追いにしか過ぎない
これが妄想の限界

354 :
同じ事を繰り返さない為には、
足利義昭の御内書2発目を如何に食い止めるかだよな。
平島公方を使うか。

355 :
足利義昭と三好義継は縁戚だからな首の挿げ替えは簡単にいくまい
武田信玄は駿府の時と同様に京都でも放火するから人心の掌握に失敗
徳川六角浅井朝倉北畠斎藤赤松山名伊丹池田和田三好松永も当然各地で謀反
北条上杉毛利長宗我部も反武田で一致団結
武田の頼みの綱である大友や佐竹も竜造寺や芦名の攻勢にてんやわんや
本願寺も武田と距離を取り勝頼を見捨て傍観
当然のことだが姻戚関係上本願寺は義信派で諏訪勝頼に義理は無い

356 :
>>355
三好義継も三好長治に挿げ替えるしかないか。
和田とは和田惟長のことだろうか?

357 :
武田信玄が上洛に成功しても、寿命が近いのは事実。
再び世は実が出る

358 :
>>355
すでに信長が上京を焼き討ち&略奪恐喝虐殺済み。
信玄が諏訪大社のように
京や比叡山でも再興に力を尽くすでしょう。

359 :
>>356
和田は生存説を採ってみたがダメなら降ろしていいよ
それほどのこだわりはない
足利義維の寿命は史実どおりでいいのかな?
とりあえず阿波衆は喜ぶかもしれないが摂津衆を中心に畿内の勢力は当然激怒でしょうな
阿波衆が明確に武田側にまわれば長宗我部の阿波侵攻に都合がいいのでむしろそれでお願いしたいくらいだ

360 :
>>358
>すでに信長が上京を焼き討ち&略奪恐喝虐殺済み。
寺に禁制を与えているので略奪らしい略奪はないよ
分かっていると思うが焼討後の京都はものすごい発展を遂げ町が増えている
そもそも上京焼討は前もって告知しているので甚大な被害は出てない
武田の駿府焼討は手当たり次第の暴挙だから
しかもめぼしい物も全て燃やし尽くす徹底ぶり
分かっているとは思うけど武田は禁制の類を一切出していないから

361 :
あー武田は禁制を出していた可能性もあるが禁制があったとしても全て燃やし尽くされているので全く意味が無いのでヨロ

362 :
つーか武田が鳳来寺から甲斐に退却するのは3月だろ?
上京焼討は4月だから信玄が生きていれば焼討は無いだろ

363 :
永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。
永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに
まずは小手調べで賀茂〜嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
恐ろしくなった上京が払った銀1300枚の受け取り拒否した上で上京を焼き討ち略奪。
(信長に金を渡しに行く際に織田軍に略奪され、改めて高利貸しから借金して信長に渡すなど酷い状態になったりした)
御所への延焼の恐れが出てきて天皇も逃亡準備。桂川が死体で埋め尽くされる大虐殺開始。
下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
しかしあっちゃこっちゃ延焼しまくりで火だけは統御できない。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし
宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
しかしもう恐喝できる相手すらいなくなり
みんな貧民だらけになってしまう現実・・・

364 :
>>353
織田信長の包囲網と決定的に違うのは、武田信玄に相当する勢力が無い事だよね。
更に甲斐、信濃、美濃、尾張、遠江を直接統治してる時点で、少なく見積もっても信長の2倍の勢力。
もはや互角に戦える相手が居ない。

365 :
>>364
ぶっちゃけ上洛後に浅井朝倉本願寺足利上杉北条の包囲網組まれて終了だろ
歴史は繰り返す

366 :
>>365
ぶっちゃけ、三好、徳川が既に滅亡してるんだったら、大した脅威じゃないかな。
それにまた北条まで敵に回るとかありえない。
信玄の方からは北条を裏切った事がないし、北条は上杉と組む愚をもう学習してる。

367 :
365と366の意見、可能性があるとするなら365の方だろうな。
同じ妄想なら365の方がはるかに面白い

368 :
義昭が仲介すればどんな勢力でも同盟を結べるらしいからね。
365のほうが可能性は高いな。

369 :
でも武田信玄包囲網には、武田信玄がいない。
意味分かるかなー

370 :
うん、信玄はいないけど謙信は居るよね

371 :
一向宗と北条で謙信は抑えられる。
いざとなれば葦名や伊達もいるし。

372 :
>>369
お前は自分の妄想をゴリ押ししたいだけなんだろ?
だからつまんねーんだよ気づけ

373 :
365の仮定に則っているから問題ないと思う。
三好徳川六角斎藤が滅亡
浅井朝倉本願寺足利上杉が同盟。

374 :
>>373
>365の仮定に則っているから問題ないと思う。
そういう薄汚い嘘をつくからダメなんだよ
お前は都合よく改竄しているから話にならない
365の人
>浅井朝倉本願寺足利上杉北条の包囲網
373の人
>浅井朝倉本願寺足利上杉が同盟
お前は365の意見を尊重しているフリをして馬鹿にしているだけ
仮定に則っている演技なんかするなクズ人間

375 :
当然だと思うよ。
366で指摘されて以降、北条が武田を裏切る根拠を
全く提示できていないからね。

376 :
義昭が仲介して終わりだろ?
将軍が仲介したら同盟が必ず組めるそうだし

377 :
信玄が義昭の忠実な犬として働き続ける限り、「武田包囲網」ができる可能性は低いんじゃないかね、実際。
大義名分が立たないし。
本願寺も権益を認める限り、対抗してこないだろうし。
上杉がどう動くかは微妙だけど。将軍家重視、といいつつ織田包囲網の間も武田と戦ってる人だし。
うまく行けば、足利幕府のシステム復活はできたんじゃなかろうか。
武田は源氏だから、管領にはならないはずだし、やっぱり副将軍かな?
ただ、他の大名の権益を認めなきゃいけないから、足利幕府後期の管領レベルの権力しか、武田の手には入らないだろうね。
つーか、三好氏レベルかも。

378 :
忠実な犬でも煙たくなったら排除される傾向にあるかな、足利幕府歴代は(例:伊勢氏)
そもそもただでさえ家臣団の暴走で四苦八苦してる信玄が忠実なままでいられるとは到底思えないな

379 :
>>377
>武田は源氏だから、管領にはならないはずだし、やっぱり副将軍かな?
斯波氏も畠山氏も細川氏も足利一門の源氏ですよ・・・

380 :
>>375
君は373で「365の仮定に則っているから問題ないと思う。」と書いているのに完全にID:7pwyWquu自身の都合で書いていることを認めちゃっているね
これで374が言っていることの方が正しいということを理解できたよ

381 :
同じ源氏の今川、徳川を攻め、伊勢の北条と手を組み、信濃守護を追放、義輝の停戦例に従わず
こんなたけだが将軍と仲よしこよしだとさ

382 :
>>376
徳川と武田との同盟は組めなかったから、必ずというのは無いね。
なにか他に根拠あるの?
それに北条を包囲網に組み込むのはどう考えても無理かな。

383 :
北条と武田の同盟を崩せない限り、包囲網側は相当厳しい。
将軍も妥協して武田家の影響下に収まるしかないかな。

384 :
武田と織田も当初同盟してたよね
しかも北条は武田を信頼していないし、戦火を交えたばかり

385 :
史実での武田の外交を見たら長続きした同盟は皆無
すぐに破綻するのは当たり前なので武田と北条の同盟は解消の方向で話を進めます

386 :
そうなると武田は甲斐信濃上野駿河遠江尾張美濃摂津と防衛ラインが広すぎる
孤立した摂津の勝頼は死亡は確定
尾張美濃遠江駿河は放棄して甲斐信濃上野の防衛に専念するのが無難

387 :
>>385
それはどの大名も同じだけど?

388 :
娘婿を優先し武田信玄との同盟を破棄した北条氏康はもう死んでいるからね。
そもそも信玄の方から北条を裏切ったわけじゃないし。

389 :
織田の場合も武田から裏切ったわけですが
織田が裏切った例ってあんまりなかったような

390 :
>>387
どの大名も同じなら武田と北条も同盟解消で進める
>>388
それはお前の妄想だ
武田は北条の娘がいる今川と敵対した時点で北条とも敵対だ

391 :
長宗我部とか水野とかは、織田が裏切っているよ。結局、同盟続いたのは徳川だけ。
それも援軍送るの渋って危うかったけれど。

392 :
遠江尾張美濃は誰から攻められる仮定なのだろう?

393 :
ID:7pwyWquuだけが武田北条同盟に必死にこだわっていて話が進まん
武田信玄サイドは俺が担当するからこいつスルーでいいんじゃね?
当然武田と北条とは敵対で構わんよ

394 :
>>393
とりあえず武田と北条の同盟を死守したら、
包囲網側の負けって事で意見が一致したわけだから次に進めていいかもね。

395 :
>>394
>とりあえず武田と北条の同盟を死守したら包囲網側の負けって事で意見が一致した
基地外的な妄想乙
悪いがおまえの意見はゴリ押しが激しいのでスルーでいく
当然だが394の妄想も却下だからよろしく
>次に進めていいかもね
進めていくのでお前はつまらん意地ばかりで邪魔だから消えてくれ

396 :
武田側を担当するなら、もうちょっと冷静になった方がいいと思うよ。

397 :
武田の所領
甲斐信濃上野駿河遠江尾張美濃摂津
信玄は義昭が邪魔になったので平嶋公方を推すことを画策
諸大名はこれに反発
こんな感じで進めていく

398 :
>>397
設定が大雑把すぎるよ。
336、337を読んで。

399 :
なんか未練たらしく何とか居座り続けようとする恥知らずがいるな
荒らしがいると話が進まないことぐらい気づけ

400 :
冷静に進めてよ。

401 :
顔真っ赤にしてくだらんレスしている奴に大事なことだからもう一回言っておく
荒らしがいると話が進まないので書き込まないでくれ
邪魔だ

402 :
どうでもいいから本筋に戻って話を進めたら?
まさかこうやって話を逸らすことがQMdRjXSOの目的なんじゃないのって疑っちゃう。
ちゃんと頑張って!

403 :
>>402
お前馬鹿だろ?
どうでもいいなら書くな
お前は話を逸らしているどころか荒らしているんだよ

同じことでも3回も書けば通じるか?
荒らしがいると話が進まないので書き込まないでくれ
邪魔だ


404 :
逃げたの?そんなんじゃ武田側とか無理じゃない?知識と冷静さが無いとね。
ところで平嶋公方って誰のこと?

405 :
話は変わるけれど、北条氏直って信玄の孫なんだね。

406 :
まだ荒らしに来るの?
知性と冷静さはお前よりあるよ
いつまでもしつこく居座るみんなの嫌われ者は空気も読めない馬鹿なの?
馬鹿だよな〜日本語も理解できていないしな

407 :
>>406
平嶋公方って誰のこと?

408 :
今日はID:7pwyWquuの粘着荒らしが酷くて誰も来ないかな
しかたがないよな

409 :
>>408
平嶋公方って誰のこと?
こんなのも答えられないなんて、知識無さすぎ。

410 :
氏政に嫁いだ黄梅院って信玄の初めての娘かな。
溺愛されているね。

411 :
ついに荒らし活動に力を入れ始めたか
無様だな

412 :
黄梅院 (北条氏政正室)
甲斐国の生まれ。今川氏・武田氏・後北条氏の甲相駿三国同盟のために、
天文23年(1554年)12月、12歳で北条氏康の嫡男・氏政の元に嫁ぐ。
その輿入れ行列は、一万人ものお供の者が付き従い、大変豪華であった
と伝えられている。また、信玄は彼女のために弘治3年(1557年)の
11月には、安産の神である「富士御室浅間神社」に安産祈願をしており、
子煩悩であったことが覗える。
弘治元年(1555年)に男子(名前不明、夭折)、その翌年末に女子を産む。
永禄5年(1562年)に、嫡男氏直を出産し、8年に氏房、その後直重、直定を
産むなど夫婦仲は良好で、彼女の生涯は順調かと思われた。しかし、永禄
11年(1568年)12月13日、父の信玄の駿河侵攻により三国同盟は破綻
(兄・義信はこの過程で信玄に廃嫡される)。信玄の駿河侵攻に激怒した
氏康は黄梅院を甲斐に送り返した。その際氏政からは堪忍分として16貫文余
を与えられている。
夫・氏政と離縁し、しばらくは鬱々とした日々を送っていたと思われるが、
甲府の大泉寺の安之玄穏住職を導師に、出家したとも言われる。そして
永禄12年(1569年)6月17日、27歳で死去した。
信玄は薄幸な長女のために、巨摩郡竜地(甲斐市竜地、旧双葉町)に菩提寺
黄梅院を建立し葬り、墓碑が現存している。それから信玄は、元亀元年
(1570年)の12月20日に、妻の三条の方と娘の黄梅院両方の回向を行い、
大泉寺に黄梅院領として南湖郷(南アルプス市、旧甲西町)を寄進している。
夫の氏政は武田氏と再び同盟した後の、元亀2年(1571年)12月27日に、
早雲寺の塔頭に同じく黄梅院を建立し、彼女の分骨を埋葬して手篤く弔った。

413 :
コピペ荒らしを始めたか
無様だな

414 :
なんか北条氏康ってどうなの?って感じ。
あげくに上杉、北条、徳川で組んだのに、孤立無援だった武田信玄に圧倒されてるし。
実権を北条氏政が握って武田と組み続けた方が、関東の覇権を北条が手に入れたと思う。

415 :
今度はスレ違い荒らしを始めたか
無様だな

416 :
武田が畿内、北条が関東は理想的な同盟だね。
信玄と氏政の同盟は本当に理想的だと思う。

417 :
予想はしていたがID:7pwyWquuの粘着荒らしで一気に過疎ったな
こういうごり押ししかできない無知無能が空気読まずに暴れまわると困るよ
武田厨はいつもこんな奴ばかり
協調性が無い引き篭もりニート丸出し行為は他所でやってほしいね

418 :
>>397
息子のヨシヒロとるのが普通じゃないか
この時点ではまだ織田の手元にいたか生まれてるかしらんが

419 :
わざわざ龍興みたいな暗君を頂かなくても、美濃なら土岐頼次という傀儡としてもってこいの人も居ます

420 :
>>397
武田は
甲斐、信濃大半、西上野、駿河、遠江半分、美濃、南近江じゃないか?
尾張と三河に織田と徳川残党アリの可能性が高そう
上洛√は遠江→木曽方面→美濃でいいと思う

421 :
>>418
えげつないだろ、それw

422 :
成人した子が、親と対立する事はよくあるけれど、
乳飲み子を引き離して、親と対立させるなんて前例無いだろw

423 :
ここの懸賞、
試しにやってみたら見事大当たり!
百 万 円 当てちゃいました!
今なら高確率らしいです。
携帯サイトです。ぜひやってみて。
http://bit.ly/Liodv3

424 :
信玄さんは敵を滅ぼして一族の遠縁を傀儡にするパターンが結構多い

425 :
>>421
武田信玄はえげつないじゃん
丁度良い

426 :
なるほど。
義昭を闇で葬り穏便に将軍変更。
これでは他の大名が付け入る隙が無い。
信玄恐ろしすぎ。

427 :
信玄死去直後も勝頼に対して
氏政が織田を我々の敵とか言ってんのに
東国での利害が衝突しない限り
北条が武田との同盟を破るとは思えないんだが・・・
この場合は北条に東国のことは委任して
武田は畿内→中国攻めと進むんだろ?

428 :
>>427
またお前か。
北条と武田の同盟なんて認められるわけ無いだろ。
関八州を制覇する為には甲斐から武田を追い出さないと無理だしな。

429 :
意味不明の同一人物認定w
ほんとキチガイだな。
武田の西上で援軍2000まで北条は
出してるのにwww
織田は家康に一方的に援軍出させまくったくせに
いざ武田が徳川を攻めたら
援軍出し惜しみしまくって
ついにやむなく3000を家康に派兵した信長よりも
強固な結びつきなんだがw

430 :
>>429
武田は2度も北条を一方的に裏切ってるわけだが。
織田も今川も裏切ってる信玄に強固な結びつきなんてあるわけがない。
北条も嫌々援軍だしたんだろう。

431 :
しかし昨日に続いてまたボコボコに論破されたいのか。
本当に邪魔な奴だな。

432 :
このスレでの戦国史
 武田信玄、上洛
 武田信玄、足利義昭を政治から切り離す
 足利義昭、密かに武田追討令を諸勢力に発す
 足利義昭、細川藤孝を越後と相模に派遣
 足利義昭、一色藤長と明智光秀を畿内近隣の諸勢力に派遣
 上杉謙信と毛利輝元、足利義昭を支持
 三淵藤英、石成友通、真木島昭光らが足利義昭に合流
 武田信玄、足利義維を擁立
 武田信玄、三好長治を支持し阿波衆の取り込みに成功
 これを機に摂津衆は足利義昭を支持
 武田信玄、摂津の武田勝頼に甲斐へ戻るよう指示
 武田勝頼、これに応じず
 北条氏政、足利義昭の支持を表明し武田信玄と断交
 これを機に上杉謙信と北条氏政、同盟を締結
 宇野政頼と別所長治、荒木村重の居城攻める
 摂津衆と丹波衆、武田勝頼の居城攻める
 朝倉義景、足利義昭を支持
 顕如、武田勝頼の後詰要請を拒否
 長宗我部元親、海部城を攻める
 朝倉義景、斎藤竜興を通じて美濃衆を支援
昨日言ったとおり武田サイドは俺が担当する
ID:7KU5eRkvのような能無し荒らし武田厨(=アスペルガーだが)はスルー奨励で頼む

433 :
織田と今川が武田を裏切ったんだろ
毎回毎回歪曲すんなよ。
北条だって、武田が今川を攻めたのは止むを得ないことだったと
謙信に言ってるし。
つか織田厨ってRー論破宣言が大好きだな発情しすぎwww

434 :
元亀3年7/7付けで信玄が小里氏の背後に信長の後援があり残念でならないがとりあえず許すと見て見ぬ
フリをする方針にしたことを述べていて織田との抗争にならないよう配慮してたら
信長が11/15に岩村城を奪った小里内作へ書状を出してる。
明らかに信玄は信長との信義を守っていたら裏切られてる。
>>信長が和睦をかなり武田寄りの立場で仲介する意志
謙信と信玄の和睦の仲介は元亀3年7月はおかしい
元亀2年だと柴辻が2009年に主張して反論はいまだ無し。
家康に至っては謙信との書状の中で「信長と信玄の間をどうやっても裂いてやる」と書いてるキチガイぶりだぞw
そもそも元亀3年に和睦仲介してるのは信玄。本願寺と信長の和睦交渉を仲介して努力してたのに
信長は東美濃で小里氏を支援してた。それを察知した信玄だがそれでも最初のころは見逃して我慢していたんだが。
【むしろ信長の方が裏切り三昧の悪党です】

>>同盟を破り奇襲したキチガイ信玄
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、
このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が、今川が武田に攻められたのも止むを得ないと情勢報告してるから、
信玄が今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた。
ちなみに義昭の斡旋で越後と相模と甲斐の同盟が水面下で動いていたのを今川が察知して焦って
俺を同盟の保証人にしてくれ除け者にすんなよと今川は参入を希望して
そんなの噂だけでねーよwと拒絶されたっぽい。
だとすると今川に内緒にしていた北条も同罪だしな。
武田と北条が上杉と戦っている裏で、今川が上杉と秘密同盟する表裏をしていて、
武田に起承文を出したことまで上杉に報告。
武田が本庄を謀反させ 飯山城攻めし、上杉を追い込んでいる最中にこんな真似をして、
駿甲国境を封鎖するは、謙信に信濃出兵を依頼する始末。
しかし信玄が一揆を依頼したために謙信は越中攻めする必要に迫られて無理だった。
ここにおいて武田が今川攻め開始。明らかに今川が関係悪化をエスカレートさせてる。
と言うか開戦に向けて今川が動いてる。

435 :
>>432
妄想というと悪意あるけど、誰を派遣とかそんなことはどうでもいい
その文章が全体としてドレほどの意味を持つと言うのか
それはそれとして、なんで信玄の息子が信玄の指示拒否ってんの
そして北条はもう上杉と結ぶのは無いだろ

436 :
>>432
大嘘吐き捏造歪曲キチガイの織田チョンが
武田側をやるってかw
相変わらず笑わせてくれるぜwww

437 :
織田残党が尾張で、徳川残党が三河で放棄、独立
あたりも入れていいんじゃないか?

438 :
なかなか面白いと思う。
というか北条ー武田同盟が崩れなかったら勝敗見えているから、
包囲網方のバランス的には仕方が無いと思う。
三好義継と足利義昭が組むのであれば、荒木、高山は自動的に武田方になる。
別所に攻められるというのは有りか。すると残る摂津衆って誰もいなくね?

439 :
>>437
具体的に誰が居る?
はっきり言って蜂起する人材がいない。
あれだけ外部に拡散させ、あげくに新興、粛清、能力主義では無理。
むしろ旧態依然の方が残党蜂起は起こりやすい。

440 :
>>439
それこそ信長が討ち取られず逃げたってのでもいいな
信忠も充分跡取りとしての資質はアリ、だめだったらどっちか逃がしてるだろ
徳川は信康がまだ健在なんで大丈夫だろ

441 :
「以前も言ったように武田サイドは俺が担当する」キリッ

442 :
>>418
>息子のヨシヒロとるのが普通じゃないか
354で平島公方を使うかと書いてあったからこれを採用
>>419
>土岐頼次
松永の所に身を寄せてんじゃないの?
>>420
>武田は
>甲斐、信濃大半、西上野、駿河、遠江半分、美濃、南近江じゃないか?
武田領
 甲斐
 信濃(高井郡、水内郡は除く)
 上野(甘楽郡、緑野郡、多胡郡、片岡郡、碓井郡、吾妻郡)
 駿河(駿東郡を除く)
 遠江(徳川残党が点在)
 尾張(信長が不在のため尾張衆に動きなし)
 美濃(美濃衆に不穏な動きあり)
 摂津
 ※信玄は上洛戦で清洲、岐阜、京都を徹底的に破壊
足利領
 山城(京都は信玄が破壊したため廃墟となり国力は著しく低下)
 丹波
 ※摂津、和泉、河内、丹波、近江にも所領あり
 ※配下に細川藤孝、一色藤長、明智光秀、三淵藤英、石成友通、真木島昭光、細川藤賢など
朝倉領
 越前
 若狭
 丹後
浅井領
 近江(高島郡、滋賀郡、甲賀郡を除く)
 北伊勢(神戸や関は蒲生を通じて浅井に服属)
 ※旧六角家臣団は浅井に投降し六角を拒否
六角領
 近江(甲賀郡)
 伊賀
本願寺
 摂津石山本願寺
 加賀
 越中(射水郡、礪波郡)
荒木領
 播磨
三好領
 河内
 和泉
松永領
 大和(筒井残党が点在)
北畠領
 南伊勢
徳川領
 三河

443 :
>>435
>妄想というと悪意あるけど、誰を派遣とかそんなことはどうでもいい
>その文章が全体としてドレほどの意味を持つと言うのか
こんな妄想スレにどれほどの意味を持たせて欲しいのか?
>なんで信玄の息子が信玄の指示拒否ってんの
信玄と義昭の仲を取り持とうとしたため
※御館の乱の経緯を参考にした
>北条はもう上杉と結ぶのは無いだろ
北条と上杉の同盟は細川藤孝の提案
1、勢力範囲
 関東情勢を考慮し上杉は北条に援軍を送る
 北条が西上野から佐久小県を切り取る
 上杉が北信濃から松本諏訪を切り取る
 北条の信濃領と上杉の上野領を交換
 ※これも御館の乱の経緯を参考にした
2、関東管領
 上杉は関東管領を北条に譲渡
 見返りとして上杉は管領に就任
 管領就任はここまで無事に物事が進んだら
 ※細川藤孝は管領職にこだわりはない
>>437
>織田残党が尾張で、徳川残党が三河で放棄、独立
徳川は家康がしぶとく独立を保っている状態
織田は信長を出さない方向で考えている
信長を出すと武田滅亡確定だし今までの上洛スレと何ら変わらない
信長不在が困るなら出しても構わんよ
>>438
>なかなか面白いと思う。
スレ住人の熱い妄想をもとに妥当なモノをまとめたから面白いんだろう
自己中心的なゴリ押しではつまらない
>摂津衆
細川昭元、伊丹忠親、池田知正、三好長逸など
※荒木は播磨転封のため高山と中川は摂津に残留し細川に所属

444 :
京都は信玄が徹底的に乱暴狼藉を働いたため壊滅
物や人を略奪し焼討によって神社仏閣や内裏までもが灰燼に帰す
これにより義昭による早期の京都復興は不可能か?
信玄は朝廷に見舞金を送る(堺や本願寺から費用を徴収)
義昭も朝廷に見舞金を送るが額は少ない

445 :
まず清洲、岐阜、京都を徹底的に破壊する必要性をきちんと説明しよう。
自己中心的なゴリ押しはよくない。

446 :
細川藤孝は足利政権下じゃ死んでるだろ。管領とか家柄的にはなから無理。
北条と上杉の仲を取り持つなんてさらに役者不足。
六角あたりならまだしも。

447 :
好意的に「できる限り武田に厳しい条件」を提示したと考えることにしよう。
武田側に引き寄せる事が可能なのは、
・三好3人衆、三好長治、十河、安宅、足利義維、若狭の武田信豊がほぼ確定。
・松永久秀、北畠具教は国境をほとんど接していない為いけるか?あと水野信元。

448 :
結構人気のある朽木元綱はどうも義昭側っぽいな。
浅井と敵対してくれそうな気がしたけれど。

449 :
>>445-448
このスレに居座る無知で恥知らずな粘着荒らしのIDを列挙した
2012/06/09(土) ID:rdME5fh1
2012/06/10(日) ID:7pwyWquu
2012/06/11(月) ID:7KU5eRkv
2012/06/12(火) ID:Md02R4Q6
この馬鹿チンをどう思う?

450 :
>>443
話の軸が違う
誰がやったとか実行者はどうでもいいだろってこと
祐筆の書いた書状はあくまで大名の行動になるだろってこと
もちろん自立的に行動してるというなら別
そのうえで、その行動が後に大名と対立して敵対するとか繋がれば”意味のある”文章だが

451 :
>>450
文章の内容は443に書いてあるが?

452 :
武田信玄が上洛に成功した場合、信濃が危ない(vs上杉)

453 :
信濃だけではなく他も危ない
所領が拡大したら兵力の分散につながる
武田サイドで進めるとかなりキツイ

454 :
>>449
2chには二通りの人間しかいないと思う
むかつく荒らし と むかつかない荒らし

455 :
>>454
それで
2012/06/09(土) ID:rdME5fh1
2012/06/10(日) ID:7pwyWquu
2012/06/11(月) ID:7KU5eRkv
2012/06/12(火) ID:Md02R4Q6
このスレに居座る無知で恥知らずな粘着荒らしの馬鹿チンをどう思う?

456 :
>>455
あくまで個人的な感想
2012/06/09(土) ID:rdME5fh1 空気嫁ないけど普通(武田厨)
2012/06/10(日) ID:QMdRjXSO 煽ってるだけの糞アホ(織田厨)
2012/06/10(日) ID:7pwyWquu むかつかない荒らし(武田厨)
2012/06/11(月) ID:7KU5eRkv 全然むかつかない荒らし(武田厨)
2012/06/12(火) ID:Md02R4Q6 空気嫁ないうえにアホ(武田厨)
2012/06/12(火) ID:p2x/JXER 煽りウザイけど、もうむかつかない荒らし(織田厨)

457 :
なら相手しなきゃいいのに
馬鹿だなお前

458 :
本拠地の問題で、美濃〜山城に至る道は普通に防衛できんと思うよ
兵站が長細くなりすぎてもたない
海運は伊勢・尾張・三河抑えてないから使えないし

459 :
相変わらず織田厨アホすぎw
そもそも謙信は本庄の謀反以来、
武田領侵攻を
まったくやってない。
今川氏真・家康・信長の武田侵攻依頼を
ことごとく無視。
長篠の敗戦後ですら、謙信は武田領に攻め込まない。
謙信は北条を敵視していて武田領にまったく興味がないのが現実。
だいたい細川藤孝には上杉との外交チャンネルが一切ないのに
なぜか藤孝が北条と上杉を取り持つとか無知ゆえのトンデモ設定でワロタw

460 :
>>458
尾張抑えていないって、442の設定ガン無視か?
文章もほとんど意味不明だし。

461 :
やっぱり家康が三河保有って不自然だよな。
周囲全て武田領で囲まれてるし。
湖西、北伊勢、伊賀あたりのどこかに国替の方が自然。

462 :
>>460
見落とし
というか三河も伊勢も残ってるのに尾張が陥落するとは思えないんで独立地域or残党残存地域とみなすべきじゃないのか?
三河取ってないとすると、木曽方面から出て来てる。そうなると尾張側には監視つけて上洛したとみるのが普通
そもそも遠江-尾張間は三河抑えられてると海運は遮断されて使えん
当然尾張-紀伊間も伊勢や志摩抑えられてるから一緒

463 :
>>462
北畠も徳川も寝返ったにきまってんだろ。
足利ー武田政権の初期に起こる粛清をどうやって生き残るんだよ。
あと美濃〜山城に至る道って、そもそも近江抑えてないから。
442の設定無視したり、上洛戦に戻って設定改造したり、ちょっと酷くね?
更に海運と兵站の関係もよくわからない。
遠江ー尾張間で兵站を海上輸送する利点はなんだろう?

464 :
決まってるとか書かれなければそんなの確定じゃないだろ
遠江ー尾張は兵糧輸送な
陸路より海路・水路の方が割安だし、大量に運べるし、速い

465 :
>>445-448
>>454
>>456
>>459
妄言はいつもどおり却下
無知丸出しのゴリ押しでは話にならんよ
アスペルガーだが
 2012/06/09(土) ID:rdME5fh1
 2012/06/10(日) ID:7pwyWquu
 2012/06/11(月) ID:7KU5eRkv
 2012/06/12(火) ID:Md02R4Q6
 2012/06/13(水) ID:XoApztbz
 2012/06/14(木) ID:sqRAU7+v

466 :
このスレでの戦国史(2012/06/14改定)
 武田信玄、上洛(04/12)
  ※上洛ルートは遠江→三河→尾張→美濃→近江→山城
  ※信玄は進軍を急いだため遠江に徳川の城が残る
  ※さらに信長との戦いを控えていたので三河をスルー
  ※清洲、岐阜、京都は徹底的に略奪と焼討を実行
 京都焼討(04/13-15)
 武田信玄、武田勝頼を摂津に派兵(04/18)
 武田信玄、堺と本願寺から矢銭を徴収(堺04/20 本願寺04/24)
  ※堺と本願寺はこれに困惑するも焼討を恐れて献上
 武田信玄、足利義昭を政治から切り離す(05/05)
 武田信玄、甲斐に帰国(06/12)
 足利義昭、密かに武田追討令を諸勢力に発す(06/13)
 足利義昭、細川藤孝を越後と相模に派遣
 足利義昭、一色藤長と明智光秀を畿内近隣の諸勢力に派遣
 高屋城で謀反(06/25)
 上杉謙信と毛利輝元、足利義昭を支持
  ※上杉と毛利は足利義昭に多額の資金援助を開始
  ※日本最大級の産出を誇る越後金山と石見銀山の存在を考慮
 三淵藤英、石成友通、真木島昭光らが足利義昭に合流(07/03)
 武田信玄、足利義維を将軍に擁立
 武田信玄、細川真之を管領に内定(義維が正式に将軍に就任した時の話)
 武田信玄、三好長治を支持し阿波衆の取り込みに成功
 これを機に摂津衆は足利義昭を支持
 武田信玄、摂津の武田勝頼に甲斐へ戻るよう指示
 武田勝頼、これに応じず
  ※勝頼は信玄と義昭の関係修復を試みる
 北条氏政、足利義昭の支持を表明し武田信玄と断交
 これを機に上杉謙信と北条氏政、同盟を締結
 北条氏政、北条氏規に駿東郡の増強を命令
 北条氏政、北条氏邦に西上野の出陣を命令
 上杉謙信、北条氏政に援軍を派兵
 武田信玄、早急な軍船建造により深刻な漕手不足に陥る
  ※拡大した領土防衛においても兵力分散による兵士不足が露呈
 真田幸綱、岩櫃城を自焼し碓氷峠に撤収(07/上)
 宇野政頼と別所長治、荒木村重の居城を攻める(07/上)
 摂津衆と丹波衆、武田勝頼の居城を攻める(07/上)
 朝倉義景、足利義昭を支持
 細川真之と三好長治、足利義維を奉じて勝端城を出陣
 長宗我部元親、海部城を攻める
 細川真之と三好長治、この報を受け勝端城に撤収
 顕如、武田勝頼の後詰要請を拒否
 三好義継、丹波衆と摂津衆を統率し武田勝頼を攻める
 内藤昌豊、箕輪城を自焼し碓氷峠に撤収(07/下)
 北条氏邦、箕輪城に進軍
 朝倉義景、斎藤竜興を通じて美濃衆を支援
 明智光秀、近江坂本城を出陣
 浅井長政と六角義治、連合して美濃に出陣
今後もみんなの意見を書き入れ修正はしていく

467 :
この書き方だと家康は徹底抗戦コースだな
まぁ史実的に恨みが相当あるから服属するとは思えないけど
このコースだと普通に美濃と尾張で一揆発生して混乱状態確定だな、この頃の民衆はそんなにおとなしくない

468 :
元亀三年の三河遠征は上洛ではなく上洛戦の準備行動だろう
駿河攻略の前の小田原遠征と同じ狙いだと思う
当時は東西の陸路のメインロードは中山道
武田の本拠地から織田を攻略するなら中山道を岐阜に向かうのが合理的で
わざわざ遠回りで脇道の東海道、そして敵である家康の領土を通っていくのはおかしい
下手すると織田と徳川に包囲されて殲滅という事態にもなりかねない
季節も冬で峠が雪にとざされて補給が滞る
三方が原で大勝したあと武田軍は北上し飯田に向かうが
中山道を岐阜に向かうなら何の疑問もない行動だ
元亀三年冬の軍事行動は駿河攻略の小田原遠征と同じ牽制ではないだろうか
証拠はある
信玄は朝倉義景に五月まで対陣してほしいと要請しているのだ
飯田から岐阜への峠の雪解けは四月後半
雪解けを待って五月に中山道を岐阜になだれ込む
側背をつく立場の家康は前年に痛めつけたし
日本アルプスの南端に城を築いたし防御は完璧
東西から信長を挟み撃ちにすれば必勝
これが信玄の必勝の戦略だったと思う

469 :
徳川勢なんて史実でも壊滅してるんだから、
徹底抗戦なら消滅じゃねーの?
というか遠江と三河に徳川勢残ってたら、
足利義昭を政治から切り離す(05/05) なんて判断は無い。

470 :
>>464
それゲームの兵站だね。戦国時代は現地調達が基本。

471 :
焼討の効果は、徹底抗戦する都市や御坊を消滅させること。
駿府、長島は、焼き討ちをする意味があるが、
在地勢力が根強く抵抗する可能性の無い岐阜、京都を焼き討ちする目的が良くわからない。
清洲も在地勢力が残っているか怪しい。
信長の頻繁な本拠地移転のデメリットと言えるかも。

472 :
十河の讃岐衆、安宅の淡路衆は武田側。
あと長宗我部元親って元亀2年の時点では一条家と戦うので精一杯だな。
元亀2年(1571年)、長宗我部元親の弟である島親益の船が突風を避けるために
        海部城下の入江に入った。その為、当時の海部城主であった
        海部友光は親益の船を襲って親益を殺してしまう。
天正5年(1577年)、弟を殺され激怒した元親が海部城を攻略する。


473 :
後継いだ勝頼じゃなく信玄死なない設定なら、長慶&ブラザーズ存命ありで三好VS武田が見てみたい
信玄死なない、他史実なら、信玄がいつ死ぬかでごろっと変わるべや
北陸制した上杉と畿内制した武田の激突は無双オタのロマンだな

474 :
妄言のゴリ押しはいつもどおり却下
アスペルガーだが
 2012/06/09(土) ID:rdME5fh1
 2012/06/10(日) ID:7pwyWquu
 2012/06/11(月) ID:7KU5eRkv
 2012/06/12(火) ID:Md02R4Q6
 2012/06/13(水) ID:XoApztbz
 2012/06/14(木) ID:sqRAU7+v
 2012/06/15(金) ID:iStk0Aps

475 :
>>467
>この書き方だと家康は徹底抗戦コースだな
その流が妥当だろう
史実に置いても信玄は徳川の重要拠点を落としてないから徳川は強気の解釈
>美濃と尾張で一揆発生して混乱状態
まあ織田の河尻とか森みたいな流が妥当だろうけどもう少し待ってくれ
一揆のことは武田の武将の配置とかも考えてからで

>>468
言いたいことは分かるがスレタイを見てくれ
俺も信玄が上洛戦なんて間抜けなことをやるとは思っていない
当時の信玄の軍事力や戦略をみれば対徳川戦が目的だろう
しかしこのスレでは間抜けな世界が本筋
残念だけどな

>>473
>長慶&ブラザーズ存命ありで三好VS武田が見てみたい
意見は尊重したいがこのスレでは無理だな
ただ信玄が天下統一するには織田信長と上杉謙信を滅ぼすことが最低条件だと思っている
織田信長の方は不在シバリなのでクリア
上杉謙信の方は激突必至だろうし決着をつけないと意味がないだろうと思っている
>信玄死なない、他史実なら、信玄がいつ死ぬかでごろっと変わるべや
それは当然だな
本能寺の変と同じ理屈になる
>北陸制した上杉と畿内制した武田の激突は無双オタのロマンだな
無双オタというより武田厨(上杉厨もだが)のロマンだろう
信玄上洛や政権構築に魅力は感じない
そんなことより信玄と謙信の激突の方がはるかに意味深いし議論のやりがいがある

476 :
こうやって見ると、かなり無理な設定でも武田政権って
十分戦えるんだな。

477 :
>>476
いや、全然

478 :
test

479 :
織田信長がいたら武田信玄に天下は絶対無理だからね
武田は信長不在みたいなかなり無理な設定じゃないとやっていけん
そんなとんでも設定でも武田は上杉、北条、毛利、徳川と接戦状態な感じ

480 :
武田家の武将については上洛戦で討死してない方向で進める
※小宮山昌友は史実どおり二俣の戦いで討死扱い
武田と織田が本気で戦った場合、双方に壊滅的な被害が発生する
これでは武田が織田に勝利してもその後が続かず3ヶ月以内に武田家滅亡が確定
それを回避するために決戦の不発による武将の健在を設定
当然、日本のどこかで信長と織田家臣団も存在する
表舞台には立たない方針で考えていきたいが異論がある場合は考え直すよ

武田家の武将の配置についてはまた後日
 現在確認できる武将配置
 ・武田勝頼 摂津 拠点は不明
 ・内藤昌豊 上野 箕輪城→碓井砦
 ・真田幸綱 上野 岩櫃城→碓井砦

481 :
同じ武田厨でも色んなのがいるんだな。
年表書く人
 人の意見をまとめて協調しながら面白く話を進める。
アスペルガーだが
 自己顕示欲丸出しのゴリ押しで人の意見を排除する。
奥が深いスレだ。

482 :
武田が本当に額面通りの強さだったのなら
徳川の抑えに5千残して、2万五千で美濃になだれこんでた
それが出来ないのが信玄と信長の違い
石橋を叩いて渡ってたら天下なんて狙えんよ

483 :
急に寂しくなったの?
放置してゴメン。

484 :
えーと、決戦不発で>>480、尾張、美濃に侵攻し織田軍を打ち破りそのまま上洛>>1って、
よくわからない。
織田家臣は、みんな信長を見限って寝返ったってことかな?

485 :
>>481
>同じ武田厨でも色んなのがいるんだな。
アスペルガーだがだけが異常なだけ
他の人は普通だと思うぞ
>>482
>石橋を叩いて渡ってたら天下なんて狙えんよ
信玄上洛は中央政権の打破が目的だろうな
それが成功したら天下なんかどうでもいいだろう
これは武田だけに限らず北条や毛利といった大勢力でも同じ考えのはず
基本的に本領さえ潤えばそれで良し
ただ織田だけがこれに当てはまらなかったな

486 :
武田家臣団の配置
甲斐 武田信玄
甲斐 穴山梅雪
甲斐 小山田信茂
信濃 武田逍遙軒
信濃 諏訪頼豊
信濃 木曽義昌
信濃 香坂虎綱
信濃 小山田昌成
上野 内藤昌豊
上野 真田幸綱
駿河 山縣昌景
遠江 小宮山友晴(山縣の援軍を受け徳川領を攻撃)
京都 武田信豊、跡部勝資、長坂光堅、今福友清
美濃 駒井政直、原昌胤、曽根昌世
美濃 秋山虎繁
尾張 馬場信房、土屋昌次、三枝昌貞
※木曽川の2ヵ所の渡し場の守備に原、土屋、曽根、三枝を配置
京都と甲斐を結ぶ街道の死守が当面の方針
浅井領の近江は6月まで物資輸送が可能
信玄は6月の段階でも占領地での略奪を命令
※現在の武田家の実力では京都、美濃、尾張の統治は不可能
武田信虎は上洛した信玄に許されず京都から追われる

まあこんなもんだな

487 :
あ、忘れてた
摂津 武田勝頼

488 :
織田版アスペルガーと名付けようw

489 :
まぁ本当に両軍ぶつかって織田が壊滅するくらいの戦いやったら、武田もボロボロになって後を追うように滅亡だよね。
だからこそ動かなかったんだろうけど。

490 :
なるほど。だから織田が滅亡したのか。

491 :
>>489
>だからこそ動かなかったんだろうけど。
信長は動く必要が全く無かった
信玄は仕掛けたくても手が出せなかった
信玄も名将だと思うがその時の信長はその上をいったよ

492 :
>>481
武田厨とだがの決定的な違いは、どっちを優先するか
武田厨は信玄や勝頼といった武田を優先するが
だがは織田厨に煽られた過去から信長滅亡を優先する
端的に言えば武田がどうなろうが織田が滅びればそれでいいという思考
だから話がむちゃくちゃでアホみたいなことになる

493 :
>>459
織田厨はアホだから
そんな知識ある忠告も黙Rるよ。

494 :
>>493
朝っぱらか一日中ずーっと2chに常駐かよ。
おまえ一人で何レスしているんだ?
自演荒らしは何をやっても嫌われるんだからいい加減理解しろよ。

495 :
アスペルガーだがの自作自演工作のリスト
ID:sqRAU7+v=ID:1HdwEKIH
大友氏について語ろう2
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268011621/790
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268011621/792
【戦国の金】 朝倉義景総合スレ 【官職】
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152866449/790-796
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152866449/797-798
織田信長は過大評価されすぎ11
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/81
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/83-86
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/106-107
武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part3
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/291-293
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/304
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/307
天正10年の武田攻めを語るスレ 4
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/388-389
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/391
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/393
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/402
関ヶ原の西軍の真の首謀者は毛利輝元だったのか?
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320241565/873
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320241565/878
武田信玄上洛成功part2
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328457980/459
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328457980/493
自演がバレてないとでも思っているのか?
おまえ馬鹿だろ?


496 :
>>495
お前も病気だな。どうみても異常すぎるw

497 :
ID=vWkVeXTyがリスト中の全スレにコピペしてた。
予測を超えた異常者っぷりでワロタwww

498 :
過疎ったな。
486の様なつまらない設定だと人が減ってしまうね。

499 :
考察レベルが低い上に486の考えた武田親子が陳腐で、読み物としても面白くなかったと思う。
もう少し賢い人が妄想してくれると面白かったのにな。

500 :
>>498-499
アスペルガーだがみたいな粘着荒らしが常駐するとどんな名スレでも過疎るわけで。
それと自作自演ばかりしているとつまらないからそろそろ気づけよ。


501 :
>>500
自分の失敗を他人のせいにするのは見苦しいよ。
具体的には>>466の最初の6行でみんな離れていき過疎スレになったと思う。

502 :
>>501
また得意の嘘が始まっちゃったか?
恥ずかしい奴だね。


503 :
いつも思うがID:tvaG/Nbeは24時間毎日大量のレスを投下しているがヒッキーなの?


504 :
>いつも思うが〜24時間毎日大量のレス
このレスで君の知能がだいたい把握できるよな。はい、次の人〜

505 :
>>503
一日に何回もレスする自己顕示欲旺盛な粘着荒らしに注意しても馬の耳に念仏なのは既に他スレで立証済み
とりあえずは放置スルーが吉だろう

506 :
勝頼は木曾を南下し
苗木城なんて無視して眼前を通りすぎて遠山18城のうち17城を落城させ、
苗木城主の嫡男友信を生け捕りし、
次男友重を討死させて圧勝してるんだが。
武田側資料では苗木城も落城したことになってるがな。
信長と信忠がビビって岐阜に敗走したほどだから
後詰が期待できない苗木城も落ちたと思うがな。

507 :
※注意※
 ID:J2cM59Xkはいつもの嘘吐き粘着荒らし
 長文駄文を大量投下するいう症状が見えるので分かりやすい

508 :
506のどこが長文なんだろう?
実は指摘が的確すぎて、507が必死に逃げてるだけw

509 :
アスペだがの文は長文じゃなくて駄文に入るからなw
一行だろうが二十行だろうが書いている情報量は同じ
横山光輝の漫画より酷い

510 :
>>509
意味不明なうわ言はいらないってばw

511 :
>>509
アスペルガーだがの駄文は情報ではなく妄想であり虚言であり…単なる荒らしとしか言い様が(ry

512 :
まあある意味では妄想前提のこのスレ向きと言えるけどねw

513 :
>>508
507が言っていることが本当か嘘か検証してみた。
ID:J2cM59Xkのレスをいくつか見つけたので確認してみる。
武田信玄は過大評価されすぎ!!part3
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1325991921/664-668
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1325991921/670
【戦国の金】 朝倉義景総合スレ 【官職】
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152866449/807-808
結論。
507の言っていることが的確すぎてID:UlqRhtAbが必死に逃げてることが立証されてしまった。
ID:UlqRhtAbは何で嘘ばかりつくの?

514 :
そなたたちは若い。しつっこい

515 :
>>513
粘着してる暇があったらネタ振れよ
前に比べてこのスレつまらなくなったし

516 :
常識的に考えて信玄が上洛して義昭とまずやることは、
織田・徳川の残党狩りと領地の分配だと思う
その後、信玄の敵は上杉、義昭の敵は三好になるだろうから、
東西で日本を分割だろうね

517 :
>>515
>前に比べてこのスレつまらなくなったし
禿同
特に>>516は今までの中で極めつけの最悪

518 :
どういう理由でそう思ったのだろうか?

519 :
前提が既につまらんから
上洛の可能性を論じるんじゃなくて上洛は既になされたものとして話し合ってるから妄想以外何も出ない
上洛そのものが妄想でしかないからな

520 :
せめて他の大名の帰趨くらいは>>1が書くべきだったな。

521 :
所詮は武田厨、信玄以外のことはあまり興味が無いので中身がスカスカ。
妄想の中で悦に入るだけならそれでいいんだけど人様を巻き込もうとするとグダグダ。

522 :
武田幕府は京に置くの?
関東に置くの?
甲府に置くの?

523 :
越後、越前、甲斐、京都に睨みを利かせるとしたら、
美濃あたりでは?

524 :
同盟者の北条がいるから東寄りに拠点を置く必要性はないだろ。
関東管領にでもしてあげれば喜ぶだろw
京に置いて、家康や長政や三好一派を先陣に西国攻めを指揮すればよろし。

525 :
要するに義昭は処刑しちゃたという事だね。

526 :
逃げ足早いから毛利領か長宗我部領へ行ってたりして

527 :
>>526
正親町帝が義昭を征夷大将軍から解任するとは思えないから、
義昭が逃げて将軍が解任されたという事は信玄が正親町帝を廃位
した可能性が高いよな。

528 :
バーカ。解任する制度自体がねーんだよ。
自分から辞めるって言うまで有効。
しかし対抗して新しい将軍を立てることは可能。
将軍がいないと全国の大名を京へ集住させる根拠が消滅するだけ。

529 :
>528
解任は制度の問題じゃないぞ室町以前なら解任された将軍もいたはず
解任は任命した朝廷の誤りだったと認めることになるから解任しなかっただけw

530 :
朝廷が誤まりを認めるも何も
国内が飢饉で大量餓死してる最中に
将軍が政治を顧みないで宴会してるのを
天皇が苦言を言ったりして
明らかに誤まり認めてんだけど。
でも解任して、別の将軍を立てることはできない。
義昭も自らが将軍職を放棄するまで
ずっと将軍の地位だったし。

531 :
お前の頭には解雇か否かの二択しかないのかw
始末書とか知らないか?w

532 :
征夷大将軍は地方遠征軍の司令官なんだから解任できないと
制度上おかしいな。

533 :
>>532
別におかしくない。
お前の価値観など聞いてもいない。

534 :
>>533
つまり敵に負け続けたり、現地で好き勝手に軍政を行う将軍は
解任できなくてもおかしくないという事だね。

535 :
最近の甲陽軍鑑は飛躍的に再評価されてきている。
1990年代に国語学者酒井憲ニ氏の大著甲陽軍鑑大成を完成させてからは
柴辻氏なども軍鑑を史料に取り込むなどの風潮であり、
桶狭間の戦いにおける黒田日出男氏を始めとした今川軍が分散し乱捕り中の隙を
織田軍が攻撃した為に義元を討てたとする論拠として軍鑑を援用している。
これは藤本正行氏の正面攻撃説や小和田氏の正面奇襲説の
信長の説明不能の不可解な成功の理由として充分な証明理由となろう。
旧日本陸軍参謀本部の根拠ゼロの迂回奇襲説はこれにより論破されてしまったのである。
(公記には高台にいる大軍の今川軍を低地の寡兵織田軍が正面から攻撃して勝ったと書いてある)
読む場合に注意すべき点は
軍鑑と史実の年記の食い違いがあるので対照年表を見ながら読むべし
ごくまれに偽文書が挿入され操作をしている
特に史実と食い違うのが山本勘助がらみの誤記創作が多いと言う事で
勘助自体が存在しないと言われる所以である
原因は高坂弾正の口述を猿楽者大蔵彦十郎と春日惣次郎が筆記した作品を
小幡景憲がのちに自家のために加筆し歪曲捏造改悪をしていると言われている。
市河文書「武田晴信書状」に山本菅助の名前があり存在が確認され
晴信側近である事がわかり軍鑑では足軽衆である事がわかる。
この文書では勘助と共に原与左衛門尉が足軽大将衆であったのがわかる。
この原の舅が小畠景憲の祖父である虎盛であり東信や北信で活躍しており勘助との関わりが見える。
また小畠景憲は出版する金がなかったから出版出来なかったと言うのが通説だが
出版出来なかった理由が自家に都合がよく改悪捏造したからとも考えられる。
三条藩主稲垣重種が筆写のために借りた軍鑑を宇佐美勝興に書写された時に
無断で密にもう一つ筆写して京都で出版したと言う。



536 :
桶狭間の戦い自体が虚構だから
勝ち方に矛盾がありまくりなのは当たり前

537 :
今川義元病死という珍説を唱えるだがさんちーっすw

538 :
アスペルガーだがの救いようのない馬鹿っぷりにも飽きた
荒らししかできないって惨め過ぎるぞアスペルガーだが

539 :
第一次小豆坂の戦いの捏造まで公記はやっちまってるからなw
架空戦で大活躍した小豆坂七本槍www

540 :
後々付け足された首巻にしかケチをつけないアンチ信長公記厨w

541 :
じゃあ首巻に書いてある発生年までデタラメの桶狭間は妄想ということで意見一致だね。
まぁ佐久間がなぜかまったく接点のない
伊勢神宮へ宛ててる検討余地ありの書状とかあるけど
あからさまに怪しいしな。

542 :

天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
天文24年9月の信玄→木曽義康宛てで(天文24年10月23日に弘治元年に改元)
尾州と井口(斉藤)はただ今、今川を敵としていると書いていて
信長に対して道三が全力で信長支援をしているのがわかる。
濃州と書かずに井口と書くのは斉藤は実際には美濃なんて統一してないから。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役の道三が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、
信勝へ書状を出すなど義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
永禄5年2/27付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば
信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は
西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと。
ボロ負けの連続の信長は信玄の武威を借りたいがため・・・
永禄8年11月に信玄を恐れていた信長は
苗木遠山氏の娘を貰い受けて養女となして勝頼へ嫁がせて同盟を結ばせて頂いている。
これをぶっ壊そうとしたのが家康で元亀元年10/8に謙信へ宛てて
甲・尾の縁談の儀を事切れるように風諫せしめ候と書いている。
永禄10年の斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中で
信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために
4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから
年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている。

543 :
言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。
5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣と元禄初期の織田の動員力は2万。
元亀初期は六角2万に織田も2万で戦ってるが
姉川合戦前後以降の織田軍って一万しか動員出来ないほど激減してるよね。
元亀元年の兵力について
浅井の裏切りで敦賀から戻ってきた信長。
怒って出陣して浅井に呼応した六角軍2万(常楽寺文書)に対して
5/9信長も2万で闘っている(言継卿記)
浅井軍・市原野一揆も出陣してきて信長を挟撃しようとしたので
まだ佐和山城が浅井方だったので
信長は近江南東から千草越えで退却(六角のゴルゴ13に信長が狙撃される)
この間、六角と信長が決戦したとされる。
信長公記では織田の圧勝のように書かれているが
姉川の戦いでは三河物語で朝倉軍3万・織田軍1万とされ
あきらかに六角と同様に織田軍もかなりのダメージを受けてるのがわかる。
元亀元年には六角2万に対抗して
2万くらい動員していた織田軍はどんどん減少して
元亀4年には総兵力たった1万(年代記抄節)まで大減少。
三河物語
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち信長の崩れを見て一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。志賀の陣でも朝倉軍3万に
織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら
比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長を
さすがの弓取りと称賛してるからこれでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。
琵琶湖の船舶は浅井朝倉が宇佐山まで進出する前に占拠済み。
朝倉3万に対して
織田は兵力1万しかないのに、
森や青地、信治ら討死。
さらに坂井や安藤1500が全滅したらヤバイだろうね。
三河物語でも信長は朝倉が兵力を分派して、
織田の退路をふさぐことを怖れたと言うし。

544 :
天正4年の信玄葬儀記録である天正玄公仏事法語によれば
天正元年2/10に野田城を攻略して北上した信玄だったが
4/10に信玄が突然、軍営中に俄然斃れたりと書いていて4/12に死んだと書いてあり
その死は急だったようだ。雪解けするまで待った上でやっと東美濃へ侵攻する寸前に死去だから無念だったろう。
武田は宗教改革もやってんだよな。富士山本宮浅間大社の宮司の富士氏は富士兵部少輔や蔵人と呼ばれ大宮城主で
有力な武将だったはずが兵神分離政策によって武力のない神職である大宮司になっていってる。
新領国の早い安定化を達成できた撫民政策や民政力ある大名に信長は該当しません。
むしろ一揆や謀反や反乱平定に追われる暴君や失政、無策な大名です。
北条なども検地を通して軍役を賦課してるし
ほぼ武田と同様になってるよね。
すると軍事・統治で言えば、畿内は関東よりもはるかに遅れてるね。
畿内でも浅井や六角などは主君が重臣に議題を諮って合議により決断し連名書状を出すし、
その大名や重臣権力を支えた惣村や堺などの自治も発達。
尾張の田舎者の信長が旧体制に畿内を力ずくで逆戻りさせたって感じだよな。
関東は進化し、畿内は時計の針を逆戻ししただけ。
兵農分離の先駆けは天正13年卯月22日付けの秀吉朱印状が嚆矢。
紀州の雑賀・根来を討ったときに刀狩りを命じていて
その際に頭領の者を選んで皆殺し、平百姓は許すと書いていて
明確に兵と農を区別して国人指導層を殺し、武器を没収して完全な農民にしている。
信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある
(生産力・経済の概念は遠征補給兵站思想と、重商主義的な朝鮮出兵ビジョンが視野にあるから)
いまだに織田は兵農分離とか言ってるバカいるしな。
さらにアホなのは兵農分離と徴兵制を混同してるやつも多い。
安堵を乱発し国人や地侍の解体さえ為されてなかったのに。
身分が固定されたのは強力な権威を背景に全国で不完全ながら
刀狩りと検地を組織的に施行した豊臣政権から始まって身分固定がなされた江戸時代なのに。
論拠にしても織田以外は農繁期は出兵しなかったとか主張するが、
そもそも一番人手が必要な時期に刈田もせずに出兵していくなんて普通にやってたし、
次いで農閑期に出兵するからと主張するが冬季に入るや撤兵して帰国したなんてのも普通にある。
そういう都合の悪いことは黙Rるんだよな。
そもそも農繁期と言っても戦国期の農民は米ばかり作っていたわけではなく、基本
米を刈り取ったらすぐに麦を植え春先にはその麦を刈り取りまた米を植え、という形だったので、
少なくとも春先と秋の2回農繁期があった。(米の二期作も併用している地域は夏も)
ここからも「織田以外は農繁期は出兵しなかった」という変な考えは完全に成り立たないことがわかる。
信玄とか謙信は普通に刈田もやらずに出兵してるよな。
そもそも稲を植える時期、3月とか普通に信濃出兵してること多いし。
織田厨って稲を植える時期を何月で、 刈田をする時期を何月だと思ってるのか本当に謎w
織田だけ兵農分離してると主張する際に客観的なデータやソースを絶対に出さないし。
デタラメばっかり吐く自演基地害の織田厨の言ってることは
もともと完全なウソなんだからデータなんて絶対に出せないでしょ。
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は帰る必要が無い
知識が40年以上前から進展せず、知恵が小学校低学年のまま進歩しないのが信長厨

545 :
北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる
着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。
信長が国内を統治していた証拠など無いに等しい。
織田諸将が直接、在地と主従関係を結んで地域割拠していたので
地域一円謀反が多発し信長が死んだら、即、織田が瓦解したのであろう。
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
利家が超ケチで兵を雇わず蓄財ばっかやってて、いざと言う時に兵が足らずにまつに、キレられたり
佐久間信盛が信長に弾劾状を送られた時に以前からの家臣に知行を加増してやったり、
与力を付けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、
これほど落ち度を取ることはなかったであろうに、けちくさく溜め込むことばかり考えるから・・・
自身で家臣を召抱えず・・・などと書いてありあきらかに織田軍って石高に応じた軍役を賦課したり、
武器比率や兵科別の編成なんてやってないよな。完全にテキトーな寄せ集めの烏合の衆。
武田・北条は上に書いてるようにわかるが、
上杉も天正3年軍役帳があるから兵・槍・手明・鉄砲・大小旗・馬の比率がちゃんとわかる。
織田とかデタラメで全然わからん(末期の明智はわかる)
利家や信盛とか蓄財に必死で兵をあまり雇わなかったようで、
足らん分だけ国人や与力などをコキ使って軍功上げてたようだし。
池上裕子
武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹
信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。

546 :
大和一国支配者の興福寺 1580年の織田による差出検地
興福寺大乗院跡750石
興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。 つかできない。
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
一次史料をみる限り石山本願寺が降伏する以前の織田軍兵力は1万〜3万しか動員出来てない。
織田軍が攻めこんだ先は摂津や河内・大和など一国亡国と記述されるなど、
軍が略奪による現地調達方式なので多方面に敵を作るデメリット付き兵力分散して軍を養う必要性から大軍集中が無理。
しかもそこを領国にしても荒れ果ててる。 よって国力の単純比較は成立しない。
信長の軍事政策にはまるで評価されるところがない。
常備軍や兵農分離なんてデタラメであるばかりか
そもそも基本である法度に従って寄子を取り締ることもしてないし
貫高に応じて負担する軍役の内容を細かく指示したこともない。
それをやったと思われるのは最末期の光秀だけである。
さらに秀吉は太閤検地と身分法令において人口戸籍まで作らせて言わば国政調査をしている。
例えば伊達が朝鮮出兵で飛ばされている間を狙って石田豊前守にやらさせたりしてる。
また朝鮮出兵は看羊録によれば国内で変事を起こさせないように
兵を消耗させる意図があったとする。
また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。
そもそも信長は分国法すら作る知識も能力も無かった。
ちなみに天文16年の甲州法度の最後の条文が、史学において誉れ高いんだよね。
晴信が法を犯したら、貴賎の身分を問わず目安に申し立てよ。
晴信が法治国家の魂をちゃんと理解していたのがわかる。
また甲州の治水技術は関東開発に役に立ったが織田は治水をやらないために後世に残る織田治水などは一切残らなかった。
秀吉が治水をしているのも田畑開発、水害防止、大坂から京への海上経済通商政策を理解しているから。

547 :
秀吉は兵站補給概念を持っていて奉行衆による計画的な物資管理や
大軍進駐に伴う排便処理による衛生管理を編み出すことで
信長には不可能だった「位攻め」戦略を多用し瞬く間に天下を統一してしまった。
位攻めとは、圧倒的大軍を用いて相手の軍の士気を崩壊させ服属を強要する戦略。
信長の現地調達方式では大軍の集中は不可能であり、戦力崩壊を起こす攻勢限界点が存在する。
すでに美濃の隣国信濃への出陣である武田攻めにおいて、
遠陣だから率いる人数を抑えることで兵糧が続くように。
しかし戦力ダウンにならないように剛力の者を選んで引き連れよと人数調整をしていた時点でお察し。
信濃より遥かに遠い備中えの遠陣である毛利攻めで旧来の遅れた兵制の信長は討死していただろう。
兵科別の編成がなされていたから北条・上杉・武田は部隊別の兵種の占める割合がわかるんだよね。
だけど織田はそんなことやってないからまったく不明。
公記には超長槍隊を信長が編成してた記述があるが
実際にそんな長槍がまったく出土してないし、代々に伝えらてすらいない。
天と地との映画に出てくる超長槍隊とか公記のパクリだが
あんな超長槍は一切、発見されてないからね。
排便などの衛生管理は非常に重大な問題で北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。
秀吉はそういったシステムを作る天才だから速攻で全国制覇したし、海外遠征まで実現できた。
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
史料から、信玄軍の強盛振りと徳川の累卵が如き危うさを伺えるね
位攻めを始めてやった信玄すげぇな。6万も動員できるほどの改革と組織化を達成してたのか。
信長がただの暴虐なアホでなんらプランもないバカだったのもわかったが、
天才秀吉のおかげで過大評価されてたのが信長なんだって改めて分かったわ。

548 :
天正2年1/9付けの謙信→榊原康政宛てで
謙信は勝頼を経略名之下ニ候と酷評してるから勝頼なんてただのバカでしょ。
そんな勝頼さんは2/6に丹波の赤鬼さんに、
雪解けしたら早速、信長を攻めるよ!と書状を出してる。
ちなみに本隊は雪解け待ちのようだが、
先鋒はすでに出陣しててちょうどこの時期には
明智城を陥落させている。さらに櫛原城や神篦城を攻略している。
尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
それもそのはず高天神城が6月に落城するのに
わざと遅く援軍へ向かうヘタレぶりを晒す信長。
信長は謙信からも責められていたようで、6/29には信濃出陣の約束を破った言い分けの弁解までしてる。
その際に信玄の掟を守って謀略があるので勝頼は油断できないと泣き言まで言う始末w
11/4の佐野氏宛て書状では武田軍は家康がいる浜松城下までやってきて放火し、掛川や久野に付け城を構築完成などやりたい放題。
積雪で信濃国境は封鎖された閏11/9になって、のこのこと三河で鷹狩しに行くよなどと家康監視目的で
来援する信長を歓待すると申し出る家康の心中は複雑だよな。
少ない兵を引き連れた勝頼が完全に織田をナメくさって長篠の戦いで無謀な突撃をかましたのがよくわかる。
信長公記だと織田って長篠の戦いの時点で徳川と合わせてやっと3万だよね。
やはり数万単位の動員の場合の排便処理問題って大きいよね。 これが位攻めができない最大の問題になる。
幕末の会津藩も籠城してたけど、わずか一ヶ月でウンコ充満になって開城したしな。

549 :
秀吉は自身が旧織田領土を支配した後、というか支配する前から
信長がろくにやってなかった畿内の利権や流通の整備や再編成を始め、
それこそ関東から東北、九州、さらには外国にまで10数万の兵力を送り込めるほどの
流通システム再編を行っている統治システムも体制も信長のものより遥かに進んでいる
ちなみに秀吉の九州征伐の時に、九州兵があまりに貧困な装備だったので
畿内兵が大爆笑してバカにしまくったから、
九州側からバカにされて恥じ入り意気消沈してて士気に影響あると
秀吉に泣き付いて馬鹿にするの禁止令が出てる。
でも小田原城ではそーいう記述は無い。
島津が「こんな遠くに秀吉はこないだろう」と思っていたのは本当
それは別にお前さんが言ってるような政治的理由なんか関係ない
博多があろうとなかろうと、島津は秀吉はこれないと思っていた
それはなぜか?距離の問題だ
適当体制の信長が武田攻め程度の距離で、兵糧におっかなびっくりになってた事実を考えてみろ
旧来の放任主義な適当体制じゃ、九州まで10数万もの兵を送り込んで維持する事はできない、
送れる兵力なんてたかが知れてる、それなら島津が遅れをとる事はない、
これが島津の目算だったし、それは実際にある程度ただしかった
信長政権のままだったら九州に大軍で侵攻する事は難しかったろうな
しかし、当時には東国で既に今川・武田・北条・上杉をはじめとして領内に細かく指示を出して、領国を整備・掌握し、
それによって軍役や軍事力の構成、さらには兵站を円滑化させようとする試みが進められ、成功していた
秀吉はそれと同じような要領で、信長がそれまで手をつけなかった畿内の流通や利権の掌握・整備を進めていき、
10数万もの大軍を九州まで送り込み、維持する事が出来る体制を作る事に成功したわけだ
西国の領国統治体制は東国の先進的な有力大名達ほどには進んでいなかったので、島津は自分達を前提にして
畿内政権の兵站を測ったし、それは信長政権に関する限り正しかった
豊臣政権にしても、ここまでしても九州平定までの間、兵糧が持つかは常に危機感としてあったから
島津は決して根拠ない目測をしていたわけじゃなかったわけだ
実際に信長生きてる当時と豊臣政権の安定度はまるで違う
信長は兵站に苦労しながら小規模に兵力あちこちに送り込むか
反乱鎮圧に躍起になって生涯終えた気がする
民衆にまったく支持されずに一揆ばかり起きて最後は下克上で自滅したのが信長であり織田政権。

550 :
西国はまだまだシャーマニズム的な呪術的な戦場判断が一般常識として存在してたから畿内や東国の軍勢の機を見るに敏な用兵には敵わないよね。
毛利・大内・尼子・大友・島津あたりはみんな論理的ではなくて戦場や城かた立ち上る気や天文が地上に与える影響やら
呪術やクジ引きおみくじの神託やら悪日や大凶日や易や暦を盲信してるからね。
島津の上井覚兼の日記なんてみたら笑っちゃうw
あと大友側の角隈石宗の占いとかなw
立花道雪が戸次鎮連に忠義を示さないと怨霊になって祟るぞって言ったり、
耳川敗戦後に家中に対して道雪が景林にと言う易者に占わせてから戦ったら勝てたから今後もその習慣を守れと言ったり
大友吉統は関が原での大友復興作戦で豊後上陸の場所を戦略面を考えずに
宗麟が運を開いた縁起のいい場所であった立石に上陸して結果的に黒田如水の派遣した軍に大敗してるしw
元就も山吹城を攻めようとした時にどこぞから家臣が連れてきた呪術者に易をさせたら
「占ったところ食料2年分に水も豊富にあるよ」と言われ見事に騙されて攻めずに安芸に帰ったり
陶の怨霊封じの儀式もやってたな元就w
元就が元春が暗殺した本城常光を暗殺した為に出雲の国衆が尼子側に戻ってしまった時に尼子調伏の呪法やったり、
尼子側も出雲大社や佐久佐社や伯州の大山権現で毛利降伏の祈祷やってたな。
祈祷してる坊主達を眺めた元就が怖くなってきて「ありゃあ絶対に効き目あるわ」とか言ってるしw
もう呪術合戦状態www
西国の戦いってのはこういう素地が背景にあってのアホレベルの戦いばっかだからマトモに考えちゃダメだよ。
呪術的占いが大好きな野人隼人の島津は、鎌倉の昔から相も変わらず占いで豊後侵攻路を決めたあげくに大苦戦したんだよ。
島津が大好きな神様に騙されたよねw
そういや上井覚兼は秀吉が大友に味方するって決まった途端に改めてくじ引きをまた引き直しやがってと激怒してるしね。
西国のくじ引き軍が畿内以東より強いわけがないね。
大内義隆が陶の謀反を知り調伏の護摩焚いてたらマジに陶が殺しにきた→陶が山田事件起こす→石見国人謀反→討伐中に元就火事場泥棒→
厳島でなにやら占いや気をみたりする陶がここ数日は大凶だから休戦日だな!→大凶?関係ねーよと元就襲撃→卑怯なり元就ぃ!
→石見銀山ゲット!ってあれ晴久突然死→20歳義久は毛利をビビリ石見を毛利にプレゼントするから和睦しよ♪→石見の国人見捨てられる→
うっひゃひゃ銀を出雲国人にばらまけ和睦なんて関係ねーし侵略じゃ!

551 :
信長は政治も軍事も旧態のまま丸投げだし、
幕府の寄生虫、宿り木にすぎない。
改革どころか一職支配の丸投げなど
旧態への引き戻ししかやってない。

552 :
それでうまくいけてたのが信長

553 :
うまくいかなかったのが信玄

554 :
軍事に関しては長篠で武田軍を壊滅させたことからもわかるように他よりもぶっちぎりで優れている

555 :
寡兵の武田に野戦で大敗して家康の陣城に逃げ込んで、
勝頼が帰るまで引きこもりしてただけだろw

556 :
主力の織田軍がボロボロだったのに連合軍がよく負けなかったなwwww
さすがダブスタの妄想ソースを出すことだけは得意なアスペルガーだがw

557 :
上杉にケツ突っつかれて
安心して京に留まれんわ
甲斐に戻れば今度は
六角や朝倉、織田の残党がうるさいしな
なんやかんやで
落ち着かん政権やなw

558 :
一向宗に蜂起を命じつつ、
関東管領にしてやった北条で、
上杉対応が可能だから
信玄は西国平定に専念できるわな。

559 :
一向宗が一揆を起こした土地は「百姓の持ちたる国」になるわけだが。
為政者としては積極的に使いたい手じゃないだろ。
一揆衆は本願寺の統制も受け付けなくなることが多いしな。

560 :
百姓の持ちたる国は、守護大名などの支配者階級の支配に耐えかねて起こされたものだから、系統的には堺や博多のような自治都市に近い。
そもそもこのスレ的に信玄はあと何年生きる前提なんだ?
仮に60歳で死ぬとしたら、余命は短いぞ

561 :
>>560
>そもそもこのスレ的に信玄はあと何年生きる前提なんだ?
500歳でいいよ
太平洋戦争でアメリカ合衆国や中華民国にも喰いつく信玄公が見たいぞ
当然だが戦国時代は継続中の方向でな

562 :
五百年かけて上洛も成功して統一できないってどんだけボンクラよ

563 :
>>562
お前こそ妄想のチャンピオン!

564 :
武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた(戦国遺文武田1496・1515・1625)
もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ(本光国師日記)
元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが(1748・1789)
北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。
元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、
11月には武田水軍(伊勢水軍)が三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている(1995)
天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる(当代記)
6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に押収され
翌月から武田が船手判を発行することで解決してる(静岡県史資料8の773・785)
小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、
三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。
天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は(3178)
天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており(3331・3332)
北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる(3534・3535・3536・3372)(静岡県史資料8の1394)
要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。
元亀4年10月朔日の勝頼書状の
戦武2184において
小浜氏は3000貫文と書かれ、
他に同心や被官を束ねて水軍を組織してるし、
天正7年10月16日の勝頼書状の
戦武3178において向井氏が1000貫文と書いてる。
また幕府旗本の中島与五郎家には
天正4年10月に三河大崎の
中島与五郎重次が
武田水軍に敗れ相良浦で討ち死にしたと記録されている。
武田水軍が織田や徳川水軍を圧倒しており、
伊勢から駿河の制海権を得ていたのは間違いないだろう。
つうか摂津は石山本願寺と三好らに実質的に支配されてるし、
顕如は近江や越中などの一揆に反信長行動を指示していて
信玄にも、朝倉出陣が確認とれたらすぐ報せると書いてるのに、
本願寺が信長に敵対してないとかバカ過ぎ。
義昭は伏見城や槇島城らを支配していて、
さらに松永久秀の弟の子の内藤氏などを傘下にいれ
丹波を実質的に支配してたから、
義昭は兵力を持って無いというのもデタラメ。
そもそも三好義継や松永久秀が三好三人衆と争っているというのもデタラメ。
三人衆は石山本願寺と協調して反信長で志賀の陣に追い込む手伝いしてたし、
義昭は義継や久秀が兄を殺した事を憎んでいたが、
ついに許して足利再興に尽力して欲しいと受け入れてる。
さらに毛利軍が東進を進めていたが、
摂津や丹波を義昭側に握られた信長は
但馬や播磨戦線へ援軍を送れず見放している。
そのため浦上まで義昭に内通開始。
美濃でも一向宗の末寺多数で信玄に内応。
近江も蒲生まで信玄に内応で、
加治田や郡上の内通開始の美濃に続いて、
近江の織田支配も実質崩壊前夜。
金も米も火薬もなく、
一万しか兵力が集まらない信長の石高は
すでに美濃尾張80万石以下だろう。

565 :
武田水軍が勝った資料は存在するが、
織田水軍や徳川水軍が勝った資料は、
いままで一切見た事が無い。
反論したければ、織田や徳川水軍が優勢だったとか、
織田や徳川水軍の石高を挙げるのが筋だろう。
>>741
丹波守護代内藤を筆頭に、
宇津や萩野らが最有力国人らが反織田。
そもそも将軍義昭の名の元に従っていたのであり、
織田軍の丹波介入が開始されたのは、
天正3年6月以降であって、
丹波は織田領では無い。
しかもその侵攻では波多野まで敵対し敗走。
その後、籾井綱利を降して京から丹波への入口にあたる
丹波南東部にやっと亀山城を築いて、
丹波に根拠地設営成功しての天正6年から天正7年10月の第二次丹波侵攻による丹波丹後平定までは織田領になってないわ。
山城北部は義昭配下の山本・磯貝・渡辺ら
南は淀城に石成友通
南山城は真木島
木津川辺は松永
元亀3年12月には三好康長・篠原自遁・大和守らが大山崎で禁制出す。
山城東部は義昭に山城半国守護に補任された山岡道阿弥が一揆と連合してるし、
山城西部の西岡一揆の主力は36国人で構成する西岡被官衆だし、
どう考えても荒木や細川が領地を維持していたとは思えない。
>>749
摂津では伊丹親興や池田重成も義昭に呼応して挙兵していて
反織田で染まっている。荒木や細川が領国を維持できていたソースは存在しない。
>>752
>>「最有力国人」とか言ってるのか知らないが
信長本人がを義昭が宇津を傘下に加えたが
同国の実力者内藤は参加してないと細川への書状に書いている。
しかし二条城へ来た信長は内藤が兵5000(射手1000)で二条城にいたのを見て驚愕。
赤井は織田配下の但馬山名を攻めたり、
但馬へ侵攻する吉川元春に呼応したりと完全に反織田。

566 :
謙信が生きていたら下記の状況からして上洛成功は間違いないな。
信長って天皇がいなかったら三回は反織田連合に捕縛されて自決させられてたよな。
志賀の陣・義昭二条城籠城。そして下記の荒木籠城。
天正6年2月東播磨を中心として実高43万石とされる別所氏が信長へ謀反。
美嚢郡淡河城・加東郡金鑵山城・加古郡高砂城・印南郡中道寺山城・明石郡枦谷城・明石郡林城・
飾西郡英賀城・加古郡野口城・印南郡志方城・印南郡神吉城など播磨一円蜂起。
御着城主の小寺氏などもこれに呼応の構えを取る。
まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・さらに光秀を粉砕した丹波の赤鬼赤井直正まで死去。
赤井兄弟は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。
謙信死すとの確定情報が届くと上杉へ備えていた信忠の大軍が開放され播磨へ移動可能になる。
上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて
織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元就死後に隆景と対立するようになった元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。
10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
小寺政職と協調してる東播磨別所の三木城を攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。
義昭側の池田知正の失脚により荒木の摂津国での指導が確立した矢先に荒木謀反で
有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら
対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して摂津一円一斉挙兵。
摂津の大半が再び義昭側へひっくり返ったため織田の別所包囲軍が孤立するどころか
対赤井・波多野の丹波戦線も再度崩壊し
本願寺と相手をすることすら不可能に陥り、またしても戦略の大破綻を招いてしまい
相次いで信長家臣団を派遣し荒木の再考を促す説得や宣教師を脅迫しての調略をする。
がもうまくいかず信長は荒木を説得する時間を稼ぐために
天皇に土下座した信長は11/4に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えさせるほど危機的状況に追い込まれていた。
信長は天皇を使って時間を稼いでるうちに荒木配下の高山右近や中川清秀を降伏させる事に成功し
高槻城・茨木城・大和田城・能勢城・三田城を織田側へ寝返らせ荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。

567 :
松永の 片岡城攻略で明智軍に「大勢損」が出たのに苦戦してないとかあり得ないわけだが。
それに当時の謙信と勝頼は義昭主導の甲越相一和が成立してたから
上野や信濃で緊張なんて無かったわけだが。
しかも北条からも謙信が上洛するなら北条の援軍も派遣したいと申し出てるしな。
手取川での大敗は相当なダメージだったようで、もはや柴田では防衛不可能となり
越前の治安も不安なため石山本願寺攻囲軍総大将の佐久間まで投入せざる追えなくなる始末。
1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として北陸へ松田監物を派遣してるところから
織田家No.2で大軍を率いていた佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけないほど追い詰められていた。
本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。
松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には細川の増派で凌ぎ、持てる駒はすべてなくなり完全に兵力不足。
そのせいで天正7年まで織田軍はロクな実績を挙げてないね。
3月27日には黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して「状況によっては信長自身の出馬がある」と言い、
状況とは「謙信が死んだ風聞がある」ことを指摘してる。
結局、謙信死んだのが確定した為に安堵して戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され
代わりに信忠が派兵されることになる。

568 :
> 池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
>
> 「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。
> これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
> 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
> 従って武篇道と戦果が問題となる。
>
> (中略)
>
> 信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
> それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
> 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
> 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
>
> 信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を
> 戦っていかなければならない。
> 拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
> なされていないからこそ生じた問題であろう。
> それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
> それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
> 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
>
> この問題の解決は秀吉の課題となる。

569 :
武田を遥かに越える略奪恐喝虐殺犯罪組織織田軍。
永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。
永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに、
賀茂から嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
銀1300枚受け取り拒否した上京を焼き討ち略奪。下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし
宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
堺、草津、大津の関に代官を置いて税金取ってた信長に対して、
三好や六角や一向一揆はその交通量を激減させ
織田軍の補給や退路を遮断させ疲弊させる戦略だからかなり有効だったと思われる。
京での暴挙は自暴自棄に等しく完璧に物心両面で信長は追い詰められていた証拠だろう。
さらに奈良京都堺尼崎で恐喝略奪をして荒廃させた以上、
これ以上の略奪における大利益をあげるのは難しく、
天正2年春に織田が攻勢をかけるもまた資金難で停滞し各軍が各国で苦戦している。
兵力分散してるのも各軍が各国に現地調達をして軍を養わざる負えないからだろう。
原則は軍役負担者が安堵地から輸送による自給ではあるが、
軍役に次ぐ軍役でとても負担出来るわけもなく現地略奪方式を取らざるを得ない。
織田軍が虐殺したりしてるのも略奪や財産没収が目的だろう。
この略奪モンゴル方式は天正8年の本願寺との和睦まで続く。
あんだけ無理を強いて戦い続けてりゃ軍費だって無くなるだろ。
戊辰戦争でも軍費問題はデカかったんだから。ガキの頃から豊かな生活を親が与えると
大人になっても浪費癖が治らないばかりか酷くなるってのは事実なんだな。
それで金が無くなると虐殺と略奪だもんな。
そいつがアスペ・パワハラ独裁権力者だったから日本は不幸の闇に包まれたってわけだ。

570 :
堺会合衆だが、一般には永禄12年に信長に屈服したと言われるが、事実は違う。
会合衆の長老格天王寺屋津田宗及は日記(天王寺茶会記)によると、 元亀争乱期を
通じて、何度か本願寺や三好と会い、信長が天満森で敗走した直後に本願寺にも
訪問し、御茶を点てている。 逆に織田方とは全く会っておらず、津田が仲間の
会合衆と共に初めて信長に会うのは、天正元年11月京妙覚寺においてである。
元亀期、堺会合衆は二派に分かれ、津田が長老格に対し、信長派今井は新参なので、
反信長派が優勢だったと考えられる。 むしろ今井を残しておいて、裏目が出た時に
対処する商人らしいやり口だったのだろう。 また津田は元亀2年2〜3月京へ赴き、
京町衆と数度会合をもっている。
天正元年4月信長は上京を焼き、町衆の多い下京に自分に従えと命じているため、
京町衆も反信長派になっていたかと。 畿内一円の商人逹は「矢銭」をかけた信長を
嫌い、反信長派の動きをしていたと推定。 資金流通や弾薬物資も、信長よりも反信長
陣営に有利に回っていたと考えられる。
和泉
三好分国として安定。配下領主松浦・寺田・沼間・眞鍋など。
讃岐十河存保が織田に通じた後、誘降を受け入れる。
信長が天皇の勅命を破り(志賀の陣のこと)
公家や権門など他者を侮り傲慢で政治を正そうとせず〜と信玄は信長を非難している。
この義昭への信玄の西上中の正月の檄文は天皇がわざわざ取り寄せ筆記して奉納しているほど感動を与えた。
信長のやり方はいたずらに敵を作り出し
対立しまくるだけで乱を拡大させてるだけ。
また、以前にも信玄は、義昭の命令だとウソを吐いて
書状を出しまくる信長は問題だと義昭に言って憂慮してる。
信長のような対立抗争と戦乱を煽るやり方はしない。

571 :
お前は煽ってコピペしてと忙しいのにな
少しはお前のイメージの信玄をみならったらどうだ?ん?

572 :
もはやただの壊れた機械だからなw
しかもおっさんだぜ?

573 :
このコピペで
岐阜近くに砦を持ち現在の海津市一帯を完全占領している長島願証寺を
武田水軍が焼き討ちして全滅させた事を完全に証明したわけだ。

574 :
>>564-570
また妄想が始まったか
夏休みになると毎回こればっか
30過ぎても多分仕事はあると思うから真面目に生きろ

575 :
IDかえてちーっす

576 :
>>566
ついでに言うと、天皇が重ねての勅命命令を出さなければ石山本願寺が織田と和睦に応じることすらあり得なかった。
とくに教如は強硬派だったが、朝敵にはなりたく無いから和睦した。

577 :
ただの和睦で本拠地見捨てて鷺森みたいなド田舎に引っ越す本願寺www
山科に続いて2度目の退転www

578 :
>>576
熱湯が熱いみたいになってるぞ

579 :
本願寺を根斬り虐殺できれば
いくら被害が出ても構わないと書状にまで
表明しておきながら
天皇に土下座して本願寺のこれまでの反抗をすべて不問にするからと哀願w
しかし教如が拒否するとさらに続けて勅命を出すように土下座して哀願w
教如も重ねての勅命拒否は朝敵になるからとやっと受け入れ。
信長が本能寺で自業自得の死を知るや
織田家臣たちは信長の生前の意向を無視して
必死に本願寺の力を借りたいと哀願書状を出しまくる始末www

580 :
ちゃんと訂正できたな、偉いぞ

581 :
斉藤義竜がもっと長生きしたら織田が伸びないから
かなり歴史が変わるだろうな 信長滅ぼせれば一番天下に近い大名になってたね
早死に悔やまれる

582 :
父親をぶっRのに重臣達の力を借り
六角や浅井に対しても何もできなかった斎藤義龍が信長滅ぼすとか夢見すぎ
まだ龍興の方が可能性あるわw

583 :
>>582
重臣の力借りるのは当然だろwww

584 :
義竜は六角義治と結んで浅井を圧倒してたのも知らんのか織田厨はw
父の承偵は土岐氏を保護していたこともあり
斉藤は主家から下克上した家柄だし、
婚姻するのは反対と主張してたから婚姻同盟まではできなかったようだが。

585 :
道三の美濃統治は不安定なもので、
木曽川長良川の大洪水と六角や朝倉や織田の攻撃による相次ぐ戦乱により、
美濃で大量の餓死者でた天文21年6月に六角が頼芸支援で攻め込んだ。
この戦いののち道三は頼芸を追放するが
越後で長尾氏が上杉の支配機構を解体出来なかったように、
斎藤氏も土岐氏の支配機構は解体できず
かと言って道三には民政の新しい施策も全くなく結局、
重臣達により国主たる資格なしとして、
天文23年3月に道三も隠退に追い込まれる。
そして最後は甲斐を追放された信虎と同じく
追放か抗戦かの選択で道三は抵抗を選び討ち死にした。
ちなみに1554年に道三が隠退した翌年に
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、
捏造信長公記は父殺しイメージを押し付けてるが
この使用し始めた段階ではあくまで道三は隠退しただけで死んでないし
父を殺した范可なんて人物も史記などにも存在しない捏造。
道三独裁から重臣たちによる擁立となった義龍政権は行政を刷新し
1558年を中心に義龍は施策を次々に打ち出し
最高意志決定機関の宿老制が完成し、
用水相論の裁許を重臣連署で解決(用水相論解決は一揆的結合の浅井などでも見られる)
立政寺の門前の池で鵜を飼い網を引くのを禁止した制札も連署。
これは土岐氏の官僚機構を
国人合議制により斎藤の元に奉公人制を確立させ吸収していく動きであった。
永禄三年には印判状という文書形式を導入。
知行あてがいも貫高制が導入され
重臣合議制斎藤氏の知行軍役体系が構築されていく。
さらに上洛し将軍相判衆になり美濃国主に正式に認められ、
伊勢や近衛との縁組など家格を上げる努力をしているあたりは
越後統治の正当性を求めて対立する国人を取り込みたい長尾家と同じ動きである。
信長にはできない状態の中で義龍の矢継ぎ早の改革は評価されるべきだろう。
斎藤氏が短命で滅亡したが行政文書は義龍時代に集中して遺っている。
下々の意見をすくい取り自ら政を重臣に諮る英邁な主君であるのは間違いない。
信長とはえらい違いだ。
この改革の中で別伝の乱という宗教対立が起きる。道三は日蓮宗だったが、最後まで厚遇姿勢のままで、
土岐成頼や政房や斎藤妙椿や妙純などの妙心寺派を統制できなかった。
この宗教権威への介入のため義龍は妙心寺四派のうちの霊雲派の別伝を保護し伝燈寺を開創した。
禅宗寺院の寺統権を新設された寺燈寺に任命するやいなや
土岐や斎藤に創建され尊崇を受けて来た東海派の瑞龍寺が反発。
これに同調し聖沢派や龍泉派も怒る。
そして彼らは崇福寺の快川紹喜の主導で永禄四年1/5尾張犬山の瑞泉寺に出国して会議を行い対抗。
義龍は通達は別伝が勝手にやったこととして撤回したが、
別伝の僧籍削除には断固反対し
義龍は別伝に勅願寺と紫衣着用を奏請し、さらに4/30には将軍義輝にもこれに福書してもらうことで対抗。
しかし対立中に義龍が5/11急死してうやむやになり出国していた諸老も帰国し別伝が逐電。快川は甲斐に行った。
義龍の急死で斎藤氏の宗教統制の挫折となったのは痛かった。
しかし信長がただの不良からヤクザの親分になっただけに比べて義龍は名君であるのは間違いない。

586 :
名君と名将は違うよ?w

587 :
>>586
またまた織田厨クリティカル涙目乙w

588 :
戦争の実績がない義龍ごときをマンセーするアスペルガーだがw
さすが100万石未満で終わった武田信玄ごとき雑魚大名を天下最強とうそぶくだけはあるw

589 :
義龍は浅井長政に圧勝してるのも知らんとかwww

590 :
武田軍は足助城を攻略しただけでなく
5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し先陣はすでに熱田まで進出してるし
4/16付け勝頼書状では22日出馬して参着次第、
その地に二重堀の普請すると書き(奥平信光のいる三河国設楽郡津具筋?)
遠江方面(光明行之儀)では天野藤秀を利用して
彼地の模様を見届け、調儀するのが肝要で(後回しの方便とも書いてる)
その地は幸い、久しく普請を続けていたので(穴山宛てなので穴山が)加勢望むに任せる。
小尾崎・八幡山之儀は案内者を以って
(尾崎権現山や郡上八幡だから両遠藤氏や安養寺や最勝寺か?)地形御見し、注進を頂くべく候
などと書いてる。
このことから当初案では毛利と呼応しての本願寺救援のための出陣計画だが
岡崎内応策が露見した後、作戦変更して
穴山に任せている遠江方面を後回しに三河進出し
長篠で二重堀を作って対陣する予定だったのではないか?
そのために長期対陣に備えて武田軍は(高柳光寿曰く)実数6000の兵しか連れてこなかった。
しかも長篠後に謙信に出した信長書状では兵糧が足らないから織田は撤兵したと書いてるから
織田徳川は3万を維持する兵糧がなかったため対陣して兵糧攻めを通じて織田軍を崩壊させる。
(熱田方面で挑発され面目丸つぶれの信長が急いで出てこざる負えなくなった)
そしてこの対陣中に美濃の軍事的な予定戦場調査をして、
武田軍が残り54000の大兵力を率いて大挙、美濃へ侵攻して(武田軍兵力6万は尋憲記)
郡上八幡の遠藤氏や安養寺や最勝寺の一揆軍の南下で北からも岐阜を圧迫し織田を引き付けつつ
尾崎権現山(200メートルしかない小山)を武田本軍の陣所として
各務原市〜岐阜市日野で織田と決戦して一気に岐阜城を奪い取る作戦だったはず。
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。
しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、
織田6000討死(長篠日記)により野戦では大勝利したものの
徳川・滝川の陣城へうまく逃げ延びた織田兵への陣城攻撃を開始し優勢だったが
さすがに陣城が落ちずに日没を向かえたので鳶ヶ巣山砦も放棄し
(一次史料に酒井の鳶ヶ巣山砦攻撃は存在しない)
撤退を開始したら殿が下手を打って軍が崩壊し1000人討ち取られた(多聞院日記)
義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。
三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し
尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。
長篠戦死者に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く
名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。
また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、
甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で
名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも
織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて
捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い。

591 :
はぁ。そんな大勝利だったのに4年後には皆殺しにされたわけね?
あ、火山の噴火ぐらいで滅亡してたら島津家は2〜3年に1回は滅亡してるから。

592 :
>>591
へぇ島津領での火山噴火で
超長距離の先でも観測できたほどの噴火っていつのことかね?
武田滅亡スイッチとなった浅間山噴火は京で観測できたばかりか
大分県でも観測できたほどの規模だったんだが。

593 :
痴漢冤罪みたいだな
触られた!触られた!というが、証拠はそれだけ

594 :
下記のサイトだと1582年の噴火よりも1532年の噴火の方がでかい
浅間山自体は頻繁に噴火してるから噴火が理由で滅ぶとか有り得ない
浅間山
http://www.seisvol.kishou.go.jp/tokyo/306_Asamayama/306_history.html
http://riodb02.ibase.aist.go.jp/db099/cgi-bin/volcanic.cgi?id=043

595 :
>>594
そこのサイトの気象庁の噴火一覧なども
明治以前のものは
ほとんど一次史料によらずに
後世の人間が伝聞などを元に書いたデッチ上げ噴火が大半。
一次史料から証明できる
京の公家日記に視認観測記録が記述される程の大規模噴火は、
1108年の大噴火(後日、浅間山のある上野国の国司が朝廷へ上野国壊滅の報告をしている)
に続いて武田滅亡のこの時で有史以来わずかに二回目でしか無い。
しかし武田滅亡の起因となった噴火はなんと大分県から観測されており、
北条も10日以降、武田領から一切、情報が入らなくなったと困惑している書状もあり、どうやら10日前後から火山などで情報交通はすでに麻痺していたのがわかる。
また京では観測されなかったが幕府官吏により天明の大噴火が記録されているので
確実な噴火記録である。

596 :
>>595
708 名前: 人間七七四年 投稿日: 2012/08/31(金) 11:50:34.36 ID:FewJxgdL
>>699
信長の命令を無視して市場取引を拒否られる屑銭ばっかりを献上して朝廷で不興を買った信長乙www

597 :
すでに北条氏政が(埼玉の)鉢形城主氏邦宛てで10日以降、甲斐などから情報がまったく来なくなったと
困惑しており天変地異がおき始めていることが伺われるのが10日
大分県でも観測された浅間山超噴火が14日で、これは武田滅亡予兆の怪異と噂された。
2/15付けの信長→滝川書状の中で
我々出馬儀 無油断令用意候て 一左右(いっそう)相待候 
能々見合候て 発足之日限可申上候 
などと書いてあり、信長は自分の出馬まで油断なく用意して待つように
よくよく見合わせて出撃のスケジュールを俺に申しあげよなどと命じている。
いまだ織田軍は信濃・美濃国境線上で待機していて
本格的な侵攻をしていないのが判明する。
また信忠が若いので働きして名を取らんとする気色があるので
俺が来るまでちゃんと抑えるのだ。もし失敗したら2度と俺の前に出ることは許さんから覚悟しろ。
2/23の信長→川尻宛の書状では
19日の書状報告を読んだ信長が飯田・大嶋が落居したので敵の城は高遠城だけだとのこと。
高遠攻略のためのしかるべきところに2.3の伝城を普請するように。
高嶋(諏訪)に在陣していた勝頼は甲州へ引き退いたとの話だが
韮崎の新城はまだ完成してないし城域が手広いが(この後に四郎無人之由と書いてる)
籠城するのであろうか、例え人数が多かったとしてもこの状況では退治するのは簡単だろう。
信忠が軽挙しないように滝川とも相談してよく申し聞かせよ。
森や梶原が談合せずに進軍したとのこと。若きものだから粉骨して名を取ろうとしてるのだろう。
また俺へ褒美などで訴訟する種とも思ってるに違いない。
アホな働きは無用だとよくよく申し聞かせよ。
高遠の陣取りはよく相談してのちのちのことまで示し合わせて落ち度ないように。
(この時期になると森や梶原が信長の命令に従う現地の信忠の統率を
無視する行為を公然とやりだすのがわかる)

598 :
ID:FewJxgdL
書き込んだスレッド一覧
人間七七四年
【疑問】スレ立てるまでもない質問 9【戦国時代】
長篠・設楽原合戦の真実 part3
*  織田信忠 その2 *
織田軍団ってイメージで凄いと思ってたけど…
武田信玄上洛成功part2
悪逆大名
なぜ織田家はあっけなく滅びてしまったのか
織田信長は過大評価されすぎ11
下克上された暗愚な暴君
信玄・謙信・宗麟・輝宗・晴久
【軍神 上杉謙信 毘沙門天 越後の龍】

08/31(金) 10:16〜〜08/31(金) 17:46の間に合計25の駄レスwwwwww

599 :
信玄は雑魚だと言っているが
歴代武田家当主の中では
有数の実績を持っているんだぞ

600 :
>>598
マルチコピペ乙
自治スレに水遁依頼しといたよ

601 :
信虎
山梨県内の大井さん、今井さん、小山田さんを従属させ
生涯の大半を山梨県の征服に費やした人
あと神奈川の北条さんや静岡の今川さんとも戦っている
晴信
長野県の小笠原さん、村上さん、木曽さん、諏訪さんと戦い
生涯の大半を長野県征服に費やした人
新潟の上杉さんと戦ったり神奈川県に遠征したり
徳川さんと静岡県を征服したりもした
すごいとことはすごいが
過大評価の典型

602 :
群馬や岐阜、愛知にも来たよw
まあ領土の広さで評価されているわけじゃないけどね
勝頼もヨロ

603 :
勝頼
愛知県民と岐阜県民と神奈川県民に集団暴行された人
なおこの際山梨の一般県民は
村長や役人クラスの人間を打ち取って愛知県の進駐軍に首を差し出したらしい

604 :
でも信濃は2ヵ国ぐらいの広さだよ。
しかも群雄割拠で強豪ぞろい。
南の小笠原と北の村上で実質的に2国でカウントしたほうがよい。

605 :
群雄割拠してなくて
統一されている国の方が珍しいんだけどね
むしろ統一されていなかったから
征服されたのでは

606 :
だねぇ。例えば諏訪氏が信濃を統一してたら甲州を切り取って早い時期に長尾と衝突してただろう。

607 :
>>600
それを言うならマルチポストだな。
マルチポスト(Multi-post、Multiple posting、Multiposting)とは、同一の内容の文章を複数のニューズグループ、掲示板に別の記事として投稿すること。[1]クロスポストとは区別される。

マルチポストがマナー違反と見なされるのは、以下のような理由による。
回答が複数のコミュニティーに分散してしまい、知識の集積という一コミュニティーの目的にそぐわない。
ネット資源(サーバーや回線の能力)とて無限ではない。同じ内容の記事をばら撒くのは資源の無駄遣いといえる。
その問題に関心のある人は類似した複数のコミュニティーに参加して新規投稿をチェックしていることが多いが、あちこちの同じ投稿に対してそれが本当に目新しい内容かを峻別しなければならなくなる。
他のコミュニティーで付けられた回答を知らずに同内容の回答を付けてしまったり、他のコミュニティーですでに解決したことを知らずに検討を続けたり、善意の回答者の労力が無駄になる。
この場所だけでは質問が解決するか不安であるという不信感を表明することと、結果としては同じである。
こうしたことから、回答をする意欲を失わせたり、不快な気分にさせてしまう場合がある。


608 :
>>605
いや、おいしい地域とおいしくない地域によってわかれる。
甲斐のような、おいしくない地域はまとまりやすい。
信濃のように、おいしい地域はまとまりにくい。
おいしい地域は複数の他国の大名が狙っており介入してくる。
直接的に侵攻もあれば、豪族に影響力をもち間接的支配もある。
だからおいしい地域の豪族は隣国大名や他勢力をバックに独立傾向なる。
よって群雄割拠なる。
だから信玄は信濃勢だけでなく
信濃勢のバックの長尾や山内上杉と必然的に戦わなけれないけなくなる。
博多をみてみなよ。
周りの田舎もんが競って支配しようとするため、
博多そのもには、まとまった勢力がなかなか生まれないのよ。


609 :
甲斐も北条や今川をバックにしていた国人多いし
両属家臣もいたからまとまりにくかった。
信濃も興福寺が信濃国内の守護権威として
小笠原氏と並んで越後守護上杉房定の名前を特記していて
信濃国は実質2か国扱いであり
海運が使えない日本内陸部の大動脈であった中仙道に接していた
善光寺門前町などは多くの商人や宿泊客で溢れた巨大経済力を有していた。

610 :
まとまりやすいところってどこだよ

611 :
守護大名の権威がそのまま残っていた、周防・長門あたり?

612 :
>>608
甲斐がまとまりやすいってまじでいってるの
信虎の時にやっと統一したのに
大体豊かな美濃も国人乱立だし
豊かな尾張も織田一族で争ってるし

613 :
>>609
信濃は実質二カ国でも
大きく見て4つ
細かく見ても5,6の勢力に分断されてたけどね

614 :
>>612
いやだから豊だからこそ美濃も乱立しやすいの。
石高が豊富なところや商業が活発なところは巨大な利権があるの。
その利権をめぐって内乱のようになり、他国大名を介入して混沌になる。
だからとても強力な勢力じゃないと統一できないんだよ。
甲斐は連合形態であり、武田は一族との関係は良好だわ。
つまりまとりやすいのよ。
甲斐の国人は甲斐だけではやっていけないから、他国侵攻を共有している。
国人がある程度同じ志向を共有しているからこそ、信虎追放もできた。

615 :
美濃は乱立してない。
土岐氏を擁立して美濃へ侵攻しても国人は誰も呼応すらしない。

616 :
尾張なんて信秀が軽く統一して美濃や三河へと外征を繰り返しているんだから治めやすい土地だよな

617 :
>>616
統一してねえしw

618 :
信州は5カ国相当だな。
石高も50万石オーバーだし。
897 :人間七七四年:2012/06/25(月) 20:18:35.76 ID:idaFkuId
北信
現在の長野県北部、長野市周辺
水内郡・高井郡・更級郡・埴科郡の川中島4郡、中心地は善光寺平
戦国時代は北部を高梨氏、南部に村上氏らが割拠
中信
現在の長野県中部、松本市周辺から大町市周辺
筑摩・安曇郡。信濃の国府。
戦国時代は守護大名小笠原氏の支配圏
南信
現代の諏訪・上伊那・飯伊地方。諏訪湖周辺から天竜川水域。
諏訪郡。伊那郡
諏訪郡は古代では諏訪国として独立していた時期もあり、狭義では含まないことも有る
戦国時代は、諏訪郡は古くから諏訪氏支配。
伊那郡は高遠諏訪氏、知久氏、松尾小笠原氏らが割拠
東信
現代の上田市、佐久市周辺
小県郡、佐久郡
戦国時代は、海野氏、望月氏、禰津氏の滋野三家の支配圏
後に村上氏の影響下になり、さら後には真田氏らが台頭
木曽
木曽谷一帯。現在は中信に分類される。
木曽郡。
戦国時代は木曽氏支配
木曽地域は飛騨と信濃両国にまたがっており、信濃一円の祭事である御柱祭にも参加しておらず
長い間信濃とは認識されていなかった。(飛騨というわけでもなかった。)
完全に信濃と認識されるようになったのは、実は武田家によって支配されてから。
西信
ない

619 :
信長の信、信玄の信、謙信の信、すべて信濃に由来する。
古来より信州を制する者は、天下を制すると言われてきたくらいの日本の中心。

620 :
誰に言われてきたんだよ

621 :
>すべて信濃に由来する。
なんの由来もねえよwwww馬鹿過ぎww

622 :
最悪なのは寺社勢力やら町衆やら武家以外まで蔓延る畿内かね

623 :
面倒なのは天険割拠が可能な深い山谷三昧な信濃や甲斐や越後や越中や上野でしょ。
雨天や台風の利根川


624 :
圧倒的な不利な条件だった武田

625 :
武田が馬を使った兵站が発達したのも天険ゆえだしな。

626 :
※その後どうなるのか考察するスレです。史実の話は他所でやってください。

627 :
その後の話なんてとっくにおわっとるよ

628 :
>>627
愛知弁でトルからwww
終わったのは織田厨の間抜けな妄想>>432のやつだろ?
誰も認めてくれなくて強制終了しちゃったよな?

629 :
愛知弁か?

630 :
※その後どうなるのか考察するスレです。史実の話は他所でやってください。

631 :
>>630
黙れボケ市ねアホ

632 :
※その後どうなるのか考察するスレです。史実の話は他所でやってください。

633 :
名古屋弁だねwww

634 :
俺の妄想にだがが論破されてる件
信玄が無能なのは事実

635 :
仮に京まで上洛したところで(もちろん信長が死んでる前提で)
足利義昭をどうにかできたとは思えんからな
本拠地を移すなら別だが、そうでないから畿内の権力争いに積極干渉ができない
できたところで信玄もすぐ死ぬだろうから何の意味もない

636 :
>>635
まるで信長のようだ

637 :
元亀三年10月の信玄の軍事行動は西上とは思えない
これは駿河攻めの前の関東討ち入りと同じ牽制の行動だと思う
信玄は翌年春に中山道を岐阜に向かい、浅井朝倉とともに信長を挟撃するつもりだった
その準備として家康の背骨を砕き防御を固める
根拠はある
朝倉に翌年5月まで対陣して欲しいと書状を書いているのだ
元亀三年10月からの軍事行動では岐阜に侵攻するくらいに真冬になってしまう(太陰暦の当時は1〜3月が春、4〜6が夏、7〜9月が秋、10〜12月が冬)
三方が原の戦いも12月
このまま岐阜に進軍したら中山道の峠は雪に閉ざされ武田軍は補給に苦しむ
援軍もままならず退路も雪に閉ざされる
家康が立ち直って後方に迫れば信長軍と家康軍相手に袋の鼠
元亀三年の三河遠征が飯田に引き上げたのは予定の行動だろう
元気四年5月に飯田から武田全勢力で中山道を岐阜に向かう
これが信玄の戦略だった
当時大軍が通るメインルートは中山道
東海道が整備されるのは江戸時代だ
織田の武田攻めの主力である忠信軍も中山道を進軍している
元亀三年の三河を経由するルートは岐阜侵攻に遠回りすぎるし時期も悪すぎる
家康を叩きのめして逆らう気をうしなわせ守りを固め
翌年春から中山道を岐阜に侵攻するのが信玄の作戦だった

638 :
あぁ、森田芳郎?w

639 :
※その後どうなるのか考察するスレです。史実の話は他所でやってください。

640 :
ところで、なんで佐藤忠信が武田を滅ぼしてんの?

641 :
>>636
信長より相当難しいぞ
信長は根拠地が美濃尾張で畿内のすぐ近くだったが信玄は甲斐信濃が主力で畿内より遠く、
上洛時織田信長は35歳だったが、武田信玄は最低見積もっても53歳でいつ死ぬかわからん
信玄が死んだら勝頼が後を継ぐことになるが、勝頼が義昭に強気にいけるかどうか甚だ疑問
俺の予想では織田家が滅亡するだけで、他の大名の勢力圏はさして変わらんと予想している
武田も美濃尾張近江の維持ができるかどうか

642 :
山口県の大内義興ができたことなのに無知過ぎ。
管領代だった大内衰退→六角定頼が管領代→六角衰退→織田→武田とサイクルしていくだけの話

643 :
大内義興は最終的に畿内を放棄して国へ帰ったわけだがw
それとて尼子勃興期だからよかったものの下手をすれば国元が蹂躙された
武田には甲斐信濃にほど近い場所に上杉、北条という大大名がいる
もちろん仲は悪い、足利と武田が対立したら彼らは嬉々として攻めかかってくるだろう

644 :
http://1st.geocities.jp/sengokujidai_sougou/D-500_sengoku.htm
私のHPに詳細を載せているので感想等よろしく


645 :
謙信と戦う北条との甲相同盟も知らんとかあまりに無知過ぎて逆にワロえない。
もうドン引きレベル。

646 :
北条との同盟がなんの頼りになるんだ無知乙w
もともと武田今川戦争で嫌って上杉と組んだのに
その上杉があまりに何もしてくれないから武田と組んで一時の平穏を得ただけw
それが証拠に御館の乱の後は武田と与する利なしと判断して信長と同盟を結ぶという背信行為をされたのをもう忘れたのかw

647 :
とりあえず武田にとって最大限望ましい条件で上洛すると仮定
武田信玄が病を持ち直す(ほぼ大前提)
1573年4月に武田軍が上洛する(史実では信玄が死亡する頃)
織田信長、徳川家康は死亡済で、主要な織田徳川一族も全員死亡=再興を狙った反乱も起きない
武田は甲斐、信濃、駿河の大部分他、徳川領であった遠江三河、織田領であった美濃尾張近江伊勢などほぼ全ての敵領を接収
この状態からスタートしてもかなり厳しいと言うのが現状
足利義昭は武田が要求に屈しない限り確実に険悪になる、同時に信玄がポックリ逝ったりすると窮地もいいとこ

648 :
信玄は三方ヶ原の首実検の時に倒れた
信玄が万全だったら徳川の備えに5000くらい残して
残りの2万で尾張に一気に攻め込んで、一向宗と合流
東美濃の秋山隊も岐阜城目指して進軍、さすがに朝倉も
出陣してくるだろうから、信長は100%死んでた
一番の問題はほぼ全兵力を上洛戦に投入している事
上杉、北条の動向次第では一瞬のうちに崩壊の可能性有り

649 :
北条は武田へ援軍出してるし、
北条と一向宗が上杉と戦ってる前提も知らないとはw
しかも越相同盟が崩壊した理由でもあるように、
謙信はこれ以後死ぬまで武田領を一切攻めてないのも知らんあたり超素人丸出し。

650 :
そんな事知らない奴はここにはいないだろ
信玄上洛なんてあくまで仮定の話、そこから全てがIFになるんだよ
謙信が信玄が天下人になるのを黙って指くわえて見ている訳ねーだろ
おまえはIFの話の中に都合のいい部分は史実を持ち出すが、同盟なんて
信玄見ても分る通り、自国の都合次第で簡単に反故にされるし、昨日の敵が
今日の友なんて戦国では当たり前の事だろが


651 :
>>647
信玄政権の弱点は寿命だけだな。

652 :
>>651
寿命だけじゃない、信玄の不義理さも大いに弱点足りうる。
上洛成功という仮定の関係上、武田信玄はかつての同盟者であった織田信長を裏切って
その織田信長を滅ぼして上洛成功させたわけだ、まずこの時点で外交違約常習犯の武田に対する警戒心が異常なくらいだし
おまけに織田徳川を滅ぼしてその勢力を吸収したのなら武田家は戦国1の勢力でどう考えても仮想敵筆頭候補。
上杉謙信が武田を攻めなかった等史実の話を持ち出す輩がいるが、上杉が武田を攻めなかったのは
甲斐信濃という恩恵ゼロに等しい狭領と、勝頼政権期に家臣が軒並み死んで超弱体化を遂げたからであり
当然「武田信玄が上洛成功する」という仮定の前ではそんな前提など脆くも崩れ去るのは誰の目にも明らか。
北条にしても同様で北条氏康が瀕死の状態であったから一時的に和議を結んだだけで
事実1572年の侵攻以来北条は武田に一度も援軍を出しておらず、しまいには武田の仇敵である織田と結んで和議を反故にされる有様
もともと武田側からの背信であるにもかかわらず、根拠地である小田原を攻められたと言う時点で
同盟を結んだ北条が攻められないという保証は全くなく、むしろひと思いに潰される可能性の方が高い

653 :
>>648
当時の朝倉は秀吉にすら苦戦するくらいのジリ貧なので、史実の話をすれば
織田武田の直接対決に出てきたかどうかはかなり怪しく戦って武田が勝つという保証も全くない
ただし、浅井朝倉の弱体化は「武田信玄の上洛成功」という仮定においては
おおいに有効に働く、多分上洛が叶った時点で半従属状態まで持っていく、
あるいは後から攻め滅ぼすという方法はそこまで難しくないだろう
武田信玄が上洛成功した場合、対抗馬足りうるのは上杉、三好くらいか
信長と違って本願寺との協調路線は取りやすいから、信玄が75くらいまで生きれれば天下も見える

654 :
外交違約常習犯
これ信長のことだろアホ乙w

655 :
北条氏政と上杉謙信が組むと厳しいのは確かだな。
それさえ抑えれば天下は確かに見えてくる

656 :
>>654
具体的に具体的に?w
一次資料つけろよ?www

657 :
上洛できても田植えの時期には引き上げないといけない。
在留できても2000〜3000人では何もできんだろうし。
上杉謙信がそれくらいの人数で上洛して「松永やっつけてもいいけど
どうする?」と足利将軍にいったらしいが松永殺っても三好3人衆とかを
阿波まで追いかけていけない

658 :
>>656
斎藤に苦戦してた時に、
信長のために同盟してやったのに、
信玄が同盟者織田の苦境を知り、
織田と本願寺との和睦を斡旋してる最中に岩村城を盗んだり、
明智の取次ぎで同盟していた長曾我部をいきなり裏切り、
秀吉取次ぎの三好の肩を持ったり
同盟していた浅井を家臣扱いして朝倉攻めの背信をやったり、
信長はめちゃくちゃじゃねぇか。
そもそも上洛支援してた本願寺や比叡山の荘園盗みまくり敵対関係になるなど、
織田の背信は常習犯だし。
尼子残党を見殺しにしたり、
信長の戦略的失敗を家臣の塙直政のせいにして一族指名手配なんて前代未聞の愚挙だろ。

659 :
>657
のぶやぼ脳の法則あげ
一.本拠地移転の効果は全てにおいて絶大無比。       (ゲーム信長の野望より)
一.代替わりしても勢力間の力関係は変化しない。      (ゲーム信長の野望より)
一.徴兵制の大名はどんなに有利でも農繁期に必ず自国に帰る。(ゲーム信長の野望より)
一.傭兵制度の織田兵は、他家の兵より忠誠度が高い。    (ゲーム信長の野望より)
一.中仙道は悪路。東海道は良路。渡し場と迂回路を備え
  商用/軍用道路として最適だった。            (ゲーム信長の野望より)

660 :
>>653
>当時の朝倉は秀吉にすら苦戦するくらいのジリ貧
ここ詳しく書いてくんろ

661 :
>>657
すまん。よく読んだら上洛後の在留の話だったか。
確かに全員駐留しつづけるのは無理だ。
現地募集しないとな。
しかし今回の面子は3ヶ月前の妄想とは隔世の感があるな。
気を付けないとな。

662 :
>>661
現地募集となるとどこの連中を採用する?
あと召し抱えるための報酬は?自分は足利将軍に
頼み込んで奉公衆扱いにして別軍編成、カネは焼き討ちにされた
叡山の所領や近江の運上を財源に。
あと松永久秀が与力になるだろうけど油断ならなくないか?

663 :

キチガイ秀吉アンチのアホは松下文書どころか 
志賀の陣の翌年の元亀2年5/11付けの 
徳山宛の秀吉書状すら知らずにデタラメ書いてる愚か者。 
5/6に堀秀村の箕浦城を長政が派遣した5000で 
攻撃されるのを察知した秀吉が 
横山城を出陣して箕浦城に入った後、 
下長沢→八幡(長浜)で戦いが続き 
秀吉軍が浅井井規と湖北十ヶ寺一揆連合軍を打ち破ったのも 
知らん無知ぶりを晒し 
箕浦合戦は捏造とか連呼する救いようの無いバカ池沼。 
総見記には元亀3年に浅井井規・赤尾清冬らがまた横山城を 
攻撃してきたが、横山城から竹中重虎が、 
背後から秀吉が攻め懸かり挟撃される恐れから浅井軍が撤退したとも書いてる。 
常に浅井朝倉に優勢な秀吉は宮部継潤らを調略して自軍強化してる。 
しかし信長が指揮を取り出すと朝倉浅井に大苦戦しまくり、
特に信忠の初陣では、無謀な山本城攻めを秀吉はさせられるなど信長がやってくると散々。 
この時期、松永久秀も近江に7/7までに来ないと許さんと 
追い詰められている信長に無茶を命じられキレてるほど織田軍内は険悪。 
秀吉の活躍で宮部継潤らが味方になったことから信長は横山城との連結が可能となった虎御前山に7/27に築城開始。 
だが敵前孤立し常に警戒していた秀吉と違い、
信長はいい加減だから8/28暴風雨を利用して朝倉景盛が柴田の城郭を放火したら 
どんどん延焼して織田軍は大混乱になるなど苦戦続きの織田(9/5長政書状) 
これにこりた信長は宮部城を修復し佐久間隊を入れ、 
虎御前山と宮部城に土塀と堀で囲った軍道を作り応急処置することになる。 
9月に入り、ついに信玄西上開始。

664 :
※その後どうなるのか考察するスレです。史実の話は他所でやってください。

665 :
>>658
最後の一文すらもよめないのか?w

666 :
>>662
なんでそんな貧乏政権なん?
それから松永久秀は信長といろいろ合わなかっただけで、
実体は三好宗家の忠臣なんだけど。

667 :
>>666
武田は山国で農業や金山(枯渇寸前)頼みだったので
上洛したあとの維持費なんて自前で賄えるはずがなく。
いままでは乱捕りとかを恩賞に出来たけど木曽義仲の例を
考えてたら京都周辺でそれができないので大軍は駐留させられん。
また春先になると上杉も動き出すのでそれに警戒しないといけない
ので少数しか駐屯させられない。
そうなると坂本周辺に侍を移住させて自給自足的な駐留でもしないとやれないかと。
>それから松永久秀は信長といろいろ合わなかっただけで
武田を用済みということで都から追い出す可能性大。上杉謙信を
けしかけて。義昭を傀儡に三好や松永が政権握ろうとするだろうし。
信玄は再度上洛しようにも親領国になった美濃、尾張、三河、西遠江の
経営に忙しくまた謙信の動向をけん制しないといけないので
簡単に動けん。あと当人病だし


668 :
>>667
はいはいデタラメ乙
金山は江戸時代でもちゃんと採掘されてたし、
善光寺門前町は大繁栄してたし、
中山道経済圏を掌握し、
さらに伊勢水軍と協調して東海道経済圏まで握ってたわけだが。

669 :
一向宗と北条とのシーソーゲームやってる上杉は武田を全く攻め無くなってる史実は一切無視か。
完全に織田厨のRーだなw

670 :
武田上洛したらそのまま実権握って名目上は室町時代がペリー来航まで続いてたな

671 :
俺がだがの言ってる信玄ageは全て妄想と思うことがこれ以上ない信玄は無能という論拠、反論してみろよ?

672 :
>>668
はいはいソースソースっとw

673 :
>完全に織田厨のRーだなw
「武田信玄上洛成功」というブーメランを笑うところですねw

674 :
一向衆とのシーソーゲーム自体武田信玄がけしかけたものだからなw
上杉武田同盟と婚姻があって初めて「上杉は武田を攻めることはない」と発言することができる
信玄上洛当時の武田に不穏な体制あればすぐにでも上杉は攻め込むだろう

675 :
実際は越甲同盟があったといわれてるけどな。
細川家記にも義昭の信長追討命令は上杉にも出されたと書いてあるし、
義昭の外交を司ってた六角義堯が斡旋したとも言われてるし。
だから信玄が死のうが、長篠で敗戦しようが上杉は武田を一切攻めなかった。

676 :
言われてる言われてる・・・
その主語はお前だろ?w

677 :
はらいてー
誰か671を相手してやれよw痛すぎるwww

678 :
※その後どうなるのか考察するスレです。史実の話は他所でやってください。

679 :
越甲相同盟を察知した今川が、
俺を除け者にするなよ!その同盟の保証人にしてくれって申し入れてら、
北条がそんなのないよとシラをきったから、
今川は危機感から上杉と同盟結んで武田挟撃を図ったから、
察知した武田から今川へ質問したら、
今度は今川がシラをきりつつ、
今川→上杉で武田にバレそうになったから言い訳しましたよって報告までしてる。
それで激怒した信玄に駿河攻められてるし、
甲越和与があと少しで成立すると元亀3年10/6の謙信書状もある。
天正元年10/10の吉川宛の義昭書状などにも東北国の言葉が登場するなど、
六角義堯の外交の成果が現れていて、
上杉と武田の同盟がすでに成立してたのがわかるでしょ。

680 :
六角義堯なんて足利の人間なのによくそんなことが言えるな。
史実で織田信長が足利義昭と反目した時反信長勢力の糾合に走ったのは六角義堯
この「織田信長」のところが「武田信玄」にかわるだけw

681 :
>>680
お前、なにが言いたいのかさっぱりわからん。
日本人なのか?

682 :
>Subちゃんへ
※その後どうなるのか考察するスレです。史実の話は他所でやってください。

683 :
>>681
おまえこそ日本人か?w
六角義堯は足利家臣、誰の事を一番考えて動いていると思ってるんだ?w
まさか武田上杉同盟が武田の事を考えての行動だと思ってるのか?
違うぞ、足利のためだからなw
仮に信玄が上洛したとして、足利義昭と険悪になれば
六角義堯がどっちのために動いてくれるかなんて火を見るより明らか
史実で織田信長がされたように、武田信玄も同じ目に遭うよ

684 :
そもそも軍を率いて上洛成功なんていうのは天下で最も規模の大きい勢力になるということ
武田信玄の場合既存の甲斐信濃駿河から、途上の三河遠江、そして京を支配する織田信長の打倒が前提条件になる
とするなら織田信長の領土である尾張美濃近江伊勢などなどは全て武田信玄の手に帰する可能性が高い
そんな大勢力をかかえた人間に誰も警戒せず武田信玄の天下が来ると思ってる方が間違いだろ
織田信長でいえば1568年で既に天下統一は決まったと言い切るようなものw

685 :
むしろ歴代畿内政権で、
将軍との間で最も下手打った大失態例が信長だろ。

686 :
甲斐から京まで完全制圧なら幕府と対立してもそのまま天下とれるんじゃね

687 :
武田幕府になってたかもな。
甲斐源氏は征夷大将軍になれるのかは
知らんけど

688 :
>>685
あの程度なら日常茶飯事だな
細川政権も三好政権も将軍家とは対立しているし、
特に細川政権の主であった細川高国は最終的に追放した将軍足利義稙の系譜である
足利義維勢力に討伐されて刑死している。将軍に包囲網撒かれた信長なんてまだマシな方。
細川、三好、織田と将軍家と対立してそれぞれ苦難の道を歩んだのに
武田だけ例外が通じますなんていくらIfスレとはいえ杜撰な推測だなw
>>686
率直に言えば5分5分だね
上でもあるが武田信玄は53歳でいつ死んでもおかしくないし
周りに攻撃されている最中に信玄がくたばったりするとかなり雲行きが怪しくなる

689 :
義昭と対立してわずか10年で鞆幕府に敗北し滅亡した信長畿内政権。
歴代で一番惨めな畿内政権だろ。

690 :
>>684
全くその通りだと思う。
おそらく武田領として安定するのは関ケ原あたりまで。
そこからは上杉や足利、朝井、朝倉と戦うのは必須か。

691 :
北条氏政は実質信玄に臣従したみたいなもんだし
謙信はビビって武田領には一切手を出せないし、北条と一向宗で十分抑えられる
信玄上洛なら佐竹を筆頭に関東諸侯は即行武田臣従で東国は制圧したようなもん
信長より遥かに楽に全国制覇出来ただろうけど、やはり長寿というのが
天下人の必須条件だとすると、信玄には天下人としての資質無し

692 :
全行面白いけど特に3行目が良いと思う。

693 :
普通に三好勢を粉砕して
長政や家康を西国へ派遣してるだろ。
信長みたいに石山本願寺相手にバカやらんから
領国は安定するだろうし。
義昭も婚姻でもすれば喜ぶだろ。

694 :
義尋と信玄の孫娘の婚姻が決まりました。
信玄は幕府中興の祖として、
神号が贈与されました。

695 :
ひたすらだががキモい妄想を開陳するスレ

696 :
義昭がそんなおとなしくするわけないわなぁ

697 :
むしろパワハラDQN信長と一緒に事業などできるわけがなかった。
そもそも義昭は北畠攻めに行く信長を泣きながら見送り、
信長が北畠攻めで撤退不能に追い詰められた時は、
義昭が必死に北畠に和睦を結ばせたりと、
信長のために尽くしてきたからな。
常に裏切ってきたのは信長

698 :
>>697
ソースくれい

699 :
お前ら興味深くね
滋賀県立安土城考古博物館
10月6日(土)〜11月11日(日) 「信長×信玄 戦国のうねりの中で」
岐阜市歴史博物館
9月13日(木)〜10月15日(月)織田信長と美濃・尾張

700 :
滋賀県立安土城考古博物館
●10月7日(日)   秋季特別展記念講演会 13:30〜15:00 「長篠合戦ーその虚構と現実−」 國學院大學 藤本正行氏
●10月14日(日)  秋季特別展講座 13:30〜15:00 「元亀争乱と近江の城」彦根市教育委員会 下高大輔氏
●10月20日(土)  入門講座 13:30〜15:00 「文化財探訪トレッキング入門(山寺編)」当館 大沼芳幸
●10月28日(日) 秋季特別展記念講演会 13:30〜15:00 「織田信長と武田信玄」日本大学 柴辻俊六氏
●11月4日(日)  秋季特別展講座 13:30〜15:00 「信長・信玄徹底比較」当館 高木叙子

701 :
あげ

702 :
信玄と義昭の対立はどうなるんだろうね

703 :
幕府や朝廷(おそらく三条家経由)への取り次ぎは誰がするんだ?

704 :
>>702
100%起きるだろうな
足利将軍家は史実でも「わしが将軍だから大名は皆わしに従え」というのが節々に出ているし
確かに足利義昭のころはかなり弱気になっててわりと最後の方までは庇い立てたりしているが
当然武田が劣勢になったりすれば切るだろうよ。
仮に武田が将軍を廃嫡、弑逆したりすればそれこそとんでもないことになる
足利義昭にとって一番望むものは「足利家の天下」で武田家の天下じゃないからな

705 :
上洛成功しても伊勢あたりに信長が頑張ってるなら五年で信玄が信長に命乞いするだろうな

706 :
伊勢には一向宗や北畠が健在だから、
信長生きてたとしても四肢を失ってるだろうな

707 :
織田家徳川家は根絶している前提でないと話すすめられんよ
仮に信長家康が死んでたとしても織田家徳川家再興を願う勢力は絶対にいるわけで
そんなの放置してたら信玄死亡とか反武田包囲網などであっさり離脱される

708 :
義昭と信玄の血をひいた者が次期将軍になるだけだろ
信長みたいなどこの馬の骨だかわからんもんと将軍家も婚姻なんて拒否しても、武田なら喜んで婚姻するだろ。

709 :
>>705>>706
間を取って、
信玄は上洛成功し、
伊勢あたりで一向宗に捕まった信長が毎日頑張って生き延び、
五年後あたりに天下人信玄が、四肢を失った信長に平身低頭謝罪する
ということでどうだろう?

710 :
>>709
そして信長が信玄の養子になるんですね

711 :
>>708
そんなことをしたら武田家は崩壊するだろw
甲斐源氏の武田家と河内源氏の足利家のどちらの家格が上かなんてわかりきった話
仮に武田の血筋と足利の血筋が入った人間が将軍になれば「余には武田の血も入っておる、武田が余に従うのは当然」
と言い出すのが関の山。実際それを嫌がった今川は、室町前半の頃から足利本家と対立して不遇な扱いをうけまくっている

712 :
義昭と対立すると上杉が大義名分を得たりとばかりに信濃に突っ込んでくるだろうなぁ
一向宗は長島と結んでるし叡山焼き討ちで天台座主を救出してるから問題無さそうだが
幕府の要請で上洛した信玄も尾張美濃の統治はガタガタの状態だし
一度兵を引かざるをえんよね?

713 :
公家以外を母に持つ足利将軍っているのかな、と思ったら義栄だけいたね

714 :
いちいちめんどくせえ奴だな義昭wwwwwwwww
義輝ならマシになったんだろうか

715 :
義輝ならさらに酷いことになってるだろ
あれだけ三好に無茶苦茶やってた人間だからな
>>712
最低でも近江は損なうだろうな
信玄は信長以上に敵作りまくってて、当時でも味方と言える存在はほとんどいない
朝倉浅井あたりは嬉々として足利義昭に味方してくるだろうし、
上洛されて権勢を握られっぱなしで悔しがってる三好もほぼ確実に敵になる
ここから上杉が攻めてくるわけだから志賀の陣以上の窮地になるだろうな
信長と違って歳だから、そんな時に信玄がポックリ逝ったら相当勢力減らされるだろうな

716 :
武田厨は妄想しないと自分を慰められないんだなあ

717 :
妄想にふけるだけならまだマシよ
アスペルガーだがみたいに最終的にはそれが史実だと思い込むようになるから

718 :
上洛

719 :
東海道から尾張美濃までを制圧して、日本最大の勢力になり、
その後管領に就任して畿内制圧に向かう。
管領に就任してしまえば家格の上で上杉を上回り黙らせることもできる。
ただ、しばらくは武田包囲網との戦に明け暮れることにはなりそう。

720 :
53歳という老齢で三好や上杉といった反武田が容易に予想できる勢力をどうするかだな
最悪織田家を滅ぼしただけで勢力元通りなんて笑えない事態になりかねん

721 :
三好は甲斐源氏だから取り込めそうだね

722 :
>>720
三方が原の戦いで織田家に大勝してるから上洛自体は難しくないんだよな

723 :
五十まで甲斐、信濃で小競り合いしてた田舎大名でしょ。
所詮はその程度の器でしかないよ。

724 :
三方が原の織田軍なんて小指程度の兵力だからな
むしろあれで信長に勝った気でいたら、信玄は首だけで上洛しそうだな

725 :
三方が原の戦いの、双方の顔ぶれから推測した兵数考察
・武田(約18,000人)北条(約3,000人)
・佐久間、林、平手、滝川(約9,000人)水野(約2,000人)徳川(約12,000人)
/武田、上杉は全兵力を投入できない為、自国の兵士はせいぜい18,000人程度が限度
/佐久間、林、平手、柴田は代々重臣の家柄
/戦略家・織田信長が相手より少ない兵を送り込むとは考えにくい
/洪水や退却中というのも恐らく織田側の情報操作、織田家武将の退却戦は定評あり
『総見記』元禄初年(1690?)
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、水野信元、毛利長秀・美濃三人衆、都合三千
三方原合戦については谷口克広でさえ、このメンバーで3千人という
信長の援軍は少なすぎると述べている
三方原合戦の謎とされる下記も、織田ー徳川方が優勢だったとすれば納得がいく
@劣勢な家康が出陣した理由
A劣勢な徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。
鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は
劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる
布陣を敷いていたことがわかる。
三方原については、
佐久間信盛:(約4000人)織田家の最有力武将、前田本家(与十郎)を支配していた
林秀貞:(約2000人)幼少信長付の筆頭家老
平手汎秀:(約1000人)代々家老の家柄
滝川一益:(約2000人)伊勢攻略及び尾張西部の守備を担う有力武将
毛利長秀:(約1000人)赤母衣衆、斯波氏?
美濃三人衆:(約3000人)織田家遊撃軍の主力
水野信元:(約2000人)織田家の同盟相手、尾張から三河にかけて勢力を有する水野一族惣領
全員揃うと織田家の援軍だけで1万3千、水野家2千、
徳川家最大動員数1万2千とすると、合計約2万7千人が妥当
柴田勝家、佐久間信盛はそれぞれ当時の織田家最有力武将であった。
つまり織田家は果敢に上杉謙信、武田信玄に総力戦を挑み、敗れ去っていたという真実。
更にこのことは織田信長に東方との戦争を危険性を強烈に認識させ、
1.長篠合戦での極端な守備的布陣
2.甲斐侵攻までの長い空白期間
3.甲斐侵攻作戦における慎重な指示
4.更に消極的な越後侵攻
に繋がったと推測できる。

元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容
信長本隊
佐久間信盛軍団
(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団
(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)
佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう

726 :
三方原で家康だけでも討ち取ってればなぁ

727 :
なぜ援軍側である織田が派兵する兵数が少ないにもかかわらず、
重臣を何人も送り込むわけ?
どう考えてもおかしいだろ。
例えば玉砕寸前の硫黄島に大日本帝国の中核を担う、大将や中将を送り込むか?
それが戦略的に正しいか?。
だから前提が間違っていると言いたいわ。
重臣が大勢派遣されることは、すなわち織田の派兵は大軍であり、
織田徳川で合わせて、武田と野戦でやりあえる兵数であるということが帰結される。

728 :
それは意味が無いなぁ
三方原前に遊撃隊的に動いた山県昌景は3000率いてたけど
長篠ではせいぜい1000程度しか率いてない
でも君の理屈だと長篠は武田軍も野戦でやりあえる兵数だったに違いない
ってことになるわな
浜松に7000程度しか居ない徳川軍に3000の援軍だしゃ十分だと思うがな
浜松城に1万で籠城して時間稼ぎしろって話なんだし

729 :
武田信玄は過大評価されすぎ!!part3
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1325991921/
あっちこっちで同じ妄想主張してるんじゃねえよ、だが。

730 :
>>728
意味がわからない。
三方原前の山県指揮下だった奥平氏が徳川方に離反しているのに、
なんで武田軍も野戦でやりあえる兵数だったに違いない?
となるのかさっぱりわからない。
というか長篠の戦いでは武田勝頼は野戦でやり合ってるんだけど???
織田の篭城戦ということを言いたいの????

731 :
>>730
だーかーらー、君の主張だとある指揮官は常に最大動員数を出さなきゃいけないんだよね、軍役の義務だから。
山県昌景は1000人連れてる時と3000人連れてる時があるわけだけど、これはどう説明するの?
山縣が軍役をサボった?
なら佐久間が軍役をサボっていなかったという根拠はどこに有るの?

732 :
>>731
説明も何も単純な話だと思う。
山県昌景の指揮下に奥三河衆が居る時は3000人だったし、
山県昌景の指揮下に奥三河衆が居ない時は1000人だったんだよ。
むしろ3000人の方は山県の動員力とは別物だから1000人の方が通常では?

733 :
比較対象として山県昌景を持ってきたのが失敗だと思う。

734 :
今の時代でもそうだけど
自衛隊が東日本大震災で百万人規模の派兵したって、あれ全軍だとおもってる?
常に全力で派兵するとおもってるの?
アメリカがイラクやらアフガンに武力介入したけど、あれも全軍だとおもってる?
それが答え
いろいろな情報を分析して、妥当とおもわれる兵数を派遣すんの
織田は全軍を送り込むほど重要乃至脅威と認識していなかった、それで片付く話

735 :
脅威とは思ってただろうけど、家康が籠城するだろうと言う前提のもと、家康が裏切らないように送り込んだ軍目付だったんだろうね。
戦うつもりだとすると、数が少なすぎる。
三河を素通りしてきたとして、尾張国境付近で織田本隊が本土決戦、戦力を温存している家康が武田の補給線を断つ、もしくは退路を塞ぐ。
そう考えると、織田軍との連携のための連絡将校(もしくは派遣参謀)としての意味もあったのかな。
そもそも包囲網を完全に破れていない時期に三河まで大軍を送るのは無理だろ。
んなことしたら、本当に尾張・美濃が空になる。

736 :
ていうか普通に考えて浜松に1万近い織田徳川連合軍がいれば武田は前に進めない
信長はそれを期待していたのに脱糞野郎が・・・

737 :
>>734
当時は武将が勝手に兵数を減らす事はできない
大名が選んだ武将の顔ぶれで兵数はほぼ決定される
927 :人間七七四年:2013/02/10(日) 15:10:55.35 ID:rxedmyN4
>925
人員の確保はそれぞれが信長から安堵された所領に応じて
最大数確保することが各武将の義務であって、
そもそも本来は、 動員可能数=毎回の動員数
となるべきだよね

738 :
>>737
残念、武田君は大名命令で従軍数を規定してます

739 :
そもそも>>725の総見記がまず大嘘だらけで、
例えば三方ヶ原の戦いの際に美濃三人衆や毛利長秀が出陣したと言う記述は
この史料以外だとほとんど見受けられない。
徳川方の当時の史料ですらこの4人の名前は出ておらず、ほぼデタラメ
三方が原の戦いにおける、織田方援軍参陣武将は
佐久間信盛、平手汎秀、水野信元 (信長公記)
佐久間信盛、平手汎秀、水野信元、林秀貞 (松平記)
当時の史料ではこれがせいぜい
兵力に換算すると多くて徳川勢と同程度、少ない場合は4000、5000人くらいに収まるだろう。
織田軍の1万3千はまずありえない、織田軍総数が10万くらいいないと無理

740 :
>>735
というか、ありえないな。
三方ヶ原の織田軍援軍は、戦争当時完全に家康の指揮下に入っている。
当初は籠城戦を唱えていたとする説もあるが、結果として家康の指揮下で野戦に挑み、
平手汎秀に至っては戦死している。
他人の指揮下に入れられるのに、可愛い部下を何人も送れるわけがない。まず部下側に反対される。
三方が原の武田軍にも北条勢が1000くらいの援軍を出しているが、これが当時は常識。
1万2000も送るなら信長が自分で率いた方がマシ。この時の織田軍は大体5万くらいの総兵力があるが、
三方ヶ原に参陣したのは参陣した武将を見ても最大6000、7000くらいだろう

741 :
すると水野が4〜5000くらいだから、
援軍は合計で1万〜1万2千人くらいか。

742 :
当時の水野信元が4000人も率いてくるとは思えないな
仮に水野が4000人率いてこれるくらいだったら、
どのみち武田軍がもっと多くなるから織田徳川劣勢は変わらない
ちなみに>>725は武田軍を18000としているが、当時武田は100万石近い領土を保持していて
しかも背後の上杉を越中一向衆に牽制させている。領国から考えると動員兵力20000は確実に越えている。
かたや徳川勢は二俣城含め既に武田軍の侵攻を受けた後、徳川勢単独で12000は多すぎる。
三河物語では兵力に対して「敵之人数を見奉るに。三万余と見れ候」「味方はわづか八千」とある。
>>725の換算でも佐久間信盛:(約4000人)+林秀貞:(約2000人)+水野信元:(約2000人)+平手汎秀:(約1000人)=合計9000
松平記と信長公記で記述が違う林を除けた場合、佐久間平手水野で合計7000になる
織田徳川軍が1万5000以下、武田軍が20000から30000でやはり三方ヶ原では武田勢優勢なのはかわらない。

743 :
>>742
その意見をもう少しきちんと纏めると、
信長公記換算の場合、
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
徳川家康:(約12000人)
佐久間信盛:(約4000人)
水野信元:(約2000人)
平手汎秀:(約1000人)
              =合計19000人
VS
武田信玄(約18,000人)
北条加勢(約3,000人)
              =合計21000人
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
三河物語換算の場合、
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
徳川家康:(約8000人)
佐久間信盛:(約4000人)
水野信元:(約2000人)
平手汎秀:(約1000人)
              =合計15000人
VS
武田信玄+北条加勢
              =合計30000人
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
だな。

744 :
>>743
信長公記に兵数記載はないよ
ついでに言うと徳川勢の12000は織田勢3000より眉唾で
信玄が遠江の主導権を握りつつある三方ヶ原の状況でその兵力はほぼ不可能

745 :
織田勢3000は無いよなー
しかも林秀貞、平手汎秀 、滝川一益、毛利長秀、美濃三人衆がいたら、
兵数は逆転
真実はどうなんだろなぁ?

746 :
織田軍の兵数は真偽定かならぬところがありますが、織田徳川軍が
武田軍よりも兵数が上回るということは、ありえないかと。
当時の徳川軍は遠州で確実に武田軍の蹂躙を受け続けて、国力が弱まっていますから
この状態で織田軍が徳川軍を救援しても、3万と言われる武田軍の兵力に勝るかどうか・・・
織田軍の援軍武将は、松平記などの同時代史料から考えると佐久間、平手、水野、林で恐らく確定。
毛利や美濃三人衆は同時代史料にない名前なので、多分デタラメ

747 :
織田軍の兵数は真偽定かならぬところがありますが、織田徳川軍が
武田軍よりも兵数が上回るということは、ありえないかと。
当時の徳川軍は遠州で確実に武田軍の蹂躙を受け続けて、国力が弱まっていますから
この状態で織田軍が徳川軍を救援しても、3万と言われる武田軍の兵力に勝るかどうか・・・
織田軍の援軍武将は、松平記などの同時代史料から考えると佐久間、平手、水野、林で恐らく確定。
毛利や美濃三人衆は同時代史料にない名前なので、多分デタラメ

748 :
三方が原の戦いの、双方の顔ぶれから推測した兵数考察
・武田(約18,000人)北条(約3,000人)
・佐久間、林、平手、滝川(約9,000人)水野(約2,000人)徳川(約12,000人)
/武田、上杉は全兵力を投入できない為、自国の兵士はせいぜい18,000人程度が限度
/佐久間、林、平手、柴田は代々重臣の家柄
/戦略家・織田信長が相手より少ない兵を送り込むとは考えにくい
/洪水や退却中というのも恐らく織田側の情報操作、織田家武将の退却戦は定評あり
『総見記』元禄初年(1690?)
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、水野信元、毛利長秀・美濃三人衆、都合三千
三方原合戦については谷口克広でさえ、このメンバーで3千人という
信長の援軍は少なすぎると述べている
三方原合戦の謎とされる下記も、織田ー徳川方が優勢だったとすれば納得がいく
@劣勢な家康が出陣した理由
A劣勢な徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。
鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は
劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる
布陣を敷いていたことがわかる。
三方原については、
佐久間信盛:(約4000人)織田家の最有力武将、前田本家(与十郎)を支配していた
林秀貞:(約2000人)幼少信長付の筆頭家老
平手汎秀:(約1000人)代々家老の家柄
滝川一益:(約2000人)伊勢攻略及び尾張西部の守備を担う有力武将
毛利長秀:(約1000人)赤母衣衆、斯波氏?
美濃三人衆:(約3000人)織田家遊撃軍の主力
水野信元:(約2000人)織田家の同盟相手、尾張から三河にかけて勢力を有する水野一族惣領
全員揃うと織田家の援軍だけで1万3千、水野家2千、
徳川家最大動員数1万2千とすると、合計約2万7千人が妥当
柴田勝家、佐久間信盛はそれぞれ当時の織田家最有力武将であった。
つまり織田家は果敢に上杉謙信、武田信玄に総力戦を挑み、敗れ去っていたという真実。
更にこのことは織田信長に東方との戦争を危険性を強烈に認識させ、
1.長篠合戦での極端な守備的布陣
2.甲斐侵攻までの長い空白期間
3.甲斐侵攻作戦における慎重な指示
4.更に消極的な越後侵攻
に繋がったと推測できる。

元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容
信長本隊
佐久間信盛軍団
(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団
(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)
佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう

749 :
>>747
同時代の史料って信長公記以外は何だよ?
確定さんか?

750 :
>>748
前半と後半で矛盾してるじゃん
馬鹿にはコピペみたいな高度な技は無理だ
大人しくROMれ

751 :
三方原については、
佐久間信盛:(約4000人)織田家の最有力武将、前田本家(与十郎)を支配していた
林秀貞:(約2000人)幼少信長付の筆頭家老
平手汎秀:(約1000人)代々家老の家柄
滝川一益:(約2000人)伊勢攻略及び尾張西部の守備を担う有力武将
毛利長秀:(約1000人)赤母衣衆、斯波氏?
美濃三人衆:(約3000人)織田家遊撃軍の主力
水野信元:(約2000人)織田家の同盟相手、尾張から三河にかけて勢力を有する水野一族惣領
全員揃うと織田家の援軍だけで1万3千、水野家2千、
徳川家最大動員数1万2千とすると、合計約2万7千人が妥当
三方原合戦の謎とされる下記も、織田ー徳川方が優勢だったとすれば納得がいく
@劣勢な家康が出陣した理由
A劣勢な徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。
鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は
劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる
布陣を敷いていたことがわかる。

柴田勝家、佐久間信盛はそれぞれ当時の織田家最有力武将であった。
つまり織田家は果敢に上杉謙信、武田信玄に総力戦を挑み、敗れ去っていたという真実。
更にこのことは織田信長に東方との戦争を危険性を強烈に認識させ、
1.長篠合戦での極端な守備的布陣
2.甲斐侵攻までの長い空白期間
3.甲斐侵攻作戦における慎重な指示
4.更に消極的な越後侵攻
に繋がったと推測できる。

752 :
>>751
やっぱり馬鹿だな
上から順番に読んでみろ 論理が成り立ってない
もう諦めてROMれよ厨房君

753 :
>>749
ええ、ですから信長公記と松平記の2つですね
信長公記には林の記述がないので、厳密にはここは確定ではないですね
毛利や美濃三人衆は、まずデタラメでしょう。武田に備える必要があるのに
美濃からえっちらおっちら三遠の徳川に援軍を派遣する意味はありません。

754 :
>>749
ええ、ですから信長公記と松平記の2つですね
信長公記には林の記述がないので、厳密にはここは確定ではないですね
毛利や美濃三人衆は、まずデタラメでしょう。武田に備える必要があるのに
美濃からえっちらおっちら三遠の徳川に援軍を派遣する意味はありません。

755 :
たった二つで確定さんw

756 :
佐久間信盛
林秀貞
平手汎秀
水野信元
までは同時代の史料で確定。
滝川一益
毛利長秀
美濃三人衆
は、当時他の戦線にいたという史料はあるの?

757 :
ない
だから三方が原にいるのは明白

758 :
悪魔の証明求めるのキターと思ったらだがかよ
退散退散

759 :
>>756
滝川一益は1572年だと伊勢長島一向衆の連中対処しなきゃいけない
(伊勢長島が織田軍の手に渡るのは1574年)
古木江城が落ちた後滝川一益はずっと伊勢戦線に張り付きっぱなし
そんな状態でたかが徳川ごときの救援のために最前線の滝川を送るのは非現実的。

760 :
例外的に1573年の朝倉制圧には滝川の参陣記録があるな
まあ信長自ら戦った戦争には従軍していたのだろう
いずれにせよ徳川相手に本腰を上げる信長じゃないし非現実的だな
三方が原以前にも武田は徳川領を脅かしているがこの時に信長が救援したという事実はないし
信玄が死んだ後の勝頼の高天神攻略にも織田は援軍送らずに見捨てさせている。
あくまで織田事情>>>>>徳川事情

761 :
少なくとも毛利長秀・稲葉良通ら美濃三人衆の参加は総見記からみて
まちがいないだろうね。
滝川については参加したかもしれないけどはっきり判定できないグレーゾーン

762 :
美濃三人衆もグレーだよ
武田信玄は遠江の徳川家康を攻撃する傍ら、帰属があやふやの美濃遠山氏も攻めている。
岩村城は信玄存命期に落ちていたという史料もあるしどっちにせよ遠山氏が武田についたら
織田本領に武田軍が殺到できる算段。徳川ごとき捨て駒同然の人間の救援に
自領の防備割いてまで信長が徳川の救援に行く可能性は限りなく低い。
信長公記、松平記で書かれている水野、佐久間、林、平手は全て尾張と三河の領主。
どの領主も敵対勢力に領土が接していない。

763 :
三方が原の参加武将は
佐久間信盛:(約4000人)織田家の最有力武将、前田本家(与十郎)を支配していた
林秀貞:(約2000人)幼少信長付の筆頭家老
平手汎秀:(約1000人)代々家老の家柄
滝川一益:(約2000人)伊勢攻略及び尾張西部の守備を担う有力武将
毛利長秀:(約1000人)赤母衣衆、斯波氏?
美濃三人衆:(約3000人)織田家遊撃軍の主力
水野信元:(約2000人)織田家の同盟相手、尾張から三河にかけて勢力を有する水野一族惣領
全員揃うと織田家の援軍だけで1万3千、水野家2千、
徳川家最大動員数1万2千とすると、合計約2万7千人が妥当
三方原合戦の謎とされる下記も、織田ー徳川方が優勢だったとすれば納得がいく
@劣勢な家康が出陣した理由
A劣勢な徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。
鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は
劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる
布陣を敷いていたことがわかる。

764 :
信長は各戦線で敵と戦っている武将を呼び戻して別な戦線へ派遣するなんてしょっちゅうだろ・・・
信長は自分の都合で武将を別な場所へ派遣した時も
与えられた領地が敵に落とされないように十分に才覚し備えをすることを要求しており
それができぬ場合は失脚あるのみだったし、国人の負担は計り知れなかったと池上裕子氏が書いているので
>>762の意見はまったく成立しない。

765 :
自分で書いてちゃ世話ないぞ
信長が別の戦線に家臣を派遣するのは「自分の都合」だ、「家康の都合」じゃない
浅井朝倉伊勢長島が壊滅している長篠の時ならまだしもこの段階で家康援助のために大軍派遣はまずない
そもそも信長は徳川を悉く捨て駒にして家康に同盟破棄まで匂わされるし、
仮に三方が原で信長が自らの兵力を大幅に削って家康を助けていたらこんなことにはならんわなw

766 :
徳川領が武田になったら、直接領土接することになるからあぶない!
ほら信長の都合になったw
実際送ってない?
じゃ武田の攻勢が実際はしょうもないもんだったんだろ
で、脅威を感じなかった
徳川で撃退できるしょっぱい攻勢なら、そりゃ援軍送らねえわ

767 :
朝倉の撤退がやたら叩かれるけどさ
包囲網を瓦解させたのは明らかに武田の撤退だからなぁ
信玄が後継者育成怠ったツケでしょ
勝頼総大将で送り出してればよかっただけの話で

768 :
結局三方が原の戦いは織田軍総兵力で挑んで正面から大敗したんだよな
平手滝川水野佐久間前田兄林毛利美濃三人衆で25000にはなるだろうし

769 :
近畿に手一杯の無能信長に何もさせない信玄公の見事な策略だなって事にした方がスマートだと思うんだけど

770 :
>>766
もうとっくに武田と領土接してるだろw
信玄がトチくるって徳川攻めただけで、信濃−美濃から武田軍が美濃に攻め込めるだろ
そんな状況で美濃の連中を徳川に派遣させるのはまずありえない
>>769
だが理論では織田軍総兵力をなぜか全部家康に指揮させて
自分は岐阜城で引きこもっていたらしい。織田軍家臣は誰が指揮するんだろうな
まさか姉川でもパシり同然に使われていた家康に総大将権限あるとも思えんよなあ
あるいは25000の兵力供出だとすると織田軍の総兵力は20万くらいいたんだろう

771 :
>>768
つまり折角準備整えた包囲網は、その効果が無かったということか
無能だな信玄

772 :
信玄が上洛成功した前提のスレなのに上洛するスレになってる
やっぱり上洛は無理なんだな

773 :
そもそも上洛成功が夢物語過ぎて無理
織田どころか徳川すら降伏してない

774 :
なるほど信玄6万に対して信長は
たった1万か。
鎧袖一触で織田崩壊だったな。

775 :
だな
そんな状態なのに野田でえっちらおっちら手紙書いて陣没だもんな
鴨葱状態なのに猟銃バラして手入れしてるようなもんだ
無能極まりない信玄

776 :
だな
家臣にブチ殺されて
別な家臣達に織田家を乗っ取られるなんて
信長ほど家臣団にとって鴨葱に見えた無能はいなかっただろうな。
別所や荒木や松永や光秀や秀吉や池田や丹羽と言ったメイン家臣団にことごとく裏切られたよな。

777 :
そんな無能すら滅ぼせなかった信玄、仮に上洛成功したところで、統治がうまく行くわけがない
無能の織田ですらむりだったのだから
それを乗り越えられなかった信玄ごときがw

778 :
こうやってアホな争いが続く限り信玄の上洛成功後は語られないんだな

779 :
だってどうあがいても無理だし
仮に何かの間違いで織田信長と徳川家康と上杉謙信と北条氏康と
そいつらに従っている有力武将全員が同時に死んでも無理
無能信玄がもたついている間に朝倉や本願寺が主導権握って終わりよ

780 :
別所や荒木や松永や光秀や秀吉や池田や丹羽など
ことごとく信長を裏切って織田家を乗っ取っちゃったほど統治能力ゼロだったけど
信玄はそんなアホじゃないなあ。統治能力で比べたら明らかに信玄の方がずば抜けて上だなあ。
信長の場合は恐怖と殺戮で押さえ込んでるだけで
押さえが利かなくてどんどん噴出しまくりだったし。
本願寺顕如と信玄は妻を通じて親戚同士で、信玄の妻が亡くなられた時も
顕如からわざわざ手紙が届けられてるし対立する理由がないし、
朝倉だって信玄+北陸一向宗を相手に主導権争いするほど馬鹿じゃないね、
そもそも朝倉には天下への野心がない。
信長と戦ってるのも、浅井の領土欲しさではなく
浅井を見捨てるに忍びないからだと義景は言ってるし
それは浅井の領地n奪回をまったく考えてないことで証明される。
信玄に義景が対抗する理由がない。

781 :
アホの信長を自分の判断ミスで滅せなかったんだから
これをアホと言わずしてなんというw

782 :
そんな状況で信長より4年も長く生きてた癖に信長と戦うどころか家康すら始末できなかった信玄は無能だな

783 :
>>782
無能でもなんでも諦めずに頑張っただけ立派。

784 :
頑張りましたで褒められるのは学生までだ

785 :
家臣に殺され、別の家臣に家を乗っ取られるよりマシだな。
しかも家臣団の速攻の手のひら返しっぷりには興福寺も呆れ果てたレベル

786 :
そのレベルの織田を滅ぼすどころか痛打も与えられなかったんだから
信玄のレベル推して知るべし

787 :
信玄は東美濃攻防戦・上村合戦・三方が原と大勝しまくって
織田を滅亡寸前においこんだじゃん
特に三方が原じゃ佐久間平手滝川水野など織田の主力2万ほどを大破して一挙に織田を崩壊まで追い込んだし

788 :
まだ織田が2万とか崩壊寸前とか寝ぼけたこと言ってるのか、せめて都落ちさせてから言って欲しいもんだ

789 :
進言チーム攻撃九回裏でリードされて無死満塁、これからクリーンアップ
ここまで追い込んだところで、逆点できなきゃ負け
こんな簡単なこともわからんのかだがはw

790 :
>>788
お前は相当馬鹿だなw
佐久間平手滝川水野に徳川だから普通に2万でも少な過ぎるだろ
佐久間なんて織田分国中のあらゆる所に与力がいる大身中の大身だからなw

791 :
>>788
史実で信長は包囲網勢と武田に押されまくり下記のように滅亡寸前だったからな
9/20信長が摂津から志賀に到着。
10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w
10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記)
11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記)
朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記)
三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。
信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。
10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。
大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により
奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記)
10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。
南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。
10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記)
三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w
10/22義昭側近上野信恵→草刈景継
因幡美作の国人の草刈家文書(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが
新たに帰属した武田高信を厚遇したことに反発し織田へ内応するものちバレて毛利に殺される)
によると信長の朝倉討伐の時に離反した浅井は
京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。
備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。
青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に
本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。
11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記)
11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。
11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で
本意案の内と書いている(計画通りだ)
11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し
御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書)
(朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している)
織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃され殺される。
11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状)
11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や
郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。
(濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け
郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し)
美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。
顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」
景健宛「毎度勝利を得て珍重」
義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。
志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。
堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書)
堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書)
この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが
正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。
12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。
12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。
伏見宮の記録によると
12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。
12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても
比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている)
12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。
12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。
12/16両軍帰国。

792 :
三方が原の戦いの、双方の顔ぶれから推測した兵数考察
・武田(約18,000人)北条(約3,000人)
・佐久間、林、平手、滝川(約9,000人)水野(約2,000人)徳川(約12,000人)
/武田、上杉は全兵力を投入できない為、自国の兵士はせいぜい18,000人程度が限度
/佐久間、林、平手、柴田は代々重臣の家柄
/戦略家・織田信長が相手より少ない兵を送り込むとは考えにくい
/洪水や退却中というのも恐らく織田側の情報操作、織田家武将の退却戦は定評あり
『総見記』元禄初年(1690?)
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、水野信元、毛利長秀・美濃三人衆、都合三千
三方原合戦については谷口克広でさえ、このメンバーで3千人という
信長の援軍は少なすぎると述べている
三方原合戦の謎とされる下記も、織田ー徳川方が優勢だったとすれば納得がいく
@劣勢な家康が出陣した理由
A劣勢な徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。
鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は
劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる
布陣を敷いていたことがわかる。
三方原については、
佐久間信盛:(約4000人)織田家の最有力武将、前田本家(与十郎)を支配していた
林秀貞:(約2000人)幼少信長付の筆頭家老
平手汎秀:(約1000人)代々家老の家柄
滝川一益:(約2000人)伊勢攻略及び尾張西部の守備を担う有力武将
毛利長秀:(約1000人)赤母衣衆、斯波氏?
美濃三人衆:(約3000人)織田家遊撃軍の主力
水野信元:(約2000人)織田家の同盟相手、尾張から三河にかけて勢力を有する水野一族惣領
全員揃うと織田家の援軍だけで1万3千、水野家2千、
徳川家最大動員数1万2千とすると、合計約2万7千人が妥当
柴田勝家、佐久間信盛はそれぞれ当時の織田家最有力武将であった。
つまり織田家は果敢に上杉謙信、武田信玄に総力戦を挑み、敗れ去っていたという真実。
更にこのことは織田信長に東方との戦争を危険性を強烈に認識させ、
1.長篠合戦での極端な守備的布陣
2.甲斐侵攻までの長い空白期間
3.甲斐侵攻作戦における慎重な指示
4.更に消極的な越後侵攻
に繋がったと推測できる。

元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容
信長本隊
佐久間信盛軍団
(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団
(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)
佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう

793 :
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、 比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には 進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。 それを欲したのは小身の浅井でしかない。志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ 10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。 また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。 これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと 必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ (天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)

794 :
姉川の戦いののちも浅井・朝倉はむちゃくちゃ勢いがあって9/20森可成や織田信治や青地茂綱らを討ったあと、
宇佐山城の守りが固く、そちらからの入京に時間を浪費すると喝破した浅井朝倉は即日、転進して大津を放火し9/21山科醍醐方面から進軍する迅速な判断力は褒められる。
(24日には信長が下坂本に着陣してる)そして24日には京の前面である浅井は比叡山青山、朝倉は青山南の壷笠山に陣を敷いた。
その上で京を戦乱に巻き込まないように京を大回りして (先鋒は入京していたが賀茂別雷神社・離宮八幡宮・知恩院・東寺らに禁制を給して迂回)
長政隊は丹波から嵯峨へ進軍して織田軍後方をかき乱す遊撃を開始してる。10/20山崎の本願寺が御牧城を攻め取り、
それに呼応した比叡山の浅井・朝倉軍が出撃し、織田方に組する左京区にあたる織田軍と(義昭奉公衆との説あり)
交戦しつつ修学寺・一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎などをピンポイント放火してるし、
(義景は元亀2年7/4に六角軍が入京するにあたり義賢に洛中を放火しないように書状を送っている)22日には大坂本願寺が畠山昭高の高屋城を攻め、
若狭武田も織田から離反して武藤や粟谷と挙兵してる。信長は完全に無策で、家康に援軍派遣の哀願をするしかなかった。家康は信長に江南を我が物顔で暴れている一揆と六角勢が、
瀬田と草津の間を封鎖するのを防いで退路を維持する役目を負わされた。信長はというと11/21朝倉軍は坂井政尚と安藤守就の子を討死させ、同日には伊勢長島でも織田信興が討死と全戦線が崩壊。
11/28朝廷から関白二条晴良が信長の和睦懇願を受けて坂本へきた。織田の敗北は間違いないんだよな。水藤真氏が「綸旨・御内書・御下知・信長誓詞と
およそ紙に書くことのできる全てが書かれ、比叡山に与えられた」と書いているわけだ。信長はありとあらゆる手段で和睦してもらおうとしてるわけ。
そして朝倉も比叡山に「当表の一和之儀、勅命上意」と書いていて今谷明氏が朝倉らは「勅命を拒むことができなかった」と書いていて宮島敬一氏もそれに同意している。
よって大久保の書いてる内容は事実に近いわけだ。さらに志賀の陣の和睦交渉で、朝倉は信長には他意は無いが、浅井を見捨てるに忍びずと言ってる。
朝倉には織田への戦意がそもそもない。だから朝倉に奪回意思はそもそも無い。朝倉にその気が無いのに、
浅井単独で横山や佐和山の奪回は無理。別に朝倉領でも無いし。

795 :
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。 一次資料的な裏づけが揃っているからね。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
関白二条晴良が勅命が合意できなければ高野山に隠居するとまで言ってた
山門の難渋にしびれを切らした関白二条晴良は(尋憲僧正の日記)
「もし今回の和議が出来なければ、身共は高野山に上り、隠遁いたす。」
と強硬に言い張って、ついに山門も折れた。
延暦寺に対して綸旨・御内書・御下知・信長の誓詞・山門領すべて安堵(一揆国人達をすべて許す)
およそ紙に書くことができる全てが延暦寺に与えても
なかなか延暦寺は承諾しなかったと水藤真氏も
織田側が和睦に無茶苦茶必死だったことを書いてる。
長政にも勅宣や朝家は神国の要だからと強調した
5カ条の朱印状を信長は提出してるし
12/13に六角にも知行渡すし、浅井に2/3を与えてもよいと信長は言ってる。
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのは
それ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。

796 :
☆慈敬寺文書の顕如書状2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
2/15松永久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが
10日付で義昭に帰参しさらに静原に山本城を築いて織田に反抗する。
近衛家文書の2/16浅井長政→伊勢七郎左衛門宛てでは信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆(義昭軍)合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/19の義昭書状では★山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
浅井長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べている。
琵琶湖最大の商業地の堅田村の郷士達が本願寺や浅井の味方になってしまい
坂本を居城とする明智軍は大津で苦戦し立ち往生しているのがわかる。
2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後にすぐ筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと明智への援軍も上洛できないほど街道封鎖は深刻になっており
大津や草津の関も機能してないはずで近江戦線は崩壊してるのがわかる。
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書くが、
によると☆のような情勢であるのがわかる。
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き(柴田軍が大津に到着したのか?)
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶(山岡景友)ら西近江で挙兵。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
3月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してるので攻撃開始したのだろう。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
★のように戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
信長は伊丹氏により摂津において中島城の細川が堺へ敗走(信長はさてもさても惜しいことだと悔しがってる)
に続き3/7にはさらに賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを
慈敬寺から報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で急ぎ加勢した近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/21には義景→馬場宛でも敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞して、
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
(佐々木左馬頭とは義昭側の仁木義政で明智軍記では義政は山岡らと石山・堅田に籠城したと書いてある)
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで織田を粉砕した大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は、義昭らに敗北を重ねて
信長が兵を集めて援軍に来るのを待っている現実が見える。
大商業地堅田村を一向宗側が取り込んでいるため、
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで織田軍が大敗している。
また明智軍が崩壊していた現状から手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながら兵力が全然集まらずまったく出馬できないありさま。
松原信之氏が著書で義景本人の天正4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。

797 :
まーた長いだけで何の価値もないゴミコピペか
武田もそんな大戦果挙げたなら当然織田の首3000取ったとか景気の良い記録があるんだろ?
戦果を過少報告する意味は無いからな、織田がメインで景気よく勝利したなら徳川より先にアピールするよ普通は

798 :
元亀4年正月二日穴山信君→多胡惣右衛門尉で2000人余り討ち取ったと書いてるし
其外両旗奉行安藤木工助基能・米津小大夫政信を始め加藤九郎兵衛景元・天野麦右衛門政景・
宇野三十郎政秋・服部源兵衛保正・榊原摂津守忠次・中根彦三郎・近藤宮内吉成・小川伝九郎・
夏目長三郎・山田甚五郎重吉・同角之丞・長谷川紀伊守正長・弟藤九郎英一・志村弥左衛門秀次・
中根市左衛門正直・門奈善三郎真友・渡辺十右衛門永・同新九郎・鈴木伝八郎・弟又六郎・
大村弥三郎・荒川甚太郎・権田久助・大橋刑部・野々山藤兵衛政安・原田藤左衛門種友・
杉浦次郎兵衛・大河内源五左衛門・石川小太夫・河澄源五重経・小笠原新九郎康元・同三郎兵衛・
秋山甚十郎・松平弥右衛門・石川半三郎正俊・江原亦助・河合弥五兵衛・加藤比根丞・其弟源四郎・
松山久内・杉山久助・石原十度右衛門・原久蔵・平井新三郎・児島源一郎正重・同与助・同善九郎・
堀川彦作・小笠原七郎右衛門・大久保新蔵忠寄・外山小作正重・松平主税・木村弥七郎安綱等。
織田の援軍として一手の将である平手や前田兄をはじめとする織田武将家臣も死んでる

799 :
ほとんど徳川の家臣なんだけど数万の援軍を送り込んだ織田の家臣は当然それ以上に死んだんだよな

800 :
お、だがさんが発狂したw

801 :
まさか徳川必死の抵抗で織田の主力を取り逃がしたなんてことは言わないよな?

802 :
悲しい戦果だな

803 :
だがの言ってることを纏めると
浅井朝倉本願寺六角残党その他諸々にフルボッコにされ荒木等に裏切られたチンカス織田を
滅ぼせず遥か格下の徳川に手こずってる間に死んだ信玄はマヌケってことか

804 :
浅井朝倉本願寺など諸勢に押されまくり滅亡寸前に追い込まれたのは対武田戦に全力を
投入してたからとみるのが妥当だろ
現に佐久間平手滝川水野と大身連中をぶつけて大敗してるしそのせいで畿内で押されまくったんだろ

805 :
まだ三方原で徳川よりはるかに多かったはずの織田の武将があんまり戦死してない理由を答えてもらってないんだけど

806 :
佐久間みたいに逃亡したからだろ。

807 :
だが理論じゃ織田は武田より大軍で自信満々で鶴翼の陣敷いてボロ負けって話のはずなのに
なんで一当てもせずに逃亡したって話になるんだよw

808 :
つか佐久間の与力とか平手とか前田の兄とか普通に戦死してるじゃん

809 :
確か天正8年佐久間信盛譴責状で、三方が原の合戦でろくに戦わずに逃亡したのが咎められてたんだっけ?

810 :
それ以外は?
総勢2万7000で織田のほうが多かったはずなのに被害が徳川に偏りすぎなのはどうなのって話よ?
織田側の主な戦死者としてずっとそれ挙げてるけど全軍壊滅させられたはずなのに
織田だけ最小限の被害で随分綺麗に撤退されちゃったんだね〜

811 :
>>798で自分から挙げてくれた通り大量の徳川家臣と最後の行に申し訳程度に書かれてる織田の家臣が
現場にいた兵の比率を物語ってるんじゃないのかね

812 :
まーただがが論破されて信玄がうんこ漏らしながら死んだのか

813 :
手取川でも織田は敵前逃亡してたしな。

814 :
織田厨「織田軍が敵前逃亡した結果、有名武将が死んでない場合は不戦勝で織田の勝利になります!」

815 :
おいおい、>>792で「三方原は武田と織田の一大決戦!織田は惨敗!」って自分で
ぶちあげたのに敵前逃亡って話になったのかよw
話がブレブレじゃねーか

816 :
佐久間が敵前逃亡で、平手が討ち死にだろ。

817 :
まぁ勝てない相手を前にしたら損害をできるだけ少なくするために逃亡するのは名将の条件だろ。
そういう意味では佐久間や手取川の秀吉はやっぱり嗅覚がすごい知将。
逆に逃げるタイミングを逸して尻を噛まれた手取川の柴田は戦下手だわ。
なんせ景勝と景虎の内乱+新発田の乱+勝頼の上杉支援を甲江同盟詐欺で中止させる
ここまでやってやっと越中まで進出してるくらい無能。

818 :
むしろ戦下手だからこそ逃亡するんだろ
秀吉も謙信どころか雑魚毛利勢相手に上月城防衛戦でガチンコ大敗して上月から大逃亡したからなぁ

819 :
逃亡って勝てないと認めたようなもんだからなぁ
兵数が圧倒的に劣ってるならまぁ妥当な判断だと思うが
そうでないのに逃亡する雑魚は超絶戦下手なんだと思っていい
逃亡したらそれまで苦労して切り広げてきた領地とか自分の領内の領民見捨てるようなもんだからね

820 :
>>792からここまでの流れで分かるように自分の自説に責任持てない変節漢の考察(笑)なんて論外だよ論外
「果敢に総力戦を挑み敗れ去っていたという真実」とかドヤ顔で言ってたのに今や敵前逃亡したんだいの一点張り。
自分で書いた書き込みの内容ももう忘れちまったのか?そんなだからいつも誰にも賛同してもらえないんだよ。

821 :
今ややってることと言えばお得意の長文も無しにID切り替えながらスレの流れを変えて誤魔化そうとすることだけ

822 :
さあそろそろコピペ荒らしが始まりますよっと

823 :
>>818
はいはいキチガイ在日君乙w
そんな事実はありません。
そもそも織田・秀吉・黒田の一次史料には毛利とその時に
戦っていることが書かれているものは皆無で
宇喜多と戦っていた証明しかありませんwwwww
この時期の黒田や秀吉の一次史料から毛利軍は備前からの陸路ではなく村上水軍を利用して海路を利用して
別所支援の行動に専心して播磨西部にいないのが明らかなんだからwwww
当然、毛利方の一次史料である東大が編纂出版してる大日本古文書における
所蔵者ごとに編纂した家わけ文書の第8巻毛利家文書・第9巻吉川家文書・第11巻小早川家文書にも存在せずwwwww
上月城で毛利が秀吉と戦って勝ったと書いてるのは
全部、毛利側が編纂した萩藩閥閲録などに出てくる偽書状だけwwww
んなもん証拠になるかよwwww

824 :
>>823
お前は毎回反論されて史料提示されてるのに無視して妄言コピペ垂れ流してる馬鹿だな
R基地外野郎
史料総覧  毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記
[参考]備前軍記 浦上宇喜多両家記陰徳太平記 御答書 總見記 柏崎物語
【管理番号】020100216456 【編/冊/頁】10編911冊179頁 【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、
鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略  昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書

825 :
史料総覧  毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記
[参考]備前軍記 浦上宇喜多両家記陰徳太平記 御答書 總見記 柏崎物語
【管理番号】020100216456 【編/冊/頁】10編911冊179頁 【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、
鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略  昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報

826 :
>>はいはい偽書状乙w5月の秀吉が出した書状で本物認定されてるのは下記の書状だけだタコ(三鬼清一郎氏の認定)
三鬼の妄想なんぞ知らん。山口県史資料編3目次解説凡例の最後から2ページ目の12行目
でも見直せ山口県史資料編凡例 2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。
んでソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのはお前だけ
さらに「上月城」という呼称は下記の他の史料でも使われており他の呼び方をしている文書が捏造されてできてるだけ
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
>>秀吉による但馬の攻略が完了したことも報じていて
お前天正8年にやっと但馬が平定した事もしらんのか。天正8年の山名氏政→古志書状(古志文書で)4/13には織田勢が今度但馬に乱入してきて種種入魂之被申分、尤祝着候とか書いてるし
5/19には去4月18日但馬水生表の合戦で織田勢と竹野衆が合戦し竹野衆が勝利したと報じている
6/13垣谷豊続→岡遠江守感状で宵田表相動候処、則織田勢罷出候之間誠砕手数剋相戦切崩、得勝利などと勝利を書き綴っている
>>あっ?そもそも日記形式じゃねぇんだから大久保の記憶違いだろ。庚午の年の出来事って記憶してるだけでもすげぇだろ
そんな3ヶ月も重要合戦の日付を間違えるような糞記憶力じゃ話にならん。完全に記憶違いで合戦の存在自体噂で聞いたか後であやふやな記憶をデタラメに思い出したか知らんし
>>つかそもそも東海方面は三嶋暦を使ってるんだからズレるのはおかしくないだろ。
何がおかしくないのか不明。そんな3ヶ月も重要合戦の日付がずれる糞史料を直接的ソースとして用いるとか話にならん。
>>それに越前出兵への依頼を家康に申し出たのが2月とも解釈できるしな。
なぜそう解釈できるんだ?
>>それにの一色藤長の5/4付け書状の内容には金崎城に秀吉・光秀・池田勝正らが残されたのは
>>北郡の儀 相下され 重ねて越国乱入有るべき候などと再度の越前侵攻のためとの言い訳を丹羽から聞かされているのがわかる。
再度の越前侵攻のため残されたなら金ヶ崎の退却のため残されたという論拠には全くならない。他の目的に備えられたと考えるのが普通
三河物語にも信長が撤退したときに家康へは何も連絡なく捨ておかれたが秀吉の案内で家康は撤退できたと書いた後に
>> あくまで信長は越前への再度の侵攻を考えていたが、越前衆が機先を制して3万で出陣してきたと書いていて
んで、実際に金ヶ崎で残留部隊と朝倉が衝突したというソースは?
>>月のズレなんてよくあることだし、むしろ丹羽から聞いた内容と同じ内容を大久保も書いてる正確さの方がすげえわ
そんなデッチ上げの全く記憶違いの嘘文書が直接ソースになると思ってるお前の脳味噌の方が凄いよ

827 :
ソースとしてあげられた文書は山口県史資料編と島根県史資料編からの抜粋
山口県史資料編中世三巻凡例
2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。
ソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのは馬鹿のお前だけ

828 :
じゃあ一次史料はどうかと言えば、6/18付け信長→荒木宛書状では宇喜多、八幡山罷越候由、無論不可有差事候
などと信長は宇喜多軍が八幡山まで進軍してきたが大したことはできんだろうと言っていて毛利軍自体が実は来てないし
6/25付け信長→家康宛書状では就播州面之儀〜去廿一日敵罷出候を追散、首十四討捕候、可然者共候由候、是式不物数人共申候
などと6/21に攻めてきた宇喜多軍なんて、これしきのの兵はモノの数ではないと楽観してるし←日付で言えば熊見川があったようだなw
9/6付け信長→黒田宛でははやくも至備前面可進発候、就其差越羽柴筑前守候〜
などと秀吉を派遣するから宇喜多を追って備前へ攻め込めと命じてる。実はそもそも黒田がいただけで秀吉自体もいなかったのがバレバレ。
早くも備前へ侵攻命令wとても播磨西部で毛利に負けてるようなでっち上げ話は信用できんわな。
結局さ、義昭を奉じた毛利軍の配下になった宇喜多軍が攻めてきたので、秀吉が戦って勝利したって言う歴史的事実を
毛利の捏造でっあげ書状で宇喜多軍=毛利軍と脳内変換してるだけなんだわ。
なんせ、この時期の毛利軍は備前からの陸路ではなく村上水軍を利用して海路を利用して
別所支援の行動に専心して播磨西部にいないのが明らかなんだから。
たとえば天正6年4/2の秀吉→黒田で
雑賀衆と芸州衆が船手にて別府表に上陸したが数多討ち取りを信長公に報告する
4/4のの信長→秀吉において
昨日注進が届いた別府孫右衛門(織田方の別府重宗)の阿閉要害に雑賀衆と芸州衆が相働くが官兵衛を派遣して数十人討ち取り
>>秀吉の金崎の退口なんて捏造だし
えっ捏造だとする根拠は?wこれだって信長公記だけに書いてあるわけじゃねーぞ。
そもそも金崎の退口という言葉自体が三河物語の記述からだし。そこでも秀吉が重要な撤退指揮したと書いてる。
しかも波多野秀信宛に書かれた義昭奉行衆の一色藤長の5/4付け書状の内容でも(信長は4/30帰京)
金崎城に秀吉・光秀・池田勝正が残されたと書いてあり秀吉はきっちり残留組だ。
そればかりでなく、上洛成功し信長が美濃へ帰国する際10/26の5000を指揮して京防衛守備武将として残された中にも秀吉はいる。
他は文官ではなく武将で言えば佐久間と丹羽だな。でもその中でさらに文官としての仕事も兼任してるのは
秀吉だけ(12/16付の松永宛で今井宗久と武野の訴訟など)そして正月の三好らによる本國寺の義昭襲撃を排除してる。
それを受けて信長も上洛してきて4/21にまた美濃へ帰国する際、また武将を残して京防衛を任せるが、
閏5/25付けの東寺の寺領安堵や10/9阿弥陀寺への兵士寄宿免除などから武将としては秀吉だけを残しているのが判明してる。
秀吉はもっとも困難な軍事的困難なことを常に任されてきてんだよアホ
つか秀吉が京に滞在していた時は幕府と織田の間は非常にうまく言ってる。
しかし秀吉が浅井戦線最前線に転出し敵中孤立して張り付くとさっそく幕府との関係を瓦解し始める。
お前は秀吉を叩くためには根拠なく否定連呼だな。さすが在日織田チョンwww
>>上月城
上月城・上月城とうるさく連呼してるようだから言っておくが
そもそも当時は上月城なんて呼称で呼ばれていない。完全に江戸期になって毛利側が作った造語。
じゃあなんて呼ばれていたかといえば、七条城って呼んでた。だから当時の書状で上月城と書いてるのは偽書状。
12/5付秀吉→下村玄蕃助宛書状で(下村文書)
七条と申す城候、翌日、廿八日、押し寄せ取り巻き、水の手取り候処、後巻として此の方陣取る山の上へ、
宇喜多罷り出で候条、城には手当て置き、切懸け合戦に及び、散々切り崩し、備前境迄三里計の間、追い討ち
首級六百十九、其の外雑兵切捨て候〜などと書きこの時の大勝利で明石三郎左衛門・・真名子喜左衛門・宗野の原の三人が
西国にての才覚、先懸け、第一の者を討ち取った大勝利を報じてる。
ちなみにこの時期の秀吉書状は他に12/10の秀吉→黒田・別所重宗宛書状で
二人の子達の縁談を纏めた話を書いてる書状が残ってる(黒田家文書)

829 :
>>天正6年の5月に秀吉が上月城攻囲の毛利方と対峙した際の書状にもハッキリ上月城と書かれてる(阿波国古文書)
はいはい偽書状乙w5月の秀吉が出した書状で本物認定されてるのは下記の書状だけだタコ(三鬼清一郎氏の認定)
秀吉→山名宛書状
条々
   一此方別而御入魂之上者御身 上之儀於我等聊不可存疎意候事
   一御居城不可有別儀之事
   一出石郡之儀進之置候条無異儀可被仰付事
右旨八幡大菩薩愛宕山相違有 間敷侯依而如件
    天正六         羽柴筑前守
      五月十六日   秀吉
      山名殿
          余人々御中
上記のように年号まで入ってるのは非常に珍しく、おまけに神仏にまで誓っているのは
この書状が約束を違えない重要な書状であることを示していて、
先にレスした12/10の秀吉→黒田・別所重宗宛書状(黒田家文書)でも両家の婚姻についてなので
同様に年号と神仏への誓いが記している非常にレアな秀吉書状として有名。

830 :
ちなみにお前が偽書状だと連呼してる12/5付秀吉→下村玄蕃助宛書状(下村文書・三鬼清一郎氏の認定)も
上記文書とリンクしていて、この書状の冒頭は
一但州悉以如存分隙明候条 去廿七日至作州境目〜と書いていて
秀吉による但馬の攻略が完了したことも報じていて、その後、美作へ進出している。
そして戦後統治政策の一環として山名へ上記安堵状が発給されてる。
この書状はおもしろく秀吉は信長を無視して安堵状が発給できる実力者になっていることの現われで
この調子で調子に乗って宇喜多も安堵したところ、秀吉が連戦連勝して圧倒していたこともあり、
信長は宇喜多みたいなザコは滅ぼすつもりだった為、勝手に許したと激怒することになる。
しかしのちに本願寺顕如が美濃の坊主や門徒衆へ宛てた書状で、
宇喜多の寝返りで毛利が岩屋・兵庫・尼崎から引退し帰国したことを挙げていて
秀吉の宇喜多調略が決定的な戦略的効果を与えていたのがわかる。
>>三河物語の記述が元亀元年庚午二月日と月単位で大きくずれ過ぎているので全くソースにならない
あっ?そもそも日記形式じゃねぇんだから大久保の記憶違いだろ。庚午の年の出来事って記憶してるだけでもすげぇだろ。
つかそもそも東海方面は三嶋暦を使ってるんだからズレるのはおかしくないだろ。
それに越前出兵への依頼を家康に申し出たのが2月とも解釈できるしな。
それにの一色藤長の5/4付け書状の内容には金崎城に秀吉・光秀・池田勝正らが残されたのは
北郡の儀 相下され 重ねて越国乱入有るべき候などと再度の越前侵攻のためとの言い訳を丹羽から聞かされているのがわかる。
三河物語にも信長が撤退したときに家康へは何も連絡なく捨ておかれたが秀吉の案内で家康は撤退できたと書いた後に
然ば、信長、北之郡え御ハタラキ被レ成候ハント思召処に、越前衆ハ出と書いていて
あくまで信長は越前への再度の侵攻を考えていたが、越前衆が機先を制して3万で出陣してきたと書いていて
共通した内容が書かれている。月のズレなんてよくあることだし、むしろ丹羽から聞いた内容と同じ内容を大久保も書いてる正確さの方がすげえわ。
>>(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている
武田厨を装い、キチガイ爆撃コピペをして荒らしまわっていたが、ついに織田厨チョンの顔を現したかwww
つか他人のレスを俺のレスの同一視すんなやwww俺は別に金ヶ崎はなかったなどとと主張したことねぇよカス織田チョンよ。
俺は浅井がこの時期、京へ向けて進撃していたから朝倉との挟撃は無かったと主張していただけだ。
しかし浅井が朝倉側となって京が落ちたら、信長は琵琶湖東岸ルートだけでなく、西岸ルートも封鎖されるから
朝倉軍がくる前に速攻で敵前逃亡したわけだ、それで家康が置き去りにされてたところで、秀吉の活躍で命拾いしたわけだ。
しかし秀吉は常にひどい目にあってるよな。信忠の具足初めの儀で信長が出陣した時には
あいかわらず軍事的才覚ゼロの信長の思いつきで山本山城攻めを孤軍でやらされる無茶振りとかな。
>> 三鬼の妄想なんぞ知らん。
ププププwwwwww
秀吉文書研究でこの人ほどの人物はいねぇぞwwwwwwww豊臣秀吉文書目録を出してるんだからなwwww
お前は完全に素人だなwwwww偽書状とか頻繁に持ち出してキチガイ発言してるからどうもおかしいと思ったわwwww

831 :
毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家から
ソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのになぜ逃げまくるんだよwww
一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
これ毛利家臣の山縣平八が萩藩に提出した先祖の凄さと自家の格式向上のための捏造で、
明らかに甲陽軍鑑を熟読して、それに沿った内容を書いて提出してるwww
こんなもんに書いてある内容なんて、まったく史料として扱われてないわ。
まぁ毛利の場合、毛利家文書・吉川文書などに収録されてるのが
一次史料であってそれ以外は誰も引用しない偽文書だらけだからな。
でもその一次史料ですら、これらの文書の原本は吉川家だけにしかなくて黒田家には伝来せず、
毛利宗家が編纂した『毛利三代実録考証』や『大日本古文書』にも収録されていない。
そのため、これらの手紙は吉川家が偽造した偽文書・・・こんな酷い状況だからな。
そんな毛利家臣団の先祖マンセーで偽造大会やって提出した
原本無しの写しを、マトモに信じてたら淡河合戦とかも史実になっちまうしwww
しかも毛利側の淡河氏が羽柴秀長に勝っちゃうのになぜか淡河の地を手放して撤退する謎行動www
さらに鳥取城が落ちた後にかけつけた元春が背水の陣で秀吉を威圧してビビらせたから秀吉は逃げたとか
尼子残党の山中鹿介の上月城を救援に来た羽柴秀吉を追撃して勝った話だけでは
飽き足らず、毛利軍は全勝不敗の神の軍になっちまうわけだがwww毛利の史料は捏造だらけ。
せいぜいマトモなソースを出して語りたいなら最低でも
家わけ文書の毛利家文書・吉川家文書・小早川家文書に載ってるもんを出せよアホ。
アホみたいに豊富に作られた毛利家臣たちの偽文書を盲信した結果が
元春・隆景の全勝無敗の完全無欠天才マンセーだからなw
そんならなんで秀吉1人にどんどん追い詰められていくのよとw
全勝無敗の圧倒的な知略と武力を持ちながら本願寺も荒木も別所も波多野も赤井もみんな滅亡。
大友にすらボロ負けしてるのが現実なのに完全隠蔽してるしw
宇喜多や南条や三村や村上水軍に離反されるとか説明不能すぎるだろwww
しまいには関が原の戦いの責任を三成に押し付けてる始末www
ついでに吉川広家が一次史料で偽文書を作成して自己擁護www

832 :
学者も論文での一次史料ソースとして利用している東大が編纂出版してる大日本古文書における
所蔵者ごとに編纂した家わけ文書の第8巻毛利家文書・第9巻吉川家文書・第11巻小早川家文書の
中からはやく毛利が秀吉に勝った書状を出せよ。
寵命録(児玉家文書)
著作者
幕末〜明治の児玉益右衛門定正(1820-1863)と児玉元之助定勝(1851-1936)
の長州藩すら知らなかった・・・つか誰も知らない幕末初登場の謎の捏造文書集。
偽文書率No.1の毛利の腐るほど存在する捏造資料ではなく
論文でもきっちり援用される東大が編纂した家わけ文書の
毛利家文書・吉川家文書・小早川家文書・熊谷家文書・三浦家文書・平賀家文書・益田家文書だけが一次史料。
こっから出せと言ってるだろカスチョン
歴代古案はちゃんと論文で引用されてきているものであり
長州藩士の先祖の偽文書製作ブームで功績を捏造して
それに藩も水をさし疑問を差し挟むことを許さないまま
編集されたもんと違うわwww
ロクな数ない???えっ?いくらなんでも余りに無知すぎるぞ。
各家わけ文書の中でダントツにもっともボリュームがあるのが
吉川家文書・小早川家文書・熊谷家文書・三浦家文書・平賀家文書・益田家文書等が
大量に編纂収録されている毛利なんだが(次点が伊達家)
しかも書状案という後で藩や支藩が公式に捏造した文書まで
収録してあると言う捏造の温床ぶりだけど。
他の大名家は毛利よりはるかに少ない一次史料で戦国板で論争してるわけだがwww
キチガイ織田チョンがやたら毛利家日記を
日記だから一次史料とか無知を晒して連呼しててワロタw
それ長州藩が藩史を編纂する時に藩士に
提出させた原本存在しない写しを日記形式でまとめただけなのにw
軍記を手本に先祖の功績をデッチあげた捏造文書を
わざわざ東大が家わけ文書に関係文書として
未来永劫、編入するわけないだろ面白すぎwwwwwwww
リアルタイムに日記を当時を生きた人間が書いていたと
大きな誤解をしてる時点で
毛利家日記を読んだことないのバレバレw

833 :
見てきたが どこにも書いてない。
つかお前の言う山口県史資料編自体が考古編と民俗編しか存在してない以上は架空本をデッチあげてるだけじゃんw
史料編中世1〜4で該当巻のページ数を質問しても逃亡を繰り返して話題を逸らそうと必死すぎてキモイわー。
おい、デタラメ書いて逃走かw
こっちは返答をずぅっと待ってるんだがwww
お前の主張する山口県史資料編にまったく書いてないしwww
そもそも山口県史は大別すると
通史編・史料編・資料編があり
資料編は考古と民俗しか出てないから
戦国〜江戸初期を担当する巻なんて資料編にはない。
さらにその時代区分でお前が嘘を書いてるのを無視して
史料編で探すと該当するのは
史料編中世1〜もしくは近世1〜であり
なぜ時代区分も明示せず曖昧にしてレスしてんだお前。
ひたすら曖昧に書いてこんな重要な情報は一切書かずに
山口県史30巻を全部読めとか言うのかw
それとな、お前がここに転載してる書状が
山口県史のどこにあるのかも書かないと意味ないだろが。
ことごとく誤魔化しまくりだなおい。
先日、時間が少しだけ余ったから前回のように多くの巻を見る時間は無かったが
山口県史・史料編・中世1巻の凡例だけ覗いて帰ったが、
改めて見てみても2ページ以降にそんなもん一切書いてないわ。

えっ?ここにお前が挙げた書状が山口県史に載ってるのを証明できないのに
山口県史に書いてあると自称する>>351の内容を適用させる気なの?
アホ過ぎワロタwこれではまったく話にならない。
とにかく>>281>>299>>302>>303>>308
下記の巻の何ページに載ってるんだ?
史料編 中世1
日記・記録・紀行・伝記・家譜・実録・雑史・軍記物語・説話・往来物・対外関係・国外史料
史料編 中世2
大島地区・玖珂地区・熊毛地区・都濃地区・佐波地区・吉敷地区
史料編 中世3
山口県文書館・厚狭地区・美祢地区・大津地区・阿武地区
史料編 中世4
豊浦地区・県外所在・賛・五山文学・和歌・連歌

834 :
萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
晋曾寺文書だって原本書状がない信用性ゼロの後世作成文書だろううが。
萩藩は資料収集の際に偽書状であろうが、真偽の認定を避けて、つか藩士の先祖を疑えない空気で口出しできなかったから
アホみたいにたくさんの軍記を元ネタにしたような軍功感状が湧き出てきて収録されてる。肝心の毛利本家に書状案などの形として
領地宛がいの根拠となる記録の書留めの記録すらない完全に根拠ゼロのな。
どこの大名家でも家臣が所持していた感状なんて稀で貴重なものなのに、萩藩はとにかくアホみたいにある。
上杉氏の文書写ですら藩士の所持していた感状なんてほとんどない。
どの大名家でもせいぜい口述筆記による記録や覚書や家系譜などに記されているレベルで信憑性に疑問がつくのがほとんど。
これは武田の武名から江戸期に武田家からの感状がアホみたいに偽造されて、
現代では武田氏研究会や山梨県史編纂の過程でほとんど偽書状認定されて取捨選択されたのと萩は対照的だ。
特に北条や上杉の書状と照らし合わされて研究される武田書状と違い、毛利は敵対勢力の生存がほぼなく(大友・大内・尼子・宇喜多など)
他大名との接点から遠かったため他有力藩からクレームもなく捏造しまくりの先祖武功大会状態。
>>戦国板 山口県史資料編3目次解説凡例
>>山口県史資料編凡例2ページ目
はぁ?お前の書いてる書状って萩藩閥閲録からの転記だろが。なんで山口県史史料編の注釈を持ち出して
萩藩閥閲録収録の輝元御印と書いてるだけの写しを偽書状写しじゃないと証明しようとしてるわけ?まったく関係ないだろwwwwwwww
だいたい萩藩閥閲録からの転記の
>>天正6年8/10毛利輝元→児玉
>>去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
敵数多討捕なんて書いてないからw書いてあるのは及鑓合被疵左足併郎従1人令討死だし
>>天正6年6/26輝元→児玉
>>態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
小次郎事と無比類の間には、被疵之由候、無心元候と書いてあるのに、なんで削除してんだよw
なんでお前は必死になってそこまで捏造歪曲しまくってんだよwww
つかさ、萩藩閥閲録収録の巻115の湯原文左衛門186通の中からお前は抜粋してるようだが、
山口県史料で本物認定して収録してある児玉文書はたった6通だけだぞwwww
しかも湯原分で調べると児玉文書第3(天正8年12/28)・4号文書(天正9年1/21)だけじゃんwww
こんなもん信用できるわきゃねーだろwww

835 :
>>熊見川だってちゃんと史料にいっぱいあるし顕如の書状にも織田方3000人討ち死
もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、ずっと篭城を続けた
山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.
1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
先祖代々の恨みのあまり秀吉・石田憎しで捏造歪曲ばっか吐いてんじゃねーよ在日織田厨くんよぉwww
史実の虎倉合戦
宇喜多の攻勢により備中・美作で敗勢著しい毛利軍が巻き返しを図るために
輝元・隆景・元春まで出張ってきての虎倉城攻略作戦で(虎倉合戦)
10万石前後の小勢であった伊賀久隆にまんまと毛利軍が大敗し
粟屋元信など大物が討ち取られる。
伊賀家久の帰属に関わる萩藩士の先祖の由来があるため無かったことにできない戦ですら
捏造王の萩藩閥閲録・毛利家日記は負け戦を負けと認めず捏造歪曲する糞資料。
あれは合戦では無かったので毛利の敗北とするのは間違えなので
デッチアゲ虎倉合戦では無く正式名称は加茂崩れと呼称する始末。
毛利軍は有漢から福山への陣替のために
近習が夜に先発し移動開始したけど
現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。
そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、
これによって伊賀家久が我が長州藩の家臣となった。
学者が論文で一切、シカトしてる原本不明の藩士の自己申告写し書状なんて持ち出してバカなの?
一次史料である家わけ文書からソースを出せよキチガイ。なんつーか毛利の場合は捏造文書三昧だからな。
つか荻藩閥閲禄や毛利家日記なんて原本書状のない捏造文書集じゃんよ。
しかも覚書や家譜や由緒書とか藩士が先祖の功績を捏造して提出しまくりで史料価値ゼロ。

836 :
お前、それ家わけ文書に載ってると誤解してんの?w
家わけ文書すら理解できてない無知ぶりを晒しまくってワロタwww
そんなクソ内容は家わけ文書には無いわwwwアホ乙www
>>4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
>>5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む
>>5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
>>5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
>>5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
>>5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、
>>仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
>>5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、
>>6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す
>>6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
>>7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る
>>7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、
>>又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、
上記の文はネットで東京大学の大日本史料データベースで年代検索かけて
綱文だけ拾ってきてコピぺ転記羅列してるだけじゃねぇかアホ屑チョン
綱文内容が一次史料を元に書いてるわけねーだろ無知すぎてワロタw
だから下記みたいなカス資料の無意味な羅列しかお前はできないんだw
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

837 :
>毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書
根拠なし。毛利の負け戦もちゃんとのってるし史料の編纂作業なんてどの大名でもやっている。上杉の語年譜とか歴代古案とかと同じ
>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家からソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのなぜ逃げまくる
児玉家文書だの晋曾寺文書やらいろいろ出してるが無視しまくって捏造扱いしてるのがお前
>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな

838 :
>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略  昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書

839 :
>>信長は高倉山で長陣張っても意味ないから陣を引き払い信忠らと合流し三木城の支城である神吉や志方を攻めて播磨平定を優先せよと命じてる。
それ信長公記や太閤記の講談ネタで兵庫県史資料編とか細かく洗ってみてもそんな書状一切出てこない
>>秀吉撤退の信長の意向を受けて秀吉への撤退支援として丹羽や明智や滝川が秀吉軍の高倉山から書写への退却支援のために三日月山に到着したのは6/29だから
根拠は?
>>退却はそれ以後の話なわけだ
そもそも退却後に彼らが到着という流れでも全く問題なく話しがつながるわけで。
>>6/21に信長の意向を無視して司令官秀吉もいない織田軍が毛利軍と無意味に戦うわけがない
なぜ秀吉がいないことになってるのか不明。普通に上月救援しようと思ってたら毛利軍と遭遇して大破されて逃げ帰ってきたと考えればいいだけ
>>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25だから顕如の上月城下での討ち取り書状は日付も合わないから熊見川の戦いのソースにすらならない。
顕如書状でも>>419の文書でも6/21になってる
>>つかこんな中途半端な日付に3000討つとか明らかに毛利側の嘘宣伝でしょ。
なんで顕如の書状が毛利の嘘宣伝になるのか不明。顕如は織田の敵対者だが毛利一族でもなんでもない
>>だいたい熊見川の戦いにしたって敵前渡河した吉川騎下の有地元盛が1番槍で突っ込んで中国探題羽柴秀吉と直に槍を合わせ撃ち勝った挙句に、
>>織田全軍を二番手の杉原盛重と共に標高360メートルの高倉山を駆け上がり叩き出す大勝ぶりでさらに追撃を緩めず曲輪や堀切りを突破し尾根続きの仁位山城
>>をさらに追撃しついには姫路市北西の書写山の円教寺に逃げ込んだ秀吉を追い詰めたなんて作り話でしょう。
根拠不明。信長記の講談引用がソースなら毛利の日記やら萩藩閥越禄やら陰徳太平記の引用も普通にありだろ
>>よって顕如の書く討ち取り数は百歩譲っても尼子残党とのものでしょう。
根拠不明。上月城下なんだから尼子残党ではなく秀吉軍だろ。上月城内ではないし戦死した日時は21日。これで尼子残党の事だと考えるほうが無理がある
>>顕如の書状には7/5に上月城落城とあるが、実際は7/1にすでに降伏開城してるし7/3には尼子一族が責任を取り自刃してる。
んでそれがなぜ6/21に上月城下で戦死したものが尼子勢の事にすりかえられるのか不明
>>本当に熊見川で毛利が織田軍に大勝利して書写山包囲し秀吉捕縛間際だったなら指呼の距離の姫路城へも勢いを駆って進出するはずだし、
>>信忠の大軍だって呑気に支城攻めを続けてから相撲大会見学のために帰国しねぇよ。
毛利が本拠地からの距離と大友参陣と輝元のヘタレっぷりを理由に安芸にヘタレ退却する雑魚だったから信忠らも秀吉支援に乗り出す必要すらなかっただけだろ
>>馬廻や小姓を連れて祇園会の見物をしてたり、信忠が岐阜で飼ってた鷹を鷹師に持ってこさせて一足没収して楽しんでんのは秀吉が大敗なんてしてねーからだろ
全くの妄想願望乙。毛利にビビリまくって現実逃避したか毛利が安芸にヘタレ退却したから後詰する必要なくなっただけ
以下が正しい日付年表ね
4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む
5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、
仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、
6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す
6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る
7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、
又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、

840 :
>>毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
>>毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
根拠なし。毛利の負け戦もちゃんとのってるし史料の編纂作業なんてどの大名でもやっている。上杉の語年譜とか歴代古案とかと同じ
>>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家からソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのなぜ逃げまくるんだよwww
児玉家文書だの晋曾寺文書やらいろいろ出してるが無視しまくって捏造扱いしてるのがお前
>>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ。
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
あと荻藩閥閲禄やらの件でも探しても
>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。
>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
こんな記述どこにもねぇわカスw

841 :
>>えっ捏造だとする根拠は?wこれだって信長公記だけに書いてあるわけじゃねーぞ。
>>そもそも金崎の退口という言葉自体が三河物語の記述からだし。そこでも秀吉が重要な撤退指揮したと書いてる。
それは今では定説になってる。三河物語の記述が元亀元年庚午二月日と月単位で大きくずれ過ぎているので全くソースにならない。そもそも三河物語の浅井朝倉との攻防全般の記述が
デタラメばかりなので(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている)
>>しかも波多野秀信宛に書かれた義昭奉行衆の一色藤長の5/4付け書状の内容でも(信長は4/30帰京)
秀吉の活躍で退却できたとは書いてない。そもそも朝倉軍が積極的に追撃してきたのか戦いがあったかすらわからない。現に信長公記には木下を残したとは書いてるが
朝倉が追撃してきて激しい戦になったとは全く書かれていない。朽木の奔走で朽木超えに成功したとあるだけ。
>> 金崎城に秀吉・光秀・池田勝正が残されたと書いてあり秀吉はきっちり残留組だ。
池田の軍が3000もいて、軍の主力をなしていたとするのが現在の定説で、これに木下明智に徳川が加わればかなりの軍勢になるので、防衛・撤退くらい余裕
朝倉の追撃がどの程度あり、どのような合戦があったかわかる史料が講談くらいしかないので論外
>>そればかりでなく、上洛成功し信長が美濃へ帰国する際10/26の5000を指揮して京防衛守備武将として残された中にも秀吉はいる。
それが何がすごいんだ?あと、一応史料提示もよろしく
>>そして正月の三好らによる本國寺の義昭襲撃を排除してる。
三好の軍勢数は?5000の軍勢で排除できないほどの大軍なのか?
>> 閏5/25付けの東寺の寺領安堵や10/9阿弥陀寺への兵士寄宿免除などから武将としては秀吉だけを残しているのが判明してる。
そりゃ他の方面の敵が心配だったってだけだろ。どこが困難な仕事なのか不明
>> 秀吉はもっとも困難な軍事的困難なことを常に任されてきてんだよアホ
いや最も楽な仕事しかしてない。箕浦合戦では敵軍が結束力のない一揆勢だから勝てたと勝利の理由を信長公記でもちゃんと書いてるし
>>しかし秀吉が浅井戦線最前線に転出し敵中孤立して張り付くとさっそく幕府との関係を瓦解し始める。
そりゃ単に織田軍の兵力と敵軍の兵力比の比が大きく変わったので戦況が大きく変化しただけ。むしろ金ヶ崎といい熊見川といい三木合戦の醜態といい秀吉が出てくと
必ず負け戦か大苦戦にしかならないのでそれだけ雑魚だった証拠
つうかお前他スレで金ヶ崎はなかったなどと書いてるのに平気で矛盾した事書くんだなw
71 :人間七七四年 :2013/06/12(水) 11:22:30.76 ID:/rnb16KK
織田厨はバカ無知だから相手すんなw どうせ信長が北伊勢で北畠へ攻撃かけたと思い込んでるんだから。
実際は六角氏から伊賀国主仁木氏へ養子に入っていた仁木義政が 天文11年10月に北畠を破り仁木氏の旧領だった
北伊勢一円の朝明郡・員弁郡を取り戻している。 仁木義政は幕府御判衆で永禄10年に義昭が朝倉義景邸御成りの時には 義景の後見者のようにしていて朝倉取り次ぎをしてたと思われてる。
信長が戦ってるのは仁木氏の統括エリアであって北畠の統括エリアじゃない。 信長公記では六角氏をワザと弱く見せかけていて
六角氏関連人物を消しまくってる。それは信長マンセーに都合が悪いからね。 志賀福田寺文書の和田惟政12/17三雲対馬親子宛て文書では
六角氏が浅井と織田の婚儀を取り持ってるのがわかるし 信長のために上洛の協力してた六角義秀が死んだことに驚愕して
義偵の帰国を恐れる信長の姿が永禄12年5/11信長→浅井書状でわかるし
婚姻斡旋者の義秀が死んだことと義偵の帰国により
浅井・織田の同盟が崩壊したのは明らかだし
二条宴乗日記5朔を読む限り浅井が謀反?の噂が届いたから
信長が京へ帰ったのはわかるが、金ヶ崎の戦いなどと言う
浅井と朝倉の挟撃を受けた4/末の秀吉殿の撤退戦なんて存在しておらず
義偵が鯰江城に入り浅井と連絡して5月になってから挙兵し下記のような戦いになっただけ。
言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。
5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣

842 :
つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

843 :
>> そもそも当時は上月城なんて呼称で呼ばれていない完全に江戸期になって毛利側が作った造語。
デタラメ書くなよ。信長公記にも上月城とはっきり書かれてるし天正4年に宇喜多直家が攻略した際の書状にも上月城とハッキリ書かれてるわ
また天正6年の5月に秀吉が上月城攻囲の毛利方と対峙した際の書状にもハッキリ上月城と書かれてる(阿波国古文書)
>>じゃあなんて呼ばれていたかといえば、七条城って呼んでた。だから当時の書状で上月城と書いてるのは偽書状。
いやむしろ七条城と読んでるのが偽文書。同年の多聞院日記4/29条にも上月城を助けるため滝川明智などを送ってるのがわかるし
熊見川の戦いをはじめ、上月城攻防関連の毛利の史料は山口県氏史資料編により、原本によって花押の確認が取れた書状ばかりなので全て本物。むしろ
七条城などとデタラメ呼称で読んでるのは全て秀吉や織田方が後年になって偽作した偽書状
>>12/5付秀吉→下村玄蕃助宛書状で(下村文書)
宇喜多はこの時期出陣などしておらず、国内での政務におわれてるのが一次資料で確認できるため、明らかに偽書状
>>つか他人のレスを俺のレスの同一視すんなやwww俺は別に金ヶ崎はなかったなどとと主張したことねぇよカス織田チョンよ。
71 :人間七七四年 :2013/06/12(水) 11:22:30.76 ID:/rnb16KK
織田厨はバカ無知だから相手すんなw どうせ信長が北伊勢で北畠へ攻撃かけたと思い込んでるんだから。
実際は六角氏から伊賀国主仁木氏へ養子に入っていた仁木義政が 天文11年10月に北畠を破り仁木氏の旧領だった
北伊勢一円の朝明郡・員弁郡を取り戻している。 仁木義政は幕府御判衆で永禄10年に義昭が朝倉義景邸御成りの時には 義景の後見者のようにしていて朝倉取り次ぎをしてたと思われてる。
信長が戦ってるのは仁木氏の統括エリアであって北畠の統括エリアじゃない。 信長公記では六角氏をワザと弱く見せかけていて
六角氏関連人物を消しまくってる。それは信長マンセーに都合が悪いからね。 志賀福田寺文書の和田惟政12/17三雲対馬親子宛て文書では
六角氏が浅井と織田の婚儀を取り持ってるのがわかるし 信長のために上洛の協力してた六角義秀が死んだことに驚愕して
義偵の帰国を恐れる信長の姿が永禄12年5/11信長→浅井書状でわかるし
婚姻斡旋者の義秀が死んだことと義偵の帰国により
浅井・織田の同盟が崩壊したのは明らかだし
二条宴乗日記5朔を読む限り浅井が謀反?の噂が届いたから
信長が京へ帰ったのはわかるが、金ヶ崎の戦いなどと言う
浅井と朝倉の挟撃を受けた4/末の秀吉殿の撤退戦なんて存在しておらず
義偵が鯰江城に入り浅井と連絡して5月になってから挙兵し下記のような戦いになっただけ。
言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。
5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣
どうみてもお前のレスです。本当にありがとうございました。
>>俺は浅井がこの時期、京へ向けて進撃していたから朝倉との挟撃は無かったと主張していただけだ。
挟撃されないなら普通に窮地での撤退戦などありえないし容易に逃げ出せるし最低でも5000そこそこが残ってる金ヶ崎を朝倉が単独でせめても
大して織田方も脅威にならないしそもそも実際に攻めて撃退したという史料がない。
>>家康が置き去りにされてたところで、秀吉の活躍で命拾いしたわけだ。
家康・秀吉・光秀・池田なら一万は超えそうだしそんなんで朝倉単体で攻めてきて金ヶ崎を守りとおしても特別凄いと思わん
まして実際に朝倉が攻めて来たという一次資料もない。信長公記にも木下を残したとは書いてるが
朝倉が追撃してきて激しい戦になったとは全く書かれていない。朽木の奔走で朽木超えに成功したとあるだけ。

844 :
つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

845 :
>>はいはい偽書状乙w5月の秀吉が出した書状で本物認定されてるのは下記の書状だけだタコ(三鬼清一郎氏の認定)
三鬼の妄想なんぞ知らん。山口県史資料編3目次解説凡例の最後から2ページ目の12行目
でも見直せ山口県史資料編凡例 2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。
んでソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのはお前だけ
さらに「上月城」という呼称は下記の他の史料でも使われており他の呼び方をしている文書が捏造されてできてるだけ
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
>>秀吉による但馬の攻略が完了したことも報じていて
お前天正8年にやっと但馬が平定した事もしらんのか。天正8年の山名氏政→古志書状(古志文書で)4/13には織田勢が今度但馬に乱入してきて種種入魂之被申分、尤祝着候とか書いてるし
5/19には去4月18日但馬水生表の合戦で織田勢と竹野衆が合戦し竹野衆が勝利したと報じている
6/13垣谷豊続→岡遠江守感状で宵田表相動候処、則織田勢罷出候之間誠砕手数剋相戦切崩、得勝利などと勝利を書き綴っている
>>あっ?そもそも日記形式じゃねぇんだから大久保の記憶違いだろ。庚午の年の出来事って記憶してるだけでもすげぇだろ
そんな3ヶ月も重要合戦の日付を間違えるような糞記憶力じゃ話にならん。完全に記憶違いで合戦の存在自体噂で聞いたか後であやふやな記憶をデタラメに思い出したか知らんし
>>つかそもそも東海方面は三嶋暦を使ってるんだからズレるのはおかしくないだろ。
何がおかしくないのか不明。そんな3ヶ月も重要合戦の日付がずれる糞史料を直接的ソースとして用いるとか話にならん。
>>それに越前出兵への依頼を家康に申し出たのが2月とも解釈できるしな。
なぜそう解釈できるんだ?
>>それにの一色藤長の5/4付け書状の内容には金崎城に秀吉・光秀・池田勝正らが残されたのは
>>北郡の儀 相下され 重ねて越国乱入有るべき候などと再度の越前侵攻のためとの言い訳を丹羽から聞かされているのがわかる。
再度の越前侵攻のため残されたなら金ヶ崎の退却のため残されたという論拠には全くならない。他の目的に備えられたと考えるのが普通
三河物語にも信長が撤退したときに家康へは何も連絡なく捨ておかれたが秀吉の案内で家康は撤退できたと書いた後に
>> あくまで信長は越前への再度の侵攻を考えていたが、越前衆が機先を制して3万で出陣してきたと書いていて
んで、実際に金ヶ崎で残留部隊と朝倉が衝突したというソースは?
>>月のズレなんてよくあることだし、むしろ丹羽から聞いた内容と同じ内容を大久保も書いてる正確さの方がすげえわ
そんなデッチ上げの全く記憶違いの嘘文書が直接ソースになると思ってるお前の脳味噌の方が凄いよ

846 :
じゃあ一次史料はどうかと言えば、6/18付け信長→荒木宛書状では宇喜多、八幡山罷越候由、無論不可有差事候
などと信長は宇喜多軍が八幡山まで進軍してきたが大したことはできんだろうと言っていて毛利軍自体が実は来てないし
6/25付け信長→家康宛書状では就播州面之儀〜去廿一日敵罷出候を追散、首十四討捕候、可然者共候由候、是式不物数人共申候
などと6/21に攻めてきた宇喜多軍なんて、これしきのの兵はモノの数ではないと楽観してるし←日付で言えば熊見川があったようだなw
9/6付け信長→黒田宛でははやくも至備前面可進発候、就其差越羽柴筑前守候〜
などと秀吉を派遣するから宇喜多を追って備前へ攻め込めと命じてる。実はそもそも黒田がいただけで秀吉自体もいなかったのがバレバレ。
早くも備前へ侵攻命令wとても播磨西部で毛利に負けてるようなでっち上げ話は信用できんわな。
結局さ、義昭を奉じた毛利軍の配下になった宇喜多軍が攻めてきたので、秀吉が戦って勝利したって言う歴史的事実を
毛利の捏造でっあげ書状で宇喜多軍=毛利軍と脳内変換してるだけなんだわ。
なんせ、この時期の毛利軍は備前からの陸路ではなく村上水軍を利用して海路を利用して
別所支援の行動に専心して播磨西部にいないのが明らかなんだから。
たとえば天正6年4/2の秀吉→黒田で
雑賀衆と芸州衆が船手にて別府表に上陸したが数多討ち取りを信長公に報告する
4/4のの信長→秀吉において
昨日注進が届いた別府孫右衛門(織田方の別府重宗)の阿閉要害に雑賀衆と芸州衆が相働くが官兵衛を派遣して数十人討ち取り
>>上月城
上月城・上月城とうるさく連呼してるようだから言っておくが
そもそも当時は上月城なんて呼称で呼ばれていない。完全に江戸期になって毛利側が作った造語。
じゃあなんて呼ばれていたかといえば、七条城って呼んでた。だから当時の書状で上月城と書いてるのは偽書状。
12/5付秀吉→下村玄蕃助宛書状で(下村文書)
七条と申す城候、翌日、廿八日、押し寄せ取り巻き、水の手取り候処、後巻として此の方陣取る山の上へ、
宇喜多罷り出で候条、城には手当て置き、切懸け合戦に及び、散々切り崩し、備前境迄三里計の間、追い討ち
首級六百十九、其の外雑兵切捨て候〜などと書きこの時の大勝利で明石三郎左衛門・・真名子喜左衛門・宗野の原の三人が
西国にての才覚、先懸け、第一の者を討ち取った大勝利を報じてる。
ちなみにこの時期の秀吉書状は他に12/10の秀吉→黒田・別所重宗宛書状で
二人の子達の縁談を纏めた話を書いてる書状が残ってる(黒田家文書)
つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

847 :
そうらはじまったー
コピペ=困ってるって言ってるようなもんだけどなw

848 :
そもそも織田・秀吉・黒田の一次史料には毛利とその時に
戦っていることが書かれているものは皆無で
宇喜多と戦っていた証明しかありませんwwwww
この時期の黒田や秀吉の一次史料から毛利軍は備前からの陸路ではなく村上水軍を利用して海路を利用して
別所支援の行動に専心して播磨西部にいないのが明らかなんだからwwww
当然、毛利方の一次史料である東大が編纂出版してる大日本古文書における
所蔵者ごとに編纂した家わけ文書の第8巻毛利家文書・第9巻吉川家文書・第11巻小早川家文書にも存在せずwwwww
上月城で毛利が秀吉と戦って勝ったと書いてるのは
全部、毛利側が編纂した萩藩閥閲録などに出てくる偽書状だけwwww
んなもん証拠になるかよwwww
つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

849 :
>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略  昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書

850 :
>>信長は高倉山で長陣張っても意味ないから陣を引き払い信忠らと合流し三木城の支城である神吉や志方を攻めて播磨平定を優先せよと命じてる。
それ信長公記や太閤記の講談ネタで兵庫県史資料編とか細かく洗ってみてもそんな書状一切出てこない
>>秀吉撤退の信長の意向を受けて秀吉への撤退支援として丹羽や明智や滝川が秀吉軍の高倉山から書写への退却支援のために三日月山に到着したのは6/29だから
根拠は?
>>退却はそれ以後の話なわけだ
そもそも退却後に彼らが到着という流れでも全く問題なく話しがつながるわけで。
>>6/21に信長の意向を無視して司令官秀吉もいない織田軍が毛利軍と無意味に戦うわけがない
なぜ秀吉がいないことになってるのか不明。普通に上月救援しようと思ってたら毛利軍と遭遇して大破されて逃げ帰ってきたと考えればいいだけ
>>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25だから顕如の上月城下での討ち取り書状は日付も合わないから熊見川の戦いのソースにすらならない。
顕如書状でも>>419の文書でも6/21になってる
>>つかこんな中途半端な日付に3000討つとか明らかに毛利側の嘘宣伝でしょ。
なんで顕如の書状が毛利の嘘宣伝になるのか不明。顕如は織田の敵対者だが毛利一族でもなんでもない
>>だいたい熊見川の戦いにしたって敵前渡河した吉川騎下の有地元盛が1番槍で突っ込んで中国探題羽柴秀吉と直に槍を合わせ撃ち勝った挙句に、
>>織田全軍を二番手の杉原盛重と共に標高360メートルの高倉山を駆け上がり叩き出す大勝ぶりでさらに追撃を緩めず曲輪や堀切りを突破し尾根続きの仁位山城
>>をさらに追撃しついには姫路市北西の書写山の円教寺に逃げ込んだ秀吉を追い詰めたなんて作り話でしょう。
根拠不明。信長記の講談引用がソースなら毛利の日記やら萩藩閥越禄やら陰徳太平記の引用も普通にありだろ
>>よって顕如の書く討ち取り数は百歩譲っても尼子残党とのものでしょう。
根拠不明。上月城下なんだから尼子残党ではなく秀吉軍だろ。上月城内ではないし戦死した日時は21日。これで尼子残党の事だと考えるほうが無理がある
>>顕如の書状には7/5に上月城落城とあるが、実際は7/1にすでに降伏開城してるし7/3には尼子一族が責任を取り自刃してる。
んでそれがなぜ6/21に上月城下で戦死したものが尼子勢の事にすりかえられるのか不明
>>本当に熊見川で毛利が織田軍に大勝利して書写山包囲し秀吉捕縛間際だったなら指呼の距離の姫路城へも勢いを駆って進出するはずだし、
>>信忠の大軍だって呑気に支城攻めを続けてから相撲大会見学のために帰国しねぇよ。
毛利が本拠地からの距離と大友参陣と輝元のヘタレっぷりを理由に安芸にヘタレ退却する雑魚だったから信忠らも秀吉支援に乗り出す必要すらなかっただけだろ
>>馬廻や小姓を連れて祇園会の見物をしてたり、信忠が岐阜で飼ってた鷹を鷹師に持ってこさせて一足没収して楽しんでんのは秀吉が大敗なんてしてねーからだろ
全くの妄想願望乙。毛利にビビリまくって現実逃避したか毛利が安芸にヘタレ退却したから後詰する必要なくなっただけ
以下が正しい日付年表ね
4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む
5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、
仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、
6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す
6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る
7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、
又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、

851 :
>>毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
>>毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
根拠なし。毛利の負け戦もちゃんとのってるし史料の編纂作業なんてどの大名でもやっている。上杉の語年譜とか歴代古案とかと同じ
>>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家からソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのなぜ逃げまくるんだよwww
児玉家文書だの晋曾寺文書やらいろいろ出してるが無視しまくって捏造扱いしてるのがお前
>>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ。
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
あと荻藩閥閲禄やらの件でも探しても
>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。
>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
こんな記述どこにもねぇわカスw

852 :
>>毛利軍自体が実は来てない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない

853 :
>>841
普段は武田厨を装い、他人の昔の古いレスを集めたものを
キチガイコピペ爆撃して、その後に追撃だが認定のコンボレスして
織田厨であることを隠す隠蔽工作している在日君w
しかしこと秀吉についての話になると逆上して下記のような普段主張してることと真逆なガチレスする在日織田チョンぶりを露見させ普段の工作が水の泡wwww
>>それは今では定説になってる。三河物語の記述が元亀元年庚午二月日と月単位で大きくずれ過ぎているので全くソースにならない。そもそも三河物語の浅井朝倉との攻防全般の記述が
>>デタラメばかりなので(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている)

854 :
秀吉研究の音頭を取っていた三鬼をまったく知らなかった時点でダ・ウ・トwww
秀吉文書研究でこの人ほどの人物はいねぇぞwwwwwwww豊臣秀吉文書目録を出してるんだからなwwww
お前は完全に素人だなwwwww偽書状とか頻繁に持ち出してキチガイ発言してるからどうもおかしいと思ったわwwww

855 :
三鬼の妄想なんぞ知らん。山口県史資料編3目次解説凡例の最後から2ページ目の12行目
でも見直せ山口県史資料編凡例 2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。
んでソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのはお前だけ
さらに「上月城」という呼称は下記の他の史料でも使われており他の呼び方をしている文書が捏造されてできてるだけ
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない

856 :
コピペ貼る為の煽りまで自作自演っすか

857 :
ここは信玄上洛スレなので別スレでやれや

858 :
論破されただがの特徴:ひたすらコピペを張り付け涙目逃走

859 :
天正4年に宇喜多直家が攻略した際の書状
天正6年の5月に秀吉が上月城攻囲の毛利方と対峙(阿波国古文書) 
上記の書状の日付、誰から誰に宛てられたものか、
書状内容の転記と共に書いてください。

860 :
つかお前下記でいろいろと逃亡してるのをみんなに指摘されてるぞwはよ答えてあげろよwいつまで待たせるんだw
8 :人間七七四年:2013/02/18(月) 03:54:17.37 ID:hEnpT6NC
>>6
あれ年代で分類されてるってことぐらい知ってていってるよね?
知った上で、無関係な北条編とか加えて三十巻とか言ってるわけ?
何が目的なの?
10 :人間七七四年:2013/02/20(水) 06:58:49.07 ID:ZVTlg31h
>>8-9
好き勝手言うな
書状をこちらで読めない状態ではコメントできん
週末のいくつかを費やして探し出すからしばらく待ってろ
171 人間七七四年 2013/06/14(金) 11:09:15.40 ID:dh7sOCUD
いいから早く佐竹側史料とやらの日付や誰が誰に出したか、内容の転記しろよ。
172 人間七七四年 sage 2013/06/14(金) 11:13:27.32 ID:xj6Tnt3N
手元にコピーがないんで何日か待ってろ

861 :
つか秀吉軍相手の小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000とかそんな少ないわけねーだろw農民町人も関係なく15歳から70歳男子を対象に郷へ動員かけてるのに
小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた)
(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう)
城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になるだろアホw
早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が
4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww
下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。
ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。
しかも北条に対して秀吉軍が兵糧不足で敗北寸前だったとかお前は書いてるが、
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状については、
そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない)
つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww辻褄があわねぇwww
前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw
3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw)
松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw
>>豊臣方は6月時点で兵糧不足
そんなわけなかろう。6月には北条降伏を待たずに早くも翌月の奥羽征討別働軍を派兵する計画を発表してるのにw
6/14には奥羽征伐のための偵察先遣部隊の蒲生氏郷が早くも陸奥国二本松に到着の書状(政宗はいまだ長井郡〜大崎葛西あたりにいた)
これを受けて6/15には浅野長政が八戸らへ家康・秀次の先陣による7月上旬の奥羽平定出馬宣言。
6/20には部隊編成計画を秀吉が発表(奥州奧郡為仕置被指遣御人衆道行次第)
7/4あっけなく小田原降伏。
7/7奥州出羽仕置の方針について政宗の意見を参考にしたいと秀吉から御内意があったと
旧葛西家臣富沢直綱に正宗がウソを吐く(自筆書状なので用心のためすぐに火の中へ入れて燃やせと書く)
77/11氏政・氏照らが切腹。7/13秀吉が小田原城検分と家康の関東転封命令。
7/17秀吉も小田原を発し奥州に向かう。7/26秀吉が宇都宮に到着。
>>豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww
>>豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>>小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000
あぁ!?ここでは29万と下方修正して主張しとんのかこの在日アホ織田チョンw根拠がないから都合で兵力をかえてるだけだなw
そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww
どんな本を見てもせいぜい20万前後だ(前田・上杉の北陸軍も含めて)
北条兵力もいつのまにか34500に変更しとんのかwww
はいはい秀吉が派遣した兵が篭城してる城を攻めてすぐ落とせず、周囲に砦を築いて兵糧攻め→秀吉の大敗になる気持ち悪い脳w
さらに攻城戦で討ち死にが出ると秀吉の無能の証拠に変換されるアホ脳。さすがキチガイですねwww

862 :
>>山口県史資料編3目次解説凡例の最後から2ページ目の12行目
>>でも見直せ山口県史資料編凡例 2ページ目
>>正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
>>近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした

はぁ?お前の書いてる書状って萩藩閥閲録からの転記だろが。
なんで山口県史史料編の注釈を持ち出して
萩藩閥閲録収録の輝元御印と書いてるだけの写しを
偽書状写しじゃないと証明しようとしてるわけ?まったく関係ないだろwwwwwwww
だいたい萩藩閥閲録からの転記の
>>天正6年8/10毛利輝元→児玉
>>去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
敵数多討捕なんて書いてないからw書いてあるのは及鑓合被疵左足併郎従1人令討死だし
>>天正6年6/26輝元→児玉
>>態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
小次郎事と無比類の間には、被疵之由候、無心元候と書いてあるのに、なんで削除してんだよw
なんでお前は必死になってそこまで捏造歪曲しまくってんだよwww あまりにも捏造がひど過ぎるだろW
つかさ、萩藩閥閲録収録の巻115の湯原文左衛門186通の中からお前は抜粋してるようだが、
山口県史料で本物認定して収録してある児玉文書はたった6通だけだぞwwww
しかも湯原分で調べると児玉文書第3(天正8年12/28)・4号文書(天正9年1/21)だけじゃんwww
こんなもん信用できるわきゃねーだろwww
(上月城の戦いがあったとする天正6年の湯原分ですら偽書状扱いして山口県史もガン無視www)

863 :
つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

864 :
>秀吉軍相手の小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000とかそんな少ないわけねー
関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料にある
>小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた)
根拠なし。太閤記の糞講談妄信の馬鹿学者乙
>>(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう)
北条200万石程度でそんなありえない巨大兵力だせるわけねーだろクズ
天正壬午の時ですら昔は4万とか5万とか軍記ソースのデタラメ数字が並べられてたが最近の研究で2万(家康書状)とされてるし沼尻の戦いの時も同じような数字だし
>城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になる
そんな所も瞬殺できないからこそ秀吉は雑魚といってるわけで。
>早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww
何が問題なんだ?
>下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。
>ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。
それら含めて1000で問題ないだろ。何が問題なんだ? 北条方は国力しょぼくその割りに防衛ラインは上野武蔵相模伊豆下総上総下野と広範に及ぶのだから
一点に集められる兵力は減るのは当たり前
>>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類
>(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない
根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。
20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww
後から届けさせたか現地調達するつもりだったんじゃね
>前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
それだけ用意させながら兵糧不足に陥るのだからよほど規格外の大軍だったとわかる
。 >2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw
根拠なし
>3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw)
300程度の山中城(秀吉は3000とかおおぼら吹いてるが)に5万騎で攻めて氏勝やら城主も抗戦意欲なしで逃げ出した戦闘で重臣一柳戦死するとか
相当の雑魚戦下手なのが秀吉(銃弾当たったから秀吉の責任じゃないとかないわ。敵方の迎撃をうまくかいくぐって最小の被害で即効瞬Rるのがうまい城攻め)
>松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw
北条氏勝以下数百程度の山中篭城組に5万で挑みかかった糞戦闘をそんな自慢気に語られれても
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状があるな
>6月には北条降伏を待たずに早くも翌月の奥羽征討別働軍を派兵する計画を発表してるのにw
後から届けさせるか現地調達のつもりだったんじゃね

865 :
171 人間七七四年 2013/06/14(金) 11:09:15.40 ID:dh7sOCUD
いいから早く佐竹側史料とやらの日付や誰が誰に出したか、内容の転記しろよ。
172 人間七七四年 sage 2013/06/14(金) 11:13:27.32 ID:xj6Tnt3N
手元にコピーがないんで何日か待ってろ

866 :
171 人間七七四年 2013/06/14(金) 11:09:15.40 ID:dh7sOCUD
いいから早く佐竹側史料とやらの日付や誰が誰に出したか、内容の転記しろよ。
172 人間七七四年 sage 2013/06/14(金) 11:13:27.32 ID:xj6Tnt3N
手元にコピーがないんで何日か待ってろ

867 :
171 人間七七四年 2013/06/14(金) 11:09:15.40 ID:dh7sOCUD
いいから早く佐竹側史料とやらの日付や誰が誰に出したか、内容の転記しろよ。
172 人間七七四年 sage 2013/06/14(金) 11:13:27.32 ID:xj6Tnt3N
手元にコピーがないんで何日か待ってろ

868 :
>>山口県史資料編3目次解説凡例の最後から2ページ目の12行目
>>でも見直せ山口県史資料編凡例 2ページ目
>>正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
>>近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした

はぁ?お前の書いてる書状って萩藩閥閲録からの転記だろが。
なんで山口県史史料編の注釈を持ち出して
萩藩閥閲録収録の輝元御印と書いてるだけの写しを
偽書状写しじゃないと証明しようとしてるわけ?まったく関係ないだろwwwwwwww
だいたい萩藩閥閲録からの転記の
>>天正6年8/10毛利輝元→児玉
>>去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
敵数多討捕なんて書いてないからw書いてあるのは及鑓合被疵左足併郎従1人令討死だし
>>天正6年6/26輝元→児玉
>>態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
小次郎事と無比類の間には、被疵之由候、無心元候と書いてあるのに、なんで削除してんだよw
なんでお前は必死になってそこまで捏造歪曲しまくってんだよwww あまりにも捏造がひど過ぎるだろW
つかさ、萩藩閥閲録収録の巻115の湯原文左衛門186通の中からお前は抜粋してるようだが、
山口県史料で本物認定して収録してある児玉文書はたった6通だけだぞwwww
しかも湯原分で調べると児玉文書第3(天正8年12/28)・4号文書(天正9年1/21)だけじゃんwww
こんなもん信用できるわきゃねーだろwww
(上月城の戦いがあったとする天正6年の湯原分ですら偽書状扱いして山口県史もガン無視www)

つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

869 :
>そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww
根拠なし。朝鮮というはるか彼方にすら30万以上の兵力をかなりの長期に渡って派兵し続けたし関が原の戦いでは畿内方面だけで西軍は18万もいたんだし(三成人数書立・慶長見聞集)
北条領国200万石に対し豊臣方は日本全土味方なんだしそれくらい余裕で可能
>>どんな本を見てもせいぜい20万前後だ(前田・上杉の北陸軍も含めて)
お前は馬鹿だな。豊臣方作成の陣立書で215000を動員してるのが確認できるしこれに佐竹結城宇都宮那須里見など関東の反北条勢2万+奥州の諸侯で最低でも25万は超える
享禄以来年代記によると29万動員してるとあるし那須記や榊原康政書状だと50万騎。しかも兵糧を20万石以上用意しながらわずか3ヶ月程度でなくなりかけてたんなら普通に単純計算で12ヶ月÷3=4
四×20万で80万くらいいた事になるなw
>>北条兵力もいつのまにか34500に変更しとんのかwww
はぁ?いつの間にかも糞も最初からそう言ってるだろ。天正壬午の時の若御子の対陣の兵力が2万だった事や(家康書状)北条は村落の欠落が目立ってた事。関東は実は貧困だった事や
北条家人数覚書・関東八州諸城人数覚書からその数字が妥当
>農民町人も関係なく15歳から70歳男子を対象に郷へ動員かけてるのに
農民町人なんていても作業普請くらいしか戦力にならないししかも北条領国では防衛体制構築のため天正14年か15年頃からその動員がなされており
この頃になるとかなり領国が疲弊して村落の欠落が目立って来ている
>>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類
>(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない
根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。
20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>>はいはい秀吉が派遣した兵が篭城してる城を攻めてすぐ落とせず、周囲に砦を築いて兵糧攻め→秀吉の大敗になる気持ち悪い脳w
秀吉本隊も駿河伊豆国境地帯の戦闘である程度打撃を受けたみたいで北条方から何枚も感状が出てる
しかも山中城忍城韮山城小田原城など豊臣方兵力と比べたらハナクソみたいな兵力しか篭もってないのに
そんな所を瞬殺できないどころか城攻めで重臣を戦死させたり大量の時間と費用費やす水攻め兵糧攻めなどに頼りまくりなんだから
いかに秀吉の指揮采配能力が糞かわかるな
>>さらに攻城戦で討ち死にが出ると秀吉の無能の証拠に変換
当たり前だろアホw30万も兵力いてわずか1000だの500だのの雑魚城で討死とか情けないにも程がある
その証拠に小田原本城1000にも手も足も出てないしな

870 :
>>862>>868
>>はぁ?お前の書いてる書状って萩藩閥閲録からの転記だろが。
はぁ?全部山口県史資料編と兵庫県史資料編と島根県史資料編から抜粋しただけだが?
>>山口県史料で本物認定して収録してある児玉文書はたった6通だけだぞwwww
どこにそんな内容が記述されてるのか書いてみろよクズw
山口県史資料編表題部には花押の書かれてるものしか乗ってないしその花押確認を写しに頼ったものには印影と
記載されてて偽者認定されてる書状なんてほとんどねーだろカス
>>(上月城の戦いがあったとする天正6年の湯原分ですら偽書状扱いして山口県史もガン無視www)
どこで偽書状認定してるんだよアホ
>>つべこべ言わずに研究者も出典として使う一次史料認定されている 毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書 三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書
それ以外偽だと決め付けて一切排除してるの三鬼とか馬鹿な歴史家だけだよ
山口県史資料編中世三巻凡例
2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。
でソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのはお前だけ

871 :
ここは信玄上洛スレなので別スレでやれや

早く架空歴史作れ

872 :
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老  此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない

873 :
結局スレを荒らすことしか出来ない能なしだよお前はな

874 :
天正4年に宇喜多直家が攻略した際の書状
天正6年の5月に秀吉が上月城攻囲の毛利方と対峙(阿波国古文書)
上記の書状の日付、誰から誰に宛てられたものか、
書状内容の転記と共に書いてください。
これまだぁ???

875 :
織田方は宇喜多と戦って勝った一次史料しかないのか。
毛利はデッチ上げ宣伝で戦時情報工作してたんだろ。

876 :
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老  此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報

877 :
いいから早く佐竹側史料とやらの日付や誰が誰に出したか、内容の転記しろよ。
172 人間七七四年 sage 2013/06/14(金) 11:13:27.32 ID:xj6Tnt3N
手元にコピーがないんで何日か待ってろ

878 :
実際、秀吉軍と毛利軍が戦い、毛利軍が勝ったことを証明する一次史料は存在しないよね。
だから信長について書かれた本にも一切載ってないのが現実。

879 :
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老  此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報

880 :
ここは信玄上洛スレなので別スレでやれや

早く架空歴史作れ

881 :
本願寺や一向宗研究の第一人者であり
富山県史や福井県史の編纂に関わった金龍静氏の総チェック史料参照したところ
東大史料編纂編纂所架蔵影写本・写真帳
龍谷大学大宮図書館・本願寺史料研究所架蔵写真帳
国立公文書館内閣文庫の顕如書状や光佐書状や教如書状や
何人もいる下間書状や平井重敦書状や小笠原種盛書状や中島弘藤・若林宗成書状や
法敬坊玄、常楽寺証賢、益田照従、教行寺証智、横田芳堅・重恒、勧修寺晴豊
等々の書状を総攬しても「上月」なんて言葉は残念ながらまったく登場せず。

882 :
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老  此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報

883 :
三鬼の妄想なんぞ知らん。山口県史資料編3目次解説凡例の最後から2ページ目の12行目
でも見直せ山口県史資料編凡例 2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。
んでソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのはお前だけ
さらに「上月城」という呼称は下記の他の史料でも使われており他の呼び方をしている文書が捏造されてできてるだけ
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない

884 :
確か上月というのは顕如日記にもしっかり書かれていたはず。
顕如条文案にもしっかり存在するし逆に七条というデッチ上げ地名城名は秀吉の捏造文書くらいしか登場しない。
あと萩藩閥越録を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは秀吉厨のアホ学者くらいだろ。
岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も
毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。
逆に無視してるのは>>882-883のようにこれだけしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で
七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらいだろ。

885 :
それどころか>>881で調べてたら
天正6年正月15日付け宇喜多直家→下刑法参 人々御中御報の内容では
芸州へ重ねて仰せ談ずるとのことは最も肝要ななことです。
近日ことごとく出張を催す件ですが、緩んでしまうのはあるまじきことです。
播磨表での働き不可存由断候などと直家は毛利が播磨への出撃を緩めてしまうことに怒り
重ねて本願寺に説得するように述べてる。
毛利は播磨表に出てくる気がなかったのがここで判明する。結果、下記のようになるわけだ。
6/18付け信長→荒木宛書状では宇喜多、八幡山罷越候由、無論不可有差事候
などと信長は宇喜多軍が八幡山まで進軍してきたが大したことはできんだろうと言っていて毛利軍自体が実は来てないし
6/25付け信長→家康宛書状では就播州面之儀〜去廿一日敵罷出候を追散、首十四討捕候、可然者共候由候、是式不物数人共申候
などと6/21に攻めてきた宇喜多軍なんて、これしきのの兵はモノの数ではないと楽観してるし←日付で言えば熊見川があったようだなw
9/6付け信長→黒田宛でははやくも至備前面可進発候、就其差越羽柴筑前守候〜
などと秀吉を派遣するから宇喜多を追って備前へ攻め込めと命じてる。実はそもそも黒田がいただけで秀吉自体もいなかったのがバレバレ。
早くも備前へ侵攻命令wとても播磨西部で毛利に負けてるようなでっち上げ話は信用できんわな。
結局さ、義昭を奉じた毛利軍の配下になった宇喜多軍が攻めてきたので、秀吉が戦って勝利したって言う歴史的事実を
毛利の捏造でっちあげ書状で宇喜多軍=毛利軍と脳内変換してるだけなんだわ。

886 :
はいはい条文案なんて捏造の宝庫じゃんw

887 :
>>毛利軍自体が実は来てない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない

888 :
>>885
お前はなんで人の調べた史料を無視か全て捏造扱いで
織田方史料羽柴方史料は全て正しい前提ですべて自分の都合のいいように歴史を塗り替えるんだ?
Rよ基地外秀吉盲信野郎

889 :
秀吉が毛利を攻め切れないで信長を援軍請うたとか
馬野山の対陣で吉川6000にビビッて退却したとかいかにも陰徳太平記の捏造っぽいと思ってたんだが
ちゃんと学者も史実扱いしてるんだよな
「織田・毛利戦争の地域的天下と政治動向」とか兵庫県史通史編とかでちゃんと引用されてるし
萩藩伐越録もしっかり直接のソース元として利用されてる

890 :
だからこの時期の織田軍は毛利と播磨西部で戦ってねーんだよカス
戦ったのは宇喜多とだけ。
偽書状を使ってデタラメ吐くなカス。

891 :
>>889
偽書状の宝庫w萩藩閥越録wwwz自演乙w

892 :
東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www

893 :
>>だからこの時期の織田軍は毛利と播磨西部で戦ってねーんだよカス
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老  此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報

894 :
エア毛利軍襲来www信長華麗に黙殺スルーして宇喜多軍を撃破www
エア毛利が勝利宣言wwww

895 :
>>天正6年正月15日付け宇喜多直家→下刑法参 人々御中御報の内容では芸州へ重ねて仰せ談ずるとのことは最も肝要ななことです。
なんで上月合戦の半年前もの史料がソース元としてあがるんだよアホ
>>毛利は播磨表に出てくる気がなかったのがここで判明する。結果、下記のようになるわけだ。
宇喜多が毛利の出兵計画を誤認してただけだろアホ
>>6/18付け信長→荒木宛書状では宇喜多、八幡山罷越候由、無論不可有差事候
>>などと信長は宇喜多軍が八幡山まで進軍してきたが大したことはできんだろうと言っていて毛利軍自体が実は来てないし
なんで宇喜多が八幡山まで進軍してきたと書いたら毛利が来てないことになるだタコw
信長が誤認してたか宇喜多と別の所に毛利が陣取っただけだろアホ
>>6/25付け信長→家康宛書状では就播州面之儀〜去廿一日敵罷出候を追散、首十四討捕候、可然者共候由候、是式不物数人共申候
秀吉から歪曲された戦果の情報が信長にもたらされてただけじゃね
>>などと6/21に攻めてきた宇喜多軍なんて、これしきのの兵はモノの数ではないと楽観してるし←日付で言えば熊見川があったようだなw
ならなんで上月落とされて尼子勢全滅・西播磨から撤退の大敗戦になるんだよタコ
>>9/6付け信長→黒田宛でははやくも至備前面可進発候、就其差越羽柴筑前守候〜
>>などと秀吉を派遣するから宇喜多を追って備前へ攻め込めと命じてる
西播磨を攻略もしてねーのに備前までいけるわけねーだろクズw
>>実はそもそも黒田がいただけで秀吉自体もいなかったのがバレバレ。
根拠なし。秀吉側近黒田に秀吉派遣して備前に攻め込むといったらなんで秀吉がいなかったことになるんだアホ
>>早くも備前へ侵攻命令wとても播磨西部で毛利に負けてるようなでっち上げ話は信用できんわな。
播磨西部で負けたから上月初め西播磨の拠点悉く失って尼子衆や山中見殺しにしたんだろうがボォケwwww
>>結局さ、義昭を奉じた毛利軍の配下になった宇喜多軍が攻めてきたので、秀吉が戦って勝利したって言う歴史的事実を
そんな事実ない
>>毛利の捏造でっちあげ書状で宇喜多軍=毛利軍と脳内変換してるだけなんだわ。
秀吉が毛利にガチンコ大敗して西播磨からたたき出されたのを、毛利→宇喜多に摩り替えて
宇喜多を調略で味方に引き入れたのを武力で勝ったように捏造してるだけ。

896 :
>>東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www
天正6年4月18日 2 吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲
天正6年4月29日 1 信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
天正6年5月4日 1 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す
天正6年5月21日 3 羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、
尋で、宗治、同城を復す、
天正6年6月21日 3 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
天正6年7月5日 1 播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、

毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、



萩藩閥閲録



晋叟寺文書



毛利家日記



[参考]備前軍記



[参考]浦上宇喜多両家記



[参考]陰徳太平記



[参考]御答書



[参考]總見記



[参考]柏崎物語

897 :
天正5年10月23日 秀吉、信長の命令で中国を平定に着手、是日、京都を発す
播磨小寺孝隆の姫路城に入りて、同国諸士の質を徴し、更に但馬に赴きて、岩洲城を攻略する
12月3日秀吉、竹中重治、小寺孝隆をして、備前宇喜多直家の属城播磨福原城を攻略せしめ、自ら同国七條城(上月城)を囲み、之を赴援する直家と戦ひて、之を破り、是日、七條城を陥る、尋で、秀吉、尼子勝久、山中幸盛を播磨三木城より同城に移らしむ
12月5日羽柴秀吉、播磨龍野に入る、尋で、上京す
天正6年2月23日秀吉、再び播磨に入り、書写山に陣す、尋で、同国三木城別所長治、毛利氏等に通じ、兵を挙ぐ、
3月15日秀吉、播磨中島隆重等に基本領を安堵せしむ、
3月29日羽柴秀吉、別所長治を播磨三木城に攻む、
4月3日羽柴秀吉、播磨三木の属城同国野口を攻め、是日、城將長井四郎左衛門を降す、
4月4日織田信忠、摂津石山城を攻む、尋で、軍を班す、
4月18日吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲む、
4月29日信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援させる
5月1日 信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む、
5月4日 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5月6日信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5月16日羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5月21日羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、
是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5月24日羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報じる
6月16日羽柴秀吉、入京して信長に謁す、信長、秀吉をして、播磨高倉山の営を徹し、神吉、志方の両城を攻めしむ、
6月21日毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
6月26日羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す、明日、織田信忠等と共に、別所長治の属城神吉を攻めて克たず
6月29日信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7月5日播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、
尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、
7月7日織田氏の兵、毛利氏の兵を摂津木津の砦に攻む、
7月20日 織田信忠、羽柴秀吉等、播磨神吉城を攻めて、之を陥れ、秀吉、同城を守る
8月10日織田氏の軍、播磨志方城を攻略す、尋で、同国三木城を囲む
8月17日織田信忠、播磨より岐阜に帰る、
10月9日信長、摂津に出陣し、諸將を遣して、荒木村重を打たしむ、尋で、耶蘇会宣教師を遣し、同国高槻城高山友祥を誘降せしむ、
10月17日 荒木村重、新五郎父子、義昭、毛利氏及び本願寺光佐(顕如)と通じて、信長に背く、是日、光佐、村重と盟約す、
10月22日羽柴秀吉の兵、別所長治等と播磨三木城下に戦ひて、其弟治定を斬る、
11月14日織田氏の諸將、荒木村重を摂津在岡城に攻め、之を破る、
11月24日信長、摂津刀根山の塁に陣し、茨木城中川清秀を誘降す、尋で、瀧川一益等を遣し、同国兵庫等に放火せしむ、
12月11日信長、陣を摂津古池田に移し、將士をして、諸塁を守らしめ、羽柴秀吉等を播磨に、惟任光秀を丹波に遣す、尋で、安土に帰城す、
12月23日毛利輝元、荒木村重に援兵を遣す、是日、之を湯浅將宗に報ず、

898 :
なるほど、今まで毛利がなぜ勢いに任せて姫路を落として、
別所を救援しなかったのか?って戦国の摩訶不思議な謎の一つだったが、
そもそも毛利が播磨西部に来てなかったのなら辻褄が合うね。
宇喜多は滅亡してるから死人に口なしで宇喜多軍が毛利軍にすり替えられたんだろうね。
実際、宇喜多が毛利を見限り織田に付く動機もイマイチ不明だったけど、
天正6年時点ですでに直家が毛利に対して不信を抱くような状況にいたとなれば
この謎にも答えが出る。
所詮、公記は太田がメモったことの他に、
天正中期以降の事柄についてはさらに他家へ取材したりした後に編集してるから毛利への取材を太田は取り入れてんだな。

899 :
なるほど、今まで毛利がなぜ勢いに任せて姫路を落として別所を救援しなかったのか?
って疑問は、毛利がアホだったからというだけだろう。天正4年頃からの勝頼との対織田戦での盟約も毛利は破りまくってたし
秀吉がなぜ上月城をガチンコで毛利方に陥落させられ、西播磨が毛利一色に塗り変わるのも、毛利に大敗した証拠といえる
実際荒木らが織田を見限り毛利方につく動機もイマイチ不明だったけど
天正6年時点ですでに長治が織田に対して不信感を抱くような状況にいたとすれば
このなぞにも答えが出る
秀吉が南条・宇喜多・草刈・瀬戸内水軍衆らの大援助がありながら、単体で毛利を攻められず
信長の御動座を請いまくったのも、毛利相手に負けまくってたからに他ならないだろう
(実際高松城攻防の前哨戦の鴨城で敗北したり、備中岩屋城、美作寺畑で蹴散らされたり、備前児島でも逃げ回ったり醜態晒しまくってたのがアホ秀吉。
しまいには三万以上もの大軍がありながら6000の吉川勢にビビッてヘタレ逃亡w)

900 :
>>897
うっわ〜ガチンコで負けてるじゃん秀吉w
南条宇喜多草刈らが寝返ってこなかったら確実に死んでたなw
そういえば信忠の大軍やら光秀の援軍にも助けられまくってるんだよなw

901 :
>>900
それ東大史料のデータベース検索で該当年月日を検索すると表示される
綱文ってやつで、まあタイトルだね。
でもそれは軍記でも何でも玉石混交でデータベース化してるやつだから、
綱文は一次史料が根拠ではないよ。
素人を騙す手口だから騙されちゃいかんよ。

902 :
>>897の引用元はほとんど信用できる文書や記録類で軍記のみソースの項目はほとんどないな

903 :
>>902
んなわけねーだろw
明らかに軍記にしか出てこない内容とかあるじゃんwww
はいはいデタラメ乙w

904 :
そんなもんない。

905 :
在日チョンのウソにつぐウソには閉口するわ。
夏目漱石「余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた」
じつに道灌だ。

906 :
アンチ秀吉で突き抜けた基地外だからな…
白も黒だと連呼する物量爆撃コピペ荒らし。

907 :
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老  此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報

908 :
チョンの発狂火病継続中

909 :
天正5年10月23日 秀吉、信長の命令で中国を平定に着手、是日、京都を発す
播磨小寺孝隆の姫路城に入りて、同国諸士の質を徴し、更に但馬に赴きて、岩洲城を攻略する
12月3日秀吉、竹中重治、小寺孝隆をして、備前宇喜多直家の属城播磨福原城を攻略せしめ、自ら同国七條城(上月城)を囲み、之を赴援する直家と戦ひて、之を破り、是日、七條城を陥る、尋で、秀吉、尼子勝久、山中幸盛を播磨三木城より同城に移らしむ
12月5日羽柴秀吉、播磨龍野に入る、尋で、上京す
天正6年2月23日秀吉、再び播磨に入り、書写山に陣す、尋で、同国三木城別所長治、毛利氏等に通じ、兵を挙ぐ、
3月15日秀吉、播磨中島隆重等に基本領を安堵せしむ、
3月29日羽柴秀吉、別所長治を播磨三木城に攻む、
4月3日羽柴秀吉、播磨三木の属城同国野口を攻め、是日、城將長井四郎左衛門を降す、
4月4日織田信忠、摂津石山城を攻む、尋で、軍を班す、
4月18日吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲む、
4月29日信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援させる
5月1日 信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む、
5月4日 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5月6日信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5月16日羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5月21日羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、
是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5月24日羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報じる
6月16日羽柴秀吉、入京して信長に謁す、信長、秀吉をして、播磨高倉山の営を徹し、神吉、志方の両城を攻めしむ、
6月21日毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
6月26日羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す、明日、織田信忠等と共に、別所長治の属城神吉を攻めて克たず
6月29日信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7月5日播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、
尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、
7月7日織田氏の兵、毛利氏の兵を摂津木津の砦に攻む、
7月20日 織田信忠、羽柴秀吉等、播磨神吉城を攻めて、之を陥れ、秀吉、同城を守る
8月10日織田氏の軍、播磨志方城を攻略す、尋で、同国三木城を囲む
8月17日織田信忠、播磨より岐阜に帰る、
10月9日信長、摂津に出陣し、諸將を遣して、荒木村重を打たしむ、尋で、耶蘇会宣教師を遣し、同国高槻城高山友祥を誘降せしむ、
10月17日 荒木村重、新五郎父子、義昭、毛利氏及び本願寺光佐(顕如)と通じて、信長に背く、是日、光佐、村重と盟約す、
10月22日羽柴秀吉の兵、別所長治等と播磨三木城下に戦ひて、其弟治定を斬る、
11月14日織田氏の諸將、荒木村重を摂津在岡城に攻め、之を破る、
11月24日信長、摂津刀根山の塁に陣し、茨木城中川清秀を誘降す、尋で、瀧川一益等を遣し、同国兵庫等に放火せしむ、
12月11日信長、陣を摂津古池田に移し、將士をして、諸塁を守らしめ、羽柴秀吉等を播磨に、惟任光秀を丹波に遣す、尋で、安土に帰城す、
12月23日毛利輝元、荒木村重に援兵を遣す、是日、之を湯浅將宗に報ず、

910 :
Subとだがが争ってんのか
結局信玄が上洛なんか無理ってこった

911 :
sub=だが説が濃厚
つまり自演

912 :
織田厨の自演だろ。下記のレスであからさまにバレたじゃんw

>>(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている
武田厨を装い、キチガイ爆撃コピペをして荒らしまわっていたが、ついに織田厨チョンの顔を現したかwww

913 :
ハイハイ朝鮮川近くのねぐらに帰りなさいな

914 :
アスペルガーだがとは?
だがの信条
 嘘も言い続ければ本当になる
生息地
 HOST:ntaich063200.aich.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp
 愛知県安城市
 これによりSubと同一人物であることが判明
レスの特徴
 @織田信長や織田家を蔑むレス
 A武田信玄や武田家を讃えるレス
 B協調性の無い自己顕示の強いレス
 Cスレを荒らすための煽り挑発が著しいレス
 D「織田厨」という言葉を連呼するレス
 E自作自演一人芝居しているレス
 F嘘と偽りによる妄想レスでソースは一切無し
レスの戦術
 かまってちゃんのため相手をしてくれる人をコピペ爆撃で燻り出し発見次第にスレ荒らしを展開
戦国板三大事件
 上洛スレ64の自演自爆事件
 64検証スレの歴史改変事件
 歴ゲー板の創造・天道の屈辱
信野暮の武将FILEから戦国時代の知識を獲得
だがの主観により事実を捻じ曲げて覚えたため日本の教科書を排撃
平日休日関係なく24時間2chに常駐して見えない敵と永遠に戦い続ける

915 :
山役銭として今川氏は244文、武田氏の時代に移ってからは122文徴収してたみたい。
人数はわからないけど、神社に寄進とか再建の援助とかもしてたみたいだし、
維持管理費の足し程度だったんじゃないのかなー

916 :
上杉の城を落とせねば無理
http://mirai660.net/castle/

917 :
一段が500文というのは荘園の基準貫高であり
北条も今川も一段が500文だったので
遠江〜関東に渡って共通した荘園の統一基準。
武田が最初に始めた「カイゼン」方式
しかし武田が駿河を領有すると荘園システムの再編成を開始。
一段を田畑の内容の吟味を通じて
500文・400文・300文の三等級にすることで
税負担を軽減した。これはその後、徳川に引き継がれていく。
また武田が統治政策として一斉に発給する公文書と言う形式も
七か条の定書などの例を見れば徳川が継承しているのがわかる。
武田の統治ノウハウが徳川の地方支配として継承されている点からも
武田家臣団&給人の優秀性が見て取れる。

918 :
家康をコテンパンにやっつけて殲滅もしくは壊滅状態にしてから美濃方面から攻略すれば安易だったかもね

919 :
9/14に京で富貴な者が賄賂を贈ることで目が悪い者しかなれない
検校(金貸しができる)になってる不正を座頭たちが信長に報告し
「金持ちの賄賂がまかり通るような社会では秩序が乱れるばかりです」と訴えたが
信長が富貴な下手人検校から黄金200枚の賄賂を貰って不正を不問にして許している。
こんな身障者の特権すら賄賂欲しさに剥奪する判決を
信長本人の私欲で是認する秩序崩壊社会は前代未聞の暴虐。
身障者はRと言わんばかりの残虐で狂った私刑社会の織田政権。
大勢の人々を銃で殴り殺して鬱憤晴らしをしていた信長
人間を釜茹でにして大喜びしていた低学歴底辺DQNの前田と信長のホモコンビ
別所氏や波多野氏をむごいやり方で根切り処刑したりと
信長の領国は法律がなく、あくまでも信長の恨み辛みを晴らす目的の報復的私刑が横行してるから
信長がちょっとしたことで激怒→死刑が多すぎ。
スゲー悪政の限りを尽くしてるな…拝金主義が織田政権の実態かよ!
天正元年12/12の安国寺書状には別所と浦上の領地争いを信長が仲裁した話が書かれているが
その内容には浦上宗景が三カ国の朱印えお信長からもらったと書いてある(別所が浦上配下になるということ)
そのお礼として浦上が朱印の礼、夕庵より過分に申し懸け候、おかしく候と書いている。
朱印の礼ってのは朱印銭と言って、要するにワイロでありむちゃくちゃ多く請求されたということで
安国寺はそれに対して財力ある者が領地を金で買い不正が横行する信長のやり方を「おかしいだろワロスw」と嘲笑してる。
それゆえに信長がたかころびに転落するだろうと断言し、しかし秀吉は覇の者だから重視するように報告してる。
当時の人々には信長の悪政をカバーするため奔走する秀吉というのを認識していたのだろうね。
或る人の曰く、秀吉に十徳あり〜将軍家家長(信長)繁栄の基なり、祝々珍重(天正8年正月晦日付け)
信長って体を土に埋めて首を刃の潰れたノコギリで時間かけて
苦しむ姿を観察しながら殺したり
牛車と牛車に手足を結びつけて八つ裂きにしたり
降伏を受け入れたフリをしておいて騙まし討ちしたり
歴史始まって以来の悪魔の所業に驚いてる記述とか多いよね

920 :
信玄が上洛成功した前提のスレなのに何故かいつまでたっても上洛しないで織田と戦うスレ
こりゃ天下なんか無理だな

921 :
>>917
新服属地域は税が軽い、旧領土は重い
駿河は今川の税金を踏襲
お前が願ってるような税制はない

922 :
>>921
はいはい妄想乙

923 :
瀬田に旗を立てたあとどう行動するか

924 :
武田には徳役という税制があった。
これは有徳銭とも呼ばれ、富裕層にだけ税を追加で取るもの。
これを当時は悪政と言っていたが、
これらが河川改修などの災害防止にあてられていた。
逆に北条などは富裕層である高利貸しを優遇して
借金苦で家族を質に入れて流されてるケースが多発してる。

925 :
>>923
史実を踏まえて推察すると甲斐に帰陣して対上杉戦に突入

926 :2013/09/16
ここは信玄上洛スレなので別スレでやれや

早く架空歴史作れ
TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
石川数正は裏切りもののクズ (147)
もしも秀吉が明ではなく蝦夷地以北を攻めていたら (122)
戦国架空戦記物にありがちなこと (393)
忍城おもてなし甲冑隊 (151)
【疑問】スレ立てるまでもない質問12【戦国時代】 (276)
なぜ信長の野望は劣化してしまったのか? (264)
--log9.info------------------
NTTの交換機の歴史を語るスレ (162)
他人のパソコンメールを覗き見できる? (122)
VPNが通るルータないですか (106)
SNMPについて語るスレ (272)
SIPって知ってるかい? [Part 3] (328)
IPセントレックスでPBXはもういらない (622)
鈴鹿高専を語るスレ13 (242)
マルチキャスト (103)
電話が掛かってくるとADSLが切れる (189)
ネットワークエンジニアの定番ノートPCは? (446)
富士ソフト(FSI)ってどうよ? その3 (501)
メールについての質問スレ (415)
都内マル秘ホットスポット情報 (362)
通信工事屋 リバフィー通研について語るスレ (205)
キャプテン(笑) (393)
IBM/SNA?って何 (134)
--log55.com------------------
【日本第8の都市横浜www】神奈川のカッペは甲子園に来るなw
【夏の甲子園は】ラガーが嫌いな奴集まれ33【指定席なのでさらに映らないねw】
【ハゲニート】ラガーが嫌いな奴集まれ34【コピペ荒らし】
【東西総合】東京の高校野球 part8
愛媛の高校野球272
【甲子園に】ラガーが嫌いな奴集まれ35【舞い降りた天使】
【♪チュバチュバ〜♪】千葉県第8地区【チュバチュチュ〜♪】
大阪桐蔭314