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天正10年の武田攻めを語るスレ 4


1 :2012/03/31 〜 最終レス :2013/09/16
2万の軍勢を率いて新府城を出陣した武田勝頼が1ヶ月後には
わずか40人とともに山中を彷徨うことになった、日本史上でも
稀に見る裏切り劇について語ろう。
天正10年の武田攻めを語るスレ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192166319/
http://logsoku.com/thread/toki.2ch.net/sengoku/1192166319/
天正10年の武田攻めを語るスレ 2
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1296903576/
http://logsoku.com/thread/toki.2ch.net/sengoku/1296903576/
天正10年の武田攻めを語るスレ 3
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1301404505/
http://logsoku.com/thread/ikura.2ch.net/sengoku/1301404505/

2 :
新府城の留守を預かる北条夫人が、韮崎の武田八幡に詣で、必死の祈りを込めて、
願文を納めたのは二月十九日のことである。
うやまって申し。
祈願のこと。
南無帰命頂礼八幡大菩薩、
この国の本主として武田の太郎と号せしより此かた、代々護り給ふ、
ここに不慮の逆臣出きたって国家を悩ます。
よって、勝頼運を天道にまかせ、命を軽んして敵陣にむかう。
しかりといへども、士卒利を得ざる間、その心まちまちたり。
なんぞ木曽義昌若干の神慮をむなしくし、
身の父母を捨てて、奇兵を起こす。これ自らの母を害するなり。
なかんずく勝頼累代重恩の輩、逆臣と心を一つにしてまちまちに覆さんとする。
万民の悩乱、仏法の妨げならずや。
そもそも、勝頼いかでか悪心ならんや。
思いの焔天にあがり、瞋恚なお深からん。
われもここにして相共に悲しむ。
涙らんかんたり。
神慮天命まことあらば、五逆十逆たるたぐい、諸天かりそめにも加護あらじ。
この時に至って神心。私なく渇仰胆に銘ず。かなしきかな。
神慮まことあらば、運命この時にいたるとも、
願わくば霊神力をあわせて、
勝つ事を勝頼一しに告げしめたまい、
仇を四方に退けん。
兵乱却って命を開き、寿命重遠子孫繁昌の事。
右の大願成就ならば、勝頼、われと共に社檀みがきたて回廊建立の事。
敬って申し。
天正十年二月十九日
みなもと勝頼うち

3 :
おんな風林火山
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%93%E3%81%AA%E9%A2%A8%E6%9E%97%E7%81%AB%E5%B1%B1
http://www.tbs.co.jp/tbs-ch/lineup/d0323.html
http://www.youtube.com/watch?v=_gr2U6s8Vdo

4 :
天正10年(1582)2月、武田勝頼の従兄である穴山梅雪(信君)が信長に黄金二千枚を贈り、
織田家に通じた。一門筆頭の裏切りにより国人衆が次々に離反。勝頼の弟・仁科盛信らの
奮戦も空しく、同年3月、織田信忠の軍勢の前に甲斐武田宗家は滅んだ。
これに先立ち、盛信は信忠の婚約者でもあった妹・松を、関東に脱出させた。
勝頼の娘・貞、盛信の娘・小督、小山田信茂の娘・香具を連れた松は、八王子に逃れる事に
成功。この地で兄たちの討死の報を聞くこととなる。
その後、松は奇妙な話を聞いた。武田を滅ぼした織田信忠だが、婚約を解消した松を未だ
求め、嫡子・三法師の生まれた今も正室の座を空けていると言うのだ。
「そこまで、この私を愛して下さるのなら・・・」松はわずかな供を連れて尾張まで行ったが、
そこで彼女が聞いたのは、本能寺の変で信忠が二条城に散ったという知らせだった。
八王子に戻った彼女は、出家して寺子屋や機織りで生計を立て、兄たちの遺児三人を
立派に育て、貞は鎌倉公方の子孫・宮原義久へ、香具は磐城平藩主・内藤忠興へ、
自分を慕って出家した小督の他は、しかるべき家に嫁がせている。
尼となった松の法号は『信松院』という。『信』の字は信玄からか、それとも信忠からか。
いっぽう、裏切った穴山家に見返りなどなかった。
一門筆頭でありながら真っ先に裏切り、長篠でもいち早く離脱した梅雪は「卑怯者」と
陰口を叩かれ、あげく本能寺の変後、家康を疑い別行動をとった結果、土民に討たれた。
追い討ちをかけるように嫡男・信治も早世し、穴山家は断絶。梅雪には信玄の次女が
嫁いでいたが、夫と息子に先立たれた彼女もまた出家。『見性院』と名乗り、家康の保護を
受け、のちに江戸城は田安門内・比丘尼屋敷に住まうことになる。
こうして亡国の姫君たちは、世をはばかり、細々と生きて行った。

5 :
小山田信茂と武田氏滅亡天目山の戦い
http://www.rekishi.sagami.in/oyamada1.html

写真
長篠・設楽原の戦い
http://www5f.biglobe.ne.jp/~shingen/yukari/nagasinositara/nagasinosen/nagasinosen.html
勝頼、天目山へ
http://www5f.biglobe.ne.jp/~shingen/yukari/katuyori/katuyori.html

6 :
武田勝頼の土佐の会
http://katsuyoritosa.web.fc2.com/
武田勝頼〜城と古戦場〜
http://utsu02.fc2web.com/shiro194.html
どうしてたら武田勝頼が織田信長、徳川家康に勝てたの?
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51516607.html

7 :
武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part2
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1327681172/

8 :
267 :人間七七四年:2012/04/02(月) 22:18:52.09 ID:DrM5JO3b
だがさんなんで最近ゲームの板なんかで暴れるんですか!!
せめて議論しがいのあるここで自己の主張を闘わせてくださいよぅ…

268 :人間七七四年:2012/04/02(月) 22:23:56.03 ID:2lmlmTbn
のぶやぼ厨涙目w

9 :
【滅亡】勝頼が岩櫃城に行っていたら【再起】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1199968883/
http://unkar.org/r/sengoku/1199968883

10 :
北条夫人だけでも助けてやれなかったものか?

11 :
のぶやぼ厨はゲーム板に帰ろう!

12 :
勝頼に殉じた人数は、どれのが史実に近いんだろう

13 :
滝川一益:上野一国、小県郡・佐久郡
河尻秀隆:穴山梅雪本貫地を除く甲斐一国、諏訪郡(穴山替地)
徳川家康:駿河一国
木曾義昌:本領(木曾谷)安堵、筑摩郡・安曇郡
森長可:高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡
毛利長秀:伊那郡
穴山梅雪:本領(甲斐河内)安堵、嫡子・勝千代に武田氏の名跡を継がせ、武田氏当主とすることが認められた
森成利:美濃兼山城(長可の旧居城)
団忠正:美濃岩村城(秀隆の旧居城)

14 :
高遠城で織田の大軍を阻止するのはムリすぎる

15 :
「真田家伝記」には、真田昌幸は上州吾妻城に勝頼を迎えようとしたという。
この吾妻城は別名 岩櫃城ともいい、名前の示すとおり、
峻険な山々と平沢川の急流に守られた天然の要害であった。
上州は真田昌幸が制圧しており織田・徳川軍にもここで対抗できるし、時をみて上杉景勝の後援を頼むこともできた。
また近燐には内藤昌月(箕輪城)、武田信豊(小諸城)が守りを固めていたため、再起をかけるのであれば、真田昌幸を選ぶべきであったろう。

16 :
3月11日 天目山から秩父へ抜けようと試みたが、手前の田野で追っ手の地下人達に見つかってしまった。
勝頼はもう逃れられぬと覚悟を決め、北の方(北条夫人)に小田原へ落ち延びるよう伝えた。
しかし北条夫人は愛する夫と共に三途の川を渡ると決めていた。
彼女は小田原の兄、北条氏政に手紙を書き髪を少し切って添えて、小田原からの4人の家来達を呼び寄せこの手紙を届けるよう申し付けた。
「早雲以来の北条の娘ゆえ見苦しき自害はしなかったと伝えよ」と。
辞世の句は『黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき思いに消ゆる露の玉の緒』

見事な最後(自害)であったと想像できる。享年わずか19歳であった。

17 :
天目山で勝頼に殉じた土屋昌恒の息子・土屋利直は家康によって
取り立てられ2万石の大名にまで出世した

18 :
生き残った主な武将
真田昌幸
曽根昌世
依田信蕃

19 :
第47回甲州市ふるさと武田勝頼公まつり
http://www.rurubu.com/event/detail.aspx?ID=12031

20 :
【日本の名城】“最強の武将”武田信玄が生涯の居城に★躑躅ケ崎館(つつじがさきやかた)
2012.04.13
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20120413/dms1204130727003-n1.htm

21 :
織田側の編成
天正元年(1573年)以降、織田信忠を筆頭に池田恒興、森長可、河尻秀隆らを主力とするいわゆる「信忠軍団」が編成されており(池田は後に軍団を離脱、摂津へ)、主に東美濃に勢力を張っていた武田の影響を排除する戦いをしていた。武田征伐時には以下のような陣容であった。
大将:織田信忠
先鋒:森長可、団忠正、木曾義昌、遠山友忠
本隊:河尻秀隆、毛利長秀、水野守隆、水野忠重
付属:織田長益他織田一門衆、丹羽氏次他
軍監:滝川一益
この出陣に当たり、信長は「今回は遠征なので連れていく兵数を少なくし、出陣中に兵糧が尽きないようにしなければならない。ただし人数が多く見えるように奮闘せよ」と書状を出している。
また、後から続く信長直率の軍団は以下のような陣容であった。ルイス・フロイスの「日本史」には、この信長本隊は兵6万を率いる予定だったと書かれている。
信長
明智光秀、細川忠興、筒井順慶、丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一、蒲生賦秀、高山右近、中川清秀他

22 :
>>10
そもそも対北条和睦の人質のつもりで連れまわしたんだろう
笹子峠閉鎖されたためにあえなく頓挫したけど

23 :
武田家滅亡を最後まで描いた貴重なドラマ「おんな風林火山」は
視聴率が低かった
DVD化も多分されていないはず

24 :
勝頼に最後までついて来た武士は数十人と言われ、一人一人の名前まで記録されていたそうです。
旧武田軍団は(大物一族と上級家臣を除き)徳川家臣団に組み入れられます。
その時天目山グループ(戦死のものはその子孫)は重く用いられたそうです。

25 :
天目山グループよりも信濃諸侯のほうが出世してるよーな

26 :
天目山グループは当時幼少だった土屋昌恒の息子くらいだな。
こいつも実質秀忠側近というところから出世してるから旧武田家臣とは思われてないんだろう

27 :
武田家滅亡後、徳川に仕えた曽根昌世
徳川家から謎の出奔

28 :
新田次郎さんの小説みたいになってしまうが
武田軍の崩壊・裏切り・傍観には穴山信君の書状が廻っていたに違いない。

29 :
山県昌景が武田家滅亡を生き延びて徳川家に仕えていたら江戸時代は大名になったかな?
あと赤備えはどうなっただろうか?
>>24
家老クラスでも駒井なんかは家康に仕えている。

30 :
  駒井政直 (1542〜1595年 54歳没)
 駒井政武の子。深澤城主城代。武田滅亡後、家康に仕える。天正十一年閏正月十四日、甲斐中島報恩寺、正法寺、積翠寺、指切郷西保に三百六十二貫九百文余。十九年七月、上野那波郡千五百石。榊原康政に属す。文禄四年六月八日、五十四歳没。法名「全可」。子は親直。

31 :
>>24
でも初鹿野とかってそこまで重用されていたっけ?
天目山グループではないけど結構それに近い存在。
長篠の戦いの敗走の時も土屋昌恒とともに勝頼に従っている。
この時勝頼のそばにいたのは土屋と初鹿野だけだったとか・・・
武田滅亡の時は一揆に巻き込まれて勝頼に合流できなかったと言われている。

32 :
飛騨、岐阜、駿河、武蔵、信濃から敵が侵入してきて親類筆頭の穴山や木曾が裏切って道案内してるし織田軍は超大軍(?)らしい!
こっち(武田)は前日に木曾に大敗したばかりだし新府城は出来てないし、
例え織田と戦っても勝頼は援軍だしてくれない…かも…
駿河から抵抗無く徳川軍が甲斐に入ってくるから信濃は無視されると考えて間違いじゃない…

あなたは信濃の国人です。とるべき行動は?
1、それでも居城で織田軍に抵抗する。
2、武田の代官を血祭りにあげる、又は追放する。後に織田軍に降る。
3、とりあえず新府城に向かい勝頼と行動する。
4、勝頼を居城に迎える準備をする。

33 :
>>32
浅間山大噴火の影響で勝頼が出張ってきた諏訪から甲斐へ撤退したので
後詰めがまったく期待できないので織田に降伏するのが賢明です。

34 :
織田に降伏して認められる保証が無いので
一族兆散して他国の分家を頼る

35 :
一豪族程度なら交戦前に降伏
武田家に近しいなら勝頼公と共に行動する

36 :
関連過去スレ@日本史板
武田家滅亡後、徳川家に仕えた武田家家臣について
http://unkar.org/r/history/1208328645

37 :
>>32
結論は、同じ信濃の木曽家に使いを送り織田家に寝返る。
そして織田家の援軍が来るまで自分の城に籠城。
甲斐の武田家に信濃の国人が味方する筋合いは、ないからね。


38 :
>>32
信濃国人でなく個人的考えなら武田すきなので一族郎党集めて近隣の武田派国人もつれて山城に籠城する。
そうして織田の甲斐進行を送らせる。
信濃なのでそれなりの山城は、あるから1〜2ヶ月なら時間を稼げる。最後は、森さんにヒャッハーされて全滅するが
織田家に勝つ方法は、持久戦にして甲斐本国の防衛と信濃は、一部取られてもいいが時間を稼ぎ。
本願寺や浅井家のように防衛戦で戦う。
すきをみて信濃と駿河の奪還。
これしかない。

39 :
武田は攻められると脆い
結局、国人豪族の利害の一致で繋がっている組織でしかないからね
弱い武田じゃ従わない
こんな甲斐信濃で織田相手にゲリラ戦を繰り広げるのは無理

40 :
織田は攻められると脆い
明智は攻められると脆い
柴田は攻められると脆い
豊臣は攻められると脆い
上杉は攻められると脆い
つまり毛利、島津、徳川あたりが最強w

41 :
著名な武田系旗本
武田、土屋、柳沢、栗原、跡部
窪田、初鹿野、志村、小幡
内藤、曲渕、馬場、新見、加藤
長坂、松本、横田、大久保、日向

42 :
大名
小笠原大膳大夫…豊前小倉15万石、溜間格
小笠原佐渡守…肥前唐津6万石…帝鑑間席
小笠原遠江守…播磨安志1万石…帝鑑間席
大名
諏訪因幡守…信濃高島3万石…柳間席
大名
土屋相模守…常陸土浦10万石…雁間席
旗本
三枝能登守(旗本寄合席)
横田備中守(側衆上席)
初鹿野河内守(北町奉行、大目付)
跡部甲斐守(駿府町奉行、堺奉行、大坂東町奉行、大目付、勘定奉行、南町奉行、留守居格清水卿支配、若年寄格、菊間縁席)
伊沢美作守(長崎奉行)
荻原近江守(勘定奉行)

43 :
小宮山友晴
「譜代の臣でありながら、武田家最後の戦いに臨めぬのは末代までの恥辱」であり、
御盾となり高思の万分の一にも報いたい」と自身の忠節を貫く為に勝頼最後の地・
天目山に駆け付けた。友晴は奮戦するも衆寡敵せず鳥居畑で討死を遂げた。
この時、弟・又七も勝頼のもとに駆け付けたが又七は勝頼の命令により家族を護って落ちのびている。又七はその後は徳川家に仕えたという。

44 :
http://hissi.org/read.php/sengoku/20120422/M1VQVGcxM3U.html

45 :
日本人は滅びにも美学を求めるよね。
これはもう様式美だね。

46 :
武田→高家
土屋→土浦9万9千石の土屋相模守
柳沢→甲斐國主柳沢美濃守
栗原→不明
跡部→大阪町奉行跡部山城守
窪田→不明
初鹿野→大目付初鹿野河内守
志村→不明
小幡→大目付庄田下総守

内藤→奥祐筆内藤左門
曲渕→南町奉行曲渕甲斐守
馬場→不明
新見→外国奉行新見伊賀守
加藤→不明
長坂→不明
松本→勘定奉行松本伊豆守
横田→留守居役横田備中守
大久保→長安。断絶
日向→日向明子

47 :
>>38
本願寺には毛利
浅井には朝倉・本願寺
とそれなりの共闘相手がいたが武田には貧弱な上杉しか味方が居ない。
北条と組んでるなら全然違うがその北条まで敵のハッピーセット。
おまけに一族筆頭の穴山が甲斐を道案内。
例え籠城しても後方を攪乱出来る勢力も助けにくる勢力も当然無い。
北条が織田を裏切る・毛利、長宗我部が畿内に入る・上杉が織田軍に大勝する。
こんな現実みの無い事がない限りどんな手をうっても焼け石に水。
死に方が変わるくらい。
本願寺が降伏した瞬間武田の命運も尽きた。
織田の後方を掻き回す勢力が居なくなり畿内に備えていた軍が丸々武田にあたる訳だしこれはもう無理すぎる。

48 :
>持久戦にして甲斐本国の防衛と信濃は、一部取られてもいいが時間を稼ぎ。
>すきをみて信濃と駿河の奪還。
実際未完成の絶対防衛線新府を捨てて岩殿に退避したのはそのつもりだったんだろう
都留郡を確保できれば折を見て篭坂から反攻できるかもしれない

49 :
昌幸が勝頼を自城に呼んだって話は軍記や創作にしか無いが
北條との取引は書状が残っちまってるからな。
その取引の真意をどう見るかはわからんが・・・

50 :
織田家臣の滝川に従属している時点で真田も武田を見限っていたと考えていいだろ

51 :
>>50
それは武田滅亡後だろ

52 :
後典厩の首を東信国人衆の総意で滝川への手土産にしちゃった
信茂は運が悪かった
相手が信忠だったばっかりに

53 :
>>49
昌幸の意図はしらんが実際オンナコドモ連れて
野辺山越えて千曲川下ってやっと上田
そこから浅間山の脇の上州街道越えるわけだ
まあ普通に清里あたりで追い付かれるかな

つーかぶっちゃけ新府の評定自体がまるっと作り話だったりして
木曾谷征伐の敗走そのままだから北条牽制でそれぞれ所領地留守居のほうが自然

54 :
信玄の弟・一条信龍
wiki
天正10年(1582年)の甲州崩れでは、3月2日に駿河を撤退して上野城に戻るが、
同方面より侵攻した徳川家康の三河勢に上野城を包囲され、3月10日、三河勢1万に対し手勢僅か3百で突撃して息子・信就と共に討死にした。(異説もあり)
http://4619.web.fc2.com/hero6.htm
武田勝頼の逃避行・滅亡時に、一条信竜が存命だったのか、信就が跡を継いでいたのかは、以上のとおりはっきりしない。
しかし、最後まで武田氏に従い、ともに散っていった事は間違いない。
自落して逃げ惑うのではなく、城に籠もって立派に甲斐武士の意地を見せ付けている。
これは仁科五郎とともに、賞賛に値するものであろう。

55 :
逃げ惑うっつっても大菩薩峠さえ越えられてたら
奥多摩に潜伏するなり秩父から西上野を目指すなり考えられたろう
信豊にしたところで本来は東信から援兵送るのが目的だから
伊那郡でせめて半月持ちこたえられたら諏訪で最後の決戦ができた
結局人石垣が崩れるのがあまりに早過ぎた

56 :
諏訪で決戦と言われても甲斐を徳川北条に落とされたら元も子もないのでは?
駿河で穴山が徹底抗戦すればそれも可能だが。
っか穴山みたいな筆頭の重臣が裏切ったら決戦できない。
誰が裏切るかわからないし疑心暗鬼が爆発的に広がってそれどころではない。

57 :
小山田ですら寝返ったんだからどこに逃げても勝頼は首とられて終了だよ

58 :
木曽攻めの時は誰も翌月に武田が滅亡するとは思ってなかったろうな

59 :
信濃の崩れっぷりはやはり過重な動員と賦役で人心を失っていたことに尽きる訳で
それというのも甲斐国人をまとめあげるための成果必要としたため無茶をしたと
一つ一つの判断はそれなりに合理的な判断に基づくものの総じて覧ると
やはりトチ狂ってると言われても仕方が無い
これはもう能力どうのこうの言うよりも生まれつき一国を率いる器じゃなかったと言うか
今で言うところの『ダメな奴は何をやってもダメ』というやつ

60 :
みんな貧乏が悪い

61 :
>>59
織田の経済・軍事に張り合うと自ずとそうなる。
無理な動員・徴発を繰り返し国内・国人は疲弊。最後は裏切り。
朝倉も武田も滅亡パターンに大差無い。
武田が長篠以降も家を保てたのは織田家に相手にされなかっただけ。
徳川相手に守勢に転じてまったく打開出来ない時点で完全に終了。

62 :
北条から嫁入り持参金せしめても足りず
上杉から同盟の対価一万両せしめても足りず
そりゃ誰かが着服してると疑心暗鬼に陥っても仕方が無いな

63 :
信玄がそのまま家康ぬっ頃して織田と休戦してからしねばよかったんだよ

64 :
もと江尻城主穴山陸奥入道、ならびに岩殿城主小山田出羽が○○したのが原因

65 :
織田の強力な後援があるとはいえ、徳川を屈服させる事が出来ない時点でどうしようもない。
徳川屈服どころか長篠以降は全く良いところがない。

66 :
長篠前に濃越義絶前の織田に恭順して上杉と一緒に北条領食い潰すか
逆に御館で景虎援護と引き換えに氏政子息の人質と持参金をせしめるかの2択だった
前者は本願寺を敵に廻した上に三条婿の穴山や北条に近い郡内小山田の離反が早まる可能性あり
後者は織田の猛攻を防ぎきる保証がない
どちらにせよ時間を稼げれば史実よりはマシな展開になるだろう

67 :
>>66
後者のパターンも武田に北条が付くかって言われると厳しい。
織田から朝敵にされたら北条は関東で総反攻喰らうのは目に見えてる。
結局前者を選んで卑屈に生きるか後者を選んで死に場所を選ぶかしかない

68 :
さも長篠の戦い以降の武田はダメだと言わんばかりの捏造でワロタw
家康は長きに渡って高天神城を必死に落そうとするも
そのつど武田本隊が後詰めにくるとすぐ逃亡しまくり
兵糧を高天神城に入れて武田軍は悠々帰国なのにw
高天神城は天正9年になってやっと落せたほどの苦戦ぶりだったのにw
しかし高天神城と連携する城や砦は落せずw
所詮、徳川は最も武田策源地から離れていたと言われる高天神を落すのがやっとの小者。
氏政もこのままでは上野国は武田のものになるとビビってたのが現実なのにw
其の上、佐竹や里見まで武田とつるんでるしw
木曽氏の内通が始まる天正10年まで武田に亡国の危機など一度も起きてないのに
織田厨の印象操作気持ち悪いわ。
むしろ公儀(義昭)を支援して毛利と協調していて
織田も信濃への攻勢など木曽氏の内通まで一切できないのが現実。

69 :
どう言い繕っても、武田は織田に滅ぼされたんだよ。

70 :
×織田に滅ぼされた
○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊と浅間山噴火による自落
あんなもん織田じゃなくても滅ぼせるだろ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな

71 :
最近のだがのレスはおいしそうじゃない

72 :
持ち上げているのが最終的に滅んだ武田というのが一番のダメ要素だからな。
ある意味だがは「滅んだ大名家はどう言い繕っても見下される」というのを体現しているともいえる。
島津にしろ伊達にしろ徳川にしろ織田にしろ毛利にしろ、最終的に存続しているというのが何より大きい。
没落では豊臣も大きいが、ここはなんだかんだで従事していた人間が多いから史料もたくさん残っている。
武田は朝倉今川あたりと同じ「最終的に滅んで復活もしなかった」というのが輪をかけて辛い

73 :
×資本主義に負けた
○ゴルバチョフの自爆と通貨破綻とアフガニスタン侵攻の領国疲弊とチェルノブイリによる自落
社会主義は負けてない
みたいな話か

74 :
織田や豊臣は滅びましたが???
織田のあれが滅んでないというなら武田も滅んでない

75 :
武田は江戸時代大名になったの?
なったのなら武田は滅亡していないといえるね。
武田のどの系統が大名家になったの?
ちなみに織田家は信雄系、信包系、有楽系と3つもあるよw

76 :
あ、まさかとは思うけど武田信吉、なんて言わないでねw
あれは徳川家康の息子だから甲斐源氏武田とは何の関係もないよw

77 :
一門の諏訪頼忠・木曽義昌・穴山衆。皆大名として存続

78 :
唯一戦国時代の所領に復活を果たした諏訪因幡守頼水

79 :
それは諏訪氏と木曽氏じゃん。穴山に至っては勝千代の代できっちり滅亡してる
当たり前だけどちゃんと「本姓武田」じゃないとダメだからなw
当然だろ、おまえの理屈で言えば丹羽氏も前田氏も織田一門だから「織田家」っていえるんだからw
別にそれでもいいけどなw

80 :
ちなみに、木曽義昌率いる木曽氏は2代目義利の代に改易。
諏訪氏は頼忠系には武田の血が流れていないので一門と言えるかどうかは難しい。
少なくとも諏訪頼忠に武田の血は流れていない。(諏訪頼忠は諏訪満隣(叔父)の家系、武田と血縁結んだのは頼重(甥)の家系)

81 :
その理屈なら市→江→家光って理屈で織田の血の天下や!(キリッ

82 :
つかなんで勝頼は山県の後任に穴山を江尻城代にしたんだ?
長篠で逃亡した奴を城代にするって・・・・
高坂を江尻城代にした方が良かったと思う。
高坂が謀反ってことはないだろ。

83 :
穴山や信廉は勝頼をどう呼んでいたのか?という素朴な疑問
御当代様、四郎殿、お屋形さまetc.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%8B%E5%BD%A2%E5%8F%B7
お屋形さまはあり得ないか

84 :
>>82
じゃあ誰が高坂の代わりに北の守りの海津城代に着くんだという話にもなる

85 :
>84
つ穴山
背後で裏切られるわけじゃなくなるから新府城での防衛が可能になるかもw

86 :
武田氏の滅亡後、重臣である馬場信春の娘の情報が家康に届き、鳥居元忠に捜索を命じる。
しかし鳥居元忠は娘は見つからないと報告し、捜索は打ち切られる。
しばらくして、その娘が鳥居元忠の側室になったという話を聞き、家康は高笑いで許した。

87 :
>>6
信長にとって勝頼の首が目的だったから生存説はあり得ないけど伝説、伝承として
武田勝頼、土佐に来ていた?
2009年05月04日11時00分 高知新聞web
戦国武将、武田信玄の四男、勝頼の落人伝説が残る吾川郡仁淀川町大崎でこのほど、講演会「武田勝頼は土佐に来た」が開かれた。
「武田勝頼土佐の会」(岡林照寿会長)の主催。
岡林会長が集めた家系図や勝頼の墓とされる史跡の写真などを示しながら約四十人の歴史愛好家に講演。
勝頼の子孫に当たるという武田清美さん(69)=静岡市=も来場し、耳を傾けた。
勝頼は天正十(一五八二)年、織田信長との戦いに敗れ三十七歳で自害したとされ、山梨県甲府市の法泉寺に祭られている。
一方、同町には勝頼につながる史跡が数多く残っており、落ち延びて現在の同町大崎に居住し、
慶長十四(一六〇九)年に六十四歳で没したとも伝えられている。
講演を聴いた武田さんは「勝頼公が高知に来ていたとは夢にも思わなかった」。ただ、武田さんが家系図を調べたところ一、二代、名前が抜けているところが
あるといい「講演を聴いて土佐の地に来ていた可能性もあるのではないかと思えてきた」と話していた。


88 :
長野日報 2010年?
http://www.nagano-np.co.jp/modules/news/article.php?storyid=19148
「武田勝頼」通し地域交流 「由布姫・勝頼諏訪の会」
勝頼は諏訪氏を継いだことから「諏訪四郎勝頼」とも呼ばれた。信玄の死後に武田家を
継いだが、天正3(1575)年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れ、天正10
(1582)年に天目山(山梨県)で自害した−というのが定説。
しかし高知県仁淀川町では、勝頼が武田家の家系であった香宗我部家を頼って土佐に落ち延び、
名を「大崎玄蕃」と変えてこの地で25年ほど活躍し、64歳で亡くなった−と伝えられている。
同町の大崎八幡宮の神主を代々務める岡林家に伝わる武田家の家系図に記述があり、同
神社には武田の家紋が裏面に入った手鏡が残されていることが、この説の根拠とされる。
2008年には同町住民有志らが「武田勝頼土佐の会」(岡林照寿会長)を発足させている。

89 :
由布姫の供養塔があることで知られる小坂観音院は、毎年行う由布姫の供養祭に訪れる
武田家子孫を通じてこの伝説を知り、中島住職が仁淀川町を訪問。昨年8月に土佐の会
が開いた勝頼没後400年祭にも出席した。岡林会長も小坂観音院を訪れるなど交流が
生まれたことから、勝頼を通じた地域間交流を深めよう−と諏訪の会の結成を計画した。

90 :
仁科盛信の息子(信基)→徳川旗本
河窪信実の息子(信俊)→徳川旗本
武田信清→上杉家臣(米沢武田家)

91 :
オンナコドモは通りぬけたとこを見るにやはり笹子峠を塞いだのは小山田なんだろうな
背後から斬り付けたり城に引き入れてから敵方に引き渡すよりはいいとは思うんだけど
身の処し方としては中途半端で却ってダメなんだろうな

92 :
諏訪頼豊
天正10年(1582年)、織田信長が武田領に攻め込む(武田征伐)と、諏訪氏家臣団は頼
豊に対して武田氏を離反して諏訪氏再興を図るべきと進言するが、それを拒んで出陣する。
鳥居峠の戦いで敗れた後、織田軍に捕らえられて処刑されたという。これにより、家臣達は弟の頼忠を擁して諏訪氏再興を図る。

93 :
人質の御坊丸(織田勝長)を信長に返した件については
勝頼の弱腰の側近達の保身策というか、当時天下布武を
成し遂げつつあった信長の心証を少しでも良くしようと
の配慮だったのかもしれない。そしてそれが逆に信長から
して見れば、あの猪武者の武田四郎が、焼くなり煮るなり
好きにしてよいはずの人質を帰してくるとは、まさに
「コレガ塩カ」と武田攻めを決断させたと司馬爺か新田次郎か誰かの本に
描かれていたような。

94 :
高坂の進言受けて、穴山に腹切らせていればなぁ…

95 :
穴山謀反が7年早まったろうな

96 :
汚い穴だなぁ…

97 :
元法政大教授・犬飼和雄さん
2012年05月01日
 ■武田家の思い、音楽で
http://mytown.asahi.com/yamanashi/news.php?k_id=20000511205010001

98 :
抜粋
 四川大学の研究室に日本語の勉強に来た男性がある夜、白楽天(白居易)が
作った楊貴妃の死を悼む「長恨歌(ちょう・ごん・か)」を語り、弓奏弦楽器の
二胡(に・こ)を演奏した。犬飼さんは、韮崎市の武田八幡宮に残る戦国武将・
武田勝頼の妻、北条夫人の願文の石碑をふいに思い出した。
 「うやまって申す 祈願の事 南無帰命頂礼 八幡大菩薩、で始まる願文に、
長恨歌の一節が重なった」
 犬飼さんは帰国後、武田八幡宮の木々に囲まれた境内に立った。武田家で家臣の離反が相次ぎ、窮地に陥るなか、十代後半の夫人が願文に込めた、夫勝頼の助命を乞う思いや、裏切った家来への怒り、悲しみを、ひしひしと感じたという。
 音楽づくりは約20年前、この願文の思いをメロディーとともに、歴史資料と
して残すために始めたという。
 犬飼さんが「こんなイメージ」と語り、演奏者らがメロディーを奏でながら、
試行錯誤で組み立てていく。レパートリーは、武田家の滅亡に関するほかの文書
や、万葉集の和歌を含め、20曲近くある。1曲をつくるのに1年近くかかる。
 演奏回数は1年間で10回弱。ただし、勝頼夫人が天正10(1582)年に
願文を奉納したと書かれている2月19日は、武田八幡宮で毎年欠かさず演奏する。
「あなたの思いはわかったよ。そう伝える気持ちで演奏するんです」

99 :
穴山梅雪自身、「義信事件(一)」「義信事件(二)」では弟の穴山信邦を犠牲にしている。
その政治情勢との違いを踏まえ、梅雪はたとえ長篠からの単身撤兵という軍令違反を起こしても、腹を切らされることはないと踏んでいたのだ

100 :
馬場信春の嫡男・馬場昌房
天正10年(1582年)の武田征伐では戦わずして降伏、また、転戦して信濃牧之島城で討死した等と伝えられているが、その後の消息は不明。

101 :
戦わずして降伏というよりは甲斐中パニックで軍団編成すらできなかったんじゃないかね
織田のあの進軍ペースでは

102 :
寝返りの連鎖になったのとちょうどタイミングよく浅間山噴火が起こって抗戦できなくなっただけ
完全に運で勝てたようなもん

103 :
今センゴクで武田征伐やってるな
信長が勝頼を恐れてたとか
木曽の人質処刑を部下が勝手にやったような描き方は無理ありすぎ。
それに、勝頼「10日で徳川穴山を粉砕し、高遠を救いに行く」とか
高天神で何も出来なかった奴が、んな事言ったら周りは
はぁ?何言ってんだコイツ のAA状態になるだろう。
都合良すぎ。

104 :
高天神城は援軍送らなくていいと相木や岡部らが言ってたから送らなかっただけだし
武田攻めのときでも信長は信忠の突出を恐れているのか
慎重に事を進めるように書いてる
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の 天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに信長を警戒させている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。
長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。
また三河物語でも勝頼は武勇に優れた名大将なれど運が悪くてこうなってしまったと書いてるから
信長からみれば勝頼でも十分名将だったんだろう

105 :
征伐開始前ならそれも分からなくもないが。
木曽相手にフルボッコされて諏訪へ逃げ帰った勝頼が評定で何を言っても
部下達の心境はもう無駄無駄無駄無駄!!だったんだろ

106 :
信長さえ予想外の、息子とその愉快な仲間達の電撃戦だからねえ。
まあ本気になった織田と武田の地力の差がもろ出たんだな。
それまでは織田が主力をほとんど集中できない状況の連続で、お陰で後世の信玄の虚名が出来たりしたんだけど。

107 :
×織田に滅ぼされた
○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊と浅間山噴火による自落
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな

108 :
武田対織田の結果
上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり

武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

109 :
残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは
武田優位は揺るいでないから
信長は結局、
信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより
長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている)
本願寺への義理も充分に果たしたし
ここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。
そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が
勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。
しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。
武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。
長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。
勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに
撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった

110 :
>>106
勝頼は時代で考えれば完全な被害者だからな。もちろんそれを判断できなかった勝頼にも非はあるけど。
織田信長の勢力拡大を武田信玄が止められずに死んでしまった時点で織田武田の勢力抗争の勝負はついていて、
結局武田は徳川家康とか飯羽間遠山氏のような「信長に味方する第三勢力」を攻撃する止まりで終わっている。
長篠合戦の時点では浅井朝倉足利三好伊勢長島が消えていて、勝頼からすれば博打同前の戦いだったけどまあ負けたと。

111 :
岩村城の攻防は激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。これにより岩村城の武田所属が確定し、信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。その報告を信長が得て11/12に赤沢、
11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と
永禄9年に12歳前後で婚姻していて、勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して
秋山を討つまでは苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。
信勝に弓を引くとか考え難い。
信玄は元亀元年7/19に天台座主のトップの交代で新座主に猿の絵を送って祝福してる。
天台宗といえば比叡山であり、その比叡山には日吉神社があり延暦寺の守り神とされ、猿は日吉神社を象徴していた。
つまり信長が比叡山を焼き討ちした元亀2年9月に信長は信玄へ挑発したも同然の悪行をしている。
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が情勢報告してるから、信コが今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状による反論でありその文中には「遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候」
と抜き出して柴辻が論を展開してるだけなので忠実に一字一句の抜き出しも付け足しもしてないので
別に歪曲したり捏造などしてない。そしてこの柴辻への反論はまったくなされてなく
無血開城論などすでに廃れた話で現在は誰も無血で譲渡されたなど書いてない。
さらに武田方の遠山氏が勝ったなどとこちらは一度も書いてないのに
「織田にボッコボッコにされ」などと得意がっててバカ丸出しの織田厨だが
結局、この信玄死去に至る経過において岩村城周辺でボッコボッコにされまくったのは織田方な事実はスルーw
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。

112 :
ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と永禄9年に12歳前後で婚姻していて、
勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して秋山を討つまでは
苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。信勝に弓を引くとか考え難い。
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。完全に信玄が情勢を操ってる。
義昭が村井屋敷を包囲して先制攻撃したのは御湯殿上日記にあるし、
信長親子が頭を剃り、武器も持たずに謁見して和睦したいとするのはフロイス書簡にある。
細川に信長はお前も人質に出せって義昭が言ってるんだぜ!とか喚いたり愚痴りまくってるだけじゃんw
上洛した時は荒木と細川しか味方に参加するやつがいなくて、信長は細川に贈り物まで贈って大喜びして関心を買う
普段は横柄なのに困った時だけ媚びる卑しさを露呈。
美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を岩村城攻め感状だと横山住雄氏が指摘してるわけだがw
木曽考にでてる美濃の一郡なんてバカでかい話を信じないよな?
8/7山村三郎九郎宛て三木攻め感状における内容を見ても加増なんて話は出てこない。
岩村城の攻防は激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。これにより岩村城の武田所属が確定し、信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。その報告を信長が得て11/12に赤沢、
11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。
遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し
当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。そしてこの時期において松原信之氏が著書で義景本人の元亀4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状 遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候
などと書いてあって織田と武田の間で数多討ち取るような戦火が東美濃であったのは間違いないと柴辻氏が指摘してる。
また信玄三河から信濃へ撤退する6日前の元亀4年3/6に秋山虎繁に東美濃出陣を命じていて本願寺から朝倉出陣予定を聞いた信玄による
実質上の美濃侵攻の先鋒を兼ねていた。同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
鴨川→14日岩村城の武田方への自発的な降伏開城説
芝辻の反論→18日付け謙信宛河田書状に書いてある通り岩村城を巡り攻防戦があったのは間違いない。
同城が織田方重要拠点なのに城将達が自発的に投降なんて説は奇異だ。

113 :
          __ノ)-'´ ̄ ̄`ー- 、_
        , '´  _. -‐'''"二ニニ=-`ヽ、
      /   /:::::; -‐''"        `ーノ
     /   /:::::/           \
     /    /::::::/          | | |  |
     |   |:::::/ /     |  | | | |  |
      |   |::/ / / |  | ||  | | ,ハ .| ,ハ|
      |   |/ / / /| ,ハノ| /|ノレ,ニ|ル' 
     |   |  | / / レ',二、レ′ ,ィイ|゙/   私は只の数ヲタなんかとは付き合わないわ。
.     |   \ ∠イ  ,イイ|    ,`-' |      頭が良くて数学が出来てかっこいい人。それが必要条件よ。
     |     l^,人|  ` `-'     ゝ  |        さらに Ann.of Math に論文書けば十分条件にもなるわよ。
      |      ` -'\       ー'  人          一番嫌いなのは論文数を増やすためにくだらない論文を書いて
    |        /(l     __/  ヽ、           良い論文の出版を遅らせるお馬鹿な人。
     |       (:::::`‐-、__  |::::`、     ヒニニヽ、         あなたの論文が Ann of Math に accept される確率は?
    |      / `‐-、::::::::::`‐-、::::\   /,ニニ、\            それとも最近は Inv. Math. の方が上かしら?
   |      |::::::::::::::::::|` -、:::::::,ヘ ̄|'、  ヒニ二、 \
.   |      /::::::::::::::::::|::::::::\/:::O`、::\   | '、   \
   |      /:::::::::::::::::::/:::::::::::::::::::::::::::::'、::::\ノ  ヽ、  |
  |      |:::::/:::::::::/:::::::::::::::::::::::::::::::::::'、',::::'、  /:\__/‐、
  |      |/:::::::::::/::::::::::::::::::::::::::::::::::O::| '、::| く::::::::::::: ̄|
   |     /_..-'´ ̄`ー-、:::::::::::::::::::::::::::::::::::|/:/`‐'::\;;;;;;;_|
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114 :
圧倒的不利で一ヶ月持った野田城・数日で落ちた高遠城。
徳川と武田、どこで差がついたのか。

115 :
武田対織田の結果
上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり

武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
(信濃攻略は自国の2倍の国力。山之内上杉や長尾も介入)
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 

116 :
マサユキ カアイソウ カアイソウ
おっカアモカアイソウ お父もカアイソウ
コンナコとヲシタノハ ヨコダノ尹松 トオモイマス
尹松ハ 甲斐デ生レテ 勝よりニツカエテ
カケガワノオモテノハンタイノ、タカテンジン城デ
軍監ヲツトめた

117 :
懐かしいなその文章
三重の奴だっけ

118 :
>>53
雁坂峠から秩父入って、群馬へ抜けるのは?
真田昌幸自身は、ちゃんと逃げおおせたみたいだけど、どういう風に逃げたんだろう?
岩櫃城か岩殿城かの選択の時に、信茂は理由の一つとして「遠路」って言ってたけど、
逆に遠くまで下がる方が、まだ戦えそうで悪いことばっかりじゃないんじゃないかと思ったり。
岩殿城だと、仮に入れたとしても、位置的に詰みになるのも近そうな感じが・・・

119 :
帰ってきてスレ見たら、やたらスレ伸びてるなと思ったら
だがか
9時から23時まで万遍なくレスして堂々の本日1位www
http://hissi.org/read.php/sengoku/20120504/QVl6L3RNaFA.html

120 :
>>119
完全に1日中いるなw

121 :
時間的に8時台起床、朝食、洗顔
14時に昼食、18時に風呂、21時に晩飯って所か
引きこもり丸出しだなwww

122 :
>>5
>小山田信茂と武田氏滅亡天目山の戦い
>http://www.rekishi.sagami.in/oyamada1.html
そこのページいろいろ読んでて、こんな部分を発見。

『西から攻めてきた織田勢に対して、武田を見限った武田家臣の多くも東の八王子方面を目指しており、
早期の移動であれば追手の心配なく関東方面を目指せる』
武田家臣が安全に逃げられるルートがあって、しかも勝頼に対する忠誠が早期に崩壊してる状態なら、
甲斐を占領した織田軍に探し出されて殺されまくる、なんてことにはならなかったのでは・・・
結束崩壊してるなら、早期逃亡しちゃえば安全だよね。

123 :
内藤昌月
天正10年(1582年)3月、織田信長の武田征伐で武田氏が滅亡するまで箕輪城代
の任にあり、武田滅亡後は信長に仕えたが、6月の本能寺の変で信長が死去し、
直後に旧武田領を任されていた滝川一益も敗走すると、北条氏直の家臣として仕
えた。後北条氏では他国衆として遇されていたようである。

124 :
どうも大月と長野原の二択にリアリティを感じない
実際新府から上野の諸城まで落ち延びた人誰もいないでしょ
特に信茂が一足先に岩殿帰還とか落ち武者主従がお呑気に過ぎると思うんだがね
松姫が小山田の娘と一緒に落ち延びたということは当初は甲府盆地で決戦やるつもりがあったんじゃないか
が軍団の再編はおろかあらかた逃散されてしまって断念、都留郡での再起を目論むと

125 :
>>124
>実際新府から上野の諸城まで落ち延びた人誰もいないでしょ
昌幸は・・・?

126 :
北への逃亡は、至難事だったのかな。

127 :
そもそも浅間山噴火したばかりで上州街道復旧してたのか?
西上野は既に北条が進軍はじめてるし

128 :
急な武田崩壊だもん。呆然としてたんじゃないか半ば。
冷静に逃げ道探せる人間のほうがどう考えても少数派。
まして今までの重税の反感か、織田に褒美貰うために落ち武者狩りする百姓農民がうじゃうじゃ出る中では……。

129 :
浅間山噴火してんので
真田領へ行くのは無理だろ。

130 :
弱いもの苛めや、同盟破り・空き巣狙いしている時は強いが、劣勢になるとガタガタの武田家。
どうしてこうなったw

131 :
武田対織田の結果
上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり

武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
(信濃攻略は自国の2倍の国力。本能寺後の家康も統治に失敗してる超高難易度の土地。山之内上杉や長尾も介入)
 負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝  

132 :
一度決着のついた話を繰り返すのは無駄だからテンプレにこれいれよう
・武田が織田・徳川に騙し討ちをしかけた⇒織田厨のデタラメ
元亀3年7/7付けで信玄が小里氏の背後に信長の後援があり残念でならないがとりあえず許すと見て見ぬ
フリをする方針にしたことを述べていて織田との抗争にならないよう配慮してたら
信長が11/15に岩村城を奪った小里内作へ書状を出してる。
明らかに信玄は信長との信義を守っていたら裏切られてる。
>>信長が和睦をかなり武田寄りの立場で仲介する意志
謙信と信玄の和睦の仲介は元亀3年7月はおかしい
元亀2年だと柴辻が2009年に主張して反論はいまだ無し。
家康に至っては謙信との書状の中で「信長と信玄の間をどうやっても裂いてやる」と書いてるキチガイぶりだぞw
そもそも元亀3年に和睦仲介してるのは信玄。本願寺と信長の和睦交渉を仲介して努力してたのに
信長は東美濃で小里氏を支援してた。それを察知した信玄だがそれでも最初のころは見逃して我慢していたんだが。
家康は遠江の人質をぜんぶ俺にくれと信玄に要求してきたから信玄はOK!って駿河にいた人質をぜんぶ家康に送ってやったのに
当初の約束では今川氏真を決して許してはならない協定を無視してひそかに逃がすなどして北条と結んで対抗を開始したりと
やってることが火事場泥棒的キチガイ。
1/8 に秋山を呼び戻したと信玄が家康や1/9信長へ謝罪して問題解決済み。
2/18、3/13 家康と謙信が情勢報告をしたりと内通交渉している事実
3/23 市川宛の信玄書状は真偽が疑われている書状であり見当余地ありだが
雪解けするので謙信が信濃へやってくるのは疑いない。
北条と興亡の一戦をやるために甲越の和睦を信長に媒介してもらいたい。
ただいま信長に頼む以外にない。粗略にされては信玄滅亡疑いなし。
この織田厨が得意になって持ち出してくる書状は偽文書の可能性あり。
5/23 信長の配下の武井などへ信玄が出した書状。
遠江の人質も渡したし、その後に北条がやってきたから対陣した。
掛川城落ちたのに氏真が無事に三河経由で尾張へ送られたのは
小田原衆と岡崎衆が会面し掛川籠城衆を
つつがなく駿河へ通過させてやったからで存外のことだ。
すでに氏真と氏康親子は和睦の旨。
家康も誓詞を出してる。この状態を信長はどう思っているのか!
信長も家康に氏真と氏康親子に敵対するように催促するべき。
5/24 氏政から酒井へ 氏真が帰国したし、家康から誓詞も届いた。当方との入魂大慶

完全に家康の方が上杉&北条と入魂して武田を裏切ってますね。
本当にありがとうございました。
ちなみに信玄は家康を信長の配下同然にみてます。
そして信長も三好攻めや北畠攻めなどで東側に介入する余裕もない。
翌年には浅井・朝倉と泥沼の戦いを開始するし。

133 :
保科って謀反人なのか?
保科が勝頼を裏切ったって言う奴いるけど。

134 :
>>129
甲斐って山だらけだから、守りが強くて良さそうに見えるけど、そこから逃げ出す場合には
それが逆にかなりの障害になるんかな。山があっても人垣崩れたら意味ないけども。
>>87-89で勝頼生存説があるけど、逃亡するとしたら、南の方に逃げて船で海・・・とか?

135 :
保科正直
天正10年(1582年)の織田・徳川連合軍の甲斐侵攻に際しては飯田城に籠城し、2月14日には織田信忠による攻勢を受けて坂西織部亮、小幡因幡守らとともに高遠城へ逃亡している。高遠城では仁科盛信とともに籠城していたが城を退去し、実弟内藤昌月を頼って上野箕輪城へ逃れる。

136 :
裏切ったかどうかは知らんが盛信見捨てて投降しないと
平和裏に箕輪にたどり着くのは不可能だったろうな

137 :
テンプレ
NGワード:織田厨、織田チョン、デタラメ
5行以上はあぼーん

138 :

詳しくは下記にて
戦国時代を平定した秀吉
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/
元亀3年
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年(天正元年)
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる。
天正2年正月の公記
朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。
史実の信長は?
義昭→六角義賢書状
信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw
そして越前が一向宗に奪われ、勝頼に岩村城を奪われ信玄死去後のラッキーな織田の攻勢期は半年持たず…
さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、
石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが、
義賢書状では、信楽表で大勝利し感状まで出してる。

139 :
天正2年1/9付けの謙信→榊原康政宛てで
謙信は勝頼を経略名之下ニ候と酷評してるから
勝頼なんてただのバカでしょ。
そんな勝頼さんは2/6に丹波の赤鬼さんに、
雪解けしたら早速、信長を攻めるよ!と書状を出してる。
ちなみに本隊は雪解け待ちのようだが、
先鋒はすでに出陣しててちょうどこの時期には
明智城を陥落させている。さらに櫛原城や神篦城を攻略している。
尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
それもそのはず高天神城が6月に落城するのに
わざと遅く援軍へ向かうヘタレぶりを晒す信長。
信長は謙信からも責められていたようで、6/29には信濃出陣の約束を破った言い分けの弁解までしてる。
その際に信玄の掟を守って謀略があるので勝頼は油断できないと泣き言まで言う始末w
11/4の佐野氏宛て書状では武田軍は家康がいる浜松城下までやってきて放火し、掛川や久野に付け城を構築完成などやりたい放題。
積雪で信濃国境は封鎖された閏11/9になって、 のこのこと三河で鷹狩しに行くよなどと家康監視目的で
来援する信長を歓待すると申し出る家康の心中は複雑だよな。
少ない兵を引き連れた勝頼が完全に織田をナメくさって長篠の戦いで無謀な突撃をかましたのがよくわかる。
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
史料から、信玄軍の強盛振りと徳川の累卵が如き危うさを伺えるね

140 :

長篠は決戦を挑んだ勝頼がバカ
信玄なら撤退を装い、追撃してきた織田を迎撃撃破してる(三増峠の戦いや三方が原の戦い)
そもそも織田厨は背後を抑えられて撤退出来ないなどとでっち上げしてるバカ。
長篠後には翌年に、武田の命運をかけた一戦を織田とやると書いてるので、
まだまだ信玄の遺産は充分にあり余力があったのだろう。
いよいよ勝頼独自色を出し、軍政、軍制改革を開始したつもりか、
織田へ復讐する為に手段を選ばず抜擢宣言し、
どんなに身分が低くても、前代には不遇だった者の経緯にはこだわらず
依怙贔屓無しに武勇のある者は抜擢するとか、鉄砲の鍛錬の奨励をくどいまでに強調し、
鉄砲手には頬あてまでも用意するように言っている。
かなり入念に砲撃戦を念頭においた指示をしている。
武田領内では火薬臭が漂うような大掛かりな鉄砲鍛錬が行われていたのだろう。
そしてその後、対北条戦で勝頼が圧勝を繰り返し暴れてるのも鉄砲隊の力ゆえか。
(氏政は上野国は武田のものとなってしまうと恐れている)
佐竹義重が関東一の大鉄砲隊を持っていたのも、勝頼との協調作戦から学んだ結果だろう。
さらに手取川の戦いの年には、信長は武田と和議を提案していたのに勝頼は拒否して、
あくまで義昭や本願寺や毛利との協調を選んでいる。
まあ謙信が翌春前に死去したのは想定外か。
毛利も丹波の赤鬼が同時期に死去したのは想定外だろう。
やはり謙信死去と、朝廷による交渉で本願寺が織田と和睦を受け入れたことが大きい。
武田に取り領土拡大を狙うには北条を侵略する他なく、
この頃になると織田との和睦を働きかけてるのだから。
信長は武田と和睦する匂いをかけて、織田勝長を返却させるや豹変して武田征伐を開始。
不幸にも浅間山が噴火したために領内混乱し、
後詰めの勝頼が諏訪から甲斐に撤退するハメになる。
有史以来、京で浅間山噴火が観測されたのは、今回がわずか二度目の大噴火で、
京では武田滅亡の前兆と見られた。ただ鉄砲鍛錬にこだわり過ぎているのが勝頼。
本来は城や陣地における防衛戦に重要な鉄砲だが、重量があり過ぎて、
なおかつ天候に左右されやすいものであり、運用は限られている。
機を見て目まぐるしく離合集散する同盟関係や傭兵術や重臣調略を軽視し過ぎていたように思われる。

141 :
防衛以外まるで考えず武田を格下徳川に任せきりだった信長が
武田信玄が撤退するとなぜか追撃するらしい。

142 :
放置したら徳川寝返ってアボーン

143 :
現実に三方ヶ原後も、徳川は信玄に寝返らなかった。
信玄の度重なる背信行為に腹括ってたのかやっぱ。
まあ、武田の滅亡の危機を救ってやった信長さえ、あっさり裏切るのが武田だから……。

144 :
諏訪、今川、織田、徳川、将軍、北条
武田の背信行為は枚挙に暇が無いからな

145 :
>>143>>144
キチガイ織田チョン君は何度も繰り返しデタラメを吐いたら事実になるとでも思ってんの?
武田厨と織田厨が争うスレ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1309145931/555-564

146 :
天皇の命令受けた上杉にも抵抗してるから、植えすぎにも不実かましてるのか
そりゃ氏康に信頼皆無と評されるな

147 :
>>146
そもそも北条が不誠実武田外交の被害者だからな。
今川北条武田の三国同盟を武田が破棄して断交→反北条勢力(里見、佐竹など)と手を組む
→氏康死亡前後に武田は再び北条と同盟→御館の乱で手を切るとやりたい放題。
なんせ娘婿で大名滅亡して一家離散後の今川氏真を小田原城に迎えたあの義理堅い北条が、娘を嫁がせた武田勝頼はガン無視だったからな。

148 :
>>147
それ北条氏照が
武田が今川を攻めたのも止むをえないと言ってるんだが。
そもそも義昭が甲越相の同盟の話を実現させようとしていたのを
今川が嗅ぎ取って、秘密条約をやるんなら、俺に内緒にせずに
俺を同盟の保証人として参加させてくれよと言ってきた時に
そんなのないよと隠していたのが北条。
それで疑心暗鬼になった今川が上杉との同盟を結んで武田挟撃を計ったんだぞ。
北条も義昭の使者が訪れているのを内緒にしていて同罪なんだよ。
だから氏照も武田の今川攻めを容認してる。

149 :
>>148
史実:武田の背信にぶちきれ、北条は徳川上杉と組んで攻撃。
氏照が言ってるから武田は背信してもかまわない、とかデタラメが過ぎるw

150 :
>>147
思えば息子にまで謀反させて、親父は放逐
武田家に対しても不実だな

151 :
氏康が勝手にぶちキレただけでしょ。
父と反対の氏政は武田との再同盟を望み
倒れた後に意識を取り戻した氏康が
あくまで上杉との同盟にこだわったため
氏政が暗殺して甲相同盟をやったという説もあるしな。

152 :
氏康にとっては武田は長らく親父の仇敵だったが
氏政にとっては長らく親父の盟友だもの
意識の差はあったと思う
あとビッグマミイの発言力がそれなりに大きかったんじゃないか

153 :
×氏政が暗殺して甲相同盟をやったという説
○氏政が暗殺して甲相同盟をやったという妄想

154 :
氏康は元亀元年(1570年)8月頃から中風とみられる病を得ており、
8月初旬には鎌倉仏日庵で、氏康の病気平癒祈願の大般若経の真読が行われている。
その頃、小田原城に滞在していた大石芳綱は、
風聞としてではあるが氏康の様子を、呂律が回らず、子供の見分けがつかず、
食事は食べたいものを指差すような状態で、意志の疎通がままならず、
信玄が豆州に出たことも分からないようだ、と記し伝えている。
その後、12月には信玄の深沢城攻めの対応を指示ができるほどには快方に向かったが、
明けて元亀2年に入ると氏康発給の文書は印判だけで花押が見られなくなる。
そして5月10日を最後に文書の発給は停止されている。
そして10月3日、小田原城において死没した。
まぁ甲相同盟を復活させたい氏政や、
信玄の今川攻めを止むを得ない行動と言った氏照ら兄弟からしたら
>>信玄の深沢城攻めの対応を指示ができるほど
快方に向かったら都合が悪いからボケ老人のまま死んでくれないなら暗殺してもおかしくないな。
生前あれほど越相同盟に固執した氏康だから、息子達は父が邪魔で仕方なかっただろうね。
実際、氏康は早雲や氏綱らが手に入れていた東駿河の領土を
自分の代で失っていたから奪回したくて仕方が無かったからね。

155 :
あまりにも 兵站を 延ばしすぎましたな。

156 :
外交も評定マターだから「ボケ老人」とやら隠居一人がゴネれば全家中の反対押し切れる体制ではないけどな
ただし反武田派の巨頭ではあったのは間違いないが

157 :
武田征伐で諏訪の陣において
織田が占領した筑摩郡深志城の城米を出さしめて
在陣の諸将士に頒ち与えた史実を歪曲して
信長公記は
3/19に信長が諏訪法花寺に着陣。
3/24各在陣致す諸将は給地からの補給に迷惑して困っているので
諸兵の数に従って御扶持米を深志で渡したと書いてあってワロタw
しかも雨や風で凍死者続出で暖もロクに取れてない惨憺たる補給実態の惨状で
さっさと逃げるように3/29には木曽口や伊那口へ
織田各軍が崩壊した補給状態から急いで美濃へ自壊敗走してる。


158 :
戦争が終わった後の凱旋勝利を、既に腹切って滅亡した武田家の勝利にこぎつかせるアスペだがw

159 :
まあぶっちゃけ武田が自壊しなければ甲州はおろか信州も制圧は無理だったということだな
兵站準備の十分で無い急遽の出兵はむしろ信州国人衆からの要請も疑われる
実際木曾氏は連携していたし

160 :
孤立支城が大軍に包囲されても援軍無し
開城、帰参すれば監禁致死
降伏すれば人質全員串刺し刑
「屋形がアホやから戦争でけへん」

161 :
実際、北条との関係が破綻して
北条は甲斐の隣国なので
八王子城を築城中の氏照などが
簡単に甲斐へ攻め込める地理上の問題から
新府城を築いて府中より西へ移転しただけなのに
なぜか織田が怖いから移転って歪曲するのが織田厨w

162 :
新府が北条シフトならなぜ穴山が寝返っただけで焼く?
新府・河内・岩殿で甲府盆地を死守する体制だったから
背後から包囲されることを想定してなかったからじゃないか

163 :
穴山が叛旗したら河内の守備が崩壊するんだから
甲斐府中へ攻め込まれ
新府城の背後を遮断される危機に陥る
浅間山噴火で真田領への道は怪しく
小山田を頼るしか選択がなくなる
もはや孤立する可能性ある
新府城で籠城する意味がなくなるだろ。
穴山が味方であって始めて新府城は機能する。
北条に対して武田が圧倒的に優勢で
上野が武田のものとなってしまう・このままでは当方が滅亡してしまうのではないかと氏政が嘆いている。
大した被害もないが北条も反撃していて天正8年5/15に都留郡に侵入した氏照を西原合戦で撃退してるが甲斐府中がいつ攻められるかわからんことを受けて天正9年1月から新府城の築城が開始されてる。
この時点では織田の脅威などまったく想定されてない。
(当時の武田は猿ヶ京攻略成功と沼田攻略中や田中城攻撃に失敗した家康が掛川へ逃げるのを追撃したり、武田水軍が伊豆を襲撃しまくりで氏政も伊豆から逃亡。10月には利根川を渡り武蔵本庄の氏政の陣へ肉薄した武田軍にまた氏政逃亡し12月に沼田城攻略成功)
天正9年には3/17に北条軍が甲斐へ進入し上野原市にあたる棡原で武田軍が撃退してる。
その一方で外交戦では武田・佐竹同盟に里見も参加の意思を示してるし
北条水軍の本拠地伊豆長浜城を武田水軍が大破している。
長期に渡り苦戦していた徳川が砦を構築したやっと高天神城が落ちたものの、その周囲の武田方諸城や砦は健在なまま。
こんな状況で織田に備えて新府城を作ったなど暴論以外の何ものでもない。
甲斐府中にとっての安全保障を脅かしてるのは
突発的な北条側のヘタレ奇襲であって織田じゃない。
9月に完成した新府城だったが10月の伊豆の韮山攻撃で新府移転が延期になるなど
対北条戦略進展で新府移転まで延期される始末。
11/16に佐竹も武田に呼応して出陣してるが
伊豆対陣で北条が陣から出ず、見切りを付けて武田は撤兵して12/24に新府城へ入城してる。
そもそも織田は武田の講和交渉に応じて交渉を続けていて
交渉の好転もあり信長の息子の織田勝長が11月に武田から織田へ人質返還されている。
佐竹なども同盟成立と読み、(天正9年3/18の時点ですら景勝が織田と同盟したのを報せない武田を非難する誤解までしてる)
そのため交渉進展を経て天正10年1/6に勝頼は三河出陣も延期してる。
2/4に信長は閏月の有無について濃尾の暦師賀茂と土御門に問答させて朝廷を追い詰めてるだけだし
1/25付書状で伊勢神宮の遷宮費用の話が持ち上がり、まったく武田攻めをする気配すらない。
唐突に2/6付けで木曽が信長に援軍懇願しており木曽の内通確定がほぼ突発的だったのがわかる。
そして予定に無かった武田攻め動員が開始され準備が整った
2/11に信忠が岐阜出陣しており2/14に浅間山大噴火が観測され武田領国大混乱のドサクサ紛れに火事場泥棒同然の織田軍が信濃へ侵攻。

164 :
噴火前から森や団のおかげで下条氏長や小笠原信嶺が寝返っているのに
そこはガン無視するアスペルガーだがw

165 :
はい今から本拠地移すよーっつって
直ぐに普請始められるのは天下人かゲームくらいなもんで
商工業者から馬借土倉に至るまで既得権者の微妙な調整が必要になるわけで
勝頼体制が本当に半年でやってのけられるくらいの統率力・調整力があれば
あんなに早く滅亡しなかったと思うよ

166 :
信玄がもっと早く死んでたらどうなってたろう

167 :
馬場信春の嫡男・馬場昌房
天正10年(1582年)の武田征伐では戦わずして降伏、また、転戦して信濃牧之島城で討死した等と伝えられているが、その後の消息は不明。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E6%98%8C%E6%88%BF


168 :
>>164
そんな一次史料は存在しない。
まさかソースが捏造軍記の嘘長公記とか言わないよねwww
デタラメ信長マンセーの公記を事実と譲歩したとしても
滝ヶ沢に要害を構えて下条伊豆守を入れておいたところ
2/6に家老の下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れ
などと、どこだからも分からん場所に砦かなにかを即席で作った挙句に
よくわからん家老のやつが
よくわからん織田方のやつを道案内してるに過ぎず
わりとどうでもいい話しか書いてない。
松尾城主の小笠原の内応はまさに浅間山大噴火当日の話だし。
これによって初めて織田軍の団や森が先陣として武田領へ侵攻開始。

169 :
ゲームと違って事前根回し無しでいきなりその場で寝返りまーすっつっても認めてもらえないよ

170 :
そもそも下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れると
なんで同日に木曽氏が織田へ援軍要請の懇願するのか意味不明。
すでに織田軍がいるはずじゃんよwww

171 :
団や森が先陣として武田領へ侵攻開始だって
実際にいつスタートしたか不明。
そもそも公記は浅間山大噴火を隠蔽した上で
小笠原の内応を書いており
実際の戦況がわかるのは3/5の信忠書状で坪内氏へ
高遠城を攻略した戦功を賞している
寛永諸家系図の坪内氏に収録されている
坪内氏が貰ったと自称する怪しげな信忠感状の写しのみ。
武田攻略に関わる内容がわりとわかるのは
3/8の信長書状で2/28に勝頼が居城へ逃げ入り
居所を自焼して山奥へ逃亡したと書かれてるだけ。

172 :
新府城は穴山氏の本貫地である穴山村の直近であり
本拠地は移転したといえども諸権益は穴山氏に残していた可能性は高い
ところが実際の普請は非既得権者である他国衆の真田昌幸が任じられていて
なんらかの軋轢を、平たく言えば穴山が儲け損ねたか穴山が利益を約した者に対して面目を失ったのではないか
翌年の穴山謀反から遡って時宜を鑑みるに直接の動機の1つかと

173 :
>>101
>>100の内容を修正したいのならば自分でウィキペディアを編集するしかないよw

174 :
高坂昌元(春日昌元、春日信達)
昌元は上杉景勝に属したが天正10年7月13日、真田昌幸や北条氏直らと内通したことが
発覚して、上杉景勝によって誅殺された。これにより、高坂氏嫡流は滅亡した。
高坂昌定
天正10年(1582年)海津城が落城した後、越後国に逃れて小幡光盛を頼り、その後信濃国下伊那天竜川辺に蟄居した。
子の高坂昌国は、保科正之に300石で仕えたという。

175 :
家康の領国の三河からは、盛んに石山本願寺へ兵糧や兵員の輸送が
円滑に行われており天正6年になってさえ、
織田軍が本願寺に呼応した荒木によって大敗し12/12尾張知多郡の水野忠分が敗死するなどしてる裏で
10/13に上宮寺(岡崎市)や本證寺(安城市)や勝鬘寺(岡崎市)へ
石山本願寺が書状を出して支援要請してる。
10/28にも三河の浄妙寺・慈光寺・無量寿寺・願照寺にも支援要請してる。
家康は一向宗の叛乱を恐れ石山支援を事実上容認していたのがわかる。
謙信が死んだことで御館の乱が発生し
信長が北陸戦線防衛に必死になることなく
勝頼の遠江侵攻への支援が可能になる余裕が出てくると
9月に信康の岡崎へ三河国衆が出仕するのを禁止して
万が一の時の武田との交渉チャンネルである
信康の排除へ家康が動き出す。
そして家康と北条の同盟が成立する天正7年9月に切腹。
それと同時に徳川領での石山本願寺支援も消えていく。

176 :
長篠の敗戦でようやく武田と織田が互角
御館の乱後に徳川と北条が同盟して
ようやく武田と徳川が互角
浅間山噴火がなければ武田が滅びることは無かった。

177 :
誰にも相手にされなくなったコピペ荒らし無残wwwww

178 :
誰にも相手にされず自爆ってまるで武田勝頼そのものwww

179 :
浅間山噴火がどうのこうの言ってもだな。災害への備えもなく、万事軍事最優先の体制を組むから
ちょっとした天変地異で、大軍事帝国武田家はお家滅亡しちゃうんだよ。
小牧・長久手の戦いの直後に東海地方を大地震と津波で壊滅させられた糞漏らしでへたれの徳川
家康を世紀末覇者豊臣秀吉が滅ぼせなかったのと好対照だな。

180 :
信虎は領内が大風でめちゃくちゃ、水没して年貢もろくに取れないどころか飢饉決定だろこれ・・・
と言われるぐらいの災害が発生しても、元気に一日に30を超える城を落とすというような軍事行動してるわけでして
まあ関係ねえやな
そもそも、噴火の記録がなぜか遠く離れた京都の坊主だかなんだかの記録のみ
なぜか浅間山周辺の領主や、近隣領主その他の記録には見えない
後世にも書かれていない、確か軍艦にもないだろ?
不思議不思議

181 :
だががバカの一つ覚えで浅間山浅間山言ってるだけだろ
奴は発達障害だから気に入った単語は、何度でも何度でも繰り返し続ける
本当に馬鹿

182 :
マジレスすると
・噴火のことは色々な史料に書いてある
・そのどれもが「夜に東の空が赤くなった」としか書いていない。「火山」「噴火」もしくはそれを表す単語などは皆無
・浅間山の有史後の活動はすべて2500m以上の山頂噴火(気象庁のサイトより)
 この高度で夜に噴火すれば日本中どっからでも赤い光は見える

183 :
噴火じゃねえじゃん
噴火とこじつけた文言が入ってるに過ぎない

184 :
噴火のせいで負けた! なんて言い訳、武田贔屓の引き倒しの軍談ですら喚いてないのにねw

185 :
そらまあそんなこと書いたら「武田は噴火で潰れるほど弱い国なんだ」って思われちゃうからなw
贔屓どころかむしろこき下ろしているw

186 :
鳥居家に 仕官した小山田の残党は いる?

187 :
火山灰が武田方だけに降ってくるというオカルトだもの。
当然、火山灰は織田方、武田方公平にふってくるわけで、補給路を
考えればむしろ織田方に不利益なはずなのにね。

188 :
多聞院が浅間山噴火で甲斐信濃敗北の怪異と書いてるのに
浅間山噴火じゃないとするソースは?

189 :
>>179
秀康を人質に送って
先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで
戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
信雄は秀吉の先鋒として
家康の味方である紀州雑賀攻めの先鋒までやってる。
家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで
秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw
結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく
家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。
岡崎を吉川広家に占拠されただけでなく、
駿府に入った秀吉を見た家臣の本多重次にまで
家康は「自分の居城を開けて他人に貸す国主とかwww」
「じゃあ、今度はお前の女房衆を借りたいとか言われた貸すのwww」などと
散々にキレられながら言い放たれて勝手に自分の宿に帰っていかれちゃうほど
情けないことになっちゃったんだがw

190 :
徳川は天正13年にも軍備整えたり北条との同盟強化したり対秀吉に備えてたのに無知すぎだろこいつ
馬鹿秀吉厨はROMってろよカス

191 :
浅間山噴火と言う自然現象にもかかわらず当地行軍中であった織田軍にはなぜか当たらず
在地の武田軍やその領地ばかりに被害が出るという摩訶不思議な現象。
武田軍は天変地異すら対処できない旧時代の勢力だったという情けない話

192 :
きっと武田の悪政に対する天罰だからだよ。

193 :
>>188
それはいいから噴火の影響で農事が滞っただのなんだのという史料を早く出せや
それで解決だろうが
出せないって事は、そんな史料存在しないんだよな?
京都から観察できるほどの大噴火なのに、農事への影響が見られない
なら噴火を何かと見間違えたと捕らえるのが自然だろうが
山火事とかな

194 :
>>193
願望乙www

195 :
あんたは日付とか書かないから
いつのことを指して、誰々がこう言っていると言ってんだかわからんから
それぞれ日付を明示してくれ。まったくわからんよ。
>>秀吉からしたらまんまと目論見が外れた結果
目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして
尾張東部へ攻め込んだだけ。
>>家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。
秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
秀吉軍を呼び込めばいいだけ。長島城が危機的になり敗北確定になるまで
なんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
>>鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より
加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
落とされた家康の失策でしかない。
というか家康は完全に追い詰められているよね。
7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。
もう絵に描いた餅状態じゃん。
>>この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかり
>>その間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
その後、あらたに大きな軍事行動を秀吉が開始したのが10月下旬で長島直撃作戦だ
城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
>>どうみても大チャンスにまんまと手をこまねいていただけ
いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる。

196 :
お前は時系列を全く理解できていない馬鹿だから長久手町史資料編でも読み直して出直してくれ
あと楽田に留守居兵2万もいたのもしらんとか馬鹿すぎる

197 :

さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
ちなみに佐竹への書状でも秀吉は対外宣伝としては、そんなに大法螺は吹いてない。
>>戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
いつの日付の誰宛の話をしてるかわからんから調べてない。日付書いてくれ。
が、圧倒的戦力をもっていた秀吉が4/8の小牧長久手で敗れるまで勝利まじかと書くのは普通だろ。
それに伊賀や伊勢でもすでに開戦初頭からだいぶ蹂躙していたし(池田の犬山奪取で戦略変更したが)
詳しい情勢を知らない遠方への対外外交で誇張するのは信長だってやってる。
でも身内への書状で秀吉が書く内容と一緒にするのはおかしいだろ。
>>お前の主観なんて聞いてない
本当に大活躍なら、それを機に家康が後詰めするなり、信雄の粘り籠城が継続するだろ。
独力で秀長の大軍南下が阻止できないだろ。
>>長久保の城が落居
この家康と信雄と家康の対陣中の書状をみるとちゃんと〜城と書いてるじゃん。
長久保にはそれがない。秀長が南下したあとに長久保の陣の守備兵でも蹴散らしただけじゃないかね。
まぁ福田の裏切りへってのが長久保城のことだとする話は聞いたことあるけどソースを俺は知らない。
謀反した城を奪回したのなら別に秀吉軍を撃退したわけじゃねーしなぁ。
>>信雄がへタレて
ヘタレないように軍事支援するのが家康の役目のひとつだろ。無策傍観で信雄もこりゃダメだと悟ったんだろ。
>>一貫して秀吉は家康への討伐、そして家康は秀吉に対する抗戦を想定
そんな想定してない。間に大坂で土下座して秀吉配下同然になった
信雄が入っていて(秀吉の雑賀攻めに信雄も参加)秀吉方の人質要求を家康に出すように伝えたりと
完全に信雄を折衝道具としての条件闘争をしているだけ。外交技術として強気の姿勢を示してるだけ。
実際は、佐々や長宗我部や紀州勢を家康は見捨ててる。
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してる
9/23には飛騨の金森が美濃郡上へ秀吉のために動くなどと書いているし
>>家康は85年までずっと戦闘態勢を解いていない
そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも信雄が2/22着で大坂城へ土下座しに行ってる時点で家康の大敗は確定的。
そもそも家康には天正12年6/27付け書状からわかるように秀吉へ人質を出していた上杉という敵までいるしw
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
で、結局、北条の援軍こなかったよねw信玄西上の時は北条も援軍出しているのにw

198 :
蟹江合戦が秀吉の敵地分断戦略の一環なのもしらんとか馬鹿すぎ
落居って言葉がこの攻防の中何回か使われてるが城が落ちたとき以外使用されていない上に
織田・徳川方が蟹江落としたときも城という言葉省略で落居といってるし秀吉も「城」という言葉省略しまくってる
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
お前は全体的に秀吉側に都合のいい妄想しか言えない馬鹿だから1から勉強し直せ

199 :

>>198
>>蟹江合戦が秀吉の敵地分断戦略の一環なのもしらんとか馬鹿すぎ
ププッそれ軍記の太閤記に出てくる
「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてる
清洲城と長島城を分断すると言う講談話の妄想戦略だろ・・・
そんなことを秀吉が命じたソースはないし
滝川が自分の意思で調儀しただけで、
(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
当然のように危険極まりない行為をしたために
16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
19日には家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で
7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
当の秀吉は竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だし
>>馬を収めるつもりでいたら信雄が種種懇望してきたと書いてる
曲解してるだけだろ。信雄と家康がすでに追い詰められているのを
秀吉は知っていたからもうすぐ、この戦いはじき終わると終戦までのビジョンを
持っていて、見通しが付いていただけの話。
そしてきっちり講和条件に秀吉は人質を取ってるし。
家康らに戦局を挽回する力はまったくないのだから。

200 :
秀吉マンセー側史料の太閤記なんだから秀吉に不都合な話は信用できるだろw
谷口央氏も長久手町史本文編でこの軍事行動は敵地分断戦略の一環だと書いてるし
位置的にも当時秀吉が駐在していた大垣から程近く
滝川が退去したのは折角危険極まりない行動したのに秀吉が見捨てたから単独で抗戦不可と判断したからだろう
>曲解してるだけ
お前がな
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
お前は史料もまともに見取らんチンカスだから一から出直せこのタコ

201 :
>>砦を数箇所構築したので納馬する予定である
だからさぁ、それ砦をたんまり構築して桑名表を制圧して
長島を威圧してる体制を構築したから納馬すると言ってるだけで
信雄を完全に八方塞りにしてんじゃんよ。
秀吉は信雄を追い詰めてんだよ。
あとは放置してても信雄は降伏するしかない状況で王手してる。
11/13には長島にも押詰城々数ヶ所と書いてて完全に包囲してる。
しかも納馬先として大坂ではなく、伊勢国の縄生城で
秀吉が越年する姿勢に信雄が恐れて懇望してんのがわかる。
そして信雄の実子や有楽斎の実子など人質に取る条件だし。
つうか太田牛一の書いた太閤記は軍記であり、
自分の仕えた秀頼の正当性を強調して
秀次を貶しまくるなど曲解を平気で書いてて
まったく史料として扱えない糞講談なのも知らんのか?

202 :
秀吉貶したいチョン君がいくら
家康が圧倒的に有利だったと捏造しても
無駄だよ。家康は長島救援のために
秀吉軍を引き付けるために
軍事行動を東美濃で起こすことすらできずに
清洲城で震えて信雄の降伏を傍観してただけなんだから。

203 :
まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍に来たら
良かったのにねwww

204 :
楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論だな
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない

205 :
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別
何の根拠にもならんよ

206 :
>>楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論
どこが暴論だか意味不明。
>>石川派遣
それ10/5の書状で木曽谷で放火した話だろ。
で、結局、遠山半左衛門が討死してんじゃんよ。
それに応じて、秀吉が東美濃へ行くって10/19に宣言したけど
10/22付けで坂本まで出陣したけど、俺が向かったら敵は逃げちゃったから
このまま伊勢へ乱入するよって言ってて
結果的に信雄の降伏を早めただけなのが家康の東美濃での攻撃。
11/7には美濃の東駒野でも田中真吉宛て戸田勝隆書状や土倉四郎兵衛に戦功を賞してる秀吉の姿がわかるし
>>木造の軍記を引用してた
軍記じゃないよ。家譜だよ。
それに具体的に奄芸郡一身田の高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が戸木城へ来て
木造親子を宥められて扱い入れてくれたことで木造家は無事になったと書いてるんだから
正当な理由があって木造氏が開城しただけで不利とか関係ないだろ。
>>勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
そりゃあ、あれだけ完全に秀吉に信雄が包囲され王手に至ってんだから
その状況になるまで、なすすべなく傍観していた家康が悪いに決まってるだろ。
そして当初は家康と石川だけが人質を出す条件だったのに、結局酒井まで人質を出す羽目になる。
家康単独で秀吉に敵うわけもなく、家康には従うしか選択はないのが現実。
あとは信雄を間に挟んで条件闘争をするしかない。
>>205
>>秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生
伊木、池田・荒尾どころか土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
完全に周知の事実だよ。
そもそも11/6に実際に加藤嘉明に縄尾(縄生)・桑部の両所に譜請を申しつけてる。

207 :
楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。
美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究
木造記成立の論考

208 :
>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
愛知県史資料編や長久手町史資料編にそんな書状のってないけどソースは何?
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている

209 :
>>194
はいはいロクに史料もあげられない負け惜しみは分かったから、はやくだそうな?

210 :
おめーら、小牧長久手スレに行けや1
ここは、武田の滅亡を語るところだぞ。

211 :
武田家は衰退しました

212 :
×衰退
○滅亡して乗っ取られた

213 :
11月の時点で楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてたとするソースはなんだろ?

214 :
徳川には小城で孤立しても踏ん張る忠臣がたくさんいたのに、武田は不利になるとすぐ掌返す連中ばっか。
どうして差がついたのか……。

215 :
勝頼の失政自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊と浅間山噴火による自落
ちなみに徳川にも離反は出てる

216 :
>>215
それは不利になった理由だろ(しかも某コピペ荒らししか主張してないw)。
不利になった状態で、という話だが。
日本語すら基本ができないならレス無用。

217 :
武田は信玄が国人らに推戴されてから国人持ちの勢力になった。
彼らは別に主君が武田家である必要は薄く、より頼り甲斐のある勢力がくればそれに乗り換えればいい。

218 :
まあフリーハンドで戦えばこんなもん。
武田軍は勝頼治世末期にようやく統制強化・鉄砲増強に乗り出した程度の時代遅れの軍。
織田軍はもとより徳川軍にも同条件で戦えば負けたんじゃないか。

219 :
無茶な統制強化と超過賦役と茶坊主政治で国を滅ぼすのはたいがいバカ息子がやらかす
今川さんとことか六角さんとことか
勝頼さんが特別バカ息子だったわけじゃない

220 :
武田対織田の結果
上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり

武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
同数同装備で戦術的勝負させたら武田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田

221 :
武田軍は足助城を攻略しただけでなく
5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し
先陣はすでに熱田まで進出してるし
4/16付け勝頼書状では22日出馬して参着次第、
その地に二重堀の普請すると書き(奥平信光のいる三河国設楽郡津具筋?)
遠江方面(光明行之儀)では天野藤秀を利用して
彼地の模様を見届け、調儀するのが肝要で(後回しの方便とも書いてる)
その地は幸い、久しく普請を続けていたので(穴山宛てなので穴山が)加勢望むに任せる。
小尾崎・八幡山之儀は案内者を以って
(尾崎権現山や郡上八幡だから両遠藤氏や安養寺や最勝寺か?)地形御見し、注進を頂くべく候
などと書いてる。
このことから当初案では伊勢長島救援のための出陣計画だが
岡崎内応策が露見した後、作戦変更して
穴山に任せている遠江方面を後回しに三河進出し
長篠で二重堀を作って対陣する予定だったのではないか?
そのために長期対陣に備えて武田軍は実数1万くらいの兵しか連れてこなかった。
しかも長篠後に謙信に出した信長書状では兵糧が足らないから織田は撤兵したと書いてるから
織田徳川は3万を維持する兵糧がなかったため対陣して兵糧攻めを通じて織田軍を崩壊させる。
(熱田方面で挑発され面目丸つぶれの信長が急いで出てこざる負えなくなった)
そしてこの対陣中に美濃の軍事的な予定戦場調査をして、
武田軍が残り2万の大兵力を率いて大挙、美濃へ侵攻して
伊勢長島の日根野や郡上八幡の遠藤氏や一揆軍の南下で織田を引き付けつつ
尾崎権現山(200メートルしかない小山)を武田本軍の陣所として
各務原市〜岐阜市日野で織田と決戦して一気に岐阜城を奪い取る作戦だったはず。
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。
しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、陣城攻撃を開始し優勢だったが陣城は落ちず
撤退をしたら殿が下手を打って軍が崩壊。
義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。
三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。

222 :
長篠の戦いの信長による戦果捏造宣伝工作
5/26信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと
誇張しまくりを書いていて
5/21の戦い当日付の兼見卿記にも信長が一戦に及んで
数千騎を討死させたと書いてる(騎馬武者だけで数千もいたのかすら怪しいデッチあげぶりw)
つか、こりゃあ武田大騎馬軍団だなw
実際の武田軍の損害については
実際に鉄砲衆を調達してから長篠に従軍した大和国の筒井衆が無事に大和国へ帰り着いた
5/27に記された大和興福寺の多聞院日記の千人ぐらい討死が比較的正しいだろう。
(それですら筒井勢が武勇自慢の宣伝をしている可能性がある。
と言うのも、そんなに圧勝してるなら天正10年の武田征伐を恐れた大和衆が
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士などと不安を訴えたりするだろうか)
5/24に兼見卿記が記す、光秀と会談した際に聞いた長篠の戦いの話では
「ことごとく討ち果たした」に表現が大幅に後退している。
ちなみに6/13の謙信への信長書状では嘘がすぐバレると思ってか
「数知らず」と書いて討取り数を明言しなくなっている。
さらに家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。

家康の知恩院宛て6/22書状でも武田之家討ち果たし候様子を聞いたようですね
などと書いていて討取り数にまったく触れていない。
実は虚報ばかりで討ち取り数すら明言できないのが戦後の織田w
実際にはそんなに討ち取られていない可能性が高い。

223 :
ホント壊れたラジオだなー

224 :
自分の意見に説得力が無いと内心分かっている奴ほど、コピペ連打に必死になるんだよな……w

225 :
上杉景勝なんてたよりにならねー やはり北条とどーにか復縁すべきだった・・・

226 :
初鹿野信昌
跡部勝資、小宮山友晴、土屋昌恒等と共に最後まで勝頼に付き従った。天正10年(1582年)の武田滅亡以降は徳川家康に仕え、小牧・長久手の戦い、小田原征伐、大坂の陣などに従軍した。

227 :
相手からすると逆に武田は信用できん、しかも落ち目の勢力だぜ……w

228 :
織田厨がキチガイなのは
天正6年諏訪大社の遷宮で信濃一国に
造営費をかけた時に
出来る限り負担したくない者が
いい加減な言い訳を書いてる文書の
一部を切り抜いて
武田の悪政とか重税で民が苦しんでたとか歪曲してたところだよな。
今でこそ遷宮は諏訪市の負担だけで執行してたが
昔は信濃一国に費用が課せられていて
費用負担を嫌がって非協力的だった戦国期の国人たちも
信濃一国支配を完成させた信玄により
古来の通りにサボりを許さずに諏訪大社の復興を行っただけなのが現実。

229 :
日ノ本に名高い信濃一ノ宮の造営はその負担以上に
大いなる栄誉なのにそれがメンツを重んじる信濃国人にサボタージュされるとか
どんだけ求心力落ちてたのよと

230 :
>>229
>>大いなる栄誉なのにそれがメンツを重んじる信濃国人
そんな記述は一切見かけないけどソースは?

231 :
>>226
最後まで付き従ったのに死んでないんだ
どういう状況だったのだらう

232 :
甲州崩れは俯瞰して見ていた人物は誰一人いない上
本能寺のゴタゴタまでで死んだ者、失脚・兆散した者、徳川に寝返った様をなんとか名分立てたい者など
思惑入り乱れすぎて正味の話が解り難い
理慶尼記はおろか北条夫人願文まで創作認定された日には
信に足る史料なんて本当に残ってんのかと思われて仕方が無い

233 :
>>231
初鹿野は勝頼と合流する予定だったらしいが妻子を村人に人質に取られて謀反を迫られて動けなかったらしい
まあ、勝頼とは結構仲が良かったようだ
長篠でも土屋と共に勝頼のそばで撤退に従ったらしいし。

234 :
妻子を村人に取られるとか末期武田の弱体ぶりは酷いな

235 :
天正10年1月6日付けの勝頼書状には
軍事行動は延期。2月には仏事を執行するから
3月、4月も一切動かない。
などと軍備を解除して武田領国は冬休みに入ってた。
そこで織田軍が無防備の武田領へ奇襲しただけだからなぁ。

236 :
×無防備の武田軍
○無防備に近いぐらいまで信玄時代から弱体され続けた武田軍

237 :
信玄時代から弱体され続けたソースをどうぞ

238 :
>軍備を解除して武田領国は冬休みに入ってた。
日本社会党かwww
脳味噌膿んでたんだろうな

239 :
軍鑑のような悪質な史料にしか乗ってない話だが、織田は長篠後に手打ちを持ちかけたのにそれを蹴ったのが武田だからねぇ。
(だから勝頼は馬鹿なんだ、と繋がるお約束捏造っぽいが)
史実なら時間稼ぎの外交すらできんかった武田がアホいだけだし。

240 :
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

241 :
武田厨の書き込みみていると、泣き言にすらなっておらずむしろ武田は滅びて当たり前の馬鹿集団だったとしか思えなくなるんだが。
後から釣りでした宣言とかは無しにしてくれよ?w

242 :
勝頼はリセットボタン押せなかったのが不運だったな
とりあえず長篠開城前からやり直せば勝てた

243 :
勝頼は空腹と疲労で動けず腰掛けていたところを抵抗もなく討ち取られたらしいね

244 :
信玄が、別に武田にとってどうしても必要ってわけでもないのに信長の背後狙いなんかしたのが運の尽き。
上杉打倒さえ無理な所に、さらに自分から敵を作りまくっているからなあ。

245 :
>>244
まあそれも結果論かもしれないが
実際信玄が生きていれば信長が滅亡した可能性はだれにも否定できない。

246 :
いや結果論じゃなくて状況論だろ。
2行目は否定しないがね。

247 :
可能性と実現性はイコールじゃないし。史実で結果は出ているし。
そんなむちゃくちゃな理屈が通じるなら、信玄が生きてたら信長に返り討ちにあって武田滅亡が早まる可能性のほうがまだありえるなw

248 :
史実の結果
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
しかも信玄ではなく勝頼の代

249 :
武田厨的に何が言いたいのかわからん。
資料的に否定されたコピペに固執してまで何を主張したいの?
実力以外の要素で負けた、と誰かを騙せたら何か変るわけ?w

250 :
実力で負けたことを認めたくないだけじゃねえの?
嘘を何回か言ってると本当になると言う精神の持ち主みたいだし

251 :
自分でも何いってるかわからなくなっているんじゃないか。
武田は自分から軍備解いた、という滅茶苦茶なコピペもしているし。
これで擁護かあるいは敵対者貶めになっている、と思っているのなら根本的に・・・w

252 :
史実の結果
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
しかも信玄ではなく勝頼の代

253 :
千人斬りの土屋も実際はあっさり討ち取られたらしいね

254 :
信玄は上洛できなかったが勝頼は上洛した

255 :
まあ、>>252の言うことが真実としてもだな。
敵の動向も考えずに武装解除するなど、ノモンハンの辻、
インパールの牟田口以下の知性しか諏訪勝頼(武田って
称してるが所詮は諏訪野郎)は持っていなかったと、武田厨
は言ってるわけだが、これはこれで正論だな。

なにせ諏訪勝頼は、息子の信勝を傀儡にして武田家を簒奪
した極悪人だからな。
極悪人の末路なんてこんなものだ。正義は勝つ!



256 :
なんというか、こういうおかしな奴って本気で武田好きなの? と疑うレベル。
武田の敵を貶めるだけじゃ済まず、自分の妄想の中の武田以外認めぬ、みたいな基地臭い気配がする。

257 :
>○甲江約定反故
冒頭の段階からして意味不明なんだが。
徳川との協定を破って大井川を西進したのは武田側だし
織田との協定を破って岩村を奪取したのは武田側。
その後、織田徳川と武田の間に和議は無かったはずだが・・・

258 :
>>253
まあ得てしてそんなもんだろう
大将の仕事は斬り合いじゃないもの

259 :
そもそも甲江和与なんて成立すらしてないからな。
長篠以降の武田勝頼は、足利義昭・上杉謙信による甲越相和与の一環とみていて
上杉、武田、北条三者による反信長勢力の構築に奔走しているわけだがらな。
まあそれですらチキンな武田勝頼は約定を見捨て、織田はおろかパシリの徳川にすら勝てないという絶望的な戦力であったわけだがw

260 :
織田に喧嘩売る理由なんてなかったのに、晩年の信玄が暴走したからね。
裏切りを仕掛けなければ、後年の徳川ポジションになって天下取りできたかもしれんのに。

261 :
>>260
それでも後年は勝頼の代になっているわけで、勝頼が徳川のようなポジションから天下をとれるかというとかなり厳しい

262 :
>>260
で、何が言いたいの?

263 :
間違った。261そうに言いたかった。

264 :
・織徳同盟
・織田と武田に囲まれている徳川は領土を増やす為には武田を攻めるしかない
武田が後年の徳川ポジになることは不可能

265 :
>>253
暴れん坊将軍だったら、最後の瀬戸際に追い詰められても、自身の手で千人斬れそうだ。

266 :
本当に千人斬というのなら千人といわず100人斬った頃合で
攻め手が戦意喪失して逃亡するだろうから

267 :
>>266
相手が追いつめられてる状況でも逃げるかな?
室町幕府の足利義輝は、最期の戦いで斬りまくったみたいだけど、敵兵が逃亡するほどじゃなかったのかな・・・

268 :
三好はその義輝本人を討つのが目的なんだからなんぼでも体力切れを待てばいいけど
天目山は土屋討つのが目的じゃないもの

269 :
まず1000人斬りとか武器の方が持たんわな

270 :
実際は土屋も勝頼と同じように抵抗らしい抵抗もできずに瞬殺されてしまったようだけどね。

271 :
そこは武士の情けってやつじゃないの。
だらしない最後を遂げた、と事実を冷たくいうより、
あいつは敵だけど最後まで男らしかったよ、というほうが気分がいいだろうし。

272 :
土屋の最期はどうなんだろうね?
信長公記には斬りまくったことを思わせる記述があるが

273 :
まともに考えれば、いくら凄腕の武士でも同じような武士複数を相手にはできんでしょ。
やっぱり最後はあっけなかったんじゃないの。

274 :
1000人斬りというのは比ゆ的な表現だろうw

勝頼も土屋も疲れきっていて云々というのは津田秀政が
語ったとする話だけど、出典が『三河後風土記』なんだよな。
もとになったソースがあるのかな。

275 :
>>195>>197>>199>>201>>206
そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
しかも北国勢も合流予定と圧倒的戦力差を秀吉は見せ付けてる。
顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
酒井忠次に至っては2万討ち取りなどと吹聴している始末。
5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦局を逆転するには長宗我部が毛利・宇喜多らに襲われるのを無視して
秀吉の背後を襲ってくれることしか道が見えないことが判明する。
5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して
北条から援軍が来たら秀吉を敗北させるからなどと家康はついに白昼夢の夢物語を語り始める始末。。。
6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
6/3には竹鼻城は降伏していいと言って完全に打つ手なし。この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。

276 :
元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより
長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
116:05/31(木) 02:32 fzWnbCU4 [sage]
つかちょっと見るだけでももう嘘まみれだからな。
だがは5月20日に玉薬が到着したから「19日に武田が攻撃すれば勝てた」なんてアホなこと言ってるけど
5月20日の細川幽斎宛て織田信長書状は鉄砲調達よりも長篠戦況報告の話で
「武田が雑魚のくせに粋がってすぐ近くに陣取ってきたから根切りにしてやる」と自信満々に答えている。
ちなみに細川家文書にある鉄砲調達報告は5月15日で、5月16日5月18日には既に前哨戦を開始している。
まあだがじゃなければ少し調べればわかる話なのだが、それくらいだがのソースはアテにならんと言うことだな
187:06/02(土) 13:54 gvIy1YCA
>>116
>>「武田が雑魚のくせに粋がってすぐ近くに陣取ってきたから根切りにしてやる」と自信満々に答えている。
そんなことは書いてない。お前の感情を込めて文章を捏造してるだけだろ。
それに16日に前哨戦などやってない。18日に備えの節所を探るべく織田の物見部隊が視察に出て
武田の物見部隊レベルと散発的な遭遇があっただけだろ。
つうか、織田チョンは細川文書の全文を読んでないだろ。
完全に切り抜いた一部を紹介した誰かの歪曲が入った文を丸パクリしてるから
デタラメを書いて恥を書くハメになるんだよ。
15日細川宛書状→鉄砲玉薬のこと申し付けたこと尤もだ。
明日敵陣の近所まで人数を押し出して相備え候。織田軍は無敗の軍なので
この天与の機会に根切りしてやる。
20日細川宛書状→鉄砲のこと祝着だ!(細川から纏まった数の鉄砲放と玉薬が届いたのだろう)
17日に牛久保から人数を押し出し長篠との距離は3里。
敵の備えの節所に18日に鉄砲を放った。通路も良くない時期だし根切り眼前。
5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃
5/21細川宛書状で長篠で勝利を報じているが、勝利し天下安全の基の理由として
細川に鉄砲放の調達を仍(しきりに)申し付けたからだ。
もしくは細川に調達させた鉄砲を放たせたので仍(それにより)勝ったからだと書いてる。
鉄砲放を砲手のことなのか、鉄砲を放つの意だかよくわからない。
熊本大学の稲葉継陽氏は細川氏が鉄砲手の調達と解釈してるな。
当時の武士は雑兵を射手として使ったので武士に鉄砲は扱えないとも指摘してる。
おそらく雑賀衆などの傭兵鉄砲部隊を雇って派遣したのだろう。


277 :
実際に勝頼らを討ち取った武士の覚書からじゃなかったっけ。
飢えてまともに抵抗もできんかったんだよ、というの。

278 :
>秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから
強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう

279 :
>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
そもそも両者には会戦当初から秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字
その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した
また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
そして陣立書や書状から秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
●二重掘合戦
細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、

280 :
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。堀氏のアンチ徳川馬鹿論文にその後のうわさでは3000人ばかり…というのが顕如日記にあると書いているが嘘
そんな記述はどこを探しても見つからない
>秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

281 :
>秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め

282 :
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

283 :
http://hissi.org/read.php/sengoku/20120602/ZUwyQjJyQmg.html

284 :
>>277
新府から天目山まで日にちかかりすぎてるからな
軍団再編以前にメシの手立てすらままならなかったのは
想像に難くない
小山田1人の責に矮小化されてるがもっとミジメったらしい
内ゲバ劇が甲府盆地で繰り広げられたんだろう
合掌

285 :
信長の野望で過大過小されている武将スレでも
同じコピペを基地害連投しまくってる
アンチ秀吉の糞チョンでみんな迷惑してる。
>>278
お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞw
いかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
よく知らしめることしか書いてないw
家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、
戦局の打開への道がまったく見えてない。
しかし毛利と宇喜多が背後から攻撃してくるのを無視して長宗我部がやってくるわけもない。
しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
北条を牽制する佐竹には秀吉からの書状で状況を理解してるしwww
上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、
信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
>>279
>>長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
軍記の太閤記に出てくる「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてる
清洲城と長島城を分断すると言う講談話の妄想戦略で
その妄想に対して谷口氏もまったく一次史料によるソースを書いてないアホくさいデタラメ。
秀吉がそんなことを命じた書状も皆無。つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
>>二重掘合戦
これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
>>280
>>堀氏のアンチ徳川馬鹿論文にその後のうわさでは3000人ばかり…
>>というのが顕如日記にあると書いているが嘘そんな記述はどこを探しても見つからない
無知なくせに「どこを探しても見つからない」などとほざくアホぶりを晒してるなw
つか出典元すら明示してあるのに、こいつ最強のアホちゃう?アンチ秀吉過ぎてマトモな思考すらしてないな。
「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
キッチリ書いてあるんだがw
噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。

286 :
>>285
>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ
大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
>キッチリ書いてあるんだがw
書いていない。長久手町史資料編・愛知県史史料編と探してもそんな記述はないし
文中ではなく真横に書く時点で書き足しているのがミエミエ

287 :
>>277
それが津田秀政が語った内容なんだけど、その出典が『三河後風土記』。
『三河後風土記』のネタ元って何なのかな。正直、『三河後風土記』が
元ネタというのはいささかソースとしては弱い気もする。
まあ妙に生々しい話ではあるんだけど。

288 :
>>285
ageてるとだがさんと区別つかないから、普通に書き込んでくれる?

289 :
>>286
>>神子田が改易され、信雄から感状もでてる
上記を証明できる書状の日付と誰から誰に充てたものかを教えてください。

290 :
小牧長久手の戦いの時系列データベースの論考に出てる

291 :
小牧長久手の戦い→「小牧長久手の戦いの構造」

292 :
神子田の改易は陣立書から名前がみえなくなる事から

293 :
土屋と何の関係がある話なの?

294 :
>>290>>291>>292
お前、チョンだから日本語が不自由なの?
俺は一次史料を要求してんの。もう一度書くよ。
>>神子田が改易され、信雄から感状もでてる
上記を証明できる書状の日付と誰から誰に充てたものかを教えてください。

295 :
神子田の改易→陣立書
5月8日に織田信純→香曾我部で秀吉が二重掘から敗北の体にて退却といっている

296 :
あとお前は馬鹿だから知らないようだが熊見川の戦いは東大史料編纂所HPの記載通りちゃんと
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
に出ている
あとで原文転記してやるから覚悟してな

297 :
きゃー怖いー

298 :
>>陣立書から名前がみえなくなる
違う場所へ転戦しただけだろw
信純=信張(同じ左兵衛佐だから)なのは有名だから知ってるよな。
んで、信張の名前で花押付きのものを
5/7に香曽我部に書状出してる。
そこには二重堀なんて出てこないぞ。
しかも秀吉は同月朔日にはすでに陣を
払っていることを報じているので
秀吉自体もいない。
(信張は撤退理由として秀吉が敗北の体にてなどと自称してるが)
それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば
秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
無駄な対陣しても仕方ないので
付け城を小牧に三箇所申し付け
軍を移動させ加賀野井城を落とし、
奥城では信長舎弟の信照を捕虜にして落城させ
明日から竹鼻城の包囲を開始すると書いていて
秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて
必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
5/9の家康書状にも二重堀で勝ったなど書いてないし、
5/9の信雄書状も秀吉が小牧から引き払って
濃州の境目に逗留してるから喰い留め置くべく一戦、
是非手合わせ油断べからずと書いてて
二重堀で勝ったなんて書いてない。
むしろ家康が消極的でビビっている反面、
信雄の方が秀吉にビビってない。

299 :
>>296
>あとで原文転記してやるから覚悟してな
誰か信用してくれるとでも?w

300 :
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝
3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ

301 :
>>298
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ

302 :
>>298
秀吉の部下どころか諸大名にあてた糞過大戦果ばかりの秀吉の妄想書状の継ぎ合わせで語る糞歴史なんぞしらん

303 :
>>298
屁理屈ばかりだな貴様は
敗北の体にて撤退っていってるんだから
二重堀の戦いに大敗して退却してった事を指してるに決まってんだろうが
三鬼氏の論考でも神子田は二重堀合戦の責任で改易されたと書いてるのも無視か
都合のいいつぎはぎ論法でいちゃもんつけてんじゃねぇよタコ

304 :
ID変更自演気持ち悪いですw
三鬼清一郎の小牧ネタなんて大昔の著作に何の価値があるんだよ。

305 :
>>304
はあ?小牧長久手の戦いの構造にのってる奴の話だけど?
学者の意見>>>>>>お前の妄想
なんて当たり前だ

306 :
>>神子田は二重堀合戦の責任で改易された
これ完全に妄想じゃんよwww

307 :
これ以降の陣立書から名前みえなくなるんだから細川家記のかいてるとおり
二重堀の合戦で改易されたに決まってんだろうが

308 :
細川家記は一次史料じゃねぇよカスチョンw

309 :
一次資料じゃなかろうと前後の経緯からすれば史実だとわかる>>303

310 :
秀吉厨は無知な上に妄想垂れ流ししかできないカス
死んでくれ

311 :
だいたい秀吉は体調が悪く
大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
キチガイ織田チョンは「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
しかも秀吉は大坂へ納馬する時もきっちり手を打っていて
上杉の新発田攻め計画を止めさせてて
8/2に上杉景勝が家康与党攻撃で北信濃出兵してるし(6/25の段階では新発田を討つため近日越後下郡出馬予定だったが)
続いて10/26には佐々を攻撃して越中宮崎城を攻略してる(来春には必ず下郡出陣したいと10/10には述べてる)
また中国四国戦線では毛利軍が四国へ上陸開始し
8/21には毛利軍の杉原就良が大筒を使って伊予の新居郡御代島の構を落として
そのまま伊予に駐留開始し、長宗我部は毛利への対応を余儀なくされ讃岐攻略作戦どころではなくなったw
そんな状況も知らない情報諜報能力の皆無な家康・信雄は長宗我部に三カ国を宛がうからと
執拗に執拗に上陸して秀吉の背後を襲ってくれ書状の連投(淡路すら長宗我部のものでないにも関わらず)
家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。

312 :
体調が悪いからとかんなもんただの言い訳だろ
最初から会戦しないか部下にまかせりゃよかっただけ
徳川方は春から特政・信雄領国は伊勢のみならず尾張でも会戦当初から寝返り続出と不利な条件だったんだから

313 :
夏の対陣のときでも徳川方は兵の半分を返していて(家忠日記)
総勢一万足らずだったとあるしな(当代記)

314 :
体調が悪かったなんて事書かれた史料あったっけ?
「見舞い」の事だったら戦場見舞いの事じゃないの?

315 :
大阪の二度目の対陣は蟹江合戦の敗戦により三河侵攻計画の前哨戦が頓挫したからだと
愛知県史資料編が位置づけている
あと二重堀合戦は家忠日記にある

316 :
歴ゲ板のノブヤボ過少過大スレでもコピペ垂れ流して、武田攻め語るスレでもこれまたコピペ垂れ流して…
関係ねー小牧長久手のコピペとかどーでもよくてウザい事この上ねーわ。
地下深くに沈んでる小牧長久手スレでも引き揚げてそっちでやれ
ホント、基地外が来ると伸びるんじゃなくて基地外が来て伸ばすだわな

317 :
秀吉厨が引き上げない事にはどうしようもない

318 :
秀吉厨R

319 :
われら甲州侍は、秀吉厨の暴虐が過ぎ去るまで地下に潜るのみ。

320 :
どこに秀吉厨がいるんだか
キチガイアンチが一人で吠えまくってるだけじゃん

321 :
秀吉厨R

322 :
哀れ…ほんと狂ってるなこいつ

323 :
秀吉厨は妄想で無理矢理擁護しようとする基地外

324 :
>妄想で無理矢理擁護しようとする基地外
なんかこいつ常駐でもしてるのかってくらい反応してるな
妄想も無理矢理も基地外も全部自分に跳ね返ってくるだけだろ
アホらし

325 :
>>315
>>蟹江合戦の敗戦
この戦いには、秀吉はなんら関わってないし
滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
反論あるなら一次史料で証明してみせろよ。
>>二重堀合戦は家忠日記にある
お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?
細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり
神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ
細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
5月朔日たる5/1には秀吉が小牧表から移動したと家忠が書いてる。
4/26時点ですでに秀吉は美濃鵜沼へ陣替済なのを家康は知っている。
ちなみに5/2付けで秀吉は犬山に加藤、羽黒に山内、楽田から小牧原は堀、
尾口西南は稲葉に守備を任せていると書いてる。
同じ5/2で秀勝らが竹鼻城攻めを開始いてるのが信雄書状でわかるし、
5/3に信雄も長島へ帰ってるのが家忠日記でわかる。
5/4に羽柴勢が加賀野井城の包囲をしてるのが家忠日記でわかる。
5/5の秀吉書状でも5/3に竹鼻・祖父江を放火しまくり
加賀野井城の外構を乗り崩し5、60討ち取り堀一重に押し寄せ陣取りと書いてる。
それに対して家康や信雄は救援すると口約束をするだけで見殺しにしてるだけ。
家忠日記のどこに二重堀合戦の記述があんだよ?

326 :
>>325
相変わらず馬鹿だなお前は
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが
大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうがカス
なんでも敗戦は部下に押し付けて秀吉を基地外論法で擁護してんじゃねえよこのチンカスゴミヲタ野郎

327 :
細川家記の日付が間違ってるだけだろ
家記家譜レベルならその程度の記述ミスはよくある
秀吉のマンセー太閤記や書状なんて日付どころか内容自体デタラメだからな

328 :
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝
3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ


329 :
上方の圧倒的国力&135000もの圧倒的大軍の豊臣軍が
わずか22000程度で寝返り続出中で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!!
敗戦!!!!
ってまるで漫画だな。
アホすぎる

330 :
>>326
>>滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事
だからなんなの?
俺が書いた文章がチョンだからちゃんと理解できてないの?
「この戦いには、秀吉はなんら関わってないし
滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
反論あるなら一次史料で証明してみせろよ」と書いてるのに
なんで滝川敗戦後の話を持ち出して、蟹江攻略が当初からの
秀吉の戦略の一環だったことの証明できんの?まったくできてないだろ。
秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
そもそも秀吉の出陣先は6/21書状から伊勢であり、蟹江じゃないから滝川の後詰めをしようとしていたわけでもない。
むしろ滝川がアホな敗戦したから7/5付けで秀吉は出陣日まで仕切りなおししただけだろ。
>>327
>>秀吉のマンセー太閤記や書状なんて日付どころか内容自体デタラメだからな
その軍記の太閤記にだけ「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてるんだがwww
家康がいる清洲城と信雄のいる長島城を分断すると馬鹿馬鹿しい講談話の妄想戦略だろ・・・
そんなことを秀吉が命じたソースはないし
滝川が自分の意思で調儀しただけで、
(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う
当然のように危険極まりない行為をしたために
滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で
7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。

331 :
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ。

332 :
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし
蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離
谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが
大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが
独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要

333 :
>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

37 :人間七七四年:2012/05/08(火) 20:36:13.43 ID:LbRJcoNr
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め

334 :
>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い

335 :
また無駄な長文コピペで逃げるのかよ・・・
お前いつもそうだよなw

336 :
>>335
お前は文盲かw
レスよく読め>>332-334

337 :
もはやたけだのたの字もないな

338 :
たけださんと おやまださんは 親戚?

339 :
>>336
俺の質問には一切回答しないで
コピペしてるだけじゃねぇかwww
俺は回答待ちして待ってるのにそのまま誤魔化す気満々だなw
秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
与える領地もない信雄は、吉村が今尾で放火した功を報告してきたことに対して
3/28に粉骨を褒めて、続く4/6にいまだに秀吉方の森寺忠勝の今尾城を与えると書き
さらに4/25には駒野周辺を守っていた高木貞利にまで今尾城を与えると信雄は家臣の土方雄良に言わせて
二重約束の空手形まで発行する背信までやらざる負えないほど追い詰められてる。
ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
これにより11/7になると信雄は完全に切羽詰って、吉村まで疑心暗鬼になって疑いだすんだよなw
長久保の福田別心と書いて秀吉の調略に乗って寝返りかましたことに触れて
日原まで平手大炊助を派遣すると書いた後に、お前の妻子は俺が預かってるとか
わざわざ恫喝してどーすんだよw
11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
この地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、
年次不明の2月朔の信長書状では今尾城の守備について
当時の今尾城主だった貞利の父の高木貞久に申し付けたとして
諸事相談して協力して守るように
吉村・木村・田中・西松ら近在土豪らに宛てた書状があり
ここらの顔役だった高木の降伏は家康・信雄らには完全に決定打だよ。
策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
士気が崩壊した信雄軍という状況は
秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。

340 :
>>296
>>あとで原文転記してやるから覚悟してな
それとこれもまだなのか?逃亡してんじゃねぇよ屑w

341 :
>>339
馬鹿かお前
>>332-334のなかにちゃんと反論が含まれてるじゃねぇかw

342 :
取り詰めるに陥落するなんて意味はないんだがこれで東駒野城が落ちたとか解釈するとかアホすぎる

343 :
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry

344 :
晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
手元にコピーがないが毛利家日記や荻藩閥閲禄にもちゃんとある

345 :
>>341
ねえよw
あるっていうんならそれだけを抜き出せよw

346 :
>>345
>>332-334全部

347 :
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉

348 :
>>346
>>339

349 :
>>348
>>332-334>>342-343>>347

350 :
>>349
>>345

351 :
>>350
>>332-334>>342-343>>347

352 :
>>344
それ原本すらない誰だかわからんやつが出したやつで
一次史料ですらない。
だからそれ引用する学者なんていねーぞ。

353 :
>>352
秀綱(花王)
ソースにならないという根拠は?

354 :
普段は学者の意見無視で蟹江合戦が独断とか妄想する癖に
こういうときだけ学者の意見引っ張ってくる馬鹿秀吉厨カスすぎw

355 :
せっかく原文が出てきたと思ったら捏造扱い
ソース出せ→史料出せ→原文出せ→捏造
秀吉厨からすれば荻藩閥閲禄も毛利家日記も>>344の文書も捏造文書らしい
マジで糞カスだな

356 :
>>351
>>348
>>353
その花押が真実秀綱のものと同一だとする研究は?
>>355
まるでだがさんみたいですね!

357 :
>>356
むしろ捏造文書とするソースは?

358 :
京勢数多討死=織田大敗
という安直な解釈が間違っているのでは?
京勢数多討死では毛利方がどれだけ討死したかは言及していないし
川中島でも武田方がそれこそ数多討死したけど防衛目的は果たしたと言えるし

359 :
>>357
むしろ?
意味が分からないんだけど
何に対してむしろなんだ?
その花押が真実秀綱のものと同一だとする研究はないんだろ?

360 :
そもそもソースあげたのになぜ前提が捏造文書という決め付けなのか?
ちなみに東大史料編纂所HP(史料編纂の項目?)でも
荻藩閥閲禄・毛利家日記とともに熊見川のソースとしてあげられているのに

361 :
何話逸らしてるの?

362 :
>>360
>>352からの流れ

363 :
話なんて逸れっぱなしじゃねーか
おまえら全員新スレ立ててそっち移れ

364 :
360 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2012/06/08(金) 21:09:31.88 ID:V1jd8lux
そもそもソースあげたのになぜ前提が捏造文書という決め付けなのか?
ちなみに東大史料編纂所HP(史料編纂の項目?)でも
荻藩閥閲禄・毛利家日記とともに熊見川のソースとしてあげられているのに
362 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2012/06/08(金) 22:26:28.66 ID:V1jd8lux
>>360
>>352からの流れ
どういうことだ?

365 :
東大史料編纂所に書いてあると指摘したら
引用元まで書いてあるのに史料じゃねえから原文出せ
せっかく図書館で調べ上げて原文書いてやったら
一々根拠もつけずに妄想文書扱いとかもういい加減にしてくれ
ちゃんとした史料をあげたんだからちゃんとした論文なり史料なりで反論してくれ

366 :
信長って過大評価だよな。本当に天才なら本能寺で光秀討ち取れよな。

367 :
秀綱って誰のこと?そんなヤツいんの?
つか秀吉が敗走なんてどこにも書いてないじゃん。
なんつーか毛利の場合は捏造文書三昧だからな。
折敷畑合戦を証拠立てる文書
五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。http://samuraiworld.web.fc2.com/rediscoverofhistory-thebattleofoshikibata.htm

368 :
出た。基地外秀吉厨

369 :
>>29
昌景が長篠で生き残ってればその後は大きく変わったんじゃない?
高天神城の失策もなかっただろうし

370 :
勝頼が最も望んだであろう織田軍との野戦の機会が最後に訪れたのに戦えずに敗北
しかも相手は信長じゃなくて信忠
軍勢も功に焦って突出しまくってる
武田軍が2万もあれば諏訪で撃破できてたんじゃね?

371 :
>>368
つか荻藩閥閲禄や毛利家日記なんて原本書状のない捏造文書集じゃんよ。
しかも覚書や家譜や由緒書とか藩士が先祖の功績を捏造して提出しまくりで史料価値ゼロ。
一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
そこには馬場を配下にしてる山本勘助が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
これ毛利家臣の山縣平八が萩藩に提出した先祖の凄さと自家の格式向上のための捏造で、
明らかに甲陽軍鑑を熟読して、それに沿った内容を書いて提出してるwww
こんなもんに書いてある内容なんて、まったく史料として扱われてないわ。

372 :
>>371
お前の馬鹿な妄想なんてチラ裏にでも書いてろ

373 :
東京大学史料編纂所HP
毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記

[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記

[参考]柏崎物語
【管理番号】
020100216456
【編/冊/頁】
10編911冊179頁
【綱文和暦】
天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】
毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、

374 :
晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎衣左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八
 
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 
輝元 御判

375 :
それは武田が総崩れ状態だったから
まともに軍勢を出してきたなら信長本体と合流してから決戦だな

376 :
まぁ穴山が裏切る以上野戦は無理だわな
もし穴山の裏切り情報が届く前に諏訪あたりで激突してれば面白いが
地の利は勝頼にあるだろうし

377 :
でももし諏訪で信忠がフルボッコにされてたら後々家康の主力になった旧武田兵が根絶やしになってたかもね

378 :
まぁ毛利の場合、毛利家文書・吉川文書などに収録されてるのが
一次史料であってそれ以外は誰も引用しない偽文書だらけだからな。
でもその一次史料ですら、
これらの文書の原本は吉川家だけにしかなくて黒田家には伝来せず、
毛利宗家が編纂した『毛利三代実録考証』や『大日本古文書』にも収録されていない。
そのため、これらの手紙は吉川家が偽造した偽文書
こんな酷い状況だからな。


379 :
どちらにしても、上月城の尼子氏が毛利氏に滅ぼされた、というだけの戦いにここまでこだわる理由がわからん

380 :
東京大学史料編纂所HP
毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記

[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記

[参考]柏崎物語
【管理番号】
020100216456
【編/冊/頁】
10編911冊179頁
【綱文和暦】
天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】
毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎衣左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八
 
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 
輝元 御判

381 :
>>444
そんな毛利家臣団の先祖マンセーで偽造大会やって提出した
原本無しの写しを、マトモに信じてたら
淡河合戦とかも史実になっちまうしwww
しかも毛利側の淡河氏が羽柴秀長に勝っちゃうのに
なぜか淡河の地を手放して撤退する謎行動www
さらに鳥取城が落ちた後にかけつけた元春が背水の陣で
秀吉を威圧してビビらせたから秀吉は逃げたとか
尼子残党の山中鹿介の上月城を救援に来た羽柴秀吉を追撃して勝った話だけでは
飽き足らず、毛利軍は全勝不敗の神の軍になっちまうわけだがwww
毛利の史料は捏造だらけ。
せいぜいマトモなソースを出して語りたいなら最低でも
家わけ文書の毛利家文書・吉川家文書・小早川家文書に載ってるもんを出せよアホ。

382 :
お前の妄想願文なんぞ知らん
日記や書状は一次資料だ。

383 :
その定義だと写しでも一次史料だな

384 :
そもそもほとんどの史料なんて写しじゃねぇかw

385 :
横田尹松って家康に内通していたんじゃないの?
気になる点
・のちのち5000石の大身旗本になっていること(他の武田旧臣は一部を除いて数千石がせいぜい)
・高天神の後詰は無用と勝頼に言ったことのは高天神が徳川の手に落ちれば武田の威信が下がることが分かっていたからではないか?
・家康が横田を討ち取らなかったこと

386 :
>>385
>・家康が横田を討ち取らなかったこと
内通か?

387 :
上杉景勝って戦場では凡将としか思えないんだが
やはり御館の乱で反景勝派を一掃できたのが上杉崩れを避けれた要因だろうね
中途半端に景虎取り込んで新政権作ってたら中から崩壊してただろうな
武田勝頼にとっては中に不満分子抱えたのが不運だったな

388 :
>>381
アホみたいに豊富に作られた毛利家臣たちの
偽文書を盲信した結果が
元春・隆景の全勝無敗の完全無欠天才マンセーだからなw
そんならなんで秀吉1人にどんどん追い詰められていくのよとw
全勝無敗の圧倒的な知略と武力を持ちながら
本願寺も荒木も別所も波多野も赤井もみんな滅亡。
大友にすらボロ負けしてるのが現実なのに完全隠蔽してるしw
宇喜多や南条や三村や村上水軍に離反されるとか説明不能すぎるだろwww
しまいには関が原の戦いの責任を三成に押し付けてる始末www
ついでに吉川広家が一次史料で偽文書を作成して自己擁護www

389 :
>>380>>382>>383>>384
学者も論文での一次史料ソースとして利用している
東大が編纂出版してる大日本古文書における
所蔵者ごとに編纂した家わけ文書の
第8巻毛利家文書・第9巻吉川家文書・第11巻小早川家文書の
中からはやく毛利が秀吉に勝った書状を出せよ。

390 :
陰徳太平記の事を史書だと思ってる馬鹿
大日本古文書にのってるのただの一部ってだけだろ
加茂合戦で大敗したのとかも荻藩閥閲禄にちゃんとのってるし

391 :
史実の虎倉合戦
宇喜多の攻勢により備中・美作で敗勢著しい毛利軍が巻き返しを図るために
輝元・隆景・元春まで出張ってきての虎倉城攻略作戦で(虎倉合戦)
10万石前後の小勢であった伊賀久隆にまんまと毛利軍が大敗し
粟屋元信など大物が討ち取られる。
萩藩閥閲録・毛利家日記
あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
毛利軍は有漢から福山への陣替のために
近習が夜に先発し移動開始したけど
現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。
そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、
これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。

392 :
アホか。一次資料でも味方の負けは歪曲して過小に書くのが史料
大体家わき日記にのってるのなんてろくな数もないし
戦に勝った戦勝報告とかもほとんどないじゃねぇかw

393 :
>>392
ロクな数ない???えっ?いくらなんでも余りに無知すぎるぞ。
各家わけ文書の中でダントツにもっとも
ボリュームがあるのが
吉川家文書・小早川家文書・熊谷家文書・三浦家文書・平賀家文書・益田家文書等が
大量に編纂収録されている毛利なんだが(次点が伊達家)
しかも書状案という後で
藩や支藩が公式に捏造した文書まで
収録してあると言う捏造の温床ぶりだけど。
他の大名家は毛利よりはるかに少ない一次史料で
戦国板で論争してるわけだがwww

394 :
まだ粘着していたのかこの毛利アンチは
気持ち悪いな

395 :
信玄時代からの悪政のつけが一気に噴火してしまったって感じか
信玄自体が裏切りし放題だったし、人の褌で相撲ばっかとってたしね
因果応報っていうやつやね
「腐った建物は、戸を蹴破れば全体が崩れる」
と信長が言ったとか言わなかったとか

396 :
信長って案外同盟に関しては義理堅いイメージあるよな

397 :
腐った建物は、ヒトラーさんがソ連に攻め込んだときだお。

398 :
おまえ仙台藩百姓だろw

399 :
あいつは津波に飲み込まれたんじゃないの?

400 :
>>396
江土義絶の大義名分はなんだったん?

401 :
>>400
あれは末期の話だからなぁ

402 :
キチガイ織田チョンがやたら毛利家日記を
日記だから一次史料とか無知を晒して連呼しててワロタw
それ長州藩が藩史を編纂する時に藩士に
提出させた原本存在しない写しを日記形式でまとめただけなのにw
軍記を手本に先祖の功績をデッチあげた捏造文書を
わざわざ東大が家わけ文書に関係文書として
未来永劫、編入するわけないだろ面白すぎwwwwwwww
リアルタイムに日記を当時を生きた人間が書いていたと
大きな誤解をしてる時点で
毛利家日記を読んだことないのバレバレw

403 :
アスペルガーだがの自作自演工作のリスト
ID:sqRAU7+v=ID:1HdwEKIH
大友氏について語ろう2
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268011621/790
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268011621/792
【戦国の金】 朝倉義景総合スレ 【官職】
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152866449/790-796
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152866449/797-798
織田信長は過大評価されすぎ11
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/81
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/83-86
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/106-107
武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part3
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/291-293
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/304
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/307
天正10年の武田攻めを語るスレ 4
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/388-389
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/391
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/393
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/402
関ヶ原の西軍の真の首謀者は毛利輝元だったのか?
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320241565/873
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320241565/878
武田信玄上洛成功part2
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328457980/459
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328457980/493
自演がバレてないとでも思っているのか?
おまえ馬鹿だろ?


404 :
木曾懲罰のつもりが自分が懲罰されちゃったwww
by勝頼

405 :
木曽谷とか捨て置けばよかったんや

406 :
信忠のかませ犬の役目さえも果たせなかった勝頼
信玄は家康の良い踏み台になれたというのに

407 :
勝頼は自業自得とは言え、最後の2ヶ月は辛かっただろうな。

408 :
勝頼というより
親の因果が子に報いだけどね
信玄が滅茶苦茶やり過ぎた

409 :
まぁこれは仕方ないでしょ
現在に例えれば
野田が採決で勝てると思ってる(野戦で撃破すればいい)
小沢が裏切った(木曽が裏切ったか、あいつは最初から信用してない)
採決で60人反対、離党(信豊が木曽に返り討ち)
前原や鳩山も裏切る(穴山が裏切る)
野田崩れ(みんな逃げ出す)
見通しが甘かったとしか

410 :
義信が信玄追放出来てたらと思うと忍びない
名門甲斐武田氏がこんな惨めな最後を遂げる事もなかっただろう

411 :
>>410
義信ってかなりディスられてるけど実際はどうだったんだろうな

412 :
>>410
追放に成功していたら織田と同盟は組まないだろうからね。

413 :
親の因果の直撃弾で速攻で殺された信忠・・・

414 :
もし信玄が追放されてたら、どこで居候してたんだろうなww

415 :
クーデターが成功していた場合勝頼は織田の姫貰ってるし信勝も生まれてるしで
かなり微妙な立場に置かれそうだな
謀殺されかねないね

416 :
勝頼は親父が一生涯かけて取った信濃が織田に1ヶ月で侵食されて申し訳ない気持ちで一杯だったろうね。

417 :
そもそも勝頼があっけなくほろんだ理由は何?
家臣の裏切り?

418 :
>>416>>417
浅間山噴火のために
諏訪から甲斐へ戻ったため
浅間山噴火は武田滅亡の怪異と前兆と噂されたほど。
北条も10日以降、甲斐から情報が一切入らなくなったと
すでに大噴火の予兆での被害が感じられるし。
家臣の離反も浅間山噴火がキッカケになってると言える。
それゆえ勝頼夫人が武田八幡宮にかな書きの願文で
19日に勝頼に何の咎があると言うのか!と天意に訴えている。

419 :
2/20に北条が陣触れを行い、
2/21西上野
三巴川での戦功を氏邦が感状発給してる。
そして2/23の信長書状ですでに勝頼撤兵の真偽を問いただしている。
穴山が甲府の人質を奪還したのが信長公記によれば2/25であり
同じく信長公記では勝頼が穴山謀反を知ったのを2/28としてる。
2/29に穴山が家康へ使者を送り降伏条件について話合いをしているのが書状で確認できる。
家忠日記から3/1に家康は家中に穴山服属を公表してるのがわかる。
3/2高遠城落城。
穴山がはっきりと武田から謀反の意思表示をしたのも
徳川だけでなく、北条まで伊豆へ侵攻してきて
挟撃されるのが確定したから。

420 :
武田家代々続く基盤のもろさのせいだろ
信玄は運よく大敗した時に重臣が死んだからな
単に挽回の期間があったか無いかの違いだろ

421 :
砥石崩れか
あれはその後で小笠原叩き潰したのがデカいな
勝頼で言えば長篠大敗後でも徳川叩き潰してればなぁ

422 :
>>417
先代の空手形のツケ、自身の外交戦略のミス、過重な軍役負担

423 :
>>421
その意味でも信玄は幸運この上ないよな
それで上洛できなかったって事は彼に天下人の芽は無かったって事でしょ

424 :
>>410
その場合、今川との同盟は継続だろうけど金銭の工面どうしてたんだ?
だいぶ今川領を奪ったから潤ったと思うんだけど。
勝頼もだいぶ財政難に苦しんでたし義信が追放成功してても財政破綻してそう

425 :
>>421
もうちょっと武将の損失が抑えられていればそれもできたかもしれない。
一度に42人の足軽大将以上の武将が戦死したらしいからな。
そりゃ質も下がる。

426 :
義信はどうしてただろうね
専守防衛みたいな感じで無駄な戦をせずに
信濃・甲斐の発展に尽力したみたいな

427 :
北信で上杉とやりあって
遠江・三河で今川のために戦って
東美濃から織田領に侵攻かな
まぁ国が疲弊して滅亡しそうだが
義信って案外律儀っぽいから上杉とも和睦できそうだがw

428 :
信玄にとって甘利虎泰も板垣信方も死んだら死んだで良い武将だったからなぁ
若い信玄が彼らと一緒にずっとやっていけたかは疑問

429 :
史実の信虎追放は別に信虎の奇行とかが原因じゃないからなぁ
豪族連合の甲斐特有の事情のようだし
ある意味信玄が高坂とかいろいろ取り立てて言ったのはそういう豪族連合とのバランス取るためだろうし
板垣、甘利の死はもっけの幸いとも言えるんだよなぁ
勝頼も信豊や穴山を最前線で使って戦死させてればねぇ

430 :
>>427
志賀の陣の直前で東美濃から織田領に侵攻してればどうなったかな。
ただ武田が織田と敵対状態で志賀の陣が起こるかという問題が有るけど。

431 :
>>429
御親類衆は勝手に逃げちゃうからなぁw
あいつら死んでたら長篠で命令系統の混乱とか起きなかったしどうなってたか分からんし。
一条信龍や信廉は生きてて欲しいが死んでくれてても問題の無い範囲内かな。

432 :
一条信龍とか何したか分からん武将なんか居ても居なくても同じさ

433 :
無知を自慢しなくても

434 :
信玄の兄弟はそれなりに存在意義があるのに
信玄の息子は最後まで戦ったのに
穴山とか信豊ときたら・・・

435 :
穴山って山県に褒められてたんだよね?

436 :
>>433
一条って派手好きだとか重要ポストだってくらいしか資料には書かれてなくない?
小説とかなら伊勢物語の紛失事件起こしたりとか色々やらかしてくれてるけど

437 :
強すぎる大将の悲劇

438 :
>>429
為景も最後は引退を強要されて
失意のうちに死んでるからね。
結局、当主権力の確立に失敗してる。
宗麟なんかも父が暗殺されて擁立されてるし
傀儡スタートで実力を示して
立場を逆転させていく過程はおもしろい。

439 :
信濃の民衆は織田軍を解放軍として熱烈歓迎,率先して悪逆非道な武田の残党狩り
に参加したとか

440 :
えっ?解放軍なんて概念自体が
この時代にあるわけないし、
そもそも、じゃあなんで森長可や毛利秀頼は信濃から逃亡してんだよw
解放軍なら木曽だって裏切らんだろwww

441 :
逃げたんじゃないよ。
信長の敵討ちのために畿内に進軍したんだよ。

442 :
信長の仇討ちを本気で考えていたのは秀吉だけ。
他の織田家臣は自らの領地が混乱してるのも
抑えられずに茫然自失してたに過ぎん。
なんせ尾張まで混乱しまくりなんだから。
しかも本願寺に頼むから協力してくれとか泣きの書状を連発してたのが
この時期の織田家臣www
16・17世紀イエズス会日本報告集
光秀は市のどこにも火を放たなかった。
重臣を1人配置して、予期される戦に備えて
2.3日後には京を離れていった。
そのころ安土では略奪が行われ、家々を荒らして家財を盗み
路上では追いはぎを働くことが横行していた。
このことは安土だけでなく、堺から美濃及び尾張までの道程
6.7日のところでも同様であり、ここかしこで殺人が行われた
これほど甚大なる荒廃をもたらす様子は
まさに地獄がこの世に出現したかと思われるほどだった。

443 :
ちぐはぐだったのは間違いない

444 :
信長包囲網で姑息なチキン信玄が徳川さんから領地横取りしようとしたのが
そもそもこの武田征伐の遠因だからな、自業自得なんてもんじゃない
ビビリはビビリらしく信長公に忠誠を誓って細々やってりゃ良かったのにな
時代の流れを読めずに覇王信長公に刃向かったが為に惨めな最期を遂げた
浅井・朝倉・武田は戦国三馬鹿トリオとして後世に名を残しましたとさ

445 :
信長は本願寺と一向宗に追い詰められ困って
信玄に和睦斡旋の土下座をして哀願しておきながら
裏では岩村城を奪うなど、姑息な信長に激怒した信玄。
まさに外道。

446 :
老害が激怒して滅ぼされた間抜けな武田家のスレはここですね

447 :
どうみても姑息なのは信玄です、本当にありがとうございました

448 :
姑息な信玄厨なのも頷けるわ
こんな人間の屑を慕ってるとか

449 :
信濃衆からフルボッコ
よっぽど信玄を恨んでいたんだろうね

450 :
信玄の恐怖政治の呪縛から解放されたらみんな好き勝手やるのは当たり前
それは織田家臣にも言える事だし

451 :
織田があまりにも驚異的に強過ぎたのか、武田が有り得ないくらい雑魚過ぎたのか
何れにしても、武田が吹けば飛ぶような薄っぺらい存在だった事は間違いない事実w

452 :
でも火山が噴火するまで手も足も出せなかったよねw

453 :
×火山
〇入り口である木曽の裏切り
後は穴山の裏切りもでかいな
攻めづらい山岳地だから入口も無しに入るのは無謀

454 :
高天神の後詰めも出来ない程弱体化しまくっていた
のだから滅亡するのはもはや時間の問題だった
信長公お得意の調略が功を奏したのは勿論言うまでもないが

455 :
>>453
一門に裏切られてる時点で絶望的。
しかもその木曽義昌すら満足に倒せず逆に鳥居峠で返り討ちにあうという有様
信長で言うなら稲生の合戦で織田信勝にボコボコにされたようなもの。
こんなのでどうやってひっくり返そうというのか

456 :
高天神は痛かった
あれで最前線の木曽に不信感を与えてしまったのは確実
しかし、武田が雑魚過ぎたのが一番の原因
勝頼は影勝の爪の垢でも煎じて飲むべきだったな

457 :
勝頼云々の問題ではないね、信玄があまりにも酷過ぎた
外道非道の信玄こそ義の人謙信公の爪の垢を煎じて飲むべきだった

458 :
本願寺が織田主力を畿内に引きつけれない時点でどの勢力もつんどるわ。
後は各個に撃破されていくだけ。
まぁ武田は本願寺と言わず長島も助けれないからな。
最強の武田水軍(笑)で長島くらい救えよ。

459 :
>>458
だがによると最強の武田水軍は長島を焼き討ちして全滅させたらしいよ。

460 :
>>459
長島の虐殺は武田がやったって言い張ってるのかw
最悪集団だなw

461 :
>>454
信長が甲江和与の詐欺してたからだろ。
高天神城は3年も籠城し続けていて
徳川はかなり苦労してるね。つか一次史料を読むと
天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)
実際、下総結城水野家に伝わる
1/25の信長書状から考えるに
岡部またはその周囲は徳川の調略に応じて
降伏する意思を示していて
信長が認めないって態度なんだよね。
だから徳川へ内通しようとしている岡部が勝頼への報告で
高天神城はぜんぜん平気と言っていてもおかしくない。
北条に圧勝中の勝頼が高天神城の実情を理解してないのも無理はない。

462 :
>信長が甲江和与の詐欺してたからだろ。
そりゃ騙されるほうが悪い、の一言で終わってしまう

463 :
武田は動物だから頭が悪い。

464 :
高天神の救援に動いた場合、織田も少なくとも信忠は出てくるだろうが、どのような展開になるだろうか?

465 :
>>464
信忠が出てくるなんて
捏造軍記のウソ長公記がソースだろw
アホくさ。

466 :
信長公記は日記
甲陽軍鑑は講談
間違いはいい加減正そうな?

467 :
あいすみませんでした・・・;;

468 :
>>461
しかしなぁ、武田が弱体化していたから木曾が裏切ったんだろ?
武田が健在な状態でそもそも何で木曾が裏切る必要があるの?
木曾征伐に2万で出兵して逆に凹られて敗走だぞ
武田が弱体化し切っていた何よりの証拠じゃないの

469 :
裏切る要因が従属先の弱体化だけならな

470 :
>>418>>419
信長公記の武田征伐話はデタラメばっかりで信用性ゼロだからな。
俺が一次史料を書いてあげよう。
大分県でも観測された浅間山超噴火が14日。
2/15付けの信長→滝川書状の中で
我々出馬儀 無油断令用意候て 一左右(いっそう)相待候 
能々見合候て 発足之日限可申上候 
などと書いてあり、信長は自分の出馬まで油断なく用意して待つように
よくよく見合わせて出撃のスケジュールを俺に申しあげよなどと命じている。
いまだ織田軍は信濃・美濃国境線上で待機していて
本格的な侵攻をしていないのが判明する。
また信忠が若いので働きして名を取らんとする気色があるので
俺が来るまでちゃんと抑えるのだ。もし失敗したら2度と俺の前に出ることは許さんから覚悟しろ。
2/23の信長→川尻宛の書状では
19日の書状報告を読んだ信長が飯田・大嶋が落居したので敵の城は高遠城だけだとのこと。
高遠攻略のためのしかるべきところに2.3の伝城を普請するように。
高嶋(諏訪)に在陣していた勝頼は甲州へ引き退いたとの話だが
韮崎の新城はまだ完成してないし城域が手広いが(この後に四郎無人之由と書いてる)
籠城するのであろうか、例え人数が多かったとしても
この状況では退治するのは簡単だろう。
信忠が軽挙しないように滝川とも相談してよく申し聞かせよ。
森や梶原が談合せずに進軍したとのこと。若きものだから粉骨して名を取ろうとしてるのだろう。
また俺へ褒美などで訴訟する種とも思ってるに違いない。
アホな働きは無用だとよくよく申し聞かせよ。
高遠の陣取りはよく相談してのちのちのことまで示し合わせて落ち度ないように。
(この時期になると森や梶原が信長の命令を無視する行為を公然とやりだすのがわかる)
2/28の信長→川尻
大嶋を武田側が明け退いた内容について重ねての説明を聞いた。
(やはり武田が組織的抵抗できずに逃亡を重ねてるのがわかる)
道を作れ。あちこちに作りまくれ。そうすれば撤退する時に役にたつ。
俺の出馬前に急いで作れ。進軍とかしなくていいから作れ。
大百姓は草が靡くタイミングをよく知ってる。そういう時に役にたつ。
勝頼は俺が出陣して叩くから進むんじゃねぇよ。この命令は信忠や滝川にも申し伝えた。
とにかくつなぎの城を普請することに集中しろアホども。
上記と同じ日付の2/28の信長→川尻
高遠へのつなぎの城を作るよう申し伝えた件、お前が皆に尋ねはよやれや。
(追加で出した書状か。どうしても厳命したいようだ)

471 :
3/1の信長→川尻
26日の書状読んだわ。21日に命じた俺が出馬する前までの伝城作りの件、
25日に返信がきたが、信忠やそのほかの者に申し聞かせたそうだな。
今後もその調子でこのことに集中して油断すんな。
俺は5日に出馬し、やがてお前らに会うので、それをもって討ち果たすのだ。
その意はたびたび申し聞かせているはずだ。少しも進軍してはならない弱敵と侮るんじゃない。
森と梶原が言うことを聞かないようで曲事だ。若き者ゆえ俺に訴訟する気だろ。
俺がまだ進発してないのだ。信忠に固く申し付け候はぬ話である。
これにつき俺が進発した時に異議に及ぶこと許さない。とにかく固く守れ。
高遠の町を燃やしたのはよくやった。信忠・滝川・小川・水野・高橋の陣の前進設営について
聞き届けてやろう。しかしそこから先へは進むんじゃねぇぞ。
3/3信長→信忠
29日の注進が今日届いた。穴山が謀反したので勝頼が甲州北へ逃亡したとか。
穴山が内々に申していた話が実儀となったようだ。
よって陣を大嶋から飯嶋へ移すのも是非もない。しかしそれ以上はす・す・む・な・!
俺がちかじか出陣し手間なく討ち果たすんだから。これは川尻にも言ってある。
3/5の信忠→坪内(偽書状写しの可能性あり)
高遠城陥落の際しての坪内への感状
3/8の信長→柴田
5日に安土を出陣して今日は犬山。2/28に勝頼が居城を焼いて山奥へ逃亡したので
先手には甲州へ討ち出させた。信忠も同じように甲州だ。
俺が出馬する意味なくなったけど連々と関東見物を望んでいたことだしな。
3/13の信長→柴田・佐々・前田・不破
武田を滅ぼしたぞ。
3/17の信長→松井
穴山の忠節のおかげで、俺が出馬すると。日限から路地まで色を立つべきよし(一揆蜂起させた)
あちこちに風聞させてくれた小山田が滝川と心を合わせて14日に勝頼を討った。
典厩も小諸城で出羽守が忠節してくれたので首が到来〜長いので略〜
このことを秀吉へも伝えよ。
3/27の信長→木曽
本領安堵ならびに加増

472 :
本格的な侵攻をする前に崩れた雑魚武田w

473 :
天変地異を天皇の神威とか吹聴してたくらいだからなー
当時の人々は迷信とか盲信してたし
将軍足利義持の時代に対馬へ朝鮮軍が攻めてきた時も
軍神が現れたとか出雲大社から神功皇后?のような女武者が活躍したとか、
根も葉もない話がガチで信じられて、さすが神国だとか言われたからなw
ちなみに敗走した朝鮮は、日本がキレたらビビって
日本を攻める気持ちなんて無かったんだよ!
実は背後に中国軍が2万の船で来てたけど
台風で全部沈んだとかデタラメ吐いてるw

474 :
信長公もびっくりのあっけない武田滅亡劇でした
所詮は張子の虎だった甲斐のホモとその馬鹿息子

475 :
まぁ大分県でも観測できたほどの噴火じゃあ
正直、戦争どころじゃないだろね。
災害を好機と捉えて侵攻するのは褒められたもんじゃないけど。
災害直後と違って一応落ち着いた100日後には
織田軍は武田残党によって甲斐の経営を任された川尻は逆さ釣りにされて虐殺されて、
織田軍は甲斐、上野・信濃からフルボッコされて逃亡してるし。

476 :
まあ本当にそんな噴火があったなら補給線が伸びきった所敵地にある
織田軍のほうが不利なんだけどな。
きっと武田方にだけ火山灰が降り注ぐ奇跡の噴火だったのだろう。
これは武田の悪政への神々の懲罰だったのかもしれないね。

477 :
>>476
実際問題、この甲州攻めで織田軍は、短期間だったにもかかわらず極端な兵糧不足に陥り
足軽の脱走が続出しているし、同盟軍の家康から兵糧の提供を受けたりしている。

478 :
火事場泥棒する側が不利とか主張する基地外ぶりが織田厨クオリティw

479 :
北条早雲も伊豆が津波被害で崩壊してた隙を狙って
伊豆を盗んだんだよな。

480 :
極端な兵糧不足で兵卒の脱走が続出している織田軍に瞬殺される武田軍クオリティ。

481 :
九州でも観測できたが関東からはなにが起きたかさっぱり判らず
織田の進軍を横目で見て恐る恐る出兵して乗り遅れた程の噴火

482 :
九州で浅間山噴火が見えるわけないだろ
列島全域は連動噴火を起こして九州のどこぞの山が噴火しただけだろw
てか
織田との同盟を破棄し、執念深い信長に睨まれた段階で武田家終わりだろ
武田滅亡を防ぐためには今川織田と同盟を維持しつつ、斉藤攻めだろ

483 :
信長から勝頼に和議の話あったんじゃないの?
それでも徹底抗戦唱えて二次包囲に参加したから滅ぼされたって前スレで見た

484 :
謙信や丹波の赤鬼が死ぬなんて想定外だったから勝頼は拒否った。
でも毛利さえ約束通りにちゃんと出兵してくれたら、
まだ勝頼にも充分に勝つ可能性はあった。
毛利が小早川と義昭の播磨兵力集中決戦主張を
ヘタレ吉川が拒否って手薄な山陰への行動を唱え方針対立したり、
毛利がアホ過ぎた。
義昭も吉川に、別所や荒木を救えば、山陰なんてホッといても味方に転がるのにバカじゃねーの!と戦局が読めない元春を嘆じてる。

485 :
長篠の戦で大虐殺されて命からがら逃げ伸びたけど
織田軍恐怖症に陥った屁垂れ武田軍は岩村・高天神を見捨て
織田軍が攻めてくると知ると小便ちびって逃げ出す始末


486 :
>>482
豊後で浅間山噴火の話はフロイス日本史に書いてある。
豊後には宗麟が保護していた教会があり
当時は海外貿易が盛んな一大貿易港。
慶長豊後地震で別府湾にあった瓜生島(沖ノ浜)と久光島の2島が
沈むまで、その巨大利権があり、秀吉が大友義統を改易して
豊臣恩顧武将たちに分割支配させたとも言われている。

487 :
秀吉の指は6本あったとか角が生えてたとか

488 :
6本指は多指症で発生率は高く珍しいもんじゃない。
フロイスだけでなく、
朝鮮人の看羊録や利家の言語録にも指6本あったと記されている。
無知な織田チョンがそれを知らずに、
フロイスが信長をボロクソに書いてる部分への反論で、
信じていた信長に裏着られた結果が
神格化した信長でありそれを貶したのであって
キリスト教の敵になったからだ。
キリシタン禁止した秀吉を指6本の悪魔と貶したりしたのと同じと主張して、
恥をかいてる前科あり。

489 :
>>485
武田軍のチンカスぶりには辟易させられるよな
こんな雑魚なのに織田と同列で語る馬鹿がいて笑えるわ
武田軍なんてフナムシみたいなもんだろ

490 :
      ∨
   |/-O-O-ヽ| ブツブツ・・・
   | . : )'e'( : . |
   ` ‐-=-‐
   /    \
||\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
||\\.          \      ∧_∧
||. .\\          \    ( ;´Д`) (オイ、なんか基地外がいるぞ)
.    \\          \ /    ヽ.
.      \\         / .|   | |
.        \∧_∧   (⌒\|__./ ./
         ( ´,_・・`)Rばいいのに ∧_∧
.         _/   ヽ          \  (     ) 精神病院行けよ

491 :
信玄6万対織田軍1万w

492 :
六万もいて山を背にいつでも逃げれる場所で徳川いじめてたのか
雑魚いな
それで結局上洛失敗とかwww

493 :
雑魚武田軍が織田軍を倒すには10万以上の大軍が必要
だから信玄はひたすら織田を避けて戦った
しかし次代には受け継がれず長篠でボコボコにされた
天目山でも文字通り瞬殺される

494 :
本能寺で蘭丸とホモってる間に囲まれてみっちゃんに火達磨にされた糞雑魚ホモ長信者のRースレwww

495 :
下品極まりないレスだな

496 :
>>494
織田厨のような韓国面に落ちてはいけない
こんな程度の低い奴らに合わせる事は無いぜ

497 :
アンチ豊臣政権の織田チョンが日本史板・アニメ板・三戦板・歴史難民板・大河板・軍事板に
むりやり輝元や家康をマンセーして三成や秀吉を罵倒中傷100レス以上のコピペ大量絨毯爆撃して
スレ内の文字数制限に引っかかってスレ落ち直行しててワロタw
晒し上げw

498 :
信玄が生きてたら信長が岐阜城で土下座してたのはまちがいないな。

499 :
織田領はおろか徳川領で野田城ごとき攻められず
冬の二月に1ヶ月も野営しいて体壊した挙句のたれ死んだ信玄が言っても・・・

500 :
>>498
牛裂きの刑の後石打の刑にしてさらにを鋸引きにして生きたまま目ン玉刳り貫いてチンコ切断して尻から槍で突き刺して口にホモ長のチンコと糞を放り込んでやれば良いよね

501 :
野田城で手ぐすね引いて信長の援軍待ちしてたが、
岐阜城で震えてヒッキーしてたので、
信濃から美濃への峠も雪解けしたので、
野田城落としました。

502 :
最初から織田領攻めろよw

503 :
信玄は本命を攻める前に陽動をかけることがよくある。
小田原城攻め→三増峠→本命の駿河攻略
三河攻め→三方ヶ原→美濃攻略

504 :
>>500
お前の品性が表れてるな
>>502
織田攻めたらフルボッコされるんだから、攻めるわけが無い

505 :
大体野田城に織田の援軍が来るわけねーだろw
徳川には既に援軍送ってるんだからこれ以上やる必要はない
長篠みたいな信長余裕ケースと一緒にするなよ。

506 :
>>503
武田厨の質の劣化は酷いというか
もはや自分都合でしか歴史を語れなくなっているな
人間こうはなりたくないね

507 :
甲陽軍鑑もこうやってできたんだろうな
あの時はー、とか、もしこうならー、とかしか言えないなんて
滅亡した大名なんて哀れなもんだ。
武田と上杉、どこで差がついたんだろうな

508 :
>>507
あと一歩で上杉滅ぼせたのに本能寺の変で大逆転されてどんな気持ち?w

509 :
残念だったとは思うが後世に大名として存続できたので何とも思わないなw
何も上杉を滅ぼすことが天下統一とはかぎらんからなw


510 :
ラッキーで膨張してきただけで裏切られまくりの糞長に天下なんか最初から取れるわけねえじゃんwww

511 :
田舎大名の嫉妬は醜いなw
信長はおろか信忠に勝てず、信雄にすら勝てない、親子そろって織田に勝てない雑魚武田の末路は哀れよのw

512 :
>>511
確かに織田の奴らの基地外さ無能さは群を抜いていて勝てないわw

513 :
まあそうやってこき下ろすしかできないもんな、織田に負けたやつらは

514 :
>>513
結局そこなんだよね。
「どうあがいても武田は織田に勝てなかった」という純然たる事実があるから
これが徳川や毛利とかだとそうはいかない。けど武田はどこを切り取っても織田に劣る。
だからだがみたいに「武田は織田にー」って言い出すと噴火のせいとか、
自分に都合のいいご都合歴史でもしないと無理なんだよなw

515 :
>>507
武田と上杉は単に運がいいか悪いかの差だと思うよ。
実際本能寺がなければ上杉だって滅亡確定だし。

516 :
一次史料による反論が出来ずに、
織田チョンはいつも僕はこう思う的な読書感想文並みのレスしか出来ないのであった。

517 :
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦
ろくな備えもない魚津城に大苦戦
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田に
あと数月で落とせるわけがない
まず手も足も出ず苦戦しまくりの須田のいる松倉城どうするかだな

518 :
深夜にスレチな妄想こいてるだがであった

519 :
>>517
今度、その上手な遠吠えの仕方ってやつを教えてくれないか?

520 :
信濃から逃げ帰った織田の雑魚家臣
甲斐で殺される信忠の守役
上野で大敗する滝川
残った織田雑魚ファミリーは家臣に滅ぼされる
本当アホだな 織田は

521 :
しかし上杉は30万石を維持したのに較べて
織田は旧主だからと、朝鮮出兵陣の壮大さを
見せびらかせたい秀吉に家を再興してもらって
滅亡からおこぼれ復興させてもらっただけの
大名ですらなく、コジキ衰微高家だもんなぁ。
織田信雄系→2700石
織田信高系→2000石
織田信貞系→700石
もう、目も当てられないわ。

522 :
臣従したものを責めない賢、旧主に大封を与えない賢、再興する価値のないものを放っとく賢。
まあ、結局、徳川に大封を与えすぎて(奪えなくてとも言うがw)滅んでしまうわけだが。

523 :
上杉とか30万石維持できてねーじゃんw
もともと豊臣政権期には120ちかくあったしw
織田は800万石から小田原以前で100近く、信雄改易から秀吉死去まで18万石、
関ヶ原で信雄秀信が消えて7万石、大坂で信雄復帰の12万石だからな。
信長一代の傍流織田家にしてはよく頑張ったと思うよ。
そういえば天皇から分離したのに大名にもなれず家臣に寄生していた武田というゴミがいたなw

524 :
武田は名前だけ売ってる反乞食の売春大名w

525 :
>>523
チョンは半島に帰れよ

526 :
>>525
言葉を慎みなさい

527 :
>>525
武田こそチョンの具現なのに何を言ってるんだw
滅亡して再興されずに燻った勢力、後世好き勝手に捏造して誇張した戦果、
自己中心基準における最強喧伝・・・まさに20世紀韓国朝鮮が好んで使った手法そっくりじゃないかw
いくら織田でも「豊臣ごときいつでも潰せた」とか、
「徳川はいつでも滅ぼせたけど見逃してやった」みたいなトンデモ理論は言わんわなw
そんなことをするのは明治維新まで続いた名家織田に泥を塗るようなもの。
ま、泥を塗る大名家が存在しなかった武田にはこういう思考が芽生えなかったんだろうw
あいつが悪い、全てあいつのせいと江戸時代から武田勝頼をバッシングし続けてただけはあるw

528 :
武田信玄といえば、父を追放し息子を幽閉し、弟すら死に追いやった疑いのあるくらい冷酷無慈悲な人物
態度感情はどうあれ、息子を国内から追放し後継者争いした異母弟を妬んだ某北の将軍様にソックリである
国家経済が衰退し、軍事に国威を重ねる姿もまさに同じ。戦国時代の朝鮮、それが武田。

529 :
真田さえ生き残ればいいんですよ
真田あっての武田だったって事で
真田10万石で有名な松代町住まいの俺が言ってみる

530 :
後見役の平手まで自害する問題児ゆえに弟からも見限られるとブチR信長・・・

531 :
2回も刃向って許されると思うのが間違い

532 :
でも2回目は本当なのかねえ?
信長の言いがかりというか粛清のためにでっち上げの可能性はないのかなあ?
でも信勝の遺児はきっちり取り立ててるんだよなあ。

533 :
ないとはいえない
1回刃向って処罰されるのが普通だからな

534 :
戦力差が圧倒的に違うんだから
実際は信長に追い詰められて挙兵しただけだろ。

535 :
武田滅亡は身から出た錆
運だけででかくなった鍍金が剥げただけです

536 :
>>529
貞明皇太后があんなド田舎イヤじゃ
っつって行幸取り止めになったあの松代か

537 :
信長後見人の平手が自害、林が謀反。
どう考えても信長の人格に問題があったのは事実で、
弟に義があったのは間違いない。


538 :
勝てば官軍

539 :
人格に問題ない凡人とかそれこそはいて捨てるほどいる

540 :
信長の場合は明らかに時代を通して普遍的な犯罪者的思考。

541 :
信虎がつき、真田がこねし武田餅座りしままに腐らす信玄

542 :
その腐った餅を食べさせられた勝頼が死んでしまったのですね
わかります

543 :
諏訪姓の武将で織田に寝返った人間っていないよな。
他の外様衆はかなり寝返ってるのに。
勝頼が諏訪の血を引いていたからだろうか?

544 :
根絶やしにしたからじゃね、信玄が

545 :
名門武田より守護代の奉行の織田の方が嫌いだったとか

546 :
んなわけねーだろ

547 :
>>545
その理論で言うと徳川に仕えた諏訪頼忠はどうなる?
でも実際織田に寝返った諏訪姓の武将はいない。
やっぱり勝頼が諏訪の血を引いていたからじゃないのか?
頼忠の兄の諏訪頼豊は家臣団に謀反を勧められても断ったらしいし。
あと諏訪頼清という人物が高遠城で戦死している。

548 :
だいたい織田侵攻軍は諏訪社を焼き払っただろ

549 :
謙信が難なく落とした越中が上杉にとって見事なまでの緩衝地帯になったのに対し
信玄が死ぬ思いで獲得した信濃が武田の滅亡への誘い水になるとは何とも皮肉だよね

550 :
武田を滅ぼしたのが呼び水となって
織田親子が家臣の私刑で焼死。
別の家臣に織田家を速攻で乗っ取られる始末。

551 :
結局は勝頼に人望が無かったんだろうな
だから裏切り続出
だけどそれを創るきっかけが何も無かったからな
信玄がつくったものを引き継いだだけだから
信玄に恩はあっても四郎勝頼には恩はないという者が大半だった
そんな寂しい勝頼だけど
最後まで夫人に愛されていたことが唯一の救いだな
人間的にはどこか魅力のある人物であったようにも思う

552 :
浅間山噴火が原因だろ。
武田滅亡の前兆とか予言されたら中世では死刑宣告に等しいわ。
滅亡前夜まで武田軍は北条相手に圧勝を続けていたんだし
勝頼には十分に求心力はあっただろ。

553 :
>>551
信玄が纏めたはずの信濃がね・・・
>>552
浅間山噴火が原因で滅亡なら所詮はその程度の実力だったって事

554 :
天変地異すらなかったのに
簡単に家臣に殺され
家を乗っ取られた
二重下克上という間抜けさが信長
所詮はその程度の実力だったって事

555 :
天下が豊臣徳川に移ろいでも大名織田家として存続した織田
天下が豊臣徳川に移ろいで誰一人覚えてもらえず旧家臣に寝返られ
江戸中期には文字通り柳沢、松平と有力家族に家を乗っ取られた武田w
雑魚すぎて話にならないなw
今の武田家ご先祖様は、徳川家康www

556 :
>>554
武田の弱さは天変地異並の衝撃だろ
裏を返せば信忠軍が最強過ぎただけなんだが
100万石の大大名が一ヶ月で滅亡とかゲームかよ
織田親子が油断するのも無理はない

557 :
諏訪頼重の従兄弟に当たる諏訪頼忠は、武田氏滅亡と織田信長の横死(本能寺の変)を経た1582年、徳川家康に仕えて大名として復権し、諏訪氏を再興している。
頼忠の息子諏訪頼水が慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの功によって高島藩に封じられた。

558 :
test

559 :
信勝だけでも真田に預けられなかったのかねー
信忠もそうだが、何で律儀に親父と一緒に死ぬかねー
御家存続が大事な時代なんだからもうちょっと考えろよ・・・

560 :
信玄の子で上杉に逃げるの成功したやついたじゃん

561 :
>>559
信勝はもう嫌になってたんじゃないか。
散々裏切りを見せられて。

562 :
>>560
名前変えたりと相当悲惨な扱いになったけどな

563 :
>>562
はっ?安田の名跡は勝頼の命で継いだのであって
上杉家へ行った時に武田に名前を戻してるのが
なんで悲惨なんだwお前相当のアホだなw
そもそもその息子はさっそく福島城代の本庄繁長の三男の娘と婚姻が決まるなど上杉家で大厚遇されてるのに。

564 :
>>559
勝頼自身が岩櫃ではなく郡内を選択した理由の一つに
真田が外様だから裏切るかもしれないという説もあるしな。
それに天目山の時点では、もう逃げ場が無いだろ。

565 :
>>563
長らく上杉から離反して景勝の代にようやく帰ってきた新参者の姻戚関係で重用www
有力豪族の本庄を繋ぎとめるためだけに利用された武田哀れwwww

566 :
->>565
全く意味不明。お前が際限無いアホなことは分かった。

567 :
意味がわからんなら辞書ぐらい引けw

568 :
本庄繁長はどんなに反乱しても許してもらえるぐらいいい武将じゃん?
徳川との敗戦処理でも頑張ってるし。
ただ、その三男の娘ってのは、流石に…
;P-0@OP0
]\][\どういいつくろっても、ドウでもいいって*321453232198対応だよね…11AsdsxsZsxZAXSszxs1Q

569 :
武田に呼応した本庄は謙信に降伏してからは
地位の低下はあったが、
懲りてずっと謙信の元にいたし、
御館の乱では景勝支持して地位が一気に上がり重臣になってたし
新発田の乱でも攻撃に加わり
庄内制圧と兼続とともにその支配を秀吉に認めてもらうための中央外交やったりと景勝の忠臣として活躍し、
伊達との最前線の福島を任され、
関ヶ原後は徳川との和睦交渉を一任されてるなど、
上杉内随一の武将なんだが>>565は妄想でも語ってんのか、アホなのかどっちだ?

570 :
武田憎けりゃ新発田も憎い
織田厨には武田落とせれば理屈なんていらないんでしょ

571 :
そもそも本庄繁長の三男って加賀藩に追放されて帰ってきた時は捨扶持同然
本家本庄すら兄貴に継承されその兄貴が死んだと思ったらまさかの弟に家督を取られ
自分は弟に寄生しながら生きていたような冷遇っぷりだろwwww
そんな人間の長女を嫁にもらうとかいよいよ武田も沈むところまで沈んだなwww

572 :
しかも当の信清系武田家は1000石近くの窓際家臣
本庄家から嫁を貰い媚を売ろうとするも勝信の息子が早死
やむなく本庄家から養子を貰いうけてて家を存続させるという
本庄に乗っ取られるためだけに存在した武田家www

573 :
本庄の三男は関が原後の大減封でも家臣を切らない方針を表明したために
上杉家の家禄の負担にならないように
自ら本多政重ともに前田家に仕官しただけだろ。
安定経営が可能におなると第2代米沢藩主上杉定勝から招聘されて「定」の字までもらってる厚遇ぶりだし。

574 :
一度家を去った人間を再度帰参させるために利用された武田www

575 :
>>574
意味不明。利用されたとするソースは?

576 :
>>575
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/l50
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1325991921/l50
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1311641686/l50
妄言吐いておいて、よく他人にソース求められるなw

577 :
利用の意味がわかってねーんじゃねーのw
「騙された」とは一言も言ってないからなwww

578 :
などと自演妄想を語っており。

579 :
保科正直は高遠城で戦った末に落ち延びたという説と織田に寝返る気だったがなんらかの事情で落ち延びたという説があるがどっちが本当なの?

580 :
金鉱掘り当てた成金DQNホモ信玄が金に飽かせて領土拡張肛門拡張
浪費が祟って子の代になって金山枯渇、景勝強請って何とか生き長らえたが
金の切れ目が縁の切れ目で親族衆にも裏切られ見限られ、あっけなく滅亡


581 :
金山枯渇なんて、まだそんな大ウソを書いてw

582 :
いろんな意味で痛いね>>580

583 :
なぜか知らんが武田関連のスレって変な理屈を言うアンチ信玄が時々現れるね

584 :
金山枯渇で財政破綻寸前とかどこの田舎大名だよw

585 :
馬鹿親父が散財したから勝頼は増税せざるを得なかった
さらに新府城築城の為の過酷な労役賦課が止めを刺した
全ては無能禿親父のせいと腹切りながら勝頼も思った事だろう

586 :
民衆は武田の残党狩りに積極的に参加したんだから織田軍は解放軍として歓迎されたんだろ。

587 :
つまりカダフィ大佐と同じ末路って事か…

588 :
築城が過酷な労役なら安土城を築いた信長こそ
最低最悪だろ。

589 :
>>588
同じ築城でも労役に対価を与えている織田と強制労働の武田とは異なる。
民衆に与える織田と民衆から奪うだけの武田。
最低最悪なのは武田だね。といっても武田の貧乏が一番悪いのだが。

590 :
同じ築城でも労役に対価を与えている織田と強制労働の武田とは異なる。
上記の一次史料だせよwww

591 :
築上の労役って、信長の安土城は近江一国の住民に賦役がかせられてたが、対価の記録は一切無く
強制労働のタダ働きだった可能性が高い

592 :
すげえな、史料がないのに可能性が高いなんて言い切るのかw
稚拙な研究だなw

593 :
戦国時代は、城郭の全位置を決める縄張りと普請が武士の仕事として重要視され、
作事は大工仕事として、軽視される傾向にあった。
つまり織田、武田に関係なく土木作業は武士の仕事(当然強制労働)であり、
>>589の話は作事だけの話を聞きかじった勘違いの可能性が高い。


594 :
新府城と安土城比べても意味ねーだろ
凋落著しい武田と飛ぶ鳥を落とす勢いの織田
経済力からして全く違うし、勝頼と信長じゃ
カリスマ性が天と地の差

595 :
カリスマ性w
織田厨はいつでも香ばしいなぁ

596 :
関係ないすれで、自演してまで織田を貶めるとか
だが必死すぎんだろ・・・

597 :
>>581
勝頼が金山掘衆に保護を加えてるのを曲解してるんだろ。
当時、金堀衆は家ごとに坑道を所有していて、
その中でも金が取れなくなった2家に、
また金が取れるまでの生活上の保護を加えている。
新しい坑道を掘るのか、さらに掘り進めるのか手段はわからんが書状出してる。
しかし諏訪大社造営などを継続してて金に困っているような証拠は一切無い。
武田の悪政なんて記述は、
中国の史書の御約束である、
侵略者の自己正当化まんまで悪政が原因で人心が離れたなどと、
信長の悪行は棚にあげてる嘘長公記にしか書いてないし。
その因果応報論理を主張するなら、
信長滅亡も己の悪行の報いなわけで、
しかも人心が離れた理由は浅間山噴火が武田滅亡の前兆とされたことが理由であるのに、
嘘長公記は噴火を隠蔽。

598 :
>>597
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328973112/52
しれっとなかったことにしてんじゃねえよw

599 :
噴火くらいで人心が離れるのなら島津はいったい何回滅びれば気が済むんだろうなw

600 :
浅間山超噴火は規模が大きかったために、
なんと京や大分でも観測されてるが、
戦国時代に桜島噴火が京など遠方で観測されたとする一次史料は?

601 :
被害状況が一切わからない大噴火
ステキです
普通農業はダメになるんだがなw
あぁ、元からだめか、戦乱の荒廃でw

602 :
戦乱で荒廃?
それは悪魔の織田軍が踏み込んだ地のことだろ。
摂津や河内の田畑が荒れ果ててしまったと嘆かれ、
大和一国亡国と嘆かれたのが、
織田軍の進駐の実態だからな。

603 :
へぇ?w
織田軍が武田領国を蹂躙して荒廃させたソースだせよ?w

604 :
天皇の勅願寺である恵林寺を燃やして国爺を殺戮したり、
武田領国でむちゃくちゃやったから
川尻が逆さ吊りにされたり、
毛利や森が信濃から逃亡してんじゃんよw

605 :
何言ってんだこいつ
憶測の仮定に基づいた結果を聞いてんじゃねえよ
一揆があったら、それは蹂躙による荒廃以外ないのか?
それしかお前の頭では考えられないのか?w

606 :
>>603
織田軍は民衆から武田の悪政からの解放軍として歓迎されたのだが。。。

607 :
>>606
はいはいデタラメ乙

608 :
滋賀県立安土城考古博物館
10月6日(土)〜11月11日(日) 「信長×信玄 戦国のうねりの中で」
岐阜市歴史博物館
9月13日(木)〜10月15日(月)織田信長と美濃・尾張

609 :
>>606
武田は不公平な税制強いてたから、有り得るな

610 :
金山枯渇で財政破綻寸前
→少し調べればわかる嘘w
同じ築城でも労役に対価を与えている織田と強制労働の武田とは異なる
→縄張り、普請、作事を知らない事を露呈w
織田軍は民衆から武田の悪政からの解放軍として歓迎された
→ただの願望w
織田厨はもう少し勉強してからレスしろw

611 :
ただいずれにせよ、川尻が殺されたのは織田が甲斐で重税を課していたことによるものが大きい。

612 :
そうですねw

613 :
逆さに埋葬は嫌だなぁ

614 :
川尻秀隆の塚に行ってきたけど
あんな狭苦しい敷地と敷地の間で
しかも入れないように柵で覆われちゃって
未だにどんだけ嫌われてるのかと
あの隣の家とか絶対住みたくない

615 :
センゴクに噴火の話でたけど単に噴火したってだけで終わったな

616 :
勝手なイメージかもしれないけど、武田と織田の戦争ってお互いにものすごく憎み合っているような感じがする。
第二次大戦中の独ソ戦みたいな感じ。

617 :
武田と織田って、言われるほど戦っていないのよねえ
長篠とか滅亡戦が有名だけど、十年以上に渡って日常に戦い続けたのは徳川

618 :
そして織田の宿敵は朝倉と本願寺

619 :
>>617
そうなんだけど、武田滅亡後の武田旧臣への態度とかを見るとそう感じる

620 :
信長は何より卑怯者が嫌いだったから卑怯者ばかりだった武田旧臣に
厳格な対応したんだと思う。

621 :
朝倉にしろ武田にしろ滅亡する時ってそんなもんじゃね?
最後まで裏切りはほとんどありませんってのが珍し気がするけど
基本的にそれぞれに家族や部下があるわけだし

622 :
>>621
朝倉旧臣は謀反していない人間、それも親族衆でも召抱えられているが・・・
朝倉景健とか。
武田でも上野衆は寝返ってなくても召抱えられているが外様だからだろう。

623 :
>>620
>信長は何より卑怯者が嫌いだった
久秀(3罪)や、主君裏切った村重、家康、下郎の秀吉、長可、、
卑怯者をけっこう優遇してたの知らないの?
もう少し信長を知った方がいいと思う。

624 :
檜原の郷土資料館に行ったら松姫の手鏡があった。
詳しい逃避ルートは分かっていないが檜原を通った可能性は高いそうです。
逃げる途中に助けられた民家にお礼で渡したもので、武田菱が入っていました。
何時襲われてもおかしくない状況下、三人の姫を連れて山の中を歩いていたと思うと、
本当に大変だったのだろうな…


625 :
勝頼が“小山田”やめて“真田”にいったらどうなった?

626 :
>>624
切ないなあ。。。
名門家のお嬢様が、ひょっとしたら織田信忠の正妻になったかもしれん
女性がそんな苦労を。

627 :
檜原通ったなら青梅街道経由じゃなくて
小山田の勢力圏通ってるわけだ
津久井あたりを避けたってことになるのかね
上野原の加藤氏はどういうルートで箱根が原に落延びたんかしら
なんか連動してそう

628 :
>>626
でもそうなったら下手したら究極の下げマンと言われてたかも

629 :
>>628
笑ろうた。
でも信忠と松姫の取り合わせはロマンがあるんだよね。
信忠は織田家嫡男だけど結局正妻を娶らなかったし
松姫は婚約破棄された後も一人身。
勿論それぞれ単なる家の事情でそういう状況だったのかも
しれんが想像をかきたてられる。

630 :
>620
勘違いしているけど、信長は調略してから攻め込むのが常。
斉藤も浅井も武田もね

631 :
>629
ロマンがあるよね。
でも、お互い顔をあわせた事がないから相手に対して想像が膨らんでたとこもあったりして
現代の垢にまみれてるから穿った視方をしてしまう

632 :
確か文通らしき事はしてたんじゃなかったっけ。
だから余計に想像が膨らんだのかも。

633 :
平安貴族の女は顔を見せないから、歌とかで魅力を判断されたっていうしなぁ。
文通の文面がお互いによかったのかもしれないな。

634 :
なんか女風林火山見たくなった

635 :
松姫もいいけどオシドリ夫婦の黄梅院が好き

636 :
>>634
「おんな風林火山」は良い作品だったけど裏が独眼竜だったからなあ。
>>635
アタチもだ。

637 :
嫁ラブが過ぎて花押を武田風にしたり
卒中で死んだ親父の遺言ブッ千切って相甲再同盟に走った氏政
どーしてこーなったどーしてこーなった

638 :
>>624
http://i.imgur.com/4VLzj.jpg
信憑性が疑わしいけど別冊歴史読本にのってるね
>>627
上野原の加藤氏は箱根ヶ崎で戦死したらしいけど、本当に武田家に殉じたのか或いは上野原に居られなくなり落ち延びようとしたところ討たれたのか、よくわからないですね。北条軍もしくは土民に殺されたのかも謎だし…
箱根ヶ崎の位置と加藤神社を建立しなきゃならなかった理由からすると、落武者一族が土民に惨殺されたのかと邪推してしまいます

639 :
>>638
その伝承ルート面白いですね
一部現在には無い道があったり
笹子峠と大月を廻りぬけて、後は甲州街道
なんというか正門から敵地に乗り込む違和感もある

640 :
辻盛昌が甲陽軍鑑で謀反人扱いされているがあれはなぜだろう?
実際はそうじゃないみたいらしい。

641 :
てゆうか大蔵沢行ったんなら栖雲寺行ったんじゃないんじゃないか
ここ越えても笹子か大月あたりにしか出ない

642 :
http://members2.jcom.home.ne.jp/neko-q-ryousuke911/tenchi13-8.htm
・・・急ぎ家康に姿勢を正そうとする隆広だが、家康は静かにそれを制した。
「かような気遣いは無用。さ、織田殿に武田親子の首を」
「はい」
 隆広と助右衛門は信長の前に台座に乗せた二つの首を差し出した。
「白布を取れ」
「ハッ」
 武田勝頼と信勝の首であった。
「……梅雪とやら、間違いないか」
 徳川家康の後ろ。そこに座っていた男が首まで歩み寄り
「間違いござらん」
 と、少しの笑みさえ浮かべてそう言った。
(梅雪……? 穴山信君か!?)
 目の前にいる男の裏切りが武田滅亡の起因と言っても良い。隆広は信長に頭を垂れながらも激流のごとく湧く怒りを抑えるのがやっとだった。横にいる助右衛門がそれを察し、隆広の腿に手を添えた。
(隆広様なりませぬ。どんなに許せぬ男でも、こやつは徳川様についた者。口惜しいですが今は味方にございます。何一つ罵りを言ってはなりません)
(……分かった。でも見たか。勝頼様の首を見たあと……アイツ笑ったぞ! 穴山はクズだ!)
(……同感にござる)

643 :

・・・穴山信君は武田勝頼、信勝の首を確認すると再び家康の後ろに戻った。
そして信長は床几からゆっくり立ち上がり武田親子の首へと歩み、そして
「ふん」 
ガッ!!
「な……!?」
 信長は勝頼の首を足蹴にしたうえに、転がる首にツバを吐いた。同じ事を信勝にもした。
「何と云う事を! 敵とはいえ同じ戦場を駆けた相手にござ……ッ!」
 ゴォンッ!
 信長の鉄拳が隆広の顔面に容赦なく叩き込まれた。たまらず隆広は吹っ飛んだ。
「隆広様!」
「大丈夫だ助右衛門……」
 倒れつつも信長をキッと見据える隆広。信長は自分に逆らった隆広を特に叱る様子もなく静かに言った。
「笛吹川の河原に、このバカ親子の首をさらせ」
「なぜ敵将をそこまで辱める必要があるのですか……!」
「聞こえないのか!」
「隆広様……!」
 主君隆広の悔しさを助右衛門は痛いほどに分かった。しかし信長には逆らえない。逆らってはいけない。自分とて目の前で主人を殴打されたのである。助右衛門も怒りを抑えるのに懸命だった。明智光秀が床几を立ち、倒れる隆広に歩み腰を下ろして言った。
「隆広殿、転がった二つの首が哀れにございます。ここはお引きなされ」
「明智様……」
 光秀の後ろに座っていた斉藤利三や明智秀満も眼で隆広に光秀と同じ事を述べていた。
「分かり申した……」
 改めて信長に鎮座し頭を垂れる隆広。
「つつしんで拝命いたします」
 と、勝頼と信勝の首を拾い出した隆広に
「ネコ」
「は……」
「その陣羽織は何じゃ?」
 朱色の、背中に不動明王が描かれている武田勝頼から拝領の陣羽織。
「この陣羽織は武……」
「まあよい、さっさと首を持ち下がれ」
「は、はい!」
 勝頼と信勝の首を拾い、持っていた手拭で信長のツバを拭き取り隆広と助右衛門は本陣から立ち去った。光秀もホッとして床几に再び腰掛けた。その時……

644 :

・・・「若いですなァ」
 と、穴山信君が笑って言うと
「穴山!」
 信長は阿修羅さながらの形相をしていた。徳川家康、明智光秀も背筋が凍りついた。
「お前ごときに、あの若者を笑う資格などないわ!!」
 穴山信君は震え上がり、床几から降りて平伏した。
「も、申し訳ございませぬ!」
「三河殿(家康)」
「は、ははッ!」
「いかようにこの外道を使うもお手前の自由であるが、二度と余の前に連れてくるな!」
「しょ、承知いたしました!」
(ワシとて怒れる織田殿にはこうして怯えるばかりだと云うのに、あの若者の胆力たるや見事なものじゃ。あれでまだ二十か。将来どれほどのものになるかのォ)
 さすがは家康。信長に気圧されながらも水沢隆広と云う人物をちゃんと見ていた。これが水沢隆広と徳川家康の初の対面と言われている。
(多勢のワシらが撤退を余儀なくされた真田を寡兵で後退させた若者。勝家殿が重用するのもうなずける)
 家康はこの時には想像もしていないだろう。水沢隆広は将来、徳川家康にとり最大の脅威となると云う事を。

645 :
>>642-644
これって何?小説?

646 :
ちょっと宣伝したかったんじゃね

647 :
ここに松姫関連の事が書いてあります。
逃避途中は三組に分かれて行動、滅亡の12年後に甲州へ墓参りに行った等。
ttp://old-hinohara.himawa-ri.net/page4.html

648 :
.
【政治】民主・中川治議員「おお、今離党届を出してきたぞ。何がおめでとうじゃ、アホ」 民主党、離党ラッシュこれまでに6人が態度表明
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1352968630/
【政治】金欠と人材難が「日本維新の会」の弱点 「民主党離党者の合流加速」「選挙費用は自腹」「大阪の企業は支援休止」
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1352964694/
【民主党】初鹿明博衆院議員(東京16区)も離党へ
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1352981235/
【政治】民主・山田元農水相も離党表明
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1352951777/
【政治】民主・山崎誠議員が離党届を提出
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1352948050/
【政治】社民・阿部知子政審会長が離党の意向 新党を結成したいという考えを示す
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1352955774/
【政治】鳩山元首相「国民不在の解散だ」 離党の可能性を示唆★2
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1352905483/
【政治】 民主・長尾氏、離党し自民へ 「自民党の安倍総裁とは国家観や歴史観を共有できる。自民党に入党したい」
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1352955822/

649 :
笹子峠封鎖か
勝頼もこんな感じだったのかな

650 :
勝頼の祟りか?
その次は八王子城の祟りあたりか?

651 :
>>650
何の罪も無いのに犠牲になった人が居るのに
根拠のないようなことをいうな。
だいたい勝頼はとっくに成仏してるわ。
八王子城のオカルト話は作られたモノだしな

652 :
2chでなに正義ぶってんだか

653 :
単純なオカルト好きや興味本位で肝試しにいくようなDQNが広めてる風聞を
歴史好きが面白がることも無いだろ

654 :
その割に成仏とかオカルトに走ってんじゃん

655 :
wind
http://www.youtube.com/watch?v=0z64qNVbf70

656 :
成仏がオカルト用語って?・・・、真性の馬鹿だな。
「成仏」なんて何百年も前からある仏教用語でもあるんだぞ
それと八王子城の怪談話は地元の郷土史家や城址研究家らが
城山の乱開発や心無い侵入者を防ぐために広めた噂という面もあるんだ。

657 :
だれがオカルト”用語”なんていったんだ
成仏って事象を証明して見せろよ
”根拠の無いようなことを言うな。”よ?

658 :
>成仏とかオカルトに走ってんじゃん
広辞苑でもひいてみなw

659 :
もともと信濃の武士は
武田の敵だったわけで
武田に蹂躙されて死なないためにいやいや従っていたに過ぎない
織田が武田を滅ぼそうというとき
武田に準じる義理はない
だから支配者の武田譜代衆が何を言おうと
動かなかったのだろう
だいたい120万石の石高で5万人の兵を維持するとか無茶なんだよ
いかに年貢が重かったかがわかる
とても武田に好意なんて持てなかっただろうな

660 :
民衆は織田軍を解放軍として歓迎したらしいからね。

661 :
>>659
そして甲斐衆の側からしても、勝頼みたいな信濃の外様(諏訪)から
入って来た奴の為に死ぬ気にはならない。
ま、結果そうなるわな

662 :
それでジェノサイドくらってたら世話ないわなあ
名門ヅラしたところで所詮土豪連合の限界か

663 :
>>662
まぁお前は結果を知ってるからそう言えるけどな。

664 :
智者之慮 必雑於利害
雑於利 而務可信也
雑於害 而患可解也
是故屈諸侯者以害
役諸侯者以業
趨諸侯者以利

665 :
>>662
ジェノサイドくらったのは河尻や森ら織田家臣だろ。

666 :
本能寺後でも森は武田旧臣一揆勢を撫で斬りしてたろ。

667 :
武田旧臣は本能寺後に徳川に吸収された訳だけど
武田時代みたいに華々しく活躍することもなく・・・
やはり長篠で主力を失って弱体化
勝頼が再建して北条を圧倒したものの武田征伐で主な指揮官が失われ
真田も独立した結果烏合の衆だけが残ったと・・・
まぁ穴山の内通がなければ武田征伐も発動されてなかったんだろうけど
最後に勝頼の率いた再建武田軍2万が信濃で織田信忠軍3万と激突するのが見たかったな
信忠はかなり功を焦ってるフシがあるし野戦に持ち込めば地の利と戦慣れしてる勝頼が有利な気がするが

668 :
実務者は現場で華々しく活躍したんじゃね
判り易いヨソの例だと韮山の代官は誰が統治者でも代々江川さん、みたいなのが

669 :
柳沢吉保なんてたいしたモンじゃないか。
流罪から解き放たれても大家の居候身分で零落しきった元主君の家を
高家のとりたててあげてるんだからなw」

670 :
華々しく活躍ってどの程度のこと言ってるのかね
旗本筆頭は武田旧臣だし、大久保長安みたいにお騒がせ大活躍な奴もいるし
活躍した井伊、本多、榊原家を支えた家老クラスも武田旧臣
大名として活躍してないってなら同じ服従組の今川北条旧臣だって同じだし
まぁ一代で廃絶した家は多いけどね

671 :
保科正之も一応武田旧臣?

672 :
>旗本筆頭は武田旧臣だし、
それ、誰のこと?
甲州古文書や志料集成のなかの誰なんだ?

673 :
>>672
横田綱松の子孫のこと。
旗本では一番禄が高かった

674 :
 

675 :
実際問題として織田、徳川、北条に攻めこまれて勝てる可能性ってあったのかね?
史実では北条の動きが緩慢だからとりあえず木曽口から侵入した織田勢さえ叩ければ
後は各個撃破できそうだが

676 :
小山田氏で有名な郡内に
西原を所領とする西原武田氏がいたらしいのだが
どの系統の武田なの?
調べてもさっぱりわからん

677 :
 

678 :
>>675
ほぼ無理
木曽口から攻め込んだ織田勢はあくまで一部
駿河方面では徳川勢にすら大苦戦で田中城を落とされる
北条は動きは緩慢だがいずれ侵入してくる
上杉からの救援の見込みはほぼなし

679 :
木曽口で織田軍撃破して街道制圧すれば織田軍は木曽口からは侵入できないんじゃないか?
3000程度抑えに残して15000くらいで徳川を撃破してしまえば北条は様子見だろうと思うが

680 :
>>679
木曽口からは侵入できないけど伊那街道から入ってくるからな
実際進行状況としては木曽口よりも伊那街道(現:下伊那郡)から入った織田軍も確認されている。
2つ閉じないと辛いところだな

681 :
木曽の裏切り

織田軍先遣隊が木曽口から侵入

織田軍と木曽を撃破、街道封鎖

勝頼主力が伊那口へ

侵入した織田軍を撃破

そのまま遠江、三河に侵入して徳川軍が駿河から撤退

穴山が裏切りのタイミングを失うw
北条が甲斐に侵入しようとしても勝ち戦の中なら小山田に任せておけば防げるだろうと思う

682 :
>>681
何というか・・・
木曽口撃破、伊奈口撃破、遠江侵入、穴山裏切らないとかってもう御都合主義のオンパレードで滅茶苦茶
そこまでしないと武田が勝てないとかあまりにも哀れすぎて悲惨すぎる
どうせなら武田は核ミサイルを保有しているとかの方がまだ笑えたかもしれない

683 :
>>682
「戦闘で勝てば詰まない(キリッ」レベルだもんなあ。

684 :
>>678
まーたキチガイ織田厨が嘘ばかり吐いてるな。
家康なんて苦戦だらけのザコで、
2/20徳川が田中城攻撃
2/21徳川が用宗城攻撃
2/25穴山が甲府の人質奪還
2/26徳川がまた田中城攻撃するも落ちず。
2/26氏直が沼津の天神ケ尾城を落城させる
2/27用宗城で開城交渉
2/28北条が伊豆戸倉城させたため三枚橋城が夜中に自落したので撤退した武田軍を追撃
2/29北条の進撃を受けて挟撃される恐れから穴山が家康に降伏条件交渉をする
朝比奈が用宗城を徳川に明け渡し撤退
3/1高遠城包囲
家康が穴山服属を家中に公表
3/2高遠城落城
下伊那で織田軍に対し武田軍最後の勝利が越後に伝わる
3/4穴山と家康が対面
3/6信忠が甲府に着く
駿河の富士氏ら金山衆が穴山を服属させた家康に従わず北条に服属
3/7小山田離反
これで武田家が完全崩壊。
はっきり言って北条の破竹の西進が無ければ家康は何にも出来なかった無能のアホだから。

685 :
勝頼が外交ミスって、北条を敵に回した時点で詰んでたんだな

686 :
信玄末期から財政は火の車
一世一代の大勝負の徳川攻め最中で陣没という無責任極まりない死にざま
仕方なく撤退
その遠征で手に入れるはずだった新領土を当て込んで準備したのに、それが手に入らない
そりゃ無理だわ

687 :
>>686
はいはいデタラメ乙
家康は田中城が欲しくて欲しくて仕方がなくて天正5年からはしょっちゅう攻撃を執拗に繰り返してたが毎回失敗している。
その天正5年に氏政の妹が勝頼と婚姻していて
この婚姻同盟を守っていたら織田にだけ戦力を振り向けることが可能だった。
義昭の同盟話に対して謙信も武田との同盟は構わないと返事していたし。
しかも御館の乱の結果だけでは北条との同盟は崩壊しなかった。
実は破綻スイッチを押したのは厩橋の北条高広。
こいつは景虎支援をしていた巨魁で北条の越後侵攻でも道案内しとったヤツなくせに、
なんと北条を離反し武田に付いてしまって、
北条の上野支配が瓦解してしまった。
これに激怒した氏政が徳川と同盟に動き、
同盟成立と共に家康も武田交渉ルート窓口の信康に自刃を追い込んだ。
北条は上野での既得権益だけは絶対に譲れなかった。

688 :
そりゃ知らないからデタラメって信じたくなるよねー
そんなに震源が好きかw

689 :
>>678
あまりにもひどいウソを吐いてるな。さすが在日織田糞くんだ。
上杉は2/20付書状で勝頼がさらなる援軍要請してるので
すでにそれ以前に先遣隊が派兵されてるのがわかる。
2月末には出先の上条政繁が信濃で景勝への相談なしで急転する情勢へ独断対処OKの全権委任をもらう。
3/2にはさらなる援軍派兵要請がきたので、これを受けて5日には増援が信濃牟礼で斉藤朝信の本隊の到着待ちをしてる。
3/6には長沼方面へも松本房繁を主将に援軍派兵してるし。3/7には勝頼保護を命じてる。
3/11勝頼死亡を経て13日になると信濃の武田領接収に方針転換。
4/2には森の長沼城を攻略してる。

690 :
Λ_Λ  
<=( ´∀`) <あまりにもひどいウソを吐いてるな。さすが在日織田糞くんだ。
(    )     
| | |   
〈_フ__フ
  Λ_Λ    
<  `∀´>  < 教科書には織田家が滅んだ事くらいのってる。 信長と信忠が殺されてそれで滅亡だろ
(    )ポロ 
| | |  ヽヽ
(__フ_フ=( ´∀`)
  Λ_Λ    
< ;`Д´>  < あ…
(    )ポロ 
| | |  ヽヽ
(__フ_フ=( ´∀`)

http://www.logsoku.com/r/sengoku/1360505139/119-129

691 :
史実通りに展開するなら武田は3月11日には勝頼が自刃して滅亡だろ?
3月2日には武田本領の甲斐に織田軍が殺到していたのに随分遅い足取りだな
最初から助ける気がないと言われても仕方がない。いや、
「上杉は本当は助けたかったけど、武田があまりに雑魚すぎてあっさり滅びたから助けられなかった」
とでも言うべきかな?

692 :
2/20に北条が陣ぶれして動きだす
同日、家康が田中城への攻撃開始なんだから
上杉がその辺りの日付から動くのは当たりだろ。
木曽氏の謀反に対して動いた武田と織田の初動と違って
北条も徳川も上杉も2/20前後から活動開始だアホが。
そもそも勝頼室の桂林院が戦勝祈願の願文を奉納したのですら2/19だし。

693 :
>>691
普通に助ける気あったろ。
景勝にしてみたら武田に充てる余裕すら本来ない情勢。
東北勢、北陸勢、新発田と各地で激戦中だぞ、当然大軍を率いることも不可能である中に長沼あたりまでよく進めたと思うが…

694 :
>>693
「長沼まで進める」と「助ける気があった」は同義ではない
世間ではそのような行動を「助けるフリ」というわけですよ

695 :
勝頼が上州岩櫃城を目指したとして到達できた可能性はどれくらいあるのかねぇ
北条夫人とか健気にも付いてきてくれたけどむしろ北条軍に投降してくれたほうが余程良かったような・・・
松姫が八王子まで到達してるんだから可能だと思うが

696 :
帰ったところで居場所は無いな
妾腹だし
ゴッドマザーは健在だし

697 :
 

698 :
ソ連から逃げてアメリカ軍に投降するドイツ軍の原理で、
北条軍にさっさと降伏しちゃえば命は助かったかな。

699 :
勝頼もあまりの裏切りの連鎖とご親類集の不甲斐なさにもうやる気失ってたんだろうな
一応上杉が援軍送ってくれるみたいな話を当てにするのなら小山田頼るのは間違ってるよな
やはり上州経由で越後に逃走すべきだったと思うのだが
真田が北条と内通してたって説は結構有名だが勝頼一行が通過するのはさすがに見て見ぬふりしただろうに

700 :
>>699
浅間山噴火と言う天変地異の前じゃどうすることも出来ないからね。
武田滅亡の怪異なんて解釈されたら人心は瓦解しちゃうわな。
中世社会じゃ火山メカニズムなんて理解できてないから、
神仏の為政者への怒りと言うもんに解釈されてしまった。
これも春秋の筆法を借りた歴史観として有名だしね。
疫病が流行れば貴人の祟りと解釈して、
むちゃくちゃ恐れて鎮魂作業を開始したりする時代だから。
ただ天変地異を為政者に対する神仏の怒りと解釈し、
自己批判や反省が出来る感受性の高さは今の政治家が学ばなければならない要素だね。

701 :
「変事の前触れ」とかではなく「武田滅亡の怪異」と解釈されるってことは
武田に威信が全く無かったことの証明だな

702 :
そうですね。世に怪異な自然現象は多々あれど、それで滅亡したのは武田家のみ。
どれだけ雑魚かったか一目瞭然

703 :
>>701
北条を圧倒しまくってたから
このウエーブに参加するなら今でしょっ!って
佐竹に続いて里見も乗っかる寸前だったくらい威信ありましたが何か?
>>702
へぇ〜wたとえば?実例だしてね。

704 :
北条を圧倒してたって言うけど
北条を打倒できるような目処は全く立ってないよね?
織田みたいに浅井朝倉を瞬殺したり武田を一月で崩壊させるようなスピード感も外交力もないし
そりゃ佐竹と組んで武蔵、相模、伊豆を版図に組み入れてたのなら凄いけどさ
実際は城の取り合いのオセロゲームしてただけ
その結果領内が疲弊してたんじゃ意味がない

705 :
織田が浅井朝倉と敵対しだしたのは元亀元年で浅井朝倉滅亡は天正元年で3年半も要してるし
国力差でいっても当時の織田と浅井朝倉連合じゃ6倍くらいは違うし優勢で当たり前
そんな相手に三年半も費やして自力じゃろくに侵攻できないどころか信玄生存中は滅亡寸前まで追い込まれていたのが織田。
朝倉は一門衆の裏切りなどで滅んだだけだし武田も一門はじめほとんどの連中が寝返りまくって滅んだだけ

706 :
>>703
お前は馬鹿だ(断定)
武田以外に天変地異で滅んだ大名家はないのだから、武田だけが実例だ。

707 :
内ヶ島氏埋っちゃった

708 :
内ヶ島って大名か?
まあ内ヶ島の強さ=武田の強さと言えなくもないが

709 :
ぶっちゃけ織田が武田を滅亡させる事ができたのはほとんど北条と徳川のおかげ。
武田は長篠以降も謙信の関東出兵に対して北条と結託して上野方面に外征したり遠州で徳川方を撃退したりと
全くといっていいほど衰退していないし勝頼は、翌年に武田の命運をかけた一戦を織田とやると書いてるので
まだまだ自力は大きく残ってたんだろう。北条との同盟決裂後も関東において北条を押しまくっていたが
天正8年・9年の甲斐の都留軍への侵攻をゆるした(撃退してるが)ため、新府城の築城を北条対策として行ったが
これが多いに失策だったため、武田領国の国人は大いに不満が高まり後の離反フラグになったんだろう。
徳川も田中城や高天神城に手も足も出てなかったし武田が謙信に対応した天正3・4年の関東派兵や対北条戦のため関東に出兵したのと
甲江和与の影響で武田が軍備解除してた隙をついて居留守泥棒的に二俣城や高天神城を奪回するがその周辺の拠点や
田中城には手も足も出ず、北条が駿河伊豆国境地帯の長窪城や天神ヶ尾城を落とし、武田がその方面に出兵した隙をついて開城勧告で
なんとか開城させたにすぎない。
よって「北条が滅亡寸前の武田に上野で負けた」ではなく「武田は北条戦で大いに出費面や戦力集中の観点から犠牲を払い
その隙をついて甲江和与詐欺を生かして武田領国を無防備にさせた所に織田・徳川で奇襲をかけたら離反の連鎖になって運よく滅んだ」が正しい

710 :
なるほど、要するに信長の戦略に武田が完敗してたってことか

711 :
>>706
日本語が不自由な在日の方ですか。
話の流れで言えば、〜滅亡の怪異と流言が飛び交うような天変地異がおきたのに
なんら問題がおきなかった勢力とやらの実例を出せと言ってるのだろうが。

712 :
穴山信君の動きを見る限り結構ギリギリまで裏切るタイミング計ってるよね?
木曽の裏切りを早めに察知して討ち取ってれば穴山は裏切ってないんじゃないか?

713 :
>>712
穴山は別に裏切るつもりはなかったんだろうが
北条と徳川の挟撃を受けるってのに
武田から援軍を送られる見込みがまったくないのでは
いままでの徳川との取次役としてのツテを利用して
降伏するしか手段はもう無いからね。
小山田なんかは織田や徳川との伝手がないから
穴山とはまた違う立場だし。
こういう伝手ってのは、おそらく信康なんかも武田との交渉の取次役だったんだろうね。
それで徳川と北条が同盟した時に、態度表明として殺されたんだろう。

714 :
いやいや、長篠での無断撤退とその後の穴山の言動を見てると
勝頼に対して内心ナメてかかっていたのは間違いない。
征伐開始前に織田徳川方に通じていたと見るのは自然。
絶妙なタイミングでの謀反なので機を伺っていたのだろう

715 :
俺も穴山はそもそも裏切る気だったとは思うけど
ただタイミング間違うと滅亡しちゃうから

716 :
穴山が裏切る兆候などない。穴山が対徳川の取次である事実を裏切る兆候とは看做せない。
むしろ木曽氏に対して、勝頼は多少、警戒していた可能性はある。
それと言うのも誓書を木曽関係者に書かせたりしているから.だ。
それに高遠城に弟の仁科盛信を配置したのも木曽氏監視のためかも知れない。

717 :
武田の内情を伝えて来てたって信長も書いてるし
裏切る気満々だったんだろうな信君…

718 :
あの土壇場でもし急に裏切ったのなら武田宗家の継承とか
信長が認めるのは無理があると思う

719 :
3/3付け信長→信忠宛
29日注進 今日3日到来って言う書き出しで始まっていて
驚きの速報として穴山が謀反した事をを受けて勝頼が諏訪陣を捨てて逃げたって召使いの蔵沢が走り入り報告した内容でしょ。
(信長→柴田宛3/8書状で28日に居城に入り、居城をを燃やして山奥へ逃亡と書いてるね)
その内容に続けて穴山此方へ内々申子細候 定可為実儀候
この部分を前々から穴山が信長に内通していたように解釈する誤読のせいでしょ。
よく昔はそういうふうに書かれていた大衆向け歴史愛好家向けの本に書いてあったからね。
でもそもそも穴山と謀反について話を纏めたのは家康で
それをうけて25日に穴山は甲斐にいた人質を奪い取ってる。
つまり信長がいう内々仔細を申してきたことが実儀になったというのは
家康と相談して甲斐の人質を奪い、信長へ鞍替えしたことを指してるだけ。
だから信長は最初、穴山のこの動きを勝頼への「謀反」と書いていて
自分に長く内通してきていたなら穴山のこの行為を「御忠節」したと書くはずだし。

720 :
>>718
穴山の謀反は勝頼がせっかく諏訪に防御陣地を作り、待ち構えて決戦しようとしていた戦略を潰して
事実上、穴山が武田を崩壊させた功績があるのだから信長は武田滅亡最大の功績を挙げた穴山をみとめるだろう。

721 :
長篠をマネて決戦しようとしたら親族を調略されて崩壊したってことか
やっぱ信長と勝頼では役者が二枚三枚も違ったんだな

722 :
いや徳川と北条の挟撃に武田の援軍の見込みがないから穴山は離反しただけで
信長は何もやってねーぞ。

723 :
調略は武田の十八番だったはずなんだけどね
ただ長篠で大敗して徳川や織田方の豪族が調略に応じなくなっただけでは?
逆に織田徳川に国境が接してる豪族は当然調略を受ける立場になったと
遠江失って駿河も侵食されてるのに北条と激戦してる勝頼が当てにならないと見限ったんだろうね

724 :
結局、最後まで徳川は田中城を自力で落とせなかったくらいだし、
武田崩れを誘発した穴山の離反がなければ諏訪で織田軍を壊滅させられたよな。
なんせ北条如きに大敗した滝川とか地侍に破れて殺される河尻とか
織田軍の弱さはハンパねぇからな。

725 :
地侍が軍事力の根幹なのに何言ってんだこいつ

726 :
文体からしていつものキチガイでしょ
今日は3つくらいID使い分けてそこら中のスレで暴れてるw

727 :
滝川は氏直相手にガチ負けしたからなw

728 :
滝川の場合は
・ 信長死亡で甲斐信濃が騒乱状態
・ 上野は滝川の本拠地でもなくしかも統治初めて数ヶ月
だからむしろ従う豪族がいて一合戦出来ただけでも凄いと思うがね

729 :
>>728
織田軍は北条軍が初戦でわざと負けるふりの擬装に乗せられ、
見事に誘引策に引っかかり純粋に戦術的大敗してるじゃんよ。
これが実際の織田軍の実力だろう。

730 :
>>729
俺が言ってるのは滝川が数ヶ月で上野の豪族を手なづけてたのは凄いねってこと
誰も戦術的な話などしてないんだが・・・
君大学のゼミとか経験ないの?
コミュ症?

731 :
信長が死んだ後とはいえ敗因は士気の低下ではなく完全に戦術面。
緒戦では戦歴豊富な氏邦を他国衆組の上野国衆が撃退するなど滝川軍は多いに氏直を破るチャンスがあった。
本戦で氏直本体のわざと敗れたふりをして退き敵を味方陣中奥深くまで釣りこみ
周りから包囲殲滅する作戦に破れた(戦後の某書状・滝川事書・軍記などで共通している)
のだから完全に戦術負け
滝川軍の士気が崩壊したなどとデタラメをでっち上げているのは徳川時代の糞講談
石川留書の
>>・ 上野は滝川の本拠地でもなくしかも統治初めて数ヶ月
厩橋城は滝川の本拠地になってたはずだが?

732 :
東国方面は友軍の徳川や柴田もいたんだから、
信長の死は言いわけにならんわなあ。

733 :
柴田は北陸だし
徳川は武田に対して以来の北条と同盟関係だろ

734 :
そういう意味じゃねーだろw
信長が死んで織田軍が瓦解したなんて理屈は通らないってことだろ。
秀吉も細川も池田も筒井も柴田も前田も徳川もみんな元気でやってるだろ。
しかも徳川は北条を排除して甲斐・信濃を領有化するし。
明らかに徳川>北条>織田なのは間違いないでしょ。

735 :
少なくとも武田領を任された織田武将で領国を纏められたのは滝川だけ
他は一揆勢に殺されたり美濃に逃亡してる
そもそも織田軍が瓦解したとは誰も言ってない
ネットだからといって余りにも頓珍漢なレスされても困るんだよな

736 :
確かに本能寺前時点でも森なんか内乱と柴田の東上で領国崩壊状態の上杉に長沼攻防で敗れて撤退してるし
景勝書状から4月下旬の時点で長沼よりずっと織田領国に近い仁科地方で上杉方の島津がいたようだし
信濃の軍に関しては十分生前から手こずってるといえるかもね

737 :
信長なんて義龍死んで幼君龍興(領国混乱状態)に攻め入っても何回も撃退されたし
当主が死んだからどうこうとか単にいいわけではないでしょうか

738 :
信玄も村上義清に何度も撃退されてたね

739 :
義清の時が村上氏の勃興拡大期であり最盛期だったからね。

740 :
つか村上と戦して負けたの1回だけだし、
先陣やった専横権臣の甘利と板垣が勝った勢いで調子こいて、
敵前で討ち取った首のチェックなんてしたから奇襲されて死んだだけで、
晴信的には実は独裁的な家臣が死んでラッキーだった戦いだろ。
晴信本隊が現場に到着したら対陣になり負けたわけじゃないし。

741 :
言い訳は一流
戦術は二流
戦略は三流以下
それが武田信玄

742 :
どのスレもなんか一人で妄想まき散らしてる基地外が巡回して荒らしてんね

743 :
まぁ上田原は負けでいいと思うけど兵力比1.4倍程度だしそこまで罵倒されるほどの戦力比はないし
砥石崩れは城攻めで手こずってたところに撤退中を後から到着した村上が撃破しただけだし厳密には城攻めに近いといえるんじゃないか
それから越後から戻ってきた村上は信濃の諸城一日に16も落とされるなど負けまくってるし他の拠点も落とされまくってる
日本の城の中でもトップクラスに入るであろう超天嶮で基地外のような要害の城をガチンコで落とされまくってるんだし実力で負けてるといっていいんじゃないか

744 :
信長の美濃や伊勢攻略の方が遥かに苦戦してるだろ
美濃なんて木曽川さえ超えてしまえば盆地でそこまでの要害はないし
実際堅城といわれる稲葉山でも斉藤や竹中や福島や土岐や信雄などに落とされまくってるヤワな拠点でしかないし

745 :
>>694君中々ひねくれてるねwだが嫌いじゃない

746 :
どう信長貶めて武田を持ち上げても
それに滅ぼされた事実が変わらないのが憐れw
噴火で滅んだとかいうマヌケなことを主張するなら憐れ通り越して滑稽だな武田はw

747 :
武田はそんな主張してないんじゃないの?
憐れで滑稽なのはだがだと思うけど…

748 :
だな

749 :
>>740
末裔が今現在重要閣僚やってますんで
言い方にはもうちょっと気を使ってあげてください

750 :
信玄公の遺徳を背景に板垣ひとりで関東へ武力進出し江戸幕府を降伏に追込んだ。
東海道の官軍はそれに怖気づき、板垣を武官にすると天下を奪われるとして明治新政府になると
長州と薩摩は軍権を独占し板垣の力を奪った。

751 :
明治新政府の骨格は鳥羽伏見でほぼ決まっていた
後から参戦した奴らなど所詮棚から牡丹餅

752 :
勝海舟の軍艦による後方遮断策に怯えていたのが新政府軍。
一方、板垣は一瞬で甲斐を攻略し江戸への道を切り開いてしまった。
武功抜群第一の功臣は板垣
西郷は勝に虚勢を張った挙句に勝に全面同意の土下座外交

753 :
従来、長篠の戦いの準備として馬防柵を作ることを命じた
5/19付け家康→石川伯耆・鳥井彦兵右衛門宛書状であったが
この書状の家康の花押が天正7年以降のものであることから
長篠の戦いに関連する書状を7年以降に比定しなおす
もしくは、7年以降になっても家康は馬防柵を作ってまで
勝頼の攻勢を凌がないとならないくらい武田相手に大苦戦の連続だった
この二つの解釈しか考えられないことが発覚。
長篠の戦いより前に勝頼に殺されているはずの鳥居強右衛門=家康の命で数正と柵を作っている鳥井彦兵右衛門なので、
そもそも長篠城包囲や長篠城落城が天正3年にあったこと自体が怪しくなった。

754 :
馬防柵戦術そのものが
天正3年ではなく、7年に家康によって考案された可能性があるね。
織田方には馬防柵に関する一次史料はないからね。
すると信長公記の滝川と家康が作った馬防柵の記述がある長篠の戦いは、
本来は7年の戦いを3年と年創作してるわけかな。

755 :
信長公記の長篠の戦いは捏造なのはもはやハッキリしたな!

756 :
長篠の戦いだけでなくもはや全頁に渡って捏造なのが今や定説
そもそも「是非に及ばす」ってセリフを一体誰が聞いてたというの(笑)

757 :
残念ながらそんな珍説誰も主張してない

758 :
信長公記基準ですら雑魚の信長さん

759 :
武田勝頼の北条攻めって資料が今一少ない気がするんだが
わかりやすくまとめた本とかないですか?
大体は長篠まではやたら詳しくて対徳川戦の話があってその後御館の乱に飛んで
その後甲州崩って感じなんですが

760 :
あんまり興味がない話だしなー。
勝頼本くらいしか載ってないんじゃね?

761 :
長篠の戦いで山県昌景と馬場信春、どちらか一方が生き残ってたら武田家安泰だった?

762 :
ゲーム脳?

763 :
秋山と高坂が生きててもダメだったからダメじゃね?
まぁ山県か馬場が生き残ってれば勝手に戦場離脱した穴山信君も無傷ではいられなかった気もするが

764 :
実際、軍記講談話を除けば、 
馬場や山縣がそもそも出陣してたかすら怪しいし、 
長篠で討死した武田信豊配下の左衞門尉には勝頼が、 
嫁の信豊の息女に名跡の相続を認める判物を認めてるし、 
山家昌美にも子の討死を賞して弟に名跡を認めたり、 
天野藤秀にも子の小四郎が最前線で鎗を合わせて粉骨し何事なく退いた武功に感状出してる。 
しかし山縣や内藤らに関わる書状を勝頼は一切出してないし、 
信長も感状を一切出すことも無い。 
唯一、家康が5/18の長篠城防衛への感状を松平勝次に出して賞してるだけ。 
明らかに織田も徳川も大した戦功が無かったことを表してるし、 
勝頼が6000程度でやってきてるのを証明するように、 
山縣や馬場らが長篠に出陣してる証拠が無い。
むしろ勝頼は穴山信君、武田信豊、小山田、甘利らだけを引き連れて長篠に現れたとしか思えない。 
だからこそ信長は深く追撃することを恐れて、 
さっさと帰っていった。

765 :
山県昌景は勝頼の天正元年8/25書状を最後に消え去る。 
真田信綱も天正元年9/8の勝頼書状を最後に消え去る。 
信玄政権から勝頼政権への移行で、 
構造改革があって引退してるんじゃないか? 
長篠の戦いで信長は彼らの名前を一切あげてないのも不審だね。 
なにせ岩村城の開城の報せの信長書状には、 
秋山のことは引き寄せてから今日、 
磔にかけたし、その他の籠城者は残らず首を刎ねたと 
秋山を騙し寄せたと名前をちゃんと言明してるし。
実際、長篠の戦いが迫る天正3年4/16の勝頼書状では真田昌幸と小山田が一緒に登場しているが、 
信綱は登場しないし、 
山県昌景本人の発給文書も天正元年11/23が最後なんだけど。
天正元年7/30の時点では、 
武藤喜兵衞尉と勝頼が書いていたのに、 
天正3年4/16では真田喜兵衞尉と勝頼が書いていて、 
明らかに昌幸が武藤氏から真田氏への家督継承を済ませてるのがわかるんだけど。
よって信綱が長篠で討死したから昌幸が武藤から戻ってきて真田の家督を継承したとする論法は通用しないのがはっきりわかる。 

766 :
よくわからないが武田信繁が生きていれば

767 :
武田義信が継いでいれば事実上の断絶はなかったかな
最大版図は小さくなるけど

768 :
密告した山県昌景が武田を滅ぼしたってことだな…

769 :
義信のクーデターって成功するか?
ご親類衆も信繁が戦死したとはいえ信廉がいるし穴山とかも信玄裏切るとは思えない
武将連中は信玄子飼いが多い訳だし
そもそもあのタイミングでもしクーデターが成功したとしても領国内はガタガタになるだろうし北条もどう動くかわからん
上杉は楽に北信濃勢力下に収めてそのまま信濃に乱入する可能性もある

770 :
クーデターをしなくても良いように今川を攻めこまずに
駿河を緩衝地帯とするか北条に獲らせておけば

771 :
いつ死んだかもよくわからない内藤さんが生きていれば…

772 :
結果論だけど勝頼に三方原の采配やらせておけばなぁ

773 :
三方が原は史実でも十分すぎる戦果だろ
徳川の重臣は悉く戦死
織田も佐久間与力や平手、前田兄が戦死

774 :
武田義信なら信長に従属して、秀吉の頃には五大老だなと
夢を見てみる

775 :
義信は今川に肩入れして徳川と戦ってるうちに上杉に信濃脅かされるんだろうな

776 :
北条氏政・上杉景虎・武田義信の同盟も面白そう

777 :
>>774
結果論だけど駿河侵攻は大局的に見れば失敗だったからな。
勝頼の時代には駿河、遠江はお荷物だった・・・
今川が健在だったら織田・徳川との戦線も小さかったろうし
家康の東進を防ぐため、北条からの援軍も引っ張りやすかったのにね。

778 :
>>777
バッカw
上杉が動けない冬に駿河攻めやらんかったら、
雪解けと共に今川と上杉に挟撃されて武田は滅亡してたわ。

779 :
まぁ三方原で家康討ち取ってればね

780 :
>>778
えっと。駿河攻めが勝頼の重荷になったと書いてるんだけど・・・
日本語が不自由な人ですか?

781 :
まぁ駿河攻め→対北条戦・西上野攻略で数年費やした間に信長は巨大化しちゃったからなぁ

782 :
>>780
長篠の戦いで勝頼が負けるまで、
むしろ武田側が優勢だったのは無視かw
>>781
信玄の上洛戦の時の信長の支配領地なんて、
尾張南西部を長島門徒に削られまくられた結果、岐阜城近くに砦作られ、
北美濃や東美濃も武田に内通者出され、
尾張が実行支配してた領地なんて明らかに100万石切ってただろw

783 :
>>778
横入りでスマソが
駿河攻めしなかったら跡継ぎは義信のままだし
今川との関係は良好じゃね

784 :
>>783
上杉と結んだ今川が戦闘準備して国境まで一方的に閉鎖したのに
なにが今川を攻めなければだよw

785 :
信玄がさっさと義信に家督譲っておけば良かったんだな…

786 :
若い義信じゃ謙信相手に分が悪いと考えたからなかなか譲らなかったのかな

787 :
>>786
氏康に対しても分が悪いだろうしね

788 :
クーデターで義信になれば上杉か織田に従属するから大丈夫

789 :
今川との関係から言えば義信も織田とは敵対しないかね?

790 :
まぁ3国同盟残したまま上杉とも和睦して今川とともに徳川・織田と全面戦争は面白いかもね

791 :
>>789
義信だったら中山道を通って織田領に切り込むだろうし
いずれにせよ武田と織田が敵対することは避けられないだろ。

792 :
史実を知ってる立場から見れば織田と戦うなら早い方がいいな
徳川は今川に抑えさせて武田は東美濃へ乱入か
それとも武田・今川連合軍で東海道沿いに徳川、織田を撃破するか

793 :
【織田信長が戦って滅ぼした主な相手】
斎藤龍興          →美濃60万石
朝倉義景          →越前60万石
三好義継          →阿波讃岐摂津に約50万石
北畠具教(お家完全に乗っ取り)→南伊勢40万石
六角義賢(+浅井長政)    →足して近江ほぼ全域60万石
武田勝頼          →甲斐全部と信濃上野駿河一部、約90万石
波多野秀治         →丹波およそ8割? 約24万石
【武田信玄が戦って滅ぼした主な相手】
諏訪頼重 高遠頼継 村上義清 大井貞隆 小笠原長時 笠原清繁   →  全て足して約40万石
今川氏真        →  遠江一部、駿河で約40万石、しかも追い詰めたのは家康w


レベルが違いすぎるな

794 :
大友スレでは正反対の意見を吐くキチガイが出没中です。
951 人間七七四年 sage 2013/08/10(土) 20:57:55.88 ID:mRjl5dPw
だから家督を譲るが早すぎる。
953 人間七七四年 sage 2013/08/11(日) 18:30:06.09 ID:78AJK9Lo
>>951
何歳で家督を譲るのが良いと考えてるわけ?
954 人間七七四年 2013/08/11(日) 18:39:54.59 ID:u/Lruf1g
死ぬ前まで。

795 :
>>791
当時の武田は斉藤に負け続けていた信長の懇請を入れて信長養女の遠山夫人(母が信長妹)を縁に
武田織田同盟が成立していたので、織田を攻める理由がまったくないのも知らんのかアホw

796 :
義信が当主になれば勝頼も排除されるだろうし
今川と組んだ武田は織田との同盟など破棄するに決まってんだろw

797 :
織田との同盟を裏切るような背信行為を武田はやらん。
なぜ背信行為をしないとならんのだw動機は?

798 :
クーデター無しの武田義信なら保守派をまとめ易かったな
勝頼では家臣の信任を得たいがためどうしても無理な事をしてしまう

799 :
>>勝頼では家臣の信任を得たいがためどうしても無理な事をしてしまう
はっ?なに言ってんの?妄想馬鹿なの?

800 :
勝頼が陣代とか今更いう人は居ないだろうが
やはり義信粛清で諏訪勝頼が最終的に継いだのは影響あるよ
長篠での親類衆の戦線離脱とか武田崩れの親類集の不甲斐なさとか勝頼舐をなめてるとしか思えない

801 :
穴山が叛旗したら河内の守備が崩壊するんだから
甲斐府中へ攻め込まれ
新府城の背後を遮断される危機に陥る
浅間山噴火で真田領への道は怪しく
小山田を頼るしか選択がなくなる
もはや孤立する可能性ある
新府城で籠城する意味がなくなるだろ。
穴山が味方であって始めて新府城は機能する。
北条に対して武田が圧倒的に優勢で
上野が武田のものとなってしまう・このままでは当方が滅亡してしまうのではないかと氏政が嘆いている。
大した被害もないが北条も反撃していて天正8年5/15に都留郡に侵入した氏照を西原合戦で撃退してるが甲斐府中がいつ攻められるかわからんことを受けて天正9年1月から新府城の築城が開始されてる。
この時点では織田の脅威などまったく想定されてない。
(当時の武田は猿ヶ京攻略成功と沼田攻略中や田中城攻撃に失敗した家康が掛川へ逃げるのを追撃したり、武田水軍が伊豆を襲撃しまくりで氏政も伊豆から逃亡。10月には利根川を渡り武蔵本庄の氏政の陣へ肉薄した武田軍にまた氏政逃亡し12月に沼田城攻略成功)
天正9年には3/17に北条軍が甲斐へ進入し上野原市にあたる棡原で武田軍が撃退してる。
その一方で外交戦では武田・佐竹同盟に里見も参加の意思を示してるし
北条水軍の本拠地伊豆長浜城を武田水軍が大破している。
長期に渡り苦戦していた徳川が砦を構築したやっと高天神城が落ちたものの、その周囲の武田方諸城や砦は健在なまま。
こんな状況で織田に備えて新府城を作ったなど暴論以外の何ものでもない。
甲斐府中にとっての安全保障を脅かしてるのは
突発的な北条側のヘタレ奇襲であって織田じゃない。
9月に完成した新府城だったが10月の伊豆の韮山攻撃で新府移転が延期になるなど
対北条戦略進展で新府移転まで延期される始末。
11/16に佐竹も武田に呼応して出陣してるが
伊豆対陣で北条が陣から出ず、見切りを付けて武田は撤兵して12/24に新府城へ入城してる。
そもそも織田は武田の講和交渉に応じて交渉を続けていて
交渉の好転もあり信長の息子の織田勝長が11月に武田から織田へ人質返還されている。
佐竹なども同盟成立と読み、(天正9年3/18の時点ですら景勝が織田と同盟したのを報せない武田を非難する誤解までしてる)
そのため交渉進展を経て天正10年1/6に勝頼は三河出陣も延期してる。
2/4に信長は閏月の有無について濃尾の暦師賀茂と土御門に問答させて朝廷を追い詰めてるだけだし
1/25付書状で伊勢神宮の遷宮費用の話が持ち上がり、まったく武田攻めをする気配すらない。
唐突に2/6付けで木曽が信長に援軍懇願しており木曽の内通確定がほぼ突発的だったのがわかる。
そして予定に無かった武田攻め動員が開始され準備が整った
2/11に信忠が岐阜出陣しており2/14に浅間山大噴火が観測され武田領国大混乱のドサクサ紛れに火事場泥棒同然の織田軍が信濃へ侵攻。

802 :
天正10年1月6日付けの勝頼書状には
軍事行動は延期。2月には仏事を執行するから
3月、4月も一切動かない。
などと軍備を解除して武田領国は冬休みに入ってた。
そこで織田軍が無防備の武田領へ奇襲しただけだからなぁ。
高天神城は3年も籠城し続けていて
徳川はかなり苦労してるね。
つか一次史料を読むと
天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)

803 :
信長公記の武田征伐話はデタラメばっかりで信用性ゼロだからな。

2/15付けの信長→滝川書状の中で
我々出馬儀 無油断令用意候て 一左右(いっそう)相待候 
能々見合候て 発足之日限可申上候 
などと書いてあり、信長は自分の出馬まで油断なく用意して待つように
よくよく見合わせて出撃のスケジュールを俺に申しあげよなどと命じている。
いまだ織田軍は信濃・美濃国境線上で待機していて
本格的な侵攻をしていないのが判明する。
また信忠が若いので働きして名を取らんとする気色があるので
俺が来るまでちゃんと抑えるのだ。もし失敗したら2度と俺の前に出ることは許さんから覚悟しろ。
2/23の信長→川尻宛の書状では
19日の書状報告を読んだ信長が飯田・大嶋が落居したので敵の城は高遠城だけだとのこと。
高遠攻略のためのしかるべきところに2.3の伝城を普請するように。
高嶋(諏訪)に在陣していた勝頼は甲州へ引き退いたとの話だが
韮崎の新城はまだ完成してないし城域が手広いが(この後に四郎無人之由と書いてる)
籠城するのであろうか、例え人数が多かったとしても
この状況では退治するのは簡単だろう。
信忠が軽挙しないように滝川とも相談してよく申し聞かせよ。
森や梶原が談合せずに進軍したとのこと。若きものだから粉骨して名を取ろうとしてるのだろう。
また俺へ褒美などで訴訟する種とも思ってるに違いない。
アホな働きは無用だとよくよく申し聞かせよ。
高遠の陣取りはよく相談してのちのちのことまで示し合わせて落ち度ないように。
(この時期になると森や梶原が信長の命令を無視する行為を公然とやりだすのがわかる)
2/28の信長→川尻
大嶋を武田側が明け退いた内容について重ねての説明を聞いた。
(やはり武田が組織的抵抗できずに逃亡を重ねてるのがわかる)
道を作れ。あちこちに作りまくれ。そうすれば撤退する時に役にたつ。
俺の出馬前に急いで作れ。進軍とかしなくていいから作れ。
大百姓は草が靡くタイミングをよく知ってる。そういう時に役にたつ。
勝頼は俺が出陣して叩くから進むんじゃねぇよ。この命令は信忠や滝川にも申し伝えた。
とにかくつなぎの城を普請することに集中しろアホども。
上記と同じ日付の2/28の信長→川尻
高遠へのつなぎの城を作るよう申し伝えた件、お前が皆に尋ねはよやれや。
(追加で出した書状か。どうしても厳命したいようだ)

804 :
3/1の信長→川尻
26日の書状読んだわ。21日に命じた俺が出馬する前までの伝城作りの件、
25日に返信がきたが、信忠やそのほかの者に申し聞かせたそうだな。
今後もその調子でこのことに集中して油断すんな。
俺は5日に出馬し、やがてお前らに会うので、それをもって討ち果たすのだ。
その意はたびたび申し聞かせているはずだ。少しも進軍してはならない弱敵と侮るんじゃない。
森と梶原が言うことを聞かないようで曲事だ。若き者ゆえ俺に訴訟する気だろ。
俺がまだ進発してないのだ。信忠に固く申し付け候はぬ話である。
これにつき俺が進発した時に異議に及ぶこと許さない。とにかく固く守れ。
高遠の町を燃やしたのはよくやった。信忠・滝川・小川・水野・高橋の陣の前進設営について
聞き届けてやろう。しかしそこから先へは進むんじゃねぇぞ。
3/3信長→信忠
29日の注進が今日届いた。穴山が謀反したので勝頼が甲州北へ逃亡したとか。
穴山が内々に申していた話が実儀となったようだ。
よって陣を大嶋から飯嶋へ移すのも是非もない。しかしそれ以上はす・す・む・な・!
俺がちかじか出陣し手間なく討ち果たすんだから。これは川尻にも言ってある。
3/5の信忠→坪内(偽書状写しの可能性あり)
高遠城陥落の際しての坪内への感状
3/8の信長→柴田
5日に安土を出陣して今日は犬山。2/28に勝頼が居城を焼いて山奥へ逃亡したので
先手には甲州へ討ち出させた。信忠も同じように甲州だ。
俺が出馬する意味なくなったけど連々と関東見物を望んでいたことだしな。
3/13の信長→柴田・佐々・前田・不破 武田を滅ぼしたぞ。
3/17の信長→松井
穴山の忠節のおかげで、俺が出馬すると。日限から路地まで色を立つべきよし(一揆蜂起させた)
あちこちに風聞させてくれた小山田が滝川と心を合わせて14日に勝頼を討った。
典厩も小諸城で出羽守が忠節してくれたので首が到来〜長いので略〜
このことを秀吉へも伝えよ。
3/27の信長→木曽 本領安堵ならびに加増

805 :
>>800
義信は粛清されてねーよ病死だ。
家康が信康を粛清したことと混同すんなアホ
だいたい穴山が長篠で勝手に撤退したなんて甲陽軍鑑のネタで一次史料にはない。
しかも軍鑑ワールドでは穴山が戦わず撤退するのも当然で、
織田徳川10万に勝頼は15000で戦いを挑むアホに描いてるからな。

806 :
三方ヶ原と長篠で武田軍の精強さ、屈強さを目の当たりにして、
怖くて怖くて夜もゆっくり眠れない戦国最強武田軍が居なくなってつい大威張りで光秀をぶん殴って怨まれて、
もはや敵無しと調子こいてたらすかさず仕返しされる人の心が分からないうつけもの。
織田厨の妄想虚しく、これっていかに信長が武田を畏れていたかよく分かるシチュエーションだよねw
もしこれが毛利や上杉だったらぜんぜん話は違ってここまで油断しなかったと思うんだ。
やっぱり土下座外交に終始して手を出さないほうが良かったかもね。

807 :
>>799
高天神城の維持は無理があっただろう

808 :
>>797
義信だったら三国同盟を破ってまで駿河侵攻はないし
武田としては東進か西進どちらかを選択しなきゃならん。
北進は限界を迎えてたし、当時開発が進んでいた
美濃に目を向けるのは自然だと思うけど。

809 :
>>807
それは勝頼が長篠の戦いで負けた結果であって、
高天神を落としたことが無理をした行為には当たらない。

810 :
大久保が南蛮の金採掘技術を武田に持ち帰っていれば新府城に鉄砲を設置して織田を撃退し
昌幸の軍才と勝頼の用兵で持ちこたえられたかもしれない

811 :
信長以外も上洛すれば急速に勢力拡大できてたかな?
信長以前は上手くいってないが

812 :
>>809
長篠の戦いで負けた時点で高天神城を維持せず捨てる事はできなかったのかな
後に将兵を見殺しにしたという噂を立てられる原因になったし

813 :
勝頼的には上杉謙信が死んだ事で結果として甲相同盟が破棄されたのが運の尽きだったな
あれさえなければ攻勢正面を遠江、三河に限定出来たんだから

814 :
謙信生きてたら信長詰んでただろ

815 :
謙信が生きていてもなぁ
もう織田が肥大化して勝負にならんだろ

816 :
>>811
京を押さえた政権で一番、短命なのが織田政権だろ。
上洛してわずか14年で信長死亡。細川高国政権19年や細川晴元政権18年や三好政権19年
と続いたことからわかることからわかるように
京を掌握した勢力のチートぶりは凄まじく低難易度である。
そしてだいたい20年近くは持つのが当たり前。
しかしなぜか信長政権は非常に短命でぐちゃぐちゃにかき乱して殺戮しただけだった。
>>812
江甲和睦交渉が続いていたから高転神周辺も一時休戦調停状態になってたようにしか見えんけど。
>>815
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
上杉も天正3年軍役帳があるから兵・槍・手明・鉄砲・大小旗・馬の比率がちゃんとわかる。
織田とかデタラメで全然わからん(末期の明智はわかる)
利家や信盛とか蓄財に必死で兵をあまり雇わなかったようで、
足らん分だけ国人や与力などをコキ使って軍功上げてたようだし。
長篠直後ですら家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は農業の暦に合わせて帰る必要が無い
北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる
着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは 軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地 興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。

817 :
そんな杜撰な大名に瞬殺されたのか武田は…

818 :
>>816
休戦調停状態の間に高天神城を捨てればよかったかも
高天神のせいで補給線のびすぎて結局見殺しにするしかなかったし
国人衆や一門衆の士気が大いに落ちた

819 :
高天神を放棄するってことは勝頼時代になってからの成果をすべて放棄するのに等しいからなぁ

820 :
もしくは穴山に全責任を負わせるとか?
本国から動員掛けてるから間に合わないんだし。
穴山で対処できなくなったら、放棄していいって条件付きで。

821 :
駿河の兵力だけじゃ徳川が5000人も動員してくりゃ返り討ちでしょ
長篠で負けてから三河・遠江方面で守勢に回ったのはやはり痛いね
もう一度織田を引きずり出すまで攻勢仕掛ければなぁ
さすがに二度も野戦陣地に突っ込みはしないだろうし

822 :
>>817
浅間山噴火に便乗した織田が
文字通り火事場泥棒したからね。

823 :
>>822
はいはい、武田はガラス瓶を見たら神の贈り物だと思って大喜びするブッシュマン並みの土人ですね

824 :
武田水軍が長島を焼き討ちした因果が回ってきただけだと思うがな。

825 :
また九州まで噴煙が見えたのに
北条領からはちっとも気が付かなかった浅間山の話か

826 :
>>825
北条領から見えなかったとする一次史料は?

827 :
>>826
資料が残ってない=だれも気にしてない だろ、常識的に考えて。
そんな大噴火なら作物にも影響が出るだろうから、公文書に残るはずだよねー

828 :
>>827
はいはい、北条家臣で日記を書いているやつがいないのだから
毎日の出来事が記録されてるわけねーだろアホw
どんな性格の公文書にそんなことが記されるのか実例を挙げてみろや。
お前はなんら根拠もなく、テキトーに書いてるだけだろが。

829 :
ID:axtuQzDw=アスペルガーだが
戦国板で超有名な嘘吐き荒らしなのでスルー奨励
今日一日の荒らしレス一覧で確認してください
ttp://hissi.org/read.php/sengoku/20130818/YXh0dVF6RHc.html

830 :
へっ?

831 :
九州から噴煙が見えるほどの噴火なら
西上野の収量が激減してもおかしくないだろうがなあ
それとか碓氷峠が塞がるとか長野原が壊滅するとか

832 :
気象庁にも噴火記録電話で問い合わせたけど1582年に噴火はしてるが各方面の被害資料もないこともあり中規模程度であると思われる見解だったよ
因みに例えでいくと頻繁に噴火する桜島をイメージした程度ではないかと。
本当に大噴火したら過去資料を元に述べてみると季節にもよるが降灰地域は浅間山〜幾内ないし浅間山〜会津付近にまで拡散する。
当然ながら上野、下野など関東各地は害を免れない
気象庁としては1582年の噴火はこれらの報告や信頼にたる資料すらないので付近の村々などはわかりませんが広範囲に多大な被害がでたとする見方は現段階を踏まえた上で『出来ません』

833 :
はいはいバカ乙
史料が遺されてないから判断使用がないし、
雨天などの天候、風向きの問題もあるので上野や下野などの被害も判断出来ないのが
良識的判断だろ。
織田チョンに都合よく我田引水する判断が出来るわけないだろ。
判断出来るのは公家と宣教師が京都や大分県から赤い空が観測できた一次資料だけなんだから。

834 :
中規模程度なら大分県から観測されるわけねーけどなw
なんせ「真っ暗な夜が明るくなるほどに「赤々」と夜空が光ってたほどなのにな。
どう考えても噴煙だけの桜島と違って溶岩の空への大規模噴射が伴ってる。

835 :
溶岩の空への大規模噴射ならそれこそ雨天風向き無関係に
周辺国壊滅しとるわ
西上野だの上田だの長野原だののレベルじゃない

836 :
アスペルガーだがは文系も壊滅的だけど理系の知識も無いことがわかった

837 :
だから実際に北条氏政は八王子の氏照に、
甲斐から連絡が全く入って来なくなったと異常事態を書いてるし、
勝頼が小山田を頼り、上田〜沼田の真田を頼らなかったのも浅間山が真田領の間にあったからと思われるしな。
いろいろとこの時期には不審な点があるね。
そもそも織田の侵攻開始が浅間山噴火日とリンクしてるし。

838 :
一連の現象や宣教師や公家の日記をすべて否定しないと成立しない織田脳思考w
つまるところが織田脳とは思考停止のことw

839 :
もう噴火の話はいいわ
もし真田経由で越後に逃げ込んでた場合どうなるだろうね
信長はとりあえず史実通りに京に帰るだろうし
本能寺がそのまま起きればとりあえず北信濃に景勝に兵貸してもらった勝頼が乱入するだろうし
かと言って甲斐・信濃を回復できるとは思わんが
とりあえず北信濃は勝頼に任されそうだな

840 :
村上と同じルートってことで

841 :
景勝は自分で景虎を潰しておきながら勝頼の首で北条と同盟を結びます

842 :
勝頼が北信濃に進出して真田も合力したら北条・武田・徳川で三つ巴だな

843 :
やっぱり島津はすごいよなぁ
当時も桜島噴火とか毎年のようにあっただろうに…

844 :
>>843
島津?大分県の宣教師からすらも観測されない程度の、
特に記されるほどもない、
たかが黒煙くらいなもんだろ。
それとも公家の日記に鹿児島のネタでも書かれているのか?
誰の日記か早よソースくれ。

845 :
噴火でビビって崩壊した武田と噴火をものともしないで進軍した織田ってことか…

846 :
>>845
それを世間は卑怯卑劣な火事場泥棒と呼ぶ。

847 :
まっ言ってみれば東北大震災の津波被害の惨状をチャンスと見て
襲ってくるようなもんだしな。
似たような例を戦国時代で探すと北条早雲が駿河湾大地震の津波で壊滅した伊豆を
襲撃して簡単に占領し、足利茶々丸が防戦もロクにできずに逃亡した例がそうだな。
災害中にリアルタイムで襲った織田軍の鬼畜ぶりは史上最低の悪事だろ。
災害から落ち着きを取り戻した甲斐では、速攻で武田残党レベルの力で弱織田軍
なんて排除できたしな。川尻なんて逆あずりで処刑されたあたり、
よっぽど火事場泥棒の卑怯さは当時の常識ですら容認できないほどの怒りを買っていたんだろうな。

848 :
山梨県民は一生涯愛知県民を恨み続けます

849 :
えっ?なんで粘着ストーカー信長厨の逆怨みに困っている被害者って構図が、
県民と県民の怨恨話に飛躍してるの?
まずはそうなるまでの思考過程の論述をして説明してください。
それにしても犯罪信長脳は理解出来ないな。

850 :
怨恨あると言うならむしろ近畿の人々や福井県や滋賀県の人々だろうね。
信長の老若男女を問わない残酷な手法によるジェノサイド撫で斬りの被害者たちの子孫だろうから。
尼崎なんて燃やされて略奪されたし。

851 :
魚津城の戦い

852 :
会津の人みたいに長州人を恨んでるのは分かるが、400年以上前のこと恨み続けるってありえない

853 :
会津戦争に長州は参戦してないんだがw

854 :
また織田チョンの無学が露呈w
でっち上げ捏造史観…会津観光史観と岐阜観光史観は相性が良いなw

855 :
歴史をコリエイトする織田鮮人にとって、それは褒め言葉にしか解釈されんぞ!事大主義のM変態だから!

856 :
世良周蔵(長州)や松下村塾出身者は東北人に嫌われていると思う

857 :
安倍総理(長州)や麻生副総理(祖先に大久保利通)は
北海道・東北・新潟・茨城の事嫌いな感じだね

858 :
板垣信方→板垣退助

859 :
巨人が勝ってビールがうまい

860 :
武田絡みのスレに、妙に噴火に拘る人がいるよね

861 :
嘘を100回言ったら本当になるという教育を受けた在日が言ってる説なんでほっといていい

862 :
>>861
ほんと基地外織田厨には板のやつらは迷惑してるよなぁ…はぁ。

863 :
信長は危機管理がなっていないな
下克上の時代が終わったと思っていたのかな

864 :
木曽義昌が味方に付くって内通してきたからリスク少ないと考えて侵攻したんだろうな

865 :
本能寺の変や金ヶ崎の退き口

866 :
木曽が内通してもビビって一歩も進軍できなかった織田www

867 :
穴山の内通説はどうなんだろう
信長の仕置見る限り予め内通してた臭いが

868 :
>>867
穴山は北条と徳川の挟撃を受けるも、
武田本隊から援軍もらえる可能性が無いから離反しただけ

869 :
>>868
武田征伐始まってから離反したなら打首コースな気がするが

870 :
武田の対家康外交の取次窓口を任されていたから、
交渉チャンネルを持っていたし、
穴山が甲斐府中から人質を奪って離反したことで、
織田との決戦をしようとした勝頼が諏訪から甲斐へ撤退したことで、
武田は組織的抵抗が不可能になった。
つまり穴山が武田を自壊に誘導した。

871 :
>>869
まあ、木曽より先だよな。

872 :
穴山が嫌われてるのは滅亡の時裏切ったのと長篠の戦いで勝手に撤退したからだな
当時の人たちも本能寺の変で死んでざまあみろって感じだったんだろうな

873 :
穴山駅

874 :
新府て穴山の本貫地の程近くだろ
本拠地は移ってもなんらかの既得権を持ってそうなものなのに
築城取り仕切ったのは真田
そのあたりで生まれた利害的対立が三条系としての予てからの感情的対立とでないまぜになって
離反決断したんじゃないかと証拠も無く想像してみる

875 :
もし穴山の離反がなかったとして
信忠の3万と勝頼の2万(実際には1万程度っぽいが)が激突してたらどうなってたんだろうな
史実の信忠の焦りが尋常じゃないからつけ込む隙はありそうだけど

876 :
どの道、後から織田軍の別の大群がきそう

877 :
出遅れてた北条にやられるだけだろうな…

878 :
>>875
穴山の離反がなかったら、木曽の離反もなかったように思うので、
その場合は、武田より先に毛利に行ってた気がする。

879 :
>>874
穴山の本貫地って河内だから、左下の方だろ。
新府はちがくね?領地もらったんだっけ?
あと、築城の取り仕切りって真田だっけ?
確かに真田は築城人夫動員してる書状があるけど、
真田以外にも動員をかけてるんじゃないか?
真田は三成書状まで所持していて書状持ちが異常に良いから残っているだけでさ。
まぁ沼田城を攻略して、真田に余裕が生まれたので築城責任者を命じられたかもしれないけど。
>>875
森とか信忠の命に服さず、あとで信長に訴えればいいやwwwって盲進してたから勝頼に大敗して、
織田軍が追撃を受けて山谷に屍を晒すだけでしょう。
>>876
兵站が持たない。そもそも甲斐からすぐ織田軍が逃げるように撤退していったのも兵站が崩壊していたから。
だから穴山氏の支援がないと甲斐統治なんて無理だったし、
自分の手勢だけの川尻が貧乏くじを引いて殺された。
>>878
木曽の離反が先なんだが?

880 :
森が突出して勝頼に撃破されて急伸した信忠も討ち死に
とかなったら信長が本隊で怒りの進撃しそうだな
ただ信忠が撃破されるとただでさえスロースターターだった北条は進撃がもっと遅れそう

881 :
北条が出遅れてなんかないだろ
2/20徳川が田中城攻撃
2/21徳川が用宗城攻撃
2/25穴山が甲府の人質奪還
2/26徳川がまた田中城攻撃するも落ちず。
2/26氏直が沼津の天神ケ尾城を落城させる
2/27用宗城で開城交渉
2/28北条が伊豆戸倉城させたため三枚橋城が夜中に自落したので撤退した武田軍を追撃
2/29北条の進撃を受けて挟撃される恐れから穴山が家康に降伏条件交渉をする
朝比奈が用宗城を徳川に明け渡し撤退
3/1高遠城包囲
家康が穴山服属を家中に公表
3/2高遠城落城
下伊那で織田軍に対し武田軍最後の勝利が越後に伝わる
3/4穴山と家康が対面
3/6信忠が甲府に着く
駿河の富士氏ら金山衆が穴山を服属させた家康に従わず北条に服属
3/7小山田離反
これで武田家が完全崩壊。
はっきり言って北条の破竹の西進がなけりゃ家康も前進できなかったし

882 :
結局全方位に喧嘩ふっかけた武田の自滅ってことか…

883 :
織田はひたすら江甲和睦の美人局で武田の鋭鋒から逃げ回っていたけどね。
北条の場合はいきなり北条高広が北条氏を見限ったので、北条の上野支配戦略が崩壊したからだし。

884 :
ころっと騙された武田
知力皆無だなw
武田信玄が今川を裏切って攻めた理由が、統治する能力がないからだ、なんて言ってたな
そういう意味で自業自得だなw
そんなのに簡単に騙されたのだから

885 :
浅間山噴火説が完全に崩れたから今度は北条が頑張った説に切り替えたか
北条は無能じゃなかったんか?

886 :
>>884
相変わらずデタラメ吐き続けて織田厨はほんとキチガイだな。
>>同盟を破り奇襲したキチガイ信玄
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が、今川が武田に攻められたのも止むを得ないと情勢報告してるから、信玄が今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた。
ちなみに義昭の斡旋で越後と相模と甲斐の同盟が水面下で動いていたのを今川が察知して焦って俺を同盟の保証人にしてくれ除け者にすんなよと今川は参入を希望して
そんなの噂だけでねーよwと拒絶されたっぽい。だとすると今川に内緒にしていた北条も同罪だしな。武田と北条が上杉と戦っている裏で、今川が上杉と秘密同盟する表裏をしていて、
武田に起承文を出したことまで上杉に報告。武田が本庄を謀反させ 飯山城攻めし、上杉を追い込んでいる最中にこんな真似をして、
駿甲国境を封鎖するは、謙信に信濃出兵を依頼する始末。しかし信玄が一揆を依頼したために謙信は越中攻めする必要に迫られて無理だった。
ここにおいて武田が今川攻め開始。明らかに今川が関係悪化をエスカレートさせてる。
と言うか開戦に向けて今川が動いてる。

887 :
>>885
炭素年代測定とか知ってる言葉を持ち出してアホ織田厨w
年代「の意味を知らず馬鹿の骨頂w
1年刻みでわかるわけないし、
噴火の時の風向きで、堆積物の方角によるバラつき
噴火物内容物の重さで体積状況も変化する。
こういう難題をどうやってクリアするんだが
織田厨の御高説を拝聴したかったんだが、まだ回答が来てないか。

888 :
>>886
ながい
まとめろ

889 :
常敗織田朝鮮人またまた涙目敗走

890 :
>>878
3/3付け信長→信忠宛
29日注進 今日3日到来って言う書き出しで始まっていて
驚きの速報として穴山が謀反した事をを受けて勝頼が諏訪陣を捨てて逃げたって召使いの蔵沢が走り入り報告した内容でしょ。
(信長→柴田宛3/8書状で28日に居城に入り、居城をを燃やして山奥へ逃亡と書いてるね)
その内容に続けて穴山此方へ内々申子細候 定可為実儀候
この部分を前々から穴山が信長に内通していたように解釈する誤読のせいでしょ。
よく昔はそういうふうに書かれていた大衆向け歴史愛好家向けの本に書いてあったからね。
でもそもそも穴山と謀反について話を纏めたのは家康で
それをうけて25日に穴山は甲斐にいた人質を奪い取ってる。
つまり信長がいう内々仔細を申してきたことが実儀になったというのは
家康と相談して甲斐の人質を奪い、信長へ鞍替えしたことを指してるだけ。
だから信長は最初、穴山のこの動きを勝頼への「謀反」と書いていて
自分に長く内通してきていたなら穴山のこの行為を「御忠節」したと書くはずだし。
穴山の謀反は勝頼がせっかく諏訪に防御陣地を作り、待ち構えて決戦しようとしていた戦略を潰して
事実上、穴山が武田を崩壊させた功績があるのだから信長は武田滅亡最大の功績を挙げた穴山をみとめるだろう。
徳川と北条の挟撃に武田の援軍の見込みがないから穴山は離反しただけで
信長は何もやってねーぞ。
結局、最後まで徳川は田中城を自力で落とせなかったくらいだし、
武田崩れを誘発した穴山の離反がなければ諏訪で織田軍を壊滅させられたよな。
なんせ北条如きに大敗した滝川とか地侍に破れて殺される河尻とか一揆如きに毛利や森らも大敗走w
織田軍の弱さはハンパねぇからな。 しかも徳川と柴田の2大軍が隣接しているにも関わらずw
織田軍は北条軍が初戦でわざと負けるふりの擬装に乗せられ、
見事に誘引策に引っかかり純粋に戦術的大敗してるじゃんよ。
これが実際の織田軍の実力だろう
確かに本能寺前時点でも森なんか内乱と柴田の東上で領国崩壊状態の上杉に長沼攻防で敗れて撤退してるし
景勝書状から4月下旬の時点で長沼よりずっと織田領国に近い仁科地方で上杉方の島津がいたようだし
信濃の軍に関しては十分生前から手こずってるといえるかもね

891 :
つまり武田の自滅ね。
原因は、信玄が後継ぎにした勝頼の無能さと、武田の親族であった穴山
要するに信玄の自滅、と。

892 :
出たw織田厨の精神がひん曲がった奇形解釈w

893 :
と、コピペしかできない真性の無能が

894 :
信玄は外交のプロフェッショナルだったけど息子はそのDNAを受け継がなかった

895 :
勝頼が北条を圧倒していたとよく言われるけど
結局城の争奪戦でしかないんだよな
北条が滅亡するような気配さえないし
朝倉も親族の裏切りあったし調略は織田のほうが一枚上手だよね

896 :
外交のプロフェッショナルなので信長に泣きついてしか反包囲を解けませんでした
流石です信玄さん

897 :
北条なんて滅亡寸前だったじゃん。
天正9年末にはついに勝頼が小田原の目と鼻の先の三島まで乱入してたし、
佐竹に続いて里見が武田陣営参加意思を表していたし。
浅間山噴火が無ければ天正10年には小田原突撃してたわ。

898 :
その滅亡寸前の北条に「破竹の西進」とやらをやられちゃった伊豆・駿河諸城はなにをやっとったんだか

899 :
浅間山の噴火ってまた東大のリンク張られたいの?

900 :
>>899
地震研究所の観測網・地震研究所赤外線映像装置・監視カメラからのリアルタイム映像
これくらいしか東大は関わってねーよなw
江戸時代以前から東大ってあったのかwwwすげーwww
浅間山の噴火記録はあくまで後世になってからの口伝・伝説のカウントばっかで
そこに東大はまったく関係ない。誤魔化してんじゃねーよlカス。
>>898
浅間山噴火で混乱してたからだろ。
北条氏政も八王子城へ、甲斐から情報がぜんぜん届かなくなったと言っているように
交通路の分断を含む混乱状態に陥ってたのが伺い知ることができる。

901 :
うん、だから伝承にしか拠ってないってソースだそうね?

902 :
>>901
江戸時代以前で噴火の記述で一次史料ソースがあるのは
1108年の上野国壊滅報告もあった公家による記述である中右記
そして同じく公家と宣教師の記述がある武田滅亡の噴火
そして江戸幕府の記録にある1783天明浅間山噴火(この時は京からは視認されてないので小規模噴火だろう)
この3つしかないから。

903 :
>>900
ほー、んじゃお前はその当時から生きてたのか?
その当時から生きてなければ正しくないんだったらお前は正しくないな

904 :
相変わらず頭がおかしい織田朝鮮人。

905 :
>>902
ちげえよ
東大のそれがだよ

906 :
>>902
いいえ、それは東京大学史料編纂所のホームページで閲覧できるものだけです。

907 :
>>900
甲斐駿河は混乱してたけど東伊豆相模は混乱しなかったと
なかなか都合のいい噴火だな
北條の最終兵器かなんかか?

908 :
織田厨阿鼻叫喚でもはや何を言ってるのかすらよく分からなくなってきててワロスwww

909 :
>>907
あーぁそのアホ発言…
織田厨はそもそも浅間山のある場所すら知らずに悪口を垂れ流していたのがバレたなwww
だから話が全く噛み合わ無いんだ。

910 :
甲斐には届くのに東上野・武蔵には届かない都合のいい火山灰

911 :
翌年の作付けに何ら影響を及ぼさない、雪のように消え去る火山灰

912 :
真田昌幸が沼田城に帰還出来る火山灰

913 :
>>910
風向き
>>911
作付けどころか間もなく甲斐で大規模一揆が各地で発生するほど修羅場化
>>912
勝頼も浅間山がある真田領を避けて小山田領へ避難。

914 :
1596年の噴火の際には畿内でも降灰が確認されたのに
なぜか1582年の時は甲斐にしか被害が出なかったらしい
甲斐にしか被害がなかったのにその甲斐では被害甚大だったらしい
そもそも武田軍は信濃にいたのに甲斐の被害で壊滅したらしい

915 :
噴火があったことを証明する一次史料を打ち消すために、
噴火が無かったことを証明する資料が一切出せ無い織田厨www
北条氏政も八王子城の氏照に甲斐方面から一切、情報が入らなくなったと伝えていて、甲斐は情報から寸断孤立した異常事態になっていたりと、
あきらかに噴火の影響の傍証まで出される始末w

916 :
んじゃあこれはどうかな?だがよ
ttp://www.hayakawayukio.jp/volcanoes/asama/asamasiryo/honbun.html
この研究は史料が正しいか確かめるために噴火堆積物を調べたものだ
しかしどこにも1582年に起こったとだが主張している大噴火のことは出ていないねえ
はてさてどうしたことやら?

917 :
そりゃあ宣教師の豊後からの目視記述どころか
夜空が真っ赤に染まったのを目視した晴豊公記や
浅間山噴火が甲斐滅亡の怪異と言う噂という話を記述した多聞院日記の記述を、
知らなかっただけだろ。

918 :
火山専門の地質学者である早川氏が大噴火の痕跡があったのなら無視するわけないだろ
早川氏が書かなかったということはつまり大噴火はなかったということ
そして史料は間違っているか大げさに書いているということでもある
研究の中にもそれについて言及しているよな?

919 :
だがのインチキだったって事か…

920 :
日本のありとあらゆる史料に目を通せるわけないだろ。
しかも文書を解読して草書体から印刷書体としての楷書体に
変換し市販するために、どの史料から解読出版するかで大きく差がでている。
つか、なんかアホくさいわ。こんだけ一次史料がそろってんのに、
一次史料を否定するためには、一次史料でもって否定する大原則すら無視かよ。
織田厨はガキだな。

921 :
>>920
早川氏は浅間山に関する本を何冊も出している専門家だぞ?
それと1582年よりも昔の地質についても調査しているよな?
その過程でだがのいう年代地質にもたどり着く
もしも大噴火の痕跡があったのなら無視するはずがないんだよ
つまりお前の出した史料は間違っているということ

922 :
>>887では風があるから火山灰の分布はむらがあるという
>>913ではかぜで武蔵上野には火山灰が降らなかったという
なんたる矛盾!なんたる御都合主義!!
東から西に吹く風ってなんだよwww
それも火山灰を押し戻すほどの強風が常に吹いてたんだろ?w
そんな気象状態あり得ねえwww

923 :
くだらねーw
一次史料文献よりも発掘の方を優先しようとするところが
さらに馬鹿っぷりを際立たせるなw
文献史学をあくまで補完するために考古学ってのがある大原則すら知らんと見えるw

924 :
>>923
科学的に否定されて開き直ったか?だがよ
お前は人間が嘘をついたり大げさに表現したりする動物ということがわかっていない
まあ自分がいつもしていることを振り返ってみな

925 :
>>923
一次史料ってなーんだ

926 :
噴火があったからといって被害を出したとは限らんしな
桜島は毎年500回以上噴火してるが著名な被害は出ていない
結局空が赤くなっただの豊後でも観測されただの記述があるだけで
甲斐では大した被害もなかったというのが史実

927 :
>>916
そのサイトの一番下にある引用文献の守備範囲を見れば
武田滅亡時の浅間山噴火の史料の存在自体を知らずに書いてるのが
わかるだろ自爆乙w

928 :
>>927
だから調査の過程で大噴火の痕跡が見つかるはずだろうが
んで見つかったのなら早川氏が無視するはずがないんだよ
何度言ったらわかるんだ?お前は
もう負けを認めろや

929 :
>>928
ちゃんと武田滅亡時の噴火と思われる記述あるだろ。
もし、武田滅亡時噴火記述史料を事前に知っていたのならここは
武田滅亡時の噴火である可能性が高いと解釈していただろうね。
北東山麓の1108年スコリアと1783年軽石の間には薄い軽石層(A')が一枚挟まれている.
この軽石の噴火年代は,京都に降灰降毛があった1596年夏あるいはその前後だった可能性がつよい.
1598年に800人が死亡したという『当代記』の記述は信頼できない。

930 :
おい
どこに1582年だと書いてあるんだ?
あと1596年の噴火も大した規模じゃなかったと結論づけているが?
お前のいう大噴火なんて起こってないっての

931 :
甲州征伐後も無事だったのは、穴山梅雪、木曽義昌、真田昌幸、依田信蕃くらい

932 :
だがチョン理論まとめ( >>913 )
・1582年の浅間山大噴火は空前絶後のものであった
・それだけの規模の噴火だったが、「武田領」以外に被害はなかった
・超がつく悪運、まるで天罰に近い災難とも言える浅間山の噴火は「武田領にのみ」甚大な被害をもたらした
・「武田領甲斐」は噴火による甚大な被害を受けたが、なぜか甲斐の小山田領は無事で、そこへ勝頼は逃げ込んだ
どうでもいいが甲州征伐で織田に戦わずに降伏した連中は大半が「信濃」の人間

933 :
俺、渋川市郊外住みなんだが、
(地元出身の長尾景春スレで織田厨に絡まれてるのも俺)
浅間山の堆積物調査は1108年の上野国壊滅記述を元にしていて、
浅間山東側の調査をしてるだけだから、
西側に噴煙が流れた場合はわからんのよ。
んで、3層の噴煙層がある以上、確実な噴火記録と照らし合わせると、
1108年噴火記録と1783年天明噴火記録の層との間に、
もう一層あるので、1108年と1783年の期間にあと一回噴火があるのは確実で、
あとはそれを文献史料で当てはめて確定しなきゃならないわけ。
しかし、1596年の噴火は浅間山によるものとは限らず、岐阜白山や九州の阿蘇山や霧島山の噴火説が並存してる。
特に同年に霧島山が噴火しているのは確定してて、浅間山説は不利。
というのもこの時の噴火では京から見て〜方角の空が赤く光っていたなどの視認が全くされておらず、噴火方角すら全くわからない。
そうなってくると武田滅亡のキッカケの際に噴火記録が存在するなら、
それが1108年噴火地層と1783年噴火地層の間にある噴火地層であるのだろう。

934 :
>>932
・科学的調査は一次史料に負ける
も追加で

935 :
>>933
ふしあなやらない臆病者の戯れ言など無価値

936 :
>>933
なるほど。三層の堆積物が発掘され、
それぞれ明確な噴火文献史料を当てはめて年を確定する作業をしていくわけか。
そして1108年と1783年の噴火が一次史料だからそれぞれに当てはめて確定させた結果、
あと一層だけ?だったわけだ。
しかし武田滅亡時噴火一次史料を当時は知られていなかった為に、
わからずに霧島山噴火を浅間山噴火なのでは?と疑心暗鬼に当てはめてしまったと。
さらに上野国壊滅記述の調査のため浅間山東側斜面しか発掘してないから風向きによって西側方面の噴煙の方が凄いことになってたらそれはわからないと。
まあ研究資金との関係からある程度当たりをつけて発掘するのは止むを得ないわな。

937 :
だが自演乙
謎の層とかそれこそソースなしじゃないか
早川氏の研究でお前は負けたんだよ

938 :
>>937
早川氏の研究とやらを見ても>>936の解釈と同じようにしか見えないわけだがwww

939 :
早川氏の研究だと大噴火の痕跡はないと出ているだろ
お前はどこが同じに見えたんだ?

940 :
>>939
北東山麓の1108年スコリアと1783年軽石の間には薄い軽石層(A')が一枚挟まれている.
この軽石の噴火年代は,京都に降灰降毛があった1596年夏あるいはその前後だった可能性がつよい.
1598年に800人が死亡したという『当代記』の記述は信頼できない。

941 :
早川氏の書いてるの読むと、
そもそも東側斜面と言うより、
浅間山東北方面の山麓しか調べてないところと
GoogleMAPを照らし合わせると、
東北山麓にあるゴルフ場か牧場の辺りの整地の際にやっただけみたいだなあ。
武田滅亡時の噴火が南西の大分県や京から視認できたことを考慮するに、
全く正反対の方を調べただけなんだな。
それじゃ噴火威力を正確には出せ無いな。
少なくとも天明の噴火は、京から視認されてないから、1783年の噴火よりも武田滅亡時噴火は威力が高かったのは確かだろうね。

942 :
そんな中を進軍した織田はスゲーな

943 :
>>940
つまり二度の大噴火があったと
層が二枚ないとおかしいな
>>941
お前の勝手な妄想だなそれは
文句あるなら自分で調査して証明したらどうだ?

944 :
あの〜そろそろ織田厨くんにか下記の解説をしてくれませんかね?
たしか織田厨くんは
「500年程度の炭素年代測定なら1年刻みで余裕でわかることくらい覚えておけ低学歴無知が」
などと大見得を切っていましたよねw
それで私は下記の噴火の年をどう測定して確定させたのか説明を要求しましたよね。
1644年 2月(正保元年)噴火。
1645年 2月,5月(正保2年)噴火。
1647年 2月,3月(正保4年)噴火。
1648年 3月(慶安元年)噴火:1m以上の積雪を融解,追分駅を流失,夏にも噴火。
1649年 (慶安2年)噴火。
1651年 (慶安4年)噴火。
1652年 (承応元年)噴火:噴石のため山麓焼ける。
1655年 (明暦元年)噴火。
1656年 (明暦2年)噴火。
1657年 (明暦3年)噴火。
1658年 (万治元年)噴火:鳴動。
1659年 (万治2年)噴火:鳴動,降砂。
1660年 (万治3年)噴火。
1661年 (寛文元年)噴火:年間数回。
織田厨くんは「だがは天下の東大様による科学的データまで否定するのかな? 」とも言ってましたのですが、
上記の噴火を証明する科学的データをまだ教えてもらっていませんが、織田厨くんはどこのどのデータをみたのかね?
早川氏のHPを読んでも一切、炭素年代測定なら1年刻みでわかる&東大の科学的データなんて載ってませんがおかしいなぁ???

945 :
だから直で聞けって言われてんだろ

946 :
>>944
早川氏に直接聞いてくればいいじゃん
素人のお前が何を言っても説得力なし

947 :
>>945>>946
本当はそんなのねーんだから、
お前の妄想願望脳内に聞いてるんだがw

948 :
妄想で大噴火があったと言っているのはおまえだろ、だが
だいたい多聞院の連中なんて直接体験したわけじゃなく尾ひれのついた伝聞を書いたに過ぎない
んなもんを一次扱いしているだがの頭はめでたいわな

949 :
>>948
>>944

950 :
>>949
そうか負けを認めたか
大噴火はなかったでいいんだな?

951 :
そろそろ噴火するかね?

952 :
結局のところ織田半島人にとって議論とは、
勝ち負けの争いと言う矮小なものでしか無いのが判明したなあ。
日本人は史料を元にどちらの意見がより歴史的事実として正確なのかが重視されるんだがね。
織田半島人は明らかに最初から結論を決めているから、
いくら議論し、史料を出して論証しても無駄なんだわ。
だって感情的に受け容れられない結論なんて最初から拒否するつもりなんだから。
織田半島人にとって自分に都合が良い結論へ誘導する為には曲解捏造デッチ上げと手段を選ばず自作自演で多数派工作をして勝ち取るもんだと盲信してるんだよな。

953 :
結局のところだが半島人にとって議論とは、
勝ち負けの争いと言う矮小なものでしか無いのが判明したなあ。
日本人は史料を元にどちらの意見がより歴史的事実として正確なのかが重視されるんだがね。
だが半島人は明らかに最初から結論を決めているから、
いくら議論し、史料を出して論証しても無駄なんだわ。
だって感情的に受け容れられない結論なんて最初から拒否するつもりなんだから。
だが半島人にとって自分に都合が良い結論へ誘導する為には曲解捏造デッチ上げと手段を選ばず自作自演で多数派工作をして勝ち取るもんだと盲信してるんだよな。

ちゃんと直しといてやったぞ

954 :
さすが他人のレス盗用コピペ爆撃基地外織田半島人wwwww

955 :
またもだが敗北で涙目w

956 :
塩山向獄禅庵小年代記 天正10年3月
開山徳和之観音堂へ各僧衆御伴申三日三夜奉移と書かれている。
徳和之観音堂とは三富村(旧山梨県東山梨郡)の観音堂で三日三晩の御祈祷をして下山したそうだ。
これは重大な意味を持つ。この村の位置はまさに甲斐・信濃・上野との県境にある。
そして浅間山からも近い。なぜこのタイミングでここに各々の僧が衆を伴って
3日間の山篭りをして祈祷しているのか。
察するに2月中は噴火の影響で近づくことができず、噴火被害者を弔うことができなかったが、
ようやく混乱が落ち着いてきた3月になり、浅間山を望むことができる山上へ登った
各地から僧に伴われた遺族達が被害者を観音様に見立てて鎮魂し、
浅間山の荒ぶる神を沈める祈祷をしているのだ。

957 :
そりゃ大分県から観測されたほどの火山超噴火だから大地の神を祀るくらいするよな。

958 :
大分から見えた空が赤くなった現象
夕焼けじゃね?

959 :
大分だけ見えて広島や松山、堺、京都、駿府、小田原、上越からは見えない超常現象
アスペルガーだがは「ムー」が大好きなお年頃

960 :
京からも目撃されてるのも知らんアホ無知織田チョンw

961 :
ここの住人が貼ったのかね?
【フリー版】戦略級SLG 戦国史40【シェア版】
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/gameama/1359374425/447
447 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2013/09/12(木) 07:35:14.08 ID:7RN3s5iC
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__________■_■■■■■■■■■■

962 :
>>956
そこ甲斐国で一番、浅間山に近い場所だな。
明らかに噴火後の対処としての行動としか思えないね。

963 :
>>959
ムーって何だかわからんかったからGoogle先生に聞いたら学研ムーってのが出てきたが、
これのことかい?

964 :
単に甲州崩れジェノサイドの慰霊じゃないの
恵林寺は焼かれちゃったし
なんか他の名目くらいは立てたろうが

965 :
どのスレでもなんでだがはこのスレをageないんだ?などと意味不明の勝利宣言を繰り返しは
馬鹿馬鹿しい論破宣言して失笑を買いまくってるが、
織田厨が決してこのスレだけはageずに、ひたすらsageてるどころか>>961みたいな
縦幅を大きく取るAAまで張って、過去レスを早く画面から消しさろうとしてるので
過去レス読んで、そりゃあ織田厨はこれrageたりしないだろうとワロタので、
晒しage!!!www

966 :
703 :人間七七四年:2013/09/14(土) 11:54:08.56 ID:O3emCoWC
>>700
空が赤く見えるのは火山灰が巻き上げられて日光を乱反射させることが原因
http://www.asahi.com/national/update/0518/SEB201305180018.html
桜島噴火で空が赤くなったケース、なお人的被害は一切ない
基本的に浅間山は地質学の研究で溶岩流や火砕流を滅多に起こさない火山だと認証されており
平たく言うと噴火で溶岩がドバドバ吹き出すような火山ではないということ。
つまりだがチョンの言うような「噴火で武田軍が壊滅的被害を被った」と言うのは絵空話で
実際には火山灰が巻き上がっただけの噴火レベルしか確認できず、
武田家滅亡の結果として言えば、噴火はあったもなかったも同然と言える。


707 :人間七七四年:2013/09/14(土) 13:15:58.62 ID:O3emCoWC
一応言っておくと、原子爆弾の爆発による生じるキノコ雲と
火山が噴火することで生じる噴煙は威力も構図も全然違うからな?
付け加えて言っておくと、「噴煙が大きいから規模も大きい、人的被害も多い」と言うのは
全くの早計で、基本的に溶岩がドバドバ吹き出すような噴火は
ハワイのキラウェア噴火やイタリアのストロンボリ噴火などのように
基本的に噴煙が高所まで挙がらない(噴煙の代わりに溶岩を出すが)ことが地質学上の特徴として挙げられており、
「天赤く」とされる、火山灰による空が赤くなる現象はほとんど発生しない。
浅間山噴火が大分県から確認されたということは、それだけの規模で火山灰が巻き上がったことを指すもので
結局火砕流や溶岩流を確認できるものではなく、やはり人的被害を訴えるには弱い産物ですな

710 :人間七七四年:2013/09/14(土) 20:11:35.00 ID:h9ZpS0x7
火山灰で農業ダメになったとか、除去を命令する文書とかまだ出てこない

712 :人間七七四年:2013/09/15(日) 05:30:04.33 ID:1/h2YCPl
浅間山 標高2568m
桜島 標高1117m

967 :
まだ噴火で議論してるのかくだらん

968 :
>>940
三層か。すると当代記の記録は天正10年の内容だったが、後世の伝聞で年代誤伝があった
可能性が高いな。
>>941
たしかに。そういう意味でいうと浅間山の南や南西の発掘調査をしてもらいたいね。

969 :
まだ当代記の記述が慶長元年じゃないと言い張ってるのか、捏造も大概にな

970 :
一次資料で甚大な被害とやらを証明しろって言ってるのに当代記の記述は間違ってるかもしれないぞってアホか

971 :
アスペルガーだがの主張は嘘や妄言で成立しています

972 :
まさか散々信憑性に疑問ありと騒いだ多門院日記を天文10年噴火の根拠にしたりしないよね?だがさん

973 :
早川由紀夫氏
1598年に800人が死亡したという『当代記』の記述は信頼できない
早川由紀夫氏の引用文献一覧を覗くと、
完全に天正10年の浅間山噴火記録が書かれる晴豊公記や多聞院日記や宣教師の記述があるのを明らかに知らないで書いてる。
木曾から援軍要請が来ても武田領へ侵入出来なかった織田軍の噴火日から侵攻開始。
北条氏政が16日付け書状で八王子城へ向けて、甲斐の情報が全く入ってこなくなったと情報途絶を報じる。
19日に勝頼夫人が武田八幡宮に対して、
勝頼に罪がないのにと天意に対して抗議しているが、天意とはまさに天変地異のこと。
織田軍を迎撃すべく出陣してきた武田軍が、
全く戦わず撤退したどころか謎の瓦解。
援軍を出し始めた同盟国越後上杉氏にも逃げられる浅間山のある真田領へ勝頼は逃げず、なぜか小山田領に逃げる謎。
>>956のような甲斐で一番浅間山に近い場所にわざわざ集まり僧たちが人身御供とも言われる観音様に祈りを執行する。

974 :
>>972
ご明察

975 :
なんで徳川に北条軍が敗れたか論じろ

976 :2013/09/16
>>956
それだけ浅間山から近い場所にあった村が、よく浅間山の噴火で無事で済んだな?w
武田軍が甚大な被害を負って、真田領まで危険な状態であったと言うのに
三富村にあった徳和之観音堂とやらは無事だったのか、へー
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