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2013年17戦国時代130: 戦国ちょっといい話38 (129) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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戦国ちょっといい話38


1 :2013/08/28 〜 最終レス :2013/09/16
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話37
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1365370828/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話37
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372591033/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/

2 :
南無八幡大菩薩
>>1のスレ立て御照覧あれ

3 :
>>1
スレ立て大義である

4 :
>>1立て乙でござる。ささ、この茶を一杯

5 :
????「鮭もありますぞ」

6 :
一本によると、北政所はあでやかで、なまめかしい風体だったので、豊臣秀吉は
彼女を愛して慕いこがれ、仲立ちを入れて婚姻を望んだのであるが、北政所の父は
これを認めなかった。このために、秀吉は心をいっそう病んだ人のようであった。
この件が織田信長の耳に達し、信長は近臣を介してその実否を尋ね、父に命じて
北政所を秀吉に嫁がせたのだという。
――『新東鑑』

7 :
ある時、上州箕輪の長野業政の軍勢が、武田信玄の軍に撃ち負けた。
この時長野業政の家臣で、隠れなく勇者と呼ばれた赤名豊前守が殿となって退いていたが、その途中、
自分の旗指物を道の傍のサイカチの木に引っ掛けてしまった。
赤名は取ろうとするも枝葉が茂り、そのうえ刺が生えているので取ることが出来ない。
しかしこのまま捨てていくのは武士の名折れ、家の恥であると難渋している所に。同僚である
土肥実吉が引き返してきた
「何をしている!?早く城へ戻れ!」
そう怒鳴ったが赤名は退こうとしない。
この上は木を切り倒すより仕方がないと、二人は馬から降り、その馬の尻を叩いて城の方に駆け去らせると、
サイカチの木を切りにかかった。
もし敵が追撃してくれば、ここで斬死する他ない。やっとの思いで木を切り倒し、旗指物を取り戻すことが出来たが、
その時にはもう敵の甲州勢4,50騎が直ぐ目の前まで迫っていた。
しかし、さすがは勇者である、赤名豊前守と土肥実吉は少しも動じず槍を取って構えた。
ところが、どうしたことであろう、敵は目の前5,6間ほど先でピタリと止まり、掛かってこようとしなかった。
彼らは、道に意味ありげに倒れているサイカチの木に、なにか仕掛けがあるのではて警戒したのである。
その時、先に追い返した馬をみた城兵が、赤名と土肥が危ないと見て、10騎ばかりで引き返してきた。
その騎馬の足音を聞いた甲州勢はやはり罠だと思い
「すわ!反撃してきたぞ!」
と、口々に叫んで逃げ去った。
こうして赤名と土肥は危ない命を全うし、箕輪城へと戻ることが出来た。
(関八州古戦録)

8 :
名のある武将の軍勢は得だな

9 :
まて、これは孔明の罠だ
意図しなかったとはいえ空城計に通じるものがあるな

10 :
殿お待ちください、これは三楽の罠です!!
小田城を狙っているのです!!!

11 :
面白い話だなw こういう損得勘定じゃなくて、些細とも思えるようなことに命を掛けちゃう武士は好きだなー

12 :
旗指物とか母衣ってぶっちゃけ邪魔になるときあるだろうなw

13 :
旗指物無くすとか全然些細じゃないから

14 :
そりゃ汚い信玄公の配下だからな。何かあったら深読みするだろうね

15 :
神道仏教儒教などを中途半端に学んだ者どもは、
やがて高慢の心を越し無学な者を見下し始め、
他人からは今の人とは違うなどと言われよい気になり、
私は今の時代には惜しく、戦国時代、はたまた鎌倉時代に生まれるべきだったと、
そんなことを言い出し、自分を特別な人間のように思いだす。
こういう武士には天罰が当たるに決まっている。
どれほど優れた才能持ちでも、
人に好かれぬ性格の者は役に立たない。
お役に立つこと、奉公にも、自分をへりくだらせ、
同僚たちの風下に立つことを喜べる人間ならば、
人から嫌われるということはないものである 【葉隠】
常朝さん奉公の場でなんかあった日の書き置きだろうねw

16 :
書くんならもっと前のエピソードにしてくれないか
いちおここ戦国時代だから

17 :
本多忠朝は老臣の春野某に戯れて「武士が力の及ぶ限り高名を立てて大福を得ているのは、
その身一人の栄華を極めるというわけでもない。皆々がこのような太平の時に巡り遭って、
福を子孫に遺そうと思うのは、万人にとって同じ事であろう。其の方もそのように思うか」
と、尋ねた。
これに春野は「その通りの御尋ねでございます。御馬の先の働きも只今の御治世の勤めも
皆御意の通りです。自分の子孫をも潰し、忠義の為に身を落ちぶれさせる者は、
古よりめったにない有り様であると存じます」と答えた。
さらに忠朝は「人々がこのように大切でいとおしい子孫に、よく教えようとしないのは
何事であろうか。多くの人はその身が大禄、高位になると、自分が下賤だった時を忘れて
子孫にも栄華に奢らせてしまい、自身が死んで三年も経たないうちに家風は甚だ衰微し、
老功の家来も散々になってゆく。そんな様子を私は数多く目の当たりにした。
かつて駿府の町人に一子がいた。その者は子のためと一生稼ぎ、万両を重ねて与えて死んだ。
ところが、子は栄華に育ち、万金を宝とも思わず、五年のうちに尽く他人の宝となった。
ついに子は家を売って乞食となってしまった。
これを町人は愚かだと言う人もいるが、武士も多くはこれに似ている。人は子孫に幸を遺そうと
思うのなら、教えが第一なのだ」と言った。この春野には一子がいて寵愛していたので、
忠朝はこのように風刺したのであろうということだ。
――『責而者草(太平将士美談)』

18 :
>>16
面白い話だと思ったのでつい・・・
一応自己判断で戦国時代に関する内容、
もしくは島原の乱に参戦した世代までで書いてますけど、
ちょっと今回無理矢理だったですね
ごめんなさい(ToT)

19 :
>>17
鳥居さんとか榊原さんとかの家の未来予想図だな

20 :
葉隠なんか出まくってるんだが

21 :
葉隠そのものが問題なんじゃなくて戦国に関係する逸話じゃないから駄目と言う事。
紹介する人は、いつも結構気を付けてるよ。

22 :
忠節の証
武田崩れにより、天目山に逃れようとした武田勝頼一行は土民に遮られそれも叶わず、
天目山麓の田野に陣をはり、最後の別れの宴を催すことにした。
宴もたけなわとなった頃、土屋昌恒は
勝頼に向かい、「こんな野原で最後の宴をせねばならなくなったことを思うと
心は乱れ、正気を失い、理性を失いそうなほど辛いことです。
このようになってしまったのがどうしてかと申せば、
家臣達が心変わりしたためですので、そうであるなら
御屋形様はこの私も裏切るのではないかとご警戒なさってはいやしないか、
ずっと案じておりました。
そこで、そのようなことは決してない証を、御目にかけましょう。」
と言って、5歳になる我が子に向かい
「お前は、まだ幼少なので、大人とともに歩むのは難しい。
だから先に行って、六道へ続くあの世の岐路で、
御屋形様が来るのをお待ち申し上げよ。私も御屋形様とともに行く。
さあ、西を向いて手を合わせ、念仏を唱えよ。」
と言った。それに対し昌恒の子は
「私は父上の子ですので、言いつけに従いそのようにいたします。」
と答え、楓のような手を合わせ念仏を三回唱えた。
昌恒は腰の刀を引き抜いて我が子の胸元に押し当て、刺し殺した。
勝頼はこの有様をご覧になり、
「なんということをするのだ。最後の言葉も他にかけようがあっただろうに。」
(あまりあへなき事を、いたしけるものや。さいごのこと葉をも、かけやうつるものお)
とおっしゃって涙を流し、供の者達も涙で小手の鎖を濡らしたという。
理慶尼記より雰囲気訳で。
忠節もここまでいくと悪い話な気もしますが、5歳の子の健気さに免じていい話にしておきました。

23 :
戦国時代、上州は利根郡古語父村(ここぶむら)に「のぶ」という男まさりの女がいた。
のぶは青岩院の住職の母だったという。
そんなのぶの武勇伝を3つほど。
1:天正の時代、沼田城をめぐって武田と北条が凄烈な戦を繰り返していた。
ある時、北条軍が沼田へ侵攻してきて、あちこちで略奪暴行放火を行った。
そしてそれがのぶの村へ及びそうになったため、のぶは他の村人を山へ隠し、1人で北条の軍兵に応対した。
のぶは薪を2束持って峠の上に立ち、下のほうから来る北条軍を待ち受けた。
そしてやってきた北条軍4,50人に対して「こんな女を捕まえても酒代にもなるまい。
大勢隠れている所(沼田城か)へ行って奪い返したらどうだ!」と叫んで、持っていた薪を敵兵へと投げつけた。
薪は唸りを上げて先頭の敵兵にぶつかり、敵兵を倒した。
続いて2本3本と薪を投げつけると敵兵はバタバタ倒され、北条軍は負傷兵をかついで退却した。
その現場は四辺に血が飛び散り、のぶが投げた薪は地面に深くつきささり抜けなかったという。
2:あるとき、のぶが洗濯をしていると、ガタイの良い男が来て「(布の片側を持って雑巾絞りのように捻じって)
水を絞ってやろう」と言ってきた(そのまま布を引き抜いて盗み去ろうと企んでいたのか)。
どうも盗人らしいのでのぶは表面的にお礼を述べて、「女であるが絞る力はあるから用心してくれ」と言って、
2人はそれぞれ両端を持ち洗濯物を絞っていった。
そして最後にのぶは男ごと布を高く振り上げて、降り下げて、男を石に叩きつけて殺したという。
3:のぶが6,70歳のとき、子である文凰の寺を新築することになった。
しかし梁が大工10人がかりでも上に上がらない。
それを見かねたのぶは息子である文凰を呼ぶと、2人でなんなく梁を上げてしまったという。
「上州のおんな」より
上州のかかあ天下はこの辺りから始まったのかもしれない。

24 :
>6,70歳のとき
お前のようなババアがいるか

25 :
妙印尼「ほほほ、勇ましいこと」

26 :
 芸術家として名高い本阿弥光悦はある時、「本阿弥一門は自分の娘を将軍家に奉公
させてはならない」と家憲に定めた。その理由について光悦は「そのようなことを
すれば、その娘が将軍家のお気に入りとなり、若君を産むことになるかもしれない。
そうなると、一門の者が手厚い引き立てをこうむるだろう。女の縁で栄えたとなっては
先祖は不快であろう。高言を申すようだが、この心掛けは大名、小名、旗本、陪臣の
人々にも持ってほしいものだ」と説明した。
 江戸時代を通じて旗本らが出世の糸口として将軍家に娘を側室として差し出すことが
当たり前のように行われていたことを考えると、光悦の家憲は異色であり、その心は
清廉であった。

27 :
>>23
真柄のかあちゃんみたいな人だな

28 :
>>23
最後見る限り息子の住職も普通じゃないなw

29 :
陸戦型モンスターの武将たち
水軍の将なのに陸戦モンスターな武将
陸戦型モンスターのおかん
陸戦型モンスターの住職
夏になると襲来する人型災害の軍神
戦国の関東地方間違いなく修羅の国だろ

30 :
しかし、天庵みたいなのでもなんとなく生き残れる

31 :
息子たちを生贄に捧げ続ける忠臣のお蔭ではなかろうか

32 :
天庵様は愛されスキルがMAXのお方だから

33 :
浅野長晟は、幼い時より豊臣秀吉の側に仕えた。
ある日、秀吉が徳川家康と囲碁をする時、長晟は碁石を温めて献上した。
家康はその気の利いている事を褒め称え、長晟が成人した後、
常にその人となりを称誉していた。
――『寛政重修諸家譜』

34 :
幽斎様が冷やし碁盤はじめました

35 :
碁石を尻に敷いて暖めていたのか

36 :
権現様の上意では「百姓から年貢を取るのは、鷹のししあての様なものだ。
過ぎるのも悪く、及ばないのも悪い。」との事であった。
(翁草)
ししあてと言うのは鳥の胸筋を親指と人差し指で挟んで肉付きを計る事です。
強く挟むのは良くなく、緩く挟みすぎるのも良くないと言うことで

37 :
グンマーには昔からグンマーが住んでいる

38 :
高級食材を庶民に普及 海苔と徳川家康
皆さんご存知の『海苔』は、江戸時代までは貴重品でした。
古く『大宝律令』にも献上品とされるほどの、希少な珍味が、
庶民の食卓に上がるきっかけになったのは、徳川家康のお陰。
江戸幕府を開いた家康に新鮮な魚を献上する際、悪天候でも
漁に出る事無く、安定して魚を供給できるように、生簀を作った所、
柵として海中に埋めた雑木に、大量の海苔が付着したのです。
家康は海苔が好物だったらしく、大いに喜び海苔の養殖を奨励。
江戸近辺の品川・大森で海苔の大量生産が始まったそうです。
その後、浅草で紙づくりの技法を応用した板海苔の製造が盛んに。
江戸の名物として持て囃され、全国の庶民に広まったそうです。
ソースは『海苔 家康』で検索すると、詳しい説明がされています。




 

39 :
それにしてもこの権現様、ノリノリである

40 :
自分の場合海苔は味付じゃないほうが好き
家康公はいい仕事したな

41 :
アサクサノリは浅草で採れた海苔ではなく品種名

42 :
ブラタモリでやってたけど、今でも徳川家に白魚を毎年献上してるんだよな

43 :
対岸の下総沿岸部も瀬戸内には及ばない規模ではあったものの塩づくりを奨励されてたね
気候と治安の落ち着き、流通網の確立で各地で芽吹いていた特産品づくりに拍車がかかった感じかな

44 :
>>41
そうなんだ
目黒のサンマみたいなもんかね(違う)

45 :
徳川秀忠の時代、北の方角に夜な夜な彗星が現れた。世の人はこれを見て乱が起こると言い合った。
そんなある時の御咄で、秀忠は「下々はこの星を乱の兆しと疑っているが、いずれもよく心得よ。
広大な天下に星ひとつ現れたところで、どこの国に該当するのかなど誰にも分からない。
必ず自分の国が該当して乱が起こるなどと思うのは愚かなことだ。
それに、たとえ善くても悪くても、天の気に現れることをどうして人間に除くことができるだろう。
これはみな愚か者の申すことである」と言った。その明君の心掛に感じぬ者はいなかった。
――『責而者草』

46 :
>北の方角
>乱が起こる
>どこの国に該当するのかなど誰にも分からない。
いやいやいや、あいつしかいないだろwww

47 :
時期的に、
あいつじゃなくてあいつのいとこ達のいざこざじゃね?

48 :
日本のこの時代に北で戦乱は起きなかったので的外れだったな
何でもかんでも結び付けようとすると無理な解釈になるぞ

49 :
乱といっても酒乱かもしれん

50 :
信長公が天下を治めていた頃、光忠の刀を好んで二十五腰を集められた。
ある時、安土城に堺衆が参ったので皆を天守に召し連れ御茶を下された。
信長公はその中にいた木津屋と言う町人が堺一番の目利きだと聞いていた
ので、かの光忠を残らず見せ「この中に実休光忠がある。どれか選び出して
みよ」との仰せであった。
木津屋はすぐに二十五腰を残らずじっくりと観察し、そこから一腰を取り
出して「その御道具はこれでございます」と申し上げた。
選び出された刀は間違いなかったので、信長公は手を拍たれ「どうやって
見分けたのか」と尋ねた。
木津屋は「この太刀は切っ先に少し刃のこぼれが見られます。実休は最後
に敵の脛当を切り払い刃が少し欠けたと伝え聞いておりますので、この刀
だと申し上げました」と言った。
信長公は感じ入られたと言う。
(翁草)
三好実休最後の佩刀「実休光忠」のお話

51 :
>>50
なんとなくインディージョーンズのキリストの聖杯を思い出した

52 :
間違えると御手討ちなんですね

53 :
だれうま

54 :
溜池由来
東京の地下鉄溜池山王駅の近くには溜池発祥の碑があり、その由来についてこのように書かれている。
「溜池は江戸時代のはじめ、江戸城の防備をかねた外堀兼用の上水源として作られ 水道の発祥地ともなり、徳川秀忠時代には 鯉、鮒を放し 蓮を植えて上野の不忍池に匹敵する江戸の名所となった。
徳川家光は遊泳したとも伝えられ,、江戸後期には日枝神社より赤坂四丁目に通じる 料金を取った銭取橋が架設され 「麦とろ家」数軒と出店で、にぎわったと云われる。(後半略)」

明治時代に埋め立てられて今に至るのであるが、秀忠公が戦国の時代を忘れないながらも庶民の暮らし・娯楽にも配慮したお話。

55 :
非常食

56 :
こんな事もあろうかと池に竹千代を!

57 :
ある時、里見義堯は家中の者たちを集めて宴を行ったが、その中で古今の豪傑の話となった。
義堯が
「昔、異国の孟賁という豪傑は、牛の角を握って捻り潰したというが、本朝には未だ、
そのような武者はおらんなあ。」
と言うと、そこに正木大膳亮(信茂)が進み出て
「私がやってみます」
と言い出した。里見義堯は宴会の良い余興だと面白く思い、庭に出て大きな牛を連れてこさせた。
すると、大膳亮は牛の角を左右の手に握り、まるで五月雨の頃に草を抜くように、
いともたやすく牛から二本の角を引き抜いた。
これには里見義堯以下、驚き肝をつぶさぬものはいなかったという。
(関八州古戦録)

58 :
坂東武者って…

59 :
牛が可哀想だ

60 :
ホモ・サピエンス以外の何か

61 :
戦国の宴会芸は血なまぐさいのお

62 :
>>57
牛「モーやだこんな国」

63 :
H川F孝「どれ、拙者がひとつチャレンジをば…」

64 :
親父の大膳ばかり注目されて息子の大膳はほとんど無視されていたから名前が出てくるのはうれしいね

65 :
(´・ω・`)「力自慢がいると聞いてきますた」

66 :
>>63
寝ながら考えたけど、H川F孝って誰か分からん。
てか、F行ってことは「ふぁ・ふぃ・ふ・ふぇ・ふぉ」のどれかだよな。
一体誰だ?w

67 :
・牛
・握撃
でわかる人多いと思うが
細K藤Tだろう

68 :
ていうか「ふぁふぃふぇふぉ」がつく戦国武将てどんなだ

69 :
戦国時代の発音ならハ行はみんなそう
不干斎ハビアンはFabianだし

70 :
転びキリシタン仲間ついでに澤野忠庵ことクリストファン・フェレイラもありか

71 :
飛騨守だった立花宗茂の印はローマ字でfidaだ。

72 :
実は飛騨守は関係なくて
立花宗茂が信頼できる(ラテン語でfida)人だったからだったり

73 :
そもそもローマ字なのだろうか

74 :
>>72
あれ?そーなの?前に読んだ本には飛騨守だからとか書かれてたような。

75 :
いや、冗談で書いたんだけど

76 :
>>75
ネタかよw

77 :
時代と共に若干発音が変わってきてるのだけは事実だから。
現代がhiなら500年前はfiだったとしても違和感ないな。

78 :
時代と共に日本で発音が変化するように海外でも変化するだろうから
単純に現在の発音に置き換えるのも危険かと

79 :
そういえば中世くらいまで「ず」「づ」は明確に発音が違っていたとか

80 :
そういや池上彰の本だったかにそんなこと書いてあったなあ>ハの発音がfa

81 :
当時の日葡辞書ではハ行はfで表されている
また、スペイン語でもラテン語のfがhに変わっているから
f→hはよくある変化だったかと(hは他のラテン系言語同様発音されないが)
あと、奈良時代まで遡ればハ行はpだったみたい

82 :
「 父には一度も会わず、母には二度会うものとは何か?」というなぞなぞの話だろ

83 :
それもそうだけど(母がpapa、phaphaと発音するから唇が2回つく)
漢音の発音とか梵語とかでハ行がp音と想像がつく
般若(はんにゃ)→prajna
波羅蜜多(はらみた)→paramita
鉢納?(はんどま)→padme

84 :
昔日、東武御能に諸侯が威儀を調えて着座し静まり返っていた所へ
その頃の観世太夫が幕から出てきたのを、列席のなかからイヤと声
を掛けた人があった。
おごそかな席で軽率な事をしでかしたのは誰であろうか、御不興を
蒙るのではないかと、各自が唾を飲み互いに顔を見合わせたが誰が
言ったのかは判らなかった。
案の定、御能が終わってから「先ほど列席のなかから声を聴いたが
誰であるか、何を思って声を掛けたのか」とのお尋ねであった。
その時、柳生但馬守が進み出て「先刻、観世太夫が切幕から出てきた
のを見た所、その気満ち満ちて一身の固めが隙もなく、中々容易には
立ち向かい難く見えましたので、御前を忘れ思わず声を掛けてしまい
ました」と申し上げると
「流石は但馬守、相応の褒めようだ」と言い、何の咎めも無かったと
言う。
(翁草)

85 :
浅井三代記 軍評定の事
去ぬる三月十八日の軍、畢て後は敵味方互に我居城/\へ取籠り、六月上旬迄休息をぞしたりける。
斯て上坂治部大輔泰貞は屋形へ登城して、謹て言上しけるは、
今度鳥井本表にをいて忠戦をとげ候綿々に、恩賞褒美あたへさせられ、
尤たるべき旨をぞ申遣る。雄家卿宣ひけるは、今度の一戦に勝利を得る事、偏に汝が武畧の達したるゆゑなり。
我汝を見立名代をゆづる処に不レ違、眼力佐々木六角に一しほ付け候儀、満足此所に期す。
江北の諸士家恩褒美の儀は、我隠居の身なれば、汝心に相叶ふやうに可2執行1。たとへ我弟なりとも不忠にをいては其罪をたゞし、
誅罰すべしと仰ければ、泰貞も達て謙退申上げれ共、雄家卿立腹に及び畏て候とて、それ/\〃に恩賞褒美をあたへける。
各忠より賞の重ければ、世中の習にて欲にはふけるものなれば、諸卒大に悦て勇みをなさぬ者はなし。
かくて上坂の城にて江北の諸侍をそれ/\〃のもてなしにて、三献の酒も漸過行は、泰貞立出軍評定せしむべしとて、
旗頭共と評しけるにも、浅見対馬守、上坂信濃守などは年老たけたる者なれば、二人進み出て申けるは、
今度のてだて何と可レ被レ遊候やと申ければ、泰貞申されしは、去ぬる三月の軍は鳥井本にての取合なれば、
場所窄くして働自由ならざる故、思ふ程に勝利なし。重ては濱道越に押よすべし。
此中は幸に空打つゞき雨降す磯山の脇并に四川なども白河原に成たると聞、此分にて有ならば五三日の内に雨降べしとも不レ覚。
たとへば一日二日大雨降どもわたらざる程にはよもふらじ。
さあらんにをいては鳥井本口は付城の面々可レ防。磯山越に打寄無二の一戦可レ遂なり。
先てだてといづば随分此議を秘すべしとて、皆並居たる侍をのけ、只旗頭四人近付ての評議なり、
明後十一日は吉日なり。十日に廻文をまはし支度をさせ、十一日も暮四つ時分に当城を立て、
磯山の城へ取のぼり、後陣の者共を待合せ、人数余程着たりと見は、付城の者に約諾して置、
一左右すべし。其時鳥井山、米原山に郷人少々雇ひ置、鬨を作らすべし。敵其声を聞、此方より又中道をよすると思ひ、
切通道へかけむかはん事案の内なり。若さなくともからめてを大事とかたむべし。其時味方の鳥井本口の付城の者共、
城より人数を出し責戦ふべし。旗本よりよき時分をはからひ松原村へ切て入、平井、奈良崎、朝がけにふみつぶし、
佐和山の追手へ押よせ、外かまへ町屋を焼払ひ、追手からめ手一同に攻めなば、城中やはかこたふべき。
即時に城は此方へ可2乗取1と申ければ、浅見対馬守、上坂信濃守尤よろしき御術にて御座候。
去ながら観音城より多人数可レ被レ寄、大将の旗むかはさるさきに佐和山の城御手に入申事はいかがと申ければ、
泰貞こたへていはく、尤なる不審なり。からめて一千七百にて付城の者ども責させ、磯野、阿閉、西野、今西、両熊谷、
彼等五人をして平田山に人数を段々に立させ戦ふべし。然らばたやすく来る事よもならじ。
其内には城をもみ落すべしといはれたりければ、尤御術よろしきとて旗頭共、同音に感じける。扨それよりして、諸士をのれ/\が住所へ帰り支度をぞしたりける。

86 :
>>85
いい加減に「隆慶一郎わーるど」からのコピペはやめときなさいな。

87 :
寛永13年(1636)3月頃、伊達政宗公は古川にお泊りになり鷹狩に出られたが、
そこで気分が少し良くないと、日夜御薬師衆に脈を見せ薬などお召し上がりになった。
政宗公は常々健康に深く気を使われていて、ご自身で脈を見、少しの不調でも薬を召し上がるなど
されていた。
ある時のお話に
「病というものを、症状が軽いなどと言って油断するのは、不覚悟というものだ。
どんな物事も、小事より大事は起こるのだから、症状が軽い時こそ養生第一なのだ。
養生などしなくても、時節が来なければ死ぬことはない、などと世間ではいうが、
身を捨てたままにしておくのは天道に背くのと同じことである。
であれば、少しの煩いでもしっかり養生すべきなんだ。
まあ。俺なんかは若い時から、風邪をひいて患った、なんて事はほとんど記憶に無い。
少し風邪っぽいなと思った時は、具足を着て馬に乗っていればいつの間にか治っていたものだ。
あれは、医者の薬にも優っていたよ。
この頃の若い奴らを見たら、世間の風俗に従っているのだ、なんて言いながら、小袖をいくつも重ね着して、
そのうえ朝から晩まで焚き火やコタツから離れない有り様だ。
ああいう連中に、薄着に具足を着せて野山に滞在させたら、敵に合う前に凍え死にしちゃうな。」
そう言って、お笑いになった。
(政宗公御名語集)
伊達政宗の、健康についてのお話である。

88 :
>風邪をひいて患った、なんて事はほとんど記憶に無い。
・・・・・・・・・いや、なんでもない

89 :
ツッコミますか?
はい
いいえ
逃げる

90 :
みなまで言うな

91 :
あなた幼少の頃に免疫力落ちた隙に疱瘡に感染して死にかけたじゃないすか!
やだー!

92 :
蜂須賀家で、大坂冬の陣での諸臣の論功が行われた時、倉知由久は自身の功を語らなかった。
ある人が「あなたは何故自分の功を言わないのだ」と、尋ねると、
由久は「夜戦の射は功となすに足らず」と言った。その後、由久の射た矢を送って来た者がいて、
矢には漆でその姓名が記してあり、蜂須賀至鎮は由久を呼んでこれを示した。
由久は矢を取り、灯火に照らしてじっと見ると、「字が剥がれています。恐らく私の名では
ないでしょう」と言って、その賞を辞した。
――『峻徳公略伝』

93 :
控えめにも程が過ぎるだろw

94 :
豊臣を攻める戦が気に食わなかった?

95 :
禍福は天にあり
天正5年11月18日、信長公は東山で鷹を使われていたが、にわかに大雪が
降ってきて鷹は風に乗って大和国内の方へと飛んで行ってしまった。
御秘蔵の鷹であったからこれを探してあちこちへと尋させた所、次の日に
なって大和国の越智玄蕃と言うものがこの鷹を連れてやってきた。
信長公は非常に上機嫌で褒美として御服一重、秘蔵のブチの馬を下され、
更に「望む事があれば言ってみよ」と仰せられた。
玄蕃は「年来の所領を闕所とされ失ってしまったのです」と事情を申し
上げた所、所領を安堵され忝くも朱印状まで与えられた。
禍福は天にありとはこのことであろう。
(信長公記)
信長公の迷い鷹を保護して旧領を回復できた大和国人のお話

96 :
利家白雲の琵琶を種村に與ヘらる々事
種村肖稚守は元々柴田家にいて評判が良かった。
後に多くの人から招かれたが仕えなかった。前田利家も懇ろに迎えられたけれども種村は仕えなかった。
利家は種村が琵琶を弾くこと好むと聞いて、白雲という名物の琵琶を種村に贈った。
するとその志に惹かれたのだろうか、利家に仕えて佐々成政と越中朝日山の合戦で、目を驚かす功名を遂げた。
その後、浅野長晟に奉公して、彼の白雲の琵琶は今浅野家にあるという。
(常山紀談)
有名な逸話を一つ。利家公のケチじゃないちょっといい話でした。

97 :
島津家中の肥後盛秀という人物が、ある日狩りをしていた。島津家の狩場で。
そこに島津義久がやってきた。
「やっべ、逃げなきゃ!」
盛秀は慌てて逃げ出したが、そのときに笠を狩場に落としてしまった。
しかもその笠にはご丁寧に「肥後権之丞盛秀」と自分の名前が書かれていた。
戻って笠を拾うわけにも行かず、盛秀は隠れて見守るしかなかった。
そして義久は笠を拾い上げ。笠の内にある名前を見た。
「ヤヴァイ見つかった!殺される。間違いなく俺は殺されるガクガクブルブル」
どうしたことか笠の名前を見るや義久は微笑し、筆を取り笠の名前の部分を墨で消した。
そして何事も無かったかのように狩りを始めたのである。
こうして盛秀は命拾いし、以後盛秀は一層忠勤に励むようになったという。

慶長16年(1611年)、盛秀は義久の死に殉じた。

98 :
うん、こんなんされたら命を賭して仕えるわ

99 :
どうせRならつまらない罪で罰するよりそれを許して自分のためにR方が良いよね

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