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2013年17戦国時代159: 毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう (923) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう


1 :2007/02/22 〜 最終レス :2013/09/01
一般的にはあまり知られていないが、
戦国時代全体を通しても、稀に見るほど激しい戦いと謀略戦が繰り広げられた、
中国の毛利氏と九州の大友氏による北九州を巡る攻防戦について語ろう。
それ以前の大内氏による九州進出の話題なんかもOK。

2 :
立花道雪が吉川元春、小早川隆景の率いる毛利軍相手に勝利したのって、多々良浜の戦いだっけ?
勝ったとはいえ両川を撤退させるほどのものではなくて
大内の山口乱入まで膠着してたようだが。
他に道雪が毛利の両川と直接対決した戦いってあるのかな?
それともちょくちょく戦ってる?

3 :
( ´゚ω゚` )

4 :
大友家臣団は毛利の調略で離反しまくりですね。
国人をなびかせる為に各家とも婚姻など相当苦労したようです。

5 :
しかし、宗麟はあっさりと弟を見捨てたね。
まあ、九州での地盤を固める方が大事だったんだろうな。

6 :
せっかく並以上の息子が3人も居たんだからうまく使えばよかったのにね!
備前や四国や九州遠征にいちいち元春、隆景コンビで行くので他が手薄になっちゃう。

7 :
それは裏を返せば、毛利家は人材不足だったと言うことかい?

8 :
毛利家は人材不足だったよ
領土の広さの割に石高が低くてしかも元就の失策で多方面作戦していた

9 :
毛利は九州からさっさと撤退して東へと目を向けるべきだったね。
九州に構ってる間、大内や尼子の旧臣に反乱起こされてるし
結局元就死後撤退してるし、無駄でしかなかった。
いくら博多の経済力は魅力とはいえ。
結局元就は室町幕府的な発想から抜け出すことができなかったんだな。

10 :
成りあがった毛利家の体質はガチガチの豪族連合だからな。
彼らの利害やら利権でがんじがらめになっているわけで・・。

11 :
この争奪戦
戦略的には大友の勝ちって事でよろしいですか?

12 :
中国の痩せた土地を考えれば博多に目がくらんでも仕方ない♪

13 :
出雲に鹿之介が侵入すると、すかさず山口に大内輝弘を攻め込ませて、九州から毛利勢を撤退させた大友宗麟の智略も評価されて良いと思う。
対大友戦は毛利の負けでしょう。

14 :
>>2
ほうよのう。多々良浜の合戦云うんはあったんか?じゃ。
立花文書の創作じゃないんか。立花城は陥落し、
大友勢は負けとるんじゃに。
>>13
大内輝広さんが反乱されたゆえ、九州から撤退せにゃあいけんかった。
まあ、大友軍がガチンコじゃあ毛利軍に勝てんけえのう。

15 :
銀山だけで我慢しておけばよかったのに

16 :
大友は大内滅亡に乗じて本州に攻めあがれなかったのかな?
毛利はいまだ尼子抱えてたのに
逆に門司を押さえられちゃったんだっけ
毛利も隆元存命してたら撤退はなかったかもなー

17 :
元就が死ぬ数年前から毛利は結構厄介な状況になってるな。
九州では大友と敵対
周防においては大内輝弘が大内残党率いて蜂起、山口を奪い。
出雲伯耆などでは、山中などの尼子再興軍が一時は月山冨田城を囲むほどの勢い。
また美作も高田城が包囲される。
山陽だと備前の浦上宇喜多が毛利と敵対し、備中の毛利領を攻撃し、備後でもそれに
呼応するものが出てくる始末。
また四国の阿波三好も浦上に協力して備前へ進出。
更に村上武吉が大友に寝返るという状況。
それに対し元就は九州を放棄して大友と講和、領内の一揆反乱を鎮圧、義昭信長に要請して
浦上宇喜多や三好を背後から牽制させようとする。(このときの信長は応えられる状況にない)
そして尼子再興軍をなんとか出雲から追い出す。
ここで元就はタイムオーバー
浦上宇喜多を降服させ尼子軍を駆逐して備前因幡まで制圧するのは輝元。
まあこのあと三村浦上の離反でまた大変になるんだが。

18 :
>>16
そもそも大友宗麟が弟の大内義長に援軍を送らなかったのは
毛利が九州の大内領を大友方に渡す約束をしていたからみた
いだね。
で、信じきってたら門司城を攻め取られちゃったてのが発端。

19 :
勇戦・多々良浜の戦い
1569年、立花城を陥落させて意気上がる毛利軍は4万の兵で多々良川を渡河して対岸の大友軍3万5千の陣地に対して攻撃を開始した。
毛利軍は多々良川を渡河して大友軍陣地に波状攻撃を仕掛けた。瞬く間に戦線は拡大していったが、兵力で勝る毛利軍が優勢だった。
このとき、道雪は毛利軍・小早川隆景隊左翼備えの兵力の幅の無さを見て取り、鉄砲隊800をもって一斉射撃をして前線に穴を作った。
その穴に立花隊5千を突っ込ませて毛利軍陣地を突破すると、さらに背面展開を始めて毛利軍の長蛇の陣を包囲攻撃して後方に後退させた。
さしもの毛利軍も後方の簡略陣地では勢いに乗る大友軍の総攻撃を支えきれずに撤退していき、立花城は戦後に大友軍に明け渡された。
この一戦以降、道雪は九州から中国地方にまでその武名を轟かせた。

20 :
>>19
1569年(永禄12年)4月下旬に元就さんは諸将を集め、5月1日から
立花城を攻撃し、5月3日立花城が陥落し籠城兵の命を助けたんじゃ
ないか。攻城戦をしとるんじゃに多々良浜で野戦した云う根拠は何処に
あるんか?立花城が毛利軍に陥されてとるんに、撤退する訳もない。
撤退したんは大内輝広さんが反乱された為じゃ。ほんま九州の人間は
儒教朱子学の影響か、白髪三千丈のホラ吹きでハッタリ虚勢を張るんが
好きじゃのう。

21 :
時々でいいので、大内さんと一時は互角に渡り合っていた少弐氏も思い出してあげてください・・

22 :
>大内輝広
大内輝弘な。
それを山口に送り届けた(鉄砲玉?)のは、大友家の水軍、若林鎮興。
検案したのは、豊後の三老、吉岡長増。

23 :
遠藤周作の小説で読んだ

24 :
それぞれのスレのスレ立て日時に注意
【西国】 毛利 vs 大友 【大攻防戦】
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1172070942/
               ↓
毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1172121280/
【関東】川越夜戦【分け目の決戦】
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1172072178/
              ↓
河越夜戦の真相を探る
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1172125964/

25 :
最初の九州への出兵は北九州沿岸を押さえることで、本州の旧大内領への大友の介入を阻止するのと
瀬戸内水軍を日本海側へ廻し、対尼子戦に投入するのが目的
見事成功し、月山冨田城への海上封鎖・兵糧の輸送も可能になり長期的な包囲が可能になった
二度目は博多の経済力目的

26 :
多々良浜の合戦って、毛利両川VS大友(道雪参戦?)と聞くと華々しいけど、両軍入れ乱れてというより、小手先の合戦を何度か繰り返しただけでしょ?

27 :
博多を占領したとしても維持が難しいよな
大友との争いはどちらかが滅ぶまで続きそう

28 :
>>26
多々良浜の戦いは69年5月から11月までで大小18回くらいやりあっ
たらしいね。中でも一番有名な>>19のは5月18日の戦いのことらしい。
あと有名なのは、毛利が九州から撤退する際に陣所に火を灯したまま、
夜陰に紛れて逃れようとしたところを、大友軍が見破って追撃をかけて
吉弘鎮理(高橋紹運)を擁する吉弘鎮信隊が大戦果を挙げたっていう
のかな。

29 :
>>28
何その変な話。資料は何?
陰徳太平記だと1569年の立花山城の撤退戦は
元春隆景本隊は夜陰と悪天候に乗じて無傷で撤退し
道雪は地団太ふんで悔しがるわけだが。
実際、九州から撤退した元春らは間髪おかずに山口を制圧してる。
これはとても追撃戦で大損害を受けた部隊の動きじゃない。
そもそも追撃戦があったとすれば立花山城に残った殿部隊の
浦宗勝隊はどうしていたのかという話になる。
普通に考えて、ない。
>>19
それを読むと合戦に負けたから撤退したように見えるが
実際は毛利軍撤退の直接の理由は大内・尼子の動き。

30 :
大内は貿易でものすごく銭を稼いだというが毛利は貿易をしてたのか?

31 :
陰徳太平記は、完全に毛利より。
毛利に都合の悪い話なんて、書けるわけないじゃん。
それこそ信用できない。

32 :
>>31
九州治乱記・立花家文書も似たようなレベルなんじゃ

33 :
>>31,32
そういうことw

34 :
大友って合戦面だと一部奮闘するものがいるものの
毛利にも竜造寺にも島津にも負けてるけど
ソウリンは軍略に関してはダメだったのかな

35 :
宗麟が直接指揮した戦ってどれだけあった?

36 :
ほとんどない

37 :
大友義鑑の代から、前線指揮を戦上手な重臣に任せていた。
当主が出てくるのは、軍勢の規模が大きくなりすぎた場合など。

38 :
軍事力と守護の権威などで圧力をかける。→ 官位斡旋・偏諱を受ける。
      ↓                  ↓ 
冷や飯組・非主流派がなびく。       御芳志を要求される。
      ↓                  ↓  
抵抗できない状態・分裂状態。          応じる。  
      ↓                  ↓
大友の一族から養子を押し付けられる。   気がついたら家臣の一人。
   ↓         ↓
受け入れる。      断わる。
   ↓         ↓
乗っ取り完了。    大友の軍勢が攻めてくる。
            ↓       ↓
          大友の勝ち   負け・膠着
            ↓       ↓
       大友家の属領になる。 将軍家に手を回して和睦。

39 :
>>38
佐伯家はよく生き残ったなあと思う。
何回か滅びかけたけど
緒方洪庵の祖先だったりするし

40 :
佐伯氏は偏諱も受けなかったしね。
もっともその他の豊後大神氏は、取り込まれてしまったよ。
戸次、臼杵(いったん改易、その後大友一族が養子に入って再興)、
植田、賀来、雄城、小原、阿南、由布・・・・。



41 :
毛利は、東に専念した方が良かったと思うんだが、これって
今だから分かることかな。

42 :
それだけ筑前博多が魅力的だったんだろうな

43 :
毛利のスタンスは基本的に中国の攻略で、
余裕があれば九州・四国にも手を伸ばしたって感じ。
基本的には東を向いていたと言っていい。
そもそも事の経緯で言えば
1558年
大友の筑前進攻に対し、単独では対抗できなかった高橋鑑種ら諸豪族が
大内の後釜として毛利に援軍を要請したところから大友と毛利が対立した。
1563年
しかし元就は尼子に力を割きたかったので高橋らを見捨てて大友と講和する。
高橋らは憤懣やる方ないが仕方なく大友に事実上従属することになった。
1568年
毛利が尼子を滅亡させると、ここぞと高橋・立花らが決起し毛利に援軍を要請。
吉川小早川と大友が立花山城をめぐって対峙する。
が、尼子大内再興軍の反乱により毛利は九州から撤退。
という流れで、毛利の九州遠征は毛利単独の意思だけでなく
筑前・豊前の反大友諸勢力の要請によるところが大きい。
例えば1558年以来元就はさっさと九州から撤退したかったが
九州の反大友諸勢力が単独では大友に対抗できないので
元就に対し強硬に九州駐留を求め続け、これが撤退を遅らせる一因となった。
>>1のように九州攻防戦の主役を大友と毛利に据えるよりも
大友と反大友の攻防と考えた方が実態に近い。そこに毛利が加わったと。

44 :
>>43
事実はそうだろうけど、それを言ったら川中島の戦いを武田vs.北信濃豪族と言ってるようなもんだろ。
毛利の戦略の決定権はあくまで元就にあったんだから、九州攻防戦で毛利を脇役扱いするのはどうかと思うけど。

45 :
>>44
言いたかったのは、毛利の出陣の理由。
毛利はそんなに筑前・博多に魅力を感じてなかったのではないかなってこと。
二度ともあっさり手をひいてること、要請がなければたぶん出陣しなかったことからそう思う。

46 :
大友家の毛利家に対する華麗なる戦績(門司城編)
弘治三年四月(1557)義鎮の実弟大内義長が元就に討たれるも援軍出せず。
同年七月 筑前の秋月・筑紫などが毛利に呼応し離反した為、二万余りの討伐兵で此れを降す。
秋月文種の遺児種実(当時13歳)は家臣に守られ周防へと逃れ毛利の庇護下に入る。
永禄元年六月(1558)宗像が大友から離反し、豊前の長野らも毛利に服属する。元就は小早川を
中心とする二万の毛利軍を関門の要塞門司城の向け此れを占拠し、三千の兵を配置する。
永禄二年正月(1559)種実は元就より精兵三千と援助を受け大友の守る古処山城を攻め此れを
奪還し旧領を回復する。(永禄十年説あり年齢的に十年説を支持する)
同年六月(1559)豊・筑で反大友勢が蜂起する中、大友義鎮は将軍家へ願い出て三国守護を賜る。
同年九月(1559)義鎮は北九州から毛利氏の勢力の一掃を計り西大友と呼ばれる庶流、立花鑑載に
は宗像を攻略させ自身は大挙して門司城を攻め此れを奪還する。当時石見に出兵中であった元就は、
門司城の陥落を知ると急遽嫡子隆元と隆景を派遣し、石見山吹城の包囲をとき撤退を余儀なくされ
る。小早川水軍の提督乃美宗勝らが海上より上陸し、身に数箇所の傷を受ける激戦も敵首級数百の
大勝にて門司城の奪還に成功する。大友の軍勢はなおも城の付近に集結して奪回を計るも、毛利水
軍提督児玉就方、宗勝らに背後から補給路を急襲され撤退する。

47 :
同年十一月(1559)幕府へ運動し念願の九州探題並びに大内氏家督を手に入れ北九州での地位を確
立させる。
永禄三年一月(1560)大親町天皇即位。献納の功により左衛門督に任官される。
同年三月(1560)大鳥へ逃れていた宗像氏貞が千の兵を持って許斐城を奪回し、白山城に入城す。
同年十二月(1560)尼子晴久病没。嫡子義久家督を継ぐ。
永禄四年六月(1561)毛利方二百余りの兵が守る香春岳城を兵数万を持って攻撃し、一ヶ月に及ぶ
攻防戦ののち此れを陥落させる。
同年八月(1561)門司城奪回に向け大友軍の総攻撃始る。
義鎮は兵一万五千を小倉に進出させ門司城を地上から攻撃させるとともに、ポルトガル船(ナウ型
5〜600トン乗員300名片舷17〜18砲門)数隻より海上から砲弾させ命中した砲弾により門司城は鮮血
で染まった。元就は再び隆元・隆景に門司城の援護を命じ派遣した。
この度も隆元は防府にて本陣を置き、隆景が先陣となって門司城救援へ向かったが、対岸の下関から
見える浦一帯は雲霞の如き大友の大軍がひしめいていた。隆景は決死隊を募り見事八百の兵を落城寸
前であった門司城へ入城させる。隆景は更に児玉に命じて豊筑沿岸も襲撃させ大友軍の背後を攪乱さ
せるも、十月二日には大友軍も豊前沼に屯営していた毛利軍を襲撃し城地の奪還に乗り出し、村上・
児玉両水軍が更に背後から大友軍へ攻撃を仕掛け後方遮断にでるも、大友は堅陣を構え益々増強して
いった。
十月十日遂に大友軍は門司城へ向け総攻撃を開始した。門司城に入城していた隆景も城外に出て奮戦。
宗勝、就方らも大友軍の背後から上陸し壮絶な戦いが始った。宗勝は敵将伊美弾正と一騎討ちを演じ
負傷するも見事討ち取る。この戦いで大友軍は竹田津則康、吉弘統清、一万田源介、宗像重正、大庭
作介らの諸将が討ち死にした。十月二十六日 大友軍は大軍を持って最後の決戦に望むも、押し切れず
大里まで撤退する。十一月五日には夜陰に乗じ総撤退を開始するも、撤退を見抜いた隆景により先回
りされ、待ち伏せにより大打撃を被る。
永禄五年正月(1562)大友義鎮、将軍足利義輝に黄金五十両を送る。
同年三月(1562)大友方の志賀常陸介が、香春城の城督に任ぜられている。
同年五月(1562)大友義鎮は剃髪する。
同年八月(1562)松山城を毛利が奪還する。将軍家より仲裁が入るも元就拒否。
同年九月(1562)一日大友方が苅田表に夜討ちを企てたが撃退される。十三日にも同じく大友勢が松山
城を攻撃するが、これもまた撃退される。十九日にも懲りずに松山城を攻めるが撃退され、逆に番春城
を毛利に奪還される。
同年十月(1562)十三日大友氏は門司表の毛利軍を攻めるが、敗れて撤退する。
永禄六年正月(1563)二十七日戸次鑑連が松山城を攻撃したが天野隆重により撃退される。
永禄六年三月(1563)大友宗麟娘を隆元に差し出し和議が成立し大友完全勝利で幕を閉じる!!

48 :
ちょwww

49 :
最後まで読んで茶吹いた

50 :
>>45
それだと、元就はたいした定見も理由も戦略も目論見も計画もなく北九州諸豪族の
言われるままに軍をだして損害を出して最終的に得るものなく手を引いたってこと
になってしまいますが。
その結果大友に決定的な不信感を抱かせることになって、東に進むのにも障害に
なってしまったと。
私は、元就がそれほど阿呆だったとは思えません。

51 :
逆に、東の宇喜田とか尼子の残党は、どんな感じだったのかな。


52 :
>>50
>それだと、元就はたいした定見も理由も戦略も目論見も計画もなく北九州諸豪族の
>言われるままに軍をだして損害を出して最終的に得るものなく手を引いたってこと
>になってしまいますが。
ならない。その帰結はかなり飛躍がある。
ところで四国遠征だってたいして見返りがあったわけじゃないぞ。
援軍を出すのは大きな大名の義務みたいなもの。拒否すれば威信にかかわる。
いや領土欲は普通にあったと思うよ。
援軍上手くいけば領土が手に入ることもあるわけだし。
けど取り立てて筑前・博多に執着してるわけじゃない。
豊前だって同程度に欲しがってる。その程度のこと。
だから中国地方が不安定になればすぐに手をひいたわけで。

53 :
まあ、毛利の本音から言えばそんなもんだろうなあ。
大内は、何世代にもわたって筑前・博多と豊前への進出を
企てていたわけだが、毛利は、ずっと安芸の山中の領主な
わけだからなあ。


54 :
>>52
森本繁

55 :
隆元あたりは大内の最盛期に山口にいたんだから博多の経済的重要性は認識してても
よかったはずなのに

56 :
石見銀山の保守はもっと重要だと思ったんじゃない?
まあ全ての大名が経済権益のためだけに動いてるわけでもなし。
他のいろんな要素も絡んでるだろう。

57 :
大内氏の貿易と言うと博多をあげるけど、実際のところ
博多は大友氏の支配下にあったし、大内氏は瀬戸内から
のあがりの方が多かったんじゃない。

58 :
博多が大友支配下になるのは、それこそ大内滅亡後じゃないのか?

59 :
>>58
南北朝の動乱期に博多に所領を得ている。
その時設立されたのが、立花氏。
大内氏滅亡前から、大友氏は、家臣の派遣も行っている。
たとえば、豊後の三老の臼杵鑑速の兄臼杵鑑続も博多に
派遣されていた。

60 :


61 :
毛利は九州に誰か全権司令官的立場の武将を置いて任せとくことができればな
いちいち両川が出てきて本国をからっぽにしとくんじゃきつい

62 :
 

63 :
結果的には大友の勝利とも言えるが、
それはあくまで毛利が尼子残党の蜂起で背後を脅かされたから。
がっぷりよつに組んでれば毛利が勝ってただろうね。
オオともは毛利に武略では負けなくても結束が弱く調略に弱いからね。

64 :
宗麟ちゃんが名君状態を維持してくれていれば大友が毛利に勝つる!
ま、あの変貌っぷりが宗麟ちゃんの魅力でもあるわけだが・・・

65 :
隆元が死ななければ、九州計略の目は消えなかったと・・・
ただし、毛利にとっての優先順位は中国>九州、四国ってこと。

66 :
そりゃ自国周辺の中国地方が第一だわな。
九州も四国も海隔ててるし。もし本拠地が長門だったりしたらまた違ったかもしれんが。
毛利が人材不足でなかったら大友の領地奪えてたかもね。

67 :
77 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/04(木) 19:10:06 ID:YvpfQfWt
>>76
大友対毛利は陸戦、海戦、謀略戦、外交戦で相当高レベルの戦い繰り
広げてるんだけどなぜかあんま世に知られてないよね。
戸次道雪対小早川隆景とか、毛利が筑前の豪族達を裏切らせたら、大
友は村上水軍を一時離反させたりと見所多いのになあ。

68 :
戦国時代の西国はつまんねえな。
実際天下にほとんど絡んでこねえじゃん。
毛利
島津
くらいだろ?
その下が大友、竜造寺と四国の長曾我部って・・・。
伊達政宗
最上義光
上杉謙信
武田信玄
北条氏康
今川義元
真田昌幸
本願寺顕如
織田信長
徳川家康
豊臣秀吉
斉藤道三・・・。
数えればきりがないよ東国の猛者どもは。
大友や島津なんてせいぜい浅井・朝倉くらいだろよ。
しょっぱいよ。
そうゆう僕は天下人三人輩出した愛知県人です。
田舎大名万歳!



69 :
>>68
伊達とか最上とか上杉とか今川とか真田とか斉藤とか、ほとんど天下に絡んで
こないじゃん。
私は、だからってしょっぱいとかたいしたことないなんて思ったりはしないが、
そちらの基準ではこのあたりも天下に絡んでないからしょっぱいとならないと
おかしくないと自分でダブスタなことに気づいたりできませんか?

70 :
毛利は天下狙ってないはず。
中国地方の覇者になりたくて、ついでに貿易に有利そうな博多湾を狙ってただけ。
地方人としては各地方の小さな戦いでも充分魅力的なんだけど、
天下人を輩出した愛知人には、天下が絡んでないとつまらないのか。

71 :
畿内は何時から東国になったのかと
随分と恣意的な線引きだな

72 :
ていうかスレ違い♪

73 :
大友にしてこれば毛利の九州での勢力拡大は死活問題だが、
毛利にしてみれば九州での勢力拡大なんてのは半ばどうでも良いことなんだよね。
用意なようなら侵略するが、大友が抵抗したのであきらめたというだけの話しだろう。

74 :
確か毛利って大内を滅ぼした時、大内に居た大友の人質を殺したんだったっけ。 
何で人質を殺したんだろうか? 
人質を生かして大友と同盟を結び、東に集中した方が良いと思うんだけど…。
だれか詳しい方、お願いします。

75 :
>>74
大内に居た大友の人質を殺したんだったっけ>
条件付きで送り返そうとしたら、宗麟が「いらん、好きにしたら?」って見殺しにしたんだよね。

76 :
宗麟の実弟のこと?
大内家出身の側室から生まれた弟よりも北九州のが大事だったんだよね宗麟は。
飛び地状態だった領地を繋げたかったのと、博多港が欲しかったから。

77 :
144 :無名武将@お腹せっぷく:2007/06/27(水) 14:44:19
対朝鮮、対明貿易の拠点である博多は、当時では京都に次ぐ、
日本で2番目の人口を持つ商業都市であり、莫大な利権が絡んでいた。
つまりは毛利、大友双方共に、博多を取れぬことには意味がなかった。

78 :
>>73
大友宗麟の弟ね。
毛利が送り変えそうとしたら、
「無能な弟などとっとと切腹させろ。ただし奴の持つ名物茶器はわしにくれ」
という事で弟は切腹させられ、茶器だけは宗麟に送られたそうな。

79 :
相変わらず宗麟ちゃんは頭がおかしいな

80 :
だからといって切腹させなくてもいいと思うがねえ。

81 :
そうはいうがのこのこ帰ってきても相当世間から叩かれるのがこの時代の掟。
そもそも毛利に九州侵入の機会を与えたのは大友の統率力のせいでは?
あの辺りは反乱起こりすぎ。

82 :
興味はあるんだが、いかんせん大友と大内が紛らわしくて、
このあたりの流れは、頭が理解を拒否するんだよな。
エレベーターとエスカレーターを混同する、あずまんがの大阪さん状態。

83 :
>>82
それは流石に頭悪すぎないか

84 :
大友宗麟は面白から調べみれば?
・家臣のごたごた
・宗麟のごたごた
・妻とのごたごた
などホームドラマみたいで飽きないよ?

85 :
>>84
・親子のごたごたも追加汁!

86 :
北九州やるから協力しろ(=弟見殺しにしろ)と提案した元就と
それに乗った宗麟。

87 :
>>86
で、その後元就に攻め込まれたなw

88 :
「身内を見捨てろ」なんて相手の性格よく知ってなきゃ言い出せんよな。
この辺も凄いと思うよ毛利は。

89 :
>>78
それソースは何?
いくら調べても毛利が騙して自刃に追い込んだ記述しか出てこない。

90 :
>>89
>>78は不正確。
厳島の後、弟君は周防・長門を固めて毛利に抵抗しようとする。
毛利は大友に、北九州やるから手を出すなと持ちかけ、
宗麟は弟が持っていった家宝も要求。
で、毛利が周防長門を切り取った最後に、
弟君に逃がしてやるから降伏シルとだまして自刃に追い込むと。

91 :
>>90
うはw家宝を要求したのは本当だったのかww
やっぱり酷いな宗麟。
いや、身内見捨てた時点で酷いけど。
それとも当時はそんなの当たり前?
陶がいなくなって何の後ろ盾も無い状態でも約1年近く毛利に抵抗したんだから
義長も結構やるね。

92 :
>>90
そのときに大内と共同して毛利に当たればその後に苦労しなくてすんだのかも

93 :
>>92
それで毛利に勝てればね。

94 :
>>93
援軍の陣容にもよるけど尼子もまだ健在だし
関門海峡は大内領で奇襲に気をつければ渡海に支障は少ない
キーは史実と同じ大内勢でも宗像や杉残党、筑前の諸将が調略受けないかどうか

95 :
>>94
村上水軍の存在を忘れてるぞ

96 :
大友は1556年の内乱で自前の水軍衆に被害があったような気がしたが
誰か詳しい人〜

97 :
>>92
宗麟が義長を助けても、大友家の領地は増えない。宗麟は毛利を押さえ込むより自家拡大を優先した。
信玄が今川の同盟を破棄して攻め込んだのと同じ。

98 :
ニコニコ動画の歴史替え歌シリーズでこんなものが
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm650003

99 :
>>98
なんかその歌だと道雪に負け続けたように聞こえるけど、
実際は毛利は戦術で戦に勝ったのに大友の戦略(ていうか外交術)で安芸に追い返されたんじゃなかったか。
道雪が主に手柄を立てた戦は、対毛利戦でなく離反者を打つ戦いだったはず。

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