2013年17戦国時代159: 毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう (923) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう


1 :2007/02/22 〜 最終レス :2013/09/01
一般的にはあまり知られていないが、
戦国時代全体を通しても、稀に見るほど激しい戦いと謀略戦が繰り広げられた、
中国の毛利氏と九州の大友氏による北九州を巡る攻防戦について語ろう。
それ以前の大内氏による九州進出の話題なんかもOK。

2 :
立花道雪が吉川元春、小早川隆景の率いる毛利軍相手に勝利したのって、多々良浜の戦いだっけ?
勝ったとはいえ両川を撤退させるほどのものではなくて
大内の山口乱入まで膠着してたようだが。
他に道雪が毛利の両川と直接対決した戦いってあるのかな?
それともちょくちょく戦ってる?

3 :
( ´゚ω゚` )

4 :
大友家臣団は毛利の調略で離反しまくりですね。
国人をなびかせる為に各家とも婚姻など相当苦労したようです。

5 :
しかし、宗麟はあっさりと弟を見捨てたね。
まあ、九州での地盤を固める方が大事だったんだろうな。

6 :
せっかく並以上の息子が3人も居たんだからうまく使えばよかったのにね!
備前や四国や九州遠征にいちいち元春、隆景コンビで行くので他が手薄になっちゃう。

7 :
それは裏を返せば、毛利家は人材不足だったと言うことかい?

8 :
毛利家は人材不足だったよ
領土の広さの割に石高が低くてしかも元就の失策で多方面作戦していた

9 :
毛利は九州からさっさと撤退して東へと目を向けるべきだったね。
九州に構ってる間、大内や尼子の旧臣に反乱起こされてるし
結局元就死後撤退してるし、無駄でしかなかった。
いくら博多の経済力は魅力とはいえ。
結局元就は室町幕府的な発想から抜け出すことができなかったんだな。

10 :
成りあがった毛利家の体質はガチガチの豪族連合だからな。
彼らの利害やら利権でがんじがらめになっているわけで・・。

11 :
この争奪戦
戦略的には大友の勝ちって事でよろしいですか?

12 :
中国の痩せた土地を考えれば博多に目がくらんでも仕方ない♪

13 :
出雲に鹿之介が侵入すると、すかさず山口に大内輝弘を攻め込ませて、九州から毛利勢を撤退させた大友宗麟の智略も評価されて良いと思う。
対大友戦は毛利の負けでしょう。

14 :
>>2
ほうよのう。多々良浜の合戦云うんはあったんか?じゃ。
立花文書の創作じゃないんか。立花城は陥落し、
大友勢は負けとるんじゃに。
>>13
大内輝広さんが反乱されたゆえ、九州から撤退せにゃあいけんかった。
まあ、大友軍がガチンコじゃあ毛利軍に勝てんけえのう。

15 :
銀山だけで我慢しておけばよかったのに

16 :
大友は大内滅亡に乗じて本州に攻めあがれなかったのかな?
毛利はいまだ尼子抱えてたのに
逆に門司を押さえられちゃったんだっけ
毛利も隆元存命してたら撤退はなかったかもなー

17 :
元就が死ぬ数年前から毛利は結構厄介な状況になってるな。
九州では大友と敵対
周防においては大内輝弘が大内残党率いて蜂起、山口を奪い。
出雲伯耆などでは、山中などの尼子再興軍が一時は月山冨田城を囲むほどの勢い。
また美作も高田城が包囲される。
山陽だと備前の浦上宇喜多が毛利と敵対し、備中の毛利領を攻撃し、備後でもそれに
呼応するものが出てくる始末。
また四国の阿波三好も浦上に協力して備前へ進出。
更に村上武吉が大友に寝返るという状況。
それに対し元就は九州を放棄して大友と講和、領内の一揆反乱を鎮圧、義昭信長に要請して
浦上宇喜多や三好を背後から牽制させようとする。(このときの信長は応えられる状況にない)
そして尼子再興軍をなんとか出雲から追い出す。
ここで元就はタイムオーバー
浦上宇喜多を降服させ尼子軍を駆逐して備前因幡まで制圧するのは輝元。
まあこのあと三村浦上の離反でまた大変になるんだが。

18 :
>>16
そもそも大友宗麟が弟の大内義長に援軍を送らなかったのは
毛利が九州の大内領を大友方に渡す約束をしていたからみた
いだね。
で、信じきってたら門司城を攻め取られちゃったてのが発端。

19 :
勇戦・多々良浜の戦い
1569年、立花城を陥落させて意気上がる毛利軍は4万の兵で多々良川を渡河して対岸の大友軍3万5千の陣地に対して攻撃を開始した。
毛利軍は多々良川を渡河して大友軍陣地に波状攻撃を仕掛けた。瞬く間に戦線は拡大していったが、兵力で勝る毛利軍が優勢だった。
このとき、道雪は毛利軍・小早川隆景隊左翼備えの兵力の幅の無さを見て取り、鉄砲隊800をもって一斉射撃をして前線に穴を作った。
その穴に立花隊5千を突っ込ませて毛利軍陣地を突破すると、さらに背面展開を始めて毛利軍の長蛇の陣を包囲攻撃して後方に後退させた。
さしもの毛利軍も後方の簡略陣地では勢いに乗る大友軍の総攻撃を支えきれずに撤退していき、立花城は戦後に大友軍に明け渡された。
この一戦以降、道雪は九州から中国地方にまでその武名を轟かせた。

20 :
>>19
1569年(永禄12年)4月下旬に元就さんは諸将を集め、5月1日から
立花城を攻撃し、5月3日立花城が陥落し籠城兵の命を助けたんじゃ
ないか。攻城戦をしとるんじゃに多々良浜で野戦した云う根拠は何処に
あるんか?立花城が毛利軍に陥されてとるんに、撤退する訳もない。
撤退したんは大内輝広さんが反乱された為じゃ。ほんま九州の人間は
儒教朱子学の影響か、白髪三千丈のホラ吹きでハッタリ虚勢を張るんが
好きじゃのう。

21 :
時々でいいので、大内さんと一時は互角に渡り合っていた少弐氏も思い出してあげてください・・

22 :
>大内輝広
大内輝弘な。
それを山口に送り届けた(鉄砲玉?)のは、大友家の水軍、若林鎮興。
検案したのは、豊後の三老、吉岡長増。

23 :
遠藤周作の小説で読んだ

24 :
それぞれのスレのスレ立て日時に注意
【西国】 毛利 vs 大友 【大攻防戦】
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1172070942/
               ↓
毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1172121280/
【関東】川越夜戦【分け目の決戦】
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1172072178/
              ↓
河越夜戦の真相を探る
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1172125964/

25 :
最初の九州への出兵は北九州沿岸を押さえることで、本州の旧大内領への大友の介入を阻止するのと
瀬戸内水軍を日本海側へ廻し、対尼子戦に投入するのが目的
見事成功し、月山冨田城への海上封鎖・兵糧の輸送も可能になり長期的な包囲が可能になった
二度目は博多の経済力目的

26 :
多々良浜の合戦って、毛利両川VS大友(道雪参戦?)と聞くと華々しいけど、両軍入れ乱れてというより、小手先の合戦を何度か繰り返しただけでしょ?

27 :
博多を占領したとしても維持が難しいよな
大友との争いはどちらかが滅ぶまで続きそう

28 :
>>26
多々良浜の戦いは69年5月から11月までで大小18回くらいやりあっ
たらしいね。中でも一番有名な>>19のは5月18日の戦いのことらしい。
あと有名なのは、毛利が九州から撤退する際に陣所に火を灯したまま、
夜陰に紛れて逃れようとしたところを、大友軍が見破って追撃をかけて
吉弘鎮理(高橋紹運)を擁する吉弘鎮信隊が大戦果を挙げたっていう
のかな。

29 :
>>28
何その変な話。資料は何?
陰徳太平記だと1569年の立花山城の撤退戦は
元春隆景本隊は夜陰と悪天候に乗じて無傷で撤退し
道雪は地団太ふんで悔しがるわけだが。
実際、九州から撤退した元春らは間髪おかずに山口を制圧してる。
これはとても追撃戦で大損害を受けた部隊の動きじゃない。
そもそも追撃戦があったとすれば立花山城に残った殿部隊の
浦宗勝隊はどうしていたのかという話になる。
普通に考えて、ない。
>>19
それを読むと合戦に負けたから撤退したように見えるが
実際は毛利軍撤退の直接の理由は大内・尼子の動き。

30 :
大内は貿易でものすごく銭を稼いだというが毛利は貿易をしてたのか?

31 :
陰徳太平記は、完全に毛利より。
毛利に都合の悪い話なんて、書けるわけないじゃん。
それこそ信用できない。

32 :
>>31
九州治乱記・立花家文書も似たようなレベルなんじゃ

33 :
>>31,32
そういうことw

34 :
大友って合戦面だと一部奮闘するものがいるものの
毛利にも竜造寺にも島津にも負けてるけど
ソウリンは軍略に関してはダメだったのかな

35 :
宗麟が直接指揮した戦ってどれだけあった?

36 :
ほとんどない

37 :
大友義鑑の代から、前線指揮を戦上手な重臣に任せていた。
当主が出てくるのは、軍勢の規模が大きくなりすぎた場合など。

38 :
軍事力と守護の権威などで圧力をかける。→ 官位斡旋・偏諱を受ける。
      ↓                  ↓ 
冷や飯組・非主流派がなびく。       御芳志を要求される。
      ↓                  ↓  
抵抗できない状態・分裂状態。          応じる。  
      ↓                  ↓
大友の一族から養子を押し付けられる。   気がついたら家臣の一人。
   ↓         ↓
受け入れる。      断わる。
   ↓         ↓
乗っ取り完了。    大友の軍勢が攻めてくる。
            ↓       ↓
          大友の勝ち   負け・膠着
            ↓       ↓
       大友家の属領になる。 将軍家に手を回して和睦。

39 :
>>38
佐伯家はよく生き残ったなあと思う。
何回か滅びかけたけど
緒方洪庵の祖先だったりするし

40 :
佐伯氏は偏諱も受けなかったしね。
もっともその他の豊後大神氏は、取り込まれてしまったよ。
戸次、臼杵(いったん改易、その後大友一族が養子に入って再興)、
植田、賀来、雄城、小原、阿南、由布・・・・。



41 :
毛利は、東に専念した方が良かったと思うんだが、これって
今だから分かることかな。

42 :
それだけ筑前博多が魅力的だったんだろうな

43 :
毛利のスタンスは基本的に中国の攻略で、
余裕があれば九州・四国にも手を伸ばしたって感じ。
基本的には東を向いていたと言っていい。
そもそも事の経緯で言えば
1558年
大友の筑前進攻に対し、単独では対抗できなかった高橋鑑種ら諸豪族が
大内の後釜として毛利に援軍を要請したところから大友と毛利が対立した。
1563年
しかし元就は尼子に力を割きたかったので高橋らを見捨てて大友と講和する。
高橋らは憤懣やる方ないが仕方なく大友に事実上従属することになった。
1568年
毛利が尼子を滅亡させると、ここぞと高橋・立花らが決起し毛利に援軍を要請。
吉川小早川と大友が立花山城をめぐって対峙する。
が、尼子大内再興軍の反乱により毛利は九州から撤退。
という流れで、毛利の九州遠征は毛利単独の意思だけでなく
筑前・豊前の反大友諸勢力の要請によるところが大きい。
例えば1558年以来元就はさっさと九州から撤退したかったが
九州の反大友諸勢力が単独では大友に対抗できないので
元就に対し強硬に九州駐留を求め続け、これが撤退を遅らせる一因となった。
>>1のように九州攻防戦の主役を大友と毛利に据えるよりも
大友と反大友の攻防と考えた方が実態に近い。そこに毛利が加わったと。

44 :
>>43
事実はそうだろうけど、それを言ったら川中島の戦いを武田vs.北信濃豪族と言ってるようなもんだろ。
毛利の戦略の決定権はあくまで元就にあったんだから、九州攻防戦で毛利を脇役扱いするのはどうかと思うけど。

45 :
>>44
言いたかったのは、毛利の出陣の理由。
毛利はそんなに筑前・博多に魅力を感じてなかったのではないかなってこと。
二度ともあっさり手をひいてること、要請がなければたぶん出陣しなかったことからそう思う。

46 :
大友家の毛利家に対する華麗なる戦績(門司城編)
弘治三年四月(1557)義鎮の実弟大内義長が元就に討たれるも援軍出せず。
同年七月 筑前の秋月・筑紫などが毛利に呼応し離反した為、二万余りの討伐兵で此れを降す。
秋月文種の遺児種実(当時13歳)は家臣に守られ周防へと逃れ毛利の庇護下に入る。
永禄元年六月(1558)宗像が大友から離反し、豊前の長野らも毛利に服属する。元就は小早川を
中心とする二万の毛利軍を関門の要塞門司城の向け此れを占拠し、三千の兵を配置する。
永禄二年正月(1559)種実は元就より精兵三千と援助を受け大友の守る古処山城を攻め此れを
奪還し旧領を回復する。(永禄十年説あり年齢的に十年説を支持する)
同年六月(1559)豊・筑で反大友勢が蜂起する中、大友義鎮は将軍家へ願い出て三国守護を賜る。
同年九月(1559)義鎮は北九州から毛利氏の勢力の一掃を計り西大友と呼ばれる庶流、立花鑑載に
は宗像を攻略させ自身は大挙して門司城を攻め此れを奪還する。当時石見に出兵中であった元就は、
門司城の陥落を知ると急遽嫡子隆元と隆景を派遣し、石見山吹城の包囲をとき撤退を余儀なくされ
る。小早川水軍の提督乃美宗勝らが海上より上陸し、身に数箇所の傷を受ける激戦も敵首級数百の
大勝にて門司城の奪還に成功する。大友の軍勢はなおも城の付近に集結して奪回を計るも、毛利水
軍提督児玉就方、宗勝らに背後から補給路を急襲され撤退する。

47 :
同年十一月(1559)幕府へ運動し念願の九州探題並びに大内氏家督を手に入れ北九州での地位を確
立させる。
永禄三年一月(1560)大親町天皇即位。献納の功により左衛門督に任官される。
同年三月(1560)大鳥へ逃れていた宗像氏貞が千の兵を持って許斐城を奪回し、白山城に入城す。
同年十二月(1560)尼子晴久病没。嫡子義久家督を継ぐ。
永禄四年六月(1561)毛利方二百余りの兵が守る香春岳城を兵数万を持って攻撃し、一ヶ月に及ぶ
攻防戦ののち此れを陥落させる。
同年八月(1561)門司城奪回に向け大友軍の総攻撃始る。
義鎮は兵一万五千を小倉に進出させ門司城を地上から攻撃させるとともに、ポルトガル船(ナウ型
5〜600トン乗員300名片舷17〜18砲門)数隻より海上から砲弾させ命中した砲弾により門司城は鮮血
で染まった。元就は再び隆元・隆景に門司城の援護を命じ派遣した。
この度も隆元は防府にて本陣を置き、隆景が先陣となって門司城救援へ向かったが、対岸の下関から
見える浦一帯は雲霞の如き大友の大軍がひしめいていた。隆景は決死隊を募り見事八百の兵を落城寸
前であった門司城へ入城させる。隆景は更に児玉に命じて豊筑沿岸も襲撃させ大友軍の背後を攪乱さ
せるも、十月二日には大友軍も豊前沼に屯営していた毛利軍を襲撃し城地の奪還に乗り出し、村上・
児玉両水軍が更に背後から大友軍へ攻撃を仕掛け後方遮断にでるも、大友は堅陣を構え益々増強して
いった。
十月十日遂に大友軍は門司城へ向け総攻撃を開始した。門司城に入城していた隆景も城外に出て奮戦。
宗勝、就方らも大友軍の背後から上陸し壮絶な戦いが始った。宗勝は敵将伊美弾正と一騎討ちを演じ
負傷するも見事討ち取る。この戦いで大友軍は竹田津則康、吉弘統清、一万田源介、宗像重正、大庭
作介らの諸将が討ち死にした。十月二十六日 大友軍は大軍を持って最後の決戦に望むも、押し切れず
大里まで撤退する。十一月五日には夜陰に乗じ総撤退を開始するも、撤退を見抜いた隆景により先回
りされ、待ち伏せにより大打撃を被る。
永禄五年正月(1562)大友義鎮、将軍足利義輝に黄金五十両を送る。
同年三月(1562)大友方の志賀常陸介が、香春城の城督に任ぜられている。
同年五月(1562)大友義鎮は剃髪する。
同年八月(1562)松山城を毛利が奪還する。将軍家より仲裁が入るも元就拒否。
同年九月(1562)一日大友方が苅田表に夜討ちを企てたが撃退される。十三日にも同じく大友勢が松山
城を攻撃するが、これもまた撃退される。十九日にも懲りずに松山城を攻めるが撃退され、逆に番春城
を毛利に奪還される。
同年十月(1562)十三日大友氏は門司表の毛利軍を攻めるが、敗れて撤退する。
永禄六年正月(1563)二十七日戸次鑑連が松山城を攻撃したが天野隆重により撃退される。
永禄六年三月(1563)大友宗麟娘を隆元に差し出し和議が成立し大友完全勝利で幕を閉じる!!

48 :
ちょwww

49 :
最後まで読んで茶吹いた

50 :
>>45
それだと、元就はたいした定見も理由も戦略も目論見も計画もなく北九州諸豪族の
言われるままに軍をだして損害を出して最終的に得るものなく手を引いたってこと
になってしまいますが。
その結果大友に決定的な不信感を抱かせることになって、東に進むのにも障害に
なってしまったと。
私は、元就がそれほど阿呆だったとは思えません。

51 :
逆に、東の宇喜田とか尼子の残党は、どんな感じだったのかな。


52 :
>>50
>それだと、元就はたいした定見も理由も戦略も目論見も計画もなく北九州諸豪族の
>言われるままに軍をだして損害を出して最終的に得るものなく手を引いたってこと
>になってしまいますが。
ならない。その帰結はかなり飛躍がある。
ところで四国遠征だってたいして見返りがあったわけじゃないぞ。
援軍を出すのは大きな大名の義務みたいなもの。拒否すれば威信にかかわる。
いや領土欲は普通にあったと思うよ。
援軍上手くいけば領土が手に入ることもあるわけだし。
けど取り立てて筑前・博多に執着してるわけじゃない。
豊前だって同程度に欲しがってる。その程度のこと。
だから中国地方が不安定になればすぐに手をひいたわけで。

53 :
まあ、毛利の本音から言えばそんなもんだろうなあ。
大内は、何世代にもわたって筑前・博多と豊前への進出を
企てていたわけだが、毛利は、ずっと安芸の山中の領主な
わけだからなあ。


54 :
>>52
森本繁

55 :
隆元あたりは大内の最盛期に山口にいたんだから博多の経済的重要性は認識してても
よかったはずなのに

56 :
石見銀山の保守はもっと重要だと思ったんじゃない?
まあ全ての大名が経済権益のためだけに動いてるわけでもなし。
他のいろんな要素も絡んでるだろう。

57 :
大内氏の貿易と言うと博多をあげるけど、実際のところ
博多は大友氏の支配下にあったし、大内氏は瀬戸内から
のあがりの方が多かったんじゃない。

58 :
博多が大友支配下になるのは、それこそ大内滅亡後じゃないのか?

59 :
>>58
南北朝の動乱期に博多に所領を得ている。
その時設立されたのが、立花氏。
大内氏滅亡前から、大友氏は、家臣の派遣も行っている。
たとえば、豊後の三老の臼杵鑑速の兄臼杵鑑続も博多に
派遣されていた。

60 :


61 :
毛利は九州に誰か全権司令官的立場の武将を置いて任せとくことができればな
いちいち両川が出てきて本国をからっぽにしとくんじゃきつい

62 :
 

63 :
結果的には大友の勝利とも言えるが、
それはあくまで毛利が尼子残党の蜂起で背後を脅かされたから。
がっぷりよつに組んでれば毛利が勝ってただろうね。
オオともは毛利に武略では負けなくても結束が弱く調略に弱いからね。

64 :
宗麟ちゃんが名君状態を維持してくれていれば大友が毛利に勝つる!
ま、あの変貌っぷりが宗麟ちゃんの魅力でもあるわけだが・・・

65 :
隆元が死ななければ、九州計略の目は消えなかったと・・・
ただし、毛利にとっての優先順位は中国>九州、四国ってこと。

66 :
そりゃ自国周辺の中国地方が第一だわな。
九州も四国も海隔ててるし。もし本拠地が長門だったりしたらまた違ったかもしれんが。
毛利が人材不足でなかったら大友の領地奪えてたかもね。

67 :
77 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/04(木) 19:10:06 ID:YvpfQfWt
>>76
大友対毛利は陸戦、海戦、謀略戦、外交戦で相当高レベルの戦い繰り
広げてるんだけどなぜかあんま世に知られてないよね。
戸次道雪対小早川隆景とか、毛利が筑前の豪族達を裏切らせたら、大
友は村上水軍を一時離反させたりと見所多いのになあ。

68 :
戦国時代の西国はつまんねえな。
実際天下にほとんど絡んでこねえじゃん。
毛利
島津
くらいだろ?
その下が大友、竜造寺と四国の長曾我部って・・・。
伊達政宗
最上義光
上杉謙信
武田信玄
北条氏康
今川義元
真田昌幸
本願寺顕如
織田信長
徳川家康
豊臣秀吉
斉藤道三・・・。
数えればきりがないよ東国の猛者どもは。
大友や島津なんてせいぜい浅井・朝倉くらいだろよ。
しょっぱいよ。
そうゆう僕は天下人三人輩出した愛知県人です。
田舎大名万歳!



69 :
>>68
伊達とか最上とか上杉とか今川とか真田とか斉藤とか、ほとんど天下に絡んで
こないじゃん。
私は、だからってしょっぱいとかたいしたことないなんて思ったりはしないが、
そちらの基準ではこのあたりも天下に絡んでないからしょっぱいとならないと
おかしくないと自分でダブスタなことに気づいたりできませんか?

70 :
毛利は天下狙ってないはず。
中国地方の覇者になりたくて、ついでに貿易に有利そうな博多湾を狙ってただけ。
地方人としては各地方の小さな戦いでも充分魅力的なんだけど、
天下人を輩出した愛知人には、天下が絡んでないとつまらないのか。

71 :
畿内は何時から東国になったのかと
随分と恣意的な線引きだな

72 :
ていうかスレ違い♪

73 :
大友にしてこれば毛利の九州での勢力拡大は死活問題だが、
毛利にしてみれば九州での勢力拡大なんてのは半ばどうでも良いことなんだよね。
用意なようなら侵略するが、大友が抵抗したのであきらめたというだけの話しだろう。

74 :
確か毛利って大内を滅ぼした時、大内に居た大友の人質を殺したんだったっけ。 
何で人質を殺したんだろうか? 
人質を生かして大友と同盟を結び、東に集中した方が良いと思うんだけど…。
だれか詳しい方、お願いします。

75 :
>>74
大内に居た大友の人質を殺したんだったっけ>
条件付きで送り返そうとしたら、宗麟が「いらん、好きにしたら?」って見殺しにしたんだよね。

76 :
宗麟の実弟のこと?
大内家出身の側室から生まれた弟よりも北九州のが大事だったんだよね宗麟は。
飛び地状態だった領地を繋げたかったのと、博多港が欲しかったから。

77 :
144 :無名武将@お腹せっぷく:2007/06/27(水) 14:44:19
対朝鮮、対明貿易の拠点である博多は、当時では京都に次ぐ、
日本で2番目の人口を持つ商業都市であり、莫大な利権が絡んでいた。
つまりは毛利、大友双方共に、博多を取れぬことには意味がなかった。

78 :
>>73
大友宗麟の弟ね。
毛利が送り変えそうとしたら、
「無能な弟などとっとと切腹させろ。ただし奴の持つ名物茶器はわしにくれ」
という事で弟は切腹させられ、茶器だけは宗麟に送られたそうな。

79 :
相変わらず宗麟ちゃんは頭がおかしいな

80 :
だからといって切腹させなくてもいいと思うがねえ。

81 :
そうはいうがのこのこ帰ってきても相当世間から叩かれるのがこの時代の掟。
そもそも毛利に九州侵入の機会を与えたのは大友の統率力のせいでは?
あの辺りは反乱起こりすぎ。

82 :
興味はあるんだが、いかんせん大友と大内が紛らわしくて、
このあたりの流れは、頭が理解を拒否するんだよな。
エレベーターとエスカレーターを混同する、あずまんがの大阪さん状態。

83 :
>>82
それは流石に頭悪すぎないか

84 :
大友宗麟は面白から調べみれば?
・家臣のごたごた
・宗麟のごたごた
・妻とのごたごた
などホームドラマみたいで飽きないよ?

85 :
>>84
・親子のごたごたも追加汁!

86 :
北九州やるから協力しろ(=弟見殺しにしろ)と提案した元就と
それに乗った宗麟。

87 :
>>86
で、その後元就に攻め込まれたなw

88 :
「身内を見捨てろ」なんて相手の性格よく知ってなきゃ言い出せんよな。
この辺も凄いと思うよ毛利は。

89 :
>>78
それソースは何?
いくら調べても毛利が騙して自刃に追い込んだ記述しか出てこない。

90 :
>>89
>>78は不正確。
厳島の後、弟君は周防・長門を固めて毛利に抵抗しようとする。
毛利は大友に、北九州やるから手を出すなと持ちかけ、
宗麟は弟が持っていった家宝も要求。
で、毛利が周防長門を切り取った最後に、
弟君に逃がしてやるから降伏シルとだまして自刃に追い込むと。

91 :
>>90
うはw家宝を要求したのは本当だったのかww
やっぱり酷いな宗麟。
いや、身内見捨てた時点で酷いけど。
それとも当時はそんなの当たり前?
陶がいなくなって何の後ろ盾も無い状態でも約1年近く毛利に抵抗したんだから
義長も結構やるね。

92 :
>>90
そのときに大内と共同して毛利に当たればその後に苦労しなくてすんだのかも

93 :
>>92
それで毛利に勝てればね。

94 :
>>93
援軍の陣容にもよるけど尼子もまだ健在だし
関門海峡は大内領で奇襲に気をつければ渡海に支障は少ない
キーは史実と同じ大内勢でも宗像や杉残党、筑前の諸将が調略受けないかどうか

95 :
>>94
村上水軍の存在を忘れてるぞ

96 :
大友は1556年の内乱で自前の水軍衆に被害があったような気がしたが
誰か詳しい人〜

97 :
>>92
宗麟が義長を助けても、大友家の領地は増えない。宗麟は毛利を押さえ込むより自家拡大を優先した。
信玄が今川の同盟を破棄して攻め込んだのと同じ。

98 :
ニコニコ動画の歴史替え歌シリーズでこんなものが
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm650003

99 :
>>98
なんかその歌だと道雪に負け続けたように聞こえるけど、
実際は毛利は戦術で戦に勝ったのに大友の戦略(ていうか外交術)で安芸に追い返されたんじゃなかったか。
道雪が主に手柄を立てた戦は、対毛利戦でなく離反者を打つ戦いだったはず。

100 :
だいたい大友が大名相手に勝った戦いって有るのか?
豪族クラスを相手に大軍で押し潰してきただけじゃね?

101 :
>>100
つ【勢場ヶ原】♪

102 :
大友が大軍を率いると負けフラグ

103 :
>>100
戦いは数だよ、兄貴。

104 :
>>99
道雪は秋月相手に弟含む一族重臣討ち取られる大敗をしている

105 :
この時は本当に大友宗麟が輝いていたな・・
本当に一瞬だけだったがww だがその一瞬が凄すぎたんだよな

106 :
>>103
その数をそろえて、竜造寺・島津にボロクソに負けたのだよ、弟よ。

107 :
数揃えても統率が取れてないんじゃな。
宗麟の性格のせいで軍は内部から崩壊しまくり。
島津に負けなくてもその内滅んでたんじゃないかって位に。
外交は上手かったのに部下の心は掴めなかったってんだから不思議なもんだ。

108 :
こんな馬鹿殿でも滅亡までに30年近くかかっているのだから
大友という家の求心力はすごかったんだな

109 :
その馬鹿殿晩年の島津の侵攻時にも少なからぬ家臣が島津に徹底抗戦。
守護大名でこんだけ腰が座った家は珍しいんじゃね?

110 :
>>108
元々家が大きかったのもあると思う。
九州の名家だったから家臣も嫌々ながら着いて来た。
(忠誠心から着いて来た武将ももちろん居るが)
これが弱小大名家だったらあっという間に滅びてる。

111 :


112 :
戸次家の子孫ですが中判田に住んでます
( ゜Д゜)y─┛~~

113 :
宗麟はやればできる子

114 :
どこが?

115 :
つーか晩年に暗愚化したパターンで
北九州攻防戦の時代は有能だろ。
自ら陣頭指揮をとるタイプではなく、戦略家というより外交家だが。

116 :
・先代の横死で跡を継ぐ
・若い頃は英主
・老いて老害を撒き散らし子供たちが揉める
孫権かこいつは?

117 :
子供がヘタレで隠居出来ずだから
少しは同情の余地はあるかと

118 :
宗麟スレはここですか?

119 :
【宗麟】大友氏について語ろう【義統】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151859366/

120 :
なんだかんだ言っても毛利対大友は最終的に大友の勝ちだからな。
どうしても話題の中心が大友に行ってしまう。

121 :
毛利元就と立花道雪の直接対決が実現したらどうなってただろう。

122 :
歩き回れる分、毛利に分がありそうだな。

123 :
道雪の神がかり的な強さはあくまでゲーム設定。
実際はそこそこの良将といった程度。
一方で元就は何度も寡兵で大軍を破っている名将。
順当にいけば元就が勝つだろうな。

124 :
でも北九州攻防戦の頃の元就って前線指揮は引退してるような老齢だろ?
実際、対大友の中核を担ってたのは両川だった訳だし。

125 :
負けなし道雪でも、知将の元就には勝てなかった気がするわ。
元就九州上陸前に尼子と大内の残党を動かしたのは正解。

126 :
道雪って秋月かどっか相手に負けてなかったっけ?
後、門司合戦にも参加していたような気が。

127 :
対秋月戦で多大な被害受けたけど最終的に勝ったんじゃなかったっけ?

128 :
信野望の道雪のトンデモ設定はどっから出てきたんだ?
特に小勢で大軍を破ったりしていた訳でもないし。

129 :
雷神の異名と不敗伝説と半身不随でも戦ったってところから?
本当に不敗なのかは怪しいし、半身不随になったのは晩年になってからって説もあるけど。

130 :
輿に乗ったまま敵陣に突っ込んで行く様が肥的には評価大だったかと♪

131 :
この戦いって数少ない巨大勢力のガチンコだからね。
信玄・謙信の川中島での小競り合いとは規模も戦術も比較にならない。
なのにこの異様な知名度の低さは何。

132 :
そういや信玄vs謙信並に何度も争ってるな。
あまり有名にならないのは総大将が戦場に立たなかったから?

133 :
なんというか謀略だらけで、体育会系のガチンコ合戦イメージがないんじゃないかね

134 :
>>133
それは一般的なイメージとしては正しいが、歴史を学ぶ者の考えとしては可笑しい。

135 :
うん、「知名度」っていうからには一般イメージが影響するよね。

136 :
なるほど。
裏で動いてる謀略戦よりガチンコ勝負のほうが”話”として面白いわな。

137 :
尼子に与してたときって、結構ガチでやってね?
有名なエピソードは調略が絡んでるけど

138 :
川中島はなんといっても総大将同士がガチでやり合った
という派手な講談があるからな。こちらも元就と大友義鎮が
直接切り結んだら有名になったと思うよ。

139 :
お互い(当時の)最新兵器持ってるから
川中島より派手なことになりそう。

140 :
>98
晒しちゃらめええええ(ビクビク
単に博多が落とせないと歌いたくて
でも戦術面じゃ毛利が連戦連勝だったから
道雪の活躍を誇張しちゃったんだ
ちょっと反省してる

141 :
>>140
まさかの本人降臨
毛利対大友が有名にならなかったのは、
川中島と違って強さが互角ではなかったのもあるかもね。
ガチ勝負では毛利の連勝。でも最終的に大友の勝ち。
これじゃ講談になっても盛り上がらんわ。

142 :
毛利ノ庄って毛ほどの利益しかない庄ってことだろ?

143 :
野峠?

144 :
道雪過大評価は、遠く甲斐信玄から会いたいとラブコールを受けたことか?
なぜ信玄が九州なんかの一部将にそんなことを言ったの?

145 :
噂が伝わってく内に大袈裟になったのでは。

146 :
道雪は軍律に厳しくて、敵の城を囲んでいる時、正月を
自宅で過ごそうと陣抜けした侍に討手を差し向けた。
そのうえ、陣抜けした者を迎え入れた家族も同罪だと
してその家族も討たせた。
と言う話なんだが、どこまで本当か知らん。

147 :


148 :
小倉南にあった西日本最大級の山城長野城
高速工事で壊されたの?

149 :
大友対毛利・・・確か足利将軍家から朝廷に使者を要請して村上武吉の奔走で和睦したんだよね、すぐ破られたけど

150 :
>>148
2年前、近所を通った時あったしまだ壊されては無いと思う♪
山城だけど最大級じゃないよ♪

151 :
長野は畝堀がすごいんだろ

152 :
長野城が大きくなったのは、秀吉の九州侵攻に
備えてのことじゃなかった。

153 :
地元だけれど、近くの地下をトンネル通しただけなので壊れていないはず。
そもそも破壊されると言う騒ぎは、この山周辺で巨石群が地中にあって何ヶ所か地上より入れた。
ここが高速道路の工事前に、トンネルを掘ると崩れて長野城が壊れるって話だったはず。当時の新聞探せば
載っている。開通したけれどニュースでも壊れたって聞いていない。
>>151
10年前に話題になる前は草木が多くて、山城跡と知らなければ確かに畝が多いけれど全体が分からない
ぐらいだった。しかも傾斜緩い。
>>152
とされている。

154 :
長野は総合運動公園みたいなのが出来るとかなんとかだったんじゃね?
長野氏はどこに行ったんだっけ?

155 :
>>154
総合公園はモノレールを延線して、あれこれ移動とかあった挙げ句、無駄な税金を使わないという見直しの中で
ポシャった。代わりに人気のない広場公園がある。ここまでの経過で一部の人たちの運動にはウンザリしたけれど
あと、長野氏は筑後へ
ぐぐってみたら、分かりやすいサイトが見つかった。上:全般が載っている。下:高速道路の位置がわかる。
ttp://www.geocities.jp/kikunosato2005/index.html
ttp://kutiisi.hp.infoseek.co.jp/

156 :
豊前中部の豪族はだいたい宇都宮系か
仲良くやってたのか?

157 :
大友、大内のどちらかと言えば大内だろ
しかし勢力的に大友に付かずにはいられないことがしばしば。

158 :
長野城は歴史群像に朝刊図が出てなかったか?

159 :
出てたね。

160 :
いつのやつだ?

161 :
結局豊前侍はルーツは栃木かorz

162 :
宇都宮氏は豊臣政権と相性悪いね。

163 :
>>161
九州には元寇の際に関東から西下して土着した武士が沢山居るからな

164 :
具体的に?

165 :
だから宇都宮だつってんだろ

166 :
九州には元寇の際に関東から西下して土着した宇都宮が沢山居るってことだ。

167 :
俺とお前と宇都宮

168 :
厳島厳島

169 :
関門は明治以降に要塞化されて遺構が破壊されたんだよな

170 :
>>144
大友宗麟は、官位官職・守護職を獲得する過程で朝廷・将軍家とその周辺に
莫大な献金を行っている。そのおかげで、中央(京都周辺)と太いパイプが、で
きていてかなり確度が高く詳細な情報を入手していた。
逆に言えば、大友家と豊後の話も中央に伝わるわけで、将軍家には、武田信玄の
父親の信虎も滞在していたわけだから、そのルートで信玄に伝わったというのは、
ありえると思う。

171 :
         ハ,,ハ  
        ('(゚∀゚∩_ おいらをどこかのスレに送って!
      /ヽ   〈/\ お別れの時にはお土産を持たせてね!
     /| ̄ ̄ ̄|.\/
       | .モツ煮..|/
        ̄ ̄ ̄
現在の所持品:たばこ・ライター・コーヒー・ブラックブラック・枕・ケータイ電話・睡眠薬・聖教新聞・ダッチワイフ
外付けSCSI340MHDD・ネットランナー4月号・TYG02・小嶋進社長・ゲルトモ・ディプスファンタジア・抵抗1kΩ(黄紫橙金)
  (途中10行略)
イーゼルボンバー・山田オルタ・麻枝・DDO・C鯖・ナカノ5+ニゼルsh→シャワフリ・胸パッド・日本酒・眉毛・包皮
オーストリー・北村ひとみ・辻野・幹事・デイジーコラージュ・草なぎ剛・バリカン・YAMAHAシネマステーション
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マケイン・ヒラリーいいえ、ケフィアです・カピ様・欝袋・おっぱっぴー ・新成人・ファ板・HARE・コシナツァイス
DT18-70 F3.5-5.6・悟リ・第一段階・ゴジラ・高岡蒼甫・おっぱっぴー・蒙古襲来絵詞・筑紫尚門

172 :
道雪と聞くとどうしても猿を思い出す。

173 :
元就ごときが道雪に勝てるわけない


174 :
>>170
吉岡氏って越前守も兼任していて、豊前みやこ郡に住んでたって
なんだか朝廷からの派遣氏かも?とか思ってるんだわ
越前一の宮の気比神宮と宇佐神宮…この共通接点も興味深いです

175 :
大友が献上→将軍義輝が下賜→上洛中の謙信へと鉄砲火薬術の本が渡ったよね。

176 :
なんですと

177 :
本に挟まれていた髪をDNA鑑定したら大友宗麟の髪だったってやつだろ
嘘くせーな

178 :
>>177
その話初耳。そうなんだ〜そういう話だったんだ。
巻物に毛が挟まってたの?
米沢市上杉博物館にある「鉄砲薬之方併調合次第」一巻の事だよね。

179 :
北九州ミュージックフェスタ出演者募集のお知らせ
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180 :
>>174
吉岡長増は、大友氏一族でずっと豊後。
豊前にも派遣されていたはず。
武蔵田原氏の親賢の養子の親虎は京出身だったはず。

181 :

>>180。近代は豊後史の記事の伝播ばっかだったから。。。
それが 中津藩小倉藩界隈が本拠地だったみたいなんよな〜?

182 :
先祖は高千穂の三田井氏に仕えていました。

183 :
高千穂…柳田アナ(´・ω・) カワイソス

184 :
●<迷惑行為>酔客、祭りの夜に風鈴60個割る 北九州市・小倉で
8月5日15時17分配信 毎日新聞

北九州市の繁華街、小倉北区の「魚町2番街」に飾り付けられた風鈴が、
5日までに少なくとも60個以上、割られていたことが分かった。
小倉の夏の風物詩「小倉祇園太鼓」(7月18〜20日)や「わっしょい百万
夏まつり」(今月2〜3日)の夜に、酔って風鈴を割る姿が目撃されており、
商店主らは悪質な行為に憤るとともに、対応に頭を悩ませている。
魚町2番街は、東西約200メートルにわたって延びるアーケード街。商店主ら
でつくる協同組合が昨年夏、風鈴の飾り付けを始め、今回で2シーズン目を迎えた。
一つ一つ手作りで、絵柄や音色が微妙に異なる「江戸風鈴」にこだわり、買い物客
からも「涼しげでいい」と評判も上々。今年は祭りが始まる前の6月27日から、
約200個を取り付けた。
ところが小倉祇園太鼓を境に、夜中に傘や棒で割る酔客が目撃されたり、風鈴から
垂れ下がる短冊が引きちぎられるなどの被害が続発。協同組合理事の橋村邦雄さん
(61)は「せっかく祭りに間に合わせようと頑張ったのに……」と肩を落とす。
協同組合は福岡県警小倉北署に被害届を出すことも検討したが、今夏は見送ること
にした。橋村さんは「心地のよい風鈴の音を、来年の夏も響かせたい。それまでに
市民のモラルが回復することを、心から願っています」と話している。

185 :
…それが一体どうしたのか…

186 :
この頃外交力、知略は宗麟>>>元就だなあ

187 :
この頃、としか言えないのが悲しいねぇww
しかも精一杯捜して外交力、としか言えないのが悲しいねぇww

188 :
>>187
この頃も何も宗麟は息子に家督を譲って臼杵に引退した後から、大友が衰退しただけで、長い当主期間はかなり優秀だったわけだが。

189 :
宗麟が優秀かというと疑問符がつかねーか?
やればできるけど基本的にやらない子=宗麟

190 :
>>187
貴方の論だととっくの昔に家督を隆元に譲ってた(一五四六年)元就を引き合いに出すのはナンセンスでは?
都合が良すぎない?

191 :
私は190だけど
>>188の間違いね

192 :
輝元が泣きを入れて元就は死ぬまで後見して第一線だったはず。
その時期に、宗麟の後援で尼子や大内残党が活気づいて元就は追い込まれてるわけだが…

193 :
あれー?なんか話が変わってきたなぁww
後見と当主の違いはわかるよな?
元就の意見反映、影響力はあるが隆元の同意なしでは動けない。
国政は隆元が仕切ってる。
隆元は元就の言いなりではなく何度も意見対立させてる。
>>188は「この頃」「当主期間」
限定で話をしてるわけだが…
宗麟も家督譲っても動いてなかった?
ここは「宗麟だけに都合良く話が変わるスレ」か?
なんで宗麟は「この頃」「当主期間限定」で元就は死ぬまでなんだ?(この時点ですでに元就の方が優秀だと認定)

てか唯一なんとか誇れる外交力に必死過ぎww

194 :
ん?隆元ではなく、幼少の輝元の後見の話をしてるんでないの???
>>193は日本語だいじょうぶかい?
大友義統は18歳で家督譲られてるし。
輝元は18歳の時に元就死亡してるし。
だいぶ状況が違うと思いますが・・・

195 :
>>194
お前こそ日本語大丈夫か?ww
輝元が泣き入れて死ぬまで後見。てだけで輝元の時代とは言ってないだろ(要するに元就は死ぬまで前面に居た、と言いたいのだろう)
仮にそういう意味だとしても前レスの流れから輝元関係ないだろ
なんだよ義統と輝元ってww
お前みたいな話を理解してない奴が話を脱線させて収拾つかなくなるんだよ
話の発端は宗麟は「当主時代」と元就は「死ぬまで」の能力の比較だろ
前レスちゃんと読んで何度も考えてから投稿しろよ
読解力を身につけろ

いちいち説明させるなよ

196 :
>>195
日本語できないみたいね・・・
しかもwを多用しまくって精神的にも逝っちゃってるようですね・・・

197 :
さらに親切に説明すると

[186:人間七七四年 (2008/08/08(金) 21:40:00 ID:k2QjYHDi) AA]
この頃外交力、知略は宗麟>>>元就だなあ

これが最初の原因だ。
後レス見てみろ
「この頃(つまり九州攻防)」→「宗麟は当主時代限定」→しかし「元就は後見だろうが関係なし」→「輝元の時代??」

次々と宗麟マンセーの為に脱線しまくってるだろが
キリがねぇ…

198 :
>>196
日本語できないみたいね

199 :
「この頃もなにも」
この言葉を正確に理解できない197の日本語不自由ぶりに泣いた。

200 :
>>199
だからその事を宗麟マンセーの為に勝手に話を拡大してそらしてるってんだろ
お前馬鹿か?

この頃→この頃もなにも当主時代は…って風に
お前、本当に頭悪いね?

201 :
宗麟擁護したい気持ちはわかるけどさ

「この頃外交力、知略は宗麟>>>元就だなあ」
これだぞ?

これでなんか言われただけで
この頃というか当主時代は…って勝手に拡大してさ
そして当主時代限定みたいな事言うからすでに元就は家督譲ってるから対象外って言ったら
今度は元就は後見だけど死ぬまで第一線だから認めないような事言い出すしさ
揚句のはてには輝元の時代?w

フェアじゃねえだろ?
宗麟擁護は頭がおかしいとしか思えん

202 :
今日わかったこと

毛利と大友の戦いは、戦国オタによる代理戦争として現在も続いている

203 :

                           _人   _,,.. - ''''"" ̄`"'''7:::∠__
                           )  ,. '"          !ヘ/:::/、
 ___      _l⌒l_            /       ハ, __i  i:::::>!   ',
(__   )     (_  _)l⌒l        /    /'! ハ  /!二_ハ i´ |   ハ
 _/ /      / /  |  | ___  |  / ,.ィ‐-V レ゛´!´.ハ`ヽイ /   ! !
(__  ) __ (_/ l⌒l `ー' /     ヽ i  i  イ「ハ     !__,リ ノ | /|    |
  / /(___)   |  l_ │ .○ /ヽ | /.| | ! !ソ     ̄ 〃 レ' |    |
 │ │_        ( ○ _) 丶_/  / /  レソ〃 ,-=ニニ'ヽ.    7 ,'    |
  丶__)        `─'         `ー'   |7!  i     !  u / /!    |
       _l⌒l__ /⌒ヽ         /⌒/ .'ゝ、_ヽ、   _ノ   / / /  i   ,'
      (_     \\  | /⌒ヽ_/ / ̄レヘ/,./^i,.-,r  イ´レヘ/ヽ、ハノ
       / / ̄ヽ | `ー'(_/\  /     r| ! ! レ^i/  ̄'7ー-、 
      (_/   / /        `ー'       ハ     /ヘ__/// ヽ,
            `ー'              ,. '⌒ヽ,r‐''"´ ̄ト、::::::/     !

204 :
>>201
あんたが負けず嫌いでムキになって
俺ルールを主張してるのはわかった。
アマリアツクナラナイデ

205 :
>>204

俺ルールは宗麟厨のほうだろ?
馬鹿でもわかるぜ

206 :
>>205
君にヒント
気がつかないのは必死で偏執的な当事者だけw

207 :
>>206
君にヒント
気がつかないのは必死で話の本筋から目をそらそうとする宗麟厨だけw

208 :
>>207
くだらん
もう来るな

209 :
>>208
お前がな

210 :
攻められぱなしの大友と攻めきれなかった毛利って感じだな

211 :
政戦略>>超えられない壁>>戦術
大友>>毛利

212 :
大友宗麟って最終的な結果はともかく魅力のある武将だと思うな

213 :
まぁ実際自分の上司とかだと絶望できるんじゃないかな

214 :
大友と毛利という家格の差も出るだろうからなー
やっぱなり上がりの毛利では外交面ではいろいろと立場が弱かったのではないかと思う。
ただその差を利用しても大友に出来たのは毛利を引き上げさせて、引き分けに持ちこむので精一杯だったと。

215 :
>>214
毛利厨必死乙w
幕府相伴衆・従四位上に昇叙し、陸奥守で
どこが不利なの???領土だって尼子・大内を併呑してるし。
むしろ京から遠い大友の方が文書の往来とかいろいろと外交上不便でしょ。

216 :
大友って岐阜命名前の信長ともよしみ通じてたんだよね
結構凄くない?

217 :
毛利は大江氏族なので鎌倉以降の武家社会においては充分に名家
大友も初代以来の代々豊後守護なので名族

218 :
まぁ元就以前の毛利が名門かというと違う気もするね
血筋は大友よりも毛利の方が古く遡れるけど

219 :
没落貴族って感じかな?

220 :
大江の自負はあっても、まわり見渡したらそれぞれ名家に溯れる国人領主はいたわけで。大友贔屓する訳ではないが、気性の荒そうな九州武士同士で干戈を交えとった分、真正面から当たったら軍勢の地力は強かったんじゃなかろうか。毛利は策略で衝いて、カバーか。

221 :
西阿弥陀仏

222 :
馬耳西風

223 :
>>220
実際は戦闘は毛利有利、策略で大友が逆転というパターン。

224 :
毛利は厳しい状況で何とか陶を倒した。この時点では周防、長門を完全に支配化に組み込んでない。
大友は毛利に北九州荒らされるより、漁夫の利を狙って周防、長門に攻めれなかったのかな。

225 :
毛利は厳しくない。陶に嘘をついてギリギリまで騙してたから。
陶が元就に恩を施し、かなり贔屓目してた。
だから元就が裏切ったと聞いて、陶は信じなかったくらいだからね。元就はマジ基地外悪党。

226 :
なにコイツ。
キモー

227 :
>>224
大友は九州側大内領の切り取り中。

228 :
>>227
毛利は周防・長門を一気に制圧したけど、大友は秋月など中途半端に支配してすぐ裏切られてる

229 :
毛利元就さえ生きていれば
羽柴秀吉軍なぞ蹴散らかしてくれたのに・・・

230 :
備中高松城の水攻めの時、堤防工事に時間がかかっているのに毛利は何してたんだろね。
毛利領に侵入した時点で、3万の軍勢率いて野戦の陣形を作るべきなのに、
堤防工事が完成した後にノコノコ現れるだけ。

231 :
百年に一度の大雨だっつうの
てかスレ違いもはなはだしい!

232 :
>>228
毛利だって大内や尼子残党が暴れまわってんだろ…

233 :
今だに残党が
毛利スレを荒らし回って鎮圧が大変なんじゃ
(;´Д`)ハァハァ…

234 :
立花道雪は無敗とか言うけど、秋月の奇襲で弟皆殺しにされたじゃん。
鍋島の奇襲で負けた時も参戦してる。

235 :
>>234
戦死しなければ、負けでは無い。

と言ってみたりする。
でも、自分も今山の戦いは気になった。
龍造寺との戦いを単体的に見れば負けたが、
全体的に見れば、負けては無いという事か?

236 :
>>235
軍隊同士の戦いに指揮官が戦死しなければ負けでないとか言われても。
それなら信長は本能寺の変以外は負けてないことになる。

今山でも軍事作戦で負けて、兵力差による政略で優勢に立っただけだし。

237 :
>>235-236
今山合戦のきっかけは龍造寺が周辺豪族の領地を切り取ったことに有る。
その時の肥前の諸豪族は龍造寺を含め大友に帰順していたので、
この行為は大友に対する謀反に当たる。
そこで大友は6万の軍勢を出して龍造寺の本拠地佐賀城を包囲する。
包囲勢の大将は大友親貞で、今山に本陣を置く。
この今山を龍造寺が夜襲して本陣を打ち破り親貞の首を取る大戦果を上げる。
しかし大友側は本陣以外は無傷でそれ以降も攻囲を続ける。
最終的に大友は佐賀城を攻めあぐね、
「龍造寺は大友に帰順する、しかし出兵の原因であった龍造寺の周辺領地の切り取りは黙認する」
という条件で講和。
大友は龍造寺を降伏させるという面目は立てたが、龍造寺にしてみれば切り取り自由のお墨付きを手に入れたようなもので、
以降周囲への攻勢を強めている。
ということは、今山合戦は軍事的にも政略的にも龍造寺の優勢勝ちだろうな。

ちなみにこの時の道雪は佐賀城の西側(今山は東側)に陣取っていた為、特に損害も無く功もなし。ただ居ただけの存在。

238 :
>>237
>>ちなみにこの時の道雪は佐賀城の西側(今山は東側)に陣取っていた為、特に損害も無く功もなし。ただ居ただけの存在。
でも、大友の隣に陣取っていたから、もしかしたら・・・ってな事になっていたかもと考えると、ガクブルもんだね。


239 :
>>237
あ、お礼を忘れていました。
ご教授、ありがとうございました。

240 :
秋月種実がある意味道雪以上の傑物だったってことだろ
茶器で降伏とかトホホ要素に事欠かないからネタ大名扱いされがちだけど

241 :
>>232
秋月は豪族として城や領地を維持し数千(5千くらいだっけ?)の軍勢を動かせる存在。
大内、尼子の残党は城も領地も失いよその大名に寄生して命脈を保っている存在。
動員出来る兵力も千人弱。兵担も後援大名だのみ。
両者を同列にするのはちょっと無理がないか?

242 :
教科書の時代ごとの領土でなんで九州の毛利領無くなったんだろと思ってたけど
大友に負けてたんですね。
大友は弱いという印象は捨てなければいけないですね。

243 :
しかし実際、大友はまともに戦って勝ったのは弱小豪族だけ?
て印象しかないんだよな…
道雪、紹運て本当に名将なの?
紹運なんかは篭って玉砕ぐらいしか知らん
そんな奮戦した奴なんかいくらでもいるのでは?

244 :
>>243
道雪は40年くらい第一線で活躍してる。
立花宗茂が活躍できたのは、個人の能力だけでなく道雪以来の厳しい軍律、結束力
などが基本となってるだろ。

245 :
鎮西の国人は弱小なんだけど独立心が強いからな

246 :
この一連の戦いで村上と来島が仲違いしたらしいが、そこらの詳細って分かる人います?

247 :
>>244
>>245
なるほどね
肥後とか「国人気質が凄くて日ノ本一、治めるのが難しい」て言うし
やっぱり九州は統治が難しいのかなぁ?
九州の人は血の気多いもんな…

九州男子!!

248 :
>>244
あと、小野さんとかの有能な家臣のお蔭。

249 :
>>246
来島が能島、因島と決定的な断絶をしたのは秀吉が信長の後継者になった以降の話。
ただこの時期一時的に能島が大友側につき、小早川隆景の後援を受けた来島に攻められて降伏、毛利側に復帰
ってことがあるがそのことかな?

250 :
>>248
それも道雪の組織作りによって有能な家臣団が形成された。
秀吉だって信長に認められなければ、他の大名家に仕えても出世できたか分からない。

251 :
>>241
どっちも城も領土を失っていた存在ってのは一緒
秋月はそこから城と領土を取り戻したのに対し、大内尼子はそれに失敗しただけって話じゃ

252 :
>>249
ありがとうございます。
単に不干渉という事じゃなくて積極的に離反しちゃったのか。そりゃあかんわ。

253 :
yahoo知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1418920954
↑こちらでも質問していますので、回答はそっちでも構わないのですが
門司城と小倉城について質問です。
どちらの城も1550〜1560年代に毛利・大友の抗争の舞台をなったという記述はあるのですが
毛利・大友が和睦後は、秀吉の九州征伐くらいまでさっぱりネット上では情報がでてきません。
1563年の和議から九州征伐の間の両城の支配者はどうなっていたのでしょうか?
ちなみに、知りたいのは1582年頃の様子なのですが
当時、耳川の敗戦で北九州方面への影響力を弱めた大友氏の豊前の諸城は
次々に秋月・長野氏らに落とされています。
その中で、門司・小倉はどうなっていたのでしょうか?
そのまま毛利の支配が続いていたんでしょうか?
秋月氏らの諸勢力に(一時的にでも)支配されたのでしょうか?

254 :
>>253
耳川以降、龍造寺の勢力が筑前と豊前まで伸びてるよね

255 :
>>254
正しくは龍造寺に属した秋月・筑紫・長野氏らが侵攻したって感じですかね。
んで、豊前南部は秋月氏の支配なんですよ。(1580年代)
なので、飛び地的に門司・小倉が大友の支配を受けていたとは思えないので
龍造寺(に属する秋月氏ら)の支配にあったのか?毛利氏の支配にあったのか?
そこが知りたいのです。
この時代(1580年代)って毛利は北九州には持ち城なかったんですかね?

256 :
小倉城については、自己解決しました。
どうも秋月氏の所領になってたみたいです。
門司はどうなんだろ・・・んー

257 :
興味深いな

258 :
その辺は自分も何度か調べたことあるけどいまいち分からなかったな

259 :
混乱期だから資料が残ってない、ってことなのかな。
だとしたらキツイな…。

260 :
秀吉の九州征伐あたりの史料でも、なんも触れられて無いのかな?

261 :
関東や東海近畿の戦国時代は、研究がかなり進んで、相当詳しくわかるようになったんだけど、
西国はまだまだなのよね〜。

262 :
そういうのの研究ってどういう風に進めるの?

263 :
>>262
地道な作業よ。こつこつ古文書解読していって、それを多角的に研究する。
それの繰り返し。

264 :
ウォーリーを探せシリーズを買い集めて、どれが第一作のウォーリーに近いのかを見比べるかの如き作業。

265 :
前に筑前・筑後あたりの戦国史を郷土史家がまとめたものを見たことが有るが、豊前は無いのか。

266 :
雑魚毛利が大友に勝てるわけない

267 :
大内、尼子の残党がまだ生きていたか!
エイ!エイ!エイ!

268 :
>>220
九州が気性が荒い?個人々として九州で気性が荒いんは、山陽道の延長と
して小倉や遠賀川流域の筑豊までじゃろうに。個人たあ集団になると
虚勢を張って勇ましがるんは、熊本や鹿児島の東シナ人の性質じゃろう。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sugihara.html
広島県東部、備後の杉原兄弟は時代は遡るが、建武三年筑前多々良ヶ浜で
肥後菊池勢と戦い、しご(ぼこぼこに始末処理)をしちゃげたが、
九州勢如きに負ける中国勢じゃないわ。室町〜近代郷土兵団においても
のう。
>>247
肥後や薩摩は朱子学の影響の強い東シナ人じゃけえ、日本男児と九州男児は
違うわいや。「肥後の議論倒れ」と肥後がまとまらんのも、李氏朝鮮の
党争と同類じゃろう。口先の議論倒れで、行動が伴わんのが肥後じゃが、
商人気質の打算で動く薩摩よりも、戦場じゃあ勇猛じゃのう。
じゃが集団心理による虚勢の張り合いよ。
>>266
雑魚九州は、大友であろうが島津であろうが、中国勢にゃあ勝てんよ。

269 :
維新の時、第二次長州征伐(だったか?)で幕府側に勝ったが、
幕府側で唯一近代装備の当時最強兵といわれた肥後藩にだけはかなわずにその方面の長州勢はボコボコにされてなかったっけ?

270 :
>>269
幕末の対九州で、長州藩は、安芸、備後の芸州藩を使わんかったけえのう。
東北戦線じゃあ芸州藩兵は、肥後藩兵と共に奥羽連合軍と戦うとるが、
肥後の連中も無謀と敬遠する駒ケ岳の斬り込み突貫攻撃で陣地攻略したんは
芸州神機隊じゃけんのう。芸州藩に次いで、岩国藩、鳥取藩も活躍したが、
広島県勢は、断トツじゃわい。長州の山口県勢は、攻撃において中国者の
しぶとさよりも潔さを強調する点は、九州に接しとる影響のせいか、
九州兵に近い性質があるわい。

271 :
>>266
大友が勝った相手って毛利を除けば国人クラスの小大名だけでは?
毛利にしたって外交で包囲網を敷いたから撤退にまで追い込めただけで、戦闘では押され気味。

272 :
大友政戦略>>越えられない壁>>戦術毛利

273 :
大友は何回も攻められまくりの受け身で政戦略もヘッタクレもないだろ?
そうなる以前の状況を優位に持ち込むのが真の政戦略じゃないの?
確かに九州の地を守った。
ただそれだけなんだよな
毛利に対しては大内の残党に援助するだけが精一杯の常に受け身
毛利に九州蹂躙され寝返られまくりの時点で大友の政戦略は間違ってないか?
九州防衛で大友は外交力が凄いとかいうけど俺にはあくまでマイナスから0近くにまで戻した感じ
決してプラスの評価に値しないと思う

でも大友廚はそこにこだわる
よく凌いだね、で終わりだろ普通?
もっと他に「大友やるな」みたいな事ないの?
毛利に連戦連敗、城は抜かれまくり、博多直前でなんとか外交で凌いだ、よかったよかった程度
毛利に損害与えたのは時間の浪費と戦費だけ(時間はかなり痛いが)
外交防衛で鬼の首とったみたいに誇るのは見てて痛々しいぜ
振り出しに戻っただけだろ?
しかも大友は被害を受けた側
もちろん毛利も一時期は九州領有していたが結局得る物はなかったのでプラスとは言えない
戦略>戦術ていうし俺もそう思う。
けど大友の場合、なんか得るものあったか?
失う物のほうが多くなかったか?
毛利によって戦略、戦術共に破綻したのは大友の方じゃない?
結局、龍造寺、島津の台頭に時間を与えたんだから

274 :
別に大友の肩を持つわけじゃないけど
いくら攻め込んで城を落としても、その領有権を維持できないのなら
出征した方が軍費・人員を浪費するだけで無意味なのは
上杉謙信を見ればわかるよね?極地的な戦の勝敗のみで優劣を競うのではなく
結果的にどれだけの領土を維持できたか?が大名の評価でしょ。
外交戦略で最終的に領土を奪還できてるなら、無駄に軍費を消耗しない方が頭いいじゃない。
少なくとも宗麟時代は足利将軍家・織田家・豊臣家と、常に中央の権力者と交信を取って
外交戦術に利用したり、大内やら尼子の残党とまで連絡とって常に毛利の背後を脅かしてる。
それと、俺以外の人も何度か言ってるけど、大友家は近江の六角氏みたいに
重臣(加判衆)の権限が強くて、当主自体の権限は極めて弱かった。
(大友家の直轄値は極めて少なく、経済的にはイメージほど豊かではなかった)
ゆえにちょいとでも油断したり、粗略に扱えば重臣が反乱を起こす。
そういう内患も多い状態で毛利との和睦後も他へ手を回す余力がなかった事
(龍造寺や島津が台頭してくるのは毛利・大友の和睦のずっと後だし。)
を考えないといけない。
それと、後期に南郡衆とかが続々と寝返ったのは
隠居した宗麟がキリスト教に傾倒し、実質的にあまり政務に関わらなくなった事
次代・義統が相当の無能だった事から家臣団の掌握がより疎かになった事が挙げられる。
それでも宗麟の存命中は龍造寺・島津という急成長した勢力に攻められ
壊滅状態になりながらも、家事態は中央に通じることで残したのだから
戦略眼がないってのは言いすぎだと思う。
逆に毛利も北九州侵攻戦で何か得たの?そっちに時間くってる間に
宇喜多・羽柴が勢力伸ばしちゃったのは大友も同じでしょ。君の理屈だと。

275 :
毛利の中国地方は寄り親寄り子制度で国人支配は楽な方
大友や上杉は国人が割拠して反抗的なんだよ。
だから政戦略をうまく使うようになる。
上杉は越相同盟で失地回復のウルトラCをやっている。
毛利は労多くして利無しになり徒労に終わったどころか西部戦線から完全に撤退に追い込まれた完全な失敗。
武は知には勝てんよ。

276 :
>>271
毛利が対大友戦の戦闘で大友側から押されたこともない。
>>274
東国の農奴奴隷制の領土、土地争奪の概念を西日本へ当てはめても
風土の「性」が違うわいのう。そもそも東日本と西日本を同一文化圏と
前提付けるんも可笑しい。
毛利は九州の弱小豪族の依頼で九州や四国へ遠征したわけで、
たいした旨みもないよ。
義統が無能云うより、戦国領主や権力者なんか有能な人物は検出出来ん。
信長も秀吉も家康も権力に取り付かれた裸の王様で、無能に近いんじゃ
ないか。日本の上層権力者なんか、程度は今も変わらんよ。

277 :
>>274
>外交戦略で最終的に領土を奪還できてるなら、無駄に軍費を消耗しない方が頭いいじゃない。
戦費の浪費は私も言っています。
毛利の人員の浪費も0では無いけど負け戦がないし深刻的ではないと思う
むしろ大友のほうが大きいと思う。
最初からそうなら私も同意しますが大友は十分消耗してると思いますよ。
連戦連敗で毛利の進攻を止められないで困った所をなんとか外交で凌いだ形。
しかも毛利に呼応した国人達はそれでも大友に反抗してるからね。
毛利が引いた後も大友は反乱鎮圧に没頭するわけだし、
どうみても大友の方がマイナスだと思う。
というのはそもそも毛利の九州遠征の発端は
先年の毛利の四国遠征を見て北九州の国人達が毛利を頼りにしだして出兵を再三促したのでしかたなしに毛利が乗ったのであって
本気で取る気なら総大将の隆元や元就も九州に渡るではないでしょうか?
(せめてどちらか一人でも)
その点は謙信の関東遠征と違う。
引く時も何の未練もなく城を捨てて引いているので固執してない。
毛利にとってはあわよくば九州を、程度だったのでは?(博多は欲しかったと思いますが)
毛利の損害は軽微でしょ?
でないと引き返してあっというまに残党鎮圧はできないと思うから

毛利に攻められるような事がなければもっと時間も労力も他にまわせてたから龍造寺、島津が台頭する間を与えられなかったかもよ?(これは毛利の東進にもいえる)
実際、龍造寺は毛利方だった時期もあるわけだしね。

>毛利の九州遠征で得た物は何かあったの?
無いとはっきり書いてますが?

それに毛利が戦略的に勝ったと一言も言ってないでしょ?
上にも書いてますが戦略>戦術は私も同意です。
大友が毛利に勝った勝ったと一部の人間が鬼の首とったように言ってるから書いたのですよ。
毛利の九州遠征が実の無い物だったのは貴方に言われるまでもなく誰でも知ってるでしょ?(笑)
他の人も九州ではなく東進してれば、って言ってるしね
かと言って大友が誇れる事でもない、
お互い無駄な時間だったという事ですよ
そして私から見ればどちらかというと大友の方が損(被害)が大きかったと思う
ただそれだけ

278 :
かぶったかw

279 :
>毛利の中国地方は寄り親寄り子制度で国人支配は楽な方
いや中国地方の国人の独立心は強い方だから楽じゃないんだが

280 :
毛利は国人領主から成り上がった勢力なので、邪魔者は遠慮なく
軍備さえ整えば駆逐できる。暗殺も得意ですしね。
小勢力が成り上がる為には多少の悪行も仕方なし、みたいな部分がある。
対して大友は守護大名から戦国大名化した。
代々仕える重臣が権力を占める割合が多く
1人の重臣を誅殺でもしようもんなら、力を持つ重臣連中が
次々離反するという状況の中で、常に重臣連中の動向を監視する必要があった。
どちらが家臣団の掌握に苦心するかと言えば
大友の方がはるかに難しかったと思う。
事実、何度も一門や重臣連中が離反しているし。
忠実な家臣というよりも、同格の同盟者という意識が強かったんだと思う。
宗麟は私財を投じてまで、家臣団の御機嫌伺いをして、家中の掌握に苦慮したって話。

281 :
いまの福島も戦国時代よりちょっと前から国人一揆を組織して
篠河御所を上にいただいて結城氏と対抗してたし
その後は寄子のように葦名→佐竹→伊達と仕えている。
一度地域の主導権を握れば統治し易いのは北条下の東国も東北も中国地方となんらかわらん。
越後や北九州の国人は南北朝時代からの割拠型。

282 :
>>276
>東国の農奴奴隷制の領土
農奴制の東国、奴隷貿易の西国かw
>>280
>代々〜必要があった。
それは戦国大名化できなかったってこと。まあ毛利も国人連合的だけどな。

283 :
戦費と時間を無駄にしたのは両者とも同様だけど
毛利は九州に侵入して最終的に撤退した、門司の帰属はよくわからないが、
大友は一応毛利を退けたけど、
秋月には旧領復帰され、後に北九州で35万石と称されるもとを築かれる、
竜造寺は毛利大友が争ってる隙に勢力伸ばしてしまうし、
大友が滅ぼしたり追放したりした立花高橋は大友が筑前支配のために配した家臣だし、
宗像の所領を半分没収したとはいえ損したのはやっぱり大友な気がする

284 :
大友は外交戦略で毛利を追っ払うことは出来た。
しかし龍造寺・島津といった包囲網を敷くことの出来ない相手には敵わず、滅亡寸前まで追い込まれる。
いくら戦略が優れていたって戦争が弱いって致命的欠点なんじゃね。

285 :
は?

286 :
>>281-282
東日本の親方子方の譜代、被官、名子の主従制縦社会と西日本の
各家族、村落が対等な合議制的一揆の形を採る社会は違う。
列島東西の風土、民族の違いの上に考察せにゃあいけんわい。
毛利氏の勢力が強うなっても、形式上の傘連判方式も国人間の対等の
立場での契約じゃったけんのう。 
東日本は農奴制と共に、奴隷売買も盛んじゃったじゃないか。
上杉謙信の関東侵攻における奴隷市場なんかそうじゃろう。
西日本においては、九州は盛んじゃったよ。戦前まで唐行きさん、娘子軍の
産地じゃけえのう。同じ地方の娘を騙して、海外へ売り飛ばし売春婦に
させる。
>>283
大友氏が毛利氏を戦闘で退けたこたあないど。

287 :
君は知らないようだけど福島国人一揆も対等な傘連判だったわけだがw
傘連判が毛利の専売特許ではないのだよ。
関東諸将が集まっての謙信の小田城奴隷市場は唯一1回だけだった。
その例外中の例外を持ち出すのかね?
しかも食事代負担程度の激安だったし、それに困った小田氏がすぐ降伏してきたら、小田までちゃんと返却してやったし。
関東諸将のいない謙信北陸遠征でももちろん奴隷売買はやっていない。
そもそも龍造寺は大友に勝ったと言えるのかね?
大友が毛利の主兵を引きつけている間に背後を尼子や大内残党に襲わせる軍略と、
朝廷を利用した政略で軍事的にも政治的なも毛利は大友に圧倒されたじゃないか。
最後は背中に火がついた毛利の方が和睦に熱心だったんだぜ。

288 :
>>287
>尼子や大内残党に襲わせる軍略
尼子は信長の援助受けてたけど、大友が関与していたというソースは?
>朝廷を利用した政略で軍事的にも政治的なも毛利は大友に圧倒されたじゃないか。
>最後は背中に火がついた毛利の方が和睦に熱心だったんだぜ。
この辺りも詳細よろしく。

289 :
1559年
毛利元就、吉川元春、小早川隆景が石見出兵中の隙をつき大友、豊前門司城を攻撃
門司救援に向かった毛利水軍の冷泉院元豊、赤川元徳らは柳浦で大友水軍に迎撃され敗死。
9月、毛利隆元が三千を率いて救援に向かい大友義鎮の軍勢を豊前門司城にて破る。
1561年
6月、大友軍が豊前に進撃開始。大友、毛利の全面対決が始まる。
8月、大友の吉弘鑑理、鎮信、鎮理親子勢一万五千は小倉表に着陣。
9月2日、戸次鑑連(立花道雪)、田原親賢、臼杵鑑速らは、和布刈神社近くの城下まで進出し城を攻めた。
また大友義鎮がキリスト教に友好的であっため、インドのゴアから来航したナウ型ポルトガル船が門司城に援護砲撃を行う
9月18日、門司城救援に水軍五百隻、一万の小早川隆景軍が赤間関に着陣。
八千の毛利隆元率いる本隊は防府、大専坊に本陣をおく。
堀立壱岐守、杉彦三郎ら毛利勢八百が関門海峡を突っ切り、門司城に入城
毛利の児玉就方、河内水軍を率い豊筑沿岸を襲撃
大友軍、豊前沼の毛利軍支隊を襲撃
10月、小早川隆景、門司城に入城
石見の福屋隆兼が毛利と大友の争いの隙をつき叛旗。吉川元春がこれにあたる。
10月9日村上武吉、大友軍の後方遮断にでる
同日、大友氏は門司城内の篭城兵の中に田北民部の縁の者、稲田弾正、葛原兵庫助を内応を試みる
しかし前日に発覚し二人は処分され失敗に終わる
10月10日、小早川隆景は前日に処分された二人が生きているように偽装、内応の合図の狼煙をあげ大友軍を誘き寄せる。
大友軍の総攻撃が始まると同時に小早川隆景は城外に出て奮戦。
浦宗勝、児玉就方らは毛利水軍を率いて門司沿岸に上陸、大友軍と激突。
浦宗勝と伊美弾正が一騎討ちを演じ、宗勝の勝利。
大友軍は小早川隆景の罠にはまり苦戦。臼杵鑑速が援護に行くが宍戸隆家に阻まれる。
竹田津則康、吉弘統清、一万田源介、宗像重正、大庭作介ら大友軍多数が討死。
毛利軍は海上から松山城(現在の苅田町)を攻撃
背後を毛利に断たれる事を恐れ大友軍は夜に撤退開始
撤退を察知した小早川隆景は水軍を率い、長躯迂回し黒田原・国分寺原で待ち伏せ。撤退中の大友軍に打撃与える。
松山城、香春岳城を毛利に奪われ豊前一帯は毛利領に
11月、毛利隆元、小早川隆景は門司から福屋攻めにあたっている吉川元春を支援に向かう
1562年
この年、元就は出雲洗合に本陣を移し半永久的な陣城を築き職人や商人を呼び城下町を建設
尼子義久の守る月山富田城の長期包囲作戦を開始する
1563年
1月、大友宗麟は松山城奪回に向かうが毛利軍はこれを撃退
3月、将軍、足利義輝の命で毛利と大友は和睦。
門司城は毛利領、松山城は大友に還付する事で合意。
8月、毛利隆元、急逝し幸鶴丸(毛利輝元)が毛利家当主となる
1564年
7月25日、毛利元就、元春、隆景と大友宗麟が講和の誓紙を交換
1565年
2月、幸鶴丸が元服し将軍、足利義輝から一字をもらい毛利輝元と改名。
1566年
この年は長年に渡って包囲され続けていた月山富田城がついに開城。尼子義久は降伏する。
1567年
3月、伊予の河野道直の救援要請を受け吉川元春、小早川隆景ら毛利軍、二万五千は伊予に上陸
湯月城に入る
4月、毛利と大友の講和破綻。(毛利は大友から破った、とし大友は北九州の諸将の反抗を毛利の差し金だとした為)
毛利軍の先鋒石見国衆、豊前に侵入。(毛利の九州遠征開始)
24日、筑前立花城主、立花鑑載、毛利に通じる。

290 :
立花の叛旗に秋月種実、宗像氏貞ら国人衆多数も呼応。
大友宗麟は元就のやり口に激怒し三万の大軍を立花城に向かわせる。
5月、元春、隆景の両川は各所で宇都宮、四国連合軍を撃破し大洲城を包囲。
宇都宮豊綱は一条康定、長曽我部元親に援軍要請し篭城したが降伏。
豊綱は備後の三原に送られ幽閉される。
救援にきた一条、長曽我部の土佐勢も迎撃され敗退。
宇和の西園寺公広も降伏し伊予平定は完了する。
6月、吉川元春、小早川隆景は一旦軍勢を休めた後、九州へ発向。
7月、大友軍、筑前立花城を攻撃。
毛利の援軍が来るまで持ちこたえられず立花鑑載は自刃。毛利の将、清水左近は長門へ逃れる。
9月、吉川元春、小早川隆景は豊前三岳城を攻略。長野弘勝、自刃。
10月、立花城攻略に備え、筑前馬見城、笠木城を修築
1569年
4月、松山城も攻略した元春、隆景は四万余の軍を催し三岳城を発す
帆柱・若松・芦屋を経て立花城へ向かう一方、水軍を名島に配す
毛利元就、吉田郡山を発し輝元と合流。
本営を長門の長府に設置し九州遠征の諸将を督励する
5月1日毛利軍、立花親続の守る立花城に総攻撃を開始。
宗麟、立花城救援に二万を派遣。
毛利軍と大友軍ついに激突する。
一進一退を繰り返していたが5月18日の戦いにおいて宍戸隆家、熊谷信直、山内隆通ら奮戦し戸次鑑連、五条鎮定らを撃破し大友軍の首級を数百上げる。これにより大友軍、後退。
閏5月3日(この年は閏の為、5月が二回ある)、立花城陥落。城兵全員を助命し退去を命じる。
桂元重が立花城の守備に入る。
6月、京都に潜伏中の山中幸盛(鹿之介)、立原久綱らが尼子勝久を擁立。ひそかに織田信長の援助を得る。
7月、尼子勝久、山中幸盛らが但馬より出雲に侵入。
尼子家再興の激に尼子勢六千になる
元就、月山富田城主、天野隆重の求めに応じ糧食を搬入し鉄砲隊を城内に入れる。
尼子勢、月山富田城を攻撃。
城主、天野隆重はわずか三百の城兵を励まし奮戦し尼子勢を撃退。
尼子勢、月山富田城をあきらめて周辺の諸城を攻略する方針に変更
8月、尼子勢は神辺城を攻略。守城、杉原景盛遁逃。
樽崎豊景、村上亮康ら毛利軍はすぐに神辺城を奪還し井上晧玄を殺害。
8月、高瀬城の米原綱寛、尼子勝久に投降。
10月11日、大友宗麟は大内輝弘を援助しひそかに周防、秋穂浦に上陸させる。
大内軍、山口奉行・井上就貞と藤井淡路守を撃破
10月12日、大内軍、山口乱入。高嶺城を攻撃。
10月15日、毛利軍は九州撤退を決意。
乃美宗勝、坂元祐、桂元重を守りに残し夜、立花城を撤退。
10月18日、毛利軍、長府の本陣に到着。
10月20日、吉川元春は福原貞俊、熊谷信道ら兵一万を率い山口に向かう。(小早川隆景は長府に残留)
10月21日、立花城守備隊も撤退。大友軍立花城奪回する。
大内軍は残党を糾合し五千を越す兵力になっていたが吉川元春が一万の兵で進軍中の報を聞くとたちまち戦意を失い逃亡者が続出。
10月25日、吉川元春、大内輝弘を浮野峠で破る。
大内輝弘、山口を脱出するが富海(防府市)の茶臼山に追い込まれ自刃。
10月28日、元就、輝元、隆景は長府の本陣を撤収し毛利の九州遠征は終了する。
1570年
1月、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景ら両川を率いて出雲遠征に出発。
    ・
    ・
    ・

291 :
※備考
1559年
毛利元就、吉川元春、小早川隆景が石見銀山を奪取すべく尼子方の本城の守る山吹城を包囲していたがその隙をついて大友は門司奪取をはかった。
毛利隆元は一足先に救援に向かい、隆元を助ける為に毛利軍も山吹城の包囲を解き後詰めに向かったが結果的に隆元軍だけで大友を追い返す。
隆元はその後も度々、大友戦で活躍しているので指揮能力はそれなりにあったと思われる。
1561年の門司城攻防戦
大友宗麟は当初門司城は簡単に取れると考えていた。
当時、大尼子が健在で毛利はとても多くの兵を門司に割けないと考えていたからだ。
ところが毛利隆元、小早川隆景の一万八千(諸説あり)の援軍を聞いて驚いたらしい(毛利元就、吉川元春は対尼子)
本州と九州の玄関口、門司がいかに重要だったか窺い知れる。
陸戦では当初五分五分だった。
しかし水軍力の差が大きく完全な制海権をとっていた毛利の陸、海の効果的な連携プレーに大友軍の作戦は後手後手に回ってしまった。
なかなか上手くいかない大友軍は一度戦力を立て直し総攻撃をかけ門司城本丸間近まで迫ったが結局失敗に終った。(かなり落城寸前で危なかったようだ。もし落城していたら守っていた小早川隆景も無事では済まなかっただろう)
毛利隆元に松山城を海からつかれ大友軍は撤退するが小早川隆景の待ち伏せに大友軍は相当危なかったようだ(大将自信刀を奮わなければならないほど危機的状況だった)
最後は救援に駆け付けた佐田が率いる宇佐郡衆の奮戦でようやく大友軍は撤退成功する。
結果的に門司を取るはずが逆に松山城など奪取されて完全な作戦失敗に終った。
毛利軍の水軍の効果的な運用に舌をまいた宗麟はこの敗戦を教訓に水軍に力を入れだした、と言われる。
和睦を結んでいた大友と毛利が再度戦うきっかけになったのは毛利の四国遠征の時だと個人的には思われる
というのも一条を後押しして河野を苦しめたからである
そして両川が四国遠征中に破談も意図的に感じる
もちろん毛利も人の事は言えず九州の国人達にチョッカイを出していたのだがw
ところが宗麟の計算違いは国人衆達の多くが毛利方についた事ではないだろうか?
両川が不在でもこれではとても門司城攻略どころではない。
将軍、足利義昭もかなり慌て松永久秀や織田信長を使って和睦を薦めたが結局失敗に終わる。義昭にしてみたら大友と争わず、毛利にさっさと四国を平らげて自分を助けて欲しかったらしい
☆九州遠征以降
その後も北九州の国人達は度々、大友に反抗している。
高橋など国人衆の反抗は宗麟の自業自得な面も多少なりともあるのだが…
秋月も毛利輝元の支援により秋月城奪還に成功し大友を苦しめる事となる
大友も負けじと尼子、山名、織田などと結んだり村上武吉など寝返らせて毛利包囲網を築き上げる
お互い足の引っ張りあいですなw

大友の外交の妙は287に任せます
私も初耳の尼子援助の件についても

うろ覚えで多少年代が前後したり間違ってる部分もあるかも知れない。
その点は面倒ですが個人個人で修正して下されm(._.)m

292 :
>>287
福島国人の一揆が対等なら、福島は縦社会じゃのうて西日本のような横
社会になったはずじゃが実際そうなっとらん。
http://www2.aasa.ac.jp/people/kanare/1602.htm
http://www.seikei2.juntak.net/2006/1115/handout_1115-2.pdf
上のブログは福島、会津若松の街の風景じゃが、下の方に、「東日本は
有力な家を中心にそこに隷属する人たちで構成された社会だ。これに対し
西日本は、ほぼ同じ力を持った人々が連携することで形つくられた社会を
特徴としている。」会津若松では「東日本型の有力な家が点在する形で
残されている」こと。
下の成蹊大学んは、大林太良氏の『東と西 海と山』の引用文であるが、
8/13の「社会組織の諸特徴と長島の分類」630〜680及び右の73
図からも福島は北日本型(本家分家、非血縁序列あり世襲的の東北日本型)
に属する。西日本でも11/13の九州の東シナ海文化圏は、民俗的にも
韓国に近い。ここには出とらんが、九州は横社会の西日本社会の上に、
儒教の影響等、縦型が重層しとるけんのう。
国人一揆でも基盤となる社会が広島の西日本と福島の東日本じゃあ違う。
さっきフジTV系のサキヨミで中国当局対市民ブロガーの特集で中国では
憲法で言論の自由を保証しながら、民主主義国と全体主義国じゃあ
実状が違うよう(まあ民主主義国同士でも共産主義国同士でも国に
よって違うが)、西日本と東日本の社会組織、民族の違いを無視し、
同一社会幻想をしとるんじゃないか?

293 :
>>292
戦国時代と君があげたリンク先の幕藩体制を経ての幕末以降ではまるで違うだろ。
http://c.2ch.net/test/-/nanminhis/1210524233/34
http://c.2ch.net/test/-/nanminhis/1210524233/35
http://c.2ch.net/test/-/nanminhis/1210524233/36
http://c.2ch.net/test/-/nanminhis/1210524233/37

294 :
つか、毛利にとっては尼子と挟み撃ちにされさえしなければ、それで良かった。
主力に損害を出すことなく目的を達成できており、大友に付いた能島は空気読めてない。

295 :
能島に関しては大友が提示した豊後水道の帆別銭徴収権欲しさに寝返った説と
独立を維持する為に毛利の北九州進出を阻みたかった説がある。
後者が目的だとすると能島も目的を果たしたことになる。

296 :
>>292
そもそも福島県の地理を理解してないな。
会津・中通り・浜通りでまったく風土も気候も習風も違うのに画一的に考えてるね。
>>288
尼子再興軍を織田が支援するようになったのはずっと後なのを知らないヤツ多すぎ。尼子は大友→山名→山名滅亡寸前で織田と支援先を変えまくってる。


297 :
私は289ですが…
>>296
>尼子再興軍を織田が支援するようになったのはずっと後なのを知らないヤツ多すぎ。尼子は大友→山名→山名滅亡寸前で織田と支援先を変えまくってる。

尼子勝久擁立から上月城で尼子残党滅亡まで信長の援助は受けているから信長は最初と言ってもいいのでは?
尼子再興軍、第一回の蜂起は厳密に言うと
京で信長から援助。→但馬→隠岐島に渡って隠岐為清の援助で尼子再興の激を飛ばし→出雲へ
つまり織田信長→壱岐為清の順となる
頑張ったが九州から戻った両川に破れて京へ(蜂起の期間は約二年。その間に受けたのかな?)

1573年末頃
山名豊国を利用して(援助してもらい)再び蜂起(今度は因幡)
両川が来襲した途端、山名豊国は毛利に内応
尼子残党破れてまた京へ

後はご存知の通り秀吉の元へ行く

大友の事は知らん
いつ頃か教えて下され

丹波衆から支援を受けていたなんて話も聞いた事があるな

298 :
>>293
戦国時代と幕藩体制を経ての幕末以降?宮本常一氏の指摘される、
東の党と西の一揆との違いじゃ。
「東日本では本家を中心にして大体その周辺に子方(血縁・非血縁を含め)
が集まって住んで小さい集落をなしているものが多い。東日本に見られた
中世武士の党的結合は、こうした集落がそのまま武力化したもののようで
ある。これに対して、西日本では、末子相続や隠居分家にともなって
財産もほぼ同じように分けられることが多いために、相似た勢力のものが
集まって住む場合は、お互いの結合をつよめるたまには合議が尊重せられる
ことになる。こういう結合様式を一揆とよび、肥前地方に中世初頭以来
根をはって大きな勢力をもった松浦一揆はその典型的なものであろう。
その寄合の席や署名の順序はすべてクジ引きによってきめている」
東国武士団の西国移住や、逆に北畠氏等西から東へ移住した者のおって
東国の主従制と西国の合議制は、相互影響しとるが、建前で先祖以来の
慣習を持ち込んでも、その土着地域の慣習が優勢になる。
ほいで、あんたが挙げた「兵力や戦果捏造しすぎだろう。」は、
書いとる者自体(あんたか?)捏造じゃないか。元就死去時の石高?
秀吉の検地以前に石高たあ何なら?九州ハッタリ文書の多々良浜の戦い
なんか、南北朝期の多々良浜の戦いに似せて造った創作じゃろう。
>>296
福島の相馬ライン、二本松ライン、一番内陸の会津の、どこが違うんか?
地主と小作人の住居が、芸備地方並みに同等な地域でもあるんか?

299 :
http://c.2ch.net/test/-/sengoku/1197266689/454
福島の傘連判について書いてあるな。
いくら否定しようとしても平等な一揆契約があった事実は消せないだろう

300 :
>>299
秀吉の検地以前の石高制たあ何なら?福島各地域の地主と小作人の住居は
どうなら?わりゃあ、わしの質問にゃあ答えんのう。
また、>>293の繰り返しか。福島の傘連判状は形式上、西日本の合議制を
まねただけじゃろう。>>292で云うたよう、その風土地域の基盤となる
社会組織から考察せにゃあ、実例とならんど。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mt_isika.html
奥羽石川氏の場合、●奥羽の戦乱「応永十一年(1404)稲村公方
足利満貞と篠川公方足利満直とに忠誠を誓った傘連判状が交わされた」
と出とるが、西日本の合議制を採り入れながら、忠誠を誓う親方子方
主従制の東日本型の基盤の強さが見られる。風土地域による基盤を
無視して、一揆契約云う書かれてあった建前と実際を混同しても
意味はないど。あんたの論じゃあ、中共は西側民主主義国と同様言論の
自由を認めておるけえ、両者の社会は同一じゃった云う空虚な論理と
同じになるわい。

301 :
>>297
横からなんだけど
信長が京都に入ったのが1568年10月。
1568年に尼子はすでに隠岐に潜伏して機会をうかがい
1569年に出雲に進出してる。
信長はというと1569年1月には三好の反撃を受け、畿内や伊勢で戦ったりと
忙しいんだけど。
この時系列で信長は尼子にどんな支援をしたの?
信長が上洛前に美濃にいた時点で西国の尼子の為に支援をしたって事?
教えて欲しい。

302 :
美作三浦氏は大友宗麟から鹿介経由で塩硝を援助してもらい(1569年?11月19日の書状)、
宗麟に使者を派遣して高田硯を贈っている(1570年)。
1569年2月(6月?)高田城落城、三浦貞盛自刃。香川光景と牛尾・安達等元尼子家臣が入り、城兵五百程度。
7月尼子勝久旗挙げにより尼子旧臣の多い城内は動揺。
8月10日九州から香川春継百八十騎が帰国入城。
宇喜多加勢三千騎、三浦勢千余人が布陣。城内の尼子旧臣の一部が内応するが露見。
10月5日三浦勢が高田城下で合戦、玉串討死。後方の宇喜多勢は参戦せずそのまま引き揚げ。
1570年10月尼子加勢により高田城奪還。
三浦貞広は出雲尼子氏の元で育った。三浦勢の主将は三浦重臣の牧尚春と美作中部の国人(田口氏一門、本来は
三浦家臣ではない)玉串昭則の二人で両人ともかつては尼子に従軍し各地の合戦に参加した経歴の持ち主で
千の軍勢も三浦単独と言うより周辺の尼子残党をかき集めた感じか。
その後も周辺大名が毛利や織田に飲み込まれて次々滅んで行く中、六年間抗戦し続け降伏後も貞広の命は助かった。
北九州〜毛利包囲網においてはある意味利益の大きかった人物のひとりかも。

303 :
>>297はゆとりだから許してやって下さい

304 :
京都で尼子勝久擁立の時(立原だったか山中だったか?)がたしかに信長の援助にこぎつけてるハズだけど詳しい人は教えて下され

305 :
宗麟は義輝に火薬の書だかを献上し
それを義輝が謙信に与えたりと
外交を重視してるよね

306 :
義輝が謙信に与えたのは、宗麟の功績とは関係ない
宗麟の拡大策は伊達稙宗のそれと似ているような気がする

307 :
>>304
それは天正の頃では?

308 :
>>300
福島の傘連判状は形式上、西日本の合議制を
まねただけじゃろう←どうやってマネるんだ。伝播経路は?
1410年の一揆契約では
そもそも公方の事においては五郡談合の儀を以って沙汰せられ〜
と記されていたように
各郡の代表者が談合して公方の事を処理すると言っているように
一揆メンバーは公方に対しても自立した存在であった。
しかも篠川も稲村御所も設立間もないもので実権の無い飾りであり
白川結城氏の後ろ盾がなければ無力な存在である。
当初は伊達も御所を助ける予定だったが関東管領が「郡を献上しろ」と言われ離反している。
名目的に御所を利用して、伊達・白川・結城・葦名ら大国に一揆メンバーが対抗する道具や手段にしていたに過ぎない。

309 :
>>308
西日本において摂津源氏と河内源氏はどちが本家なら?
西日本は横社会で、関東へ行くと本家・分家と宗族制の強い社会になる。
>>300でも東日本の縦社会の「忠誠」云う隷属性よ。
ほいで、>>298の後半の文の答えは無しか?早う答えんかい。

310 :
>>309
>>308で完全に論破されてるのに、それには反論できずに
戦国期とまったく関係ない話に必死にすり替えるなよ。

311 :
>>310
結局、>>298の秀吉の検地以前の石高制や福島県下における各地域の
地主と小作人の住居についての質問に答えとらんじゃないか。
答えられん云うこたあ、完全におどれが論破されとることになるんど。
>>308も、>>300のよう公方に忠誠を誓った縦社会における小勢力の対等勢力
豪族間の連帯じゃ。 
戦国期を考察するにゃあ、前後の時代や地域的差異も考慮せにゃあ
始まらんよ。関係ない話云うんはわれの都合に過ぎん。

312 :
>>311
>>300に出てるリンク先は講談話や伝承、本庄などのなんちゃって記録なども引用してるサイトじゃねーかw
そんなの持ち出して素人か?
一揆契約は公方に忠誠など誓ってないわ。
公方からの指示や交渉事もすべてみんなで相談して返事を出すってことだ。

313 :
>>312
引用を持ち出して不都合でもあるんか?歴史学を考察するんに素人も
玄人もないど。戦国時代を考察するにゃあ、日本古文書から、明の史料を
読めること、更にポルトガル語の原文を読めて、オランダ語
(低地ドイツ語)英語の原文を読んでこそ判ったつもりになるんか?
仮に全部こなせる人間がおっても、ようは、事例をどう解釈するかの
問題じゃろうが。文献史学だけ、かじったけえ解釈できるわけもない。
文化人類学、考古学等、様々な見解から全体的に判断するんが学問じゃ。
伝承にインチキが多いとして、政治権力に関連する公式文書なら事実を
隠蔽するインチキが更に多かろうに。 
研究室で専門分野の勉学に励む机上の空論の馬鹿学者が専門知識で
能書きを云うても、全体的視野に欠ける連中は、ゼロに100掛けても
結果はゼロじゃ。専門家崇拝も東日本的思考者じゃ云うことを現しとる。
学問でも他者との喧嘩でも、戦場でも、視野が狭うなったら負けるど。 
ほいで、一揆側が忠誠を誓わんかった根拠たあ何なら?一揆契約側の
武士団の主従組織形態国人領主と国人衆は、東日本的同族縦社会か
西日本的横型合議制か?

314 :
>>313
そもそも>>299のリンク先の一揆の参加メンバーに石川氏は入ってないのに、関係ない石川氏を引用して何を喚いてるんだか理解不能…

315 :
白馬青牛←こいつくだらない能書きタレてる低脳だからスルーしろって。

316 :
>>314
馬鹿たれじゃのう。>>300で東日本の縦社会の基盤部分を指摘したんで。
じゃけえ、東日本的社会において、合議制傘連判状が文書による
建前か、東日本でも福島に横社会が文化習俗において痕跡があるか
どうかの問題じゃ。じゃけえ、何度も云うが、福島の社会組織に
もたらされた伝統たあ何なら。
>>315
われが自分個人の見解で、一人でスルーするんならええが、他者に
ねんだくるもんじゃあるまい。わしにかばち垂れるんなら>>314氏に
間接的に云わんで、わしに直接云わんかい。ほんま軟弱者は、姑息な
まねをさらすのう。

317 :
毛利輝元の家臣団も西国は横社会ゆえ主家に忠誠の気持ちはまったくなかったってこと?
赤穂浪士の大石内蔵助らも主家に忠誠心なかったの?
意味わからんのだけど…

318 :
>>316
毛利厨て馬鹿ばっかりw

319 :
>>318
古参にそういう煽りは無意味だよ
まあ統一検地の前に石高で比較することや
身分制度が曖昧な時期に小作だ足軽だと線引きするのは無意味だよね
一揆契約とか物騒で景気のいい言葉だけれど、
実体は庄屋さん連合だったり惣や講、檀家さん氏子連の延長という
地縁に依ったものが基本だったりして、規模によりけり。
士農工商を下敷きに考えると戦国時代は測れないよね

320 :
朝日ソーラーじゃけんのぉ〜w

321 :
菅原文太は宮城県出身

322 :
つまり広島には誇れるものが何もないとw

323 :
>>317
赤穂浪士で、討ち入りしたんは46〜47名に過ぎんよ。それ以前の常陸
真壁系義士も多いけえ、東日本的縦社会の影響を無視すなや。
西日本でも、男色関係なら忠誠より愛情の強弱の問題じゃろう。
>>322
広島は、横社会の指揮官のこまかい指示を待たず行動できる独立心の強い
強兵を産んだ地域じゃけえのう。他地域の弱兵と違う自負は持っとるよ。

324 :
なあ、お国自慢は他でやってくれんか。

325 :
>>317
>>323
西国東国云々以前に、近世大名で、しかも江戸期に成立した赤穂藩浅野氏と、
国衆一揆の盟主から成長した毛利氏と同列に論じるのには無理があると思う。
家中形成に至る経緯がまるで違う。
家臣同士(例としては子息の吉川氏と石見益田氏)に相互盟約させ、
その上位権力として「馳走」させる立場にいたのが毛利氏なわけだし。


326 :
>>324
あんたのエリア美濃・尾張は美女を産出するにしても、食は不味い、
秀吉のような馬鹿権力者を産出するぐらいのことじゃ。お国自慢も
出来んのじゃろう。
>>325
マルクス史観の時代を縦に見る発展段階説か。そもそも西日本と東日本を
同一社会と観る認識がこの板の馬鹿たれに多いのう。>>292でも
云うたよう、東西日本は、相互影響があるにしても別社会じゃ。
赤穂浅野氏の例を挙げたんは、>>317氏ど。
子息の吉川氏が家臣?上下関係のみで脳内妄想する東日本人らしい解釈
じゃのう。

327 :
発展段階説とか東西の社会体制の差異とかそういう問題じゃないの。
浅野氏のような、秀吉政権によって取り立てられた(所領を与えられた)大名(赤穂
藩の場合は浅野長政の隠居料を相続して成立)と、在地の国人領主の盟主から
戦国大名として成長した毛利氏とは、大名権力を形成するに至った経緯がまるで
異なるわけ。
吉川氏は当主の一族であり、家臣とするにはやや語弊があったかも知れないが、
益田氏は吉川氏と相互盟約を結び、その過程のなかで毛利氏を上位権力と
して認め、最終的に輝元をさして「屋形様」と呼ぶ関係になっていったことを留意
しておく必要があるということ。
あと余計なお世話かもしれないが、この方言は読みにくくてかなわないので、
せめて標準語でお願いしたい。

別に東西の差異については、網野善彦なども言及しているし、それについては
とくに言及したつもりはないが。

328 :
牛みたいに広島最強という結論ありきで考えてるやつには何を論じても無駄

329 :
>>327
この基地外の牛は東西の違いを戦国や幕末や明治にまで言及してるんで
浅野と毛利は成立過程が違うなんて言い訳はできない。
だいたい何でもかんでも東西の違いを振りかざして事実を歪曲する。
そのくせ矛盾すると、その言い訳が男色愛情とか、せいぜい浅野家臣真壁血統たった47人程度とかむちゃくちゃ恣意的かつ自己中な事を言いやがるw

330 :
牛は広島マンセーしたいならお国自慢板に行けばいいと思うよ

331 :
こんなキチガイはお国自慢板でもお断りします

332 :
牛は相変わらず恥を晒し続けてるな

333 :
東西論ならあれが有名
西の城は瓦や近代装備が結構多いが東の城は土嚢が殆んどとか

334 :
>>333
具体的に書いてくれ

335 :
オレの言いたいことは>>330が言ってくれたから去る。

336 :
>>327
山内氏が輝元に対し、人質を出し渋ったり、検地に協力的じゃないけえ
輝元は「殿下の御下知」と秀吉の権威を借りる始末で、九州出兵にも
出動が遅れ、秀吉から「家臣の言いなりになるけえ、「諸事手遅」じゃと
叱られたけんのう。国衆の城下集住も進まんかったけえ動員に遅れる。
安芸、備後の国衆は、毛利氏に同格意識が強かったけえ、統制力が
弱い。じゃけえ、輝元を権威付けする為、業いったんじゃ。
後藤陽一氏は、「信長、秀吉らがあまりにも強固な封建制をつくったから、
徳川幕府が続いて近代化が遅れることになってしまった。歴史に『もし』は
許されないが、毛利氏のように旧豪族の家臣らの主体性を尊重した
緩やかな方法を採った大名が天下統一していれば、日本の近代化は
もっと早くできただろう」と云われる。
ほいじゃが、西日本の合議制尊重で、天下は難しい。隷属縦社会の東日本型
じゃないと、兵力の動員が常時可能じゃないし、合議尊重型は、共通利害が
ないと組織が解体、解散する方向に進む。毛利も輝元の時代にその芽は
出とる。権威権力の強要は、国衆からしたら偉っそにすなじゃ。
隆景さんが亡くなってからは、毛利中枢部もガタがきたけんのう。
例の石見の益田氏は、慶長四年、領地の配置替えのうわさが立った時、
自分はかねてから妻子を広島へ置いとるゆえ、配置替えになっても益田
付近をと、輝元に訴えるぐらいじゃけえ、温順な方じゃ。
石見人はぶい(純朴)なところがあるけえのう。

337 :
>>329
抽象的に事実を歪曲しとるん云うて、言い訳に終始しよるんは、
おどれら糞外道合唱団じゃ。>>330-335どこの板でゆうても、
わしの勝手じゃ。

338 :
そうか。自分で無駄な叫びと認めたんだな。んじゃそれでいい。

339 :
牛さんがいろんな資料を調べたりして博識なのは十分分かった
でも>>328の人が指摘してるように結論ありきなんだよね
都合のいい資料だけを摘んで最初から決まった結論に近付けてるだけで
そんなに郷里が素晴らしさを伝えたいと思うなら別のやり方があると思うけど

340 :
>>339
郷里が×
郷里の○

341 :
糞牛が地元大好きなのはわかった
だからお国自慢にいくか、自分の日記帳に書くか、その糞汚い方言をやめて標準語を憶えるかしろ
互いに意志疎通を心がけてる中で一人わけわからん言葉で喚いてる奴がいたら滑稽だろう?

342 :
>>338
わしゃあ、わしがどう云おうとわしの勝手じゃ云うただけで、「無駄な
叫び」を云うんじゃ、ゆうた覚えはないど。勝手に捏造すな。
>>339
ほいじゃあ、あんたが、わしにとって都合の悪い資料を提示すりゃあ
ええじゃないか。結論は事例から考察したもんじゃし、過程がないと
結論が出るわけあるまい。わしの言で郷里を誇る部分だけ、摘んどるんは
あんたど。

343 :
>ほいじゃあ、あんたが、わしにとって都合の悪い資料を提示すりゃあええじゃないか。
>結論は事例から考察したもんじゃし、過程がないと結論が出るわけあるまい。
全くもってその通り、なのでレスとか読みたいので口語と文語を分けてくれないか?
本気で読めない
つか>>336の後藤氏のは極論では?
毛利の体制が合議制なだけで、西日本だからとかは違うような希ガス
国人一揆の域を出なかったと言うだけでね
つか封建制は地方分権的な体制で、どちらかと言えば毛利みたいな国人一揆に当てはまるのでは?
信長や秀吉が行ったのは中央集権体制で、これは封建制度とは間逆と思うが
この辺りは詳しくなく誰だっけかの論文の受け売りだから、正しい認識かどーかは定かではないのでお手柔らかにw

344 :
ここは荒らしに構いまくってみんな染まってるスレだな

345 :
そもそも下記文章を牛が、
いや公方に一揆の者達は忠誠を誓ったと主張して歪曲してるのが原因。
しかも関係ない石川氏を紹介するサイトを持ち出す。
1410年2月奥州海道五郡の岩城・白土・好島・諸根・相馬・北口・松口・富口・楢葉・標葉らの傘連判状の一揆契約では
「右条の者は大小の事について堅く相互に見継がれ申すべく候、公方(関東公方)の事においては五郡談合の儀を以って沙汰せられ、私の所務相論は是非に任せてその沙汰あるべく候」
と記されていたように
各郡の代表者が談合して話合いして、公方の事を処理していくと言っているように
惣村のように一揆メンバーは公方に対しても自立した存在であり、個々が勝手に公方と主従関係を結ぶことを禁止してるような文面だ。
これを牛はどう読んでるのか不明だが、稲村・篠川御所に忠誠を誓った主従関係を証明するものだと基地害論を展開してるわけだ。

346 :
それも北九州攻防に何ら関係ないし

347 :
>>343
封建制を、軍事農奴制の面で見るか、地方分散の領主の土地所有として
見るか云うことじゃ。封建制は領主による主従、農奴(自由民はおっても)
の強固な縦関係と云う意味で、後藤氏は、強固な封建制とされる。
合議制は、横関係ゆえ強固な封建制から離れた存在じゃ。
>>345
石川氏の事例からも東日本隷属縦社会の濃厚さが見てとれるが。
ほいで、奥州海道五郡の傘連判状を構成した国人衆は、国人衆の分家や
小豪族に対しても対等に近い関係じゃったんか?しかも現在の福島に
おいての合議制の影響たあ何なら?現代に及んでないなら、合議制も
疑わしい云うことよのう。わしの質問にゃあ全然答えんで、妄想を
繰り返す基地害論はどっちかいのう。

348 :
>>347
君はスレタイも読めないの?

349 :
臼杵鑑速>小早川、吉川

350 :
訂正:
臼杵・戸次>>小早川・吉川

351 :
間に立花・高橋が入ると逆転してしまう不思議な不等式だな。

352 :
>>347
まだここで続けるなら、せめて中国・九州の比較とか、
毛利・大友の分国支配の比較とかにしてくれ。

353 :
難しそうな言葉並べて「俺カコイイ」したいだけで
大した中身じゃナイ事もスレ違いなのも把握した♪

354 :
白馬青牛って基地害だろ?
まず結果がありきで
文意を無視しまくりだろ

355 :
いや、自論を展開するスレッドを間違えてるだけだ。

356 :
このスレの最初の方を見れば分かるが、牛は大友方の資料は根拠が無いと言いつつ、毛利方の資料は盲目的に信用してる奴だからね

357 :
でも多々良浜の捏造は酷いよな

358 :
>>357
>>多々良浜の捏造
詳しく。


359 :
自分で調べろ
時期、期間や後の軍の動きをみるにありえんだろが

360 :
>>356
だったら史料批判すればいいんじゃないの?

361 :
>>352-356
九州のホラ吹き文書なんか。九州は、近代においても、南京事件における
虐殺も隠蔽、第二次長沙作戦で中国国府軍に敗北したことも隠蔽よ。
>>292の下の79図のように東シナ海文化圏の東シナ人じゃけえ、
儒教朱子学の影響の強いせいか、我々大和民族と異なるけんのう。
まあ、九州人の文書は白髪三千丈、隠蔽とホラ吹きが混じっとると考察した
方がええじゃろうのう。
>>358
多々良浜の戦闘なんぞ、南北朝期の多々良浜の戦闘を手本にしたホラ吹き
類型物語に過ぎん。多々良浜で立花文書が如き戦闘があった根拠すら
乏しい。

362 :
>>361
教えてくれて、ありがとう!
多々良浜の毛利家の活躍を鵜呑みにしていたよ。

363 :
ホラというからには史料批判や比較がこのあと展開されるんだろうな。

364 :
>>363
史料批判云う用語も、ランケ流実証史学の用語じゃろうに。
史料批判する側は個人の見解で、共産主義者の云う神の視点による
考察じゃの科学的じゃの客観性なんか無いのに、あたかも実存する
が如く捏造する。
ほいじゃあ聞くが、陰徳太平記における類型説話は元ネタたあ
何なら?物語構成は如何に作成されたんか?

365 :
ということは文化圏の違いって一点だけで毛利側の資料は信憑性があって大友側のは無いって判断してんの?

366 :
>>361
広島弁はやめてくれ!
広島県人として見てて恥ずかしいから・・・。

367 :
後世から歴史を振り返る場合。
神の視座に立つなり説話に拠るなり特定のイデオロギーに拠るなりの立脚点がある。
客観性には差があるだろうが、所詮は他人事だし。
>>364
どの部分がホラなんかおせーて。オレは無学だからわかりやすく頼む。

368 :
>>362
嘘吐き多々良浜の毛利家の活躍云うて何なら?>>365
文化圏だけじゃのうて、>>361で云うたよう、郷土戦記でも、
地域によって隠蔽を好む地域があるけんのう。
>>366
わりゃあねんだくるなや。広島県人として広島弁を恥じる馬鹿は、
郷土制を馬鹿にして喜ぶ癖でもあるんかのう。
>>367
神の視座たあ、大衆を洗脳する形態で、大衆云う非理性的存在と比べ
自分達は理性的神の視座を持っとると妄想する連中に愚弄しただけじゃ。
後世から歴史を振り返る場合、特定のイデオロギーなりの立脚点云うて
何なら?後世じゃのうても、戦前大本営発表の放送は第一次史料で
真実を述べたことになるんか?大本営発表じゃあ米軍に
勝ち続けた日本軍がなんで無条件降伏したんか?
当時の九州の文書のどの部分がホラじゃないと確認出来るんか?
文書の正当性は、考察する側の個人的推論に過ぎん。
確認出来ん以上複合的な根拠から信憑性を求める以外ない。
九州の文書、島津氏の泗川の戦いを額面通り受け止めることも出来まい。
無学以前にあんたが、九州側の根拠の妥当性を提示すりゃあええじゃ
ないか。複合的根拠から。

369 :
毎回、質問に質問で返して解答をしない自分の世界の住人バカ牛の相手をするのは時間の無駄。

370 :
つーか、完全にスレ違いの質問返しはやめてもらいたいもんだ W

371 :
YOUたち、まだ白馬青牛の相手なんてしてんの?
さっさとNGにしちゃいなYO

372 :
知識はあっても知能がない
議論がしたいのではなく自分の意見を垂れ流したいだけ
あおうしはそんな人間の見本

373 :
もう十分だろ
つかageないでくれる?

374 :
虐殺されて慌て九州から逃げだしてやんのwwwwwwざまあwww

375 :
ageんな

376 :
杉氏と立花鑑載・高橋鑑種は気になる。詳しく知らないだけに。

377 :
>>374
誰が九州の弱兵に虐殺されたんか?ハッタリ、ホラ吹き、虚言癖は
九州人の特質じゃが、田舎者は、九州島に引っ込んどれ。

378 :
馬鹿牛?

379 :
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1202371477/

380 :
>>374
毛利厨の広島人だが反論出来ない

381 :
たんなる戦略的撤退だろ

382 :
戦国地図帳って本をコンビニで立ち読みしたけど
16世紀末の地図で豊前は毛利領になっていた

383 :
大まかなら間違ってないんじゃないの。

384 :
あげとく

385 :
白馬氏は大学の先生かなぁ?ちょっと、知識の幅がヤバ過ぎないか

386 :
偏り方もやばいけど

387 :
12月14日に八幡東図書館で、豊前の城フォーラムみたいなのがあるらしい

ソースは、おたふくよりカープが好き

388 :
城井のヤツ?

389 :
裏ドラは男の勲章

390 :
九州の玄関である門司地区や企救郡は、長野支配領?

391 :
門司門司君

392 :
門司氏がいるね♪

393 :
麻生氏は宇都宮系
文字くんは平系?

394 :
門司氏は大友氏初代能直の弟の家系。
ただ大友氏は、同紋衆には、入ってない。
同紋衆は、能直の子孫だけだから。
朽網、鹿子木も同じ。

395 :
訂正
門司氏は大友氏初代能直の弟の家系。
ただ門司氏は、大友家の同紋衆には入ってない。
同紋衆は、能直の子孫だけだから。
朽網、鹿子木も同じ。

396 :
結果的には戦略目的を果たさなかった毛利の敗北。

397 :
戦争とは政策の延長である。クラウゼウィッツ

398 :
>>396
そもそもこれ、どうやったら毛利の勝ちになるんだろうね。
戦場レベルでは勝ってたんだって虚しすぎるだろ。
戦には勝ちました。でも得たものはな〜んにもありませんでした。
まるで旧日本軍。

399 :
なんか朝鮮出兵スレに似てるな
毛利(日本)は負け、大友(朝鮮、明)は勝ち、て言ってるのも
毛利は負け戦がない分、被害はマシか

400 :
朝鮮のは秀吉の死で撤退しただけで外交戦略で負けたわけじゃない

401 :
秀吉が死のうが結局、引いたら負けなんだよ
そういう事を言ってんだろ?
理由なんざ大友側には関係ないのさ
外交戦略負け?
尼子は大友と関係なく動いたんだぜ?
大友が尼子を動かしたとでも思ってるのか?
尼子のおかげだよ
大内輝弘だけならああはならなかっただろな

402 :
結局末期の大内は逸材不足なのか?

403 :
>>402
義興、地下で泣いてるなw

404 :
>>398
わしゃあ、戦利戦略で解釈するクラウゼヒッツの戦争論に反対の立場
じゃ。毛利軍は戦闘に勝ったことと、戦闘にも概ね負けた旧日本軍が
何で同じになるんか?
>>399-400
朝鮮出兵の方が旧日本軍の上層部の拙劣な戦闘に似とる。補給も出来んで
飢餓に苦しむ散々な戦さじゃった。如何に秀吉や光成のような上層部が
無能であったかよ。同じ過ちを先の大戦でも繰り返す。
日本人は夜郎自大で駄目じゃ。日華事変も米軍が参戦せんでも、日本軍が
後何年持つかの時間の問題じゃけんのう。補給を無視しては勝てる戦さも
勝てんし、現地民を慰撫する心がないと住民が敵化して結局撤退することに
なる。
>>401
じゃが戦闘の負けと、戦闘相手以外の外部の勢力による戦略的撤退は
同一視出来んよ。戦闘でガチンコでやって負けた側は負け癖が付く
けんのう。

405 :
は?補給は藩でやるんだよ


406 :
>>404
巣にカエレ

407 :
豊前松山城ってなんか残ってる?
空港に行くたびに気になってんだ

408 :
青牛がくると活性化するが荒れるな

409 :
すぐファビョるからスルー推奨

410 :
北九州最大の遺構は長野で桶?

411 :
毛利も九州や四国に構ってないで、さっさと畿内を押さえれば良かったのに

412 :
日本海航路を押さえ、瀬戸内水運を握るためには下関の対岸の門司、
山陽道の対岸の四国を押さえる必要性あったんだよ
特に対尼子では瀬戸内の水軍を日本海に廻し兵站を確保するのが最重要だったので、
どうしても門司は押さえなければならなかった
その為に筑前や豊前の国衆動かして、大友の影響を排除しなければならなかった
筑前や豊前の国衆からすれば、毛利を利用し支援を期待して大友からの脱却を図る訳で、
その最たるのが肥前の龍造寺
尼子を制して山陽・山陰に目処がついたところで、大友が抑えてる博多に目をつけて、
交易利潤を求めて大友と対峙するも、東からは信長の勢力が拡大して、対大友を断念
それ以降は防衛戦争に必死になりましたとさ

413 :
a

414 :
多田羅

415 :
カス

416 :
ちん

417 :
毛利隆元が結んだ和睦は吉だったのか凶だったのか

418 :
勝った

419 :
http://c.2ch.net/test/-/history/1182505705/i
道雪最強

420 :
大規模な二度に渡る奇襲をした元就側の大敗北により北九州からの完全撤退で幕を閉じた戦役。
また二回の侵攻の間に清水等を将帥にした毛利軍の中規模侵攻がたびたび行われたがことごとく失敗し、秋月、筑紫、原田、高橋、立花、麻生、宗像など毛利派はすべて壊滅。

421 :
いや、毛利の勢力の内部の問題で撤退しただけ。
別に大友が尼子の蜂起を画策したほけではないし。

422 :
すべての失敗や武勇伝において言いわけや屁理屈や捏造、歪曲が存在する元就&政宗w
こいつらの話を真に受けると戦国三傑を超える超名将と誤解することになり、
さらなる厨房が量産されることになるので気をつけましょう。
彼らの敵側には良質な資料がほとんど存在してないので、一方的にウソがはびこってます。

423 :
>>419
やっぱ大友強すぎだよな。
信玄も西国一の道雪の高い武名を聞いて、ぜひ会ってみたいとため息をついたって言うし。

424 :
何で毛利ファンは負けは負けと素直に認められないの?
そんなに完璧じゃなきゃ気がすまないの?

425 :
誰も相手にしてくれないね
残念だったねww

426 :
>>423
立花道雪なんか、浦宗勝さんを闇討ちしょうとた姑息な人物に過ぎん。
>>424
九州勢こそ、負けを素直に認めず、九州人特有のハッタリで誤魔化しよる
けぇのう。

427 :
そもそも超新興勢力の毛利に苦戦する大友がぬるすぎるだろ!
新興勢力対古株勢力が戦って新興勢力の弱い部分が勝手に出てようやく勝てたってどんだけー

428 :
老獪で卑劣な裏切りを続けてきた老人元就が、
盟約を破り北九州に奇襲をかけ上陸してきたが、
まだ経験値がほとんどない若き宗麟に大敗北して何度も中国へ逃げ帰った戦役。

429 :
九州に欲を出して攻め込んだが撃退されても隣が鬱病になった戦いだな

430 :
大友は結果的には撃退できたけど豊前落とされ博多目前まで毛利に快進撃を続けられてイイトコなかったな
そこまで毛利の進撃を防げないってどういう事?
しまいには娘を毛利に差し出す始末
これじゃ龍造寺や他の国人になめられるのは当たり前、裏で毛利に通じるのは当たり前だな
簡単にいうなら九州における大友の威信が失われた戦い
威信をなくし国人はなかなか言う事聞かない

なかなか地盤が固まらない&毛利の脅威に備えて余裕がない

そのすきに龍造寺、島津の台頭

大友王国崩壊

大友残党は関ヶ原では毛利様に援助してもらう立場にまで成り下がる

この戦いからすでに大友の崩壊は決まっていたのだ

431 :
無知は可哀想だな。
そもそも豊前や筑前は大内氏の領地だったから、その地の国人達はあまり大友の言うことを聞いてくれなかった。
大内義長(宗麟の弟)が大内当主になったから仕方なく大友に従ったに過ぎない。
毛利に敗れて威信が落ちたとか無知の小学生の妄想レベルだな。
しかも豊前を落とされってw
毛利が制海権を握ってたから豊前の沿岸を維持してたに過ぎない。内陸部はまったく侵入してない。
もっとも内陸部の山野に入ったらフルボッコされるから怖くて入れないだろうが。
さらに秋月や宗像や麻生など旧大内氏に従ってた連中が毛利に従ったから軽々と博多寸前まで、特に抵抗なく進撃できたに過ぎない。
しかし商都博多は莫大な収入が期待できる地である以上、大友側は絶対死守するつもりだったし
元就の戦略目標も商都博多を奪うことだったはず。
だいたい制海権がない中で豊後府内から博多までの山岳地行軍での補給距離は、旧大内領の山口を支配している毛利水軍に比べて著しく不利な中での敢闘だ。
結局、莫大な戦費を浪費した挙げ句に博多に入ることすらできずに涙ながらに長駆敗走して中国に逃げ帰ったのは元就のほうだった。

432 :
>>431
そういえば国人と大内の下りは俺が昔に無知なアンチに教えてやったなぁw
俺が昔言ってた事そっくりだね
威信についてはお前の言動そのものが物語ってるね
軽々進撃できた時点で大友の威信は十分落ちてるね
そもそも守ってくれない地域の国人達が大友に忠誠誓う訳ないよね?馬鹿なの?
その後の各地の国人鎮圧に大友は四苦八苦してるのに何言ってんの?て感じだねww
威信のかけらもないよね
豊前は言い過ぎだったかもしれんが沿岸部?
ほう三岳城は山城だったと思うけど…ま、いいかww

元就は逃げ帰ったもなにも九州にはまったくタッチしてない
両川、輝元にすべて任せてる
帰国後の戦後処理も小早川隆景がしてるし元就自身は長府本陣に督励に訪れただけ
しかも体調が優れないから帰ってるし
このころの元就は兵を率いたり自身で指揮をとったりしない
寝込んだり起きたりの繰り返しで一線から退いてる
この当時73だぞ?死ぬ二年前だぞ?
さて無知なのはどっちかな?ww

433 :
天文23年10月
大友との盟約を破り毛利2万が怒留湯主水がわずかな兵で守る門司城を奇襲する。
大友1万5000で出陣し10月13日に開戦。
大友が終始優勢で、ついに15日に至り毛利が総崩れで山口へ敗走。
門司合戦に敗北した毛利は大友の侵攻を恐れ、筑紫や秋月に支援を約束して謀反を唆す。
弘治3年7月、大友軍が謀反した秋月を滅亡させる。驚いた筑紫も毛利の支援が絶望的なので自ら城に火を放ち亡命。
永禄元年、毛利2万が再度、早鞆の瀬を渡河し門司城を奇襲。宗麟が戦略外交で幕府の仲介で時間稼ぎをしつつ、尼子と同盟を結び包囲網を構築。
永禄7年、元就は豊前の要衝松山城などを大友に明け渡すことに同意し撤退。毛利秀包に娘を娶せて毛利との和平が結ばれた。
ちなみにこの宗麟の娘が秀包をキリシタンにした。
大友絶頂期が到来。
永禄9年7月、尼子を滅亡させた元就は、また和平を破り宝満城督の高橋鑑種に謀反を唆し、それに伴い毛利3000とともに秋月や筑紫の復帰を後援。
この動きに麻生、宗像、城井、長野、千寿、後藤ら国人が同調。
大友は肥前や筑後の国人が龍造寺の動きを恐れて動員が進まなかったが、筑紫を降伏させる。
秋月、高橋救援に毛利来るの噂により、宗像が立花城を襲撃しようとしたのを撃退。
永禄10年9月大友の撤退を秋月が1万2000で襲撃するも大友側が反撃し痛撃を与え撃退する。
夜になり風雨となり秋月が再度襲撃し、油断していた臼杵、吉弘が混乱敗走するも道雪が混乱を沈静化させる。
永禄11年4月、立花鑑載が謀反し、これに同調し原田も挙兵。
これを受けて毛利は清水左近将監を将として立花救援に大規模出兵し立花城は1万以上に膨れ上がる。

434 :
>>432
>元就は逃げ帰ったもなにも九州にはまったくタッチしてない
>両川、輝元にすべて任せてる
タッチしてないもなにも、元就のいる本州の方で、あっちこっちで叛旗があがり
おっさん一人じゃにっちもさっちも行かないから無理矢理、子供らに惨敗覚悟の撤収させてるのに
全部、ご子息たちの責任みたいな言い方はないと思うよ・・
そもそも約束を完全に破って海を渡って侵略開始したのが全ての原因なのに・・

435 :
筑前博多は大内、少弐の争奪争い以来の最重要拠点。ここを巡り毛利と大友の攻防が始まる。
永禄11年7月4日、道雪の調略で立花城落城。立花鑑載討ち死に。高橋城からからくも脱出した原田、衛藤らは清水とともに中国へ大敗走。
8月、原田、衛藤が立花城奪還を図り、再度、やってきた毛利の将たる清水と5000を集めて襲撃するも撃破される。
清水もなんとか新宮の浜から長門へ落ちた。
前回の戦いのダメージから回復していない秋月は毛利の援軍敗北を知り大友に降伏。
秋月に続き、城井、長野、千手、麻生、宗像らも大友に降伏。
宝満城の高橋鑑種が孤立化。
永禄12年2月、大友全軍をあげて龍造寺討伐を開始し隆信を佐賀城へ押し込む。神代、馬場、八戸、横岳、犬塚、小田、姉川、高木が大友に降伏。
3月毛利4万で門司城奇襲し小倉城に着陣し長野氏の三岳城を落城させる(毛利の味方なのにキチガイ毛利に濡れ衣を着せられ血祭りにされた)
佐賀包囲で隆信はもはや風前の灯火だったが、毛利の侵攻を聞き、隆信と和議を結び大友全軍は博多へ急行。
宝満城の高橋と合流に失敗した毛利が立花城攻め開始。
食糧が尽きた立花城は宗麟の命令で開城。
さてその宗麟は密かに豊後府内に帰って吉岡宗歓の秘策を実行に移していた。
それは制海権を握る村上武吉を買収し、9月に大内輝弘を無事に毛利領へ送り込むことと、若林鎮興に軍船を指揮させ毛利の補給路を断つと言う知略。
見事に村上武吉が見て見ぬフリをしたために大成功し、元就は九州からの完全撤退指令。
ちなみに合戦でも5月18日毛利4万と大友3万5000が立花を巡って決戦をし、道雪が小早川隆景隊左翼に突撃をかけて敗走させたために毛利全軍も敗走していた。
永禄12年11月15日雨天にみぞれが混じり降る寒風の夜に吉川元春を殿に撤退開始。
「士卒大いに凍え疲れ、親を捨て主を跡に置きて、我一にと逃げ行くを小倉の津まで追討。行程十余里が間、死人算を乱せるが如し、今日大友方へ討取る首数3491級」
そして置き去りにされた立花城の毛利軍も降伏。
毛利を待ち続けた高橋鑑種が11月下旬に、ついに大友に降伏し肥前、筑前、豊前の再制圧が完了し立花城には道雪が配置された。

436 :
>>46
>>47
>>289
>>290

437 :
>>433
天文23年は厳島の戦いの前年だぞー
毛利はもう門司まで勢力があったのか?ww
永禄7年に秀包に娘?
おーい、秀包は永禄10年生まれだぞー
>>434
何見て言ってんの?
九州行ってないのに元就が逃げ帰れるわけない、と言ってんだ
責任?何の話だ?阿呆ですか?
>>435
当時、門司は毛利領だぞ
なんで自領を奇襲してんの?

大友主観は結構だがひどいにもほどがある
書いた奴は妄想癖があるかそうとうな馬鹿だな

438 :
結局大友がこの戦いで得たのは宗像領半分のみで
あとは離反した諸勢力を戦前の状態に落ち着かせたぐらいか?

439 :
>>437
頭悪いんじゃね?
九州行ってる息子らを自分の都合で呼び戻したのは元就だろ。って言ってんだよ
誰が逃げ帰ったとかどうでもいいんだよ。逃げ帰る理由を作ったのは最初も最後も元就だろ。って言ってんの
実際、大友との約束を破って侵攻しなければ九州になんか息子らが行く必要もなかったのだし
本州で尼子残党や宇喜多に叛旗を翻されても、自分で鎮圧できたら呼び戻すこともなかったのだから
全部、元就の責任じゃん。阿呆ですか?

440 :
http://mirror.jijisama.org/sangokuzin.htm
戦後朝鮮人による蛮行

441 :
>>439
元就が逃げ帰った、の反論なのに
その流れがわかんねえならチャチャ入れてんじゃねえよ
阿呆がww
それならば>>を付けずに単独で語れよ
関係ないレス付けてんじゃねえよ馬鹿

442 :
>>437
揚げ足乙
元就が総指揮官で毛利は北九州から全軍が敵前逃亡したんだから間違ってないだろ。
あぁ眠くて半寝状態で書いてたから確認とってなかったから天文23年は間違えてたね。隆元と秀包を間違えて書いたな。秀包がキリシタンになったのはほんとだけどね。
別に大友をひいきして書いてはいない。毛利捏造軍記を無視したらこんな感じになるだけ。
尼子や大内の良質な資料がほとんどないに等しいけど、大友家は流罪先の常陸国宍戸で大友義統が膨大な大友家文書を集めて、文書録を編纂したから、
北条並みに資料が充実しており、毛利のガセの言い分がまかり通っていても泣き寝入りの尼子や大内と違い、毛利のウソ捏造による元就100戦以上して無敗という歪曲が大友資料により見事にバレることになった。

443 :
いいわけ苦しいなあww
ネットかなんかで都合のイイトコつまみ食いしただけだろ
自分は知識がないもんだから都合のイイトコ繋ぎ合わせていても矛盾に気がつかなかった
てのが真相だろうなww
寝ぼけても天文23年、なんて普通でないし
過去に秀包の事もニチャンで間違っててのってたからなぁ
もしオレだったら恥ずかしくて二度とこれないねww
厚顔無知とはよくいったもんだね

444 :
>>441
元就が逃げ帰った反論なら、元就は本州にいると説明すればいいだけじゃん
同時に敗戦の責任を息子らのせいにしようと色気出すから
オマエは突っ込まれてんだよ。
いいか?この戦に負けた理由は全て元就の責任なんだよ。例え本人が九州にいなくてもだ


445 :
>>443
お前がどう思おうが勝手だ。
ただクダラン煽りを書くためだけにレスする意味が理解できん。
やはり知性が低いと言うことかな。

446 :
>>444
は?
だから両川にまかせて長府にいる事を書いてるだけでお前が勝手にほざいてるだけだろ
逆に聞くけど元就が九州から逃げ帰った、と書いてあったら九州在陣してると捕らえられるだろ?
責任に関してはお前が一人でほざいてりゃいいだけでオレにふんなよww
>>445
誤解を払拭するには矛盾のない年表を捏造してでも自分のいいように作り直せば?
もし間違ったら「これだった」って普通訂正しなおすよな?
ID:tby4w/Mc恥ずかしい奴
捏造乙ww

447 :
元就が九州在陣してるなんて書いてねーだろバカが。
それをお前が揚げ足をとってように厨房みたいに騒ぎ喜んでるだけにすぎんわ。
こちらは間違いを素直に認めて訂正しただけなのに、お前もう必死すぎて妄想まで考え出してキモいよw

448 :
>>446
材陣してようがしてまいが戦に負けたのは元就の責任だっていってんだよ
それを否定できないなら、
息子らが九州から逃げ帰ってきたのも元就が逃げ帰ってきたのも同じことだと言ってんだよ

449 :
よ、バカID:tby4w/Mc
お前は「長駆敗走して中国に逃げ帰ったのは元就のほう」としっかり書いとるぞww
ま、その話は百歩譲ってオレの勘違いということでいいとして…
間違いなら…
そうだな例えば天文23年ではなく○○年だった、と具体的に言わないと全部お前の捏造だと思われちゃうぜ?
オレはお前を心配して言ってんだよww
あとさ、他スレで「一次史料」とほざいてるけどお前のソースは何史料なんだ?
お前にいわせれば毛利の史料は全部捏造なんだろ?
元就の事とか秀包の事とかの情報ソース教えてくれよ
まさか毛利側の史料を元にしてないよな?ww

ID:tby4w/Mc=真性の阿呆

450 :
>>448
お前まだ理解できねえのか?ww
責任問題は他の奴と語れよ馬鹿か?
お前が言いたいのは毛利敗走の責任は元就、て事だろ?
俺が言ったのは九州に行ってないから元就自身が九州から敗走なんかできない、て事だ
わかったか?何度でも言うぞオレに関係ない話をふるな
責任云々なんぞ何も言ってない俺には非常に迷惑だ

451 :
敗走なんて大友の軍記物ぐらいにしかないだろ
両川が引いた後も毛利大友の戦いは続いていたし

452 :
ねぇなんで毛利が勝った事になるの?
損害少なけりゃ戦略目的果たせなくても勝ちなの?
九州から撤退しといてなんで毛利の勝ちなの?
毛利ファン頭おかしいの?

453 :
個人的には大友毛利は痛み分け
得したのは秋月って感じじゃ

454 :
個人的には大友毛利は
元就の暴走、自滅
大友の巻き添えって感じじゃ

455 :
454
それを痛み分けっていうんじゃねーの?
叩きたくてしょうがないんだろうけど…

456 :
先に攻め込んどいてたたき出されるほうが明らかに負けだな

457 :
珊瑚海海戦、南太平洋海戦と損害レベルでは日本の勝ちだったけど目的を果たせず撤退。
世界でも日本の負け扱い。
なのになんで九州戦は毛利の勝ちになる?
いい加減認めろよ。
いくら優勢に戦おうが戦略目的果たせなきゃ負けなんだよ。
なんか毛利の得たものあったのかよ。

458 :
これって毛利が九州に侵攻してきたのを大友が防衛する戦い??
だったら毛利が九州から手を引いたんやから。。。。大友の勝ちなんやないん??

459 :
お前らに聞くけどよ
毛利が勝った、と誰が言ってるんだ?
誰にむかって言ってんの?

460 :
例えばさ、攻め込んで相手の城を一方的に包囲して
自らが主導権を握ったまま包囲を解いて帰るってんなら
攻め手側勝利って判断もできるわ
でも戦の内容も五分五分だし、逆に城は包囲されてるし、最後は一か八かの撤退って・・
これで勝ったとはさすがに言えないよな

461 :
アメリカ人でさえベトナムはアメリカの負けだって認めてるのに毛利厨キモすぎ。
1万、2万規模の軍勢何ヶ月九州に派遣したと思ってるんだ?
それだけの軍勢集めて動かすだけでも金かかるって言うのに毛利は何も獲るものが無くて九州から撤退。
何度も言うが完全な毛利の負け。
損害レベルでは勝ってたんだってむなしくないの?
それじゃあ旧日本軍のアホ軍人と同じレベルだよ。

462 :
毛利の数度に及ぶ侵攻と大敗
尼子残党がって必死に言い訳するが、大友だって龍造寺のクマーが背後を脅かしていたが、それを絶対に言い訳しないのに情けないアホじゃねーの。

463 :
いや、そもそも元就の統治自体最悪だったんだ
で、もともと棚ボタで領土を拡げたただの土豪だから
広範囲に大局を見渡す戦略眼もなく
だから九州侵攻なんて欲をかいちゃって結果、自滅と
だから>>454で言ってんだ。元就の暴走自滅と大友の巻き添えと
戦が痛みわけとかそんなレベルじゃなく
元就は最初から炎上する運命だったし
その飛び火を何故か海を越えて大友も喰らったというだけ

464 :
だからお前らは誰に向かって吠えてんだ?ww

465 :
そういえば「武田信玄vs上杉謙信vs北条氏康vs毛利元就vs島津義久」スレ
ネットのコピペばっかだったな
どっかで見た事あるからびっくりしたよww
お前ら毛利廚には一次史料で説明しろ、とほざいて
オレのネットのコピペは信じろと?
毛利叩くためにだいぶ収拾したみたいだけどそこまでするお前らはキモいわ
相変わらず年表の矛盾点には気付いてないみたいだけどww

466 :
なんだコイツ?
お前ら誰に向かって吠えてんだ?

467 :
泣きながら毛利厨房が必死になってます。
しかも相変わらず一次史料も出さずに。
毎回一次史料も出さずに一次史料を出せとほざいてます。
相変わらず質問には質問で答えて逃げまくる姿は哀れとしか言いようがない。
以前、一次史料を出したら九州人はウソつき、大友も立花も捏造だらけだと主張して逃げたくせに。
元就は100戦以上して無敗。毛利は無敵の軍。熊見川の戦いで織田軍を撃破したため、秀吉がその時の恐怖が記憶にあり、毛利侵攻を躊躇い続け、やっと毛利領入口の備中に入ったばかりでビビって信長に救援を求めたと盲信する狂信者。
家康に天下を譲ってやったとほざく基地害王で論破されると幕末明治を持ち出す時空警察ぶりを発揮。

468 :
毛利マンセー安西軍策でさえ、
毛利軍九州撤退の際に道雪が元春や隆景の使いに「そちらの陣が御敗軍の由」と発言し、
宗麟が立花城開城勧告で「今度中国勢敗軍のところ」と発言し、毛利側からはそれらになんら反論すらしてないのに毛利勝利ってw
毛利厨はほんと無知だな。

469 :
毛利勝利毛利勝利って、誰も毛利の勝ちなんて言ってなくないか?

470 :
>>469
毛利厨必死乙w

471 :
>>470
お前のほうが必死だろww

472 :
毛利厨の必死さは有名だよ
元就なんて生涯、戦に負けまくってるのに無敗とか勘違いしてる無知だしね

473 :
元就が無敗だと思ってる毛利厨なんて居ないと思うんだけど…。
毛利が無敗って書いてあるレスはあるの?

474 :
つまり
毛利は九州で大友に負けたし
元就は戦に負けまくり
これでOKということですね?

475 :
>>473
お前まじ必死だな。
さんざん無敗だとか朝臣元就>>>信長、秀吉、氏康、義弘、信玄、謙信とか工作しまくってたくせにw

476 :
>>475
お前もキモいぐらい必死に見えるがww

477 :
大友と豊後三老こそ戦国最強!

478 :
>>435
大内再興軍を輸送した若林鎮興はこのあとも大友水軍を育てて、国東半島封鎖戦で、ついに毛利水軍を撃破してますよ。
さらに島津侵攻軍には臼杵城防衛に活躍し、朝鮮役にも出陣。
瀬戸内海の制海権を握ってた分、毛利がチートだったわりにボロボロに負けまくったアホ元就。
しかも制海権の痛感した大友側は努力して1580年あたりには大友水軍を毛利水軍と同等かそれ以上になっちゃってますw
田北紹鉄の謀反が鎮圧された頃、田原親貫が城井鎮房と秋月種実に支援されて叛乱。
毛利が支援で派遣した毛利水軍は大友の名将若林鎮興が大友水軍を率い瞬殺し周防灘まで追撃掃討戦。
毛利の大敗を知り、田原側の城が次々に開城し田原滅亡。
秀吉も大友の手法を学んだのか、来島水軍も1582年には秀吉の調略で織田に寝返る始末。
大友三老(臼杵鑑速や高橋紹運の父である吉弘鑑理)の吉岡宗歓(吉岡長増)や大友水軍育成の若林鎮興は大友の隠れた名将ですね。
ビビり臆した元就が陶と戦うのを嫌がったが、ホモ変態兄の義隆を殺されて激怒していた隆元が強硬に陶に謀反するのを主張したからやむなく。
さらに厳島合戦は因島村上と来島村上の水軍が主力であり、
地理的に因島は小早川と親しく、能島は陶と親しく
来島水軍が去就をハッキリしない時に、元就が来島水軍が味方しなければ、
我々は破滅と泣きの言葉を書いている。
陶が拒否した瀬戸内海水運において元就は大幅譲歩して来島を必死に味方にしたから陶に勝てたにすぎん。
北九州攻防戦では大友の吉岡宗歓にこの点を見事に喝破されて、陶に付いて負けた側の能島の村上武吉の買収に成功させられ、
村上武吉が見て見ぬフリをしてもらってる間に、毛利の船舶による補給ルートの破壊と大内再興軍の無事な中国地方上陸を成功させられ
水軍に頼りきる元就が他力本願で勝った厳島合戦は、
結果として大友が正確に毛利の弱点を認識し周到に謀られ毛利大敗敗走する原因を作っている。
筑前方面の通行税を取る権限を武吉にちらつかせ村上武吉を買収した吉岡は最初、
元就に謀られているのか確認で、筑豊方面の毛利軍へ送る周防の食料貯蔵地を奇襲してみたが、
武吉が動かなかったために元就は大したヤツじゃないと知り計略の成功を予見した。
大友三老が相次いで逝き、自らも余命幾許もない老将の道雪の孤軍奮闘と嘆き「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道である」
大友は毛利撃破で大友黄金期を迎えたが、それを支えた人材が相次いで逝くという悲運に見舞われた。

479 :
大友配下は名将揃いだが、
あちらを立てれば、こちらが立たないと言う
強烈なライバル関係で成り立ってたから
その人間関係を三老の調整力でうまく噛み合わせてたからね。
宗教問題を抱えた宗麟が家督を義統に渡してからの二元政治の迷走ぶりはヒドい。
新興勢力のような大名と違い、いろいろと難しい家だよな大友は。

480 :
どんぐりの背比べ

481 :
>>478
鼻くそヘタレ毛利に勝っても自慢にならんのがなんとも。
なんせヘタレ小早川隆景が明軍に恐れおののいて、
「た…たちばな3000は我ら他家の1万(自分基準で言ってるから要するに毛利精鋭1万)に相当する!先陣をお願い致します」と敵に臆して発言したことからもわかる。
吉川元春に至っては九州から中国地方への大敗走の殿をつとめてボロクソにされたヘッポコぶり。
殿をまともに勤められる武将すらいないのが弱毛利。

482 :
ヘタレ隆景の発言は常に消極的で保身。
己が命は毛利家よりも重い命乞いの達人。
秀吉に内通して主家を蔑ろにした奸臣。

483 :
森勝永を毛利家の養子にって秀吉が言ったら隆景が
「マジ?あんなステキな男の子をですか?すぐ輝元を廃嫡させます」って言ったんだろ。
ホモ隆景は毛利の乱臣賊臣だよな。

484 :
毛利厨じゃなくてもこの煽りっぷりはキモイ
冷静になれよ(´・ω・)

485 :
かまってチャンできっと淋しいんだろw
ま、構ってやる必要もないし
他人にとっては迷惑この上ないがw

486 :
ちょっと痛い子はスレを活性化させるが強烈な痛い子が現れるとスレは終焉を迎える

487 :
毛利のせいにすれば何でも片づくわな

488 :
>>484>>485>>486
毛利厨涙目乙w

489 :
>>486
流れは無視して
おまいの言ってることは正論

490 :
>>486
>>487
>>489
無知の涙目毛利厨がクソレスしかできないから議論すら成立しないからだろw

491 :
毛利弱すぎてワロタ

492 :
元就はただ単に長生きしたから地域の年長者として祭り上げられただけの無能だからね。
無能ボケ老人は利用しやすいからね。
毛利の威令で従ったわけじゃないのは、元就死後にさっそく、三村や宇喜多と相次いで毛利を離反し信長に付き、
麻生や秋月や宗像などがさっそく、龍造寺や島津に付いて毛利を裏切って離反を開始した。

493 :
毛利が大雪の夜間に大敗走した時の
道雪の鬼追撃において、紹運の兄も毛利勢百数十を討ち取ったんだよね。

494 :
西日本最強大名大友!

495 :
跡形も遺らなかった最強って・・・

496 :
そして誰もいなくなった…

497 :
しょうがねぇじゃん
弱義弘をたびたび破りまくった志賀が誤判断で敵前逃亡に当たり、秀吉から改易を食らったんだから。
改易されたから死人に口無しのごとく、調子コイて薩長の卑怯者どもが大友に勝った毛利最強!島津無敵!と捏造マンセーしまくったよねw

498 :
元就の謀略に翻弄されまくりの大友ワロタwwww

499 :
>>498
低脳な釣り乙

500 :
結局大友の弱兵ぶりが証明されただけだったw

501 :
>>500
論破されて悔しいね。

502 :
え?大友は九州最弱だろw島津に負けるわ竜造寺に負けるわで糞の役にも立たないw

503 :
>>502
歴史群像シリーズを読んだだけの無知乙

504 :
>>498>>500>>502
釣れないねwww
サブが必死になって貶してるが誰も相手してくれませんwww

505 :
秋月「なんだまた毛利負けたのか。口先番長元就つかえねぇ!毛利見限って島津に付くか」
島津「こんど大友と同盟して竜造寺滅亡させようかと」
秋月「それ絶対ダメ!俺が竜造寺との仲を取り持つから大友と戦え」
島津「豊後攻略しようかと」
秋月「それ絶対ダメ!大友は博多まず奪わないとムリ筑前攻略優先だ」
筑紫「秋月が大友と和睦するだ…と?クソ秋月め。俺を滅ぼすつもりか!ヤバい娘を高橋に差し出して土下座して秋月を出し抜け」
島津「秋月さん立花城あんなに要害なんて聞いてないよ」
秋月「見ててやるから、早く立花を力攻めしろよ!いや〜島津を利用して宝満城と岩屋城が手に入ったし満足wwwあとは島津がさらに疲弊するのを待って俺様が九州の覇者になるぜって島津敗走かよ使えねぇ」
島津「秋月さんやっぱ初期の計画通り豊後攻略するから協力して。」
秋月「あぁ?ムリに決まってんじゃん。お前の敗走のせいで立花のガキに宝満も岩屋も奪回されたし、筑紫まで敵に回っちまったよカス」
秋月に都合よくさんざん利用されて棄てられた毛利&島津w

506 :
60点

507 :
ロボコン0点

508 :
島津と竜造寺に大敗北の大友弱すぎw

509 :
>>508
具体的なことは一切言えない歴史読本レベルの無知ぶり乙

510 :
秀吉に助けてもらえてよかったねwまー寿命が少し延びただけですぐ改易されちまうから意味なしw

511 :
毛利撃破に功績を挙げた綺羅星の将たち
吉岡長増・臼杵鑑速・吉弘鑑理・立花道雪
毛利の九州での大敗は毛利斜陽の始まり。

512 :
>>510
秀吉軍が来る前に自力で追い返してますが何か?
岩屋城700人に大被害を受け、岩屋をはるかに上回る要害立花城では2000が手ぐすね引いて待ってたが、すでに力攻め不能になって必死に降伏勧告してたくせにwww
だいたい鶴崎城では妙林尼を16回連続大敗して最後は騙されて島津フルボッコされるは、
丹生島では国崩しの砲火の下を逃げ惑いボロボロにされて3日で島津は敵前逃亡してるのに秀吉がいなかったら滅亡?ありえねーよ妄言垂れるなよホラ吹き島津君w
豊後で相次ぐ敗北を重ねまくって疲弊しきった島津が言い訳で「秀吉がやってくるから撤退した」と捏造してるだけなわけだがw
志賀に義弘が連敗したら、志賀は名将だったから仕方ないとか
家久は龍造寺を有馬の砲火で撃破したのを隠蔽して家久すげぇと捏造し、さらに佐伯にも連敗してるのを隠蔽したり
関ヶ原で味方を見捨てて敗走した義弘をすごいと言ったりアホ島津のマンセーぶりはキモいわ。

513 :
守勢にたたざるをえない時点で大友は弱体
お世辞でも強いと言えないな
防衛戦での奮闘なんて全国各地で腐るほどある
どっちもどっちだろ

514 :
あぁ、じゃあ謙信に小田原攻められた北条氏康は弱体化してたのか。
ドイツに攻められたソ連って滅亡したんだっけ?
カルタゴにローマは滅亡させられたみたいだな。
君の歴史は俺の歴史書とは違うことが書かれているようだ。

515 :
なに言ってんだ?
大友は実際弱体化してただろ
大友とソ連を同列におく事自体、あんたは馬鹿じゃないの
大友が毛利や島津に逆襲して攻め滅ぼせる、とでも言いたいのか?w

516 :
は?
具体的には何も書けないんだなw

517 :
自力で押し返せるなら秀吉に助けを請う必要なんてないだろw
秀吉が来てなかったら確実に滅亡してた他力本願大友ワロスw

518 :
卓越した先見性から豊臣大名に臣従しただけだしw
あれど豊臣大名へ臣従しなかったら大友は秀吉に改易される危険性だってあるし、あの行動は間違ってねーよバァカが。
辺境のド田舎蛮族島津なんざ、世の中の流れがまったく理解できずに、必死になって略奪と人さらい人身売買やってたら、
秀吉に滅亡に追い込まれて、つるっぱげにして泣いて命乞い土下座してるしワロスw
どちらが賢いかは火を見るより明らか。

519 :
周防長門を簡単に失陥したのはミスでしょ

520 :
毛利や四国勢も臣従してるのに大友に先見性があるかといえば疑問はあるでしょー。
島津にそれが無かったのは同意見だが。

521 :
あの時秀吉に助けてもらう以外に大友が助かる方法があると思ってんのかw
立花山だって秀吉の援軍が近付きつつあるから撤退しただけだしw長期戦になってたら確実に落城してるわw
大友は防戦ばかりで攻勢に出たら戦略レベルの敗退するし話にならんw

522 :
秀吉が来ないなら島津も無理に力攻めする事もないからな

523 :
島津軍は3、4千程度の毛利の先遣隊が北九州に入っただけで後退し、宗茂の追撃食らって壊走する
ガタガタぶりだったからなあ。
援軍無しでも宗茂なら1、2回は撃退出来そうだったんだけどな。
まあ、それでも援軍来なければ2年もあれば島津が九州統一しただろうけど

524 :
宗茂が大活躍したのは朝鮮出兵のときで国内ではそんなに華々しい活躍してないじゃない
関ヶ原では鍋島にフルボッコだったし

525 :
>>524
17の時に秋月軍8千を留守隊5百で撃退したり、
肥後一揆や、大津攻めでも、まあ目立った活躍してる。
鍋島戦は関ヶ原後に大坂での決戦断られた後、徳川と
和睦交渉中だったんで宗茂自身は戦ってない。
(要するに元から東軍に負けを認めてる状態で攻められてる)

526 :
秋月がどっから8千も兵を集めてくるんだよw
肥後一揆は佐々方の城に兵糧を入れただけだろ。秀吉に絶賛されてはいるが

527 :
まあ、どんな資料も正確とは言えんだろうから実際の数なんてもんは分かるわけないがw
秋月は筑前、豊前の反大友勢力の盟主みたいになってて、当時は36万石におよんでた
と言われてるし、九州征伐時は2万5千の兵を擁してたとされてるから、8千くらいは可能
っぽいんだがな。
肥後一揆の山鹿の兵糧入りは鍋島家が7千の兵で失敗したのを、宗茂は千2百で成功
させてるし、行き道で有働兼元の軍3千を破り、帰り道でも攻めてきた一揆軍を次々と
(俗説で13回)破って帰ったからな。

528 :
>>520
麒麟は織田信長の協力して、相良と島津の和睦でやってきた近衛に船を便宜したり
義輝や義昭とも親しくしてるなど、中央との外交の延長で、秀吉への従属を願い出てる。
先見性がないなんて否定はできないはず。
>>517はこういう外交の連続性を知らない無知が言う言葉w
島津マンセーの小説か歴史読本程度のレベルで何言ってんだwww
>>521
まー弱毛利両川が11月7日から高橋が人質を取っていた豊前宇留津城攻めを開始して籠城兵1000&この地域の男女の生き残った民400を磔にして無意味な大量虐殺をして海に捨てて進軍し、
豊前香春岳の高橋元種(秋月種実の子)をやっと降伏させたのは12月11日と弱毛利の進軍はあまりにトロく遅い遅すぎる。
立花城までの距離はまだまだ籠城する原田氏を始めとして、かなりあるわけだし、
だいたい島津が立花城から敗走したのが8月23日なんだから講談話とは違って現実には豊臣の力なんざ頼りにしてねーよな。
しかも吉川元春は大虐殺をしたあとに急に出来物ができて狂い始めて死んだwww
>>526
秀吉から当分はやるなと命令されてたのに、
佐々の無理やりな検地で反発した肥後国人中一揆といわれるような大蜂起になり
そこら中がすべて敵みたいな中を突破してるんだから宗茂は誉められて当然。



529 :
宗麟を麒麟ってw
ちなみに竜造寺を破った時の有馬は陣から大砲2門
キリシタン船からも2門の大砲で竜造寺軍をフルボッコさせ
隊列を維持できないまでに崩壊に追い込んでる。
また、実家が有馬な大村氏は竜造寺の先鋒を命じられていたが
有馬に内通し、空鉄砲を撃って戦ってるフリをしてるし
菊池旧臣の赤星道半も人質の子を竜造寺に殺され、有馬救援に参戦してる。
相良からも的場自休の有馬支援隊が出ていて豊永金兵衛が先陣争いまでやってる。
これら全部を黙殺して、島津が竜造寺に勝った。島津最強ろ書くのが
島津マンセー本の歪曲捏造。
ほんと厨ニ病のバカしか島津が九州統一できたなんて寝ぼけたこと言わないよwww
博多の町まで焼いてるし、略奪しまくり肥前は深刻な餓鬼状態を生むし、男は殺戮し、女子供は海外に売り払い
裸で市中に引き出して、白目を確認して病気かどうかで値段交渉。
九州全域で反感買ってるしw

530 :
その島津に追い詰められた大友w結局九州最弱の座は不動なのであったw

531 :
厨二病全開のバカ島津厨が暴れてるみたいね。
家久は佐伯地方をまったく攻略できず、佐伯氏の本拠の栂牟礼城にすらまったく辿り着けず、撤退した際は佐伯地方で最大級のフルボッコを受け相良氏の殿が無ければ日向に帰れなかったのが義弘。
筑後口では玖珠衆が集結していた角牟礼城にも派兵した義弘は連戦連大敗。
肥前口入ってすぐの南郡衆の集結した岡城でも志賀が思うままに義弘を翻弄され続けて挑戦状まで送られて見事に大敗。
丹生島では宗麟や臼杵氏の前に3日間怒涛の国崩し集中砲火に阿鼻叫喚の上に逃亡する島津w
鶴崎城では吉岡氏が宗麟のために臼杵地方へ派兵させて、空城だったのになぜか吉岡長増の未亡人妙林尼の前に16回連続大敗し最後は陥れられた島津w
木次城で島津は瞬殺されたから、義統の龍王城はまったく危機感ありませんでしたが?
どこが島津が豊後攻略できそうな雰囲気なんですかね?九州統一できる?バカ言うなよ(笑)
戦力集中して拠点城で籠城しつつ、背後を遮断し補給線を断ち切り、焦土作戦で消耗戦を強いて、
島津は補給もできずに略奪限界がきた&兵の大出血により戦闘員1/3以下にまで低下し軍隊として崩壊してしまったわけだが。

532 :
毛利水軍を破った大友水軍の前に、島津は上陸挟撃を恐れて豊後海岸線に近付くことすらできなかったマヌケぶりだしなw
大友水軍がいるから兵糧に不安もなく宗麟の丹生島は絶対に安泰なんだよ。
だいたい宗麟はずっと病にかかって立てずに寝込んでいてさえ、島津に勝ってしまったわけだよ。島津チョー弱いわw
島津は言い訳して秀吉軍が来るから撤退したなどと歪曲捏造してバカ丸出し。
そもそも秀吉軍の南下があんなに簡単に進んだのも筑前や豊後での大友軍による島津軍への大出血の強要による成果によるところが大きい。

533 :
>>528
豊後でのキリシタン貿易による富を羨望し、誘致したのが平戸であり、のちの長崎。
戦略外交における宗麟の先見性は異常に優れている。
豊後沿岸の地震で沈んだ島々を海底調査をすれば、宗麟の経済政策などいろいろとわかることも多いだろうね。
体を壊し義統に家督を譲る前までの宗麟の辣腕ぶりは凄まじい。

534 :
その理屈で納得する人がどれだけいるだろうねえw
大友単独で追い返せるなんて考えてる奴お前しかいねーよw

535 :
>>534
論破されて涙目だな
Wiki程度の知識しかなく、具体的なことはまったく書けない無知の豚君乙w

536 :
戦略外交に関して優れているのは確かだけど
豊前筑前肥前の豪族を完全な統制下におけなかったのが大友の限界な気がする
まあ豊臣政権下でも佐々や黒田が散々苦労していたのだから当時の大友には強硬姿勢に出れるはずもないとも思うが

537 :
だいたい秀吉のたかが先陣が軽い気持ちで南下した時の弱島津ぶりをみろ。
大友に豊後でフルボッコされた島津にはすでに、組織的反抗力は無かったに等しかったではないか。
蒲生氏郷には「後続部隊がまだ来てねーのにガンガン進んじまった島津弱すぎてワロタw」とバカにされ、
寡兵の藤堂高虎に時間稼ぎとばかりに翻弄させられた弱島津の弱さで、
万が一、秀吉が来なかった場合に島津が再度の豊後侵入したからと言って豊後攻略など、夢のまた夢で絶対に無理だろうね。

538 :
自論で自己満足してりゃいいよw大勢は大友滅亡で変わらねーからw

539 :
>>538
無知は悲しいねぇ。
しかも戦略戦術も理解できないとは。
項羽が破滅し劉邦が天下人になったように
凡人は一見したらスゴそうに見えるものにダマされやすい。
勝ってるように見える中に敗北は常に潜んでいる。
撤退戦略で自らに有利な地を擁して戦力を温存し、敵を自らの手の内に誘引し消耗を誘い攻勢限界にきて弱体化した敵を赤子の手を捻るように壊滅させることこそ上策。
そもそも外交で有利な状況を創造する大政略でもある秀吉の援軍について云々文句を言うなんて、
第一次大戦や第二次大戦においてアメリカに頼ったイギリスが弱かったとでも言うのか?
アメリカが参戦しなかったら大英帝国は滅亡してたとでも?
まったく戦史を理解できてない証拠だな。
近視眼的な戦術的勝利如きでは骨太の大戦略はひっくり返せないよ。
知略の方が武略より優れていることもわからんか?

540 :
こいつ暴れすぎ

541 :
と思ったら荒らしスレに晒されてたかw

542 :
>>ID:UbEcS3/c
ねえねえ、その政戦略のすばらしい宗麟率いる強い大友がなんで弱島津に追い詰められたの?
なんでわざわざ上京までして早く援軍を送ってくれるように秀吉に懇願したの?

543 :
>>542
ねえねえ>>528>>531のどこら辺を指して島津の勝ち判定してんの?
>>540>>541
無知を指摘された挙げ句に論破されて涙目で暴れてるとか言ってるけど、
反論したいなら少しは歴史読本やWikiレベル以下の知識を何とかした方がいいんじゃないのかね?
君達ぜんぜん九州戦国を知らないで語ってるよねw

544 :
お前は荒らしスレで晒されてるほど浮いた存在ってことに早く気付いたほうがいいよw


545 :
>>543
違うよ。あんたが強いという大友が薩摩、大隅まで迫りそうだけどさ
逆に弱島津の方が筑前、豊後に迫ってるのはなぜ?って聞いてんの
理解力ある?

546 :
へぇ〜サンクトペテルブルグやスターリングラードやモスクワに迫られたからロシア帝国やソ連は負けなんだ…すごいルールだねぇ。
戦機が熟するまで逼塞し準備するのも戦略なわけだが。
そもそも専守防衛の指示自体が惣無事令としての豊薩講和を命じた秀吉から出てたからね。
大友が手を出したら島津に惣無事違反の開き直り屁理屈の口実を与えてしまうから、攻められるのを待っていた謀略戦でもあったわけだし。
そーいう罠の仕掛けも理解できない厨二患者が相手だとつまらんね。
まー具体例を挙げた反論が今まで全く出て来ないから、そもそも知識のない無知を相手にしてるのわかってるけど。
WiKiには載ってないからどうすることもできんだろねぇw

547 :
島津を自分の領土に侵攻させたのは謀略だったとか妄想すぎるw
で、結局秀吉頼みだった結論に至るわけだw

548 :
>>546
あのさ、もっともらしい事言ってるけどさ
大友は作戦も何も守勢しか取れないでしょ
それぐらい無知な俺でもわかるよ
ソ連と最初から守勢をとらざるをえない大友と同一視すんなよw
そもそもに近代戦と戦国時代を同列に考える事自体間違っとる

549 :
しかしアンチ大友はひどいな。
少しも論理的・具体的な内容を書けず、
ただ感情だけで貶してるだけだし。
しかしまぁ論破された毛利厨が
島津厨を装って話題をそらせたがってるんだろうな。

550 :
牛呼んでさらに混沌とさせてみたいスレだな

551 :
惣無事令は別に大友の味方でもなければ
島津を敵視してのことでもなく、秀吉は中立的に裁決しようとしてる。
大友は改易への想像力に乏しい盲目島津との戦いの巻き添えを喰って喧嘩両成敗な改易にされないための保険として籠城戦略を取っている。
これは佐竹と伊達の戦いにも当てはまる。
佐竹は惣無事令により、改易への想像力に乏しい盲目伊達に巻き込まれて一緒に改易にならないように、
蘆名支援から手を引き始めた。
蘆名はすでに内部はバラバラで佐竹の重石があったからかろうじて一つの組織として成り立っていた。
秀吉頼みじゃなくて、秀吉による改易回避の選択をしたのであって、毛利や島津を撃退したのは大友に力。
毛利、島津と大物を相次いで撃退した大友の戦力は凄まじい。
島津はザコ相手に勝って略奪しまくり、疲弊もしなかっただけの井の中の蛙。

552 :
篭城戦略w

553 :
病に伏せて寝てるだけで島津を撃破した宗麟公こそ最強大名

554 :
結局、豊後一国安堵で後に改易
最後は毛利の使い走りにまで成り下がり
大友の力ねぇ…大友マンセーしすぎじゃねえ?
宗麟が一大勢力をきづいて輝いていた時期はあったし、実際たいしたもんだ思うけどさ
その宗麟自身、自業自得の結局没落の一途じゃん

555 :
義統が無能だっただけで宗麟は大友氏最大の繁栄を築き上げた名将。
晩年は病にかかり自由がまったく利かないながらも島津を撃破。
改易されたから伊達や毛利や島津のような言い訳擁護や歪曲捏造やマンセーネタが創り出されなかったどころか、
周辺の毛利や島津らから故意に悪く書かれているだけのこと。
改易の原因は死んでた宗麟のせいじゃない。
明の大軍の大挙南下で平壌にいた小西敗走状況での混乱した状況での誤報で戦局判断ミスをして改易の原因を作った志賀親次のせい。
だがな、島津侵攻時は20歳で指揮経験のない寡兵の志賀親次に何度となく大敗した義弘は志賀親次を最高の名将だとマンセーすることで、
寡兵の親次から挑戦状まで出されて応じて野戦で敗走した義弘を擁護するほど島津の捏造ぶりは基地外。

556 :
本日の基地外IDいただきました

557 :
>義統が無能だっただけで宗麟は大友氏最大の繁栄を築き上げた名将。
義統だけのせいにするなよ
その宗麟から二代にわたって没落の一途をたどってるのに宗麟マンセーしすぎだろ

558 :
謙信の鎌倉鶴岡八幡での関東管領就任式の挙行のための小田原侵攻で、北条が小田原籠城した戦略は肯定されるのに
なぜか大友の籠城戦略は非難する基地害アンチがアホ過ぎてワロタ
義統が無能なのは、病で隠居し府内から臼杵に住んで養生していた宗麟に
大友家臣団が政務を再びとってもらうように懇望した事実でもわかるだろうに…アンチは何も知らないにもほどがあるまったく無知過ぎる。

559 :
北条→篭城後、領地回復を見て力温存、戦略とわかる
大友→篭城後、豊後一国?作戦?戦略?
>義統が無能なのは、病で隠居し府内から臼杵に住んで養生していた宗麟に
義統よりましなだけを自慢してなんか意味あるの?
宗麟が養生する前から陰りが出てたのにさw

560 :
えっ?謙信の小田原襲撃の時ってそのあと秀吉がやってきたが領地温存できたっけ?
>>559ってバカすぎだね。
そもそも宗麟に豊後と日向が安堵される予定だったが亡くなったからナシになっただけだし
義統では頼りなし判定喰らっただけ。
筑前防衛した立花を豊臣直臣にしてほしいと願い出たのも宗麟本人。
秀吉の九州仕置きは朝鮮出兵の根拠地にする目的と紛争地帯での再度の紛争防止の
緩衝地設定の豊臣大名入部での領地分けしてる。
宗麟の時代に有力国人・血縁家臣団の謀反が多いから無能とか没落と主張する輩もいるが、
守護大名から戦国大名へ、さらに家臣団への統制を強めて府内中央集権&近世大名化への過渡期にいるので
これはもう仕方がない。
それでも府内大友館への家臣団の集住が成功していたからこそ二階崩れの変が起きたわけだし。
島津の近世大名化は秀吉の力を借りて執行しようとしたが結局は失敗。
島津の江戸期の統治体制も後進的で失敗だったわけだし。

561 :
>>559
天下人秀吉の仕置きがあるんだから、秀吉と戦って領地回復なんてするわけねーだろ屁理屈たれんなバァカ
だいたい府内なんて過去に何度も侵攻されてて、
そのたびに大友館を棄てて高崎山などに籠城したりしてきたのが大友氏の常套手段な戦略だから、
それをもって没落なんて妄言吐くのは、まったく知識がないのに必死に書き込みしてるのバレバレなだけなんだよw

562 :
豊後一国が転落じゃなかったらなんなんだよw
豊後一国で九州の覇者、名将てか?w
秀吉相手?なにいってんの?おめー馬鹿だな
秀吉来る前に島津に取られた版図を自力で取りかえしたなら戦略だ戦術だ、て話にもなるけどよ…
ありゃ秀吉が来るまでの時間稼ぎだろwそういわれてもしかたねぇべ?
だいたい耳川の時、お祈り三昧の宗麟を持ち上げすぎてるお前ら気持ちわるい

563 :
なに言ってんだw
秀吉来る前に島津追撃ついでに筑前の宝満や岩屋を取り返して追っ払ったし
豊後からも完全に叩き出したどころか敗走する島津を佐伯地方で待ち構えてフルボッコしてやったわけだが。
お前なにも知らずに書いてて恥ずかしくないの?

564 :
あとな、秋月が高橋が和睦する予定だったが、それを知った筑紫が秋月を棄てて高橋と婚姻して大友傘下になり、
島津敗走時に筑紫は脱出して自力で筑後の領地を回復してから秀吉に会っているし、
朝鮮渡海用根拠地設営の肥前と共に筑前は博多を朝鮮出兵用に使うために、
代わりに柳川を与えられた宗茂の寄騎に筑紫はして貰ってる。

565 :
ほうほう、ところで宗麟の名前が出て来ないのはホワイ?

566 :
>>563
>秀吉来る前に島津追撃ついでに筑前の宝満や岩屋を取り返して追っ払ったし
失ったものにくらべればささやかなものだ
城一つや二つ奪いかえしたぐらいで誇れるお前が凄い!

>豊後からも完全に叩き出したどころか敗走する島津を佐伯地方で待ち構えてフルボッコしてやったわけだ
「肥後、日向、筑前、筑後と侵食されたけど豊後から追い払ってやったぜ!」
「勢力挽回は無理だけど大友はすげえだろ!」
たいしたもんだ
>>564

これって…
…大友…
…ん?
朝鮮とか関係ないよな?
なに言ってんのかさっぱりわからん
宗茂がどうかしたか?

567 :
>>566
>>一つや二つ奪い返したぐらい
へぇ〜お前の無知な頭の中では2つしか奪い返してないのか?プププ知識がまったくないならもういい加減に粘着すんなよバァカが。
さらに日向は土持領や伊東領であって大友直轄地なんてねーよ。
筑前筑後は秋月が毛利や島津を利用して暴れてたから元々、完全支配なんてしてなかったのも知らんのか。
肥後にしたって龍造寺勢力圏になってたのを島津が奪ったようなもんだよアホが。
ぜんぜんお前には知識がないのにストーカー並みに毎日執拗に自信満々に絡んできてて恥ずかしくないの?

568 :
ぶっちゃけ島津は南郡衆の内応が無かったら豊後どころか肥後侵攻の時点で頓挫してただろ
国力を疲弊させる島津の他人のフンドシ作戦は脅威やわ

569 :
なんだ結局「大友てたいしたことない」と説明してくれたんだね
ありがとうございます

570 :
>>569
完全論破され泣きながら負け惜しみ発言乙w
もうちょっと勉強してから出直しな素人厨房君w

571 :
ヘイ

572 :
>>570
全然関係ない話しといてなに言ってんの?
お前こそ大友衰退の反論になってないぞw
見返してみ
大友衰退に対して「は?」と首を捻るような反論ばかりw
局地戦と趨勢の違いも理解出来んようなドアホがなにほざいてるんだか…
衰退は衰退と素直に認めればいいのに悪あがきしすぎ

573 :
大内とは勢場ヶ原の戦いで死闘を演じたが、毛利とは小手先遊びでツマランのだよな。

574 :
旦過市場が無くなるぞ

575 :
>>572
島津厨こそ素直に認めろよw
島津のどこに勝ち認定できる要因があるんだwww
豊後完全防衛できたのは明白だろ。
はぁ?秀吉が来るまでの時間稼ぎだって?
お前は戦況のタイムテーブルさえちゃんと理解してないよなwww
豊後侵攻失敗敗走→筑前攻略失敗敗走→豊後再侵攻失敗敗走してるのにどうして島津の勝ちなんだwww
下記の話も完全黙殺して逃げたくせにw
まー弱毛利両川が11月7日から高橋が人質を取っていた豊前宇留津城攻めを開始して籠城兵1000&この地域の男女の生き残った民400を磔にして無意味な大量虐殺をして海に捨てて進軍し、
豊前香春岳の高橋元種(秋月種実の子)をやっと降伏させたのは12月11日と弱毛利の進軍はあまりにトロく遅い遅すぎる。
立花城までの距離はまだまだ籠城する原田氏を始めとして、かなりあるわけだし、
だいたい島津が立花城から敗走したのが8月23日なんだから講談話とは違って現実には豊臣の力なんざ頼りにしてねーよな。
しかも吉川元春は大虐殺をしたあとに急に出来物ができて狂い始めて死んだwww

576 :
俺は島津厨じゃなよ
しかし相変わらず六ヶ国にまで勢力を拡げた大友の衰退ぶりの反論になっとらんな
吉川まで陥れるとは正に基地外のきわみw
何故そこまで意地はるのかわからん
六ヶ国から改易までの流れは誰がどうみても名門大友は衰退、没落以外なかろうて
それのどこがいけない?大友最強じゃないといけない理由があるのか?
正直、大友なんてどうでもいい。
ただお前のようなマンセー野郎にヘドがでるから叩いてんだよ

577 :
毛利も吉川も大友と大して変わらんからファビョるなよ
元就の遺産を輝元が食いつぶして中国覇者が防長2ヶ国に閉じ込められたじゃん
吉川は山陰の雄だったのが岩国藩のみ  事実に目を背けるなよ

578 :
これが毛利家の真実だ

毛利元就・・残虐異常快楽殺人者
毛利隆元・・へタレ軟弱息子
吉川元春・・猪馬鹿 生涯無敗(笑)捏造w
小早川隆景・・戦わずに5国譲渡
毛利輝元・・戦国最凶のバカ殿wwwww
毛利秀元・・空弁(笑)
吉川広家・・家康に踊らされたアホ
あまけ
毛利敬親・・そうせい公www


579 :
その調子で大友、島津、龍造寺もお願いします

580 :
勝利の年越し酒でも飲もうか

581 :
>>576
6カ国支配してたのに転落した?
何もわかってないようだな・・・
筑前での立花宗茂の話の時も毛利の援軍は豊前で大虐殺して回って脅してたが、
秋月から養子に入った高橋元種の香春岳城を攻略した時点で
戦力ボロボロでそれ以上の進軍を断念し越冬準備を開始してるのも知らずに語ってるバカぶりだったが・・・
6カ国守護なんて名を持てば実質的にも支配が確立できていたと思ってるなんて超絶バカwww
大友側のまったく微動だにしなかった数々の城を何度も攻めては敗走。
そしてそれら数々の拠点城を策源地とした後方遮断と調略によって、
島津は誰が見ても圧倒的不利で、事態打開の方策もない大消耗戦で
大幅ば戦力低下状態に追い込まれ、豊後で島津に内応した国人たちまでが
大友の調略に応じて見放されてしまい、ついには完璧な孤立に追い詰められ
府内から逃げるほかなくなってしまい
義弘が攻略できなかった岡城を中心にした肥後口は完全に封鎖されてしまう。
島津が相良を殿にさせて日向口から逃避行する際では、
家久がまったく攻略できずに放置した無傷の栂牟礼城を中心とした支城ネットワークの中を
通過しなきゃならず、佐伯領主の佐伯惟定を中心に満を持してこの時を待ち構えていた
捕捉殲滅軍の前に、最後は日向豊後国境の梓峠でほぼ壊滅的被害を受け、
義弘が命より大切にしていた唐物茶入を戦利品まで手に入れ、のちに秀吉に見せている。
この大友による自力での島津敗走への報告を得て、やっと門司に集結を開始し始めていた秀吉軍が
タイムスケジュールを大幅に前倒しして、大急ぎで追撃準備を開始して、島津がとっくに逃げ去った後の豊後に入国し
義統に道案内をしてもらい、日向へ入国したわけだ。
これらの自力島津撃破の大功を評価した秀吉は、立花や佐伯を激賞してるんだよアホ島津厨クンwww
島津最強じゃなきゃ嫌だとか泣いて必死でマンセーして超無知をさらけ出したなwww

582 :
そもそも秀吉は豊前での毛利のボロクソぶりに、毛利じゃ秋月攻略すら無理とみて
専守防衛を命じていたから充分な準備と集結を待ってからの南下を考えており
即、豊後救援なんて考えていなかった。
すると島津が敗走を重ね、ついに豊後から逃走した。
蒲生らも準備が追いつかずに大追撃をしてたので後続が追いつかなかったほど。
肥前で略奪しまくっていた島津は補給も受けられず豊後でも強盗のような集団に成り下がっていた。
家久の1万の軍勢は進入から2ヶ月を経た時点で後方遮断されて必死に城奪回の強攻めなどの愚を繰り返し
すでに半数以上が討ち死になどで戦力外になっていたので軍隊として崩壊していた。

583 :
だから防衛戦を語ったところで衰退の説明にはならんといっとるだろ
頭わりいな、しかも前言579で俺が島津厨じゃない事はわかっただろボケ
お前は無駄に文が長いだけw
戦の勝利がどうした?
俺は島津も毛利も龍造寺も擁護するつもりもない
かつての力はなく九州における大友の勢力図が縮小してる事実に目をそらすな、と言ってんのw
何度言ってもわからんドアホ

584 :
>>583
君の言ってることって具体的な事例がまったく書かれてないから
何を言いたいのかわからないんだよね。
具体的にどの城や国人がどんな推移でどう離散したから
大友の勢力図が縮小したと箇条書きして書いてくれないかな?
対象として誰を指して、結果として勢力図が縮小してると主張してるのかまったく不明だよ?
たとえば、肥前の誰が何年にどのような状況で離散したとか
肥後の誰が誰にやられた際に大友にはどのような防衛義務が存在していたのに
その義務を果たさなかったとか
各国の情勢や取り決めを含めた状況説明をちゃんと書いてくれないか?
まったく内容が書かれず、駄文しか書かれてないから君には説得力がない。
まず具体的・箇条書きで当時の国人たちのことを書いて君の主張の裏づけを示してくれないとね。

585 :
>>584
ゲーム脳の無知しったかをそんなにイジメんなよw

586 :
吉岡長増
毛利の主力軍が筑前に集結しているのを見て尼子の遺臣山中幸盛に
弾薬、鉄砲資金を援助して尼子の侵攻を手助けし、
毛利に下っていた尼子旧臣の米原綱寛に山中幸盛に合力するよう促し成功。
長増は輝弘を送るにあたり、周辺海域を支配している村上水軍の村上武吉を
筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、
この寝返りを毛利元就の策略と疑い、
8月9日に大友水軍の若林鎮興に筑前の毛利軍に送る食料補給基地(周防にある)を
襲わせて村上の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをして、鎮興の攻撃は成功した。
大内旧臣たちに大内輝弘に協力するよう調略を開始し、
さらに豊前小倉城を攻めると流言を流してわざと毛利氏につかませ、
10月9日に田原親宏に小倉城を攻撃させて吉川元春、小早川隆景の注意を釘付けにし、
同日、輝弘に兵を与えて筑前に出兵中の隙を突いて毛利領の周防国に侵攻させた。
毛利氏の強みは村上水軍に守られ、大友が周防.長門を攻撃できないことであった。
これを突破したことは長門に本陣を構える元就を驚愕させる。この策は見事に当たり、
兵がいない周防は輝弘によって次々と侵食されてゆき、驚いた元就は主力軍を全て筑前から撤退させた。

587 :
>>584
だが乙

588 :
どう見ても別人

589 :
毛利弱すぎて笑いが止まらないよね

590 :
>ID:O8CjD3ZA
ほんとだよな
お前がニチャンでしか大口たたけない弱虫チキン野郎のヘタレ、馬鹿、インポ、ゾルジ体以下の小物すぎて俺は笑いがとまらないよね

591 :
まっ何だかんだ言っても毛利は大友に負けまくりなんだけどね。
おかげで疲弊しまくって織田と戦う体力がなくなっちゃったわけだw
信長も運がいい男だ。

592 :
元就のほかにも竜造寺のクマさんにも陶は二ヶ月前に
「文弱であきれたから、もう義隆を除こうと思うんだよね!」ってレターもらってるんだよね。
元就は知らなかったことにしてるけどwww
そんで陶を騙して裏切った元就はクマさんに「大友潰そう」ってレターしたり
相良にも「立花城陥落したぜ〜この機会に大友潰そう」ってレターだしてる。
でも相良は島津対策から大友を選んでる。
元就のこの読み違いぶりは致命的失敗を呼び込んだ。

593 :
もとなりってセコイじじいみたいなイメージしかない
大局が見えないし戦略がない 九州に色気だして攻め込んでみたらフルボッコ
もう嫌だ 今の領土だけでいいやこれ以上欲をかくんじゃないぞって遺言して死ぬ

594 :
ガチの時の大内の強さは異常

595 :
約束や信義がまったく欠如したDQNキチガイ先天性池沼元就。

596 :
君はモラルが欠如しているようだ

597 :
盗賊元就のような一握りの真義なく、
約束は破るためにあると言わんばかりの裏切り人生は、
鳥獣にすら劣る下劣な生き方で、
なんら価値がないゲロ同然

598 :
>>582
島津追撃言っても
肥後を南下した堀や蒲生とかの先鋒部隊は総勢5000くらいしかいなかった。
その程度の軍に追い立てられまくったのが弱島津w

599 :
まあ、今回は大友にも毛利にも島津にも屈しなかった豊前の勝ちと言う事で宜しいかと。
御蔭で落ち武者さんの幽霊が出て、寂しくない‥

600 :
なぜ中世の広島県民は戦争が弱かったのか
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1261316855/

601 :
>>598
すでに謙信の攻勢を前にした北条の小田原篭城を
はるかに上回る知略で大友は島津勢を各個撃破したあとだから
島津にはすでにその程度の侵攻すら迎撃不能になってた。

602 :
豊後撤退時に梓峠で義弘、家久揃って、10分の1以下の兵力の
佐伯惟定に攻められて敗走してるしな。

603 :
最終的に‥
鹿児島県→田舎
山口県→田舎
大分県→田舎
広島県→原爆のバチがあたった。マツダの車は売れない‥
それに比べ福岡、北九州は超大都会。
これは戦略的大勝利と言えますな。

604 :
そんな事言ったら、大都会だった越前の今の惨状は・・

605 :
要は豊前(北九)は4街道の始点であり、攻められやすく、守り難い地だった。
逆に北九州が現在繁栄してる理由のひとつである。
戦国時代には門司の門司氏、小倉の長野氏、築城郡の城井氏、大分県仲津郡、宇佐郡の麻生氏、お隣の筑前麻生氏‥など
いわゆる名族の所領であったが守護の宇都宮城井氏に従い大内家の傘下となる。
豊前に衝撃を与えた事件が起きる。
大内家滅亡後、豊前に侵入した大友宗麟は従わない宇佐衆に対し宇佐八幡宮を焼き払ったのである。
さらに安心院氏、院内(宇佐氏の一族)も滅亡させた。
この事件は天皇の先祖を祭る神社の総本山を焼き討ちし、かつそれを護る一族をも虐殺した大事件であり‥
宇佐神宮大宮司は小倉到津まで逃れたが、豊前の諸将達は宗麟の悪行に叛旗を翻した。
宗麟の悪行は更に続く毛利の松山城責めにくぼて山の山伏達が加担したと言い、山伏を惨殺‥
英彦山に逃れた山伏達は宗麟に徹底抗戦を続けている‥
では毛利氏に対しては一見味方する一族が多いが、豊前の名族達は家の命脈を保つ為に毛利についただけであり、格下の毛利氏に心従したわけではない。
時に毛利についたり、時に大友についたりとしている。
ところで、中世豊前国にいくつの城があったかご存知だろうか?
私の知るだけでも3〜40の城があった。
これは周辺の国の倍以上であり、全てを大友、毛利が攻め取るのは困難だったと考えている。

香春まで進出した毛利軍が撤退した理由のひとつには小倉南区の城砦群の存在があったからかも知れない。

おおーまじにレスしちまったぜ

606 :
↑は俺です。

607 :
ちゃんと調べて見ました。
門司
11
小倉
26
京都・行橋・築上
25
田川

豊前・上毛
14
中津・宇佐
16
計99
はっきり存在しているモノだけでもこれだけあります。
山中の未発見のモノや開発で埋もれた城も沢山あります。
豊前の領主達がいかに防衛に力を注いで来たかおわかり頂けると思います。

608 :
義経参上! 大友も毛利も俺の子分ということで。

609 :
なんか変なヤツらのレスが多いな。
奇矯の友達か?

610 :
三戦板から出てきちゃダメじゃないか。

611 :
毛利VS大友っていうより毛利VS立花道雪と言った方がいいんでない?

612 :
なんで?
元就も輝元も九州いってないのに大友だけ特別扱いですか?w

613 :
大友軍が怖くて遠くで見てたからねぇ
まあ九州に来てたら討ち死にしてたかもしれんほどの鬼追撃を道雪から喰らってただろうね。
なんせ大打撃を受けた小早川軍を先に撤退させた吉川軍はフルボッコされ湊に着く前に崩壊したくらいだしね。

614 :
あれ、吉川って無敗の武将じゃなかったっけ?
道雪もだけど。

615 :
石見銀山や月山富田城でも元春は大敗してるけどな

616 :
無敗の〜なんて大抵アテにならないよ
道雪も元春も勝率が通常の武将よりかなり高いだけで負けてはいる
てか道雪は毛利に負けて宗麟の手を煩わせてるし

617 :
>>616
はぁ?道雪は毛利に負けてねーよタコw
つうか毛利軍を道雪隊の弓兵で恐怖に陥れてやったけどなw
悔しかったら道雪が敗北したとする一次史料出してみろよwww

618 :
毛利厨の言うことに今まで一度たりとも根拠があった試しはない。

619 :
毛利朝臣百戦百勝無敗の神軍!

620 :
毛利厨=チョン

621 :
吉川元春も立花道雪も戦国でも随一の名将だよ。
まあ、政治や人柄とか経験等色々考えると道雪の方が上だろうけど。

622 :
道雪の毛利追撃や多々良浜も嘘っぱちだけどな

623 :
道雪は門司合戦でなんの役にもたたず毛利に敗戦しております

624 :
>>622>>623
と負け犬毛利厨が史料も出せない大ウソ書いてますw

625 :
毛利と大友の合戦は戦術的に押され気味の大友が大内尼子の残党を
けしかける外交戦略でなんとか毛利を撃退ってのが世間(歴オタ)の通説じゃね?
史料とやらは読んだことないけど大体の関連書籍じゃそうなってるぞ
多くの研究者が史料もロクに読まずでっちあげたってこと?
毛利軍が九州撤退後、即効で大内輝弘撃破してるとこ見ると少なくとも撤退戦では
そんな痛手を被ってない様に見えるんだが?
あとこの合戦では宗麟の外交戦略を誉めるべきなのになんか道雪が偉く持ち上げ
られてるけどなんで?単純に立花厨にしか見えないんだけど?

626 :
>>625
多々良浜では立花城をとられた後はに道雪が小早川隆景隊を破ったり
大友が優勢な戦いが多いからな。それで援軍送ろうとした毛利の隙を突いて大内輝弘送って、
撤退に追い込み、吉弘鎮信隊(弟の紹運も所属)が中心に追撃して3491人を討ったとされてる。
4万の兵のうち4千人の被害出しても、3千程度の大内を倒すことは可能だろうよ。

627 :
>>625
史料読んでないどころか地理的な無理解まで晒してるなお前。
大友が押され気味なわけないだろう。
お前の低い知能は単純に大友が九州勢力だから、毛利に北九州に上陸されたから押され気味と言う印象を持ってるだけだろ。
そもそも豊前や筑前は大内滅亡まで大内領だったし、立花などの飛び地以外に大友の直轄領なんてほとんどなく、旧大内勢力反大友の敵対国人ばかりの地。
水軍力の低い大友は山がちの豊後の峰や谷を越えて長駆、筑前や豊前北方へ進軍しなきゃならない一方で
毛利は瀬戸内海水軍を勢力下に長門から隣接した豊前北方へ上陸できる。
豊前と長門の間の海峡は非常に狭い運河であり、兵糧補給の面でも地理的にも毛利勢力の方が非常に近く有利に戦える。
さらに君は高等な外交戦略>>超えられない壁>>戦略的失敗の不利を覆す戦術でしかも、戦略的失敗を戦術的勝利の積み重ねで挽回することはまず不可能なのに
戦術で押されて外交戦略で「なんとか毛利を撃退」っておかしな事を主張してるのは失笑。
毛利が大内を滅ぼす際の約定がありながら元就の一方的裏切り奇襲で落とされた門司城を奪回したのは道雪だし、
門司奪回に大軍で来た毛利に対して、道雪の弓隊の破壊力に押されて毛利の進軍がストップし停滞したのが実態。

628 :
>>626
立花九州ハッタリ文書を根拠に妄想しもつまらんよ。
>>627
実際に立花城は陥落しとるよ。

629 :
>>628
毛利のハッタリ文書の方が信用できねーよアホ牛
またまた日本史板で叩かれて論破され追い出されてきたのかw
お前は戦国の話をしてんのにいきなり太平洋戦争の話にすり替えたり頭がイカれ過ぎだろ精神科医に行けよw
だいたい俺は>>627で立花城の話なんてまったくレスしてねーよ精神がおかしいぞ。

630 :
>>626
戦死者だけで総兵力の1/10って当時の戦としては「大敗」といわれるレベルの物では?
そうなると世間的には大友方の大勝利と喧伝されているはずでは?
>>627
道雪の弓隊の破壊力って・・・それのが失笑だろう
門司城結局獲られたうえに奪回しようとしたら撃退されてるやんw

631 :
>>630
お前の頭には戦傷者数という概念がまったく欠如してる低脳ぶりをさらけだしてますがw
門司城攻防は豊後別府から先に長々と連なる豊前の敵対国人たちの城々の間を縦断しての長距離輸送し続ける負担を嫌った大友側が対陣に見切りをつけて撤兵しただけだし
それらに対して道雪自身が敗れたとか言う話はない。
しかもその後の毛利と大友の戦いは毛利の敗北ばかりで、
最後は水軍を育成してきた大友水軍の前に毛利水軍が大敗してこの長きにわたる戦役は終了してる。

632 :
牛はまず>>600に特攻してこいよwww

633 :
>>631
「討ち取った」んだから3491人は戦死者じゃないの?「討ち取った」というのが戦傷者
込みって意味なら訂正しますよ
毛利の敗北ばかりでって言われても立花城獲ってますが・・・
毛利が立花城奪取→大友が巻き返しを計る→多々良浜でにらみあい→
大内輝弘蜂起→毛利撤退開始って流れじゃないの?
あと門司城奪回したのは道雪じゃなくて田原親宏、親賢では?
大友水軍と毛利水軍の戦いは不勉強にして知りません
よろしければ参考資料を教えて頂けたらありがたい

634 :
>>633
門司城争奪は何回も行われている。
つうか過去レスくらい読んでからレスしろ。
軍事的常識として
戦死者数の5倍以上の戦傷者や戦闘不能者が発生すると言われている。
1/10の戦死者ということは軍隊として崩壊してる。
しかもこの戦死者は吉川の軍であり、
それの前の戦いで小早川軍が道雪に破れて大被害を出している。
大内や尼子の残党を毛利側が都合が良い言い訳にしてるが
実際は小早川の敗北が決定打になってるのは間違いない。
大友との盟約を破り毛利2万が怒留湯主水がわずかな兵で守る門司城を奇襲する。
大友1万5000で出陣し10月13日に開戦。
大友が終始優勢で、ついに15日に至り毛利が総崩れで山口へ敗走。
門司合戦に敗北した毛利は大友の侵攻を恐れ、筑紫や秋月に支援を約束して謀反を唆す。
弘治3年7月、大友軍が謀反した秋月を滅亡させる。驚いた筑紫も毛利の支援が絶望的なので自ら城に火を放ち亡命。
永禄元年、毛利2万が再度、早鞆の瀬を渡河し門司城を奇襲。宗麟が戦略外交で幕府の仲介で時間稼ぎをしつつ、尼子と同盟を結び包囲網を構築。
永禄7年、元就は豊前の要衝松山城などを大友に明け渡すことに同意し撤退。毛利輝元に娘を娶せて毛利との和平が結ばれた。
ちなみにこの宗麟の娘は毛利の再度の裏切り行為のために送られることはなかった。。
大友絶頂期が到来。
永禄9年7月、尼子を滅亡させた元就は、また和平を破り宝満城督の高橋鑑種に謀反を唆し、それに伴い毛利3000とともに秋月や筑紫の復帰を後援。
この動きに麻生、宗像、城井、長野、千寿、後藤ら国人が同調。
大友は肥前や筑後の国人が龍造寺の動きを恐れて動員が進まなかったが、筑紫を降伏させる。
秋月&高橋救援のたまに毛利来るの噂により、宗像が立花城を襲撃しようとしたのを撃退。
永禄10年9月大友の撤退を秋月が1万2000で襲撃するも大友側が反撃し痛撃を与え撃退する。
夜になり風雨となり秋月が再度襲撃し、油断していた臼杵、吉弘が混乱敗走するも道雪が混乱を沈静化させ撃退。
永禄11年4月、立花鑑載が謀反し、これに同調し原田も挙兵。
これを受けて毛利は清水左近将監を将として立花救援に大規模出兵し立花城は1万以上に膨れ上がる。


635 :
筑前博多は大内、少弐の争奪争い以来の最重要拠点。ここを巡り毛利と大友の攻防が始まる。
永禄11年7月4日、道雪の調略で立花城落城。立花鑑載討ち死に。高橋城からからくも脱出した原田、衛藤らは清水とともに中国へ大敗走。
8月、原田、衛藤が立花城奪還を図り、再度、やってきた毛利の将たる清水と5000を集めて襲撃するも撃破される。
清水もなんとか新宮の浜から長門へ落ちた。
道雪との前回の戦いのダメージで軍隊崩壊状態から回復していない秋月は毛利の援軍敗北を知り戦わず大友に降伏。
秋月に続き、城井、長野、千手、麻生、宗像らも大友に降伏。
宝満城の高橋鑑種が孤立化。
永禄12年2月、大友全軍をあげて龍造寺討伐を開始し隆信を佐賀城へ押し込む。神代、馬場、八戸、横岳、犬塚、小田、姉川、高木が大友に降伏。
3月毛利4万で門司城奇襲し小倉城に着陣し長野氏の三岳城を落城させる(毛利の味方なのにキチガイ毛利に濡れ衣を着せられ血祭りにされた)
佐賀包囲で隆信はもはや風前の灯火だったが、毛利の侵攻を聞き、隆信と和議を結び大友全軍は博多へ急行。
(実質的に龍造寺の降伏で、毛利支援を行わない誓詞まで取られた)
竜造寺の援軍がこない&宝満城の高橋と合流に失敗した毛利がやむなく立花城攻め開始。
備蓄食料が少ない立花城では宗麟への使いを出し、食糧が尽きた立花城は宗麟の命令で開城。
さてその宗麟は密かに豊後府内に帰って吉岡宗歓の秘策を実行に移していた。
それは制海権を握る村上武吉を買収し、9月に大内輝弘を無事に毛利領へ送り込むことと、若林鎮興に軍船を指揮させ毛利の補給路を断つと言う知略。
見事に村上武吉が見て見ぬフリをしたために大成功し、大友との戦線の見通しも暗いことから元就は九州からの完全撤退指令。
ちなみに合戦でも5月18日毛利4万と大友3万5000が立花を巡って決戦をし、道雪が小早川隆景隊左翼に突撃をかけて敗走させたために毛利全軍も敗走していた。
永禄12年11月15日雨天にみぞれが混じり降る寒風の夜に吉川元春を殿に撤退開始。
「士卒大いに凍え疲れ、親を捨て主を跡に置きて、我一にと逃げ行くを小倉の津まで追討。行程十余里が間、死人算を乱せるが如し、今日大友方へ討取る首数3491級」
そして置き去りにされた立花城の毛利軍も降伏。
毛利を待ち続けた高橋鑑種が11月下旬に、ついに大友に降伏し肥前、筑前、豊前の再制圧が完了し立花城には道雪が配置された。
毛利マンセー安西軍策でさえ、
毛利軍九州撤退の際に道雪が元春や隆景の使いに「そちらの陣が御敗軍の由」と発言し、
宗麟が立花城開城勧告で「今度中国勢敗軍のところ」と発言し、毛利側からはそれらになんら反論すらしてないのに毛利勝利ってw
毛利厨はほんと無知だな。
大内再興軍を輸送した若林鎮興はこのあとも大友水軍を育てて、国東半島封鎖戦で、ついに毛利水軍を撃破してますよ。
さらに島津侵攻軍には臼杵城防衛に活躍し、朝鮮役にも出陣。
しかも制海権の痛感した大友側は努力して1580年あたりには大友水軍を毛利水軍と同等かそれ以上になっちゃってますw
田北紹鉄の謀反が鎮圧された頃、田原親貫が城井鎮房と秋月種実に支援されて叛乱。
毛利が支援で派遣した毛利水軍は大友の名将若林鎮興が大友水軍を率い瞬殺し周防灘まで追撃掃討戦。
毛利の大敗を知り、田原側の城が次々に開城し田原滅亡。


636 :
ちなみに大友は毛利と対陣してる中で
国東半島の田原本家(義鑑の遺言でも言及してるが、大友最大勢力で代々の田原本家は大友宗家に謀反をたくらんできた)の動向を常に恐れていたという不安要因を抱えていた。

637 :
永禄11年には大友側が北九州での毛利の策動に再上陸を予想し
四国の土佐一条氏や伊予宇都宮氏を煽り、河野氏に対して挙兵させて小早川軍の伊予への派兵に成功している。
このために毛利側は清水左近将監が北九州へ派兵され小早川や吉川らが派遣されないという
大友側の筋書き通りの兵力分散の愚をおかしており毛利派国人たちの中心人物の立花鑑載への更なる毛利の増派も避けられ、
毛利派国人たちの各個撃破に成功し、来るべき毛利大軍の上陸に備える時間稼ぎができた。

638 :
毛利は最終的に得るものは少なく大敗に近いと思う。
ただ旧大内勢力を大幅に弱体化させ周防長門を完全に勢力圏内に入れた点はよかった。
毛利は名家の大内氏を滅ぼしたということを軽く見ていたのが痛い。
自分達は成り上がりだし反感が募る事に対する危機感が薄すぎる。
ただ電撃的に侵攻した点は評価出来ると思う。

639 :
電撃的に侵攻して電撃的に返り討ちにあうのがかっこいいよね

640 :
博多の守りが道雪じゃなかったら、もうちょっといけたかもね

641 :
道雪じゃなくて違う者が守っていても弱毛利じゃ結局は敗走してると思うよ。
なんせ元就得意の和睦して安心させておいて、突如奇襲を繰り返しながら毎回敗北してるからね。
そんな卑怯な真似が高橋氏や井上一族や直情径行無計画な陶やガキ尼子義久のような無能には通用しても
ちょっと野心的すぎるのが傷だけど綺羅星のごとき諸将が補佐する宗麟には通用しねーよ。

642 :
<<634
その崩壊してるはずの吉川軍に大内輝宏瞬殺されてるのは?
小早川の敗北って局地的な小競り合いでは?その後も両軍対峙してるんだし、
有名武将が有名武将を破ったということで過度に喧伝されてる様に見える
門司城争奪戦
大友の将怒留湯主人守る城を毛利軍が陥とす→仁保隆慰を城将
        ↓
仁保隆慰を攻め田原親宏、親賢が奪回
        ↓
小早川軍が再度奪回
        ↓
大友軍、再度奪還を図るも敗北→撤退
上記がおおまかな流れだが、どう見れば大友が終始優勢で毛利総崩れで敗走になるのか
とにかくそのコピペはあまりにご都合主義で説得力皆無
過去レスは当然読んだが今改めて読み返してみると最近立花びいき多すぎじゃね?
ゲームの影響?

643 :
>>642
ほんとお前みたいな毛利厨はミジメだよな〜。
毛利の大軍が帰ってきたって報告を聞いた為に大内残党は勝手に離脱しまくり崩壊しただけなのに必死乙
隆景が負けたのは局地戦とかアホすぎ。
隆景が防衛してた場所が抜かれたために立花城防衛線に穴があき、大友軍に背後に回られる恐怖に陥り全軍敗走したのにw

644 :
>>643
ただ毛利厨いいたいだけやんw あいにく毛利厨じゃないぞ
この戦役は毛利の敗北ってのは事実だし
もういいわ

645 :
だいたい門司は何度も争奪されてるけど
いちいち小規模の細かいのまでカウントする必要ねーし。
だいたい毎回毛利を信用して大友兵を撤兵させて
国人討伐へ派遣し門司が小勢のトコを元就が奇襲して奪って北九州侵略のために大兵を増援してるだけで特筆すべきもんなんかねーし。
それにあんたが言う門司からの大友の撤兵がなんで敗走なんだよ?
敵勢力下の補給活動を回避するために大友は撤兵しただけだし
毛利厨大好き軍記でさえ毛利が大被害を与えたなんて書かれてねーよ。

646 :
>>635
>>(1569年)永禄12年11月15日雨天にみぞれが混じり降る寒風の夜に吉川元春を殿に撤退開始。
結局、伊予国での主導権も隆景は失っちゃうしな。
元亀三年(1572)には大友の後援の一条氏が西園寺も降し主導権を握るが
兼定が讒言を信じたりで自爆して最後は家臣に1573年9月に強制隠居に追い込まれ1574年には四国から追放されちまう。
豊後へ逃げたのちに大友兵を借りての1575年に四国上陸し長宗我部との決戦が天王山だったし。
(一条房家死後に嫡男の房冬がわずか2年で死去し、
その跡を継いだ房基が28歳で自殺し7歳で家督を継いだ兼定ではあるが
相次ぐ当主の死去で一条氏は弱体化していた)

647 :
隆景ってわざと大坂湾で織田に負けたり
戦わずして秀吉に5カ国を譲渡して織田と和睦を願ったり
秀吉が背後を気にしなくてよいようにしてくれて
明智や柴田や家康と戦う秀吉を応援したり
四国九州征伐も先鋒を引き受けたり
老人になっても朝鮮へ渡海して最前線に行ったり
いつから毛利を棄てて、秀吉の家臣になってたんだろね。
秀吉の代わりに明智を選択してたら明智が天下とってたよね。
秀吉に如水がいなくても隆景が内通して背後を固めてれば誰であろうと天下取れてるよね。
秀吉も隆景も才覚が特に優れてるわけじゃないけど
毛利と秀吉が不戦条約を結ぶってことは清洲同盟よりチートだったよな。

648 :
何度も争奪てわりには門司はほとんど毛利が支配しているだろw
何度も撃退されてるしかなり大友側の大将討ち取られてるし
宇佐衆の助けでなんとか逃げ延びたのをお忘れ?
毛利厨、毛利側の史料は信用出来ない、といいつつ
大友側の妄想は全部鵜呑み
かなりの気違いだな
道雪の妄想とかやめてよ、笑えるからゲームだけにしてw
ところでさ大敗北ていうならさ名のある毛利の将てどれだけ討ち取られたの?

649 :
どっちにせよ
戦略的に毛利の大敗は揺るがないんだけどな

650 :

>>648
お前は本当にガチバカだな。
門司城の所属なんて史料少ないし、猫の目のようにコロコロ所属が変わるから
多少の知識ある人間は
>>門司はほとんど毛利が支配しているだろ
なんて迂闊な発言はしねーよアホ。
お前は門司城の攻防の推移をまったく知らないで発言を繰り返してるのバレバレだからw
とりあえず少しわかりやすくまとめてやったから感謝しろや。
まぁ圧倒的に大友側が優勢だけどな。
ただ地理的に毛利側の方が門司に隣接しててめちゃくちゃ有利な反面で
大友側は背反常ない豊前の独立心旺盛な国人たちが豊後の山谷を越えての補給の邪魔ばかりするのが大問題となってるだけ。
毛利が奇襲し怒留湯主水の門司城を奪う→道雪が仁保就定を破り門司城を奪回
毛利が6月に奪回し仁保隆慰を置く→1558年9月田原親宏が奪回→毛利が奪回?再度、仁保就定配置?
1559年3月下旬に筑紫氏が博多へ乱入し大略奪大会
1559年9月田原常陸介が仁保就定から門司を奪うが毛利に再奪回される。
大友側が奪回に動くが基本的には豊前全域の国人討伐がメインで、大友は花尾城や香春岳城を攻める。
最前線の門司城でも一進一退の攻防戦
1560年3月宗麟も後詰めで出馬するが、一方で幕府の仲介工作開始。
1560年9月26日田原親宏や武蔵田原親賢が率いる国東郡衆や宇佐郡衆が門司を攻略し、落ち行く波多野大和守興滋親子を討ち取ったらしい。
12月に牢人決起により門司城が落城し毛利側が仁保隆慰を後任にする。
1561年吉岡臼杵のニ老が北上
2月下毛郡代を勤めてきた野仲鎮兼が旧領仲尾郷・築地村に乱入宇佐郡一帯で暴れ
妙見城督を田原親賢に譲った杉因幡守隆哉も謀反し松山城に籠城し筑紫秋月宗像が挙兵
1561年7月大友側が宇佐宮香春社を焼き討ち
8月田原15000小倉表集結を仁保就定が元就へ急報
9月道雪が花尾城と香春岳城攻略に成功。
9月に豊後水軍が蓑島辺で村上水軍に敗北し海上輸送が頓挫。
築城・上毛・下毛・宇佐で牢人が蜂起し大友の兵糧輸送不安により11月撤退。
宇佐も混乱中なので宇佐郡衆や吉岡や臼杵は小倉南区の貫山を超えて日田に帰り着く。
高橋鑑種が毛利領への調略で成果を挙げたため毛利討伐発向準備を下令するも、
和睦の話が現実味を帯びてきたので中止。
1562年9月道雪が補給線を切り開くため松山城の戦いで毛利を大破。
9〜10月に両軍が中元寺や桜井や柳浦で交戦
10月13日道雪や吉弘が松山包囲のついでに門司郷大里で門司城番や村上水軍を撃破し
城将冷泉五郎元豊や桂兵部大夫元親、赤川助右衛門(又左衛門尉元吉)を討ち取る
大友尼子同盟
松山城の天野隆重もしきりに城番の交代を隆元に願うまで追い込まれる。
これを受けて元就は追いつめられ1563年3月和睦。
和睦の時の門司城の扱いは不明

651 :
1564年4月毛利の唆しで秋月筑紫謀反 7月には彦山も謀反 8月毛利は大友と和睦誓紙を交換しつつ高橋に謀反を勧める背信行為。
高橋は毛利領の国人への調略で成功を収め、毛利領侵攻に自信があったが中止になり、毛利領の国人達に対して面目を失い恥をかいていた。
大友側が幕府に、うわべで和睦のフリしてるだけで和睦条件である九州の国人との関係を切らない元就に圧力を加えるよう依頼。
なお、これ以上の謀反を煽るようなら大内の旧臣たちをこちらも煽ると警告。
まったく改まらない元就に激怒しこの後に実際に大友側にいた大内輝弘を毛利領へ上陸させようとして
中国側の島へ渡海するも、内応した陶や内藤の親大内国人が毛利側に討たれ上陸失敗。
1568年5月20日西大野宮山に籠城していた仁保隆慰らが田原親宏に落とされ
大坂山の杉と西郷も降伏し田原勢は7月に杉七郎重良の苅田松山城攻撃を開始受け
1569年3月両川が門司城を奪い小倉着陣し前年の玖珠郡長野氏の三岳城攻めに続き、三岳城で(企救長野?)長野を攻略し立花へ
立花城攻防戦で大内輝弘の上陸に成功&小早川軍の敗北で攻防戦に大友が勝利。
大友と連動し尼子再興軍の出雲山中とともに浦上宗景と一味した藤井一党も備後方面で毛利へ挙兵
孤立した高橋鑑種が大友に降伏したので高橋の名跡を奪い、腹心の紹運に高橋の名跡を与え
高橋鑑種には代わりに規矩一郡を与え小倉城に高橋鑑種を移す。
門司城の状況は不明
(小倉城に一度は毛利側へ寝返ってから大友に降伏してる危険な高橋が配置されたことから、
目と鼻の先の門司城は大友側だったと言われる。毛利側の史料の追放された高橋を拾って小倉へ配置したってのは大ウソ捏造)
1570年2月大友側として高橋鑑種が門司城を攻撃
門司城の状況は不明
ちなみにもともと小倉築城は住吉神社領吉母浦へ流れついた寄船を利用し掻楯板として毛利側の急造の城
暗黒寺が交渉役として小倉津町衆に外構え70枚を、堀隔子造成は規矩郡中へ申しつけ金具調達は本人
毛利は南条と一緒に堀担当の日野衆を派遣する。
小倉は家久が1570年に伊勢神宮上洛途中に午後2時ころ小倉の町に着き大友統治下の高橋鑑種殿の館を一見したと出てくる。
ほんと毛利厨みたいな無知なヤツは疲れるな。。

652 :
お前こそ馬鹿だな
大友なんか奪回しても一時的なもので結局毛利にすぐ奪い返されるだけじゃねえか
しかも大友の敗戦は抜いてあるし
討ち死にしてる吉弘ら大友の将達が全く書いてない糞文章
お前は毛利厨だの毛利側の史料は信用出来ない、とか言う資格はない
お前のも大友に都合のソースだけで同罪

653 :
>>652
具体的なことをなにひとつ書かずに
逃げまくるのは完璧に無知だからだよねw
反論できるだけの知識がないけど
毛利最強は譲れないとwww
哀れなID:797egx94の醜い毛利厨の姿w
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1208970502/222-224
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1240453594/74-75

654 :
厨厨言うヤツはどんだけ長文書いても信用されないからやめた方がいいと思う

655 :
>>653
結局、お前も反論になってないから笑えるw

656 :
すげー基本的な事なんだけどさー
匿名掲示板だから何言ってもいいって思っちゃダメで
むしろ匿名だから、まともに相手する価値あるかって書き込み内容でしか判断できないから
議論中心のスレでは、実は皆けっこう気を遣いながら書き込んでるんだよね
時々気づいてない人いるけど

657 :
>>655
フフっw
なんら具体例や状況を書き込まないお前のレス内容のどこを反論しろと?
お前の書いた>>652の内容はいったいどこの何を指してるのかまったくわからないんだが?
しかも
結局、お前も反論になってないから笑えるw
上記文章のお前「も」反論

「も」
ってことはさ、
お前は自分が完全に論破されていて
反論できないことを自覚してるってことじゃんw

658 :
逃げる、といいつつ厨厨でお前も逃げてる
の「も」だろ?

659 :
>>658
もはや何が言いたいのか意味不明。
まぁ必死に逃げてるのは理解できる。
ゆえに結局、君がなにひとつ具体的事例を挙げられない事実に呆れるわw

660 :
それお前の事な

661 :
毛利厨って具体例なにも挙げないから信用できないよね
何も書けないってことは知識がないってのもあるだろうし反論できないってのもあるんだろう
実際に長文書いてる人のほうが手間も労力も費やしてるし誠実だし説得力ある 

662 :
毛利厨は史料なんて読んでない単なるwikiだけの知識だけだし。

663 :
>>幕府の権威を傘にでかい顔してたのに、よりにもよって宿敵毛利が将軍おさえちゃったからね
その後は、あっさり信長に乗り換えているよ。
耳側の合戦後の和睦を仲介したのは、信長だし。
明智光秀が出雲・石見は切り取り次第と言い渡されていたとき、
大友氏には周防・長門は切り取り次第と言い渡されている。
ちなみに後継者になった秀吉にも小牧・長久手の戦いの戦勝祝いの使者を
送っている。
島津義久が豊後攻めを躊躇っていたというのも大友と織田・豊臣の関係を考えれば
間違いとはいえないと思う。

664 :
尼子残党軍が蜂起してくれたお陰で命拾いした大友
本能寺の変で命拾いした輝元と一緒だろ
滅亡寸前だったけど棚から牡丹餅的に助かっただけ

665 :
>>664
馬鹿か

666 :
確かに大友が戦略的・外交的には毛利に買ったと思ってるのは大友厨だけだしな
たまたま命拾いしただけだよ

667 :
普通に大友の勝ちだろw

668 :
広島県民は負け惜しみが激しい

669 :
大友宗麟って基本的に馬鹿殿だけど、外交手腕だけはそれなりにあったよ。
立花家&高橋家やその家臣団が優秀だったから毛利は撃退された。
逆に島津相手に両家は出陣してなかったから大敗してるし。

670 :
その馬鹿殿相手に大惨敗した毛利は何なの?

671 :
戦術でいくら勝とうが下手な戦略で全てオジャンになったのって毛利はヒトラーに似てるな。
大友はイギリスのチャーチルなみの外交戦略手腕もってたね。
毛利は何も得るものがないどころか兵2万を何年も動員して経済かなり圧迫しただろ。
あんなことしないで東進めばよかったのに。
イギリスにちょっかい出してソ連アメリカと戦っちゃったヒトラーそのまんまじゃないか。

672 :
うむ、ひととおりよんだが、お互いの戦略目標が違うから
勝ちも負けも違うよ、ってとこだな
毛利はあわよくば博多奪取で大儲け狙いで
手を出したものの得るものは無かった
大友は旧大内領併合できて当たり前(戦国大名的に)ぐらい
だったのに、毛利戦がきつくて涙目
って感じか

673 :
2万人1年間コンビニ弁当食わせたらいくらかかるんだろ。
領土得てなくてもなんかしら手柄立てた奴には金一封やらなきゃいかんし。
輝元も元就の残した負の遺産のせいで備後備中で手こずってたんじゃないだろうか。
そんな状態からたった4年で織田と戦うなんて自殺行為だ。
イギリスソ連と戦っちゃった状態で3年後アメリカと戦ってしまったヒトラーそっくり。

674 :
ただ毛利元就は、世間で言われるほどの高度な政治的判断力はないと思う。
陶氏を排除するだけでいいのに、大内氏の当主まで殺しちゃったから
もう後戻りできなくなっちまった。
大友氏とも全面対決するしかなくなっちゃったわけだ。
そのため、織田氏と対決の際にも背後に敵を抱える羽目になった。

675 :
博多があるのと無いのとではだいぶ違うからなぁ。
大友は織田みたいに物流や人が集まるところを抑えてたから強い。

676 :
筑前や豊前の国人達は大内傘下で
大友と激闘を演じて戦死した人々が多かったから
大内滅亡後に止むおえず大友に属したに過ぎない奴らばっかだったからね。
大友は親兄弟の仇なわけで、毛利がやってきたら喜んでその配下に入ったやつらばかり。
こんだけ有利な状況からボロ負けしまくる元就の無能さは驚き。

677 :
>>638
大敗に近いって言うか大敗なんだけど

678 :
まだADSLも普及してない頃の2ちゃんで毛利の戦略的大敗と書いたら凄い勢いで非難されまくったけど時代は変わったんだな。
○○の戦いで毛利の圧勝、城奪われて毛利のチョウリャクで裏切りも出て何処が大友の勝ちなんだとかワーワー言ってたけど。
広島人なのか山口人なのか知らんけど地元の人をああも妄信的に好きに慣れるのかとちょっと怖かった。
九州に何年も出兵して豪族たちにも工作行っときながら結局撤退というハメになって毛利の勝ちなんてどうして思えるのか不思議でしょうがなかった。
戦闘、損害レベルでは勝ってたんだなんて虚しくない?

679 :
毛利厨は今も病的な基地害だよ。
毛利関連スレでひたすら毛利擁護の歪曲捏造をしまくってる。
でも必ず論破されるけどwww

680 :
毛利厨が史料を持ち出したところすら見たことないしw
あいつらの根拠はすべて小説やコーエー出版物だけ。

681 :
もしくは陰徳太平記な
前に毛利厨が武田家の甲陽軍鑑は信用できないと馬鹿にしてたけど
資料的には大差ない

682 :
>>678
>戦闘、損害レベルでは勝ってたんだなんて虚しくない?
大友の方が損害大きいなんて資料無いんだけどな。
戦死傷者数毛利の方が多い可能性だってある。
なにはともあれ毛利が勝ちなんて思ってるの毛利厨だけだから安心しろ。

683 :
だから厨厨うるせぇってぇのw

684 :
>>678
てか戦闘でも毛利の敗北じゃないの?

685 :
>>684
毛利の大敗だよ

686 :
牛が毛利の大勝利とか言ってたけど嘘っぱちだったのか。
軍事に詳しい人は主張する側と相手側の記録とじゃ随分違うの知ってて照らし合わせる人多いからそういうエコ贔屓はしないと思ったが

687 :
牛なんて広島マンセーのキチガイじゃん

688 :
甲陽軍艦をバイブルに語る「だが」くんと陰徳太平記をバイブルに語る
牛くんはさほど大差ない。

689 :
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/cafe50/1098005625/106



690 :
>>666
志村!逆!逆!
×大友が戦略的・外交的には毛利に買ったと思ってるのは大友厨だけだしな
○毛利が戦略的・外交的には大友に買ったと思ってるのは毛利厨だけだしな

691 :
>>688
糞毛利の陰核太平記と軍艦を同列に語るんじゃねぇカスR!

692 :
陰徳太平記の元ネタである
無敗毛利マンセー安西軍策
この書自体が出典先やソースが不明満載のアホ軍記そのものだからね。
幸いにして、大友や大内や尼子が滅亡したおかげで捏造やり放題だったのが毛利史。
都合が悪い史料が出てくるとキチガイ九州人は捏造ばっかと喚く牛は
論破されるといきなり時代を飛躍させて大東亜戦争の話を持ち出すキチガイ。

693 :
戦国時代の軍記なんてそうそうあてになりませんよ。
情報操作は今も昔も当然行われています。
毛利厨毛利厨うるさいんですよ、あんたらは。
もっと穏やかに論じれないんですか?
荒らして楽しいの?どうなんだよ?

694 :
散々論じた結果、毛利の負けだって結論が出たんだろうが
荒らしてるの負け惜しみ言ってる毛利信者だろ

695 :
安西軍策(ソース不明満載)→陰徳太平記(さらに肉厚な内容になるも、その増加分すら完全にソース不明)
毛利関連のwikiにしてもこれの軍記内容を、さも事実であるかのように堂々と書きまくってる恥知らずっぷり。
毛利の歴史は一次史料ではなく、出典不明の逸話満載で捏造しまくりの脳内妄想電波型ストーリーw
膨大な逸話からして出典不明だからたちが悪い。

696 :
>>693
その軍記ソースにして荒しまくったキチガイ牛や数奇屋に言ってくれ

697 :
毛利勢は調略で大友の城を相次いで切り離したのに立花道雪に相次いで攻め落とされてる。
さらに吉川と小早川の精鋭部隊を送ったのに、これも散々に蹴散らされてる。


698 :
毛利厨じゃないけどおまえら大友厨も大概だなw

699 :
そもそも人気がまるでない大友。
ゆえに大友厨なんて存在しないわけだが。
毛利厨は見えない敵と戦ってるようだw

700 :
牛が多々良浜は毛利の大勝利と言ってたけどググってみたら
宗麟の謀略で大内輝弘が山口で武装蜂起。
毛利勢撤退→大友勢追撃→毛利勢3491人が討ち取られる。
毛利は立花山城に乃美宗勝、桂元重、坂新元祐の三将を残したが11月9日降伏
毛利方についた筑前の国人領主たちも降伏。
どっちのファンでも無い埼玉人の俺から見ても毛利の勝ちというのは虫がよすぎると思う。
詳しい年月は知らんけど何年も1万以上動かして何も得るものが無かった無様な負けとしかおもえない。
何か毛利の得たものあったの?
いくつかの戦いで勝ってても結局、戦略目的達してない毛利の負けでしょ。

701 :
普通に考えたらそうだよな
牛は何を持って大勝利と言ってるんだろうか

702 :
勝ったと言えるのは秋月ぐらいだろうな
毛利は攻め込んで豊前筑前の豪族大量離反させいくつもの城を落としたものの最終的には撤退
大友は攻め込まれて豊前筑前を荒らされいくつもの城を落とされたものの
外交により毛利を撤退させ離反した勢力をあるいは滅ぼしあるいは追放し離反した勢力を再服属させることに成功
結局どっちも得たものは少ない
毛利も大友も結局は戦前に近い状態で終わっている
秋月は一応大友に従属するという形式にせよ旧領復帰
高橋鑑種は豊前に移されてそこで大友に従属するにせよ半独立でそれなりの勢力に
宗像は所領の半分を没収
立花鑑載は処刑
結局大友側が得たものは高橋紹運立花道雪が博多を治めることで反抗的だった立花鑑載を処分できたのと
宗像領を半分にできたぐらいで失ったものも大きい
形式的には侵攻してきた毛利を撤退させ反乱も鎮圧したという大友の勝利ではあるが
大きな目で見れば大友と毛利の痛み分けであり得したのは両者の間で自分の勢力を伸ばせた秋月(一応竜造寺も)
それと周りの大名織田や島津といったところだろう
あと毛利勢3491人討取りはこれも軍記物で信憑性低い
大分福岡などの県史はこれに否定的だったはず

703 :
>>702
まず基本として>>676を読め。
大内が豊前筑前を支配しており
大友は筑前の立花周辺の飛び地くらいしか直轄地はないし
大内滅亡でやむなく従った諸将といっても統治実績なんてない。
>>秋月は一応大友に従属するという形式にせよ旧領復帰
「一応」ってなんだw完全に土下座状態だ。
>> 高橋鑑種は豊前に移されてそこで大友に従属するにせよ半独立
半独立状態ってなんだw完全に大友隷属下に入ってる。
その状況が壊れたのは耳川の戦いが原因であって毛利は関係ない。
毛利は大敗であり、大友の勝利。
>>宗像は所領の半分を没収
お前wikiしか読んでないだろ。
宗像は毛利と手を切る
蔦ヶ城を明け渡す
宗像の知行地半分を譲り渡す
西郷党の領袖の袖河津隆家の誅殺
大友家臣の臼杵鑑速の娘を当主氏貞の質に迎える
道雪59歳の側室に当主氏貞の妹25歳をいれ化粧代として立花に
西郷庄300町の贈与と西郷党の強制移住。
ものすごい理不尽な要求に宗像は屈してんだよ。
>>大友と毛利の痛み分けであり
はぁ?なに寝言言ってんだ?耳川での大友の敗戦の影響まで毛利の功績になるのか?
>>軍記物で信憑性低い
西国盛衰記
子が親を捨て、家臣が主を捨てて大敗走のあとに
「我一にと逃げ行くを小倉の津まで追討にせし程に、
其の行程十余里が間は、死人算を乱せるが如し・・・」と続く
その結果、永禄12年11/15の夜に3491の首を討たれ崩壊。
その裏づけ史料として有名なのが吉弘文書で、これにも辛10/15のこととして
紹運の兄の鎮信だけでも100人以上を討ち取ってる。
辛10/27に吉弘家中の者たちの分捕高名の着到状を見た宗麟が激賞してる。
>>大分福岡などの県史はこれに否定的
へぇ、どう記述して否定の論拠にしてるのか書き出してね。
最近は書籍名を書いて内容を一切書かずに逃げる輩もいるからね。

704 :
訂正
×当主氏貞の質
○当主氏貞の室


705 :
>結局大友側が得たものは高橋紹運立花道雪が博多を治めることで反抗的だった立花鑑載を処分できたのと
>宗像領を半分にできたぐらいで失ったものも大きい
毛利が得たものより大きいじゃん
なんで痛み分けになるの?

706 :
>>703さんの濃いレスを見たら毛利厨のレスが駄々をこねてる子供にしか見えない。

707 :
話がズレテるような。
1557年からの話なのか1567年からの話なのかお前らどっちの前提で話している?
つか>>289辺りが一番詳しく公平だと個人的には思うが。

708 :
>>289のレスの内容には
ソース不明の陰徳太平記と思われる記述が散見され
まったく参考にならない。

709 :
>>290
大友に追撃されて大損害受けたの載ってないから及第点。
毛利の資料には存在しない?
毛利は自分の不利なことは書かないでいいことしか書かないクズだからな。
名将道雪が追撃しないとかありえね。

710 :
>>290
のレスも毛利のソース不明の軍記からの盗用でくだらない。
しかも四国での戦いが毛利勝利で終了させて、その後の記述を意図的に隠蔽してる。
実際は伊予国での主導権も隆景は失ってる。
大友の後援の一条氏が西園寺も降し主導権を握るが
相次ぐ当主の死去で弱体化していた
(一条房家死後に嫡男の房冬がわずか2年で死去し、
その跡を継いだ房基が28歳で自殺し7歳で家督を継いだ兼定)
兼定が讒言を信じたりで自爆して家臣に追放されちまう。
豊後へ逃げたのちに大友兵を借りての長宗我部の決戦が天王山だったし。
鳥坂峠の戦いだけを強調する毛利の捏造史観では
翌年11月には東表の合戦に一条氏が大勝利し
甲之森城主の長山伯耆に切敷のうち六町を与えて形勢逆転してる話は黙殺してんだよな。
さらに元亀年間には甥の宗麟と宇和郡へ大攻勢をかけるなど河野氏は衰退する一方。
結局、秀吉の手先になった隆景は河野氏滅亡の元凶に変身したし。

711 :
毛利厨って史料を読んでないのが明白だよね。
明らかにwikiの知識しかないのモロバレw
だからこういうブザマな結果になる。

712 :
あぶねぇ。毛利の都合のいいところで終わらす年表信じちゃってたぜ。
何でもかんでも勝ち戦にして気持ち悪いよ毛利厨。

713 :
>>711
そもそも毛利家に信用できる一次史料なんてあるの?
ほとんど軍記物からの引用じゃね?

714 :
お互い消耗してなんも得なかったよね。
立花道雪が強かったくらいしか印象にない。

715 :
まあ謙信の関東遠征みたいなものだ
北条は攻め込まれてはいるものの最終的には追い返して勝利しているけども
一部の人間はそれを認めないみたいな

716 :
>>693
その「あてにならない軍記」の代名詞が大毛利の【隠徳太平記】だよね。

717 :
>>716
陰徳太平記でした。

718 :
>>714
大友は得るものたくさんあったよ。
つか毛利を大敗に追い込んで九州で覇権を確立し大友氏全盛期を迎えたし
ただ耳川の敗戦で失ったけどな。
>>715
謙信の小田原征伐と似てるのは惣無事令を守って籠城戦略を採用した対島津戦での島津撃破でしょ。
毛利相手には大友も道雪指揮下の決戦指向の大規模出兵で討ってでて見事に撃破してるし。

719 :
つーか714は
すぐ上にある>>703も読めないのか

720 :
>>714
毛利も大友もお互いハイレベルな攻防だったよ
東日本の低レベルな争いに比べれば
桶狭間(笑) 川中島(笑) 三増峠(笑) 小牧長久手(笑)

721 :
>>720
西国はまだまだシャーマニズム的な呪術的な戦場判断が一般常識として存在してたから畿内や東国の軍勢の機を見るに敏な用兵には敵わないよね。
毛利・大内・尼子・島津あたりはみんな論理的ではなくて戦場や城かた立ち上る気や天文が地上に与える影響やら
呪術やクジ引きおみくじの神託やら悪日や大凶日や易や暦を盲信してるからね。
島津の上井覚兼の日記なんてみたら笑っちゃうw
大友吉統は関が原での大友復興作戦で豊後上陸の場所を戦略面を考えずに
宗麟が運を開いた縁起のいい場所であった立石に上陸して結果的に黒田如水の派遣した軍に大敗してるしw
元就も山吹城を攻めようとした時にどこぞから家臣が連れてきた呪術者に易をさせたら
「占ったところ食料2年分に水も豊富にあるよ」と言われ見事に騙されて攻めずに安芸に帰ったり
陶の怨霊封じの儀式もやってたな元就w
元就が元春が暗殺した本城常光を暗殺した為に出雲の国衆が尼子側に戻ってしまった時に尼子調伏の呪法やったり、
尼子側も出雲大社や佐久佐社や伯州の大山権現で毛利降伏の祈祷やってたな。
もう呪術合戦状態www
西国の戦いってのはこういう素地が背景にあってのアホレベルの戦いばっかだからマトモに考えちゃダメだよ。

大内と尼子の自爆待ちで
気付いたら当時の平均年齢50歳でみんな死んでて
自分が地域の長老になってたので
死んで他に誰もいないのでやむをえずみんなに推戴され
(元就視点ではもともと安芸の国人一揆の盟主の家柄だし当たり前じゃボケ国人どもめ!)
吉川も小早川も普通に跡継ぎいないから次男か三男くれない→いいよ別に!
大内義隆が陶の謀反を知り調伏の護摩焚いてたらマジに陶が殺しにきた→陶が山田事件起こす→石見国人謀反→討伐中に元就火事場泥棒→
厳島でなにやら占いや気をみたりする陶がここ数日は大凶だから休戦日だな!
→卑怯元就「大凶の日は戦闘停止の日だから陶の軍は丸腰だけどズルして背後から攻めちゃえ」
→石見銀山ゲット!ってあれ晴久突然死→20歳義久は毛利にビビリ石見国を毛利にプレゼントするから和睦しよ
→ 悪人元就「うっひゃひゃ銀を出雲国人にばらまいて調略じゃえ?和睦?関係ねーし侵略じゃ! 」

呪術的占いが大好きな野人隼人の島津は、鎌倉の昔から相も変わらず占いで豊後侵攻路を決めたあげくに大苦戦したんだよ。
島津が大好きな神様に騙されたよねw
そういや上井覚兼は秀吉が大友に味方するって決まった途端に改めてくじ引きをまた引き直しやがってと激怒してるしね。
西国のくじ引き軍が畿内以東より強いわけがないね。


722 :
>>720
その低レベルの豊臣や徳川にボコボコにされたのが毛利なんだが
大友なんか泣きついて

723 :
大友は鉄砲と弓矢の混成部隊が強力だった。
このころの宗麟はほんと輝いてたな。
毛利を九州から追い払ってから天狗になったのかおかしくなった。
竜造寺、島津の台頭を許し耳川合戦以降は防戦一方。

724 :
>>302
美作三浦氏と備前浦上宗景と尼子再興を目指す尼子勝久は完全に
大友の支援を受けていたよ。
これがじわじわと効果が現れ、
1571年には同盟を結んでいた三好氏の篠原長房と協力して
備前児島で毛利氏に勝利。
同年秋以降、備中の佐井田城、松島城などで
毛利・三村の軍勢を撃退して毛利を大敗させ
大友側が北九州で有利に戦を展開させるのに成功してる。

725 :
1567年11月からの隆景の伊予遠征ってさ、
そもそも宗麟が一条へ援助して
伊予方面に毛利の目を向けさせておいて
その間に北九州の親毛利勢力を撲滅させる策なんだよな。
中国で動員された国人達はみんなは
いくら大義名分で、「厳島の恩返し」※を強調しても
「なんで小早川の私欲のために俺らが狩り出されなきゃならんわけ(怒)」
って超不満タラタラでの従軍だったし。
しかも、伊予遠征してたら
大友が親毛利勢力をフルボッコしまくり北九州の情勢悪化で
一条氏を伊予から追い払うこともできぬまま
伊予遠征打ち切りして船に乗るや
中国国人たちは故郷を海上から眺めながらも帰れず、
そのまま北九州直行に付き合わされて
中国の国人達の士気がものすごい低くなっちゃうんだよな。
おかげで隆景の軍は立花城下の決戦で道雪に大敗し、
最後は降雪の夜に毛利全軍追撃をうけて泣きながら大敗走だもんな。
その間の四国でも大友の後援を受けている一条氏が西園寺をも降し伊予での主導権を握り
1568年11月には東表の合戦に一条氏が大勝利し
甲之森城主の長山伯耆に切敷のうち六町を与えて河野との形勢逆転に成功し
1569年11月には毛利が上記のように大友の前に大敗。
1570年からの元亀年間には甥の宗麟と一条氏は宇和郡へ大攻勢をかけるなど河野氏は衰退する一方。
この成功で傲慢になった一条兼定が家臣の讒言を信じたりで自爆して家臣に追放されちまい
豊後へ逃げたのちに、大友兵を借りて一条VS長宗我部の決戦で敗北し
長宗我部の四国での覇権が確立していくわけだが。

過大評価って戦国大名にはつきものなのか、とも思うね。
「来島扶持を以て隆元、我ら頸をつぎたる事に候」(永禄十一年 元就書状)
厳島の戦い後、十三年経っても、あの戦いは来島水軍の助力がなければ、毛利家滅亡の危機
であったことを元就自身が白状している。現に合戦当時、厳島の宮の城から隆景に「来島が
来てくれなければ万事休す、何としても助力が得られるよう交渉しろ」と、哀れなほど追い
詰められた書状も出している。これらは、毛利家文書、小早川家文書に現存しているよ。
何が起こるか予想のつかない現実の戦場で、講談のごとく、何から何まで計算通りにいく、
なんてあるわけ無いでしょ。


726 :
さすが常勝無敗の戦国サイキョー天才
贈正一位毛利元就朝臣に敗北はない。

727 :
ID変えるのに失敗したのかw

728 :
お、やってますなキ○ガイw

729 :
>>727>>728
いや別に自演してる気なんてないんだがw
ふつうに3レス連続で書き込んだだけなんだがアホですか?
つか知識がないならお前こそ書き込むなよw

730 :
>>729
アンタのその情熱はどっからくるの?昔毛利って苗字の同級生にいじめられたとか?

731 :
>>729
こういう時は出てこなきゃいいのにw
言い逃れは可能だけど3レス目からは自演失敗臭がぷんぷんしてる

732 :
なんだか悪いので自演に成功してる君のレスを置いておくね
どこのスレなのかはあえてふれないけど自分でわかってるだろw
これからは自分で自分をお手本にして自演に切磋琢磨して欲しいwww
749 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/06/25(金) 15:12:51 ID:iNAWPhTA
752 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/06/27(日) 12:40:01 ID:NLGsah/M

733 :
>>730
史実を追求してるだけだ。くだらんレスすんな。
まぁ無知の毛利厨に知識の裏づけあるレスなど、最初から無理だろうがな。
>>731
自演するつもりならわざわざ小バカにして
「サイキョー」なんて言葉を使わんだろ。
>>732
どこのスレだかまったくわかんねぇよ。つかまた見えない敵と戦ってんのかw

734 :
火病ワロスwww

735 :
>>727以降のレス主から
急激にくだらん火病レスになってしまったのを感じる。
スレ違いもはなはだしい駄レスの応酬は見苦しい。
>>724>>725のレスがそんなに不都合なレスなら
子供の悪口レスではなく、まともに反論しろよと・・・

736 :
>>735
そもそもから下らん火病スレだろうに
不都合もなにも二言目には厨厨言うやつのレスをまともに読んでるとでも?

737 :
結局、さんざん論破された挙句に
逃げる毛利厨でしたw

738 :
自演がバレ恥ずかしくて必死に毛利を叩くsubちゃんでした
そんな小学生のような叩きしなくても↑で大友勝利だと出てるのに
語嚢乏しすぎワロタ

739 :
>>737
毛利関連スレでのお前の長文レスには色んな意味で本当に感服するわ、読んでないけど

740 :
大友って各地の寺院や神社ぶっ壊しまくったり、平気で家臣の妻や他の男の女を権力
で奪い取ったり、ろくでもないよね。

741 :
>>寺院や神社ぶっ壊しまくったり
守護大名から戦国大名への移行に伴い領国経営の深化であり
寺社領の直轄地化を進め、大友宗家の直轄地不足の解消を狙った政策です。
これは織田などでも行われていることです。
>>平気で家臣の妻や他の男の女を権力
で奪い取ったり
デタラメ毛利の記録が初出典のガセネタで、
実際に同様の行為をしていた変態は、幼女ハンター輝元です。
隆景は正妻にも他人に接するように仰々しく衣服も糾したほどで
明らかに女性に興味のない性格で子供がないのも当たり前な男で、
養子の秀秋は同性愛者で伊達家の片倉と一夜を共にしたくて政宗の許可を取ったほどです。
陰徳記によると元春は男のような浅黒い容姿のドブスを喜んで娶りました。
彼等は大内義隆や陶晴賢とホモ主従の契りを結んでおりました。
特に晴賢と元春のホモレターなど有名です。

742 :
他スレにsub先生が渾身の自作自演力作をなんと9連投もしてるんだから
誰か反応してやれよwwwwwwwwwwwwwwwwww
sub先生の毛利だったらなんでもふぁびょーんレスが見られるのは毛利関連スレだけだよ!
それではsub先生の次回作にご期待ください!

743 :
>>742
論理的反論ができないなら
なんのために来てるの?
戦国板で毎回毎回懲りずに論破され続けてて
ガチに悔しいんだねw

744 :
>>742
陰徳太平記は、それくらい「ふぁびょーん」な内容だからなぁ…
武田の「甲陽軍艦?」と同レベルでしょ?
いや、それ以下か?

745 :
>>743>>744
subさんチィーッス
PC二台ですか?それとも携帯ですかwww

746 :
subて何?
この板素人の俺にも教えて

747 :
>>746
下記スレの武田をsabだと連呼し攻撃してる織田擁護の人物がsabで
アンチ長尾アンチ直江のためには
伊達擁護や最上擁護もする基地害でレッテルを貼るのが大好きな栃木人。
おかげで直江大河アンチの目的で最上スレは義光擁護の住人人口が
壮大な自演により異常な人数の単発IDとなるが
その擁護数が大河終了とともにウソのようにいなくなり今じゃ荒れ果てて過疎化。
【関東】武田信玄、北条氏康、上杉謙信【三国志】
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1225202748/l50
ここでsabと連呼してる張本人もsabで、その特徴は自分が自演してるくせに
なんでもかんでもこれはsabの自演だと執拗に粘着してスレを議論の場として
成立しなくして荒廃させるのが目的で、戦国の知識自体はほとんどないので議論自体は絶対にできない。
>>744
最近の甲陽軍鑑は飛躍的に再評価されてきている。
読む場合に注意すべき点は
軍鑑と史実の年記の食い違いがあるので対照年表を見ながら読むべし
ごくまれに偽文書が挿入され操作をしている
特に史実と食い違うのが山本勘助がらみの誤記創作が多いと言う事で勘助自体が存在しないと言われる所以である
原因は高坂弾正の口述を猿楽者大蔵彦十郎と春日惣次郎が筆記した作品を
小幡景憲がのちに自家のために加筆し歪曲捏造改悪をしていると言われている。
市河文書「武田晴信書状」に山本菅助の名前があり存在が確認され晴信側近である事がわかり軍鑑では足軽衆である事がわかる。
この文書では勘助と共に原与左衛門尉が足軽大将衆であったのがわかる。
この原の舅が小畠景憲の祖父である虎盛であり東信や北信で活躍しており勘助との関わりが見える。
また小畠景憲は出版する金がなかったから出版出来なかったと言うのが通説だが
出版出来なかった理由が自家に都合がよく改悪捏造したからとも考えられる。
三条藩主稲垣重種が筆写のために借りた軍鑑を宇佐美勝興に書写された時に無断で密にもう一つ筆写して京都で出版したと言う。
上記の前提を頭に入れ、周辺諸国の知識があれば甲陽軍鑑はすばらしい史料になる。
しかし大内・尼子・大友が滅亡してるためにやりたい放題捏造しまくってる
毛利の史料はデタラメ過ぎて話にならない。
しかも長州藩は、上級家臣達が先祖の功績をデッチ挙げる
偽書状を作って藩史製作に利用してるためクソ史料として拍車がかかった。
(上級家臣らの書状を疑うことは許されなかった)


748 :
まあお前がSubなんだけどね
誰も何も言ってないのに捏造だのアンチだの一人で騒ぎ出すマヌケがSub

749 :
よく状況わからんが
ここで過剰に叩いてるのは織田ファンなの?

750 :
>>749
中傷できればそれで満足、な手合い。声ばかりが大きいので始末に終えん。

751 :
Subも悪いやつじゃねーとは思う
毛利関連以外では煽りや過剰な貶めや捏造もあまりみられないしね
ただ毛利に関連したスレになると隣国の火病とはまさしくこういうものなのだろうかと
思わせるやつに豹変するんだな

752 :
陰徳太平記を教科書にしてる毛利厨(笑)

753 :
>>751
他の大名も叩いてんの

754 :
基本戦国時代板住民は嫌いな大名は皆subみたいになるし subはアホ口調としつこすぎるのが問題なだけで
毛利スレで毛利は捏造マンセー大名www→バカジャネーノ→ソース出せ毛利厨→バカジャネーノ→ソース出せない毛利厨www
この無限ループでぐんぐんスレが伸びる
もっとも自分の書き込んだ内容をソース出せないから嘘だと認めたりはするけど
たまに思うがソース出せない毛利にも問題があるんじゃ

755 :
みんなsabに釣られすぎ。
sabは皆が罵倒やレッテル貼りばかりの不毛な争いを誘引し
議論が成立しないようにして戦国板全般を過疎化させるのが目的。
このスレもすでに議論ではなく、他者への罵倒などの目的のレスばかりになってる。
こういう罵倒で誰彼かまわず、
とにかくお前はsabと連呼して
撹乱するのがヤツの得意技。
なんせヤツには戦国の知識が
まったくないから最初から議論なんて回避してる。
議論で挑まれるのがsabが一番いやな戦略。

756 :
議論も何も単に誰も相手にしてくれないだけだろw

757 :
結局、議論が成立しないように荒らしてるというより
議論から逃げるための口実に
sabを連呼してるに過ぎないのか?

758 :

>>741
大友は寺社勢力を屈服させて中央集権化を目指した。
しかし寺社勢力の政治的影響も受ける国人も多く在地支配が甘い毛利はどうか?
毛利の場合は>>721のように、いまだ蒙昧にも怪力乱神を語り
孔子曰く「鬼神を敬してこれを遠ざく」すらできなかった。
そのため、褒賞を与える領地なく軍事動員を行い不履行を繰り返し
タダ働きを強要しそのくせ安堵を濫発。
挙句の果てに、開き直って
吉川や小早川を通して訴えた国人本人に明所を探させると言う逆要求を出す始末。
そして隆元死後にはどんどん財政が悪化し、ついには破産状態の毛利本家を無視して
次第に吉川などは毛利を経ずに安堵を行い自立を志向していくようになり
その結果、関が原における毛利の大崩壊に至るのである。

759 :
>>741
幼女を獣の目で狙い続け、自宅訪問を繰り返すが
あまりにギンギンの目とビンビンなアソコを露骨に表現していたので
モロバレしており家臣から強力なガードをされていたロリコンマイスター輝元。
幼少の頃に自宅門前で遊んでいたところ、
美少女故に通りがかった輝元の目に留まり、
その後、輝元はしばしば元良の広島時代の自宅を訪問するようになる。
輝元のそうした行動を快く思わない元良は
後の二の丸殿が12歳の時に杉元宣に嫁がせた。
しかし、輝元は諦めることなく佐世元嘉らに命令し、
強奪して側室とした。
杉元宣は隆景によって密かに野上庄沖にある大島の船隠で惨殺し
隆相系杉氏を断絶の刑罰に処した。

760 :
>>759
隆景鬼畜過ぎてワロタw

761 :
483:人間七七四年 10/10(日) 13:13 4WlncJiv
秀吉政権は独立国人たちを整理して秀吉が認めた国主に一元管理を任せている。
例えばこの権威を利用して佐竹は国人騙し討ち虐待で常陸支配を確立させたり
奥羽の国人挙兵を鎮圧させて支配を確立させてる。
これは支配の確立によって、朝鮮出兵において後顧の憂いを無くすため。
秀吉政権の失敗は朝鮮出兵を急いでやろうとする余り、各地に巨大支配者を作り出して統治を任せてしまった点にある。
また上杉などに見られる会津転封などで
国人を完全に地盤出身地から切り離し官僚化を促している点も見逃せない。
毛利は国人の意見が強すぎて軍事動員一つ取っても秀吉から遅すぎると激怒されるほど支配基盤が弱かった。
また山陽は小早川家、山陰は吉川家経由での支配でもあるので
上杉や徳川のように直接家臣に命令できなかった。
これは元就の大友侵略の失敗から、褒美として与える土地が確保できず財政が破綻してしまった為に
直接に毛利本家に褒美を請求できず、吉川や小早川から取り次ぐ形にして逃げているからで
しまいには国人自らが支配者のいない欠損地を探してきて、ここが褒美に欲しいと請求せねばならなくなり
のちの織田との戦いで敗北を重ねたのもこのために国人側が褒美がもらえない前提で命を捨ててまでのやる気が無くなっていたから。

762 :
大河ドラマ立花道雪
はやく作れよNHK

763 :
陰徳太平記を教科書にしてる毛利厨(笑)
東国太平記を教科書にしてる上杉厨(笑)


764 :
>>763
はっ?そんなヤツいねーよ。
例えば東国太平記を出典にして書いてあるレスを3つほど教えてもらおうか?
まあ無理だろうがなwww

765 :
>>763
アンチ上杉のキチガイ政宗厨まじキモすぎ。

766 :
こんな場所まで伊達厨出張キモすぎてワロタw

767 :
このスレも上の方でまったり語り合ってた頃は面白いのにな。
変なのが沸いたもんだ。

768 :
大河ドラマ立花太平記
はやく作れよNHK

769 :
石垣原、多々良、幕末の奇兵隊、と山口勢は九州で仕事してたんだな

770 :
毛利くんにも大友くんにも金で股を開く村上水軍のビッチぶりったら

771 :
隆景のビッチぷりに比べたらまだまだだよ

772 :
スレ同時に挙げなくていいよ

773 :
聞書を派遣して直接情報を集めた陰徳太平記はもっと評価されるべき

774 :
捏造だらけで糞の役にも立たないし
間違った知識が入るだけで読む価値すらない。

775 :
>>741
ちなみに宇喜多秀家の悪口も書いていて
岩国吉川の歴史捏造学者の香川正矩は陰徳記において
「直家死後に人質として送られた秀家の母が絶世の美女で
秀吉にムチャクチャ寵愛されたから、美作・備前・備中・播磨の一部を引き継げて秀吉の養子になれただけ」などと女好き秀吉の売女になった母のおかげだと根拠なしの中傷してる。

776 :
>>775
宗麟を女好きに捏造しただけでなく
宇喜多の悪口で秀吉に寝取られたとか書くなんて
さすが性悪捏造において東の伊達か西の毛利か!と並び称される歪曲横綱毛利様。

777 :
吉川家内で対立する熊谷氏出身の元春の妻まで
黒人みたいに黒くてブサイクと記述するキチガイ力が毛利系史料のワンダフルな点だよ。
さらに中国故事を盗用し無理やりねじ込む逸話製造マシーンが毛利系史料。

778 :
正直な話、半分くらいは立花家(道雪)だけで押し返してるよね

779 :
毛利なんて田原紹忍でもを宛てておけば
一進一退くらにで維持できたろ。

780 :
田原親賢じゃ無理だろ

781 :
意外と彼は手堅い用兵をやるし
門司の毛利方の策動を知り国東半島から小倉に急行することもたびたびで
豊前方面の責任者やって負けてないよ。
対島津戦では島津との和睦交渉しつつ
軍議内容は角隈石宗などとどうやってキリスト教を潰せるかの策動をしていた。
そしたら最前線で衝突が起こり気付いてみたら自分が知らないうちに大敗してた。

782 :
大友は人材はかなり凄いんだよ
ただ大領を持ってて
野心家過ぎる濃いメンバーなだけで。
守護大名だったから大友宗家の直轄地が少ないのがきつかった。
もはやこれ以上の加増は無理レベルだけど戦争やらせるにも
言うこときかせるにも恩賞必要だし。
仕方がないから寺社破壊で荘園没収しか手がなかった。
政治統治システムも面白い。
中央で政治参加する場合は有事以外では軍団統御できない。
最前線で軍団指揮するためには地方へ赴任転出して政治参加できない。

783 :
そんな人材あったくせに島津にボロボロにされた大友
毛利を撃退した道雪も存外大したことないね

784 :
えっ?道雪は耳川で島津と戦ってませんよ…
むしろ小早川らから大友攻めするから
島津も兵を出してって頼んでる書状があるから
耳川で伊東復帰を狙った日向戦で島津と大友が戦っている最中にも
毛利は北九州を襲撃している可能性があるわけで、
そうだとしたら道雪に毛利は記録に残らない早さで瞬殺されてるわけなんだが。

785 :
>>784
大友軍の一部が大きく西に回る迂回路を使って南下し耳川に着くのが遅れてたり(途中で筑前筑後へ行ける道だった)
田原紹忍が島津との和睦交渉をしようとしたり(おそらく宗麟の意向だろう)
毛利が北九州を攻撃した可能性はあるんだよね。
まあ筑前や筑後の兵力を率いた道雪が軽く毛利軍を粉砕したから問題なかったんだろうけど。
むしろ道雪が毛利軍に苦戦していたら耳川合戦前に大友軍は北九州へ呼び戻されてたかもね。

786 :
普通に考えれば毛利>大友

787 :
>>786
にわか素人乙

788 :
大友滅んでるじゃん

789 :
滅んだ原因は息子のせいでこの毛利との戦争で滅んだ訳ではないんだけどね

790 :
大友になんの魅力も感じないのはなぜだろう…

791 :
>>790
それはお前が無知すぎて
興味が出てくる以前の問題。

792 :
>>784
襲撃してたら北九州に毛利の旗がたっているはずなので、
襲撃してないんじゃないの?

793 :
>>792
お前はリアルタイムに北九州で見てたのか?

794 :
宗麟の伝記はおもしろかったけどなー。
宗麟だけじゃなく三大切支丹大名はどれも波乱に満ちていておもしろかった。

795 :
>>790
むしろ、キリシタンが嫌いとかが原因では?

796 :
>>794
有馬なんて龍造寺や島津にイジメられまくって可哀想すぐるよな…

797 :
そうそう、みんな貿易で繁栄しても龍造寺、島津に追い詰められるのよね
有馬なんて詐欺師に道連れにされるとか、諸行無常感が半端ない

798 :
>>784
これ道雪のいる北から攻めるのはリスク大きいから南から島津に大友を切り崩してもらおうって
隆景の調略なんじゃないの?
最終的には毛利が一番得してるしさ。

799 :
>>798
いやそもそも隆景がどうこう関係なく
日向の土持氏が島津化するのを防ぐ為に大友は出兵するわけだが。
しかも毛利はまったく得してないどころか最悪の結果を招いた。
なぜなら織田が大友と島津の和睦を斡旋した為に
大友は南の国境をまったく心配する必要性が無くなり
織田と大友による毛利挟撃体制が構築されただけだから。
本能寺が無ければ毛利完全滅亡フラグを建てただけに過ぎない。

800 :
>>799
耳川の戦いで敗北したあとは各所で反乱起こされまくりで大友にはそんな余裕ないんですが
実際に滅亡フラグ立っちゃったのは大友の方でしたね
そもそも大友は織田と同盟したと仮定しても口先だけでしょ
中国方面に興味がない

801 :
反乱なんて宗麟が隠居を中止してから急速に鎮定されて言ってるわバーカw
しかもその間に国東半島沖で毛利水軍撃破して周防まで追撃してるしw
そもそも毛利厨が無知でまったく前後の話を知らずに語ってるのがモロバレ。
相変わらずの恥さらしっぷりw
あのね、隆景の調略じゃなくてね、上洛したい義昭が主導してんだよアホwww
義昭は他にも島津と竜造寺の和睦も纏めようとしている。
しかし一方で織田からの要望で大友の調略があり
周防鴻峯(山口市内)を守っていた市川元教が
天正6年3月に宗麟に通じて謀反したりして周防長門が大混乱になってる。
この状況下で義昭の外交とは関係なく、すでに大友軍は日向を南下してるわけで、
毛利の謀略とか何寝ぼけたこと言ってんだよwww
この頃の隆景や元春は播磨戦線にいて三木表にいる信忠軍にビビってる状況ですw
元春は播磨での織田との決戦を嫌がって但馬へ行きたくて仕方が無く、
義昭が「但馬なんて行かずに隆景と協力して別所や本願寺を救ってくれ!
そうすれば但馬なんてほっといても毛利に帰属する」って説得工作をされてる。
よって毛利軍が筑前豊前に出陣したとしても大規模なものでは無い。

802 :
周防長門が大混乱とかねーよw
それこそ即座に収拾されている
つーかなんで耳川の戦い以前の話してんの?
それになんで毛利が九州に即座に攻め入る話になってんの?
大友が弱体化するまで本気で九州に手を出すはずない
実際大友が瀕死になってから豊臣と共同で九州を一気に制圧してるんだし
偏見と妄想が激しすぎて意味不になってるよw

803 :
>>大友が弱体化するまで本気で九州に手を出すはずない
お前アホなの?手を出すはずがないも何も
天正6年11月の耳川の戦いと同時期に毛利は第二次木津川口の戦いで大敗してんだけどwww
オマケに2年後には田原親貫に呼応して国東半島沖に出陣した毛利水軍は
若林鎮興率いる大友水軍にまで大敗www
>>耳川の戦い以前の話してんの
分かりやすく状況説明してんだろ。そもそも隆景の調略とかお前が言うから
その時期の話をしてやってたんだがwお前完全に時系列が理解できてないね。
ついでに言うと天正6年3月に謙信や元春に兄弟揃って贈り物攻勢してた丹波の赤井直正が
死去したために義昭の東西挟撃策が完全に崩壊。
しかも天正7年に輝元は武田勝頼に出兵依頼してて武田軍が
織田を牽制すべく遠江へ出兵することになり信長は安土へ引き返すことになるんだが
毛利出陣寸前1/16にまた宗麟の調略で毛利重臣の杉重良が謀反して
大友軍の田原宗亀(親貫の養父)が援助に来援してきたために出兵中止。
本願寺や荒木から今がチャンスと輝元は言われるが
大友の動きが気になり出兵できずその間に淡路岩屋城も織田に取られてしまい
本願寺どころか荒木まで見捨てることにw
これを見た宇喜多は毛利を見切り6月になると叛旗を翻した。
すると美作の草荊景継や南条元続も続々と毛利を見切り
光秀や幽斎により赤井が滅ぼされ丹波丹後の制圧にほぼメドがつき
天正8年に別所が自決し播磨が織田に落ちる。
3月には本願寺も降伏し、秀吉は宇喜多に美作で隆景を攻めさせ、
南条には伯耆で元春を足止めさせてる内に秀長を先鋒に但馬・因幡を平定する。
毛利にはまったく余裕なんてねーからw
それに豊臣と共同ではなく豊臣に従属しての間違い。
しかも毛利は豊前で秋月・高橋・長野兄弟に苦戦しまくりで
秀吉からお前らじゃとても無理だから進軍ストップして
豊臣秀長らの豊臣軍先鋒が九州に来るまで待ってろと言われたほどの弱軍じゃねぇかw

804 :
第二次木津川口の戦いでも兵糧搬入には成功した証拠あるからむしろ戦略的には勝利だ
だいたい海戦で大敗したら武将が死にまくってるわw
第一次木津川口の戦いがいい例だ
大敗や苦戦はお前の中だけの話誰も信用せんよw
長ったらしい自説年表まで持ち出してご苦労さん
杉重良って九州で高橋鑑種に負けてるし毛利の足すら引っ張れていないのには笑ったよ
九州征伐は豊臣軍のお膳立てするために動いてるからゆるゆる攻めてるのは当たり前
戦でのリスク回避もできて秀吉から友軍として絶大な信用も得ている
ほんと毛利はうまく立ち回ってるよ
しかしそんなに詳しいなら自分で本でも出版すればいいのにw
絶対売れると思うよw

805 :
>>804
杉重良が高橋鑑種に討たれたなんて話はwikiでしか見たことないが
その一次資料を教えて欲しいんだが。

806 :
もっと言うと当時の鑑種は大友配下。
秋月から高橋への養子ネタも秋月の自称で鑑種生前に養子を貰っていたかも不明。
さらに1/16に毛利は出陣予定で、杉が挙兵したのはそれを阻止するためであり
杉を毛利が鎮圧したのは3月。
そのため毛利の出陣は無期延期に追い込まれてしまった。
そして毛利が出陣にむけた再軍議を吉川らを安芸吉田に呼んで改めて作戦を立て直すのは8月。
完全に毛利は足を引っ張られているのは明白なわけだが。
この天正7年前半はミッドウェーのようなターニングポイントで
この期間に荒木は完全に弱体化させられてしまい毛利の勝利の芽が完全に失われてしまった。
つうか第二次木津川口の戦いで毛利は完璧に制海権を喪失したのに
毛利の戦略的勝利なんて主張するキチガイ始めて見たわワロタw

807 :
>>806
第二次木津川口の戦い自体は兵糧搬入成功している以上勝利だからね
毛利側にも本願寺側にも証拠がある
毛利家文書834 小早川隆景書状写
「去六日至木津諸警固乗入、大坂衆申談候、
敵船雖罷出候、舟軍等勿論此方得勝利候」
毛利家文書832 下間頼廉書状写
「諸警固一昨日六日木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」
このことはアンチくんも別スレで指摘されて知ってると思うんですがねw
このようにキミの言うことは全然信用できないから必ずソース添付で頼むよ

808 :
>>807
そもそも832下間頼廉書状十一月八日って宇喜多宛てじゃん。
「木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」のドコにも兵糧搬入成功なんて書いてない。
敗走した毛利の軍船のごく一部が着岸して逃げてきただけだろ。
その書状の目的は荒木から人質取ったとかそういう内容だし。
833隆景書状でもその内容に対応していて
味方になった荒木一党への進物指示が詳しく書かれている十一月十四日書状だし。
続く834小早川隆景書状でも宇喜多が龍野へ出陣の話が触れられていて
明らかに木津川で毛利が優勢なのを宇喜多にアピってつなぎ留めるのに必死なだけにも見える。
しかも833と同一人物に同日付けで出しているのに隆景は霜月十四日と書いていておかしい。
それもそのはずで、この書状は案文と言われているもので出してない可能性が高い。
毛利にはこの手の案文と言う後世作成の捏造が疑われる文書が多い。
しかも文書中でわざわざ夜前に岡山から下間頼廉書状が届いたと言い訳まで書いてるw
しかし833書状の時点において荒木の話で832に対応した内容の書状を書いているのに。
そして下間頼廉書状には書いてもいない「舟軍で勝利」などと書く始末。
その後も833で書いておけば良いはずの内容が長文で書かれる謎。
しかも信長の動きを含め大和・河内・和泉・摂津・播磨の異常に精密な情勢判断が書かれる。
実際は毛利水軍は大敗したし、兵糧が搬入された事実はありません。


809 :
まあ第二次木津川口の戦いで毛利勝利なんて書くバカな歴史学者がいたら笑えるな〜。
そんなすごい戦果を上げてるならのちに淡路島が織田に奪われるような状況まで悪化しないよな〜。

810 :
「兵粮両度被入 信長公より九鬼大隅守に被命以大船 川口被塞 雖然打破り 兵粮を入る」
毛利家日記より
まあ相手は動けないみたいだったから大規模な直接戦闘を避けて兵糧を搬入したと見るべきだろうね
兵糧の搬入の有無を問わなければ追い返したとも言えるわけだし。
しかし討ち取られた武将もいないのに大敗とはこれ如何に?
>>809
有岡、三木落城、宇喜多反旗で十分悪化

811 :
またsubか
相変わらず史料の内容は一切知らない書けないで、どこかの雑誌の話の鵜呑み垂れ流しだなw

んで、反証示さないで史料否定www

812 :
くだらん。「次々と通説を打ち砕く鈴木真哉・藤本正行について4」スレで
デタラメ吐いてたネタを盲信して該当部分をコピペしてるだけじゃんw
どこかの雑誌wwwつうかお前は毛利家文書を見たことないのがバレバレだなw
ちゃんと該当書状に案文と記されてるわけだが。
だいたい11月6日の第二次木津川口での織田の勝利が
11月4日の輝元&本願寺への正親町天皇の織田との和睦命令の勅命を毛利が破棄してのものだし
織田側はこの勝利を経て11月9日からの荒木攻略戦開始の発端となった。
それまでの信長は本願寺への北方からの包囲責任者で摂津の旗頭の荒木の叛旗に
必死に考え直せと説得工作しつつ朝廷には本願寺との和睦依頼をしていた。
しかし木津川口の勝利で深刻な状況を脱したので信長は一転して強気に方針転換してる。
毛利が勝っているなら信長はさらなる譲歩をしているはずだ。
それどころか12月に入ると秀吉を播磨へ、光秀を丹波に再派遣し戦線の建て直しに成功してる。
そもそも6月に九鬼が率いる水軍が雑賀党の舟を撃破しておりその水軍は健在のままなんだがw
そして天正7年5月27日の村重から隆景への書状において
「淡路の岩屋城を攻撃するよう」に頼んでおり、すでに明石海峡すら毛利は失っていたのがわかる。
天正6年2月に岩屋城へ毛利水軍の将として児玉就英が入っており
三木城の別所への補給を任されていたはずにも関わらずだ。
毛利水軍が勝っているならそんな依頼をする必要性はない。


813 :
まぁまぁどっちもあんまし熱くなりなさんな
歴史において諸説があるのはしかたない
他人を貶めて自説の正当性を主張するのは見苦しいぞよ

814 :
毛利厨の捏造は相変わらずヒドいな…
まさか毛利水軍が織田水軍に勝ったから明石海峡の制海権が織田水軍に握られたと主張するとは新鮮すぐる。

815 :
>すでに明石海峡すら毛利は失っていた
>すでに明石海峡すら毛利は失っていた
>すでに明石海峡すら毛利は失っていた
>すでに明石海峡すら毛利は失っていた
>すでに明石海峡すら毛利は失っていた
Subちゃん相変わらずだなあw

816 :
論破されるとsubを連呼しだしてレッテル貼りを開始するから
本当にコイツは分かりやすいバカっぷりだな。

817 :
subが相手がひとりだと思って論破とか言い出してるw

ま、subのは論破にもなってないけどなw
信用出来ない!と捏造・歪曲の連呼しかしないからなwww

818 :
subは読み下し文や漢文読めないから仕方がない。
だからこいつが書く内容は意図的に解釈を捩曲げてる。
というか、よく古文板に聞きに行って晒されてたしな。

819 :
>>817
>>818
はいはい「鈴木・藤本スレ4の落書きを盗用してコピペ」しただけの無知負け犬乙www
荒木謀反摂津失陥で播磨の織田軍の連絡線が絶たれ孤立
対本願寺戦略も根底から崩壊。
完璧に一方的劣勢に転じた信長が一転大攻勢に出ることが可能となったのが第二次木津川口の勝利であり
明白なターニングポイントなのにwww

820 :
>>815
淡路島岩屋と対岸の明石の間の幅はわずか4キロしかない海峡だから
岩屋城が織田に奪われたら明石海峡の制海権を
毛利が奪われたと判断するのは当たり前だろう。
また第二次木津川口の織田勝利に応じての
秀吉の姫路再進出は加古川からの三木別所氏支援ルートの封鎖であり
本願寺が毛利に確保を要請し、もっとも懸念していた情勢悪化であるも
明石海峡を封鎖され雑賀水軍と毛利水軍は二度と合流できなくなったため
水軍による組織的軍事行動は見れなくなった。

821 :
天正9年11月17日 羽柴秀吉、淡路国岩屋城・由良城を攻略
さすがsub、厳島の戦いで毛利は戦っていなかったと主張するだけのことはあるなw
sub史観では第一次木津川口の戦いも毛利は戦っていなかったんだろうなw

822 :
>>821
相変わらずネット検索で調べただけの無知ぶりを晒してるね。
別に毛利から岩屋城を奪ったわけでもなんでもないわけだがw
織田に属して淡路水軍を指揮していた安宅清康が毛利に内応するのではないかと
疑われたために信長が淡路に秀吉と池田元助を派遣して天正9年11月に捕縛しただけ。
もっと言うと木津川口の敗戦が元で毛利が一瞬で劣勢に転じ、
備前の宇喜多と美作の草苅と伯耆の南条が背き、丹波・丹後が光秀に平定され
岩屋城が失われ明石海峡の戦線が破綻した為に補給が断たれた
荒木村重の有岡城が落城しただけでなく
ついに天正8年1/17に三木城も落城し別所が自刃し
秀吉による播磨平定がなり、秀長の但馬遠征が準備されている頃の
天正8年4/7義昭→輝元書状において
摂津本願寺が織田との和睦をすることになったと報せると共に
宇喜多を退治をして上洛するために策するのが肝心。
毛利が岩屋表警護から撤収するの反対!って話がでてくる。
岩屋城警護と書くわけでもなく、それ以前に岩屋城を毛利が手に入れた記述も
出てきてないから岩屋城の近くで(小豆島とか家島諸島とか小島はいろいろあるし)
淡路水軍の動きを警戒監視していた衆がいたんだろう。
反対意見の義昭はまだ上洛を諦めてないようだが、本願寺と別所まで脱落し、
宇喜多・秀吉を相手に備中まで戦線を後退させて戦うことになる毛利としては
岩屋表の監視に衆を配置するのは無駄と考えたんだろうな。

823 :
まあ明石海峡を毛利水軍が自由往来できるなら雑賀水軍と共同して補給活動できてるはずだし
本願寺も荒木も別所も織田に屈することは無かっただろうし。

824 :
それに荒木の挙兵は
明智や細川が但馬方面からの丹波丹後攻略に対して
波多野・赤井を支援する動きだから
荒木勢力の減退は丹波丹後への圧力増大になるわけだし。
そのせいで赤井兄弟と親交ある元春は但馬方面へ行きたがって
織田軍と姫路決戦して別所を救援したい義昭や隆景と対立し戦力分散の愚を犯すことになる。
だから義昭は元春に別所を救えればそっち方面なんてホッといても後から毛利帰属になると説得してる。
もともと第一次木津川の戦い後に義昭と毛利は勢いに乗って
瀬戸内海を東進し本願寺と共同して和泉から侵攻する水軍ルート
宇喜多を先鋒に山陽道を東進し摂津へ侵攻するルート
元春が山陰道を併合して丹波へ進出するルートの
三路同時侵攻を狙っていたのに
第二次木津川口の敗戦はそれを不可能にした。

825 :
>>822
織田化した三好軍を毛利軍が讃岐で討ったりしてるから讃岐領のどこかに毛利の拠点があったと思われる。

826 :
なんだ結局天正9年までに岩屋城を織田方が落としたという史料はないのか
顔洗って出直しておいで
あと岩屋城城主は菅平右衛門だね
で毛利の在番が香川広景と冷泉大輔(『安西軍策』巻五「淡路国岩屋城の事」より)
安宅清康は由良城の城主
つーか常識的に考えたら本願寺が完全包囲されて兵糧補給が途絶えたら
遅くても1年で干殺し状態になってなければおかしいんだよね。
三木や有岡は陸上での補給路を断たれたから苦境に陥ってるわけで
本願寺みたいに海に直面した所だと補給の防ぎようがなかったんだろうね。

827 :
捏造だらけの軍記安西軍策がソースとかワロタw
今まで安西軍策をソースにした程のアホはいなかったがついに最強バカが現れたかw
でさ、その安西軍策からの流用部分の該当部分は何年何月から何年何月までの期間の城主や在番の話を書いてるのかね?
年も月も書いてないからどの部分への反論なのかすらわからないんだが。
ちなみに天正九年の話を君が持ち出したから
やむなく信長公記をソースに天正九年の内容を書いたわけだが、
君も当然、天正九年の話は信長公記をソースにしてるはずだろ?
そうなると同じ信長公記にはやはり第二次木津川口の戦いは織田の圧勝と書かれてる以上は
毛利敗北を君は認めざる負えないわけなんだがw

828 :
この過疎板でレスが伸びてると思うと、大体がどうしようもない厨房か
subやだがみたいなマジキチが喚いてるだけなんだよなあ。
帰って、どうぞ(迫真)

829 :
>>828
>>816

830 :
>>826
天正4年11月に本願寺が元春に岩屋城を確保しろと要求してるし
手取川の戦いや松永久秀謀反といった事件が相次いでいる天正五年を経て
天正6年2月に岩屋城へ毛利水軍の将として児玉就英が入って三木城別所への補給を任される。
6/26に九鬼水軍の大船からの大筒により雑賀水軍が撃破され(宣教師も驚く大船)
秀吉救援の信忠軍による三木城包囲が開始され、これを受けて7月本願寺が紀伊門徒に
別所氏を後援するために高砂を増強するように命じてる。
(瀬戸内海に面した高砂には加古川がり、その上流には三木城が存在し別所支援ルート防衛である)
陸路では7/3に毛利の大軍が秀吉が見捨てた山中鹿介の上月城を落としてる。
10月には荒木も義昭や本願寺に組して織田から叛旗。
摂津国有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城が
一斉に織田から離反し丹波国や播磨国戦線に重大な支障が生じ織田の戦線は山城国まで大幅後退。
同時に御着城の小寺政職など播磨国人達まで一斉離反し秀吉や光秀も荒木説得へ向かうが説得ならず。
11/4追い詰められた信長は朝廷を動かし本願寺との和睦を結ぶ。
和睦を無視した毛利水軍の行動により11/6第二次木津川口の戦い勃発。
九鬼の大船からの大筒により毛利敗戦と織田軍の大反抗作戦開始のターニングポイント。
天正7年5月27日の村重から隆景への書状において
「淡路の岩屋城を攻撃するよう」に頼んでおり、すでに明石海峡すら毛利は失っていたのがわかる。
これによる船舶による大量物資輸送路が各地で途切れ
天正8年1/17別所・7/2荒木・8/2本願寺と相次いで織田に屈服することになる。
>>825
天正五年閏7月に織田化した三好配下の讃岐国人の長尾・羽床が毛利に服属した三好遠江
(三好氏に破れ毛利領の島に逃げていた讃岐香川氏の讃岐復帰が関わっている)
の讃岐元吉城を攻めてる。しかし隆景が撃退したのを義昭が29日書状で褒めているね。

831 :
天正8年4月7日の輝元宛の義昭書状で
すでに織田と本願寺が和睦するって話が登場してるから
実際には荒木村重が岩屋城を落とすように依頼して間もなくの天正7年10月に有岡城が落ちたのを手始めに
年内には尼崎城も落ち、花隈城へと次々と荒木村重が逃げ回ってる姿を見て本願寺も絶望してたんだろうね。
謙信や丹波の赤井直正の寿命があと1年あれば信長は死んでたな。

832 :
>>822
>天正8年4/7義昭→輝元書状において
>摂津本願寺が織田との和睦をすることになったと報せると共に
>宇喜多を退治をして上洛するために策するのが肝心。
>毛利が岩屋表警護から撤収するの反対!って話がでてくる。
>岩屋城警護と書くわけでもなく、それ以前に岩屋城を毛利が手に入れた記述も
>出てきてないから岩屋城の近くで(小豆島とか家島諸島とか小島はいろいろあるし)
>淡路水軍の動きを警戒監視していた衆がいたんだろう。
さすがにこの解釈はないわー
ふつう岩屋表警護っていったら岩屋城周辺の警護ってことで明石海峡付近のことだよ
こういう恣意的な解釈してたらそりゃ誰からも信用されないはずですわ
史料の読み方が全く真摯的でない

833 :
中国地方での戦いの書状でも
毛利は〜表に出陣する予定とか書いてるし
〜表と言う表現にはその地を支配してると言う意味では使ってないだろ。
〜表と書いてて、その地を支配していたとする書状のソース提示してみろよ。

834 :
>>832
アホか。わざわざ恣意的な解釈するくらいなら
最初からここに該当文章を書かないわ。
どうせ無知だからそんな文章もお前は存在自体知らなかっただろうしな。
もし反論するなら、それ以前に毛利が岩屋城を奪取済みとするソースを出してくださいね。

835 :
3行でまとめろ

836 :
>>835
質問を黙殺しソースを一切出さないどころか他人の出したソースを盗用し
その内容を歪曲解釈して反対意見を吐く常套手段を使ってくる
毛利厨が相変わらず気持ち悪い。

837 :
〜表って、現代で言う〜方面って意味だと思ってた。
こんな感じ。
>おも‐て【表】
>[接尾]方角・場所などを示す名詞に付く。
>1 その方角に向かっていること、その側に面していることを表す。「南―」
>2 その方向の土地・地方を表す。「江戸―」「国―」
これに所有の概念が関わるなら、防衛戦に出陣するときは別の表現をしてたということだろうか。

838 :
>>837
岩屋城をすでに毛利が奪取してたとするソースを出せばよいだけの話だろ。

839 :
〜方面、〜戦線って意味だから
別にその地を所有していたと言う意味を内包して無いな。

840 :
島津が肥後表と書いたり、大友が豊後表と書いた時も
所有してる地を守ると言う解釈にはならない。
どちらかと言うと敵がその地に進出してるので〜へ出張ると言う意味。

841 :
訂正
×豊後表
○豊前表

842 :
>>837
広義の意味では〜方面。
狭義の意味では〜城の周囲、〜の周辺。
例:江戸表諸門番所御法令書(江戸城周囲の各門番所の法令書)
岩屋表警護と書いてあるなら岩屋城の警護と読むのが普通。
岩屋表は岩屋城を含まないってのは歪曲にもほどがある。

843 :
>>838
つか村重の書状だけでは岩屋城が織田方についたとは断定できない。
児玉就英帰国の件は岩屋城主菅達長の謀反の誤報によるものでこれが村重のところにも
伝わって勘違いしてる可能性もある。
事実、毛利側はほとんど混乱してないし、織田側も淡路島や本州湾岸線沿いへの攻勢が見受けられない。
織田の戦略は海そっちのけで内陸での城包囲補給路寸断ばかりである。
尼崎城にいた毛利の在番が有岡城落城後に本願寺に行ったりしてるところをみても
とても大阪湾を完全制圧できていたとは思えない。
木津川口で活躍した大船は何やってたんだか・・・

844 :
>>842
>>838
下記のヤフー知恵袋からパクってきてバカじゃないのか?
質問「大坂表とか江戸表の「表」ってなんですか?ただの「大坂」とか「江戸」とどう違う」
回答「「江戸表」は狭義には江戸城あるいは江戸幕府を指したものと推測されます。
江戸表諸門番所御法令書 内容説明 江戸城各門の警備人数、交替および各門通行者の格式等を記す。
城門の話なんてしてないだろ?用途がまるで違う話を持ち出して何がやりたいんだ?
江戸表諸門番所御法令書って北海道大学所有の日本北辺関係旧記目録だからぜんぜん時代も違うんだが?

>>児玉就英帰国の件は岩屋城主菅達長の謀反の誤報によるもので
上記が起きた日付とソースを要求。毛利家文書もしくは小早川文書の何番の記述かね?
>>これが村重のところにも伝わって勘違いしてる可能性もある。
妄想かよ・・・まぁいい。誤報の日付とソースを出してくれ。
>>織田の戦略は海そっちのけで内陸での城包囲補給路寸断ばかりである
秀吉救援の信忠軍による三木城包囲が開始され、これを受けて7月本願寺が紀伊門徒に
別所氏を後援するために高砂を増強するように命じてる。
(瀬戸内海に面した高砂には加古川があり、その上流には美嚢川経由で三木城が存在し別所支援ルート防衛である)
三木城が落城したと言うことは高砂が織田側になってると言うこと。
そもそも叛乱したのが内陸であって丹波や摂津戦線にも影響を与えているのだから内陸鎮圧が優先されるのは当たり前
海側と言えば秀吉が押さえている姫路城と淡路島の中間に当るのが高砂。
毛利が淡路を奪われたから高砂の維持も不可能になり三木城も落城したと考えるのが自然。
さらに宇喜多が毛利を裏切ったら海運と補給を心配することなく備前を越えて備中へ侵攻してるのが秀吉。
当然に海側も押さえていると思うが?
>>尼崎城にいた毛利の在番が有岡城落城後に本願寺に行ったり
日付と誰のことだかソースを要求。
それと尼崎から本願寺なんて別に海路を使う必要性はまるで皆無なんだが
地理とか理解してないんじゃないかね?

845 :
>>838
いやそんな噛み付き方されても……
ただ表の解釈の仕方が気になっただけで。
個人的には>>840みたいな解釈でいいのかなと思っているが。

846 :
良識的に考えて岩屋城が織田の支配になっていなければ制海権は毛利なので高砂は落ちず、
従って播磨の別所氏の三木城も落ちず、摂津の荒木も落ちないし本願寺も織田に降伏的和睦をしない。
よって荒木に隣接する丹波の赤井氏・波多野氏の戦線を明智と細川は攻略できず苦戦を続けているはず。
岩屋城を毛利が維持してることで明石海峡の制海権を保持し
従って船舶による兵糧の大量補給を毛利が可能であるのに本願寺も荒木も別所も織田に破れると言うのは理解し難い。


847 :
>>845
由良・足利が籠城した際に
北条も足利表へ出陣したが
足利は北条の領地じゃないしな。
〜表というのは予定戦場と言う感覚で使われてるよな。
自領の防衛戦で〜表を守るという表現は無い。

848 :
自領が予定戦場の場合は?

849 :
途中で送ってしまった。
表を自領に適用しないとすると、自領が予定戦場の場合はどう表現したんだろうか?
たとえば、備中高松城の救援に行ったときのような。

850 :
吉川元春が今田経高に宛てたので「此表之儀〜」て書いてるのあるよ
高松城に後巻きしたときので

851 :
御加勢可被成
御出張之御催御支度可被仰付
被張合、御防可被成御覚悟
普請堅固申付
備前之儀
とかじゃないかな。
地名が入らない場合は其表や此表と書く場合もあるね。
例えば義昭側近の頼英→元春宛 天正3年5月13日では
其表→元春のいる場所のことを指していて「そっちの方では」って表現。
此表とは「こっちの方では」紀州三ヶ寺で騒擾があったと言ってる。
信長が「義昭は熊野あたりに流れている」と言っており
実際に義昭は20人ほど連れて紀州の興国寺の居候となっている。

852 :
天正12年9月11日大友義統から横大路伊賀守宛なんかも
道雪に同心し敵中を凌ぎ
黒木表に至り着陣以来在々所々軍労。
殊に分取り高名由。忠義比類無候
黒木氏の猫尾城を落として滅亡させた際にこんな風に書いてるね。
黒木氏の方とか黒木氏との戦線って意味かな。
>>850
ん?天正10年6月2日の今田宛て元春書状のこと???
それだと内容が全然わからないので書状内容の文章を書き込んで欲しい。

853 :
>>846
残念ですが天正7年5月末に明要寺砦と淡河城が落ちるまで
神戸花隈城で陸揚げされた兵糧が堂々と三木城に搬入されてます。
さらに9月9日に岩屋城の目と鼻の先の魚住城で毛利水軍によって大規模な兵糧の陸揚げがされてます。
(ちなみにこのときの三木城兵糧搬入作戦は陸路で邪魔され失敗。)
いずれも岩屋城が無事でなければありえない出来事です。
織田側に岩屋城を奪取したという史料がないのであたりまえですがね。
これらのことも考慮しないで良識的とは笑止千万。
あと高砂城は天正6年の4月初めに真っ先に落城して破却されたからね。
>>849
〜表に自領、他領の区別なんてないですから。
そんな論文あったら見せてもらいたいくらいですよ。

854 :
>>853
なに堂々と捏造軍記講談の陰徳太平記の
播州丹生山夜討併淡河合戦之事や播州大村合戦を史実のように
持ち出してんだよ・・・

855 :
>>853
subとの議論は不毛だからやめとけって
自分に都合が悪い史料は反証もなしに全て捏造で済ませるのだから
そのくせ自論は妄想全開という完全キチ

856 :
えっ?いつから軍記が一次史料扱いされるような脳内メルヘンお花畑になったの?

857 :
>>827で指摘されてんのに懲りないね。
毛利の軍記内容を史実だと主張するのに
信長公記の第二次木津川口の戦い記述は
絶対に認めないとか矛盾しまくりじゃねーの?
明らかに毛利の軍記内容の方が極端に
信憑性が劣悪なんだけど。
戦闘の推移とかもうデタラメレベルじゃん。

858 :
毛利の軍記なんて信用したら
元就・隆元・元春・隆景は常勝無敗の天才になっちゃうしなw
淡河合戦にしたって毛利側の淡河氏が羽柴秀長に勝っちゃうのに
なぜか淡河の地を手放して撤退する謎www
鳥取城が落ちた後にかけつけた元春が背水の陣で羽柴秀吉を威圧してビビらせたから秀吉は逃げたとか
尼子残党の山中鹿介の上月城を救援に来た羽柴秀吉を追撃して勝ったとか捏造だらけw
とにかく毛利側が史料では一切証明できない、
他家史料にも全く出てこない戦で勝った話を挿入する気持ち悪さが毛利軍記の特徴。

859 :
軍記やwikiと一次史料の見分けがついてないから平気でレスするんだろうね。

860 :
自演にしか見えない監物。

861 :
Google先生に聞いてパクってきただけなんだろ。
だから陰徳太平記に書かれている内容だったなんて夢にも思ってない無知が毛利厨。

862 :
宇喜多直家の妻を妾にしたと言う記述は毛利の捏造史料にしか出てこないデタラメ。
毛利は宗麟を女好きと捏造記述したりと毛利の敵だった側をむちゃくちゃ悪く書きまくってる。
しかし実際に幼女をR目で見ていた輝元を危険視して匿った挙げ句に婚姻させたが
それでも諦めずに輝元が隙をみて略奪して子を生ませ
その夫を隆景が暗殺してるのはリアル史実w
残念だが光成氏も寵愛を受けた記述があるのは毛利の捏造軍記である陰徳記のみで
一次史料には無いと否定してるわけだがw
相変わらず在日毛利厨って無知だな。

863 :
>>862
陰徳太平記がソースとか論外だと俺も思うが、
その杉元宣事件のソースは何なんだろう。萩市史?

864 :
436:人間七七四年 04/14(木) 09:42 P5CoEOOS [sage]
元就が生きてれば元春と隆景の戦略外交の対立を表面化させないで
指揮命令系統を元就に一本化できるし元就がいる限りは大友織田同盟があっても背後の安芸本国に不安はなく
元春も出雲に戻らず京へ行けるだろう。
大友が耳川で敗北してもその後に龍造寺と島津が肥後で対立し始め、
織田が島津と大友の和睦を斡旋してるし
筑後では道雪が龍造寺を柳川城へ追い込み圧倒してる。
441:人間七七四年 04/27(水) 10:32 15+20429 [sage]
>>436
それは同意。
実際、織田→大友→周防鴻峯(山口市内)を守っていた市川元教が天正6年3月に宗麟に通じて謀反したりして周防長門が大混乱になってる。
これに困った元春は8月に義昭に頼んで京を奪回するために島津は大友を牽制し、毛利が東上する援軍を出すように使者を出してもらってる。
この天正6年正月は輝元が栗屋元種を摂津に派遣し、高野山金剛峯寺も出兵し、
義昭の先鋒として阿波・淡路の三好軍を率いて六角義堯も堺へ上陸し大和多武峰の衆徒も動員してる。
さらに淡路の岩屋城に水軍を率いて児玉就英が入り、三木の別所支援を開始と毛利方が圧倒的に有利。
まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・謙信死すと備えていた信忠の大軍が播磨へ移動してくる情報が入る。
上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。
10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
三木城攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。
信長は荒木を説得する時間を稼ぐために11月に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えるほど危機的状況に追い込まれていた。
すぐに義昭が元春に大出兵を勧めたが隆景との対立からかダラダラして時間を浪費しているうちに
信長は荒木配下の高山右近と中川清秀を降伏させて摂津を奪回して荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。
元就が安芸にいて息子達に全指令を出してればうまくいっていた話だろう。
あと6/26に九鬼水軍が大筒で雑賀衆の船を撃破しているんだがこれ鉄鋼船の実戦試験だったっぽい。
毛利はこれの研究を怠って11/6に鉄鋼船の前に大敗し海路での本願寺支援ルートが途絶えてしまう。
天正7年に輝元は謙信に代わって武田勝頼に家康を攻撃して織田兵力を引き付けてくれるに要求するも
その毛利は1/16の出陣寸前に正月早々にまた宗麟の調略で毛利重臣の杉重良が謀反して田原宗亀が援助に来援してきたために出兵中止。
武田軍は遠江の国安へ出撃してきたので信長は摂津から安土へ急いで戻ったので、
本願寺や荒木や義昭が播磨へ侵攻するチャンスと毛利へ言ってきたが、大友の動きが気になり、動かないうちに淡路岩屋も織田に取られてしまった。
これを見た宇喜多は毛利を見切り6月になると叛旗を翻した。すると美作の草荊景継や南条元続も毛利を見切り
光秀や幽斎により丹波丹後の制圧にほぼメドがつき天正8年に別所が自決し播磨が織田に落ちる。
すると3月には本願寺も降伏し、秀吉は宇喜多に美作で隆景を攻めさせ、南条には伯耆で元春を足止めさせてる内に
秀長を先鋒に但馬・因幡を平定する。
天正6年中まで元就が生きてたら余裕で上洛できてたよ。

865 :
陰徳太平記は
正則を酒狂いで家臣を自刃させたりする愛を知らない大工の子と書いてたり、
天野の武勇を聞いて宗茂が召し抱えた後に、
正則が天野を召し抱えようとして
宗茂に先約ありと聞いて遺恨に持ち、
朝鮮陣で何かと正反対の意見を吐き険悪だから
広家と長政が酒席に読呼んで和解を斡旋したが、
武勇の家臣ときた宗茂と1人で来た正則。
酒の肴に宗茂が踊りながら正則の前に来たので、
鴻門の会のようになり
険悪になったが広家と長政がうまく収めたとか、
秀吉死後に三成や増田が増長し
始皇帝死後の趙高のようだと書いたり
真偽不詳の嘘話多過ぎ。
しかも肝心な関ヶ原は書いてないから
そんな悪評の三成と輝元が組んだり、
自称名将の広家が関ヶ原で下手うって、
長政偽書状まで偽造して
広家のおかげで毛利が存続できたストーリーを作ったのかわからん。
そのくせ、やたら長政と親しいアピールがウザい。
江戸で動けなかった家康…黒田親子の家康へ協力しろ書状を再三にわたり無視してただろ伊勢にいた広家…

866 :
正則の悪評の元ネタの
大半が陰徳太平記だからな…
よほど安芸の主人になった福島を
毛利は逆恨みしてたんだろうなあ。

867 :
悪口太平記とか毛利はリアル2ちゃんねらーだなw

868 :
正則がアホ馬鹿だとイメージされてきた
代表的エピソードの数々の出典って毛利捏造軍記だったとは…
正則の印象を変えなきゃならんね。

869 :
ほしゅ

870 :
>>865
黒田家の公式記録にあたる『黒田家譜』でも、吉川広家とは親交が
あったと書かれてるので、仲良かったのは確か
もっとも、広家は、長政よりも孝高の方がもともと交流は長いし深い
ちなみに、黒田家から見た吉川広家は「義理堅くて律儀」という評価

871 :
>>870
豊臣政権における毛利の取り次ぎをやってたのが如水だから
親交あるのは当たり前だろ。
だが広家は輝元すら
「いい歳して分別もない馬鹿」と嫌ってたくらいの除け者で
毛利家中ですら元康、安国寺、秀元らが
ことごとく広家を嫌ってた。
黒田とは対豊臣、対徳川が延長線にあるから
損得勘定ありの政治的な付き合いで義理堅いのと
本質的な部分で仲が良いかは別物だろ。
それが関ヶ原において露骨に現れたと言うこと。

872 :
あのな、先入観や推測で語るのではなく、個人的な交友についても
具体的な話がいろいろ記載されてるので、実際に読んでみたら?
他にも広家と黒田家の間の書簡は、長い期間のやりとりが
多く現存してるわけだし
全般的に、黒田家譜では両川(具体的には隆景と広家)の評価は高く
逆に毛利宗家の輝元がどうしようもない馬鹿だったという評価なわけ
まあ、黒田家が東軍なんだから当然といえば当然だが

873 :

黒田家譜は後世の編纂物ですので史実ではありません。

874 :
おっ黒田家譜厨がここにも登場してるwww

875 :
>>873、874
歴史学における「蓋然性」と「史実」について、大学で学んでから
言ってねw

876 :
黒田家譜は一次史料じゃないのも
知らなかったのか黒田厨って…
関ヶ原スレとかで聞かれもしないのに、
黒田視点で軍記並みの戦闘詳述をしたりと
とにかくウザい黒田厨。

877 :
>>876
??
残ってる吉川-黒田間の書簡って、それこそあなたの言う
一次史料なんですが

878 :
「史実」の蓋然性を推測するのに、ある状況について書かれた史料を
他家の記録と比較する手続きなんて、当然でしょうに
そもそも、一次史料であっても、史料批判を経ていないと「史実」じゃ
ないって理解できる?

それとも、もしかして馬鹿ですか?

879 :
>>877
>>871

880 :
>>878
君の言ってることは可能性があるかも知れないが蓋然性は低いから却下
単に黒田厨のRーだから。

881 :
>>879
だーかーら、書簡はちゃんと残ってるんだから、具体的な内容を読んでから
言おうよ?
一次史料派なんだったら、当然、すでに読んでる、あるいは
これから読みますよね?

882 :
史料にも目を通さず「蓋然性が低い」と断定して
却下するのは、単なる毛利厨のRーじゃないとでも?

883 :
そいつ噛みつけるなら何にでも噛み付いて喜ぶキチガイ
相手にするだけ無駄

884 :
>>881
一次史料については>>871
黒田家譜も真偽不詳の逸話多く却下。

885 :
えっ!?

886 :
>>884
371は単に取次だったという周知の事実だけで
史料の内容について何も書いてないじゃん
どこの家の家記や家譜も、その家の利害にそって書かれるの
都合のよい観点、都合のよい逸話。そんなの当たり前なの
だから、別の家の史料や現存する一次史料と比較・参照して、
あれこれ考えるの
それを「真偽不明の逸話が多いから、全部うそなんだ!却下!」
なんて考えるのは、輝元のような愚か者だけなの

887 :
多分知らないと思うから言っておくけど
現在の歴史研究でも普通に黒田家譜は論文に引用される典拠ですよ
同時代の一次史料でなくても、一定の信憑性がある史料って位置づけなわけ

888 :
黒田家譜なんて
何でもかんでも
黒田家の功績!
みたいに書いてあって
ウソばっかじゃんよw

889 :
厳島の戦いに感状がまったくない。
前年の陶との明石での戦いで
元就は感状を51通出していて
厳島の年の4月には矢野城攻略の感状として
12通も出してる。
やはり来島水軍300隻が戦ってただけで
毛利は傍観してただけで何もやってない。

890 :
300隻って相当な数すな。
来島単体でそんなに出せるの?

891 :
>>889
能島や因島は?

892 :
永禄四年(1561)
毛利VS大友戦争で門司城攻防戦に関連して海戦が起こっている。
この三つのサイトで見ると
http://kelog2009.seesaa.net/article/113764158.html
http://www.kuroyaryusaku.com/history-table/2011/10/1561_1.html
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=75752
9月8日に起こった海戦が蓑島海戦で
11月2日に起こった海戦が今井・元長海戦
というこになる。
他方このサイトだと
http://iyo-sengokushi.blog.so-net.ne.jp/shodaibu-hosoku
11月2日が蓑島海戦ということになっている。
ここは両海戦を混同していると見て良いのか?
地図で確認してみると豊前の蓑島も今井・元長も近接しているので混同しやすいのかもしれない。
しかし、このサイトのほうがが正しい可能性もある。
このあたりの事情に詳しい人、解説よろしくお願いします。

893 :
>>892
ソース皆無。感状ゼロ
毛利のいつもの作り話。

894 :
アンチ毛利は嘘しかつけないからなぁ…
否定しながら一度も一次史料は出せたことがない

895 :
>>894
それは毛利厨のことだろw

896 :
たばこ1箱700円に値上? 
でも個人輸入すれば大丈夫。日本語の輸入代行も多数。 
「タバコ 輸入代行」とかで検索するとあるある、、、 
送料込みで1箱90円とかの激安サイトもある。" 

897 :
>>894
毛利厨が一次史料を出してるレスを挙げてみて下さい。

898 :

天正3年3/6大友が五条氏へ
毛利を叩くために浦上宗景と村上元吉を支援するため
田原親賢を赤間関に出陣させたので合力するように伝えている。
能島村上水軍って簡単に買収されるのが笑えるw

899 :
一次史料厨うぜえwwwww
一次史料w都合のいい言葉だなwww

900 :
>>899
毛利謹製妄想軍記講談の世界では毛利は百戦百勝の常勝の軍だもんなw
勝ったのに、なぜか領地を手放して後退したり意味不明www

901 :
>>898
当時の宗麟は織田と同盟してたからね。
毛利を大破し、前年には道雪を立花城督に配置、
当時の大友は絶頂期だったから能島水軍が大友配下になってたんだろうね。
だから安心して門司海峡を渡海させて
下関市側の赤間関に田原が上陸出来たんだろう。
宗麟が信長に上洛したいって伝えてたけど、
上洛しなかったのかな?
記録が無いからハッキリしない。

902 :
当時は織田と毛利は表面上では笑顔だったけど水面下では
織田は備中三村・播磨浦上&別所&小寺&赤松・摂津荒木・尼子残党を傘下に加え
義昭&毛利は備前宇喜多を利用して代理戦争してて、
播磨〜但馬ラインで暗黙の帰属抗争してたし。
これはもう信玄が西上を開始してから冷戦状態が開始され
この時の毛利は織田の背後を襲う火事場泥棒で、
浦上や山名ら織田傘下を攻めても織田本軍と敵対する決意は無かった。
信玄の死去が判明してからはいったん毛利が低姿勢を取って中断したが
天正3年に入ると再度、冷戦激化していた。
そして信長が丹波の赤鬼に敗れたり、
石山本願寺に大敗したのを知った毛利が
天正4年に冷戦状態からハッキリした挙兵をする。
そして木津川口の戦いで毛利は勝利し、
上杉が手取川で勝利したりと織田は危機に陥る。
しかし謙信や丹波の赤鬼が天寿をまっとうしてしまうなど
毛利は運が悪かっただけでなく、
上杉戦線から逃げてきた秀吉が播磨戦線の担当者になってしまった。

903 :
俺は毛利贔屓だけど、高松城攻めの頃までには毛利家臣団もかなりボロボロだったみたいね
>>901
むしろ浦上・村上両氏を大友氏が支援しに行ったような文面だから、大友氏に服属してたとは言い難いんでは
因島と来島が毛利についたらそそくさと帰参してる
ただ毛利から離反した原因は、浦上氏の挙兵だけでなく北九州争奪戦で大友氏が勝利したのがやはり大きかっただろう
あと秀吉の中国征伐時には来島が秀吉側について、能島も秀吉寄りだったみたい
どちらも許されてる当たり、武吉は立ち回りがうめーなぁ

904 :
>>903
能島(武吉)は小早川に反抗を鎮圧されて以来一貫して毛利側。

905 :
輝元って冷酷かつ残虐だよな。
関ヶ原の戦いの後に家康が小西行長の妻子は赦免して罪に問わなかったのに、
毛利を頼った行長の12歳の嫡子を
輝元は斬首しちゃうんだよなあ。
輝元って元就に似て薄情過ぎてな。

906 :
人がいるのか分からないけど…
この時期に戸次道雪が宗麟に宛てた書状を読んでみたいんだけど、
翻刻してまとめたものがあれば教えてもらいたい
自分でも調べてみたんだがどうにもわからない
wikiに書いてある
>休戦の際は宗麟に対して7か条に及ぶ断固反対の立場貫いている
ってのが気になって

907 :
おれも聞いたことがない。作り話か、後世の史料だろう。立花家譜とか

908 :
mixiで調べている人が日記に書いていたような

909 :
宮本義己「足利将軍義輝の芸・豊和平調停(上)(下)」(『政治経済史学』102号・103号、 1974年発行)

910 :
hai

911 :
でも大友宗麟って陶晴賢が謀反おこした時、弟を晴賢のところに送ったりせずに、
むしろ陶晴賢と一戦すべきだったと思う。義隆を滅ぼしたばかりの晴賢なら、
足元がおぼつかないから、戦えば勝てる可能性が十分にあっただろう。そうすれば
北九州からゆくゆくは山陰・山陽にまで大友家の勢力は拡大したはず。……って
書いてて思ったんだけど、やっぱ陶の側でも大友の動きが気になったから、義長を
欲しいとかいってきたんかな?人質的な意味あいもこめてではあるが。

912 :
そもそも制海権を持たない大友は中国地方にはまったく興味がない。

913 :
>>911
二階崩れから家督を継いで1年後だぞw>陶の謀叛
まだまだ家中のごたつきの余韻はあったし、
肥後じゃ菊池家を継いだ叔父が離反してたしで
とても大内旧領に手を出せる状態じゃなかったろうに。

914 :
博多と府内ウマーだよ
でも府内で貿易するならやっぱ関門海峡と周辺の制海権はほしい

915 :
九州撤退の際に道雪の追撃で殿の吉川元春は敗走してるし九州の毛利領土は微々たる石高しかない門司城以外無くなり輝元の代で失ってるんだし結果的に毛利の敗北だろ

916 :
門司城の帰属は毛利じゃない。
一次史料からは何度も争奪されているのがわかり
正直、門司城の帰属は完全に謎。
ただ島津家久が京へ行く際に門司城を通過してる時や
大友側の領地宛がいなどから
大友領だった可能性が高い。
大友・大内・尼子・豊臣が滅亡していて
擁護するものがいない江戸期に作られた毛利川の記述は捏造ばかりで信用できない。

917 :
田原親家が1586年に門司城に移されて門司勘解由允って
名乗ったって話があったと思うけど、出典が分からないんだよな

918 :
反大友をキチンと一次史料の裏づけを提示してやるなら
ちゃんと相手してくれるんじゃないかな?
根拠を書かずに>>937みたいなことを書いたらただの反大友の厨房キチガイでしょ。
ちなみに毛利厨が誤まった歪曲捏造知識を手に入れてるだろうことは想像がつく。
江戸時代に毛利は捏造歪曲毛利マンセー史を編纂してる。
大友や大内や尼子や宇喜多や竜造寺や浦上や赤松が滅亡してるから
他家史料との比較もできず、やりたい放題捏造できたから。
そしてその捏造軍記を手本に偽感状が生産され先祖の名誉ある武功が事実のように語られた。
それでまぁ、宗麟のこともデタラメを書いて、毛利の自己正当化が図られてる。
たとえば陰徳太平記での宗麟像は、
歳若い美女を領国中から求め、酒池肉林に溺れた生活をしていて
それを憂えた道雪が居所を集めて宗麟の気を引いてから諫言したが、すぐ元の堕落した生活に戻ったとか
家臣の妻が九州一に美女だと聞いて、その家臣を殺して妻を略奪したとか
まったく一次史料にない話をデッチ挙げている。
そのエピソードを盗用して高橋記では一万田の妻を奪った遺恨が実はあったなどと捏造し自己正当化してる。
宗麟がダメ人間とするエピはすべて大友滅亡後の江戸時代に作られた軍記ネタ
そもそも宣教師は宗麟は体質は元来、虚弱だが優秀な人物と評価しているし、
妻がそもそもヤバイ奈多夫人なので、略奪妻とかありえない。
豪姫の姉って誰のこと?
宇喜多直家の妻を妾にしたと言う記述は毛利の捏造史料にしか出てこないデタラメ。
毛利は宗麟を女好きと捏造記述したりと毛利の敵だった側をむちゃくちゃ悪く書きまくってる。
しかし実際に幼女をR目で見ていた輝元を危険視して匿った挙げ句に婚姻させたが
それでも諦めずに輝元が隙をみて略奪して子を生ませ
その夫を隆景が暗殺してるのはリアル史実w
残念だが光成氏も寵愛を受けた記述があるのは毛利の捏造軍記である陰徳記のみで
一次史料には無いと否定してるわけだがw
相変わらず在日毛利厨って無知だな。

919 :
22:人間七七四年 08/14(日) 15:00 p7pjEErP [sage]
>>11>>19
摩阿姫のことを言ってるようには思えない内容なんだが?
摩阿姫は非嫡出子の可能性が高く普通は利家夫婦の子とカウントしない。
そのため12歳の時に柴田への人質に出され北ノ庄城へ送られ
佐久間十蔵と婚約済みである以上はすでに非処女だし。
その摩阿姫が人質として京へ送られたのは1586年であり14歳の時。
しかも秀吉の側室として関係を持つ可能性があるのは
1587年9月に聚楽第が完成して、そこで摩阿姫が起居してからだから15歳。
しかし摩阿姫は病身であり子供が秀吉との間に出来てないが、
のちに万里小路充房との間に利忠を生んでる。
元々、人質の立場であって秀吉の好みからではないから
秀吉が手をつけたかどうかすら怪しい。
>>妾にした時その娘は数え歳でまだ十二歳
>>現代の年齢の数え方だと11歳
これwikiの1585年に秀吉の側室になったデタラメ記述から盗用した挙句に
秀吉を貶すために悪意ある文章を書いただけだろw
こんなの前田家の保身のための人質なんだから
糾弾すべきは秀吉じゃなくて前田夫妻の方だろ。
在日は無知なだけでなく捏造歪曲までやるから気持ち悪いわ。
26:人間七七四年 08/15(月) 09:22 p9qSTrsV
そもそも秀吉が好色だったのかどうかすらも怪しい。
衆道をやってないなら好色だったんだろ!的な江戸庶民の妄想の産物だろ。
好色を証明するソースは無い。 唯一あげるとすれば信長がねねに出した書状くらいだが
それだけでは好色と大げさに言われるほどの内容じゃない。
そもそも子姓をはべらし衆道など性に奔放熱心だった信長や家康の方がはるかに側室も圧倒的に多いし子供も大量にいる。
むしろ子姓も侍らすことをせず能をやったり、オッサン達と軍記話をして楽しむことが多かった多趣味な秀吉は性欲があまり無かったから子作りに熱心じゃ無かったんじゃないかな。
38:人間七七四年 11/18(金) 20:44 umlTHGZA [sage]
女好き最強は中華の後宮並みと言われた信長だな。
秀吉は信長や家康と違い ガキあんまりいないから 女好きって軍記講談話に惑わされてるだけで、
実際にはエロより800人いたと言う御伽衆との会話ばっかり楽しんでいたと考えられる。
42:人間七七四年 08/23(木) 10:51 4cgiEJma [sage]
中国みたいな後宮つくってたのは明智軍記で1000人の女性を囲ってたとされる信長だけ
だから信忠をはじめ母が誰だかわからん子ばっか。基本的に戦国時代は一夫多妻制じゃないからね。
秀吉が側室をたくさん持ってたと誤解してるやつもいるけど
あれは人質として差し出させて厚遇してる姿をアピールしてただけ。
秀吉が手をつけてないのは子供ができなかったことでもわかる。
それを秀吉の種なし&秀頼の父は別人説をデッチ上げてるのは在日。
そもそも秀吉が女好きの変態みたいに書いてんのは陰徳記って言うもんを編集した毛利の捏造だから。
宇喜多秀家が厚遇されてんのは、秀家の母が秀吉に寵愛されてるからとか、
嫉妬して秀家を貶している醜い毛利

920 :
陰徳太平記は正則を酒狂いで家臣を自刃させたりする愛を知らない大工の子と書いてたり、
天野の武勇を聞いて宗茂が召し抱えた後に、正則が天野を召し抱えようとして
宗茂に先約ありと聞いて遺恨に持ち、朝鮮陣で何かと正反対の意見を吐き険悪だから
広家と長政が酒席に読呼んで和解を斡旋したが、武勇の家臣ときた宗茂と1人で来た正則。
酒の肴に宗茂が踊りながら正則の前に来たので,鴻門の会のようになり
険悪になったが広家と長政がうまく収めたとか、
秀吉死後に三成や増田が増長し始皇帝死後の趙高のようだと書いたり真偽不詳の嘘話多過ぎ。
しかも肝心な関ヶ原は書いてないからそんな悪評の三成と輝元が組んだり、
自称名将の広家が関ヶ原で下手うって、長政偽書状まで偽造して
広家のおかげで毛利が存続できたストーリーを作ったのかわからん。
そのくせ、やたら長政と親しいアピールがウザい。
江戸で動けなかった家康…黒田親子の家康へ協力しろ書状を再三にわたり無視してただろ伊勢にいた広家…
正則の悪評の元ネタの大半が陰徳太平記だからな…
よほど安芸の主人になった福島を毛利は逆恨みしてたんだろうなあ。
正則がアホ馬鹿だとイメージされてきた代表的エピソードの数々の出典って毛利捏造軍記だったとは…
正則の印象を変えなきゃならんね
陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が吉川家の意向を受けて、
関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして
毛利は被害者ぶった史観を作りあげただけ。
このことを山本洋氏が解説し、
これを土台にして光成氏が書状研究した結果だね。
若狭小浜藩の大老酒井忠勝は直江と三成を首謀者にする
会津陣物語を作り上げ東国太平記でさらに昇華させ
6/20三成→兼続書状・7/14三成→兼続偽書状を製造し
これはのちに続武者物語にも転載され一般化され根付かせるのに成功。
これで徳川史観として三成と直江がすべて悪いと汚名を着せた。

921 :
直江状に本来なかった追而書を付け足す暴挙をやってのけて加筆したり
関が原前日の内通を約束する秀秋家臣稲葉(春日局のダンナ)宛て9/14付け井伊&本多ガセ書状を
捏造したりと怪しげなネタ満載の「関ケ原軍記大成」(著者は若狭小浜藩出身の宮川忍斎1655?1716没)
若狭小浜藩の歴史捏造事業(実態は低俗な軍記)は神レベルだと言えよう。
さらに毛利側も陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が、
吉川家の意向を受けて、関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして三成と安国寺に騙されただけと
毛利も被害者ぶった史観を作りあげた。
光成氏「この決起に輝元が直接関与していた可能性は高い」
「藩祖輝元の反幕府的活動をあからさまに証明する史料が隠滅された蓋然性は高かろう」
毛利は首謀者として改易させられ輝元の罪も問われる予定だったが、島津征伐が議題に上がったので
輝元は先鋒にすることになり減封になったのであり、偽書状のように広家のおかげで輝元が助命されたわけじゃない。
サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった
1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、
この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
毛利は偽書状祭りと言われてます反論お願いします。
特に下記では捏造武将隆景&元春と馬鹿にされてます。
小早川隆景 VS 直江兼続
贈位が行われた明治・大正にかけては長州閥の政治権力が強大であった為、
一部で不公平も見られる。例えば長州藩の祖である毛利元就に正一位、三兄弟に正三位が授与された。
これは正親町天皇即位式の功が理由とされる。
一方でその元主君大内義隆は後奈良天皇の即位式だけでなく日常的に朝廷や公卿への貢献が抜きん出ていたが
明治政府からの贈位を見送られた。この差は「毛利元就の献金は勤王だが、大内義隆の献金は
猟官運動目的であり勤王によるものではない」という見方による。
長州閥が毛利元就の下剋上を正当化する為には大内義隆の評判が悪いほうが都合が良い事情もある
山室氏も鴨川氏も元就が一次史料レベルで歴史の捏造してるのを指摘してるしな。
自分の過去の所業を改竄するとか歴史の冒涜までして正当化。
まじキモ大名毛利。

922 :
ソーリンは実は天正元年に義統に家督を譲っていて、
だけれどもソーリンも書状を発給していたから、
義統の見習い期間であったとして両判時代を天正5年までやっていたと福川一徳氏が書いている。
耳川の戦いの時のソーリンは隠居領の経営をする為に日向に向かっただけの話で、
耳川の戦いを主導したのは義統だと木村忠夫氏が書いている。
ソーリンは島津と毛利の捏造史観を盲信した糞コーエーの宣伝によって不当に貶められている。

923 :2013/09/01
あぁ大友スレが深夜のうちに完走してたん?
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