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2013年17戦国時代103: 信玄・謙信があと半年〜1年くらい長生きしたら (125) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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信玄・謙信があと半年〜1年くらい長生きしたら


1 :2013/09/02 〜 最終レス :2013/09/13
勢力図はかなり塗り換わってたと思いますが、天下は武田や上杉の物になったでしょうか??

それとも大勢にはそこまで影響がなかったでしょうか??

2 :
半年や1年じゃ全く影響なし
特に武田信玄は死ぬ半年前から病気で出陣遅らせるまでやってる
長篠城で療養する期間が長くなるだけで終わり

3 :
>>2
影響なしって事はないだろ。
畿内では浅井朝倉に織田は押されまくってたし徳川もかなり窮地だったし
謙信の時も畿内で一斉離反で崩壊前夜だったじゃん

4 :
実際ほとんどないからな
信玄が病であっても武田軍が信長といざ決戦!という態度ができれば
勝てる可能性がないとは言わんが、信玄の療養が本格化した2月頃は
武田軍の侵攻スピードは物凄く遅い。そして信玄の病の重篤化を理由に武田軍は撤退している
つまり信玄が長生きしても病気が治らない場合は史実と大して変わらない。
そして信玄の病は当時不治の病と言われた癌or結核。完治する可能性はゼロ。
長篠城で信玄が療養する間、武田軍が本格的に動くことはないし、その間に他の奴らが信長に攻撃されて終了

5 :
信玄については>>4に同意。
謙信についても、たとえ1年長生きしたところで、そのうち半分は関東に費やさなきゃならない
超頑張って&運が良くて越前まで来れても、行き来する時間と越冬でタイムオーバー。

6 :
その前に信長が畿内で浅井朝倉などに崩壊させられるだろ。
もう既に4将のうち2将が欠けて戦力ガタ落ちになって天皇に必死に土下座してる状態なんだから

7 :
まあそれより
信玄がさっさと引退して家督を譲り
謙信がきちんと後継者を決めて
いたら少しは違ったかもね

8 :
>>6
浅井朝倉は近江に築かれた砦を突破できない。
逆に彼らの方が織田に崩壊させられてる状況。

9 :
織田鮮人がなんら具体的根拠や一次史料による裏付けも無く偏向自慰レスを繰り返してるだけでワロタw

10 :
まあ信玄が生きてるとなったら浅井朝倉ももちっと持ち堪えられるでしょ

11 :
武田信玄が生きていても長篠城で療養+武田軍は積極的に行動できない状況だから
実質信玄の病が重篤化して撤退して信濃駒場で死んだ史実と大差ない。
強いて言うなら武田軍が信濃へ向かっているか三河で留まっているかの差。
信玄が死に体だった史実で大して動けなかった武田軍が信玄の寿命を延ばしたところで
死にかけの信玄を放置して織田と決戦を挑むなんて武田軍には不可能。
信玄の病は結核or癌で治療は不可能だから信玄はずっと死に体のまま。
結果として信玄の場合は史実と大差なく進む。武田軍の撤退時期が半年1年伸びるだけ

12 :
武田が常に織田をけん制し続けられればそうなるが、半年から1年じゃあな。
謙信と敵対してる以上。

13 :
織田厨のデタラメ「信玄が毎年戦をしまくって財政破綻して
兵糧はなくなり長期遠征は不可能だし民衆は怨嗟した」
1570年1月の駿河西部制圧後の信玄は
内政に集中していて
1572年10月の西上作戦まで
大規模出兵は一切やってないから、
それ以前の例年の頻繁な出兵は無し。
だから兵糧にはまったく心配ない。
むしろ信長は金も米も火薬もなく兵も1万しか集まらなかった。
織田厨の話の誘導パターン
「どうしても野田城で苦戦してたから三河制圧なんて出来ないし
そこからさらに尾張へいくなんて無理w」
実際は 鴨川氏「信玄が三河方面に出てきたのは
信長を誘い出して殲滅するため。
その一方で別働隊に岐阜を突かせるつもりだっただろう
もし出てこないなら別働隊と本隊が合流して岐阜を攻めただろう」
森田氏「信濃と美濃国境の神坂峠の雪解けは当時の暦だと
3月下旬からなので、信玄は雪解け待ちをしていた。」
朝倉などへの手紙でも信長を敵として戦っているとか
来春に美濃攻撃すると信玄が書いている上に、
3/6付けで信長が東美濃にやってきたので三河や遠江は別人に任せて
秋山隊は信長を追い払えと先陣を命じている。
その後の情勢を見ると明らかに信長が東美濃で大敗しているとしか思えないw
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書いてるが完全にデタラメ。
ちなみに謙信→長景連への3/19書状には
(菅屋・林・佐々・松井と供に長連竜(長続連の子)が織田配下として書かれてる)
信長が謙信に比叡山再興を約束してる土下座モードで謙信も納得したとか書いてるwww
(4/24謙信→関東の小田守治で氏政を足蹴倒すぞと報せていて、武田攻めする気なしwww
おそらく3/5の遊足庵への謙信書状で葦名と佐竹が和議になることと葦名が北条へ手切れ
佐竹・宇都宮連合が氏政を29日夜に多功原で大破し数千人を討ち取り、
岩槻へ氏政がたった一騎で逃げ入った報が影響してる。
謙信は信玄と氏康同陣の時にたびたび俺が乗り出してきても決戦せずに退散するくせにと愚痴ってる)
朝倉義景が一乗谷城から越前府中まで3/11には出陣してきたことを報じている。
また濃州・信州境を用心しろとも書いていて、信玄の美濃侵攻が近いことがわかる。
3/7信長→幽斎書状にも長与一(長景連)が味方だと書いてる。
元亀4年時点ですでに明らかに七尾城は織田方なのだがwww

14 :
朝敵認定された織田信長1万が武田信玄6万に踏み潰されて終了でしょ。

15 :
無理だねー。

16 :
まあ信玄は無理だな
朝倉の寝返りは起きないけど、それでも攻勢に出れる状況じゃないな浅井朝倉は
謙信は結局関東方面に行っちゃいそうだし小田原は抜けないだろうしやっぱりあんま変わらんかもな

17 :
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
上杉も天正3年軍役帳があるから兵・槍・手明・鉄砲・大小旗・馬の比率がちゃんとわかる。
織田とかデタラメで全然わからん(末期の明智はわかる)
利家や信盛とか蓄財に必死で兵をあまり雇わなかったようで、
足らん分だけ国人や与力などをコキ使って軍功上げてたようだし。
長篠直後ですら家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は農業の暦に合わせて帰る必要が無い
北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる
着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは 軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地 興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。

18 :
岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。完全に信玄が情勢を操ってる。
遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し
当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。そしてこの時期において松原信之氏が著書で義景本人の元亀4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年(天正元年)
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる。

19 :
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。
2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと上撃烽ナきないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し
柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると
2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、
此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。

20 :
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
山岡家の領地は栗太郡と志賀領であるが、すでに志賀郡が失われているのか、
山岡家が反織田側に内通していたのがわかる。
信長公記は山岡景隆が山岡家の惣領で瀬田を支配していたように捏造してるけど、
実際は元亀3年7/18の山岡景祐(景友・暹慶)→飯川・曽我ら幕府側近宛てで
将軍が甲州へ送る使者の真下入道殿が此渡乗船之儀の仰せ付けのこと、
畏まって其の意を得候、只今に限らず諸公・御衆・其外、下々に至るまで?と書いていて
明らかに瀬田の支配は山岡景祐なんだよね。 公記では景隆が瀬田を維持してたなどと捏造してるのが笑える。
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www
元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww天下布武で家臣へ土下座書状wwww
信長は援軍として西に兵力派兵する余裕がまったく無かったから、勝頼は非常に有利な状況だった。
丹波の赤井直正も勝頼に書状を出してたし、
赤井忠家や内藤如安や宇津頼重らが反織田で丹波も毛利や武田に協調してる。これ信玄の大きな遺産だな。
5月に長篠で武田が無謀な決戦で大敗した為に、
信長は余裕が生まれてしまい、8月越前一向衆を壊滅させてから、光秀に丹波侵攻を開始させてる。
まぁ波多野ら丹波衆の反撃で光秀は大敗したが。
実際、天正三年3/4には芸但和与が正式に発足したことに対する織田→小早川への返信で、
信長は但馬はかねてから申し入れているように織田分国であることを承知してるはずだ。
近年はずっと山名祐豊から連絡が来なくなったのは無念だが(信長が上洛した時に軍を播磨や但馬へ派兵して攻略していた)
出雲や伯耆の安定の為に、尼子のいる但馬出兵がどうしても必要なら仕方が無いと
背後で尼子を支援してる信長もしぶしぶ毛利の但馬での勝手な行動を認めてる。
それだけ信長には余裕が無かったから露骨に毛利に開戦したく無かった。信長は毛利に対して内心激怒してたが土下座外交を続けていた。
すでに天正元年12月までに元春が信玄西上のドサクサに丹波国衆と呼応して織田分国但馬を平定して出雲に帰国しており、
毛利は朝山日乗や安国寺らを織田に派遣し、秀吉を窓口に信長に媚びて敵対行動の誤魔化しをしてた。
うまく信長との間を誤魔化せたのは秀吉と朝山のおかげだと安国寺が12/12に書状を出してる。
以前の但馬窓口は志賀の陣で討死した坂井政尚だった(山名祐豊が帰国し交代するまで但馬此隅山城を占領して但馬統治していた。
朝倉軍が坂井を討死させて織田但馬窓口消失の大金星を挙げる)
天正4年5月までに尼子残党を京へ逃亡させ毛利は山陰再平定に成功してる。
その一方で山陽道でも織田に内応した備中の三村を毛利は天正3年5月までに平定に成功。

21 :
元亀3年11/27の山縣書状に
朝倉軍が織田軍を大破したし尾張・美濃衆が数多討死って書いてある
織田が朝倉に大敗して近江勢が寝返ったと書かれている。 嘘長公記はこれを隠蔽。
この大敗で信長は岐阜へ引きこもり震えていた。
で、この書状の最後に日野蒲生が朝倉に寝返ったとあり、手紙の内容と合わせて
織田の敗北、武田の躍進を山県が強調している。
元亀3年10/5の朝倉景亮書状(書状には「朝倉」の文字がかき消されている)
先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言
蒲生下野入道殿御陣所
比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。
元亀4年1/11に僧正法性院信玄→将軍足利義昭側近上野中務大夫(秀政)宛てで
朝敵信長追討を受けた信玄は
義兵を起こし大軍が靡かせ発向し家康の大半の要害を破却したと宣言し、
信長・家康ら逆党を誅伐し天下を静謐にすると言上してる。
そして叡山での乱逆や、他者を軽んじ公家や寺社の人々を侮り、放言の数々
洛中洛外を徘徊しみだりに徳分の課役をして砂金財宝を横領しまくり、
朝倉と信長を和睦させたかたじけない天皇の勅命とそれに類する複数の起請文を捧げたのを
破って延暦寺を壊滅させるなど悪逆無道を為すなど5か条に渡って
信長の大罪を弾劾し讒巨乱国を救うと誓っている。
その檄文を将軍から入手した天皇は日本を救う救世主に感動して、
信玄の大義名分を筆写し醍醐寺理性院に納めて祈願したほど。
いかに信長が悪逆無道だったかがわかる。
醍醐寺理性院に残る天皇の写の日付は1/11だが、甲陽軍鑑では1/7とされている。
実際に書かれたのは1/7で出されたのが1/11なのかも知れない。

22 :
謙信が生きていたら下記の状況からして上洛成功は間違いないな。
信長って天皇がいなかったら三回は反織田連合に捕縛されて自決させられてたよな。
志賀の陣・義昭二条城籠城。そして下記の荒木籠城。
天正6年2月東播磨を中心として実高43万石とされる別所氏が信長へ謀反。
美嚢郡淡河城・加東郡金鑵山城・加古郡高砂城・印南郡中道寺山城・明石郡枦谷城・明石郡林城・
飾西郡英賀城・加古郡野口城・印南郡志方城・印南郡神吉城など播磨一円蜂起。御着城主の小寺氏などもこれに呼応の構えを取る。
まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・さらに光秀を粉砕した丹波の赤鬼赤井直正まで死去。赤井兄弟は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。
謙信死すとの確定情報が届くと上杉へ備えていた信忠の大軍が開放され播磨へ移動可能になる。上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元就死後に隆景と対立するようになった元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
小寺政職と協調してる東播磨別所の三木城を攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。義昭側の池田知正の失脚により荒木の摂津国での指導が確立した矢先に荒木謀反で
有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して摂津一円一斉挙兵。摂津の大半が再び義昭側へひっくり返ったため織田の別所包囲軍が孤立するどころか
対赤井・波多野の丹波戦線も再度崩壊し本願寺と相手をすることすら不可能に陥り、またしても戦略の大破綻を招いてしまい
相次いで信長家臣団を派遣し荒木の再考を促す説得や宣教師を脅迫しての調略をする。
がもうまくいかず信長は荒木を説得する時間を稼ぐために天皇に土下座した信長は11/4に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えさせるほど危機的状況に追い込まれていた。
信長は天皇を使って時間を稼いでるうちに荒木配下の高山右近や中川清秀を降伏させる事に成功し
高槻城・茨木城・大和田城・能勢城・三田城を織田側へ寝返らせ荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。謙信が生きていたら、勝頼も健在になるし
信忠を秀吉への援軍に派兵できないから毛利の攻勢により播磨戦線が崩壊しその影響で本願寺のいる摂津(荒木時限爆弾もある)明智がボロ負けした丹波戦線まで(丹後もセットで爆発)
紀伊・河内・和泉・伊賀・伊勢南部・大和南部このあたり一円も高野山を始めとして反織田だし(本能寺の変まで高野山は織田軍を山内侵入を許さなかった)再度崩壊するから織田は詰むよ。

23 :
天正2年正月の公記 朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。
史実の信長は? 義昭→六角義賢書状 信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw
そして越前が一向宗に奪われ、 勝頼に明智城を奪われ 織田の攻勢期は半年持たず…
さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、
石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが義賢書状では 信楽表で大勝利し感状まで出してる。

禁裏被迎出により和平して大坂を退出した顕如を無視して籠城をした教如。
4/16然共 新御門跡様 御寺内御堅固ニ御拘被成候間 各可御心安候
5/2御門主(顕如)にハ雑賀へ御退出之事候 然者予(蓮如)当寺に残り 可相持思立如此候
天正8年9/11勧修寺晴豊らが教如の説得に成功し、
9/23に教如も然処内輪逆意之賊 しかれども内輪に逆意はこれ賊徒となってしまうとして
大坂を明け渡す決意をしてるのを公記は隠蔽。
家康を助けると言う同盟の信義を裏切ってまで 武田との戦いから逃げ回り、江甲同盟詐欺を繰り返していた。
また信長は北条からの帰属の申し入れを受けても それでもなお、武田との戦いを恐れていた。
しかも石山本願寺が信長の泣きを入れた天皇からのたびたびの勅命を恐れ多いと感じ
信長から自筆血判状を顕如が要求し、さらに教如も要求し、そんな無理難題にも
切羽詰って困窮した信長は血判状を書いてまで土下座外交したので、本願寺も勅命をたびたび拒否するのは恐れ多いし、
信長への無理難題要求を、信長が怒って拒否したら、それを口実に朝廷に信長との講和無理と言おうにも
すべての要求を呑み続け、断る口実がなく顕如が折れ、教如も血判状をもらうことで
石山本願寺戦も終結したのに、なおも武田との戦いを避けまくっていたのが信長。
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞と織田軍の大和衆が恐れていたので
戦国最強だったのは間違いないところで
その武遺武徳ゆえに江戸時代には将軍家の軍法として甲州流
それに対して御三家や福井藩などは越後流を研鑽してた。
しかし織田流なんてもんは一切生まれなかったのは
それを唱えたところで誰も学ぼうなんて気持ちが起きなかったからだろう。
織田軍なんて、惣村ですら一揆を組んで、織田に反抗していたほどザコで
誰も恐れていた記述が存在しないしな。
そもそも長篠の戦いで武田が弱過ぎるなら、そのまま武田領へ侵攻すりゃあいいけど
謙信に武田を攻めない理由を追求されて、いいわけ三昧の態度をだして
あまりのヘタレぶりに、謙信から織田とは絶交!とか言われて
能登や加賀を奪われたヘタレ信長だし
近甲同盟交渉を長引かせて、ひたすら武田の鋭鋒から逃げ回ってただけだし。

24 :
信長なんて比叡山で屍姦され、
石山本願寺で死体を八つ裂きにされ、
紀州で塩漬け朝敵標本にされてたな。

25 :
まるでチョンみたいな発想だなw

26 :
>>17-23
つまり信長は信玄・謙信に滅ぼされるのは確実だったって事?

27 :
>>26
逆逆。
多少長生きしたところで信玄も謙信も信長には勝てないって事。

28 :
>>27
>>17-23を読めばそんな解釈はどうやってもできないと思うんだが…

29 :
半年や一年そこらの延長では時間が無さ過ぎだよ
謙信玄が老害おこさず八十まで武士やったなら天下とかもあり得るかしれんがな…
まあ史実と変わらず武田も上杉も局地的な戦いにてたびたび勝ち織田を苦しめるが最後はジリジリと防戦になってくるパターンが想像できる

30 :
織田厨は具体的な根拠や理由を一切書かずにいつも願望を単発ID自演で書き込む馬鹿低脳です。

31 :
三方ヶ原後進軍したとしたら多分長篠が早まったか、二度目の桶狭間が起きるだけだったんじゃないかな
援兵の少なさと言いわざと引きずり込もうとしてるようにしか見えん
手取川にしても同様
手前で引き返した信玄謙信は流石としか言いようがない
まぁどのみち決戦しなかったらその場合経済的に締め上げられて音を上げる織田側勝ち確パターンに入るだけなんだけどね

32 :
6万の信玄と1万でしかも誰が味方で誰が敵かも分からないとパニくってる信長軍じゃ
最初から勝負にならないな。
軍制による質で考えても織田軍は武田や上杉とは明らかに雲泥の差があるし。
内治でも織田は常に不安定で背後を気にしないとならないほどいい加減統治だし。

33 :
信玄が病死しなかったら信長を打ち取るまで戦は続き、織田領獲得した武田の国力は抜きん出たものになるが、誰も天下統一しないことになるだろうね

34 :
武田の経済力じゃ60000もの軍勢を維持するのは瞬間的でも不可能。

35 :
信長→尾張南西部を伊勢長島一揆に奪われ、
美濃北部と東部は信玄の調略で内応され、
近江は街道すら寸断されまくり、
実質、80万石前後まで低下。
兵糧足らず自暴自棄のあまり京で放火虐殺略奪をやり始めキチガイ化。
信玄→120万石ぐらいで朝敵信長征伐戦を開始。
一年間もの間、戦をせず内政に力を入れており家中は充実。

36 :
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
家康の織田裏切り行為
家康の領国の三河からは、盛んに石山本願寺へ兵糧や兵員の輸送が
円滑に行われており天正6年になってさえ、
織田軍が本願寺に呼応した荒木によって大敗し12/12尾張知多郡の水野忠分が敗死するなどしてる裏で
10/13に上宮寺(岡崎市)や本證寺(安城市)や勝鬘寺(岡崎市)へ
石山本願寺が書状を出して支援要請してる。
10/28にも三河の浄妙寺・慈光寺・無量寿寺・願照寺にも支援要請してる。
家康は一向宗の叛乱を恐れ石山支援を事実上容認していたのがわかる。
謙信が死んだことで御館の乱が発生し
信長が北陸戦線防衛に必死になることなく
勝頼の遠江侵攻への支援が可能になる余裕が出てくると
9月に信康の岡崎へ三河国衆が出仕するのを禁止して
万が一の時の武田との交渉チャンネルである
信康の排除へ家康が動き出す。
そして家康と北条の同盟が成立する天正7年9月に切腹。
それと同時に徳川領での石山本願寺支援も消えていく。

37 :
>>34
維持するも何もまず総指揮する信玄がくたばりかけている
病床で長々と城の中で寝込んでいる信玄に軍を指揮する力はない
じゃあ誰かが代わりに総指揮するかと言うとそういうこともできない(史実でもやってない)
つまり60000の軍勢がいても誰も動かす奴がいないから三河で観光や宴会でもするしかない。

仮に武田軍が20万近くいて、織田軍がたった1000人でも武田軍は織田軍に勝てない
指揮する奴がいないのに戦争も糞もない

38 :
>>33
それすら不可能だろう
武田軍は信玄が長篠で療養を始めてから、4月に信玄が信濃駒場で病死するまで
軍事行動らしい軍事行動が一切できていない。小石暢太郎文書によると4月6日の段階ですら
武田は遠江三河国境に存在して家康とチンタラ対陣していることが書かれている。
つまり信玄が病気で療養している間武田軍は誰1人兵を動かして戦争することができない状況
そして信玄の病気は不治の病だから信玄は死ぬまで病床のまま。

39 :
スレタイ黙殺で荒らし行為をするなよ…

40 :
>>37
一応スレタイに沿って1年ほど多少健康で長生きを前提にしてるからね
仮にそうだとしても武田の貧弱な経済力じゃたとえ60000もの軍勢があっても食わすことは不可能って事よ
つまり60000なんてのは妄想の産物だったと言いたかっただけなんでまぁあんま気にすんな

41 :
>>40
ID違うじゃん…まーた自演かよ。

42 :
だがチョンがすぐ自演自演言い出すのは自分がやってることだからなんだろうなw
>>40
いや、スレタイは「半年〜1年ほど長生きしたら」だから
どういう状況で長生きしたかとは明記されていない。
武田信玄の場合、死の半年以上前から慢性的に病にかかっており、
徳川攻めへの出陣も病によって1ヶ月遅らせている。
上杉謙信の場合は、倒れてから数日足らずで逝去しており、死因は脳溢血であるという見方から
「長生きしていたら」との仮定では、健康的な生活を送れるかもしれないと言う予想が立てられるが、
武田信玄の場合は逝去するまで長い間病によって身体を蝕まれているため、例え信玄が長生きしても健康的な生活が送れるとは言い難いと思うんだがね。
まあいずれにせよ60000だろうが200000だろうが、武田軍が織田軍に万が一にも勝因がないことはわかってくれていると思うけど

43 :
>>7に同意かな。
後継者をしっかり決めてその体制を作ってやるべきだしょ。
信玄がー、謙信がー、って希望を持ちたいのはわかるが、この2人のスピード
からすれば1年程度じゃ足りない。
特に信玄の場合には、>>42の言う通りで、「健康であったら」がプラスされる。

44 :
織田厨単発ID自演放送をお楽しみくださいw

45 :
残念だか越後と甲斐の田舎侍に天下をとれる余地はなく、
中央政権の統一時が少し遅れるかどうかだ。
信玄の場合、信長と手切れを選択した時点で、もう一族の命運は決したわけだし。何も変わらん。
むしろ土地制度の面などから、後北条の方を話題にした方がよさそうな…
家臣の離反に悩んで逃げ出す謙信をなぜ英雄扱いするのか、理解に苦しむ。

46 :
前提ルールを変える。
反論を恐れ具体的な書き込みはせず抽象的偏向レスで知識説得ではなく、自演で多数派を装い何となく印象づけ誘導する。
知識がないので一次史料に基づかず悪口中傷に終始する。
これが織田厨の習性だな。

47 :
>>42
>>武田信玄の場合、死の半年以上前から慢性的に病にかかっており
鴨川氏が家康に一撃を加えた後に東美濃の別働隊と
信玄が合流して岐阜を攻めて信長を滅ぼせたかも知れないと主張しているが、
森田善明も新著で鴨川氏の意見に賛同して
信玄が朝倉や浅井に5月を目標スケジュールに据えていたのは
飯田から東山道を使って東美濃へ進出する際に通過する
神坂峠の雪解けを考慮していたからだと主張してるな。
信玄は野田城攻略完了して信濃へ進軍した時の」2/16には
まだ花押も書けるほど元気で、その後に急に病状悪化し急死したと。
(信玄は面倒な時は朱印で誤魔化していた)
そして信玄が死去した時期がちょうど雪解けして進軍可能な時期になっていたと。
(永禄の暦だと雪解け3月下旬から4月上旬)
だから信玄は「信長滅亡の時がきた」と自信を漲らせていたと主張してる。
(信玄が病を押して出陣したなどと書いてるのは甲陽軍鑑のネタで、
病が重くなってきた信玄が三河から引き上げて甲斐に戻るも、病が小康状態になったので
信長を倒すために美濃岩村へやってきて、織田軍1万を粉砕するも病が悪化し死んだと書いてる)
むしろ三好長慶が鬱病が死因とかいろいろ言われているが、まったく根拠なく、
長江正一氏は、長慶死去の3年前の永禄4年ごろから病だったのではと書いているほど。
>>43
後継を決めても信忠みたいに病気で死ぬのではなく、
父と一緒に死ぬ選択をした馬鹿を後継にしちゃ意味ないだろ。
>>45
>>むしろ土地制度の面などから、後北条の方を話題にした方がよさそうな…
君のレスは突っ込みどころ満載なのは上記の素晴らしい意見を評価して不問にしよう。
よし、さぁ語ってくれ。期待してる。

48 :
>>47
その通りだよね。
だから体制を作ってやるべきだと書いたんだ
いつ死ぬなんて解らないしさ、どこまで意味があるかは後世の人しかわから
ないけど、それでもしないよりは良い。
今の時代だって、金貯めたり、生命保険は言ったり、自分が死んでも子供が
大丈夫なように図るでしょ。
特にこのスレは1年長生きしたらだしね。

49 :
後継者を立てることの優劣は決め難いな。
足利義持は死ぬ間際に、後継は誰にする?と再三聞かれても勝手に決めてくれと言って突っぱねてるからね。
理由は俺がいくら後継指名したってお前たち重臣が従う気持ちが無ければ意味ないだろ!
それよりはお前たちが支えたい者を相談して決めて擁立しろや!って言ってたし、
足利義政の後継を巡って応仁の乱が始まったのも義政が指名拒否したから、重臣らがそれぞれの次期将軍を擁立しただけだしな。
結局、織田重臣は織田当主を否定し、
上杉重臣は景勝を後継に決めた。
国人重臣たちの意向なんだよ結局。
浅間山噴火が武田滅亡の怪異と噂が流れ自壊した武田重臣たちは選択するいとまがなく可哀想だったけどな。

50 :
>>42
その辺はよーわかっとるよ
だがチョンがしょっちゅう60000とか妄想言ってるんでそっちを否定しただけだし

51 :
>>50
>>17
内政軍事動員などの組織論で考えても
内政いい加減で、兵站も整備してないため
志賀の陣の時点ですでに兵糧すらなく土下座した信長に
勝てるみこみはまったくないけどな。

52 :
>>50
おい!なにとぼけてるんだよwww
>>むしろ土地制度の面などから、後北条の方を話題にした方がよさそうな…
君のレスは突っ込みどころ満載なのは上記の素晴らしい意見を評価して不問にしよう。
よし、さぁ語ってくれ。期待してる。

53 :
シコリアンだがの妄想スレか

54 :
だがの妄想の中ではどうやって信長は尾張統一して美濃支配して京までいき浅井朝倉滅ぼして本願寺当主を高野山に送り武田滅ぼしたのか
織田が土下座土下座とひたすら連呼してるけどその土下座軍に史実で滅ぼされてるわけで…

55 :
>>53>>54
>>むしろ土地制度の面などから、後北条の方を話題にした方がよさそうな…
君のレスは突っ込みどころ満載なのは上記の素晴らしい意見を評価して不問にしよう。
よし、さぁ語ってくれ。期待してる。

56 :
とりあえず謙信のやるべきことは跡取りをきちんと決めて発表すること

57 :
跡取りに関しては不明だったとしか言えない。
だって勝者となった景勝側が謙信の遺言では景勝指名だったと言ってるだけで、
証拠が無いからね。
ただ軍役賦課から考えると確かに景勝が後継者とされていたと考えるのが自然なんだけどね。
反上田長尾勢力を厩橋の北条を利用して後北条が発火させるべく煽っただけな気がする。

58 :
いいや、生前に家督を譲るという手があった。
それをしなかったのは謙信の権力が不安定だったか、もしくは怠慢。

59 :
実際、信長も家督を譲ってなかったとも指摘されてるからなぁ。
信忠を岐阜城主にはしたけど。
ただ単に安土城に信長が移転したからだし。
その理由として信忠発給の書状があまりにも極端に少な過ぎて、
織田当主としての行動が確認できないこと。
そもそも出家して家督を譲るという事態には、
失政が原因で、装いを新たにして新外交方針で臨む表明でもあるし。
家臣団による強制家督交替と対して変わらない。
たとえば福川氏によれば大友義鑑の死去で後を継いだ大友宗麟にしても
大友宗麟が天正5年に後見していた義統へ家督を正式に譲渡したのも、
信長による対中国、対四国政策が本格化してきたので、複雑な同盟政策を展開する必要性が生まれたからだとしている。
備前の浦上宗景や出雲の尼子残党と同盟関係を構築するなど、大友の外交同盟政策は複雑化していってる。
佐竹義昭の死去で家督を継いだ佐竹義重も後見していた義宣に家督を譲渡したのは対秀吉外交が原因だし。
北条氏康も悪政が原因で氏政に家督を譲渡しているし、その氏政も武田の攻勢に上野国を失いそうになった甲相同盟破棄の失策の挽回のため
氏直に家督を譲り、武田とともに織田を敵視していた政策を撤回し、徳川の仲立ちによる北条と織田の婚姻同盟を推進する刷新からだし。
信長が本当に信忠に家督を譲っていたのなら、そこに信長のなんらかの致命的失敗による家臣団との軋轢がきっかけになっているはず。
何も問題が生まれなければ戦国大名というのは終身維持する身分であり、致命的失策が己の威信の低下を呼び家臣団により家督譲渡を強制させる。

60 :
そりゃそうでしょ。
天下の右筆と呼ばれ、松永久秀に無理を言って信長が自分の右筆にしたほどの楠長諳が秀吉の右筆になってんだから。
本願寺顕如や教如に土下座血判状を信長の血液で押印して出した際でも、
最上級の敬意を表すために権威ある楠長諳が文章書いてるほど。
天正10年7月11日に織田家をないがしろにして秀吉が細川家と独自に家臣同士の連盟を結んだ血判状は楠長諳が文章を書いてる。
信長と秀吉が出した血判状はこれだけで、全て文章は楠が書いてる。
信長死ぬや織田を見捨てて秀吉の右筆になってるあたり、
最初から織田家は信長一代限りと周囲は認識してたんだろう。
所詮、信忠は信長の傀儡であり、
信長がRば織田家が崩壊するのがわかっていたから、
信忠は信長と一緒に死を選んだのであり、
信長と一緒に死ぬ選択をして家を家臣に乗っ取られたバカを後継者に選ぶより、
後継者を選ばない方がまだマシという意見も当たらずとも遠からずだろう。
そもそも信忠は後継者には選ばれてなかったから、
天下の右筆がそば近くにいなかったのだから。

61 :
結局あまり変わらないんじゃ?

62 :
うむ。たった一年延びても織田潰すほど大局的に変化はない
謙信の延長戦→厠で卒倒…と思ったらウンコふんでスリップしただけでノーダウン、関東へ予定通り出陣し北条を痛めつけ数ヶ月後に帰還。しばらく兵を休ませた後にいよいよ信長を討つべく大動員をかけるも厠にてこんどこそ卒中

信玄の延長戦→駒場で死の行軍中に体調が回復。しかし既に退却も半ばまであり、兵糧、帰りたい兵の士気も考慮しすぐに反転はせず甲斐についてから再度本格的に侵攻する準備をしてから出陣
しかし遠江に入り浜松城を囲むまで進むが再び病気が再発し今度こそ危篤になり駒場まで引き返したあたりで息を引きとる

63 :
>>17
織田のいい加減な戦闘姿勢にたいして、武田や上杉や北条の軍事革命した統率の取れた軍隊じゃ、信長なんてフルボッコされるだけだね。
>>18>>19>>20
こりゃあもう信長は信玄に王手をかけられて滅亡寸前だわな。
>>21
朝敵信長・・・・賊軍確定じゃんwww
>>22
信長がもはや謙信にフルボッコされる前夜じゃんwww
>>23
天皇がいなかったら信長なんて速攻で死んでたなwww
>>35
信長も滅亡を悟り自暴自棄だったやんwww
>>36
家康も信長を見捨てる寸前wwww
>>47
信長すでに信玄により死刑宣告されたも同然じゃんwww
>>51
全面的に信長の方が圧倒的に無能なのは間違いないな。
>>62
いままでの議論をすべて無かったことにしてリセットかwアルツハイマーかお前wwww

64 :
だが晒しage

65 :
二人が共同戦線張っていたら

66 :
むしろ共同戦線ではなく謙信・信玄が互いに敵対してたにもかかわらずあそこまで
織田を追い詰めたんだから、両者が不可侵条約でも長期間結んでたら織田は瞬殺されてただろうな

67 :
いやー全然追い詰められてないけどw
まあ信長はだいたいどの勢力とも仲良くしてるから不可侵条約は無理じゃないっすかね。

68 :
>>67
>>17-23を100回くらい読み直しましょうね。

69 :
多分3ヶ月くらいかけて美濃・尾張占領。
その後政略で立て直した織田方に対してじわりじわりと信玄の攻勢が続いて5か月くらいで
織田滅亡or降伏って流れになるんだじゃないかな?
謙信の時も大体そのくらいじゃないかと。

70 :
お前の妄想に基づく仮想戦記はどうでもいいから
火葬にでもしとけ

71 :
妄想も何も>>17-23のように史実で滅ぼされかけてる織田方が信玄が生きてても
その後持ち返すっていう方が妄想なわけで。

72 :
全盛期の信玄ならまだしも野田城囲ってるときの信玄なんて床に伏しっぱなしの重病人だし話しにならんね
信玄がゾンビかサイヤ人ならまだしもw

73 :
>>72
>>47

74 :
>>71
いいえ、妄想です。

75 :
>>74
お前の主張(信玄・謙信が生きてようが史実に変化なし)
が妄想な

76 :
信長の主力は志賀の陣と三方が原などで壊滅し
四将のうち2将が欠け、兵力も物資ももう途絶え気味なので
単独で抗戦するのは無理とみていい。
後は同盟者頼みと朝廷を介した和議にどれだけ期待できるかが鍵だな

77 :
半年なら尾張・美濃を制圧し、伊勢・近江を攻囲中くらいの流れだろうか。
ここで信玄病死ならまた混沌としてくる可能性もあるな。それでも武田の優位は覆らないだろうが

78 :
>>75
また相手が1人に見えてるの?まあどっちでもいいや
とりあえず妄想の垂れ流しはやめるんだな

79 :
>>73
えっ、>>47の理屈を完全に信頼しても
「2/16にはまだ花押も書けるほど元気で、その後に急に病状悪化し急死した」だから
2月16日を越えてしまえばその後信玄がいくら長生きしようが瀕死の重症だったってことじゃんw
野田城が落ちたのが2月16日だから、そっから信玄は何もできてないじゃん・・・意味ないじゃん
武田信玄の病は不治の病なんだから、結局そこから信玄がどれだけ床の間で踏ん張るかというだけしかなく、
結局信玄抜きで何もできない武田軍は大軍団抱えたまま三河で静養するしかできない状態じゃん・・・

80 :
>>77
いや、そもそも総大将が病に伏しているのにどうやって戦争を続行できるんだよ・・・
仮に信玄が出陣前に「総大将は勝頼、ワシが死んでも戦争続けろ」とでも言っておけば
そんなことも可能だったかもしれないが、信玄はそんなこと一言も言っておらず、結果
信玄が病に倒れたために武田の指揮系統は混乱して何一つ軍事行動ができない状況になってしまった。

だから「信玄が長生きしていれば」なんて言わずとも、「最初から勝頼が全権を持っていれば」織田と決戦に持ち込むことは可能だったわけで
それが>>7>>43の意見に繋がっている。結局信玄が無能だったために自分の命や体調を軽んじて、あるいは信玄の猜疑心が強かったために
自分以外の誰かに総指揮を委ねることができず、自分を過信した結果が信玄重病→誰も軍事行動できず→信玄死去に繋がるんだから
結局信玄の無能さ未熟さが武田の命運を分けてしまったわけ。

81 :
>>79-80
だがさんの自演は分かりやすいなぁ……
病状うんぬんじゃなくて、信玄は信長には勝てないの。ガチで。
分かった?

82 :
>>81
俺はだがじゃないよ
もちろん信玄は信長にはまず勝てんよ
ただ史実の信玄は、そういう勝ち負け云々じゃなくて「勝負する」土台にすら立ってないでしょw
「勝ちか負けか」じゃなくて「眼中にない」レベルなの
そういう点では勝頼の方が信玄より上なのよ

83 :
そもそも信玄が本気で信長に勝つ気があったのなら、徳川を無視して信長と決戦すればいいし、
それは不可能、長期戦を想定していると言うなら、勝頼にしかるべき権限を委譲させて備えるべきだった。
勝頼は上洛戦当時数え年で27。普通なら大名をやっていてもおかしくないわけ。

長期戦を備えているなら、信玄は自分の年齢を考えても、途中で死ぬ可能性だってあるわけで、
勝頼にしかるべき権限をゆだねていれば、少なくとも病で退場なんて惨めな末路にはならなかった。
実際に北条家は当主の氏康を死んでも、後見当主を定めていたおかげで氏政が迅速に武田と盟を結んで危機を脱した。
ところが信玄はそれをしなかったがために、自分の病で武田軍全体を機能停止させ、最悪の形で武田勝頼にバトンを渡した。

信長に勝つか、負けるか、それ以前に「勝負できるかどうか」の段階だったのが武田信玄
それを回避するための「隠居策」すら講じれなかったのが武田信玄

84 :
織田厨は相変わらず一次史料による基礎情報を一切、無視した会話を自演でする時だけは異常に元気いいなw
いやアスペだから不自然とも思わないだろうな。

85 :
武田軍6万w

86 :
武田が6万も集めたら集めて数日で領内の経済崩壊しとるわwww
領民反乱頻発して行軍もできねえよ

87 :
>>85>>86
なんの根拠も一切、出さずに
織田厨の願望自慰妄想垂れ流し自演乙

88 :
武田軍6万こそなんの根拠もないだろw

89 :
>>むしろ土地制度の面などから、後北条の方を話題にした方がよさそうな…
君のレスは突っ込みどころ満載なのは上記の素晴らしい意見を評価して不問にしよう。
よし、さぁ語ってくれ。期待してる。
織田厨は上記を黙殺して逃亡中www

90 :
池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
各自に任されていた。
これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
従って武篇道と戦果が問題となる。
池上裕子→武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹 →信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地→興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地→興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。つかできない。
北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。信長が国内を統治していた証拠など無いに等しい。
織田諸将が直接、在地と主従関係を結んで地域割拠していたので
地域一円謀反が多発し信長が死んだら、即、織田が瓦解したのであろう。
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
排便などの衛生管理は非常に重大な問題で北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。
この限界の壁と突破できるのが内政軍制改革の結果であり、
圧倒的大軍による威信を背景にした「位攻め」戦略であり、
これが達成できない限り全国支配など夢のまた夢。
結局天下を取るのに大事なのは多く兵を動員できるか
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1322744022/l50

91 :
謙信がちょっと上野をつついただけで撤退する武田軍wwwwwwww
戦略がザルすぎて笑いがこみあげてくるwwww

92 :
>>91
当時の勝頼は東美濃の明智城や櫛原城(恵那市)や神箆城(瑞浪市)を落城させて快進撃だったから
信長の窮地を救うために謙信が上野へ出馬したんだがw
この時の勝頼は戦略的に提携していた丹波の赤井にも書状出してるしな。
その後、信虎の葬儀を終えるや、二股城攻撃していた家康を攻めて6月11日には高天神城を落としている。
29日には上杉と徳川が信長支援していたのに、肝心の信長が、謙信との約定とおり信濃を攻めずにいたので、
謙信が何もせず違背したことに抗議したから、信長は9月になったら武田を一緒に攻めようと言い訳w
しかし信長はまた放置してたので、9月の勝頼は家康がいた浜松城を放火し、久野や掛川城にk付け城完成www

93 :
火病起こしてるっぽいんでちょっと落ち着いてから書けよだがチョンw

94 :
>>むしろ土地制度の面などから、後北条の方を話題にした方がよさそうな…
君のレスは突っ込みどころ満載なのは上記の素晴らしい意見を評価して不問にしよう。
よし、さぁ語ってくれ。期待してる。
織田厨は上記を黙殺して逃亡中www

95 :
6万も武田軍がいたのに上杉の防備に残す兵力はなかったらしいwww

96 :
武田の所領で6万ねぇ。
領民を餓死させる気かね。

97 :
竹田には金山あるの知らないの?石高には麦などの収入含まれてないんだけどwwww

98 :
竹田?
火病起こしてるだがさん落ち着けよ
それと金があっても飯は買わなきゃ湧いて来ねえよ

99 :
熱田〜伊勢の商業通商ルートを武田水軍と伊勢水軍に封鎖され
破綻財政だった織田軍は金も兵糧も火薬も尽き周囲は離反三昧で1万しか兵を集められなくなり自暴自棄となった信長は京で虐殺略奪を開始。
武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた(戦国遺文武田1496・1515・1625)
もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ(本光国師日記)
元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが(1748・1789)
北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。
元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、
11月には武田水軍(伊勢水軍)が三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている(1995)
天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる(当代記)
6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に押収され
翌月から武田が船手判を発行することで解決してる(静岡県史資料8の773・785)
小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、
三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。
天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は(3178)
天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており(3331・3332)
北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる(3534・3535・3536・3372)(静岡県史資料8の1394)
要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。
第二次長島侵攻直前の天正元年(1573年)9月20日付けの塙直政の書状
信玄の西上中にも岐阜にほど近い新砦の守備をしていた日根野弘就に協力してた
伊勢大湊自由商業町の山田三方の福島親子が船を出していたことが発覚し、のち殺される。
このことからも織田に伊勢水軍が従っていたなかったことがわかる。
茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
まさに面従腹背の北畠と伊勢水軍である。
そして林通政を討たれ逃亡中に凍死続出で大敗する織田軍・・・これを受け信雄も天正2年に発給文書ゼロ。
その記述や天正元年9月の第二次長島侵攻での織田軍の退却での追撃で、
元亀2年の退却同様に大打撃を受けて、
信長公の一の長の林新次郎(道政)討ち死にも含めて、
一向一揆論の金龍静氏も、
すでに尾張国海津郡一体はほぼ全てが一向衆化していたと書いてる。
第二次侵攻時において恐怖とパニックで周りが全て敵に見える信長は、
深谷部の近藤氏は禅宗に帰依してたのに一向衆と誤認して攻撃してる体たらく。
海津郡失陥は重大な事件で、
これにより尾張から近江へ行く街道が封鎖されてしまい蒲生は敵中孤立。
蒲生が朝倉に帰属するのもうなづける。
また伊勢大湊に伊豆の大船が着岸していた事実から、
甲相同盟に基づき、
北条水軍まで伊勢湾に支援に来ていた。

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