周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗 呉の軍師を語るスレ 6 (365) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
もし司馬遼太郎が三国志書いてたらさ… (175)
周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗 呉の軍師を語るスレ 6 (365)
【秘本三国志】陳舜臣スレ【中国の歴史】 (205)
【扶余】 高句麗 【広開土王碑】 (243)
水滸伝の英雄好漢について語れ 第四位・天間星 (707)
【なんでも】六角派が語る武侠ドラマ【雑談】 (879)

周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗 呉の軍師を語るスレ 6


1 :2007/03/03 〜 最終レス :2013/09/27
周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 呉の軍師を語るスレ
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1158115995/
周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜を語るスレ
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1129711574/
周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜の中で一番は?
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1129283103/
周瑜VS魯粛VS呂蒙VS陸遜
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1063987940/
周瑜と陸遜どっちが優秀なのか
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1046456958/

2 :
移転してきたのか
良スレ歓迎します

3 :
移転ではないよ

4 :
誘導厨乙
勝手にやれ

5 :
孔明に軍事の才能は無い
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1173010518/

6 :
そもそも軍師とは何か?
軍師と称されながら、本来は政治家と呼ぶべき人物もいるだろう。

7 :
周瑜
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E7%91%9C
 周瑜(175年 - 210年)は中国、後漢末の武将。字を公瑾と言い、呉の孫策・孫権に仕えた。後漢の尚書令・
周栄の玄孫、周興の曾孫、洛陽県令・周異の子、周循と周胤の父。妻は小橋。諡は忠侯。
青年期
 揚州廬江郡の人。三公の一つである太尉を二名出した名家に生まれ、成長してからは立派な風采を備える
ようになった。若い頃より音楽にも精通し、演奏を聴いていると、たとえ酔っ払っていても僅かな間違いを聞き取
った。これにより「曲に誤りあれば周郎が振り向く」と言われた。
 孫堅が反董卓の義兵を挙げた際、孫策は母を連れて住まいを舒に移した際、同い年の周瑜と篤く親交を深
めた。2人の友情は「断金」、つまり金属を断つほどに堅い絆で結ばれていた。孫堅亡き後、袁術の元にいた
孫策が江東(呉)へ軍を挙げると(194年)、周瑜もこれに付き添って功績を挙げた。
 その後、揚州北部の皖を攻め落とし、この時、橋公の二人の娘(二橋)の姉の大橋を孫策の、妹の小橋を周
瑜の妻にした。『三国志演義』では、二喬は、喬玄の娘で「江東の二喬」と呼ばれており、姉は大喬、妹は小喬
と呼ばれ絶世の美女とされていた。
 その後孫策が急死し、弟の孫権が後継者となった。孫権の母親である呉夫人は、周瑜を孫策同様に兄事す
るよう孫権に説き、周瑜は張昭と新政権の様々な処務を取り仕切る事となった。この頃諸将や賓客の中には
継いだばかりの孫権を軽んずる者もあったが、この時周瑜は自ら率先して敬意を尽くし、臣下の礼を取って規
範を示した。

8 :
孫呉の総司令として
 建安11年(206年)、山越討伐を行う。孫瑜らを用いて麻・保、2つの屯所を攻略すると、捕虜は1万人余り
に上り、引き揚げて官亭を守備した。 この後、江夏太守の黄祖が部将・ケ龍に軍勢数千人を預けて孫権軍の
前線基地・柴桑に侵入させると、周瑜はこれを追討して攻撃し、ケ龍を生け捕りにして呉に送還した。 建安13
年(208年)春、前部大督(前線総司令)に任命された周瑜は江夏の黄祖を攻略し、これを撃破。孫堅以来か
ねてよりの仇敵を討ち滅ぼす事に成功する。
赤壁の役
 同年9月、河北の統一を果たして覇者となった曹操が軍を率いて南下する。荊州を降伏させてその兵士を
吸収すると、水兵歩兵あわせて80万ともいわれる大軍になった。 この事態を受けた当時の孫権陣営では
降伏論者が多数を占めていたが、この時周瑜は魯粛と共に意見を同じくし、徹底抗戦を主張した。周瑜は
曹操軍が冒している数々の不利と、対する自軍の利を理路整然と説き、これによって意を得た孫権は曹操
に対抗する事を決断する。
孫権は精兵3万を周瑜および程普らに与え、この時荊州から逃れてきた劉備と協力して共に曹操を迎撃
させ、赤壁の地で対峙した。果たして周瑜の予測した通り、この時曹操軍はすでに軍中に疫病を抱えてお
り、一度の交戦で曹操軍は敗退して、長江北岸に引き揚げていった。
そこで次に周瑜らは南岸に布陣すると、部将黄蓋の進言を採用して、曹操軍艦船の焼き討ちを計画する。
降伏を偽装して接近に成功した(演義ではこの時苦肉の計が行われたとする)黄蓋が曹操軍の船団に火を
放つとたちまち燃え広がり、ことごとく岸辺の陣営に延焼した。被害は多数に及んだために曹操軍はついに
敗退し、引き返して南郡に楯籠った。
劉備が周瑜らと再度合流して追走すると、曹操は曹仁を江陵城の守備、楽進を襄陽の守備に残し、自らは
北方へ撤退していった。大軍を擁した遠征で必ずや疫病を抱えるだろう事、船団の扱いに不慣れであろう事、
曹操軍の弱点をすべて見越した周瑜の勝利である。

9 :
36年の短い生涯
それに続いて孫権は呉にとっても重要な拠点となる江陵に目をつける。そこを守るのは魏の誇る歴戦の将、
曹仁と徐晃であった。さすがにこの2将の守りは堅く、また曹仁も徐晃も勇猛なため簡単には落とせなかった
が、周瑜はその機略を以ってうまく曹仁と徐晃の部隊を分けると、自ら曹仁軍を粉砕し(この時、曹仁は万余
人の兵を失った)、そのまま江陵を攻め立てるがこの時周瑜は流れ矢を受けて負傷し、それが病へとつなが
った。だが周瑜は自分が重体であることを用いて有利に持っていき、ついに曹仁・徐晃らを撃破し、江陵より
追い出した。これにより孫権は重要拠点・江陵を制圧することができた。しかしこの戦で周瑜の病は更に悪化
してしまった。それでも周瑜は無理を押して孫権の元へ行き、益州の劉璋が惰弱なことから益州を占領し天下
を曹操と分けるといういわゆる「天下二分の計」を立てる。が、これが周瑜が孫権への遺言となってしまった。
実行に移すべく江陵へ帰還途中に36歳の短き人生を閉じた。

10 :
周瑜の評価
周瑜は度量が寛大で人の心を掴むことが得意だった。宿将程普とだけは折り合いが悪く、程普は若輩の
周瑜を度々侮辱していたのだが、周瑜はあくまで膝を屈してへりくだり続けたので、その謙譲さに程普もとう
とう感服し、尊重するようになったという。
また、曹操や劉備は周瑜の才能を恐れ、曹操は家臣の蒋幹を使者として周瑜の引き抜きを図り、劉備は
孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようと図ったほどである。史実の周瑜は知略・武略に優れる
名将であり、味方からは慕われ、敵からは恐れられた英雄だった。
『三国志演義』での周瑜は、諸葛亮に翻弄され続ける損な役回りを負わされている。自らの策を全て見透
かしてくる諸葛亮を危険視し暗殺を企むも果たせず、終始ライバル視しながら対抗するも遂に敵わず病に倒
れる。臨終の際にも諸葛亮からの挑発的な書状を読み、「天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも
生んだのだ!」と血を吐いて憤死するという哀れな最期となっている
なお京劇では周瑜は「美周郎」のあだ名の通り、二枚目が演じる役とされており、眉目秀麗な英雄としての
イメージが定着している。

11 :
魯粛
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%AF%E7%B2%9B
魯粛(172年 - 217年)中国後漢末に袁術・孫策・孫権(後の呉)に仕えた武将・参謀。字は子敬。徐州の
臨淮郡東城県(現在の安徽省定遠県南東部)の出身。曹操との赤壁の戦いでは降伏派が多い中、主戦論
を唱え周瑜と共に開戦に成功した。また劉備陣営との提携に成功させた。周瑜の死後は孫権陣営の舵取
り役として活躍する。魯淑の父、魯睦の祖父。
経歴
生まれてすぐ父親が死去。裕福な家に産まれたが家業は放り出し、財産をなげうって困っている人を助け、
地方の名士と交わりを結んだ。また剣術・馬術・弓などを習い、私兵を集め兵法の習得などに力をいれてい
た。周瑜が孫策の元に行く前に、資金や食料の援助を求めにきた時、彼は持っている2つの倉の内の片方
をそっくり与えた。魯粛と周瑜はこれをきっかけに親交を持つ。

12 :
孫権政権へ
魯粛の名声が高まると、袁術に請われ配下となり、東城県の長に任命された。しかし魯粛は袁術の支離
滅裂な行状に見切りをつけ、一族郎党を引き連れて周瑜を頼り、袁術から独立し急速に力を増している孫
策の配下になった。
孫策が亡くなると、孫家から離反する人物が多かった。魯粛も友人の劉曄に誘われて孫家から離れ、巣
湖に拠る鄭宝の元に行こうとする。しかし周瑜の説得により思いとどまり、孫権に仕官する。
大胆な戦略
魯粛が孫権に初めて謁見した時、「漢室再興」を望む主君に対して、漢の高祖の例を挙げつつ「漢室再興
も、曹操をすぐ除く事も不可能」と断じ、まずはじっと様子を伺い、北方の騒乱に乗じて黄祖、劉表を攻めて
荊州を制圧し、長江を北岸として割拠してから自ら帝王を名乗るべしとした。 この戦略は後年における諸葛
亮の天下三分の計に先んじるものであり、かつ「自ら帝王になれ」という非常に野心的で大胆すぎる提案で
あった。孫権は「今は地方が手一杯。漢室がお救いできればと願うばかりで、そのような事はおよびもつか
ないな」と答えるのみだった。しかし、重臣の張昭が魯粛の不遜さを中傷しても孫権は意に介さず、ますます
魯粛を重用した。
孫劉同盟を司る
赤壁の戦いの直前に劉表が亡くなると、すぐに荊州の様子を探りに行くように進言。その事情を把握すると
劉備と同盟を結び曹操と対峙する事を進言した。そして、周瑜を召しかえし、曹操の軍にあたらせたり、諸葛
亮と話し合い同盟の手はずを整えるなど赤壁の戦いの時は主に縁の下で働いていた。
周瑜が亡くなるとその遺言で後継者として選ばれ、呉の軍隊をとりまとめた。地方でも彼の威徳は行き渡り、
赤壁の戦いで疲弊していた呉の国力を回復させる。劉備の部下の関羽と魯粛の間では、荊州を巡ってしばし
ば紛争が起こっていたが、魯粛は劉備と同盟し、曹操に当たることが呉の将来のためであることを信じ、劉備
達には常に友好的な態度で接し、事を荒立てないようにした。しかし、要求を行う時は常に毅然とした態度で
臨み、兵を用いずして荊州南部の三郡(長沙・零陵・桂陽)を取り返す事に成功した。
217年に46歳で亡くなった。 

13 :
人物
『正史』では、虚虚実実の渡り合いを見事にこなし、沈着冷静にして剛毅な人柄であることがうかがえる。特
に、赤壁の戦い以降、煩雑な情勢を巧みにあしらい、あわよくば荊州をものせんとする蜀を退けるなど、外交官、
行政官としても卓越した手腕の持ち主であり、柔軟さに優れた戦略家であった。
しかし、『三国志演義』では、知略に優れた人物として扱われつつも、温厚かつお人よしな性格のために諸葛
亮にいいようにやられ、周瑜になじられるという損な役回りを演じている。また、正史では成功した関羽との交渉
も、演義ではけんもほろろに追い返されてしまっている。こうしたキャラクターのためか連環画などではその性格
を表した風貌に描かれることが多い。

14 :
wiki厨乙

15 :
軍師って何だかあやふやな存在だよね。

16 :
だな

17 :
たまには諸葛さん家の息子も思い出して上げてください><

18 :
諸葛セイはなんかもの哀しい

19 :
http://www.youtube.com/watch?v=YDU991GsEk4
他スレからの転載。周瑜と陸遜がすげー美形。
この頃から光栄は狙ってたんだなw

20 :
三国志二十四大英雄
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1175545567/

21 :
あげ

22 :
軍師か?政治家か?
難しい問題だな。

23 :
三国志・蜀将討議スレッド17
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1180445040/

24 :
三国志名将二十四選
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1180016273/

25 :
どう見ても呉の軍師たちを好きな人がアップした動画ww
http://www.youtube.com/watch?v=7Szk9TgDnQk

26 :
陳端と秦松を語るスレか

27 :
今制作中の映画「赤壁」は呉側からの視点が中心になるそうだよ。

28 :
でもその時点では周瑜と魯粛だけだろ?

29 :
シュウユって実際に流れ矢が元で病気になって死んだのかね
暗殺?

30 :
左軍師 :丁奉、全j
右軍師:朱然
軍師 :張悌
副軍師 :諸葛セイ
呉で軍師と名の付く官職にあったメンバーはこれだけ

31 :
>29 刺客を送り込んだのでないなら普通に戦死または戦病死だろ

32 :
>>30
では、周瑜も呂蒙も陸遜も軍師じゃないってことですか!?演義も正史にも名前はあるけど、軍師というのは演義の創作だったとはorz

33 :
呉の軍師の話なら呉範と孫権のやり取りがあるな
裴松之が批判してるのは孫権が陛下と呼ばれてる点だから
官職の名前にかかわらず参謀の仕事をすれば
軍師として扱われることもあり得た・・・かも知れん

34 :
蜀の魏延が軍師だったのより衝撃的だ(´・ω・`)

35 :
>>34
お前の頭の中の軍師のイメージが小学生並みだからじゃね(゚听)

36 :
軍人の師父だから軍師

37 :
>>29
当時の知識だと破傷風とかわからんだろうし
金創が原因の敗血症とかじゃねぇの?

38 :
カワイソス

39 :
演義で張苞が破傷風で死んでると思い出したが、コレって横光版の特徴なのね。
原版演義読み直したら破傷風とは書いてなかったわ。

40 :
正確に言うと破傷風を思わせるような記述ではなかった。だな。
当時の人が経験則的に破傷風(そうだとは知らなくとも)を避けてたかどうかもちょっと分からん。

41 :
あげ

42 :
陸遜の改名の意図なんなん? 遜は譲るって意味だけど陸家の
今後の生き残りとして孫呉へ参入を踏まえて孫家に対してそういう含みを
こめて改名なんかな?

43 :
改名の意図は確かに気になる。
でも孫家に云々だったらタイミングが遅い気もするんだよな…
確か陸議の名前って結構後になっても現れてたって聞いたことがある。

遜の字の中に孫が入ってるのも何か含みがありそうだと思うのは妄想が過ぎるかな。

44 :
遜の字を分解すると「孫に走る」で孫家に馳せ参じるの意味
かどうかはわからん。妄想だからウィキとかに書くのはナシで

45 :
陸遜って孫権の姪を嫁に貰っているけど、かなり年下だよね。
陸遜はどちらかと言えば孫兄弟の世代の年齢だし。

46 :
年の差といっても劉備と孫夫人ほどではない。

47 :
陸遜の遜は今でいう「遜る」の意ではないときいたことがあるが
確証があるわけではない。

48 :
陸遜 = 西暦183年生まれ
陸遜の妻 =西暦197年〜200年生まれ?
(孫策の娘)

49 :
一般的なイメージと違って、
実際の魯粛は結構、豪傑な感じだね。

50 :
>>45
陸抗が生まれたのって、結構年くってからだよなぁ
奥さん若かったんだろうな

51 :
周瑜は息子も早死しているね。

52 :
もう一人の息子は出来が悪かったな
陸抗の爪の垢でも煎じて飲ませたい

53 :
むしろ呉の二代目はみんなボンクラばかり
陸抗が例外

54 :
二代目にボンクラが多いというのは、古今東西、時代を問わずによくあることでは?
蜀や魏も、そんな感じが多いだろうし。

55 :
陳羣→陳泰とか
鍾ヨウ→鍾会
曹操→曹丕
曹丕→曹叡
黄権→黄崇
あたりは例外だね

56 :
親・子世代
 孫堅→孫策、孫権
 孫静→孫瑜、孫皎、孫奐
 孫河→孫桓
 朱治→朱然
 張昭→張承
 凌操→凌統
 陳武→陳表
 虞翻→虞シ
 顧雍→顧邵
 賀斉→賀景
 陸遜→陸抗
 留賛→留略・留平
子・孫世代
 孫権→孫登、孫慮、孫和、孫休、孫亮
 朱然→朱積
 顧邵→顧承
 賀景→賀邵
呉豪族の血族継承はまこと素晴らしい。
他方、凄まじくダメダメな血族継承も多いのも血族継承ゆえだろうか。

57 :
そういや姜維って子や孫はいたのかな
高官であり年齢考えたらいてもおかしくないはずなんだが名前でてこないよな

58 :
>朱治→朱然
叔父甥の関係だろ

59 :
>>50
陸抗は西暦226年生まれ

60 :
>>57
姜子牙(ウソ)

61 :
>>58
養子やん

62 :
顧栄とか周拠とかも東晋で気炎吐いてるな

63 :
東晋は呉の人材の遺産にも助けられてたり

64 :
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1182528365/4
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1182929964/
三戦板復興プラン
3
三国志スレは立てない、立てさせない。
既存の三国志スレもできるだけ追い出し、戦国一色の板を目指す。
三国志には常に無双の影が付きまとい、それが糞スレ発生の温床となっているから一時的に完全除去する必要がある。
三国志を語りたい住民には一時的に中英板へ疎開してもらい、三戦板の情勢安定を待って戻ってもらう。

理解できましたか?
という事で板の糞化の元凶の三国志関連スレッドは中国英雄板に出て行ってください。
これも三戦板のためなんです。お願いします。
中国英雄板
http://hobby9.2ch.net/chinahero/

65 :
>>63
一方で、その旧呉の人材の勢力が伸びすぎたりしないように、
巧みに操縦している。

66 :
周瑜 戦略A 戦術AA
魯粛 戦略B 戦術C
呂蒙 戦略C 戦術A
陸遜 戦略AA 戦術A
陸抗 戦略AA 戦術AA

67 :
>>65
ほとんどは琅邪王氏の王導の力によるものだけどね。
>>66
ほう、総合的に見て、陸抗 >>> 陸遜 であると?

68 :
陸抗が羅憲を下していたら、その評価に同意していたかも知れない。

69 :
そもそも対羅憲戦は陸抗が総大将じゃないから、もし陸抗に功績があったとしても、それがどれほどまで戦局をかえることになったか…

70 :
総合的に見て、陸抗 >>> 陸機

71 :
これらの軍師たちの中で、経済にも明るかったのは、
誰になるだろう?

72 :
陸遜だろ、陸遜丞相時が呉の最盛期

73 :
周瑜と陸遜の全盛期が同時期だったら
面白かったね。
陸遜が国内を固めつつ敵を牽制し、
周瑜が戦端を開いていくという構図がね。

74 :
名将百選スレより、中国の古典名将排行榜
不朽名将
1 孫武  世界第一兵書『孫子兵法』の作者にして中国軍事学の父。
2 呉起   亜聖、軍事政治両面における奇才で、戦国第一名将。   
3 李靖   唐初第一名将で騎兵戦の天才、『李衛公兵法』『唐太宗李靖問対』の作者。
半人半神的名将
4 韓信   漢初第一名将にして西漢建国の最大の功労者、また古兵法を整理した。
5 李世民  唐の事実上の開国皇帝で、有史以来最速で天下を統一した中国第一名君
        (但し部下の助力、晩節を汚した部分などあり)。
6 岳飛   常勝の名将で、南宋の救った英雄。
7 劉秀   東漢の開国皇帝で、昆陽の戦いの奇跡を引き起こすなど、数々の勝利を収めた。
8 曹操   魏の事実上の開国皇帝で、『孟徳新書』の作者。勝利と共に敗北も少なくないが、
        輝かしい戦績を収める。
9 陳慶之  南北朝第一名将で、田中芳樹氏強力推薦(中国でも有名なのか?w)
10 柴栄  五代十国最高の英主で、天下統一の事実上の最大の功労者だが、惜しくも短命。

75 :
天才的名将
11 項羽  東方のハンニバル、最強の武将だが戦略頭脳に大きな問題があった。
12 霍去病  中国騎兵戦三大天才の一人。
13 衛青  中国騎兵戦三大天才の一人。
14 班超  世界で最も早期の植民者の一人で、「夷を以て夷を制す」策の先駆者。
15 孫臏 『孫臏兵法』の作者で、二度に渡って魏軍を破って斉を隆盛へ導いた戦略戦術の奇才。
16 韋睿  南北朝第二名将で、鍾離の戦いにおける梁軍の事実上の指揮官。
儒将的典范
17 周瑜  若くして優れた武将で、人望もあったが、惜しいことに短命だった。
18 徐達  明初第一名将、北伐を成功させた。
19 郭子儀  唐再興の功労者で、「不戦而屈人之兵」理論を最も実践した。
20 李牧  戦国四大名将の筆頭。その戦いぶりは後世に多大な影響を与える。  

76 :
超群的名将
21 劉裕  南朝宋の建国者、北伐で大きな戦績を収める。
22 戚継光  岳飛に匹敵する名将だが、歴史への影響力は及ばず。
23 諸葛亮  諸葛亮は第一には政治家であるが、軍事面での功績も多大である。
24 楽毅   戦績は輝かしいが、五国を連合させれば敗北の可能性は少ない。
25 檀道済  南宋の名将で、用兵の達人、北伐後の撤退の手際が鮮やか。
26 拓跋Z  北魏皇帝で、華北を統一した。  
27 王猛   政治軍事両面に優れていたことから諸葛亮に匹敵。
28 王陽明  思想家で陽明学の開祖であると同時に用兵の達人で、寧王の乱を鎮圧。
29 陸遜   その功績において周瑜に近く、夷陵の戦いで劉備を破った。  
30 袁崇煥   明朝最後の名将で、大砲を実戦投入した。

77 :
三国志の人物4人中、呉から周瑜と陸遜の2人が選ばれている。

78 :
>>77
周喩が主導していた頃は、すでに巍は君主制国家として完成していたからな。
周喩が巍にいたら名を残すのは難しいだろうな。
裏返せば、曹操の偉大さを顕している。

79 :
>>78
細かいことかもしれんが漢字が違う
周瑜と魏の漢字が違う

80 :
携帯だと変換出来んな

81 :
>>74
兵法書を記した人物が、特に高い評価を受けているね。

82 :
中国古典名将排行榜 で検索したら出てくるけど権威あるランキングか?

83 :
こう並べると周瑜と陸遜がかなり見劣りするなぁ。曹操も・・・
たとえば王朝実質初代で曹操(以上)と思う朱元璋、趙匡胤
項羽がありなら尉遅敬徳、楊大眼、賈復あたりなんか陸遜周瑜より上
と思うけどな。 とりあえず三国志からねじ込みましたみたいな。
周瑜あたり若いつっても岳飛と死んだのたいしてかわらんが赤壁の件
も思えば北→南攻撃で失敗するという典型例の1つとも言えるし岳飛
と比較すると実績がイマイチ。
三国志ならトータルで曹操がランクインがせいぜいじゃないかな。

84 :
>>82
いや、適当に並べてみたもので、権威なんて特にないと思うよ。
でもまあ、中国人の一般的な認識をある程度反映しているんじゃないかな。
>>83
そこまで卑下しなくてもいいと思う。
三国志以外でもやや微妙さを感じる人物がいないわけでもないし。

85 :
岳飛が神扱いなのは分かるとしてあっちで岳飛みたいな扱いされてそうな
髭はランクインしてないんだ。 やっぱそこは客観的に髭は実務はそこ
まででは・・という認識は向こうにもあるのかな。

86 :
関羽は人気者の神様とは言っても、軍事的功績はそんなに認められていないでしょ。
そもそも商売繁盛の神様なんだし。

87 :
何となく軍神だよな。

88 :
日本人の印象ではそうなってるけど
中国じゃ道教の神、商売の神であって軍神としては信仰されてない

89 :
山越との戦いにおいて、一番の功績を挙げた武将って誰になるんだろう?

90 :
>>89
揚州でなら賀斉。荊州でなら潘濬。
…じゃないかな

91 :
止めを刺したのは鍾離牧になるのかのぅ

92 :
呉内部での、武将に対する評価では、
対魏戦争と、対山越戦とでは、どちらが評価される傾向にあったんだろう?

93 :
>>92
根本的に、両者の考え方が違う。
対魏は実質的には戦争で外交の一手段。(建前的には中華世界内での内乱の征討)
対異民族は呉の場合、領土内なので反乱分子鎮圧で内政の一環。
(魏の烏丸や匈奴対策は、中華世界外の夷狄の討伐、教化という儒教的名目。
蜀の西南夷討伐は、実際の所は反乱を口実にした領土拡張政策)
史書に目を通しての自分の判断ですが…戦そのものでは対魏の方が評価されてる。
対異民族は勝敗より人狩りなどの戦果を目的としているためでしょうね。
ただ潘濬の武陵討伐のような三国時代最大級の異民族討伐となると、幾人もの伝に記載があり
太常という立場の人間が責任者となり兵五万ともなる大事業のようです。

94 :
山越からの兵力吸収って結構重要なんだろうなあ。
周瑜と陸遜は若いころ山越討伐で戦果あげてるよね?
他の人はどうだっけ?

95 :
山越討伐って地味だけど
多くの呉将が経験してるな
黄蓋が赤壁戦後あまり見かけないのは
山越討伐に携わっていたからという説もある

96 :
中国史上最強の軍師は誰だ?
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1192760012/

97 :
周瑜ってそんな実績あるのか
赤壁はよく分からないし

98 :
>>97
曹操を長江で食い止め
曹仁から江陵を切り取ったのは
間違いなく周瑜の功績
曹操も周瑜の事を認めてるな

99 :
>>98
具体的にはそれだけになるのかな?

100 :
赤壁以外では山越討伐、孫家に根の深い仇敵黄祖の攻略。
赤壁以前の時点で曹操を打ち破る策を具体的に持ち、
孫権に三国鼎立のチャンスを手に入れさせた。
周瑜がいなければ三国時代が訪れていなかった可能性もなきにしもあらず。
対曹操徹底抗戦派の筆頭。
そして>>98
以後、馬超と盟を結び天下二分の計を実施するむねを孫権に献策。そして実行。
あの時点でそのような視点で天下を語り、尚且つ現実に実施したのは劉備と周瑜のみ。

101 :
基本的に負け無しの名将だし、
だいたい実績ってのは人材推挙やスポンサードは入らんのか?
甘寧や魯粛を引き入れたのは彼だし、孫家に自宅まで提供していたんだぞ

102 :
>>94>>95
山越の討伐の成績が、呉における武将評価の、
基本的な指標になっていたりするのかも。


103 :
プロ野球のファームみたいだ。 山越討伐

104 :
まぁ、今までブルペン登板すらしたことの無かった選手にいきなり日本シリーズの先発投手
みたいな起用をやらかした諸葛亮よりは、呉の方が堅実ではあるな。

105 :
それだけ蜀より呉の方が余裕があったということでは

106 :
呉の方が、譜代となる臣を養成するだけの期間があったからね。

107 :
とりあえず避難
三戦の同スレが荒れててビックリした

108 :
>>105
土着と、よそ者の差と言うべきか
孫氏はいつ頃から江南に居住していたんだろうか?

109 :
>>108
孫武の末裔が本当なら春秋時代

110 :
ソンピンが居るから無理

111 :
普通に漢代のうちに、中原から流れ着いた一族なんじゃない

112 :
韓国「岳飛の出自は挑戦半島」発言に波紋★part4
http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/parksports/1193830877/l50

113 :
全然呉の軍師を語るスレの流れじゃないぞ

114 :
っていうか三戦でやれよ屑共

115 :
>>114
周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗 = 中国英雄

116 :
周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗と並べると、世代が違いすぎるからか、
陸抗だけが浮いてしまう感じがしちゃうな。

117 :
朱然を間に挟めば…都督スレになっちまうな。

118 :
呂蒙:兵法のお手本のような戦い
陸抗:他人にまねできない戦いっぷり

119 :
陸抗、もう少し早く生まれていれば…

120 :
http://www.nicovideo.jp/watch/sm204631

121 :
孫堅の頃の軍師は?
やっぱり程普?

122 :
>>100
江陵に残った曹仁を最終的に駆逐した主力
伝が分散してるけど中々名勝負を繰り広げてる

123 :
>>121
孫堅はわりと自分で考えて頑張っていそう。

124 :
ホウ統と周ユの関係が謎だ。
江陵攻略後なのかとか
なぜ孫権に推薦してないのか
益州攻めの計略は元々は周ユの為に練られたものか
人を見る眼があるらしい?劉備も躊躇したモッサリ君
いきなり功曹登用はエラくない?

125 :
周瑜が南郡太守になったのが曹仁を駆逐したあとなので、
南郡功曹のホウ統と主従になったのはこのタイミングだね。
周瑜は亡くなる直前まで益州攻めを計画してたから、
ホウ統が一枚かんでいた可能性もなくはないね。

126 :
>>124
>益州攻めの計略は元々は周ユの為に練られたものか
あー、そっか。その見方は面白いな

127 :
周瑜が孫策一家に提供した
「南側」の大きな屋敷
南の表現に力関係が現れてるという考えは的外れ?
単に日当たりの問題?

128 :
そもそも周瑜ってその気になれば孫家なんか目じゃなかったと思うんだが
武力的要素では孫家に劣るかもだけど
あんだけ優れた人間が孫家にひたすら尽くしたのが不思議だ

129 :
損得を度外視しての付き合いだったからこそ、真の友誼と言えるのではなかろうか。

130 :
周瑜までは名門だけど、周瑜の子からあんまりパッとしてないな。
だから孫家に寄ったのか?

131 :
呉の四姓とか、呉の建国初期と、末期じゃかなり扱いが違っていたんだろうか。

132 :
単に周瑜が「自分<孫策」と認めたことに尽きるのではないだろうか。

133 :
結局武事に秀でた人間が上に立つべきとされる時代だったからだろう。
曹操・劉備・呂布らもそうやって家格や財力では上の人間達に推し立てられたけども、
初めは協力体制的でも成功するうちに集権的になっていく。
孫策と周瑜の軍事の能力はどちらが秀でるかは置くとして、
孫堅の子という期待が孫策にあった分だけリードしていたと。
が、周瑜もよく孫権の代まで独立とか考えなかったもんだとは思う。

134 :
反董卓の孫堅を周家が援助した。
そのあたりの判断は周瑜の祖父か叔父かは知らないけど、
周瑜本人でないことは明らかだろう。周忠?だっけ?
孫堅死後の孫策と周瑜の関係はその幼い頃に構築した「情」としか説明しようがない。
分かんないのは孫堅死後の周家がどういう状況にあったのか、ということ。
孫策は一家の長になったわけだから勝手するのは理解できるんだけど、
周瑜は勝手に孫策に付き合えるような状態にあったのかな?
周家を挙げて若武者に全力援助するわけがないし・・・周瑜の独断としか思えない。
まあ周家はなんとなく袁術嫌いそうだけどw

135 :
単に周尚が袁術の部将として失敗したからなんじゃないの。
それで袁術とは距離を取っていた周瑜が代わって台頭したと。
もしかしたら周尚が失敗するまで周瑜の方は冷や飯を食わされてたかもしれない。

136 :
後漢書で周忠の息子の地元の評価が高く、
常に数百の車が付き従う、とある周暉が
洛陽で董卓に兄弟もろとも殺されている
 (周忠は献帝の東帰に従い李カクと戦い、
捕まったのを買クに助けられている)
一族の仇の董卓とまともに戦った孫堅は
周瑜達には恩人かも。
袁術にも袁安以来の恩で板挟みだよね。
民間伝承の周瑜の叔父殺しも気になるところ

137 :
>民間伝承の周瑜の叔父殺しも気になるところ
kwsk

138 :
>137
今戸栄一編『赤壁秘話呉臣編』光栄w
『太平〜』にも記述があったような…怪しい記憶でスマン
ほのぼのとした笑い、ラブラブネタの中で
曹操と内通した叔父一家を惨殺!辺り血まみれ…
これだけが妙に怖くて生々しいエピなんだよ

139 :
三国志で過大過小評価されている武将 十二人目
http://game13.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1194892967/l50

140 :
>>138
エピがエビに見えたwwwww

141 :
怖くて生々しい海老w

142 :
残酷志

143 :
上手いこと言うねー>>103

144 :
ファームごときの難易度にされる山越カワイソス
山越はアメリカのアフガンでのタリバン掃討ぐらいの難易度だぞ多分

145 :
周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗 「掃討しても掃討してもどこからか湧いて出る・・・ヒイィィ」

146 :
陸遜「叩いても叩いてもモグラのように奴等はわいて出てくる。
    こいつらを漢化すれば、呉のマンパワーは将来にわたって安泰よぉ」

147 :
ジーコジャパン発足当初の黄金のカルテットみたいだな
周瑜:中田英寿・・不動の司令塔
魯粛:稲本・・縁の下の力持ちのボランチ
陸遜:中村俊輔・・テクニックに優れるファンタジスタ
呂蒙:小野・・テクニックあるが病弱

148 :
>>147
なんか、無理に入れようとしてないかw

149 :
周瑜の方がFWっぽい気がするなぁ。

150 :
本家ブラジルの黄金のカルテットならどうなる?

151 :
周瑜 プラティ二じゃない?

152 :
>>146
○↓
「叩いても叩いてもモグラのように奴等はわいて出てくるわァ!
 こいつらを漢化すれば、呉のマンパワーは将来にわたって安泰だのォ!」
塚本史に任せるんだ!

153 :
>>151
プラティニはフランス人

154 :
張昭は軍師?

155 :
張昭は劉備と孫権が漢官を互薦した時に、劉備から軍師の官職をもらってる
ちなみにスレタイのメンツで軍師の官職に就いた者は皆無

156 :
魯粛が賛軍校尉で参謀らしいことしてるけど?

157 :
>>153
ブトラゲーニョはスペイン人

158 :
そうだな、呉の軍師って言われるとなんとなく張昭が思い浮かぶな。
都督とか提督とか前線最高指揮官とかそんな印象が先に来る。

159 :
都督とか軍師とか大司馬とか
呉って孫権の時代から伝統的に二頭体制なのな。

160 :
いや、二頭といえるのは荊州牧の陸遜からだろう。
周瑜らは陸口の都督というだけで、日常から諸将への命令権があった
わけじゃない。
比較上位だったのは間違いないけど、大都督は戦時任命であって、
しかも指揮権の優位を巡って程普や孫皎と問題になりかけてる。

161 :
そういや丞相も左右にいた事あるな

162 :
大司馬も

163 :
役職が左右に別れてると
何らかの利便性あるのかな

164 :
権力集中させたくない場合や、力量不足の場合補佐で右に補佐役
置いたりするみたいだな。
呉は若干皇帝権が惰弱だから結構合ってるのかも。個人的には
小国が右と左置くのは良くないと思ってるけど。

165 :
この時代は左が上位なの?

166 :
前漢初期も
陳平と周勃が左右の丞相だったような

167 :
都督とは艦隊司令官だと思ってた

168 :
提督と混同したんだろう

169 :
演義での、赤壁の戦いの影響もあんじゃね?
あと、肥のゲームとかも。

170 :
演義が書かれた当時の明朝は、軍の最高司令部の名称を、
枢密院から大都督府に改めているね。
その後、権力を分散させるために、前後左右中の五軍都督府に改編した。

171 :
唐代の都督は節度使の陰で存在感が薄かったけど、
宋代にも、臨時の最高司令官の称号に使われていたりするから、
都督という言葉は、かなり上級のものとしての響きがあったのだと思う。

172 :
赤壁って周瑜がいなくても勝てたよな

173 :
いなくても勝てたけどいないとそもそも戦うという前提に辿り着けない

174 :
そっか周瑜がいなきゃ降服してたか

175 :
周瑜がいないと勝てなかった
少なくとも劉備じゃ無理

176 :
後々、周瑜のあと都督となる人たちもまだ小粒だし

177 :
周瑜がいなくても曹操は追い返せたけど
江陵を落とせたかは微妙なところだな

178 :
自分が居なくても勝てるくらいの状況を作ったのが周瑜とも言える。
江陵の件は>>117に同意。

179 :
いや状況を作ったのは曹操だろ

180 :
演戯と正史ごっちゃにしてる奴がいるな

181 :
周瑜についてほざいてみるスレ
http://game13.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1127485618/

182 :
孫策と周瑜ってなんで仲良くなったの?

183 :
年が近い同僚だったから。

184 :
元服前から一族ぐるみの付き合いだっただろ

185 :
断金の交わりは水魚の交わりよりも堅し

186 :
断金じゃなく禁断だったら婦女子がよろこびそうだ

187 :
いよいよ映画「赤壁」公開だな
http://jp.youtube.com/watch?v=aOUw3ZkNXLc

188 :
>>186
座布団やる

189 :
陸遜から陸抗までの期間長いから間に朱然入れよーぜ。

190 :
呂蒙・・卑怯者。クズ。卑怯な手しか使えない。

191 :
>赤壁って周瑜がいなくても勝てたよな
能力的にはね
知名度、カリスマ、財力、曹操と立ち向かうのに
国を束ねられる人物は周瑜しかいないよ
あらゆる面で孫権より影響力があったのは確か
家柄も孫家より上だし

192 :
>>190
関羽乙

193 :
財力は孫権より上だったの?

194 :
>>190
荊州失陥の事を言ってるのなら、先に食糧庫を襲った関羽が卑怯でクズ。

195 :
周瑜の直系の子孫が発見した家系図って信憑性あるの?

196 :
胡散臭いことこの上ない。

197 :
うさん臭くても、死因は本当っぽいから判断に困る。
子孫的には、病死より戦没のほうがカッコいいから捏造したのか?

198 :
いや、あの死因が本当だとすると江陵攻め以降の事跡が
全部病床からのものだったってことになるんだが、どうなのかなあと。
一年くらいあるでしょ、矢を受けてから死ぬまで。
その死因さえなければ系図を信じてもいい。
死因が胡散臭いから信じれない。

199 :
どう考えても捏造

200 :
1600年からの系譜が記されてる(らしい)系図の真贋を周瑜の死因だけで判断するのかよwww
記述が誤り(または誤りが多い)だとしても、後代の人間が作った贋作か、
それとも清代の周家の人間が実際に作成し使用した真作かはまた別の話なんだが。

201 :
真贋じゃなくて胡散臭いかどうかって話でしょ。
それこそ系図の真贋なんて実物触れないこっちじゃ判断できない。

202 :
周瑜の死因て、実際には何で死んだん?

203 :
病気

204 :
呂蒙も病気なのに荊州獲ったな

205 :
近年病気がちで、それを利用して関羽を引っ掛けたのであって、
病身で軍を指揮したわけではない。

206 :
呂蒙の荊州奪取は戦じゃないな。
戦うつもりでやったかも知れないが、結果的に見れば。
関羽死後、孫権との宴の席で呂蒙に関羽がチュルッと入って
喋らせた事件って、嘘ですよね?
関羽伝説の影響力が半端じゃないので、史実に結構大きな
ノイズとなったなぁ・・・・

207 :
>>206
チュルって入ったのは史実ではないが、関羽殺しに関わった
呂蒙
ショウキン
曹操
が相次いで死んだのは事実

208 :
やめれw
そんなうどんみたいに真顔でチュルッてwww

209 :
>>207
しかし孫権や陸遜や曹仁や徐晃は死ななかったのは事実

210 :
演義で語るなら諸葛亮も関羽に呪い頃されてもおかしくなかった

211 :
>207
素で忘れられてる于禁が哀れだ
いや彼は関羽を怨んでいる側か

212 :
>>210
なんで?
>>209
そっちの事実は無意味だろ。
関羽の死後呂蒙がすぐに死んだという事実を元に関羽の祟りが創作されたんだから。
ついでに演義で語るなら、曹操の死に関羽の霊は特に関わってはいない。
華佗を殺したことと伏皇后・董承らの霊が語られている。

213 :
呉という国の立ち位置からして、物語性は薄いからな・・・・
地元の人間ならまだしも、曹操や劉備に比べても孫権は色褪せる。
軍師や将軍は優秀な人材が揃っていたと思うが、結局は魏の領土を
侵食するにも及ばず、蜀と喰い合う邪魔者って感じが強い。
周瑜:彼の死が、呉の方向性に大きな影響を与えたと思う。
生きていれば、少なくとも呉の歴史や印象はガラリと変われた気が。
魯粛:地味な印象だが、三国中戦略眼は随一。
劉備との同盟が最たる例、彼の戦略を具現化出来た周瑜の死が痛い。
呂蒙:荊州事情を打破した功績は、大きい。
関羽と張り合った存在感も評価したいが、彼の真価は関羽撃滅後の
対魏・対蜀にあったと思う。
この時期に死んでしまったのは、歴史の悪戯としか・・・・・。
陸遜:多分、普通に優秀だったのだろう。
夷陵戦での働きも評価するが、蜀軍にも色々問題あったと思うから。

214 :
>>212
関羽にハン城攻めを提案したのが孔明だから

215 :
ハン城攻めは成功してた。
関羽が陸遜を侮ったのが悪い。
陸遜を侮らずに防備を緩くしなければ(麋芳や士人を叱責しなければ)問題無かった。

216 :
>>214
なるほど。
しかし
・諸葛亮が樊城攻めによって魏呉の連携を事前に防ぐよう進言する
・関羽が孫権の申し出た嫁入りを拒絶して手ひどく侮辱する。
・それを聞いた諸葛亮は「荊州が危ない」と言うが、矢継ぎ早に関羽敗死の報が入り間に合わず。
という順序で上手くフォローしているからな。
それで祟れというのはちょっとどうだろう。

217 :
演義では、樊城攻めが対魏の重要な起点として書かれているみたいだが、
実際はどうだったんだろう。
荊州での小競り合いがある中、呂蒙不在ってだけで一気に北上するか?
そもそも、益州との連携なしで単独ってのが・・・・
孔明策だと、益州と荊州の二方面に加えて、合肥方面からの三面攻撃が
前提だった気が。

218 :
そもそも呉が荊州の残りを狙っていることは周知のことだったようだ。
漢中の劉備もすぐには動けない。
だが、この時の関羽の状況はその不利を振り切るには十分すぎるものだったのだろう。
なにしろ劉備が漢中を得て、漢水によって直接連絡するという見込みが立った。
曹操の中軍は遠く関中にあり、戦の後必死に急行している状態。
樊城が堅城とはいえ、曹仁の征南軍自体は大規模なものではない。
宛などで反曹操の反乱が起きて関羽に呼応した。
しかも、魏王国左将軍仮節鉞という枢要にいた于禁の増援七軍を水没させる。
つまり、襄樊を抜けば許都まで要害も大規模な兵力も存在しないという千載一遇の好機。
関羽がそれ以上北上できないとしても、人心に与える影響は巨大なものになっただろう。
遷都案も出ようというもの。
これを阻止するために、急遽徐晃が派遣される一方、曹操の中軍が駆け戻り、
対呉都督夏侯惇が張遼を率いて急行し、エン州刺史裴潛、豫州刺史呂貢までが召集される
という総動員体制。
結局徐晃の驚異的な奮戦で樊城は解囲され、呂蒙が背後を襲うことで関羽軍は瓦解するわけだけど、
この時の曹操のシフトは樊落城の最悪の事態を想定した背水の陣だったといえる。

219 :
大国魏に楔を打ち込む関羽、その関羽を真っ向から迎え撃つ魏軍。
一方その頃、呉軍は魏の陰から荊州を掠め取って喜んでいた。
曹操を無視して関羽を斬首したが、蜀の逆襲を恐れて首を曹操に送る呉。
三国鼎立のサバイバル状態とは言え、魏蜀に比べて呉の矮小さは際立つなぁ。
周瑜も魯粛もいなくなって、呉は目先の事しか考えなくなったのか?

220 :
それはあると思うなぁ。
周瑜魯粛は劉備の扱いで意見は違ってたが、あくまでも対魏決戦を目指してた。
呂蒙陸遜はただ単に呉の領土を広げただけで、魏に漁夫の利を得させた。
周瑜魯粛は故郷が魏領に入るか入らないかの境目にあったけど、
陸遜なんかは安全圏だからかな。
呂蒙は貧民出身で、豪族連の言いなりだったし。

221 :
呉の立場からすれば、荊州は自国の安泰のために必要な土地。
三国が分割統治状態ならまだいいが、蜀か魏に支配を固められると、
揚州は北と西の両面に敵を抱え、水軍の利も薄くなる。
また、取ってしまえば守る自信があったのだろう。
長江流域での呉の強さは本物で、222・223年の対蜀魏連戦を見事に凌いでいる。
或いは、蜀漢の立場からすれば、荊州を奪われても最終的な破綻には至らないと
読んでいたか。
結局、荊揚交の三州を固めた呉を滅ぼすには、荊・益・淮南の三方からの攻撃を必要とした。

222 :
とりあえず
いつ呂蒙が豪族のいいなりになったのか、
史料から引用してもらえんかね。

223 :
>>220
俺も>>222が気になった。最後1行以外は面白いと思ったんだが

224 :
いわゆる孫呉を豪族連合政権と捉える見方なら
豪族でない呂蒙には政権内で発言権が無い、と言える。
いや、まあ微妙な理屈だが。

225 :
孫権の寵愛があれば別。
荊州奪還は孫権の兼ねてからの願いであり、呂蒙の計略とぴたりと一致したから
実行に移されたのだろう。
呉の大豪族の陸遜が荊州を欲しがったというのは理由がよくわからないが、
それだけに面白そうだな。その辺続けてくれ。

226 :
>>222-223
んー、そこに説明が必要だとは思わんかったが。
とりあえず呂蒙が貧民出身なのは分かってるわけだよね。
孫権が学問をやれと言ったのが豪族層の上に立たせるためだってことも。
襲粛や成当らの部曲を辞退したのも知ってるよね。
徐盛や朱然が、周泰に対してどういう態度を取ったのか覚えてれば、
そういう疑問なんか湧かないと思うけど。
その周泰と呂蒙、呂蒙と一緒に学問をやった蒋欽の三人は、
三人とも濡須督に就任していて、似たような地位にいたと推測できる。
明記されてることしか信じないってのは史料の読み方じゃないよ。

227 :
>>226
で、どこがどう豪族の言いなりに結びつくの?
>孫権が学問をやれと言ったのが豪族層の上に立たせるためだってことも。
何故豪族が出てくるの?こんな仮定は意味ない。
>徐盛や朱然が、周泰に対してどういう態度を取ったのか覚えてれば、
>そういう疑問なんか湧かないと思うけど。
あの出自を馬鹿にされたエピソードから、
何故に言いなりにまで発展するのか。むしろ、そこが疑問だ。
と言うか、呂蒙を推挙した張昭。蒋欽を虚仮にした徐盛は、徐州の人で豪族じゃないし、
大体言いなりだったとするなら、行間を読むなりしてそれと解る所を指すのが筋。
ただ、呂蒙や蒋欽等の出自が低かったこと、一時期それで侮られていたことを示すのみ。
出自の低いこと、侮られていたことを何度示しても、
結びつけても言いなりだったとの結論にたどり着かない。
>明記されてることしか信じないってのは史料の読み方じゃないよ。
この手の一文は最近よく見かける。
史料に完璧があるわけないことを利用した非常に便利な理屈だな。
要は、数箇所史料から抜き出し、
明記されてることしか、信じないのは史料の読み方じゃないと、言えばいいわけだからね

228 :
>>226と「いいなり」が全く結びついてない
説明して欲しかったのは呂蒙が豪族の「いいなり」になっていたと見る理由だ
孫権は豪族層よりも呂蒙、蒋欽、周泰らの非豪族層を厚遇していた
豪族にこれ以上力をつけさせたくなかったからだ
>>225の言う通り孫権のそういう意向があれば別

229 :
思うんだけど、前提となっている時代背景に対する認識が違うんだろうなぁ。

230 :
>>229
いや、そんな一文で誤魔化さずに、
呂蒙が活躍した頃に、四姓を始めとする豪族が張昭や張紘、周瑜等の名士より権勢があって、
尚かつ呂蒙が孫権や張昭、周瑜等の後ろ盾でなく、
豪族の言いなりだったことを示そうよ。

231 :
間違えた。
>尚かつ呂蒙が孫権や張昭、周瑜等の後ろ盾でなく、
じゃなく
尚かつ呂蒙に孫権や張昭、周瑜等の後ろ盾がなく、
に訂正します。

232 :
認識が違うなら30行でも50行でも使って認識させればいいよ。
それが理に適う論ならば、納得させることが出来るはずだ。

233 :
>>227で面白いと思ったのは、
張昭と魯粛が孫権への影響力を争った形跡があることだよな。
魯粛・周瑜はいわば同じ党派に属する。二人とも江北の出であるが豪族で、
故に軍事力を持っていた。
張昭は儒学的名士であり独自の武力を持たず、名声は高いが
孫権の幕府や宮廷にあるしかない。
これは言うまでも無く対曹操戦で真っ二つに割れた組み合わせ。
張昭の政治的行動を追ってみる必要があるかもしれない。

234 :
>>233
張昭は面白い題材と思う。好きな人物だし。
魯粛とは外交(含む軍事)を巡って争ったのでしょうね。
ただ張昭は軍事行動に結構反対しているから、
外交軍事主体の魯粛と意見が対立するのは自然と思う。
けれど党派を組んでの争いとは言い難いと思う。
赤壁の時のも諸将達が皆、降伏論を唱えたと書かれるように抗戦論は極少数だったようだし、
張昭と周瑜の二大巨頭が役割分担し、あくまでも孫権の決断を尊重したから、
明確な派閥争いに至らなかったと思われる。
さらに孫政権初期は党派意識も薄いと思う。周瑜と魯粛は劉備を巡って意見が割れたし、
呂蒙のように張昭、周瑜の両者から目をかけられる人物もいる。
魯粛が友という諸葛瑾と張昭は姻戚だしね。
あと周瑜と魯粛は豪族の出といえるけど、豪族の所以たる土地と切り離されているため、
呉の四姓や全氏や呉氏の様な土着とは区別が必要と思う。
どちらかと言えば豪族出の名士層と位置付けられると思う。
琅邪諸葛氏の諸葛瑾もこのタイプ。

235 :
ここまで読むと、呂蒙の話題よりも孫権の君主としての有能さが分かるなww
身分に関わらず、的確な人材抜擢するのは才能だろうか。
周瑜や張昭、魯粛などが、それを支えたというのもあるだろうけど。
まず、孫家三代の確固たる地盤があって、三代に渡って君主が変わるという
不安定を埋めるべく、一丸となって呉を盛り立てようとした感じか。

236 :
>>235
わかるわかる。初中期の孫権マジ有能。
宗族・豪族・名士・武官のごった煮状態で喧嘩しまくる臣下を片っ端から仲裁してるもんな。
呂壱が一時期権勢を振るった時も、改めて謝罪して臣下との和を維持してるし。
孫権が傾いていくのはやはり孫登の死後か。

237 :
孫権は長命だったが、周りの優秀な人材は結構バタバタ死んでるんだよな・・・・
「もしも、生きてたら」ってのが一番多い国かも。
周瑜、魯粛、呂蒙も悔いの残るタイミングで死んでしまったのが残念すぎる。

238 :
苦楽をともにしてきた家臣たちに先立たれ
かなり頑固でうるさいが兄が若くして死んだ時からずっと支えてくれた後見人に死なれ
期待していた息子に先立たれ
自分だけ一人取り残され年取っていく
孫権がおかしくなるのもわかるな

239 :
ここの流れいいな
合肥あたりのはかばかしくない戦績と、晩年のみをあげつらって無能認定してる
奴らにはこういう考察はできんのかなあ

240 :
>>238
勉強仲間の朱然はかなり頑張った
やはり孫権は長生きしすぎたな

241 :
後継者問題ほっぽり出して途中で死なれたらそれこそ目も当てられないことに。

242 :
孫和が問題児だったんじゃねえのか、あの扱いって

243 :
問題児は大虎です

244 :
>>242
孫和はごく普通なんだが、孫登と孫慮には明らかに劣るのは痛かった。

245 :
>>236
孫権がマジ有能なのは否定しないし同意するが、逆に言えば、そういった有能な
君主が常に仲裁に勤めないとならないほど、政権内部は混沌としていたわけで。
(混乱とは言わない)
国家制度が成立していないから、個人の能力カリスマに頼るしかない。孫権死後
政権がグダグダになっていったのは当然の成り行きかと。
>>220
違うよ。周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜。みな同じ天下二分という戦略の持ち主だった。
周瑜は自力で江陵を獲り、荊南に割拠した劉備を取り込んで関張を指揮下に入れ、
さらに蜀も征服することで長江流域を呉一色に染めることで華北の曹操と対抗
するつもりだった。
魯粛も同じで、ただ現在の実力では単独ではそこまでやれないと踏んで、あえて
劉備を対抗馬に仕立て上げた三分に妥協したが、あくまで劉備を呉の下に置く
戦略は変えなかった。演義では役に立たない外交官と道化にされているが、史実
では劉備がしぶれば実力で軍を率いて荊南を奪い返すべく関羽との一戦も辞さない
ほど主戦派。
呂蒙、陸遜はその魯粛の戦略を継承してさらに推し進めた。

246 :
>>245
彼らが蜀に対してどう当たったかってことだけじゃなく、
その行動が対魏関係にどう影響したかってことを考えてみてよ。

247 :
対魏だと襄陽まで進出したね

248 :
何度も合肥を攻めたのは、何だったんだ。
赤壁での孫権も、どっか別の場所で何かやってた気が。

249 :
>>236
孫権が有能なことと、孫呉が国家としての伝統をついに確立できなかったこととを、
「逆に言えば」で繋ぐ必要は無いんじゃね?
それにまた、新興の国家が、個人ではなく国家として忠誠心を得て存続しうるか否かは
二代目以降に掛かっている。創業の君主はどうやってもそのカリスマから逃れられない。
臣下の忠誠心を国家に向けさせるには、カリスマを持たない二代目とその臣下がなんとかするしかない。
孫権に責があるなら、適切な後継者を決定してその元に臣下の忠誠を集め分裂を許さないという
君主の最後の責任を果たさなかったことだ。
>>246
有り得るかもしれなかった魏による荊州制圧を未然に防ぎ、鼎立の体勢を40年維持させた。
とも言えるな。
蜀が長江戦線を呉ほど上手く渡りきれたかというと、分は良くはないだろう。
結局呉には呉の、蜀には蜀の理があるってだけだ。
>>248
孫権は戦争の陣頭指揮だけは下手。これはもうどうしようもない。

250 :
>>249
>適切な後継者を決定してその元に臣下の忠誠を集め分裂を許さない
これはとても難しい
なぜなら、後継者にあまりに注目が集まりすぎることは自分の求心力低下につながるから
実は分裂の芽なんだ、それは
最高権力者にとって後継者は大事であるが危険でもある
曹操のように良いタイミングで死なないと継承は案外上手くいかない
清の皇太子密建が優れているのは、ここをクリアできるから

251 :
>>250
嗣子以外を外に出し、継承の意思を明確にする。
皇太子に軍権など持たせず、適度な修養と適度な交際をさせておく。
それだけで全然違うよ。
孫権、袁紹が失敗し、曹操が危ういところだったのは、少子を継がせるか迷って
複数の子が並立状態になり、人心を分裂させたから。
劉表が曹操南下直前という最悪のタイミングで死んだにも拘らず
継承自体を成功させ劉家の系譜を存続させることが出来たのは、
劉gを外に出し権臣と権力を劉jにそのまま引き渡す用意が出来ていたから。
父帝の即位二年、大敗後の死というこれまた最悪のタイミングで
後を継いだ劉禅が国を40年守り抜いたのも、家臣団の忠誠の方向が
予め定まっていたからでもある。剛勇と評された劉封が健在だったら、
帝位を窺わないまでも権力を振るって反主流派を誘引した可能性がある。
能力のある息子を選びたいという誘惑や諸派閥の言に抵抗するのは
難しいかもしれないが、やるべきことはそんなに複雑ではない。
あとは後継者の器量次第。

252 :
続き。
密建のやり方が優れているのは、朝廷の基盤が安定して、
誰を選ぼうとも臣下の官僚集団が揺るがないという前提があるからでないかな。

253 :
>>251
劉表の継承はカクが言ってるように失敗だよ
成功したのは子孫を残すことだけで、覇業は最悪の形で分裂しどっちも闇に消えてる

254 :
劉表が生きていたとしてもどうしようもなかったよ。
割拠が潰えたのは継承の失敗じゃない。
夏口の兵力を持っていかれただけで、荊州の中枢は分裂せず
嗣子と家臣ともども官位を貰って次の王朝に組み込まれた。
家の存続という当時の高価値を、困難な状況で達成したのだから成功だ。
当時の曹操や賈クの視点からはそんな種類の成功は成功の部類に入らなかっただけのこと。
でも、「そんな種類の成功」を収めた人間だけで魏の朝廷は構成されているわけだからね。

255 :
権力の保持と家の存続では全然違うから、話が噛み合わない

256 :
まったくだね。反省する

257 :
劉表は劉キを追い出して劉ソウを後継者にするってはっきり宣言してるのに、
それでも御家騒動になっちゃったってのは、結局、
部下の派閥争いを根本的にどうにかしないと意味ないってことなんだろうな。
ていうか、不遇の貴公子なんか作っちゃったら、逆に非主流派に担がれやすいだけでは。

258 :
周瑜の死は、かなりの痛手だったと思う。
国家戦略の変更に匹敵するわけで、呂粛は有能な戦術家がいてこそ光る。
でも、周瑜以後は、呂蒙や陸遜が頭角を現す前に死去。
呂蒙や陸遜は呉に尽力したが、この頃になると魏蜀打倒も厳しい。
やっぱり、周瑜と呂粛だなぁ・・・・
彼らの動向によっては、赤壁以後の呉の勢力図もガラリと変わったかも。

259 :
呂粛って誰?

260 :
陸遜づくし
ttp://www.tanisan.com/ld/rikuson.jpg

261 :
多分 魯粛さんのこと? 不思議な人ですよね。初陣が赤壁で、都督になって…政治家、外交官として卓越した人。

262 :
>>261
家財で私兵を養ってたとか。
まぁ、当時の呉では一番先見性あった人だろうな。
周瑜の推挙だっけ?
演義ではカスみたいな扱いだけど、超重要人物だった気が。

263 :
資金援助もしたらしいしな

264 :
魯粛は孫権の許可を得ずに劉備と同盟の話をしてしまったりかなり破天荒な人物っぽいな。若い頃は
金をばらまいたり剣・馬・弓もやってたらしいし。特別強かったわけではないみたいだけど
周瑜・魯粛・呂蒙のうち1人でも長生きしてればなあ。呂蒙は荊州取ってどうするつもりだったのか
よくわからんけど。孫和が継げなかったのも痛いな。特別有能でなくても真っ当な君主だったろうに
魏・晋に対抗しきれたかはわからんが

265 :
孫和が継いだらってのは微妙かなー。
二宮の変では孫和派の連中でさえ、能力的には孫霸の方が上だけど…
みたいなこと言ってるわけだし、
結果的に孫亮に鉢が回ってきたのはよかったんじゃないか。
個人的には関羽の死後、陸遜が北上して魏を侵略したらしいんだが、
これがうまくいってたらどうなったかと思うよ。

266 :
孫和の息子はあの孫晧。
孫和が継いだとしても、死んだらジ・エンド。
あと、孫亮は名君の資質があったとは思うが、
幼すぎて権臣の専横を招いたため、
彼にあのタイミングで帝位が回ってきたのは、
呉という国にとって不幸なことだったと思う。

267 :
敬愛する魯粛さんのことを、娘に教えてて、陣中でも書物に親しんで勉強してたと言ったら、お母さんも見習わなきゃって話になってしまった。

268 :
でも現代で「陣中」って言ったらどこだろうなー?
職場とか?仕事中に書物に親しむのはヤメテっ><

269 :
>>264
前々から気になってたんだが、「魯粛は孫権の許可を得ずに劉備と同盟」のソースは?
江表伝には「孫権は魯粛に同時に劉備と手を結ぶことを命じた」とあるんだが

270 :
あやふやで悪いが魯粛が弔問・同盟を命ぜられた時は荊州の主は対外的にはわかっていなくて、
たぶん実力者の劉備がまとめるだろ、劉備を曹操の盾にしようぜ!と行ってみたけど劉ソウが継いで
それだけならいいけど曹操軍が凄いスピードで来て、しかも劉ソウは一瞬で降伏、同盟ってレベル
じゃねえ!劉備なら・・・劉備なら江陵に篭ったりして時間稼ぎをしてくれる!と思ったら
どこも落とさず長坂で蹴散らされて領土は無しで呉に来ました!同盟軍の劉備です!とか言われて
えーおまけで誘ったのに本命なにも無しでおまけだけ来ちゃったよ・・・荊州で盾やってくれると
思ったのに・・・そんな同盟聞いてないよ・・・な感じなんじゃないの?今ちょっと見当たらなくて
悪いんだが、江表伝見れるなら劉備伝のそこらへんのところに魯粛とのやり取りでいろいろ書かれてる
ってどっかで見たような。見れるなら見てみてくれ

271 :
>>270
声出してわらったw
いや、わかりやすくて良い説明だ

272 :
>>265
> 二宮の変では孫和派の連中でさえ、能力的には孫霸の方が上だけど…
> みたいなこと言ってるわけだし、
これって誰が言ったの?

273 :
>>270
時間的にも情勢的にも相当慌しい状況だっただろうからね。
その中で何らかの答えを出さなければならなかった場合、魯粛の判断は
間違いではなかったとは思う。
対曹操という方針になると、早急に同盟組める勢力は劉備くらいか?
まぁ、選択肢も少なかったとは思うが。
周瑜いなかったら、降伏してたかも知れんし。

274 :
外交使節としての専権行使じゃないかね
魯粛が諸葛亮をつれて戻った時孫権は戦略の決断を付けていなかったわけで、
劉備with劉gとの同盟というのは開戦へ大きな材料となっただろう

275 :
>>272
もちろん明言してるわけじゃないよ。
孫霸派の人が魯王は英雄の素質がありますみたいな言い方をしてるのに、
孫和派の人は太子は年上だしお優しい人ですくらいの言い方に留まり、
ちょっと誰だったか思い出せないけど、孫和派の人が
孫霸は有能だから、地方に出して元帥にしようとか言ってたと思うよ。
まああとで確認取ってみるわ。

276 :
ああ、俺が言ってるのは是儀のことかもしれん。
しかし孫和を褒める人でさえ誰も孫和を有能だと言わんのは、
まあ戦術的に長幼の序を唯一最大の武器にしたいというのもあるだろうが、
ちょっと寂しい話だよな。
一人くらい「年上だし、しかも有能」とか言ってやれよって思ったりする。

277 :
是儀は孫霸の傅(後見役)。
その是儀が「孫霸を都から追い出してください。前線に送ってください」と言っている。
「孫霸が優秀だからこそ前線におくって、国家の盾となってもらいましょう」とエクスキューズ。
そりゃあ「太子とその弟を同列に扱うなんてバカなことやめてください」とは言えんよ。
同じく「孫霸を外に出して夏口の司令官にしろ」と言った吾粲は殺されている。
孫和に関しては孫和伝では褒められまくってるよ。
もちろん信憑性は疑うべきだが。

278 :
長幼の序って皇帝位の相続では案外怪しくて、呉から見て手本となる漢ではしばしば長幼の序を無視している
武帝しかり明帝しかり
つまり長幼の序を第一の武器にするのはものすごく心もとない
「光武帝は能力主義で後継者を選んだよね」とか言われちゃうと否定できなくなる
だから能力がそれなりなら、長子であること以上に能力を推すべき
それなのにあまり有能さをアピールされてないということは・・・

279 :
ここは孫休が後を継げばよかったのではないか。

280 :
>>278
長幼の序っつーか、孫和を太子に立て、孫霸を魯王に封じながら同格に扱ったのが問題なんだよ。
能力の点から孫霸が適任なら、孫霸を太子にすればいいだけの話。
是儀が問題にしてるのは長幼の序ではない。
「二人の宮様の間には段階の差があるべき」「上下の秩序が重要」と言っている。

281 :
>>280
そこでそれを是正しようと本格的に孫覇立太子に動いたわけだな

282 :
陳寿の呉志が孫和を有能だと書いているのは、
孫和が孫晧の父であり、陳寿は孫晧の時代に編纂された韋昭の「呉書」
を主に引き写して呉志の部分を書いたからだと思われる。
陳寿が孫晧の「昏君」ぶりを書けたのは、呉が滅びた後の記録や、
魏晋の史書を参照することが出来たからだろう。
さて、では同じく孫晧の「悪事」を書いている後の時代の地方史である
「呉歴」や「江表伝」ならば、陳寿が知り得なかったソースを元に、
権力に気兼ねなく孫和・孫覇の人物を描写し得るだろうし、
原典を読み通した裴松之チェックに引っ掛からないはずはないだろう。
にも拘らず、裴松之は
「和は既に正位にあり,適子と庶子は分け定められていて,たとい才コが殊ならずとも,
なお義は庶子の党にない。いわんや霸の実を聞くことは無く、和が令嗣であるならば」
と述べている。これはどういうことか。
…と思って軽く孫和伝見てみたんだが、孫和を褒めてるのはやっぱり「呉書」だけだった。
呉志全体から引用文献ごとに比較考証でもしてみないとなんとも言えそうに無いね。

283 :
孫和はともかく、孫覇ってそんなに英邁だって書かれてたっけ?
是儀以外のとこでどっかある?

284 :
>>282
呉書も含めて、孫和の評価の仕方って、
馬鹿を率直、愚鈍を慎重、独善を独創、乱暴を活発って言い換えるみたいな、
何の取り柄もない人をむりやり褒めようとしてるみたいな感じ。
記述に具体性がなくて、史書ではお決まりの文句の一般論で終わってる。
温厚な人柄ですよーって、それ無能の言い換えじゃないかと。
呉録で、厳しい問いにも即座に答えられたってあるのが一番ましなくらい。
>>283
どん引きするくらい楊竺が絶賛してる。孫権もそれに納得したらしい。

285 :
つまり両者とも褒めてるのは党派の人間が主なんだよな
呉についての主な史料である呉志・呉書が当てにならないとすると
史料の量的に随分厳しいことになるわけだが

286 :
孫呉は、内部抗争で本当にもったいないことを… 周瑜、呂蒙の子も罪を得てるし、陸遜自身、憤死だし。魯粛の遺児は、最前線の地方周りで無事だったけど中央じゃ活躍していない。

287 :
孫権の息子の中で最も権力欲が強くてもっとも無能な孫奮が皇太子という方法はいかが?

288 :
>>260
Ζ+が居ないぞ?

289 :
周瑜についてほざいてみるスレ
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1127485618/

290 :
わいわい

291 :
呉が天下を獲れる可能性があるのってやっぱり孫策の許昌奇襲と周瑜の益州侵攻くらいか?

292 :
天下を獲れる可能性は滅亡前まであった
一番可能性が高そうなのは孫策
次は生存後の予測がつかない孫堅(呉じゃないか)
袁氏滅亡後は以前と較べて中原が段違いに安定してるから難易度も上がる
周瑜の益州侵攻の他には南郡攻略後の益州侵攻が考えられるけど材料が少なすぎるか
合肥攻略、襄陽保持、241年の大攻勢のどれかが成功してればな…

293 :
三国鼎立後は我慢比べが蜀呉の基本戦略だったはずなのに、
それに成功して国内を安定させたのが魏を掌握した司馬氏だったというのが皮肉。
呉は孫登が長生きするか、せめて二宮の変がなければ高官同士の勢力争いも起きず、
諸葛誕らの叛乱に十分な戦力を送り込むことができただろうに。

294 :
いつも不思議なんだけど、長坂でこってんぱんにやられて一部隊にも満たなかった(魯粛伝)劉備が、何で呉にとって同盟相手たり得たの?
袁紹とこに逃げたみたいにただの帰順じゃない?
妄想1なんだけど、曹操に荊州が落ちてしまえば呉が魏と渡り合うのはまともに考えればまず不可能で、魯粛は実態のない劉備陣営を無理矢理捏造して、同盟しちゃうことで開戦せざる得ない状況を作っちゃったんじゃないか、ってのはどう?
妄想2はもっと身も蓋もなくて、呉と劉備の同盟なんて、実は後から蜀側の人間(陳寿含む)の捏造なんではないかと。
蜀は実質の力から言えば、三国の一部に数えるには馬鹿らしいど田舎の小国なんだが、ただ、"物語"としての三国志演義の中では常に漢室の流れをくむ"主役"として扱われてきた。
何故か?
それは後世の史家(陳寿)の意図的なでっちあげがあったのではないか?
そして、正史と言う歴史書では描けない嘘を、演義が補って来たのではないか?
そもそも演義と言う物語が民間で伝承されるようになった始まりは何だったのか?
その作者は誰なんだ?ってことを考えると、赤壁で風をふかし、三国鼎立と言う巨大なギャグを打ち立てたあの人しかおらんのではないかと妄想するのです。

295 :
>>294
妄想1は分からんでもないというか、「捏造」「開戦せざる得ない状況」は言い過ぎと思うが、
魯粛が開戦の方向に持っていく材料の一つとして
「勢力としては弱小でもとりあえず劉備と結んどけ」って思ったのかもしれんね
妄想2はどこから突っ込んでいいかわからんよ
陳寿と羅漢中らの時代は離れすぎてて言いたいことがぼやけているというか…
根拠は省略するが陳寿はそこまで蜀に肩入れしてないだろう
呉志については韋昭らの呉書をかなりの割合で丸写ししているようだ
そんなところをでっちあげるならコッチもソッチもいじったはずだってことになるんじゃないか?
三国志演義の成立までの過程は『三国志演義の世界』(金文京)辺りをどうぞ

296 :
きれいに突っ込んでくれてありがと!
もっとけちょんけちょんにいぢめられんじゃないかと怖かったよ。
羅漢中は民間で伝承されてるもんを纏めたんで、その伝承がどこから来たのか知りたかったんだけど、文献あげてくれてありがと!
演義も勉強してみます。

297 :
>>294
長坂でやられた中に関羽は入っていない
そして関羽は兵を率いていた(諸葛亮いわく1万)
しかも江夏太守劉キは事実上劉備と一体で、もちろん劉キも独自の兵を率いていた(同じく諸葛亮いわく1万)
劉備直属の兵が敗れていても、自称2万の兵の助力は美味しい
それだけでも十分同盟相手としてなりたつ

298 :
>>296
「羅漢中は民間で伝承されてるもんを纏めた」ってのはちょっと、いやだいぶ違う
単なる表現の違いで実はちゃんと分かってるってんなら申し訳ないが

299 :
>>294
実のところ長坂でコテンパンにやられたのは劉備、じゃなくて着いて来た民衆や兵の家族で
兵はかなり保全されてるから

300 :
>>299
保全はされてないだろう
この当時の兵の大半は歩兵なんだから、
敵の精鋭騎兵に追撃されて味方の首脳部が騎馬で遁走した時点で、
大部分の兵は離散してしまう。先鋒だけで兵にしても民にしても殺しきれるような数ではないが、
劉備が再回収するにもかなりの時間が掛かったはず。

301 :
当時の劉備の軍が一部隊に満たなかったってのは魯粛伝にソースがあるんだけど、
関羽、リュウキの軍二万って結局赤壁でなんかしたのかな?
勉強不足ですみません。
謎多き赤壁。どんな戦いだったんだろう?
孔明の矢を集めた話は嘘にしても、連環の計や苦肉の策、法統や闞沢の活躍はほんとにあったのかな?
ごめんね、余りに無知過ぎて。

302 :
概ねはこんな感じ
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A3%81%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

303 :
ありが惇!
物語にしても、やっぱよく出来てるね、演義って。
演義って、呉が不当に貶められてる感じがして、結構避けて通ってた。認識を改めます。
スレチなんだけど、お勧めの演義訳があったら教えてくれると嬉しいです。(変にナウい文体にしていない、原文の良さ(漢文)が伝わるものがあれば)
吉川も面白そうなんだけど、純粋な三国志演技で。
色々ごめんねm(_ _)m

304 :
>>300
時間ならいくらでもあるんだよ
結局江陵まで取ったら取ったで曹操は戦後処理しないといけないからな
実際、長坂から赤壁までは数ヶ月ブランクがある

305 :
>>304
長坂から同盟まではあまり時間がなかったって話じゃないか?

306 :
>>291
周瑜の益州侵攻プランってのは周瑜自身の才能に頼るところが多くなってしまいそうな気がする
もちろん、周瑜ってのは頼るに足りる才能なんだけどさ
機を制して相手に不利な場所に陣を張らせる戦略眼(赤壁)、疲労した軍でそのまま城攻めして成功する統率力(江陵)
加えて部下の進言をよく聞いて採択するから独立して軍を預けるにこれほど相応しい将はいない
曹操は結局そういう武将を持ち得なくて天下を制することが出来なかったし、劉備は任せた関羽は能力が及ばなかった
時期的に考えると漢中の五斗米道と益州の劉璋が一番険悪化している時期だし、ここに呉軍が攻め込むってのは面白い
法正らも味方するかも知れないし(彼らは別に絶対劉備じゃなきゃ駄目って事はないだろう)
最初から大兵力で、相手が漢中に敵を抱えたまま、名将の周瑜が攻めるなら劉備と同じ1年かそれ以下で陥としてしまうのも夢じゃないかも知れない
問題は劉備で、これを外交力で抑えられるかというと中々難しいと思う。魯粛や孫権もキレ者だけど
さらに曹操は史実では西涼にちょっかい出して馬超と交戦状態に入るけど、周瑜益州に入るという状況なら馬超とは友好関係を維持したまま南下する可能性も大きいだろう
周瑜自身は馬超を同盟相手にしたいと考えているけど、それも上手くいくかどうか
最悪、劉備、曹操と戦うとして本国に残した兵で足りないってことはないが(絶対的不足なのは揺るがないけど、戦線を維持できない程ではないだろう。3万ほどあれば)
海千山千の劉備軍、曹操軍に誰が対抗しえるか、外にいる周瑜の動きを理解して行動しえるか、というと誰もいない。呂蒙がもっと早く育ってればいいが。
孫権には悲しいかな武将としての才能がないんだよね。これが孫策なら……

307 :
>>305
同盟の話じゃなくて長坂で兵がどうなったかだろ

308 :
>>307
>>294から始まった流れのはずだが、流れが把握できてないんじゃないのか

309 :
>>308
関羽、劉キの2万ってのは前提な
そんだけいりゃ十分同盟相手になる
さらに劉備が兵を糾合するわけだから
開戦までにかなりの兵が揃うって話だぞ

310 :
>開戦までにかなりの兵が揃うって話だぞ
そんな話をしていたかどうか微妙だが、目算自体には一理ある。
魯粛と諸葛亮が「これから左将軍が荊州兵をどんどん集めますからもっと増えますよ」
とか半分ブラフかましたかもしれない。「保全されている」とは言わないだろうけどね

311 :
オレは立間祥介訳以外の演義は読む気になれん。
これ中身は講談調で読む人を選ぶかも知れんね。

312 :
関羽の一万なんてソース見あたらないんだけど?
先主(劉備)伝にも、関羽伝にも、船数百艘としか残ってない。
となると、劉備の一部隊、数十騎と関羽の数百隻が劉備の全軍で、加えるリュウキの一万の方が圧倒的に多い。
劉備と同盟って言える数かな?
陳寿が蜀贔屓にして他(特に呉)を貶めているのは、正史 蜀書の解説に詳しい。ハイショウシの注の膨大さにも、後世、蜀を正当とせんための意図的な誇張、改竄が明らかに思う。
結局、正史にしたところで蜀を賞揚しようとする陳寿の意図に、真実は多く隠蔽されている。
だからこそ、こうして裏の裏の裏の行間を読み、自由に想像を広げる楽しみもあるんだろうけど。

313 :
>>312
諸葛亮伝も見たかい?
あと、仮に「同盟」時点では少ない兵力だったとしても、潜在的な兵力というものもある
つまりちりぢりになった兵の回収や荊州における募兵などで、今後兵力を増やすことが出来る可能性が高い
これらは元々劉表と敵対して荊州を侵略していた孫権には困難なこと

314 :
>>312
呉の「国選史書」である呉書から主に採録され(他に史料がなかっただろうが)
呉歴や江表伝から注が引かれまくってる三国呉志が存在しなければ、
その意見は正しかった

315 :
>>313
そういう荊州絡みの事情は大いにありそうだ
漢の血が流れていると言われている劉備のネームバリューも込みで
後々呉のために便利に使いたかったんだろう
そう考えれば、たとえ劉備が身一つだったとしても
評判さえ失っていなければ同盟を結ぶ価値はあったんじゃなかろうか

316 :
>>312
もしかして>>294の人だろうか?
>>314で完全に反論できているから蛇足だが…
もしも「一人の史家の感情一つで歴史なんてどうとでも伝えられる」とか思っているなら
昔の人や社会を馬鹿にしすぎというものだ
陳寿の蜀に対する遠まわしの優遇や敬意の表現は確かに見られるが、
陳寿の頃は「明らか」と言えるほどのあからさまな贔屓ができる状況ではなかった
ちなみに三国志が正史に認定されたのは世間が蜀贔屓になるより前の時代
陳寿の蜀書がそっけないほど短いから、裴松之の注が自然と長くなったとも考えられないか?
裴松之はいくつかの矛盾する逸話があればそれらをそのまま掲載した上で
自分の意見を沿えるという公平な手段をとった人物
蜀の注の量しか理由が無いのでは「誇張、改竄が明らか」とは言えない
そこまで断定的な表現で書き込みをするなら先にもう少し勉強するか、
或いは、自分の意見に凝り固まらずもっと人の意見に耳を傾けたほうがいいぞ

317 :
普通、陳寿の蜀贔屓の根拠とするのは、楊戯の季漢輔臣賛を入れたことだな。
季漢輔臣賛の採用は他国と比べて明らかに公平性を欠くが、
(他国の賛は取り入れなかったし、賛をいちいち採用していたらきりがない)
賛に付随する形での陳寿の筆による記事は、伝に漏れた人物を知る上で重要な史料でもある。

318 :
確かに久々に蜀書を読んで、蟠ってる赤壁までの流れを参照すると、色々あれれとおもうところがあって、ちょっとばかし頭に血がのぼってしまい、言葉に行き過ぎたところがあったように思います。面目無い。
けれど、(けっして陳寿のことが嫌いな訳じゃないけれど)劉備だけを先主として、孫権は権と呼び捨てたり、劉備の妻だけ皇后とする書き方に、蜀と呉の間で(魏晋は除く)「あからさまな贔屓目が」あったかなかったと言うのは、もはや個人の感性の問題と言う気がします。
(数百の船と、劉備の兵と言って本当に良いのか、と言うリュウキの一万を軍に迎えるのが、同盟っぽくないと感じるか感じないかも、やはり感性の問題な気もします。)
バカバカしくも私は決して>>294で述べたような妄想を、盲信するつもりもないですし、私は自分の意見に凝り固まってると言われる謂れもないです。私は関羽一万と言う数に、正史の記述から多いに疑問をもったに過ぎません。
ただ、私は蜀書の井上律子さんの解説にある様に、正史の中に、既に劉備を正当と認めようとし、演義の元となる様々な仕掛けがある、と言う説にとても説得力を感じた次第です。
長坂から赤壁までは、劉側と孫側では、結構印象が違います。(劉側の赤壁は、「劉備が曹操と戦うのを孫権は助け、これを打ち破った」なんて記述がありますが、これはやはり殆ど詐称の様な書き方であることは認めて頂けるのでは?)

319 :
>>317
自分は三国が公平だったとも一切贔屓が無かったとも言っていない
蜀の優遇は輔臣賛以外にもいくつもあるだろう
それらを総合するとかつて自分が仕えた国に対する義理だけというよりは
もう少し大きな優遇をしていると自分も考えている
しかしそれらの優遇は主に表現の上での扱い方だ
「意図的な誇張、改竄が明らか」だとかいうならば、
陳寿が事実を曲げた他の具体例を挙げねば論理的ではない
少なくとも、他の資料ではなく陳寿に原因があると推測できる明らかな矛盾点等が
いくつか挙がらないことには説得力が全く無い。話はそこからだ
ここは呉の軍師のスレなので呉の軍師に関わる矛盾点で頼むw

320 :
荊州東部はこの時劉備-劉g連合の所有だったのだから、
そこに呉軍が進出して戦う以上、「劉備が曹操と戦うのを孫権は助け」というのは正しい表現。
一方呉の記述を見ると、孫権伝や周瑜伝・魯粛伝では「備と伴に進み」というように書いてある。
この赤壁前後の戦力はというと、劉備軍が諸葛亮による公称2万。
周瑜が呉書では3万。建康実録では周瑜2万に孫権の後詰1万とされる。
その後の荊州戦線の分担を見ても、この場の投入戦力では極端に格差がある同盟ではない。
(地力では大きな差があったことはその後の数年の劉備の苦労によってわかる)
>劉備だけを先主として、孫権は権と呼び捨てたり、劉備の妻だけ皇后とする書き方
云々に込められた陳寿の故国顕彰の念とは別のところで、
国史というのは結局自国を中心に歴史を書くものだし、陳寿は三国それぞれに伝わる史伝を
結構忠実に書き写したのだろうと判断できる。

321 :
>>319
自分は陳寿による贔屓と言えば普通は季漢輔臣賛を取り上げるだろうと、
>>312に言いたかったんだが…どうも誤解されたようですな

322 :
おっと失礼、自分より前に>>318が書き込みしているとも>>317が別人とも思わなかった
>>318
あれこれ想像するのは良いことだし、楽しみ方は人それぞれだが、
歴史である以上「感性の問題」で片付けられるものではない
本当に感性の問題だと思っていて、もし誰に同意されなくても良い、
誰にどんな意見を言われても聞く気がないのならば、こんなところに書き込む必要もないのではないか?
>>294では自分で妄想だと言ってるからけちょんけちょんにする気も起きなかったが
>>312では正史すら充分に読めていないのに、それまでのレスに対して充分なレスもせず
それらの意見を踏まえもせず自分の言いたいことだけ言い、しかも断定口調だから「凝り固まってる」と感じた
このスレや板には井上律子並に勉強になるレスも多いし、良い本も良いサイトもいくつもある
それらを読めば大方の疑問や間違いは自然と解消するだろう

323 :
>劉側の赤壁は、「劉備が曹操と戦うのを孫権は助け、これを打ち破った」
>なんて記述がありますが、これはやはり殆ど詐称の様な書き方であることは認めて頂けるのでは?)
周瑜伝でも呉主伝でも「劉備と協同で軍を進め、曹操と赤壁で遭遇し打ち破った」
「劉備は周瑜らとともに追い打ちをかけた」とあり戦闘での劉備軍の活躍を否定してない
それに本人の伝では自分が主体になるのは当たり前でなぜ明らかな詐称とまで言えるのか分らない

324 :
>劉側の赤壁は、「劉備が曹操と戦うのを孫権は助け、これを打ち破った」
これが何で詐称の様な書き方なのか分からないけど
関羽伝のことなら「打ち破った」じゃなくて「曹操は軍を引いた」だよ。
先主伝、諸葛亮伝では「力を併せて」だし気にしすぎじゃないか?
蜀書に限らず信憑性を疑いだしたらきりがない。

325 :
正史の記述に疑問を感じる部分があったら
まずは記述を全て事実として整合性のとれる説明ができないか必死に考える
(多くのことはそれで何らかの答えが出たり仮説が生まれたりする)
前後の記事だけでは説明できないなら正史の他のどこかに参考になる事例がないか探したり
近い時代の他の資料を当たったり、時期・地理等も考慮する
それが無理ならどこか1箇所が事実と異なることを疑ってみる
(凌統の死去年のように正史が誤って伝わる例も実際にある)
当たり前だが事実と異なると認定するには他の資料等にそれなりの証拠が必要
特に証拠となる資料もなく正史の複数箇所を疑うなら、
最初から正史なんか読まなきゃいいんじゃね?ってことになる

326 :
>>318
アンタ自身がバカバカしいと認めてる妄想をわざわざ垂れ流されても失笑するしかないんだが?

327 :
>>318さんどこ〜(笑)

328 :
それにしても呂蒙って、演技の小説だと評価低いな。
NHKの人形劇じゃ極悪人扱いwwww
やっぱ関羽を虜囚にしたのが評価を下げてるのか??
荊州奪還の功績はまるで無視?

329 :
カク普を騙して零陵を陥落させたような事は実際にしているからな

330 :
あれって当時の人の価値観だとどうなんだろうね?
自分は、合肥前の時間の惜しいときに無駄な血を流さず城とったんだから良いと思うけど、
人によっては卑怯ってことで評価下げる要素に数えるのかな

331 :
>>330
当時的にはおk。戦には詭計を使うのは当たり前だし。

332 :
>>330
卑怯というかその後、呂蒙というだけでみんな警戒して言葉を信用しないようになる可能性があるのでメリットばかりでもない

333 :
>>332
敵方は警戒するが、味方にとっては万々歳
「賊」相手なら、宴会や交渉に呼び寄せて撫で斬りしてもおkな世の中だから
「呂将軍は詭計で敵を欺いて城一つ落としたんだって」「すげーや!」だろう
味方が呂蒙のことを信用するかどうかは日頃の態度の問題

334 :
>>333
呂蒙は若い頃はともかく、将になってからは人格者だから、
味方の信用はすごくあったと思うよ。

335 :
あの亜蒙が・・・

336 :
>332
呂蒙その後そんなに長く生きてないけどな

337 :
呂蒙は病弱だったから仕方ない

338 :
呂蒙は貧民出身だから身内の評価は高くないはずだよ。
だからこそ呂蒙は士大夫の反発を買わないよう謙遜してたんだね。

339 :
呂蒙は孫氏に仕える士大夫の代表格の張昭からも高く評価されてるんだが。
あと、呉の人間が呂蒙を低く評価した記述は呉下の阿蒙のみ。
しかし、これも親しみ混じりだからねえ。

340 :
>>339
親しみ混じり??呂蒙伝に出てくる魯粛の態度をもう一度読んできたほうがいいのでは?

341 :
まあ、単家に対する差別意識と、単家出身者に対する個人的評価は別かもしれんけどね。
しかしどれだけ個人的な信望を築こうとしても、
やっぱ単家出身者だということで差別的な眼差しは否定できなかったんじゃないかねー。
戦場で計略を使ったら、あいつのやりそうな詐術だ、とか言われたりw

342 :
>>341
妄想逞しいようだけど虞翻も計略に参加してるからそんなことはないよw

343 :
>>342
>>341は眼差しや陰口(?)のたとえで言ってるんじゃないか?
実際に仕事をしたかどうかの話じゃないだろ
指名するのは主に孫家で、孫権なんかは豪族より非豪族の方が使いやすかったみたいだしね

344 :
なんか妄想逞しいとか言われてるけどw
>>333のような奸計を用いた場合の身内のリアクションの話じゃないの?
だから貧賤の出自だと同じことしても評価が辛くなるって言ってんだけどさ。
単家出身か名家出身かで周囲の反応がどう変わってくるかって話だから、
虞翻や張昭にどう評価されたかは名家との比較じゃないから関係ないよ。

345 :
あの虞翻が批判することなく呂蒙に従っていたんだから身内のリアクションなんて大したことないよ
名家との比較でいえば初期の陸遜のほうがよほど批判を受けてるしね
評価が辛くなるという根拠が「謙遜してた」だけじゃ妄想にしか思えないよ
カン沢も寒門出だし呉では差別意識もってる人間のほうがやりにくいんじゃない?
劉巴が呉にいたら大変そうだw

346 :
なんせ張昭ですら、いかがなものかと言っているくらいだし

347 :
謙遜は評価が辛くなる根拠じゃないんだけど…。
まあ、なんかというか言葉の通じない文化圏の人って感じだな。

348 :
根拠ないのかよw

349 :
なんというか、お前って最強だな。

350 :
孫権が故人を慕って魯粛をトウ禹になぞらえて語る場面は2箇所あるんだが、
どちらも帝位に即くことを勧めたことが理由になっている。
このことからすると称帝は、呉では魯粛が最初に言い始めたことになるな。
従って赤壁戦後のおべんちゃらも史実。
それを20年後に現実にしてしまった魯粛がすごいな。

351 :
もしも周瑜が女王様だったら
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1263806774/

352 :
なんとなくage
この5人が一度に揃ってたらどうなってたろうな

353 :
5人揃っていれば、まず間違いなく周瑜の天下二分論に基づいて動いた可能性は高い
本拠地と荊州、益州の各方面司令官もいるし、魯粛の戦略も軍事的優位性が高くなれば
「魏呉の二大勢力化」「孫権を皇帝にする」という目的に最短距離で進むだろう

354 :
面白そうだな
5人の誰がどんな役割に付くか具体的に話してみてくれ

355 :
>>354
周瑜=益州攻略並ぶに荊州都督
魯粛=孫権側近の筆頭参謀
呂蒙=荊州都督副将
陸遜=揚州都督
陸抗=揚州都督副将
こんな感じかな?

356 :
陸抗は周瑜に付けてみたいな、なんとなく
西陵での巧みさや統治能力を見るに、彼は時代が時代だったら父親超えてたんじゃないか

357 :
>>356
西陵は過去に陸抗の縄張りだったから、攻防の要点は最初から把握していたかもね
永安では3万で半年攻めたが落城させられなかったし、陸遜以上かどうかは微妙

358 :
陸遜ハンパないからな
戦争軍事バリバリ、経済にも明るく統治能力高くて、外交も一手に担う
ただ対人スキルだけはどうしようもない

359 :
呂蒙の息クサソウ

360 :
諸葛恪が起き上がり仲間になりたそうな目で五人を見ている。
仲間にしますか?
はい
いいえ

361 :
  はい
>いいえ

362 :
はい
いいえ
>とどめをさす

363 :
7はなさそうだな

364 :
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/

365 :2013/09/27
こいつら軍師じゃなくて将軍じゃん
軍師っぽいのなんて魯粛くらいだろ
TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
【天下無敵】東方不敗【葵花宝典】 (242)
【政ちゃん】荊軻【ヌッ殺ス】 (163)
中国史上最強の武将を決めるスレ (830)
【鋭斬刀】刺々森鋭次を語るスレ【無崩篭】 (109)
【大熊猫】中国の動物〜現在と過去〜【金絲猴】 (324)
何語ればいいのかが分からない人の数→ (806)
--log9.info------------------
アメーバピグって意外と出会い系では?<1> (400)
★★★mixiアカウント買います★★★ (219)
【GREE】FIFAワールドクラスサッカー 交渉スレ2 (933)
人形者でアレな奴 8人目 (463)
すぴばるやってる奴いる?4 (457)
パチリング(Pachi-Ring)その11 (338)
【GREE】異種トレ総合2【特撮・デジモン・その他】 (771)
【オタク系SNS】オタバ part6【otaba】 (614)
【GREE】百神-ヒャクカミ-二柱目 (791)
【自惚れ】SNSでの勘違い女がうざい【自意識過剰】 (942)
聖戦ケルベロスのパラディンを愛でる (453)
SNSでメンヘラーに振り回されてる人の集い (605)
【GREE】2000G当たった人いる?【今日も1G】 (337)
Twitterでは言えないこと (839)
【mixi】先週の訪問者(足あと)仕様情報9【ハラマセヨー】 (406)
【GREE】ボクらのポケットダンジョン2【ポケダン2】 (107)
--log55.com------------------
★2ch.scは何故失敗したのか
★クロール批判要望スレ
★削ジェンヌに文句ある人集合
★迷惑行為報告担当 - 小さな親切募集中 2
★2ch.scへの要望スレ Part3
★かっこう観測所
★スレ立て人キャップ
★2ch.scニュース系板観測所