なぜ鎌倉時代の日本は世界最強国になれたのか? (281)
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キリスト教総合スレッド その10 (103)
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なぜ鎌倉時代の日本は世界最強国になれたのか?
1 :2013/09/30 〜 最終レス :2013/10/22 モンゴル帝国に勝利するなど同時代に比類なき軍事力を誇った 鎌倉時代の日本。 広大なユーラシア大陸の諸民族が極東の島国に過ぎない日本に 軍事面の進歩で後れを取った理由は何か?
2 : 戦国時代日本は、世界最強。
3 : 現代日本は、世界最高国家。
4 : 世界で最初に白人に勝てた有色民族
5 : 世界最強と言われた米帝に勝利するなど同時代に比類なき軍事力を誇ったベトナム。 軍事面の進歩で後れを取った理由は何か?
6 : 世界2強と言われたソ連に勝利するなど同時代に比類なき軍事力を誇ったアフガン。 軍事面の進歩で後れを取った理由は何か?
7 : >>5 >>6 ベトナムもアフガンも自力で勝ってねーじゃん。 しかも国土を蹂躙されまくり。 日本はモンゴル軍を正面からワンサイドゲームで粉砕していて数段高い レベルの軍だったことは明白なのね。
8 : モンゴルは、鎌倉幕府を滅ぼした
9 : まだマムルーク朝最強説が出てないのか
10 : >>9 マムルークが戦ったモンゴル軍なんて雑魚だからね モンケ崩御で主力が東へ帰還した後の残りカス 兵力も弘安の役の10分の1以下で元寇とは比較にならないローカルな戦いだよ
11 : 指揮官が中国人で兵士が朝鮮人の元寇なぞ撃退できて当然じゃね あれが指揮官がチンギス一族の誰かで兵士が蒙古・西域人だったら 正真正銘の本土決戦だったろ
12 : >>11 元寇は指揮官がモンゴル人で兵士がクビライの親衛隊という超精鋭だよ。 クビライもわざわざ自分の娘を元寇に合わせて高麗王に嫁入りさせてるわけで 帝国の威信をかけた戦いだって示してる。 つまり元寇は正真正銘の覇権国決定戦。
13 : 世界最強とは思わんけど武士のモチベーションの高さは良く分からないかなあ
14 : 南宋のから情報は何年も前から来てるので モンゴルに対する危機感は凄かったらしいね
15 : またーサムライ厨の妄想が始まったよ(笑) 東シナ海や日本海の荒海を渡ってきた元軍を沿岸で迎え撃って どうにか撃退しただけなのに(笑) サムライが強かったら、文永の役直後に高麗くらい征服できてるだろ。 それが高麗遠征を中止して代わりに元軍の再来を迎え撃つために、高麗 遠征に負けない労力と富をかけて元寇防塁を作るくらいだから、日本海を 渡っての高麗遠征に勝算がなかったんだろう。
16 : >>15 高麗みたいな貧しい国を征服しても意味ないじゃん。 日本が高麗遠征中止したのは、南宋滅亡が決定的となったため 高麗に出兵しても江南方面からの侵攻を阻止できないからだよ。 つまり遠征に戦略的価値が無くなったから。 高麗自体は倭寇のせいで衰亡しちゃう程度の雑魚ね。
17 : 元寇でのモンゴル兵の大半はモンゴル人でなく朝鮮人なんだが。 朝鮮人に勝って世界一ということはなかろう。
18 : >>17 それ嘘ね。 例えば文永の役の兵員構成は蒙漢軍2万5000と高麗軍8000。 元寇でのモンゴル兵の大半はモンゴル本国から派遣された精鋭だよ。
19 : ならなおのこと幕府軍が強いってことか
20 : この時代、朝鮮製の船で海を渡って来る側は不利
21 : >>15 仮に中世の侍とその軍が強かったとしても、外洋船の技術がお粗末で 大軍をロスなく送り込めない
22 : 日露戦争に勝利した、よってロシアより日本は強い。 間違いない。さすが、偉大な大日本帝国。
23 : >>21 元史·卷一百三十二 「十六年,日本商船四艘,篙師二千餘人至慶元港口」 日本は1279年に4艘の商船で2000人も慶元に送り込んでる。 1艘約500人。 日本の当時の外洋船の技術なら大軍の輸送なんて余裕なんだが。
24 : >>16 当時、安芸国の守護である武田信時充てに北条時宗が出した異国征伐に 関する関東御教書にも本来なら記載しているはずの南宋との連携について 記載してはいない。 それに弘安の役直後の1281年8月にも高麗征伐が企だてられたがこれなんか 南宋は全く関係ないんだが(笑)
25 : 武田信時充てに北条時宗が出した異国征伐は単なる動員令だろ。 もともと何の目的で高麗遠征を行うのかは書かれてないわけで、 南宋情勢との関連が書かれてないのも当然じゃん。 当時の状況考えたら南宋滅亡以外に理由は考えられないよ。
26 : 白村江のトラウマじゃないかな
27 : >>22 シベリア出兵で負けてるんだが
28 : 高麗征伐が三月に計画されてたから、一月に南宋が 滅亡したゃったんで止めたんだろうな。 25のいう通り、高麗征伐を実行しても江南方面からの モンゴル軍の侵入は南宋滅亡で防げなくなって、高麗征伐 自体価値が無くなってるし。
29 : 秀吉のように大陸深部まで進攻する計画ならともかく ただ高麗を潰すだけでは幕府にとってメリットは少ないな
30 : >>28 当然中国、日本それぞれにおいて日宋同盟による 作戦計画についてのソースはあるんだろうな。
31 : >>30 呑み込みが悪いね。 日本の対モンゴル戦略もモンゴルの対日戦略も同時に進行してる対南宋戦の 状況によって影響されるって当たり前のこと言ってるだけ。 モンゴル側だって文永の役の後で一旦日本遠征を延期して、先に対南宋戦を 終わらせるって選択してる。 そうすれば、朝鮮半島と江南地方の2方向から日本に侵攻できるからね。 当然日本側もそれに備える必要がある。 つまり日本が高麗遠征を中止したのも、モンゴルが日本遠征を延期したのも 同じ理由ってこと。
32 : 日本に攻め込む選択肢を増やすために南宋を滅ぼすとか 蒙古帝国の世界戦略はスケールでか過ぎだろw
33 : >>31 言い訳はいいからさっさとソースだせや!
34 : >>15 >東シナ海や日本海の荒海を渡ってきた元軍を沿岸で迎え撃って どうにか撃退しただけなのに(笑) その日本海の荒波を超えて、元寇から1000年も前に極東の超弱小勢力の半島から日本へ侵略し半島人が大和朝廷を興したとかいつもは言ってるくせに。 人類史上最強の世界帝国ですらヘロヘロになったものをどうやってマヌケな朝鮮人が倭を征服するんだよ
35 : とにかく海戦に弱いモンゴル人
36 : 崖山の戦いで南宋の大艦隊叩き潰したモンゴル人が海戦に弱いとか無いわ
37 : 弘安の役は南宋を破ったとゆうか南宋を裏切った蒲寿庚の仕込みだし 本気だよね
38 : 南宋滅ぼされたのに高麗に出兵なんてしたら 九州がガラ空きになるわな。 高麗駐屯のモンゴル軍を壊滅させても、それじゃあ 日本遠征の予防にはならんわ。
39 : >>33 「其国主疑奉表講和。会々宋人使僧曰瓊林者、来渝平。以故和事不成。」 『元朝名臣事略』 もともと日本とモンゴルの外交も南宋戦の進行状況を睨みながら行われていた。 鎌倉幕府が最終的に返書拒否したのも南宋との関係があったから。 だから、高麗遠征が中止になったのも南宋情勢の激変が原因としか考えられない。
40 : >>32 でも、それがモンゴル帝国のもともとの対日戦略なんだよ。 1269年11月に枢密院で行われた議論 「馬亨はまた述べた『(前略)日本に遣使して親仁善隣の道を説くのも、 また同じ意味だ。 南宋を平定してから、彼らに他心が無いか明らかにし、兵を送って 平定するというのも、決して遅くはない。むしろ一挙にして両得である。 全勝の策である。 今すぐに兵を発したりしたら、敵を作るだけのことだ。』 他に賛同する者もおり、枢密院は、馬亨の意見を詳しく聞いた。」
41 : >>39 弘安の役直後の1281年8月にも高麗征伐が企だてられたがこれなんか 南宋は全く関係ないんだが(笑)
42 : >>41 つまり文永の役の後で高麗遠征が中止になったのは外洋遠征能力の問題じゃないっことだな。 外洋遠征能力の問題なら弘安の役の後でまた高麗遠征の話が出るわけないからな。
43 : >>41 一概に関係ないとは言えないよ 幕府は引き続き間諜を出してる 弘安の役では南宋の艦隊は壊滅したけど高麗艦隊は7割くらい生還してる つまり3次侵攻があるとしれば次ぎの拠点は 高麗からだと判断したんじゃない? だとすると高麗の艦隊を先手を打って攻略するのは戦略として常道じゃん
44 : いや、二回目の高麗征伐は
45 : >>43 馬鹿の相手をするのは疲れるよ【笑】 じゃあ、なんで中止になったんだよ。
46 : いや、二回目の高麗征伐はただの追撃戦でしょ。 半島まで追撃するか、しないかの話でしょ。
47 : 鎌倉幕府による高麗征伐は1276年、1281年、1291年と三度も 企てられながら結局一度も実施していない。 文永の役、弘安の役とも幕府側はほとんど得ていない状況で 御家人の元軍を撃退した働き(奉公)に対して、恩賞(ご恩)に不足していた 幕府としては、高麗から土地と人を手に入れることを強く希望していたに違いない。 それでも実行に移さなかったのは、対馬海峡を当たって敵地に攻め込むことのリスク に及び腰にあったからだろう。
48 : >>47 >御家人の元軍を撃退した働き(奉公)に対して、恩賞(ご恩)に不足していた >幕府としては、高麗から土地と人を手に入れることを強く希望していたに違いない。 これ、単なる妄想じゃん。 幕府からの恩賞は不足していない。 それに高麗の土地は貧し過ぎて恩賞としての価値が無い。
49 : そりゃあ、大陸に攻め入って半島のモンゴル軍を 撃滅しても 言葉も通じない民族を統治する労力と モンゴル軍といつ終わるともしれない 戦争に突入するリスクは考慮されている でしょう。 ただ、一番鎌倉幕府が本腰を入れていた 一度目は明らかに南宋の滅亡が中止理由だ とする説が説得力あるね。 高麗に出兵しても、南宋滅亡により江南ルートから からの侵攻ルートが開かれている。 ここで出兵する戦略的価値は皆無。 二回目は弘安の役の延長。 大陸に逃げ帰ったモンゴル軍の撃滅が 目的だろう。 ただ、逃げ帰ったモンゴル軍を壊滅させても それはいつまで続くかわからない戦争に突入に することを意味する。鎌倉幕府の判断は正しかった と思うよ。 目先の戦果より、長期的な戦略で中止した。
50 : 高麗征伐は土地を得るのが目的じゃなくて 半島のモンゴル軍を撃滅して日本遠征の予防を することにあるよね。
51 : 不満を持った九州の豪族達が だったら艦隊なんてつくらせねーよ! って倭寇が沿岸荒し回るようになったじゃない?
52 : 恣意的な解釈に基づいて論説する前に 解釈を論証してくれ
53 : 倭寇は他に選択肢が無かった。 九州で劣勢になった南朝勢は対馬とかに追い詰められたんだけど人口過多で 食糧不足が深刻化。 九州で調達できないから高麗を襲撃して調達するしかない。
54 : 馬鹿を相手にするのも疲れるなー(笑) 伊勢平氏を相手に戦った源平合戦では平氏の領地を 奥州藤原氏を相手にした奥州征伐では藤原氏の領地を 京都の朝廷を相手にした承久の乱では朝廷の領地を それぞれ手に入れたので御家人に恩賞を配れたけど 文永・弘安の役では大元国の領地を寸土も手に入れら れないのに恩賞はどうするんだ。
55 : >>49 >ただ、逃げ帰ったモンゴル軍を壊滅させても それはいつまで続くかわからない戦争に突入に することを意味する。鎌倉幕府の判断は正しかった 現日本政府や戦前のバカ政府と比べ物にならんほどお利口だったんだね昔の日本人は
56 : >>54 岩門合戦で手に入れた領地を分配したんだよ
57 : アメリカでさえ尻込みした日本列島征服を モンゴロイドごときが出来るわけがない
58 : >>4 馬鹿ネトウヨがまたRーしとる wwwwww 首都圏が放射能危険地帯になってる バカ国家が何をいっても、滑稽なだけ wwwww
59 : 維新(笑)が、植民地化だったという証拠あがる w 論文「長州出兵下における長州藩とイギリスの関係 ―イギリス側の視点を中心として― 」より http://www.oshima-k.ac.jp/kakari/tosho/kiyou/kiyou44/contents/10.pdf >このようなクラレンドン卿からの情報をパークスに知らせたハモンド自身は、日本の体制変革について、 >次のような意見を述べている。 >The change of system, if change can be brought about, must appear to originate with the Japanese alone: >it may indeed be brought about in a way different from our wishes, but to be really permanent and beneficial, >it must bear throughout the imprints of the Japanese character. 試訳 「(日本の)体制の変革は、変革が可能であるならば、 日本人だけによってもたらされた、と見えなければならない。 その変革は、我々の希望とは異なった方法で、もたらされるかもしれない。 しかし、その変革が永続的で有益であるために、 その変革は、日本人的な性格をもったものという印象を完全にそなえてなければならない。」 ------------ さあジャップの猿ども、がんばって、 無様なRーをこれからも披露してくれ wwww 「世界のニッポン!」wwwwwwwwww2
60 : 全く関係ないことを書き出したということは論破されたってことだな
61 : >>56 >岩門合戦で手に入れた領地を分配したんだよ 弘安の役から3年後である1285年11月の 内乱で手に入れた領地を分配に充てたってことは、 やっぱり恩賞が足りてなかったてお前も認めるんだな(笑)
62 : >>61 1281年の高麗遠征の史料は、大和・山城の悪徒や寺僧を動員しようとした 記録だけじゃん。 御家人でもなく弘安の役と直接関係があったわけでもない地域で動員って 恩賞問題とは全く無関係としか考えられない。
63 : >>61 >1281年の高麗遠征の史料は、大和・山城の悪徒や寺僧を動員しようとした >記録だけじゃん。 >御家人でもなく弘安の役と直接関係があったわけでもない地域で動員って >恩賞問題とは全く無関係としか考えられない。 その後、弘安の役が発生し、1281年(弘安4年)8月には再度高麗遠征論が 唱えられ、九州の有力武士であった少弐経資と大友頼泰を大将とし、彼らが 支配する九州北部の御家人たちを動員し、更に山城国や大和国の悪徒(僧兵) にも協力を要請するもであった。
64 : 二回も同じ所に上陸すること自体アウツだろw
65 : >>63 ところが九州の御家人に動員をかけられた史料は一切存在しない。 あるのは公家とか僧が残した間接的な記録だけ。 つまり御家人も恩賞も無関係。
66 : 恩賞のためなら、弘安の役で全く戦っていない山城と大和国の悪徒に 動員をかける説明が全くつかないな。 二回目はそもそも御家人に動員をかける前の計画段階で中止された のだろう。
67 : そもそも元寇なんてもともとの作戦自体が無謀だったんじゃないの? 日本が震え上がって自分から降伏しない限り、鎌倉武士団がもう少しだらしなければ元軍がもう少し九州の奥深くまで一時的に進軍できるかどうかってだけで、どの道最後はああいうことになるのはやる前から決まっていたも同然な気がする。 20世紀に入って、当時世界最強の海洋帝国のはずのイギリスもガリポリで格下のトルコ相手にボロ負けしてるし、敵前上陸作戦なんて余程の圧倒的な海上輸送能力や航空支援がない限りめったに成功するものじゃないってことでは?
68 : 敵前上陸なんてしてないよ。 元寇は文永の役にしろ弘安の役にしろ 上陸してから戦闘が始まっている。 例えば、秀吉の朝鮮出兵なんて文永の役より 兵力の少ない小西隊1万8700がたった20日で朝鮮の首都 漢城まで進撃している。 元寇はただ単に元軍が日本軍に比べて戦力で劣っていた ってだけの話なんだよ。
69 : >>64 二回とも同じところに上陸していないよ。 一回目は博多の西方の百道原から上陸し 二回目は防塁の無い陸繋島であり、博多の 北方にある志賀島から上陸している。 いづれも日本軍の妨害を受けること無く 難なく上陸している。 で、上陸してからの戦闘で海に叩き出された のが元軍。
70 : >>69 上陸に成功したのに撃退される方がよほど問題だろ 蒙古軍もこの頃には完全に並みの軍隊に逆戻りだな
71 : 並の軍隊では無く、間違いなく元軍は 強かったよ。 同じ渡海侵攻でも、三別抄の珍島、済州島を 落としているし、樺太の渡海侵攻でもアイヌを樺太から 駆逐し、ジャワ島のクディリ王国を渡海侵攻で滅ぼしてる。 渡海作戦でも元軍は強かった。
72 : 野戦砲も固定砲台もない時代なんだから、上陸自体は簡単だろ
73 : 日本人はほんとに強いんだなー
74 : 博多と下関に同時上陸し六波羅からの増援を阻止しつつ その間に九州諸侯軍を各個撃破すればよかった 全盛期のモンゴル軍ならこの程度の戦略は朝飯前だったろ
75 : 文永の役って後詰めはともかく戦場ではモンゴル側の数的優勢だよな
76 : >>74 モンゴル軍の全盛期は弘安の役だよ。 チンギス汗死亡時には総兵力12万9000騎でしかなかったんだから。 博多と下関に兵力二分したらモンゴル軍の方が六波羅軍と九州諸侯軍に 各個撃破されちゃうな。
77 : 鍛冶屋の生産能力の差だろう、モンゴリアンに勝ったのも露西亜に勝ったのも
78 : 日本人は太平洋戦争以外全勝だからな
79 : 白村江
80 : 武士台頭以前は平凡な戦闘力しか無いイメージ
81 : 飛鳥奈良時代に一応まともな軍隊があっただけで 平安時代に元寇があったら死んでただろう
82 : >>1 明に完全にボコボコにされて無様に撤退した戦国時代よりはマシだな モンゴルを退けたタイレベルの軍事力はあったわけだし
83 : >>78 シベリア出兵
84 : >>82 唐入りはむしろ日本が明と朝鮮をボコボコにしてた訳だが あの戦役の問題は戦術的勝利を戦略的進捗に結びつける事ができず、秀吉の死でタイムアップになった事 当の明史に「秀吉が死ななきゃ俺等負けてた(意訳)」って明記されてる訳で
85 : >>84 戦略目標達成できなきゃ負け まさか損害大きいから独ソ戦はソ連の負けとか言い出さないだろうな
86 : ドイツはソ連に占領され、女は全員強姦されたけど日本は明に占領もされてなければ賠償金も払ってないよね
87 : >>86 じゃあベトナム戦争はアメリカが勝ったんだな お前の理屈だとそうなる
88 : 同規模の軍を動員し、同じ対馬海峡越えの作戦なのに秀吉軍は短期間で漢城平壌を占領し、 7年間も朝鮮半島に居座って、一方のモンゴル軍は大宰府にも到達できずにフルボッコ。 何でこんなに差があるのかね。
89 : ベトナムは負けなかったって感じじゃん? ベトナムっていっつもああゆう勝ち方だよね
90 : 申し訳ないが唐入りと称しておきながら明の直轄地にすら侵入出来なかった秀吉をディスるのはNG
91 : 温暖地域の軍隊が乾燥した寒帯地域に深入りするのは自滅行為だって ばっちゃんが言ってた
92 : >>85 秀吉という再興権力者が死んだ時点で戦略目標がリセットされてるんで負け認定は詭弁。 これで日本側を負け呼ばわりするんなら、 ワールシュタットの戦いのモンゴル軍や七年戦争のロシア軍は負けという事になるが、 これらのモンゴルやロシアを負け認定してる史家は寡聞にして聞かん。
93 : >>87 勝ってもないけど敗けてもない。引き分けってとこ
94 : >>92 七年戦争のロシアは戦略的大敗北って評価は割とされてる 外交的成果については評価分かれるけど
95 : >>93 ……えーと、多分永久にお前とは話が合わないから、もういいや 多分お前に同調するやつは、いたとしてもごく少数だ
96 : >>92 もしその最高権力者が戦場で戦死なり陣没したってんなら負けかも知れんが、 秀吉もオゴタイもエカチェリーナもずっと本国にいて、最期は戦争と無縁の病没だったから負けじゃないな
97 : >>96 別に最高権力者が陣没しようが、三十年戦争のスウェーデン戦争のスウェーデンは勝者 逆に、天命は全うしたけど、ハプスブルクのフェルディナント親子は敗者だな
98 : 両者ガッツポーズで勝利をアピールしています! 原田さんの判定はどうですか? 私は118対115でチャンピオンの防衛ですね では小泉さんはどうでしょう? 僕は116対117でチャレンジャーの勝利です 両者割れましたね さて集計がそろそろ終わりますね 116:116ドローですか?チャンピオン防衛です
99 : 日本を完全に屈服させたのは唯一西洋のスーパーパワーアメリカだけ。モンゴルでも明でもあの大英帝国すら日本に勝てなかった 日本は本当に凄い国だった。イギリスみたいに日本人がオーストラリアでもいいから新大陸へ大量移住してれば超大国になれた。
100 : 日本軍にことごとく破れてた明が勝利なわけないだろ笑 秀吉の死という偶発的な出来事で中止になっただけ。 これで秀吉が敗北なら、クリルタイのたびに戦闘を中止して 本国に引き上げてたモンゴル軍は、連戦連敗の軍ってことに なるわw
101 : 中国王朝=強い、というイメージは 日本の歴史作家やゲーム会社の影響
102 : 明軍に連戦連勝しているはずの日本軍は何故、当初の目的である明の征服はおろか、明の領土にすら侵入出来なかったのか・・・ これはミステリーですね
103 : 一つは第一回の戦役は朝鮮半島内の戦いに留まるうちに講和へと向かったから 一つは第二回の戦役において朝鮮半島内の戦いに留まるうちに秀吉が死んだから
104 : 作戦の勝利ニダ
105 : このスレって 「なぜ鎌倉時代の日本は世界最強国になれたのか?」 じゃあなかったのか(笑) 文禄・慶長の役についてならそっちのスレでやれ!!
106 : 公卿に寄生しながら国司の美味い汁を吸ってた屑みたいな平安時代の武士共と 鎌倉時代の武士が上手く結びつかない
107 : 世界最大の地上軍を擁する国・モンゴル帝国 世界最強の地上軍を擁する国・鎌倉幕府
108 : 鎌倉武士にまともな攻城兵器とか無いだろうけどな
109 : >>108 ところがモンゴル帝国の明州城は1309年に日本からの襲撃で焼け落ちてるんだな
110 : >107 >世界最強の地上軍を擁する国・鎌倉幕府 東シナ海や対馬海峡(日本海)の荒海を渡ってきて本調子じゃない 元軍や高麗軍相手に防衛戦争に勝っただけで世界最強とか(笑)
111 : 日本が最強?かっこいい?世界中でもてはやされて大人気? そんなの認めねえし許せねえ by オレにも文化クレクレ名誉クレクレ乞食民族
112 : >>110 元軍も高麗軍も東シナ海や対馬海峡(日本海)の荒海を渡ってきて本調子じゃない 日本からの襲撃に全く歯が立たなかったんだけど・・・ 『いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。 さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。 (中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、 城郭を燔ゼツして居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。』 (論倭) 『結局此賊徒数千艘の船をそろえて、元朝高麗の津々泊々に押寄せて明州福州の財宝を奪い取り、 官舎寺院を焼き払いける間、元朝三韓の吏民是を防ぎかねて、浦近き国々数十箇国皆栖む人々もなく 荒れにけり。』(太平記)
113 : >>112 そりゃ、倭寇による襲撃は、 いつ、どこからくるかわからないから 対策の取りようがないしな。 元寇のように敵の待ち構えているところに 襲撃してくるのとは違うだろ。
114 : >>113 いつ、どこからくるかわからなくないよ。 日本と元との交易は基本慶元府でしか行われてなかったから、 元側も軍を置いて備えていた。 倭寇は敵の待ち構えているところに襲撃して慶元府焼き落としたんだよ。
115 : >>114 へー、そりゃ初耳だな(笑) でそのソースは(笑)
116 : モンゴルも日本もほとんど弓騎兵オンリーの兵制だったから、軽装にしてもたいして機動力を稼げない日本の地形ではより重装の鎌倉武士のほうが有利だっただろう。 同じく地形の問題で飛距離が長い複合弓の効果は限定的で、矢が重く殺生力の高い和弓のほうが有利。 さらに攻撃三倍の法則を考慮すると、兵の補充もきかない元軍にはどのみち全く勝ち目のない勝負だったと思われ。
117 : モンゴルの馬は扱いやすくするために去勢されていたのに対して、日本には馬を去勢する習慣はなかった(そもそも武士は気性が荒々しい暴れ馬ほど名馬として好んだらしい) そういうの乗り回していた割に落馬事故死の話をあまり聞かないってことは、実は鎌倉武士の乗馬技術は本家騎馬民族以上だったのかも。
118 : 元寇撃退のイメージはこんなカンジか http://gatoplanta.tumblr.com/post/10068203428/japanese-ww2-propaganda
119 : そりゃあ、小さい時から日々流鏑馬と犬追物漬けの 毎日を送っていたから、鎌倉武士の馬術は相当なもん だったでしょう。 鎌倉武士並に個々の戦闘レベルが高く武具も独自に発達 した民族は世界広しといえども、少数だろうし モンゴル軍が敗北するのも不自然でもない。
120 : 和弓も複合弓
121 : >>115 元史 巻020 成宗三 大徳六年 「冬十月甲子,改浙東宣慰司為宣慰司都元帥府,徙治慶元,鎮遏海道。」 元史 巻021 成宗四 大徳八年 「夏四月丙戌,置千戶所,戍定海,以防歲至倭船。」 元史 巻021 成宗四 大徳十年 「夏四月甲子,倭商有慶等抵慶元貿易,以金鎧甲為獻,命江浙行省平章阿老瓦丁等備之。」
122 : >>117 和式馬具の鐙はユーラシア大陸で使用されてる鐙より大幅に進歩してるからね
123 : サムライは異常な攻撃力と防御力を持つ中世のガルキマセラ 皮の鎧を纏っただけの兵士では一撃でゲームオーバー
124 : >>121 お前がソースとして提示した文章のどこに >倭寇は敵の待ち構えているところに襲撃して慶元府焼き落としたんだよ。 って書かれてるんだ?
125 : >>124 >>121 は元側が日本からの襲撃に備えて慶元府に軍を置いていたソース。 その慶元府が日本からの襲撃で焼き落とされた記事は↓ 『島夷歳以土物互市。郡境吏卒侵漁之、不堪以忿、持所賚流黄等薬火城中。官府・故家・民居幾尽、 観亦与。至大二年也。』(慶元府玄妙観碑銘) 『倭人入市慶元、有司不能用公前後持之道、而利其貨宝刧之以兵、反被殺略焼焚之禍』(程雪楼文集) 程雪楼文集には「兵をもちいたら反って殺略焼焚の禍にあった」と書いてあるわけで もろに「倭寇は敵の待ち構えているところに襲撃して慶元府焼き落とした」だろ。
126 : >>125 それってことだろ >大徳11年(1307)、実際には至大2年(1309)のことであるが、寧波にて日本 >の商人が暴動を起して放火し、寧波の城中がすべて焼失する事件が起こって >おり、これにより日本僧の摘発が天童寺にも及び、龍山徳見(1284〜1357) >を含めた十数人が逮捕されて大都に送られている(『東海一オウ集』巻5、真源大照禅師行状)。 http://www.kagemarukun.fromc.jp/page003f.html 交易に来た日本の武装商人(倭寇)が商いに不満をもって慶元府内で暴れまわったってことだろ。 俺が聞いてるのは、 >倭寇は敵の待ち構えているところに襲撃して慶元府焼き落としたんだよ。 ていうお前の主張の裏付けとなるソースなんだけど!? だいたいお前が出してきた「程雪楼文集」でも倭人入市慶元って日本人が慶元府内に入ったて 記されてるじゃん(笑)
127 : >>126 日本の武装商人(倭寇)が商いに不満をもって慶元府内で暴れまわった どころじゃないだろ。 元が軍を駐屯させていた慶元が全焼した上、住民が虐殺されてるんだから。 思いっきり焼き落とされてるじゃん
128 : >>127 >元が軍を駐屯させていた慶元が全焼した上、住民が虐殺されてるんだから。 >思いっきり焼き落とされてるじゃん だから軍が駐留しているところに、商取引装った海賊が入り込んで、だまし討 ちをしたんだろ。 その結果、慶元府が全焼した上、住民が虐殺されたんだろ。
129 : ちなみに慶元府ってのは南宋時代の呼び名で元代だと慶元路だからな
130 : >>126 あと、補足すると当時の慶元は日本人入城禁止だから単なる暴動じゃなく 外部から攻め落とした以外の可能性はないよ。
131 : >>130 >あと、補足すると当時の慶元は日本人入城禁止だから単なる暴動じゃなく >外部から攻め落とした以外の可能性はないよ。 AD1306 日本商船、元の慶元(寧波)に到り貿易 AD1309 日本商船、異賊蜂起する 日本の交易・文化史_2 http://www.geocities.jp/yasunobuogawa/rekisi_3.htm
132 : >>131 日本人入城禁止と貿易はずっと並行して行われてたんだよ つまり日本人は慶元の城の外で貿易させられてたってことね
133 : 慶元で日本人入城禁止と貿易が並行して行われていたソース 「郡城に入れるなかれ、貿易を止めるなかれ」だからね 「舶有定制。輸其物以上干官、勿入郡城、勿止貿易、則得以永遠。」(馬元帥防倭記)
134 : スカイリムでカジートが城壁内に入れてもらえないようなもんか・・
135 : 商人でさえちょっとカッとしたら荒ぶって街一つ壊滅させてしまう人間凶器揃いの日本人w
136 : 維新(笑)が、植民地化だったという証拠あがる w 論文「長州出兵下における長州藩とイギリスの関係 ―イギリス側の視点を中心として― 」より http://www.oshima-k.ac.jp/kakari/tosho/kiyou/kiyou44/contents/10.pdf >このようなクラレンドン卿からの情報をパークスに知らせたハモンド自身は、日本の体制変革について、 >次のような意見を述べている。 >The change of system, if change can be brought about, must appear to originate with the Japanese alone: >it may indeed be brought about in a way different from our wishes, but to be really permanent and beneficial, >it must bear throughout the imprints of the Japanese character. 試訳 「(日本の)体制の変革は、変革が可能であるならば、 日本人だけによってもたらされた、と見えなければならない。 その変革は、我々の希望とは異なった方法で、もたらされるかもしれない。 しかし、その変革が永続的で有益であるために、 その変革は、日本人的な性格をもったものという印象を完全にそなえてなければならない。」 ------------------ ・天皇親政の統一政権を日本人が日本人の手によって打ち立てた明治維新、というのは、 フィクションだ、ということ wwwwww ・独立を保った!とかも大嘘だったwwwwwww
137 : 田中上奏文とか信じちゃうタイプの人?
138 : なかっち 動画 http://www.youtube.com/watch?v=z2qK2lhk9O0s みんなで選ぶニコ生重大事件 2012 http://vote1.fc2.com/browse/16615334/2/ 2012年 ニコ生MVP http://blog.with2.net/vote/?m=va&id=103374&bm= 2012年ニコ生事件簿ベスト10 http://niconama.doorblog.jp/archives/21097592.html 生放送の配信者がFME切り忘れプライベートを晒す羽目に 放送後に取った行動とは? http://getnews.jp/archives/227112 FME切り忘れた生主が放送終了後、驚愕の行動 http://niconama.doorblog.jp/archives/9369466.html 台湾誌 http://www.ettoday.net/news/20120625/64810.htm
139 : >>133 >慶元で日本人入城禁止と貿易が並行して行われていたソース >「郡城に入れるなかれ、貿易を止めるなかれ」だからね ふーん、じゃあ日本人が交易の為に慶元府に訪れていたことを 認めるんだな。 じゃあ俺が主張している >軍が駐留しているところに、商取引装った海賊が入り込んで、だまし討 >ちをしたんだろ。 >その結果、慶元府が全焼した上、住民が虐殺されたんだろ。 でことでいいな(笑)
140 : >>139 だから日本人の商人は慶元の城の中には入れてもらえないんだよ。 城の外で貿易するしかないの。 商取引を装ってもだまし討ちとかできないわけ。 つまり慶元は外から攻め落とされたってこと。
141 : 139の頭の悪さに絶句。 まぁ、笑なんて付ける奴にロクなのはいないけど。
142 : >>140 >だから日本人の商人は慶元の城の中には入れてもらえないんだよ。 門番に金でも渡して城内に侵入したんじゃね! あるいはそのまま切り込みをかけて城内に押し入ったかじゃね。 >AD1309 日本商船、異賊蜂起する >日本の交易・文化史_2 >http://www.geocities.jp/yasunobuogawa/rekisi_3.htm てことだから、すくなくてもお前が言 >倭寇は敵の待ち構えているところに襲撃して慶元府焼き落としたんだよ。 てことはないだろうな(笑)
143 : 古都橿原の伝統階級 地主(本人) 億万長者(個人) だけど何か質問ある? 30歳 不労所得400万円 独身 同じレベルの資産家の主、お嬢様キボンヌ
144 : 朝鮮製船(高麗)は頑丈で帰還できた船もあったことを後で知る無知な俺
145 : 台風慣れしてて対応が良かったとかの話も
146 : まあ朝鮮の船は度々日本に海賊に来て実戦に裏付けられてるもんな
147 : 台風がなくても日本征服は無理だったよ、それだけ日本の武士の能力は秀でていた てか日本人は手先が器用で武器等の技術力にも秀でていた 今に至って世界に冠たる誇れるのが刀工だ。鎌倉時代の刀は美術品価値は最高ランクだ これを忘れてもらっては困るな
148 : まあ世界最強のモンゴル軍に勝ったのはすごいが、向こうは足手まといの高麗兵が相当数くっついてた分かなりのハンデはもらってるなw
149 : それを朝鮮人のおまえが言うのか。日本人を認めたくないが余り
150 : 確かに日本は勝ったがモンゴルみたいに征服活動できたのかっていうと
151 : 高麗兵自体は平均的な大陸の兵士に劣るもんじゃないと思うけどね
152 : 戦国時代の戦乱を生き残った安土桃山期の武士って 千年におよぶサムライの歴史上「最強の世代」て言ってもいいだろう。 その「最強の世代」のサムライでさえ朝鮮半島すら征服できなかったのに 鎌倉時代の武士ごとき実戦経験豊富な高麗軍相手に対馬海峡の荒波を超えて 征服できるはずないよな(爆笑)
153 : 対馬に拠点をつくってじっくり攻められれば無理だった
154 : 蒙古は例え緒戦に勝てたとしても武器食料の補給が心配 包囲されて全滅、兵糧攻めで全滅、逆上陸されて結局全滅では?
155 : >>153 あの時代に長期的な兵站を組織的に行うとか無理だし、対馬には大軍を養う生産力も無いから無理 そもそもモンゴルに限らず、大規模な渡海作戦で、対岸に支援してくれる勢力が無い状況で勝利するとか無理
156 : 対馬すら奪えない、蒙古は弱小すぎ。日本は最強。
157 : >>155 浅学ですまんスレチだけど豊臣秀吉は支援がないのになんで朝鮮に上陸できたの?
158 : >>157 あの時代としてはかなり大規模かつ計画的な兵站の存在、李朝自体の内部空洞化 もちろん、補給あったにせよ、基本は現地調達なんで、明軍の焦土作戦は効果的だった模様
159 : 実際半島が焦土になったのって焦土作戦が原因だもんね・・
160 : >>159 ロシアは外敵の侵略に対して戦略的に焦土作戦を行なったが 朝鮮のは泡吹いて逃げ出す王族軍民の逃避行が後生から見て焦土作戦のように見えただけだろw
161 : >>157 あの時代っていっても元寇から300年以上たって大航海時代の西洋船とも接触した後だからな。 船の速度・安全性・輸送能力も大分違ったんでは?
162 : 逆に、鎌倉幕府が蒙古に攻撃していたら、蒙古は滅んでいた。 つまり、日本が世界最強。
163 : >>158 >>161 ありがとうございます勉強になりました
164 : そんな禄でもない事して大陸に関わらなくてよかった
165 : 当時の鎌倉幕府に 超巨大軍事国家との戦いという自覚はあったのかな
166 : でもモンゴル本体はそんな数多くないしなぁ・・ 勢いは勿論あるけど海を越えるのはやっぱり難しいよね
167 : 対馬や壱岐の島民大災難
168 : >>162 ね〜よw
169 : 蒙古帝国を完全に滅ぼすには完全武装の侍が最低でも50万は必要じゃね 東蒙古帝国を倒すのに15万 蒙古帝国中枢部を倒すのに25万 西蒙古帝国を倒すのに10万
170 : >>165 当時の日本はモンゴル帝国について正確に認識してたよ。 だから牒状が届いた段階で重大な国家的危機として大問題になった。 「麗しき御賀の儀、いかばかりの事にてか有んずらんと覚えしに、蒙古国とかやより牒状を奉る。 高麗の牒を相副たり。宰府よりまづ関東へつげて、関東より二月六日牒状をまゐらせたり。 これに依て御賀止めらる。 公私本意なき御事也。蒙古国もとは契丹の所属、韃靼国也。年比契丹国已下の近辺の諸国打とる。 大宋国も、三百余州のうち大略皆討とられて、僅に六十余州残れり。高麗も同せめおとされて、 臣として蒙古の朝につかふる由、牒状にも載たり。牒使には趙良弼と云ものわたれり。 高麗の使を副たり。牒状二通あり。一通は高麗の牒也。蒙古状は文永三年丙寅九月の状也。 至元三年と載たり。高麗国、同彼年号をうけて至元となせり。去年八月の状也。 数多の方物を相副て、正月一日大宰府に着たり。 」 【五代帝王物語】
171 : モンゴル帝国軍の戦略も戦術も当時としては妥当なものだったが 幕府軍は文字通り個の力で元寇に打ち勝ったんだな
172 : >>162 むりむり(笑) 鎌倉武士を過大評価しすぎ。 だいたい高麗への遠征さえ1276年、1281年、1291年と三度も 企てられながら結局一度も実施できなかった鎌倉幕府が大元国を 征服するなど夢のまた夢だな(笑)
173 : 元軍は歩兵が多かったようだから、ユーラシア各地での「モンゴル騎馬弓兵に翻弄される歩兵主体の各国の軍隊」という構図が局地的に逆になってたんだよな。 半島の馬鹿連れてこないで、その分本物の馬を増やしたほうが良かったんでは?
174 : >>173 弘安の役ではモンゴル騎兵増やしたけど鎌倉武士に完敗してる。
175 : 過疎板なのはわかるけど、なんで6つしかスレがないの?移転でもあったの?
176 : >>174 >弘安の役ではモンゴル騎兵増やしたけど鎌倉武士に完敗してる。 船から上陸したばかりでの戦闘じゃ、人も馬の能力を発揮出来るわけ ないだろ(笑)
177 : 江南軍10万は平戸島にしか上陸できてない まともな戦闘はひたすら日本軍に海上襲撃されてただけ
178 : >>175 ちゃんとあるよ でも鯖の調子悪いと上位しか表示されないことあるね
179 : 2ちゃんねるサーバ負荷監視所 http://ch2.ath.cx/ 2ch サーバーダウン(鯖落ち)情報 part457 http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/operate/1381064148/ ★板のスレ一覧復帰&修正依頼45★ http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/operate/1381147318/
180 : 日本海のおかげでしょう
181 : >>180 いや、明らかにモンゴル軍の実力は鎌倉武士より数段劣っている。
182 : 蒙古の軍勢がそのまま攻めてきたら勝てない 地続きでなくて良かった
183 : 後詰めはともかく戦場では数的優勢なのに 足並み揃わぬ武士の暴走気味の先鋒に突っ込まれて押し切られたわけだが
184 : >>182 蒙古の軍勢をそのまま船に乗せて攻めてきてるじゃん 陸続きと何も変わらないぞ
185 : >>184 ……お前は何を言っているのか
186 : 今の航海・航空技術ですら陸続きか海を隔ててるかと言うのは防衛上大きな違いになる 当時考えればお察し
187 : それなのに古代の弥生時代に半島から攻めてきた朝鮮人が日本列島を制圧して建国したとか嘘付いてるコリアン
188 : >>184 これは天才的な発想ですねぇ・・・
189 : しかし朝鮮から対馬海峡に船の橋をかけられないかマジで検討していたというぞ
190 : >>189 木造船繋いで使うんでは放火されて赤壁の戦いみたいなことにw
191 : >>186 今は鉄道とかトラックとか陸運の手段が発達してるからな。 当時は物資の大量輸送といえば船しか無かったわけで、海から攻めた方が楽だろ。
192 : >>191 そんなわけはない ものを輸送するだけなら海使った方が早いがね
193 : いや我が国は、アジア大陸からは日本海という大海により離隔されて いるので、元寇の役のときであっても自国の防衛に成功しているでは ないか、と反論する人々がいる。そのとおりであろう。 旧軍時代は、日本海は50個師団にも匹敵する価値があると、巷間 言われていた。しかし現代戦は、すでに海洋の存在を無視できるほど に発達した兵器類で闘われるので、海洋の存在を当てにして50個師団 の価値があると強弁する妥当性はとうに失われているのであるが、この ような現実論を考慮せずに、仮に日本海は50個師団の価値があると 仮定しても、我が国の防衛のためには、これに携わる人員が95万〜100万人 あっても不思議ではないと判断される。 ttp://www.jpsn.org/opinion/word/436/
194 : >>193 つまり旧軍時代は日本海という50個師団にも匹敵するハンデを抱えたまま 清朝やロシアに勝ったわけか・・・
195 : 徳川幕府はたった4隻の黒船による砲艦外交に屈して開国を余儀なされたわけで、 ちょっと考えれば海に囲まれてることは防衛上のリスクでしかないって解るのに
196 : >>195 お、おう
197 : 攻めるほうも大変だが、守るほうも海上撃破なんて出来ないのも事実
198 : 脳筋の蒙古がケンチャナヨで馬鹿な半島民にそそのかされて杜撰な計画で攻め込んできた、元祖「ジンギスカン作戦」
199 : 当時お隣の朝鮮半島の高麗も武臣政権という一種の武断政治が行われたが日本の幕府政治と違ってわずか11代100年余りで終了 日本のように幕府政治を行って王権に制限を加えることができなかった ・文治主義の伝統から文官に比べて武官の地位が極めてひくかった ・日本の幕府は封建的な土地支配権を紐帯とした主従関係が将軍と御家人との間になされたのに対し高麗の武臣政権では軍事的奉仕への見返りとしての土地の安堵や給与が制度的に行われなかった ・そのため武臣政権では下克上の風潮が強く前政権を武力によって倒したため一つの家系が連続的に武士の棟梁を占めることが出来ず世襲的な権力的基盤はついぞ構築出来なかった ・総じて武臣政権の長は身分的に低く金俊のように奴隷階級からのし上がってきたものもいた(一方に日本の場合武家の棟梁は源氏、摂関家、皇族など貴種が制度の安定から求められた) ・武臣政権の地方における自立性は極めて脆弱で相次ぐ反乱も地域ごとの独立性から大規模化したこともあったが中央集権的な官僚制を主軸とした高麗王朝を武臣政権が 凌駕することはなかった(一方日本の幕府は京都の朝廷から離れた東国で行われることがしばしばあり朝廷からの自立性が保たれた) ・外敵モンゴル民族の度重なる侵攻
200 : 高句麗から李氏朝鮮に至るまで半島の戦争って降伏してからが本番って 戦いするから結局奴隷にされるまで終わらないんだよね・・ 毎回毎回ホント同じ事してる 使者切って相手怒らせて開戦して降伏して帰る相手を追撃 怒った相手がまた報復って感じで何度も何度も歴代政権が同じ事してる
201 : 元寇 ナポレオンとヒットラーのロシア侵攻 日本軍の大陸侵攻 一見それなりに勝算ありそうに見えて、後から振り返って冷静に考えてみると(戦闘ではなく戦争に)勝てる現実的なシナリオが思いつかない戦争って結構多い。 急に強力な軍隊を持つとと「俺ツエ〜」って舞い上がってしまうものなのか。
202 : 大量に軍備を整えると 使わない訳にはいかないんじゃね? 軍隊の維持費・強大な軍隊を用意するのに無理した金を取り戻すのに 更に侵略戦争を行わないと国家が破産する仕組み
203 : 戦争で獲得された権力は戦争を続ける事でしか維持できないんだよ。
204 : >>201 現代中国の行く末
205 : >>200 朝鮮半島は大陸と国境を接しているからそれは仕方ないよ 我が国は海という自然国境のおかげで独自の武断政治が確立されたんだろうな
206 : >>201 元寇はそもそも戦闘で勝ててないんだから、他の二つとは根本的に違うだろ。
207 : >>205 朝鮮半島は海を隔ててる日本から何度も侵略されてるんだから海とか無関係だろ。 陸続きの唐すらわざわざ海路で攻め込んでるのを見れば海はむしろリスク要因。
208 : 名称こそモンゴル帝国軍だが 軍の内容は指揮官・中国の軍官僚、兵士・朝鮮農民では何とも心もとないなw
209 : >>208 中国の軍官僚ってメチャ使えるよ。 フレグの西方遠征で暗殺教団壊滅とかバグダード攻略とかの時に中核となって 活躍したのが郭侃だろ。 モンケが死んで中国人がゴソッと東方へ帰還した途端に勝てなくなってるし。
210 : 徳川なんてその気になれば京都の朝廷潰して日本国王になれたのに何でしなかったんだろ?
211 : うーん実際それやると戦国逆戻りじゃないかな
212 : 権威と軍事の分離は卑弥呼以来の伝統だけど この伝統って日本にしかないしね
213 : 日本にしか無いわけじゃないな。
214 : 権威と軍事が分離されてた時期もあれば統合してた時期もあるし・・・
215 : 穢れ思考で朝廷から武を遠ざけたおかげよ
216 : 権威と軍事の分離とか、割と珍しくないというかメジャー 教皇や後期アッバース朝カリフなんかもろだな
217 : 日本の天皇はついに最前線で指揮する事はなかったな
218 : 蒙古軍はドイツ兵を恐れていた ドーソンによると、ハンガリーにおいても、エステルゴムの内城 Albe-Julie Saint-Martinの三城は陥落せず、本国よりオゴタイ 崩御の報を得て囲みを解いたという。これとは別に蒙古軍は オーストリア に侵寇し、ウィーン南部のノイシュタイン城を包囲した。 この攻城戦は、『ローマ帝国衰亡史』のエドワード・ギボンが次の ように叙述している。 一方タタール人の側もフランク人(ドイツ人)の名声と武勇に恐れを なしていて、オーストリアのノイシュタインの町への彼らの攻撃は 五十人の騎士と二十丁の石弓兵で勇敢に防衛され、彼らはドイツの 一部隊の来援で包囲を解いた。 (「ローマ帝国衰亡史」巻10) このようにギボンは蒙古人がドイツ人(フランク族)の勇猛さに 恐れをなしていたと記している。 たった五十人の騎士で一城が守れるとは信じがたいがノイシュタット の防衛はドーソンも、 ノイシュタットには僅かに五十人の守備兵と 二十人の石弓兵とを備える のみなりしが、蒙古兵はオーストリア公、 ボヘミア王、カリンチア公、 バーデン侯Agrar管長の連合軍近けるを 以て退却したり。(「蒙古史」) 今村明著 『封建制の文明史観』P60-P61
219 : どこの世界にも狂信的兵士たちに手こずらされた話は存在するからな その類じゃね
220 : 1241年8月初め、バトゥの命により、モンゴルの先遣隊はオーストリアに侵入 し、ウィーン近くのノイシュタットまで侵攻した。しかし、オーストリア公、 ボヘミア王、その他の君侯、アクレイアの総主教ら率いる強力な合同軍に迎撃 され、退却した。モンゴル勢はそれ以上西方に踏み込むことは出来なかった。 またハンガリー王から皇帝に宛てた書簡で、「領土奪還のあかつきには、神聖 ローマ帝国に臣従する」とまで明言して救援要請を訴えるとw 彼はすぐさま 嗣子コンラートに軍団を委ねて派遣した。同軍団は、タタール勢 とその傘下に入ったキプチャック勢の合同軍を迎え撃ち、ドナウ川の一支流河 畔で激戦の末に撃退した。 モンゴル vs.西欧 vs.イスラム 13世紀の世界大戦 (講談社選書メチエ)
221 : モンゴル軍は最初から連戦連勝だった訳じゃないからな 一時は撤退を余儀なくされてもすぐに態勢を立て直し外交戦情報戦で骨抜きにし 最後に精鋭部隊の偽装撤退半包囲戦術で息の根を止める
222 : でもヨーロッパでモンゴル軍は連戦連勝だったろ。 当時のヨーロッパは辺境の後進地帯。
223 : モンゴル軍が戦っていたのはヨーロッパじゃなくて東欧と中欧だけだろ・・・
224 : バカネトウヨのRースレを専門板に立てるなクズ >>1 R wwwww 19世紀まで米(笑)で徴税してた田舎土人国家が世界最強とか、 豆腐の角に頭ぶつけて死んでしまえ wwwww
225 : 中世は銭納だったけどな 前近代において貨幣経済を敷いても貨幣不足になるのが普通だったし 銭納にすれば農民は作物を銭に替える時に損をしやすい 貨幣で税を収めることが必ずしも合理的なわけじゃないんだよ
226 : バトゥ率いる13万人の騎馬軍団(英語版wiki参照)が全軍でヨーロッパを撤退 したのって、叔父のオゴタイ・ハーンの死語に首都カラコルムで開催される クリルタイ(皇帝選挙)に参加する為、といわれていたが、実際はバトゥって クリルタイに参加してないんだよね。それどころかカラコルムにももどらず、 中央アジアのサライに自主割拠してジェチウルスを興している。 また、のちのフレグ(アッバース朝を滅ぼした)がクリルタイに参加する為に 撤退する際におこなったように、一部の軍を裂いて占領地に駐留させることも せず、ポーランドとハンガリーを完全に放棄している。 神聖ローマ軍(ドイツ騎士)の本格的な反抗に恐れをなして撤退したのが真実だろう。
227 : では、神聖ローマ軍(ドイツ騎士)のどこを恐れたんだろうか。 この参考になる出来事が1266年にフランスの聖王ルイ9世の弟シャルル・ダン ジューとシチリア王マンフレーディ(神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の庶子) の間で起こったベネヴェントの戦いからわかる。 「戦いは朝方に始まった。マンフレーディはまだ十分な準備が整っていなかっ たが、彼のサラセン人部隊は橋の向こうでシャルルのフランス人部隊と交戦を 開始した。サラセン人部隊はシャルルのフランス人部隊を圧倒したが、そこに プロヴァンスの騎兵部隊が突入すると、たちまち蹴散らされた。これを見た マンフレーディのドイツ人騎兵部隊は命令を待たずに突撃し、シャルル・ダン ジューは第二陣の騎兵部隊も戦線に投入した。数に劣るものの、強固な装甲に よって武装したドイツ人騎兵は、シャルルの騎兵の剣を全く通さず、戦いの 趨勢はわからなくなった。」(日本語Wiki抜粋) フランス騎士から見ても重装甲なドイツ騎士だから軽装のモンゴル騎兵から みたらものすごい驚異だったことだろう。
228 : エイジオブエンパに居たな超重装備だけど恐ろしく動きの鈍いユニットがw
229 : >>226 カラコルムにもどらず中央アジアに残ったのはバトゥだけだろ。 それ以外の主要な東欧遠征の参加者はみんなモンゴルに帰ってるじゃん。 モンゴル軍はドイツ騎士なんて屁とも思ってなかったのが事実。
230 : >>229 じゃあ、なぜせっかく占領したハンガリーとポーランドを 放棄して全軍で撤退したんだよ?
231 : >>217 将棋とチェスの違いがもろにでとるな チェスではキングでもバンバン攻撃に出るのに将棋の王将は逃げまくってるやん こういったゲームにも日本と欧州の王のあり方が異なってくる
232 : 10月7日にNHK「探検ロマン世界遺産」(20:00〜20:45)でルーマニアの登録世界遺産のひとつである「トランシルヴァニア地方の要塞教会群のある集落」が放映されます。 12世紀頃のトランシルヴァニア地方はハンガリーの統治下にあって、モンゴル軍 に敗れたハンガリーは南東部の国境の防衛と土地活用のためドイツ人移民を 招致して都市を造っていきました。 その後、オスマン帝国の侵略の脅威にドイツ移民たちが命を守るため避難場所 として教会がどんどん要塞化されていきました。 16世紀には約600もの要塞協会があったようで、現在残っている教会のうち7つ が登録されています。 http://romcafe.exblog.jp/3924750
233 : モンゴル軍は強いって言ったりヨーロッパにビビってたと言ったり忙しいやつらだな在日は
234 : >>231 西洋の王様は日本で言えば戦国大名。 日本の天皇は西洋で言えばローマ法王。 そりゃ違うよ。
235 : 蒙古軍が実は弱いとあっては征服された欧亜大陸の連中が哀れだろw
236 : >>233 サムライ厨は実に馬鹿だな。 日本の武士(サムライ)よりは強いけど ドイツの騎士よりは弱いってことだろ。 この馬鹿が(笑)
237 : モンゴル軍は弓が主たる武器(しかも和弓やロングボウのように貫通力重視じゃない)なんだから 1.装備が国費もしくは親分格の負担なため、コスト第一の貧弱な防具をつけた歩兵が主力の南宋や高麗などの国に対しては無敵でも 2.同僚に対する見栄もあって、無理してでも立派な鎧を自弁したであろう西欧騎士や鎌倉御家人(しかも相手が騎兵ばかりだと矢も当たりにくい)相手には殺生力が足りずに苦戦 というのはあったかもな。戦記読むと元寇のときも、日本側の主だったメンバーにもやたら負傷者が出てる割りに、そのまま死亡や戦線離脱せずに活躍してる場合が多いみたいだし。
238 : >>237 南北朝時代頃に集団戦・接近徒歩戦が盛んになると胴丸・腹巻が多く 用いられるようになり大鎧は実戦から姿を消す。(wiki参照)
239 : 欧州は飛び道具(鉄砲)がうまれてから強くなった 西洋のただ単に突くだけの剣で中国の青龍刀や日本の日本刀に勝てるわけないだろ
240 : >>236 この時代は東から西へと行くほど弱くなる 極東のサムライが最強でドイツの騎士が食物連鎖の最下層
241 : 兵力×速さの二乗=打撃力 この法則に従えばモンゴル軍とドイツ騎士団が同規模の兵力で正面激突した場合 ドイツ騎士団に万に一つも勝利の可能性はない
242 : 一方タタール人の側もフランク人(ドイツ人)の名声と武勇に恐れを なしていて、オーストリアのノイシュタインの町への彼らの攻撃は 五十人の騎士と二十丁の石弓兵で勇敢に防衛され、彼らはドイツの 一部隊の来援で包囲を解いた。 (「ローマ帝国衰亡史」巻10) このようにギボンは蒙古人がドイツ人(フランク族)の勇猛さに 恐れをなしていたと記している。 たった五十人の騎士で一城が守れるとは信じがたいがノイシュタット の防衛はドーソンも、 ノイシュタットには僅かに五十人の守備兵と 二十人の石弓兵とを備える のみなりしが、蒙古兵はオーストリア公、 ボヘミア王、カリンチア公、 バーデン侯Agrar管長の連合軍近けるを 以て退却したり。(「蒙古史」) 今村明著 『封建制の文明史観』P60-P61
243 : >>242 現実にリーグニッツでモンゴル軍にフルボッコにされてるんだから そんなコピペ貼っても無意味。 ドイツ騎士は雑魚。
244 : 引用をコピペと呼ぶ奴が学問板でも出てくる時代か……
245 : 現実は現実だからな。 ドイツ騎士は15世紀のタンネンベルクでもタタールとポーランドの連合軍に負けてる。 2世紀たってもモンゴル軍のレベルに到達できなかった未開地域の武将集団。
246 : 東欧やロシアでスラブ美女に慣れたモンゴル軍は、ドイツまででてきてシュワちゃんが女装したような女しかいないのを見て、やる気を無くしてそそくさと帰って行ったのであったw
247 : タンネンベルクあたりだともうモンゴル関係ないだろ リトアニアとポーランドが手組んだ時点で物量的に勝ち目がない http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bb/Polska_1386_-_1434.png
248 : 平地でまともにぶつかれば19世紀のナポレオン軍ですら 危機的な状況に陥らせるほど時代を超越した軍隊だったのがモンゴル軍 腕に覚えがある程度の武装集団が太刀打ちできる相手ではない
249 : 実際ガチャガチャに鎧固めた相手にパルティアンショットって効くのかな
250 : 鎧って、がちがちに見えても実際は厚さ数ミリらしいから効くだろ
251 : >>249 遠矢は割と貫通するし、馬に当たりゃ落馬するしな まあ、重武装云々より、欧州の騎士どもは戦術とか集団行動とか大の苦手なのから なんとかしろと だから半数のウェールズ弓兵に殲滅されるんだ
252 : 焼き入れしたボドキンなら抜けるし、それ以外なら鎧に負けたり、穴は空いても引っかかって抜けなかったり 再現実験の結果はいろいろ
253 : どんだけ厚着の鎧を着込んでも 矢をしこたま飛ばしてくる相手に向かっていくにはよほどの強心臓が必要だろ
254 : 第1回十字軍においてセルジュークトルコ軍はドリュラエウム付近 で野営していた十字軍の一隊に対して攻撃を仕掛けたが、トルコの 騎兵の放つ弓矢は甲冑で重武装した十字軍の騎士らに対して効果を上げず、 他の十字軍部隊が次々と救援に現れるに至って、大きな損害を出した トルコ軍はついに敗走した。
255 : モンゴル軍って重装備の歩兵騎兵には重騎兵が相手をするんじゃなかったか そして軽騎兵の弓矢は罠にはまってパニくる一般歩兵がターゲットだったかと
256 : ナショジオで豚肉に鎧かぶせて刃物の打撃の実験やってたけど 刃物で鎧が裂けても中身は打撲か軽傷程度済むケースが多かった 矢が貫通しても必ずしも戦闘不能になったとは限らんからな
257 : さらに鎧の下にも衝撃吸収するような服とか着込んでるだろうし そんなに簡単に飛び道具だけで相手を無力化できるなら白兵戦なんて必要ないからな 今の時代の戦闘はそういう状態だけど クレシーでウェールズの射手にやられたのは騎兵がぬかるみにはまって的になったから 通常の動ける騎兵に飛び道具だけで勝てんでしょ ちなみにモンゴルも相手を崩すときは重騎兵使うし、オスマンも重騎兵使ってたよ
258 : >>257 クレシーだけじゃなく、ポワティエでもアザンクールでもボッコボコにされてるわけだが まあポワティエでは弓の数足りなくて、 ブーシェ小伯の騎兵突撃もしとるがね
259 : どっちも機動力そがれて負けた 重騎兵突撃は19世紀半ばまで生き残ってる ライフルが一般化するまでは有効
260 : >>259 中世の騎士軍の本質を無視した主張だな 俺も別に「統制の取れた重装騎兵集団の突撃戦術」が飛び道具に対し対応できないとはいっていない むしろ、近代になっても、例えばWW1ですら抜刀騎兵の突撃は場合によっては有効だった しかし、中世以来の騎士軍にはそれは無理
261 : ポワティエにしても鏃が鎧に歯が立たないから馬の鎧うすいところを狙ったとある 逆にいうと強固な鎧は有効ってことだ 勝つか負けるかはどちらが相手の弱点をつきどれだけ有利な状況を作れるかによる 技術的な面で飛び道具が圧倒的有利になるのはライフル一般化以降
262 : オットー率いるドイツ諸侯らはゲルマン人であり、ゲルマン人はコーカソイド の中でも大柄なほうで、馬に乗ると馬体への負担が大きいのでどうしても機動性 が損なわれ、比較的小柄なマジャール人と騎馬戦闘をすればスピードで劣るの で不利でした。そうした不利はフン族やアヴァール人のようなモンゴロイド系 遊牧民に散々やられていた頃から痛感されていたことであり、そうした不利を 補うためにゲルマン人は武装を強化して装甲を分厚くする工夫をしてきました。 装甲を分厚くすればますます重量が増えるので機動性は低下しますが、どうせ 同条件では小柄な民族には機動性では勝ち目は無いわけですから、いっそ機動性 は切り捨てて、ゲルマン人の大柄な体格を活かして、重厚な鎧をまとって 巨大な剣を振り回す、突撃力と防御力に特化した重騎兵への道が模索されたのでした。 http://kn2006.blog66.fc2.com/?mode=m&no=480
263 : ドイツ国の軍隊がまともな戦い方をしだしたのはプロイセン以降 フン族やモンゴル軍に敗戦を重ねていた原因は機動力の差だけではない
264 : 欧州の重騎兵信仰はレヒフェルトでマジャールに勝ったから それに遊牧国家にも重騎兵はいる 機動力が落ちるといっても歩兵よりははるかに機動力がある 大勝したイングランドの作戦も重騎兵の機動力をそぐことに重点おいてかつ成功した
265 : 対矢の再現実験だと、一概に板金が強いってわけでもなかったりする 対銃になると、もう部位を絞った分厚い板金しか手がなくなるが
266 : ディスカバリーでやってた再現実験で、焼き入れが出来てなくて鏃が曲がって弾かれるパターンは金属鎧の強みが出てるな
267 : 一度でいいから好きなだけ武具の実験がしたい
268 : モンゴル重騎兵=馬に乗った朝青龍のイメージ
269 : 朝青龍なら重厚な鎧を軽々と着こなし、太い騎槍や大太刀を片手で振り回す ファンタジーな光景を実現してくれるに違いない とりあえず黒王号を連れて来い
270 : もしモンゴル帝国に分裂がなかったらヨーロッパ中東各地は完全に手中に収めていたかもな
271 : >>270 そのもしはあり得ない 遊牧帝国は、巨大化したら分裂するものだ
272 : >>269 おおたち
273 : おっと大太刀はぜひ背中に背負うオプションでお願いします
274 : 蒙古人が朝青龍タイプなら一都市まるごと皆殺しもあながちフィクションではないな
275 : >>269 モンゴル軍の馬はポニーサイズだよ
276 : 朝青龍ってホント最低だな
277 : なんで朝青龍disられてんの??
278 : 南トンスリア人にキムチ野郎って言ったからじゃない?
279 : 朝青龍も白鳳も立派なモンゴル帝国軍兵士の末裔です
280 : >>254 十字軍の装備がセルジュークトルコ軍に有効だったのは第一回だけ。 その後にアナトリアを突破して聖地にたどり着いた十字軍は存在しない。 特に酷かったのは1101年の十字軍で3つの大規模な十字軍がセルジュークトルコ軍 によってあっさりと全滅させられてる。 つまり、第一回は単にセルジュークトルコ側が分裂してた隙を衝かれただけね。 まともに戦えば後進地帯のヨーロッパ軍はイスラム軍に勝てないよ。
281 :2013/10/22 遠征している軍隊の方が不利だろうね。
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