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【2次】漫画SS総合スレへようこそpart73【創作】


1 :2012/11/15 〜 最終レス :2013/02/10
元ネタはバキ・男塾・JOJOなどの熱い漢系漫画から
ドラえもんやドラゴンボールなど国民的有名漫画まで
「なんでもあり」です。
元々は「バキ死刑囚編」ネタから始まったこのスレですが、
現在は漫画ネタ全般を扱うSS総合スレになっています。
色々なキャラクターの話を、みんなで創り上げていきませんか?
◇◇◇新しいネタ・SS職人は随時募集中!!◇◇◇
SS職人さんは常時、大歓迎です。
普段想像しているものを、思う存分表現してください。
過去スレはまとめサイト、現在の作品は>>2以降テンプレで。
前スレ
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/ymag/1330202946/
まとめサイト(バレ氏)
http://ss-master.sakura.ne.jp/baki/index.htm
WIKIまとめ(ゴート氏)
http://www25.atwiki.jp/bakiss

2 :
永遠の扉 (スターダスト氏)
http://ss-master.sakura.ne.jp/baki/ss-long/eien/001/1.htm(前サイト保管分)
http://www25/atwiki.jp/bakiss/pages/552.html
上・ロンギヌスの槍 中・チルノのパーフェクトさいきょー教室
下・〈Lost chronicle〉未来のイヴの消失 (ハシ氏)
http://www25/atwiki.jp/bakiss/pages/561.html
http://www25/atwiki.jp/bakiss/pages/1020.html
http://www25/atwiki.jp/bakiss/pages/1057.html
天体戦士サンレッド外伝・東方望月抄 〜惑いて来たれ、遊情の宴〜 (サマサ氏)
http://www25/atwiki.jp/bakiss/pages/1110.html
上・ダイの大冒険AFTER 中・Hell's angel 下・邪神に魅入られて (ガモン氏)
http://www25.atwiki.jp/bakiss/pages/902.html
http://www25.atwiki.jp/bakiss/pages/1008.html
http://www25.atwiki.jp/bakiss/pages/1065.html
カイカイ (名無し氏)
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AnotherAttraction BC (NB氏)
http://ss-master.sakura.ne.jp/baki/ss-long/aabc/1-1.htm (前サイト保管分)
http://www25.atwiki.jp/bakiss/pages/104.html (現サイト連載中分)

3 :
乙です!

4 :
 こんがりと焦げ目のついたおいしそうなステーキが端っこの方からゆっくりと切り分けられていく。湯気が立ち、おいしそう
な匂いが玉城の鼻孔をくすぐった。できたてホヤホヤ。食卓にのぼって間もない小判型のステーキ皿の上でじゅわじゅわ
溶けるバター。黄色く透き通ったジャガイモの破片。青々としたパセリ。普段なら食欲を掻き立てるそれらを前に玉城は
ただ欝蒼とした表情を浮かべていた。
「どうしたの光ちゃん?」
 ステーキ──病的なまでの均等さで切り分けたうちの1つ──を笑顔で口に放り込んだ青空はにこやかに聞き返した。
 悪寒が走る。身が竦む。息を呑んだ口がもごもごと不明瞭な言語ばかりを呑みこんでいく。姉の手からこぼれ落ちた銀
の刃が黒皿と打ち合って凄まじい音を立てた。全身がさざめく。恐怖。覚えるのはそれしかなかった。姉がこっちを見てい
る。見つめている。笑顔のままで微動だにせず、じっと見つめている。
 震える唇で言葉を紡ぐ。詰まれば何が起こるか分からない。沈黙もまた何事かを爆発させる起爆剤。姉の笑顔は会話
の空白時間に比例して妖気を高めていくようだった。黙り続ければ何が起こるか分からない。
「私の体……どげしたんぞ」
 震える声で右手を挙げる。人間らしいあらゆる造詣が失われている右手を。直線的な羽根がびっしりと生えた腕を。鳥。
玉城の体の中でそこだけが鳥の物と化している。
 鏡面塗装を施されたような翼の中で青白い顔が歪んだ。ヒビが入り、それもやがて轟音の中で無残に割れ砕けた。
「伊予弁はやめていわれなきゃ分からないのお義母さん思い出して不愉快不愉快やめなさい私がそれでどれだけ嫌な思
いをしたか分かってるの光ちゃん分からないなら分かるまで伝えさせてねえお願い」
 抑揚のないふらふらとした声を聞きながら玉城は歯を喰いしばっていた。羽根を貫通した空気の奔流は腹部や胸部に
突き刺さりそれ相応の痛みをもたらしていた。全身から脂汗が滲む。吐き気に似た呼吸欲求が肺腑の奥から込み上げる。
噛みしばった乳歯たちをほどいて必死に息を吐く。頂点に達した痛みは息を吐くコトでしか紛らわせない。それが錯覚に
過ぎないとしても、いまこの世で自分を救ってくれるのは錯覚のもたらす僅かな鎮痛しかなかった。
「お姉ちゃん……どうして……」
 痛みに歪む頬に手が当てられた。見上げると図上ではいつものようににこやかにほほ笑む姉がいた。手は優しく動く。涙
が伝い涎の飛沫さえ乗った頬からあらゆる不浄をぬぐい去るようにゆっくり、ゆっくりと優しく撫でる。拡がっていく朗らかな
ぬくもりはあらゆる激痛を沈めていくようだった。
『ロボット好きだったからロボットぽい体になれたのはいいでしょ』
 笑顔の姉がサブマシンガンで床に描いた文字。それを眺めた玉城は引き攣ったような声を漏らした。ロボットっぽい体?
姉は何を話している? ……少なくても自分の体はもう人間とかけ離れているのだけは分かった。でもそれは──…
 すがるような思いで姉を見上げ、言葉を紡ぎかけた時、空気の炸裂が再び襲来した。おぞましい揺らぎが視界をどこか
に消し飛ばした。失明。両目を撃たれたのだと気付いたのはそれが癒えた時だった。
「ロボット好きだったからロボットぽい体になれたのはいいでしょ私はただ光ちゃんにいろいろ伝えたいだけなの一緒に仲
良く暮らしたいだけなの殺したりしたくないのだからホムンクルスにしただけなの」
 髪が掴まれる感触。腹部に当たる冷たい手応え。何が起こるかすぐ理解できたのは不幸でしかなかった。悲鳴のような
泣き声を上げて体を捩る。解決にはならない。やや金属質を帯びた髪が何本もちぎれたのを契機に、姉は頭を掴む手に
ますます一層の力を込めたようだった。そうして固定された体に向けて引き金が引かれた。激痛。絶叫。潰れた目から涙
が散った。突き出す桃色の舌の根元から轢死中のネコのような苦鳴が絞り出された。体には無数の風穴が開き、しかも
それらは全て文字列の構成要素らしかった。
『インフルエンザの時、私はお父さんたちに放置されたの』
『でも光ちゃんだって死にかかっていたもの。恨んではないわよ』
『肺炎になったのは私にも責任があるし、家庭に馴染めなかったの壁を作ったせい』」
 崩れ落ち、くの字に曲がった体を指でなぞる。一種の点字が刻まれていると分かったのは、姉に敵意を感じなかったせい
だろう
『一度家庭から離れたのは結果として良かったわね』
『私が不遇だったのは本当にお父さんたちだけのせいかってじっくり考えることができたもの』
 敵意がないのに撃つのは伝えるため。それは両親が死ぬ少し前に『伝わっている』。

5 :
『けど結果はアレよアレ。私3日ぐらいヘコんだわ』
『まだ残ってる怒りをつい、ちょっとだけ伝えただけでああだもの。ホムンクルスの私が人間と暮らすのは難しいわね』
『だから……考えたの』
 体をなぞって文字を読む。
『光ちゃんをとびきり強くすれば何伝えても大丈夫だって』
『でもただの人型じゃ弱いでしょ? 動植物型だと光ちゃんの精神が基盤の生物に食べられちゃう』
『私たちの組織は調整体作るの上手よ。複数の生物同居させつつ光ちゃんの自我を残すぐらいはできちゃう』
『でも万が一ってコトもあるでしょ? 24時間365日ずっと肉体を乗っ取りに来る生物相手にしてたら』

『光ちゃんが精神崩壊しちゃう。そういう殺し方はしたくないの。私は光ちゃんを殺したくはないの』
『伊予弁と大声と声真似をやめて欲しいだけなの』
『ただ伝えて、ただ仲良くしたいだけなの』
 震えが沸くのは体の痛みのせいだけではない。
 後に青空はこの辺りを詳しく語った。
 だから考えた。義妹の自我を保ちつつ、無数の生物の能力を付与する方法を。夙夜まんじりともせず考え抜いた。連日
連夜壁に弾丸をブチ込んで思考を書き、考えに考え抜いた。
 そして行きついたのが──…
 無数の鳥への変形能力。
 動植物型ホムンクルスには「人型」と「原型」、2種類の姿がある。それらを切り替える際には幾何学的な変形作用が全身
を覆う。青空はそこに目をつけた。その変形作用を意図的に操作し、任意の姿に組み替えられないかと。
 声質上入った研究班でこの1年めきめきと頭角を現していた青空である。実験はすぐに成功した。繁華街で爆竹を鳴らして
いた若者どもや暴走族、おじいさんをひき逃げして「やっちまったよ」と車内で爆笑しているカップル。青空が笑顔でテイクア
ウトした総勢60名ばかりが実験台になって廃棄されたがそれは彼女にとって試薬の容器を捨てるぐらいどうでもいい出来
事だった。大事な義妹を少しでも死から遠ざける、そんな命題に比べれば社会規範を乱す連中の末路など些細すぎる問題
だった。
と。
 そして青空はもう一度、近くの床に文字を書いたようだった。読め。音はそう物語っている。痛む体を引きずって翼じゃない
方の指をまた這わす。
『ロボット好きだったからロボットぽい体になれたのはいいでしょ』
 限りない笑みの気配が頭上から降り注ぐのが分かった。肯定しなければどうなるかも。
 玉城はその場にへたり込み、ゆっくりと息を吐き、……そして答えた。
「はい……嬉しい……です」
 涙が零れた。呼吸するたび「ひっ、ひっ」という引き攣れが気管支を犯しているようだった。
「それからそこのステーキは人の肉よちゃんと食べてね食べなきゃダメよホムンクルスはそうしないとダメなのよ」
 人の肉? 誰 の ?
「まさかそれは──…」
 顔を上げたのと、
 それが自分に齎す被害を鑑みて首を竦めたのと、
 唇に生暖かい感触が接触したのは
 
 同時だった。
 生暖かい感触は唇をついばみながらホカホカとした肉片を口中に送り込んでいるようだった。
 その生臭さに玉城がむせるのにも構わず、執拗に。
 奇妙なコトに肉が送り込まれるたび姉のくぐもった声が近くで響いてもいる。
「ん。んんん」
 …………玉城は、何をされているか気付いた。

6 :
 鼻先で甘い息が漂っている。唇を塞いでいるのは口中の肉よりさらに柔らかく溶けそうな器官のようだった。
 そこから熱く湿った肉の尖りが拙い乳歯を割り開き、肉片を奥へ奥へと押し込める。そしてひと通り作業を終えると生暖か
さごとパっと離れ、息継ぎをするのだ。
「んむっ。はぁ、はぁ……んむ」
 姉の気配が遠ざかり、ステーキ皿の辺りで生々しい咀嚼の音が鳴り響く。それがひと段落した時、姉の息の芳しい匂いが
眼前に充満し、生暖かい感触が唇をついばむ。いつしか玉城の赤い髪は梳るように抱きしめられ、生暖かさは蛭のように
ねっとりと密着し、小さな唇を愛しげにねぶりさえした。
 行為は何度も繰り返された。その数だけ玉城は小さな喉を必死に鳴らし人肉を飲み干す。
 もし『送り返したら』姉は激昂する。位置関係はそうだった。
 視力が回復した。目を開く。
「…………」
 姉はちょうど自分の顔から離れるところだった。
 唇からは唾液と肉汁の混じったまだらの糸が引いていて、それは玉城自身の唇にも引いていた。
『キスは初めて? 私はそうよ』
 姉はほんのり赤い笑顔を軽く傾けると、そのまま照れ臭そうに走り去っていった。

 姉妹2人きりの共同生活が始まった。

「いい光ちゃん仲良くしましょうねたった2人の家族なんだから私はもっと光ちゃんと仲良くなりたいの」
 凄まじい空気の奔流が体を切り裂いた。
「だから伊予弁はやめて大きな声もやめて私の声真似なんてもっての他」
 うっかり方言を漏らすたび、声のボリュームダイヤルを過大にするたび。
「うるさいやめてうるさい耳障り」
 光は青空に何度も撃たれた。頭に投げつけられたステーキ皿のせいで昏倒するのは一度や二度に収まらなかった。
「ふふふあはははは私の言いたいことちゃんと理解してね体に刻んだその文字よく読んで頂戴ねあはははは」
 1週間もすると玉城は伊予弁を喋るコトに本能的な恐怖を覚え始めた。喋ろうとするたび言語中枢は不慣れだが安全な
標準語を選択するようだった。しかし生まれてからほとんどの会話を伊予弁に依存していた玉城である。単純な言葉なら
ともかく意思の複雑なニュアンスを標準語で表すには凄まじい労力を要した。そもそもつまるところ玉城は大いなる否定の
中にいた。それでどうして意思を率直に伝えられよう。どうして不慣れな標準語で伝えられよう。
 安全さだけをいえば小声でただボソリボソリと呟く方が遥かに良かったし姉もそれを歓迎している。
 大好きな姉はそれを歓迎している。
 だから、いい。
 いつしか玉城は自身の変質も、何もかもを受け入れるようになっていた。
「光ちゃん。一緒にお風呂入りましょ」
「…………はい」
 洗いっこ。姉の白い手が体に伸びる。全身に振りかけられたボディーソープは艶めかしい動きの素手に泡だてられる。
 風呂場に横たえられた自分の体の上に姉が乗って来ても、豊かな膨らみが汚れを落としにきても。
「エログロ女医には渡せないのよだってたった一人の可愛い妹なのよ私は守りたいの私の手の中で綺麗なままにしておきたいの」
 荒い息遣いの姉が喉元に噛みついても。
 玉城はただ虚ろな瞳で天井を眺めていた。
 喋るのはよっぽどキレている時だけ……と義母に伝えた青空はしかしこの時初めて、怒りのない精神状態で喋った。
「いいコよ光ちゃん。それから、私の声真似だけは絶対にしちゃダメだよ」
「……はい」
「分かってくれればいいの。私の声真似なんかしたら、本当に大変なんだからね。光ちゃんがヒドい目に遭っちゃうから……」

7 :
.
「だから」
「声真似だけはやめてね?」
「そして貴様の姉はその体の性能を試すべく、共同体潰しを命じたという訳か」
「はい……。チワワさんたちを襲ったのは…………40件目のターゲットを殲滅したから……その代わりに……です。お姉ち
ゃんからの伝達事項その一。テスト対象を殲滅した相手を殲滅しろ……です」
「というがなぜ我らが殲滅したと分かった?」
「状況証拠と……気配…………です。近くを歩いていましたし…………威圧感が……違います」
 何度目かの成程なを呟き肉片を投げる。ビーフジャーキーから毟り取ったそれはしばらく宙を舞い、やがて口中に没した。
舌から脳髄に伝播するとろけそうな旨味をくちゃくちゃと堪能しながら、鳩尾無銘はじろりと玉城を眺めた。
「なに……か」
「我と戦え」
 虚ろな瞳をもつ少女は不思議そうに首を傾げた。
 そのテンションと裏腹に拳(前足)固めて力説するチワワ一匹。
「左様な事情があるというなら我たちと貴様の激突は避けられぬ! かといってこのまま師父の到着を待つ訳にはいかぬ!
使命も果たさず見逃すなどは元より論外! 故に貴様は我と戦え!」
「はァ」
 ビシぃっと指差された玉城はしかし気のない返事を漏らしたきり焦点がどこにあるか分からない瞳でぼーっと無銘を眺め
回した。「こんな小さいチワワさんが私の相手できますか」的なニュアンスが滲んでいる。気づいた無銘は激昂した。
「はァではない! 戦うのだ! 戦わねば我の使命が果たせんし立場という物がないのだ!」
「あの…………使命を果たしたいなら……私と話してる間に…………不意打ちすれば…………よかったのでは?」
「それを云うな! 云わんでくれ!!!!!!」
 無銘は頭を抱えた。玉城の文言は至極もっとも。会話中、例の兵馬俑の手首でこっそり攻撃すれば3分後に敵対特性が
発動して任務は完了したのだ。白状すれば会話中何度も何度もそれは考えた。だが人としてはどうなのか。私利私欲で勝
手にホムンクルスになった外道なればいざ知らず、相手は姉の理不尽な怒りによって両親を奪われホムンクルスにされた
少女。悪夢の中で涙さえ流すいたいけな少女。それを騙し、不意打ちのような手段で任務を完了するのはどうなのか。さり
とて忍びとしては最悪でもあろう。悪夢で忘我しひた走る玉城。敵に身の上話をするのに夢中で隙だらけの玉城。総角の言
いつけ、敵対特性を見舞う機会などいくらでもあった。だがそれを訳の分らぬ感傷で見逃してしまっている。
(我の阿呆!! 我の迂闊!! 敵の涙など黙Rれば良かったのだ! 身の上も何もかも無きものとしてただ任務一つ
果たせば良かったというのに……何を正面切って戦いを申し込んでいるのか! 忍びの我が正々堂々だと! 笑わせるな!
ビーフジャーキー喰っとる場合か! 場合なのかアアアアアアアア〜〜〜〜〜!!!)
「あの……チワワさん?」
 うずくまって耳の下を丸っこい手でぎゅうぎゅう押し出した無銘をしばらく心配そうに眺めていた玉城は一瞬黙るとゆっくり
息を呑み込んだ。
「分かりました……戦いましょう……」
「おおわかってくれた……ではない! やっとその気になったか!」
 輝く面頬を上げた無銘が「げえ」と絶望的な声を漏らしたのは──…
「はい」
 岩よりも硬そうな蹄が喉首にめり込んでいたせいである。
 転瞬彼は弓なりになった体から吐瀉物と唾液を撒き散らしつつ宙を飛んだ。20メートルほどカッ飛んだだろうか。広場
の中央からうねりを上げて滑空した無銘は山林との境目にある大木に背中をしこたま打ちつけた。
 幹が軋んで木の葉が舞う。無銘はなめくじよろしく木肌をズリズリ滑落した。秋らしくそろそろ色素が薄み始めた緑茶色の
破片をのっそりくぐり抜け、玉城が来る。その姿は巨大な絶望の魔人に見えた。
「全力で……終わらせます」
 まだだ、といったつもりだが掠れた音声が漏れるばかりで話にならない。
(ええい、だが元より戦うつもりの我だ! 手首を以て攻撃し敵対特性を発動すれば済む話!)
 唯一の武器にして切り札。敵対特性を以て玉城を弱体化させる……その目的に必要不可欠な存在。
 兵馬俑の手首。
 それを持つべく手を動かす。
 手を、動かした。
「…………」
 嫌な手応えがした。自分は何も持っていないのだという青春期に思い悩む少年のような手応えがした。前脚を見る。何も
持っていない。背中がぞわりとさざめいた。わずかな期待を込め辺りを見回す。ない。致命的失敗。大事な何かを忘れてい
る。考える。記憶を辿る。
「あ」
 玉城がいよいよ目前に迫ったころ、ようやく無銘は自らの失策に気付いた。

8 :
 兵馬俑の手首は。
 玉城の遥か後ろ、広場の片隅に転がっている。
(ぎゃあああああああああああああああああああ!)
 無銘は内心で絶叫した。零れる涙は窒息のせいだけではないだろう。しまった。しまった。せめて戦闘態勢を整えてから
挑むべきだった。後悔が過ぎる。自らの失策を気に病み勝負を急ぐあまり、すっかり忘れていた! 武器を持つのを、切り
札を手にしておくのを……忘れていた! そういえばあれやこれやで置きっぱなしだったのを失念していた!
 だが無銘は必死に動揺を鎮静すべく努めた。敵に知られている事と知られていない事。それをとにかく必死に分析する。
(落ちつけ! 我の武装錬金の特性が敵対特性とはこやつは知らぬ! ましてあの手首がなければ我が無力という事も!
ならばこの体で戦えるフリをしつつ時間を稼ぎ、あの手首を何とか手にするのだ! 生き残る策はそれしか、それしか──…)
「あの手首は……武器ですね? あれがないと……無力、ですね?」
 両腕を欠損している玉城が足の爪でチワワの頭を掴んだ。景色が上昇する中、無銘はただただ青ざめた。
「手首だけを持ってきたというコトは…………あの自動人形の特性は……五体満足じゃなくても…………発動できる筈、です」
 脂汗が全身を伝い落ちる。アポクリン大汗腺が精神性の嫌な汗を垂れ流している。
「そして……その特性は…………恐らく一撃必殺……です。当たりさえすれば……小さなチワワさんでも私に勝てるタイプの
……………一撃必殺……です。放っておけば…………私が……倒され、ます」
(バレてる!!!)
 何こやつヌボーっとしている癖にどうして鋭いのと内心毒づきはしたが、そうすべき時でもなく。
 玉城は片膝を上げた姿勢のままきょろきょろと辺りを見回して、コクリと頷いた。万力のような力で挟まれ今にも破裂しそう
な頭部の中で唯一自由な目を動かして視線を追う。角度の問題、眼球の可動範囲の問題で見えない。代わりに生白い曲線
を描く太ももの付け根とか露もなくまくれ上がるミニスカートのその先へ視線が動きかけたが「いや何をしている我は」的な
自制心で辛うじて耐える。玉城が動いた。角度が変わったので本当に確認すべき物が見えた。そこには。
 尖った岩があった。
 高さは小学校低学年の女児ぐらいある。つまり玉城と同じぐらいだ。高さのわりにずんぐりとした石なのにどういう訳か尖端だ
けが鋭く尖っている。手を置くだけで貫通しそうなそれが天を仰いでいる。
 無銘は思い出した。昨晩ここを通りかかったときそれを見つけ、一瞬「道行く者がここで転んでケガしたら危ない。始末して
おくべきか」と考えたコトを。だが共同体の殲滅が迫っていたし、まさかこんな山奥に来る者もそうはいないだろうから放置して
も大丈夫だと思って、見逃したコトを。
 無銘は泣きたい気分になった。
 どうしてあの時始末しなかった。せめて横倒しにしておくべきだったとすっかり粘液まみれの鼻を鳴らした。
 嫌だ。
 悪夢だ。
 戦わなければ良かった。
 本当もう、そう叫んで降服したくなった。
 玉城は薄暗い茂みの中にあるその岩をいたく気に入ったようだった。(被害妄想) 心なしかのっそりとした足取りに喜び
を嗅ぎつけ(被害妄想)無銘はつくづくこの少女を呪った。(逆恨み)
 そして次の瞬間、うねりを挙げる全身の中で右わき腹だけが灼熱の痛みを帯びた。
 海老反ってもがきながら状況判断。岩の切っ先が貫通している。つまり、叩きつけられた。
「すみません……要するに、手首と合流させなければ…………いい、です。私の勝ち、です」
「待──…」
 抗議の声を無視して玉城は無銘を岩から引き抜いた。さすがに岩が錬金術の産物で、ホムンクルスの無銘に消えない傷を
与えるという馬鹿げた悲劇までは起こらなかったらしく、脇腹は徐々に修復を始めている。だが痛い。すごく痛い。牙を噛み縛
りたいが痛苦特有の激しい息のせいでどうしようもない。そもそも基本的に錬金術の産物以外で傷つけられないホムンクル
スの体を力と速度だけで岩にブッ刺す玉城の恐ろしさ。チワワの頼りなげな体が血しぶきの中でしなる。今度は腰だった。
腰が岩の横肌に叩きつけられた。走るヒビはゆで卵の殻をスプーンで叩いたみたいな奴で、そこに伝わり損ねた衝撃が右
後ろ脚を吹っ飛ばした。
(何という馬鹿力! 何という戦力差!)
 茂みに落ちる自分の脚──直接もがれたのではなく、攻撃の余波で、副次的に──に愕然としながら身を揺する。外れる

9 :
気配は今のところない。外れたところで状況を打破できる望みもない。手首に向かって駆けた所で、どうせダチョウの速度で
瞬く間に追いつかれるのが関の山……無銘は暗澹たる思いになった。衝撃で首がもげないのが唯一の救いか。
「がっ!」
 さらに一撃。さらに一撃。横なぐりの衝撃が立て続けに顔面を襲う。さらにそのまま白い足を高々と上げた玉城はかかと
落としの要領で再度無銘を岩の尖りに叩きつけた。それは第3腰椎を粉々に粉砕した。
 絞り出すような絶叫が山あいに響いた。そしてしばらく鈍い音が木霊し──…
 数分が過ぎた。

10 :
以上ここまで。前スレ>>264-267は投下ミス。重複。

11 :
>>急襲さん
悩み、落ち込み、そこから励ましを受けて復活、メインヒロイン立つ! ですね。戦力的
には厳しいものがあれど、こちらには仲間がいる……でもそもそも、狼ちゃんだって「仲間
ではない」とは言い切れないから心情的に厳しい。勝てば済むってわけではないのが、辛い。
>>スターダストさん
青空がエロい! グロはさんざん、本作中おそらく一番、見せつけてきた彼女ですが、今回は
エロい! もはや「エログロ」の冠は青空のものにしてもいいかも! とか思ってしまいました。
で。剛太といい無銘といい、こういう「対女の子反応」する男の子っていいですよねえ。大好物です。
スレ立ても、おつ華麗さまでした! 
このスレでどなたかの復帰、あるいは新規の作者様が来て下さることを祈ってます。
パオさんやバレさん、今頃どうしておられるでしょうね……

12 :
「終わり……です」
 無銘は地面めがけ放り捨てられた。その損害状況を玉城はただ観察した。
 チワワの尾は根元から千切れている。左後ろ脚もまた紙一重で繋がっている様子だ。両の前脚もあちこちが歪み、その
傍で吐瀉物が点々と水溜まっている。もはや彼は余喘も露わ。うずくまりか細くか細く震えるその姿はもはやあと一撃で絶
息する他ない残酷な事実を雄弁に物語っている。
「でも……しません。…………勝とうと思えば勝てたのに……私を気にして……話を聞いてくれたのは……嬉しかった……
です……だから……とどめは……さしたく……ありません。……さよなら、です」
 後はあの金髪剣士たちを倒すだけ──…真っ白な踵が湿った土の上で方向転換をしようとした時、それは起こった。
 この場を離れるべく身を反転しようとした玉城はまず、奇妙な引っかかりを覚えた。引っかかり。それは流転する戦闘局
面を制する読み合いの中しばしば訪れる猜疑と暴露欲求の端緒をも指すが、この時玉城が覚えたのは更に具体的かつ単
純なものであった。
 長い三つ編みを揺らめかして振り返ろうとした玉城はその運動が奇妙な引っかかりに妨害されるのを感じた。
 ホムンクルスの高出力ならば強引に振り切れる程度の微弱な引っかかり。だが玉城はハタと動きを止めた。
 抱く疑問はただ1つ。
 何に、引っかかった?

 両足を順に動かす。異常はない。腹も胸も頭も髪も、動きを妨げるものはない。左腕。問題なく動く。
 右腕。
 肘から先が欠落したそれを動かした時、微弱だが確かに動きを妨げる『何か』の存在を知悉した。
 凝視する。
 そして、愕然と眼を見開いた。
「これは──…」
 …………前腕部が欠落し、無残にも断面を剥きだしている肘に。
 糸が刺さっている。
 絹糸のように白いそれはどこからか伸びてきたらしい。糸の流れを追うべく振り返った玉城は茫然と立ちつくした。
「何……ですか?」
 木々と茂みは糸に侵食されていた。色褪せた木の葉と茂みの間にかかる白い糸は鳥の鋭い視覚を持つ玉城でさえ見逃
してしまいそうなほど細い。それが何本も何十本も何百本も木の葉と茂みを繋いでいる。木漏れ日のあるところだけ反射の
加減か銀色に輝くそれらは癇癪持ちが張った立ち入り禁止のテープよろしくメチャクチャに張り巡らされている。立ち入り禁
止。まるで玉城がその先へ行くのを防ぐように、乱雑に。
「蜘蛛の巣? いえ…………」
 蜘蛛の作る美しい幾何学模様とはまるで無縁な糸たちはどうやら元は1本らしかった。潰れた団子のようなわだかまりが
尖った草にネットリこびりついているが、糸はそこから2本生えている。生えている、というよりそこで方向転換したという方
が正しいだろう。
 尖った草に付着する不可解な糸。
『それはどこから伸びてきた?』
 玉城の表情に少女らしい動揺が走った。慌てて糸を引き抜き地面に投げる。注射針を抜いたような嫌な痛みが走り一瞬
顔を歪めたが、不可解な糸を体内に放置するおぞましさに比べれば大したコトはなかった。
 糸を眼で追う玉城。その出所に近づくたび面頬に汗が増えていく。
 糸はドクダミの葉に伝播し更にそこからさまざまな雑草を経て──…
 広場に向かって、伸びている。
「広場……? まさか……」
「くくく……ふはははは」
 震える笑いが響いた。振り返る。息も絶え絶えの無銘が三本脚で立ち上がっている。
「手首と合流させなければ勝ち……だと? 馬鹿め! 忍びを舐めるな!!!」
 牙も露に激しく咆哮する小型犬の姿によぎる予感。凄まじい悪寒が玉城の体を駆け巡る。
 震えとともに見届けた。
 糸は……広場に転がる兵馬俑の手首の、更に指先から伸びている!!
「忍法指かいこ!! 我が兵馬俑の指先は糸へと変じる! 限りない粘着性と切断力を誇る長い糸にな!」
 発作にも似た嫌な震動が玉城の体を張り裂いた。
「無論遠隔操作は可能! 五体満足の自動人形を操る事に比ぶれば手首一つ指先一つ操るなど造作もない!」
 玉城は悟った。

13 :
 静かに長く伸びた糸が雑草と木の葉を幾度となく往復し……肘へ侵入したのを。
(……これもまた……勝負、です。『チワワさんと手首が離れていれば大丈夫』……そう思いこんで、チワワさんに気を取ら
れていた私が……悪い……です)
 「そして!」
 無銘は印を結ぶ。薬指と小指を曲げた左掌を顎横めがけ……斜めに。
「我が武装錬金の攻撃を浴びたものは3分後必ず!」
 印が翻る。玉城に向けていた手の甲が反転し、ピンクの肉球が露になり。
「敵対特性の餌食となる!!!」
 それは、起こった。
 スズメ。ツバメ。ヒバリ。ペンギン。
 ありとあらゆる鳥の部位に『変形』する玉城のあらゆる部位が彼女に『敵対』した!!
 足の爪は足に食い込んだ! 蹄が逆流し跳ね上がり、膝の骨を砕いた! 胸の羽根がずぶずぶと埋没し突き刺さる! 
嘴が眼球をついばみ、折れた翼はその根元に向かってひん曲って骨を巻き折る!ばきばきという凄まじい音とともに肉が
裂け赤黒い飛沫が地面に注ぐ。不規則に荒れ狂う尾羽は大腿部に直撃し3cmほどめり込んだあと硬い骨にビぃーーんと
弾かれた。そして近場の野太い枝を寸断しながら返す刀で背中へ突き刺さる。腹部から飛び出したそれが腸液にぬめる
臓物を貫通しているのを見たとき、或いは自重によって刃先から零れおちた特盛りの生レバーが地面でぶるんと弾むの
を見届けたとき。
「あ、あああああ」
 玉城光はわなないた。
「思い知ったか。動き始めていた時間の真ん中で我ばかり見ればそう……なる」

 そういった無銘を血しぶきの中の少女は一瞬見つめ何かいいたげに唇を動かしたが──…
 制御を欠いたあらゆる部位の自傷行為にとうとう眼球をグルリと上にやった。
 そうして倒れてゆく玉城を会心の笑みで見届けた無銘もまた
「……とはいえ遠隔操作は精神を使う。………………蹂躙のなか……やるのは…………手間……だな」

 血だまりのぬかるみへくず折れる。

 意識が暗い淵に沈んでいく。





 声が響いた。暗い意識の中で。
『盟主様はこんなコトをいわれたわ』
 それは夢のようだった。
『この世の総ては循環ってね。水が木を潤し木は炎を助けちゃう』
『総ては循環。どんな物だって他の何かを良くするために動くべき。他を良くするため消費されるべきなのよ』
『そうやってね、良くなった物が、高められた物が更に他の物を良くしていったら』
『とても素晴らしいコトじゃないかしら』
『そして進化や発展というのは常にその循環の中から生まれてきた』
『……というのが盟主様のご持論なんだけど』
 笑顔の姉とサブマシンガン。そして壁や床に遠慮斟酌なく刻まれた弾痕たち。

14 :
.
『果たしてリア充どもはどうかしらね?』
『あ、リア充ってのは光ちゃん、リアルが充実している人たちのコトでね』
『つってもまあ私のいうリア充ってのは人間関係限定ね』
『沢山の友達。理解してくれてる恋人。そーいう他人絡みのコトで充実感を味わってる人たちのコトよ』
 映像は脈絡なく連なっていく。揚げたてのドーナツ。それが乗った普通のテーブル。鳥の図鑑に白いバンダナ。
『あいつらさー、ブッちゃけ自分のコトしか考えてないような気がするのよね』
『沢山友達がいて嬉しい! 分かってくれる恋人がいて幸せ! だとか何とか思ってさあ』
『毎日毎日楽しいお喋りとイチャつきに熱中してるんじゃないの』
 切れ端を繋ぎ合わせたようなボロボロの記憶の中で、弾痕の文字だけが何度も何度もフラッシュバックする。
『そして。だから。その時この世界のどこかで苦しんでる人たちのコトなんかちっとも考えてないのよね』
『自分が幸せだからそれでいい。自分の幸せを壊してまでも誰かに貢献したくはない』
『……ふふっ。まあそれも普通の人間の在り方としてはいいでしょう』
『確かに恵まれなかろうと苦しんでいようと、そこから努力して幸福を掴みとる人だって今まで大勢いたわよね』
 姉は変わった。変わってしまった。弾痕がもたらす異常な文言の数々は……恐怖だった。
 一生懸命頷きはしたが、決定的な壁が自分と姉の間にあるような気がして、恐怖だった。
『いたのだけれど……やっぱ私めは引っかかるのよ』
『楽しい楽しい団欒だけに浸って、困っている人を助けない人ってのは』
『どうしようもない欠如に苦しんで苦しんで苦しみ抜いてる人を『変なモノがいる』程度の一瞥であっけなく無視して』
『楽しい楽しいお喋りに戻って楽しい楽しい出来事にしか労力使わないようなリア充どもごときが』
『果たして本当に正しくこの世を循環させれるのかって』
『私めの仮説その1じゃあノンノンよ』
 彼女は何かを激しく憎んでいるようだった。笑顔を浮かべていてもそこには常に妖気が付きまとっていた。
 疑問が浮かぶ。家を出てから1年。彼女はどう過ごしていたのだろう。
 どんな環境で、どう生きていれば……ここまで変わるのだろうと。
『自分たちさえ良ければいいって連中は食べ物だろうと資源だろうと』
『全部全部自分のためだけにしか使わないじゃない?』
『そしたら循環って奴は──他の物を助けてより高めていくためのね──リア充どものとこで止まっちゃうじゃない』
『止まった水は腐るでしょ? 人間社会が腐るのもその道理じゃないかしらね』
 青空は何かに吸い込まれているようだった。光は眩暈の途中で遠い日々の記憶が蘇るのを感じた。
『まあその辺り、暗い所で1人鬱々と考えてても仕方ないし、自分で動いて実際に確かめるのが一番いいかなって思うのよ』
 まだ銃器を手にしていなかった頃の穏やかな姉。
 本当に好きなのは……
『私めだって色々伝えてリア充どもを改心させたいし、循環は伝えるコトから生まれるって盟主様も仰っているし』
 本当に好きなのは。
『この前も座りたそうなお婆さん無視して優先席でいちゃついてるカップル見つけたからとりあえず尾行して家に乱入して私め
の引っかかりを伝えてあげたわ』
 屈託なく姉は微笑む。
『伝えるコツはね、男の人を最後に残すの』
『ラス1が女の人だと許して許して許しての大合唱ばかりであんま伝わったって感じがしないの』
『でも男の人はホラ、恋に真剣でしょ?』
『相手がこの世に1人しかいないって思ってるからその声帯ちぎって足元に叩きつけてあげると本当、面白いカオしてくれるの』
『私の気持ちが伝わったって、実感できるの』
.

15 :
.
 だが。
『そしたら私の意思を理解してくれた感じがして嬉しいの。……あ、お父さんたちの場合は弾みで順番逆になっただけよ。私
めのセオリーだと義母さんから伝えるべきだったけど』
 本当に好きなのは──…
『まずは強くなりなさい光ちゃん。お父さんたちの仇を討ちたかったら、強くなりなさい』
『強くなって、その力を困ってる人達のために使いなさい』
『私のために頑張ってくれたらもっと大好きになれるから…光ちゃんになら斃されてもいいって思えるから……』
『頑張って共同体を潰してね?』
『そして私の声を真似するのだけは絶対にやめてね。それが光ちゃんのためだから』




「いま気付いたが貴様は戦闘能力の割に……脆いな」
「ふぇ……」
 目の前に広がっていたのは雲ひとつない空だった。
 広場の中心で仰向けに寝ている。そう気付いたのは無愛想な表情のチワワが青空の中へ入ってきた時だ。
「もっとも。だからこそ勝ち目も出たがな。脆くなく、例えばあの新……栴檀どもの超新星で腕が崩壊し翼を断たれていなけれ
ば我が貴様をああ追撃するコトはできなかっただろう」
「チワワさん……?」
「核鉄は当てている。応急処置程度にしかならんが、まあ死なければそれでいい」
 そういって無銘はどっかりとあぐらをかいた。そして洩れる疲弊の吐息。
「かく、がね……?」
 寝そべったまま視線を動かす。傷だらけの顔や首は腹部に置かれた六角形の金属片を眺めるだけで激痛を走らせた。
しばらく動けそうにない。冷静に分析しつつチワワを見る。呆れたような視線が返ってきた。
「知らんのか貴様。核鉄を当てると治癒能力が高まり傷の治りが速くなる。生命力を強制換算しているため多用はできん
がな。……感謝しろ。兵馬俑をわざわざ解除してまで当ててやった我に」
「はあ……」
 いやに恩着せがましい口調のチワワを玉城はしばらくぼうっと眺めた。動けないし戦えない。ただ普通の少女のように寝そ
べっている。だがそんな時間は一体いつ振りなのだろうか。普通の少女のように空を眺め子犬を眺め、敵の咆哮や血しぶき
とは無縁の時間を過ごしている。
 薄い胸を波打たせ、玉城もまた静かに息を吐いた。
「チワワさん」
「なんだ」
「よくわかりませんけど……ありがとう…………ございます」
「何がだ」
 憮然と座るチワワの体は相変わらず半壊状態だ。あぐらをかいていると言っても先ほど吹っ飛んだ脚はまだ元に戻って
ないし、前脚だってグラグラだ。修復を始めた脇腹の傷もまだ生々しい。回復が不必要とは……言い難い。
「チワワさんより先に……私に”かくがね”……? かくがねを使ってくれて……ありがとう」
 心からの笑顔を浮かべたのもまた久しぶりのような気がした。
「だ、黙れ。師父が貴様を殺せと命じてないからそうしただけの事……」
 チワワは一瞬言葉に詰まり、そして無愛想に顔を背けた。
「で、でも任務のためなら……」
「なんだ」
「私が……峠を……超えたら……いいのでは……」
「ぐっ」

16 :
「ほら……もう意識は戻りましたし…………代わりばんこ、です。チワワさんも使って……下さい」
「うっさい! 黙れ黙れ黙れ黙れ! それ以上ぬかすと核鉄取り上げるぞ!」
 このチワワは駄駄っ子みたいだと玉城は思った。とにかくこれ以上刺激しない方がいいだろう。好意を受けよう。
 そう思った瞬間、玉城は分からなくなってきた。
「…………」
 何のために自分は闘って来たのだろう。
 何のために恨みも何もない、不器用だが善良なチワワたちを襲撃して、殺そうとしたのだろう。
 ぼんやりと空を眺める。空を眺めるのは好きだった。鳥型だから、だろうか。果てしなく広がるその空間はいつ見ても
懐かしかった。無くしてしまったあらゆる総ての物がそこに漂っているような気がして、見ているだけで心地よかった。
 チワワはそんな玉城を胡乱気に見つめていたが、やがて咳き込むように言葉を紡ぎ出した。
「とにかくだ! 我の使命は貴様を生擒(せいきん。生け捕り)し師父に渡す事! 仰せつかったのはそこまでだ! 師父ら
が合流した後の事は知らん! 貴様の行く末につき責任を持つつもりなど一切ないぞ!!」
 瞳をギラギラと輝かせまくしたてる無銘の口調はひどくトゲトゲしかった。
 無遠慮で、高圧的で。
 でも。
「チワワさんは……」
 苦しげな息に眉を顰めながら、玉城はまた微笑した。
「…………人間らしい……ですね」
 少なくても笑顔で弾痕を刻む姉よりは……と言いたかったのだが、無銘は曲解したらしい。
「皮肉か! 先ほどからいっているだろうに! 我は人間だと! 故あってこのナリに押し込められたと!!」
「そう……でした。すみません」
「ぬううう! 本当に訳の分からぬ女! ええい! 師父はまだか! 師父さえここに来ればかような会話など終わるという
のに!!!! 兵馬俑こそ解除したがあれだけ時間が経てばそれなりに近づいているだろう! 栴檀香美めの嗅覚頼りでも
着けるというのになぜ師父は来ないのだっっ!」
 その時、広場の端で草が擦れる音がした。ついで誰かが歩み出る足音。
「師父!!」
 待望の主が来た! ぱあっと面頬を輝かせ振り向いた無銘の視線の先に、その男は居た。
「それなりの規模の共同体と聞き斃しに来てみれば」
 鉤のついた手甲が準備運動とばかり茂みを散らした。
「……他の仲間はどこにいる? いつからか剣持の姿が見当たらない。立ち小便かと思っていたが」
 丸々としたいがぐり頭の下で酷薄そうな目を細めながら、男は無銘に誰何した。
「お前たちの仕業か?」
(ホムンクルス……? いや! 錬金の戦士! よりにもよってこのタイミングでだと!?)

 鳩尾無銘に戦慄走る。

 以上ここまで。過去編続き。

17 :
 必死の思いでヒビだらけの核鉄に手を伸ばす。兵馬俑。発動したところで玉城にやられた傷のせいでまともには戦えない
だろう。だが総角たちが来るまでの時間稼ぎぐらいはできる。
 そう思い伸ばした右前脚の先で核鉄が爆ぜた。
 吸息かまいたちなる忍法を知悉している無銘は理解した。真空の奔流。カマイタチ。それが核鉄の表面に炸裂して、弾
き飛ばしたのを。
 哀れひゅらひゅらと旋回しながら丸太の向こうへ飛ばされる核鉄。小型犬は首を旋回、戦士に向けるは煮えたぎる眼差し。
 相手は右腕を鉤手甲ごと前に突き出している。何らかの衝撃波で核鉄を吹き飛ばした。唯一の武器の発動を、封じた。一拍
遅れて玉城の腹部が大きく避け、錆びた臭い──血とはやや違う匂いに無銘は迸る液体が血液を模した擬態用だと初めて
気付いた──が立ち込める中。
「貴様!」
「大丈夫……大丈夫……です」
 顔を歪めながらも微笑する玉城。複雑な表情をする無銘。
 男は冷然と観察し、
「動物型が核鉄を頼る理由や、すでに傷だらけの理由は気になるが……」
 両手を鉤手甲ごとばっと広げて駆けだした!
「ホムンクルスは狩るのみだ」
(最悪の状況! 我はこの有様! この女もまた動けない!)
 迫りくる鉤手甲に絶望を覚えて何が悪いと無銘はつくづく毒づいた。だが同時に絶望色が感情に紛れ込んだのはそれが
最後でもあった。
(要は我の甘さが招いた状況! ならば身を捨てればいいだけの事! 死を受け入れろ鳩尾無銘! 師父らが到着しさえ
すれば勝ち……任務は達成される!! それまでの時間は──…)
 玉城と戦士の間にケンケンするように一本足で立ち上がる。第3腰椎の悲鳴を代弁するように低い唸りを上げた。
(我の命を以て埋める!)
 太陽はいよいよ沖天に向かって駆け昇り始めている。力強く輝く橙の円環の下、緑の波濤がざわざわとさざめいた。山
肌を颪(おろし)が滑り木の葉が舞う。
 駆けてくる戦士が左手を振りかざした。鉤手甲が無慈悲に煌き、そして撓る。対する無銘との距離はまだ10メートルほど……
 空気がうねりをあげて迫ってくる。
(またカマイタチ!)
 それを認め、体を捩りかけた無銘の顔にドス黒い苦渋が広がった。先ほど核鉄を吹き飛ばした空気の奔流は少し身を
動かすだけで避けられるだろう。だが後ろには玉城がいる。度重なる戦闘でほぼ全壊状態の彼女がこれ以上攻撃を浴び
れば……? 任務上生じた配慮が無銘の体をその場に固定させた。とはいえ彼自身もまた軽傷とは言い難い。「これ以上
攻撃を浴びれば」は彼もまた。そして迫る真空の衝撃。
(人型にさえ……いや!!)
 自身の欠陥に対する憤り。二進も三進もいかぬ泥状況。それらが無銘を賭けに出させた!
 ……彼の操る兵馬俑の武装錬金・無銘はさまざまな忍法を扱う。
 腕より高熱を発する赤不動。
 足元より冷気を発し総てを凍らす薄氷(うすらい)。
 戦闘序盤、奇襲後間もない玉城へ投げた銅型円盤は銅拍子という。
(兵馬俑が忍法を使えるのは)
 今しがた核鉄を飛ばしたのはカマイタチ──戦士の所業がそうと気付いたのは。
(我自信がその正体を理解しているからだ……!!)
 忍法吸息かまいたち。これは激しい吸気によってかまいたちを巻き起こすわざである。当たれば頭蓋が血味噌というか
ら恐ろしい。
(ならばこの身でやれ! 普段やれぬとしても……やるのだ!!)
 チワワの腹部が異常なくぼみを見せた。玉城は嘆息にも似た長大な溜息を聞いた。
 今度は胸部が異常な膨張を見せた。そして響く喘鳴……。
.

18 :
 戦士のカマイタチが突き進んでいたであろう空間と無銘の中間点で何かが爆ぜた。一瞬半透明にくゆった空間が螺旋状に
裂けた。衝撃が当事者たちを突き抜ける。燃えるような三つ編みが後ろへ流されチワワの頬がビリビリと波打った。戦士の
頬が軽く裂け、胡乱な黒さが目に現れた。
 忍法吸息かまいたち。それは正に成功した。戦士のカマイタチはここに撃墜されたのである。
 再び息を吐いた無銘は脱力したように軽く背を丸め、口を拭った。手には血が滲んでいる。全身には汗が噴き出し、早ま
る呼吸は背後の玉城に「耐えがたい苦痛」を直観させるに十分だった。恐らく急激かつ過大な吸気が小さな気管支のあちこ
ちを裂いたのであろう。或いはカマイタチを吸いこんでしまったのかも知れない。
 という推測を玉城がする間にも戦士は動いた。カマイタチを撃墜され、動揺するかに思えた彼だが、ト、ト、ト、と3歩走る
や否や冷然たる面持ちで立ち止まり、軽く左手を跳ね上げた。
「何だと」
 驚愕したのは無銘である。しっかと地面に付けていた筈の片足が浮き上がっている。いや、片足だけではない。無銘の
体がフワフワと浮かび上がっている。何かに持たれている訳ではない。仕事場にいる宇宙飛行士よろしく『何の支えもなく、
ただ体だけが』浮いていき、やがて彼は地上2メートルほどの場所に固定された。
「つッ」
 左肩の痛みに無銘は思わず顔を歪めた。一見何もない筈のそこが何故か破れ、刺すような痛みをもたらしている。
(刺されて……? まさか!)
 傷口からやや離れた場所を撫でる。そこは一見何もない空間だ。にも関わらず肉球には軽い痛みが走り、切り傷さえ開い
た。無銘ははっとした面持ちでいま触れた場所をしばし眺め──赤い雫を垂らしてみた。……何かに斬られたように霧消した。
 傷口を見る。血が流れるなり散らされているのを見た瞬間……鳩尾無銘は確信する。
(透明な刃があるようだ。だが、流血を弾く以上これは『武器』ではなく『現象』。仮に透明な刃があるなら伝い落ちる筈)
 戦士を見る。『左手を無銘の延長線上』へ伸ばしている戦士を。彼はいま、右手を動かさんとしているところだった。
(分かったぞ。……こいつの武装錬金の特性は斬撃軌道の保持!)
 その姿勢がグラリと揺らめいたのは宙空に浮かぶチワワが咆哮とともに身を揺すった瞬間である。
(カマイタチを飛ばせるほど鋭い衝撃を、その場に固定するコトができるのだろう。……一見すると近距離専用だが恐らく
違う。『カマイタチを飛ばす』……それもまた斬撃だとすれば射程は限りなく延びる)
 戦士が数歩進んだのは斬撃軌道を前進させるためか。
(いうなれば鉤手甲というより栴檀の奴めの武器に近い。先端の分銅がカマイタチで斬撃軌道は鎖だ。しかもその分銅は
粉砕されてなお空間に留まり、戦士の前進とともに我へ刺さった。つまり……射程は限りなく延びる上に移動も可能!)
 奇妙なコトにいまだ8メートルの距離を置く両者は、何事かによって結ばれているらしかった。無銘がその身を激しく揺すり、
暴れるたびに戦士の左手の鉤手甲は異様な軋みを立てる。グラリ、グラリと上下に振れる左腕が戦士の安定を奪っている。
(だが斬撃軌道が戦士の手から延びる以上、やりようもある。我はいま、平たくいえばガラスの刃を刺されているような状態
だ。それゆえに、我が動けば奴の動きを封じられる!)
 燃えるような赤い髪の少女を振り仰ぐ。彼女は何が起こっているか分かっていないらしかった。苦笑が浮かぶ。
(初撃で核鉄を飛ばした斬撃軌道もまた保持されているだろう。今しがた戦士が右手を動かしたのは……貴様にトドメを刺
すためだ。初撃は右手で放っていたからな。よって我を封じるや否や貴様を殺しにかかった。だが……我が粘っている以
上、手出しはさせん! そして!)
 無銘の体が戦士めがけて滑り始めた。
(このまま斬撃軌道を伝い落ちて接近する! 近づきさえすれば牙も届く!)
 戦士の目が光った。右手が動いた。しかし無銘はそれより早く跳躍した。下半身を振り子よろしく振り、勢いをつけて。ザ
リザリと響き渡った凄まじい音は彼の左肩が下に向かって引き裂かれる音である。彼は自らを刺す斬撃軌道から強引に
脱出した。串に刺された肉を左右めがけ引き、ちぎる要領で。
 ……紙一重でぷらつく左上腕部から生暖かい雨が降る。戦士は「あっ」と声を漏らした。血が、両目に入った。いや、投げ
入れたのだろう。無銘は血まみれの右手を振りかざしている。
 獣の口がニンマリと裂けた。皓歯の羅列が刺々しい光を帯びた。

19 :
(まずは右肩を噛み砕く!)
 体は落下を始めている。牙が、鈍色の凄まじい残影を引きながら戦士に迫り──…
「小癪な」
 無銘の眼前で四本線の軌跡が閃いた。流石に目つぶしによって正確さを欠いたと見え斬撃そのものは一髪の間合いで
外れた。だが斬撃軌道は残っている。四本線の不可視の刃へ突っ込めばどうなるかは明らかだろう。
「舐めるな!」
 もとより無傷は捨てている無銘だ。えび茶色の体の中で首だけを捩ったのは章印をかばったにすぎぬ。果たして自由落下
中の無銘の右目に不可視の斬線がめり込みそこから右が削ぎ落された。牙が散る。咬合力が減損する。顔面ごと片顎を失し
た獣がどれほど相手を食い破れるというのか……そんな疑問さえ無銘は覚えたが。
(それでも噛まざるを得ん!)
 無我夢中で戦士の右肩に飛びつきそこを食い破る。錆びた味が広がった。服と肉のカケラを素早く吐き捨て飛びのく。筋
をごっそり裂かれ脂肪の向こうに骨さえ覗く傷口が見えた。動脈が裂けたらしく噴水のように血が飛び散る。
(これでカマイタチは封じられた筈)
 安心したのもつかの間……。頭がむんずと掴まれた。視界が上に登って行く。もがく。外れる気配はない。上昇が止まった。
 戦士。
 彼の胸の前で彼を仰ぐ。血で汚れた眼はいまだ糸のように閉じられている。だが無銘は身震いした。死者。亡者。ぼんや
りと瞑目する彼は全身から漆黒の霞を漂わせている。特にどうという表情もない戦士。今しがた噛み破られた右腕で敵を掴
み、淡々たる手つきで左の鉤爪を振りかざす戦士。それは明らかに章印を狙っている──…
(くそ! 核鉄があれば! せめて人間形態にさえ、人の姿にさえなれれば──!)
「……手だしは……させません」
 なっと息を呑んだのは戦士ばかりではない。無銘もまた意外な面持ちでその光景を眺めていた。
 クチバシ、だった。子供ぐらいなら丸呑みにできそうなほど巨大なそれが戦士の左上膊部に噛みついている。そのせい
だろう。鉤爪が無銘の章印スレスレでぴたりと静止したのは。静止した物が揺れた。無銘の視界が90度傾いた。そのフレ
ームの中で戦士が飛んだり跳ねたりを始めたが好きでそうしている訳でもないらしい。
(これは──…)
 どうやらクチバシが左腕ごと戦士を振り回しているらしい。途中で気付いた無銘も無事とは言い難かった。彼は戦士に頭
を掴まれている。激しい揺れに巻き込まれたのは成り行きとして当然……。世界が揺れる。傷だらけの体がガクガクと揺
れる。無銘と戦士だけが局地的大地震に見舞われたようなありさまだった。
 よく絞られた中肉中背の体は、無銘の視界の中、しばらく轟々と振り回される羽目に成った。
 腕がすっぽぬけそうな勢いでフレームを出たかと思うと弾丸のように戻ってきた。ただでさえ無様な顔面が地面に叩きつ
けられ醜く歪む。勢いは止まらない。とうとう戦士の体は肘を起点に360度回転した。すぐ頭上で響いた関節と腱のねじ切
れる音は無銘の背筋を凍らせるには十分だった。視界は更に何度も何度も触れ動く。左上膊部の咬合にもめげず手首を
動かし斬撃軌道を描く戦士だが、嘴は斬られても裂かれてもまるで意に介さず戦士を振り回し続ける。もはや斬撃軌道も
クソもなかった。咬合を免れた右腕は付け根を無銘の牙に深く抉られている。小型犬の自重ならいざ知らず、馬鹿げた揺
すれのフレーム出入りの重圧まで跳ねのけるコトはできないらしい。攻撃不可。せいぜいちぎれないようにするのが精一杯
……彼はただ成すがままだった。
 いつ戦士の手から解放されたかは分からない。気づいたころには無銘は尻もちをつき、戦士がフッ飛ばされるのをただ
茫然と眺めていた。広場を超え、その際にある尖った大岩(無銘のトラウマ)を粉々に粉砕してもなお止まらず、森の中へ
飛び込んでいった。木々のへし折れる音がしばらく無銘の鼓膜を賑わし、それは2分後の彼が振動のもたらす酩酊感と吐
き気とを未消化のビーフジャーキーごと地面にブチ撒けるころようやく止まった。
「ディプレスさん……です。ハシビロコウさんのクチバシ……です」
 三日月が裂けたクリーチャーのような器官が玉城の顔面で砕けた。変形か……そう理解した無銘はしかし俄かに顔を赤
黒く染めて怒鳴った。玉城の唇は眼を背けたくなるほどあちこちが無残に裂け、ささくれ、雪のように白い前歯も何本か欠損
しているようだった。
「ディプレス? ディプレス=シンカヒアか…………!?」
「はい」
「どうして栴檀どもの仇の名を……いやそれよりも貴様! どうして出てきた!」

20 :
「……力を合わせなければ……いけません……」
「フザけるな! 貴様は我に守られておればいいのだ!」
「あ、ありがとう……ございます」
 無銘の言葉を曲解したのか、虚ろな瞳の少女は軽く頬を染めた。どこを見ているか分からない瞳がとろとろと蕩け、心持
ちうっとりとしたニュアンスで何かを眺めているようだった。「どこを見ている」。彼女の瞳を覗きこんだ無銘はハッとした。自
分だ。自分を眺めている。そう気付かれたコトに気付いたのだろう。玉城は慌てて俯いた。真赤な髪からチロリと覗く耳た
ぶが少し赤らんだようだった。
 無銘は、とても恥ずかしい気分になった。
 雪が溶け、黄砂が吹き始めたころの艶めかしい気分がモヤモヤと脳髄を苛んでいるようだった。
 母と慕う小札にさえ覚えた覚えのない感情を玉城に催しているようだった。
「ち! 違うわ! そもそもだ! 我が敵対特性を受けた以上、貴様は決して無事ではない! いまクチバシが砕けたのは
斬撃軌道のせいもあるが! それ以上に! 貴様の体が限界だからだ! それでなくても貴様の体は──…」
 肘から先が欠損した両腕は創傷に塗れ、裸足は折れた櫛のようにところどころ指が欠けている。立っているだけで痛い
のだろう。軽く浮かべた右脚は膝から先が心もとなく揺れていた。胴体は血にまみれ、虚ろな瞳の片方は蜘蛛の巣に似た
ひび割れが痛々しく広がっている。
「そんな体であのバカげた攻撃力を振るってみろ! 反動は貴様さえも破壊するぞ!」
「……大丈夫…………です。よくある……コト……です」
「よくある……だと!? フザけるな! 誰がそういう目に遭わせている! 属する『組織』か!? それとも貴様の姉か!」
 突き刺すような叫びに玉城の顔が苦しげに歪んだ。
「よくあろうとなかろうと、貴様のような年齢の女が! それを押して戦うなと言っている!」
「ありがとう…………ございます。優しい……ですね」
「!! やかましい! 会話をしている時間はないのだろう! 見ろ!」
 はつと無銘は振り向いた。戦士が落ちた辺り。そこから凄まじい殺気が漂い始めている。黒とも紫ともつかぬ靄が森の奥
から漂っている……そんな錯覚さえ起こった。そして駆け寄ってくる足音。戦士はまだ、戦える……。
「では、結論からいいます……。次に私が動いたら……チワワさんは核鉄を拾って……逃げて下さい……)
「逃げるだと!? 任務を達するコトは忍びにとり死活問題! 第一ここで貴様を守らねば育ててくれた師父や母上に顔向
けができん!」
 左腕を振った無銘は喉奥から苦鳴を漏らした。凄まじい痛みが左半身に走る。バックリと裂けた左肩のせいだ。手を振る
だけでも激痛が巻き起こるらしい。
「気持ちはわかります……。でも、不可能です。私達は重傷で……助けがくるかどうかもわかりません。なぜなら」
「あの鉤爪が来たのはここに居た共同体を殲滅する為。となればまだ近くに仲間がいる! 単騎で共同体を潰せるのは大
戦士長クラスか火渡赤馬ぐらい……かの防人衛さえ徒党を組むという。よってあの戦士は仲間連れだ! 師父たちがいま
だ着かぬのは恐らくその戦士と鉢合わせているせい……その程度なら我にも分かる!」
「……はい。時間稼ぎをしても……有利になれるとは……限りません。もしそのせいで……他の戦士さんが来たら……最悪、
です」
「何が言いたい」
「断言します。チワワさんが粘っても……無駄、です。それは……分かっている筈、です……」
 無銘は黙り込んだ。
(分かっている。戦士の通常攻撃にすぎないカマイタチでさえ一か八かの吸息かまいたちを使わなければ対処できなかった。
意を決して飛び込んでもせいぜい肩に噛み傷を与える程度。あの時……こやつが助けに入らねば死んでいたのは我の方だ)
「あのかまいたち……何度も……撃てますか?」
 無銘は首を振った。
「…………あの一撃で気管支が裂けたようだ。もはやあれほどの吸引力は生めまい。だが! 核鉄さえ取れば!」
 無銘が指差したのは丸太の山。その向こうに核鉄がある。戦士が飛ばされたのとはちょうど逆方向だが、どれほど遠くに
飛ばされているかは分からない。
 玉城は、かぶりをふった。
「……もしあの自動人形を発動して……攻撃を与えても……3分以内に……あの人たちが来る可能性は……低い……です。
その間に……やられ……ます」
「ああ! 誰やらのせいで我の兵馬俑はボロボロ! というか持ってきてるの片手だけ!」
 顔を背け腕を捩る無銘はヤケクソのようにまくしたて始めた。

21 :
「奴相手に3分持ちこたえるコトも貴様と我を連れて逃げるコトも難しいだろうな!! だがだからといって諦める事由には
ならん! 難しいなら難しいなりでやり様を模索するのが忍びだ!! 栴檀どもでさえ力及ばずながら後に繋いだのだ!
ここで我が奮起せずしてどうする!! あんな馬鹿な新参どもでも命がけの結果を無為にしていい道理はない!!」
 とはいうものの明確な打開策はないらしい。無銘は何もない空間を苛立たしげに叩いたきりすっかり黙り込んだ。
(『あんな馬鹿な新参どもでも』……)
 虚ろな瞳の前で瞼がはしはしと上げ下がった。玉城は意外な思いだった。先ほどの戦闘でしきりに叱咤していた『新参ども』
に対しそんな言葉を吐くとは。
(でも……分かるような気が……します…………)
 記憶の闇の中に一条の光がぽつりと灯(とも)った。青空の背中が見えた。愛用のビーンズテーブルに向かってしきりに
鉛筆を動かす姉の姿。
(お姉ちゃんは知らなかったと思うけど…………結構……見てました)
 鉛筆を止めて考え込む青空。「あ」と嬉しそうに呟いてまた鉛筆を動かす青空。鼻歌を歌ったり「喜んでくれるかな」と真剣
に呟いたり、とにかく彼女は一生懸命書きものをしていたようだった。ファンレターを書いている。玉城はいつしか何となく
理解していた。
(でも……それに来た返事は……私が…………)
 飛ばしてしまった。だから父と母と自分とで一生懸命探した。報われて欲しかった。頑張った青空が何の喜びも感じられない
まま終わってしまうのは嫌だった。
「結果を無為にしていい道理はない」
(チワワさんが……そう言うのは……きっと……)
 拳を握るつもりで腕に力を込める。先の欠けた肘に痛みが走る。だが心地よくもあり、玉城はさっぱりとした微笑を浮かべた。
確かにある。無銘が無為にしたくない「馬鹿な新参ども」の努力の成果が。
 そこから感じられる彼らの結びつきが、ただ……眩しかった。
「………………ところで……チワワさん」
「なんだ!」
「…………血のつながりこそないように見えますけど……チワワさんがそこまで……力になりたいなら…………あの人たち
は……きっと……家族……です。だから……誰も欠けずにいて欲しい……です。私の分まで…………普通に暮らして……
普通に笑って……いて……下さい」
「何を突然いいだしている! 戯言を抜かすヒマがあるなら打開策の一つでもいえ! 戦士はもう近くにまで来ている!」
「はい……自動人形を囮にすれば……逃げられます」
 無銘の黒豆のような瞳がみるみると収縮した。何度も視線をやりかけた白い足。誘惑的でさえあるなよなよとした右足が後
ろに向かって跳ね上がり、凄まじい力を溜めている。距離は至近。放たれたが最後、確実にチワワを吹き飛ばすだろう。
「おい待て貴様あ! なに足なんか振りかぶっている! 待て! 待て! やめろ!!」
 両前足をばたつかせる無銘もなんのその。
「私も……囮になります……だから……チワワさんだけ……逃げて下さい……」
「まさか貴様……!?」
 玉城は小型犬の胴体を蹴り飛ばした。
「任務より…………命が大事……です」
 体を丸め飛んでゆく無銘は確かに見た。
 限界を迎え、砕けていく足を。
 唇の端と端をにゅっと綻ばせ、穏やかに笑う玉城を。
 何かを呟く彼女の遥か後ろにやってきた、見覚えのある姿を。
 広場に戻ってきた鉤手甲の戦士はあらゆる事情を知らないのだろう。
 振り抜きたての玉城の足が緩やかに崩壊していくのを彼はただ、無感動に一瞥した。
「仲間を逃がすか」
「仲間じゃ……ありません。……敵、です」
(敵。確かに我と奴は敵同士だ)
 地面に情けなくつっぷした無銘は力なく立ち上がり、よろよろと辺りを見回した。
 開けた場所だが求める物は一瞥の限りでは見当たらない。
 飛んだ拍子に妙な転がり方をしたのだろう。核鉄を見つけるにはしばらくかかった。
(任務でなければかばう道理はない。かかる羽目になったとあればその任務さえこなせるかどうかだ。戦士と遭遇したとあ
れば任務失敗も止むなし……師父はそうお許しになるだろう。だから奴を囮に逃げのびるのは……決して間違った選択で
はない)

22 :
 匂いを頼りにやっと見つけた核鉄を、口に咥える。
(だが!)
 スライス済みの断面から六角形が見苦しく飛び出した。
(だが──…)
 最後に聞いた玉城の声が蘇る。
「いい……です。私はチワワさんのおかげで……笑うコトができました……。それで……満足……です」
 蘇ったそれは何度も何度も脳髄に響いているようだった。





 片目が髪に隠れたその少女はひどく無口で。

 動物たちが大好きだった。


 何が楽しいのか、洞窟の奥で無銘の毛を何度も何度も梳り、楽しそうに笑っていた。



(何故だ。なぜいま『あの女の事を』……思い出す……!!)



 羸砲ヌヌ行は語る。

「鳩尾無銘が思い出していた少女のコトかい? そうだねえ。彼にとってはもしかすると『姉』であり『妹』だったのかも知れな
いね。ふふっ。出会ったのは物心ついて1年経たないうちさ。自分の体について悩んでいるころ……。異形であるコトに悩
むがゆえ心通じた怪物のような少女」

「しかし交流はそれほど長く続かなかった。我輩の記憶が確かならば一晩。そう、たった一晩しか彼らは時間を共有できな
かった。少女は死んだよ。蘇った頤使者6体。そして栴檀2人が加わって間もない頃の音楽隊。彼らの熾烈な戦いのすえ
鳩尾無銘は経験した。切ない別れを……経験した」

「しかし彼はやがてそれを超える。乗り越えて……新たな絆を、手に入れる!(ちょっとはしゃぎすぎかな私?)」

23 :
.
 山頂は沈黙に包まれていた。無人、という訳ではない。その中央付近ではイガグリ頭をした30絡みの男と少女がじっと
睨み合っていた。双方とも直立不動だが、それが保てているのが不思議なほど傷は深い。
 少女はなよなよした体を傷と欠損で苦しげに彩り、脛の半ばから先が欠損した右足を無造作に垂らしている。
 30絡みの男もまた右肩のあたりからとめどなく血を流している。
 無銘の食い破った傷が相応の痛みをもたらしているのは間違いなく、現にあばたとイボのある鼻に脂
汗がネットリと浮かんでいた。
(ホムンクルスなら……ともかく…………戦士さんを……Rわけには……いきません……)
 少女──玉城はそう思っていた。
(ホムンクルスならともかく……人間を殺したコトは……ありません。殺したくは……ありません)
 チワワさんを逃がしたら討たれよう。そう思っていた。
「爪ある限り軌道は連続する。敵を裂き、腕を止め、那由他の限りを置いて再び動かしたとしても……連続する」
 戦士の左手は腰の辺りまで下がっていた。翻った掌はとてつもない負荷を浴びているようにガクガクと戦慄いていた。見
栄えの悪い顔つきが怒張し、真赤に染まり、こめかみに浮かぶ青筋が今にも破裂しそうにひくついている。
 彼は息を吸った。病熱患者がうなされるような不気味な音が響いた。次いで拳が握りしめられ、重機よろしく上方へ跳ね
あがった。果たして頭上に上る鉤手甲。重々しさを克服したような手つき。それをただ玉城はぼうっと見ていた。
「軌道は! 連続する!!」
 ざあっと息を吹き散らかしながら戦士は左手を振りかざした。
 そして大地は大きく揺れた。
「ふは!? とととととと、のわーっ!!」
 つんのめる小札の横で木々がざわめいた。黄ばんだブナの葉が散る世界はもはや鳥どもの悲鳴とはばたきの大合唱
しかなくとかくとにかくやかましい。
 総角の鼻先を黒い旋風が通り過ぎた。円弧状に斬り上げられた肉厚の刃は更に中空で不自然な『持たれ方』を経て袈裟
斬りへ。眼前に気を置きつつ山頂の気配も探る。新たな揺れが来てもそれが命取りにならぬよう、心持ち多目に飛びのき間
合いを取る。剣の主がどこか無邪気な様子で突っ込んできた。乱雑な足運びに剣客として溜息が洩れる。剣を握るなら術
理も齧れ。もっと強くなれるぞ……100メートル走でもするような野暮ったい動きにそんな忠告さえしたくなったのは通暁者
特有の講釈欲求ではない。斬撃1つやるにもいちいちドタドタ駆けてくる泥臭さに好感を抱いたからだ。
 総角が向かい合っているのはそんな敵だった。
 どこからか雷のような音が響き、敵は山頂をはっとした面持ちで見上げた。その視線を微苦笑混じりで追った総角は、大儀
そうにポケットから手を出した。
「やはり無銘は山頂か。そして同じ状況らしい。……やれやれ。好感ゆえなるべく無傷で終わらせたかったのだがな」
 時間がない。目を細め一人ごちつつ踏みこむ。耳元で西洋剣が唸りを上げた。傍で見ている小札がひっと息を呑んだが構
わず剣すれすれに駆け抜ける。相手の懐に飛び込むのにさほどの時間は要さなかった。はちきれんばかりの胸板は武装
錬金特性ゆえか……。品定めを終え面を上げる総角に驚きの声が振りかかる。
 その主はやや強面だった。
 あんぐりと開けた大口から4本の鋭い牙が伸びている。と書くと獰猛な印象だが澄んだ瞳には子供っぽさも宿っており、20
歳は超えていないように思われた。目を白黒しながら避けられた剣と総角を見比べる様子は滑稽と言えば滑稽だが、がっし
りとした体格に見合わぬその反応は「ちょっと間の抜けた気のいい大型犬」という印象である。
「悪いな。逃げるのはやめだ」
「え」
 笑顔で(戦士の)左手首を掴む総角の意図を察し損ねたのか、男は間の抜けた声を上げた。さもあらん、彼はまだ剣さえ
振り抜いていなかった。野暮ったい足で運んだ巨躯はまだ前へ前へと向かっており、突っ込んできた総角を「危ね」と避け
かけてもいた。
 そんな勢いが、何かに吸い込まれた。
「柔(やわら)を使わせて貰う」
 キラキラと輝く金髪の奔流の影で男の体が舞い上がり、そして飛んだ。彼は手近な木にしこまた背中を叩きつた。
「何と! もとより身長体重総てが勝る筋肉絶賛肥大中筋肉モリモリマッチョマンな戦士どのを腕一本で!?」
「ま、交差法だな。突っ込んで来なければ無理だったさ。…………筋肉モリモリマッチョマン?」

24 :
 黒い刀が木の根と打ち合い乾いた音を立てる傍で戦士は力なくうな垂れた。
『はは! どうやら後頭部を打ったらしい!』
「で、仮ぎゃーってわけじゃん……うー。なんか悪いコトしたっつー感じもするけど」
 ぼるりぼるりと側頭部をかく香美は忸怩たる思いらしい。野性味溢るる美貌が台無しになるほど徹底的に顔をしかめている。
「これもまた止むなきコト。よもや無銘くんを追撃している不肖らが戦士どのと出会うとは」
「フ。この山頂にいた共同体はよくよく運がないらしい」
 要するに総角たちと玉城、戦士の3勢力から狙われていた。そして壊滅した後、タッチの差でやってきた連中が意味もな
く争う羽目になっている……そう述べた総角はこう締めくくって駆けだした。
「とにかく、戦士が来ている以上、急がねばならんな。先ほどの揺れも気になる」
『ええ! ええ! しかし──…』
 貴信は眼前──つまり香美にとっての背後を──やれやれと見渡した。
 嵐でもきたようだった。
 大木が何本も何本も何十本も倒れている。総て然るべきルートに流せば車1台分ぐらいの代金にはなるだろう。それ位
多くの木々が無秩序に伐採されている。
 総て、戦士の所業である。貴信は身震いした。
(剣一本でここまでやるとは! まともにやりあえばどうなっていたかは分からない!!)

 不覚にも喪神した剣持真希士は帰還後それを大いに恥じ、ますますの鍛練に励むコトとなる。

 以上ここまで。過去編続き。

 ブログ久々に更新しました。ウィル編続きうp。ソウヤの心理描写は難しい。

25 :
>>スターダストさん(>>17 避け→裂け ですよね?)
「勘違いしないでよね」は基本中の基本ですが、誇張ではなく血みどろの戦いの現場だわ、
言ってる本人は思いきり人間の姿からかけ離れてるわそもそも男の子だわで。そしてそんな所に
錬金の戦士。555の草加同様、一般庶民視点ではどう考えても有難いヒーローなんですが……

26 :
 千鶴=狼娘の姿は見えない。
 ただ、たたたたとタイプライターを叩くような足音と共に、周りの土が削れ飛ぶ。驚異的なスピードで周囲を旋回しているのだ。
 土埃だけでもダメージを受けそうなほど、その勢いはものすごい。
「これでどちらからくるか分からないはず。
 さっきのようには行かせないだワン」
 石ころがひとつ、正面から栄子に向かって飛んできた。
 栄子はそれをつかんだ。
「お主が今のリーダー格とみた。
 まずはお主から、倒させていただくだワン」
 土埃の範囲が狭くなってきた。そしてやがて。
 ある一方で土が大きくはじけ飛んだ。跳躍だ。
「作戦B……」
 栄子がつぶやく。
「くらえっ」
 千鶴=狼娘の貫き手が、栄子の肩を貫いた。
 その瞬間、栄子が叫ぶ。
「今だ! 悟郎、来い!」
 ばさっという音がして、悟郎の姿が中空に現れた。
 木の枝から飛んだのだ。テントの素材だった鉄棒を振りかざし、千鶴=狼娘を狙っている。
「千鶴さんを返してもらうぞ!」
 同時にまわりにいた他のメンバーも銘々投石や包丁の一撃の用意に入る。
「空中と地上、全方位。囲んだ!」
「行けえっ」

27 :
 千鶴=狼娘の姿が消えた。
 全方位を囲んでいたはずなのに? 空中にいた悟郎がむなしく着地する。渚の投げた石が正面の木に当たって鈍い音を立てる。
「しまった」
 一番近くにいた栄子は、事情を了解していた。
「あいつ、地中へ!」
「ぷはっ」
 みんなの輪から少し離れた場所で、千鶴=狼娘が息継ぎをした。
 素早く地面を掘削してあそこまで逃げたのだ。千鶴=狼娘が勢いよく地上に飛び出してくる。
「地面が柔らかくて助かっただワン。
 やはりこの山々は、わたしに味方してくれているのだワン。
 ……さて、」
 千鶴=狼娘がにやりと笑った。
「作戦Cはなんだワン? 準備があるなら、待ってやってもいいだワンが……」
「なめやがって、みんな、作戦C……だ……」
 栄子の体が揺れて、地面に膝をつく。出血によるショックだった。
「栄子! もう無理よ!」
 早苗が栄子の体を支える。
「ゲームオーバーだワンね」
 千鶴=狼娘が、くるりと踵を返した。
 そのとき。
 千鶴=狼娘の背後から、低いエンジン音が聞こえてきた。
 それはだんだん大きく、スピードを上げて迫ってくる。
「まさかっ」
 千鶴=狼娘が再び振り返った。その目に、
 護送車のライトが映った。

28 :
 護送車は茂みをなぎ倒しながら前進し、ひときわ大きな大木にぶつかって止まった。
 後部座席のドアが自動で開く。ゆっくりと滑るように。そして中から、小さな人影が姿を現した。
 白い帽子に青い髪、青の模様が入ったワンピース。
 イカ娘の登場だった。
「あ、タコ姉ちゃん」
 たけるが護送車に駆け寄る。運転席では梢が、エアバッグに埋もれてもがいていた。
「運転って……、ぷはあ、意外と難しいのね……」
「もしやとは思ったが、やはりやったことがなかったでゲソか」
 たけるの力を借りて梢が運転席から這い出てくる。いつの間にか知り合いになっていたらしいたけるの、携帯による誘導で、この場所にたどり着いたのだ。
「へへ……、コンティニューがあったみたいだな」
 栄子が言った。早苗に支えられ、その顔色はどんどん青くなっている。
「栄子、その傷は……」
 イカ娘が言った。
「なあに大丈夫。
 とはいえもう動けないみたいだ。
 イカ娘、わたしのかわりに、そいつをぶっ飛ばしてやってくれよ」
 イカ娘は指で了解のサインを作った。
 その表情に、迷いはない。

29 :
「ぶっ飛ばしてやると聞こえただワンが」
「お主はやりすぎたでゲソ」
 イカ娘と千鶴=狼娘は対峙した。
「わたしは……、深海から地上を侵略するために来た。
 最初はお主と同じく、近づくものをみんなひざまずかせる決意だったでゲソ」
(本当に最初だけだったけどね……)と、誰かが思った。
「でも、今のわたしは、それだけじゃないことが分かっている。
 栄子や千鶴に働かされたり、たけるや侵略部のみんなと遊んだり……、
 早苗に追いかけまわされることでさえ、わたしを構成する一部分だったでゲソ。
 狼娘。お主はわたしの同志でゲソ。
 でもお主が『わたし』を否定するなら、戦ってでもお主を止めなければならない」
「磯崎を派遣して叩いてやるつもりが、逆に火をつけてしまったようだワンね」
 千鶴=狼娘が言った。
「お主の侵略とわたしの侵略、どちらがより優れたものか?
 ここで決めてみるのもいいだワン」
 その細い目が鋭くなった。
「正々堂々否定してやる」
 つづく

30 :
続きます。
バトルを書くと未だに急襲のヤムチャっぽくなるような気がします。

31 :
 手を振りかざした戦士の足もとで地面が割れた。
 割れた、というより罅(ヒビ)が入った。例えば鋭利なスコップを突き刺したよう……転瞬なり響く轟音の中、衝撃波が玉
城の両隣を通りすぎる。総ては一瞬。注視していた筈の玉城でさえ一瞬なにが起きたか分からない。
 濛々たる土埃の中で振り返る。丸太の山がはじけ飛び質素な山小屋は倒壊中。ほぼ中央が大きくえぐれ木片や石くれが
舞い飛ぶ真っ最中。しかし玉城の心を決定的に砕いたのはその破壊力ではなく
「チワワさん……!?
 無銘を飛ばした辺りがすでに巨大な地割れに見舞われているからだ。
 幅およそ3メートルのそれが幾筋も幾筋も地平へ向かっているのを認めた瞬間、ただでさえ虚ろな玉城はみるみると血色
を失った。長大で凶悪な裂け目が4つ、広場を侵食している。むしろ罅(ひび)割れの中にたまたま切り立った地面が3つ残っ
ているとさえ形容すべき事態だった。丸太の破片や山小屋の残骸が闇へぱらぱら落ちていくのが見えた。落下音は聞こえ
ない。地割れは夜のように暗く、底も見えない。

「チワワ……さん」

 これだけの一撃をあの小さな体で浴びたらどうなるだろう……想像は残酷な結末ばかりもたらし、闘争意欲を奪い、だから
玉城はとうとう力なくくず折れた。
 ……戦士がゆっくりと歩み寄る。鉤爪で無慈悲な星が瞬いた。
「無駄だ。これより放つ攻撃は全ての斬撃軌道を左腕に集約したもの……軌道は連続する。故に俺はこの山に入ってか
らずっと、斬撃を続けてきた。固定されたそれを総てかき集めれば……こうなる。左腕が万全なら、右手が使えさえすれば
今の一撃で終わっていた」
 再びかざした鉤手甲からは黒い罅割れが立ち上っていた。それは塔のようにどこまでもどこまでも高くそびえ、青空さえ
斬り裂いているようだった。
(青空……お姉ちゃん……)

「ごめんね光ちゃん」
「ホムンクルスにしたせいで光ちゃんは普通の人より早く年をとるんだ」
「どれくらい? 5倍よ? 5年もしたらおばさんで15年後にはおばあさん」
「あーあ泣いちゃった。可哀相ね」
「でも大丈夫。お姉ちゃんがちゃんと解決法を見つけてあげるから──…」
「逆らったりしたらダメよ?」
「逆らったら、どうなるか……分かるよね?」


 上げた視界のその先に広がるのは澄み渡った青の空間。
 空を眺めるのは好きだった。奪われた何もかもがそこにあるような気がして、好きだった。

「戦ってね光ちゃん。大丈夫。光ちゃんは強いから」
 初めて化け物の群れを見た玉城の肩を、姉はにこやかに押した。つんのめり、転んだ玉城に化け物が群がった。獲物
だとでも思っているのだろう。腕が裂かれる。足が潰される。悲鳴を上げる。何度も何度も。助けを求めて姉を見る。手を
伸ばす。彼女はただニコニコと微笑んでいる。ファイト。そんな言葉も聞こえた。
 野牛の角に刺し貫かれた。海老ぞりで痙攣しあぶくを吐く。彼女を囲む色とりどりの化けものは容赦なく押し寄せる。

32 :
.
 玉城はただしゃくりあげながら鼻水を垂らし、彼らと向き合った。


 いつの間にか地割れの奥の深い闇に視線を移していた。

 湿った地面。どこからかピチャピチャと水音がする薄暗い空間。床の黒い汚れは泥とカビらしかった。
 鉄格子に四角く開いた出入り口をくぐるよう姉は促した。
「頑張ったわね光ちゃん。たった3日で共同体を10個潰すなんて。残り3日も同じコトしてね。してくれたら普通のお部屋に
入れてあげる。それが規則なの」
 力なく頷く。素直にそこへ入る。羽毛で作った服は泥や血で汚れたのを差し引いてもすっかり艶が失われているようだった。
 差し出されたのは正体不明の薬剤だが奪うように受け取り嚥下する。食事を選ぶ自由はなかった。せがんでも掠め取って
も腹が鳴っても銃弾を撃ち込まれた。大好きなドーナツの山にガソリンを撒かれそして焼かれたコトもある。
『空腹なら人間を食べなきゃダメよ。ここではそれがルールなの』。
 姉は自分を教育してくれている。敢えて厳しい態度をとってくれている。自分を憎んではいない。憎んでは……。
 撃たれた時は身を丸くしてうずくまっているのが一番良かった。痛みがどこか遠くへ去っていくまでじっとしていれば必ず
楽になれた。
 牢獄のなか巻き添えを食らった虫たちがいた。
 ピクリとも動かぬ彼らを眺めると……腹が鳴りそうな気配がした。鳴ればはしたないと撃たれる。恐怖と嫌悪と罪悪感の混じ
った薄暗い表情ですすり泣きながら、死骸に手を伸ばす。空腹の音は恐怖だった。それが鳴ると銃撃が来る。だが腹さえ
満たされていれば大丈夫だった。決して咀嚼できないキチン質や甲殻の無慈悲な感触を口腔粘膜になすりつける方がまだ
良かった。銃撃だけは嫌だった。怖かった。大好きな姉に拒絶されているようで嫌だった。
「無理をしなくてもいいわよ。だってもう光ちゃんは化け物さん。躊躇わなくていいじゃない」
 にこやかな笑顔が鉄格子を占めた。耳障りな軋みが暗い牢屋に響き渡り、姉の足音が遠ざかっていく。
「……です」
 口中に広がる苦味にえずきが漏れた。乳歯の間に多足類の足を挟む人生など想像していなかった。
「ドーナツが……食べたい……です」
 その夜は苔むした床板に顔をこすりつけ、夜が明けるまで泣いていた。


 砕けた節足動物たちがチワワに重なり、そんなコトを思い出した。
 もう何もない。そんな気がした。
 だから俯いて、小さく囁いた。
「……もう…………いいです。殺して……
「……我のおかげで笑えたから満足……だと?」
 緩やかに歩を進めていた戦士の体がグラリと揺らめいた。
 俯いていた玉城である。戦士の体勢の崩れはただ漠然と察知したにすぎない。だが不意の声に首をがばりと跳ねあげ
た彼女は二度三度の右顧左眄を経てようやく状況の総てを理解した。

33 :
「フザけるな!! 本当に貴様はそれで満足なのか?」
 声の出元──地割れの淵から伸びる手が
「姉に両親を殺され、5倍速で年老いるホムンクルスへと変えられ、体よく使役されたあげく戦士に討たれて満足なのか!」
 戦士の右足首を掴んでいる。
「死者を悼み敵にさえ情けを催す心を持ちあわせておきながら、それを誰にも聞かれず! 化け物のように駆除されて──…」
 奈落のそこから小さな影が躍りあがった。
「貴様は本当に満足なのか!!?」
 チワワが戦士の左腕に噛みついた。「貴様」。驚嘆する戦士が体を激しく揺する。その足を引いたのは地割れから伸びる
罅だらけの手。
 本当に本当に罅だらけの手。踏みつけるだけで割れてしまいそうなボロボロ手。
 それが。

 戦士の足首を引く。玉城を死から……遠ざける。

 地割れの中にいたのは……
 身長2mを超える大型の…………兵馬俑。
 自動人形? 動物型が何故?
 そんな声を漏らす間にもナメクジの這ったような轍が奈落めがけ伸びていく。
「そうか! 地割れが起きる直前これを発動! すかさず乗り込み……地面の下から!」
「伝ってきた!!」
「味なマネを……! だがホムンクルスが何を言う!」
「黙れ!! 貴様に何が分かる!! 」
 実に賢明な戦士だったと玉城は後々まで感心した。右足首を掴む手。それはすぐにほどけない──強烈な握力のもた
らす痛みからそう判断したのだろう。彼は右腕を動かした。むろん無傷でもなく、動きには脇付近の大量出血と激痛の呻き
が伴った。だが攻撃対象はそうするに値する戦略的価値を十分に秘めていた。
 鉤爪が無銘の顔面を直撃した。自動人形は使い手本人を斃すのが手っ取り早い……そんな不文律を玉城が知ったのは
やや先のコトだが、戦士は歴戦の中で知悉し抜いているようだった。左腕にうるさく纏わりつくチワワさえ斃せば自動人形が
消える、奈落にも引きずり込まれない。傷ついた右腕がどう悲鳴を上げようが奈落に落ちるよりは軽傷だ。だが無銘もその
辺りは承知と見えた。首を動かし章印への一撃だけは避けている。そこにさえ当たらねば勝ち……戦士の体がまた奈落へ
と近づいた。両者ともまさに土俵際の戦い、無銘もまた無傷ではない。愛らしい顔に惨たらしい朱線が何本となく走り、耳が
斬り飛ばされ円らな瞳からは血涙が流れた

「誰彼の区別なく化け物を狩りさえすればいい貴様らに何が分かる!」
 戦士は眼を剥いた。掴まれている部分。そこが燃え始めている。忍法赤不動……。肉の焼ける嫌な臭い、火傷特有のひ
りついた激痛が骨すらも蝕んでいるようだった。炎はもはや衣服を介し脛はおろか膝のあたりまで燃やしている。火の粉が
散り、左足に伝播する。無銘の額を狙う右腕が心持ち震えるのを禁じ得なかった。
「死骸の総てが望んでそうなった連中なのか! 己が欲で身を歪めた連中ばかりだと思っているのか!!」
 戦士がいよいよ汗みずくになったのは燃えさかる足のせいだけではない。
 奈落まであと3歩。右腕は失血と傷の悪化で思うように動かない。無銘の章印を狙えない。
「少なくてもこやつは違う! こやつは──…
 戯言などはどうでもいい。
 奈落まであと2歩、いよいよ危殆に瀕した戦士の唇から掠れた声が漏れた。
 その表情が耐えがたい不快感を表しているのを玉城は見た。なぜ化け物に説教されなければならないのか、そういう苦渋
が思考判断をいささか乱暴な方へ導いているように見えた。

34 :
.
 それは正解のようで……。
「悪夢に泣き姉へ悔い、死者を見つければ埋葬する! たとえ体が化け物に貶められているとしても! 5倍の速度で年老
いてゆくとしても! こやつは間違いなく人間だ!!」
(人……間……? 私が……?)
「黙れ!!」
 戦士は狙いを変えた。左足を、罅割れた自動人形の腕へ叩きつけた。足を引く忌まわしい手を……砕くために。

 しかし。
「そんな者を! こやつを!!」
 自動人形の腕から破片が散った。罅が広がる。
「叫んでいる場合か? 奈落へ導く膂力……心持ち弱まったようだ。そのままそこに居れば……
「逃げろと? できるか!! 奴を、不当に歪められしただの少女を!!」
「見捨てるコトなどできるか!!!!」
 踵が腕を砕く。気炎とは裏腹に迎えつつある自動人形の腕を。
 できる。破壊できる。奈落には引きずり込まれない……
 会心の笑みを浮かべる戦士。その横で無銘はなお声を上げる。
「なぜなら我は──…」
「人間だからだ!!」
 左手首が噛み切られ鮮血が散るのも意に介さず 戦士は再び足を振り下ろした。 
 腕は、砕けた。
 同時に。
「な──…」
 戦士の足が滑った。
 振り下ろし、腕を砕いた左足は勢いの赴くまま奈落に向かって水すましのように滑った。
 彼は見た。
 腕の破片の下でキラキラと輝く地面を。
 それは青空や破片や、驚愕に歪みきる戦士の醜い表情さえ満遍なく映している。
「鏡!? いや、違う!」
 秋口にそぐわぬゾッとした冷気が左の足裏に走る。
 摩擦なき場所で滑る足は込めた力の分だけ安定を失っているようだった。
 つま先が跳ね上がる。膝が飛ぶ。
 股関節が軋むほどめいっぱい繰り出された足は、遂に加速の赴くまま体を宙に浮かせた。
「貴様は考えるべきだった。なぜ自動人形が地割れの縁に居るか、と」
 空転する景色のなか響くのはチワワの声。
「足を刺していたからだ。崖にな。そしてそこから伝導せしは……」
「忍法薄氷(うすらい)──…」
(氷……? まさか腕の下を…………地面の水分を…………!?)
(凍らせていたのか! 俺が腕を砕くのを見越して──)
「古人に云う。忍びに三病あり。恐怖、敵を軽んず、思案過ごす」

 鳩尾無銘の眼光が青く波打ったのは確信ゆえか。

35 :
.
「奈落めがけ引かれる恐怖。足が燃え盛る恐怖。貴様はそれに耐えかね下手を打った……」

「鉤手甲は忍びの武器。なら貴様も忍びだろう」
 噛み破った肉片と血管を吐き捨てながら、チワワが笑う。
(や先にこちらを斃すべきだった。本体さえ片付けておけば)
 後悔とともに繰り出された戦士の右腕の先で小柄な影がぱっと飛びのいた。剽疾とは正にこの事、残影を薙ぎ切った鉤
爪が血まみれの手首をガリリと裂いた。神経を直撃したらしい。蘇る激痛にさしもの戦士も絶叫を漏らした。
「そして、だ」
 無様に両足を投げ出し体をひん曲げる戦士めがけて
「云うまでもないと思うが」
 砕けた右腕の上をすり抜け
「腕は……2本ある」
 一気に伸びた左腕が、燃え盛る戦士の右足を引いた。
 赤々と燃焼する炎。腰のあたりまで侵食したそれが扇型の綺麗な残影を奈落に向かって走らせる頃。
 戦士は自らが作りだした亀裂の最奥めがけ落ちはじめていた。
「フン。2メートル近い兵馬俑だ。貴様の足首を掴んだ瞬間奈落へ落とせば、まあ諸共に叩き落とすコトぐらいできた……。
もっとも他に戦士がいる以上、核鉄を手放す訳にもいかんがな」
 腕もみねじり奈落を見下ろす無銘の姿を見た瞬間、ようやく玉城光の時間は動き出す。
 未来に向かって。
 凍てついていた時間が、暖かな未来に向かって少しずつだが……動き始めた。

「…………この世には己が欲望のため他者を歪める者が確実に存在している」
 見憶えのある姿が奈落を登ってきた。
「奴らが我に与えたのは名前のない傷ついた体一つ」
 兵馬俑。先ほど玉城が斬り捨てた自動人形が無愛想に佇んでいる。手首や胴体が繋がっているのは再発動のせいだろう。
「与えられたのは人型にもなれずチワワにも成りきれぬ哀れな体」
 凍って泥まみれの足の横、肩いからせつつズンズン突き進んでくるチワワに
「我だけではない。栴檀どもも、母上も……師父さえも奴らの勝手な都合によって生涯を歪められ、消えるコトのない欠如
を植え付けられた……。その点では皆、貴様と同じだ」
 何かを呟いている無銘の姿に玉城光はただただ眼を丸くし──…
 そして一言。
「チワワ……さん?」
「なんだ」
「……今のはハメです……汚い……です……」
「うぐっ!?」
「人間のやることでは……ありません……」

36 :
 無銘の顔がみるみると赤黒くなった。まさかそういう文言を吐かれるとは予期していなかったのだろう。
(……まずい。あの戦士死んでたらどうする。いやいや、鉤手甲あるし途中でなんとか。途中で何とか……)
 彼は大きく口を開けかけ怒鳴ろうとしたが、気を取り直した様子で大きく深呼吸した。怒れば指摘を認めたコトになる。
不当性ありしや、そう自白するに等しい。
 だから寛容な態度を取り、そして繕おう。無理やり浮かべた引き攣り気味の笑いは見ている玉城がいたたまれなくなるほ
ど本音をダダ漏らしていた。
「フ、フハハ……汚いのもまた忍びのっ、い、いや、人間の、そう、人間のサガ、だ!」
「声が……上ずっています……」
「だだ黙れ! 質問しているのは我だ! 答えろ!」
 指が突き出された。すぐ目の前に来たチワワが丸っこいそこを怒気に振るわせ自分を差している。
 頭からは湯気さえ立っている。
 そう、明らかにこのチワワは怒っているようだった。玉城は虚ろな眼を背けた。
 怒られるのは……苦手だった。

 憤怒ほど彼女に害悪をもたらした感情はないのだから。

 しばらく、沈黙が続いた。
「満足しているか」
 その言葉にどう回答していいか分からないのだろう。
 目を泳がせる玉城を無銘は凄まじい目つきで睨んだ。
 この少女は果てしない怯えを含んでいるようだった。言葉を吐こうとするたび口をつぐみ、俯き、カロテンをたっぷり含んで
いそうな三つ編みごと首を振る。その繰り返しだった。
 やがて玉城は顔を上げ、半開きの口の先で傷だらけの唇を震わせながらぽつぽつと喋り出した。
「私は……お姉ちゃんが好き……です。でも……何もしてあげられませんでした……手紙……飛ばしてしまい……ました」
「…………」
「もし……私のするコトで……お姉ちゃんが……救われていたなら……あんなコトには……なりません……でした……」
「…………」
「だから……お姉ちゃんのために戦い抜いて……死ぬのが……お父さんやお母さんや……お姉ちゃんにできる……伝えら
れる……ごめんなさい……です。それができるなら……満足……です」
「ならば何故! 貴様は虚ろな目で空を仰ぐ!!」
 体が揺れた。よく見ると無銘が胸倉を掴んで引き寄せていた。
「姉に歪められ貶められたであろう瞳で空を見る貴様は、奪われし総ての物を懐かしんでいるようだった! そこに満足な
ど何一つなかった! ただ現実から目を逸らし遠い青空ばかりを求めていた!」
 いや。小さな声を漏らして玉城は首を振った。視界の端で揺れ動く三つ編みは血しぶきのように赤かった。
「言いたくなければいってやる! 貴様のいまの言葉はただの阿(おもね)り! 憤る者を! 我をいなすためだけの物!」
「やめて……下さい」
「聞こえはいい。一理もある! だがそれをいうため何度言葉を消し何度組み立てた! 我を舐めるな!! 貴様は伝える
ためではなく、責められないためだけに言葉を弄したのだろう!」
「それ以上は……言わないでください」
「貴様にかような癖(へき)を与えたのは間違いなく姉だ! 貴様が本音を! 姉にとって耳触りの悪い言葉を吐くたび奴は
貴様を苛んだ!! だから今のように迎合せんとするのだ!」
 やめて……耐えきれず上げた声はもうすっかり嗄れている。渇ききった口の中でゴロゴロ転がる鉄錆の匂いとエメナル質
のカケラが耐えがたい不快感を惹起する。頭を抱え、いやいやをするように首を振る。聞きたくない。
「聞け! 貴様のような年齢の女が! 本音を隠し理を以て相手を説かんとするな!! 頭がいいのは結構だ! だが未だ
子供にすぎぬ貴様が理に縋り自らを守らんとする姿は見ていて腹が立つ! その姿は明らかに歪められている!!」
 見抜かれている。
 聞こえのいいだけの小狡い言葉が、見抜かれている。姉が相手ならもう許してくれた。耳障りのいい言葉さえ差し出して従
えば銃口が視界から消え、それまでの隷属が築いた平穏(仮初でも、仮初だからこそ痛みのない)が代わりに訪れた。
 だが、チワワはそれさえ許さない。
.

37 :
.
 姉への罪の意識は口実だ。
 本音は別の部分にある。
 本当はただ死んで楽になりたいだけだろう?
 
 彼は厳しい声を上げながら執拗に迫ってくる。
「姉が好きだと!? 笑わせるな! 本当に好きであれば客死によって再会を諦めるような所業などは絶対にせん! 少な
くても我は違う! 師父と母上の元に戻るためならば臓物を引き摺ってでも前に進んでみせる!」
「それは──…」
「いまの貴様はかき消される叫び声の中で立ち尽くし後悔だけ抱えているに過ぎん! 姉へ悔い姉を恐れ、いま以上の傷
を浴びぬよう浴びぬよう隷属しているだけだ!」
 無銘は、咆哮した。
「だが分かっているのか! いまここで貴様が贖罪気分で死のうが、姉は決してその態度を変えないのだぞ!」
 息を呑む。寒気がした。すっかり乾いた筈の背筋がまた潤い出した。
「むしろその態度を世界に認められたとさえ思い! 歪みの赴くまま他者を傷つけ! 貴様がごとき虚ろな瞳の者どもを産
み続ける! 貴様のされた仕打ちが際限なく拡がっていくのだ!」
「私のされたコトが……他の人に……?」
「まして被害者がその怨嗟を晴らすべく加害者になれば最悪だ! 加害者が被害者を生み被害者が加害者を生む悪循環!」
(被害者が……加害者に……?)
 思い出した。青空は実母に首を絞められ声帯を歪められた。
 いまの青空が絞首を好み声帯をちぎるのが好きなのは……被害者が加害者になった好例だろう。
「その忌むべき循環は断たねばならない!」
 どうやって胸倉を掴んでいるよく分からないチワワの指に一層力が加わった。
「いかな痛苦を浴びようと、断って、断って、断ち続けて! その根源を滅ぼさない限り……我や師父たちや貴様のような
境涯の者どもが産まれ続ける!」
「チワワさんも……私と同………あ」
 玉城は思い出した。
──忘れるものか!! 奴こそ我をこの体に押し込めた張本人の1人!!! 貴様らの組織の幹部にして忌々しき忍び!」
 両親が殺害された後、玉城が会った2人の女性。彼女らのせいで「チワワさん」は「チワワ」にならざるを得なかった……
(だから…………私と……同じ。あるべき姿から歪められた所は……同じ。だから……私を……)
 助けたがっている。そう、気付いた。結局このチワワは口こそ悪いが、任務──「玉城に敵対特性を浴びせ拘束する」──
以上の危害を加えるつもりはないらしい。
(私が悪夢を見て……泣いている時……チワワさんは…………何もしません……でした……。私よりすごく……弱いのに……
わざわざ……戦いを申し込んで…………それから……何度も……)
 守ってくれた。
 ずっと目の前でがなり続けているチワワ。彼を見る視線に春風のような暖かさが籠るのを感じた。頬も軽く綻んだ。姿こそ
チワワだが、やはり今の青空より遙かに人間らしいとも思った。
「貴様の姉が如何な背景と思惑を持っているかは知らん! だが父母を殺め妹を歪める所業は絶対に悪だ! どんな欠如
も! 怒りも! 他者に及ぼしていいものではない!」
「どんな欠如も……怒りも……?」
 茫然と言葉を反芻する。
 頭と胴体の境目を自転車に轢かれ死にかけているカブトムシを姉に見せたコトがある。
 彼女は首を振る代わり、こういった。
 昆虫にはお医者さんがいない。だからケガさせてはいけない。
 と。
「でも、人間だってケガさせちゃダメだからね? 治らないケガだってあるから」
 なぜか首に手を当てながら説明する青空を不思議に見ながらただ頷いたのはいつだったか。
 理由が分かったのはしばらく先……青空が行方を晦ましたころだった。
「だから……あの時……お姉ちゃんは……? 他の人に……自分のような思いを……させたくなかった……から?」
 だが今の青空は違う。
.

38 :
──「もう喋らなくていいわよ喋っていいことなんて一つもないものどうせ」
──「あの時の一発は本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に痛かったわよ私は自殺さえ考えたのよ」
──「あ〜。スっとしてきた。やっぱ本音を語るというのは気持ちいいわよね」
 もう、変わってしまっている。
「……あの」
「何だ?」
 三つ編みで頭をぺちぺちやられた(肘を引く代わり)チワワが訝しげに自分を見返している。
 玉城は粛然と表情を引き締めた。
「できました……お姉ちゃんがあほ毛を自由に動かせるから……今の私になら……と思っていましたが」
「いや、それはどうでもいい。マトモな話をしろ」
「えぇと。チワワさんのいうコトは……わかります。でも…………お姉ちゃんはもう……変ってしまっています……。殺したくも
……ありません。お姉ちゃんを殺しても……お父さんや……お母さんは……もう……戻ってきません……だったら……だっ
たら……」
「誰が貴様に姉を殺せと云った!!」
 三つ編みが無愛想に跳ねのけられ、そして掴まれた。
「本当に姉を愛しているのならば止めて見せろ! これ以上の魔道に貶めてやるな!!!」
「止め……る? ……あだ? 痛い……です」
 思わず涙を流したのは、三つ編みがぐぐいっと引っ張られているからである。
「ああ! 根源は貴様の姉の命ではない! 歪みのもたらす憤怒だ!! まずはそれを滅ぼせ! 止めてやれ!  何を
されようと救ってやれ! そして罪を償わせろ! それが、それこそが……」
 鋭い叫びが玉城の胸を貫いた。
「父に! 母に!! そして姉にしてやれる最大の償いではないのかッ!?」 」
(止める……償い……)
 言葉を静かに繰り返す。止める。
(でも……本当に好きなのは……。好き、だったのは──…)
「でも、人間だってケガさせちゃダメだからね? 治らないケガだってあるから」
(首を絞めて声帯をちぎるのが好きなお姉ちゃんじゃなく……自分と同じ思いをさせたくないって……思ってる頃のお姉ちゃ
ん…………そんなお姉ちゃんに戻せたら……あのころに戻れたら……)
 どれほどいいだろう。
 肘から先のない腕を通り抜け、涙が地面に吸い込まれた。震える体の奥から様々な感情が湧き、混じり合っていく。それ
が熱い雫となって虚ろな瞳を濡らしているようだった。
 首を振る。分かっている。止めるのが一番いいやり方だと。
「でも……できません。お姉ちゃんに…………怯えている……私が…………そんな事……」
「貴様になら出来る!」
 無銘の手に力が籠った。
「だから……痛い、です」
 小鳥のような可憐な悲鳴が上がったのはやはり三つ編みを引かれたせいである。
「いいか! 貴様はひとたび戦闘を離れればまったく抜けていて脆くて、精神面がまったく未熟すぎて話にならん!」
「ひどい、です。…………好きでそうなった訳では……ありません。だいたいまだ……7歳……です」
 ぐすぐす泣いて髪の付け根を摩りつつ、恨めしげにチワワを睨む。彼はちょっとたじろいだようだった。それが先ほど完
膚なきまでに叩きのめしたトラウマのせいとしか思えぬ玉城である。
「だ、だが! 能力だけならば貴様は十分強い! 奇襲とはいえ師父たち5人と互角に渡りあった実力は本物……。姉に
抗する術がまるでない訳ではない。それは……分かるな」
「は、はい……」
 蚊の泣くような声で不承不承答えてみたが、果してそれだけの実力があるかどうかは分からない。
 ただ、「チワワさん」が信じてくれているならそうなのかなあとは思った。
「救うなどという大層なことはいわん。仲間になれとも。傷を舐めあうつもりなどは毛頭ない!」
「だから……痛い、です」
 赤い束がまた引かれた。無遠慮に引かれるたび首が軋んだ音を立てる。痛い。痛い。やめて欲しい。そんな視線を送る。
果たしてチワワは口をつぐみ、気まずそうに三つ編みを解放した。そして踵を返し、こう締めくくった。
「だが貴様の抱いている感情ぐらいならば聞いてやる。それで貴様が二度と虚ろな瞳で空を仰がないと誓うなら……聞いてやる」

39 :
「………………はい」
 長い沈黙の後、玉城は微笑を浮かべ──…
 顔から血煙をあげた。
「何っ!?」
 炸裂する気配に振りかえった無銘が顔を歪めたのは、胸の辺りを何かが行き過ぎたからだ。果たして海老茶色の小型
犬の体は斜めにずり落ち、転がっていく。奈落が眼前に迫る。冷汗三斗の思いで腕をかき、辛うじて淵の辺りに踏みとど
まる。
 そして見た。
 その先にかかる、鉤爪を。
 それを頼りにのっそりと上ってくる、戦士の姿を。
(何お前しつこ……あ、いや違う! 仕留め損ねていたか! ならば!)
「遅い」
 かざされた戦士の左腕の先で兵馬俑が縦に4等分されるのを無銘は愕然と見た。
「斬撃軌道……それを咄嗟に崖へ刺し、落下を免れたのはいいが……登るのに多少の時間を要した」
 意趣返しとばかり右腕がうねりを挙げる。先ほど肩を食い破った無銘めがけカマイタチが降り注ぐ。いたぶっている。玉城
はぞっとする思いだったが、実は違う。戦士自身すでに満身創意で、「一見いたぶっているような攻撃」ぐらいしかできぬの
である。戦士をよく見れば兵馬俑を裂いた辺りで左腕が力なく垂れたのが分かっただろう。
「……の……れ」
 無銘は無念そうに広げた口から血を吐いた。寂れた地面がびちゃびちゃと汚れる。立たんとした玉城の肩口が裂け、肘ま
でしかない右腕が大根のように奈落へ落ちていった。一拍遅れて朱色の線が大腿部に走り、玉城はその断面をまざまざと
見せつけられた。それでもなお前に進もうとしたせいでほぼ達磨状態の体が地べたを這いつくばった。無銘の口が力なく閉じ、
瞳が光を失っていくのをただ見るしかなかった。辛うじて悲鳴だけを漏らす。やめて。懇願を戦士が嘲笑った。無銘のあらゆ
る部位がばっくりと口を開け、真赤な液体を迸らせた。
(……もう駄目…………? いえ……まだ……です)
 解体された兵馬俑はすでに核鉄に戻っている、使ったコトはない。だが前後の状況を鑑みれば用途は分かる。
(武装錬金……! お姉ちゃんやチワワさんが使っている武器は……"かくがね"から……出る筈……! あれを取れば
……何とか……できる……筈です)
 諦めたくはなかった。必死に体をくねらせる。少しでも早く。核鉄に近づきたかった。
「がはっ」
 更に無銘が血反吐を撒き散らしたのは、残り少ない胸部を踏まれたためである。
「チワワ……さん…………!」
 足元でもがく少女の視線を追った戦士は、すうっと眼を細めた。
「何を唱えようと人喰いの化け物は化け物。狩るのみだ」
 彼は苦悶の表情でぐらつく左腕を上げた。玉城のそれはまだ核鉄から3メートルほどの場所にある。
(誰でも……いいです。私が犠牲になっても……いいです)
 不可視の罅が天空高く立ち上った。
 身を転がし無銘に覆いかぶさる。できるコトはそれだけだった。
(誰かチワワさんを……助けて……)
 無銘の顔に自分のそれを擦り合わせ、恐怖と祈りにぎゅっと瞑目する。
 そして圧倒的な奔流が迫り、静寂が訪れた。
「……え?」
 土まみれの顔を上げた玉城は、しなやかな金の奔流が視界を包んでいるのに気が付いた。
 戦士は「今しがた左腕を弾かれました」という手つきで愕然としている。心持ち離れている気がするのは恐らく弾かれた
際、後ろに向かってたたらを踏んだせいだろう。
「フ。困るな」
 金の奔流からニュっと手が生えた。と見たのは錯覚で、どうやら長い金髪の持ち主が両手を広げ、肩をすくめただけらしい。。
「こいつは俺の大事なチワワだ。堅物で傲慢だが誰よりも人間らしい……自慢の、な」
 声は笑うようにそう告げ、
「戦士の本分は解しよう。しかし殺させる訳にはいかん」
 厳かに締めくくる。気押されたのか。戦士はわずかだが戦いた。
 それがきっかけ……だったのかも知れない。事態はみるみる好転した。。

40 :
 玉城はみた。見覚えのある影が2つ地割れをぴょいぴょいと飛び超えてくるのを。
「遅れて申し訳ありませぬ無銘くん! 相手は戦士、殺傷避けるべく逃げ回っておりました故……」
「うわあボロボロ。やっぱきゅーびじゃムリだったじゃん」
『ハハ! お前も聞いただろ香美! このコとのやり取り!! 彼でなければ説得は無理だったろうな!』
 玉城の両側に着地した少女2人。それを見る戦士の目が一段と険しさを増した。
「新手か……!」
「っと。攻撃はすでに終わっている。チェーンソーの武装錬金・ライダーマンズライトハンド」
 玉城たちを守るように立ちはだかっている男が指を鳴らすと……まるでそれを合図にしたかのごとく左右の鉤爪が粉々
に砕けた。屈辱とも驚愕ともつかぬ声を漏らしたきり戦士はその場に立ちつくした。
「そして……出でよ! 衛星兵の武装錬金・ハズオブラブ!」
 新たな影が一瞬よぎった。とだけ思った玉城は自分の体の変調に気付いた。
 切断された筈の両足や右足が再生している。それどころかあちこちが欠損していた四肢は完全に元に戻り、顔面や唇に
生じたひび割れさえ綺麗に塞がっている。思わず広げた両手をきょろきょろと落ちつきなく見まわしながら、玉城はありった
けの愕然を小声に詰め込み……問いかける。
「え……? これはグレイズィングさんの……?」
「顔見知りなら話は早い。俺たちを乗せて……飛べ!」
 玉城はまたも眼を白黒とさせた。言葉の意味が分からない。理解しかねた。
「馬鹿め! 師父は戦士から逃げろと言っている!」
 眼下で無愛想な声が響いた。すっかり傷の治った「チワワさん」が、忌々しげに牙を向いている。
「わ、わかりました……」
 押し切られた形なのは否めない。そう思いつつ彼女はハヤブサの姿に変形した。
「逃──…」
「武器を破壊された以上戦闘継続は不能。悪いが……この場は退いて貰えるかな?」
 チワワを抱きかかえた総角が──残る片手でゆっくりと制しながら──戦士に呼びかけた。
「本来の目的を横取りしたのは謝る。だが手間は省けただろう?」
 香美が飛びかかるようにハヤブサの背中へ乗り込んだ。
「迷惑料だ。収奪した核鉄は差し上げる」
 六角形の金属片。それを受け止めた戦士の顔に陰惨なニュアンスがありありと浮かんだ。
「もっともそいつを発動した上で追跡すれば戦闘継続は可能だが」
 怖々と玉城の背中を見ていた小札が生唾を呑み、意を決した様子でぴょこりと乗った。
「……フ。採算割れをやらかすか?」
 謎めいた問いかけをする総角が無銘ともども乗りこんだのを確認すると、玉城は天空に向かって飛び立った。

 以上ここまで。過去編続き。

41 :
「鳥型だと……!」
 鋭い声がかかった。鉤爪は見た。森から広場へ躍り込んでくる影を。ひどくがっちりとした大柄の男だ。彼はぎょろりとし
た三白眼の下で鋭い犬歯も露に吠えている。待て。勝負しろ。ありきたりの制止をひっきりなしに上げている彼はいうまで
もなく先ほど総角に昏倒させられた戦士──… 剣持真希士。
「やはり遭遇していたか。怪我は?」
 巨体に見合わぬ軽捷さで奈落を飛び越えてきた真希士、屈託ない笑みを浮かべた。
「ダイジョーブ! タンコブできたけどオレ様まだまだ戦える!」
 なるほど言葉どおり後頭部にはひどく戯画的な瘤がある。それを彼は『三本目の腕』でさすってもいる。無駄な使い方を…
…鉤爪の口から嘆息が漏れた。
(西洋大剣(ツヴァイハンダー)の武装錬金、アンシャッター・ブラザーフッド。本来その三本目の腕は剣を持ち替え相手の
虚を突くためのものだろうに)
「待ちやがれ鳥型! 待ちやがれー!!」
 背後から立ち上る白けの気配もなんのその、西洋大剣の戦士はガントレットで強固に覆われた両腕を駄駄っ子のように
振りながら遠ざかる玉城に吠えている。右手に握った剣──これは大人の背丈ぐらいあり、両手持ちの剣の中では最大級
のものだった──を振りかざすたび巻き起こる真空の風圧は、しかし玉城に届かない。ただ樹林が巻き添えを喰い未来の肥
料候補たる翠の器官が散るのみだ。
「だああああああああっ! 戻れ! ……畜生。駄目だ無理だ。こうなりゃ走って──…」
「待つのはお前だ。剣持真希士」
「でも! 待たなきゃアイツらが誰かの楽園を!」
 真希士、と呼ばれた戦士はクラウチングスタートの姿勢のまま首をねじ向けた。鉤爪を見る瞳には焦りがアリアリと浮かん
でいる。
「落ちつけ。防人戦士長の言葉を思い出せ」
 一瞬きょとりと大きな瞳を点にした真希士はやがて無念そうに構えを解いて地面を見た。牙噛み縛りつつも露骨に肩を
落している姿は主人に怒られた大型犬のようである。
 やがて世にも情けない声が漏れた。
「緊張と、緩和」
「そうだ。元のターゲットは殲滅されている。核鉄も手に入れた。新手はたった4体で構成員50体の共同体を殲滅したホムンクル
スどもと『1体でそれができる』鳥型」
「ん? 俺が見たのは3体……そうかこっちにも1体。……でも、鳥型が残党じゃないって根拠は?」
「俺がきたときすでにココ(共同体の根城)は蛻の空だった。いたのはイヌと鳥型だけ。他の死骸はなかった。よって殲滅さ
れたのは昨晩から今朝早くとみるべき」
「確かに。あいつら死ぬとすぐ消滅するからな」
「もしあの鳥型が最後の1体だとすると辻褄は合わない。今は昼をやや過ぎたあたり……。最後の仲間が死んだのを『昨晩
から今朝』としよう。そうすると奴は長くて昨日の晩から今まで、短くとも早朝から正午までたった1人であの4体を相手にして
いた計算になる」
「単にそれだけ強かったつーか、共同体のボスだったんじゃ」
「そうだとすればお前が鉢合わせた金髪どもの場所がおかしい」
「…………あ」
「確認するぞ剣持。お前が連中と鉢合わせたのは、俺とはぐれた付近──…つまり、中腹辺りだな?」
「あ、ああ。じゃあ確かにおかしいな。もしあの鳥型が最後の1体なら金髪どもは仲間1人だけ置いて山を下るようなマネは
しねェ。慌てた様子で登ってたけど、吹き飛ばされたって感じじゃなかった。何かこう、追っているような?」
「もちろん鳥型が最後の1体で、運良く難を逃れたあと舞い戻り……奴らの中で一番弱い者を攫ってきた。という可能性も
考えたが──…」
「たが?」
「ディプレス」
「え」
「あの鳥型、嘴をハシビロコウのそれにしたが……見えたんだ。付け根にウロボロスの刺青があるのを」
 真希士は、息を呑んだ。
「待て。ハシビロコウでウロボロスの刺青? そいつって、確か」
「9年前、我々が総力を上げ殲滅した『あの共同体』の幹部」
「ディプレス=シンカヒアだっけ」
 頷く鉤爪に「でも!」という声を上げたのは言うまでもなく真希士である。
「でもそいつ、他の幹部や『あの盟主』ともども死んだって話じゃねえか! なんでそんなんが今さら」

42 :
「そこまでは分からん。だがあの鳥型がマレフィックと同じ組織にいたのは疑いようがない。とすれば」
 単騎で共同体を殲滅する程度の実力はある。厳然と断言する鉤爪に真希士は指折って考え始めた。
「えーと。そんな奴が、4体で50体殲滅する連中に合流したってコトは……いま逃げてった奴らは単純計算で共同体2つ分
の相手なのか?」
「だな。当初の目的を達した以上、俺と貴様の2人で挑むのは『採算割れ』。金髪の言うとおり過ぎて気に食わんがな」
 正論だが真希士は納得いかないようすだ。ブンスカブンスカ首を振り言い募る。
「でも! 見たトコ何人か手負いだったじゃねェか! いやまあ確かに俺は逃げられるばかりで仕留められなかったけど!」
大仰な身振り手振りを交えながら真希士は鼻を鳴らした。やるせない。全身からはそんな気配が濃厚に溢れている。
「そいつらぐらい仕留めとかなきゃ誰かの楽園が壊される! 今からでも遅くねェ! 千歳さん呼んでヘルメスドライブで捕
捉ぐらい──…」
「携帯電話は鉤爪とともに壊されている。お前のもそうじゃないのか?」
 え、と息を呑んだ真希士は慌ててポケットをまさぐり、そして呻いた。
「野郎。オレ様が気絶している間になんてコトを」
 引き抜いた掌の上ではプラスチックや基盤の破片が液晶まみれでひしめき合っている
「それだけではない」
 観ろ、と鉤爪の戦士は腕を差し出した。最初怒り満面でそれを眺めていた真希士の表情がみるみると変じた。
「鉤爪さんの手に傷が一つもねェ」
「そうだ。奴は鉤爪と携帯電話を破壊しつつも──… 怪我を直した。衛生兵の武装錬金を出したとき、ついでに。その気に
なれば俺を殺れたのにな」
「衛生兵? 今度はグレイズィングかよ。ディプレスの仲間の。待てよ整理しよう。鳥型と金髪どもは争ってた。で、片っぽ
はディプレスの知り合いらしく、もう片方はなぜかハズオブラブ持ってる。仲間? いやでも争ってたんだよなそいつら?
なのにさっき合流してどっか飛んでった。ああもうややこしい!!」
 でっかい体の前で太い腕をよじ合わせていた真希士だが、しびれが切れたのか咆哮する。
「俺も分からんが……確かなコトは一つある。もし手負いの仲間を仕留めていればこの程度では済まなかっただろう」
「そういやアイツ、逃げるばかりでほとんど攻撃してこなかった。気絶してるオレ様にトドメも刺さなかった……
「意図はともかく、ああいう加減を知る者が一番恐ろしい。まして複数の武装錬金を使えるとあらば。それに……」
「それに?」
 鉤爪は無言で広場の端を指差した。盛り上がった地面を見た真希士は息を呑んだ。
「墓? アレなんで残ってるんだ? 鉤爪さんがわざと避けたのか?」
 まあな、と戦士は頭を掻いた。
「中には恐らく共同体の犠牲者が埋まっている。あの5体の内の誰かがやったのだろう」
 俄かには信じられなかったのだろう。真希士は墓を指差したままたっぷり30秒ほど硬直した。やがて鉤爪めがけねじ向け
る首の動きもぎこちなく、「ぎぎぃ」なる軋みさえ帯びていた。
「ホムンクルスがか?」
 ホムンクルスにとって人間は食料にすぎない。人間がチキンの骨や魚の臓物を三角コーナーに捨てるようなコトを、ホム
ンクルスは野山に実行する。真希士の戦士人生はそういう洗礼──喰いカスを旅客機(いれもの)ごと岐阜の山中に堕と
すような──から始まってもいる。ホムンクルスが埋葬? 真希士の表情に怒りとも驚きともつかぬニュアンスがみるみる
と広がっていくのを鉤爪は険しい表情で眺めた。
「本来なら考えられないコトだがな」
──「不当に歪められし只の少女を囮にしてまで我が身の安全を謀ろうなどとは思わん!」
──「なぜなら我は──…」
──「人間だからだ!!」
(…………)
 すでに治っている手首だが平癒前、実感があった。筋や神経、破れば決定的な後遺症が残る部分が『避けられている』と。
「もしかしたら、今の連中も楽園のために戦って……? いやいやいや! ンなコトはねェ! ホムンクルスは悪だ!
「まったくだな。いかな理由があれホムンクルスは狩るのみだ。戦士はそれ以外を考えるべきではない」
 鉤爪は鼻を鳴らし、踵を返した。
「……だが一旦引くぞ。当初の目的は総て果たされている。奴らを追跡するか否かは大戦士長の裁定次第だ。我々は戦
部や根来どものような奇兵とは違う」
 戦士たちは歩きだす。裾野に向かってゆっくりと。

43 :
.
「ところでお前、本当に大丈夫か? 頭の傷は後からくるぞ」
「タンコブ以外は問題ナシ!! といいたいとこだけど少し痛い。あーでも頭痛っていうか、髪抜かれたような……」
 戦士たちから遠く離れた、森の中。
 「フ。不意の遭遇、少々難儀した。しかしおかげで新しい武装錬金が手に入った。西洋大剣か。……大剣。嫌な記憶が蘇
りもするが、使い勝手やなかなかに良し。……フ」
 シックな意匠の大剣を軽やかに振り回す総角に一通り賛辞の言葉を述べた無銘は、視線を切り替え、盛大な溜息を玉城
へついた。
「……情けない」
「だって……流石に4体は……重い……です。なのに……40kmほど……飛びました」
 過積載のせいですっかりバテバテらしい。玉城は臆面もなく地面に突っ伏していた。
(こうして見ておりますと)
(単騎で僕たち全員と互角にやりあったとは思えない!)
 玉城はグルグル目でへあへあと息をついていた。見ればナルト入りのラーメンが食べたくなる、そんなグルグル目だ。
そんな眼差しで妙な抑揚のついた呻きをひっきりなしに漏らす少女はちょっと攻撃するだけですぐ斃せそうだ。隙だらけ。
緩み切っている。まったく以て頼りない……顔を見合わせた小札と貴信、複雑な溜息をついた。
「また回復してやりたいが、あいにく俺のハズオブラブは同じ相手を1度しか癒せない。その制約さえなければ小札も栴檀
どももすぐ治療できたのだがな」
「我は武装錬金の形状ゆえああまで重傷を負ったコトはない。だが今回の一件でもはや2度と回復できん」
「…………すみません。私の……せいで……あぅ」
 力なく面を上げた玉城の体が揺らめいた。と見るや細い上体がくらあっと後方に向かって沈んでいき、盛大な音を立てた。
(ですから、その)
 小札は思わず頬を掻いた。平素の実況癖で述べるなら「何というギャップでありましょう」というところである。
「痛い……です」
 運悪くそこにあって運悪く強打したのだろう。玉城が大きな石を枕に目を回している。集団幻覚。一同は玉城の頭頂部で
グルグル追いかけっこする三匹のヒヨコを確かに見た。
「ったくもー。何さこいつ。戦ってないとまるでだめじゃん」
 ほら立つじゃん。腰を屈めた香美に抱き起こされる間にも「うぅあぅあああ〜」……ガッスンガッスン首を振りまわすコト4分、
やっと着座した玉城光であった。
 白い膝小僧をちょんと揃えて女の子座りする彼女は──ゾンビよろしく生気のない目で頭をふらつかせているのさえ無視
すれば──なかなか可憐な様子である。文句ありげなチワワも急に口をつぐんでいる。
(フ。一瞬見とれたな無銘)
 笑う総角の先でゾンビの首の揺れが強まり始めた
「あ……でもぉ……どうして総角さんはぁ……グレイズィングさんの武装錬金を……あいた……使える……のですか?」 
「むかし色々あったのさ」
「そうですかァ……あ……なんだか……話したくないようなので……これ以上は……きき……痛……ききませ……」
「それはともかく、だ。お前の事情はだいたい分かった」
「そーじゃんそーじゃん! なんつーヒドいやつじゃんあんたのねーさん!」
「なお注釈! 鳥型どのの経緯と不肖たちの自己紹介は移動中に終わっております! ついでに核鉄と武装錬金に連関性
に於きましてもすでに説明済み! 以下はその前提にてお読みいただきたく思います次第!」
「えーと」
 虚ろな視線が泳ぎ始めた。勢いよく意味不明な言葉を巻き散らかす小札と腕まくりする香美を持て余したのだろう。
「あんたのねーさんさ! あんたのねーさんさ! あんたの体ヘンにするとか考えられん! ひどいじゃん! 可愛そうじゃん!」
 玉城はおそるおそる手を上げた。
「実は……その…………ホムンクルスで……いろいろ変形できるのは……悪く……ないです。むしろ、好きです」
「はい?」
 目を剥いたのは小札である。
「だから……だからその……私は……ロボットとか好きなので……いろいろ変形できるのは……カッコ良くて……好きです」
 無言の微笑を浮かべる総角が「わーお」と肩を竦めた。
「いつか合体も……したい……です」
「合体はやめろ! あまり大きな声で言うな!」
「フ。どうしてそんな必死なんだ無銘?」
 歌うような調子でからかう総角を玉城はつくづく不思議そうに見た。
『あまりつつきたくはないが! 貴方は5倍速の老化についてどう思う!?』
 虚ろな表情が更に暗くなった。

44 :
「それは……嫌…………です。私だけが……あっという間に……お婆さんなのは……嫌、です」
『だろうな!!』
 ひどい大声だ。香美の後頭部にいる貴信。簡単な説明は聞いたがまだ構造はよく分からない。
 ただ、青空と貴信が出会ったら、間違いなく姉は逆上する(彼女のもっとも嫌いなタイプ)であろうコトは理解できた。
「しかしいくら伝えるためとはいえ、サブマシンガンを用いる是非につきましては不肖も眉を顰めざるを得ない訳です。年端
も行かぬ女のコにあのような……ううう。期せずして漏れ出でる万斛(ばんこく)の涙、不肖には止めようがありませぬ……」
「あ……いえ……最近は……サブマシンガンでは撃ちません……」
 なんと、と涙ぬぐうハンケチが止まった。その横から躍り出たネコ少女は鋭く叫んだ。
「じゃあなんさ。なに使ってあんたいじめるのさ!」
「いじめる……というか……伝える……です」
「があああ! あんたのしゃべりかたさ! あんたのしゃべりかたさ! なんかノロい! もっとパッパとやるじゃん!」
「ピコピコハンマー……です」
 返事になっとらんじゃん。齟齬にイライラと目を細める香美を見た瞬間……玉城は決めた。
(実演しか……ありません)
 そして無銘を抱え。
「こう……何か伝えたい時は……
 チワワの頭を自分のそこにぶつけて、
 一言。
「ピコッ」
 
「……って……叩きます……」
(もしや天然?)
(天然ですねコレは)
「つーかぴこぴこはんまーってなにじゃん! あたしはそこがわからん!」
「ピコハン……です」
「ふみゃああああ! 略されると余計わからんっ! つーかさつーかさつーかさ! あんたとあたしかみあわん! 絶対!」
「でしょう……か。無銘くんも……そう、思いますか」
 ピコハンの代替物に意見を求める。だが彼は目を白くして本気で唸っていた。
「わぁ」
「……我を使うな。というかこの期に及んでまだ姉をかばい立てするか」
「ごめんなさい……です。でも……本当……です。ドーナツだって……作ってくれますし…………怒ってない時は……割と
……優しいお姉ちゃん……です。ここにくるちょっと前に……こんなのだって……くれました」
 無銘を地面に下ろした玉城は、ポシェットから何かを取り出し、総角に見せた。端正な顔に好奇と驚きが広がった。
「バンダナと……リボン、か」
 それぞれ布製。順に純白と黄色である。
「はい…………女のコだからお洒落した方がいいって……くれました。この服を選ぶ時だって……ファッション雑誌をたくさん
……買ってきてくれました……。ゲームだって結構……買ってくれました……。いっしょにドカポンやって……2人でコンピュー
タの人いじめるのは……楽しかった……です」
対戦もしました。私が勝っても「光ちゃんスゴいねー」って褒めるだけでした。
……などと玉城はいうがこれはまた別のお話である。
 とにかく、話がズレている。
 総角は咳払いした」
「とにかく本題だ。俺たちの仲間にならないか?」
 この世の誰を敵に回しても大丈夫さ、そんな感じの笑みをたっぷり浮かべながら、総角は虚ろな目の少女に呼び掛けた。
「それにだな。様々な鳥になれるというお前の特異体質はまだまだ伸びしろがある。俺の元にくればいま以上に強く、多くの
鳥に変形できるようになるが……フ。女のコへの勧誘文句にしては少々武骨かな?」
「ほう! ほう! ほたらようけの鳥さんになれよん!? ほんなんええなあ!」
 急に叫んだ玉城は勢いの赴くまま総角の肩を掴み(精一杯背伸びをして)、彼を揺すり始めた。
(予想外に喰いつかれておりますーっ!!)
(つーかなんの言葉よアレ)
(ハハ! 伊予弁だな! むしろあれが本来の姿だ!)

45 :
「ねーがいよるのは最大とか最速とか大きなあ奴ばっかでどもこもならん! うん! いかないっ! わしはもっとじゃらじゃ
らした鳥さんになりたいんよ。とーからほー思っとんよ。でもねーは大きなあ奴ばっか!」
 玉城の声は一段と跳ね上がる。いつしか彼女は輝くような笑顔を浮かべこう叫んでいた。
「わし、もっとじゃらじゃらした鳥さんになりたいんよー。南米とかアマゾンにおる、キョロちゃんみたいな鳥になりたいんよー!」」
「……伊予弁になっているぞ。せめて意味ぐらいは説明しろ」
「え?」
 無銘の指摘に玉城はようやく止まった。後はまあ俯いてぶるぶる震えて「今のは忘れて下さい」の赤面歎願である。
「…………興奮すると、地が出るのか?」
「出ないよう……気をつけ、ます」
「というかそちらこそが本来の姿だろう! なぜ今さら恥ずかしがる!」
「その…………そうなんですが……お姉ちゃんのせいで……なぜか……恥ずかしい、です」
「だあ! わけ分からん!!」
『もしかすると変形能力を使いこなせているのは変身願望のせいかも知れない!!』
「成程、です。ちなみに……じゃらじゃらというのは……『フザけた』という……意味、です。南米とかアマゾンにいる……
キョロちゃんみたいな鳥に……なりたい、です。とーからほーは『前からそう』、です」
 フ。じゃなく、う。そんな音声が総角から洩れた。呆れているらしい。
「望まずして変形能力与えられた割にはノリノリだなお前」
「……で、仲間になるかどうかの話……ですが、一旦、お姉ちゃんのところへ帰ってから決めたいと……思います……」
「ほう」
「一度……じっくり話をしてみたい……です。その上で……決めます」
「ケジメ、という訳か」
「はい。お姉ちゃんはたった一人の家族だから……何もいわずに別れたく……ないです」
「貴様! 何をいっている!」
 無銘は怒った。
「傷を治してくれた師父への謝意というものはないのか! だいたい戻ったとして姉が頷くとでも思っているのか!」
「いや、その選択もアリだろう」
「師父!?」
「落ちつけ無銘。あれは進歩だ。ただ黙って従ってた時よりは確実にいい方向に向かっている」
「ですが師父! 戻ったとして他の幹部どもが出てきたが最後、奴は確実に!」
「フ。やけに心配しているようだがそれはどうしてだ? 惚れたか?」
「ち!! 違います師父! 奴は我が達した任務の一部! それを今さら死なせては任務にて負った傷が無駄になるから
心配しているだけのコト!!」
「ま、そういうコトにしておくさ」
「では……行ってきます」
「おう行ってこ……ぬええ!? ちょ! 待て! 我の話ぐらい聞けえええええええ!!!!!」
 もう何もかもが遅かった。翼を広げた玉城はぎゅいんと飛び去り遠い空で豆粒になっていた。
「大丈夫だ。アイツは強い。何とか切り抜けて帰ってくるだろう」
「つーか」
 ジト目の香美に総角はギクリとした。
「あたしらがついてってあのコのねーさんに「仲間にしたいけどいい」って一緒にきく方が安全じゃん。なんでそれしなかった
のさ」
「フ。そろそろご飯の時間にしよう。出でよレーションの武装錬金……」
 震える声で缶詰を出した総角に溜息が洩れた。追おうにも玉城の姿は遥か遠く。追跡は不可能だった。
「戻ってくるのを待つしかありませぬ。ところでどれくらいでありましょう?」
「そうだな。往復と戦闘こみで2日ってところかな」
 予想に反して2時間後、玉城は帰ってきた。
「ただいま……です」
 戦闘休止後というコトもあり、ブレミュ一同は車座に座って食事を取っていた。缶入りのレーション。それを食べていた一同
の動きがピタリと止まる。代わりに針のような視線が総角に刺さった。何が2日だ24分の1で片がついてるそれでもリーダー
か……みたいなトゲの成分に耐えかねたのだろう。悠然と、極力焦りと怒りを抑え込んだ様子で悠然と立ち上がった総角は
輝くような笑みを浮かべた。
「フ。さすがはお前。俺の予想を遥かに上回るとは」
「いえ。お姉ちゃんのいるところが……分からない……だけ、です。ここに戻ってこれたのも……奇跡……です。おいしそうな
匂いがしたので……きたら……無銘くんたちが……いました……」
 総角の背中を極北の風が撫でた。
「あ、凍ってるじゃん」

46 :
「凍っておりますね。気取っておりますが基本は中間管理職ゆえにや仕方無きことなのです」
「それはともかく、だ」
 もはや氷像か何かの如く静止した総角の足もとでチワワ、厳しい目線を上げる。
「貴様、方向音痴か?
 玉城は、むくれた。
「違います。帰り道が……分からないだけ……です」
「それが方向音痴だというのだ!」
「いいえ。ちょっと遠いから……分からない……だけです」
「あっちは」
 無銘は北を指差した。わかります。玉城は力強く頷いた。
「西……です……!」
「方向音痴ではないか!!」
「違うって……いってます……分からず屋な無銘くんは……嫌い……です」
 とうとうプイと顔を背けた赤髪の少女。少年忍者の怒りは高まる一方だ。
「どっちが分からず屋だ!」
「それは……絶対…………無銘くん……です……!」
「ちなみにいつもはどうしてたんだ?」
 と質問したのはようやく解凍された総角である。
「お姉ちゃんが……付添い……でした。基本何もしてくれず見ているだけでしたが……仕留め損ねた相手を……探してい
たら……物影、で……
「人の妹に傷を付けるなんて考えられないあははうふふ覚悟はいいただやられていればいいだけの雑魚さんたちがあがく
なんて考えられない大人しく光ちゃんに殲滅されてればいいのにねあはははは死んで死んでうふふふふふ」
とか笑いながら……喉を千切っては投げ……喉を千切っては投げ……声帯踏みにじって……いました」
「怖いわ」
「ボルテージが上がると……」
「どーちーらにしようかなキキッ! キキキ! って私はしゃぎすぎね落ち着きましょうそうしましょう」
「あほ毛で太鼓をたたいてドンドドンやって……相手を決めて……ぐしゃぐしゃにして……ました」
「だから怖いわ」
「でも……手当……してくれました。包帯とか……オロナイン塗って……痛いの痛いの飛んでけーって傷をさすってニコニコ
してました……。その顔を見ると……痛みも……和らぎました……。お姉ちゃんは……怖いけど……優しいところも……
あるのです」
「貴様は暴力亭主を持つ妻か! かような優しさなど貴様を隷属させるための方便!」
「フ。どうかな。案外、怒りも優しさも心からの物かも知れないぞ?」
「師父」
 濡れ光る黒瞳の遥か上で窘めるような声が響いた。
「純粋な悪などいないさ。所業が悪に見えたとしても、どこかで人間らしい優しさを他人に振舞いたいとも願っている。感情
と言うのはそういう物。単純な『枠』に嵌めようとするのは……まあやめておいた方がいい」
「例えそれがこいつの姉の仲間の……我々に歪みをもたらした連中だとしても、ですか?」
「まあな。……フ。だからといって戦わぬ理由にはならん。忌むべき循環は断ち、根源もまた滅ぼさなくてはならない」
 師父がそうおっしゃるなら。無銘がしぶしぶ引き下がるのと引き換えに今度は小札が質問を始めた。
「ところで、アジトまでの地図は?」
「機密保持とかで……ありません……」
『なら! 君の姉に電話して迎えに来てもらうか!?』
「馬鹿が。そもそもこいつが携帯電話を持っているかどうかさえ──…」
 玉城はポンと柏手を打った。
「電話なら……あります。山の頂上へ行く時……ナビ……してもらいました……あ……でも……ナビして貰わなくても……
私は絶対……行けました…………お姉ちゃんがどうしても……っていうから……させてあげた……だけ、です」
(ウソつけ)
(フ。なんで微妙に上から目線なんだ)
(現に貴方は帰り道でナビ使わなかったせいで迷っている!)
 ちょっと待って下さい。玉城がポシェットに手を伸ばしかけた瞬間。
 その白い蓋が、震えた。

47 :
 誰かが息を呑んだ。風は吹いていない。玉城の腕もまだ10cmほど上にある。にもかかわらず蓋はゆるゆると隆起を始め
ている。蓋は──…内側から開いている。いや、開けられている。盛り上がった蓋の頂点が緩やかに凹み、布を殴りつける
乱暴な音とともに膨れ上がった。蓋はマジックテープかボタンで堅く留められているのだろう。俄かに開く気配はない。だがそ
れが気に障ったとみえ、蓋を叩く音はますます多く、そして大きくなっていく。
 総角に目くばせされた玉城は蒼い顔で首を振った。知らない。何が居て何をしようとしているか──…知らない。紙のよ
うに白い顔がポシェットの紐をくぐり抜けた。恐怖に駆られたのだろう。ポシェットを放り投げ総角たちめがけ駆けだす玉城。
 ばし。
 彼女の後ろで何かの爆ぜる音がした。振りかえる。雲の切れはしを思わせる白い鞄が爆炎を吹いている。衝撃で加速した
のか。7メートルほど先にあるブナの太い幹に衝突し、内容物がバラバラとブチ撒かれた。
『開いた蓋』
 そこにぼっかりと開く深淵、プラモ雑誌の先々月号やらプラモの箱やらが乱雑にはみ出す深淵から黒い煙がもうもうと立
ち登っている。鼻を焼く嫌な臭いがした。「火薬?」 入れた覚えはない。馴染みもない。嗅覚を灼く匂いにおもわず鼻を押さ
える。踵を返す。すでに並んだ総角たちはめいめいの武器を構え油断なく辺りを見渡している。
『開いた蓋』
「そこから何が飛び出した? いったい何が、どこへ……?」
 玉城を守るように立ちはだかった兵馬俑が独り言のようにごち、
「居たじゃん!」
 香美の鋭い叫びに視線が動く。木の枝。距離にして10m。高さにして3m。彼らからそれだけ離れた枝の上に『それ』は
居た。
「これは──…」
 玉城は息を呑んだ。『それ』は一言でいえば人形だった。2〜3歳の子供でさえ胸に抱えて歩けるほど小さな人形。平たく
言えば3頭身で、体のあらゆる部位は「子供受けを極力良くしたい」、そんな意気込みのもと極端にデフォルメされていた。
指を排した手足は無害極まりなく丸く、フリフリしたワンピースは簡明なあまり安っぽくさえもあった。だがそんな服がお気に
入りで幸せなのとでもいいたげにその人形はにっこりほほ笑んでいた。
 誰でも描けるような顔だった。クレヨンを握ったばかりの2歳の子でも寝たきりの98歳のおじいさんでも、「見ればすぐ描
ける」。そんな顔。口は笑みに綻んだ曲線1本だけで表され、目に至っては「点」を打っただけのシンプル極まりない形状。
それ以外は髪以外何もない顔だった。眉毛も鼻も耳もない。フワフワとしたウェーブの掛ったショートヘアーの下で、その
人形はただひたすら標識のような笑顔で総角たちを見降ろしていた。
「あ……」
 10本の視線が人形の右手に集中した。玉城はようやく彼女(?)の目的を理解した。綺麗に畳まれたプラスチック性の筐
体。それが人形の右手にピットリ吸いついている。
『あれはまさか!!』
「はい……私の……携帯電話、です」
 人形の頭頂部で何かが動いた。毛だ。ひたすらに長い触角のような毛がピロピロと触れた。固定的な笑顔。そこから思考
を読み取るのはひどく困難な笑顔。そんな人形が何かを投げた。注視していた総角さえ一瞬何が起こったか把握できなかった。
意識が玉城の携帯電話に移った刹那の隙に”それ”は実行されていたらしい。
 夥しい数の棒が飛んでくる。数は10や20などという生易しい物ではなかった。おろしたての徳用マッチ箱30ダース全部すっ
からかんにするほど遠慮斟酌なくぶっちゃかさねば再現映像は作れないぐらい、徹底的に飛んでいた。
 棒。 棒。 棒。
 棒。 棒。 棒。
 棒。 棒。 棒。
 視界の総てを席捲する全長40cm弱の棒ども。その尖端で黒光りする缶詰を見るや総角は叫ぶ。
「ポテトマッシャーか!!」
 M24型柄付手榴弾の群れが爆発した。1個当たりのTNT火薬使用量は170gというが総計どれほど炸裂したか分からない。
 ドーム状の炎の膜が森の一角を焼きつくした。むせ返るような熱量は夏の風を呼び戻しているようだった。
 人形はその様子を遠くの青空にほわほわ浮かびながらしばらく眺めていたが──…
 やがていずこかへと飛び去っていった。

48 :
 以上ここまで。過去編続き。

49 :
>>急襲さん
さあ、遂に来ましたメインヒロイン! 原作は僅かしか知りませんが、普段の彼女からは想像
つかないぐらいのシリアスモード! 「否定してやる」といえば斉藤vs剣心戦を思い出します。
あの時は結局、まんまと否定されて人斬りにもどってしまってましたが、さてイカちゃんは?
>>スターダストさん
無銘の男の子っぷりにはいつもニヤニヤさせられます。女の子に見惚れ、女の子に照れ、
女の子に意地を張り、女の子を守って戦って。一方、鉤爪氏の冷静・合理っぷりもかっこいい
ですねえ。相棒がアレだからまたいい対比で。私の頭の中ではほぼ完全に根来になってます。

50 :
.
 数十分後。森の一角は異様な変貌を遂げていた。
 何もかもが、凍りついていた。葉の燃えカスも炭となるまでコンガリ焼かれた木も全て氷に包まれていた。
「忍法薄氷! 炎自体の直撃をもりもりさんと貴信どののW鎖分銅で咄嗟にいなした直後、無銘くんの自動人形で辺り一
面構わず凍らせ消火したのであります! 見まわったところ延焼の心配もございませぬ!」
 説明御苦労。そういいつつ総角は前髪をくしゃりとかきあげた。 
「……フ。どうやらあのポテトマッシャーは『普通』の物。武装錬金ではないらしい」
「ゆえにホムンクルスの不肖たちを斃すコトあたわず。結構な爆圧こそ浴びましたが、致命傷とはなりませぬ。……ですが」
「があぁ! せっかく見つけたのに目くらましされたら追えんじゃん! やっぱあの人形おらんし!」
「恐らくあの人形は武装錬金。我の兵馬俑と同じ自動人形。爆発で我たちの眼を晦まし、その間に飛んで逃げた、か」
『目当ては最初から携帯電話! あれを持ち去るためポシェットに潜んでいたらしいな!』
「確かに…………私のポシェットは……いろいろ……入りますが……」
「問題はあの人形が誰の武装錬金かというコトだ」
 男性にしては綺麗すぎる掌が華麗に翻り、玉城を指名した。予想を述べろ。それはたぶん当たっている。物腰は十分す
ぎるほど雄弁に総てを物語っていた。
「まさか……」
 人形は、似すぎていた。柔らかなウェーブのかかる短髪。そこから延びるアホ毛。更に……笑顔。
 情報は総て回答に直結している。
「まさか、お姉ちゃんの……!? そんな……! サブマンシンガンの筈じゃ……!?」
 武装錬金の知識については先ほど移動中たっぷり仕込まれている。大前提は1人につき1種類の武器だ。多数の武装
錬金を扱える総角でさえそれは『認識票の武装錬金』の特性あっての話だし、他の小札や貴信、無銘に至ってはそれぞれ
ロッド、鎖分銅、兵馬俑といった1種類の武装錬金しか持っていない。では青空のそれは? ……サブマシンガンしかない
だろう。折に触れ彼女はそう仄めかしていた。
「あの人形が……お姉ちゃんの……武装錬金の筈は」
「フ。世の中には自動人形付きの弓矢の武装錬金もある。サブマシンガンがそうでも別段不思議じゃないだろう」
「そーいえばあの方もお姉さんだったような。むむ。お姉さんあるところ自動人形ありなのでしょーか!」
「誰の……コト……です?」
 知り合いのコトさ。総角は肩をすくめ小札も「またいずれ語る機会がありましょう」と締めくくった。
「しかしなんたるコト! 携帯電話が持ち去られるとは! せめて爆砕であれば不肖の武装錬金で繋ぎ合せデータ復元が
望めたかも知れませぬのに!」
「何にせよ、だ。携帯電話を持ち去られた以上、お前が姉に連絡するのは不可能だろう」
「……お姉ちゃんも…………私の位置を……突き止められなく、なりました」
「むむっ! 電話番号ぐらいなれば暗記しているのでは!?」
「いえ……ボタン1つでやってたので……分かりません……」
「で、ここからどうする? 1人で彷徨ってみるか?」
「いえ、仲間になります」
 言葉も終わらぬうちに玉城はきっぱりと断言した。
「決断早っ! 早すぎじゃん!」
「なんか……楽しそうです。だから……入ります」
『ははっ! ここは部活か何かか!』
「チワワさんたちの……事情は……よく分かりません。でも……お姉ちゃんの仲間を追っているよう、です。じゃあ一緒にい
る方が……お姉ちゃんと会える確率が高そう……です」
「じゃあ名前は『鐶』に改めろ。字はこうな」
 刀も筆に凍土へ刻まれたその文字に玉城は首を傾げた。
「『環』では……ないのですか? かねへん?」
「そ。かねへん。確か漢検1級配当文字だ。難しいが我慢してくれ」
「わかり……ました。お姉ちゃんと再会して、5倍速の老化を治すため……仲間に……なります。よろしく……です」
 違和感がある。無銘の顔がやにわに曇った。しどろもどろ、やっと答えたという感じの鐶。そんな彼女が自分の横に座っ
た瞬間、違和感は頂点に達した。遠慮がちに座り込んだ彼女は……無銘を見て、笑った。悪戯っぽい、小悪魔のような笑
みを浮かべて──目だけは相変わらず屍のように薄暗いが──唇の前に人差し指を立てたのだ。
「????」

51 :
 意図が分からない。何か隠し立てをしているようだが、なぜそれで笑うのか。本音を隠す傾向なのは先ほど理解した。だ
が姉との関係性に踏み込まれた時のような阿り、相手に迎合して身の安全を図ろうとするような態度はまったく見受けられ
ない。むしろ無銘にだけは本音を伝えたがっているように見えた。
(何を考えている貴様。師父を害する意思はないゆえ怒鳴りはせんが……腹立たしい)
 剣呑な顔つきで一瞥を呉れる。微笑がはにかみに変わった。変じれば如何なる化け物をも処断できるたおやかな手が2つ
無銘の脇に滑り込んだ。
(……秘密の共有…………です)
 耳元でささやく可憐な声に、少年のあらゆる感性は麻痺した。自分が持ち上げられているという実感も、耳元に色素の薄い
唇が接近してボソボソ呟いているという認識も消し飛んだ。「ほぉ〜」。冷やかしとも驚きともつかぬ声が総角たちから上がっ
たが、それも無銘の意識の外。
(……お姉ちゃんを助けたいっていうのは……無銘くんと私だけの秘密に……したい……です。他の人には……軽々しく話
したく……ない、です)
 花でも嗅ぐような仕草だった。鐶は鼻先を無銘の耳先すれすれにつけるような状態でボソボソと喋り出した。声は小さい。
傍観する総角たちには何をいっているか聞こえない。
「きく? あたしなら何いってるかききとれるけど」
 ネコミミを指差す香美に総角と小札は首を横に振って見せた。『そういうコトだ!』 貴信の声とともに香美の手が三角形
の聴覚器官を覆い隠した。飼い主の配慮であろう。
 もはやこの世界で無銘を緊縛しているのは鼓膜の蠢動のみであった。温かな潤いを帯びた声が天幕状の耳に響くたび、
もぞもぞとした名称不明の感覚が全身を駆け巡っているようだった。喋る前に響く湿った音。桃色の味覚器官と口腔粘膜
が擦れ合う「ぷちゃり」という艶めかしい音。すぐ近くで聞こえる少女の確かな息遣いは耳ならず顔の周囲さえ覆っているら
しい。明敏極まりない嗅覚が途轍もない芳しさを脳髄に登らせ、理性を一段と破壊する。
 そんな無銘をぬいぐるみよろしく地上に置いた鐶は。
 ふいっと首を横に曲げ、長くて赤い三つ編みを揺らめかしながらまた笑った。
(それが……無銘くんが……教えてくれた……これからを……大事にする……約束、です)
 照れくさそうで恥ずかし気でちょっと寂しそうな……それでも前に向かって進もうとする明るさを精一杯捻り出したような
とびきりの笑顔。
「だから。無銘くんが、人間の姿になる手伝いを……したい……です。力になりたい……です」
 言葉の意味をやっと理解したばかりの無銘はただ茫然と笑顔を眺めた。
(……どういう顔をしてやればいいのだ。我は)
 顔を落とす。
 何をいえばいい? 考えても考えても分からない。
 後でこっそり「2人で一緒に姉を助けよう」などと言える柄でもない。視線を外し拳を固める。申し出を断る? 否。頭を振
り葛藤を断ち切る。笑顔と好意の申し出を拒絶で返すのは人としてあるまじき事。」
 意外だが実は忍びには「人の心を絶対に傷つけぬ」不文律がある。
 任務上関わる人間の名誉や自尊心を傷つければどうなるか? 彼らは2度と協力をしない。利用しようにも猜疑心を抱か
れ、思うようには扱えない。
 されば目的達成は困難になる。どころか報復などされるようになれば命さえ危うい。
 よってほどよくおだてたり物品で釣るコトに重きを置く。恫喝や裏切りは決していい手段とは言い難いのだ。
.

52 :
 しかも無銘は鐶を利用したいとは思わない。かといって協力を仰げるほど素直でもない。チワワの体で一生懸命やって
きたという沽券みたいなものとコンプレックスが「手伝ってくれたら嬉しい」みたいな謝辞を述べられなくしている。
 などと悩む間にも鐶の表情が曇っていく。虚ろな瞳の中で寂しい風が吹き、小雨さえ降る気配がした。ああ、こいつは姉に
撃たれている時こういう眼をしていたのではないか──? 脳裏を過るそんな想いに無銘は胸が痛むのを感じた。
(我も同じなのだ。師父や母上に拒絶されれば……平静ではおれん。まして他の者に狙われ、命が危機に晒されれば……)
 総角はともかく小札は本当に危ない。だから守りたい。誰かに殺させたくはない。鐶もそれは同じなのだろう。たった1人
残った家族。姉。彼女を助けたいという思いは分かる。
(例え体が化け物でも心は人間。それは我も貴様も同じ。家族を大事にしたいという想いは同じなのだ)
 そんな相手を突き放すような真似はしたくなかった。
「……協力を強制するようなマネはせん。だが話ならばいつでも聞いてやる。それが約束だからな」
 不貞腐れたような顔でそっぽを向く。視界の端で虚ろな笑顔が花咲くのが見えた。
「だからビーフジャーキーを定期的に寄越せ。いいな?」
「はい」
「だが勘違いするなよ! 報酬ある限り何でもやってのけるのが忍びだ! 我はその原則に従っているだけだ! 貴様に
同情している訳でもなければ、慣れ合うつもりもない! その辺りは踏まえておけ!」
 徹底的に無愛想な声音を作って投げつける。それしかできそうになかった。
(柔らかい言葉など吐けるか。我が身の事さえどうにもできず、窮々としている我が)
 そんな自分がひどくややこしくて歪んでいるような気がして、無銘は腰に手を当て鼻を鳴らした。
「はい……!」
 でもそんな態度が鐶は本当に本当に嬉しかったらしい。また輝くような笑みを浮かべ、焦げたポシェットめがけまっしぐら
に駆けていった。
(そもそもどうして貴様、ポシェットにビーフジャーキーを入れているのだ)
 後で知ったコトだが、そのビーフジャーキーは人の肉で出来ていたらしい。おやつに、と青空が鐶に渡したそれを、無銘が
食べた。真実を知った無銘が「人肉をビーフと偽るな! 死者に何たる無礼を!」と本気で怒鳴り散らすのはやや先の話。
(フ。甘酸っぱいにも程があるだろお前ら)
(なんというか青春であります。メモリアル)
 木陰から首出しつつ総角と小札はフクザツな表情を浮かべた。なんかもう無銘と鐶はつくづく不器用なんだが根底では通
じ合ってしまっているような気がした。未熟。だがそれ故に純粋。そのアンバランスさは一言でいえば「くっはぁー」だった。
 まるで一緒に恋愛映画視聴中の夫婦じみた表情の総角と小札──往時を想いペアルックのような照れ臭さを浮かべて
いる──の反対側の木陰からメッシュありありのセミロング少女が「ワケわからん」という表情で顔を出した。
(つーかなんであたしら木の陰にかくれてるのさご主人? あのすっとろいのときゅーびもワケわからん雰囲気だし)
(気を利かせた! あまり冷やかしたら無銘が可哀相だろう! 彼は彼なりに身を張って任務を果たし少女の尊厳を守った
んだ! 新参新参と僕らを見下す少年だが、命がけの結果を無為にしていい道理はない!!」)
(いや、ようするにさ。あいつらどっちも相手が好きな訳じゃん?)
 思わぬ意見に香美以外の3名は息を呑んだ。
(そうか。無銘の奴、鐶が──…)
(おおお。ついこの間まで赤ちゃんだった無銘くんがとうとう……恋を!? ああ、月日の流れは何と早いものでありましょう)
(貴方達は親丸出しの反応だな!)
 当事者たちは木陰の総角たちにまるで気付いていない。こっそり移動したコトさえ知らないのだろう。
 そんな彼らにつきだす指を上下に激しく揺らめかし、香美はまだまだ質問する。
(何で好きなのに甘えたりすりすりしたりせんのさ? そこが分からん。きゅーびは威嚇しまくっとるしすっとろい方は威嚇さ
れてよろこんどるし……だあもうワケ分からん)
 この少女に恋愛は無理だ。絶対。金髪剣士もおさげ少女も飼い主も、悲しい気分で溜息をつくしかなかった。
(元がネコだから……ネコだから、なあ!)
 即物的で機微も何もありゃしない。貴信は密かに泣いた。

53 :
.
(でもいつか体を元に戻してお婿さんを迎えてやるんだ! それが僕の宿願なんだ! あと恋人欲しい!!)



「とにかくだ! 鐶! お前が副リーダーな!」
 ポシェットを拾い上げたばかりの鐶が「え?」と目をはしはしさせた。意味がよく分かってないらしい。
「師父!?」
 正気ですか加入したばかりの者に……叫ぶ無銘に総角は「うむ」と精一杯の威厳を込めて頷いた。
(ちなみに数瞬前まで出歯亀のよーなコトをしていたのはご愛敬!)
 小声でポソっとフォローを入れる小札に後押しされたのか、彼はなんかこう「遅れてやってきた真打」みたいな様子で腕を
広げカツカツと歩き始めた。目的地はむろん鐶である。
「何しろこいつはとてつもなく強い。育てれば俺の次ぐらいにはなる。実力から行けば順当な配置だろう」
「鐶。総角付きの鐶。成程そのつもりで改名を……いやいや! しかし師父!? こやつ、戦闘以外ではまっっったく!」
 ぽやーっとした表情で「いまこそ出てくださいビィィィフジャアキー♪」とか何とかGONGの替え歌を口ずむ物体が指差された。
「う」
 総角は言葉に詰まった。
(困っております困っております)
(確かに……日常生活ではダメな子だな!)
 貴信は汗を垂らした。ポシェットに顔を突っ込んで「ビーフジャーキービーフジャーキー。ビーフ……ジャーキー!」と連呼し
ている鐶が見えた。なんで頭が入るんだろう。ここから72時間ずっと考えたほどの疑問だった。さっき人形が投げた莫大
な数のポテトマッシャーもポシェットに収納されていたのかも知れない。
「フ、フ。いやまあまだ7歳だし? 世間に慣れてない部分は見逃そう。古人に云う、角を矯めて牛をRだ。些細な欠点
に拘って本当の良さを殺しても仕方ない。こういうコは実力よりちょっと上の役職を任せて全員でフォローしてやれば、す
ごくいい仕事をしてくれるものだ」
「じゃーさもりもり。まずあんたがフォローするじゃん」
「ん?」
 無表情で指を突き出す香美を一瞥した総角、その指し示す物を不承不承追跡した。
「抜け……ません。プラモの剣が……鼻の穴に刺さって……抜け……ません」
 袋を被せられたネコよろしく、ポシェットに頭を突っ込んだままジタバタ後ずさる鐶を見た瞬間。
 端正な金髪剣士もこの時ばかりは愕然と顎を開き、鼻水さえ垂らした。流れるような金髪もところどころが綻び、雑然と跳
ねた。
「せめてもう少しまともになってから副リーダーをさせるべきでは?」
 足元で囁く無銘などいないように総角は全身を震わせ、そして叫んだ。
「馬鹿っ! ヒラでダラダラやらしたらこいつはもっと悪くなるだろ! 腕力満載の野放図な天然がその自覚もなしに実力だけ
高めていったらどうなる! 考えろ! なあ! これはもはやお前らの生死を左右する重大問題なんだぞ!!」
「!!」
 香美を除くヒラども全員に戦慄が走った。
(そうでした)
(実力だけなら我と栴檀どもと母上を足したぐらいはある)
(もうちょっとその自覚と節度を持たせないとマズいコトになるな!!)
 強すぎるという自覚がないと最悪「ちょっと触れただけで首がすっぽぬけました」みたいなコトになりかねん。
 節度がなければ力に溺れ、頬傷とグラサン着用で「おう小札の。わしゃドーナツ買いたいけえ138円よこせ。ない? ちょ
っとジャンプせえ」と小銭をせびるようになるかも知れない。それはヒラ3人にとって恐怖だった。
「そうだ。さっき俺は「すごく強いけど抜けている奴が副リーダー向き」みたいなコトをいったが、こいつはちょっとボケーっとしすぎ
ている。どうせ副リーダーにするなら加入と同時にそうしてだな、自分の力への自覚という奴をしっかりさせておかねばならん。
ヒラでダラダラやらすとそれが後を引いてえらいコトになるぞ」
「ゆえに職責を負わせ、性格を少し変えると?」
「そうだ。有り余る力を制御するために──…」
「ちょっと待つじゃん!!」
 手を突き出す物があった。香美だ。シャギーの入ったセミロングの髪をゆらめかしながら、彼女はまくし立て始めた。
「話はよーわからんだけど、性格変えるようなマネはしたらいかんじゃん!! 絶対!」
 何を……と声を漏らしかけた総角は、ダンっ! と片足叩きつけ凍土に罅入れる香美の姿に言葉を失った。彼女は、もの
すごく怒っているようだった。ふだん気だるい瞳が拡充し眉毛がひくつき、食いしばった口から八重歯1本と憤懣の声を漏ら
す様はなかなか迫力に満ちていた。

54 :
「だってさだってさだってさ! あのコねーさんに元の性格を「ダメっ!」っていわれてああなった訳じゃん! なのにここでも
また「ダメっ!」ってやられたらさ、そんなのかわいそーじゃん! 弱い物イジメのせーでああなっただけじゃん! あいつは
悪くないじゃん! なのにあたしらまで「ダメっ!」っつったら、かわいそーじゃん! めちゃんこ。あたしはそーゆうのやだ!」
「栴檀の片割れが」
「急に正鵠を射たお言葉を……」
 無銘も小札も唖然とした。

「フ。そうだったな香美。お前もあの組織の犠牲者の1人。おぞましくも理不尽なる虐待のすえ闇を恐れるようになった」
 思うところがあるのだろう。総角は少し驚いたようだがすぐさま口を綻ばせ香美に従う。
「だからさー。やったらあかんコトだけ教えるべきじゃん。やられたらあんたらが困るっつーコトだけいっとけば、あのコだって
分かってくれると思うじゃん。だからダメっーのはダメじゃん! そうするじゃんもりもり!」
 自嘲めいた溜息が総角の呼吸器官を通り過ぎ、大気に拡散した。
「まあ、確かに。『伝える』というコトは本来それだな」
 お得意の、瞑目した気障な笑いが顔一面に拡がっていく。
「了解だ香美。まずはあのままで。そして元の性格に戻しつつ、成長させる……そういう方針で行くか」
「らじゃーです香美どの! まずは信じてみましょう!」
「母上がそういうのなら、世話を焼いてやらんでもない」
『補佐という形をとるなら、上役こそ一番! 及ばずながら支えさせてもらう!』
「あのー、ポシェット。取ってください」
 まだじたばたしている鐶に軽やかな声がかかった。
「というコトだ鐶。今日からお前が副リーダーだ」
「は、はい……ありがとう……ございます。まずは……ポシェット……抜いて下さい……」
 動き始めていた時間の真ん中で。
 やれやれ。そんな感じで皆、笑顔を浮かべ──…ポシェット頭に歩み寄った。
 鐶 光
 ザ・ブレーメンタウンミュージシャンズ 加入。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



 手紙が飛ばされた後。
 真赤な頬に手を当て立ちすくむ妹に対し玉城青空が覚えたのは意外にも『快感』であり、同時に彼女は冷えて行く聡明さ
の中で快感の根源が何であるかも理解していた。
 それは決して、憎むべき理想像に一撃を加えた喜びという平易な物ではなかった。確かに一撃を加えた瞬間は自分の中
で荒れ狂っていた灼熱の濁流が瞬く間に解消され、心地よくもあったが、しかしそれは快感の構成要素の一つにすぎない
──根源ではなく、あくまで一部──と青空は察知していた。
 眼下で頬を抑え、輝く瞳に涙を湛えている妹。

55 :
 全身のあらゆる部分から申し訳なさを立ち上らせ、しゃくりあげながらか細く震えている妹。
 
 伝わった。
 妹が自分の心からの怒りを理解してくれているのはまぎれもない快感だった。
 思えば小声のせいでどれほど自分の意思を汲まれなかったコトか。常に聞き返され、伝えても妙な顔をされ、或いは反論
や反駁をされ、結局は相手のいいようにされていた。喋ってでさえそうである。無言の微笑を続けた結果、快活な義母が頼
みもしないのに家庭へやってきて頼みもしない発声練習をさせた。
 
 だが、伝わった。
 青空の快感はつまりそれだった。言いたいコトや思っているコトが相手に伝わったという快感。人間なら誰しも思っている
『分かってほしい』が叶った瞬間だった。『分かってほしい』。友誼も恋愛も交渉も商談も全てはそれであろう。少なくても青
空はそう信じている。なぜなら彼女は家庭や学校においてそれが叶わず苦しんでいた。
 伝わった。
 長年の溜飲が下がった。それと同時に青空の中で葛藤が芽生えた。手を上げてしまったという罪悪感を覚えた。妹とて悪
気があってやったのではない。過失。全ては荒れ狂う嫌な風のせい。手紙を我がことのように喜んでくれていたではないか。
なのに手を上げてしまった──…本来理知的な性格の青空は悔んだ。ついカッとなって頬を痛打した自分を恥じた。
 だが、しかし。
 衝動的な暴力のもたらす快感に魅入られかけている自分にも気付いた。痺れる右手からこれまでの鬱屈が放散していく
ようだった。小声で通らぬ会話をやろうとするより具体的で現実的で、何よりひどく心地よかった。ただの破壊では不十分
とさえ思った。自分の手の動きにつれて相手が『分かってくれる』コトが必要だった。いま眼下で震えている妹のように、自分
の抱えている感情が伝わり、理解を得なければ右手の快美は2度と訪れない。そんな予感がした。
 だがその快美は得てはならない。だから妹に謝り、2度と暴力は振るわないよう努める──…
 義母に頬を痛打されたのは、上記の決意を実行に移そうとした瞬間だった。
 やがて事情を知った彼女は必死に謝っていたようだったが……。
 ただ1度の衝動さえ認められず、それを悔いている自分さえ痛打される。
 そんな現実はひどく痛烈で、惨めだった。頬は本当に痛かった。
 無言の自分は結局世界の誰からも受け入れられないのかと暗澹たる気分になった。
 ならば快美をもたらす方へ──…
 帰宅した青空は幾度となく湧いてくるその考えに首を振った。ダメ。決して許されない。そう思いながら迎えた夜半、泣き
疲れて就寝した妹の首を眺めた瞬間、それは来た。
 疼きにも似た、甘い衝動。
 気付いた時には小さな体を膝立ちで跨いでいた。
 そして上体を屈めた。
 真っ二つにちぎれた指の輪を妹の首の両側にそうっと這わせながら、青空はか細い息を震わせた。生命を奪うつもりは
なかった。ただ絞めたくなった。絞めて、今一度見たかった。自分の怒りと葛藤を理解してくれる妹の顔を、見たかった。
 でもそれは決して許されない行為。加減を誤れば死に追いやる危険な行為。理性の力で辛うじて指を除けた青空は、笑顔
で2つの掌を眺めると決意した。
 家を、出よう。
 変質しつつある自分が家に居ては迷惑だと思った。
 今は良くてもいつか必ず家族に危害を加える。それは許されない行為。例え頬をはたいた義母に耐えがたい怒りを抱いて
いたとしても、なぜ彼女がそうしたかを察し、許すべきなのだ。
 
 行く当てはない。だがそれでも良かった。
 もはや自分の味方をしてくれる者は誰一人居ない気がした。ようやく得られそうだった手紙が飛ばされ、ようやく感情が
伝わっても即座に頬をぶたれたのだ。生きていても仕方ない、そう思った。

56 :
 どうせ生後11か月の頃、母に扼殺されかけていた命だから、どうせ父も義母も妹も泣きはしないから、今さら消えても構
わない。
 誰かに危害を加えてまで生きたいとは思わなかった。
 数日後のCougarのシークレットライブに行ったら、この世から消えよう。
 と思っていた。
 この時は。


 以上ここまで。過去編続き。

57 :
 相沢千鶴はイカ娘の天敵だった。
 イカ娘が海の家れもんに来た当初、触手を華麗に切断されてから、ずいぶん時が経ったが、
 千鶴がイカ娘に後れを取ったことなど、一度としてない。
 相沢千鶴の特徴は、まずその人の目に映らないほどのスピード。
 一度などは監視カメラをも欺いた。
 そして体力。
 軍隊仕込みとも噂されるが、千鶴がどこでそれを身につけたか誰も知らない。
 そして何より、その手刀の切れ味である。
 腕は細腕。手のひらを眺めても、普通の女性と変わりない。
 しかし、おそらく超スピードによるのだろう、手刀の威力は常軌を逸している。
 単純計算で5倍の物量を誇るイカ娘の触手を、いとも簡単にさばききった。
 柔らかな身のこなしから繰り出される一撃は、自身を傷つけることなく、何度振るわれてもサビることはない。
 相沢千鶴は、常にイカ娘の上位に立っていた。
 だから、初の直接対決といえる今でも、その風格に"負け"の気配はない。
 なによりも意外だったのは、
 二人が全くの互角だったことだ。

58 :
 3分、経過した。
 イカ娘は疲れていた。ボクサーが試合に感じる疲れと似ている。
 千鶴=狼娘は、いつもの表情のままである。
 その点だけみれば千鶴=狼娘が有利だが、
 イカ娘の健闘ぶりはムードを変えていた。
「いい加減に……しなイカ!」
 イカ娘の触手が伸びる。その先端が千鶴の肩に食い込んだ"狼娘の牙"に触れそうになったところで、
 千鶴=狼娘の手刀が切り落とす。
 この攻防は3分の間に何度も繰り返されていた。
 違うのは、"切り落とされて"イカ娘がにやりと笑ったことだ。
 触手が、いつの間にか地面から、千鶴=狼娘の足元に絡みついていた。
「隙ありでゲソ!」
 続いて触手が伸びる。
 手刀の最大の弱点はリーチだ。地面の触手に対応しながら正面の触手を落とすことはできない。
 が、しかし千鶴=狼娘は初めて足を使った。
 触手の絡みついた足を、ハイキックするように持ち上げ、あえて正面の触手にささげたのだ。
 二つの触手がぶつかり合い、ちぎれてはらはらと地面に落ちた。
 イカ娘は舌打ちをすると、触手を再生させる。
 千鶴=狼娘も、からまった触手の切れ端を取り払い、ジーンズのすそを直した。

59 :
「互角……、互角じゃないか」
「イカちゃん、千鶴さんとあんなに戦えたの?」
「イカ娘の最大の弱点はメンタルだからな」
 栄子が事態を解釈した。
「本気を出せば、もともとあれくらいやれたんだ。
 幸か不幸か、今まで一度も本気を出さなかった。
 いや、出せなかったってだけで」
「でもまだ十分とは言えない」
 梢が戦況を見据えた。
「触手はイカスミと同様、合成のたびに体力を消耗するわ。
 対する千鶴さんは体力の塊。互角というだけでは勝ち目はない」
「あんたが加わったら勝てるんじゃないか?」
 悟郎の問いに、梢はにっこり笑って、
「わたし、絶賛車酔い中なので……」
(ウソだ)
(絶対ウソだ)
(ていうか、あの人誰?)
(タコ星人……)

60 :
 長期戦となれば不利。
 しかし、イカ娘は焦っていなかった。
(狼娘よ……、お主には弱点がある)
 千鶴=狼娘の手刀を、触手の物量で防ぐ。
 そうしながらも、機会をうかがう。
(お主の野生の勘も見事でゲソが……、
 やはり千鶴のような注意深さはないでゲソ。
 千鶴は背後から襲いかかっても、なぜか見抜いていたでゲソからね……。
 いわば、操縦者の年季!)
 大量に配備した触手を、千鶴=狼娘がひとつひとつ切断していく。
 それがイカ娘によって準備された動きだとも知らずに。
(わたしは地上に来て釣りというものを知ったでゲソ。
 魚の鼻先でエサを躍らせてやるでゲソ)
 千鶴=狼娘が、ついに用意された一本を切断した。
「今でゲソ!」
 イカ娘はいっせいに、触手を再生させた。
 生い茂る木の枝のように張り巡らされた触手は、総勢9本。
 エサとした一本を除く全て。今までで最大規模の攻撃だった。
「一本は正面からの一撃……、
 一本は背面」
 触手の檻の中で、狼娘は戦慄したように立ち止まる。
「二本がそれぞれ側面を、
 二本が地中、二本は空中、残る一本は遊撃隊でゲソ」
 栄子たちの"作戦B"は、地中を計算に入れていなかった。
 知ってか知らずか、イカ娘はそれをカバーしている。
「全方位攻撃でゲソ!
 かわせるものならかわしてみるがいい!」

61 :
こんなに触手という単語を打ったのは初めてです。
続きます。

62 :
>>スターダストさん
酷い環境の中、芽生えて当然の憎悪も嫉妬も抑え込み、あるいは自らの中で自力で浄化
してきた、天使か菩薩かという少女だった青空の心に一点の亀裂。青空本人とっては、
闇に亀裂が入って光が差し込んだ思いでしょうが、その亀裂は間違いなく崩壊への亀裂……
>>急襲さん
おお、イカちゃんやるではないですか。まるでジョセフのような知略・器用さで、単純な
戦闘力での負け分をカバーして。当初からの「侵略」という動機では外れなかった彼女の
リミッターが、この状況で初めて外れて本来の実力が出た、と思うと……いい子だなぁ。

63 :
 着のみ着のまま家を出た青空は、まずありったけの貯金を下ろし、都内のカプセルホテルを転々とした。
 ライブ用に服も用立てた。チェック柄のロングスカートを履き、黒いボウタイブラウスの上にスタンドカラーのブルゾンを身
につけた。そしてチョーカーとブラウンのブーツも装備。
 会計を終えてからさも「買った物をご賞味ください」とばかり入口に備え付けられている鏡の前でクルリと回りガッツポーズ。
「よし!」。どこも変じゃない。きっとオシャレ。
 特にロングスカートについては青空会心のチョイスだった。ダークブラウンとカーキグレーのチェック模様を遮るようにパ
ッチワークされたレース編みニットとトーションレースと花柄のコーデュロイはとても可愛かった。ドレープがなみなみと寄っ
てギザギザとした裾のラインを描いているのも最高にいい。まるで自分に買われるため生まれたような気がして思わず鼻歌
さえ歌った。
 そうなってくると手紙の件や義母にぶたれた事は「自分の人生に良くある不遇の1つ」ぐらいの感じになってきた。家族運
は悪くても人生は楽しい。Cougarが見たら「お、あの子カワイイ」とか思ってくれるかもと淡い期待に豊かな胸をさらに膨ら
ませ、彼の曲をフンフン歌いながら軽やかに歩いた。
 そして飲食店で昼食を取り、カプセルホテルを探し──…ていたら運悪く人気のない路地裏に迷い込んだ。
 後悔。浮かれ過ぎていた。ただでさえ不慣れな都内を浮かれ気分で散策すべきではなかった。
 路地裏はひどくうらぶれていた。家はあるがどこも無人。朽ち果てた扉や窓に蜘蛛の巣が張っている。人2人が並べばも
ういっぱいという小道は整備を放棄されて久しいようで、あちこちひび割れ、レンガを遠慮なく撒き散らす塀もある。
 頭頂部の癖っ毛を「びィーん!」と逆立てたのは、背後から突然、声がしたため。
 振り返る。汚物じみた茶髪の若い男がニヤついている。言葉の内容は覚えていない。ただ黄色く濁った瞳が品定めをす
るように自分の体を眺めまわしているのは分かった。本能的な恐怖が走る。笑顔のまま息を呑み後ずさると背中が何かに
ぶつかった。男。背後にいた男に羽交い絞めされた。恐らくいつからか尾けていて、示し合わせて退路を断ったのだろう。
 着替えと食事を入れた紙袋が薄汚れた路地に落ちた。
 豊かな肢体を必死によじる青空めがけ茶髪が歩み出た。その背後から男が数人現れた。いずれも派手な服装でピアス
や入れ墨をしている。青空の体を揶揄する下卑た歓声と笑いが木霊した。豊かな肢体は飢えた獣たちにとって格好の的だっ
た。いよいよ間近に来た茶髪の口臭に吐き気を催す青空のなだらかな膨らみが服越しに掴まれた。
 拒否の声を小さく漏らす。かーわーいい。健気な抵抗を男たちは一層喜んだようだった。そしてついに乳房が揉まれ、拒
否の声を「小さくて聞こえないよォ」と茶化された瞬間。
 青空の脳髄を「そうあるべき」静かな自分とはかけ離れた感情が貫いた。

 拒否の意思を伝えるために。

 青空はまず踵をはね上げた。背後の男の股ぐらめがけ、必死に。遠慮も何もない。ただ拒否を伝えるためだけ加速を帯び
た踵はウズラ大の物体に重篤な損壊をもたらしたようだった。喘ぐ背後の男が手を緩めた。すわ何事かと目を剥く茶髪を強
引に突き飛ばした青空は、ただ拒否を伝えるために辺りを見回した。武器。武器が欲しい。崩れた塀がレンガを零していた。
掴んだ。投げた。右目をやられた茶髪がのけぞった。血しぶきが舞う。男が仰向けに倒れる。青空は全身を駆け巡る快感
に笑顔を深めた。新しいレンガに手を伸ばす。背後の絶叫めがけ投げつける。鼻を潰された大男がどうと倒れ伏した。それ
が羽交い絞めにしていた男だと知ったのは、股ぐらと左胸にレンガを叩きつけた後だ。血を吐き、ピクリとも動かなくなった
大男からレンガを回収。歩を進める。血まみれの茶髪は目を押さえながらもう片手を青空へ伸ばし何事か騒いでいる。
 
 必死な様子からするとどうやら謝っているようだった。
 すぐそれを理解した青空はしかし下顎に指を当てちょっと考えた後、茶目っ気たっぷりに呟いた。
「小さくて聞こえないよォ」
 くすくす笑いながらレンガを叩きつける。嬉しかった。また自分の意思が伝わったような気がして、嬉しかった。そのまま満
面の笑みで残る男たちを見た。あれほど下卑た歓声を上げていたのに逃げ出そうとしている。

64 :
 血が燃えた。
 もっと伝えたい。
 どれほど自分が怖い思いをしたか伝えたい。
 顔面を潰され痙攣する茶髪をひょいとまたいで他を追う。片手持ちのレンガは数時間後に激しい筋肉痛を味わってなお
それが格安に思えるほど抜群な仕事をしてくれた。目指すは狭い路地で押し合いへし合いしている男たち。喫煙と不摂生
で2分も全力疾走できない彼らへあっという間に追いついた運動神経学年15位、少女の右手が大きくしなる。
 壁に掠って火花を散らした赤茶色の長方体が最後尾でやきもきしていた短い金髪を破砕した。振り向いた男たちの奏で
る悲鳴とどよめきと泣き声に青空は確信する。
(良かった。伝わってる)
 純真な笑顔のままスキップの要領で踏みこんだ。剣道の面打ちのように振り下ろしたレンガがすきっ歯の坊主を打倒し
たのを確認、どんどん行く。手近な男の襟首を掴み、引きよせ、刺青のある首めがけ一撃。最後に残ったひょろ長い金縁
メガネは背中を蹴るとあっけなく倒れたので、レンガはとても楽に叩きつけられた。

 それから青空は元きた道を引き返し──…

 やがて地面に突っ伏す男たちは目撃する。たぷたぷとした胸の前で両手を組む青空を。
 舞い戻ってきた青空はそこにたっぷりレンガを抱えていた。まるで豊作のリンゴかミカンをお裾わけにきたようなかわいら
しい笑顔に一瞬誰もが見とれかけたが、胸の中から1つ転げ落ちたのはまぎれもなく堅く色褪せたレンガだった。幻覚でな
い証拠に運悪くそこに倒れていた仲間の頭に直撃し新たな血河を生みだした。忍び寄るその生暖かさにそれこそ声になら
ない悲鳴をあげる男たちの前で、少女はアホ毛を動かした。「どーちらにしようかな」。
 決まったのは首に入れ墨をした男で……。


 そして総てが終わった後、青空は血だまりのない場所で膝を抱えた。

 やってしまった。

 傷害または殺人未遂を……ではない。

 せっかく買ったお気に入りのスカートはところどころが破れ、血しぶきさえ点々と付いている。仮にクリーニングに出した所で
シークレットライブには間に合わない。重要なのはそこだった。妹をぶった時の衝動が再来して、男6人にレンガを叩きつけた
コトへの罪悪感はなかった。
 救急車を呼ぶベきとも一瞬思ったが、そうすると警察からの事情聴取でライブに行けないし家出だってバレる。
 だいたい正当防衛なのにまた責められるのは嫌だった。楽しい気分だったのに襲われて、お気に入りのスカートさえ駄目
にされ、どうにかこうにか身を守ったのに(といっても実際は彼女の圧勝だが)、またも社会は自分を責める? いい加減、
そういうのは嫌だった。
 自分を一度たりと救ってくれなかった社会。
 そして人間ども。
 彼らは常に青空を助けようとせず、しかし彼女が失策を演じた時に限って素早く嗅ぎつけ、責めるのだ。
 考えると腹が立ってきた。人生を救ってくれそうな手紙はすぐ飛ばされ、その怒りを伝えられたと思ったら頬をぶたれ、
そんな嫌なコトをライブの準備で忘れかけていたら馬鹿な男どもが襲ってくる。
.

65 :
.
 見よ。買いたての、おろしたての可愛いスカートを。ボロボロではないか。
 誰にも迷惑をかけまいと懸命に生きているつもりなのに、いつもいつでも良い事をかき消す下らなさばかりが降りかかる。
 もう本当、青空は激発に身を任せたくなった。
 だが何とか堪える。激発は良くない。欠如は努力で補うべきだ。そうやって生きてきたではないかという誇りにも似た自負
が、どうにか崖の縁ギリギリで青空を押しとどめる。
 それが最後のチャンスだった。人間らしく真っ当に生きられる最後のチャンスだったコトに青空はまだ気付かない。
 とりあえず財布を見る。金額的にはまだ余裕がある。同じ物を買いに行こう。そのためには着替えなくてはならない。しか
し男たちの前で着替えるのは恥ずかしい。その間だけ眼をつぶって貰おう。そう決めて、まだ眼の開いている者を探す。居
た。顔を歪めたそいつは喘ぎ喘ぎ携帯電話をいじっている。
 青空は、キレた。
「女の子に怖い思いさせておいて自分が痛い目見たら助け呼ぼうとかありえないでしょ本当にありえない」
 ブーツの踵が直撃した携帯電話は、それを握る指の骨ごと粉々に粉砕された。男たちの顔面が青くなっていくのは、まったく
以て快感だった。自分の意思を伝えるコトの喜びをひしひしと感じた。つむじから延びる癖っ毛もちぎれんばかりに振られた。
「ぐあッ……ガガガ……」
「ぐあッガガガじゃないわよ謝りなさいよねえ謝ってもう本当サイアクせっかくのスカートが台無し」
 くっと顎を以て上向かせた男の瞳孔がみるみると広がった。「ひイッ」という情けない絶叫さえ漏れた。
 青空は自分がどういう表情をしているかまったく気付いていなかった。
「謝るつもりがないならいいわよもう」
 手近な砂利──ガラス片も少し混じっているようだったがどうでもよかった──をすくい上げると、恐怖に拡充しきった眼
に流し込んだ。強引に瞼を閉じると暴れたが肩をレンガ片で10回ばかり叩くだけで静まった。
 残る男たちは必死に携帯電話を供出した。なぜならばレンガ片を両膝と両足首に叩き落とされ「歩く位なら死んだ方がマ
シ」という激痛を味わったからだ。這いつくばって物言わぬ仲間のポケットから携帯電話を抜き取ったころには腰部が砕かれ
る音がした。笑い声もした。震えながら振り返ると、「はーやーく。はーやーく」と笑いたくる少女が居た。
 そして破砕。地面をバウンドしたレンガが派手な音を立てて携帯電話をガラクタの山に作り替えた。そして微笑む少女。彼
女は頬を染めながら小さな声でこう呟いた。
「ごめんね。着替えたいからちょっとだけ眼をつぶっててくれないかな?」
 男たちが全力で頷いてくれたので、青空はスッキリした気分で着替えができた。そして路地を脱出して先ほどの服屋に何
とかたどり着いたがスカートは売り切れていたので、青空は頬を膨らませ怒りマークをピキピキさせながら(肩を精一杯いから
せて歩いた)路地に戻って再びレンガ片を頭上高く振り上げた。男たちの絶叫が響いた。
 一息ついて上を仰ぐと、自分の名前と同じ場所が果てしなく広がっていた。
 空が青いのは太陽の光が大気中の分子などに当たって散らばるためだ。もっとも散乱しやすい青い光が地上の人間に
届くから、空は青く見える。
 光なくして青空はない。
 手紙と引き換えに「伝えることの嬉しさ」を教えてくれた義妹を初めて好きになれそう──…
 路地を後にしながら青空はそう思った。
「でももう遅いんだよね……」
 レンガを振り下ろした男たちのうち、一体何人が生きているというのだろう。
 一体何人が、元の生活に戻れるというのだろう。
 激しい快美の後に襲い来る後悔と虚脱感と、「やはり自分は生きていない方がいい」という実感を噛みしめながらとぼとぼ
歩く。その場を去る。

66 :
.



 そしてライブ当日。

 ステージの上で両手を広げたまま、青空は茫然と立ちつくしていた。
 200名近くが辛うじて収容されるほど小ぢんまりとした会場は、平坦な言い方をすれば地獄と化していた。
 いやに幾何学的な姿をした獣の群れが人々を蹂躙している。肩を喰い破られた少女が絶叫を迸らせ、足を掴まれた妙齢
の女性がそのままカエルのような化け物の口へ放り込まれた。下半身を噛み破られ椅子に叩きつけられたのは大学生ぐら
いの子だろうか。乾いた音とともにパイプ椅子の配列が崩れた。内臓もあらわに這いつくばる彼女に四方八方から手が伸び
て、生々しい咀嚼の音とすすり泣くような歎願が響いた。
 しかし奇妙な事に、逃げ惑っている筈のファンたちは、出口に着いた途端にうろうろとし始めている。扉が開かないという
訳ではない。そこに手をかけようとした瞬間、或いは押そうとした瞬間、不可思議にもそれをやめて扉の前をうろうろとする
のである。罵声が響く。うろついている者が突き飛ばされる。だが突き飛ばした者もまたウロウロをやる。どこの出口でもそ
れが繰り返されている。おかげで逃げようとする人間の波はつくづくと滞り、まったくどうにもならないようだった。ステージ
の上でCougarが「新作ドラマではこういう役をやります。特撮に出ます」と槍のような武器をピカピカ光らせていた数分前の
穏やかな光景がウソのようだった。
 人形の腕を振り下ろし数少ない男性ファンの下顎を吹き飛ばしている女医風の女がいる。
 どろどろに溶けた同年代の子供をストローで啜る少女がいる。
 子供だけはと哀願する男性と女性──ストローで啜られている子供の親だろう──に光の線が何条も迸った。
 次の瞬間、流石の青空も目を背けた。指がぱらついた。手首も落ちた。彼らのあらゆる部位は結合を解かれたようだった。
気まぐれにバラされたプラモのように、あらゆる部位が崩れ落ち、血だまりの中に堆積した。
 そして彼らの横にいた奇妙な鳥が不機嫌そうな眼でステージを見た。
 顔面の半分ほどあるくちばしが図体の半分ぐらいまで伸びている鳥。眼光が鋭い鳥が。
「やはり青っちも気になる? ハシビロコウっつーんですよあの旦那」
 青白い光が視界に入る。ゆっくりと振り返る。
「いやーそれにしてもお美しい。親御さんから見た目聞いてましたけどね、いやはやまさかこれほどの美人さんだとは! いは
はやお話できて光栄ですぜこりゃ。にぇへへ」
 青空がステージに昇ったのは、会場入りした異形の獣たちからCougarを守るためであった。悲鳴を上げ、我先にと出口
へ向かうファンどもを抜けてステージに昇ったのはこのライブが終わったら人知れず命を断つつもりだからだ。どうせ死ぬの
であれば、辛い時代を救ってくれた人を守って死ぬ方がいい。そう思った。だからステージの上にいるCougarの前に立ちは
だかり、両手を広げた。
 そんなコトを回想しながら振り返った青空は、流石に笑顔を保てなかった。いつも笑みに細めている両目を驚きと意外性と
ほんのちょっとの期待感──ここから自分の人生が大きく変わるという期待感──いっぱいに見開いて彼を見た。
 守るつもりだった国民的アイドルを……見た。
「玉城青空さん。親御さんから事情は聞いてますぜ。へへ。手紙を飛ばされたそーで災難なコトで」
 アイドルとは思えない砕けた口調で人懐っこい笑みを浮かべながら、Cougarはそこにいる。
「そろそろ分かってると思うけど、このヒドいこと企画したのオレよオレ。いやー我ながらひどいコトひどいコト」
.

67 :
 理知に縋ってやまない青空がまず思ったのは「あり得ない」。陳腐。ご都合主義。うつむき加減の額を指でグリグリした
のは込み上げてくる頭痛と馬鹿馬鹿しさを鎮めるためだ。
「へぇへぇ。分からないのも仕方なしかと。しかァし!! オレっちにゃオレっちのやるせない事情がありやしてねえ。あ、青っ
ちだけは別ですぜ。話聞いた時から助けるコトにしてたんで」
 ザクリという音がした。彼は手にしていた物をマイクの横に突き刺したようだった。槍のような武器。惨劇直前にCougar
が振りかざしていたその武器は確かに特撮じみていた。簡単にいえば槍に斧をつけたような武器だった。しかもそれは雷
光を迸らせながら青空とCougarをまばゆく炙っている。
「あ、コレ? こりゃあハルバードってんで。扉から出れなくしたのもこの武装錬金の特性でさ」
「ぶそう……れんきん? とく……せい?」
「しかしお美しいだけでなく勇敢とは! ファンの中でオレっち守ろーとしたのは唯一青っちだけですぜ? 他はみんな自分の
命惜しさで逃げやしたでしょ? ったく。フリでもいいから守って欲しかったんですけどねオレは。そしたらその方だけ助けよう
って思ってたのに……はあ。結局1人だけですかそうですか。国民的アイドル相手っつっても所詮それが限界、人間って奴
の『枠』の限界すか」
 28というが間近で見るといやに子供っぽい人だと青空は思った。ウルフカットの下で忙しく媚を売ったりシャウトしたり
ふわりと笑ったり肩を落としたりする彼は、最後に揉み手をしながら青空を覗きこんだ。
「ところで良かったらメルアド教えてくんない? あ、いやいや無論タダとはいいやせん! こー見えてもオレっち女性に優し
いって評判でしてね、何か頼む以上損はさせやせん。青っちが失くした手紙書きなおすってのどーでゲしょ?」
「ナンパ……ですか? こんな状況で、引き起こしておいて」
 声を震わせながらぎこちなく微笑むと、Cougarは「いんやいんや」と手を振った。
「お話したいだけ。ちょうど会場の方も終わったようだし」
 何が女性に優しい、か。静まった会場の中で生き残っている女性は誰一人としていない。みな必ずどこかが喰い破られ
顔はもはや若さも美貌も黒い絶叫に塗りつぶされている。
 それらを一瞥した青空は、しかし内心に小気味よさが湧いてくるのを感じた。
 Cougarが何を思い、何のためにこれほどの惨劇を実行したのか。
 それは知らない。
 ただ、他者は誰ひとりとして青空の感情を理解しなかった。
 頑張りたいという意思も、遠慮も、配慮も寂しさも辛さも悲しみも、何一つ理解してくれなかった。
 何一つ、してくれなかった。
 首の座りが悪いというだけで首を絞められそこに畸形をきたしてしまった自分を救ってくれるものなど、この世には誰一人
として存在していないようだった。父でさえ素知らぬふりをし活発な妹との楽しい家庭生活を営んでいた。他人は全て『たま
たま運良く』獲得した大きな声を以て楽しい楽しい青春生活を送るのに躍起で、青空を救おうとはしなかった。ただそこに
異質な存在が転がっていると一瞥をくれて歓談に戻るだけだった。
 骸となって転がっている連中はつまるところそういう人種だったのだろう。
 だからCougarを救おうともせず出口に向かい、こうなっている。
 胸がすくような思いがしたのは、自分に何の恩恵ももたらさなかった世界が確実に破壊されつつあると確信を得たからだ。
 もはや黙っているべき時期は過ぎた。
 自らの手であらゆる感情を『伝えて』いき、あらゆる不合理を破壊せねば、自分のような人間がずっとずっと不幸を味わい
続けていく。そう思った。
 死ぬつもりだった自分が助かり、生に固執した連中が死んだ瞬間から自殺願望はかき消えた。むしろなぜ自分が死なな
くてはならないのかという怒りさえ湧いた。自殺したところで父と義母と義妹は何ら変わりない団欒を続けるだろう。人のため
この世のため家族のためと遠慮し命を投げ打ったところで、誰が感謝してくれるというのか。誰もしない。異質な存在がいた
と一瞥するだけ。そして誰をも救おうとせず、楽しい楽しい歓談ばかりを享受する。青空の首に畸形をもたらした母親は正
にそういう種類の人間だった。楽しさばかりを求めているから、耐えられず、やらかした。
 青空はボランティアに身を投じ正しく世界を正そうとしていた。
.

68 :
 その考えも結構だが、人を助けたいのであればまずは「たまたま獲得しただけの大声」で楽しい歓談ばかり追う人間をど
うにかすべきではないのか? そして自分を救い味わった不幸の数だけ幸福になるべきでは?
 長年、噴き出そうな怒りを押しとどめてきた理性はいつのまにか荒波ですっかり歪んでいる。
 青空はそれに気付かない。気付かないまま『理性』の導く答えだからと上記の思考を……肯(がえん)じる。

 動き始めていた時間の真ん中で。
「で、良かったらオレっちらの仲間になんない?」
 青空はコクリと頷いた。
 そして1年後。

 彼女は実父と義母の命を奪い、義妹を歪め始める…………。

 以上ここまで。過去編続き。次回から第004話。

69 :
 千鶴=狼娘に向かって、触手の網が投げかけられた。
 矢の雨のように、無数の槍のように、その突撃は苛烈で、容赦ない。
 しかし、その切っ先を前にして、
 狼娘は笑った。
「……かわさない!」
 千鶴=狼娘は足を踏み出した。
 手刀一閃。正面からの一撃を強引に突破する。
 そのまま猛スピードで、イカ娘に向かって突進した。
 遊撃隊の触手が、千鶴の肉体に突き刺さる。
 残る7本の触手が体を切り裂いても、歩みが止まることはなかった。
 ついにイカ娘に到達し、小さな体を強引に持ち上げる。
「お主の狙いは――ここだワン?」
 千鶴=狼娘が血まみれの左肩をトントンと叩く。
「わたしの牙。
 牙を抜くことを目的とした攻撃は傷つける意思に欠ける。
 かわさなくても、所詮致命傷にはならないのだワン」
 再び戦闘に参加しようとした悟郎たちを、千鶴=狼娘が目で制する。
「わたしはこの体を使い倒すつもりだワン。
 傷つくのは痛いことは痛いが、我慢できる。
 対するお主は、自分の貧弱な肉体をかばい、千鶴の肉体をかばい、
 まわりの仲間たちをかばいながら戦っている。
 やはり、守るべきものを持ったのは失敗だったのだワン!
 わたしの侵略、一人の侵略が正しいのだワイカ娘ちゃん」
 "千鶴"の声がした。

70 :
 その声は血まみれの肉体から発せられたとは思えない、優しい音色だった。
 声が言った。
「大丈夫よ。戦って。
 わたしの体を、侵略に使わせたりしないで」
 抱え上げていたイカ娘を、千鶴が下ろした。
「だ、だけど、わたしがッ、
 千鶴に勝てるわけないじゃなイカ……」
 泣き出しそうになるイカ娘を、千鶴の胸が包んだ。
「優しい子ね。
 でも、そんな優しさがあるからこそ、あなたは強いの。
 たぶん、わたしよりも」
 魔法は解けた。
 千鶴=狼娘はイカ娘を突き飛ばし、急いで距離を取った。
「――操作が乱れただワン。
 お主の攻撃が牙をかすっていたのか……」
 千鶴=狼娘が左肩をなでた。
 イカ娘の触手が再生を始める。
「まだやる気だワン?
 何度やっても同じ、わたしの侵略のほうが強いのだワンよ」
「千鶴はそうは思っていないでゲソ。
 だからわたしも千鶴を、わたし自身を、信じてみるでゲソ」
「……」
 千鶴=狼娘は構えた。今まで棒立ちだった狼娘が初めてとった、戦闘の構えだ。
 イカ娘は目を閉じた。その周囲に10本の触手が、柔らかく広がる。
 狼娘がつぶやいた。
「お主はやはり危険だったワン」

71 :
 そして、跳躍した。
 狙い撃ちになることも辞さない、勢いを乗せた最後の一撃に賭ける。
 イカ娘は触手を放った。両脇の髪からの二本の触手が、狼娘を真っ向から迎え撃つ。
「無駄だワン!
 もはや最高速! すべての触手を突き破ってお主の喉を貫く!」
 すべての触手を?
 しかしイカ娘は触手を束ね、巨大な一つの槍として千鶴=狼娘目掛けて突っ込ませた。
「うおおお!?」
 先頭の触手は、狼娘に切り払われた。
 空中でくるくると華麗に舞い、二本目の触手、三本目の触手とちぎり捨てる。
 しかし、そこまでだった。
 強靭な触手の槍は、構成繊維を二、三本切り取られても、止まることなく、
 千鶴=狼娘の左胸に命中した。
 千鶴=狼娘の体が地に落ちる。
 その周囲を、みんなが囲んだ。
 最後にイカ娘が、ちぎれて半端なショートカットになった触手を直す力もなく、
 狼娘の前に立った。

72 :
「良かったのか? 狼娘を見逃して」
 運転席の悟郎が聞いた。
「千鶴が助かった時点でわたしたちの関わり合いはおしまいでゲソ。
 それに狼娘の本体のありかは、本人しか知らないでゲソ」
「わたし、森の木々に聞けますが……」
 鮎美が言った。
「……でもいいでゲソ!
 狼娘の目的は、それはそれで応援したいでゲソ。
 やり方を間違えたらまた叩く、それでいいじゃなイカ!」
 それよりも、とイカ娘が笑う。
「見たか?
 自分でも気付かなかったけど、わたしは千鶴に勝利するほどの実力者だったでゲソ。
 おまけにその千鶴は今はケガ人でゲソ。
 侵略の好機じゃなイカ!」
「ひい! 最大の弱点だった千鶴さんを克服したイカさんが侵略を!
 もう勝てない! 人類はおわりだぁ!」
 渚が悲痛な叫びを上げた。
「イカ娘ちゃん、渚ちゃんを怖がらせないの」
 後部座席の千鶴が、寝転がったまま穏やかに止めた。
「ふっふっふ、もう脅しは通用しないでゲソよ」
「そうかしら……」
 千鶴の細い目が、ゆっくりと開眼される。
 同時にイカ娘の勝ち誇った表情が、ゆっくりと恐怖の色に変わる。
「ごめんなさいでゲソ……。怖い顔しないでくれなイカ」
(メンタル、戻ってるー!)

73 :
 数週間後、相沢家に一通の手紙が届いた。
 差出人は、道の駅「くるみ」。
 道の駅を映した写真とともに、名産のワインがどうとかいう宣伝が入っている。
 ダイレクトメッセージのたぐいだと思って、捨てようとしたが、
 写真の隅に映っていた狼娘の姿を見て、捨てるのをやめた。
 夏だというのにファーのついたジャケットをまとっている。
 その上から、葉っぱのマークの入ったエプロンをつけて、暑そうだが似合っている。
 道の駅の店員が一人、狼娘を呼び寄せようと手を差し伸べ、
 狼娘は腕組みをして、仕方ないといったように写真の隅に入った。
 どういう経緯で狼娘が道の駅「くるみ」で働くことになったのかは分からない。
 お腹をすかせて拾われたのか、
 イカ娘のように侵略に入った先でなし崩し的に働くことになったのか、
 狼娘は手紙には何も書かなかった。
 どういう意図で手紙を出したのか。
 それも何一つ書かれていない。
 だからイカ娘は考えるのをやめた。
 いつものように丸い飾りのついた靴をはき、
 いつもの町へ出る。
「いい天気でゲソね。
 今日は何が待ちうけているでゲソか」
 外はまだまだ、もうずいぶん経った気がするが夏休みだ。
 おわり

74 :
夏休みじゃないし! もう冬だし!
みなさま、長々とお付き合いありがとうございました。
そもそもがイカちゃんと千鶴さんを戦わせてみたいという動機で始まったSSなのですが、
まわりのキャラが思いの外動いてくれて、楽しくかけました。
やっぱり原作のキャラクターメイキングがしっかりしているのかなと思います。
オリキャラの狼娘も、他のキャラと絡ませているうちに動くようになりました。よかったです。
それではまたなにかあったら。

75 :
>>スターダストさん
Cougarのライブで、青空の聖なる泉が枯れ果ててしまうという皮肉。「闇に堕ちた
天使の力は、徘徊する小悪党より遥かに強力だ」とはベガのセリフですが、青空の場合は
強い正義感や信念が反転したとかでなく、年月をかけての歪みの蓄積というか……深く暗く複雑。
>>急襲さん(完結、お疲れさまでした!)
ドラえもんの映画版や、バキスレで描かれた他の、この種のSSのように。戦いが終われば、
彼らはまた原作世界の日常に戻っていく……んですが、本作は元々その「日常」がなかった
狼ちゃんに、「日常」を与えているというのが印象的ですね。彼女がこれから、イカちゃんの
ように暮らしていくのか、また違った道を歩くのか、それは読者の妄想の中に。オリキャラが
違和感なく溶け込み、ほのぼのとした余韻の残る、後味の良い終わり方でした。ぜひ、次回作を!

76 :
過去編第004話 「探した答えは変わり続けていく」
「さてあれから20kmは駆けた不肖たち一行であります! 鐶どのの背中に乗りますればあっと言う間に移動は可能! さ
れど副リーダー就任直後の任務がそれではしまりませぬ! よって不肖たちは走ってあの場を移動したのであります!」
 ロッド代わりのマシンガンシャッフルを片手に小札は景気よく吠えていた。
「そもどうして移動をしたかといいますれば、先ほど鐶どののポシェットに潜んでいた愛らしき自動人形のせいであります! 
自動人形は創造主と感覚を共有致しまするゆえ、不肖たちの所在は少なくても鐶どののお姉さんには筒抜けなのです! 
もしそれがあの方属する『組織』へ流されますれば大ピンチ! 9年前より不肖たちは追われる立場! 栴檀どのお2人の
ように幹部級より逆恨みを買う片とているのですっ! よって大兵力を差し向けられる恐れアリ!」
 ゆえに退避しました。などと捲し立てるお下げ髪の少女を鐶などは「誰に……喋っている……のですか?」と怪訝に見て
いるが、他のメンツは慣れた物で思い思いの歓談に興じている。
「大兵力以外でも詰みまする! 幹部級、マレフィックの方々! 凶星を意味しまする単語に火星水星木星などなど惑星の
名をひっつけた幹部級の方々が3人同時に来たりしたらまったくどうにもなりませぬ!」
「そう……なんですか……? 総角さんたちは……みんな……あんなに……強いのに……」
 不思議そうに細まる虚ろな瞳をごうと振り仰ぎ、小札は叫んだ。声音はひどく朗々としており活弁士でも食べていけそうだ
と鐶は思った。
「いえいえ! 例え万全の状態で全員揃っていたとしても幹部級3人は無理なのです! それほどの実力差! 2人相手
でさえ片方にもりもりさんを当て、もう片方に残る不肖たち全員を投入したとしても……犠牲は免れませぬ!」
 鐶の背筋に冷たい物が走った。その感想を述べたくなくなったがうまい表現の仕方が分からない。しばらく目を泳がせた後、
ようやく。ようやく適切で分かりやすい言葉が出てきた。
「つまり……私が…………たくさんいるようなもの……ですか?」
 無銘の目つきが険しくなった。つまり自分がそれだけ強いといいたいのか。目は如実にそう語っている。もっとも鐶にして
みれば自負や自慢のためではない。誰しも自分と同じくらいの身長の人の長さを説明するとき、「自分と同じくらいの身長」
という。鐶の感想もつまりそれであった。小札たちの話から幹部が自分と同じくらいの実力を持っている──…そう推測した
にすぎない。もっともそう述べた所で論理的すぎる断定──率直すぎるあまり何の謙遜もない──は無銘の反感を増すば
かりであっただろうが。そういう機微を察したのか、どうか。総角はくつくつと肩を揺すった。
「そうだな。『盟主』の下に幹部が9人。お前が9人いるようなものだ」
「じゃあ何とかなりそうなものじゃん。こんなボーっとした子ばっかなら何とかできるじゃん。きゅーびだってなんだかんだで
切り抜けた訳だし」
 返答は意外な場所からきた。ネコ少女の後頭部から。
『…………忘れたのか香美! 奴らはこのコと違って攻撃的だ!」
(?? 逢ったコトある……のですか?)
 そうとしか思えない口ぶりの貴信、さらに続ける。
「しかもその実力というのは!」
「武装錬金の特性込みなのであります! 単純な攻撃力自体も他のホムンクルスとは段違いでありますが、それ以上に!
武装錬金の特性の使い方が恐ろしいのであります!」
「特性自体が……じゃなく、ですか?」
『中には恐ろしい特性もある! 分解とか!! だが、奴らの真の恐ろしさは特性の使い方にある!!』
「フ。たとえば9年前に死んだ冥王星の武装錬金はレーション。特性は『思うがままの食事を作れる』だが、奴はそれをどう悪用
したと思う?」

 さあ、とだけ鐶は首を振った。
「奴は食堂を経営していたが食材を仕入れたコトは一度もない。常に発ガン性物資のみで構成された食料を生成し、客に
出していた。楽しそうに食事を喰っていた連中が半年後ガンで枯れ死ぬ様は見ていて痛快だったそうだ」
「ひどい……です」
「特性をいかに使えば他の方に悪意を振りまけるか。マレフィックは常にそう考えているのであります。その一例がいまは
亡き冥王星の方のその後でして」

77 :
「食堂を畳んだ奴は給食センターに務め始めたがどの小学校でも常に公害病が発生した。もちろん近辺にそれらしい工場
はない。総て奴の仕業だ。架空のメーカーから仕入れた食材……もちろん武装錬金で作りだした奴だ。メチル水銀に汚染
された魚介類。カドミウムを含有した米。そういった物を1日と欠かさず混ぜ続けた。「あそこに行くとガンになる」そういうウ
ワサで客足の遠のいた食堂時代を反省したのだろう。どの学校でも俄かに異変は起こらなかった。生物濃縮。ジワジワと
体を壊していった。不幸だったのは奴の着任と同時に入学した生徒たちで、彼らは卒業するやすぐ公害病に苛まれた。中
学以降の人生を真っ当に送れた者は1人もいない。もちろんすぐ給食センターに疑いの目が向いたが、奴は顔を変え別の
ところへ潜り込んだ。そういうコトをしばらく繰り返すうち、同じく学校に潜伏──喰い尽すために内偵していたイオイソゴと
出会い、幹部へと引き込まれたという。皮肉にも奴は悪の組織に居る間はまっとうな食事のみを作り続けた。人の肉で構成
された真っ当な料理を仲間に振舞い続けた。食糧補給担当だったという訳だ」
「さっき食べていたレーションは……もしかして
「そうだ。奴の武装錬金。人喰いを避けられぬ俺たちだが、人肉を模した食事さえ摂っていれば人を殺さずに済む。世の中
は広いからな。クローンの肉を喰うコトで人喰いを避けているホムンクルスも少なからずいるのさ。俺たちもその部類だ」
『だが、そういう穏便な使い方のできるレーションさえ悪用するのがマレフィックだ!』
「我の聞いた話では、奴は病をもたらす一念のみで公害史が編纂できるほどの知識を経たという」
「ややもするといま現在、新たな冥王星の方が居られるやも知れませぬが、その特性! 或いはその使い方! さぞや恐ろ
しいものでありましょう!」


「私の武装錬金の特性は無限増援! この上なく沢山の自動人形が出てくるのですっ!」
 その頃。青空の目の前には巨大な鉄塊がそびえていた。笑顔の下で溜息が洩れた。目の前にあるのは鉄塊というより装
甲の集合体というべきかも知れない。とにかく青空の手にあるサブマシンガンでは何万発ブチ込もうが破れそうにないのは
確かだった。装甲列車。オリーブドラブで彩られた長大な鉄竜の頭。それが青空の前に止まっていた。
 笑顔のまま首を上げる。さきほど青空を轢き損ねて急停車した先頭車両の上でたじろぐ気配がした。だぼだぼした黒いワ
ンピースを着たやや猫背の女性が恐怖に満ちた表情で見返してくる。ひどく野暮ったい黒ブチ眼鏡をかけた彼女の名前は
……えーと誰だっけ。青空は笑顔で誰何した。
「クライマックス=アーマードです! 青空……リバースちゃんと同じ幹部の……ほら、『黄泉路に惑う天邪鬼』ことマレフィック
プルートの!」
 必死な形相と言うのはいまの彼女から開発された言葉ではなかろうか。わーわー喚きながら自分を指差すクライマックス
に青空はそんな割とどうでもいい諧謔を思いついた。
『ああ、もと小学校の先生だったわね。好きになったモノは何でも滅んじゃって嫌いなモノは何でもうまくいっちゃう不幸体質の』
 27歳。そんな彼女の足元にある鉄塊の正体が……装甲列車だと青空は思い出した。そして後続車両から迷彩柄の自動
人形がひっきりなしに沸いて来ているのにも気付いた。
 ポンと手を打つ。頭頂部から延びる異様に長い癖っ毛もイクスクラメーションマークのように跳ね上がる。
『お。もしかしていま私めは襲われているって訳?』
「当たり前です! このまえ私の腕を折ったじゃないですかぁ〜!」
『ナルホドナルホド。その仕返しなのねー』
 腕を組んで頷く間にもとりあえず発砲。跳びかかる最中だった自動人形が何体か粉々になった。
「そうですよぉ! マンション襲撃に反対するリバースちゃんちょっと嗜めただけで私の腕はこの上なくバッキバキ!」
『まま。グレちゃんに治してもらったからいいじゃない』
「何をいってるんですかあ! 体の傷は治っても心の傷は簡単には癒えないんですよぉ!? 分かってますか! 数か月で
すよ数か月! ここしばらくリバースちゃんの顔見るたびこの上なくトラウマが……トラウマがぁー」
 と世にも情けない声を漏らしながら装甲列車の上で体を抱えるクライマックスを果てしない笑顔が捉えた。
『気持ちは分かるけどさ。アジト壊すのはあんま感心しないのよねー』
.

78 :
 いま2人がいるのは模擬戦用にしつらえられた広い空間である。とはいえまさかその半ばまで装甲列車が突入してくるという
事態は想定していなかったのだろう。チラと青空が目をやった車両の根元、それが顔出す壁は見事なまでに大小様々の破
片を巻き散らかしている。治す労力はいま青空に弾痕を刻まれた床の比ではない。
『盟主様とかーイオちゃんならまあ笑って許してくれるけどさー。『月』の人やマジメモードのウィル君に見つかったら大目玉よ?』
 律儀にも床に描かれた文字を逐一読んでいるらしい。視線を落とし忙しく眼球を反復横飛びさせるたびクライマックスの顔
に汗が増えていく。あ、このコ後先考えてないなーと青空は思った。
 復讐心でテンパるあまりそれが周囲にもたらす影響などまったく考えていないようだった。
 顔はよく見ると意外に整っているが、しかし垢ぬけない。そこからメガネがずり落ち、果てしのない後悔の声が漏れ始める。
「やってしまった」そんなニュアンスが多分に籠ったすすり泣きに青空は同情しやさしく微笑む。天女のような笑みだった。
『おおよしよし。泣かないの泣かないのクラちゃん。手出しやめてくれたら私も片付けるの手伝うし、一緒に謝ってあげるから。
だからもう仲間割れはやめにしない?。身内同士の争いってのは醜いものよ〜。親殺しとか本当なにも残らないし』
「う、うっさいです! もう乗りかかった船なのですっ! だいたいここで手だしやめたらこの上なく中途半端じゃないですかあ!
ある幹部の人に「やっぱアイツはダメだなwwwwwww」みたいに笑われちゃうのですっ! これでもむかしはトップクラスの声
優で、いやいや勉強しながらでも教員免許取れるぐらいは頭いい私なのにっ! どうしてみんな馬鹿にするんですよ〜〜〜〜! 
私はこれでもこの上なく一生懸命生きているんです!」
 真赤な顔の上で拳を振り上げている様はとても3年後三十路になろうという女性の姿態ではない。だから馬鹿にされるん
じゃない? 先ほどからトリガーに指をかけっ放しの青空、まったく引き攣り笑いを禁じ得ぬ。
『はいはい。私もそれなりにこの上なく不幸な人生送ってるから気持ちは分かるわよ。だからもう退いて。ね? ただ襲うだけ
ならまだしも、地雷踏んじゃったらクラちゃんのがヒドい目に遭うんだから』
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔がぶんすかぶんすか横に振られた。
「やります! この上なくやっちゃいます! ささささささあ! 行くのですっ!」
 壁が崩れた。どうやらその向こうに埋もれている装甲列車から出て来たらしい。というより青空はもう包囲されている。
 中肉中背で迷彩柄の自動人形に取り囲まれている。無限増援という謳い文句に偽りなしで、いまや広い空間は全校集会
時の体育館よろしくなかなかの人口密度であった。
 それらを装甲列車の上から見渡す野暮ったい元声優は相当満足しているらしい。一番星を指差すようなポーズを交えた自作
の創作ダンス。それをテンポ良く踊り始めている。
「ずんちゃずんちゃずんちゃかずん☆ へい! 戦いは数デス! 憎む人ほど幸せになっちゃう私の変な体質も! 物量頼
りなら何とかなるのでデス! たくさんの自動人形を差し向けれれば1体ぐらいは嫌いな人を殺してくれる筈です! 脱・不
幸体質! そのために無限増援の特性が発現したのです!」
『あのさあクラちゃん』
「っとと命乞いなら聞きませんよ! リバースちゃんの武装錬金の弱点は分かってますから! サブマシンガンである以上、
いつかは弾切れする筈です! 対する私の武装錬金は無限に自動人形が出てきます! となれば勝負はこの上なく明白
です!」
 目を閉じてチッチッチと指振るクライマックスをむしろ青空は心配そうに眺めた。
『私の言葉読んでくれた方がいいと思うけど……』
「いっときますけど素手で対抗できるほど弱くもありません! いま出してるのはパワーフォーム! マレフィック最強のゴリ
ラの腕力を持つグレイズィングさんと互角にやりあえるぐらいの力はあります! リバースちゃんが激発したところで押し包
まれ死ぬのは明白!」
 さあやっちゃうのですー! 上機嫌に指さされた青空めがけ無数の自動人形が殺到した。そして一通り銃声と何かが砕
かれる嫌な音とが響き渡った後、広い空間は虚無にも似た冷たい静寂に包まれた。
「勝った。勝ちました」
 青空が惨死を遂げているであろう空間をバックにクライマックスは大見栄を切った。閉じた眼尻に浮かぶは歓喜の涙、
背筋をすっと伸ばし胸の前で拳を握る。背後から響く破壊音はレクイエムで……ファンファーレ。

79 :
「さらばですリバースちゃん。仲間、それも幹部級を殺せた以上、私にハクがつくのはこの上なく明白ですっ! ぬふふ。明
日からこそは私も馬鹿にされません! 馬鹿にしたら殺しますよーってすごんだらみんなヒィといって私を敬ってくれてお昼
時になったらおべんと箱で余ってるタコさんウインナーくれたりするのですよ。そしたらこう仲良くなれちゃうんですよ。人の
輪というのはそういうちっちゃなコトの積み重ねから……ええと何の話でしたでしょーか。ああそうそう。やる時はやりますよ
私は! ただ変な体質のせいで不幸まみれなだけで……!」
『お話のとこ悪いけどさー。浸るなら私の死体ぐらい確認してからのが良くない?』
 銃声がした。ぬぇ? と声を漏らしてそこを見たクライマックスは愕然唖然という態で口をあんぐり開けた。
 リバースこと青空は……無傷だった。むしろやられているのは自動人形の方で、あちこち砕けた迷彩柄が青空の周囲に
山と積まれている。そんな光景を交互に確認したクライマックスは顎に手を当てた。それは怪奇漫画調の驚愕顔で
「ほわわー!!!」
『いや、ほわわーとか叫ばれても……』
「そんな……! 私のパーぺきな計算では20体ぐらいやった後弾切れして、マガジン入れ替えてる辺りでとうとう自動人形
に襲われあれよあれよとやられちゃう筈だったのにどうしてぇー!!!」
 清楚な笑顔は申し訳なさそうに後頭部を掻いた。
『あのさ。実は私めの武装錬金、弾切れとかないのよね』
「ぬぇ!?」
『空気取り込んで銃弾にしてるの。じゃなきゃこんな何発も何発も壁とか床に文字書かないでしょ?』
「でででででででも! それでも銃一丁で無数の自動人形倒せる訳が!」
『そりゃあ全部完全破壊ってのは無理よ? でも動き封じるだけなら別』
 あ、と目を丸くしクライマックスが見た物は……そこらに転がる自動人形。
「膝だけが撃たれてます……」
『そ。膝壊せば歩けなくなるでしょ? これだと少ない手数で対抗できるって訳。伊達に弾痕で文字書いてる訳じゃなし、精
密動作には自信アリアリよ私』
「あのー。サブマシンガンで精密射撃とか意味がわからないんですがこの上なく」
 いろいろ突っ込みどころがある。ガクリと肩落とす元声優に青空はかるく眉をいからせた。笑顔のままで。
『ホムンクルスの高出力なら反動とかいろいろ抑えられるのよー!! だからやれるのですっ! シャキーン!』
 ブイサインとか床の文字とか忙しく見比べる元女教師、よほど唖然としたようだ。いよいよ精彩を欠いていく。
「だから膝だけ狙って壊すなんて朝飯前……えー。無茶くさくないですかーその理論…………」
『んふふ。こっちのリソース限られてる上に相手が無限ときたら頭使わなきゃ。這いずってるのも居たようだけど、他の自動
人形さんたちに倒れこんで貰えば問題ナシよ。重みで動けなるからね』
 クライマックスはしばらくポカンとしていたが
(何ですかァ〜この人ッ! 憤怒担当のクセになんで私より頭使ってるんですかああああ! 妬ましいです! この上なく
嫉ましいですっ! 憤怒ならもっと怒り狂っててみっともなくて、私より馬鹿にされてればいいのにぃーー!!)
 ギリギリと歯ぎしりし始めた。すると騒がしい視界の中、はるか遠い青空の腕がゆっくり上がるのが見えたので息を呑む。
歯ぎしりをやめたのは、尾てい骨の辺りから絶対零度の竜巻が脳髄めがけ舞いあがってくるような気がしたからだ。
 恐怖。青空ことリバース=イングラムのサブマシンガンの銃口は、確かに自分を捉えている!
 
(は! しまった! 武装錬金こそ装甲列車ですが実質的には私、自動人形の使い手です! そして強い自動人形と戦う
場合、その使い手を斃すのが一番手っ取り早い……)
 笑顔の青空が開いた左手で下を指差した。予め書いていたのだろう。自動人形の背後には『続けるっていうならクラちゃん
撃つわよ。仲間割れはサクっと終わらせなきゃね』とある。
 クライマックスはかっくりと首を垂らした。
「降服です。この上なく降服です。リバースちゃんには勝ち目ありません」
『分かってくれればいいのよ』
「なーんていうのはウッソですー!」
 足元に正方形の光線が走った瞬間、没するクライマックス。向かうは装甲列車……内部。

80 :
 その最中、両耳に手を当てありったけ愚かな表情──両目を回転させ舌を上下動させる、初歩的な──を青空に叩きつ
けるのも忘れない。
「ぬぇっぬぇっぬぇーっ!(←笑い声) 要するに装甲列車の中にさえ入れば私は無事です! この上なく無事なのですっ!」
『いまクラちゃん、私をすっごい馬鹿にしたわね?』
 青空は相変わらずの笑顔だが、まなじりと口角は目に見えて引き攣り、戯画的な怒りマークさえ随所に散りばめられている。
 そんな顔をモニター越しに見ながらクライマックスは腰に手を当て「わっはっはー!」と大爆笑した。
「にょろにょろぱっぱー!(この上なくヒットした声優デビュー作の主人公の口癖)、ハローおいでませマイクちゃんっ!」
 指パッチンとともにどこからかマイクが降りてきた。プロのミュージシャンが見たらありがた〜く使いそうな超高級なマイク
である。クライマックスはそれに向かってやけに透明感のある綺麗な罵声を吹き込み始めた。
「いくら弾丸数が無限といえど、たかが空気の炸裂ではこの上なくブ厚い装甲は破れません! あとは自動人形出しまくっ
て出入口完全ガードしていればこのこの上なく私の勝ちですっ! ここに入ればこの上なく安全ですから悪口も言いたい放
題! ばーかばーか! 狂暴なのか軽いノリのおねーさんなのか清楚な無口なのかあまりキャラ固まってないばーかばーか!!」
 悪口はご丁寧にも装甲列車各部にしつらえられたスピーカーを介し、青空の耳を徹底的に叩いた。

 羸砲ヌヌ行は語る。

「さて紹介が遅れたがクライマックス=アーマード。ノリこそこんなんだが一応腐ってもマレフィック、強さは鐶と互角だよ。
まあ、鐶と互角といってもだね……この時の相手はその……」

「玉城青空。……そうだねえ。あの鐶のトラウマだからね。あんなんにした張本人だ。妹より強いお姉ちゃんだ」


「勝てる訳がない。当然だよ」


『くぉんの27歳があああ! 腹立つのは悪口じゃないわ! 私より9つ上なのに光ちゃんより程度が低いところよ!』
 襲い来る自動人形どもを遮二無二に迎撃しつつ彼らの胸に文字さえ刻む(一体一文字で通し番号がついていた。番号順
に読むと上記の文章になる)青空にクライマックスはちょっと戦慄したが、冷汗混じりでなお悪口をいう。
「ふ、ふふ。無駄です。この上なく無駄です。重ねて言いますけどねえ! リバースちゃんの武器じゃこの列車の装甲はこの
上なく貫けません! 出入口から殴り込もうにもそこには屈強な自動人形を集中させているから絶対に突破できません!
自動人形を斃し続けたって無駄ですよぉ! 無限ですから! 無限に出て……ヒッ!」
 クライマックスは思わず両耳に手を当て身を屈めた。
 何故か? 青空を映していたモニター。それに拳が直撃したためである。もちろん割られたのはカメラでモニターは砂嵐
を移すだけだったが、そうなる直前見た映像はつくづく恐ろしかった。
 青空は、笑っていた。
 例の目で。
 鋭い端を地上に向けた黒い三日月の中で紅眼を輝かせている例の目で。
(あああああの笑み。わ、わたしの腕を折った時の…… いえ! 落ち着くのです私! 私はいま有r…… っ!?)
 クライマックスがぎっくりと体を震わせたのはその腕に幻の痛みが蘇ったためである。叫びたくなったが辛うじて堪え、
恐る恐る、左右見渡しつつ、立ち上がる。

.

81 :
.
                                                                   ……ゴン。
                                        ゴン

              ゴン……

 どこからか鈍い音がした。
 装甲が叩かれているようだった。
 よく耳を澄ますと「よくも言ってくれたわね許さない許さない許さない」的な呪詛が流れているような気さえした。

 カリカリカリ カリカリカリ カリカリカリ カリカリカリ カリカリカリ ガリッ ガリガリ ゴリゴリ ズゾカリガリゴリカリゴギギ……
 殴る音はひっかくような音に変わってもいる。
 思わず後ずさる。するとブォンという音が鳴り。

 眼前いっぱいに青空がきた。

「ひィ!!!?」

 後ずさったとき、誤って、予備のカメラのスイッチを押してしまった。……気付いたのは後だからクライマックスは青空が
巨大化して突入してきたのだと本気で信じた。青空。相変わらずの目でケタケタ笑っている。笑いながら列車の壁に張り
付いてモゴモゴ動いているのはやはり引っ掻いているからだ。
 蟲のような動きだった。なまじ美しい少女だからこそますます地獄のようなおぞましさがある。
 予備ながら高性能のカメラは捉えた。爪の剥がれた指を。
 関節のシワさえない綺麗な掌はいまや血まみれだ。この辺りでやっとまだ青空が外にいるのを確認したクライマックス、つ
いつい余計な好奇心を催し
(やっぱ引っ掻いてる? 何か描いてるんでしょうか? あ! アニメのキャラとかでしょーか! 内向的な人だし!)
 カメラを切り替えそして後悔。なぜなら青空、乱れ狂った字で

82 :
「光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃ
ん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰って
きてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃ
ん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰って
きてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃ
ん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰って
きてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃ
ん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰って
きてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃ
ん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰って
きてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃ
ん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰って
きてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃ
ん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰って
きてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃ
ん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰って
きてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

83 :
 と、描いていたからだ。

「駆逐ぅーーーーーーーーーーー!! この上なく全・力でええええええええええええ! 駆逐ぅーーーーーーーーーーー!! 」
 クライマックスを貫いた衝撃はとてもスゴかった。眼鏡の奥から涙を噴出し絶叫する彼女の精神のどこかで新しい扉が開
く。武装錬金が進化した。増援を繰り出す速度が3倍になりものすごい数の自動人形が青空をつつみどこかへ流れていく。

(いやあああああああああああああああああ!! 怖いいいいいイイイイイイイイイイイイイ!! こわいいいいいいいい!!)

 壁に背を預ける。うっかり寝坊した朝、慌てて2キロ先の駅まで全力疾走したような消耗がクライマックスを襲う。彼女はただ
ただゼエハアゼエハアと息をした。震えが止まらない。怖気も。狭い運転室は一段と息苦しさを増したようだった。
(ななななななにをこの上なく怯えているんですかあ私! というか怯えさせるコトこそあのコの狙い、迂闊に動く方が危な……
だってそうじゃないですかあ! 私は武装錬金の性質と特性を十分に活かしています! リバースちゃんもそれは同じ! も
う武装錬金の性質も特性も出し尽くしている以上、勝負はどう考えても私の勝ち。勝ちに……え? 勝……ち……?)
 顎に汗が溜まっている。運転室の居住性が悪いせいだろう。自分1人の体温が籠るだけで不快指数が外界とは段違いだ。
そういう愚痴にも似た。思考を渦巻かせながら顎に手をやり……そして止まる。何か、見落しているような気がした。
(い、いえ! そんな筈は──…)
 意識の明るい部分はつくづく自分の正当性を主張しているが、本当にそうだろうかという疑問が浮かぶ。
 息を吸い、大きく吐く。
濁った酸素でも横隔膜を刺激して副交感神経に働きかけるぐらいはできるらしい。思考に幾分落着きが戻ってきた。床に
腰掛け思考をなぞり直す。

 A.サブマシンガンじゃ列車の装甲破れない? 
 Q.はい。

 A.出入口突破の可能性は? 
 Q.ゼロ。

 A.自動人形を出し続けた場合、先に参るのはリバース? 
 Q.イエス。

(私は武装錬金の性質も特性も十分に活かしています。その結果、相性的には負ける筈がありません。ただ)

 女教師としての成長。声優として貯め込んだ社会的経験値。
 それらが告げている。様々な正解を紡いできた回路が、決して悪くない頭脳が……警鐘を鳴らす。

,

84 :
.
 自分は本当に理解しているのか? 
 リバース(青空)の武装錬金特性を……


 本当に本当に、理解しているのか?

 気付いた瞬間、クライマックスは「ぅあ」と立ち上がった。

──(私は武装錬金の性質と特性を十分に活かしています!
──(リバースちゃんもそれは同じ!)
──(もう武装錬金の性質も特性も出し尽くしている以上、勝負はどう考えても私の勝ち)

 息を呑む。襲いくるはおぞましい予感。

(私はこの上なく思い込んでいました!!)

(あの武装錬金の特性が「空気を使った無限弾丸」と!!

(でも、本当は……本当はこの上なく違うんじゃあ!?)


 クライマックスがひとり立ち尽くしているそのとき青空は、

『先に教えてあげる。あなたの敗因……それは』
 何百体めかの自動人形を撃墜し、そして唇を尖らせた。
『……スピーカー越しにベラベラベラベラ悪口いいまくったコトよ』

 いよいよベールを脱ぐサブマシンガンの武装錬金『マシーン』。その銃身はただ冷たく輝く。
 青白い煌きは静かにすすり泣くように……。

85 :
以上ここまで。過去編続き。

86 :
なんかもう、武装錬金の二次創作じゃなくこの作者の中にだけある武装錬金を吐き出してるだけって感じがする
正直、ちょっと怖いです

87 :
>>スターダストさん
反動抑えるとか精密射撃とか、「ホムとしての力」も存分に使えるのが戦士たちと比べて
有利なとこですよねえ。戦士側にもまあ防人みたいな例外はいますけど。にしてもやはり、
アニメ・漫画化されたなら私ぁクラちゃんが一番ツボりそう。動いてる姿、可愛いだろなぁ。

>>86
それは和月先生に対して失礼。核鉄やホムンクルスの設定をお借りしている以上、
「これは武装錬金の二次ではなく、俺様独自の『一次』」なんて理屈は絶対に通りません。
あくまで借り物、どこまでいっても『二次』の枠内。その現実を忘れるのはダメですよ。

88 :
(仮にもマレフィックな以上、もっとこう強力な特性だとしても不思議じゃ──…)
 インラインスタンスに似た相手を威嚇する構えの青空。その腕に彼女そっくりの自動人形がぴょこりと乗った。
(モニター! さっき消したモニター! あれでリバースちゃんの様子見なきゃ、この上なくマズいです!)
 ダイアルやレバーやスイッチを乱雑に押しまくった甲斐あって、砂嵐まみれの画面は視界を回復した。
 その中では、ちょうど。
 青空に似た人形が銃口にブラ下がるところだった。
 どうやらその人形の頭頂部から延びる毛は、ストラップよろしく楕円の輪へ変じるらしい。
 それが、銃口に掛った。
(初めて見る形態です! まさか! まさか『特性』はあの形態から──!?」
 サブマシンガン、イングラムM11の先端にあるサプレッサーから空気の奔流が射出された。不可思議だったのはその
瞬間、人形さえもうっすらと輝いたコトである。その残影はまるで透明な弾丸に引かれているようにモニターめがけ向かって
くる。
(ま! まさかこのパターン! 弾丸がモニターを突き破ってここまで来るとかそーいうアレなのでしょーか!!)
 井戸から出てきた怨霊が徐々にテレビの画面に迫って来て遂には出てくるという、「霊じゃなく憧れのアニメキャラならす
ごいいいのに」的なパターンを想定して身構えるクライマックスだったが、はてな。弾丸はモニターのやや上に直撃したきり
いっこう迫ってくる気配がない。
 クライマックスは顎の汗を拭ったきりしばらく震えていたが、何事も起こらないのを認めると背筋をビンとし笑いたくる。
「ふ……ふはは! んな馬鹿なコトはありませんよね! だいたい予備モニターとぉ? 私の位置関係は一直線じゃないで
すもん。まさかモニターに入った弾丸がですよ、配線にきっちり沿ってビヤーとやって来て私をこの上なく正確に狙うなんてコト
あったーっ!!」
 弾丸は意外なところから飛び出て来た。マイク。さきほど罵詈讒謗の限りを吹きこんだそこから透明な空気の奔流が飛び
出している。透明なのになぜ分かったかと言うと、うっすら輝き半透明にもくゆる青空人形の残滓がひっついているからだ。
(は! まさか狙ったのはモニターじゃなくて……スピーカー!? でもどうして銃弾なのに音系統を狙……あ、いや! そ
んなコトより!)
 疑問に固まる体を無理やり動かす。間に合った。銃弾はギリギリ横を通りすぎていった。そのまま千鳥足で両手を前へ前
へと回しながらマイクへとたどり着く。弾丸はスピーカーからマイクを介し出てきた。故に壊す。第2第3の銃撃を防ぐべく……
そう思ったクライマックスの背後で空気の奔流がねじ曲がる嫌な音がした。顔の左、3分の1ほどを覆う野暮ったい長髪が
舞い上がる。嫌な予感。半ば涙目で振り返る彼女は……。目撃。
 人形の残影を引く弾丸が、こっちを見ている。
(待って下さい! 避けたのにどうして!?)
 轟然と放たれた弾丸を避けるべくしゃがみ込む。それでは足らない、レッドアラートを付ける本能に従い右に側転。それは
申し分のない正解だった。なぜなら半透明の弾丸は、つい先ほど彼女のいた場所にめり込んでいる。だが勢いは死んでいな
い。着弾したそれが奇妙なうねりを上げている。傍の人形も笑みを消さぬ……。
 いまにも来る。予感。狭い指令室の中をめいっぱい飛びのく。負けじと元気いっぱいの跳弾が向かってくる。
 わずかだが、距離は取れた。およそ3メートル。ただし背中はいよいよ部屋の端、行き止まりに近づいている。
(落ち付くのですっ! ただの自動追尾なら対処できます! 慌ててはなりません!))
 目を細め、腕を上げる。アラサーと跳弾の間に光が瞬いた。そこに5〜6体の自動人形があるのを認めたクライマックスの
表情がやにわに明るくなった。一同に会している人形どもは、奇妙なコトにすべて、クライマックスと同じ姿、同じ衣装であった。
「どどどどーいう原理か知りませんけど、自動追尾ならそれなりの原理がある筈ですっ! いま出した自動人形はダミーフォー
ム! 体温動き脈拍身長指紋虹彩体重ぜーんぶ私と同じものですっ! 私を標的にした以上、狙うのはこの上なく前の方
にいる自動人形たちで……ゆええええ!?」
 弾丸は一度空中へ跳ね上がり、迷うことなくクライマックスへと降り注いだ。自動人形など一切無視だ。
「いやああああああ! 許して! 許して下さい! 今までの悪口ぜんぶウソですからあ!!」

89 :
 手を組み、ちょちょぎれんばかりの涙を流して歎願するが銃弾は止まる気配はない。むしろ後ろに張り付く人形は、残影は、
持ち主同様狂い笑う。
 絶対に着弾してやる。逃げたきゃ逃げな無駄だけど。
 そんな笑みから逃げようにも狭い運転室、後ろへ行けば壁がある。前にはわだかまる自動人形、互いの動きを牽制し合っ
ている。そうと気づかず突っ込んでしまったクライマックス、不覚にも転び足を取られる。ダミーフォーム。創造主をトレースする
という自動人形たち……踊り始める。主の無様を完璧に真似……。
(にゃああああああ! どうせ真似するなら前へ駆けてく私のマネも正確にして下さいよー! 変な場所でわだかまってるか
らもつれ合ってぐちゃぐちゃになって、んで、ぶつかっちゃうんですぅ! 広々とした場所なら一定間隔が置けたのに……置
けたのにぃ)
 結果もんどりうつ彼女は自分の武装錬金の下敷きになり──…
「だああ有り得ません。この上なく有り得……あう」
 迫りくる弾丸を額に浴びた。


『いっとくけど本当の地獄はここからよ』
 ふっとサプレッサーを一吹き。装甲列車ににっこりと微笑む青空。
『喋っていいことなんて一つもないもの。特に私めを相手にした場合は、ね』

「幹部の強さは……分かりました。でも……お姉ちゃんも……それだけ…………強いんですか?」
『幹部というなら間違いなく、だ!』
「はい……お姉ちゃんは……海王星だ……そうです。武装錬金の特性を使えば……リーダーさえ勝てないと……」
 ほう、と目を丸くした総角はすぐさま好奇心たっぷりの笑みを浮かべた。侮辱されという怒りなどまるでない、子供じみた好
奇心丸出しの笑みだ。それは多くの武装錬金を使えるがゆえの探究心。「自分を倒せる」という青空の武装錬金に興味が
あって仕方ないという様子である。
「ちなみにどんな特性か分かるか?」
 赤い三つ編みが左右に振れた。
「お姉ちゃんは……私を撃つとき……特性を使いません……でした。ただ」
「ただ?」
「お姉ちゃん自身……だいぶ怖がっているようでした。……『たいがいエゲツなくてみんなも私もビビってる』……そうです」



『おとうさんがうたれた』


 少年の訴えを聞くものはいなかった。
 何故ならば「うたれた」場所は週末の遊園地で、「おとうさん」もピンピンしていたからだ。
 銃声だって現になかった。大きな音といえば離れた孫娘を呼ぶどこかのお爺さんの声ぐらい……。
 だが少年は確かに見た。人混みの隙間からピストル──銃口だった。テレビドラマやアニメで見るより重々しく光り、しか
も不気味に長い銀色──が「喋ってるおとうさん」を狙い、何かを噴くのを。
 その瞬間、走ってきたおじいさんが銃身とおとうさんの間に割り込んできた。
 ”何か”は彼に当たったようだが……。
『おとうさんがうたれた』

90 :
.
 銃撃より早くそう思った少年は、ただその衝撃だけを伝えた。前後の詳しい状況は抜きにして。

 どうせ売店で売っているおもちゃか何かを誰かがふざけて向けたのだろう。
 報告を聞いた「おとうさん」は笑った。そしてこうも続けた。
 そんな事より一家団欒を楽しもう。
 いつものように透通った、家族みんなを安心させてくれる笑顔を浮かべた「おとうさん」は「おかあさん」と「少年」と「いもう
と」にいった。
 そのとき、後ろで見知らぬお爺さんが再び声を張り上げた。
 声に籠る恐ろしい気迫、少年が悪事を働いた時におかあさんが降らせる怒鳴り声から、理性を全て抜いて代わりに憎しみ
と恐怖の綿をたんまり入れたようなおぞましさに思わず少年が振り返った時、お爺さんの足もとには鼻血を吹いて仰向けに
転がる女の子(幼稚園ぐらい)がいた。
 恐らく蹴られたのだろう。ピクリともせず瞬きもせず、ただ黒々とした大きな瞳を空に向けていた。頭の大事な部分を打っ
てしまったのかも知れない。同じくらいの年齢の”いもうと”は直観的恐怖に泣きだした。
 お爺さんが係員に押さえつけられたのに少し遅れて、おかあさんが少年といもうとの前に立ちはだかった。
 後はただ聞くに堪えないお爺さんの喚き声だけが響いた。人混みは俄かに凍り付き、ひそひそとした野暮ったいやりとり
ばかりが残された。
「はぐれたからって何も蹴らなくても……」、おかあさんは眉を顰め、おとうさんも同意を示した。
 しかし少年だけは別の感想を抱いた。何故なら彼は振りかえった瞬間、お爺さんの目を見てしまった。
 まったく焦点の合わない、この世の物とはまったく別の物を見ているような目。
 係員に押さえつけられても視線はあらぬ方ばかり見つめていた。というより自分が押さえつけられているという自覚さえ
持てていないようだった。まるで少年達には見えない『何か』とだけ闘っているような……そんな眼差し。
 
 しかしそれをおとうさんに教えても、「またおかしな事をいう」と笑われそうだった。笑われるだけならいいが、せっかく遊園
地に連れて来てくれたお父さんに何度もおかしな事をいい機嫌を損ねるのは申し訳なかったので──…
 来年中学生になる少年は黙った。
 そしてこれが最後の一家団欒になった。


 ほの暗い場所に細長い影が突っ伏していた。人の、影だった。もっと正確にいえば黒いワンピースの上で長い黒髪をざっ
くりバラ撒ける女性の細い体がうつ伏せに倒れていた。着衣はお世辞にもお洒落とはいいがたい。量販店の特価品を適当
に洗って使い回しているのだろう。白いダマのついたあちこちの繊維はそれ自体もザラザラと荒れ、長い袖口はほつれ糸を
垂らしている。このまま恋も目標もないだらしない生活サイクルの中で漫然と使い続ければ数年後間違いなく破綻する──
それは服だけでなく、艶のない、パサついた髪にもいえたが──ワンピースが軽く打ち震えた。同時にあくびを思わせる呻
き声が漏れた。影の首だけが動き、それは依然突っ伏したままの全身の中で唯一前だけを見た。直立状態であれば「上を
見た」という方が正しい位置に移動し、取りとめのない声を漏らした。
「あれ? なんともない?」
 額に不可解な弾丸──半透明の人形がおまけのように尾を引く──を浴びたクライマックスは不思議そうに呟いた。撃
たれた箇所をさすってみる。異変はない。もうすぐ三十路になる女性としては破格的に滑らかな肌は無傷である。腫れても
いない。そーいや指が触れても痛くなかったと気付いたのは地面にわだかまる黒髪をやっとの思いで引き上げ立ち上がっ
た瞬間である。だが新たな疑問も浮かんだ。
(なんで立てたのデスか私?)
 首を捻る。先ほど自分の背中に山と積まれていた自動人形たちはどこへ消えたのだろう。アレが夢でないコトは背中一面
に走る鈍痛が嫌というほど証明している。やるせない。そんな気持ちでメガネをくいと掛け直す。
(高出力のホムンクルスだから起きる時に跳ね除けちゃいましたか? それともこの上なく無意識の解除……?)
 ぐづぐづ鼻をすすりながら辺りを見回す。自動人形はない。仮説は後者のが正しいのか? そこまで思いを巡らしたとき、
クライマックスは眼前の光景に息を呑んだ。
「どこ? ココ? この上なくドコですか?」

91 :
 景色は一変していた。先ほどまでいた装甲列車の狭苦しい運転席が消滅し、代わりに真っ暗な空間がどこまでも広がっ
ていた。一瞬、あの弾丸の特性が視力奪取で自分はいま盲目なのではないかと疑いもしたが、試しに目の前で振った右手
はまったく鮮明なまでに見えた。つまり盲目ではない。ただ真暗な空間にいる。光なき、静かな世界に。
「…………る」
 そこに、音が響いた。声のようだった。
「………けるける」
 耳を澄まさねば聞き逃しそうな小さな声。不意に響いたそれに背筋を粟立てながらなおクライマックスが発信元を求めた
のは単純にいえば好奇心である。
青空の武装錬金特性を乗せた弾丸、それは確かに直撃した。
 だがその効能はいまだ分からない。痛みは特にない。体調不良も。自分の武装錬金が自動人形込みで消滅しているの
は不可解といえば不可解だが、辺りに広がっているのは暗いだけの空間で、まあ安全じゃないかとクライマックスは思う
のだ。
(だいたいですね! 武装錬金の特性っていうのはこの上なく単純なのですっ! たぶんアレですよ。リバースちゃんの武
装錬金の特性は弾丸操作あたり……。ほら、精密射撃が得意だ得意だっていってたし、それでスピーカーに弾丸潜り込
ませて私を狙ったはずなのです! 私と指紋虹彩その他いろいろまったく同じだったダミー人形無視したのも多分そのせい!
特性は自動追尾じゃない筈だし、辺りが暗いのは私が武装錬金の制御を欠いたせいです! うむうむうむ! きっとそう
ですこの上なくっ!)
 頷きながら気楽な調子で声の出所を追う。きっとリバースこと青空が居て「分かるでしょもうケンカやめましょう」とでも喋っ
ているに違いない。だから停戦協定には応じよう。どう見ても完敗だが「これ以上続けるのは大人げない(まあ続けても勝
てますけどねリバースちゃんの顔を立ててすっこみます」なる勿体ぶった態度を取れば引き分けぐらいには持ち込める。
名誉を保ったまま引き下がれる。などとい汚い笑みを浮かべるクライマックスは……いつしか自らの視界がある一点に留っ
てまっているのに気づいた。
 釘付け、といっていい。
 なぜなら20メートル先のその地点には。
 声の出所には。
 
 妙な物がいた。
「けるけるける」
『それ』はクライマックスに背を向けて、座りこんでいた。笑っているのか泣いているのか名状しがたい声を上げながら、ひっ
きりなしに肩を震わせているのが遠目からでも見えた。いや、遠目から見えるほど、肩に力を込めているらしかった。
 姿は怪物……ではない。
 人間のようだった。
 女性のようだった。
 主婦の、ようだった。
 洒落っ気のない生活臭にあふれたTシャツの上で美容を忘れて久しいパサパサ髪を声とともに震わせながら、『それ』は
何らかの作業に没頭しているようだった。
「けるけるけるけるけるける」
「けるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるける」
「けるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるける」
 時折大きく息を吐くたびその声は途切れ、一瞬の中断の後にますます力を込めていく。
 クライマックスの小さな喉首の中で落ちゆく唾液が空虚な引き攣りを起こした。
(……誰? というか……何なの?)
 気配を感じたのか、笑いが止まった。そして『それ』は首を捻じ曲げ、顔の右半分だけをクライマックスに見せた。
 安堵が起こる。その横顔は普通の女性の物だった。美人、といっていいだろう。だらしなく笑う唇から幾筋もの涎が垂れ
ているところは流石に正気と言い難いが、クライマックスが常日頃見てやまぬ異形のホムンクルスどもに比べればまだま
だ、笑う青空のがはるかに怖い。
(ところで誰かに似ているような気もするのですが……。この上なくどこかで見たことある顔立ちです)
 よく分からないが、人間ならどうとでもできる。人型ホムンクルスかも知れないが、「私は一応幹部です。しかも調整体。
ただの人型には負けませんよ!」的な自信がクライマックスをドンと後押しした。
「あのー。何してたんですかこの上なく? というかココ……どこなんでしょーか」

92 :
 柔らかい言葉に呼応したのか。その女性は「ける」と一鳴きするとゆっくり振り向く。体ごと、ゆっくりと。





「いっぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」



 喉がそのまま爆裂しそうな叫び声をあげるやいなやクライマックスは反転。迷うコトなく後方めがけ駆けていた。

「けるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるける」
 何がおかしいのか。女性は左こめかみのあたりからけたたましい声を漏らしている。眼窩があるべき場所に目玉はなかっ
た。そこからこめかみまで巨大な楕円に侵食され、穴の周りには桃色の粘膜が隆々とまとわりついている。唇に似た粘膜が
中央に向かってすぼむたび愉悦とも嗚咽ともつかぬ”けるける”が薄暗い空間に響いていく。そのド真ん中の暗い穴の中に
白い歯が無軌道に生えているのを見た瞬間、クライマックスは走っていた。踵を返し、滝の涙を屈折させ。
(なんですかアレなんですかアレなんですかアレなんですかアレええええええええええ!!!)
 顔の右半分は普通の女性だった。だが左は違う。『口』のすぐ横、鼻梁のすぐ左側に単眼畸形のような巨大な瞳が縦につ
いていた。死人のように白い右とは対照的に、左の肌はサーモンピンクに染まり青色の静脈を随所にぴくぴくと波打たせて
いるのはまったく以て正視に堪えぬ、馬鹿げた有様だった。
 だが走り出したその先にも『それ』はいる。唖然としつつ振り返る。やはり居る。良く見ると女性の向こう側には冴えない
後姿で立ちすくむアラサー、つまりクライマックスもいる。
 その向こうには『それ』、アラサー、『それ』……。合わせ鏡の連続だった。
「けるけるけるける」
『それ』が視線を落とした。クライマックスなどどうでもいいのだろう。声がかかったのでちょっと反応した……という位ですぐに
興味を無くしたのだろう。
 女性は座ったままの体をちょっとばかし前傾させ──…
 それまでの作業を、再開した。
(ひっ)
 息を呑むクライマックスのはるか先にいる『それ』の前には……
 赤ちゃんがいた。
 普通の顔つき。愛らしいといっていって過言ではない。クライマックスでさえ母性を刺激され抱っこしたくなるほど──だが
そうした場合、たいてい無残な死を遂げる。『好きな物ほど惨死する』。それがクライマックスの不幸体質──だった。
 とにかく赤ん坊の首を『それ』が絞めていた。
 ひょっとしたら振り返る時さえ手を離していなかったのか。
 けるける。けるけるけるける。まるで赤ん坊をあやしているような他愛もない、どこか舌を巻いているような声を漏らしながら
もありったけの力を込めて絞めていた。
(やめて……)
 ホムンクルスよりもおぞましい怪物が赤ん坊を絞めR光景。本能的な耐えがたさがあった。
 ほやほやとした白い肌。
 柔らかな産毛がうっすら生える頭。
 穢れを知らない大きな瞳。
 抱っこすればきっと屈託のない笑みを浮かべるだろう赤ちゃんは、クライマックスにとって、理想の終着だった。
 .

93 :
 彼女が人を殺したいと欲するのは不幸体質を治したいがためだ。誰でもいいからとっと殺(や)ってババを押し付け、恋を
して結婚をしたい。人類史上あまたの女性がくぐり抜けてきた激痛と莫大な消耗を経た後、産婦人科のベッドの上で布にく
るまれた赤ちゃんを抱っこして、産湯の匂いを吸いこんで……「ありがとう」。涙とともに限りない愛情を伝えたい。未来の旦
那様が頑張ったなと泣いてくれたら最上級の幸せだ。
 だからだろうか。クライマックスは引き攣った制止の声を上げていた。
「やめ──…」
 悲鳴のような声を上げかけた瞬間、事態はますます奇妙な方向へ傾いた。
 赤ん坊の首を絞めていた『それ』の腕が血を吹き、ばらばらと崩れ始めた。腕だけではない。異様な顔つきも胸も腹も足
も、空中で瓦解する。破片を黄色い汚穢(おわい)と化しながら消えていく。チアノーゼをきたしていた赤ん坊の顔が今度は
黄色く染まる。距離を置いているクライマックスでさえ”えづく”ほどの強烈な酸味。次いで化膿した傷口特有の腐敗臭。嗅
覚が全力で嘔吐感を盾にしたがる──まっとうに嗅ぐぐらいなら胃酸でぐっさぐっさに溶けた吐瀉物の生臭さを選ぶぜ、そ
れが全嗅覚受容体の総意らしかった──痛烈な臭いが辺りに立ち込めた。
 何が何だか分からない。しばし呆然と立ちすくんだクライマックスは慌てて首を振った。
 赤ちゃん。首を絞められていた赤ちゃん。放置していいものではない。母性のもたらす一抹の正義感の及ぶまま、クライマッ
クスはどたどたと駆け寄った。近づくたび濃くなる悪臭などとっくに意識の外だった。
「おぎゃああああああ」
 泣き声。良かった生きている……感涙さえ流していた筈のクライマックスが──…
 息を呑み、後ずさったのは。
「でぇへでぇへでぇへでぇへでぇへ」
 頬の中が見えた。色素がまるで沈着していないおろしたての粘膜がぬらぬらと波を打っていた。口はまったく閉じられる気
配がない。なぜなら下顎から下がぐっさりと潰れていたからだ。正確にいえば全開状態の顎が「もっと開けよ」とばかり下に
やられそれが喉ごと潰されているようだった。余程強い衝撃でなめされたらしい。愛らしい下唇はその裏側も露に胸までビィー
んと伸ばされており──クライマックスはそれに見覚えがあった。ネコ。出勤途中に威嚇ばかりしてきたネコ。大嫌いなそれ
が実は子猫を守っていると知った日からシャーシャー吹かれながらも餌を与え続けた。そしてついに手からエサを食べて貰
った瞬間……思った。『大好き』。ダンプが突っ込んできてネコは3匹の子供ごと2m近い毛皮になめされた。肉の潰れ具合と
損壊っぷりは正にいまの赤ん坊の下唇にそっくりだった──醜く抉れた喉首と癒着をきたしてもいる。そもそも首の方向も
正常とは言い難かった。右に向かって傾いている。左側からせり出した奇怪な瘤が肉や唇を螺旋状に取り込みながら新鮮
な口腔粘膜に伸びている様はクライマックスが母性を捨てるに十分な有様で、しかも瘤は扁桃腺とひっついてるようだった。
 そして顔の中央までばっくりと開いた口の更に上で、赤ん坊は造詣の不出来をネタにする芸人よろしくつくづく醜い瞠目を
やらかしている。
「でぇへでぇへでぇへでぇへでぇへ」
 そして笑う。壊れた人形より傾く首をぎこちなく動かして。
 糸のような目は確かに自分を捉えており、クライマックスはただ声にならない弁解とともに後ずさる。
「でぇへでぇへでぇへでぇへでぇへ」
 赤ん坊が眼を開けた。血のように真赤な瞳だった。目を開く作業は彼(彼女?)に相当の消耗をもたらしたと見え、産湯
の匂いのする温かな肌が一瞬にして重篤な皮膚病患者よろしく赤く爛れた。
 それが。
 宙に浮かびあがった。
「ひい!!」
「でぇへでぇへでぇへでぇへでぇへ」
 絹を裂くような悲鳴に反応したのか。赤ん坊は丸っこい手をばたばたしながら向かってくる。速度はそれほど速くない。全
力で何とかなるレベル! 最近運動してない27歳は逃れた後の呼吸困難さえ考えずただまろぶように反転し、全速力で
駆けだした。
「でぇへでぇへでぇへでぇへでぇへ」
 真赤な瞳の赤ん坊が、すぐ前に居た。
「ぎゃああああああああああああああああ!!」
 忘れていた! 先ほど首締めをやってた「けるける」は振り返ってなおそこにいた! 合わせ鏡のように絶え間なく空間の
向こうまでクライマックスとともにそこにいた! 後ろに走っても赤ん坊がいる……その可能性を吟じてから走るべきだった。
「いやあああああああ! 来ないでえええええっ!!!」

94 :
 後悔ともに振り払う。目的はいともたやすく達成された。手の甲を浴びた赤ん坊は即座に霧消した。砕けた、という感じで
はない。例えばプロジェクターの前で手を振ると、影の面積分映像が消える。そんな感じだった。実体のないものを追い散
らしたというべきか。とにかく赤ん坊は消えた。
「おぎゃああああおぎゃあああ」
 ほっとしたのもつかの間。声がした。顔面蒼白で周囲を見回したクライマックスだが、しかし視界の及ぶ範囲にはまったく
何者も存在していない。空耳。きっと疲れているのクライマックス。何かの海外ドラマの真似を口の中でしながら微苦笑する。
とにかく帰ろう。そう決めて、歩きだす。
「おぎゃああああおぎゃあああ」
 また声がした。全身を悪寒が貫く。空耳というにはあまりにリアルな声だった。確かに鼓膜を叩かれた覚えがある。恐る恐る
辺りを見回す。何もいない。いくら眼を凝らしても、何もいない。
(…………)
 嫌な予感。口の中をだくだくと湿らす抗菌性の液体を適当に丸めて嚥下する。声。元声優のクライマックスは商売道具でいか
に遠近感を出すか研究したコトがある。だからか。少し冷静になると「おぎゃあ」の出所がひどく正確につかめてきた。
 だがそれは、決して認めたくない事実だった。
「おぎゃああああおぎゃあああ」
 いやいやと首を振りながら、視線だけを自分の腕にやる。
 先ほど赤ん坊を振り払ったその腕へと。
「おぎゃああああおぎゃあああ」
 声は、そこからしていた。
「おぎゃああああおぎゃあああ」
「…………!!?」
 野暮ったい長袖の上からでも分かる。
 腕は波打っている。指先まで行った血液が心臓に戻るべくそうするように、肘を通り肩を目指しているようだった。
 その間にも声は近づく。もうクライマックスは言葉もない。
 歯の根を打ち鳴らす彼女は見た。見てしまった。
「でぇへでぇへでぇへでぇへでぇへ」
 真赤な目の赤ん坊が2体、冴えないアラサーの足を掴んでいるのを。

 しかも赤ん坊はクライマックスの体からボコボコと出てくる。
 手から、腹から、太ももから……。グレムリンが増えるように次から次へと──…

「体内…………近い声は…………中から…………」

 赤ん坊が一体、頬に手を伸ばし──…

 主演作第28話、圧倒的な敵の幹部相手に上げた『声優史上ベストテンに入る絶叫』。
 ブランク久しいクライマックス=アーマードはこの日それを再現した。

 遊園地に行った日からしばらく経つと、「おとうさん」はよく「おかあさんたち」を殴るようになった。
 みんなでテレビを見ている時、食事を食べている時、ペットショップで子犬を物色している時。
 突然声をあげればそれが合図だ。定まらぬ眼で虚空を見つめて暴れ出す。テレビに灰皿を投げ箸をへし折り、保健所か
ら救出された「心優しい人誰か助けて上げてください」の幼い雑種犬を地団太とともに踏み砕く。
 そして喚くのだ。来るな。やめろ。離せ。
 大きな声が轟くたび、制止に入る「おかあさん」の顔に痣が増えていく。
 だが彼は憎悪によって暴れている訳ではない。だからこそ皆不幸だった。彼含め誰もが……不幸だった。

95 :
 原因不明の幻覚症。どの病院に行っても同じ診断が下された。事実「おとうさん」が暴れる時、必ず彼は恐怖に拡充しきっ
た瞳を虚空に向けていた。「あかあさん」の鼻に包丁を刺し一生鼻水がそこから漏れ続ける穴を開けた時も、「いもうと」の
膝を蹴り抜いて杖なしの生活を奪った時も、常にどこか別の場所を見ているようだった。少年が顔面に陶器皿を浴びた時も
殴られた3本の肋骨が肺に食い込んでいる時も、「おとうさん」は虚空の『何か』に来るな来るなと悲鳴を上げ、物を投げ、
拳を出して蹴りを繰り出していた。
 そういう時は遠巻きに見ているのが一番安全だった。最初は近づいて止めようとした。助けだって近所から呼んだ。だが
決して止まらない。何を呼びかけても伝えても、彼は暴れ続けた。気立てのよかった近所のおじさん──夏はよく釣りに連
れていってくれた──が左腕を折られ疎遠になった辺りで一家は気付き始めていた。1時間。それだけ暴れると「おとうさん」
は正気に戻る。戻って、家の隅で抱き合って震えている家族を一瞥すると、止まらない鼻水でボロボロの服を汚す妻を見る
と、5本目の杖を折られ逃げようにも逃げられない娘を見ると、彼は涙ぐみながら乱痴気騒ぎの後片付けを始める。
 とにかく1時間。1時間遠ざかっていれば難は逃れられる。
 だがその1時間はいつ来るか、分からなかった。
 彼は職場では一切暴れなかったがそれがますます不幸だった。
「家庭に原因があるんじゃないの?」 近所はそういう冷ややかな目を注いでくる。事実彼は家族と居る時だけ暴れた。
 悪夢の1時間。
 てんかんのように訪れるその1時間を避けるにはどうするか?
 一緒にいなければいい。
 いつしか芽生えた暗黙の諒解は、埋めがたい溝を作り始めた。





「おーおー。非道い事をしたようじゃのう」
『あらイオちゃん』
 まんじりともせず装甲列車を眺めていた青空に変化が生じた。彼女はやおら振り返り、満面の笑みで手を振った。
 装甲列車が突入してきた辺り。壊れた壁やその瓦礫をひょいひょい飛び越えてくる影がいた。
「だんだだだだん! だだんだんだだん! だんだだだだん! だだんだん!」
 影はやがて青空目がけ走ってきた。いやに人懐っこい笑みの少女だ。見た目に限っていえば青空の妹──光──と
ほぼ同じくらいという感じで衣装は黒ブレザーだ。走るたび首に巻いた赤スカーフが元気よく風になびく。それは髪型も同じ
だった。ポニーテール──ほどよく裂いた毛先がまんべんなくカールしているタイプの──がるんらるんらと横に揺れ、彼
女の雄弁に物語っている。その根元にかんざしが刺さっているのはひどく古風だが、不思議と似合っている……そんな少
女が「だだんだん!」。地を蹴り、青空に突撃。
「じーぐぶりーかー! Rええええええええええ!!」
「はいはい」
 飛びこむなり腰に抱きついてきた少女を青空は慣れた手つきで撫でた。すると彼女は大きな双眸をきらきらと輝かせなが
ら「いーやーじゃ! もっと撫でるのじゃ! もっと撫でるのじゃ!」と肩揺すって懇願する。
『だめだめ。イオちゃんはお仕事で来たんでしょ? 私めとじゃれあってる時間はない筈よ』
「ちぇ。ケチじゃのう。せっかく辛味噌味の兵粮丸(ひょうろうがん)作ってきてやったのにそういう態度ならやらんぞ」
 書かれた文字──それはクライマックスの自動人形の背中に刻まれた物だが、何があったかはどうでもいいらしい──
を横目でさっと流し読んだ”イオちゃん”、渋い顔して袋ば隠す。
『だってそれ、シナモンとか朝鮮ニンジンとか氷砂糖に混じって人の脳みそ入ってるんでしょ? あまり食指が動かないって
いうか……』
 少し長い文章を書き上げた青空、頬に手を当て溜息をつく。笑顔だがどこか艶めかしい。

96 :
「いやいや。わしらホムンクルスにはそれ位がいいのじゃよ。真の意味で空腹感が紛れるからの」
『よくいうわねー。人間だった頃からずっと食べてる癖に』
「いうはほえ」
 逆(さかしま)にした麻袋から雨あられと降り注ぐあずき色の団子。それを”イオちゃん”はあんぐり開けた大口に叩きこんで
いる。
『で? どんな本題で来たのかしらイオちゃん。真面目な話ならイオイソゴさんって呼ぶべき?』
「どっちでも構わんよ。ただ──…」
『ただ?』
 イオイソゴは無言で装甲列車を指差した。その先頭車両、クライマックスがいるであろう場所。そこからスピーカー越しに
悲鳴と絶叫が絶え間なく響いてくる。実は先ほどからずっとそうだったが、両者がそれに関心を向けたのはこの時が初めて
だった。
「ホレ。そろそろ解除してやらんか。阿呆の”くらいまっくす”とてヌシの特性を浴びせっぱなしというのは良くないじゃろう」
 青空は見逃さなかった。イオイソゴの片頬に一瞬とても意地悪な笑みが浮かぶのを。
(喰えない人ねえ。知ってる癖に。クラちゃんがどんな目に遭ってるか……)
 笑いながらサプレッサーへ手を伸ばす。テルテル坊主のようにぶら下がっていた自動人形が回収され……

 そして静かになるスピーカー。されどクライマックスの受難は、まだ──…

 以上ここまで。過去編続き。

97 :
.


『で、続ける?』
「お断りに決まってるじゃないですか! というか、ななななななんなんですかアレはあ! 怖かったです! この上なく怖か
ったですよおっ!」
 装甲列車を解除したクライマックスはまず、そう絶叫した。えぐえぐと泣きながら。
『何っていわれても……。アレが私めの武装錬金の特性だから仕方ないじゃない』
「じゃ、じゃあこの顔とか手は何なんですか!」
「おうおう。相変わらず第一段階からして怖いのう♪」
 楽しげに見上げ、時にはぴょこぴょこ跳ねさえするイオイソゴとは裏腹に。
 冴えなさが造詣の良さを台無しにしている27歳の顔は──…
 あちこちの皮膚が剥落していた。赤い肉を剥きだしにしている部分がほとんどだったが、右頬に至っては全ての肉さえ削
げ落ち、白い珠の羅列が露になっていた。人体標本じみた醜さだ。それを訴えたクライマックス自身、すぐに右手でそこを
覆って必死に隠している。
(痛いです。空気が当たるだけでこの上なく痛いです)
 虫歯は一本もない。だがそれに近い現象に襲われているらしかった。頬が削げた時に歯の表面も一緒に落ちたのだろう。
歯髄が剥き出しになっている歯が何本もあるようだった。
 左目もまた周囲の肉やまゆ毛やまつ毛がこそげ落ち、あたかもゾンビのようである。
『それも特性よ? でも珍しいわねー。顔がそうなるなんて。大抵は手か足よ?』
「おおかた暴れておる時に転び、赤ん坊に顔をぶつけたのじゃろうな」
 彼女らはクライマックスに何が起きたか知っているらしい。
(くぅぅぅぅ。この上なく腹立ちます! 自分たちだけ納得しても仕方ないじゃないですか! 私はカワイソーな被害者なのに
何の説明もないとか! ああああ妬ましいです! あなたたちだけ知っているのがこの上なく嫉ましいです!)
 気配を察したのか、ニンマリと笑うイオイソゴ。
「結論から言ってやるかの。りばーすの武装錬金の特性は『必中必殺』じゃ」
 黒ぶちメガネの奥で泣き腫れた目が今度は三度瞬いた。そして洩れる「漠然すぎます。分からないですよぉ」。
 やれやれ。イオイソゴ、農家のおばさんが如く大儀そうに腰を伸ばし……語り始める。
「まず必中の方じゃが、こいつは『一定範囲内にいる者のうち、発射直前に声を出した者』へ必ず着弾する」
「…………ひょっとして、装甲列車の中にいる私に当たったのって」
「そ。射程距離で喋ったせいじゃな。言っておくがこの特性の前では装甲だの壁だのは無意味。間に何があろうと、絶対に
着弾する。銃弾が音を辿り、0.0001みくろんのわずかな隙間さえくぐり抜け、声を出した者に……必ず」
 道理で、とクライマックスは納得した。先ほど出した指紋虹彩何もかも自分と同じ自動人形を弾丸が避けたのは「声を出し
ていなかった」ためであろう。
「そして、『着弾した物に幻影を見せ』、『幻影と接触した部分が剥落する』……それが必殺の要素じゃ」
「じゃ、じゃああの赤ちゃんとか変な女の人は──…」
「そう。幻影じゃ。銃弾を浴びた者にしか見えぬ幻影。……ま、厳密にいえば幻影でもないがの」
「?」
『波長が合う人にしか見えないって訳。幽霊とか波長の合う人にしか見えないっていうじゃない? それね』
 沈黙を守っていた青空(リバース)が文字を書くと、イオイソゴの頬に老獪な笑みが浮かんだ。
「必中のため弾丸が声を辿るのを見ても分かるように、りばーすの武装錬金”ましーん”の特性は相手の声を元に作られて
おる」
「もしかして、空気を取り込んで銃弾にする要領で、『声』も……?」
「そうじゃ。声を取り込み弾丸にしておる。必中するのもそのせいやも知れぬ。反響……、自らの声が跳ね返り、自らの耳に
届くように、弾丸は必ず届く。そしてじゃ」
『声って人によって違うでしょ? だから波長が合うご本人にしか見えないの』
 こんがらがってきた。分かるような分からないような理屈だ。
「そ、そもそも幻影じゃなかったらあの赤ちゃんとか女の人とかは何なんですか!」
「怨嗟の声」
「え」

98 :
 急におごそかになったイオイソゴ。たじろぐ思いのクライマックス。見れば少女のはつらつさはすっかり鳴りを潜めている。
 ひどく気難しいような、恐れているような顔つきになっている……。
「この世に谺(こだま)する怨嗟のえねるぎーというべきじゃ。それをりばーすは対象の声と混ぜ、跳ね返し、銃弾経由で
『伝える』事ができる」
『多分に私の心象風景が混じっているけどね♪』
 相変わらず笑顔の青空を見るクライマックスは寒々とした思いだ。心象風景? 女が乳児の首を絞め、歪んだ首の乳児
どもが他者に纏わりつくような光景が……心象風景?
「まだ入って間もないヌシには分からんじゃろうが、りばーすもいろいろあるのじゃよ」
「いろいろ……?」
「それはさておき特性発動前にじゃな。りばーすそっくりの自動人形がさぶましんがんに合体したじゃろ? あの自動人形
にはこの世の様々な恨み言が詰まっておる。その負の方向へのえねるぎー。「恵まれている者は絶対に許さない」「R」
「いつか殺してやる」……そういった怒りのえねるぎー、破壊的な力をたっぷり中にしまっておる」
「そしてそれはサブマシンガンと合体した時、銃弾に乗り、対象を壊す。……そういうコトなのでしょーか?」
 ああ。とだけイオイソゴは頷いた。
「じゃあいま私が罹っていた第一段階というのは?」
「皮膚・筋肉または骨の表層の剥落。それが第一段階じゃよ。りばーすの特性発動後約1時間はそれらがゆるゆると続く。
進行がもっとも遅いのはこの段階で、これはりばーすの警告をも若干含んでおる。特性を一通り見せつけてから解除して
も取り返しがつくようにな。で、解除してから聞くのじゃよ。『続けるか』、と。この辺りはまだ理知的じゃ』
 幼い少女の顔に影がどんどん射していくのに気づいた。怪談を語って孫娘をなるたけ怖がらせてやろう……そういう笑み
だった。27歳の女性にそうするにイオイソゴはひどく幼い姿態だが……実は555歳の老婆であるコトをクライマックスは
思い出した。
「ちなみに剥落する部位の9割は肘から先または膝から先じゃ。幻影に攻撃する部位だからなのはいうまでもない。先に
いっておくが最終段階まで行きついた連中が粉々になって現世から失せさるなどというコトはない。幻影に触れなかった
部分についてはその内部がグズグズに崩壊していようと『見た限りでは』現存する。もっとも大抵は空気のぬけたびにーる
ぷーるのように平べったくなっておるが」
「…………」
『あ、剥落していくのは声を元に相手の固有振動数を分析して、それを怨みの声に乗せてるせいなの。だからこう、ガギーっ
って相手の体が共振してタコマナローズ橋みたいに壊れちゃう訳』
 そんな震動を帯びた声が相手の体に潜り込んでいく……という説明書きもあったが、クライマックスはこの上なく読む気が
しなかった。
「第一段階がすぎれば症状は30分ごとに次の段階へと移行してゆく。第二段階は骨が徐々にだが確実に瀬戸物よろしく
割れていく。臓腑もまた蝕まれるがこの時点ではまだ吐血などの症状はない。死ぬほどの激痛こそあれ剥落しておるのは
あくまで表面のみ……体外に排出しようとも内部の管の循環には乗り様がない。緩慢な内出血または漏れ出でた体液が
腹腔に溜まっていく程度じゃ。吐血ないし下血といった症状がでるのは第三段階で、それはもはや正常な意思があろうと止
めようはない。餓鬼の如く膨れた腹へ溜まりに溜まった血液どもは孔のあいた臓腑へ喜んで潜り込み、それが消化器系で
あれば噴水のごとく体外へと流れ行く。その状態でなお暴れ狂うものもおるが、臀部から血を吹き散らかす姿はまったくこ
の世の物とは思えんよ。血と罵声と排泄物が立ち込める空間で喚き散らす姿は修羅か羅刹じゃ。骨髄やりんぱ節が完膚
無きまでに壊されるのはだいたい腹部が臓腑の欠片を出しつくした頃じゃが、大体の者は失血かしょっくで死んでおる。ま
あそれを免れても免疫低下による感染症は免れぬ。いずれにせよ脳は頭蓋ごとぐずぐず」
「で、でも、グレイズィングさんなら治せますよね? あの人の武装錬金って病気もケガも何でも治せますから」
 ははっと空笑いを打ってみるクライマックスだが……
「…………」
「…………」
 まるで姉妹のような(年功の序列は逆だが)2人は口をつぐんだきり喋る気配がない。イオイソゴなどは唸るような声を漏
らしたきり厳かに瞑目している。
「む、無理なんですか? 治療は」
「根治はの。対症療法なら可能じゃ。もっともそれを施したところで──例えば破損した内臓や骨肉を全て再生してやった
ところで──振り出しに戻るだけじゃよ」

99 :
 つまり怨嗟の声のもたらす共振現象そのものは治せない。と理解してくれたのが嬉しいのだろう。にっこりとした清廉な
微笑が地面に文字を描いていく。
『で、幻覚観ながらじっくり2時間かけてまた死ぬの。嫌でしょー? それ』
「蘇生に回数制限なきゆえ命だけは繋ぎ留めれるが……、ま、最早ぐれいずぃんぐめが好む拷問地獄と変わらんよ。死んで
もまた責苦の中……じゃからな」
「第一段階が1時間で、それ以後が30分ずつなら」
 指折るクライマックスはそこがすっかり冷え切っているのに気付いた。恐怖におののく血の気が全身から撤退しているよ
うだった。
「そう。2時間。個人差はあるが特性を浴びたまま放置しておけばおよそ2時間で死ぬ。それは人間であれ”ほむんくるす”
あれわしら”まれふぃっく”であれ免(まぬか)れえぬ運命」
 軋んだ首を青空に向ける。彼女は輝くような笑みを浮かべていた。それが却って恐怖で不気味だった。
『光ちゃんにコレ使わなかったのは、盲管銃創の方がいくらかマシだからよ。いくらブチ込んでも死なないし』
「怖すぎる特性です。無限増援とかで喜んでた私は何なんですか……」
「ひひ。怖いのは寧ろその特性の使い方じゃがなあ……」
 老婆めいた──事実そうなのだが──笑いがポニーテールの愛らしい少女に広がっていく。笑ってはいるが表情はひど
く暗く(純粋に暗いというのではなく暗さを愉しんでいるがゆえの複雑な暗さ)、無数の皺さえクライマックスは幻視した。
「ひどい使い方? 子供とかを内蔵グズグズにして空気の抜けたビニールプールにするとか?」
「いんやいんや」
 ぱたぱたと手を振りながらイオイソゴは眼を細めた。
「こやつな。せっかくの筆誅必殺をほとんど第一段階で止めよる。第三段階までやって殺した相手は数えるほどじゃ。じゃ
が……寧ろ一番軽微な損傷を以て最も悪辣な使い方をしておる所に、りばーす・いんぐらむの恐ろしさがあるのじゃよ」
 この少女然とした老人はひどく勿体つけているようだった。恐らく自分の疑問と「どうしてスパっと話してくれないんですか」
的なもどかしささえ楽しんでいるのだろう。クライマックスはそう思ったが表情を取りつくろっても釈迦の手の内、ますます楽
しませるだけな気がしたので、「どういうコトですか?」 敢えて選んだ普通の反問、返る答えは──…
「家庭を崩壊させておるよ」
「幻覚を見せて皮膚とか剥落させるだけの能力で?」
「ひひっ。頭を使うてみたらどうじゃあ〜? 怨嗟の声はやられた当人にしか見えぬ。そしてあれを浴びた奴は幻がごとき
怨嗟の声を攻撃せずにはおられん。なぜなら…ひひっ、ひひひひ。両目が真赤な奇形乳児に襲われて平気でおれる者は
おらんからの。ましてアレに触れられ、皮膚が剥落すれば抵抗せざるを得んじゃろう〜?」
 半開きにした口の右端だけ吊り上げ、イオイソゴはすすり泣くような笑みを漏らした。狡猾と老獪が入り混じった凄絶な表
情だった。
「まさか」
 殺人希求を抱き続けるクライマックスですら、辿りついた推測はつくづくエゲツなかった。
「狙った家庭にいる誰かに幻影を見せて、暴れさせるコトで……疎遠にさせて、家庭崩壊を?」
「大抵は父親を狙う。なぜならもっとも力が強くもっとも御し辛いからの」
「で! でも! 特性を2時間喰らったら死ぬ筈ですよね!? だったら家庭崩壊より先に、そのお父さんが」
「なーにをいっとるんじゃあ?」
 半眼のイオイソゴが不思議そうに呟いた。
「途中で解除するに決まっておるではないか」
 反問しかけたクライマックスは、途中で気付いた。
青空がどういう方法で家庭を崩壊させているかを。
「あ……第一段階途中で解除するっていうのはつまり、そういう……」
「そ。1時間程度適当に暴れさせるため。そして解除。……じゃが」
「何時間か何日か、とにかく間を置く訳ですか? そしてまた『お父さん』を撃って暴れさせる」
「前触れもなく暴れるような家族がいる家庭……それがうまく行こう筈もない。
 頷くイオイソゴに寒気がした。文言はもっともそうだが、「暴れる父親」の恐怖が家庭に浸透しその繋がりが水中の紙が
ごとく崩壊するまでどれほどの期間が必要だろう。半年? 1年? そもそもどうせ青空が狙うような家庭は円満で幸福で
何ら問題のない場所なのだ。父親が暴れる──…いや「暴れさせられる」のは平和な時間の中のごく一部ではないか。

100 :
にも関わらずイオイソゴの口ぶりからすれば青空は現にいくつもの家庭を崩壊に導いているらしい。それをやるためだけ
に見も知らぬ家庭に張り付き、銃撃を繰り返した。「暴れさせられる」父親が平和な家庭から悪の権化と嫌われ見放される
まで特性を使い続けた。実に恐るべき執念。クライマックスは口に手を当て震えた。。
「…………どうしてそんな回りくどいコトを」
『だって、普通に撃つだけじゃ伝わらないでしょ? 普通に射殺したところでリア充どもは勝手でちゃちい怒りを私にぶつけ
てくるだけじゃない。どうして幸せを壊した。許せない……ってね。でも本来悪いのはあっちの方でしょ。自分たちさえ良け
ればいいってカンジで、困ってる人を見捨てて何の手も差し伸べない』
 だから、と青空は弾痕で文字を書いた。
『彼らは一度きっちり身から出た錆で幸福なおしゃべりを忘れるべきなの。それができない人の身に立って、側になって、
そして困っている人を助ける方へ進むべきなの。重要なのは『家庭が何ももたらさなかった』って実感よ。奪われた、じゃ
ダメ。私めが見たいのは、犯人に遠吠えするだけでその実何も取り戻せないちゃちい憤怒じゃないの。親が最低で最悪
だったから自分はそうはなるまいと努力する綺麗な意思なの。誰かを助けたいと願う心なの』
 つくづく清楚で純粋な……笑顔だった。「水を大切にしましょう」「納税はお早めに」。そんなポスターに乗っていてもいい
位、見る者に安心感をもたらす笑顔。しかしその顔が描く文字は、意思は、笑顔とはまったく真逆の歪みを帯びていた。
(なにを言っているんですかあなたは……!!)
 家庭への憧れゆえに殺人希求を持つクライマックスは……この時初めて心底からの怒りを青空、いや、リバース=イング
ラムに覚えた。
「あなた狂ってます! まだ直接的に相手に手を下し、骨髄も内臓も何もかも崩壊させる方がマシです!」
「!」
 青空は息を呑んだようだった。笑顔がたじろぐのをクライマックスは確かに見た。元声優だから人間感情の流れはおおま
かだが分かる。「自分の間違いに薄々気付いている」。そんな気配がした。
(隙アリです! こうなったら責めて責めて溜飲を──…)
『うるさいわね』
 弾痕を眼で追ったのは、頬を強い力で掴まれた時だった。
『あなたに何が分かるっていうの? 私はね、ただ普通に暮らして普通の女の子として生きたかっただけなの。なのにお母
さんに首を絞められて大きな声が出なくなって、そのせいで誰からも気にかけて貰えなくなったの。お父さんさえそうだった
のよ。クラスの人たちだって私が小さい声で応じるたびに「そういう奴か」って眼をして離れていくだけで、私の首のコトなん
て知ろうともしなかった』
 青空はどこまでも笑顔だった。だがその顔面からは血の気が引き、もともと雪のような肌がつくづく白くなっている。
 夢見がちで浮ついた『大人になりきれぬ大人』だけが持つ過剰なイマジネーション。元声優のアラサーが持つそれは津波
が来る前の海岸を、波のすっかり引いた不気味な静寂をたっぷり幻視させた。
 リバースに立ち上るは果てしない悲しみと……その根源に触れられた怒り。
 どうしようもない欠如に苦しんだ挙句の現状を更に否定されたという心理的リアクタンスだ。自信の尊厳を守るための主
張的な怒り──思春期の男女が多かれ少なかれ持っている癇癪玉だ。適切な場所で炸裂させれば成長をもたらすが、妙
な場所で暴発させたり或いは鬱々と抱えたまま成人式をくぐり抜けてしまえば社会の中で如何ともしがたい人間不和を呼
び込む奴だ。クライマックスは明らかに炸裂し損ねた人種なので分かる。『リバース=イングラムは癇癪玉の不良在庫王。
毎日毎日倉庫の中を”叩きつけたくて仕方ない”って顔でニトログリセリンの大瓶持ってほっつき歩いています。在庫一掃
セールで焼け死にたくなければ、くれぐれも刺激しないように。一番いいのは関わらないコトですが』と──が青空の全身
から立ち上っている。冷ややかな蜃気楼。スタイルのいい輪郭を彩っているのはそれだった。
 そして。
 彼女の武装錬金の特性は。
 第一段階は皮膚・筋肉または骨の表層の剥落。そのせいでクライマックスの右頬は歯が剥き出しになっている。骨の表層
の剥落。歯もその範疇なのかも知れない。エナメル質と象牙質が削げ落ちた歯が何本もあり、歯髄が剥き出しだ。
『リア充どもは自分たちが恵まれているから自分たちに何も恵まない人はすぐ無視する。変なのがそこにいるって程度の目
で救おうともせず楽しい楽しい楽しい楽しいおしゃべりにだけ熱中するの』

101 :
 平素綺麗な、サブマシンガンで書いているとは思えない字。それが少しずつ乱れ始めているようだった。笑顔の青空は
クライマックスの右手の上で力を込めたようだった。やめて。次に訪れる出来事を察知して首を振る。右手の下には頬。
肉の削げた頬。そこに並んでいるのはエナメル質と象牙質が取っ払われたC3の歯どもだ。空気が当たるだけで、痛い。
 そこが思いきりつねられた。
 10に近い歯髄に痛烈な力が加わり、歯科用ドリルで深く抉られた方がマシだという位動悸がギンギンと膨れ上がる。
 防御に回した右手などカステラのように千切られていてだからクライマックスは実感する。相手もまた怪物なのだと。
「おーヒドいのう」
 縋るように細い横目を送ったイオイソゴは、肩をすくめるだけだ。助けに入る気配はない。それがますますクライマックス
を暗澹たる気分にさせた。
 青空の主張は続く。
『そういう連中がのさばっている限り、私のような性格のコたちはずっと救われないままじゃない。好きでそうなった訳でも
ないのに、だーれも救おうとしないし復活の機会だって与えない。苦しみ続けるまま。たまたま真っ当な環境に生まれて
真っ当な声を出せるだけの人達の無責任な楽しさを見せつけられ、惨めな思いをし続けるまま』
 そこまで読んだ辺りでとうとう痛みが限界許容量を超えた。
 いかにリア充どもが間抜けで自分が正しいか……そんなくそったれた、適応規制じみた長文羅列は歯のみならず胃さえ
蝕むようだった。それを無視し、「やめて」をほどよくブレンドした絶叫を上げてやるのがクライマックスにできるささやかな
意趣返しだった。「狂った意見など誰が読むか」。苛まれながらも内心でほくそ笑む、誰でも持っている小市民的な感情こ
そが唯一の救いだった。
『だから私は治すの。私を救おうとする人が現れなかったから、この世界を正しい方向に治したいの。私のこの意思を伝えて
何もかもを正しい方向に治したいの。分かる。分かる?』
 クライマックスは頷いた。何を訴えられているかは分からないが同意を示しさえすれば歯髄を掌越しに圧迫する痛烈な力
から逃れられるのは確かだった。
(ぬぇぬぇぬぇ!(笑い声) 逃れてからこの上ない間抜けぶりをこの上なくあざ笑ってやりますよ私!)
「適当に頷いて逃げようとしないでよねそもそもケンカふっ掛けてきたのはあなたよね」
 抑揚のない声が青空の口から漏れ始めた。彼女は眼を開いている。黒い白目の中で真赤な球体が爛爛と燃え盛って
いる。冷たい蜃気楼はいつしか火災現場のような強いオレンジの妖気に変わっている。
「お仕置きが必要のようね大丈夫大丈夫死んだりしないわよちょっと伝えるだけうふふあははははーっはっはっは」
 青空の手が動いた。頬にのばそうとする右手を折った……「めきり」という音にやっと気付くクライマックス。
(あああ! また! 腕折られた遺恨を晴らすため挑んだのにまた折られてますーーーーー! 無意味です! この上なく
無意味じゃないですかこの状況おおおおおおおおおおおおおお!!)
 妙な方にねじ曲がった腕を眺める暇もあらばこそ、青空は欠けた歯をつまみ、歯髄に短い爪を滑り込ませた。
 歯の根が軋むほどの力がかかり──…
 人生最大級の無慈悲な激痛がクライマックスの全身を貫いた。
 のたうつべく身を屈めたその体が『歯髄を起点に』持ち直される。増幅される激痛。元声優らしくむかしコレをやれたら
絶叫の第一人者として歴史に名を刻めたんじゃないかとか現実逃避を始める彼女だが、救いは、ない。
「まずは文字を読んで私の意思を知ってその上で意見を述べて適当にやりすごされるのは嫌なの分かるでしょこの気持ち」
「分かったからそろそろ落ちつけりばーすよ」
 沈降感。激痛に喘ぐクライマックスは体がゆっくり沈み出すのを感じた。
 いつしか歯髄にかかる指は粘液の中をずるりと抜け、あちこちがひび割れた手足も床の上で平べったく潰れていく……。
「争うのはまあ勝手じゃが、まずは仕事を優先せい。わしがわざわざココまで来たのは職責を果たすため。後にせい」
 クライマックスは気づく。視界の低下に。目線は、子供たるイオイソゴの膝より下に下がっている。
 アラサーの体は、溶けていた。
.

102 :
 ゲル状といおうかスライム状といおうか、とにかく全身が原生生物のように正体を無くした水溜りだ。
 それを厳然と見下ろすイオイソゴはやや気難しい表情だ。もっとも幹部同士の不仲を嘆くというより「一旦は面白がって
解説や説明に回ったり野次馬を決め込んだりしたが、それが却ってリバースを勢いづかせてしまった」自らの軽挙を反省
しているようだった。それが証拠か彼女は低い鼻をさするとバツが悪そうに笑った。
「悪いの。ヌシがわしの要件を分かっているようだった故、ついつい切り出しそびれた。なに、冥王星の嬢ちゃんなら死に
はせんよ。わしの武装錬金はカタチを変えるだけ。殺傷力はほぼ零じゃ」
『耆著(きしゃく)の武装錬金……ハッピーアイスクリーム。形は舟型の金属片で、撃ちこんだ者を磁性流体にする……。
で、御用は?』
 えへん。わざとらしい空咳を一打ちしたイオイソゴは腰に両手を当て得意気にそっくりかえった。
「ヌシの妹、どこかへ消えたそうじゃな? それに対する弁明を……聞きにきた」
 クライマックスは確かに見た。
 ふわふわとウェーブの掛かる短髪と頬の間に、一滴の汗が流れるのを。
「あれほどの力量を持つほむんくるす。まさか失くしたではすまんよ。済む訳がない」
「来るべき決戦に欠かせぬ貴重な戦力。野垂れ死ぬならいざ知らず、戦団に悪用されてはチトまずい」
 決して怒鳴ったり喚いたりはしない静かな声だ。しかし背丈が一回りも二回りも小さいイオイソゴが喋るたび、青空(リバー
ス)の顔に汗が増え、内包する怒りさえ消えていくようだった。見ているクライマックス自身「もし自分が青空の立場だったら」
と身震いする思いだった。大きな瞳から発される穏やかな視線は、相手が道に外れた文言を吐いたが最後、閻魔より厳正
な目つきと化し徹底的に追及しにかかるだろう。
 いつしか辺りには自称555年の人生の重みを感じさせる厳粛な雰囲気が満ちていた。
「解答次第では粛清もありうる。慎重に答えるがヌシのためじゃ」
 響く声はただ無慈悲、青空は、ただ──…

 以上ここまで。過去編続き。

103 :
>>スターダストさん
うぅむ、やはりエグい。キラークイーンの爆弾なんか、苦しむ間もなくボン! で終わる分、
遥かにマシだなと。だから、被害人数はともかく質的には、吉良以上に悪、というか「悲惨を
振りまく存在」だと思うんですよ。青空は。これ、防人や斗貴子が知ったらどんな反応するか……

104 :
.




「あ。ねー」
 雑踏の中、駆け寄ってくる光の顔はぱあっと輝いていた。それまで彼女は、自宅とはまったく反対方向、6kmは離れた隣
の市の繁華街を1人で歩いていた。心細かったのだろう、青空めがけトテトテ駆け寄ってくる。
 空はとっくに暗く、ネオンと街灯が混じったけばけばしい光の中を仕事帰りのサラリーマンたちが賑々しく歩いている。それ
らの影が交差する石畳からは街頭時計も生えている。目下その「6」「7」間で長いのと短いのが間でデッドヒートを繰り広げ
ている。幼稚園児がうろついていい時間ではない……そう思いながら青空は聞く。
「で、今日はどうして迷ったの?
 よっこらせと抱き上げた光はしばらく目を白黒させてから「プラモがおれん」とだけ答えた。
「そう。いつも行っているおもちゃ屋さんに欲しいプラモがなかったのね」
「ほうじゃけん。ほかのお店行ことしたらいなげなトコに……」
「他のお店行こうとしたらこんなとこまで来ちゃったのね」
 確かめるように漏らす声は、いまにも雑踏の喧騒にかき消されそうだった。きっと歩いている人は自分が喋っているコト
さえ気付いていないのだろう……青空は自分の心に「そう在るべき」静かな感情と真逆の物が灯るのを感じた。義妹との
会話が嫌いな理由の一つは、伊予弁をいちいち声に出して翻訳しなければならない──翻訳結果を言い聞かせるコトで
自分に光の意思がちゃんと伝わっているか確認しなければならない──せいだ。一生懸命調べてようやく喋れるようになっ
た言語さえ世界に響かぬようで、その都度いびつな喉を恨んだ。
 これでいちいち聞き返していたらとっくに絶交よ。喋るたびに元気のいい反応を見せる義妹に内心溜息をついた。彼女
はいつも青空を真剣な眼差しで見上げ、言葉の一つも聞き逃すまいとしているようだった。その様子はまるで女王に忠誠
を誓う衛兵のようで、一言たりと聞き返したコトはない。どんな小さな声で呟いてもちゃんと聞いてくれるのだ。
 だから、だろうか。嫌い嫌いと思いつつも、積極的な拒絶に出たコトがないのは。
 とりあえず降ろしてやる。あまり甘え癖をつけるのも教育上よくない。6km。遠足ぐらいたっぷり歩いた妹は疲れている
だろう。でもそれはいつものコトで──この前は10km先のショッピングセンターからバスと電車を乗り継いで連れ帰った。
今までで一番遠かったのは隣の県のプラモショップで、28kmは離れていた。日曜日の半分を賭け歩いて行ったらしい──
方向音痴のせいで大分足腰が鍛えられている。フルマラソンを歩き歩きで完走するぐらいはできるかも知れない。
「でも、なへならあーねーはわしのおおるトコ分かるの?」
「ふふっ」
 どうしてお姉ちゃんは私の居る場所が分かるのですか……一瞬でそう翻訳出来た自分が少し可笑しくもある。光のせい
で青空はすっかり伊予弁が得意になってしまっている。普通に喋ってくれれば楽なのにと思いつつも、どうも生来の努力的
な性格のせいか時々図書館で伊予弁を調べたりしてしまう。ひょっとしたら伊予弁メインの光より詳しくなっているかも知れ
ない。調べるたびに義母を思い出し「なんで調べなきゃいけないのか。親なら標準語も教えて欲しい。会話がし辛い」と仄か
な怒りを覚えたりするのに……。抱えている矛盾の面白さ。頬へ手を当て忍び笑いを漏らしていると、輝く瞳が不思議そうに
見上げてきた。10km先のショッピングセンターにいようと28km先のプラモショップでどう帰ればいいかほとほと困ってい
ても必ずやってきて連れ帰ってくれる、そんな姉がミステリアスで仕方ないという顔つきだった。
「あのね。これは他のみんなには内緒だよ?」
 しゃがみ込んで目の高さを揃えた妹は不思議そうな顔をした。「しっ」と唇に指を当て、いかにも聞かれてはマズいという様
子で辺りを見回すと、子供なりに何事かを理解したのだろう。明るい顔つきがユーモラスな緊張感に染まった。
「単純ね」。噴き出しそうになるのを何とか堪え、青空はすうっと髪の毛を──頭頂部から延びる長い癖っ毛を──撫でた。
「実はコレ、光ちゃんレーダーなの。だからどこにいても分かるんだよ?」
「え!」
 面喰らったのだろう。明るい瞳が笑顔と癖っ毛を交互に見比べた。口をあんぐりと開けているのは「俄かには信じられな
いけど”ねー”がそういうなら本当なのかも知れない」という葛藤のせいか。ここらが押し時とばかり青空はつむじに力を。

105 :
込めた。果たして癖っ毛はぴょいぴょい動いて義妹を指差した。「おおっ」。全身をビクっとしならせながらも彼女は青空の
言葉を信じたらしい。怖々と肩をすくめながらも癖っ毛に手を伸ばし、ちょいちょいとつつき出した。
「な、なへならあー動くん……?」
「光ちゃんレーダーだからよ。でもヒミツね。お父さんにもお母さんにも。バレたらお姉ちゃん、黒い服着た怖い人たちに連
れ去られちゃうんだよ。それだけスゴい能力なのよ〜」
 両手をドラゴンのようにもたげて「がーっ」と脅かして見せると、光は全力でコクコクと頷いた。
 もちろんレーダー云々はウソっぱちだ。光の行きそうな場所で道行く人に写真を見せて裏返し「このコ見ませんでした?
どっち行きました?」という文字で尋ね回ったに過ぎない。いまだに運動神経学年20位以内なのはそういう地味な尋問で
使いまくった足がそれなりの筋肉密度を持ってしまったせいだろう。ここだけの話、28km先のプラモショップで半泣き状態
の義妹を見つけた瞬間は──途中で引き返すコトを考えつつも変な生真面目さでやり抜いてしまった青空も悪いのだが──
号泣したくなった。やっと解放された。一体何人に写真見せたか……翻しまくった写真は持つ部分がすっかり皺くちゃで新
調を余儀なくされた。
(だいたい、嫌いなら別に探さなくてもいいのにね)
 手をつないで歩きだす。輝くような笑顔の義妹のセリフを適当に聞き流しながら、青空はまた内心で溜息をついた。
 どうして毎度毎度方向音痴の義妹を探しにいくのか。そう誰かに問われた場合、明確な解答はできそうにないと思った。
 ただ──…
「ねー。コッペパン買うて」
「……あれはメロンパンよ?」
 思考を中断された青空はちょっとだけ不快なニュアンスの籠った笑顔で光を見た。気儘なものだと呆れる思いだ。タイム
サービスか何かだろう。通りすぎかけたパン屋さんの前に長い机と「味見のしすぎじゃない」といいたくなるほどコロコロ肥った
店主が並んでいる。漢字で表現すると「凸」の上の部分が店主で下が机だ。いらっしゃいいらっしゃい。景気のいい声と柏手
(かしわで)の下には小じんまりしたバスケットが沢山で、その中にあるパンどもが焼きたての香ばしくて甘ったるい匂いを
漂わせていた。クロサッサン、あんドーナツ、カレーパン、辛そうな赤いのたっぷりかかったベーコンパン。色とりどりのおい
しそうなパンの中でひときわ光の眼を引いたのは──本来の好物(ドーナツ)さえ無視させるほど魅力的だったのは──
メロンパンらしかった。彼女の指は確かにそれを指していた。
「コッペパン買って……」
 ぐぅとお腹を鳴らしながら見上げてくる義妹を、青空はつくづく持て余した。どう見てもメロンパンではないか。少なくても
青空の認識上において表面がゴワゴワして砂糖がほどよくまぶされているクリーム色のパン類はメロンパンである。
 それを説明して納得させるのは本当に苦労した。何度も何度も「これはメロンパンなのよーっ」って叫び散らしたくなるほど
だった。……どうやら伊予弁で「コッペパン」は「メロンパン」を指すらしい。何でよと青空は軽く額に青筋を立てた。どうも伊
予弁という奴は行使するにつれ視覚神経を犯しパンの区別さえつかなくする……としか思えなかった。そういうピンポイント
な齟齬こそ図書館の辞書に入れてよ。そう口中毒づきながらも「コッペパン」を買い、妹にやる。彼女は喜んだようだが腹の
虫は収まらない。歩行6km分のカロリー補充をして下さいとばかり腹部内臓のブザーも鳴った。
 商品を眺める。
 ほどよくして最も好みに合致する商品を発見。わざわざPOPと毒物劇物取扱者試験の合格証書が添えてある。
 
「悪魔さえ死ぬ激辛! 自家調合辛味噌入り焼きそばパン。※ 料理というより劇物デス。この世で一番辛い!」。
「合格証 ○○年○○月○○日試行の一般毒物劇物取扱者試験に合格したことを称する △△県知事 毒物太郎」
 すみっちょのバスケットの中、焼きたてのパンどもの中で唯一在庫処分丸出し(POPもそのためだろう)で干からびている
連中全部、13個をお買い上げだ。ぞろぞろと机を眺めていたサラリーマンや若者がざわめきがあがる。「死ぬぞ」「やめと
け」「辛い物好きの有名人がそれだけ買ってったが今は集中治療室! ゆえに今日を以て生産中止のそれを何故!!!?」。
問題ない。笑顔を返して首を振る。その可憐な様子に彼らは一瞬見とれたようだが、今度は「こんな可愛いコを見殺しにでき
るか」とばかりますます制止の声が強まっていく。
「水なしで喰うと死にますよ」

106 :
 まるでシアン化ナトリウムを売るごとく何度も何度も念押した店主がとうとう震えつつ紙袋を渡す。真赤に変色した紙袋を。
 それを持って家を目指す。歩きだす。
 紙袋はもはや沸騰中の血液を閉じ込めていると嘯いてもまた真実味が出るほど赤い妖気を漂わせている。その蒸気に
当たった蚊はたちどころに蒸発し、真新しい鉄製の柵に振りかかれば内部も露に茶色く錆びる。ああ、この焼きそばパン
おいしい。青空は嬉しげにパクパクと食べた。その白魚のような指の間を垂れ落ちた辛味噌が石畳に黒い穴をあけた。じゅっ、
じゅっ、落ちるたび白い煙が地面に巻き起こる。その黒い痕跡を追跡したのだろう。10分歩いた辺りで先ほどの店主が「や
はり渡すべきだったあー」と決死の形相で2リットル入りの天然水を6本ばかり持ってきた。相当走ったのだろう。コック帽
がずれ、丸っこい体の随所に滝のような汗が流れている。面構えときたらガソリンと灯油を間違えた客を追いかける危険物
取扱者だ。もっともその頃にはもう最後の焼きそばパンが胃に落ちるあたりで青空的には特に問題なかった。
「ほどよい辛さです。ありがとう。おいしかったです。水分は店主さんがどうぞ」
 どうしてこの店主さんはこんな必死なんだろう。青空は心底不思議に思った。辛味噌は大好物で、その気になれば業務用
の「注:ハバネロの6万倍の辛さです。お子様やご老人は耳かき一杯やるだけで死にます」とかなんとかいう大袈裟な注釈
入のでっかいボトル5〜6本ぐらい楽勝だ。
 横で光は指をふーふーしているが──1カケラだけ食べたい。そう言って素手で持ったのが災いしたのか。辛味噌は指に
付着するや水膨れを作った──問題はない。店主は号泣と笑顔を足してドン引きで割ったような表情をしながら帰っていった。
「……指、大丈夫? 光ちゃん」
「ねーは?」
 お姉ちゃんこそ大丈夫なのだろうか。そういう目だった。触れるだけで水膨れを作る劇物を内蔵粘膜に叩きこんで本当に
無事なのかという心配と、驚きのもたらす尊敬の眼差しが混じっていた。
「大丈夫。大きくなったら辛いのも平気になるから。みんなコレ位へっちゃらなんだよ」
「うん!」
 光は笑った。やっぱねーはすごい。何でもかんでもそういう感動に直結する単純で純粋な心根の持ち主のようだった。

 嫌いでも、行方不明になったり事故で死んだり、誘拐犯に殺されて欲しいとは思えなかった。
 青空が義妹への感情を浚う時、少なくてもそこには姉妹の確執にありがちな「お前さえいなければ万事うまくいく」みたいな
思い込みはないようだった。いなくなっても家から光が消えるだけ。きっと親たちは失われた娘を思うだけで、自分を義妹並
みに愛でるようなコトはしないだろう。性格も年齢も違うのだから……それなりに聡明な青空は悟っていた。
(まあ、探すぐらいはいいか)
 あまり論理的ではないし決して心から好きになれそうにはないが、義妹を探すぐらいは……そう割り切っていた。
「ねー……おんぼしてつかーさい……」
「はいはい」
 家まで3kmというところで予想通り寝ぼけ眼を擦り出した義妹を背負い、青空は笑顔のまま家を目指した。





「さて。弁明も出尽くしたようじゃし、まとめてみるかの」
 床や壁に提出された供述書──筆はサブマシンガンでインクは弾痕──を一通り眼で追うと、イオイソゴは意地悪く目を
細めた。視線の先には青空(リバース)。供述書作成のため距離を取った彼女は、相変わらず何が楽しいのかニコニコと
微笑んでいる。手にはサブマシンガンで、よく事情聴取の場で持てるものだと(それを許可したものだと)クライマックスは感
心した。
「まずは状況整理じゃ。性能てすとをすべく適当な共同体殲滅を任じたヌシの妹。じゃが帰投時間をすぎてもいまだ戻ってくる
気配がない。連絡も途絶えた。位置を特定すべくぽしぇっとに仕込んでおいた発信機や携帯電話も無反応」
 かといってあれほどの者が倒される道理はない。イオイソゴは芝居がかった様子でゆっくりと首を振った。
「逃げた、としか思えんのじゃが……それもない。供述書を読もうかの」
 すみれ色の髪をゆっくり揺らめかせつつ弾痕に目を落とすイオイソゴ。

107 :
『逃げる可能性はありません。あのコの5倍速の老化を治せるのは私だけ。それを知っている以上、私の元を離れるのは
自殺行為。その辺りはしっかり『伝えて』あります』
「じゃが聞けばヌシの妹は昔から重度の方向音痴だったそうじゃの。……おうおう。そういえば小耳に挟んだ事もあるでよ。
ヌシが妹を鳥型にしたのは方向音痴を治すためじゃと。過去さんざ探し回ったゆえ2度と探したくないと」
 だが疑問なのは、とイオイソゴは青空めがけ歩き始めた。
「そうまで厄介を掛けられた方向音痴が治っているか否か、確かめなかった……? 解せんな。……ヌシはこうも供述したな?」
『もしかしたらあのコ方向音痴だから迷ってるんじゃないかしら』
『ごめんなさいね。鳥型にした段階で治っているとばかり』
 黒タイツ──と一見見えるが実は軽量の鎖帷子──に包まれた細い両足の下を供述書が過ぎていく。
「じゃがヌシほどの者が、下らぬ思い込みで見逃すのか? てすとぐらいする筈じゃ」
『老化治療に没頭していたからつい忘れてて』
 イオイソゴはゆるゆると進んでいく。静かで、驚くほど速い。胸元で赤いスカーフがたなびき、髪さえ戦(そよ)いでいる。
忍びだけが持つ特殊な足捌きであろう。それに運ばれるまま彼女は報告書の長い文章をぐんぐん過ぎていく。
 丈の短いブレザーのスカートがひらひらはためく。
「わしらの仲間になってたった一年余であれほどのほむんくるすを作れるほど優秀なヌシが」
『せめて私めの自動人形を監視にやれば良かったわね』
「ただの忙しさや手ぬかりで、方向音痴を見逃すのか?」
『総ては私めの手ぬかりのせい。光ちゃんは悪くないわよ』
 イオイソゴの足が止まった。
「繰り返すが対象はただのほむんくるすではない」
 すぐ眼前には青空がいて、手を伸ばせば届きそうな位置である。
「ヌシはおろかわしらに取っても得難き大戦力。優秀なヌシならそれを保持するために最善の努力という奴を尽くす筈じゃ。
にも関わらずまるで『方向音痴であったコトを忘れたように』、付添いや自動人形による監視もせず、老化治療のみを盾に
義妹を単身送り出す。……あまりにお粗末。あまりに不可解」
 黒ブレザーのダボついた長袖。それが──中に手甲を仕込んでいるらしい。後日クライマックスはそう聞いた──ゆっく
りと胸の前にかざされた。
 ゲル状のまま事態を静観していたアラサーの鼓動が跳ね上がったのは、幼い指に舟形の鉄片がいくつも握られているの
を認めた瞬間だ。
 固められた拳の表面。指と指の間にはさがっているそれらの名は──…
(耆著(きしゃく)! 本来の用途は方位磁石! この舟形の小鉄片は磁力を帯びてるんです! だから水に浮かべると北を
向くって寸法なのですこの上なく!)
 イオイソゴの持つそれは打ち込んだものを磁性流体にする恐るべき魔性の産物。現にクライマックスはいまそれを浴び、
溶けている……。
 注ぐ視線に見せつけるためか。攻撃的な笑みが幼い顔いっぱいに拡充する。
(闘るつもりです)
 クライマックスはゲル状の生唾を呑んだ。
「1つ言っておく。後生だから抵抗はするなよ? この武装錬金はわしの全身を磁性流体と化し、あらゆる物理攻撃を効か
なくする。打撃も、斬撃も、そして銃撃さえもな。じゃが──…」
 次の一言にクライマックスは戦慄した。
「ヌシの武装錬金特性までは防げん。当たったが最後、例の幻影じみた怨嗟の声に苛まれ、揺らされるぷりんのごとくゲル
状の体が共振現象で崩壊していく。ひひっ。迂闊迂闊。一見わしは詰んでおるなあ」
 必中条件も満たしている。イオイソゴがそういった瞬間、冴えないゲル状生物は寒気に見舞われた。
(そうです。確かにイオイソゴさんはリバースちゃんの傍でさっきからずっと!)
『声を出している』。
 サブマシンガンの武装錬金・マシーン(通称『機械』)の前でそれをやればどうなるか。

108 :
 先ほど一席ぶったイオイソゴが知らぬ筈なく。
「知っておるが故に破り方も然り。凶弾を逃れる術は4つほどある。1つ目。一定範囲内で声を出した者に着弾するというな
ら、それ以上の距離を置いて喋れば良かった。近場では沈黙すれば良い。2つ目。自動人形が合体する前に叩く」
 どっちも今からじゃ無理ですよお。溶けたアラサーは泣きたい気分だ。
(すぐ近くで声を出した以上、もうロックオンされてますよこの上なく!! もし凶弾発射後に範囲外へ逃げた場合、凶弾は追
いすがるかどうか分かりませんが、弾丸より早く走るとかイソゴさんでもムリですよ! かといって(自動人形の)合体前を狙
うのは、バクチすぎますよぉこの上なく!)
 片や一撃必殺のサブマシンガン。
 片や緩慢なる溶解の耆著。
(一発二発浴びても大丈夫なリバースちゃんに比べ、イソゴさんは弾丸一発撃ち込まれるだけでこの上なく負け! 
 その辺りを踏まえた場合、青空の勝利はますます揺るがない。
(「肉を斬らせて骨を断つ」。リバースちゃんは何を喰らおうとサブマシンガンとそれを握る腕と自動人形さえ守り抜けばいいん
です! で! 特性発動したら勝ち! この上なく勝ち!!)
「3つ目。今から別の者に声を出させる」
 別の者? 首を傾げたい気持ちになったクライマックスは脳裏に「ひえーっ」という大文字を刻んだ。
(必中条件は確か、『発射直前に声を出した人』……。なら自分が喋った後、他の人に声を出させればいいんじゃ!?)
 まるで爆弾ゲームのようだと彼女は思う。そしてそれは実に適切な例えだった。
(爆発寸前の爆弾、自分が持ちっぱなしじゃ危ないから、他の人に渡しちゃう感じです。喋らせて爆弾持たせるのです。そし
て、そして……このシチュならこの上なく私が盾にされそうな予感ーっ! ああ、なんて不幸な私)
「安心せいくらいまっくす。それはせん。やろうとしたらりばーすはヌシの声の根を断ちに掛る。じゃからせんよ。幹部は総て
我らが盟主様の所有物……。正当な理由なき軽挙で摩耗すべきではない。裏切り者なら別じゃがな
 しかしこの老人の自信はどうであろう。若者の向こう見ずな自信とは違う落着きが全身に満ちている。
「4つ目は……3つ目とやや近いが根本的に違う。じゃが、それだけに手軽で誰でもできる破り方じゃ。」
「…………」
「欠如ゆえ生まれた能力は欠如ゆえ破られる。なるほどヌシの能力は限りなく無敵に近い。じゃがその根本は欠如に立脚し
ておる。ひひっ。欠如欠如。そこを揺すぶられると頗(すこぶ)る脆い」
「…………」
「断言しよう」
 どこに隠していたのか。イオイソゴの手から兵粮丸がびっと跳ねあがり、円弧の頂点から小さな口目がけストリと落ちた。
「わしはただ一言発するだけでヌシに勝てる」
 そう言ったきり彼女は咀嚼に専念し始めた。ぶんぶく膨れた頬の上。その上に備え付けられた大きな瞳は美味にとろとろ
と蕩けながらも青空をじっと凝視している。
(一言発するだけで? いや、イオイソゴさん。あの弾丸って、声を出した人に必ず着弾するんじゃ?)
 まったく謎めいている。絶対に声を出してはならぬ武装錬金の前で、声を出す?
(もしかしたら「言葉」という所にこの上なく意味が? 一定のワードに反応して機能を停止する……とか?)
「ひひっ。”りばーす”とはよくいったものじゃなあ」
 小さな口からくちゃくちゃと一種艶めかしい咀嚼の音とマンゴーの匂いのする食べカス(後にクライマックスが聞いた話に
よればイオイソゴはフェレットとマンゴーの調整体で、そのため唾液や汗などの体液は総て柑橘系の甘い匂いがするらしい)
が散らばり、供述書に降りかかった。
「…………」
 青空は依然沈黙のままだ。
「という訳じゃ。下手な抵抗はするでないぞ わしとてヌシは殺めとうないでの」
 イオイソゴは頬を緩めた。何とも人好きのする笑みだ。
 そして咀嚼物を飲み干した。もし青空が攻勢に転ずるとすればこの一瞬しかなかったろう。
(飲み干す瞬間は声が出せない! つまり絶対勝てるっていう言葉! 一声が出せませんこの上なく!! マシーン封じの
切り札的ワードが出せない瞬間ならリバースちゃんにだって勝ち目が)
 青空(リバース)の体に身震いが起こった。視線を追う。
 震えが、移った。
 イオイソゴの舌の上に、どろどろの兵粮丸が乗っている。

109 :
(口に入れたのは1個です。あれも1個分。だから飲み干したのはフェイク……。わざと隙を作って攻めさせようとか、この
上なく性格悪いです)
 べっと吐き散らかされた白い粘塊はあたかも唾棄すべき嘘だらけとばかり供述書をねっとり汚した。
「毀損を承知でいわせてもらおうか。ヌシは義妹を逃がした。もちろん義妹自身その自覚はないよ。ただ迷って、帰れなくなっ
た。そう思っておるだけじゃ。だがヌシは違うな? 方向音痴である事を承知の上で世に放った。不手際に見せかけて放逐
した……当たらずとも遠からずというところじゃろう」
『ただの不手際です。私の』
「じゃあどうしてヌシの自動人形は火薬の匂いがしとるのじゃあ?」
 低い鼻がスンスンと動き始めた瞬間、青空は微かに体を震わせた。いつの間にか豊かな肢体すれすれに幼い高齢者が
まとわりつきしきりに自動人形を嗅いでいる。静観していたクライマックスさえいつ動いたか見えぬ早業だった。
「そういえば川の水の匂いもするのう。え? これらの匂いはどこでついたというのじゃ? 今日のヌシはいつも通り研究室
……阿呆の末席に粉かけられたのを除けば戦闘不参加じゃ。独逸の馬鈴薯つぶしの新鮮な匂いを川のそれで薄めるよ
うな必要性はない。ひひっ。匂い一つとて追及すればどんどんボロが出ようなぁ……」
 身長130cmもないあどけない少女──どの交通機関も無料で乗れそうなほど幼い──が遥かに大きい青空の顎に手を
当て下向かせた。つま先を精一杯伸ばしているのはそれなりに愛らしいが、顔ときたら袋のネズミをいたぶるネコのそれだ。
嗜虐心をたっぷり満たしてやる、半眼は暗い愉悦に満ちていて、ぞっとするような色香さえ漂わせていた。それに見られた
笑顔がぎこちない波を打ち始めた。
(まさか……自動人形をあのコのポシェットに潜ませ、ポテトマッシャーで携帯電話や発信機を破壊したというのですか?
或いはそれに近いコトを──)
 だとすれば大問題ではないか。ただの不手際ではない。意図的な放逐だ。青空にやられた腕と歯の痛みも忘れてクライ
マックスは戦慄した。イオイソゴの言う通り玉城光は妬ましくなるほどの実力者。それをわざと野に放ったとすればこれはも
う属する組織に対する限りない不義だ。
(この上なくヤバいですリバースちゃん。悪の組織でそれはやっちゃダメですよぉ! うーらぎりものめーって感じで粛清さ
れちゃいます。それがお約束なのです。あああ、ど、どうなっちゃうんですかあ)
「…………」
「そもそも貴様は義妹に対し最大の手ぬかりをしておるよな? え?」
 クライマックスは見た。からからとした声が笑いとともに跳ね上がった瞬間、清楚な美貌に少なからぬ動揺が走ったのを。
「告げさえすれば我々に絶対の忠義を誓い、たとえ単身千里の果てへ行こうと必ず戻れる努力をする。振り返り振り返り地図
を描き、石の目印を落としていく……そうさせるほどの事実をヌシは義妹にひた隠しておったではないか」
 青空の指が動きかけた。
「……っと。反論は良いよ」
 しなやかな腕を紅葉のように小さい手がスルリと撫でた。目を細めた少女はそのまま愛しげに青空の腕や銃身に同じ事を
施し、うすぼんやりとした笑みを浮かべた。何もかも破滅しても構わない。そんな笑いだった。
「証言は集めておる。貴様は誰にも彼にも『妹には内緒よ』と釘を刺しておったそうではないか。何なら連れてこようかの? 
ヌシと懇意の天王星に火星水星金星に月……5体揃えばかの破壊男爵ばすたーばろんさえ斃せる錚々たる証言者どもをのう」
 元気よく大きくなっていく声とは裏腹に、その調子は段々と厳寒のどこかへ近づいていくようだった。当事者ならぬクライ
マックスには何の話か理解しがたい。だが笑顔が確実に色を失くしていくのが見えた。それはトリックを暴かれ厳しい追及を
受ける犯人の反応だった。イオイソゴは青空にとって致命的な何かを暴きつつあるようだった。
(でも、一体……リバースちゃんは何を隠していたんですか?)
「簡単で、単純だがひどく意外な事じゃよ」
 息を呑んだクライマックスの「背中だった辺り」から気泡が1つ舞いあがった。心を読まれた。そんな気がした。
「ヌシの義妹、玉城光の両親は生きておる」
「にも関わらず伏せていた。違うか?」
「…………
 青空は無言のままだ。
(そんな)
 風の噂程度だがクライマックスは知っている。
 青空が最後まで反対──止めに入ったアラサーの腕さえ折った──したマンション襲撃。その最中彼女は
(わざわざ盟主様にまで助命を嘆願した実のお父さんと義理のお母さんを)

110 :
 惨殺した。
(それがどうして生き──…)
 あっ、とクライマックスは息を呑んだ。あの時惨殺された。だがいまは生きている。
 矛盾しているが、その矛盾を解消する魔法のような能力をクライマックスは知っている。
 知っている、どころの話じゃない。マンション襲撃まえ折られた腕を修復したのもまた、「魔法のような能力」……。
「そう。奴もまたあの場に居た」
(グレイズィングさん! そして衛生兵の武装錬金、ハズオブラブ!(愛のため息))
 キツネ目の美人女医を思い描きながら、クライマックスは叫びたい気持ちだった。
「あれは死後24時間以内の死体なれば蘇生が可能……。例え娘に頭を潰されても、首をば落とされたとしても……治る。
なんの問題もなく、な。よって彼らは今も生きておる。それもほむんくるすではなく、ただの人間として」
 忘れたとはいわせんぞ。イオイソゴはやんわりと青空に呼びかけた。
「彼らを蘇らせるよう懇願したのは他ならぬヌシ。そしてそれは聞き入れられた。当て身を食らい眠る義妹のすぐ傍で」
(そして、お父さんやお母さんが生きているコトを知っていれば、リバースちゃんの妹は絶対に戻ってくる努力をこの上なく
した筈です)
「繰り返しいうぞ。蘇生を告げさえすればヌシの妹は行く道において振り返り振り返り地図を作り、自ら発信機を守り抜くぐら
いのコトは絶対にした。わしならいうよ。『保護しておる』。それだけでいい。それ以上の脅し文句は必要無い。あとは手間味
噌そら恐ろしいの危機感に任せればいい」
 つまりは人質。逃げればどうなるかという脅しの材料だ。
「にも関わらずヌシは奴を御するに格好の情報を伏せておった。管理意識があるなれば真っ先に伝え、叛意を殺ぐべきだった
というのにな。つくづくお粗末。つくづく不可解。あらゆる要素を繋ぎ合わせれば、ヌシが義妹を放逐したがっていたようにしか
見えぬ」
 笑顔の、果てしなく綻ぶ口から長い吐息が漏れた。
『凡ミスの積み重ねなんだけど、そればっか主張しても埒が開きそうにないわねー。何をすれば満足してくれるのかしら?』
「本音をいえ。わしは別に妹を放逐した事自体は責めんよ。盟主様とて「たまには失敗もあるだろう」と笑ってお許しになっ
ておる。第一いかに強かろうとヌシの妹はまだ7歳……。憐憫の情に駆られ逃がしたくなるのも無理からぬ」
『言わなければ?』
「粛清じゃよ」
 転瞬、影も見せずに動いたのは相対する両者の腕である。攻防はまさに刹那の出来事、傍観していたクライマックスにさ
え「2人の腕がやや上がった」としか見えぬやり取り。
 だが確かに攻撃意思は両者の間で膨れ上がり、破裂した。
「…………」
 静止画のごとく立ちすくんでいた青空が片膝をついた。同時にイオイソゴの背後にサブマシンガンと自動人形が落下し、
死に切れぬ勢いの赴くまま床を空しく旋回した。
「ほう」
 背後にチロリと視線を向けたイオイソゴは目をまろくした。想定外。そんな驚きを込めて彼女はゆっくりと青空を見た。
 ひどい有様だ。クライマックスは目を覆いたい思いだった。
 笑顔の少女。その膝から下は磁性流体としてとろかされ、不気味な粘塊として床にへばりついている。両腕もまた溶けた
バターよろしくだ。巨大で、生々しい肌色した粘液の玉がピチャリ、ピチャリと落ちていく。とっくに肘までの腕が縮むさま、
誠に著しい。
(負けた……いえ。というより」
 クライマックスは気付いた。
”なぜ、サブマシンガンと自動人形がイオイソゴの背後に飛んでいる”
 攻撃を浴びた結果そうなった……という様子ではない。かといって変則的な攻撃にも見えない。
(まさか……)
「武器を捨てよるとはな。何のつもりじゃ?」
 幾分柔らかくなった口調はしかしわずかだが驚きも含んでいる。それに呼応するように、青空は口を開いた。
「あのコだけだもの」
 謎めいた言葉。だがクライマックスはそれよりもむしろ、初めて聞く玲瓏たる声の方に戦慄した。元声優の彼女でさえ商売
仲間が発すれば妬まざるをえないほど透明感のある声だった。清楚で、可憐で、どことなく哀愁に満ちた声。泣きゲーのヒロ
インをやらせれば絶対ムーブメントを起こせるとさえ思った。
「あのっ! リバースちゃん? 私いま同人エロゲ作ってるんですがっ!」
「な、なに? エロ……?」
 声を張り上げたクライマックスを、青空は笑顔のままキョドキョドと見返した。今の彼女はどこか気弱な印象だ。それに気を
良くしたクライマックスは「押し切れる!」とばかり捲し立て始めた。

111 :
「そうです。エロゲですっ! 可愛い男のコの喘ぎ声を入れてくれませんか! こうですね、見た目女のコな、なよなよ〜とした
この上なく小動物系男のコ! そのコが逞しい俺様系のイケメンさんにがっつんがっつんこの上なく責められて泣きじゃくっ
たりするのですっ! そのコの役を、是非! 私では出せない味! リバースちゃんならこの上なく出せます!」
「え、その……いや。遠慮します……」
 蚊の囁くような声だ。それを聞いてクライマックスはますます「くーっ!」と唸りを上げた。
「これはいい! これはいいです! サブマシンガン持って字ぃ刻んでる時のこまっしゃくれった態度なんてクソですよ!
もっとこう基本はおどおどびくびく! 一歩退いて震えてるような儚さがいいんじゃないですかあ! DVDの特典とかドラマCD
の後の座談会! あれで清楚な役やってる筈の声優さんが意外にギャルっぽかったり「なーんも考えてない」感じのただの
若い女の人だったりすると幻滅しますよね! 私はそうですかなりそうですこの上なくっ!」
「な、なんの話をしてるのクライマックスさん?」
 引き攣った笑みを浮かべ、青空はズルリと(片足が粘液状態なので)後ずさった。
「やっぱ清楚な役には清楚な人を! そりゃあ学び励んだ演技の文法で清楚な役を演出するコトはできますよ! でもそ
れは本当にモノにしたとはいえません! 元の性格が合致してる、天然自然の清楚がそれをマイクに吹きこんでこそ、こ
うテレビ見てる人達の心に突き刺さってキャラソンCDとかバンスカバンスカこの上なく売れるんじゃあないですか! 或い
は清楚じゃなかった人が役にのめり込むあまり清楚と化す! それもありです! 要は心からの一致ですっっっ!」
「あのー?」
 青空は見た。ゲル状のクライマックスの背中から、彼女の幻影が立ち上るのを。それは陶酔しきった表情で胸に手を
当て、時々くるくると回ったり大仰な身振り手振りをしているようだった。
「上っ面なぞっただけの演技なんてのはこの上なく人の心に残りません! 生き馬の目を抜く声優業界では到底生き残れ
ません! 心からしてキャラに合い心からキャラを愛して愛するあまりその物と化す! 総ての熱気や感動はそこからこの
上なく生まれるのです! 文法に従って声出すんじゃありません! 声を出して文法を作りだすんです! だ・か・ら!」
 幻影がぱあっと微笑みながら青空に手を伸ばした。
「一緒にBLやりましょう! この上なく一緒に腐って業界へ殴り込みましょうよお!」
「ちょっと黙れくらいまっくす」
「ぐおはおおおおおおおおおおおお!」
 ゲル状のクライマックスがねじれてどこかへ飛んでいった。後で青空は知ったが、磁力を使って適当な場所へ飛ばした
らしい。
「いま、”あのコだけ”といったが……何の話じゃ?」
 しゃがみ込むイオイソゴを青空はしばらく見つめ──…唇をきゅっと吸いこんでからようやくポツリポツリと喋り出した。
「だって、ずっと私に話しかけてくれたのは……あのコだけなんだよ?」
「ほう? だから逃がしたとヌシはいいたいのか?」
「うん……。ずっと考えて……やっと気付いたの。あのコだけは……ずっと私に話しかけてきてくれたって。どんなに無視し
ても頬を叩いても、弾丸を撃ち込んでも……私に話しかけてきてくれたの……。でも、私があのコにしたコトは……」
 目の前で両親を殺し。
 ホムンクルスにし。
 5倍速で老いる体にした。
「何も……いい事をしてあげられなかったから。何の選択肢も与えないで……私だけに縛りつけていたから……可哀相で……
だから、だから…………お義母さんたちの事は黙って……」
「逃げやすくし、選択肢を与えた、か。その言葉、自白と受け止めていいか?」
「……」
 こくこくとあどけなく頷いてから、青空は縋るような上目遣いでイオイソゴを見つめた。笑顔はとっくにやめている。義妹の
今後を憂えるあまり、笑っている余裕がない……そう見てとったイオイソゴは「やれやれ」と横髪をかき上げた。
「結局わしの推測どおりかよ。なればゴチャゴチャ抜かさずとっとと白状すれば良かったものを」
「だ、だって……喋っていいことなんて本来一つもないんだよ? わたしは……ずっと、ずっと、喋るたび聞き返されて……
『なんだコイツ』みたいな目で見られて……お父さんたちにも構って貰えなかったから……本音、なんて……」
「いえようワケがない、と。矛盾しとるな。今は本音を吐露しとる癖に」

112 :
 青空は俯いた。どう喋っていいか分からないらしい。瞳は限りなく潤み、か細い息を懸命につきながら「あの、その」と頼り
なく震えている。これがあの憤怒の化身かとイオイソゴは──実は何度か見ているがそれでもやはり──目を見張る思い
だ。
「本音をいったのは……あのコを逃がしたコトで、イオイソゴさんたちに損害を与えてしまったから……だよ」
「損害……? ああ、あれほどの力量の者を独断でどこかへやってしまったコトか。まあ確かに会社でいうなら高価な備品
を行方不明にしてしまったようなモノじゃからの」
「信じて貰えないかも知れないけど……盟主様のために働きたいのは私も同じ……だよ?
「じゃろうな。或いは最も感銘を受けておるのがヌシかも知れん」
「そして私は他の人たちに迷惑をかけるのは嫌い。でも光ちゃんはどうしても逃がしたかったの。まだ小さいから……もっと
自由な生活をさせて、世界を見て、その上で私に協力するかどうか……決めて欲しかったの」
「じゃがその結果、わしらに損害を及ぼす羽目になった。ゆえにサブマシンガンを捨て、敢えてわしの耆著を浴びたと。いわば
アレはヌシなりの落とし前か。本音を語るのは、あれ以上の言い繕いが道義に反するゆえ……」
「ごめん……なさい」
 しとやかに呟く青空にイオイソゴは軽く思う。
「他の人に迷惑をかけるのは嫌い」? 
(ひひっ。さんざ家庭崩壊やらかしておいてよくもまあ……)
 青空にとって彼らは人以下の「誰も助けないから離散させる方が世のため」という報復対象にすぎぬのか。
 何にせよ、組織人としての帰属意識だけはあるらしい。帰属する組織の質はともかく、そこで共に過ごす仲間に対しては
それなりに遠慮がちで真摯らしい。……もっともその真摯さが一般社会にどれだけ迷惑を掛けるか。
(穏やかで可憐なようでいて、根はすっかり狂っておるようじゃの。義妹への情愛も含めて)
 何発弾丸をブチ込みどれほど精神を歪めたか。しかもそれが青空にとっての普通な『伝え方』と来ているから始末が悪い。
 光を始めてぶった時気付いた「伝えるコトの素晴らしさ」。その快美に見入られるまま彼女は衝動を発散し続けた。或いは
始めて本音を打ち明けれた義妹は特別な存在で、それ故に大事で、愛すべき対象だからこそ他の人より多く──大事な
家族にほど多くの言葉を話すように──弾丸をブチ込んだのかも知れない。
(ま、反省もしておるようじゃがの。最近では義妹との会話にさぶましんがんは使わんらしい。ぴこぴこはんまーとやらで
軽く叩いたり宥めたりしておるという。りばーすにとって重要なのは『伝える事』であって『痛めつける事』ではない。後者
だけが目的と言うなら、義妹はとっくに反乱を起こし、姉妹相討った挙句どちらかが死んでおるよ)
 奇妙な姉妹だとイオイソゴは思う。傍目から見れば姉が妹を痛めつけているだけなのに、彼女らの間には決して切れぬ
絆があるらしい。玉城光は姉を、その美しい長所も妖気漂う異常な短所も何もかもひっくるめて愛しているようだった。
 だからこそ青空も、身の危険と引き換えに選択肢を与えたのだろう。
(……家族というのはいいのう。半ば孤児(みなしご)じゃったわしには羨ましいよ)
 低い鼻をくしゅりと鳴らし、イオイソゴは青空に向かい合った。
「ヌシの気持ちはよく分かった。あまり褒められたやり口ではないが、それも若さゆえの過ちとして処理しておこう」
 ふわふわとしたウェーブの下で限りない喜色と、「それに浸っていいのだろうか」という葛藤が浮かんだ。
「とはいえ2度目はないぞ? 生半(なまなか)な情愛で完成品を逃がす癖(へき)を付けられてはたまらん。盟主様はそれ
もまた循環の内とお認めになるじゃろうが、わしの考えは違う。組織は厳然と律されて然るべき。一度や二度の例外的な感
情を認める事はあっても、それを慢性化させ、恒常的なるナァナァで箍(たが)を緩めていっては話にならぬ」
「”自滅する組織”とはつまりそれじゃ。故にわしはこの件において釘を刺す。それが盟主様にお仕えする忍びの……務め」
「…………」
「妹を放逐した事自体は否定せん。じゃがどうしてもそうしたいのならわしらに相談すべきじゃった。肉親を戦わせたくない
というなら相応の真っ当な処置ぐらいやってやるわい。安全な場所へ退避させ、戦闘とは無縁の生活を送らせて……。あ
れだけの戦力が除却されるのは正直痛いが、功績あるヌシに対し融通の一つもせんというのは組織としてマズかろう」
「…………」

113 :
「…………」
「そもそも”方向音痴で行方不明になりました!では抜本的な解決にならんよ。そうじゃろう? 捜索隊が結成され、差し向
けられればどうなる? せっかくの決意と覚悟で逃がした妹が舞い戻ってしまうではないか。そうなってはヌシと引き離され
よう。監督不行き届きの姉に誰が貴重な戦力を任したいと思うものかよ……じゃ。ウソを吐いたばかりにますます悪い状況
になる」
「…………」
「家族を想うヌシの感情自体は分かるよ。わしは父御(ててご)の名しか知らぬゆえ、家族にはずっとずっと憧れておる。
なればこそ妹を戦わせたくない気持ちは理解できる。だがそれは素直に吐露し、打ち明けるべき物じゃった。隠し立て、
独断で逃がすような真似は正直ヌシのためにならん。これは他の件でも同じ。「喋っていいことなんて本来一つもない」な
どと心を鎖すでない。わしや天王星、盟主様ならば必ず耳を傾けよう。じゃから二律背反に悩んだとき、独断にだけは
走るな。それがヌシ自身のためじゃ。な?」
「はい……」
 あやすような言葉にいくぶん心を動かされたのだろう。青空は真珠のような涙を眦に浮かべながら、微笑した。
「分かればいい。後はわしが始末をつける。ヌシは研究室に戻って今まで通り過ごすがよい」





. 以上ここまで。過去編続き。

114 :
>>スターダストさん
青空を中心にして、貫録ある上司であるイオイソゴと、驚き役兼マスコットのアラサー嬢、
という布陣の今回。物語としての本筋はイオイソゴ側の会話でしたが、姿かたちがどうなろう
とも可愛い女性は可愛いのだ、というのを体現していたクライマックスが印象深かったです。

115 :
 ややあって。



 イオイソゴは瓦礫残る広場に1人佇んでいた。顔つきは厳しい。腕を揉みねじり溜息さえ時々つく。
 その部屋に──装甲列車が景気よく開けた穴を抜け──入ってきたのは美人だがどこか冴えない女性で、
「あれ? リバースちゃんは?」
 と呟いた。澄んでいるが間の抜けた感じもいなめぬ声はもちろんクライマックス。きょろきょろきょろきょろ落ち着きなく
辺りを見回す元声優の体は、さきほど耆著でゲル状になった筈だが、しかしいますっかり元通りで、
「その様子じゃとぐれいずぃんぐめに治療して貰ったようじゃの」
「飛んでった先が診療室でした! いまはこの上なく快調ですっ!」
 問いかけに明るく、とても明るくブイサインを繰り出した。
 そんな27歳にはあと嘆息の555歳。
「気楽でええのう。ヌシは。わしは奴めを説き伏せるのに難儀したというのに」
「あ。リバースちゃん無事なんですね! 良かった! これで女性向けエロゲが作れます!」
「のう。ちょっと愚痴こぼしてええかの?
 どこかズレた喜び──自分も殺そうとしていたのに。結局リバースそのものより、”リバースの声”という素材を心配して
いるのだ。作品という、自分の都合に関わるものにしか興味がないようだった──に高く綺麗な歓声をあげるクライマックス
と対なのがイオイソゴで、微笑すれば花開くほど愛らしい顔(※ただし鼻は低い)はいま黒くやつれている。
 疲れているんだ。元教師らしく即座に理解したクライマックスは、それなりに豊かだがあまり色気の感じられない胸を大きく
張り……叫ぶ。元気に。力強く。
「なんなりとです! これでも私は元先生です! あ、出会った時そうでしたからご存じですよねー」

 
 それからしばらく洒落っ気のない黒いワンピースに黒ブレザーがもたれかかって愚痴をこぼした。
 誰に対する……? いうまでもなく、リバースへの──…

「公私混同しすぎ」「妹への愛情が異常」「こみゅ力ないから扱いづらい」

 赤裸々な愚痴を。

 
 やがて総てを聞き終えたクライマックス、イオイソゴをひしと抱く。さすが元教師というだけあり子供の扱いはお手のもの、
慣れた手つきで背中をたたく。赤ん坊を寝付かせる母親のようにポン……ポン……ポン。優しく規則正しいリズムにイオイ
ソゴはやや落ち着いたようだ。胸の中でふと顔あげた彼女の瞳……子犬のように濡れそぼるそれから悲しみが抜けている
のを確かめたクライマックスは──なんだかイオイソゴが甘えたがっているように見えたのだけれど、教育者として敢えて
そちらは無視し──そっと体を剥がす。名残惜しそうなイオイソゴの顔にキュンときたクライマックスは大学進学のときどう
して保母さんの道を選ばなかったんだと軽く後悔。
「大変ですねーイオイソゴさんも。この上なく最年長ですから私達マレフィックの調整役をやらないといけないなんて」
「それが務めとはいえ、気苦労ばかり耐えんよ。どいつもこいつも灰汁(あく)が強いからの」
 そういいつつも愚痴を吐いて楽になったらしい。やれやれと肩をすくめるイオイソゴは幾分明るさを取り戻したようだった。
「たとえばあやつ、蘇生した両親とは対面済みなのじゃが、その時、どうしたと思う?」
「さあ」

116 :
「所業が所業じゃからの。両親……ま、厳密には実父と義母じゃが、奴らりばーすめを見た瞬間
「ひいっ!」
と声を上げおった」
 よほど面白かったのだろう。小さな体がめいっぱい背伸びしてしゃっくりのような引き攣れを漏らした。
「あー……。ビビっちゃった訳ですね」
 殺された者が殺した相手を見ればそうもなろう。クライマックスの頬に汗1すじ。同情。青空の両親に。
「もっとも傑作だったのはその後のりばーすの反応でな、奴め膝を抱えて盛大に落魄(らくはく)しおった」

『ひいっはないでしょ……。そりゃ私めもやり過ぎたけどさ……やり過ぎたけどさ……』

 黒ブチ眼鏡がずるりとズレた。
「傷ついてたんですか? 自分で殺しておいて」
「もっともその反応に両親めらは感ずるところあったようじゃ。わしとの生活の端々で、りばーすを気遣っておったよ」
「いやでも、ついカッとなってとはいえ、殺しておいて落ち込むってのはこの上なくヘンです」
「そこが奴めの面白いところじゃよ。憤怒を宿しておきながら、いざそれを発散すると途轍もない罪悪感に見舞われ落ち込
まずには居られんという」
「……あのコ家庭崩壊とかさせてますよね? その時もですか?」
「やりたくないがやらねばならん。そういう表情(かお)じゃよ。要するに自分の所業が悪だと認識しつつも悪的行為でしか
鬱屈を晴らせん状態に陥っておる」
「何故ならば奴はかつて、人間として正しく真っ当に生きたいと心から願い、それを成すべく懸命に生きていた。じゃがその
正しい生き方に於いてあやつは一度たりと世界から救いを齎(もたら)されなかった」
「ならば悪として振る舞い、衝動の赴くまま生きたい……されば救われると奴は間口においてそう信じていた。じゃが所詮、
悪行は悪行。真の意味で己が身を救う事などありえん。衝動を発露し、無辜の家族をいくつも離散解体に追いやり、その
瞬間だけ昏い喜びに打ち震えようとそれは後悔や葛藤にすぐさま塗りつぶされ心苦しさに変わっていく」
 年寄りらしく実にながい、勿体ぶった話にクライマックスはただこう呟く他ない。
「それじゃまるで依存症」
「に、近いの。そこがただの憤怒の化身でないりばーすの難しさよ。内包する怒りは発散したい。発散し快美を得ねば癒さ
れない。じゃが発散すればより多くの心苦しさがのしかかり、怒りと苦しみは益々益々増えていく。そしてまた発散したくなる
悪循環。しだいに”はーどる”は上がっていくよ。やり方が旧態依然、ずっと不変であれば得られる快美は減っていく。じゃか
らよりえげつない方策に走らねばならぬ。だが良心の呵責という奴はえげつなさの分だけ強くなる」
「そして怒りがますます強く……」
「憤怒ゆえに理性が伸び理性ゆえに憤怒が高まる。なまじ自制心があるばかりに奴は苦しんでおる。単なる怒りの獣の方が
まだ人生というやつを”えんじょい”できるじゃろう」
 厄介な女だ。クライマックスは恐怖というより呆れる思いだ。
「しかもあやつ、実は心の底では『壊した家庭が元通りになるのを』見たがっておるようじゃ」
「はぁ!?」
 意味が分からない。ここでやっと眼鏡がずり落ちているのに気づいたクライマックス、慌てて直す。つるを横っちょから
抑える掌は全体的な冴えなさからすると奇跡的に白く綺麗でシミがない。30回ローンで買った48万9800円の自動食器
洗い機は、彼女にしては珍しく、買った目的を達しているのだ。それで処理しきれない小物たちを洗うとき着装されるドイツ
製の業務用ゴム手袋もまた2万9800円分の仕事をしている。にも関わらずあまり人には褒められない繊細な手が次に行っ
たのはアワアワした指差しで、だから向けられた方は思うのだ。(ああこやつ金の使い方間違っとる)。声も手も綺麗なのに
中身が何もかも台無しにしている……以下はそんなクライマックスの反問。
「壊しまくりたいだけじゃないんですかっ!? 元通りになるの見たいとか、そんな気配、微塵も──…」
「ややこしいじゃろ? だが内心では『自分こそが間違っておる』という事実を叩きつけられたくてしょうがないらしい」
 何というか実に難しい話題だ。
 そういう心理に陥っているリバースもリバースだが、それを読み取れるイオイソゴもまた想像の範疇を遥かに超えている。

117 :
.
 先ほどのリバースの様子だけでは到底家庭の復興を望んでいるようには見えない。そもそも彼女は平常時だろうと激昂時
だろうと『常に笑顔』だ。表情から真意を読み取るのは至難の業だしそもそも声を出さないから声音で感情を知るのも不可能。
或いは幼いあの老婆、影からずっとリバースを観察し続けやっと上記の結論にたどり着いたのではないのか? そういえば
武装錬金特性にも詳しかった。やはり密かに観察していたのか?
 クライマックスはとうとう黙り腕組みする。唸りさえあげ始めた。
「ひひっ。ヌシにはちと難しい話題かの?」
「ええまあ、ただ」
「ただ?」
「難しいからこそファイトが湧いてきますこの上なく!!」
「ほう」
「元声優ですからね!! 『理解この上なくブッちぎった』概念は苦労しますが……大好きです!! そりゃあ簡単には理解
できませんけどー、ソコ理解したうえで自分のものにする!! 腹臓からの声にしてマイクに叩きつける! そーいうプロセス
辿ったのは100や200じゃないですこの上なく!」
「お、おう」
 イオイソゴは目をまろくした。この老女が気圧されるのは盲亀浮木より珍しいのだが、クライマックスは気づかない。なぜな
ら思考に没入しているからだ。親指をくわえブツブツ言う姿から漂うのは……鬼気。先ほどリバース(青空)を戦わずして屈
伏させたイオイソゴでさえ近寄りがたい、独特の鬼気。

 2分ほどそうしたあと、パッと双眸に光を宿したクライマックスは一転童女のように愛らしい。

「つまり、あれですか? 自分がどんなに無理やりお父さん暴れさせても、それに揺らがず、幸せじゃない環境でひたすら
皆一生懸命協力して、お父さんをこの上なく愛して、労わって。ずっとずっと一緒にいるような家族を見られれば──…あ
のコは自分の過ちに気付ける……あ、いや、そういうのを見て、気付きたいと?」
「概ねその通りじゃ。総括するとじゃなあ。何ら努力せず上っ面だけの幸福を貪っているような連中は許せん。追い散らし
たい。だが一方で奴はこうも思っている。『努力によって築かれた確かな家庭幸福もある』『それを壊すのは誤り』……と。
何故なら奴自身、不遇の中で常に努力を重ね生きてきた。それを否定される痛みは存分に分かっておる」
「でも、分かっていても幸福そうな家庭は許せない。街角で笑いあってる人たちは努力してる風には見えません。この上なく。
だから、それが腹立たしい。壊したい。なのに『努力した結果を壊す』のは辛い。でも努力してない結果ならとことんとことん
この上なくブッ壊したい。……なんかもうややっこしい人すぎます」
 じゃろ? 桜色の唇から全身へ忍び笑いが伝播した。
「壊れても何度も立ち上がる強さを。あやつはそれを見て、間違いをハッキリ突きつけられたいのじゃ。奴のいた家庭のよ
うに、幸福になるためではなく、心から相手を愛し、思いやれるからこそ『家族』でいられる連中。相手が病苦によって災い
を齎(もたら)してきても、どんなにどんなに虐げられようと、相手を救わんと献身を諦めぬ者たち。そんな”ほむんくるす”で
もなければ武装錬金も使えぬ市井の者どもが心からの絆のみで、あの最悪の幻覚現象を乗り越える──…いまだかつて
一度もない大奇跡じゃが、それを見ぬ限りりばーすめは憤怒と鬱屈の悪循環からは抜け出せん」
 クライマックスはしばし黙った。その長い、足首まであるとても長い黒髪が前に向かってやおらたなびいたのは、装甲列車
の壊した隙間から冷たい風がびゅうびゅう流れ込んできたからだ。
「あのコもまた誰かから何かを、『伝えて』欲しいんですね……。ただの否定の言葉じゃなくて、純粋な正しい態度を示して
貰って、『やっぱりどう見てもあなたは間違っているよ。でも頑張ればこの光景に来れるよ』って」

 叱責されながらも、救いの手を差し伸べて欲しい。
 
 壊れても何度も立ち上がる強さを。

「誰かにもたらして欲しい! そう思っているんですねリバースちゃん!」
「……感奮したのは分かったから静かにせい」
「は、はい……。難儀だけど……難儀だけど…………可哀想なコなのですねこの上なく」

 やや芝居がかった調子で(というか芝居そのものの『入り込んでいる』表情で)、クライマックスは両手を組む。胸の前、神
に祈るよう、2つの掌を合致させ。瞳は涙に濡れていた。

118 :
.
「ちなみにあやつの表稼業を知っておるか?」
「なんです? スナイパーとか?」
 いや。イオイソゴは肩を揺する。くっくと笑う。
「孤児院経営じゃよ。恵まれぬ環境にある者たちを養い、面倒を見ておる」
 口をあんぐり開けるコトでしか驚きを示せそうにない。クライマックスはそう思った。
「え? 孤児院? まさか自分で壊した家庭の子供さんとか預かってるとか?」
 いやいや、と老女は首を振った。
「交通事故の遺児とか捨て子とか、まあそういう感じの連中じゃよ。ちなみにホムンクルスにも信奉者にもしておらん。あく
まで普通に育て、普通に暮らしておる」
「ですよねー。流石に自分の壊した家庭の子供とか預かってったら、この上なくマッチポンプじゃないですか」
「ま、まっち……?」
 後ろ髪にかんざしある古風な少女が首をひねった。目をぱしぱしさせながら「まっち? まっち……?」と舌ッ足らずに連呼
しているところを見ると、どうも言葉の意味がよく分かっていないらしい。
「イオイソゴさん、もしかしてマッチポンプの意味が分からないんですか?」
 元教師らしい静かな質問に、少女の肩がびくりと震えた。

(あ、図星です。そういえばイソゴさん、横文字がてんで駄目でしたね)
 外来語を喋る時はいつも舌が回っていない。コードネームたる”リバース”とか”グレイズィング”も常にたどたどしい。
「おっ、おおお?? いや、知っておるよわしは。うん。まっちぽんぷじゃろ? とと当年とって555歳、知らぬ事などありは
せんよ」
「そ、そうですかァ〜」
「う、うむ。あのでっかくてギザギザしとる奴じゃろ。な? な?」
 困った。どう反応すればいい。クライマックスは引き攣り笑みを浮かべた。同じ幹部とはいえ相手は遥かに古参。迂闊に
馬鹿にすれば文字通り首が飛ぶ。(あの青空でさえ戦わずして威圧した相手だ)。困っていると、その動揺が伝播したの
だろう。黒ブレザーの上から必死な声が漏れ始めた。子猫が必死に威嚇しているような、柔らかい声が。
「知っとる! 知っとるよ! ただちぃっとばかし物覚えが悪いゆえスッと出て来んかっただけで……! ええと! ええと!!」
 良く見ると大きな瞳がその淵に涙さえ湛えている。「長生きしているのにこんなコトも分からないんですか?」と馬鹿にされる
のが嫌なのだろう。意地を張っているのだろう。でもどうしても分からないから困り果てているらしい。気づけば彼女、クライ
マックスの安物の服をつまんで「ままままっちぽんというのはじゃなあっ」としゃくり上げ始めている。
(ああ、これも中身がお婆さんだからこの上なく仕方ない事なのです。蛍光灯の紐に洗ってないストッキングぶら下げて不精
しますし、部屋に遊びに行くと「もうちょっとおってくれ、もうちょっとおってくれ」とお小遣いくれたりしますから……)
 とりあえず5分ほど揉めて、説明完了。
「で、どう決着したんですか? リバースちゃんの件」
「う、うっさい。毛唐どもの作った文字分からんからって馬鹿にするでないわ。そんな奴には教えん。教えんわ…………。奴が
子供ら養うために働きづめで、研究班の仕事もあるせーで1日2時間しか寝とらんとか絶対にいわんからな」
「言ってるじゃないですか」
「もう言わん。言わんもん」
 泣きはらした目が「ぐずっ」という音とともに揺らめく。ああ拗ねてる。余談だがイオイソゴはフェレットとマンゴーの調整体で
だから体液は常に芳しく匂い立つ。柑橘農家にいるような甘ったるい匂いの中、しかしクライマックスは困り果てた。
(拗ねないでくださいよぉ! この上なくリアクションに困ります!)
「どうしてもっていうならわしの頭撫でい」
 ぷいと顔を背けたイオイソゴだが、横向きの済んだ瞳は何かを期待するようにちらちら見てきてもいる。目が合うたびフン
と鼻を鳴らして顔を背けて、5秒も経てばまた恐る恐るという感じで目をやってくる。
「い、今ならたーくさん撫でさせてやらん事も……ない、ぞ? ど、どうじゃ?」
(どうじゃと言われましてもーーーーーーーーー!!)

119 :
 なんで自分の年齢の20倍生きてる年上の老婆を撫でねばならんのか。腐ってはいるがロリコンではない──厳密にい
えば可愛ければ何でも良しで、たまにそーいう系統の薄い本だって買う。けれど元女教師という肩書はときにそういう行動、
義務教育中の青い果実を求める心をひどく悔やませる。だから意図的に『催さないよう』、心がけている──クライマックス
はほとほと困り果てた。さっき背中を叩きはしたがアレは教師としての慰め、使命感みたいなもの……現にいまのような
”甘え”を認めるやすぐ引いたクライマックスなのだ。
「くううううぅぅう! この優柔不断! あほうっ! かいしょなしのトンチキ!」
(トンチキ!? きょうびトンチキってあなた!?)
 とうとうイオイソゴの方が折れた。彼女はクライマックスの胸に飛び込むなりポニーテールを左右にフリフリと動かした。
「撫でるのじゃっ! わしは撫でて欲しいのじゃ! 撫で撫でしろじゃ!」
(老獪で狡猾なクセに甘えん坊……!? この上なくアクが強いのはあなたも同じじゃないですかあっ!)
 遂にぴょんぴょん跳ね出した老婆には辟易する思いだ。
 さらに1分後。
 そこにはキリっとした表情のイオイソゴが。
「奴の妹については「わしが追跡調査したがどうも死亡したらしい」という辺りで手を打つよ。離反したかつての月に遭遇し
て斃された……そんな匂いを報告書に紛れ込ませておけばどうとでもなろう。仮にウソがばれたとて汚名を被るのはわし
自身。それなら何とかなろう」
「それはもう調整役としてこの上なくいろんな人に恩を売ってますからっ! 大丈夫デス! 私も弁護しますよ!」
「あーはいはいありがたやありがたや」
 気の抜けた声で適当に相槌を打つイオイソゴに対し……「あれ?」。クライマックス、顎に手を当てる。
「離反したかつての月って誰なのでしょーか? 今の月はデッドさん。目がこわーい人ですよね? よね?」
「総角主税……『今は』そう名乗っておる男じゃよ。9年前出奔して以来、わしらに何かと仇を成しておる。奴なら玉城光も
斃せよう。またそう喧伝しても違和感はなかろう。特に邂逅した事のある『火星』『月』『金星』辺りは確実に信じる」
 そうですかァー。軽い調子ではうはうと目を輝かすクライマックスはすっかり野次馬根性丸出しである。それも仕方ない。
入ってまだ1年と経たぬから、見聞きするコト総てが新鮮なのだろう。イオイソゴはそう思った。
「ちなみにデスね。さっきは落とし前つける形で武器捨ててましたけど……」
「?? なんの話じゃ?」
「もしリバースちゃんが本気で掛かってきていたら勝てましたかっ!?」
 ああ、アレか。イオイソゴは目を細めた。と同時にその手めがけ何かが飛んできた。
「見い」
 言われるがまま覗きこんだクライマックスは首をひねった。手にあるのは耆著。イオイソゴの武装錬金だ。それ自体が掌
にあるのは別段不思議なコトではないが……ただ、どこから飛んできたかは不可解だった。
「りばーすの肩」
「ふぇ?」
「最初ココに来た時な。わしは奴に抱きついた」
──「じーぐぶりーかー! Rええええええええええ!!」
──「はいはい」
── 飛びこむなり腰に抱きついてきた少女を青空は慣れた手つきで撫でた。すると彼女は大きな双眸をきらきらと輝かせなが
──ら「いーやーじゃ! もっと撫でるのじゃ! もっと撫でるのじゃ!」と肩を揺すって懇願してきた。
「その時、腰にこいつを打ち込んでおいた。そしてさりげなく、奴が気付かぬほどさりげなく周囲の肉を溶かし、緩やかに蠕
動させながら肩へと。すぐにでも首を狙える辺りに移動させておいた」
「……まさか。わざわざ話して時間を稼いでいたのも」
 この老婆と話している時は驚きばかりが飛び出てくる。クライマックスはつくづくそう思った。
「そのまさかじゃよ」
 イオイソゴはにゅっと笑みを浮かべた。零れる歯はとても白い。
「もし奴が本気の殺意を見せたのなら、即刻この耆著を頸椎に捻じ込みあらゆる神経伝達を遮断。引き金を引けなくして
やるつもりじゃった。……如何に強力な武装錬金といえど、操作ができねば無力じゃからな」
「あー。凶弾を発射するには引き金引かないと無理ですよね……。でも……」
「でも?」
 冴えないアラサーは詰め寄る。憤懣やる瀬ないという様子で手を広げ。
「さっきいちいち上げた4つの破り方は何なんですよお! アレ以外にも破り方あったじゃないですか!」
「実力伯仲の相手に手の内総てを晒すわけないじゃろ? あれらは全て事実じゃが、事実ゆえに囮じゃよ。何も相手の土俵
に乗ってまで勝つ必要はない」

120 :
(つまりもう最初から勝っていたようなものだと。この人……汚いです。この上なく)
 ひひっと引き攣り笑いを浮かべるイオイソゴにはそれ以外の形容が見当たらなかった。
「ま、でも殺しはせんよ。奴は義妹に対する格好の”かーど”たりうるからの。あれほど強い玉城光とて、まだ10年と生きて
おらぬただの少女。もし戦団や総角主税どもに悪用されたとて、肉親の情で攻められれば必ず揺らぐ。ゆえに何があろう
とりばーすは殺さんよ」
「逆らってきた場合、(青空の)お父さんとお義母さんはどうしました?」
「じゅらり」
 イオイソゴの口から途方もない量の唾液が噴き出した。それは生理反応だったらしく、彼女は慌てて袖口で口を拭いたく
り始めた。
「う、うむ。まあ、何もせんよ。本当。仲間の家族を食べるとかは……良くない。道義に反する」
(食べるつもりでしたか……うぅ。この上なく腹ぺこお婆さんです)
「いや、食べんよ? 蘇生以降10年もの歳月を投じ、わしの部下兼疑似家族として鍛え上げたのじゃ。それを喰うなどと
いうのは費用対効果の面から考えて好ましくない」
 もったいつけた様子の口から唾液はまだまだ溢れてくる。涎がはしたなく唇を伝うのをため息交じりにクライマックスは
見た。
「10年? あれからまだ数か月しか経ってないような……あ。そういうコト?」
「そう。うぃる坊の武装錬金じゃよ。確かに『こっちでは』、数か月しか経っておらんが、わしらは10年の歳月を共にした」
「さすが時空関連ではこの上なく並ぶものなしな武装錬金です」

「そもそも」

「300年後から来たんですよねー。ウィルさん」

「後はまあ、こっちでわしの趣味に1年ばかり付き合って貰う予定じゃ。それが済んだら娘たちの元に返す。それが約束じゃ」
「え? ホムンクルスにはしないんですか? 食べたりとかは」
「せんよ。りばーす的には彼らを義妹の元に返したい筈じゃ。ならそれを手助けするのが仲間というものじゃろう」
(悪の組織の人に仲間とかいわれても説得力ないような……)
 心を読んだのか。いやいや、と首振るイオイソゴ。
「目的が悪行であろうと組織運営それ自体まで悪であってはならんよ。わしらの成すべき悪はあくまで錬金術の本意に沿った
ものであり、それがゆえ達成させねば意味がない。盟主様はすでに100年待っておるしの」
「だから……仲間は大事にする、と?」
「おうよ。とりあえず青空の両親めには軽く整形してもらっておる。娘探しでテレビに出た以上、顔は広く知られておるからの。
後はわしの疑似家族を演じてくれればよい」
「どこで暮らすんですか?」
「場所はいまから決める。まあ一か所につき3か月ぐらいの滞在かの。あまり長くおれば戦士に気付かれる恐れがある」
「あ。じゃあ1年で4か所行くんですね」
「で、じゃな。4か所目の隣には若くてカッコいい男子高校生がおるんじゃぞ! 男子高校生! 男子高校生! こらもうヌシ
の単語でいえば萌えじゃよ!」
 よっぽどそこへ行くのが楽しみらしい。両目を対抗する不等号の形に細めながらイオイソゴは「きゃー!」という歓声さえ
上げた。赤い両頬に手を当てているところなど正に乙女の一言で、クライマックスは「うーん……」と汗を流した。
「苗字はヒミツ! 盗られたら嫌じゃもん! ……む。はしゃぎすぎかのわし。落ち着こう。行くのはまあ最後じゃ。おいしい
物は最後に喰うべきじゃ。あ、いや、喰いはせんが、最後にとっとくのが一番楽しいじゃろ。な? な?」
「いや、イオイソゴさんが「喰う」とかいうと洒落になりませんってば。で、他にはどんな目的が?」
 暗い微笑が広がった。
「チワワ探しじゃよ。9年前に喰い損ねたチワワを……」

「鳩尾無銘を」

「わしはずっと探しておる。逃した魚ほど旨く見えるからの……

 その後、イオイソゴがどこで何をしていたか……クライマックスは「しばらく」知らなかった。

. 以上ここまで。過去編続き。

121 :
番外編 「広がる宇宙の中、小さな地球(ほし)の話をしよう」

「のう、あれ喰うて良いか?」
 ある夕方のメインストリート。何かを指差す少女が傍らの青年を見上げた。
「ダメ」
 腹部に寄り添って目を輝かす少女を呆れたように見下しながら、紺のブレザー姿の青年は
嘆息した。一方の少女はやや紫かかった黒髪の果てでポニーテールを揺らしながら「え?」と
息を呑んだ。「ダメ」という答えが心外だったらしい。平素は活発そうに吊りあがった大きな瞳
は言葉の意味を理解すると同時に悲しみにくしゃくしゃと歪み始めた。
「なんでいつもお前は人の喰ってる物欲しがるんだ?」
「だってわし、食べ物持っとる人みるとお腹がすいてしまうのじゃ。ええのう、自由に喰えてえ
えのう、手軽に満腹になれてええのう……とな」
 少女の指の遥か先では、クレープを食べながらにこやかに会話する女子高生の一団がいた。
青年としてはクレープよりもミニスカートから覗く白い足に注視したいところだが、しきりに「喰い
たい喰いたい」と地団太踏み始めた少女が傍にいてはそれもできない。光の加減だろうか。忸
怩たる思いの青年の眼下で少女の髪が錫製の酒器のごとく蒼く濡れ輝いている。錫色の髪。
彼は不覚にもぼうと一瞬見とれかけたが、耳に響く笑い声のハーモニーにすぐさま現実に立ち
返った。
 見れば女子高生軍団がくすくす笑いながら青年と少女を眺めている。ワガママな妹を持て余
す兄。そう思っているのが微笑ましい表情から見て取れた。
(違う! こいつはただ隣に住んでるだけで)
 内心慌てて弁解しつつ少女の肩を抑えると、一段と大きな笑い声を残しながら女子高生軍団
が視界の中から消えていく。
「ああっ! 行ってしもうた……。喰いたかったのうあれ」
 指していた指を物欲しげにしゃぶりながら、少女は黒珊瑚の色した大きな瞳を涙にうるうると
潤ませた。
「尖十郎が許可をよこさんから、尖十郎が許可をよこさんからわしはまた腹ぺこじゃ……」
「俺のせいにすんな! だいたいさっき特盛チャーハン十杯も平らげたのはどこのどいつだよ!」
「ここのわしじゃ! 恐れ入ったか!」
 薄い胸を誇らしげにそっくり返す少女に、尖十郎と呼ばれた青年の頬がみるみる怒りに歪んだ。
「フザけんな! あれ一杯で五合分ぐらいの米使ってんだぞ! 歩きながら計算したけど十杯
だいたい大体16.5kgぐらいの米がお前の体内に入った計算だ!」
「ほう。我ながら凄いのう。確か”すーぱー”で売っとる一番でっかい米袋でも15kgじゃったか」
「それのだいたい一割増しを平らげといてなんでまだ喰いたがるんだ! だいたいそんなちっこ
い体のどこにさっきの喰い物が収まってるんだよ! そもそも学校帰りに飲食店で堂々と買い
食いすんな!!」
 後半は半ば悲鳴である。さもあらん、少女の身長は青年の腹ほど……130cmあるかない
かという位の小柄なのだ。これ位の身長の小学生女子の平均体重がおよそ27〜30kgであ
り、大食漢で知られるラッコでさえ一日に食べる量は己の体重の三分の一ほどである事を考
えると、一食で体重の半分以上を食べてなお空腹を覚える少女というものはいかがなものか。
「さあのう。普通に考えれば胃袋あたりなのじゃが……この点わしにもとんと皆目がつかん」
 少女は困ったように眉を潜めて腕を組んだ。
 衣装は今日びの小学生には珍しい黒ブレザーにネズミ色のミニスカート
「実をいうとあれの数倍ある代物を喰ったとてあまり腹持ちせんのじゃ。科学の神秘じゃのう」
「生物だろ」
「まあ生物学の範疇でもあるじゃろな」
 うむうむと頷く少女の名は木錫(きしゃく)という。
「しかしいつも思うけど変わった名前だな」
「これでも結構簡単にした方じゃぞ。わし自身の”ぱーそなりてぃー”とやらを表すために」
 彼女は横文字が不得手らしく、発音するときはいつも舌ッ足らずである。
 ちなみに先ほどから少女に悩まされている紺ブレザーで短髪している以外あまり特徴のない
青年の名は坪錐尖十郎(つぼきりせんじゅうろう)といい、少女との間柄を分かりやすくいえば
「お隣さん」である。
「わしの年齢は500歳をゆうに超えておる。しかも職業は忍者なのじゃ!」
 三か月前。坪錐家の隣に両親ともども引っ越してきた木錫は、挨拶もそこそこに尖十郎の肩
に飛びかかってこう切り出した。

122 :
「だから若いの、くれぐれもわしを敬うのじゃ!」
「はぁ」
 いったい何を言い出すのかと尖十郎は木錫の顔を眺めた。
 ややツリ目気味だが大きな瞳。前髪は左半分が白い額を大きく剥き出し右半分は先端が目
にかかる程の長さで子供っぽい雰囲気だ。短めのポニーテールの付け根には、正面からでも
見えるぐらい大きなかんざしが斜めに刺さっている。確かにそれは現代っ子っぽくなくもないが、
しかしブラ下がっている物ときたら白いフェレットやら赤いマンゴーやらの小物で、やはり子供
くさい。低い鼻の頭にうっすらピンク色が差しているところなどどこからどう見てもまったくの少
女ではないか。尖十郎の首にしがみついたまま口を波線に綻ばせたまま、彼の驚きに満ちた
回答を今か今かと期待しているところなど長寿の忍者にしてはいささか稚気がありすぎる。
「あ、あの。この子忍者とかが好きで時々変な事いいますけど……気になさらないで下さいね」
 一緒に挨拶しにきた木錫の母親は困ったようにフォローを入れた。こちらは年の頃ようやく
三十で主婦を絵に描いたような格好である。柔らかそうなセーターを着て後ろ髪を所帯じみた
様子で無造作にくくっているところは眼前の木錫よりも尖十郎の好みに合うように思われた。
 何かと木錫の世話を焼く羽目になったのは、隣家だからとか彼女の通う小学校が尖十郎の
高校の隣にあるとかといった物理的要因よりもむしろ木錫の母に対する青年らしい下心──
あくまで褒められたり手料理を御馳走になれたらなあ程度の──が作用しているのだろう。
 本日も高校から出るなり正門でとっ捕まえられ、手を引かれるまま導かれるまま中華料理屋
で繰り広げられた暴挙をニンニク焦がしチャーシューメン啜りながら見る羽目になったのも下心
のせいであろう。
 もっとも実はそれに加えてもう一つほど理由があるのだが、そちらは後段に譲る。
 とにかく。
 そんなわけで通り道にある公園に立ち寄った木錫と尖十郎である。
「だいだがだいだがだいだがだいだがぎゃーばんっ! (とぅるつっつー!)」
「おい」
「だいだがだいだがだいだがだいだがぎゃーばんっ! (とぅるつっつー!)」
「おい!」
「だがでぃだっでぃ! だがでぃだっでぃ! だぁだっだっだぁーやだだ、ぎゃぁばん!!」
「聞けよ! つか降りろ!」
「くらーっしゅ!?」
 怪鳥のごとき異様な叫びとともに木錫は大きく飛びあがった。
 そこだけを描くとあまり以上ではないが、それまで彼女が歌って両手広げて走り回っていた
場所が問題なのである。
 雲梯。金属製の梯子を弧状に設置したぶらさがりの遊具。
 その上を木錫は爆走していた訳であり、尖十郎が降りるのを促したのも危険きわまりないた
めである。もっとも呼びかけが届くまで距離にして10mはあろうかという雲梯を木錫は平地を
走るように軽く二往復半していたが。
 果たせるかな、スカート抑えつつクルリと宙をうった木錫は体操選手顔負けの綺麗な姿勢で
着地し、それがまったく日常動作のような調子で顔をしかめて反問した。
「なんじゃ? 歌が古いから気に入らんかったか? じゃがわしの年齢からすればこれもだい
ぶ新しいんじゃぞ。ちなみに走ったり叫んだり転がったり飛んだりする刑事の歌じゃ!」
「いや、危ないというか」
 尖十郎は額に冷たい物を感じた。網目のごとく穴の多い雲梯なのだ。線の部分とてパイプを
連ねただけである。この細さを思えば平均台など関東平野だ。常人には乗って立つ事さえは
ばかられる。だが木錫はその上を疾走したのだ。ただ平坦なのではない。緩やかとはいえアー
チ状の勾配ある細い金属のパイプを昇り下ること二往復半──…
「どうして走れるんだよあの上を」
「む! まーだわしを信じておらんのかヌシは! わしは忍者じゃぞ! あの程度など造作も
ないのじゃ! ”ふぇれっと”のごとく狭い穴の中に潜り込んですいすい走る事とてできよう!」
 指立てて唾飛ばしまくる木錫から甘い匂いが立ち上る。
(果物の匂い? ……マンゴーだな。そーいやかんざしにも付けてるが、好きなのか? ……
いや、違う。そういう問題じゃない)
 見なかったコトにする。多分俺は疲れている……暗澹たる面持ちの尖十郎は話題を変えた。
「ところでどうして今日はまっすぐ帰らないんだ?」
「なんとなくじゃ。尖十郎とあれこれ寄り道したくなっただけじゃな」
 腰の後ろで手を組みつつ木錫はベンチに腰かけた。

123 :
「別に帰宅部だからいいけどさ、さっさと帰らないとお母さん心配するぜ。ただでさえ最近──…」
「うむ。何だか物騒じゃからのう」
 というのも最近県内のとある学校で猟奇殺人事件が起きた為である。
(狙われたのは学生寮。幸い騒ぎに気づいた管理人たちが生徒たちを避難させたから被害は
拡大しなかったっていうけど……)
 この世の物と思えぬ絶叫に管理人が駆け付けた部屋には──…
(腹部から食べかけの内臓を引きずり出された死体が居たとか、ドアを開けたらアンパンマン
よろしく頭齧られた女生徒が目玉こぼしつつコンニチワだとか……。まったく。明治か大正ごろ
の北海道じゃあるまいし、そういう熊にやられたような傷できる訳ないだろ)
 生徒たちの噂話を一笑に伏したい尖十郎である。
 とにもかくにも女生徒が五〜六人殺されたというのは事実らしい。川に漂着したほとんど骨
ばかりの両足をDNA鑑定した結果、どうやら行方不明の女生徒の物らしいというニュースも
耳にした。
 刺激的なニュースを欲するマスコミ連中は「きっと犯人は食人癖のある者で足の肉を喰い尽
したから骨だらけ」などと煽りたててはいるが、現状は魚か鳥に喰われたか、或いは岩か何か
にぶつかって損傷したする見解の方が一般的であり尖十郎もその支持派だ。
(もっとも、その女生徒が足を切断されたって事実にゃ変わりねーけど)
 顔も名前も知らないが、尖十郎はその若さゆえに五歳と年の離れていない者が酸鼻を極め
た目に遭うのを聞くとどうにもやるせない。
 ぶすっとした表情の尖十郎につられたのか、木錫も若干心細げな声を出した。
「少し前は県外で似たような事件があったそうじゃが」
「今度は県内だもんな。距離的にはあんまりここから離れていないし」
 おかげでこの界隈で子を持つ親の不安は日に日に高まり、尖十郎の母などもしきりに木錫を
送り迎えするよう口はばったくいう始末。
「しまいにゃ不審者を見たとかいうウワサが立つ始末だ。本当にいるのかねーそういう奴。口
裂け女とか人面犬みたく社会不安がどうとかで出てきた代物っぽいが」
「まー、大丈夫じゃろ。わしとヌシが一緒にいれば襲われても何とかなろう」
「いや、だからさっさと帰った方が親御さんも安心するだろ。もうそろそろ暗くなってきたし」
「んー、しばらくこうしていたいのじゃ。わしは」
 ピトリと身を寄せてきた木錫にため息が漏れた。
「いっとくが俺はお前なんか恋愛対象なんかにしない。ロリコンじゃないからな。小学校で年相
応の奴見つけて仲良くやってろマセガキ。ま、大喰らいで雲梯の上走り回るような奴がモテる
とは思えねーけど。鼻だって低いしな」
 からかうようにいうと、木錫は露骨に頬を膨らませた。
「また馬鹿にする」
(ハイ怒った。忍者がどうとかいってもやっぱ子供だなコイツ)
「前々からいっておるがわしの方がヌシより年上なんじゃ! 本当にもうずっとずっとずーっと
年上なんじゃぞ!! だいたいこの低い鼻はわしの”こんぷれっくす”なんじゃぞ! いうてく
れるな!」
「年上は小学校なんかに通いません」
「う……! そ、それはじゃな、義務教育とやらに興味があるし、第一今後の任務のためにも
色々と必要なワケで…………」
「任務って難しい言葉良く知ってるな。で、何の任務なんだ?」
「そ、それはいえん。いったらきっと、ヌシはわしを嫌う……。絶対に嫌う」
「どうせ給食係とかザリガニの水槽の掃除とかだろ。まあ頑張れ。小学生は小学生らしく毎日
身の丈にあった事を楽しくやりゃあいいんだ」
「う、うん。そうす……ちーがーう! わしのが年上なんじゃ! 何うまい事なだめておる!!」
「へいへいこりゃ失礼しました」
「う゛ぅ〜」
 頭をぱしぱし叩かれると、木錫は下唇を噛んで呻いた。
「とにかく早く送ってかないと今度は俺が不審者にされるからな。幼女誘拐犯なんて疑いかけ
られるのはまっぴらだし。まあなんだ。守ってやるさ送り迎えの時ぐらいは」
 半泣きで睨むように尖十郎をしばらく眺めていた木錫は、腹の虫がぐぅと鳴るとバツが悪そう
に立ちあがった。
「無礼の詫びに手を繋いでけ。そしたら……許してやらんでもない」
「了解」
 繋いだ手はしかし妹にするような軽やかさがあり、木錫はムズ痒そうに眉を潜めた後、ちょっ
と諦めたような表情をした。
「そうじゃな。うん。色恋は……良くない。きっと制御ができなくなる」

124 :
「何かいったか?」
「別に」
 街並みが後方に流れ、段々と見慣れた住宅街に染まっていく。
 ややあって。
「ところでさ、どうしてお前ん家ここに越してきたんだ? 転勤なのか?」
 繋いだ手をぶんぶんと振りながら木錫は答えた。
「うーん、わしはな……探しておるのじゃ! 昔生き別れになった動物を」
「ペットか?」
「そんなところじゃな。何しろ生まれる前から色々と世話をしておったからのう。その母親に
も並々ならぬ手間暇をかけたのじゃ。だから逢いたい。この街に来たのも目撃情報を掴んだか
ら腰据えてしばらく探すために引っ越したのじゃ」
「そりゃまた」
 動物一匹のために引っ越しできるというのも大した物である。
「で、何の動物だ?」
 聞いてみるとどうして先に言わなかったのか不思議なぐらいポピュラーな動物だった。
「で、特徴はじゃな……」
 木錫は繋いでない方の手で指折りつつ特徴を列挙した。
 尖十郎はしばらく考えた後、心当たりのある種類を挙げた。
「そうそれ。ちなみに別れてざっと10年ぐらいじゃ!」
「10年……」
 その種類が人の手を離れて生き延びるには絶望的な数字である。
 ぽつねんと呟いたまま表情を暗くする尖十郎に木錫はからからと笑った。
「なぁに生きておるよ。聞く所によるとそこそこの者に拾われたらしいしの」
 そうか、と話を聞いているうち、尖十郎はふと別の感覚に気づいた。
(ん? なんか木錫と繋いでる手が痒いな? 何でだ?)
「そろそろ痒くなってきたじゃろ? すまんの。そういう体質でな」
 素早く手をほどいた木錫は尖十郎の前でピースを開閉しながら笑った。
「ふぉっふぉっふぉ」
「……そりゃもしかしなくても」
「そう、バルタンじゃ! バルタンは宇宙忍者だから好きじゃ」
「じゃあバルタンと恋愛したらどうだ?」
「ぐ、そういう意味の好きじゃないのじゃ! 実在せんモノにわしの食指は動かんという話じゃ!
もっとも食指動く限りはどんなに離れていても諦めんがな」
「食指ってお前……」
「あ!」
 しまったというように木錫は口を覆った。
「本当マセガキだな。そういう言い方で恋愛を語るのはおっさんのする事だぞ」
「……」
 木錫がほっとしたような腹立たしげな顔をする間に、彼女の家が見えた。
 闇にけぶり暗い暗い家が。
 チャイムを鳴らし、木錫の両親を呼んで玄関先で適当な挨拶を交わす。
 いつもと同じ光景がその後起こるはずだった。
「どういう……事だ?」
 チャイムを何度押しても木錫の両親は出てこなかった。
 玄関のドアに手を掛ける。
 鍵が掛っていない。
 まるで家人を招き入れるかの如くドアは容易く開いた。
 覗くのは長方形に区切られたドス黒い深淵。
 もはや夜だというのに家屋には電灯の類がいっさい灯らず静まり返っている。
 そういえば遠巻きに見た木錫の家は薄闇にけぶっていた。
(光が、見えなかった)
 嫌な予感をなるべく表に出さぬようにしながら、傍らの木錫に「今夜両親が出かける予定は?」
と聞く。すぐに返事。「そんな予定はない」。嘘でも冗談でもない事は強張る顔から見て取れた。
 尖十郎も軽く唾を呑んだ。

125 :
 県内での猟奇殺人。近ごろ近辺に出没したという不審者。
 ウワサ程度の代物だと分かっていてもこのおかしな事態に結びつけてしまう。
 しかし有事を裏付けるにはまだ何も確かめていない段階なのだ。警察を呼べば一番安全な
のだろうが、推測がいい方向に外れていた場合の事を考えるとまだできない。
 だが。
「……なんだかヤバそうだ。お前は俺の家に行ってろ」
「尖十郎はどうするのじゃ?」
 不安げに木錫が聞く間にはもう尖十郎は靴を脱いで上がり込んでいる。
「家の中を確認する。もしかすると何か急ぎの用事で家を空けてるかも知れないだろ? 書き
置きでも見つけたらすぐに戻るさ」
 パチリという小気味の良い音とともに白い光が満ち満ちた。
 玄関口からL字を描くように伸びる廊下の電灯だ。それは廊下に面する三つの部屋を照らし
だしている。何度か遊びに来た経験が見慣れさせた部屋の数々。突き当たりは物置、左は居
間で右は台所。尖十郎が現在位置から左に歩み廊下に沿えばいつかは辿りつく。
 逆に右に歩めばすぐトイレのドアで行き止まり。その近くには階段もある。二階には寝室が
あるらしいが、流石に高校生たる尖十郎にお泊りの経験がないため全容は分からない。ただ、
書き置きを置くとすれば一階の居間か台所であるだろう。彼はそう類推した。
「ま、十分もあれば分かるだろうし、それまでお前は待ってろ。何か言伝があるかも知れないし」
「……いやじゃ!」
「いやってお前」
「さっきもいうたじゃろ。わしとヌシが一緒にいれば襲われても何とかなる!」
「そういうけどお前。大体、誰かが不法侵入したと決まった訳じゃ──…」
 言葉と同時に尖十郎の視線が一点に止まった。
 それは階段に向かう廊下の部分。灰色にくすんだ異様な模様が刻まれている。
(靴跡……!?)
「やっぱり!!」
 尖十郎と同じ物を見た木錫が一目散に階段目がけて走りだした。
「待て! やっぱりって何だよオイ!」
 小動物のような速度で遠ざかるかんざし付きの後ろ髪に怒鳴りながら尖十郎も走りだした。
 その頃にはもう木錫、階段を五段ほど飛ばして駆けあがっている。その差を何とかコンパス
の差で埋める頃には両者とも二階に上がっていた。
 不意の無酸素運動に尖十郎は膝へ手を付き荒い息をついた。この時ほど帰宅部特有のな
よっちい体力を痛感した事はない。
「やっぱりってどういう事だよ。何か心当たりでも」
「静かに」
 息も絶え絶えの質問を鋭く遮った木錫は、閉じた木戸の前を指差した。
 暗くてよく分からなかったが、茫洋とした灰色の模様が浮かんでいる。靴跡だとすれば何者
かが侵入したという可能性はますます否めない。
 引き返そう。その言葉はしかし紡ぐべき時期を逸していた。
 放胆にも木錫は木戸を開けた。自動ドアというよりSF映画に出てくる宇宙船のドア。そんな
形容がぴったりな速度で開いた扉の向こうに……果たして木錫の両親は居た。
 布団の上でもつれ合うように倒れている姿から尖十郎が目を背けたのは痴態を想像しての
事ではない。
 彼らは確かに体を重ねていた。部分によっては絡み合っていもした。
 下にいるのが木錫の母親だと尖十郎がかろうじて分かったのは、破れたセーターの肩胸か
ら白い膨らみがまろび出ていたためである。それが木錫の父親の左肩に押しつぶされ、更に
彼の左大腿部の影に黒く焙られている。と見えたのは木錫が扉を開けると同時に部屋の電灯
のスイッチを入れたせいであろう。おかげで全体像がよく見えた。部屋の全体像がよく見えた。
 前述の通り木錫母の胸は夫の左肩に潰され、その上にある右大腿部の影を浴びている。し
かしそれは本来おかしいのだ。一体どうして左肩に右大腿部が乗っいるのだろうか?
 結論からいえばそれは非常に簡単である。酸鼻なる光景を直視できれば、だが。
 生のフライドチキンのように無造作に斬られた木錫の父の大腿部が彼の肩に乗っている。
 肩は付け根から斬られ、腕らしい肉塊が骨を覗かせながら散乱している。腹も首もなくした
木錫の母親の胸は内臓の断面を尖十郎に赤々と見せつけ、腹らしい物体が新鮮な色の臓物
(ハラワタ)をブチ撒けながら首の付け根のあたりに転がってもいた。畳にはそろそろ黒ずみつ
つある血液がべっとりとこびりつき、その上に目を剥き苦悶の表情の生首が二つ転がっても居
た。指がばらばらと零れ実にバリエーション豊かに切断された手や足の破片は十や二十に収
まらない。

126 :
 ……さて、描くと長いが尖十郎はその総てを確認したワケではない。
 ただ木錫の両親がバラバラになっていると認識するや、部屋に籠っていた臓腑の生々しい
匂いに吐気を催しかけた。嗅覚は初見以上の情報を掴み、視覚は初見以上の情報を拒んだ。
 にも関わらず咄嗟に彼が木錫の前に立ちはだかり、踵を返し、彼女を抱え込むようにしゃが
んだのは、黒い疾風のような物が飛び込んできたのを察知したからだ。
 後で思えばどうやら影は押入れのドアを破ってきたらしい。
 とにかく彼は木錫をかばうと同時に背中で異様な熱気が通り過ぎるのを感じた。
「尖十郎!」
 絹を裂くような悲鳴を胸の中に籠らせる青年は声にならぬ悲痛な叫びで激痛を表現した。
 背中が斬られている。
 傷の灼熱感、そして汗よりも粘っこく背筋を流れていく生暖かい液体。人生始めて直面する
異常な事態に脂汗を流し歯を食いしばる尖十郎を木錫は沈痛の面持ちで見上げた。
「かばったか」
 ひどく粛然とした静かな声に遅れて、ひゅっと風を切る音がした。
 振り返り、血の流れる背中の後ろに木錫をやりながら尖十郎は相手の姿を眺めた。
 年の頃は30半ばというところか。丸々としたいがぐり頭の下で酷薄そうな目を更に細めてい
る。鼻の頭にはあばたともイボとも思えるブツブツが浮き出ていかにも見苦しい。頬はこけ肌
の色はどこかの内臓の病気を疑いたくなるほど黄味がかっている。
 そんな彼の両手には鉤のついた手甲。振られるたびに鮮血が鉄臭い点描を畳に描いていく。
(アレで俺を……いや! 木錫の両親を!)
 傷の痛みも忘れて若い面頬を怒りに紅くする尖十郎に涼やかな声がかかった。
「お前、人間か?」
「何を」
 お前こそ人間なのかと叫び出したい衝動を抑えたのは理性ではなく傷の激痛である。
「『信奉』もしていないな?」
「何の話だ!」
「ならば気をつけろ
 回答と同時に男は一足飛びに尖十郎と間合いを詰めた。
 斬られる。身をすくめた彼はしかし意外な感覚が到来すると同時に右へ数歩たたらを踏んだ。
 男は──…
 掌で尖十郎の顔を横にいなした。鉤手甲を用いるのでもなく、また殴るのでもなく平手を見舞
うのではなく、ただひたすらふんわりとした手つきで尖十郎を横に逸らしたのである。
「──っ!?」
「そいつは人を喰う化け物だ」
 鉤手甲は尖十郎の背後にいた木錫目がけて轟然と打ち下ろされた。
 だがその瞬間にはもう彼女は残影を描きつつ両親の死骸転がる部屋に滑り込んでいる。
 代わりに元の背後にあった襖がバリバリと凄まじい音を立てて破られた。
 それを見届けた木錫はふうとため息をついた。
「やはり『戦士』か。まったく仮初とはいえいい感じの父母(ちちはは)だったのじゃがなあ」
 仮初? 傷の痛みに喘ぎながら尖十郎は部屋を覗こうとしたが、男に制された。
「まあ、上司が命ずれば何でもやるのが忍びだがの。とはいえここまで仕込むのに10年はか
かったのじゃぞ? そこまでの苦労と今までの平和な暮らしどうしてくれる」
 それでも何とか首を伸ばし覗きこんだ部屋の中で──…
「まったく。余暇を利用して”ぺっと”の”ちわわ”を探す以外特に悪行を働いておらんというの
に。狙うならわしの同僚どもにせい。連中のが遥かにえげつないぞ。人間どもへの害悪はわ
しの比ではない」
 木錫はニュっと唇を歪めて笑っていた。
 見る者次第では悪戯っぽいとも、意地悪とも老獪とも見える凄絶な笑みだ。
 しかも彼女は掌から母の物とも父の物とも知れぬ腕をポンポン投げて弄んでいる。
 散乱していた中で一番大きな肉塊は、戯れと共に切断面から血しぶき飛ばし幼き頬を穢して
いく。だが声音ときたら実に軽やかで朗らかで、まるでシュークリームを顔に塗りたくっている
程度の気楽さが全身から立ち上っている。
「木錫……お前は一体?」
 ちらと尖十郎を見た木錫は少し視線を泳がせた後、男に向きなおって朗々と喋り出した。
「だいたい人喰いはこの県来て以来『県内では』慎んでおったというのによくもまあ嗅ぎつけ
たの」
「貴様の部下が白状した」
「部下……ああ、これじゃなく下っ端の方か」
 土気色の腕をぶんぶんと振りながら木錫は嘆息した。

127 :
「やれやれこれじゃから組織務めはやり辛いのう。どうせ空腹に耐えきれず県内で粗相でもや
らかしたとみえる。お、そういえば最近近くで殺人があったとみなみな噂しとったが、もしかす
るとそれかの? 若く瑞々しい肉があるゆえ、学生寮を狙うのは基本中の基本じゃからな」
「ああ。だからこの近辺を張っていた」
「成程。学校襲った輩は捕獲済みなんじゃな。そして上司たるわしの所在も吐かせたのか。むー。
せめてわしの部下なら忍びらしゅう間者を務めるとでもうそぶき切り抜ければいいものを。どう
せ今頃は墓の下……これじゃから若人はいかんの。考えなしに行動して命を捨てよる」
 額に自分の物ではない手を当て、芝居がかった仕草で木錫は首を横に振った。
 麻痺しつつある尖十郎の脳髄はしかしどこか冷静に状況を分析し始めた。
 きっとそうでもしないと狂ってしまう……隣人の豹変に底冷えのする思いだ。
──「少し前は県外で似たような事件があったそうじゃが」
(他人事みたいにいっておいて何だよ。結局お前がやったのかよ……)
 
 県内の猟奇殺人は木錫の部下の仕業。
 ここしばらく近辺で目撃された不審者は鉤手甲を持つ男なのだろう。
 総ての元凶であり関係者たる木錫を尖十郎は守ろうとしていたというのは皮肉な話だが、彼
はそれを笑えるほどの精神状態ならびに状況には存在していない。
「既に聞いたと思うが、そこに転がっている連中もこいつの部下だ」
 男は言い聞かせるように呟きだした。
「信奉する見返りに、自分たちも化け物に格上げされんとする見下げ果てた人間の敵。同じ
人間だとしても自らの勝手で他社に害悪を振りまかんとする連中だ。分かったか? 分かった
らさっさとこの場から離脱しろ」
「逃げるって。あんたは。それに……木錫は?」
 青ざめた面頬を震わせながら、尖十郎は男と木錫を見比べだした。
「安心しろ。多くは語れんが俺のこの鉤手甲は化け物を仕留めるに適した最高の武器。これ
で奴を斃すのが俺に与えられた任務だ」
「で、でも木錫は!」
「『化け物じゃないかも知れない』。そういいたいのだろう? だがお前は奴に違和感を感じな
かった事が一度でもあるのか?」
「それは──…」
 尖十郎は言葉に詰まった。
(確かに……アイツは)
 16・5kgほどに相当する特盛チャーハン十杯を平らげてなおすきっ腹を抱えていた。
 雲梯の上を平然と駆けていた。
 だいたい初対面からして1000歳を超えているといっていた。
「心当たりがあるようだな」
 死刑宣告を告げるに等しい男の言葉に、尖十郎の肩がビクリと震えた。
「それでも……悪い奴じゃないんです。本当に化け物で忍者やってるにしてはいつもいつも
無防備に色々やらかしてて、俺が世話焼かないと危なっかしい部分があって、本当に子供み
たいで。だから! だから……!」
「……奴の話を聞いていなかったのか?」
「え?」
「人を喰うのだぞ奴は」
 言葉の意味を理解した尖十郎の表情に絶望の色が黒々と広がった。
──「だいたい人喰いはこの県来て以来『県内では』慎んでおったというのに」
(それじゃあ)
──「のう、あれ喰うて良いか?」
(あの時、木錫が食べたがっていたのは)
 少女の指の遥か先では、クレープを食べながらにこやかに会話する女子高生の一団がいた。
人間の……方…………?)
 激痛の灼熱さえ押しのける怖気が背筋一面を冷やした。

128 :
「如何なる姿を見せていようと、アイツはひとたび飢餓に狂えば平然と人を喰らう化け物だ」
 鉤手甲の男は悠然と部屋に足を踏み入れた。
「分かったらさっさと逃げろ。そして忘れろ。この女の存在も過ごした日々も」
 気死したがごとくのろのろと階段に向かって歩く尖十郎は……横目で見た。
 ゆっくりと木錫の周囲を回りながら手甲を振りかざす男を。ただし距離は詰めない。ゆえに手
甲は鉤の先端さえかすりもしない。
 面妖な攻撃である。
 男は木錫の周囲を回り、遂には頭上を飛び違えたり横を行き過ぎたりしながらもなお攻撃を
空ぶるのである。しかしその攻撃は威嚇でも牽制でもまして技量の未熟さゆえに当たらぬと
いう様子でもなく、一撃一撃に斬り殺さんばかりの気迫が充溢しているのである。
 立場としては男に守られている尖十郎でさえ身ぶるいするほどの殺気である。
 だがそれを向けられている筈の木錫は大した動揺も見せず、男が正面に舞い戻るやいなや
うーんと大きく両腕を上げて生あくびを浮かべた。
「んん……。お、なにかよう分からんが、終わったかの?」
「ああ。少なくてもあの青年を逃がすまでの時間稼ぎはこれでできる」
「ほう」
 感嘆めいた声が木錫の口から飛び出した。見れば先ほど上げた両腕に微細な傷がついて
いる。
「ぬぅ。何かに斬られたようじゃのう」
 濡れた手ぬぐいを叩くような異様な音が木錫から走ったと見るや、彼女と男の間で血しぶきと
肉片が飛び散った。掴んでいた腕が投げられそれがサイコロステーキのように寸断されたの
である。
「こりゃあまたひどいのう。何も講じず出ようとすればばらばらじゃ」
「そこに転がっている信奉者どものようにな」
 ふむ、と木錫は両腕の血をねぶりながらしばし思案にくれ、やがて言葉を発した。
「風閂(かぜかんぬき)という忍法を知っておるかの? 主に風摩に伝わる忍法なんじゃが、
髪の毛を周囲に張り巡らすとちょうどこんな感じになるのじゃ。うむ。髪ではないが髪によらざ
るしてかような物を作ろうとはいやはやまさに眼福眼福。見えこそせんが眼福じゃ」
「御託を」
「いやいや。褒めておる。ここまでできるヌシは間違いなく相当の使い手じゃ」
「……」
 男は悠然と踏み出した。しかし木錫が「出ようとすればばらばら」と看破した部屋なのだ。そ
れは男自身も首肯したではないか。なれば左様な斬撃の結界に踏み込めば彼もまた足元の
骸と同じ運命を辿るのではないか? いやいや先ほど結界を張った時を思い出してほしい。彼
は部屋を縦横無尽に駆け巡っておきながらかすり傷さえ負っていないのだ。蜘蛛が自らの糸
に絡め取られないように彼もまた自身の巡らす結界の攻撃対象から外れているとみえる。
 そうして彼は一歩、また一歩と歩みを進めていく。
 迂闊に動けば木錫は足元の偽両親と同じ命運を辿るであろう。
 かといって動かねば、結界をすり抜けてきた男の餌食。見よ。彼の手に光る一対の鉤手甲
を。先ほど尖十郎を切り裂いたそれは異様な殺気と憎悪に鈍く輝いている!
 しかし果たせるかな、木錫もまた男に向かってじりっと一歩踏み出した!
「斬撃軌道の保持……というところかの? ヌシの能力。その鉤手甲の軌道に沿って斬撃が
残りあたかも透明な刃を置いたかのごとく敵を斬り裂く……とみたがどうじゃ?」
 男の顔にありありと驚愕が浮かんだのもむべなるかな。
「大した能力じゃが相手が悪かったの。わしとの相性は残念ながら最悪じゃ」
 彼は木錫が踏み出した瞬間、斬れる! と確信していた。
 現に部下二人は寸断し酸鼻極まる地獄絵図を醸し出していたではないか。
 だが実情はどうか? やんぬるかな、斬れると見えた木錫はまるで斬れぬ!!
 いや正確には張り巡らした斬撃軌道の細い線自体には引っかかっている!
 それが証拠に皮膚がわずかにへこみ、少女らしい外観に見合った柔らかな肉さえも斬撃の
線にそってすうっと斬られているのだ。木錫は男の能力を「あたかも透明な刃を置いたかのご
とく敵を斬り裂く」と形容したが、まさにその透明な刃は木錫自身の体を通り過ぎてもいるので
ある。現に男は目撃した! 木錫の腹が水平なる透明刃を浴び、脇腹から背中に向かって斬
られていく様を!
 なのに斬れぬ!!
 物理的には無数の刃が当たっているにも関わらず、傷口が一つたりとも開かない!

129 :
 刃を浴びた体は次の瞬間にはもう癒合し、何事もなかったかのごとく平然と歩んでいるので
ある。──いかなる名刀とて一ツ所に溜まった水を切断する事は不可能なのだ。斬ったと思っ
た次の瞬間にはもう再生している。
 まさに木錫はそれ。立ちながらにして桶の中の水のごとく斬られないのだ。
 変化といえばせいぜいが白い肌が蝋のように軽く透けて見える程度──…
 何という怪異! 端倪すべからざる魔人のわざ!!
「忍法蝋涙鬼(ろうるいき)。ヌシにはチト余る代物じゃて」
 やがて茫然たる男の前にたどり着いた木錫は、意地悪い笑みの籠った上目遣いをしながら
しっしと手を振った。
「ほぅれほれほれ。逃ーげーたーらーどうじゃあ〜? どうせヌシはわしにゃ勝てん」
 身長差は大人と子供ほどあるにも関わらずこの所業というのは何とも間が抜けた感じだが、
言葉自体は至極理性的で的を射てもいた。
「戦略的撤退もまた良しじゃ。弱いものいじめをする趣味はないし、ヌシほどの使い手をかよう
なつまらぬ争いで殺めるのもつまらん。何十年かの修練、呆気なく水泡に帰したくはなかろ?
第一な。これが一番重要なんじゃが……喰ってもまずそうじゃからのう」
 ケラケラとした嘲笑を浴びる男の風采は確かに悪い。だが彼は蒼然たる面持ちから絞り出す
ような声を漏らした。
「逃げたら貴様は先ほどの一般人を喰うつもりだろう」
「わしは彼が好きなのじゃ」
 答えになっているかどうかも分からない答えである。
「ところで『きしゃく』というのは名ではなく苗字でのう。字も本当は『木錫』ではない。わしの居
る組織の連中みなみな能力がそのまま名字でな、くされ縁のえろぐろ女医など衛生兵の英語
読みを苗字にしておる。とはいえわしは見ての通りの老体ゆえに横文字には疎い。よってそ
のまま能力を苗字にしたのじゃが、はて困った、みなみなわしが名と苗字を漢字で連ねるたび
に難しくて読めぬという。やはり今日びの若人には漢字は受けんのじゃろうな。よって両方か
たかなにしたのはやんぬるかな。しかし字面で並べるとどうも名より苗字の方が見栄えがよく
てのう、偽名を名乗る際は苗字を名前としておる」
 つらつらと長広舌に及ぶ木錫……いやもはや木錫が偽名と自白した少女に、男は何も手出
しが出来ぬ。そうであろう。自らの能力を既に封殺した相手に一体何ができようか……。
「ところでヌシは錬金術と占星術の関連を知っておるか? ああ、別に答えんでもいい。わしが
いいたいのはそれら総ての知識に比ぶれば砂粒のごとき小さな知識、一言二言ですむのじゃ。
要するにじゃな、木星は錫(すず)と関連が深いのじゃ。錫というのは”ぶりき”やら”ぱいぷお
るがん”の”ぱいぷ”やらに使われとる金属だそうなんじゃが、錬金術やら占星術的にはこれと
木星が関連付けられておるという。そしてわしは『まれふぃっくじゅぴたー』なる役職でな。漢字
で書けば『凶木星』……ま、本来、”ぐれーたー・べねふぃっく(大吉星)”といわれるほどの木
星が凶象意を孕むのも妙な話じゃが、そういう決まりゆえ仕方ない。ま、陰陽五行の観点からすれ
ば僚友の雷使いにこそ『まれふぃっくじゅぴたー』を名乗らせるべきじゃとも思うが……おと。話
が逸れてしもうたな。まあぼけた老人の長話として笑って許せい」
 まったく隙だらけの少女である。
 男は考えた。いかな術法であれ集中力が途切れたその瞬間にならば解けるのではないか?
「要するにだから木錫なのじゃ。わしの偽名な。役職が『木星』で『錫』がそれに連なる金属ゆ
えに縮めて木錫。なかなか頓知が効いてて面白いじゃろ?」
 少女が優越混じりの息を吐いた瞬間、うねりを上げた鉤手甲が殺到した。
 果たして小さな頭はガリっという音とともに爆ぜ、錫色の髪の毛がばらばらと舞い散った。
(やったか!?)
 そう息をのむ男の前で少女の頭はどろどろと溶けていく……。
 よく観察すると傷によって溶解したのではなく、口から流れる涎のような液体によって顔面全
体が溶けていくようだった。例えるなら地盤沈下を来したビルの如く、下から順に顎、頬、目、
額、最後に頭というように溶けた肉汁が口中へ埋没していくのだ。そしてその肉汁は首を伝っ
て胸を流れ少しずつ少しずつ少女の原型を崩していく──…
「こりん奴よのう。亀の甲より年の功……。年長者の話はじっくりと聴いて損はないというのに」
 だが少女は喋る。動くべき唇も声を発すべき声帯も溶けてなくなっているというのに、どうい
う理屈か声だけは響くのだ。

130 :
「仕方ない。退かぬとあらばR他なかろうて。仮にも『まれふぃっくじゅぴたー』という要職に
あるわしがここまでされて何もせぬとあらば沽券にかかわろう。といってものう、あまり喰いで
がなさそうな相手ゆえ気乗りせんがのぅ……」
 腹も足もとろけて下に垂れて行き、やがてマンゴー色の飴を溶かしたような水たまりが畳に
溜まっても声は続く。まったく不気味極まりない。
「忍法我喰い(われくらい)もどき」
 細い目つきをカッと剥きながら男は足元を眺めた。少女だった”モノ”はいまやアメーバか何
かのごとく、ズズッ、ズズッと男に向かって這いだしている。不思議な事に畳に染みついた血や
そこらに転がる肉片とは混ざらないらしく、波濤が砂浜をこそぐる様な調子で通りすぎるのだ。
 男は素早くしゃがみ鉤手甲を振り下ろした。もちろん手ごたえなどない。
「愚かじゃのう。液体の類はまず斬れまいよ。わしを従わせるやんどころなき御方なら別じゃが」
 ちなみに彼女の服や下着は先ほど突っ立っていた場所で無造作に転がっている。白いフェレッ
トと赤いマンゴーの飾りのついたかんざしも服の上に落ちている。
「あ、そうそう。わしの能力と本名をまだ紹介しておらんかったの」
 男の背後で少女は再生した。
「まず能力名じゃが『ハッピーアイスクリーム』という。可愛らしいじゃろ? 横文字に疎いわし
がかたかなで発音できるぐらい気に入っておる」
 背中に話しかけるように突っ立つ彼女は当然ながら一糸まとわぬ姿である。
 胸に膨らみはなく胴も筒のごとくだ。小さな臀部には絹のごとき肌がしっとりと纏わりつくだけ
で肉は薄い。両足も白木の細棒を揃えたように頼りない。後ろ髪はほどけ肩や背中に見事な
紫混じりの錫の波を落としている。
 一方で表情はどこまでも明るく、双眸は少女的な無垢の美しさに生き生きと輝いている。
「ヌシの能力が鉤手甲の形を取っているのと同様、わしの能力は『耆著(きしゃく)』の形を取っ
ておってな。耆著というのは忍者が使う方位磁石みたいなもんじゃ。磁力を帯びており水に浮
かべると北を示す」
 濡れ光る肌からはマンゴーの芳しい匂いが立ち上る。どうやら服を脱ぎ捨てたせいで直に体
臭が飛散しているらしい。
「よって苗字は耆著。かたかなで書けばキシャク。偽名にしてた奴じゃな。で、肝心の本名じゃが」
「イオイソゴ、と云う」
「横文字で本名並べるならば『イオイソゴ=キシャク』、奥ゆかしい日本語で書くなれば……ふむ。
戯れに筆談的な会話もやるかの? じゃが『彼女』のあれはサブマシンガンあってこその術技でも
あるからどうしたものか。まあ物はためしじゃ、やってみよう」
 何かが男の肘に打ち込まれた。
 とみるや畳にぼとりと液状の物が落ちる音がした。
「耆著五百五十五じゃな」
 畳の上にできた肉の縦文字を小学生特有の本読みのような調子で読み上げる少女……い
や、イオイソゴとは対照的に、男はこらえにこらえていた悲鳴を遂に上げた。
 さもあらん。彼の肘から先は見事に溶けてなくなっている!
 それだけでもおぞましいのに、溶けた腕は畳の上で「耆著五百五十五」という文字を描いて
いるのだ。
 しかも文字は動く。トカゲの尾は切られた後もしばらく動くというが、この文字の動きはそうい
う反射的な物というよりは例えば電光掲示板に浮かぶイルミネーションのような規則正しさが
あった。肉で描かれた漢字は上から順々にそのフチを膨らませてウェーブを打っている。
「うーむ。我が名ながらいつ見ても仰々しいのう」
 仰々しい悲鳴が轟いているのはまったく意に介さぬイオイソゴ、自分の名を眺めつつ、更に
講釈を続けた。
「五百は『いお』とも読むのじゃ。万葉集にも『白雲の五百重(いおえ)に隠り遠くとも夕(よひ)
去らず見む妹があたりは』などという句もある」
 溶けた肉が男の残る腕から滴り落ち、イオイソゴの言葉を速記していく。
 二本目の鉤手甲がからからと畳を転がり……やがて六角形かつ掌大の金属片へと姿を変えた。
「五十を『いそ』と読むのは馴染み深いじゃろう。山本五十六というお偉い大将がおったからの。
ちなみにわしは越後長岡で小さい頃のこやつと遊んだ事もあるが……まあいらざる話かのう。
五が『ご』と読むと講釈するよりいらざる話。しかしどうも筆記は疲れるのう。やはりわしには
向いておらんようじゃ。ふぉふぉふぉ」
 両足の肉が解けて地面に溜まり、文字を描きながら素早く避けた。
 何を避けたか……、無論、支えを失いうつぶせに倒れる男をである。

131 :
 それをきっけけに速記は終了した。
「と。またしても長話がすぎたのう。生きておるか? 聞こえておるか? そのまま死んでは閻
魔の前でも首傾げたままとなろ。されば不敬を問われ沙汰が重うなる。それを良しとするほど
わしは鬼じゃないゆえ教えてやろう」
 倒れた男はもはや達磨状態である。
 それをよっこらとひっくり返しながら、イオイソゴは呟いた。
「ヌシが溶けたのはわしの耆著・ハッピーアイスクリームの特性のせいじゃ」
 その手にはドングリとも銃弾とも取れる先の尖った小さな物体が握られている。
 耆著とは正にこれを指すのだが、男の知る由ではない。
「わしも理屈はわからんが、これを撃ちこまれた物体はの、いい感じの磁性流体と化すらしい。
で、わしの持つ耆著で操れるという寸法じゃ。大雑把な磁力操作ゆえ精密動作は難しいがの。
磁性流体というのはそもそも強磁性体の固体微粒子を”べーす”となる液体中に界面活性剤を
用いて分散させた懸濁液。字面は難しいが要するに磁石を近づけたら海栗みたいな形に尖っ
たりいろいろ変形する不思議で面白な液じゃ。恐らくわしの耆著に元来そなわっておる磁力が
物体に作用する事で磁性流体を作るのか……。しかしそれにしては本来の磁性流体よろしく
黒くならぬのが不思議じゃのう……。まあ、わしは錬金術師ではないから科学的究明などは
専門外。ただしわしが数百年来やっとる職業的見地からなれば断言できる」
 ピっと親指と人差し指が動くと、耆著が男の胸に突き刺さった。
「忍法だからじゃ!」
 男の全身が溶けていく。
「忍者のわしが使うこんな能力は忍法としかいいようがなかろ」
 イオイソゴは満面の笑みでハイハイをしながら、かんざしをひったくった。
「なれば荒唐無稽大いに結構じゃっ!」
 起伏のない裸体をいきいきと反転させてイオイソゴは男の前に舞い戻った。
「おおそうだ聞いてくれ聞いてくれ。蝋涙鬼やら我喰いもどきやらも耆著の特性の応用なのじゃ。
わし自身に打ち込んだ場合はの、わし自身の意思である程度動けるのじゃ。まぁ、本来の我
喰いは消化液で色々溶かすものじゃから、わしの使うのは”もどき”にすぎぬが」
 そしてかんざしの端を持って軽く捻ると、果たしてキャップのように開くと……
 ストローが出てきた。
「ふぉっふぉっふぉー! いっつぁ食事たーいむ!! ……あぁでもやっぱまずそうじゃのう。
しかし喰いもせんものをRのは主義ではないし、第一自然の摂理に反する。かといってどう
も中年の肉は瑞々しさが無く脂ぎっててうまくない……仕方がない」
 ドロドロの肉塊を困ったように眺めると、イオイソゴはその上に握った左拳をかざした。
「わしは”ふぇれっと”と”まんごー”の細胞を入れられた調せ……ええと、そう、怪人なのじゃ」
 果たしてぎゅっと絞った左拳からはオレンジ色の汁がダクダクとあふれ出る。
 むろんその匂いはマンゴーの物であるから、どうやらイオイソゴは汗腺よりマンゴーの果汁
を出せるらしい。それで味付けするという発想に行きつくのは当人にとりごくごく自然といえよう。
 なおこれは余談になるが、マンゴーはウルシ科の植物のため人によっては果汁にかぶれて
しまう事もある。先ほどイオイソゴと手を繋いだ尖十郎が手に痒みを覚えたのはそのせいなの
であろう。
「本当は”らっこ”と”こうがいびる”が良かったのにえろぐろ女医がいらんコトしおったから……」
 えぐえぐと泣きながらイオイソゴは『男』だった肉塊にストローをプスリと差し込んだ。
「じゅるじゅる。”ふぇれっと”と”まんごー”の細胞を入れた理由は『淫猥な響き』だからだそう
じゃ。うぅ。何がどう淫猥なのかもわしにゃ分からんから忌々しい。じゅる。じゅるるる」
 やがて男を食べ終わると、イオイソゴは粛然と呟いた。
「大丈夫じゃ。お主を痛めつけようとかそういう意思は持っておらぬ」
 向き直った遥か先にいたのは尖十郎。壊れた襖の中に茫然と座り込んでいる。
 一連の戦いの妖気に囚われたという訳ではない。
 彼の周囲の床はことごとくドロドロと溶けている。立てないのはその溶けた床が強烈な磁気を
帯びて尖十郎を拘束しているためである。
 イオイソゴは戦闘の最中に尖十郎の足元へ耆著を打ち込み、辺り一帯を磁性流体と化して
いたと見える。
 むろん最初は逃れようともがいていた尖十郎であるが、磁力は血中の鉄分に反応したのか

132 :
彼を床へと吸いつけた。傷の痛みを堪え必死の思いで階段へ逃れんともがいた彼だが、横目
で見たそこも既に磁性流体のるつぼであった。かろうじて見えた一段目はとろけていた。左右
の壁に至っては何らかの磁力線に沿ったらしく針山のように激しく隆起し、向かいのそれと癒
合するや……扉よろしくばったりと閉じた。後はもう最初からそこに階段などなかったようにふ
よふよと波打つ異常な壁があるばかりである。ならば二階の窓から、と振り返っても磁性流体
と化した窓枠総てことごとく癒合し退路を断っている。そも退路があったとしても、尖十郎はそ
の場から一歩も動けぬ。
 そうこうしているうちに前出の妖気を孕んだ戦いを観戦せざるを得なくなり、かつて「木錫」と
呼んでいた憎からぬ隣人が人を喰うおぞましい情景さえまじまじと見せつけられる羽目になっ
たという次第。
 脱出を阻まれた時点ですでに精も根も尽き果てていた尖十郎だ。
 もはや瞳からは光が消え、ただただ呆けたようにイオイソゴを眺めている。
「できれば知られたくなかったのう。わしの本性」
 ストローを仕舞ったかんざしを口に咥えながら、イオイソゴは無邪気な調子で髪をポニーテー
ルに結わえた。服はまだ着ていない。にも拘わらず彼女は裸体を隠そうともしない。少女らしく
そういう所業にあまり羞恥がないのだろう。
 とはいえ瞳には憂いと悲しみの光が限りなく宿っている。
「わしはな。人間が憎くて喰っとる訳ではないんじゃ。仲間たちは……それぞれ凶悪な理由で
人間を殺しておるが、わしは違う」
 やがてできたポニーテールへかんざしを斜めに刺すと、イオイソゴは白い裸体をくゆらせるよ
うに四つ足で尖十郎にすり寄った。
「ヌシら牛肉とか好きじゃろ? でも牛を見てすぐに殺したいとは思わぬじゃろ? 殺されるさ
だめの牛を見たら、まず『可哀相』って思うじゃろ? ……わしの人間観もそれなんじゃ。食べ
たい。けれど隣人としては愛おしい。だからわしは憎悪で人を殺したくないのじゃ」
 そっと尖十郎の首をかき抱くと、イオイソゴは甘い匂いのする唇を彼のそれへと押しつけた。
しばらくそうしていただろうか。ねっとりとした果汁の糸を引きながら、気恥しげに視線を外しな
がら、イオイソゴは呟いた。
「その……好きじゃ。わしはお主の事。許可が出なかったとしても、好きなんじゃ」
 わずかに尖十郎の瞳に光が戻った。そして彼は何かを言いかけた。
「だから喰うのじゃ」
 耆著が尖十郎の喉笛に深々と突き刺さった。
「安心せい。さっき言った通り『痛めつけは』せん。そのうち脳髄さえもとろけ痛みも何も感じな
くなる。ただわしの中で甘く甘く溶けていくだけじゃ。そう……」
「ハッピーなアイスクリームのように」
「だが唇を合わせるのは好きな者だけじゃぞ。ストローなぞ……使いとうない。ヌシを直接感じ
させて欲しいのじゃ…………」
 再び合わせられた唇から、じゅるじゅると何かをすするような音が響いていく。
 尖十郎の体はいつしか横たえられ、ずずずと音が響くたび少しずつだがしぼんでいく──…
 およそ一時間後。
「くふふ……。好きになった者を喰いたくなるわしの性、正に業腹」
 尖十郎のブレザーを前に、口を拭うイオイソゴの姿があった。
 彼の姿はもはや辺りにはない。
 或いはイオイソゴの腹部を解剖する者があれば観察できるかも知れないが……。
 果たして見えざる斬撃線をスルリと切り抜け、果てはゲル状にさえ溶解できる彼女を解剖で
きる者など存在するのだろうか? そもそも磁性流体と化した状態で喰われた”物”を元の存
在として認識できるかどうかと問われればそれもまた難しい。DNA鑑定を用いれば照合自
体はできるが人間的感情では色々認めがたい部分が多いだろう。
「旨かったのう。でも……」
 法悦の極みという態でニンマリと笑っていたイオイソゴの瞳にみるみると涙があふれた。
「やっぱり悲しいのう」
 涙は頬を伝い、持ち主亡きブレザーの上へぽろぽろとこぼれていく。
「いくら喰っても腹が減る。満腹になっても腹が減る。いつになったらわしは満たされるのじゃ
ろうなあ。わしのような化け物が世界に満つれば変わるのかのう? 教えておくれ……尖十郎」
 ひとしきり泣いた後、黒ブレザーを着ると、イオイソゴ=キシャクは仮初の自宅から姿を消した。
 
 以後、その街で彼女を見た者はいない。

133 :
以上ここまで。今回は番外編。

134 :
>>スターダストさん
☆本編
この上なくいいコンビですねえ。母性と甘え。先生と子供。ロリとお姉さん。驚き役と解説役。
矛盾した気持ちを抱えるというのは、現実にもよくあることですから、青空の思考も理解は
できます。同意・共感はもちろんしませんが。カズキだったら青空を説得とかしそうですけど。
☆番外編
おお懐かしい。今読むと、やはり印象が違いますね。イオイソゴがどういう連中とどういう
付き合い(?)をしてるのか知ってるだけに。青空たちのやってる人間への攻撃も、つまり
動物虐待(しかも食肉用)なわけか。この子が後々、誰と戦ってどんな議論を交わすのか……

135 :
ときめきメモリアル・葉鍵SSのキャラクターの名前をメモ帳で
エーベルージュ、センチメンタルグラフティ2、初恋ばれんたいん スペシャル、Canvasのキャラクターの名前で変えながら
SSを読んだがいくつのSSは意外におもしろい

136 :
SS誰か書いてくれたらそれはとってもうれしいなって
1. 初恋ばれんたいん スペシャル
2. エーベルージュ
3. センチメンタルグラフティ2
4. ONE 〜輝く季節へ〜 茜 小説版、ドラマCDに登場する茜と詩子の幼馴染 城島司のSS
茜 小説版、ドラマCDに登場する茜と詩子の幼馴染 城島司を主人公にして、
中学生時代の里村茜、柚木詩子、南条先生を攻略する OR 城島司ルート、城島司 帰還END(茜以外の
他のヒロインEND後なら大丈夫なのに。)
5. Canvas 百合奈・瑠璃子先輩
6. ファーランド サーガ1、2
ファーランド シリーズ 歴代最高名作 RPG
7. MinDeaD BlooD 〜支配者の為の狂死曲〜
8. Phantom of Inferno
END.11 終わりなき悪夢(帰国end)後 玲二×美緒
9. 銀色-完全版-、朱
『銀色』『朱』に連なる 現代を 背景で 輪廻転生した久世がが通ってる学園に
ラッテが転校生,石切が先生である 石切×久世
10. Dies irae
11. WAR OF GENESIS シヴァンシミター、クリムゾンクルセイド
12. アイドルマスターブレイク高木裕太郎
13. バトルアスリーテス 大運動会
14. 伝説の勇者ダ・ガーン
15. 魔動王グランゾート
16. ミスティックマインド〜揺れる想い〜
17. フォトジェニック
18. ずっといっしょ
19. 夏色セレブレーション
20. ツインズストーリー
21. リフレインラブ
22. Little Lovers

137 :
「リバースに狙い撃たれ、崩壊した家庭。その後どうなったかは色々や。一家心中したトコもあるし娘が寝とる父親襲てハン
マーで殴り殺したっちゅうのもある。いっちばんヒドかったのはスーパーで見ず知らずの4歳児殺した奴やな。隠し持っとった
出刃包丁ですれ違いざまに首バッサリ。だいたいああいう場所の天井って3mぐらい上にあるやん? 男児の心臓っちゅうの
は元気なんやろな。水圧カッターみたく噴き上がった血しぶきが今でもベットリや。板変えろ? ムリムリ、そこな、事件のせー
で潰れたよって。いま廃墟。でやな。犯人……よーするにリバースに家庭ブッ壊された奴の言い分はこうや。『子供と幸せそう
に話している父親が許せなかった。自分は不幸なのになんでコイツだけ』……てな。ま、何のひねりもないアレや。裁判なら
『自己中心的、かつ悪質で』とかいうお馴染の枕詞確定、ベッタベタな動機や。ちなみにソイツの母親はな、『マシーンの特性』
で暴れ狂う夫に鼻ブッ刺されて一生鼻水垂れ流す体らしい。妹なんかは膝蹴りぬかれて一生松葉づえ。ま、ウチにいわせ
ればまだ幸せなほーやけど、当人達はドン底や。最初は父親だけおかしかった……ソレもリバースが無理くりに暴れさせとっ
た”だけ”の家庭は、人間的な不可抗力でどんどん悪くなっていった。離婚が起こっても親権が母親に移っても…………。
断わっとくけどな、そのころリバース、手出しやめとったで。だからしょちゅう子供らに炸裂した母親のヒステリーっちゅうのは、
本人が、勝手に起こしたものや。一番不憫やったのは妹で、理不尽に怒鳴られながらもなおイイ子であろうと頑張り続けた。
働きに出た母親に代わって家事全部引き受けた。買い物もな。ある日ブレーキ音とともに白いビニール袋がドロのついたジャ
ガイモや曲がった特価品のキュウリと一緒なって空舞い飛んだのは松葉づえヒョコヒョコつきながら横断歩道わたっとったせー
や。重厚な衝突音のあと総てが血だまりんなか落ちた。轢き逃げや。死亡事故や。犯人はいまだ見つかっとらん。足さえ
フツーなら、離婚さえなければ。兄は、少年は嘆いたんや。家庭が健全でありさえすれば避けられた悲劇。それに対する悲
しみはやがて怒りに転じた。『健全というだけで悲劇を免れている家庭』、幸せそーにヌクヌクしとる連中への……怒りに。
だから奪ったんやな。幸せそーな『父親』から子供を。犯人にとって『父親』っちゅーのは自分から幸福と妹を奪った憎い存
在や。それと同列の存在が幸せそうにしとるから……奪う。結局奪われたら奪うしかあらへんのや。リバースも、犯人も……
ウチも」
「もちろん筋からいえば犯人はリバースこそ恨むべきなんや。見ず知らずの子供殺したところでキブン晴れへん。けど結局、
犯人は、なぜ自分たちの家庭が崩壊したかさえ分からへん。憎んでいる父親、加害者の最たるものが実は被害者で……
みたいな本質はわからへん。そやから黒幕(リバース)の存在も知らん」
「この世にはびこる『憤怒』っちゅーのはつまりそーいうもんちゃうか? 的外れ、真に怒りをブツけるべきものとは別なモン
に怒りをブツける。なぜ不幸や無念をもたらされたのか、何が苦痛を与えているのか。それがまったく分からへんまま、ただ
手近なモンに怒りをブツける…………。人混みん中で石ぶつけられた奴がまったく無関係な通行人にそれをブツける繰り返
し。頭のええ奴ほどスッと身を隠すっちゅうのに、煽るだけ煽って人混みから抜けてくっちゅうのに、怒り心頭の輩は人混み
ん中にまだ犯人がおると信じ石を投げ続ける」

「それに文句やせせら笑いが上がり始めると収拾つかへん。怒りはますます深まる。無理解、救おうとしない連中ほど腹立
たしいものはあらへん。不特定多数から受けた怒りは結局不特定多数へ向ってく。だからキリがない。救われない。リバース
が陥っとる無限獄はそれや。誰か一人、スッと人混みから歩み出て一声かければ、それに救われたっちゅう実感を持てば
何か変わるかも知れへんのに……みたいな意思をかつてあのネコと飼い主はウチにぶつけてきたけど正しいかどーかわからへん」

「防人衛がなろうとしていたのはその『誰か一人』やろうな。平坦にいえばヒーロー。それに……憧れた」

.

138 :
「ヒーローっちゅうのが実際おって、たとえばウチがとことん絶望する前にやってきたら……『不特定多数への怒り』最たる
連中、貧困国の誘拐犯どもを見事蹴散らしたなら、きっとウチはお屋敷で普通に暮らせとったとは思う」
「努力すればヒーローになれる。世界の総てを救える……そう信じていた防人は、けど、赤銅島の件で挫折を味わい諦めた。
ま、一生あのままやろうな。ザマア見ろや」

「ウチの名前? ウチはデッド=クラスター、ディプレスの相方ってトコか」


 羸砲ヌヌ行の述懐。
「防人戦士長をデッドは貶すが、しかし正答は述べてるよねえ。
『誰か一人、スッと人混みから歩み出て一声かければ』
『それに救われたっちゅう実感を持てば』
「何かが変わる。変わるんだ」


「実際、レティクルとの戦いで彼は……変わった。まさに人混みの中から歩み出たたった一人の言葉に奮起し…………
失ったものを、かつて捨てたものを。取り返す」

「防人戦士長だけじゃない。火渡赤馬も楯山千歳も……赤銅島を乗り越える」

「一方、剣持真希士たちの報告を受けた上層部は」


「ディプレス。ディプレス=シンカヒアか」
「奴が生きているだと?」
「馬鹿な。ありえんよ。現に死体はあったのだ」
「検死は榴弾由貴……だったな」
「クローンなれば見抜ける。だからこそ任せたのだ」
「奴はいった。本物だとな」
「しかし6年前の事件では……」
「糸罔(いとあみ)部隊の全滅、か」
「軍靴はいった」
「ディプレス=シンカヒアは生きている」
「馬鹿馬鹿しい。大方模倣犯だろう」
「9年前の決戦は激烈だった。マレフィックマーズ……憧れる輩もいよう」
「では、剣持と鉤爪の逢った──…」
「ハシビロコウを真似るホムンクルス、だけではな」
「物証にはならん」
「流れの共同体に関しては?」
「犬飼にでも追わせておけ」
「いま重要なのはヴィクターだ」
「忌まわしき100年前の汚点。雪ぐは総てに優先する」

139 :
.
 ディプレス=シンカヒア。かつて戦団と激しく敵対した組織の幹部。
 彼は死んだ。それが戦団の公式見解なのだ。

 榴弾由貴。

 かつて居たお抱えの検死官は誰もが信頼する腕前で、だからこそ彼女の下した判断は、

『真実』

だと、誰もが誰もが信じている。

 羸砲ヌヌ行は述べる。

「もっとも……事実は違うけどねえ」

「榴弾由貴は気づいていた。1995年の決戦後みつかったマレフィック達の死体。それがとある幹部の武装錬金で作られた
『まがいもの』ってね」
「しかし真実を述べるコトはできなかった。述べなくする悲劇があったのさ」
「そしてその悲劇に関わったもののうち」
「1人は音楽隊へ。もう1人はレティクルへ」
「それぞれ行くコトになる。ま、語られるのはもう少し先の話だが」


「そのうち1人の言葉が、リバース=イングラム、玉城青空を大きく揺さぶった」



「本当に姉を愛しているのならば止めて見せろ! これ以上の魔道に貶めてやるな!!!」
「止め……る? ……あだ? 痛い……です」
「ああ! 根源は貴様の姉の命ではない! 歪みのもたらす憤怒だ!! まずはそれを滅ぼせ! 止めてやれ!  何を
されようと救ってやれ! そして罪を償わせろ! それが、それこそが……」
「父に! 母に!! そして姉にしてやれる最大の償いではないのかッ!?」 」

 自動人形からその声を聞くのは何度目だろうか。その日の夜、青空は自室で深い溜息をついていた。
(ポシェットの中に潜ませていたもの。何があったか大体分かっているわよ)
 どういう声の者たちに挑み、何度泣きながら「お姉ちゃん」といい、そしてどういう説得を受けたか。
 感想としては、いい人たちにあったなあという感じである。
 特に熱っぽい──チワワさんと呼ばれた──男の子は本当にカッコ良かった。妹を任せていいと思えるぐらいに。

140 :
.
 イオイソゴに黙っているコトが一つある。
 彼女が探している「チワワ」。彼はいま、光と同行している。
 鳩尾無銘という名のチワワはイオイソゴを指していった。「奴こそ我をこの体に押し込めた張本人の1人」。
 そして彼女は9年前からずっとずっと無銘を探している。
 捕まえて、喰うために。
 もし同行しているのが無銘と知られれば、イオイソゴは確実に義妹の元へ行く。
 だから、黙っている。
 それが顔も知らない「チワワさん」にできるせめてもの恩返しだし──…
 義妹から「好きな男のコ」まで奪いたくはなかった。
 できれば普通の恋をして、普通の幸福を味わって欲しかった。
「本当に姉を愛しているのならば止めて見せろ! これ以上の魔道に貶めてやるな!!!」
「止め……る? ……あだ? 痛い……です」
「ああ! 根源は貴様の姉の命ではない! 歪みのもたらす憤怒だ!! まずはそれを滅ぼせ! 止めてやれ!  何を
されようと救ってやれ! そして罪を償わせろ! それが、それこそが……」
「父に! 母に!! そして姉にしてやれる最大の償いではないのかッ!?」 」

(やっぱり私……歪んでるよね)
『チワワさん』の叫びが豊かな胸の中で何度も何度も木霊する。
 彼は事情を知ってなお、青空を「救う」コトにした。そういう者に出会ったのは──…
(2人目、かな。とにかく光ちゃん、お幸せにね)
 もし自分が救われたら、光も、彼女が好きになった(気配からして一目ぼれしたのは明白だった)「チワワさん」も救われる。
(そう、なれたら……)
 膝を抱えながら瞳を湿らす。自分は本来そちらの未来に行きたかった。でも自分の本質に潜む憤怒、「伝えたい」という
欲求に魅入られ、現在(いま)がある。
 ただ楽しいおしゃべりに興じている家族たちは許せそうになかった。チワワさんもまた欠如ゆえに人を救うコトを覚えた者
なのだ。恵まれていない人は救いたい。恵まれている人には苦しみを伝えたい。その思いは如何ともしがたかった。
(二律背反。イオイソゴさんは打ち明けろっていうけど……)
 もし憤怒を失くして「救われて」普通の女のコになってしまったら、この世で楽しく喋る家族たちを許容できるようになってしまっ
たら……組織はそんな幹部を不必要とするだろう。
(みんな、欠如とそれに対するやるせなさがあるから、仲間でいられるの。今の私の悩みは「ホムンクルスをやめたい」って
いうような物だよ)
 世間から見れば決して褒められた人格ではないが、イオイソゴたちは確かに仲間だった。限りない欠如を抱えているが、
それだけに各人は個性の中核を成す『ある一点』に関して非常な優しさを持っている。それに青空は何度となく救われても
いる。傷のなめ合いといわれればそれまでだが、裏切りたいとは決して思えない。
(誰かにどんな風に言われても……みんなみんな、私の大事な仲間なの)
 そう思っても「チワワさん」の言葉が耳から消えないので──…
 玉城青空は『直接』家庭を崩壊させるコトをしばらくやめた。
 それは凄まじい鬱屈をもたらす行為だった。
 代償行為が必要だった。
 だから。
 代わりに老化治療と、間接的に家庭崩壊のできるホムンクルス研究に専念し──…

「ほう! ほう! ほたらようけの鳥さんになれよん!? ほんなんええなあ!」
.

141 :
「ねーがいよるのは最大とか最速とか大きなあ奴ばっかでどもこもならん! うん! いかないっ! わしはもっとじゃらじゃ
らした鳥さんになりたいんよ。とーからほー思っとんよ。でもねーは大きなあ奴ばっか!」
(大まかな奴ばっかでどうにもこうにもならない……うぅ。ひどいよ光ちゃん。私だって一生懸命鳥の図鑑見てカッコいいの
探したつもりなのに。のに……)
 時には義妹のセリフに膝を抱えて泣いたりしながら──…
「はい。お姉ちゃんはたった一人の家族だから……何もいわずに別れたく……ないです」
(ありがとう光ちゃん。こんな私をまだ家族だと思ってくれて)
 時にはアホ毛をちぎれんばかりに振って小躍りしながら──…

(でもみんなに刃向うなら、まず私が出るからね。それが……責任っていうものだよ)
 組織に属する者として。両親を奪った者として。


 決意を高めていくうち。



 およそ1年が、過ぎた。



「インディアンを効率良ーくR方法をご存じかしら?」
「まさかあれだけの巨体をいとも簡単に無力化するとは……。大戦士長ともあろう者がとんだ
不覚を取りました」
 扉の向こうから声が聞こえてくる。青空はその片方に聞き覚えがあった。
「グレイズィング=メディック。……思い出しました。確かキミの名はグレイズィング」
 片方は1年ほど前に実父と義母を蘇生した衛生兵の使い手だ。そして残りは──…
「坂口照星。先日うぃるとぐれいずぃんぐとくらいまっくすが誘拐した錬金戦団のお偉方じゃよ」
「そう」
 聞かされてもあまり気乗りはしなかった。いまから彼を拷問にかけ長年の恨みを晴らすという。
 周囲にいる仲間たちはそれなりに気運を高めているが、青空はどちらかといえば不参加を決め込みたかった。
 チワワさんのセリフを聞いて以来。
 家庭を壊すのをやめて以来。
 憤怒はその向け所をすっかり失っているようだった。
 ましていまの相手は戦団──ホムンクルスを斃す正義的な集団──で、筋からいえば青空が『伝えたい』コトは特にない。
 適当に撃って切り上げよう。そう思っている時である。
 神妙な面持ちのイオイソゴが袖を引いて来たのは。
「どうしました?」

142 :
 ただならぬ様子に息を呑み反問。……実父と義母を預けていた彼女に。身を案ずる情愛はまだあった。
「死んだよ。彼らは」
 沈痛な声だった。手からサブマシンガンが転げ落ちた。
「わしが潜伏しとった場所に戦士が来ての。鉤手甲じゃよ。鉤手甲でバラバラにされた。ぐれいずぃんぐめが近場におれば
良かったのじゃが、あいにく任務で遠方におった。24時間以内には──…」
「たどり着けなかったんですか?」
 からからに乾いた口の中からやっとの思いで言葉を引きずり出すと、イオイソゴは深く首を垂れた。
「仮初とはいえ、いい父母じゃったよ。ヌシには感謝しておる……」
「死んだ……? 人間なのに? お父さんとお義母さんが……戦士に刻まれ……て?」
 しゃがみ込み、サブマシンガンを拾う。戦慄く全身から久々の感情が噴き出してくるようだった。
「私でさえ間違って殺してしまったのに……光ちゃんにもう一度逢わせてあげたかったのに……」
 どうして確認しなかった。
 戦士ならまず人間か否かを確認すべきではなかったのか。
 ホムンクルスが殺されるのは仕方ない。それだけのコトをしている。
 だが。
 ただ光に再会するためにイオイソゴに付き従っていた実父と義母は?
 殺されていいはずがない。同じ人間なら尋問をし、酌量し、保護すべきではなかったのか?
 なのに戦士は有無を言わさず彼らを殺したという。
 青空自身、実父と義母を憎む気持ちはあった。でも家族でもあった。いつかやり直せたら……未練がましくもそう思っていた。
 それが、断たれた。
(光ちゃん。ごめんなさい……もう一度会わせてあげたかったのに。もう一度、会わせてあげたかったのに)
 涙が、出た。
 何のために自分はあの晩、泣きじゃくってまで蘇生を頼んだのだろう。
 いつしか自分がしゃくりあげているのに青空は気付いた。
 涙を必死に止める。
 その代わり、失意と空しさが湧いてくる。
「そう在るべき」静かな感情とは真逆の灼熱が、脳髄を焼くようだった。
「落ちつけりばーす。その戦士はわしが殺しておいた。仇はすでに取っておる」
 じゃから、とイオイソゴはゆっくり喋った。
「扉の向こうにおる戦士の元締めに、ヌシの感情を『伝えて』やるなよ? そんなコトをしてもヌシの両親は戻って来ん。他の
戦士にその感情を『伝えて』も全く以て意味がない」
 踵を返したイオイソゴの頬が笑みにニンガリ引き攣っているコトに青空は気づかない。
 ただしばらく俯き黙りこみ──…
「ええ」
 黒い白目の中で真赤な瞳を輝かせながら……笑った。

「そう。治して差し上げますわよ。ちょうどマレフィックの方々が御到着されましたし」

 扉が、開いた。

「ダブル武装錬金二重の苦しみを味わって味わうのよ」
 支給されていたもう1つの核鉄が、サブマシンガンになる。
 すすり泣くような声はきっと相手に届いていないだろう。
 だがそれでも構わない。
 声が届かないのはいつものコト。

143 :
 だから。

                                 伝える。

 手にしたサブマシンガンで……伝える。
「戦士相手に私の悲しさをたっぷり伝えるのよ許さない許さないふふふははははあーっはっはっはっはっは」
 すれ違うグレイズィングが軽く舌を出した。「あーあキレてる小声で聞こえないけど」。そんな顔をちょっとすると。
……どこからか、刀が床を突き刺すような音がした。
 それを合図にグレイズィングがパンプスの踵を軸にくるりと振り返り、ウィンクしつつノブに手を当てた。
「それではしばし、ごきげんよう」
 ドアがゆっくりと閉じられ──… 
 呼吸困難に苦しむ坂口照星目がけリバース=イングラムはゆっくりと歩き出した。









 彼女は知らない。

「よくやるわねご老人も」
 サブマシンガンであらゆる感情を伝えている間、扉の向こうで。
 白いシーツがほぼ床まで垂れる丸いテーブルの周りで。
 こんなやり取りがあったのを。

「なぁに。ちょっとした仕返しじゃよ。奴は義妹放逐の件でわしを騙そうとしたからの」
 優雅に紅茶を啜るグレイズィングの前で、小休止中のイオイソゴはせんべいを一齧りした。
「確かにウソはいってませんわね。あのコの実父と義母がバラされた晩、確かにワタクシは遠くにいましたもの」
「死んだのも事実じゃ」

144 :
>>スターダストさん
経緯はともかくやってることの酷さでは、ジョジョの吉良以上に悲劇悲惨を振りまいてる
「黒幕」の青空ですけど、その彼女を手のひらで転がしてる「黒幕」もいる。悪の組織
として、非常にレベル高いといいますか。悪質度、戦闘力、思想の個性など、ほんと濃ゆい。

145 :
 ふふっ。紅茶をコースターに置くとグレイズィングは品のない笑みを浮かべた。
「でも遠くにいるワタクシはクライマックスの装甲列車で24時間以内に現場へ到着し、彼らを蘇生しましたものね!!」
「間に合わなかった、とは一言もいっておらんよ。勘違いしたのはリバースのみ」
「そして彼女に腕の件と……えーとなんでしたっけ、そうそう。同人ゲームのアフレコ拒否で怨みを持っているクライマックスは」
「両親生存の事実をいわんじゃろう。黙ってニヤニヤ見てる方が爽快らしい」
「とにかくコレで」
「おうとも。来るべき決戦において奴は戦士と戦うもちべーしょんを得た」
「最近のあのコ、なんだか憤怒を失くしているようでしたものね。だから、焚きつけた、と」
「これで戦士相手には申し分ない仕上がり」
「ところでどうしてあの2人を蘇生させたのですかご老人?」
 しばし黙ってから、イオイソゴは答えた。
「仮初とはいえ、いい父母じゃった。わしを実の娘のように遇してくれた」
「だから、生き返らせたと?」
 答える代りに低い鼻をこすり、イオイソゴ=キシャクは照れ臭そうに笑った。

 サブマシンガンであらゆる感情を伝えている間、扉の向こうでそんなやり取りがあった事を。

 伝えるコトを誰より望む彼女に真実が『伝わっていない』皮肉を。

 リバース=イングラムは知らない。



 ここまで004話。次から005話。

146 :
過去編第005話 「始まりはいつも突然」
 私の名前は秋戸西菜。ぶ厚いメガネがトレードマークの小学3年生。
 今日はまだ幼稚園の女のコ連れ込んじゃっています。ここは人気のない公園の裏手。今にもオバケや痴漢さんが出てき
そうでこの上なく怖いです(ドキドキ)
「ママー」
「ママー」
「ママー」
 しかしくじけてはなりません。私はこの子のお母さんを探すためにここまで来たのですから。この上なく大事な用事だって
あります。頑張れ。負けるな私。ファイトです!
 始まりはいつも突然! 大事な用事のために街を歩いていた私は、お母さんからはぐれたこのコと出会いました。そして
ここまで来ました。
「ママー」
「ママー」
「ママー」
 ……ぬぬっ。見つかりませんね? しかしそれもその筈、実はここにお母さんなんていません。「ここで見掛けたから一緒
に行きましょう」 連れ出すときに私はそう言いましたが実はこれ、真赤なウソだったりしちゃうのです!
 そう、ここにお母さんはいません!
 さわさわ。さわさわさわ。ぬぬー。いい風です。枝さんたちが揺れていい感じにさざめきます。静かです。辺りには人の
気配なんてまったくありません。邪魔されるコトはありません! チャンスです!
「ママー」
「ママー」
「ママー」
 いまお母さんを探しているこのコをRには最高のシチュエーションですっ!
 半ズボンにしまっていたのはジャンジャジャーン! 果物ナイフぅー! (柄を持ったままポンと手を打つ私とてもステキ!)
リンゴの皮しか剥けないけど小さいコの首ぐらいならスパっとやれますやれる筈! 頑張れ! 頑張れ私! ファイトですっ!
あのコはお母さん探すのに夢中で振り向いてません! なのでチャンスなのです。今日こそ殺して埋めるのです! 理屈な
んてありません! 私はただ人を殺しちゃいたいのです! それが私の本性ですし、本性を満たせばこの上なく変な体質も
直っちゃうはずなのです! ぬぬぬぬぬうう! 思えば何度、何度このヘンな体質で損をしたコトでしょう。(グスン) だから
頑張ります! ヘンな体質を治してフツーの女のコとして生きるのです! だから殺ります! うぉーっ!
 駆ける私! 振りかざすナイフ! 銀色の軌跡はついに女のコの首に吸い込まれ!
 そして!
「マm……あ! 1万円札だー!」
 え? わっわわ、ちょっと! 急にしゃがまないで下さいよぉー!
 わーっ!!!
…………。
「大丈夫お姉ちゃん? 転んじゃったの?」
 うぅ。見ての通りです。私はいまイチョウさんの根元で這いつくばってます。鼻血を出しお尻だけ高く上げてる姿はシャクトリ
ムシさんみたいで格好悪いです。この上なく情けないです。急に女のコがしゃがんだから、この上なく勢い余ってつまずいて、
イチョウさんの幹に鼻をぶつけてしまったのです……。ああ、木の幹には一条の紅い線。あれは私の鼻血なのでしょう。こ
の上なく痛いです。血は止まる気配があり……え? 泣かないで? うぅ。ありがとう。この上なくありがとうございます。こん
な私を心配してくれて……。でも泣いてるのは鼻が痛いからじゃありません。聞こえませんか? あなたの名前を呼ぶ声。
あれはきっとあなたのお母さんの声……。
 ああ、失敗です。この上なくグダグダです〜〜〜〜〜〜!!
「よく連れて来てくれたわね。ありがとう。ちょうどさっきまでそこを探していたのよ」
 ぬぬ……。お構いなくです。ああああ、ウソから出た誠とはまさにこのこと、まさか本当に探していていたとは。そして入れ
違いに来たこのコの声を聞いて戻ってきたとは……。
「ありがとうお姉ちゃん。1万円あげる!」
 い、いいです。それ受け取ると良心がますます痛みそうで……あ、ティッシュありがとうございます。
 名前? い! いえ! 名乗るほどの者ではありません。というかこのコ殺そうとしてた私が名乗るなんて……!
 あああああ! あうあうあわわわー!!!
 失礼します!
 公園を出るなり全力ダッシュです! 涙と鼻血がたなびいてます。マンガやアニメなら背景にほわほわした点描が浮いて
いるかも知れませんね。アニメ嫌いですけど、そう思うほど置かれた状況は滑稽ですよお。私、笑ってます? あ、笑って
ます。ヤケな笑いを浮かべてます!

147 :
.
 ああ! いつもこうです! 誰かを何かを殺そうとするたびこんなコトになっちゃうのですーーーーーーーーーーー!!!
 私は命を奪いたくて仕方ない性分なのです! でも、どんな動物でも殺せたコトはありません!
 アリさん潰そうとしたらBB弾踏んでずっこけたり(アリさんは無事)、粘着シートにかかったドブネズミさん焼き殺そうと天ぷ
ら油掛けたら脱出されました。というか飛びかかられました。びっくりした私は火の付いたライターを落としてしまい、足に火傷
を……。年老いたノラネコさんならばと(もう十分生きましたし、最近なんだかぐったり気味だったので。安楽死です)Drキリコ
気分で脳天めがけ金槌を振り下ろしましたが、突然近くにあったマンホールが爆音とともに舞いあがり、私の後頭部を直撃!
何かの拍子で下水道に溜まっていたメタンガスがですね!(グス) 何かの拍子で爆発したらしいのですよぉ。奇跡的に3日
の入院で済みましたけど、済みましたけど……嬉しくなんかありません! ちなみに殺そうとしたネコさんは私が落としたハ
ンマーがなんか元気の出るツボに当たったらしくムリムリと若返って今でもすごく元気です!
 そして果物ナイフ向けた女のコは1万円拾って終わりです!
 今日こそ確信しました!
 私が殺そうとする動物さんや人さんは死なないどころか却って幸運に恵まれるのです!
 しかも逆に私がケガしちゃいます!
 そして!!
 好きになった動物さんや人さんは必ず不幸になっちゃうのですっ!!
 大好きだったおじいちゃんは「おじいちゃん大好き」といった次の日、腹部大動脈瘤破裂で死にました!
 お気に入りのお菓子はいつもすぐ生産中止! 行きつけの喫茶店は必ず火事か強盗殺人に遭います。好きな野球チー
ムは横浜ベイスターズです。
 ここだけの話ですね、「まさかこの人が」って感じで急に死んじゃう有名人さんいるじゃないですか。あれ……ほとんど私の
せいだったりします。ゴメンナサイ! はい。いつもいつもファンになった矢先に……。
 だから私は私が嫌いなのです。好きになりたいのです。
 私の名前は秋戸西菜。ぶ厚いメガネがトレードマークの高校3年生。
 あれから10年ぐらい経ちました。けれど私の置かれた環境は依然そのまま……。
 殺そうとする動物さんや人さんは幸運に恵まれまくっています!
 ぬぬぬぬぬゥー! でもそれじゃ駄目なんですよぉー!!
 私は異常殺人者なのですっ! 両目の瞳孔だって左右で大きさ微妙に違うし(右がチョット大きいです)、恥ずかしい話な
んですが……その、13歳のころまで……オネショ……はい。オネショしてましたし……素質はある筈なんです! 猟奇殺人
犯さんたちはそんなダメな背景を持ってるじゃないですか! だから私もそうなってー、10人ぐらい子供殺してー、ひと通り
世間を賑わしてから捕まって、死刑になるのが一番いい筈なんですっ! それが私の昔からの夢なんですっっ!!
 でもこの年になるまで撃墜スコアはいまだゼロ……。うぅ。
 勉強もダメ。運動もダメ。唯一得意なのは演劇だけです。せめて虚構の中でぐらい猟奇殺人犯になってもいいじゃないで
すか。でもそう思って入った演劇部ではイジメの連続。やれそのビン底メガネが野暮ったい、やれそのボリューム過多の黒
髪が野暮ったい……うぅ。切っても切ってもムワムワしてくるんですよお。メガネのレンズが厚いのは瞳孔の大きさの違いを
隠すためです。ああっ、演劇なんて大嫌い。腹筋も発声練習もすべてイヤイヤやってます。先輩たちも大嫌い。なのに彼氏
ができたり宝くじで10万円当てたりしてます。これもきっと私の体質のせい……嫌いな人ほど幸運に恵まれるのです。ぬぬ。
この上なく妬ましいです。でも嫉妬はダメです。格好悪いです。
 だから私は私が嫌いなのです。好きになりたいのです。
 私の名前は秋戸西菜。ぶ厚いメガネをやめさせられた19歳の声優さんです。
 え! なんで私声優さんになってるのでしょうか! 記憶を手繰ってみます。あ、思い出しました。演劇部の先輩が嫌がら
せで無理やり声優事務所に私のプロフを送りつけ、無理やりオーディションを受けさせたせいですっ! でも私はアニメなん
てこの上なく嫌いです! アニメオタクさんはこの上なく気持ち悪いです! なのに、なのに、なぜか合格しちゃいました……。

148 :
そこから先はトントン拍子……なぜかデビュー作で主役を獲得し、そのデビュー作がこの上なく社会現象起こすぐらいヒット
して、半年もしないうちに人気声優になってしまいました。ぬぬ。なんでしょうこの上なくヘンな幸運。私はっ、私は! 演劇
もアニメも嫌いなのです! ただ猟奇殺人犯になって(略)、死刑になるのが一番いい筈なんですっ! グラビアなんて撮り
たくも見たくもありません! なのに仕事は次から次に舞いこみます。豪華な声優さんの座談会ではいつもいつも私はいじ
られキャラ……! 違います! 私は狩る側なのですっ! ああ、違います。こんなの私じゃないですよー。
 だから私は私が嫌いなのです。好きになりたいのです。
 私の名前は秋戸西菜。メガネ再開した小学校の先生です。年はもう27……。ああ、すっかり年老いました。
 声優? 苦労の末少しずつアニメが好きになったのですが、…………心から好きになったその日にですね、事務所がつ
ぶれ、役にも恵まれなくなり、2ヶ月もしない内に業界を干されました……。ぐす。ほら見たコトかですよお! 私が好きにな
ったものはいつもこうなっちゃうのです〜〜〜〜〜〜〜〜! 一目見てこの上なく気に入ったダウトを探せRは2週間後も
もたずに終わっちゃいましぃ、2000年ごろ愛飲してた牛乳は雪印製でしょ? はい? 大好きではないけどちょっとだけ
気に入ってる芸能人さんですか? ……田代まさしさんですよお。悪いですかあ(泣) 家には転がってるのはセガサターン
やβマックスのビデオデッキです。来年始まる『ふたりはプリキュアSplash Star』はすごく私のツボなんですけど、きっと、
1年だけで終わって別のシリーズが始まるでしょうねえ! (半ばヤケです私!)
 なんで教師になったかですか? 子供が大嫌いだからです。職にあぶれた私はお母さん(お父さんやお母さんは特に好
きでも嫌いでもありません)のすすめで教育大学に進学させられ、嫌だった教職課程をクリアしてしまったのです……。
 いつも思うのですが、私はイヤイヤやるコトほどうまく行ってしまうのです。
 声優時代もそうでした。アニメオタクさんに媚び媚びなキャラほど嫌だったのに、それがもう本当ウケてウケてのし上がって、
なのにすごく純文学的でステキな役は全然ウケない……。やりたいコトほど、好きなコトほどうまくいかないのですっ!
 で! でも! 初めて受け持った子供達はちょっとずつ好きになりましたよ! 「ああ、色々あったけどみんな、大好きで
す。ありがとう」と思った卒業式前日、教室へヘリコプターが落ちてきてみんな死んじゃいましたけどお!(号泣)
 そしていまは学級崩壊のクラスを押し付けられています。毎日毎日教壇に丸められた紙や三角定規が飛んできます。痛い
です。みんな話を聞いてくれません。ああ、やっぱダメです。こんな猫背で髪が野暮ったくて、いつもいつもぶ厚いメガネの
奥で必死なジト目してる私なんかが教師になんて、とても。しくしく……。え、泣いてる先生可愛い? ありがとうです。それは
よく言われます。小学生時代も演劇部時代も声優時代も可愛い可愛いとは言われましたよ。でもね、いつも「残念な美人」とか
なんとかで恋愛対象には見られないんですよぉ。だからこの年でも私はまだ処女です。男の人とお付き合いしたコトなんて
ありません…………。だって好きになった男の人、必ず死んじゃいます。初恋の人はダンプに下半身を吹き飛ばされて即死。
演劇部時代イジメからかばってくれた部長は飛び降り自殺に巻き込まれハンサムな顔がぐっしゃぐっしゃで即死。ダメな私
を何かと教導して下さりたくさんの人から慕われていたベテランの男性声優さんは飛行機事故に遭って即死。今も黒コゲの
顔と右足首のカケラ以外見つかってません。
 呪われてます。私、呪われてます。
 でも人を殺せばきっとこの呪縛も断ち切れるはずなんです。奥底に溜まった敵意さえ解放すれば、好きな人も好きな物も
きっと無事でいられるはずなんですよお。なのに殺せないんですよお。うぅ。
 だから私は私が嫌いなのです。好きになりたいのです。
.

149 :
 私の名前は秋戸西菜。またの名を『黄泉路に惑う天邪鬼(マレフィックプルート)』。クライマックス=アーマードですっ!
 ええっ、ええ! 分かってます! 中二病全開の肩書です! でも盟主様が無理やりつけてきたからしょうがないじゃない
ですかあ! うう。先生だった私がなんでこんなコトに……。
 始まりはいつも突然です! もう学級崩壊のクラスが嫌になった私は、このヘンな体質を逆利用するコトにしました! ハ
イそうです! 敢えて好きになるのです! 好きになれば殺せます! 人を殺せるなら私は私を好きになれる筈だから頑張
ってみなさんを好きになっちゃいました!
 そしたら!
 なんかメカっぽい化け物さんが教室にやってきて、悪い生徒を全部食べちゃいました。
 私はもうパニック状態。腰を抜かしてちょっとお漏らししました。
「あああああああ! イヤです! 私はただ私を好きになりたかっただけなのにぃー。ああ、いつもこうです。好きになった
物はいつも死んでしまいます。嫌いな人は恵まれるのに……。うぅ。妬ましいです」
「……ほう。ヌシ、なかなか面白そうなおなごじゃの。話を聞かせてくれんかの?」
「ぬぬぬ?」
 顔を上げたその先に居たのは隣のクラスの生徒さん。確か……木錫さんとか名乗っていた……。
 紺のブレザーは制服ですね。それに手甲と鎖帷子つけてます。足のストッキングっぽい意匠も鎖です! 分かります!
伊達にメガネをかけてる訳ではありません!
 ああっ、それにしても……始まりはいつも突然です!
 好きでも嫌いでもなかった生徒さんが実は化け物の仲間で、私の生徒を食べ尽くす手引をしていたなんて!
 しかも人類に仇なすため、仲間になれと……。
 ああ、でも私の生徒を食べ尽くすような人たちの仲間になれば、私は今度こそこの手で人を殺せるかもしれません!
 普通に暮らしてる人はこの上なく妬ましいのです。だから『嫉妬』の赴くまま殺したいのです。
 私は……
 私は────!!!
 この体質を治して幸せになりたいのです!
 
 という訳で修業した結果、私は装甲列車の武装錬金を発動できるようになりました!
 おおーっ!
 ちなみに名前の”クライマックス”は好かれたらクライマックスという理由で付けられました……。
 

「インディアンを効率良ーくR方法をご存じかしら?」  
 
「まさかあれだけの巨体をいとも簡単に無力化するとは……。大戦士長ともあろう者がとんだ  
不覚を取りました」  
 
 扉の向こうから声が聞こえてきます! 私の名前はクライマックス=アーマード! この上なくウキウキ中です!!
 もうすぐ出番! 自分の収録を待っているようなこの感覚!! 久々です!! この上なく久々です!!
 よく分かりませんが敵は正義の組織のこの上なく偉い人!! くぅ!! この上なく王道!! 私の脳髄の腐れ的にも萌え萌えです!!
 顔も見ました! 素敵なオジサマ! 大好物の1つですっ!
 囚われ! 無抵抗! そこにあんなコトやこんなコトを!!
 あ、ああ。こう、ウィルさんが攻め攻めな禁断なアレになったりしたら……きゃー!!
 両頬に手を当て年甲斐もなく照れ照れ! 赤いハートマークがぷわぷわですっ!
 ここですか? 漆黒の空間ですよ(ククク)。……足元に立ち込めてる白い煙はドライアイス。私の演出です!
 まーもともとなにか溜まってましたけどもっと分かりやすい方がいいじゃないですかこの上なく!
 周りには男の人や女の人や、あとイロモノさんが合わせて7人。あとずっと後ろには盟主様が立ってます。
 みなさん表情はそれぞれですねー。あ、リバースさん。イソゴさんに騙され中です。
 フフフのフ!! 実はご両親生きてますけどね!! ざまあです。私の腕折ったりエロゲのお誘い断るからそうなるのです。
 なのにご両親をグレイズィングさんのところへ運んであげた健気な私。感謝すべきですよリバースさん! この上なく!
 ああしかしこの上なく全員集合ですねー。ディプレスさん。デッドさん。ブレイクさん。
 殺意を滾らせたり気乗りしなげに佇んだりと反応は様々……ちょ! リヴォルハインさんこっち来ないでください! 
 なんで? だだだだって感染するかもじゃないですか!
 だいたい照星さんに感染してる天然痘ウィルス! あれもリヴォルハインさんじゃないですかあ!
 ぜーっ! ぜーっ! ぜーっ! 良かった向こう行ってくれました……って! なにウィルさん壁に背を預けて寝てるんですか!

150 :
 枕片手にコクリコクリ! ダメですよ居眠りは!! いまから本番ですよ!! 声って完全に起きるまで時間がかりますし!
 てか仕事モードになりましょうよぉ。あっちじゃないとウィ照、成り立たないんですってばあ。
 ああ。でもこの上なくいいです。これでこそ悪の組織!! 個性豊かな人たちがたくさん!!
 昔の仕事場もこんな感じでした。嫌になるほど濃い人たちが、常に全力で本気の言葉をマイクに向かってこれでもかと叩きこんでました!
 さあターンしましょう! 均整はとれてますがそろそろ加齢に弛みはじめている華奢な体をこの場でクルリラ一回転っ!
 鼻から綺麗な音符が飛びますよ。私の心はいまバラ色!

「そう。治して差し上げますわよ。ちょうどマレフィックの方々が御到着されましたし」

 扉が、開いた。
(いよいよです!! いよいよこの上なく本番です!! 悪の幹部たる私の力!! とくと見せてあげますよ!! さーナレーションします!)
 ドアがゆっくりと閉じられ──… 
 呼吸困難に苦しむ坂口照星目がけクライマックス=アーマードはゆっくりと歩き出した。(でも心はドキワクですっ!)


 ……ふみゃあああああああああああああああ! 何ですか!! 何ですかコレ! この上なくグロいやり口は!!
 ちょちょちょ、やめましょうよぉこーいうの!! もっとこうジャンプにこの上なく乗せられるレベルじゃないと、萌えが!
 え? 邪魔? 攻撃しないならすっこんでろ? し、し、しますよ攻撃、すればいいんでしょ!! この上なく!
 ぎゃああ! また失敗した!!? そーいえば私はこの上なくヘンな体質! 殺そうとした人が幸運に恵まれ逆にケガしないタイプ!
 だったら! だったら無限増援でこの上なくボコボコに! え? 邪魔? 狭いから出すな?
 そんな! 私だってイヤイヤながら一生懸命やろうと!! なんで文句言うんですかあ。(しくしく)
 くすん。私、悪織に入ってもハブられてます。でも、頑張ります。

. 以上ここまで。過去編続き。

151 :
永遠の扉 過去編 「時を重ねてそれぞれの願いがまるで新しい未来へと続く」
第006話 「時間も分からない暗闇の中で」


 当事者 4
 バラけていく。崩れていく。脚部に力が入らない。張り詰めていた神聖な集中力が虚空の彼方へ散っていく。脇を見る。男
3人が割れた人混みへ吸い込まれる。彼らは山のように連なっていた。揺れていた。両端の屈強な水色の間で貧相な緑が
揺れる。その緑の嵐が飛びかかってきたのは何秒前? もう何分も? 追いつかない。縮められない。
 バラけていく。崩れていく。
──積み上げてきたからこそ分かるものがある。
 規約にある数値。観測で明文化される数値。それらは決して感情的な挙措で覆せるものではない。規約に従い観測に
照らさなくてはならない。栄冠を目指すという事はつまりそれだ。タバコを控え酒を控え節制に励み好物の脂身さえ口にせず
友人どもが恋人とベッドの中で甘く囁いている明け方にはもう20kmほど走っている、そんな生活を年単位で送り、足から
少しでも多くブヨついた肉をそぎ落とし肺機能をわずかでも向上させる。スクラムを組んだ規約と観測に理想の数値を吐か
すには地道な努力を重ねるしかない。積み上げるのだ。1日に少しでも多く。本番に向かって。多くて1秒でも少なくできれば
成功だ。1日の少し、本番での少し。それらが年単位で積み重なって栄光に繋がる事を信じ、苦痛に耐え……。
 そうやって培った物だけが規約と観測の前で望みの数値を弾き出してくれる。
 と、信じていたのに。
 山の両側は警備員だ。彼らが時おり切羽詰った叫びを上げ体を揺するのは……中央の緑色が身を捩った数瞬後だ。
「申し訳ありません」
 バラけていく。崩れていく。あらゆる総てが『分解』される。
「彼は以前にもこのような真似を」
 長い距離を好成績で走り抜くには? 綿密なペース配分が必要だ。『機械のような』。集中力を高める。スタート直前に
深く息を吸い、吐く。そして総てをブツける。培った総てを、最後まで。
「沿道の群衆に紛れて、走行中の選手に飛びかかり、競技の妨害を」
 這いつくばっている自分の横を選手たちが流れていく。立たなくては。力を込めた足から鈍い痛みが昇る。右のつま先が
尻に付いている。断裂、そして反転。端緒は緑色のパーカーが胸にぶつかった瞬間だ。室内で独りよがりの遊戯に耽って
きた男特有の生白い顔と虚ろな目、それが自分を後方へとつんのめらせ、そして押し倒した。鈍い断裂の音が今さらのよ
うに耳奥で木霊する。痛みは激しい。ただ座って地面に付けているだけなのに脂汗が全身に浮かぶ。立てばどうなるか、
全く想像したくない。だが立たねば状況は好転しない。
 彼は走っていた。大事なもののため、走っていた。
 深く息を吸う。散ってしまった神聖な集中力。それを少しでも多く体内に引き戻さなければ何も始まらない。何も……。『機
械のような』集中力。それさえあれば後ろ向きの足首がもたらす激痛な
ど物ともせず、精密なペースで走り抜ける。走りぬける筈だ。
 なぜ、自分がこういう目に遭っている? 何をした? ただ走り抜くため真っ当な努力を積み重ねただけなのに。
 白いヘルメットの救護班がやってくる。何をいっているかは分かる。だがいやだ。走れ。走るのだ。息が乱れる。この足で?
妨害後に? マトモな状況でマトモな体を走らせても好成績は難しいのに? 自分を抜いたのはもう何人? 無理だ。積み
上げてきたからこそ分かる。でも、走れ、走るのだ。千々に乱れた理性と恣意がせめぎ合う。

152 :
.
「離せ! 離しやがれ!!」
「今日しかないんだよ!! いまが最後の……最後のチャンスなんだよ!」

 拳を叩きつけた瞬間よみがえったのはかつての叫び。今は叫ばない。叫ぶ気力は……ない。
 喪服なのだ。いまは。
「落ちついて。お気持ちはわかります。苦難に耐え続けた結果が妨害によって台無しにされる……その辛さ」
 ヒビの入ったガラステーブルの向こうで白髪交じりの中年男性が嘆息した。慣れている。こんなトラブルは彼にとって「よく
ある事」なのだろう。積み重ねてきたから分かる。次はこちらの無念を取り除く作業に移る。「不幸な事故」。だから今回は
諦めるよう促すのだろう。釈然としないがそれでも自分は積み重ねる側にいたかった。沿道から選手の何もかもブチ壊し
にかかる貧相な緑パーカーのような──さっさと微生物にでも分解されてR! 何度もそう呪った──低い次元の男には
なりたくなかった。釈然としない。だが今まで過ごしてきた世界は耐える以外の選択肢を齎していない。それがどんなに絶望的
な事でも、世界にとって「普通」で「当然」の事なのだ。
 失われたものがもう二度と帰ってこないとしても。
 報いる事ができなかったとしても。
「御事情は聞いています。たいへん辛い事です。妨害を阻止できなかったこと……本当に無念です」
 深く息を吸う。分かっている。怒ってもどうにもならない事は。42.195km。その沿道にひしめく群衆の中から妨害経験
のある前科者だけを見つけ出し事前に排除する? 無理だ。規約と観測が要求する数字を恣意一つで叶えられないように……。
「ご安心ください。お足の怪我は治るものです」
 それでも。
「あなたの成績は拝見しました。大丈夫です。今度こそ、報いて下さい。願っています」
 バラけていく。崩れていく。
 どんなに頑張っても理不尽な妨害によって台無しにされるのではないか?
 そして世界は台無しにされた分をちっとも補填してくれないのではないか?
 憂鬱な感情が、拡がっていく。

 当事者 3
 この世の総てを欲するのはつまるところ寂しいからだ。
 明日が賞味期限(=売れなければ捨てられる!)のジャムパン、流行ってない自転車屋の片隅で埃かぶってるT字型の
空気入れ、昭和の匂いがする扇風機。
 いかにも売れていない様子の商品達は自分を見ているようで辛い。だから買い占める。店頭にあるのに誰からも見向き
されず静かに朽ち、捨てられる。その様子を想像すると途轍もなく寂しい。
 だから自分が買う。買って「必要とされている」、そう言い聞かせてあげる。せっかく生まれてきたのに不必要と断ぜられ
処分されるのは可哀相だ。だから買う、買い続ける。
 それでも目に見えない場所で寂しい思いをしている物、あるだろうから。
 この世の総てが欲しい。
 強欲といわれても、構わない。

153 :
.





 当事者 2


「くらくてせまくてたかくて、んでギャーン! ってなったらこうなってたワケじゃん? ね、ご主人」






.

154 :
.





 当事者 1


『ははっ! その説明で全部分かる人は少ないと思うぞ香美!』






.

155 :
.


「分からない……です」
 鐶光は卓袱台の前で可愛らしく首を捻った。
 よく分からない。
 疑問は氷解しそうにない。
 それが率直な感想だ。
 こういう時直属の上司──総角主税という名の金髪美丈夫──がいれば、とも思う。だがあいにく彼が戻る気配はない。

「フ。部屋の事で少々用事ができた。小札と無銘ともどもしばらくは戻れない」

 そう言い残して部屋を後にしたのが1時間前。まだまだ帰宅に至らぬようで。

(くらくてせまくてたかくて……? 難しい……です)

 視線を居間へと引き戻す。
 ここはアパートの一室だった。4LDK。閑静な住宅街にあるにしては家賃が安い……昨日得意気に説明していた金髪の
美丈夫はいまごろ不動産屋で書類不備の後始末をしているのだろう。よくあるコトだ。契約をしたあと不動産屋が何か不審
な点を書類に見つけ世帯主を呼びだすのは。なぜなら住む者総て「戸籍は有って無い様なモノ」。一旦契約が成立した方が
不思議なくらいだ。
(私のはまだ残っているかも知れません。でも、あったとしても、年齢が…………合いません)
 肩を落として虚ろな瞳で床を見る。
 加入してから数か月。当時こそ7歳だったがそろそろ肉体年齢10歳のチワワ──鳩尾無銘──を追い抜きそうな勢いだ。
 それがどれほど辛いか。
「妹分ができた」。そう喜ぶ無銘がグングンと成長する鐶を見る眼差し。不老不死のホムンクルスが年齢差を短期間で覆される
失意の表情。いやというほど実感できる。自分は人外からさえ外れた存在で、10年も経てば1人だけ老婆と化し、変わらぬ仲間
を羨むしかないのだと。辛さの向こうでようやく会えた、救ってくれた少年。大好きな彼の前で1人だけ年を取り、失意の表情を
73日ごとに見せつけられ、やがて失意さえ失われ何の関心も示されなくなる。
 想像するだに恐ろしき未来予想図に何度泣いたか分からない。
 戸籍の話に戻る。
 総角、小札、無銘といった3名は分からない。
 だが目の前にいる少女は絶対に戸籍を持っていない。鐶はそんな確証を持っていた。
(なぜなら香美さんはもともと……)
 ネコ。
 なのである。
(ある訳……ないです)
 などとぼんやり思いつつボロックナイフを振る。天井から落ちてきたムカデが胴切りにされ吹っ飛んでいく。転瞬鐶の可憐
な唇から桃色の影がムチのように踊りあがった。舌。桃色でひどく長大な。キツツキのそれへ変じた鐶の舌はびゅらびゅら
と踊り狂いながらムカデの痙攣する胴体2つを順々に巻きこみ、口内めがけ引きこんだ。
 目の前の少女が感嘆の声を上げた。「もう使いこなしているじゃん」というのは体質と武装錬金両方に対する賛辞だろう。
「はい……。ズグロモリモズの毒を……蓄えます……。お姉ちゃんに監禁された時に……虫を食べて……空腹を……凌ぎ
……ましたし…………割りと……へっちゃらです」
『はっ、はは! その年でその境地は色々凄いなあ!! 女のコにいうのもアレだが、逞しい!』
 それは少女の後頭部からあがる大声で、まぎれもない、少年のものだった。

156 :
.
(分からない……です)
 なぜ、こうなっているのだろう。
 咀嚼しながら考える。
 考えれば考えるほど分からない、少女の後頭部の秘密。
 馴染むまではかなり戸惑った。
 窓が揺れた。反応する。首ごと旋回した視線の先。ガラスに赤黒い落ち葉がへばりつく。
 後ろには灰色の空。
 空。そうだ、姉はいまどうしているだろう。取り止めのない思考世界へ焼き芋屋の錆びたアナウンスが木霊する。
 
 季節はもう冬だ。
 鐶光。本名は玉城光。7歳の誕生日まで彼女は人間だった。しかし義理の姉はそれを許さなかった。紆余曲折を経て鐶は
ホムンクルスへと変えられ、五倍速で年老うさだめを負った。そうして義姉の命じるまま各地の共同体を殲滅していくうち、「ザ・
ブレーメンタウンミュージシャンズ」という流れの共同体と出会い、戦い、仲間になった。
 それがこの年の秋口だから、すでに数か月が経過している。
 とはいえ実のところ、鐶はこの「ブレーメンの音楽隊」をもじった一団の全容を把握していない。
 そも共同体というのは一地域に根差すものだ。通常、ホムンクルスは人喰いの衝動を抑えるコトができない。といって野放図
に人間を襲っていれば「錬金の戦士」という化け物退治の専門家どもにいずれ捕捉され、殺される。故にホムンクルスは徒党を
組む。人目のつかぬところに潜み、静かに密かに人間を攫っては「食事」をする。共同体に移動があるとすればそれは錬金の
戦士にいよいよ捕捉された時だというのが姉の弁。移動は逃走手段に他ならないとは鐶に戦闘を教えたホムンクルスの弁。
 だが、常にザ・ブレーメンタウンミュージシャンズは全国を放浪している。
 常に戦士に捕捉されている……という訳でもない。むしろ放浪そのものが目的のようだ。
 鐶が耳にしたところによれば既に9年…………さまよっている。
 最初、鐶はただ単に彼らが定住先を探しているのかと思ったが、どうやら違うらしい。
 共同体のいる場所へ出向き、敵を殲滅。ただそれの繰り返し。
 良さそうな土地を見つけるたび永住の予定を聞きもしたが、リーダーはフッと一笑するだけで答えない。
 たまに彼が剣術家や剣術道場を訪れ修業に励むコトもあるが、決して弟子入りや住み込みなどはせず、1週間後にはま
たブラリと別の場所へ旅立つ。
 そういう生活が既に9年。続いているらしい。
 リーダーの総角主税という金髪の美丈夫はなぜ彼らを率いて旅をしているのか?
 小札零という実況好きの少女にしたってロバ型ホムンクルスになった経緯はまだ分からない。
 鐶にとって忘れ難い鳩尾無銘という少年は心こそ人間だが姿はチワワ。
 他のホムンクルスにように人間形態にはなれないのだ。
 だからよっぽど(彼にとって)異常で迷惑な生まれ方をしたのだろうが……彼は決してそれを語らない。
 そして。
 いま鐶光の向い側にいるのは栴檀香美(ばいせんこうみ)という名の少女である。
 栴檀はふつう「せんだん」と読むが、”彼女ら”は「響きがいいから」と「ばいせん」にしている……という話を鐶は無銘から
──堅物の彼はこの表外読みをとても苦々しく思っているらしく、峻厳極まる顔だった──聞いている。
(香味焙煎と掛けている……のでしょうか?)
 鐶があまり面白くない感想を時おり抱く少女の容貌は。
 一言でいえば「遊んでいそうなギャル」だ。

157 :
 セミロングの茶髪にうぐいす色のメッシュを幾筋も入れ、シャギーも入れ、それを肩口の辺りでやたら元気よく跳ねさせて
いる。
 にもかかわらずアーモンド型の瞳はどこか気だるそうで「動くよりは寝ている方が好きじゃん」とも言いたげだ。
 というより彼女は先ほどからこっちヒーターの前でだらしなく「伸びている」。
 冬にそぐわぬ白いタンクトップはすっかり着崩れ白い腹部がはだけている。ハーフのデニムジーンズから伸びるしなやかで肉
づきのいい小麦色の足も床へ無造作に投げ出されている。
 総合すると、ひどくだらしない。ほぼ同年代の女性でもここまで違うのかと鐶は目を丸くした。姉ならばこういうだらしない
格好はしない。長いジーンズの裾がちょっと捲れるだけで慌てる。脛のわずかな露出さえ彼女は羞じるのだ。そういう奥ゆ
かしさが、「お姫様みたい」で鐶は姉──青空──に憧れたものだが……
(香美さんは昔の私みたく……活発……です
 いつしかタンクトップは腹部すれすれまで捲れ上がり、なかなか際どいところまで見えている。下着は未着用。形が保持
されているのは野性味と若さゆえか。
(円弧から計算するに……お姉ちゃんの方が……だいぶ大きい……です。やった……です)
 意味不明な優越感を覚える──まだ自分が及びもしないから、か?──鐶はともかくとして。
 栴檀香美。
 瞥見の限りではどこにでもいる行儀の悪い少女。しかし彼女には地球上の他の誰もが持っていないであろう凄まじい秘密が
ある。
 それを鐶は加入以来ずっと不思議に思っていた。
 もちろんリーダーに聞けば詳しい経緯などすぐ分かるだろうが、しかし秘密をコソコソ嗅ぎ回っているようで気が咎め、ついつい
聞けぬまま数か月が過ぎてしまっている。
 とはいえどうしても知りたいと思うのは……。
『僕”たち”を今の姿にした者と貴方は面識がある!』
 部屋には鐶と香美。少女が2人。されど少年の大きな声がどこからともなく響いている。
 謎はそれだった。
 大声は続く。
『秋口、光副長が無銘ともども戦士に追い詰められた時!』

──「……手だしは……させません」
── なっと息を呑んだのは戦士ばかりではない。無銘もまた意外な面持ちでその光景を眺めていた。
── クチバシ、だった。子供ぐらいなら丸呑みにできそうなほど巨大なそれが戦士の左上膊部に噛みついている。そのせい
──だろう。鉤爪が無銘の章印スレスレでぴたりと静止したのは。静止した物が揺れた。無銘の視界が90度傾いた。そのフレー
──ムの中で戦士が飛んだり跳ねたりを始めたが好きでそうしている訳でもないらしい。
──(これは──…)
── どうやらクチバシが左腕ごと戦士を振り回しているらしい。途中で気付いた無銘も無事とは言い難かった。彼は戦士に頭
──を掴まれている。激しい揺れに巻き込まれたのは成り行きとして当然……。世界が揺れる。傷だらけの体がガクガクと揺
──れる。無銘と戦士だけが局地的大地震に見舞われたようなありさまだった。

『クチバシだけだが確かに変形した! ”ハシビロコウ”に!!』
「はい……。ディプレス=シンカヒアさん。ディプレス=シンカヒアさんに……戦闘の手ほどきを……受けました」
『いわば師匠筋! まんざら知らぬ間柄でもないが故に!』
 なぜ彼が僕たちをこういう体にしたか知りたいのだろう! ……大声はそう叫んだ。
 鐶は頷いた。
 知り合いが、知り合いを害した。
 双方の人格を知っている以上、両者の敵対した経緯はひどく関心を引く。

158 :
 そういう意味では鳩尾無銘誕生の秘密も同じではあるが、こと無銘と話す時は非常な気恥しさが全身を駆け巡りしどろもどろで
上手く話せない鐶なのだ。でもそういう自分を少しでも変えたい鐶だし、香美”たち”だって仲間として大事に思っている。過去を知
りたいという気持ちの強さは相手が無銘でも香美たちでも変わらない。
「それに……人格が………共存しているのも……不思議です」
 大体のホムンクルスは動植物の細胞から作った「幼体」を人間に投与して誕生する。
 だからそういう意味では香美も普通の「ネコ型ホムンクルス」なのだが、その範疇に収まらない秘密がある。
 香美の後頭部にはもう一つの「顔」がある。
 それが飼い主──栴檀貴信──の物と知った時、鐶はいささか驚いた。
 つまり彼と彼女は──…
 2人で1つの体を共有している!!
 だがこれはホムンクルスの原理的にありえない状態。
 鐶をホムンクルスに改造した姉──玉城青空。別名リバース=イングラム──は言った。
「いい? 光ちゃん。ホムンクルスを作るには幼体を人間へ投与すればいい訳なんだけど……ふふっ。そうするとね。幼体
の基盤になった動植物が人間の精神を喰い殺しちゃうの」
 にも関わらず、貴信と香美は見事に共生している。
 それはとても特異で異常なコトだった。
 姉の調整と尽力で「ホムンクルスになりながら元の人格を保持している」鐶にしたって、基盤となったニワトリの精神は
脳裏のどこにも残っていない。香美のように声を上げ、鐶と掛け合いをする。そんなコトは一度たりとてなかった。
「つかきゅーびまで行く必要ないじゃん。あいつイヌじゃん。チワワじゃん」
 卓袱台の向こう側で「まるで一人問答」をやってる活発な少女に鐶は内心うんうんと頷いた。
「無銘くんは居て欲しい……です。耳を……はむはむしたい……です」
『さっきから副長はいちいちズレてると思うが!』
「あ、ムカデ食べた口じゃ……危ない……です。歯磨きしないと……」
『…………ええと。……なんだっけ? ああそうだ副長!? 僕たちの体の秘密が知りたいと!?』
「え、ええ」
 香美の後頭部から響く大声にやや気押されながら──この場にお姉ちゃんがいなくて良かった。いたらきっとキレて暴れ
ていたに違いない。『大声で喋れる』 そんな者が大嫌いだから──と思いながら、鐶光はコクコクと頷いた。
「あまり……触れちゃいけない…………話題でしょうか……? 私の五倍速の……老化の……ように」
 問いを投げかける鐶自身、広言憚る体質と経歴の持ち主である。彼女は義理の姉の暴走によって
『数多くの鳥や人間に変形できる代わり、五倍速で年老う体』
になった。現在こそすっかり虚ろな瞳で途切れ途切れにしか話せぬが、人間だった頃は双眸に光溢れる活発な伊予弁少女
として父母の愛を一身に受けていた。
 変わる、というのはそういう事である。現在が傍目から見てどんなに異常であっても、そうなる前はかけ離れた、真っ当な姿
だった筈なのである。それを歪めるような災厄が降りかかったから貴信と香美は1つの体になってしまったのではないか?
 鐶は熟知している。災厄は語るに恐ろしい。
 赤い黒目と黒い白目で哄笑を上げる姉ほど恐ろしい存在はいなかった。
「だから…………言いたくない……事でしたら……いい、です。聞きません……」
「んー、でもさでもさ、光ふくちょーはいった訳じゃん? じゃああたしらだけ隠すのってよくないじゃん。ね? ご主人」
 湿っぽい鐶とは対照的に香美の口調は意外にカラっとしている。性分もあるだろうが実は「よく覚えていない」からあっけら
かんとしていられる……鐶がそう知ったのは彼らの経緯を聞かされた後である。
 後頭部からしばし逡巡の唸りが上がり、やがて決断の叫びへ変化した。

『聞きっぱなしというのも道義に悖る! 話そう! 当事者は4人! 内2人は僕と香美だ!』
. 以上ここまで。過去編続き。

159 :
>>スターダストさん
やはり、このヒトの過去話だけは重くなりませんねこの上なく。でも青空のような強烈な外因
なくして殺人を実行に移した(結果はどうあれ)というのは……説得・改心の余地が無いと
いうこととか考えたら、「青空以上」なのかも。彼女も、戦士とのバトル・会話が楽しみです。

160 :
.

 当事者 1
 二茹極(にじょきょく)貴信は回想する。
 もしあの日雨が降っていなければ、自分はもっと違う運命を辿っていただろう。
……と。
 中学2年のころ母親と死別した二茹極貴信は内に熱さを秘めた気弱な青年へと成長した。父の影響かも知れない。父と
きたら40の半ばを過ぎてなおヒラだった。フィリピンの企業相手に液晶の売り上げをグングン伸ばす部長、とっくに役職2
つ分は上に行った同期、入社して間もないが「使いやすい」先輩を嗅ぎわけるに長けた女子社員。彼らに頤使(いし)され
ても文句一ついえず「はい、はいっ」と甲高い声で応じあくせくと走りまわる。それが貴信の父だった。
 そんな彼にも誇れる物が2つあった。
 1つは名字である。
 二茹極。
 このひどく変わった名字は生来のものではない。妻の物である。「山田じゃ本当冴えないでしょ? あたしの名字あげるっ!」
という(仕事にきりきり舞いする度助けてくれた元後輩からの)プロポーズを機に獲得した。
 もう1つはこの平凡な男らしく「家庭」である。
 妻1人子1人というまったく平凡な家庭あらばこそ、彼はヒラの頤使に耐えられたといえよう。
 そして彼が勤務していたのは液晶メーカーだが、生産の遅延や手直しといった緊急事態で人手が必要にならば真っ先に
現場応援を志願し、不眠不休で──熟練工よりは劣るが、「同じ会社の人が困っている時に止まっていられるか!」、事務
畑の人間にしては恐るべき熱意で──状況打開に臨む程度の気概はあった。
 困難から逃げるな。
 常に男らしくあれ。
 父の教えを貴信は心に深く刻んだ。
 そんな父も二茹極貴信が高校2年になる頃死んだ。膵臓ガンだった。「ははは今年もヒラで終わったのねー。はいはい泣
かない泣かないっ!」。大晦日の夜に笑って肩をバンバン叩いてくれる妻が死んで以来、彼は目に見えて老けこんだ。さす
がに心配する貴信が精密検査を薦めたのが高校1年の夏休み。だが父は「だだだ大丈夫だっ! そんな事より勉強する
んだ! 最初が大事だ! 再来年は受験だろう!」と甲高い声を震わせた。その時の黄ばんだ顔を思い返すたび貴信は
思う。病状を悟っていた、と。
 父は8ヶ月後入院。「例え1年前に来ていても今頃死んでいた」。医者がそう唸るほど手の施しようがなく……半月も経た
ず息を引き取った。
 残された貴信。悩んだ末、一人暮らしを決意した。
 身寄りはほぼいないに等しかったが(父方の祖父母は死去。母方の祖母と曾祖母は九州で元気よく暮らしていた)、授業
料や生活費の心配もなかった。父の遺産。仮に卒業後の大学生活でバイトもせず遊び呆けて2年留年したとしてなお何とか
なるだけの莫大な貯金。それを見るたび──病苦に耐え、社内で低い扱いを受けながらも必死に貯めたであろう父の姿を
描くたび──貴信は父譲りの目(レモン型)に涙を浮かべ、学業専念への思いを強めた。
 とはいえ高校生活。馴染み辛い部分も多々あった。

【父譲りの気弱さは人見知りへ転化する!】

 話しかけれらてもどう踏み込めばいいか分からない。あまりズカズカ踏み込んでいくのは失礼だろうし、思わぬ逆鱗にふ
れ怒られるのは恐ろしい。かといって黙りこくるのは無礼だ。答えたい。だが何をいえばいい? 
.

161 :
(豆知識! 豆知識はどうだ! 結局トモダチ一人もできなかった中学時代の昼休み、足しげく通った図書室で得た豆知識!
あれを披露すれば話のタネになるかも知れないぞ! というか僕はそのために豆知識を得たんだ! だ、だだだがそういえ
ば中学3年の時それやって「ふ、ふぅ〜ん」と会話が途切れたのは何度だっけなあ! マズいっ、ヤバい! 豆知識披露云々
で構築できるほど人間関係は甘くないのか! でもこの人の言ってること、アイドル? Cougar? その人のことはよく分か
らないから上手く返せない! それを伝えて「ふぅ〜ん」で会話が途切れたら気まずい! どうすれば!)
迷いが募り、気が焦る。
 遺伝のカテゴライズを肉体精神の2つとすれば、それらはどうも片方への配慮ありきで成立しないようだ。いうなれば各個
ばらばらアトランダム、あちらがああだからこうしよう。そういう調整感情がない。精神は精神の理由のみで遺伝し肉体状態
を鑑みない。肉体の方もまた然り。
 女だてらに鎖分銅を嗜みサバゲを趣味とする(夢中になりすぎて崖から落ちて死んだ)母。
 彼女からの遺伝ほど、次の言葉ほど、貴信をますます追い詰めたものはない。

「いい貴信? 考える事はいいけど、それだけじゃ駄目。テンションを上げて行動するのも大事よッッッ!!」

「大声……ですか。それがお母さん譲りの……私でいう……伊予弁、みたいな」
『そうだ!! 僕は人と話す時はテンションを上げる!! 上げなければどうにもならないからなッ!!』
「はぁ……」
 部屋に響く激しい息使いをぼんやりと聞き流す。貴信の大声などとっくに聞きなれた鐶だ。元々活発な性格でもある。さ
ほど気にはならないが──…
(お姉ちゃんのような……性格の人……にとっては……)
 気弱な癖に声だけは大きい。精神と肉体の遺伝乖離。
 そんな彼を面白がる者こそいれ、親密な交際対象に設定する者はいなかった。
「一緒にいると疲れる」
 それが周囲の貴信に対する率直な評価だった。
 つまり彼は変な人で、やり辛い。特に会話が面白い訳でもない。
 顔も異相だ。レモン目に鉤鼻。良く見ると髪型だけは流行のものだがそれで誤魔化せないほど10代にしては老けた顔。
 善良だが心身ともある種強烈。時に的外れな豆知識を披露するだけ。
 そんな男が、である。果たして交友範囲の中核を成せるだろうか?
 貴信も最初の頃は自分なりに自分を変えてみようと努力した。
 ジョークをいい、自分を晒し、進級を期にいわゆる「明るい人」にならんと気を張ってみた。
 だが、気を張れば張るほど声がでかくなり、周囲をますますうるさがらせた。
 その反応が実は繊細な貴信の心を傷つけ、段々段々と「自分を変える」努力が嫌になっていく。
 そうなるともう悪循環。
 気のいい若者たちが何かのイベントに貴信を誘うとする。
 本当は行きたくて仕方ない貴信だが、何をやっても上手くいかない状態。
 彼は暗澹たる気分で未来予想図を描いた。
 自分は「浮いている」。だから行かない。合コンだろうと歓迎会だろうと季節外れのキャンプだろうと焼き肉屋での会合だ
ろうと。人混みから外れた場所でぽつりと佇み、全体的な笑いが巻き起これば声量控え目の追従笑いを密かに交える。
 それ位しかできそうにないし、後で怯える事だって予期していた。
「なんでアイツ居たんだ?」。
 陰口を囁かれるのではないか、と。
 むろん人間というのは言うほど悪辣ではない。異分子とて極度の害悪をもたらさなければ「そういう人」だという認識の下
少なくても迫害じみた接触はしない。それが薄皮一枚の向こうにある「打ち解けてない」感触を孕んでいるにしろ、悪感情や
譴咎(けんきゅう)の証明にはならない。
 冷静な見方をすれば誘いに乗り、若者らしいイベントを楽しみ、少しずつでも心を開いていけば孤独は解消されるもので
あろう。
.

162 :
(でも…………性格は……余程の事をしないと……例えば毎日毎日サブマシンガンで……全身に穴を開けたり……ステー
キのお皿を頭に投げつけたり……しないと……変わりません。…………そして戻すのにすごく苦労して……傷ついて……
明るい人を見るたび……私は……ダメなんだ……ってしゅんとします……。お姉ちゃんの…………あほ)
 一辺倒なやり方、教本通りの矯正で性格が治るのなら苦労はしない。
 誰にも話しかけず、踏みこまぬ方が楽といえば楽なのだ。勇気を振り絞った結果が改善に結びつかぬは絶望……。
 とにかく話しかけてくる者は減る一方。
 
(が、学業に専念するんだ。泣くな貴信。トモダチが皆無なのは昔からじゃないか……!!)
 でも恋人は欲しいし寂しい事にも変わりはない。
 心持ち薄暗く見える学生食堂の片隅でぽつねんと食事を取りながら窓を見る。
 小雨が降っていた。緑の弾丸型のコノテガシワにぐるりと囲まれた運動場は重苦しく湿気を孕み、ところどころに銀と輝く薄
い水溜りさえできている。バラバラ。豆をこぼしたような音。それが貴信の耳を垂直にブッ叩く。どよめき。雨具を持っていな
いという悲嘆、午後のマラソン中止が確定した歓喜。ささやかな滝がガラスの表面で何万粒もの水滴に粉砕される。目撃。
貴信は煮魚をゆっくりと呑みこんだ。雨が強まっている。やむ気配はない。雨具の持ちあわせも、ない。折り畳み傘なら一本
持っていたがクライメイト(もう名前も忘れた。最近来ていない)に貸したきり。友情の始まりを仄かに期待したのに……。名
称孤食の水っぽくも塩辛いソース付きサワラの切り身が食道内部を滑り落ちる。拡がる水溜りはもう黄土色。
 ガラスの向こうに広がる空は陰鬱なまでに蒼黒い。
 季節は、梅雨だった。


 当事者 2
「貴信さんと会ったのは……どんな時……ですか?」
 なんかさなんかさ。さっきさ。最初はあったかかった訳よ。もさもさしたいい匂いがデンとそこにあってさ、んで周りでみゅー
みゅー変な声あがってててさ、それとおしあいへしあいしながらいい匂いにしゃぶりついてたじゃん。あたし! よーわからん
けどコリコリするいい匂いにしゃぶりつくとおいしいもんでてきてお腹いっぱいになってとろーんとした気分になって、んでぐー
すか寝れる訳よ。時々あったかいのがあたしの体じとじとと這いまわってさ、よくわからんけど気持ち良かった訳よ。
(あ……。赤ちゃんの頃の話……です。兄弟たちとお母さんのおっぱい吸ったり……舐めて貰ったり……) 
 でもなんか急にせまくて暗い場所にとじこめられたじゃんあたしら? あ、あたしらっつーのはさ、回りでみゅーみゅーやって
る奴らでさ! んー。そうじゃん、アレあたしのきょうだいじゃん! でもデカくてあったかくていー匂いのアレ! アレなんつーん
だっけ。なんだっけ。えーと。えーと。ちょい待ち。思い出すじゃん。んむ゛む゛む゛む゛む゛む゛…………? があ! よー分からん!
よーわからんけどさ、そっちはおらんくなったじゃん! 
(お母さんと引き離されて……兄弟たちと段ボールに入れられて……捨てられた……よう、です)
 でさ、でさ、寒いわけよ。鳴けばデカくてあったかいの来るかと思ったけど全然そんな気配ないしさ、周りはだんだん静かに
なってくし、静かになると寒いわけよ! ヘンな臭いだってしたし! そのうち上から冷たいのがくるし下だってびしゃびしゃだし
とにかく寒いわけよ。お腹もへってたけどさ、寒いのは本当ダメじゃん。そしたらもうあたししか鳴いてないわけじゃん。どー
したろーかと思いながらまあ鳴くしかできない訳でさ? デカいのきたら寒くないって鳴いてたワケよ。
(段ボールごと道路……? とにかくどこかに捨てられた……ようです。そして……兄弟さん達が……死んで……雨が降って
きて……大ピンチ……だったようです)
 あたしがご主人とあったのはさっきじゃん。あぁと……そう、そうじゃん! 寒くてびしゃびしゃで鳴いてる時!

.

163 :
 当事者 1
 学校前のコンビニで肩を落とす。購買でも痛感したが、やはり誰しも考える事は同じ。傘はもう総て売り切れだ。自動ドアを
モーゼのごとく分割し外に出る。雨は絶賛継続中。今年の最高雨量に迫る勢いだ。ため息交じりに黒くて薄い鞄を頭上に
掲げたのは走るためだが、しかしすぐやめた。走ったとしても自宅までは20分ほどかかるだろう。自転車通学の弊害をひ
しひしと感じる。おお馬力なき安価なる2輪車、それで土砂降りの中へ躍り込むのは自ら課す死刑執行に等しい。今日は
休みだ自転車。置き場で待ってろ自転車。考えをめぐらす。バスは? そもそも自宅近くにまで通っていれば自転車通学を
選択しない。タクシー。持ちあわせは2千円弱。本来これで週末まで過ごす予定だった。使いたくはない。コンビニにあるA
TMからポンと資金を引き出せば乗れるだろうが、父の苦労を考えるとできない。
「ここでタクシーを呼ぶのは簡単だ! だが安易な手段でもある! 安易な手段にばかり頼るようになれば男としてはお仕舞い
だし何より浪費癖が染みつく! いいやいいやの積み重ねでお父さんの遺産を食いつぶすんだ! 考えろ! 僕という奴
には無限のエネルギーがあるっ! それを使えばタクシーなど頼らず雨を凌げる!」
 揃えた人差し指と中指で空をナナメに切る。たまたま店にやってきた一塊のクラスメイトが訝しげに貴信を見た。やって
しまった。絶対ヘンな人だと思われている。叫ぶ前に来てくれたら傘借りれたかも知れないのに……。
(僕は、アホだ!!)
 まずは自力でどうにかしよう……半泣きで頭抱える貴信の視界の右端、数百メートルほど先に白い建造物が目に入った。
 コンビニの右隣は空き地が続いているため──かつてそこには巨大な学生寮があった。だが去年の秋ごろ何者かによっ
て解体された。一晩明けたらそこは瓦礫の山で入居者全員はいまだ行方不明。家族に配慮し再発を危惧し、事件解決ま
で寮再建の目途は立っていない、という話を貴信は思い出した──視界が開けている。緩やかなカーブを描く道の遥か先
にある”白い建造物”が見えたのは謎の寮解体のおかげだろう。
 特殊な形だ。”それ”は雨粒にけぶりつつ歩道から数メートル上空に浮かんでいる。手前から奥に向かって真っ白な柱が
等間隔に並び、どうやらそれで支えられているようだ。
 アーケード。さらに目を凝らすと「○○商店街」という看板もついている。赤と青の文字が交互に踊っているのはいかにも昭和
から平成初期にできたというレトロな雰囲気だ。貴信はあまりそこへ行った事がない。家とは反対方向だからだ。
 ただしアーケードは非常に魅力的だった。雨は激しい。濃紺の駐車場は全面絶え間なき白い破裂に見舞われ、その飛沫
が制服のズボンをずっくりと濡らしていく。コンビニのすぐ前、ゴミ箱の横にいても水気ときたらお構いなしにやってくる。
 そんな状況における「雨のない場所」は魅力的だ。
 商店街というのもいい。傘の1本カッパの1つぐらい売ってる店もあるだろう。
(いずれも安価な耐久消費財だ。手持ちで買える。長く使うのを前提にすれば父の遺産を浪費した事にはならない)
 二茹極(にじょきょく)貴信は回想する。
 もしあの日雨が降っていなければ、自分はもっと違う運命を辿っていただろう。
……と。

 そして彼は。
 アーケードに入った。

『冷たい北風 2人を近付ける季節』
 季節外れの歌が、流れている。
『絶好調 真冬の恋 スピードに乗って』
 歩く。5分。10分。傘のある店はまだ見つからない。
『勇気と愛が世界を救う 絶対いつか出会えるはずなの』
(ははっ! 誰だっけかなこの歌手さん! いずれにしろ季節外れだ! 選曲担当の趣味なのか!!)
 本屋、CDショップ……店を覗きこむたび落胆を繰り返す。

164 :
.
 更に歩くこと10分。

「ありがとうございますー」
 人懐っこい老婆の声を浴びながら雑貨屋を出る。ようやく手に入れた傘。それを見ながら吐息をつく。
(結局商店街の端まできたな……!)
 厳密にいえば端から2軒目という感じだ。雑貨屋の隣にはこじんまりとしたコインランドリーがある。貴信に恩恵と季節外れ
の歌をたっぷり与えたアーケードはちょうどコインランドリーの前辺りで途切れ、商店街の終焉を示している。
「さ、帰ろ──…」

「みゅー、みゅー」

 小さな声だった。いまだ降り続く雨の激しい音にかき消されそうな音。
 むしろ耳に届いたのが不思議に思えるほどの小さな声。
 何故貴信がその声を聴き取れたかは分からない。ただ声を聞いた瞬間思った。
 ネコが居て、助けを求めている。
(事情は分からないが!!)
 父譲りのレモン型の瞳で辺りを数度ギョロリと睨めつける。
(助けなくては男じゃないぞ!!)
音の出所はすぐ分かった。
(雑貨屋とコインランドリーの間!)
 人一人がやっと通れそうな通路。声はその奥から響いていた。


「で、進んで行ったら段ボールがあって開けたら香美が居た! という訳だ!!」


「……他の兄弟たちは駄目か! だが君だけは助けてみせるぞ! 声を聞いたのは何かの縁だ!!」
 段ボールに手を突っ込む。両手で掬いあげた子猫はまだ生後間もない。目も開かず耳も立たず、まるでネズミか何かのようだ。
 恐るべき冷たさが掌に拡がり、貴信は顔をしかめた。息が浅い。抵抗する気配さえない。
 もたもたしていれば命を失う。誰の目から見ても明らかだった。
(獣医さんに運ぶのが最良か! ……ははっ! 結局タクシー呼ぶ羽目になったな!! まあいい!! こういう支出なら)
 父も許してくれるだろう。
 雑貨屋に駆け込む。事情を話しタクシーを呼ぶために。店の老婆──年齢のせいですぐ隣からの鳴き声を聞き逃していた
のだろう──が出してくれたタオルで全身を丹念にぬぐう。カイロを買い、布越しに当ててやる。
「お客さん、このネコちゃん飼うんですか?」

165 :
 老婆が間延びした声で聴く。しまった。貴信は思う。そこまでは考えていなかった。だからといって獣医で健康になったから
と放逐するのはあまりにあまりだろう。
 そもそも。
 貴信はそろそろ一人暮らしと一人ぼっちが辛くなってきていた。
 家族も、友人も、恋人も。
 親密な者はだれ一人としていなかった。

「だから……香美さんと……暮らそうと……」

 貴信は頷いた。
 

「そうだ! 名前をつけてやろう!」


 当事者 2
(よーわからんけどうるさい……でも…………)

 当事者 1
「このアーケードから流れる季節外れの歌!! その歌い手さんにちなんで!!」

「『香美』、というのはどうだア!!」


 当事者 2
(よーわからんけど……あったかい)
 ごつごつした掌にくるまれながら、そう思った。


.

166 :
 以上ここまで。過去編続き

167 :
 当事者 4
 様々なコトから逃げ続け。
 泥まみれの姿でたどり着いたのは。
 手狭な診察室だった。
 2つの椅子の横にがっしりとした灰色の机があった。机上にはカルテやレントゲン写真を貼る器具があった。
 名前を知りたい気もしたが憂鬱な気分なのでどうでもいい。
 今自分は人生最悪最低の憂鬱を味わっている。今は亡き上司や同僚にすがりたい気分だった。
「へえー。やっぱり死にたいっていいますの?」
 向かいに座った女医が聞き返す。ひどく冷たいキツネ目はからかいと興味深さを湛え自分を見ている。見ているだけだ。
自殺やめるといえば「ああそうですの」と突き放すだろう。幇助を頼めばあっけなく叶えるだろう。それがよく分かった。
 まったく、医者にあるまじき姿態だ。
 なのにそれを倫理的局地から責める気概が、自分にはまるでなかった。
 結局この診療室にいるんは似たり寄ったり、落伍者ばかりらしく、だから思う心から。
(ああ、憂鬱だ)
「ま、死にたいっていうなら構いませんわよ?」
 膝がさすられる。銅に似た見事な巻髪が腰のすぐ傍で揺れている。いつしか胸元に滑り込んだ女医はひどく好色な笑みを
浮かべている。
「生き死にの権利は表裏一体。寝るか起きてるか決めるぐらい自然な選択肢ですもの。何があっても生きろなんてのはナン
センス。眠たい人に寝るなというようなもの……」
 そして「生きろ」と熱噴く者に限ってその手助けはしたりしない。言いっぱなし。医者がごとき体系だった知識提供もしなけ
れば無知なりの誠心誠意の手助けもしない──…世の中そんな人ばかりですのよ。女医の言葉に頷きたい思いだった。
「一応カウンセリングはしましたけど確認しましょうか?」
 膝で蠢くしなやかな手。それが一旦止まる。確認と挑発を込めた笑みが眼下で汚らしく花開く。
「あなたはマラソンを一生懸命練習したのに沿道からの闖入者(ちんにゅうしゃ)に妨害され、やる気をなくした」
 手が大腿部へ移る。さすり方も徐々に露骨になってくる。目指す場所は明白だった。
「そして考えるようになった。何をやっても真っ当に積み上げても理不尽な横槍で崩されて……無駄になるんじゃあないかって」
 甘い息が鼻に降りかかる。上気した顔はすでに涎を幾筋も垂らしている。自分の太ももの付け根を彼女が物欲しそうに見る。
妖しげに輝く白い手がもどかしげにのたうっている。
「強引に握って結構ですわよ……? 握って、導いて、しごかせて下さらない……? チャック開けろっていうなら口で咥えて
でも開けて差し上げますわよ……?」
 甘ったるい声が震えている。ねだるような淫らな声が狭い診察室に木霊する。女医の目線がときおり薄汚いベッドに行くの
が分かった。
「ねェ、セックスしちゃいましょう」
「はい?」
「大丈夫。憂鬱なんてのは腰振って生暖かい襞かき回せば吹っ飛びますわよ。だって出す時何もかも脳内で弾けちゃいま
すもん。特にワタクシの襞は鮮烈よん。出なくなってなお突きまくりたい位……ふふっ」
 白衣が床に脱ぎ捨てられた。同時に自分の手が知覚したのは柔らかく大きな膨らみだ。紫のシャツ越しとはいえ、女医が
手を取り胸を触らせている。もう準備は万端という訳だ。タイトスカートから覗くとても肉感的な大腿がもどかしげに擦り合わ
されている。甘く淫らな匂いさえ立ち上ってきそうで。
 ああ、憂鬱だ。
 それから逃れられるなら何をしても構わなかった。
 深く息を吸い、そして──…
 
 あらゆる物が、弾けた。

 グレイズィング=メディックは床の上で激しく息をついた。
 仲間内では好色と名高い彼女だが、その長きに亘る闇医者歴(それはいよいよ大っぴらに色欲を貪り出した期間とも一致
する)でもなかなか 味わった事のない感覚だった。

168 :
 横たえる肢体の中で甘く激しい、それでいて予想外の疼痛が渦を巻くので──…
 頬を抑える。
 灼熱の痛みを帯びるそこを。
 突如ぶたれた右頬を。
「わあああああん! 嫌だあああああ〜、セックスはイーヤーだあああ〜」
 視線を移す。自分を殴った男がイスの前にしゃがみ込み、わんわん泣いている。年の頃はとっくに30を超えている。いわ
ゆる大の男だ。170cmもある背丈の上に据え付けられた顔に至っては「いかにも精悍」、やや酒食に焼けたるんではいる
が元マラソンランナーらしい克己に引き締まっている。
 それが、である。涙と鼻水でグシャグシャになっている。しかも視線に気付いた彼ときたらお化けを見た童子よろしく悲鳴を
上げるから分からない。やがて彼の顔は体育ずわりの膝に没し、子供特有の遠慮斟酌なき巨大な嗚咽を奏で始めた。両手
はすでに頭を守るよう添えられている。
「オイラ、オイラ、分かってるもん。セックスしたら後でお金とかいっぱい要求するに決まってるし、仮にそうじゃなくても子供
ができたらすんごい莫大な養育費とか必要だし。あ! あと病気! 病気もあった!」
「あの、もし?」
「きっとそうだ、きっとそうだよ……! あの女医さんは頭おかしいからきっとすごい病気持ってる。だからセックスしたら……
わーっ!! きっとオイラは未知の病気にかかって高熱出して黄色い粘膜吐きまくった挙句全身穴だらけになって血を噴き
ながら死んでゆくんだあ〜!」
「落ち着いて。まずはワタクシの話を……」
「で地表に沁み込んだオイラの体液がミミズを怪物さんにして街の人たちが喰い殺されてその人たちがゾンビになるんだ!
ど、どうしよう女医さん! セックスしたら大変な結果になるよぉ!!」
「なる訳なくてよこのアホ!!」
 取りあえずプレーンパンパスで頭を踏みつけてやる。思いっきりだ。どうせケガをしても治せる。そういう思いがグレイズィン
グの右足に破砕粗大ゴミ処理用プレス機顔負けの力を与えた。床にヒビが入り、嫌な音がした。患者の頭はスイカの如く爆
裂した。血しぶきが部屋のあちこちに飛び散る。手術室でやればよかったという後悔がチョットだけ過った。
「だーれが病気持ちですって! 失敬な!! こちとらアフターサービスに定評のあるグレイズィングさんでしてよ!」
「ご、ごめんなさい」
 とりあえず頭部を修復してやった男は部屋の隅でガタガタ震えている。
「だ、だよね。うん。女医さんなんだから病気持ちの人とセックスする訳──…」
「いーえ! 病気持ちともしますわよワタクシ!」
 グレイズィングは胸に手を当て鼻を鳴らす。美しい顔は気品ある誇りに満ちまるで慈母のような優しささえ帯びていた。
「病気だから出来ない、もしくは非っ社交的で二次元しか愛でる事が出来ないまたはインポテンツ! そーいう殿方だからっ
てお断りするのはワタクシのポリシーに反しましてよ! ワタクシに劣情を催して下さるのならオーケー! だから病気持ち
ともしますの!」
「やっぱり病気持ちじゃあ」
「ダイジョーブ。今のあなたの頭同様、ハズオブラブで治しますもん。病気持ちと一晩やりたくった後は必ず血液検査とか虫
の有無とかなんかこうカビっぽい奴探したり織物チェックしますの。舌にコケ生えてないかとかも。で、必要に応じて治したり
治さなかったり。でも別の殿方とヤる時はちゃんと治しますからご心配なく♪ 仮に病気になっても大丈夫。エイズの末期状
態から健康体へ復帰させた事だってありますわよ」
「…………」
 あっけにとられる男の顔に優越感が増す思いだった。
「んふっ。性病の苦しみもまた慣れればまた格別ですもの……。ああ、きったない織物の匂い、快美を伴うお口の熱い痒み。
どこの口? うふ、分かってる癖に。そういえば子宮口にできた5cmばかりの赤黒い瘤を素手で引き抜いた時は最高でし
たわ。電球突っ込んで思いっきり蹴りブチ込んで頂いた時をも凌ぐ激痛アーンド快美に眉根しかめて甘え泣きましたもの……。
あ、赤黒い瘤見ます? 絶頂のワタクシの顔写真付きでホルマリン漬けしてありますけど」
 ああ、憂鬱だ。おかしな女医に引っかかった。
「ところでどうしてワタクシのあまーい誘いを拒みましたの?」
 殴ったのは衝動的だったが、むしろ彼女はそれでますます自分への興味を高めたらしい。
「ゆ、憂鬱なんだ。オイラ」
「といいますと?」

169 :
「何をやっても上手くいく訳がない、誰かがいい話持って来てもウラがあって結局利用されるだけで全部駄目になるんじゃ
ないかって……オイラは憂鬱なんだ…………」
「ふ、ふふふ。流石ですわね。憂鬱極まるあまり碌に仕事へ全力投球できず転職とクビを繰り返した社会不適合さんは」
「……」
「まあいいでしょう。じゃあカウンセリングの続き。反復して差し上げますわ。妨害がトラウマになってマラソンができなくなっ
たアナタは……えーと確か、練習してても沿道から妨害くるんじゃないかってビクついて! 息と集中を保てなくなったもん
だから逃げ込むように一般社会行った訳ですわね?」
「うん」
「でも何やったって妨害されるんじゃないかって恐怖のせいで仕事に全力を出せず、いつも最後はおよび腰。ここぞという
所で勝利を逃し続けた。そして失敗を恐れ、自分にできるコトだけをより好み、他の仕事を拒み続けた」
「…………そうだよ」
「だけれどそんな精神状態ですから? 自分にできると思ったコトさえうまくいかない」
 グレイズィングはクスリと笑い真赤な舌を突き出した。
「そして周囲から責められるたび思った訳ですね。『貴様たちに何が分かる。この俺の憂鬱の原因も取り除かず否定ばかり繰
り返して』。そしてますます苛立ちと被害妄想を高めた。この社会全部、実は自分の敵なんじゃあないかって」
 それが爆発したのが2週間前……と女医はケタケタ笑い始めた。
「……」
「カワイソーに。アナタ思うところの”口うるさいだけで何も提供しない上司と同僚”合計2名。帰り道で撥ねて、家に連れ込んで」
 女医の指が何かを弾いた。新聞紙の切り抜きだ。空間を切り揉む灰色はやがて膝の上へ上り、こんな文字を躍らせた。
「○○公園で切断された頭部を発見」
「今度は右腕を発見。△日発見の頭部とは別人か」
「△日発見のバラバラ死体の身元判明」
「なぜこんな事に……。被害者の妻が涙で語る心境」
──殺害された□□さんはこの春係長に昇格したばかりだった。来月には三女が生まれる予定で……
「同一犯か? ◇日発見の右腕は□□さんの上司」
 引き攣るような笑いが女医の顔に広がった。
「勝手ですわね。人殺しておいて自分も死にたい? どこで聴いたか存じませんけど、ワタクシが闇医者で楽に殺してくれる
からここに来た? ふふっ。殺された方たちの遺族はヘド吐きつつ思いますわよ。『死ぬなら一人でR。いちいち人を巻
き込むな』って」
「いわないでちょーだい……オイラは怖いんだ。あれは衝動的で正当防衛だったんだ。部長は毎日毎日お説教ばかり。なの
にあの同僚だけはトントン拍子に出世していく。結婚だってしたし貯金も沢山ある。誰にだって好かれている彼を見るたびオイ
ラは駄目な奴だって劣等感が増した。怖かった。いつか部長が「お前は本当にダメな奴だ」ってクビにしてくるのが。それが
怖くて自分から退職申し込んだのに『逃げるな』って凄まれた。怖かった。だからやった」
「バラバラにしたのは蘇ってくるのが怖かっただけ……んっふっふ。よくある、臆病で、つまらない理由ですわね」
「でもこんなオイラだから始末まではできなかった! 今度は警察が来る! 捕まったら女医さんの言う通り遺族の人達が
責めてくる! 憂鬱だあ! もう本当に社会全体がオイラの敵になるのが見えてるんだよオオオオオオオ!」
「だから死にたい? まあ解りますけど。でも」
「でも?
「本当に上司と同僚殺っちゃったのは正当防衛かしらん? 本当はアナタ、自分の無念だの恨み辛みを晴らしたかっただ
けじゃなくてん? そう──…」
 女医の目が煌いた。好色の抜けた目だった。ガン患者に余命を告げる医者が見せる「測定結果をただ伝える」そういう
目だった。
「真っ当に積み重ねても理不尽な横槍で総てフイにされる。解体され崩れ落ちる。そういう厳然たる無情の事実。それをう
るさいばかりでアナタの抱えた問題、欠如、トラウマの一切合財何ら解決する気のない連中に……思い知らせてやりたかっ
たんじゃなくてん?」
「…………」
「図星のようねん。でも一般論だけいうなら自分の欠如ぐらい自分で治して立ち直るのが男ってもんじゃなくて? アナタの
はただの甘えで八つ当たり……っと睨まないで下さる? ワタクシ否定はしてませんわよ。一般論述べてるだけ」
「…………」

170 :
「別に死にたいっていうなら止めはしませんわよ? でも一般論が横行してる世間はアナタをどう見るかしらん? 頑張って
たのに理不尽な欠如を与えられ、真っ当な生き方ができなくなったアナタ。そして真っ当なだけで具体的解決案にも欠如の
穴埋めにもならない馬鹿げた感情まみれの一般論ばかりぶつけられ疲弊したアナタ。世間はただ落伍者と見るでしょうねん」
「…………」
「一般論の産み手なんてそんなものですわよ。薄皮一枚の下で進行してる病気は見逃す癖に、いざそれが取り返しのつか
ない事を起こしたら熱噴いてふためいて、病気そのもの”だけ”悪とみなす。んふ。発症と進行を見逃した自分の不手際は
反省しませんの。軽い段階でさっと気付いて身を削って対処すれば大事にならないっていうのに、生活がどうの事情がどう
のと楽で楽しいコトばかり傾注し、結果見逃しますの。んで治せない医者に怒鳴りますの。時には医者が不眠不休で築き
上げた努力の結果さえブチ壊す」
 女医は透き通るような、それでいてわずかばかり悲しみの籠った笑みを浮かべた。
「ふふ。アナタの気持ち、実はよく分かりましてよ?」
「…………」
「だから自殺も止めませんわ。積み重ねた物がお馬鹿さんたちのせいで理不尽に奪われる。それはとても辛い事ですもの。
いっそ死を選んで『お馬鹿さんたちの犠牲者』として被害者側の死を選ぶのは……現状このままの世界を心から愛している
なら十分アリの選択肢」
 青酸カリよ、女医は事も無げに小瓶を投げてきた。受取り、見る。中身を飲み干せば確実にRるだろう。
「でも真実が明るみに出た後、アナタの同僚は反省するかしらん? 身を削ってでもアナタの欠如を突き止めて治せば良か
った……とか。まあアナタの事情なんてのはお構いなし。まるで殺人者が生まれた瞬間から殺人者たるべく成長してきたよ
うに見据えて、その裏にある悲しみとか憤り、やるせなさなんてのは考えない。単純に悪とレッテル貼るだけ。うまくいけば自
分がそれを癒せて、殺人を防げたかもとかは反省しない。ただ落伍者として。殺人者として」
 アナタを決め付け、いつか忘れ去るだけですわよ?
 女医の言葉に、激しい欲求が生まれる。
 セックスよりも酒よりもバクチよりも、激しい、根源的な欲求だ。
 スタートラインの昂揚。
 かつて自分がまだ、真っ当に「積み上げていた」頃、規約と観測に自分を晒しどこまでやれるか試そうと張り切っていた時の。
 懐かしい心情が胸を貫いた。
 ああ、憂鬱だ。
 自分の価値は確固たる論理凝集の規約と観測によってのみ弾きだせば良かったのだ。
 にも関わらずどうしてあやふやで感情的で場当たり的な「一般人」どもの評価において葬られねばならぬのだ?
 そんな物に縋っていた今までが、急に馬鹿げて見えてきた。
 そうだ。
 たとえ100万の一般人とやらが自分を貶したとしても、厳然とした観測の元、稲妻より早く駆け抜ければ輝かしい栄誉は
得られるのだ。それを忘れ、同僚どもの下すあやふやな評価に右往左往し自らの価値を自ら見下してきた今までは……
まったく馬鹿げていた。
 自分はマラソンがしたい。今一度確固たる規約と観測に相対し、今度こそ結果を出さねばならない。
「ひどい憂鬱、インディアン専用天然痘ウィルス付き毛布よろしくもっと効率よーくバラ撒きたくなくてん? ワタクシの仕える盟
主様は正にアナタのような人材求めてますのよ」
 だからこの、憂鬱が晴れそうな申し出にノるべきだと思った。

 贖罪などはどうでもいい。
 まずは心に溜まった憂鬱を。
 晴らして
 晴らして
 晴らし続けて。
 さっぱりとしたまっすぐさを取り戻したい。
 そして厳粛たる規約と観測に厳粛と挑み、堂々と結果を出したい。

171 :
 当事者 3
 両腕と両足が治るよ。母がそう言ってから1週間後、状況が大きく変転した。
「ここだ! くまなく探せ! 逃亡中の※※※※※※※※※※が潜伏している恐れがある!!」
 銀色の閃光が家庭教師の胸を貫いた。なぜか血は出ない。倒れた彼──両腕と両足が治ったら社会見学行きましょうか?
と笑って提案してくれた大学出たての──が塵と化していく横で使用人たちの首が巨大な斧に薙ぎ払われた。
 3歳の時からずっと過ごしていた寝室が炎に包まれ赤く染まる。熱が迫る。響く激しい足音と怒号はもはや屋敷全体を苛
んでいるようだ。
「奴らよほど戦力に飢えていたのか。信奉者どもをすぐ格上げするとはな」
 何をいっているか分からない。ただ……殺されているのは自分によくしてくれた人達だった。
 両腕と両足が治らないせいで学校に行けない自分に付きっ切りで様々な事を教えてくれた家庭教師。
 使えぬ両腕の代わりにご飯を食べさせてくれた使用人たち。
 悲鳴が上がる。目を見張る。部屋に飛び込んできたメイドたちに影が覆いかぶさる。犬だった。ひどく機械的で虎ほどある
大きさの。それがメイドの喉笛を次々に喰い破る。みな、日替わりで車椅子を押し綺麗な庭を見せてくれた人たちだ。
 紅蓮の炎の中で彼女らが塵と化し、メイド服が燃えていく。使用人だけか。母親はどこにいる? 部屋に入り込んだ10人
ばかりの男たちと巨大な機械犬がゆっくりと歩き出す。赤く炙られる彼らをただ、ベッドの上で見るしかなかった。
 逃げる手段はなかった。
 3歳の時から。
 あの時から。
 奪われた時から。
 ずっと無かった。
「また……奪わんといて……」
 傷の付いた眼球から涙が溢れる。塩気が疵に沁みる。
 死んでしまった者たちは本当に心からの善意の人たちだった。
 屋敷に仕え、主の子供を家族のように遇してくれた人々。
 時には笑い、時には母親以上に厳しく叱ってくれた。身分の上下など関係なく、ただ自分の両腕と両足が平癒する事だけを
考え、その日が来るまで手足代わりになる事を誓ってくれた。だから人間の絆を信じる事が出来た。両腕と両足に消える事
なき欠如を植え付けた人間を恨まずに済んだのは、屋敷の人達と母のおかげだった。
 みな、ただ自分の両腕と両足が治る事だけを祈っていた。
 治らない憤りを以て世間に害悪を成したりしない、善良な人達だった。
 彼らを殺した男達がゆっくりとにじり寄ってくる。手も振り上げられず足も伸ばせず、仰向けの体の中から首だけ震えと共
に擡(もた)げ──…
「奪わんといて……返して……」
 しゃくりあげる他、なかった。

 どこか遠くで大きな音がした。

 壁が突き破られたような、大きな音。
 大きな音がした辺りで怒号と足音がひときわ大きく膨らみ、そして一気にかき消えた。
 迫りくる男たちが歩みを止め、慌てた様子でそちらを見る。彼らにとっても予想外の事態らしかった。

172 :
 虎ほどある大型犬が身を屈め、低い唸りを上げる。
 耳鳴りがした。
 飛行場の近くにいる時のような、耳鳴りが。
 そして。

 陰鬱な黒い影が部屋に吹きこんだ時。

 炎は……チリヂリと四散した。


「ああwwww憂鬱wwww 追撃すんのはいいが的外れだよお前らwwww ばーかwwww ハズレの場所で犬死とかマジ憂鬱w」
 奇妙な生物がいた。見覚えもある。記憶を探るとそれは家庭教師が勉強の息抜きで見せてくれた世界イロモノ大図鑑の中
盤あたりに載っていた生物だ。半ば2頭身のやたらクチバシの大きな鳥。
「ハシビロコウ……?」
 とは肺魚を主食とするいやに鋭い三白眼の持ち主だが、その鳥はブツブツと呟くばかりで自分をちっとも一顧だにしない。
 ただ、確かなのは。
「しwかwしwwwwwwwww 俺らも実はピンチwwwwwwwwwww 天王星も海王星も冥王星もこの前の決戦で死んだしw 月やっ
てたフル=フォースも総角主税とか改名して離反したしwwww 正直詰みだろ俺らw こっから逆転できたらマジ神だわwwww」
 ハシビロコウは味方であるらしかった。
 それが証拠に。
 使用人を殺した男たち。
 彼らは床の上で『バラバラになって』うず高く積まれていた。もっとも、巨大な犬だけは残骸めいた物が見当たらなかったが。
もしかしたら逃げたのかも知れない。
 一体、何が起こったのか。ハシビロコウが超高速で入室し、それと同時に乱入者が葬られたのは確かなようだが……。
「とりあえず資金面どうにかしろってイソゴばーさんがいったからwwww さっきからパトロンの子供探してる訳だがwwww 
どこだよwwww ああ憂鬱www 工場勤務時代から部品とかの探し物はマジ苦手wwwwwww つか邪魔wwwwww」
 ハシビロウコウはニタニタ笑いながら死体を蹴った。何度も何度も。細めた眼で酷薄に見下して。尊厳を踏みにじるのが
楽しくて楽しくて仕方ないという顔つきだった。
「あの」
「ああ憂鬱w 両目に傷があって両腕両足に一目で分かる欠如のあるパトロンの子供が見つからないもんだから、戦士ども
に八ちゅ当たりしたけど……ああ、見つからないw 見つからないよおw 保護して仲間にしなきゃいけないのにww憂鬱だあw」
「ウチならここにおるけど」
「wwwwwwwwww」
 ハシビロコウがこっちを向いて、嘴をパクパクさせた。
「あ、事情聞いてたwwww 実はいたの知ってたwwww じゃあ一緒に来てくれるwwwww 嫌ならいいけどwwwwwwwww」
 では、八つ当たりで男たちを殺したというのは……。
「ウソに決まってるだろwwww あいつら殺さなくてもお前助けるコトは可能だったけどもwwwwwwwwwだったけれども」
 解体作業は楽しいし、遺族や仲間が泣きじゃくり、怒りに震える顔を想像するととても胸がスカっとするので、殺した。
 とだけ彼はいう。
 わけが分からない。
 すがるような思いで使用人たちの死体を見る。目を剥き、息を呑む。

173 :
 彼らの肉体が塵と化していく。最初に殺された家庭教師はすでに首から下を失っている。見ている間にも顎が、頬が、凄
まじい速度で散っていく。
 グレイズィング呼んでも助からないな、死亡はともかく消滅されたら打つ手なしだ。
 視線を追ったハシビロコウがそう呟く。
 感情をどう発露していいか分からない。
 泣き叫びたい気持ちと。
 泣いてもどうにもならないという自制心と。
 異様な光景に驚き、あれこれ質問した好奇心と。
 使用人たちを殺した輩どもが山盛りの死体になっているコトへの「やった! ザマみろ!」という叫びが。
 ごっちゃになって、どういうカオをしていいか分からない。
 頭が痛い。人間の死体を見たのは初めてかも知れない。
 風邪をひいたときのように胸がムカムカした。体がひん曲る。
 嫌な匂いのするペーストが食道から噴出。ベッドの縁で荒ぶる炎に降りかかる。じゅっという音とともに焼けた異臭が立ち
込める。
「ひどいよなああwwww つつしまやかに生きてた使用人とお前とその母どもが”結果として他の連中に害を成すから”始末
決定wwww 優しい奴ならしないよなあwww まずはお前の欠如治してから『悪の組織に協力するな』って説くのが筋だよな
あwwww でもしないwwwww 悪に協力したからと事情などお構いナッシングwwwwwwwww ああ、憂鬱wwwwwwwwwwww」
 一瞬息を呑んだがすぐそうだと思った。
 今しがた自分から大事な存在(もの)を奪った連中は。
 自分が欠如に苦しんでいる時には影さえ見せず、欠如がようやく購われるという土壇場で突然出てきた。
 何かを与えられない連中は常にそうだ。自分の能力を超えた厄介な問題はスルーするくせに、一枚噛んで得できると分
るやいなやしゃしゃり出てきて何もかもメチャクチャにする。相手はどうやら何かの組織らしいが、組織は専門外の商売は
決してしない物だとよく母が語っていた。化粧品会社がチョコレート製造に乗り出すコトはないし、コンピュータソフト専門の
会社が孤児院経営で利益を追求する訳もない。使用人たちを奪った連中はその類なのだろう。上層部は目的外のコトに
大々的な時間と労力と財貨を費やすなと決議するし、下層部の者たちはそもそも目的外のコトなどできない。自分にとって
家族同然だった使用人たち。きっと男たちは何も考えず何の意味も見出さず、始末したのだろう。
「そして総てをブチ壊しwwwwwww ひでえよなあwwwwwwww 可哀相だよなあwww 一生懸命積み重ねてきたモノが馬鹿
どもの横やりでダメになるのはよおおおおおおおおwwww」
 ベッドの前で巨大な顔をのたくらせるハシビロコウには少し戸惑った。
 彼はどうやら、笑いながらもジンワリ泣いているらしかった。
 むしろ笑っているのは涙を誤魔化すためらしかった。

「ジロジロ見るんじゃねえよwwww この冷酷無情の解体マシーンがホムごときの死で泣くわきゃねえよwwwwwwwwwwww
とにかく、どうするよ?w 俺らについてきたら高確率で犬死www ついてこなけりゃ病院とかで細々と生きられるがwwww」

 彼はそう嘯くが、しかし……。

 家族同然の者たちを一方的に奪った連中と。
 家族同然の者たちの死を笑いながらも悲しんでいる者。

 どっちについていくかは、明白だ。

174 :
.
「マテwwwww もしこの涙が演技ならお前wwww まんまと釣られる羽目になって人生設計台無しだぜwwww」

 構わない。人生設計は3歳の頃から無茶苦茶だ。でも命はある。ハシビロコウの後ろでバラバラになって転がっている
連中を使用人たちが足止めしてくれたから、自分はまだ生きている。家族同然の者たちの死は決して無駄じゃないのだ。
 もちろん悲しみはある。母親もこの分では死んでいるだろう。だがそういうコトを泣いて悲しんだとしても、何にもならない。
 ベッドもそう言っている。腕組みをしながら4歳の誕生日パーティの光景──覚えている。手足の欠如を回復する物が欲し
いと駄々をこねみんなを困らせたのだ──を引き合いに出し、そういうのはまったく無意味だと説いた。枕も同調した。学校
へ行きたいと泣きじゃくった6歳の夜は本当に睡眠不足だったと苦笑いした。懐かしい思い出だ。笑いながらあの時はゴメン
なさいと頭を下げる。傍でハシビロコウが異様な表情をした。ああゴメン。つい他の人と……。ウチ一応ついてくから。
 仇達は死んだが、その背後には巨大な組織がある。
 奴らは自分にとって奪う側の連中だ。
 母と家族同然の者たちを奪われたから、奪ってやる。
 自分は人に害を成したいと思ったコトはない。
 社会の片隅でただ手足の欠如の回復を待ち望んで過ごしていただけだ。
 だが奴らはその回復さえ許さなかった。もしこの欠如を与えた連中に対する怒りの一欠片でも見せていたなら話しは違っ
たが、奴らの眼はただ「片隅に吹きだまる厄介事」ぐらいにしか自分を見ていなかった。
 それが悔しい。
 理不尽で巨大すぎる欠如を与えた連中に憤りがなかった訳ではない。嫌悪していた。憎んでいた。不便を感ずるたび涙
を流し、どうしてこういう運命に追い込まれたかと歯ぎしりしながら泣きじゃくった。何度も、何度も何度も何度も、何度も!
 それでも世界全体を恨まずに育てたのは、母や使用人たちが親身になって接してくれたからだ。同情はせず、悪いコト
は悪いとちゃんと叱り、どうすれば欠如を抱えたまま生きていけるか共に考えてくれた。だから、黒い感情に染まるコトな
く今まで生きてこれた。
 そうやって自分をまっすぐにしてくれた人たちが、どうやら人間でなくなっていたのは様子から分かる。だが彼らが決して
人を害するためああなった訳ではないというのも分かる。欠如。自分の手足を直すための取引として、人間をやめたに
違いなかった。
「拾った命はおかーちゃんたちの仇打ちのために使う」
「へー(^_^)」
「みんなが死んだのはウチの手足を治したがったせいや! ならウチだけ普通の幸福味わう訳にはいかんやろ?」
「いやいやいやwww そこは『復讐なんてみんな望んでへん。ウチだけはまっとうに生きて幸せになる。みんなの分まで』とか
気付いてまっすぐに生きるべきだと思うwwwwwwww」
「知らん! 1度奪われて大人しくしとったらこの結果や! よう分かったわ。奪う側の連中は大人しくしてても何も与えん!
欲しいのなら自分で頑張って獲得する! んで奪う側の連中とは戦う! 大事な物を失くさんためにはそれが必要や!!
おかーちゃんたちの死は教訓にせなあかん!」
「うわwww こいつヘンなスイッチ入っちまったwww やべえwww でも面白えwww 盟主様に引き会わせてーwwwwww
「ハシビロコウさんよ」
「はいなwwww」
「ウチはそこに転がってる連中の「組織」と戦うけどな。これはただの復讐やない!! ウチと! おかーちゃんと! 使用
人さんたちの無念を晴らすための、意地の見せっこや!! 好き放題やっとるようやけど、それに屈しない奴がおるという
コトを知らせたんねん。で!! いつか勝つ! 勝った後、悲しい事情で人間やめた連中引き連れて、あいつらにいうたんねん。

175 :
.
『お前ら正義面して話も聞かず色んな奴殺してきたけどな、中にはこういう人たちだっておったんや』
『お前らの行動は本当にこの世界良くしてきたんか? 悲しい事情持ちを臭い物にフタで葬ったコトもあるやろ?』
『そうやって殺されてきた人らは悲しかったやろなー。フツーの世間に見捨てられた挙句、自称正義の味方にさえ殺される!』
『お前ら要するに考えなしのボケや! その人らの分まで苦しみ抜いてR!!』
……ってな」
「限りなく復讐目的くせえwwwwww でもまあ気持ちは分かるわwwwww」
「いうなれば尊厳を守るための戦いっちゅー訳やで。な、な!」

 奪う側にいる連中は死んでいい。絶対に。絶対に。

 以上ここまで。過去編続き。
.

176 :
>>スターダストさん
私ぁ貴信ほどの強さや高潔さはとんと持ち合わせておりませんが、彼の学校での対人問題に
おける足掻きっぷり悩みっぷりは、共感できるというかグサグサ来ます。ディプレスは何かこう、
がっついたところのないのがいつも不気味。パワフルでウルサイのに、落ち着いてて無気力という。

177 :
次スレ
【2次】漫画SS総合スレへようこそpart74【創作】
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/ymag/1356527130/

178 :2013/02/10
あげ
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