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2012年07月哲学15: 吉本隆明 1924-2012 (202)
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吉本隆明 1924-2012 (202)
吉本隆明 1924-2012
- 1 :12/03 〜 最終レス :12/08
- 1924.10.25 東京市京橋区月島に生まれる。
1950年代ー詩人として出発。『固有時との対話』(1952)『転位のための十篇』(1953)。花田清輝と
の論争。〈マルクス主義→日本ファシズムへの転向→マルクス主義への転向〉の可能の謎を思想。
1960年代ー安保闘争でブントに加担。『言語にとって美とはなにか』(1965)『共同幻想論』(1968)
〈自己表出‐指示表出〉〈個体幻想‐対幻想‐共同幻想〉〈大衆の原像〉のターム。
1970年代ー大学紛争、三島事件への発言。『心的現象論序説』(1971)ターム〈原生的疎外‐純粋疎
外〉。『最後の親鸞』(1976)で世界思想としての親鸞を提起 。フーコーとの対論(1978)。意志
論の意味を提起。
1980年代ー埴谷雄高と論争。大衆の物質的豊かさをどう見るか。高度資本主義論。
1990年代ーボードリャールと対論。高度資本主義への視点。オウム事件への発言で物議を醸す。
《この境地でなければこれだけの「造悪」はできないはずだという評価になると思ってるわけです。
麻原のやった「造悪」と、この人のもってるヨーガの到達した境地と、パラレルだといいますか同じ
だと思います。》(『宗教の最後のすがた』1996)オウム事件を機に離れる愛読者(竹田青嗣など)
も現れる。『近代日本の批評』などで柄谷行人、浅田彰など、新しい世代に批判をされることが多く
なる。《用語が我流で、しかもそれが論理的につながっていない。最悪の意味で「詩的」に理解され
ていたとしか思えない。》(浅田彰)
2000年代ー『ひきこもれ』(2006)。『心的現象論』(2007).『50度の講演』(2008)。『現代思想 臨
時増刊号 吉本隆明』で自己の思索を振り返るロング・インタビューを行う(2008)。2011年3月
の原発事故に伴う反原発運動にたいし、同調せず、反原発派からの非難を浴びる。『完本 情況への
発言』(2011.11月)
2012.3.16 肺炎のため逝去。
- 2 :
- 糞ジジィが煉獄で苦しみますように。
(-人-)
- 3 :
- >>2
カトリック乙
- 4 :
- AKB48とコラボでコンサート形式で追悼式とかイケる。
- 5 :
- 思い切り恥ずかしくやろう!
- 6 :
- >>1
重複スレ
削除依頼を出しておくように
吉本隆明は死んだ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1332399644/
- 7 :
- ステージでAKBのオカズ娘どもをずらーっと並べて真ん中に吉本の遺影。
違和感なさすぎ。
- 8 :
- 無思想の時代を上手に泳ぎ切った。
- 9 :
- 溺れてタコ八郎しかけたのは96年か。ひょっとしたら、
・・・いや言わぬが鼻。
- 10 :
- ここが吉本読者ゼロの吉本スレか
- 11 :
- 被災・被曝支援は甘やかし!? どこまで自己責任?
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1300465148/
- 12 :
- 大衆は大衆的なものにしか価値を認めないものか?
- 13 :
- 生き死にに無関係でいられる人間はいない。
吉本も無関心ではなかったけれど、通俗に
安住する傾向があったんでないか?
- 14 :
-
【皇室】チャンネル桜の姫?高清水有子【秋篠宮】11
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/mass/1328996716/
>>353-361
353 :(さくらじ) 第24回 吼える!!軍事ジャーナリスト 井上和彦 登場
354 :(拉致問題) 今年が勝負、1000万人署名への戦い
355 :(中国脅威論) 尖閣と南シナ海への野望、軍拡とチベット弾圧
356 :〃
357 :〃
358 :(北朝鮮) 米朝合意無視か、弾道ミサイル発射を表明
359 :(谷田川惣) 女性宮家創設ヒアリングにおける田原総一朗発言
360 :(快刀乱麻) 皇統の危機と占領政策
361 :(魔都見聞録) 韓国の反日中毒症、慰安婦が国政選挙に出馬
>>365-370
365 :(陸山会事件) 公判結審、4月26日に判決
366 :(民主党) 消費増税、普天間、秘密保全法は絶望的
367 :(女性宮家) 有識者ヒアリング、櫻井よしこ氏・百地章教授など
368 :(東日本大震災) 震災から1年、鎮魂の2時46分
369 :(断舌一歩手前) 大阪維新の会は反民主党勢力たり得るか?
370 :(撫子日和) 硫黄島の英霊達への想い
- 15 :
- >>372-381
372 :GHQ焚書図書開封 第10回
373 :(古屋圭司) NHK問題、受信料と公共放送としての責務
374 :(古屋圭司) 少子高齢化社会、日本再生のための住宅政策を
375 :(頑張れ日本) 3月23日は、デモの後にパーティーがあります
376 :(安全保障) 北のミサイルと中国の脅威に対する日米の動き
377 :(中国) 激増する武器輸出と、絶望的な人間性
378 :(変える?変えない?) 武器使用基準、私権制約、消費増税
379 :(ズバリ!文化批評) 吉本隆明氏を偲んで
380 :(東日本大震災) 震災瓦礫と鉄道復旧、矛盾と経済原理の現実
381 :(拉致問題アワー) 1千万署名で政府を動かす!
>>391-400
391 :(西田昌司) 必ず潰す!世紀の悪法「人権侵害救済法案」
392 :(東日本大震災) ふるさと東北を残す写真集
393 :(二千人委員会) 拡大推進委員会発足、マスコットキャラ発表
394 :(草莽崛起) 3.18 沖縄反メディアデモ in 那覇
395 :(中華帝国主義) 中国の尖閣侵略宣言、国後島へも資金投入か
396 :(属国意識) イラン制裁、野田ドクトリン、橋下市長アゲ
397 :(ミサイル問題) 日本の脅威となるのは北も南も変わらない
398 :(消費増税) 経済好転が条件であるが、その定義は無し
399 :(クライン孝子) 言いたい放談・拡大版
400 :(今週の御皇室) 皇后陛下から眞子内親王殿下へのお手紙
- 16 :
- >>406-415
406 :(宮脇淳子) 「南京事件」の虚妄
407 :(歪んだ自由) 新聞が賛美するTPPと日中韓投資協定
408 :(言いたい放談) 日本のジャーナリズムとアフガンの際どい外交
409 :(明るい経済教室) 脱デフレの処方箋は?「投資」の社会的意味
410 :(直言極言) 吉本隆明氏の「言葉」を振り返る
411 :(国民経済) 気にする必要のない消費増税論議と貿易収支
412 :(お知らせ) 3.25 第五回 フジテレビ抗議デモ in浅草
413 :(青山繁晴) 国家再生への歩み、戦争観とインテリジェンス
414 :(日いづる国より) 赤池誠章、震災追悼式と皇室と教育改革
415 :(西田昌司) 3.19 参議院予算委員会、対中ビジネス利権を暴く
>>419
419 :(討論!) 表現者スペシャル「震災一年後の日本を考える」
- 17 :
- 右翼スイッチ押してしまったな。
- 18 :
- 993 :レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/03/26(月) 19:57:06.87
私も、吉本はアナクロだとずっと思ってきたんですよ。
これは同年代の多分に漏れず、蓮実・柄谷のいうことを鵜呑みにしていたということです。
ところが、五年くらい前、古本屋でたまたま昔の「海燕」を買って、載っていた「ハイイメージ論」を読んでみたら、
なんか、吉本のほうがぜんぜん新しかったんじゃないか、と感じたわけさ。
吉本がヘーゲル的だといわれるのは、同一律なしに論理は成立しない、という当たり前のことを無視してないだけなんですよ。
ハイイメージ論に関して言うと、数物系の知識水準が柄谷とは明らかに違うのね。
ちなみに浅田の本音は、柄谷よりも吉本のほうが正しい、だと思う。
だから、柄谷支持、吉本批判は、党派的なもんでしょう。
似た経験に関して言うと、同世代の多分に漏れず、ハイデガーも、ドゥルーズの批判を鵜呑みにして、
長らくダメだと思い込んでいたんだが、よく読むとドゥルーズよりも明らかに「正しい」のね。
上手く言えなく申し訳ない。
- 19 :
- 重要なのはイメージすることではない。
認識こそが超越の原理なのだ。
- 20 :
- 『週刊ポスト』最新号2012.4.6号に以下の吉本隆明追悼特集が組まれています。
モノクログラビア「吉本隆明 知の素顔」吉田純撮影
記事「さらば、吉本隆明 あなたは我々の英雄だった!」橋爪大三郎、鹿島徹による回想。評伝。吉本隆明
語録。
記事「吉本隆明との「格闘」」・佐野眞一 ・岸田秀 ・ねじめ正一 ・呉智英らによる評価。
- 21 :
- >>19
なんだ、そりゃ?
- 22 :
- 詩人のランボーみたいなもんかな。
- 23 :
- 吉本隆明追悼記事の追加です。その前に、先に挙げた『週刊ポスト』の記事に書いていた人名で、
鹿島徹としていましたが、誤りで正しい名前は鹿島茂です。では見つけたものを挙げていきます。
『週刊新潮』2012.3.29号
モノクログラビア 吉本隆明が「都はるみ」を歌った「在りし日」
1987.9.12-13にかけて品川の寺田倉庫で行われたイベント「いま、吉本隆明25時」のワンシー
ン。中上健次と都はるみの公開対談の最中、中上と都の歌謡ショーが始まり、そこで中上が客席
の吉本を壇上に呼び、都はるみの「大阪しぐれ」を歌わせた。場内深夜に拘わらず爆笑。という名
シーン。《吉本氏、歌は「下手だった」》と結んであるのがおかしい。
記事 「吉本隆明」の遺言 「反原発」で猿になる!
『週刊新潮』2012.1.5&12号掲載された内容を中心に、編集者で文芸評論家の齋藤愼璽、元共同
通信社の石森洋、宗教学者山折哲雄の回想が添えられている。タイトルはスキャンダラスだが、
紹介されている吉本自身の言葉や記者の説明は特に奇想天外ではなく、科学技術の自己更新、
自己刷新によって絶えず危険性や動力を解決してきたのが人間力である。それが人間である証な
のであり、これを放棄するのは「人間が猿から別れて発達し、今日まで行ってきた営みを否定する
のと同じなんです」「原発の存否を決めるのは、『恐怖心』や『利益』より、技術論と文明論にかかって
いると考えるからです」「人間はある技術を開発すると、失敗してもその部分を補って再スタート
する。そのうちまた別の危険が出ると継ぎ足しで防御策を講じる。文明とはそういうことの連続
だということを忘れてはいけない。」という吉本の発言がそのまま引用されている。それは吉本の
技術論、人間力の考察が根底にあることを示している。そこまで記事からは汲み取れる。
- 24 :
- 変わったところでは『FLASH』2012.4.10号掲載 田原総一郎の俗流ニッポン伝 第40回
5分でわかる、吉本隆明はここがすごかった!
田原総一郎の吉本論ということで、1頁の記事だが興味深い。今回の反原発運動高揚の中で、ど
うも田原総一郎でのテレビでの発言を見てて同調していないことは感じていたが、田原総一郎が
吉本の反原発運動批判をよく読んでいたことはこの記事で初めて知った。田原は吉本の技術論を
、また麻原彰晃読解をも高く評価している。ただ、『共同幻想論』は「僕も読んだけど、難しくて途中
で投げ出してしまった(笑)」と正直な感想を述べている。「日本中のあらゆるところに自称“吉本
隆明の弟子”がいる。じつは僕もその一人だけど、そのこと自体が彼の思想の大きさ、彼のカリス
マ性を表しているんだね」(田原)初めて読んだ吉本の本は『擬制の終焉』だそうだ。《田原氏は最初
の“”から叩きのめされたという。》と記事にはある。
- 25 :
- 擬制の何とかって棍棒は使わせて貰ってる。
- 26 :
- 情況からの発言
客:せっかく立てたはいいが立派過ぎて評判の悪いこのスレは、勿体無いので一つ昔別スレでやっ
た放言で埋めるってのはどうだ。
主:いいねえ。対話型批評の名手吉本も死んじゃったことだし、弔いの意味でも一つやってみよう
か。
客:何から行くかだけど、ここはタイムリーに吉本逝去をめぐる風景をどう見るか、てところから
やってはどうだ。
主:いいよ。じゃあ俺から行こう。知ったのは3/18(日)の午前中だった。電車で移動中に吊革に
掴まって前に座ってる方の『東スポ』が見えた。そこに「吉本逝去」の記事があったんで驚いた。電車
降りてすぐ「東スポ」買って、近くのファミレスに入り、目を通した。いつかは来ると思ってたけど
、とうとうこの日が来たか、ていう感じだった。しかし、先日まで雑誌のインタビューで反原発
運動批判をとうとうと行うなど、最後まで吉本は吉本だったと思うよ。
客:愛娘のばななが親父の発言を「当惑」(『週刊新潮』3/29 p.61)して〈私が話したときは基本的
に(原発存続)賛成派ではなく廃炉と管理に人類の英知を使うべきだ的な内容ではないかと察しま
す〉とかツイッターで言ったらしいが、むしろこの話の方が変で、吉本が愛娘にどう言ったか知ら
ないが、親父の話のウェイトを聞き逃してたんじゃ、て思えるね。
主:そう思うよ。まあ彼女は思想家じゃないし、そういう議論は上手くない。肝心なところが解らな
いとしても責める気はない。「父と原発のことを話しましたが、難しくてよく解りませんでした」
というのが本当かもしれないし、所詮思想は素人なんだからね。
客:そこは問題だね。愛娘と親父の考えが異なっていた場合も考えられるから。実は親父と愛娘は
この問題では対立してた可能性もある。
主:思想的対立が親子であったとしたら、どうかな。吉本のことだから、たとえ愛娘でも容赦はし
なかったと思うが。
客:それがあからさまになるまでに親父が亡くなった、てことかもしれないね。
- 27 :
- 情況からの発言 2
客:亡くなった有名作家や思想家の作品って、それをどう残すか、ていう、後に残った者の仕事が
あるわけだけど。吉本の場合も書かれた作品をどう残すか、ていう仕事があるわけだけど。何しろ
本も多いし、著作集などでの重複を省いても相当数に上るでしょ。大変だよ。
主:実際大変な作業だよ。まず、書かれた文章を全部集めて改めて全集化するのか、ていう編集
方針から難しいんじゃないかね。ただ、やれば面白いとは思うし、ドイツの『ハイデガー全集』や『
マルクス=エンゲルス全集』みたいに、書かれた文章はとにかく残らず集める、年数どれだけかか
ってもやる、ていうことには意味があると思うし、どうせならそこまでやってもいいんじゃ、て
気もする。一番ありそうなのはかつての勁草書房や大和書房がやったみたいな部門別に集めて
重要作品を残す、てやり方だけど。でもそこでこぼれてしまうものもあるだろうから。
客:そうなると吉本の本は絶版になり、入手困難になるものも出てくる。入手できるうちに手に
入れておくしかないね。ひとまず。
主:漏れのない完全版全集とかが出るかどうかが分からないからね。
客:あと吉本の場合、現代のテクノロジーにも結構作品化されてて、CD,DVDにも講演や公開座談会
とかが残っている人でもあるんだよね。ほぼ日から出た講演CDもそうだけど。
主:CD,DVDでいうと、講演はかなりCDにはなってるが、対談は昔でた中上健次や宇野邦一との
テープぐらいしかないでしょ。吉本の対談てどんな感じで喋っているのか、聴いてみたい気がす
る。思うに対論に、吉本の閃きや拘りや、情感や、結構出てると思うんだよね。多分録音テープが
残ってるものもあるだろうから、それも聴いてみたいね。どこか企画して出してくれないか、と
思うんだけど。
- 28 :
- >>26
原発は自然な技術の発展で、不都合なことがあれば修正していく、安全にはいくらでも金をかけるべき、って感じだったような。
方向によっては廃炉と管理と言う聞き方になることもあるかもしれない。
- 29 :
- >>27
なんで全集が出ると他の本が絶版になるの?
出版会の風習?
それとも他の本が売れなくなるから?
- 30 :
- 情況からの発言 3
客:上のレスにも書かれてるけど、全集や著作集に収録されると、まず大抵はそれまでの単行本と
かは新しく刷られなくなることが多いんじゃないかね。戦後文学の大物だった埴谷雄高は90年代
に既に亡くなって、その後講談社から全19巻の全集が出たんだけど、その後、未来社から出てた
著作集はそれまで刷ったものだけであとは絶版化したと思うし。これは花田清輝だと、生前、やは
り未来社から著作集を出してて、没後に講談社から全集を出したんだが、講談社版全17巻の全集
の方が早く品切れ絶版になり、未来社の全6巻著作集の方が売れ残って新刊として棚に置いてあ
ったような記憶がある。ただ花田の未来社の著作集ってのは吉本との論争文も入ってないし、ま
、解題もなく、評論の雑誌発表年月日も分からない、「著作集」とか銘打ってはいるものの、当然あ
るべき解題もない、読者にとって甚だ読んでて不満の残るものだったと思う。全集版は流石に解
題はちゃんとしてた。ただ、花田の全集にしても、吉本と同席し、その後、二人の論争でも引用され
ている座談会がどういうわけか収録されていない。それからやはり論争した埴谷と同席した座談
会があるのに収録されていない。これは埴谷の全集には花田と同席してる座談会が1篇収録され
ており、資料としての価値はある。花田の全集の収録対談は60年代以降の武井昭夫とのものが多
く、花田の論敵との対決が外されて、むかし図書館でみてがっかりした覚えがある。重要な座談会
が一切外されているんだから。編集者の考えを疑うよ。
主:花田の全集は評論はよく集めてあるが、座談会関係が駄目だね。論争家花田の個性がよく出て
る、座談会はあのキャラクターを知る絶好の素材だけど。外したのは実に勿体ない。
客:吉本の全集を編集する人間にはその辺、論争相手と同席してる座談会を収録から外すような、
センスのないことはしないでほしいねえ。
- 31 :
- 情況への発見
客:あの全集を読むと、どういう思想だったのかは一目瞭然だけどね。今、花田清輝を 持ち上げる
人間があまり言いたがらない特徴が。
主:マルクス主義の問題でしょ。花田のマルクス主義がソビエト社会主義信仰から出られなかっ
たこと。そのソビエト信仰ってものと、日本の戦時統制経済の二重化、双面性がこの人の戦争体験
の最大 の問題だからね。
客:そうなんで、その後、80年代になってからの花田再評価で綺麗に抜かされているのもそこ。
一番この問題が如実に出てるのが例の「ユートピアの誕生」で、当時の官僚を皮肉ったのだ、とい
う花田の後の弁解をスガなどが鵜呑みにした。この「ユートピアの誕生」ていうのはまず題材にな
ってるトマス・モアの『ユートピア』からして閉じられた、密告が支配する、個人というものが集
団に溶け込むことを強制される国家。ソビエトと似て非なる代物で、この疑似ソビエト社会主義
を題材にして花田は自由放任経済にたいする統制経済を対置し、かつトマス・モアの描いた国家
を検討していく。もちろん同一化するわけじゃない。ただどこに自分の関心が向かっていくかは
そこに映したとみていいと思う。「集団表象と鉄の規律」などとして。これが戦後の花田によれば、
‘当時の官僚の発想を皮肉った’もの、となるわけだが、皮肉るためには皮肉る対象以上の理念が
必要だろう。ところがこの時、花田にはそのような理念はない。日本ファシズムにもソビエト社会
主義にもなれる経済思想しかなかったわけ 。皮肉ることそれ自体、無理じゃないかと思える。
主:スガなどが意味ないとしている例の「現代の課題は、資本主義社会の枠内において、まず、いか
にしてこの単純再生産の基礎を確立するかにあるのだ」も、これは花田が戦時中接近していた
ファシスト団体の戦時経済綱領=統制経済の確立に一致している。つまりマルクス主義から日本
ファシズムへの転向の合理化が、ファシズムとソビエト社会主義との互換性によって保証された
ということだ。
- 32 :
- >>31
>「現代の課題は、資本主義社会の枠内において、まず、いか
>にしてこの単純再生産の基礎を確立するかにあるのだ」も、これは花田が戦時中接近していた
>ファシスト団体の戦時経済綱領=統制経済の確立に一致している。
国家共産主義だと政府が拡大再生産を推進し剰余価値を分配するわけだから、
花田の言うユートピア=単純再生産とは違うだろう。
単純再生産は生産の場において分配されていることを意味する。
ファシズムとアナキズムは親和性が高いから、(その認識は間違っているが)
花田をファシストと呼ぶことは理解できるにしても、あまりにも認識が浅い。
このあたりの考察は吉本も疎かにした部分だから歴史的にも未検証のままだ。
- 33 :
- >国家共産主義だと政府が拡大再生産を推進し剰余価値を分配するわけだから、花田の言うユート
ピア=単純再生産とは違うだろう。
客:32レスさんの反論というのはスガの言う、‘花田は資本主義下で不変の規模での単純再生産を
造り出せる訳がない、というアイロニーをあそこで言ったに過ぎない。このアイロニーを吉本は
まともに読んでしまった’とする批判の論拠でもある。
主:ここがスガが‘吉本さんは花田を誤読した’とか‘吉本さんはあの時点では『資本論』をまとも
に読んでいない’と断定する論拠になってる。まず、スガなどが批判の論拠とする、資本主義と
不変の規模での単純再生産は同居できない、よってこの議論はアイロニー’とする議論と、吉本が
あそこで読んだ視点とは、微妙にずれてる、てところを押さえる必要がある。純理論的に考えれば
、スガのような結論になるのは当然なんだが。しかしあそこに吉本が読んだのは純理論的なこと
とは異なる。じゃあ何を読んだか。あの花田のセンテンスにはただに単純再生産ではなく、尾ひれ
が付いている。正確なセンテンスを今一度抜き出してみよう。
《現代の課題とは、資本制社会の枠内において、まず、いかにしてこの単純再生産の基礎を確立す
るかにあるのだ。》
- 34 :
- 《現代の課題とは、資本制社会の枠内において、まず、いかにしてこの単純再生産の基礎を確立す
るかにあるのだ。》
主:ここに尾ひれを、つまり条件付きで言われているものは、単純再生産そのもの実現性
ではない。じゃあ何が書かれているか、といえば、転向マルクス主義者がファシズム体制
の下で、労働現場で労働者へ の指揮・管理・計画を実施している、そのことの合理化だ
と読んだ。一言で言えばファシズムへ の転向の合理化ということ。しかも重要なのは、『
資本論』の語彙を用い、それが為されている。言い換えればマルクス主義者のまま、それを
行っている。ファシズム体制にマルクス主義者はかように生き永らえる、とでも言いたげ
に。何故なら、ファシズム下に於て、労働者の指揮・管理・労働環境整備まで行っている
、このようにして、ファシズムに協力していると見せながら労働者のために働き、来るべ
き恐慌、革命に備える。それがファシズム下の可能なるコミュニズムなの だ。これが
戦時中の花田の立場だった。しかし吉本の見方はそれを一定認めながらも、にもかかわら
ず、結局ファシズム協力であることに変わりはない、レジスタンスなどではない、とし
た。それが吉本の批判にある《花田の理論はただちにマルクス主義の典型的なファシズム
化である生産力理論に転落した》の意味である。言い換えれば、転向マルクス主義の合理
化に過ぎない、ということ。だから字面だけを追うべきでなく、当時の状況で書かれると
どうなるか、という視点で読まなければいけない。吉本の批判は分からない。スガもそれ
を読めていない。それがスガの花田=吉本論争の意味なのさ。
- 35 :
- 主:32レスさんの話に繋げると、国家共産主義で不変な規模での単純再生産はありえない
、という、これもスガの批判と同じ論理を根拠にしていると見なせる。単純再生産云々は、
あのトマス・モア『ユートピア』に付随して書かれたとも取れるわけで、それが実現でき
るか、ということよりも、あの状況で『ユートピア』に託して転向マルクス主義者が何を
記したか、ということを読むべき。不変な規模での単純再生産は抽象であり、云々というとこ
ろを問題にし続ける限り、吉本の視点、花田のあのエッセイで思わずか意図的か、書いた
ことの背景は問題にされない。つまり戦争体験、転向という軸は掴めないでしょう。あの
論争は掴めない。
客:それとあの論争の軸として、花田において共存してた、マルクス主義と日本ファシズ
ム、ていう問題もある。互換性という。これは論争後の吉本の思想に重要な問いとして
残り、考え続けられたと思うね。60年代以降のマルクス主義の党派性への批判にね。そ
れがファシズムと親近性として捉えられるという問題構成はね。その意味で吉本にとって
重要な論争だったと思うね。
- 36 :
- おもしろく読ませてもらってるけど、普通に書いてくれないか?
吉本の真似しないで。
- 37 :
- 情況への発見 5
主:「面白く読ませていただいてる」というお言葉にお礼を伝えるとともに、まだこれでやらせて
ただきたい。これでないとあんまり調子が出ないというのもあるんですが、この形式というのは
元々吉本が始めたことじゃなく、論敵となった花田清輝が既に50年代初頭にやっていたことでも
あります。例えば全集第5巻冒頭に「ホセの告白」という林達夫批判がありますが、これは対話式
の林達夫批判なわけです。既に花田はここで対話式の批判をやっていました。また、後年、やはり
マルクス研究の大御所廣松渉が著書でやっていたり、最近では吉本主義者の松岡祥男がやってい
ます。というわけで、これは色んな人がやってる。吉本より先に花田もやっている。というわけで、
一つ大目に見ていただきたく存じます。もうしばらくやらせていただきたい。
客:そこでまた始めたいんだけど。そもそもスガ秀実の花田清輝論『砂のペルソナ』(講談社)が
あのとき書かれる背景があったと思う。というのはあの時点は浅田彰をはじめ、西欧現代思想が
翻訳されて、まさに出版されつつある真っ最中で、例えばドウルーズとか、浅田が『構造と力』で紹
介したのより数年遅れて出版された。『アンチ・オイデイプス』が1986年、『千のプラトー』が
1994年、また、ジャック・デリダの場合はそれより早く70年代から日本で出版されていた。で、こ
れらの西欧現代思想というのが、花田清輝再評価に影響したように見えるわけだ。具体的には『
近代日本の批評』で花田を最も高く評価するのが浅田彰なわけで、べた褒めする。他の柄谷、蓮実
に比べてね。
- 38 :
- で、どういう関係があるんだろうと不思議だったんだけど、『千のプラトー』とかを
読むと明らかなのが、同一性にたいする批判が原動力として根本にあって、それは確かに人間に
於ける潜在力としてある、というのは頷けるんだが、D=Gの場合、ほとんど人間は何にでも変身で
きるかのような可能が強固な哲学として考えられている。どのようにでもその場その場で変身は
可能、というのは花田清輝の姿勢と共通するし、また、一連の批評に於ける立場の自在な変更を
裏付ける、アリバイに化した疑いがあるわけだ。立場の自在な変更を可能にする哲学としてね。
浅田彰が花田清輝を高評価する背景にはそういうことがあるんじゃないか。
主:浅田と花田の共通項もあるんじゃないかな。博学で読書家である割りには根本で前衛神話を
払拭できない。浅田の場合は共産党神話というより、知的党派の僧侶、て感じだけど。
客:人間の潜在力としていかようにも変身変更可能とする、格好良く言えば同一性の無化、しかし
思想的言明に転用された場合、いかようにも変更の可能、にもなる。最もこれが露骨に出たのが
2000-2002年の例のNAM事件だったんじゃないか。最後は「俺の言うことに同意しない」という
ことだけである知識人を誹謗し続けダメージを負わせる。また、その知識人が受け持っていた
地域通貨グループメンバーに一斉脱会を勧める、という嫌がらせを始める。
主そこでD-Gの哲学的支柱でもあるニーチェの力への意志よろしく、《真理の標識とは権力意識の
上昇のうちにある》(『権力への意志』no.534)を実践しはじめた。ということにな
- 39 :
- 情況からの発言 6
客:D-Gの哲学を眺めて言えるのは、この哲学では個体にとって、存在の根拠といえるものなど
ない、ということだ。より正確に言えば、存在や現象、有の根拠とは、分子レベルで絶えず動いてお
り、そういうミクロなレベルで、これが根拠、といえるものはない。また人間の潜在力も限界はな
いと言える。人間にとって、行為や発語にとって、根拠とかそうした深いものなのだ。ミクロなレ
ベルでもマクロなレベルでも、また潜在力のレベルでも無限なのだ。そういうことが捉えられな
い学や哲学などが、分かったような顔で、根拠を述べるのである。そこからD-Gのフロイト批判も
出てくる。それはD=Gの哲学からすれば全く必然な批判なわけだ。これはそういう哲学を編み出す
こと自体はどうということもないわけだけど、単に人間の実相とかけ離れてるというだけでね。
しかしこれが党派から党派へ渡り歩く、或いは転向に転向を重ねる、或いは自己保身的な言動に
も根拠を与えるものである。そう機能してしまう可能性を露出させたのが、浅田のような花田
讃歌だと思う。花田には、革命のためになるなら事実と違う嘘など何でもない、むしろ嘘は必要だ
とするその場その場の機会主義の肯定がある。真の革命家は人間的感情などに拘ってはならない
、と言いたげに。後の新左翼にも通じる組織哲学。それは政治的であろうとする、そこに至高の
価値を見い出す限り出てくる哲学なんだけど。浅田が花田を讃える仕方には、D=Gにあるreal
politicsの哲学が露出しちゃってる。そこで浅田と花田が結託した、と取る。
- 40 :
- >>26
ちょっと流れを切って申し訳ないが、せっかくだから少し質問させて欲しい。
ただ知識のない自分は質問するだけで、とくに感想とかはレスしない(できない)と思うのでその点は御容赦。
ただ再質問をしつこくするときはあるかもしれないけど、併せて御容赦。
吉本への風説?で一番関心が持たれているのは原発とオウムだと思う。
原発に関する吉本の関心のあり方は
1.技術的な進歩は止められない
2.発展過程での犠牲は大きな意味でやむをえないが、人間はそこからそれを克服する技術を開発していくものだ
3.技術の発達をとめるのは人間を猿に戻そうとするような自然に反する考え方だ
オウムに関しては
1.麻原は非常にすぐれた宗教家だ
2.オウムの若い人たちは真剣に自分と社会を見つめた人たちで、すぐれた宗教家である麻原に帰依した
3.テロ事件は必ずしも麻原が指示したかどうかわからない
こんな風に思ってるんだけど、違ってたり、付け加えたりするところはあるかな?
- 41 :
- 情況からの発言 7
客:40レスさんから質問が来てるんだけど、原発問題とオウム問題とに関して、この理解で良いの
か、という。
主:この方はよくフォローしてると思うし、ごく大雑把にいえばこれでいいんじゃないですか?
とも言えるんだけど、折角だからここで俺とかの読み方を重ねていきたいとも思うんだけど。ま
ず、オウムというか、麻原の悪について述べる前に、吉本の心的現象論の核となってる特徴につい
てやるのがいいんじゃないかと思う。どういうことかというと、これは当初は言われてなくて、
本でいうと『心とは何か 心的現象論入門』ていうのが2001年に出て、これは心的現象論に関連し
た講演が本になったもので、俺が心的現象論に関する最終的立場ではないかと注目するのが、そ
にある講演「「受け身」の精神病理について」というものだ。これは多分『50度の講演』にも入ってた
と思うんだけど。最初読んだとき難しくて解らなかった。ただ、ポイントだけはだんだん解ってき
た。それは何だというと、ここで吉本が立っている心的現象の立場では、生誕から児、小児、幼
児、児童、思春期、成人、熟年、老年、死、といった、個体の、個人の精神の現成と、共同体の初源、
部族社会、原始国家、様々な時代を経た近代国家、現代国家、高度産業時代の国家、いずれ訪れる
国家の死。つまり個人史としての歴史と、共同体の歴史と、パラレルにあって、それらは一個の
個人に於て、同居し。絡み合っている。『心的現象論 本論』でも、後半の「原了解以前」の中に出てき
ますね。で、どういうことになるかというと、個体の精神異常は、受精以降に母親(世界)とのコ
ミュニケーションで受けた傷、憎悪や偽りの感受、が何らかの切っ掛けで抑圧から遊離して現成
するもの。であると同時に、未開の共同体で人間が持っていた感覚や精神の現成でもある。となる。
- 42 :
- 実際の吉本の発言では以下のように言われている。
《だから、精神異常というのは、そうとばかり(異常とばかり)いうと問題なのです。しかし、胎児・
児の間に体験したことのないことをやる精神異常者はいないのです。また歴史的にいえば、
未開・原始の時代に人間が考えたり行動しなかったりしたこと以外の振る舞いを描写することは
ありえません。全部昔やったことです。あるいは、自分がやったことでなければ、人間が歴史の
未開・原始の時代にやったことに退化して帰っていると考えたほうが考えやすいのです。》(『吉本
隆明資料集113 p.111)
大雑把に言えば、人間が胎児・児期の内コミュニケーションでスムーズに行かず、欠損を負い
、思春期とかにある切っ掛けでその欠損が病態‐妄想、幻覚、解離など‐となって出てきた場合、そ
の異常は歴史的に未開の共同体の精神に帰っている、と考えられる、ということだと思う。酒鬼薔
薇に対しても、内コミュニケーションが円滑でなかったことが殺傷の欲望になったわけで、しか
しそれはまた、未開の共同体での供犠をも表している。麻原へは個人幻想の問題は問わず、専ら
宗教思想として語るわけだけど、供犠という側面、現在の市民的善悪の先まで行ったのではない
か、また、最も精神の最深部に行ったのではないか、という読み方を『宗教の最後の姿』で披露して
いる。人類史の未知の段階と、未開の段階との、双方向にまたがる問題をそこに見ていた。
- 43 :
- 情況からの発言 8
客:ここでついでといっては失礼だけども、スガの『花田清輝 砂のペルソナ』(講談社)でやはり
花田の論争として取り上げられた『近代文学』派との、革命と人間性との対立をめぐる論争、いわ
ゆるモラリスト論争でのスガの言い分もちょいと見てみたらどうかと思う。この論争での花田の
言い分は例えば論争で書かれた次のような考えによく表れてる。
《わたしは、科学的に基礎づけられてない「神」の、「人類」の、「自己の良心」の掟を、いささかも信じ
ることはできないのである。》(世の中に歎きあり」)
こういう考えが『近代文学』派と論争になったというのは頷けるところはある。人間性というの
を軽視されてる気がするからね。そこでこの論争の後半で発表されたのが埴谷雄高の有名なエッ
セイ「永久革命者の悲哀」だった。これは本来は階級消滅を担うはずの前衛党の内部で、実は敵と
は異なるがやはり組織の内部で、また組織の内と外で、階級ヒエラルキーが存在していることを
したエッセイだ。《未来の無階級社会からの派遣者として感じている》彼の視点から前衛党や
そこでの偶像崇拝をしている。奇妙なのはこの論へのスガの批判だ。
《矛盾のない統御された「無階級社会」は、革命家が存在として死んだ後もその眼差しによって
支配されることで、矛盾を生み出さぬ統御された社会たりうるのであって、そこにおいてその眼
差しが権力でなくて何であろうか。》(『砂のペルソナ』p.148)
と言うんだけど、そういう大義名分を装い内実は全然ちがうような、ソビエト社会主義のような
国家や党をあらゆる階級、権力の消滅した未来の無階級社会という架空から眺め、絶えざる否定
を行い、抗議するのが埴谷のいう永久革命者じゃないか。何でこう読めないでいて、しかもあたか
も何でもないかのように批判が書けるのか、わけがわからん。
- 44 :
- 主:まあ簡単な話で埴谷のあれだけ鮮明に論理的に打ち出した論旨を故意に読まなかったか、あ
るいは読めなかったのか。前者なら下らぬ歪曲、政治的意図のもとに為されたね。後者なら文芸
批評家として完全な失格あつかいだ。まあ実際には前者だろうと思うけども。
客:ところがこれがここで終わらないのがまたくだらなさの上塗りで。実は似たり寄ったりの
埴谷批判を今や世界的思想家の柄谷までやっていた。それが以下の文だ。
《昔、埴谷批判をやったときに、考えたことがあって、一つは、永久革命者のように、無限遠点に
完全な社会というものを置いて、そこから現在を見ることへの批判ですね。これはたしかにスター
リニズムを批判できるけれど、しかしスターリニズムを生み出すのは、まさに、そういう無限に
先に延ばすということだ、と思うんですよ。今は仕様がない、ということになる。だから、スターリ
ニズムの根拠も結局、無限遠点にあると思います。》(『ダイアローグ V』p.84)
吉本のこの頃の用語を使ってたり、論理的なので、気を付けないとなるほど、と頷きそうな感もあ
るがw、とんでもない。柄谷が鋭利な頭脳で解釈したのとは違い、まさにここで言われてる、‘今は
前衛党に、また社会主義国家に、階級があっても仕様がない’とするような、正当化を撃つことを
訴えたのが埴谷の先のエッセイの本質さ。こいつも全然読めてなかったんだなあ、と思い、唖然
させられるだろう。これも文芸批評家の端くれなんだからなあ。
主:柄谷は無理やり自分の作った図式に嵌め込む悪癖がある。これも故意か不用意かはわからん
けど。どっちにせよひどいもんだよ。
- 45 :
- >>41 >>42
ありがとうございます。
でも、難しいですね。
〈主客〉さんの指摘は
1.麻原とかオウムの信者たちにはある種の精神的な異常さがある
2.オウムの行為は市民的善悪の先まで行ったし精神の最深部まで行った結果だ
3.それは人間の原始的な心と現代的な不安に根拠がある
こんなふうに読んでみたのですが、訂正してください。
- 46 :
- 情況からの発言 9
主:45レスさんの質問の答える意味合いもあるんだけど、40レスに答えた内容を更に補足したい
気もあるので、前に40レスに答えたことをまた言い直すことをやってみたい。その前に、45レス
さんの1-3は、これもとてもよく掴んだ理解だと思います。ただ、1で麻原とオウムの信者、ていう
ところ。あそこを単に麻原、と言い換えた方が良いだろう。麻原とオウムの信者は修行のレベルも
違うと思えるのと、一連の犯罪は麻原の指令、とひとまず考えていいと思うこと。それがあそこを
単に麻原と言い換えてよいと思える理由です。
で、先に私が書いた、酒鬼薔薇事件、オウム事件への吉本の解釈というのは、心的現象論を基底
にしている、というのを、更に敷延したいと思ったのは、オウム事件への、というより麻原の思想
への吉本の評価というのは、これは二つの領域で捉えている、と思える。一つは最も吉本が語った
、親鸞の造悪論との関連ですね。で、もう一つ実はあって、それがいわゆる心的現象論との関連だ
ろう。前者についてはよく言われたので吉本の麻原解釈として知られているが、後者は『だいたい
で、いいじゃない。』でそれこそ大体にw言われているので、注目されない。しかし、実はそこでも
捉えられている。それは言えるんじゃないか。言い直せば麻原の個人幻想の問題。何らかの精神
の基層での荒れが、内向した末に未開の層まで後退し、現成した。しかし同時にそれは、歴史にお
ける高次の善悪の場所暗喩している。これは酒鬼薔薇事件の評価でもありますが、これを麻原の
サリン事件に適用してもよいと考えていたんじゃないか。
- 47 :
- 俺から見て、そこで酒鬼薔薇事件と、サリン事件が同一の線上で論じられる視点があったんじゃ
、て思えるんですね。で、この場所というのが、現在の凶悪事件について言われるべき、実は最重要
点ではないか。それが吉本の場合、かなり克明なイメージで掴まれていた。この特徴とは、個人幻
想の問題、吉本の語彙でいう心的現象の問題、別の言い方をすれば世界が信じきれない心が社会
システムの中で自閉していき、解消されないまま世界を退化(拒否)していく様相、を掴んでいる。
その意味でやっぱり優れた見識だろうと。酒鬼薔薇にたいしても、根本に母親の誤った育児、否定
を刷り込んで、しかも成長してから厳格な態度で子供に対していた。行き場がなくて当然。母親が
建前の家庭や育児を止めなかったのが根本の原因で、おかしくさせた原因、と『超「20世紀論」』で
言ってますね。そこには紋切り型になるけど、個人幻想、対幻想、共同幻想という違う軸で考察さ
れる課題がある、てことだと思うんですね。
- 48 :
- 情況からの謝罪
客:おい。前のレスで君はこう言っているな。
>言い直せば麻原の個人幻想の問題。何らかの精神の基層での荒れが、内向した末に未開の層ま
で後退し、現成した。しかし同時にそれは、歴史における高次の善悪の場所暗喩している。これは
酒鬼薔薇事件の評価でもありますが、これを麻原のサリン事件に適用してもよいと考えていたん
じゃないか。
これ、そこまでは麻原については言ってないだろ。吉本の理論を使った君の解釈というなら別だ
けどな。当の吉本は実は言ってないぞ。『だいたいで、いいじゃない。』の中でも。訂正しておくの
が筋だろう。実際とは違うって。
主:そうか?そんなはずないだろが。ちょっと待て。……言ってないなあw言ってると思ったが、俺の
読み違いだなあ。でも言ってもおかしくないだろ。
客:でも言ってないぞ。まずいぞ。真面目な若者に嘘を伝えちゃあ。
主:そうだ。改めて申し上げます。麻原の個体幻想というところまでは吉本はサリン事件などと
直接関わらせて語ってはおりません。よって、先のレスの話は訂正します。あくまでも私が感じ
取った麻原。ということなので、そのように受け取り下さい。私自身はその可能性は捨てられない
、と考えている、ということです。しかし、吉本の考えではありません。もちろん吉本のような、
麻原の個体幻想と関わりなくサリン事件等を読み解く方法、宗教思想としてのみ捉える思索も、
もちろん可能性は高いし、尊重しております。そのように受け取り下さい。私自身は両方考えて
おります。宜しくお願いします。m(__)m
- 49 :
- >>46->>48
本当に丁寧にありがとうございます。
とても勉強になりました。
とくに麻原自身と信者の違いについての指摘は参考になりました。
麻原個人、特定の宗教、宗教一般の問題として考えてみます。
流れを切って申し訳ありませんでした。
本題を楽しみにしています。
- 50 :
- 情況からの発言 10
客:レス49さんの問いかけから思わぬ展開になった。君の吉本への読み違いも分かった。君から
そこで、吉本と君の麻原解釈の違いも浮き彫りになってきた。そこでそこをもうちょっと展開し
ようじゃないか。吉本の見解では、麻原の造悪というのは、あくまでもその教義から、ということ
がその特徴になる。で、実は麻原の無意識、個体幻想というところも、一応触れてはいる。それは
『超「20世紀論」上』の214-215頁でインタビュアーの田近伸和に答える形で語られている。母親と
の関係の失敗、否定を刷り込まれたこととの関連性もインタビュアーが尋ねている。
田近 それにしても、麻原の尊大な振る舞いは、人格を疑わせるのに十分なところがあります。麻
原を見て、「育ちが悪い」と思われることはないですか?母親が自分の子供を育てるにあたって、
胎児のときを含む一歳未満までの時期に悪い育て方をすると、それが子供の無意識の形成に悪い
影響を与え、子供の情緒障害など精神の異常が生じる恐れがあるということを、“酒鬼薔薇事件”
などを論じられたときにも指摘されていましたが?
吉本 そう思ったりすることは、あります。麻原を見て、「お前、人相が悪いぜ」って思ったりしまし
た。「この野郎!」と思うところは、たくさんありますよ。でも、宗教というのは、この手の性格的
欠陥については、自分を克服するということが修行のうちに入るわけで、その点は麻原も、ある
程度はやってきているんだろうなとは思います。それでも、ときとして、“地肌がむき出しになる”
ところが、麻原にはあるんだろうと思います。本当は、宗教的高さと、人格的高さとが一致しない
といけないんですけどね。
- 51 :
- 情況からの発言 10
客:レス49さんの問いかけから思わぬ展開になった。君の吉本への読み違いも分かった。君から
そこで、吉本と君の麻原解釈の違いも浮き彫りになってきた。そこでそこをもうちょっと展開し
ようじゃないか。吉本の見解では、麻原の造悪というのは、あくまでもその教義から、ということ
がその特徴になる。で、実は麻原の無意識、個体幻想というところも、一応触れてはいる。それは
『超「20世紀論」上』の214-215頁でインタビュアーの田近伸和に答える形で語られている。母親と
の関係の失敗、否定を刷り込まれたこととの関連性もインタビュアーが尋ねている。
田近 それにしても、麻原の尊大な振る舞いは、人格を疑わせるのに十分なところがあります。麻
原を見て、「育ちが悪い」と思われることはないですか?母親が自分の子供を育てるにあたって、
胎児のときを含む一歳未満までの時期に悪い育て方をすると、それが子供の無意識の形成に悪い
影響を与え、子供の情緒障害など精神の異常が生じる恐れがあるということを、“酒鬼薔薇事件”
などを論じられたときにも指摘されていましたが?
吉本 そう思ったりすることは、あります。麻原を見て、「お前、人相が悪いぜ」って思ったりしまし
た。「この野郎!」と思うところは、たくさんありますよ。でも、宗教というのは、この手の性格的
欠陥については、自分を克服するということが修行のうちに入るわけで、その点は麻原も、ある
程度はやってきているんだろうなとは思います。それでも、ときとして、“地肌がむき出しになる”
ところが、麻原にはあるんだろうと思います。本当は、宗教的高さと、人格的高さとが一致しない
といけないんですけどね。
- 52 :
- 主:それについて考える前に、吉本は同じ『超「20世紀論」上』の中で、麻原の指示によって、地下鉄
サリン事件が起きた、と断定される証拠は今のところ出ていない、と198頁で話しているのけど、
『オウム「教祖」法廷全記録 1』(現代書館)にある1996.12.6の杉本信者の証言によると、杉本は
この時、サリン散布実行役を運ぶクルマの運転手だったが、コトが終わった後、麻原に会ったとき
、「これはポアだからな、分かるな」と云われ、マントラを1万回唱えるよう指示されている。また、
1996.11.21法廷では、実行犯の広瀬信者は、やはり実行後に麻原に会い、そこで「偉大なるグル、
シバ大神、すべての真理勝者にポアされてよかったね“」というマントラを1万回唱えるよう指示
されえている。いずれも実行は麻原からの直接でなく村井から指示されて麻原の指示と思った、
とか、ジェスチャーで上からと暗に仄めかされたり、とそこが曖昧といえばそうなんだけど、実行
後の麻原との面談ではいずれも、これはグルや真理勝者に代わってポアしたこと、それを「よか
った」と唱えることが指示されている。少なくとも思想的にはサリン散布は麻原のもの、というこ
とは出来る。裁判手続きとは別に。
- 53 :
- それで、『超「20世紀論」上』での麻原の個人幻想への言及。胎児児期に傷や否定を受けたとし
ても、その無意識の荒れは修行で克服されるはず、と語っている。確かに麻原のヨーガ教義での
修行とは、自己の内的経歴を遡行し、何が起こったかを見定め、認識し、その業(カルマ)を取り
除くことが重要な段階としてある。そうやってどんどん受精や前世までも遡行する。そうやって
真我(マハーニルヴァーナ)に到達。最終解脱に到り、そこからまた現世の自分に戻ったり、自己
という精神の容器に、一切の業から解放された自己を創造できる、となる。それが絶対自由だと。
それは分かるんだが、そこで、にもかかわらず麻原の後期において、サリン散布の根底に
もある図式。そこに、世界に受けた無意識の否定を世界に贈与する、という心性は映って
いると見えるんだ。そこで、個人幻想、対幻想、 共同幻想の複合、というのは麻原のの分
析として、除外されずに残ると思える。そこは吉本さんのやっている解釈とは若干違って
しまうんだけど。
- 54 :
- 情況からの発言 11
客:君の話は面白いんだけど、麻原から多くの人が感じる一般社会への敵対心を深読みしてるきら
いもあるね。それが少年犯罪のような。母子関係で受けた否定が内向し、云々、というところと接続
するのはどうかと思う。少なくとも以前TVに出演したときの麻原からは、無意識の荒れとかは
そんなに感じられなかった。笑顔も明るいよ。自信に満ちてね。吉本の言うようにたとえ母子関係
で受けた否定があったにせよ、修行で克服している筈。と見るのが妥当だと、90年代初頭にTVなど
に出てきていたあの姿からは感ずるんだけど。むしろ、関係がありそうだとすれば、数年前に起きて
今裁判で話題になっている、交際相手連続殺人事件、仮にあれが嫌疑の通り、木嶋香苗被告のや
ったことだとしたら、あの落ち着きぶり、面倒くさくなると即殺傷する手軽さ、安易さ、あの異様さ
が麻原と直結してる気がする。あの底無し感がね。もしも、木嶋や麻原への嫌疑通り、彼らが行為や
指示しての犯罪だとすれば、その場合、無意識を勘定に入れた場合、どんな人間にもある生誕の
病、傷が解消されずに結果、発露したのだと解釈されるし、彼らに固有な現象ではない、特殊な
例ではないことになる。そこで麻原の無意識を、捉えるなら捉えることは可能だと思う。しかし
同時に麻原の行為を特殊と見なさないことにもなる。
- 55 :
- 主:なるほど。麻原の場合、優れた修行者で、内面の経歴における病を治癒させることが
むしろ専門なわけだからそこで少年犯罪のような、無意識の傷をあげることは難しい。そ
うなる。だからこそ、そこで宗教的問題、造悪論というのが問われてくる。そういう立論
になるわけだ。だからこそ宗教思想的問題になってくる。それが麻原の特徴だといえる。
また、少年犯罪やその他の凶悪犯罪のようには、内面性の問題が吉本の分析では出てこ
ない。そこが特徴になる。内面の問題は麻原の場合にはクリアされていると見ているとい
うことだな。難しいな。
- 56 :
- 麻原に関しては少年期の盲学校における優越感(障害は軽い方だった)と
実社会における劣等感(障害以外に、初期の宗教活動に関して非科学的
だとして取り調べでよくいじめられていた)との二重性が彼を怪物にした
という指摘が若手精神科医?からあった。朝生だったかな?
ただし障害者への差別を遠慮したのかマスコミでこうした指摘はあまり
展開されなかった。
これらに無理矢理吉本のタームをあてはめるなら、
共同幻想(宗教)とそれに逆立するべき自己幻想(ロボットによる支配を麻原は夢見た)
が構造的に癒着したままだと言うことが指摘できるだろう。
そこに対幻想(女弟子との関係)も融合してしまっていた。
『共同幻想論』で活用されたフロイト的無意識の構造とマルクスの社会学的分析
が必要だということで、ここに吉本の活躍する素材であったと思うが、吉本の宗
教観(親鸞には詳しいが密教には疎かった)がかえって邪魔したと思う。
宗教者としての麻原には仏教(脱神秘主義)とチベッツ密教(神秘主義)の混交、
混同を指摘できると思う。
- 57 :
- オウム真理教団が一般社会を敵視するつもりは最初はなかったんじゃないか?
彼らは純粋に一般社会が敷いた生活のレールに乗ることをリベラルな選好として拒否した可能性がある。
それに対して敵対心を最初に抱いたのは一般社会のほうだった。そして排除行動に出た。
それが教団と一般社会とが関係として敵対的に、つまり相対的に反社会関係に入った原因だったのでは?
- 58 :
- そうだとしてもサリンを撒くことを許容できる理由にはならない。
多かれ少なかれ宗教は「一般社会」と緊張関係にあるでしょう。
- 59 :
- 「許容されるか」はすでに一方が他方を許容するということであって、
けっきょくのところ、権力をもっている側が許容するという話にしかならない。
つまり、一方が他方の存在を消そうとしたとき、他方は一方の存在を消そうとするだろう。
- 60 :
- そりゃそうだ。あくまで日本の法令の範囲内で「許容される」。
それを超えると排除される。
だから、多くの新宗教、新新宗教のように存在したいのであれば世俗の権力と妥協する他ない。
- 61 :
- >>60
しかしオウム真理教は日本から国家として独立しようとした。だから排除ではなく潰されたのではないか?
排除だったのなら、彼らを自由にさせてやればよかったのだよ。
- 62 :
- 独立する事自体が国家存立の罪ですよ。
首謀者は当然死刑で犯罪中の犯罪だと刑法に規定されている。
国家が自由にさせるわけない。
- 63 :
- その意味では、たしかに権力争いだったのだし、勝った側が裁いたということかもしれない。
- 64 :
- 主:同じ凶悪犯罪でも、吉本の手付きというのは、腑分けするよね。行為の構造が違う、という風に
。『だいたいで、いいじゃない。』では、それに止まらず「殺しのperspective(遠近法)としては皆
入ってくる」つまり、宮崎勤も、オウムも、酒鬼薔薇も、皆入ってくる。人類の最も古い精神の層と、
最も未知の層とが両方入ってくる。そう纏めている。それにもう一個、共通点を当てていいんじゃ
ないかと思えるのが、これらの凶悪犯罪が、いずれも現在の社会、もっと言えば価値法則と言って
もいいと思うけども、そこからの離脱、解放、拒絶を含んでいる。それが結局〈底無し〉を暗喩して
いる、とも言い換えられるけど。吉本はそこまでは遠慮して言ってないと思うんだけどね。本当は
それは感じてたんじゃないか。つまり〈外部〉というのが、今やそういうところにしかない。それは
あれらの犯罪から、漂ってくるものだ。ただ、それは問題発言過ぎるし、言ってないと思うけども
。「麻原は浄土に最も遠いと同時に最も近い」というのも、〈外〉というのを意識した発言だよね。麻
原の思想を造悪論と呼ぶのも。凶悪犯罪の〈底無し〉を〈価値法則の外部〉とするのは公的には言い
難いことだったんだろうが。「オウムによって、かつての左翼は乗り越えられた」と言ったのはその
ことだったんじゃ、と思えるんだよ。麻原の凄さを最も吉本が物語るのが造悪論だから。何がそこ
で言いたかったか、はそこにしか〈外〉はない場所を暗喩した。異なる犯罪が、収斂する場所がある
としたら、〈外〉ということじゃないか。価値の〈外〉、理性の〈外〉という。
ったんだろうが。
- 65 :
- >>51->>55
質問ばかりで申し訳ありません。
ちょっとピント外れかとは思いますが、よろしくお願いします。
「心が荒れている」ことに対して胎児から1歳程度のとくに母親との関係に原因を求めているところがあるようですが、遺伝には求めないのでしょうか?
身体的には遺伝的な要素は非常に大きいと思いますが、精神(脳)的には小さいと考えられているのでしょうか?
双子ですら「心の荒れ方」が同じであることの方がまれな気がするし、母親に責任を押し付けるようで感情的にはしっくりきません。
遺伝の方がゆるい分だけ本人に原因を求めやすいので少し納得しやすい気がします。
- 66 :
- 情況からの発言 12
主:どうも色んな人が書き込んで、結構なことだけど、ちょっと言いたいこともあるのでここは
65の質問者さんに答えると、遺伝というのは「無意識の荒れ」ということとは無関係だと思います
。少なくとも精神医学の遺伝的発病とかの説には、全く取り上げる価値は認めてなかったと思い
ます。遺伝的発病と見えても、無意識の形成期に経験した経歴がその動因になってると思ってい
た、と。
それと、麻原についての、吉本さんの説を再確認し、また、君(客)から、無意識の誘因があったと
しても、それは誰にも生誕時の傷、神経症としてあるものだろう、という説があった。それらを俯瞰
して、改めて思うのは、やはり何らかの無意識の欠損、それはたしかに誰にも残る生誕の心的外傷
かもしれないし、それは否定しない。しかし、俺の感じからは、そういった心的外傷が麻原にあっ
て、それが修行によっても解消されぬまま残像としてあり、底無しの欲望として現成した。という
説を取る。それが自分にとって、最もリアルに見えるんだね。吉本の問題意識‐造悪論‐も視野に
入れているが、それは吉本によって展開されているからね。あと、〈底無しの欲望〉と〈悪〉というの
はどこかで重なる気がするんだ。
客:いんじゃねえか。それはそれで。あと、このスレでよく出てるネタで、吉本関連の雑誌特集の
情報、てあるんだけど。『週刊読書人』2012.4.6号に「吉本隆明追悼」と題して大塚英志・宮台真司
対談を3頁にわたって掲載している。この新聞は対談は多いが、3頁にわたってというのは殆んど
ない。異例の扱いだと言える。
- 67 :
- >>66
ありがとうございました。
これで質問は終わりです。
- 68 :
- 客:この大塚・宮台対談について、何かあるかい?
主:まあ、そんなにない。ただ、80年代以降に吉本思想の限界のように言われてきた、大衆の消滅、
吉本さんの本で論拠としてあった大衆などはもう居ない。というのがこの対談でも既成事実のよ
うに持ち出されているので、そこだけは触れておきたい気がするな。この対談での言われ方でもそ
うなんだけど、大衆というのをまだ固定的、もしくは観念的に捉え過ぎているきらいがあるんだ。
生活水準も、生活形態も、吉本が提起した60年代とは変わって当然なんだけど。にも拘わらず、知
や価値、システムの空隙としての大衆の原像というのは、有効に思えるんだね。例えば宮台真司が
自分の仕事で大学で講義したり、本書いたり、対談したり、論文書いてたりするでしょ。これが仮
に9-12時間だとして、じゃああとの時間は何をしてるかといえば、簡単な話で。朝起きて顔洗い、
奥さんと世間話し、出かけ、仕事し、昼飯食べてまた仕事。終われば家に帰り、奥さんとまた歓談。
飯食べて、テレビ見て、その間兄弟から祖父の法事の話があったり、家の住宅ローンがあと何年で
終わるかの相談を奥さんとしたり、友達からの電話で今度飲みに行く約束したり、で、明日に備え
準備してからおやすみする。それが15/24時間だとすると、それは何だろうといえば、早い話が
大衆としての自己だろう。それが15/24時がそうなわけだ。。
- 69 :
-
それって、大衆は消滅した、ていう話
を裏切っているわけよ。自己における大衆がね。ことほどいい加減な、また簡単な話なわけだ。仮
に現代人としての引きこもりとかを例にしても、家から一歩も出ずに生活してる人間が、どこか
から生活資金を援助されたり、或いは調達されたりしているのは自明で、でなきゃ生きていけない
のだから。また、何も食わずにいるわけはなく、食事もしている。どこかから資金が来てたり、どこ
かに貯まってたりして可能な生活だよ。ただ、それを意識せずにひとまず済んでいる、というだけ
のことでね。宮台は理知的だし、話も理路整然としてるし、こういう人間を例にとると余計分かり
易いんだが、大衆の原像などもうない、と理路整然と喋っている当人が15/24時間は大衆である。
それを忘れちゃいかんだろうと思うね。ただ、生活水準が上がった。選択の幅が広がった
。文盲がいなくなった。道路工事のおじさんでも若手芸人の話で笑えるようになった。と
かね。メディアの浸透による効果もある。しかし、そういう変化をもって、大衆はいなく
なった。大衆の原像は無効、というのは実相を外してるし、また思想の有効性をも外してる
議論だと思うね。
- 70 :
- 宮台とかが吉本存命中から言ってた批判で、成熟社会到来後、隣は何をする人ぞ。ということにな
り、近所付き合いもなくなり、大衆的コミュニケーションは崩壊した。というのがある。確かにそ
ういう、近所付き合いとかがなくなり、というのは住居は流動化してるし、隣の部屋に住んでる人
がいつの間に居なくなっていた。というのも多い。ただ、大衆のそういった変化をもって、大衆的
前提の消滅、とか言ってしまうのは尚早だ。仕事、生活の関係する範囲でしか知的にならず、また、
動こうともしない、というのが大衆の原像だが、これはいまだに強固に社会性を持ってる。宮台の
挙げてる例とかは大衆の生存の歴史的変遷ではあるけど、大衆の原像は通用しなくなった、とま
ではとても言えないんじゃないか。朝晩の通勤電車に宮台は揺られたことがないのかな。そこで
目の前にいる人波、ガヤガヤ話している人間たちを見て感じるのは、大衆だなあ、てことだ。自家
用車でばかり移動してこういう通勤電車の光景とか見てないんじゃないかね。フィールドワーク
が専門の筈だが、誰と話してるのか。疑問視するよ。あともう一つ。宮台はフーコーの理論。あらゆ
る発話はシステムの産物。を挙げて、吉本がこれをフーコーから読み取らず、衝撃だったと言うが
、対談の中でフーコーさんの方法は言語から意味を抜いていく方法、と纏め、宮台の言うようには
外してはいない。それだけでなく、意志論の重要性をぶつけて、意志論というのは実は幻想論の
言い換えだと思うが、これをぶつけて、応答をさせている。これらはフーコーの方法を纏めた上
で、そこに足りないものを感じて提起したのと同じであり、フーコーとの色んな対論がその後翻訳
されたが、その中に入れても核心的な内容だといまだに思える。宮台の批評には同意できないね。
- 71 :
- 大衆的コミュニケーションというのはむしろ現代のマスメディアや
学校教育の発達による産物ではないだろうか。
それから「近所づきあい」が希薄になったのが本当だとしても、
それはべつの親密性に置き換わってきていて、吉本さんも指摘するように、
むしろ現代ではコミュニケーションが過剰になってきている。
「ひきこもり」を大規模に問題にするほど「引っぱり出し」
コミュニケーション圧力が高まっている時代でもある。
- 72 :
- オウムのときの思ったのはテロとは何だろうということ。
近年だとイスラム原理主義が、と言われることが多いね。
昔なら革命はもとより、十字軍、魔女狩りなんてのも一種のテロじゃないの?
列強の植民地政策やアメリカの奴隷狩りは政治的じゃないかもしれないな。
アメリカ国内での黒人虐殺は政治的な要素があるだろうね。
ゲリラ戦となったベトナム戦争。
各国の諜報、暗殺、謀略。
日本では古くは一揆、新しいところで帝銀事件、下山事件、赤軍関係事件等なんかもテロかもしれない。
国家間の戦争はどうなんだろうね?
テロの本質をどう考えて、オウムをどう位置づけるのかな?
- 73 :
- オウムは実質的に内乱罪なんだけど、立証が難しいので見送られた。
- 74 :
- 客:71レスさんの『引きこもれ』の話に納得しながら続けよう。
主:この大塚との対談で宮台が言ってることでもう一つ印象的なのが、サルトルとフーコーとの
論争、〈サルトル的な主体はシステムの歴史的な産物〉を挙げたり、〈合理性を貫徹させると非合理
性が導き出される〉とったポストモダン哲学を引用し、吉本がポストモダン哲学に詳しくなかった
と言ってること箇所がある。詳しくなかったというよりも、そういった学問的知の暢気さには
付き合う余裕も気持ちもなかった、というのが本当だろう。そもそもフーコーとサルトルの論争
として宮台が挙げている主体というのはサルトル的には自己に対し非共犯的にその内実を透視で
きる神のような存在だし、全世界で起きることに有責だとする政治的存在。フーコーの方はシス
テムが変わればそれも変わる、これも角度は違うが人間性が内実などないことを前提にするよう
なものでリアルでないことでは同じ。何でもいが例えば精神病が『存在と無』を読んで回復するか
といえばそんなことにはならない。ひたすら焦るだけでね。じゃあフーコーのシステム論では何が
分かるかといえば、精々精神病隔離や病院の歴史が解読されるのが精一杯で、どうしてこんな
病気になったか、何も教えてはくれない。精神病自体については何も教えてはくれない。
- 75 :
- 結局個体幻想の在り方として、フランス現代思想が、色んな仕事をやりはしたものの、
リアルな存在ではない身軽な存在を人間として前提し続けた。その帰結が浅田であり、
浅田ほど露骨ではないが宮台もその影響が伺える。山本哲士が吉本の提起した人間は
実際存在 pratique で、「かく存在する」に定位していた。と吉本の生前から評価してた
が、その通りなんで、いくらでも変更変身可能で、内面的経歴も持たない、幽霊のような、
或はジョン・カーペンターのSFホラー「遊星からの物体X」に出てくる、細胞合体して誰に
でも変身してしまう、宇宙生物とも違う、リアリティーを無くさなかった。サルトルも
フーコーも晩年は思想的立場を変更するようになるが、少なくとも初期のサルトルや
フーコーでは人間存在のリアルさという点で欠陥があるし、少なくともそれを以て生身
の人間など解読はできない。吉本の個体幻想論と存在の深度では問題にならない。話を
ポストモダン哲学に戻すと、吉本にとっては最初からまともに格闘するものでは最初か
らなかった。フーコーとの対論がフーコーに相手にされなかったとか言ってる人間も
いるようだが、吉本の方でも何とか自分と関係つけたのがあの対論で、マルクスの読解や
意志論の提起とは、結局フーコーに描けており、議論のリアルさをなくしてると思える
ものに他ならない。吉本から見るとフーコーの思想も、確かに評価はしてたがそこでの
人間存在はリアルさはないと感じてたと思う。フーコーは機能主義とも言っていた。
- 76 :
- 客:ただフーコーを擁護すると、元々フーコーの思想は存在の内実を詰めるのではなく、存在が
主体化される構造を詰めるところにあった。そこで病院や隔離、監視と処罰、というところに
向いていく必然がある。マルクス主義を始末した手付きもそうだった。その主体化というところ
で吉本はフーコーの仕事の重要性を意識してたとも思うよ。ただ、存在や個体幻想の構造とかには
タッチはしないので、そこで不満を感じる向きも出てくるかもしれないけども。たしかフーコーの
言う権力の空隙として平民があり、それを吉本は大衆の原像との類似を感じて評価してたことが
ある。少なくとも〈主体と権力〉という問題では吉本とも共通点はあったと思う。当然同一の思想で
はないにせよね。
- 77 :
- 誰が誰を評価したの評価しないのと、いつまでも飽きないやつだ。
自分の考えはないのかい。情報屋的傍観者だな。
- 78 :
- 主:ああ、なるほどね。フーコーの主題は元々、ある時代の知によって新たに分割され、
意味されていく人間なわけだから。しかしそれはシステムが人間を生むのとはかなり
違うけど。宮台が引用してるテキストでの言い方が問題だ。それと、フーコーに吉本が、
対談の後で書簡を送ったが話が通じずに文通は成功しなかった、という逸話があるでしょ
。あれ、確か道元のことを吉本が書いたとか。何で道元か誰も分からなかったと思うが、
道元の『正法源蔵』というのはsein und zeitと同じ意味である「有と時」という言葉が
ある。もしかしたら、フーコーが権力との関連で書いてる主体とは違う人間、個体という
のを提起した可能性がある。だけど翻訳した人間もそこまでは読めなかったろうし、
そこも不運だったと思うよ。その後フーコーはフーコーでパレーシアという新たな主体
の概念を思索しているわけで、新しい主体概念という考えには興味があったはずだ。
- 79 :
- 327 名前:吾輩は名無しである :2012/04/13(金) 18:44:38.92
週刊読書人 2012年4月13日号(8頁)
出版社: 株式会社読書人 発行間隔: 週刊
大西巨人氏に聞く
「吉本隆明君のこと」
http://www.zasshi-online.com/Search/ProductList?page=1&sort=1&skey=%E9%80%B1%E5%88%8A%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E4%BA%BA&stype=0&sbn=0
- 80 :
- 客:79レスさんが貴重な情報を書き込みしてくれている。『週刊読書人』最新号インタビューで
大西巨人が吉本のことを話しているらしい。いずれ読まなきゃね。で、君はまだフーコーと吉本の
ことを話したいみたいだけど?
主:思い出したことがあるんだけどね。1980年に文芸雑誌『海』で吉本は蓮実重彦と一度だけ対談
してるだろ。「批評にとって作品とは何か」。蓮実はここで作品というものを作者に帰属させること
を否定する独自な読みを披露し、吉本からの反論を受けながら持論を下げず、吉本から「本気かね
」と言われている。この対談は両者の批評の違いが激しく、蓮実のその吉本のこの時期に発表され
た批評『悲劇の解読』への否定が凄いのでそれはそれで対談としては面白くなった、という記憶が
ある。この時は蓮実の批評、つまり作品を介してしか世の中と繋がりが持てない悲劇を読む、吉本
の批評への否定の、その背景がよく解らなかったんだけど。ところがこの時の蓮実の批評の根拠、
作品の作者に帰属させることへの否定だけど。これのオリジナルはどうやらフーコーだった、と
解ってきた。フーコーはまさにそうだったからね。とするとこの時吉本が論争していたのは蓮実
でもありまたその批評の元祖であるフーコーだったことが解ってきた。だから今思えば、この時
本当に問題になるべきだったのはフーコーの文学理論だったわけだ。蓮実はそういうところから
影響されたであろうからね。後の吉本のフーコーへの高評価を思い出すと不思議だよ。少なくとも
批評理論としては相当違う。蓮実を介してフーコーと論争したようなもんなんだから。蓮実の理論
にたいし「本気かね」ならフーコーの文学理論自体また「本気かね」にならなきゃおかしい。そういう
批判はフーコーを取り上げてはしてないと思うんだけど。今思えばその批判しなさは不思議に
思えるね。吉本なら読んで異和感抱いたろうからね。
- 81 :
- フーコーじゃなくてブランショの文学空間1953刊
フーコー自身ブランショになりたい!っていってるんだから。
- 82 :
- 「作品というものを作者に帰属させることを否定する」
まんまブランショの文学空間
- 83 :
- われわれは、再び、次のように問い始めねばならぬ。既に言ったように、作家
は作品に属しているが、作家に属しているもの、彼が自分ひとりで終わらせる
ものは一冊の書物にすぎぬ。「自分ひとりで」に応ずるのは、「すぎぬ」とい
う制約だ。作家は、決して、作品の前にはいない、また、作品が存在するとこ
ろにいながらそのことを知らぬ。もっと正確に言えば、知らぬということその
ことを知らないのだ。それは、読み得ないということによって示されるだけだ、
そしてこの曖昧な体験が、彼を、再び作品にとりかからせるのだ。
(文学空間)-1 偏執的把握
↑こういうお経みたいな文章がえんえんと続く
- 84 :
- 大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校で暴力やいじめを受け続けて、心も身体も
壊されて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。精神病院へ行っても、ちっとも良うならへん。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。
そればかりか、イジメに加担する教師もおった。
誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメは
なかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
僕をイジメた生徒や教師の名前をここで書きたいけど、
そんなことしたら殺されて、天王山に埋められるかもしれ
へん。それで誰にも発見されへんかったら、永久に行方不明のままや。
島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな。
- 85 :
- 蓮実重彦の作品批評において、作者に作品が帰属することを否定し逃走する。それは蓮実によれば
特に誰の影響下でもないということだが、少なくとも蓮実に確信を与えたものとして、フーコーの
講演「作者とは何か」(『フーコー思考集成V』筑摩書房』)を考えることができる。狙っていることは
同じだからだ。フーコーにしろ蓮実にしろ、或はその末裔としての宮台にせよ、確実に継承してい
ると思えるものがある。それが個体の没‐交渉性であり平たく言えば、他者が何言おうと通じない
、その人間における〈信〉の根底といってもいい。フーコーでも宮台でもフロイトの無意識とかを
引用するくせに個体概念のリアルさが最も過酷に現れるこの側面を全く捨象して堂々としてい
る。連中の主張というのが悉くどこか軽い、また上滑りしていく原因がそれさ。フーコーの初期の
言説から宮台が引用して「吉本さんは疎かったですね」と講義するとき、苦笑してしまうのがそう
いう思想的系譜が見えるからだ。少なくとも吉本の〈大衆の原像〉にはその手のファンタジーや
身軽な人間像は削ぎ落とされている。『心的現象論』でもそうで、個体における〈信〉の没‐交渉性の
起源、自分自身でさえ自覚するのが困難である〈信〉の在りかが考察されている。こういう吉本の
業績の方に、仮に革命を語るにせよ、なくしてはならない前提条件を俺は見るわけだ。
- 86 :
-
・橋爪大三郎
「私の高校生時代、ませた友人はみんな読んでいた。『共同幻想論』(43年)を読んだ衝撃は大きく、かつ持続的だった。特に『国家は幻想だ』という言い方だ。
当時のマルクス主義者、新左翼は国家を打倒しようとしていた。しかし国家が幻想なら、打倒という作戦は間違いになる。これは決定的転換だ。
ソ連を批判するにはマルクスまでさかのぼって批判し尽さなければならないが、その大変な仕事を独力で成し遂げた。思想のベルリンの壁を崩した、偉大な思想家だと思う」
「偉大な先輩として憧れ、尊敬し、私がいつも背中を見て仕事をしてきた人物。最大の業績は冷戦後を見すえて、
自由主義経済の下で知識人が社会主義を理想とする、日本のねじれた状況を突き崩したことだ。初めて会ったのは1986年。
私が「権力は悪いものではないのでは」と言うと、少しイヤな顔をされたが、いつも気さくで優しいおじさんといった感じだった。」
・芹沢俊介
「こんな人は今もちろんいないし、これからも出てこないだろうと思えるほど桁違いの思想家だった。日本の学問や思想はヨーロッパに範を取っているので、
足下にはなかなか目に向かない。そんな中、吉本さんは自力で自立した思想をつくってきた。その思想の独自性を認められる人がいなかった意味で孤独な思想家だったと思う。
彼の思想は難解といえば難解だが、それを解きほぐす作業がわれわれに課せられているのではないか」
・梅原猛
「現代日本において、独創的で稀有(けう)な思想家だった。世間の風潮にこびることなく、従来の常識に冷や水を浴びせ、自分の言葉で語った。
だから若者への影響力が強烈だった。「共同幻想論」には、当時みな夢中になった。幅広く活動したが、どんな話題でもどこかで一面を鋭くえぐっていた。
中沢新一さんと鼎談(ていだん)したときには私の「縄文論」を批判し、彼の主張には全面的に賛成はできない部分もある。
だが、彼の論は晩年まで変わらず光っていて、根本的に尊敬している。(ばななさんら)娘の話になると、いかつい顔が突然、うれしそうな表情になった。」
- 87 :
-
・内田樹
「1960年代後半、吉本さんの著作を読んでいる高校生はまだ少なく、読んでいると分かれば、友達になれた。初めて買って読んだのが「自立の思想的拠点」以来、
私にとって思想的アイドル。吉本さんの言葉には身体性があった。貧しさや飢餓といった生活者の実感に基づいた思想だ。最後の戦中派の思想家。
吉本さんが亡くなられたことで戦中派の時代は完膚なきまでに終わった。時代は軽くなっていくでしょう。」
・松浦寿輝
「小林秀雄が原生林から切り開いた近代的批評というジャンルを、ブルドーザーでならして太い道路につくり上げた人だと思う。
批評の方法から言えば、詩人としての詩的な直観と強力な論理とで対象をねじ伏せてしまう剛腕の持ち主だった。
攻撃的な論争もたくさんやったが、そういう中にも下町・佃島育ちの柔らかな少年の感性のような詩心がいつも感じられた。
それが私自身を含め、多くの人々を引きつけたのだと感じる。詩と批評の間を橋渡しした書き手として他に類を見ない存在だった。」
・浅田彰
「まぁ1950年代、60年代と言うと、ま、ソ連型の社会主義、共産主義が絶対だったと。で、その時に吉本さんは、自前で、大衆の生活の中で考える、ということを始めて
それをずっと貫いてこられた、っていう風に思います、と同時に、サブカルチャーを、まぁ、あのぉ、それまではいい加減なものと思ってたものを、
それ自体として価値のあるものとして評価した、その辺はとっても先駆的な、あの、位置にいると言っていいんじゃないでしょうかね。」
「ただ、思想の広がりとともに、本人自身もその思想の中に埋没してしまったように思う」
・石原慎太郎
「権威に対抗するオピニオンリーダーだったと思うし、ひとつの世代の象徴的な存在だった。残念です」
「彼が海水浴でおぼれたと聞いたときは、身体がへたってるなと思って、いたましい気がした」
「体制派にしろ、反体制派にしろ、なかなか彼を継ぐ論客は現れてこない。これは国力の衰退、社会全体の衰退の現象だと思う。
侃々諤々(かんかんがくがく)の議論がなくなった社会は成長しない。知的な刺激を与え合ってこそ成長がある」
- 88 :
-
・宮台真司
「大衆なるものがどういう存在なのかということを、社会的文脈の全体を参照しながら徹底して考察して、
その理念的大衆を炙り出した上で、それに即して自分自身それに寄り添って行動するということなんですね。
平たく言えば従来のエリート主義を拒絶し、一般大衆が自立できるための根拠になるような思想を提示しようという意欲がありました。」
「吉本さんには二つ欠点があったと思います。ポストモダン哲学または現代思想に対する知識と造詣とセンスがなかったことです。」
例えばフーコーやボートリヤールとの対話があるんですけど吉本さんのあまりの頓珍漢ぶりに絶句しました。
外国語ができず、論文を読まない、ということがあったのかもしれません。いずれにしてもダメでした。
あともう一つ、コムデギャルソンを着て登場し資本主義否定は阿呆だという立場にたった。
僕は間違っていないと思いましたけど、あまりにも軽薄。欲望の構造を変えなければ資本主義は続かない。
しかし彼はその知恵を出さなかった。だから僕らは彼から離れた。しかし、彼の「転向論」は全く正しかった。」
・東浩紀
「読んでいますが、とくに影響は感じたことはありません。初期歌謡論とか好き。」
「吉本髢セの影響は、自分でもびっくりするほど希薄なのです。似ているところがあるとはよく言われるので、
むしろこれから読み直すべきなのかもしれません。この年齢になって、はじめてわかるのかも。。」
- 89 :
- 情況からの発言 13
客:81,82,83レス諸氏が丁寧に「作品を作者に帰属させることの否定」はブランショ。と忠言して
くれている。ただ、蓮実はブランショを非常に嫌っていて、ブランショは文壇政治家とか、流行に
敏感とか、清水徹との対談で話していたと思うが。すると蓮実は影響されていながら親殺しのよう
に批判し、無関係だと言っていたことになるのかな?よく分からんが。
主:あと話は折れるが大阪で学校でイジメにあい、教師も学校も知らん振り。イジメに加担する
教師もいたと言うじゃないか。まあ何でここに書いてきたか分からんがここは吉本隆明スレなん
で、吉本の著書の『引きこもれ‐ひとりの時間をもつということ』(だいわ文庫)をお薦めしたい。
学校というのは偽物の厳粛さで出来てる。だからそこが自分は嫌いだった。偽物の厳粛さ、という
のは日本社会からいつまでもなくならないもので、率直な意見や人間をいつも疎外することを
常識、常態としながら続いている。自分自身と対話するときには人間は引きこもることになる。
そういうときの言語こそ重要で、他人と対話するだけの時間よりも重要で本質的だ。吉本はあと、
鮎川信夫との1981年の対談で「あらゆる集団は人間をにする。これには例外はないと思い
ます」と語っている。『引きこもれ』という主張にもこの感じ方は入っている気がする。それから、
吉本の理解者で森山公夫(もりやまきみお)という人がいて、精神病研究で吉本も評価している
。関東で陽和病院の院長をしている。ネットにその病院のHPもある。電話番号や住所も。精神的に
苦しいようならそこに相談してみたらいいんじゃないかな。
- 90 :
- >>88
宮台真司
『週刊読書人』最新号(昨日発売)で先日逝去された吉本隆明氏について大塚英志氏と対談しました。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=956
- 91 :
- >>89
せっかくの親切心に水をさすようだが、>>84は間違いなく悪意のコピペだよ。
>>89がまじめだということはわかったけど、そのくらいは読み取れないとまずいんじゃないか?
- 92 :
- >>90
この宮台って人の書いたものを読んだことがないので軽々しく言うのは何なんだが、ずいぶん見当違いというか、吉本の原理的な考察と情況に対する感想をごちゃごちゃにしてるんだね。
自己顕示欲が強いのはいいとしても、自己顕示を自分の正当性につなげようとする感じ方はひどいね。
こういう人でも一部からは一定の評価を受けてるのかな?
- 93 :
- メディアに頻繁にでる思想系文化人ですぐにつかまりそうだったからでただけで
月刊論壇誌にはちゃんと読んでる人が評価とか書いてるんじゃないの
- 94 :
- 情況からの発言 14
客:吉本逝去からはぼ一ヶ月過ぎて、文芸雑誌や書評新聞での追悼もかなり出揃った感もあるけ
ど。目についたところから挙げていくか。まず『週刊読書人』での大西巨人「吉本隆明君のこと」から
行くか。これは特に際立った論評はなかった感があるな。
主:一級品の作品とか評価はするものの、また、自分と大まかに言って立場の違いはなかった、互い
に認めあっていた、とかが言えることの殆んどで。あとこのインタビュー読んで分かったんだが、
大西巨人は結局『新日本文学』などから完全に切れてることはなかった。内と外との境界線に位置
してる人だったんだな、て分かった気がする。批判もあるし、喧嘩もするんだけど、でも切れてる
わけじゃなく、そのつもりもない。組織に居ながら改善していくことが本当と考えている。そうい
うタイプと思うな。ただ本当に境界線上にいるから、関係ないようにも見えるんだろうけど、実は
それほど離れているわけでもない。理想の前衛党の在り方をまだ考えている人じゃないか。そうい
う意味じゃ晩年の埴谷雄高の立場に近いんじゃ、て思うけども。埴谷も良い論文書いてるけど、
でも理想の前衛党という観念を捨てきることはできなかった。大西巨人のここでの吉本への評価
はだから、いくぶん複雑な心境が混じってるし、苦さが入ってくる。その力量を認めながら、でも
どっかで、吉本はやりすぎ。て感じてる。それはこのインタビューから漂ってくる。だから吉本よ
りも花田の方に共感もするわけだ。花田も吉本を跳ね返りの反共と見なしていたわけだから。そ
こまでは大西は言わないにしてもね。花田に同情してる節があるだろう。ああいうのを相手にして
大変だったな、みたいな(笑)吉本という題材を語らせることで大西の滲み出る本音を出させたと
いう意味では面白いインタビューじゃないかね。
- 95 :
- 客:あと興味深かったのは『文学界』の蓮実重彦だろう。80-90年代は辛辣な批判が多かったとい
う印象があったろう。周りに浅田や柄谷がいたせいかもしれないけど。敬意を払う一方で「天皇」
だとか、皮肉が多い。ちょっと引用すると
《浅田 (『言語にとって美とは何か』について)読解不能でしょ。
蓮実 読解不能っていうか、ごく単純に書物であることの必然性が分からなかった。とにかく、読者
の方が著者の気持ちをくんだり、あれこれ配慮を示さないといけないという点で、何とも天皇制
的な抑圧を感じたことはたしかです。そして個人的には、そうした抑圧を倒錯的に愛してみようと
自分にいいきかせてみたんです。》(『近代日本の批評 昭和篇 下』107頁 講談社文芸文庫)
- 96 :
- これが今回の追悼『「握力」の人』ではこのようn書いている。
《その本質的ともいえる揺るぎない「批評家」吉本隆明の「保守」性を、いまさら批判する意図などさ
らさらない。ある一時期にはまぎれもない現実としてあったそのたぐいまれな「握力」の漂わす「
色気」は、その批評的な著作を読めば、いまなお読む者を甘美に魅了してやまぬからだ。》
《いまはただ、「批評家」吉本隆明の誰にも継承されなかった「握力」に心から惹かれていた自分を、
ある複雑な思いで改めて想起するにとどめたい。》
主:自分が愛着を感じている対象に、屈折した言い方しかできないときってあると思うけど。かつ
ての批評がそうで。今は諸々に醒めた分、愛着を素直に出せるようになったかにも見える。
客:ただ、2000年以降のインタビューでは「何で吉本を越える批評家は出ないのか」とか「変わった
けどいまだに面白い」と評価していた。むしろ浅田や柄谷との関係が抑圧的に働いていたと言える
んじゃないかな。抑圧がなくなってその分自由になったと。
- 97 :
- 福田和也「柄谷行人氏と日本の批評」新潮1993年11月号
http://www1.ocn.ne.jp/~ashi/hukuda-karataniron.htm
みんな読もう。柄谷東大話法が良くわかる。
- 98 :
- 客:今蓮実のああいう感情の籠った追悼文を読んで、かつての磯田光一との対談とか読むと、当時
からマメに読んではいたのも分かるよ。ただ把握に苦労してるし、理解がずれてるように見える
箇所もある。吉本さんは何故今頃サブカルチャーを評価しはじめたのか。遅すぎるのではないか。
とか。吉本の場合、カルチャーとサブカルチャーの階級が崩れてきたことの認識があって、それか
らだから。何で今頃、と言われても困るところだと思う。
主:ただ、今読み返してみて、浅田や柄谷が80年代以降はもうまともに読まなくなって、しかも
見当外れなことを左翼的偏見から喋り出したのに比べて、実は蓮実の場合には、ちゃんとフォロー
はしており、ただ浅田や柄谷との党派的な事柄から大っぴらに喋らなかった可能性がある。今あの
『近代日本の批評』における吉本関連の箇所を読んでて、それは感じるな。今回の蓮実の追悼文は
弔問をしているかのような目線、故人への哀惜が感じられる文体といい、
蓮実にとっての吉本が大きな存在感を持つ、自分にないものを持つ異人であった。そのことがよく
伝わってくる。蓮実からこれほどの密度の高い惜別の言葉が今回書かれたというのはちょっと
意外な感じがした。やっぱりいかなる党派も、個人に遠慮がちにさせたり、周囲に合わすよう
促したり、言いたいことを隠させたり、するもんだという。『批評空間』にもそういう党派的な一体
化はあったんだろう。それも今回の蓮実の追悼文から感じさせられたな。
- 99 :
- 主:蓮実重彦の、異なる大きな存在を惜しむ追悼文を読んでついでといっちゃ何だけど、昔、廣松
渉の追悼集会が雑誌『情況』の主催であって、そこで近代的認識を廣松さんは批判したという村上
陽一郎に、講演後俺は反論して。それは、本当に共同主観性を批判するなら、共同主観性を批判す
る際に用いられる純粋客観性までも批判しなきゃいけなかった。純粋客観性を批判しなかったこ
とと、廣松さんが結局古典的マルクス主義組織論を否定しなかったことは関係あるんじゃないか。
そう村上陽一郎に質疑したわけだ。それで村上が早口で反論し、それはよく解らなかったんだけど
(笑)で、村上の後に吉本の講演があって。そこで吉本が俺と村上の論争に介入したのだと思った
だ、「主観性と客観性のどちらが先か、は鶏が先か卵が先か、と同じで。そう目くじら立てる問題で
はないと思います」と言われた。それは俺に言ったのか村上に言ったのかは解らないが。ただ俺の
意図としては学的客観性の基盤には、吉本の言語論でいう自己表出だってあるはずだし、仮に
階級闘争が論理的に正しいとしても、論理的に正しいからといって参加したくはない個体だって
あるわけだし、もっと根本的にいえば、ある課題を追究する学的意志の、成立する内的経歴。そこ
の基盤を無視しては、共同主観性を批判する際に不徹底でしょうという意図があった。吉本の仕事
でいえば自己表出とかで表されるところ。それを言いたかったかんで、「主観性が先か、客観性が先
か」を言いたかったかわけではない。ただその後に吉本が、個体には固有に共同主観性に還元され
ないイメージの出所がある。それは共同主観性に還元されない。それは廣松さんの研究では欠けて
いる。とやんわり批判した。それは俺の意図と同じと思った。だから吉本の講演にたいし、質疑は
しなかった。そういう思い出がある。蓮実のかつての論争を回顧してる文を読んで思い出したけど
ね。
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