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2012年07月戦国時代48: 長篠・設楽原合戦の真実 part3 (515) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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長篠・設楽原合戦の真実 part3


1 :2011/07/26 〜 最終レス :2012/08/13
近年、多くの新説が提唱されている長篠・設楽原合戦を語りましょう
■過去スレ
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153127427/
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1225641222/

2 :
織田軍の半分位は後方にいたんじゃない

3 :
勝頼は長篠城を落とさなかったのか、落とせなかったのか?
勝頼はなぜ川を渡ったのか?

4 :
そりゃ援軍が来たから向かったんだろう
兵力差も、ゲームみたいに簡単なものじゃないだろう
仮に一万対三万でも一万に対して一斉に三万が攻撃できるわけがない
また一万が一つの塊で動くわけでもない
戦うのは、戦場になるその地形に物理的に入れる人数だから結局、織田が何万いても、戦うのは数十から数百くらいの部隊

5 :
それでも、要塞化した陣地に突っ込むのは異常としか思えないんだよなぁ。
ホントにどうしてなんだろう。

6 :
要塞化と言えば聞こえは良いけど、一ヶ所を突破されるとその方面に援護を回せない諸刃の剣

7 :
布陣からすれば、突破出来そうもなけどね。

8 :
だからそう考えて突破しようとアホ勝頼は思ったんだろ
しかし天才信長はそんな事は千も承知の上

9 :
>>7
具体的にお願いいたします

10 :
>>7
布陣からすれば、突破出来そうなものだけどね。
布陣からすれば、突破出来そうも無いけどね。
どっちなの?

11 :
金田一「謎は全て解けた。武田軍から攻めたって思い込んでた。それが犯人の狙いだったんだ。」

12 :
信長が決戦を挑むキモチがなかったのは確実であろう
敵の三倍の兵力をもちながらさらに野戦築城して立てこもっては、普通相手が逃げる
信長公は徳川と武田が10年でも20年でも一進一退の攻防をしてればいいと思ってた
長篠城をすくうという約束だけ守ればよいと思っていたのだ

13 :
武田的には今やらなきゃ次はもっと苦しいみたいな重圧があったんじゃね?
後からみればこの後上杉毛利と畿内の小大名が新たな包囲網作るって知ってるから違うタイミング測れるから良いけど、
凄い勢いで朝倉浅井と滅ぼし、長島も壊滅させられて本願寺も基本押さえ込まれてなんて状況みればかなりやばいと思うのが普通じゃね?
決戦仕掛けるタイミングは長島が全滅する前だったね。
勝頼をフォローするならこの後、上杉と歩調合わせて織田と戦うなんて構想は想像しにくいと思う。
武田北条は上杉に対する軍事同盟結んでる訳だし、北条にも上杉にも良い顔なんて無理だろ。
実際最期は首を絞める結果な訳だしな。

14 :
長篠合戦直前、織田と戦ってるのは本願寺と武田しか居ないからな
織田主力が出てきている以上一戦やって織田に出血させる必要はあった
でも長篠はねーよw
退路が危ないって時点でさっさと引き上げるべきだった

15 :
NHK歴史でやってたネタだが、
織田方は兵を隠して、少ない兵力で陣地に籠っているかのように見せたそうな。
それに武田が釣られたのかも知れない。

16 :
馬鹿者どもが!

17 :
>>16
ではご高説賜ろうか。

18 :
売国NHKに歴史などないよ

19 :
少なくとも信長公記には武田側から分からない様に陣を敷いたとあるな

20 :
中央の親類はなんで直ぐ崩れてしまったん?

21 :
長篠合戦当時、遠江、三河の武田の勢力はかなり大きかった。
長篠への勝頼の出陣は、武田の健在振りを遠江の地侍たちにアピールするとともに、裏切った奥平を成敗して、
遠江、三河での勢力を伸ばそうとしたためではないかな。
信長が織徳同盟の手前出陣してくるであろうことは、武田も読んでいたと思うけど、織田は、高天神を見殺しにした、
前歴もあるので、戦意薄と読んでいたかもしれない。
設楽原の合戦は、お互い陣地戦を意図していたのではないかと思う。
(勝頼としては織田・徳川の援軍を設楽原で食い止めれば、落城手前の長篠を落とし、作戦目的は完遂できた)
勝頼も「敵は陣に篭り手立てを失っている」と手紙に書いているし。
結局、決戦のきっかけになったのは、武田の後方の要地・鳶の巣山の砦が落城し、長篠城の攻略が不可能になり、退路を絶たれたから。
おそらく、一戦を挑み、戦況が有利だったら退却しようとしたのではないかと思う。

22 :
寒狭川渡った時点でヤル気満々だったんじゃない?

23 :
映画、ドラマであるように一方的な戦いでなかったことは事実
何時間も戦ったあとの武田軍撤退だし、鉄砲隊指揮官のひとり、前田利家が
武田のなんとかというやつにもう少しで首を取られるところだった
鉄砲隊の指揮官が死にそうになったという事実は相当な混戦であったことの証明

24 :
>>23
たしか利家が危機に陥って、村井長頼が助けたんだっけ?

25 :
>>24
うん あのコンビはいいよね ってなんで部隊長とその補佐官が
白兵戦をするハメになったんだろうね

26 :
前田はまだ部隊長って程でもない小隊長の部類。
前田の立場では最前線にたって戦術レベルで戦功を上げないと出世も望めんだろう。
確かに織田側にも苦戦した一面はあったが動揺を与える程度でもなく、包囲追撃され終わりとはあまりに酷い。

27 :
前田利家が大きく出世するのは長篠の後、越前一向一揆を殲滅して佐々、不破と一緒に府中に配されてから

28 :
日露戦争で、乃木が機関銃に突撃をさせたのは、馬鹿丸出しだが
火縄銃だと突撃側も突破のチャンスがあったんだろうか。
でも、兵数から考えると撤退が最善だったのは疑い無しだな。

29 :
>>28
> 日露戦争で、乃木が機関銃に突撃をさせたのは、馬鹿丸出しだが
一次大戦の全ヨーロッパの将をdisるわけですねわかります。

30 :
勝頼は信玄の真の後継者ではない。だから長篠の合戦図でも風林火山の旗印は立っていない。勝頼には信玄のようなカリスマ性も無い。
信長の術中にはまって退路は断たれてしまっている。
織田・徳川連合軍の鉄砲千丁は弾を2個ずつ込めてガンガン撃ちまくった。武田軍は徒歩で前進したのだが、乗馬の将校級がまずこの鉄砲襖の犠牲になった。
指揮官を亡くした武田軍は者頭、雑兵
達が死んだ兵士を盾として進み、馬防柵を壊して攻め入った。織田・徳川連合軍も死傷者6千名を出したが、指揮官のいない武田軍は総崩れとなり、勝頼は敗走、信長の勝利は確定した。

31 :
知将の真田昌幸は信長の魂胆を見抜いてたんじゃないの?
「鉄砲で〜」って感じでたぶん戦術まで見抜いていたかも

32 :
真田昌輝と信綱が討ち死にしてるのに。

33 :
オマエラ当然、高柳光寿氏の著書「長篠の戦」読んでるよな

34 :
馬防柵に向け
ひたすら火矢を放つのは
ダメか?

35 :
私は親族衆筆頭として長篠での決戦はせず、二俣城まで退くことを献策したが、聞き遂げられなかったから、単身撤兵しました

36 :
>>32
真田宗家簒奪の為に決まっておろう。家臣団の存在すら怪しい武藤よりも実家が欲しかったんだよ。 

37 :
でもさ、ある意味籠城みたいなことをしたわけで、信長公って決戦する気は
なかったともとれない? ただ追い返せばいいみたいな感じでさ
徳川と武田は何十年でも一進一退の攻防してくれりゃ一番いいって感じ
徳川の遊撃隊を率いた酒井忠次あたりが一生懸命がんばって武田軍を
決戦に誘い込んだようにも思える

38 :
そりゃ畿内に強大な敵が残ってる内は大規模な戦闘は望まないでしょ…
行うにしても出血を最小限に抑える必要があるし。

39 :
>>37
まぁ武田を長篠から撤退させれば勝ちだからね
織田としてはかなり楽な勝利条件だわな
もし武田側が撤退していた場合織田徳川連合軍が追撃してたかどうかはかなり微妙な気がする
下手に追撃すると山岳地帯に引きこまれて鉄砲使えないからね

40 :
武田が強いってありうるの?
川中島とか相手より兵が多いのに勝ちきれない。味方が原は倍以上の兵力があったから
勝って当然。
ながしのが実力じゃないの?教えてえらいひと

41 :
勝頼は信玄に勝るとも劣らない能力があったと思うけど時代が悪かったね
信玄の頃は一国を統一してる戦国大名が殆どいないよな時代だけど勝頼が継いだ頃は信長がいたからね
一度の大敗が命取りになった
謙信が死んでなければまだまだ盛り返せる可能性はあったんだろうけど

42 :
馬防柵を鉄砲で壊す事は不可能だと思うよ
武田側の鉄砲の距離よりも織田側の鉄砲の距離の方が長い
鉄砲の性能自体が同じではなかった

43 :
>>37
そんな呑気な事してて長篠城落ちたらどうするの?
前日には寒狭川挟んで攻撃しようとしたけど失敗してるし

44 :
小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など
【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10

45 :
武田方は、信玄公が逝去された後も勢力を保持していた。
むしろ徳川方の遠州を従え勢力は拡大していたと言っても過言ではない。
しかし、伊勢長嶋の一向宗・浅井・朝倉・足利という盟友を失い
包囲網は壊滅状態であった。
また、織田方の貿易による巨万の富と鉄砲の増産により差が開くばかりとなった…
その為、勝頼にしたら信長・家康と勝負に出るしかなかった。
もし武田方が勝利した場合、反信長勢力や地侍などが武田方に靡き一大勢力となり
天下の情勢を打開する事も可能であったと予測される。
武田方は、織田方の鉄砲に関しても研究し十分な対応策を練っていた。
数が多く馬防柵からの狙撃も予測していた(俺達でも予測できるw)
また、戦略的(兵士・配置などを含む)いにも地形的にも勝味が薄い状況を
武田方の古参は見抜き決戦を避けようという動きすらあった。
しかし、勝頼は実績を残し内外へ武田の武勇を示したかったんだと思う。
また、示さなければ家臣一族からの信頼が得られず神輿に担がれたままであった。
前へ出るしか無かった...
だから、勝頼が無能とか兵士が弱かったという訳では無い。
ようは信玄公からの跡目相続がスムーズにいっていなかった事から
周囲の信頼が十分に得られていなかった事が一番の原因だわ。
勝頼の苦しい心情も汲み取らねばなるまいて

46 :
甲陽の自分解釈かな?

47 :
長い 読めん 透明あぼーん

48 :
織田信長の有名な「三段撃ち」はなかった
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/news/1337173114/
1 名前: アルビレオ(やわらか銀行)[] 投稿日:2012/05/16(水) 21:58:34.16 ID:rioD7CK30 ?PLT(12030) ポイント特典
三段撃ちしなかった? 織田信長拡大三段撃ちしなかった? 織田信長
■武田を破った新戦術 1000丁×3に疑問
 戦国武将・織田信長が、武田勝頼の「騎馬軍団」を破ったと言われる長篠の戦い。
長い間、鉄砲の三段撃ちが雌雄を決したとされてきたが、近年、虚構とみる説が有力になってきた。
(中略)
■撃つ間隔、ばらばらのはず
 ところが、この鉄砲3千丁による三段撃ち、かなり怪しいらしい。
国学院大兼任講師の藤本正行さん(中世軍事史)が1975年の論文「長篠合戦における織田の銃隊の人数について」で指摘、論証を重ねてきた。
 3千丁三段撃ち説の根拠となってきたのは、江戸初期の儒家・小瀬甫庵(おぜ・ほあん)が記した「信長記」である。
この本には確かに「鉄砲三千挺(ちょう)〈中略〉一段ずつ立ち替わり立ち替わり打たすべし」との記述があるのだが、
藤本さんによると、その元本になった信長の家臣・太田牛一の「信長公記」には立ち替わり撃ったとの記述はないという。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201205150184.html

49 :
野戦で負けたんじゃなくて
陣城を攻め落そうと長時間粘ってたけど
落せずに撤退したってんだから
このレベルの攻城戦や攻砦戦の失敗なんかで
両軍の優劣なんて測れないだろ。

50 :
そもそも相手より少ない兵力&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面の中城攻めやったんだから
撃退されて当たり前
そんな状況で9時間も戦い続け、織田方6000の被害なんだから
ガRで戦術的勝負させたら100%武田の勝ち

51 :
ガRの戦術勝負(笑)
武田勝頼と織田信長が一騎打ちでもすんの?w

52 :
>>43
織田信長は長篠城のことなんてまるで気にしてない。落ちても徳川の城だからどうでもいいと思っている。
実際長篠本戦の前日に長篠城へ派遣された別働隊の救援部隊は酒井左衛門尉はじめ隊のほとんどが徳川兵。織田兵は金森みたいな一部の目付のみ。
信長は当初の予定では武田軍が撤退すればそれでよしくらいの感覚だったが、本戦開始数日前に武田軍が想像以上に接近して陣を張っていたので
こりゃあ一戦おっぱじめる気かな、上等だ突っ込んできたら根切にしてやると細川幽斎に宛てている。
早い話長篠決戦の前段階で既に武田は戦っても絶望的(相手の備えバッチリ)、退いても絶望的(織田が勢力拡大しまくり)で
信長が桶狭間でもやられて死なない限り武田が逆立ちしても勝てない相手になっていたのが当時の織田
で案の定戦ったけど負けて、山県馬場内藤甘利土屋原真田三枝川窪と譜代家臣がボロボロ死んだ。

53 :
長篠は名将がする戦いではないな。

54 :
ジリ貧になっても、まともに戦うべきではなかったと思う

55 :
新東名が出来たので、初乗りも兼ねて長篠に行ってきた。
織田・徳川と武田の陣の間はえらい近いな。
中央よりやや織田よりに川が流れており、攻める武田は不利な気も。
馬防柵を越えても、土塁のような急激な山を登らなければならず、これ、突破
できるのか?と思った。
武士ってのは気合い入ってるなと思ったけど、ますます武田が突撃した理由が
わかなくなった。

56 :
まあ、なんていうか、勝てると思ったんだろうなあ
実際ドラマにあるような一方的な大量射殺じゃなかったみたいだし

57 :
朝倉義景と同じで撤退戦で下手打ったって感じだからなぁ。

58 :
ああいう風に陣に籠ると一箇所を破られるとそこに増援を送ることは難しい
そこから逐次撃破を狙ったのかもしれない

59 :
この時の武田が1万5千ということを考えると武田は信長との決戦は意識していなかっただろう。
そう考えると、軍鑑の重臣が撤退を進言したというのもまんざら嘘とも言えないかもな。
実際、「今回の合戦を危ぶむ者もいる」って勝頼の書状があるし。
いずれにせよ、あのような形での決戦はまずかった、ということは間違いないだろうな。
即時撤退か、あるいは川を利用した防御戦か、あるいは馬防柵が完成する前に攻撃するか、のいずれかにするべきだったと思う。

60 :
>>59
武田軍が長篠城を落とすために出兵したのだから、
それにしては1万5千は多すぎる。
このとき対上杉に1万の抑えを残しているのだから
1万5千は実質、総動員に近いだろう。
やはり決戦を意識したのでは?
しかし何で武田軍は寒狭川を渡ったのだろう?
信長公記どおりに寒狭川を前に陣を張れば良かったのに。

61 :
兵糧が欠乏してたんじゃない

62 :
武田軍は足助城を攻略しただけでなく
5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し
先陣はすでに熱田まで進出してるし
4/16付け勝頼書状では22日出馬して参着次第、
その地に二重堀の普請すると書き(奥平信光のいる三河国設楽郡津具筋?)
遠江方面(光明行之儀)では天野藤秀を利用して
彼地の模様を見届け、調儀するのが肝要で(後回しの方便とも書いてる)
その地は幸い、久しく普請を続けていたので(穴山宛てなので穴山が)加勢望むに任せる。
小尾崎・八幡山之儀は案内者を以って
(尾崎権現山や郡上八幡だから両遠藤氏や安養寺や最勝寺か?)地形御見し、注進を頂くべく候
などと書いてる。
このことから当初案では伊勢長島救援のための出陣計画だが
岡崎内応策が露見した後、作戦変更して
穴山に任せている遠江方面を後回しに三河進出し
長篠で二重堀を作って対陣する予定だったのではないか?
そのために長期対陣に備えて武田軍は実数1万くらいの兵しか連れてこなかった。
しかも長篠後に謙信に出した信長書状では兵糧が足らないから織田は撤兵したと書いてるから
織田徳川は3万を維持する兵糧がなかったため対陣して兵糧攻めを通じて織田軍を崩壊させる。
(熱田方面で挑発され面目丸つぶれの信長が急いで出てこざる負えなくなった)
そしてこの対陣中に美濃の軍事的な予定戦場調査をして、
武田軍が残り2万の大兵力を率いて大挙、美濃へ侵攻して
伊勢長島の日根野や郡上八幡の遠藤氏や一揆軍の南下で織田を引き付けつつ
尾崎権現山(200メートルしかない小山)を武田本軍の陣所として
各務原市〜岐阜市日野で織田と決戦して一気に岐阜城を奪い取る作戦だったはず。
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。
しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、陣城攻撃を開始し優勢だったが陣城は落ちず
撤退をしたら殿が下手を打って軍が崩壊。
義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。
三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。

63 :
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。

64 :
訂正
伊勢長島救援
ではなく、石山本願寺救援(六角義堯書状から)
武田軍が残り2万の大兵力
ではなく、武田軍が残り5万の大兵力(尋憲記から)

65 :
ID:xlHExFKW ってsubかい?

66 :
ちなみに高柳光寿氏は長篠の戦いでの武田軍兵力を6000と推定してるね。
(勝頼が謙信を怒らせたので1万を高坂につけて越後の押さえに残し15000で出陣は甲陽軍鑑のネタ)
信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと書いてるが
武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。

67 :
実は武田が買ったとかいう新説はないのか

68 :
ただ、千人討死程度でここまで有力武将が死んだりするのは異常じゃないか?
確かに武田は戦死する武将が妙に多いがそれでも異常。
兵の質についても長篠の後は著しく劣化したようだし。
一万は多すぎるとしても千人ってのもなあ・・・

69 :
京を支配してる織田の一方的な軍事プロパガンダを聞いて
それを公家が日記に記入してるのであって
公家が日記の記述を他人に見せる目的で
故意に情報を曲げて書いてるなんて一度も書いてないだろwww
本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死したあとの信長出陣で勝ったと宣伝してるが
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末だし
姉川の戦いでの言継卿記でも浅井討ち死に、その他8000討ち取りとか書いてる。
また越前以下9600討ち取り(公記ですら浅井の死者1100と書いてるのにw)
そんなに討ち取ったのなら志賀の陣のような体たらくにならんだろう。
長篠の戦いでも大げさな戦果な上に、勝頼も死んだとか書いてるのが信長。
長篠の戦いの信長による戦果捏造宣伝工作
5/26信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと
誇張しまくりを書いていて
5/21の戦い当日付の兼見卿記にも信長が一戦に及んで
数千騎を討死させたと書いてる(騎馬武者だけで数千もいたのかすら怪しいデッチあげぶりw)
つか、こりゃあ武田大騎馬軍団だなw
実際の武田軍の損害については
実際に鉄砲衆を調達してから長篠に従軍した大和国の筒井衆が無事に大和国へ帰り着いた
5/27に記された大和興福寺の多聞院日記の千人ぐらい討死が比較的正しいだろう。
(それですら筒井勢が武勇自慢の宣伝をしている可能性がある。
と言うのも、そんなに圧勝してるなら天正10年の武田征伐を恐れた大和衆が
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士などと不安を訴えたりするだろうか)
5/24に兼見卿記が記す、光秀と会談した際に聞いた長篠の戦いの話では
「ことごとく討ち果たした」に表現が大幅に後退している。
ちなみに6/13の謙信への信長書状では嘘がすぐバレると思ってか
「数知らず」と書いて討取り数を明言しなくなっている。
さらに家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
家康の知恩院宛て6/22書状でも武田之家討ち果たし候様子を聞いたようですね
などと書いていて討取り数にまったく触れていない。
実は虚報ばかりで討ち取り数すら明言できないのが戦後の織田w
実際にはそんなに討ち取られていない可能性が高い。

70 :
千人は妥当かもしれんぜ。近代の日露戦争時の大本営でさえ損害のケタが万台だったのに驚いたようだし…

71 :
>>国半分を制圧したという
織田の大嘘を鵜呑みにして書いてるだけ。
そんな織田のホラを信じてたら中国地方どころか九州まで一遍にすでに制圧完了してたりしてることになるわwww
そんなデタラメ宣伝工作の証明する一次史料はない。
信長は誇張による情報操作を公家相手にかなりやってる。
叡山焼討ちでも言継卿記が3000〜4000人は殺されたと書いてるが、
冷めた目でみてる年代記抄節はおよそ1600余人くらいと誇張に惑わされずに冷静に書いてるしw
だいたい信長は越前一揆を撫で切りした時も
越前府中の街の中は足の踏み場もなく
一面が死体で埋めつくされて愉快だわとか
誇張しまくり。

72 :
時系列さえおかしいコピペ爆撃の意味がわからん。

73 :
織田に滅ぼされた武田家の私怨だよw

74 :
>5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し
>先陣はすでに熱田まで進出してるし
史料稿本では「虚報だ」って切り捨てられてますね。
興味ある方は東京大学史料編纂所のHPで誰でも閲覧できますので。

75 :
つーか、だがさんは、「織田に有利な日記の記述=嘘」「織田に不利な日記の記述=真実」と
非常にわかりやすい判断基準をもってるからな。

76 :
>>68
>ただ、千人討死程度でここまで有力武将が死んだりするのは異常じゃないか?
これは俺も前から思っていた。
強いて言うなら、1万5千のうち戦闘員が半分の7千5百。
そのうちの1千人が死んだと考えると大打撃だが。
あと死ななくても、片手が落ちたなど、
二度と戦場に出られない重症を負った人が3倍近くの3千人は居たのでは?

77 :
>>60
三河攻めという意味合いでなら多すぎでもないだろう。
1571年の三河攻めは実際は1575年のこの時期だったらしいので、この時に足助や野田を攻め落としているわけだ。
そう考えると単純に三河攻めと考えるのが妥当じゃないの?
実際、信長との決戦を考える上では1万5千は少なすぎ。

78 :
たしか留守番してた高坂弾正が設楽原から真っ先に逃げた武田一門衆の武将が
一番悪いとかいって切腹させろと勝頼にいったとかいわないとか
精強な武田兵でもさすがに退却となると負けた!逃げろーってなっちゃって、
それを踏みとどまらせるために宿老たちは逃げずに鼓舞してたら結局最前線に
取り残されるカタチになって織田・徳川兵にアワレ首をとられてしまったのだろう

79 :
>>74
隠蔽捏造だらけの信長公記
信長公記の5/13に熱田で信長が陣を張り熱田社の八剣宮が酷く荒廃してる様を(癈壌し正体なきを御覧)
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ陣を移し長篠の後詰めに行く記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
一次史料から5/5に尾張の甚目寺不動坊の証秀が熱田社に剣を奉納している。
5/11に熱田社祝師に信長が三河出陣を前に恒例の御祓いをしてくれと懇請している。
5/15の信長書状から13日に信長が出陣して14日に岡崎に到着していたことがわかる。
つまり武田軍は12日には尾張の僧が織田の戦勝が祈願して熱田の神へ奉納した剣を奪い、
信長の出陣にあたっての戦勝の御祓いを13日にしてもらおうとしていたのに
熱田を焦土と化して挑発している姿がみえる(信長が神仏を恐れず、政教分離していたなどお笑いである)
今までの信長は家康への後詰めにおいて、なんだかんだ理由をつけて
三河までやってこなかった。もしくは間に合わないようにワザと遅く行っていたが、
この完全にメンツ丸つぶれの挑発に
長篠まで行かざる負えなくなったのだろう。

80 :
織田軍って将が背後にいて
我先に逃亡してるから
大敗だらけなのに将の死が少ないだけだろ。
武田は将が最前線で指揮してるから
川中島などで信玄の弟まで討死してんだろ。

81 :
4次川中島は信玄を謀略で引っ張り出して大混戦に持ち込み幕まで攻撃されたからなぁ。
あれは天才謙信の博打の結果だからちょっと例にはなじまない。

82 :
>>81
それ軍記の話だろ・・・
そもそも妻女山すら、実際はどこの山を指してるのかわからんのが現実だぞ。
実際は、行軍中に偶発的に衝突しただけと言われているし。

83 :
車懸りの陣も上杉側の記録には無いし、遭遇戦というのが妥当と思われる。

84 :
川中島の戦術・戦略の話し聞いた三英傑の感想とかってのこってないの?

85 :
啄木鳥の戦法も記録にないの?

86 :
甲陽軍鑑にしか無い。

87 :
戦国史の泰斗・権威と評される高柳光寿氏が武田軍兵力を6000と主張するなら
間違いないな。

88 :
原本信長記によると
長篠の戦いの先陣を徳川にやらせていた。
つまり織田軍は後ろで眺めてるだけで
何もやってなかった。

89 :
武田ごとき織田が手を煩わせるまでもないというわけだなw

90 :
つーかその戦ってる徳川軍を援護するための射撃を、過大に書き立てていった結果いつの間にやら
鉄砲部隊やら三段撃ちやらって話に。

91 :
実際一番やり合っていたのは、徳川軍と山県勢らしいね。
土屋さんの討ち死にした場所からすると、織田も戦っていたのは戦っていたの
だろう。

92 :
織田軍が先鋒やったら速攻で崩壊して敗走しちゃうだろ。
甲陽軍鑑によれば、援軍依頼を家康が3度やったけど
勝頼にビビっていた信長は拒否の連発で、
家康がついに「私とあなたは困ったことがあったら助け合う誓約をしました。
だから箕作の戦い以来、若狭陣や姉川などで加勢して助けてきました。
このたび信長公の来援がないなら、もう遠州を武田に進呈して和睦するしかありません。
長篠城援軍無ければ、これまでの誓約を信長公が破ったわけですから
私は勝頼公の先陣を勤めて遠州の代わりに尾張を攻めて
勝頼公より尾張を頂きます。
考えてみますと勝頼公を総大将にして私らが戦うなら10日もあれば充分に尾張をこちらのものとすることは容易いです」
このことを信長が聞くや
やっと織田軍が援軍にくることになったと書いてるし
出陣した織田軍は熱田神宮に到着した時に
信長には、なめかたの謀があったようだが(士気をあげようとした)
ここでも織田の諸人に勇む者なし(士気をあげるのに大失敗した)
長篠に到着して軍議になるや
いよいよ織田の諸人が恐れて勇みなし。
酒井が狂言をして笑いを取って鼓舞したと書いてる。
実際、信康の武田への内通疑惑もあるし、
義昭の使者を三河に家康は招きいれているし
義昭から武田との和睦の要請の書状を家康はもらっている。
間違いなく家康は織田から離反寸前だったのは間違いない。
また熱田神宮が武田軍に襲われて廃墟になっていたので、
織田諸軍の士気はさらにダダ下がりになっていたのもわかる。

93 :
>>80
最前線で調子にのって首実検していて自分が首を取られた某板垣は擁護できんがな。

94 :
武田家が鉄の盾もってたら結構火縄銃に対抗できたんじゃね?

95 :
動きが鈍くなるだけやがな。
つーか設楽ヶ原合戦での武田の敗因は鉄砲ではないよ。
長篠城攻めは鉄砲で防御されきった面があるが。

96 :
コイツ公記すら読んでなさそう

97 :
公記はウソが多すぎるから読まなくていい

98 :
公記を読むと信長マンセーキチガイになるから
読むと悪影響しか残らない。
しかも公記如きザコ本を読んで
信長のことはなんでも知ってる態度で
書き込んでくる戦国板最大の恥知らずが量産されるだけ。

99 :
香ばしいのがわいてきたな

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