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2012年09月日本史103: 日本史ニュース速報 3 (247) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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歴史研究24年。光秀=天海だけはガチだと思うのだが。 (603)
豊臣が朝鮮と明を征服してたらどうなっていたの? (301)

日本史ニュース速報 3


1 :2010/09/16 〜 最終レス :2012/10/16
マスコミのトンデモ記事やなるほどと思える記事等、
とにかく貼りたいけどどのスレに貼れば良いか分からない記事は
とりあえずここに貼ってみましょう!
ローカルルール
 ※ソースを明記すること
 ※深く議論をする場合は各専用スレで
 ※日本以外の歴史ニュースは世界史板で
 ※近代史は日本近代史板で
前スレ
日本史ニュース速報 2
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1205680954/

2 :
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/mie/100916/mie1009160201004-n1.htm
 伊賀市沖の沖打越(うちこし)中世墓の発掘調査を進めていた県埋蔵文化財センターは15日、お経を石に書いた
鎌倉時代後期(13世紀末〜14世紀初頭)の「礫石経(れきせききょう)」が出土したと発表した。同センターによると、
県内の礫石経の出土としては最も古い時代のものという。18日午後1時半から現地説明会を行う。
 中世墓は昭和20年代に発掘された大規模古墳「石山古墳」の西北約1キロに位置し、同センターが農免道路の
整備に伴い7月から調査していた。
 礫石経は、古墳の上に鎌倉時代に形成された経塚の遺構から出土した。小さな川原石に「世」「阿」など1〜2文字
ずつのお経が墨書されたものが11個、無銘の石を合わせると約200個が、陶器の甕(かめ)の破片などとともに
見つかった。
 県内の礫石経では、江戸時代のものしか出土例しかなく、今回の発掘が最古の出土となった。同センターによると、
鎌倉時代の礫石経の出土は全国で20例ほどという。
 中世墓からは、ほかに縦8・2メートル、横3・2メートルの大きな墓穴を持った1号墳(5世紀初頭)を発掘。構築後
まもなく改葬されたとみられ、副葬品は刀子(とうす)や鉄製鎌だけだった。
 土地の豪族を弔ったとみられるが、古墳の規模が大きいことから、石山古墳との関連に注目している。
9月16日 02:00 【産経新聞】
【アカヒ新聞】 http://mytown.asahi.com/mie/news.php?k_id=25000001009160004

3 :
http://mainichi.jp/area/nara/news/20100916ddlk29040507000c.html
 推古天皇と息子の竹田皇子の合葬墓である可能性が高い植山古墳(橿原市五条野町)の特別見学会が、
11月13、14日に開かれる。定員は計600人で、普段は公開されていない石室内が見学できる。事前申し込みは
9月21日必着。
 東西40メートル、南北27メートルの長方形墳で、6世紀末ごろの築造とみられる。00、01年の発掘調査で、
ともに全長13メートルの横穴式石室が東西に二つ並んで造られていることが判明。東石室の玄室(げんしつ)には、
真の継体天皇陵とされる今城塚古墳(大阪府高槻市)などの石棺に用いられ、「大王のひつぎ」の材とされる
阿蘇ピンク石製の家形石棺が納められていた。石棺が残っていなかった西石室でも阿蘇ピンク石の破片が多数
見つかっている。
 宮内庁は現在、大阪府太子町の山田高塚古墳を推古天皇陵として管理。一方、日本書紀や古事記では、
推古天皇が先に死去した竹田皇子との合葬を望んでいたことや、大和から河内に改葬されたことが記されており、
植山古墳が改葬前の推古天皇陵との見方が有力になっている。
 希望者は、往復はがきに住所、名前、電話番号、参加者全員の名前(計4人まで)、見学希望日時(13日か14日の
午前か午後かを第1〜第4希望)を記し、〒634−0075 橿原市小房町11の5 かしはら万葉ホール内 橿原市
教委文化財課「植山古墳係」へ。問い合わせは同課(0744・29・5902)。【高島博之】
9月16日 【毎日R新聞】

4 :
http://mainichi.jp/enta/art/news/20100916dde018040074000c.html
 遣唐使として大陸に渡った円仁(794〜864年)の名前が刻まれた石板と拓本が中国・河南省登封市の法王寺で
見つかり、酒寄雅志・国学院大栃木短大教授(日本古代史)が7月、唐代のものとみられると発表した。だが、この
“貴重な発見”を疑問視する意見が出され、酒寄教授は9月、制作年代は唐代よりずっと後かもしれないと軌道修正
した。捏造(ねつぞう)品の可能性も指摘されるなど、関係者の間で見解が分かれる事態となっている。【栗原俊雄】
 発端は今年1月、法王寺の住職が来日して、円仁とゆかりの深い大慈寺(栃木県岩舟町)を訪れ、石板の存在を
知らせたこと。これを聞いた酒寄教授は、7月に現地を訪れた。石板は縦44センチ、横62センチで、お堂を囲む塀に
はめ込まれていた。「圓(円)仁」「大唐会昌五年」などの文字が刻まれ、文章は「寺宝の仏舎利を守るため地中に
埋めた」という内容だった。大唐会昌五年は845年で当時、唐皇帝の武宗は仏教を弾圧していた。
 円仁は平安時代に活躍した天台宗の高僧で、838年から847年まで唐に滞在。その旅行記『入唐求法巡礼行記』
には法王寺にいたという記述はないが、一時的に立ち寄ったことは考えられる。
 石板とそれを写したとみられる拓本の発見は7月、複数のメディアによって「高僧の姿が1000年以上の時を超え
浮かび上がってきた」「遣唐使の足跡としては、2004年に見つかった井真成の墓誌に次ぐ」などと報道された。
その後の同月16日、国学院大(東京都渋谷区)でシンポジウムが開かれ、酒寄教授は約350人の参加者の前で
「『巡礼行記』にない空白の時間を埋めるもの」と発表。石板の文字は円仁の直筆をもとにしているかもしれない、
とも指摘した。
 ところが、一部メディアがその後、石板と拓本では模様と字の間隔が違うと報道。この拓本に合う石板が別に存在し、
どちらか一方、あるいは両方とも、唐代の石板を模して後世に作られた可能性が浮上した。さらに、円仁について
知った人が何らかの目的で勝手に作り上げたのかもしれないと、唐代に石板が作られたこと自体を疑う見方も示された。
>>5

5 :
>>4から
 これを受け、酒寄教授らは8月末に法王寺を再訪。もう一つの石板を見つけ、拓本とぴったり重なることを確認した。
ただし、その石板は鐘楼の片隅に、ごみと一緒に置かれていた。
 酒寄教授らの帰国後、9月2日に国学院大で報告会が開かれた。一緒に調査した中国や日本の研究者らの意見は
「唐代のもの」「明代か清代」などと分かれたという。石板の文字を囲む模様が1センチ間隔で彫られていることも公表
された。メートル法に準拠しているように見えることなどから「現代に制作されたものでは」との声もあがった。
 綾部宏行・早稲田大講師(書道史)は拓本を見て、「書風は隋から中唐にかけてのものとみられる」としつつ、「後生
の人が書風をまねることもある。今の段階では時代を特定しにくい」と語った。一方、酒寄教授は軌道修正について
「さまざまな人の考えを聞いた結果」といい、「(石板が)確認されてから、まだ2カ月。今後いろいろな角度から研究を
進めたい」と話している。
9月16日 【毎日R新聞】

6 :
http://sankei.jp.msn.com/region/chugoku/shimane/100917/smn1009170229000-n1.htm
 島根県埋蔵文化財調査センター(松江市)は16日、同市大草町の史跡、出雲国府跡から奈良時代(8世紀ごろ)に漆の精製に
使われたとみられる土師器の甕(はじきのかめ)が出土したと発表した。漆の精製が国府内で行われていた可能性が高いという。
 甕は高さ15・5センチ、直径14・5センチ。底の内側に薄い黒漆が付着していた。漆は当時の役人が身につけた金属製品の
装飾加工に用いられたとみられる。
 出雲国府跡ではこれまで貯蔵や運搬用の須恵器の壺は多数出土しているが、漆が付着した甕は見つかっていなかった。
国府内で甕を容器にして漆が精製されたとみられる。国府は奈良時代から平安時代に、律令国の国司が政務を執る施設(国庁)
を置いた区域。今回の甕は役人が暮らす国司館の東側隅付近から見つかった。
 発掘調査は平成11年度から行われ、今年度は排水などに用いたとみられる幅約30センチの複数の溝が格子状に交差した
遺構や、大刀に使われた銅製の柄なども発見された。
 現地説明会は23日午前10時から。問い合わせは同センターの発掘調査事務所((電)省略)。
9月17日 02:29 【産経新聞】
【読売新聞】 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shimane/news/20100916-OYT8T01096.htm
【アカヒ新聞】 http://mytown.asahi.com/shimane/news.php?k_id=33000001009170001
【毎日R新聞】 http://mainichi.jp/area/shimane/news/20100917ddlk32040476000c.html

7 :
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/251473.html
 奈良県明日香村にある国史跡の牽牛子塚(けんごしづか)古墳が、村教委の調査により、7世紀の女帝であった
斉明天皇の墓とほぼ特定された。宮内庁が管理する天皇陵の妥当性を疑わせる調査結果といえる。宮内庁は別の
古墳を「斉明陵」と認定しているからだ。しかし宮内庁は、墓誌など明らかな証拠が出てこない限り、現在の認定を
見直さないという。歴史をみる姿勢が頑迷では困る。古代史解明のためにも、科学的な根拠に基づく判断を求めたい。
 現実に、築造の推定時期と被埋葬者が没した時期が合わないとの指摘は、他の天皇陵にも少なくない。牽牛子塚
古墳も、研究者の中には以前から斉明陵との見方があった。村教委が特定した根拠は《1》7世紀後半の天皇陵に
特有の八角形《2》大規模工事で知られる斉明天皇らしく巨大岩石を使っている《3》娘と合葬されたという日本書紀の
記述通り二つの石室があった−などだ。
 一方の宮内庁はどうか。斉明陵に限らず、歴代天皇陵を認定した根拠を説明していない。まずは認定した理由を
明らかにしてもらいたい。科学性に乏しい場合には、発掘や立ち入りなどの学術調査に踏み出すべきだろう。宮内庁は
歴代天皇60件陵112基を含め、900近い陵や墓、陵墓参考地を管理している。だが天皇陵であっても、誕生や没年
などの記録が残っていない時代のものほど、科学的な根拠に不安を残す。
>>8

8 :
>>7から
 天皇陵のうち20は幕末まで未認定だった。明治政府は古事記や日本書紀、地元の伝承などを参考に認定を急いだ。
1889年(明治22年)の大日本帝国憲法で「万世一系」を打ち出すためだったとされる。宮内庁は戦後、実在性に乏しい
神話上の人物の「陵墓」を含め、認定通り管理してきた。天皇家にとって祖先に祈りをささげる「静安と尊厳の場」である
という考え方に基づく。皇室宗教の聖域だから発掘調査など許されない−ということらしい。
 最近は多少の変化がみられる。2008年2月、古墳時代の神功(じんぐう)皇后陵への立ち入りを、16学会の代表に
限って認めたことだ。外周部を歩いただけで、宮内庁が把握していなかった埴輪(はにわ)の列を池の中に発見している。
さすがに専門家の目というべきだろう。他の陵墓も調査すれば新発見を期待できることを意味する。
 陵墓は文化財保護法の対象外とされる。今回は逆に宮内庁管理ではないから調査できた。根拠の不明な天皇陵を
調べもしないのでは、疑問は深まるばかりではないか。
9月17日 【北海道新聞】

9 :
http://www.asahi.com/culture/update/0917/OSK201009170081.html(画像あり)
 女王・卑弥呼(ひみこ)が治めた邪馬台国の有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(2世紀末〜4世紀
初め)で、大型建物跡そばの穴から2千個を超す桃の種が出土した。市教委が17日、発表した。桃は古代、魔よけ
などに使われたとされ、市教委は「祭祀(さいし)に使った後に捨てた可能性がある」とみている。
 纒向遺跡からは昨秋、3世紀前半では最大の建物跡(東西約12.4メートル、南北約19.2メートル)が見つかり、
卑弥呼の宮殿とみる研究者もいる。市教委は7月から、建物跡を取り囲むとみられる柵(さく)列の延長を確認するため
南側を発掘調査。その結果、建物跡の南約5メートルで、楕円(だえん)形の穴(東西約2.2メートル、南北約4.3メー
トル、深さ約80センチ)が見つかり、2千個以上の桃の種(直径約2.5センチ)が埋まっているのを確認した。
 竹ざる6点(直径30〜60センチ)や木製の剣、故意に割られた土器片、漆塗りの弓、獣骨なども出土し、いずれも
祭祀に関連するという。市教委は土器の形から穴は、卑弥呼と同時代の3世紀中ごろのものとみている。桃の種は
弥生や古墳時代の各地の遺跡で見つかっているが、1カ所でこれほど大量に出るのは異例。
 古代中国の道教の神仙思想では、桃は不老不死や魔よけの呪力があるとされた。3世紀末の中国の史書「魏志
倭人伝(ぎしわじんでん)」は卑弥呼が倭国(わこく)を鬼道(きどう)(呪術)で支配したと記し、鬼道を道教とみる説も
ある。辰巳和弘・同志社大教授(古代学)は「卑弥呼が竹ざるに桃を積み上げて祭事を行ったのではないか」と話す。
9月17日 19:00 【アカヒ新聞】
【読売新聞】 http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100917-OYT1T01001.htm
【産経新聞】 http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100917/acd1009171959002-n1.htm
【日本経済新聞】 http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819A91E3E5E2E3848DE3E5E2EBE0E2E3E2E2E2E2E2E2E2
【時事通信】 http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010091700749
【NHKニュース】 http://www.nhk.or.jp/news/html/20100917/t10014060001000.html

10 :
1953年(昭和28年)1月8日:中国共産党中央委員会機関紙『人民日報』が、
「琉球群島人民のアメリカによる占領に反対する闘争」と題した記事を掲載。
尖閣諸島を日本名で「尖閣諸島」と表記し、琉球群島(沖縄)を構成する一部だと紹介する。
1958年(昭和33年)11月:北京の地図出版社、『世界地図集』発行。
尖閣諸島を日本領として扱い「尖閣群島」と日本名で表記。
1965年(昭和40年)10月:中華民国国防研究院、『世界地図集第1冊東亜諸国』初版出版。
尖閣諸島を日本領として扱い「尖閣群島」と日本名で表記。
1970年(昭和45年)1月:中華民国の国定教科書「国民中学地理科教科書第4冊」(1970年1月初版)
において尖閣諸島は日本領として扱われ、「尖閣群島」という日本名で表記されている。
***1969年および70年に行なわれた国連による海洋調査で、推定1095億バレルという、
イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告***
1971年12月30日:中華人民共和国が外交部声明という形で尖閣諸島の領有権を主張。
中国は1971年まで領有権を主張したことがない

11 :
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20100921ddlk28040173000c.html
 江戸時代に酒造業を中心に発展した伊丹郷町遺跡(伊丹市宮ノ前)から、江戸後期の酒蔵をはじめ、酒造に
使ったかまどと、井戸の跡が発掘された。調査にあたった市教委によると、銘酒として知られる「剣菱」を明治から
昭和にかけて醸造していた酒蔵跡で、酒どころ・伊丹の歴史を物語る遺構として注目されている。【浜名晋一】
 調査は図書館の建設に伴うもので、5月から実施。その結果、酒蔵があったことを示す礎石が見つかり、その
付近から半地下式のれんが製かまどと直径2メートルの井戸を発掘した。1886(明治19)年作成の文書「酒造場
絵図面届書写」に記された池上茂兵衛の酒蔵の地番と、発掘地点が一致することから、同酒蔵の跡と断定した。
 市教委の説明では、かまどは醸造の過程で米を蒸すために利用。井戸の周囲には敷石が並べられており、
周辺が米の洗い場として使われていたと推定されるという。
 同酒蔵は19世紀前期には建てられ、池上家が廃業する1926(昭和元)年まで存続したと考えられるといい、
1901(明治34)年から廃業までは、「剣菱」を醸造していた。
 大手前大学の川口宏海教授(近世考古学)は「伊丹郷町では江戸後期に酒蔵が次々と建築された。発掘された
酒蔵もその一端を示す例として注目される」と話している。
9月21日 【毎日R新聞】

12 :
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20100921_4
 盛岡市上田字松屋敷の県立博物館(菊池慧館長)は20日、紫波町指定文化財「准胝(じゅんてい)観音坐像」の
胎内から、観音像の成立時期などが記された巻物を取り出したと発表した。観音像は八戸藩初代藩主南部直房の
次男直常の供養のため建立された沢口観音堂(同町土舘)に300年以上安置されていた。八戸藩の飛び地だった
同町志和地区とのかかわりなど地域史解明につながる資料だ。
 巻物は紙幅13・3センチ、軸を含め15センチ、広げた長さ154センチ。表紙は紺紙で題はない。薄い絹の布で
包まれ、きり箱に入った状態で仏像の胎内にあった。
 巻物には直常の人柄や、幼いころからの側近で直常没後に出家した成海與右衛門尉(よえもんのじょう)の様子、
観音像や観音堂成立の年代、経緯などが漢文体でつづられている。筆者は署名と印から、南部家の菩提(ぼだい)
寺の金地院(東京都港区)で住職を務めた僧の剛室と判明した。
 巻物により、観音像が1682(天和2)年の制作と確認。また1925(大正14)年発行の都南村、矢巾町を含む旧紫
波郡の言い伝えや史跡などをまとめた「紫波郡誌」にもほぼ同様の内容が掲載されており、郡誌の記述を裏付けた。
 佐々木勝宏学芸員は「仏教に帰依していたなど直常の人柄が分かる文章。生年月日や観音像成立時期などの
裏付けも取れ、比較資料としても貴重」と語る。
 観音堂は與右衛門尉から代々成海家が守り伝えてきた。現当主の宥伊(ひろよし)さん(72)=紫波町土舘=が
2009年11月、観音像を同館に寄託。エックス線撮影で巻物の存在が判明した。今年7月上旬に取り出しを試みた
が断念。今回は2度目の挑戦だった。
 成海さんは「子どもたちや若い人に土地の歴史を知ってほしいと調査を依頼した。資料をきっかけに八戸と紫波の
交流が深まればいい」と期待を込めた。
9月21日 【岩手日報】
【デーリー東北】 http://www.daily-tohoku.co.jp/news/2010/09/21/new1009210801.htm

13 :
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2010/09/20/5.html
 山梨学院大考古学研究会(顧問・十菱駿武同大教授)が進めている不老園塚古墳=甲府市酒折町=の発掘調査で、
同古墳が古墳時代後期に造られた、横穴式石室を持つ円墳であることが分かった。研究会は、これまで調査記録が
なかった古墳の歴史的価値を考証し、史跡指定も視野に価値を訴えていく考えだ。
 古墳は酒折御室山(通称・月見山)の中腹に位置する。「甲府市史」に古墳の存在を示す記述があるが、古墳の構造
や造られた年代などは分かっていなかった。研究会は土地を所有する酒折宮の協力で、13〜18日にメンバー約10人
で古墳を調査。十菱教授によると、石室の南側に側壁となる石積みがないことから横穴式古墳と断定した。また、墳丘
の測量によって、直径約10メートル、高さ約2メートルの円墳と判明した。
 石室(縦約5メートル、横約1・5メートル、深さ約1メートル30センチ)は、棺(ひつぎ)を納める「玄室」と外部をつなぐ
部分との境界がない「無袖(むそで)」という構造で、副葬品として古墳時代後期の素焼きの土器「土師(はじ)器」と鉄
製品の破片が出土した。出土品や、無袖の横穴式古墳という特徴から、「6世紀後半から7世紀にかけて造られたと
みられる」(十菱教授)という。
 円墳の東に隣接する横根・桜井積石塚古墳群(6世紀半ば〜7世紀)には、馬の骨が副葬品に納められるなど、酒折
周辺は当時、馬飼いの集団が多く居住していたとされる。円墳は盆地を見渡せる高台にあるため、こうした集団の長が
埋葬された可能性も考えられるという。十菱教授は「土盛りと積石の古墳が隣接して存在するのも興味深い。集団の
違いか、年代の違いかなど、二つの古墳の関係性も今後の研究課題だ」としている。
9月20日 【山梨日日新聞】

14 :
http://chubu.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyo100917_2.htm
 津市教委は16日、伊勢国司・北畠氏の本拠地の多気北畠氏遺跡(津市美杉町)の第33次発掘調査で、慶正寺が
あったと伝えられる場所から、室町時代後期(15世紀中頃〜16世紀後半)とみられる建物の柱跡や墓石の一部など
を確認したと発表した。同遺跡内には21の寺院があったとされるが、寺院跡の調査は今回初めて。
 調査場所は、国史跡「多気北畠氏城館跡」の東側の八手俣川をはさんだ山林で、調査した11か所の広さは計161
平方メートル。直径30センチ前後の柱跡が12か所で見つかった。また、墓石「五輪塔」の一部が2点出土したほか、
土師器(はじき)の鍋や皿、中国産の青磁の皿なども見つかった。
 現地説明会は23日午後1時半から行われる。現場は蚊などが多いので防虫対策が必要。問い合わせは、22日
までは津市教委生涯学習課(省略)、説明会当日は津市埋蔵文化財センター多気北畠氏遺跡調査分室(省略)。
9月17日 【読売新聞】

15 :
http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010092201000842.html(画像あり)
 3世紀後半に造られた国内最古級の前方後方墳、元稲荷古墳(京都府向日市)で、墳丘西側のくびれ部分に葺石
が敷かれているのが見つかり、向日市埋蔵文化財センターが22日、発表した。
 葺石は墳丘を装飾し、盛り土が崩れないようにするためのもので、卑弥呼の墓説がある箸墓古墳(奈良県桜井市)
など大王クラスの前方後円墳でも確認されている。
 同センターの梅本康広主任は、いずれも葺石が大量にあることなどから、大和王権とのつながりがうかがえると指摘。
「軍事的、経済的に大きな力を持った有力者が埋葬されたのではないか」と話している。
 元稲荷古墳は全長約92メートルで、前方部2段、後方部3段の構成。同センターによると、葺石は墳丘西側にある
前方部と後方部の接続部分(約10メートル四方)で見つかった。ほとんどが10センチ未満の卵形で、土に埋め込む
ように整然と並べられていた。
 現地説明会は25日午前11時から。
9月22日 18:40 【共同通信】

16 :
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100922/acd1009222124002-n1.htm
 奈良県高取町の壷阪寺は22日、境内の三重塔(重要文化財)の基壇近くで80年以上前に発見された須恵器の
壺の年代が、奈良時代であることが県立橿原考古学研究所の鑑定で分かったと発表した。三重塔は平安時代末の
創建とされるが、同寺は「文献には登場しない三重塔の前身の建物があり、そこで水瓶(すいびょう)として使われた
仏具ではないか」としている。
 寺伝によると、同寺は白鳳時代の703年に開かれ、三重塔は1127年の創建で室町時代の1497年に再建され
現在に至る。ただし、礎石は白鳳時代の特徴があるとされる。
 壺は高さ9・3センチで、大正14年〜昭和2年に行われた三重塔の解体修理の際に出土。粘土で塔をかたどった
「泥塔(でいとう)」2点も同時に見つかり、これらは鑑定の結果、鎌倉〜室町時代と分かった。全長6・4センチと5・4
センチで、大きい泥塔には梵字(ぼんじ)が記されている。再建時に寄進、奉納されたと推測できるという。
 壺と泥塔は、「壷阪寺三重塔特別開扉と秘宝公開」(10月1日〜12月18日)で初公開される。
9月22日 21:21 【産経新聞】

17 :
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/iwate/news/20100923-OYT8T00066.htm(画像あり)
 盛岡市玉山区の芋田沢田4遺跡で昨年見つかった縄文時代後期初め(3500年前〜4000年前)のストーンサー
クル(環状列石)の下から今年、墓穴や副葬品が発掘され、埋葬場所だった可能性が高まった。これまでに埋葬場所
と判断されたストーンサークルとは特徴が異なり、より個人に特化しているとみられ、専門家は「ストーンサークルの
成立の起源に関係するかもしれない」と注目している。
 同遺跡は、国道4号に近い約3000平方メートルに広がる。渋民バイパス建設ルートにあたり、昨年発掘を開始、
今年は5月から8月末まで作業した。ストーンサークルのほか、同時期の集落跡や、集中して見つかるのは珍しいと
される縄文時代早期中頃(8000年前)の住居跡約20軒分も発見されている。
 ストーンサークルは真南に頭を向けた雪だるま形で、一部が重なった直径約8メートルと同約3メートルの二つの
円に沿って石が並んでいた。その下を掘った結果、小さい円の中心部に墓穴(縦約130センチ、横約90センチ)を
発見した。小判形で南北方向に掘られ、埋葬者の頭と足にあたる部分に副葬品と見られる石のやじりが共にあった。
更に周囲に墓穴が三つ見つかった。
 最も北となる大きい円の頂点部分からは、直径約10センチの壺(つぼ)を発掘。中には小さな石と砂が詰まっていた。サークルに隣接し、6本の柱穴が等間隔の2列で並んでおり、葬送儀礼にかかわった建物跡の可能性もある。
 盛岡大学文学部の熊谷常正教授(日本先史考古学)は「副葬品から判断し、埋められたのは集落の中心だった
男性の可能性が高い。壺は男性にかかわる女性の存在を示し、周囲の墓穴は男性の縁者のものでは」と指摘する。
 全国的に有名な秋田県鹿角市の大湯環状列石など、墓だったと見られるストーンサークルは多いが、多くの墓穴が
二重の円状に並ぶという共通の特徴がある。一方、今回見つかったものは、墓穴を特定の有力者のために作ったと
みられる。
 熊谷教授は「ストーンサークルが二重構造になる前の形かもしれないし、一つの完成型の可能性もある。今後、設立
時期や壺を研究し、もう少し詳しい状況がわかるだろう」と語った。発掘は来年も続く予定。
9月23日 【読売新聞】

18 :
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20100923000065(画像あり)
 宇治市は22日、寺界道(てらかいどう)遺跡(同市五ケ庄)の発掘調査で、古墳〜奈良期の建物の掘っ立て柱跡が
新たに見つかった、と発表した。遺跡の南西端とみられるといい、市は「遺跡の範囲が予想より南西に広がっていた。
非常に大きな集落があったと思われる」としている。
 寺界道遺跡は陸上自衛隊宇治駐屯地の北側にあり、同市五ケ庄の寺界道、野添、大林一帯を含む集落遺跡。これ
までに3回調査している。今回は集合住宅建設に伴い、8月30日〜今月18日に五ケ庄野添の民有地約169平方メー
トルで発掘調査した。
 調査では直径約20〜50センチの掘っ立て柱や柵列の穴が見つかった。出土した土師(はじ)器や須恵器から古墳
〜奈良期の遺構と判明。掘っ立て柱は小規模な住居に用いられたと考えられ、調査範囲では少なくとも2棟は建って
いたとみられるという。また、一緒に発掘された東西に延びる流路の一部(幅約1メートル、長さ約10メートル)や井戸
の跡は江戸期の遺構だった。
 寺界道遺跡北東の二子塚(ふたごづか)古墳(五ケ庄大林)では、かつて旧石器時代のナイフ型石器が見つかって
おり、市歴史まちづくり推進課は「古くから一帯に連綿と人が住んでいたと思われる」としている。現地説明会は行わない。
9月23日 12:23 【京都新聞】

19 :
http://mytown.asahi.com/areanews/fukui/OSK201009220157.html(画像あり)
 美浜町教委は22日、町内を流れる耳川近くの同町興道寺の興道寺廃寺(こうどうじはいじ)から、墨で「耳」と書かれた
須恵器のふた「墨書土器(ぼくしょどき)」(直径13.2センチ、高さ1.2センチ)が出土したと発表した。若狭地域で最古級
の寺院とされる興道寺廃寺で、墨書土器が出土したのは初めて。同町教委は25日、現地説明会と歴史フォーラムを開く。
 同町教委のこれまでの調査で、興道寺は7世紀後半から8世紀初頭にかけて創建され、8世紀後半に再建されたと
みられている。
 墨書土器は2009年6月〜9月の調査で、8世紀後半から9世紀ごろの地層の上の地層に、伏せた形で見つかった。
寺院再建期の塔の南西の角にあたる基礎「基壇(きだん)」の上の地層からの出土だ。須恵器の形状、地層などから、
9世紀後半から10世紀前半の土器とみている。
 同町教委の松葉竜司学芸員は「墨書土器はきちんと置かれており、廃寺の際に儀式で使われた可能性がある。この
ころに寺が衰退し、廃寺になったと考えられる」と分析する。
 この墨書土器には、墨で「耳」(縦7.5センチ、横5センチ)と書かれた文字が、うっすらと読める。松葉学芸員は、「耳」
の文字について、(1)寺名からの引用(2)地名「若狭国三方郡弥美(みみ)郷」(3)古事記にも記載されている地元の
豪族「耳別(みみわけ)氏」――の可能性を挙げる。
 今年度は5月から9月までに9カ所の約190平方メートルを調査。その結果、講堂の基壇を確認し、講堂の基壇は
東西が16.5メートル、南北が11.9メートルと分かった。
>>20

20 :
>>19から
 町教委は、一般向けの現地説明会を25日午前9時半〜11時、歴史フォーラム「ここまで分かった! 興道寺廃寺 
耳別氏、耳川流域に起つ」(定員は100人)を同日午後1〜5時、同町河原市の美浜町中央公民館ホールで催す。
ともに、申し込み不要、参加無料。現地説明会会場には駐車場がないため、町役場一般駐車場を使う。(高橋孝二)
9月23日 【アカヒ新聞】
【産経新聞】 http://sankei.jp.msn.com/region/chubu/fukui/100923/fki1009230157002-n1.htm
【毎日R新聞】 http://mainichi.jp/area/fukui/news/20100923ddlk18040605000c.html

21 :
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20100923/201009230859_11743.shtml
 大垣市教育委員会は22日、同市昼飯町にある全長150メートルの県内最大の前方後円墳「昼飯大塚古墳」(国史跡)
について、周辺の土を何層にも積み上げて、人の足で踏み固めて築造した過程の全容が明らかになった、と発表した。
担当者は「これほど巨大な前方後円墳で築造過程が明らかになることは全国的にも珍しい」としている。
 同市は、昨年度から4年間かけて保全整備に着手。昨年度は前方部、本年度からは後円部の整備を進めている。合わ
せて土の強度や密度、水分の量などを調査していた。
 その結果、古墳の盛土は周辺の土を使い、砂や粘土を混ぜながら、一層が約15〜40センチの厚さでかさ上げを繰り
返し、人の足で踏み固めて築造していたことが分かった。また土は水平にかさ上げされていることも明らかになった。
 古墳の盛土工法に詳しい京都大学防災研究所の三村衛准教授は「巨大な前方後円墳でどのように土を積み上げたか、
いまだに分からないことが多い。昼飯大塚古墳は、墳丘断面が広く露呈していたために調査には好都合だった」とコメント
している。
 同古墳は4世紀末の築造。全長約150メートル、後円部の高さが13メートルに達する大型古墳で、2000(平成12)年
に国史跡に指定された。同市は、13年春までに墳丘を修復するなど古墳の再生と歴史公園を整備する予定。
 25、26日の午前10時から、現地で一般公開が行われる。25日午後1時30分からは同市室本町の市スイトピアセンター
で整備事業の中間報告などを行う。
9月23日 08:59 【岐阜新聞】

22 :
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100924/acd1009242044002-n1.htm
 蘇我稲目(そがのいなめ)により国内で最初に仏像が置かれた地とされる奈良県明日香村豊浦の向原寺(豊浦寺)で、
昭和49年に盗まれた金銅観音菩薩像が36年ぶりにオークション・カタログから見つかり、同寺が24日、発表した。仏像
は飛鳥時代にさかのぼる寺宝で、蘓我原(そがはら)敬浄住職は「長い旅でした。いつか絶対帰ってくると信じて待って
いました」と話した。
 仏像は像高24・1センチ。寺伝によると、江戸時代の明和9(1772)年に境内の「難波池」から頭部(4・1センチ)のみ
が発見され、当時の京都の仏師により新たに体部が鋳造され、接合されたとされる。
 仏像について蘓我原住職から聞いていた、大阪大大学院で仏教美術を研究する三田覚之さん(28)が先月9日、古美
術のインターネットオークションを開催する「古裂会(こぎれかい)」の会員制カタログから発見。同会の仲介で同寺が出品
者から買い取った。カタログでは最低落札価格は35万円だった。
 一方、仏像とともに盗まれた厨子(ずし)は出品されておらず不明のまま。窃盗罪はすでに時効で、盗んだ人物の特定
は難しいという。
 改めて仏像を鑑定した鈴木喜博・奈良国立博物館上席研究員は「飛鳥時代後期(7世紀末〜8世紀初め)の特徴と共
通する頭部の歴史的価値に加え、伝承の通りに補作され信仰されたことがわかる注目すべき仏像だ」と評価している。
 盗難があった昭和49年は、高松塚古墳の極彩色壁画が発見された約1年半後で考古学ブームが続いており、同寺を
訪れる観光客も多かったという。当時から住職だった蘓我原住職は「この寺に立ち寄る人は本当に歴史が好きな人」との
思いから参拝者に仏像を公開しており、犯行はその心意気を裏切るものだった。
9月24日 20:36 【産経新聞】

23 :
【読売新聞】 http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100924-OYT1T00953.htm
【アカヒ新聞】 http://www.asahi.com/national/update/0924/OSK201009240095.html
【毎日R新聞】 http://mainichi.jp/select/today/news/m20100925k0000m040055000c.html
【共同通信】 http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010092401000746.html
【毎日放送】 http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE100924181100390891.shtml(動画)

24 :
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100929ddlk27040323000c.html
 大阪市中央区の史跡「難波宮(なにわのみや)」跡の下層で、古墳時代中期(5世紀前半)ごろの須恵器の窯跡が
見つかったと、発掘調査をしていた大阪市教委と大阪市博物館協会大阪文化財研究所が28日に発表した。窯と共に
出土した須恵器は米や水などを貯蔵するための甕(かめ)が多く、近くに大和政権が建設・運営した倉庫施設が存在した
可能性が高い。難波宮跡では、同じ5世紀の法円坂倉庫群が既に見つかっているが、別の倉庫群がその20〜30年前
から存在していたことを示唆する資料になるという。【小林慎】
 同研究所によると、窯は2基で、いずれも地下を掘り抜き、骨組み材などで天井を架けたトンネル式。幅は1・3メートル
と1・48メートル、長さは残存部分で3・7メートルと3・8メートルで、全長は推定5メートル。補修状況から3〜5回以上
使用されたとみられる。
 同研究所は、窯から出土した須恵器(105点)を調査。▽米や布といった租税などの保存に使われる甕が9割以上を
占める▽壊れやすい須恵器の生産地は、必要とする施設の近くに設けられるのが通説▽日本書紀などから難波宮跡は
陸海の交通の要衝だった−−ことなどを理由に、租税品保管の倉庫が近隣にあった可能性が高いと判断した。須恵器の
形状などから生産時期を5世紀前半と推定し、法円坂倉庫群より20〜30年古いとしている。同研究所の市川創学芸員は
「古墳時代の早いうちから、難波宮跡が政治経済の中心だったと言える貴重な資料だ」と話した。
 発見資料は29日から大阪歴史博物館(大阪市中央区)10階展示コーナーで出土資料を、1階ロビーで写真パネルを
展示する。
9月29日 【毎日R新聞】
【アカヒ新聞】 http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001009290001
【読売新聞】 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100929-OYT8T00096.htm
【産経新聞】 http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100928/acd1009282227004-n1.htm
【共同通信】 http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010092801000647.html
【大阪日日新聞】 http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100929/20100929033.html

25 :
http://mainichi.jp/area/iwate/news/20100929ddlk03040008000c.html
 奥州市衣川区の国史跡、長者ケ原廃寺跡遺跡の発掘調査をしている市世界遺産登録推進室は28日、本堂の基壇跡
から熱を受けて赤くなった礎石の破片が大量に見つかったと発表した。同推進室の石崎高臣文化財専門員は「本堂が
火事で焼け、建て替えられた可能性がある」とみている。10月2日午前11時から現地説明会が開かれる。
 同推進室によると、基壇は礎石の下にそれを支える根石(直径30〜40センチ)が数個置かれ、それぞれの石を動か
ないように土を敷き詰めた構造になっていた。礎石の破片は基壇の表層部分から見つかった。表層部分を一度整地し、
礎石の破片を混入して再度造成したとみられるが、目的は分からないという。
 このほか、基壇東側に石列が発見され、基壇が石列で囲まれていたことも分かった。基壇の大きさは19・2メートル四方。
さらに東側の一部に階段状の張り出しも見つかった。
 長者ケ原廃寺跡は奥州藤原氏の時代から100年さかのぼる10世紀後半〜11世紀前半の寺院跡。【湯浅聖一】
9月29日 【毎日R新聞】
【岩手日報】 http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20100929_1

26 :
http://www.nnn.co.jp/news/100929/20100929052.html(画像あり)
 大山町教委は28日、国史跡指定を目指して2004年から発掘調査を続けている大山町大山の寂静山にある大山寺僧
坊跡から、14〜15世紀中ごろ(室町時代)に使用されたとみられる天目茶わん、香炉や花瓶、酒壷(つぼ)、青磁の人形型
燭台(しょくだい)などの遺物や陶磁器が新たに見つかったと発表した。中国や朝鮮半島からの高級な貿易品も多く、この
僧坊が大きな権力と富を誇っていたことをうかがわせる。
 大山寺は8世紀前半に創建され、中世に最盛期を迎えたとされる。僧坊の様子が分かる史料としては江戸時代中期
(1797年)に描かれた絵図が最古で、昨年秋に15世紀の竪穴建物跡や武具などが出土した。
 今回発掘された天目茶わんや香炉、花瓶などについて、町教委文化財調査班主幹の辻信広調査員は「僧坊内で茶や
香、花の文化があり、重要な客をもてなしていたのでは」とみる。高麗青磁の梅瓶(めいびん)など貿易品が多く出土した
ことから、僧坊での豊かな消費生活が推測されるという。
 また、昨年見つかった僧坊入り口の石段の東側から新たに延長約5メートル、高低差約1・2メートルの9段の石段跡を
確認。石段を上がった個所には横幅約7メートルの大きな門があったことも分かったという。
 辻調査員は「出土した遺物や遺構を見て、大山寺の中でも有力な僧坊だったことが推測される」と話した。
 2日午後1時半から、現地説明会が開かれる。
9月29日 【日本海新聞】
【毎日R新聞】 http://mainichi.jp/area/tottori/news/20100929ddlk31040550000c.html
【読売新聞】 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tottori/news/20100928-OYT8T01146.htm

27 :
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1734262.article.html
 唐津城の石垣の内側から、江戸時代初期の築城当時の石垣の一部が見つかった。高さ50センチ、幅約3メートルに
わたって7個の石が並んでいる。築城に関しては古文書に簡単な記録があるだけで、市教委は「築城の歴史を解明する
手がかりになる」としている。
 天守閣がある本丸西側の石垣(高さ4メートル、幅約40メートル)から約3メートル内側の地中から見つかった。石垣の
最下部の根石で、割るなど加工されていない自然のままの石が出土した。現在の石垣に平行し、南北に7個連なっていた。
石垣はその後の改修などで壊されたとみられ、途切れている。
 周辺から江戸初期に朝鮮半島から伝わった陶磁器や瓦の破片など数十点が出土したことなどから年代を特定した。
 築城期の石垣の地層は粘土質だが、石垣の上には石や砂混じりの盛り土があった。土質が違うことから、過去に数回、
石垣を積み直す大規模な補修や改修が行われていたことがうかがえる。
 幕末の古文書では「寺沢広高が慶長7(1602)年から同13(1608)年に築いた」との記述が残っている。
 築城時の石垣とは別に、解体した天守閣西側の収蔵庫跡からやぐら台の石垣も出土した。南北9・5メートル、東西7・5
メートルの長方形で、瓦などの出土品などから江戸中期から幕末にかけ、平屋建てのやぐらが建っていたとみられる。
天守台東側の地中からは通常の割り石とは色や形状が異なる石が見つかり、天守閣の石垣も積み直した可能性も出てきた。
 唐津城では2016年までの予定で石垣の修復工事が行われている。市教委は「本丸には依然不明な点が多く、具体的な
遺構を手がかりに築城期の全容を明らかにしていきたい」と話す。
 市教委は10月3日午前11時と午後2時から現地説明会を開く。
9月29日 【佐賀新聞】
【毎日R新聞】 http://mainichi.jp/area/saga/news/20100929ddlk41040514000c.html
【読売新聞】 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saga/news/20100929-OYT8T00039.htm
【アカヒ新聞】 http://mytown.asahi.com/saga/news.php?k_id=42000001009280002

28 :
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/100929/nar1009290211003-n1.htm
 江戸時代から続く古書店「竹苞書楼(ちくほうしょろう)」(京都市中京区)に保管されていた台帳の裏面が、源氏物語の
注釈書である「覚勝院抄(かくしょういんしょう)」(1570年代)の写本だったことがわかり、28日、奈良大文学部国文学科
の永井一彰教授が発表した。
 発見された写本は、竹苞書楼が明治7年に作成し、書店で保管している版木の収納場所を記した「板木(はんぎ)分配
帳」に裏紙として使われていた。台帳を調べていた永井教授が見つけた。写本は72ページで、源氏物語の「幻」の巻の
約半分と、「匂宮(にほふみや)」の巻のほぼすべてで源氏物語全体のごく一部。著者や書かれた年代は不明で、竹苞
書楼からは残りの写本は発見されなかったという。
 永井教授は「紙は当時貴重なもので、竹苞書楼に売られたものがばらばらになり、写本とは認識せずに裏紙に使われた
のでは」と話している。
9月29日 02:10 【産経新聞】
【奈良新聞】 http://www.nara-np.co.jp/20100929144641.html
【毎日R新聞】 http://mainichi.jp/area/nara/news/20100929ddlk29040442000c.html
【京都新聞】 http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20100928000170

29 :
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100930-OYT1T00384.htm
神奈川県、高校日本史必修化を1年前倒し
神奈川県教育委員会は29日の臨時会で、全国初の全県立高校の日本史必修化について、
当初予定していた2013年度から1年前倒しし、12年度から実施することを決めた。
必修化に伴う新科目「郷土史かながわ」と「近現代と神奈川」の独自教材も正式決定した。
日本史教材を独自に作成するのも都道府県では初めて。
県教委によると、日本史必修化の前倒し実施は、来年3月までに作成予定だった
県独自教材が半年ほど早く完成したのが理由。
また、13年度に全面実施される新学習指導要領に基づいて、
数学と理科の教育課程の変更が12年度に先行実施されることから、日本史必修化も合わせることにした。
従来の日本史A、Bに、新たな2科目を加えた日本史4科目のうち1科目が必修となる。
12年度の全校での必修化を前に、来年度から、モデル校20校で先行実施される。
(2010年9月30日10時35分 読売新聞)

30 :
http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/news/digest/2010/0930/1p.html(画像あり)
 山口市教委は29日、同市下竪小路の「大内氏関連町並遺跡」から出土した土師器皿(はじきざら)片に、金粒や銀粒
などの鉱滓(こうさい)が付着しているのが確認されたと発表した。金属生産史の専門家によると、鉱山ではない中世の
都市遺跡で貴金属の製・精錬が行われていた証拠になるとともに、土師器皿を精錬道具に使用した例は全国でも例が
ないという。
 市文化財保護課によると同遺跡の第33次調査(2000年度)で約30平方メートルを調査。土坑遺構から大内氏滅亡
直後とみられる16世紀後半の土師器皿片が7点出土し、うち3点に黒い鉱滓のようなものが付着していた。年報には
掲載したが、理科学的に分析調査してもらおうと、京都国立博物館保存修理指導室の村上隆室長と山梨県立博物館の
沓名貴彦学芸員に依頼した。村上室長は国内唯一の金属生産史の専門家で、2人が山口市役所で会見し、分析結果を
解説した。
 村上室長や沓名学芸員によると、エックス線調査や電子顕微鏡観察などで0.1〜0.2ミリ大の金の粒と銀の粒が確認
できた。日本の金属生産史では、村上室長が製・精錬第一期と位置付ける7世紀後半ごろから第2期とする16世紀後半
ごろまでの期間がよく分かっていないという。今回の分析結果は、この間の製・精錬の系譜をつないだり、見極める貴重な
史料という。
 金・銀が付着した土師器皿片は、10月5日から11月28日まで市歴史民俗資料館で開かれる「山口の栄枯盛衰『大内
の京』200年」で同時展示される。
9月30日 16:53 【山口新聞】
【中国新聞】 http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201010010005.html
【産経新聞】 http://sankei.jp.msn.com/region/chugoku/yamaguchi/100930/ymg1009300230000-n1.htm

31 :
追加
【アカヒ新聞】 http://mytown.asahi.com/yamaguchi/news.php?k_id=36000001009300003

32 :
http://mytown.asahi.com/areanews/oita/SEB201009300022.html(画像あり)
 大分市錦町3丁目の「中世大友府内町跡」発掘調査現場で、戦国時代の生活や南蛮貿易で栄えた街の様子がわかる
出土品が、次々とみつかっている。屋敷の堀とみられる場所からは多量の木製品や、ワイングラスのような薄手のガラス
器の破片が出てきた。県埋蔵文化財センターの小柳和宏主幹は「全国に戦国時代の城下町の遺跡はたくさんあるが、
これほど当時の姿が残っているところは珍しい」と話している。3日に出土品を展示する現地説明会が開かれる。
 県教委は1999年度に遺跡の発掘を始め、今回の現場の88次調査区は永禄年間(1560年代)まで「称名寺」という寺
があったと伝えられている。当時、九州で最も栄えていた街のメーンストリートで、寺の移転後すぐに幅約5メートル、深さ
約2.6メートルの大規模な堀と塀を巡らせた有力者の屋敷が建ったとみられる。
 多量の出土品はこの堀からで、近隣住民の「ごみ捨て場」にもなっていたらしい。9月22日には、多量の貝殻とともに
緑色で黄色い線が描かれたガラス器の破片が出てきた。過去の調査で厚手の皿などのガラス器は見つかったが、薄手
で模様が入ったものは初で、全国的にも珍しい出土品という。他に中国やベトナム製の陶磁器も見つかった。道を挟んだ
堀の向かいには、ポルトガル人宣教師や中国人らが住んでいた「唐人町」があり、彼らが壊れたものを捨てた可能性が
あるという。
 茶道具の灰匙(はいさじ)のようなきらびやかな真鍮(しんちゅう)製品がある一方、げた、くし、ひしゃく、ざる、こまなど
の木製品も次々と出土した。水がたまっていた堀に投げ込まれたため、風化せず残ったらしい。屋敷の塀の跡や、周囲
の集落から堀に排水する暗渠(あんきょ)の様子も発掘調査で判明した。
>>33

33 :
>>32から
 中世の府内町の繁栄は、1586年の島津氏の侵攻で幕を閉じた。その後、江戸時代になって北西1.5キロほどの海側
に新たに城が築かれて城下町が移動し、遺跡付近は田畑に変わったという。昭和30年代に約1.2メートルほど土を盛っ
て住宅や道路が建てられた。
 現地説明会は、同センター(省略)が3日午前11時から開き、出土品をプレハブ内に展示する。近くの顕徳町3丁目に
ある大友氏館跡の発掘現場でも市教委文化財課(省略)が同日午前9時半から10時40分まで説明会を開く。(原篤司)
10月1日 【アカヒ新聞】

34 :
http://www.kfb.co.jp/news/index.cgi?n=201010018
 郡山市田村町の守山小の体育館建て替え工事に伴う発掘調査で、古墳時代後期(6世紀後半ごろ)の豪族のものと
みられる前方後円墳の遺構が見つかったことが9月30日、分かった。
 同市一帯の古墳時代後期の勢力は現在の阿武隈川の西側に集中していたとみられていたが、今回の遺構は東側に
位置し、従来の見方を覆す貴重な史料となりそうだ。
 市教委から受託した市文化・学び振興公社文化財調査研究センターが今夏、敷地約1100平方メートルを調査。直径
約20メートルの円墳部分の溝跡を発見した。埋葬者を収める横穴式石室、埴輪(はにわ)の破片、勾玉(まがたま)、
須恵器なども出土した。
 発掘調査に伴い守山小の新体育館の着工が遅れ、来春の卒業式に間に合わない可能性が出てきた。
10月1日 10:44 【福島放送】

35 :
http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20101001/news20101001333.html(画像あり)
 国史跡の古代山城「永納山城跡」(西条市河原津)を発掘調査している同市教育委員会は30日までに、城内で初めて
鍛冶炉遺構を確認した。同市教委によると、古代山城で鍛冶関連の遺構が確認されたのは、岡山県総社市の鬼ノ城跡に
続き2例目。永納山城跡等調査指導委員会委員長の下條信行・愛媛大名誉教授は「城内で鉄製品の鍛造をしていたこと
を示す貴重な発見」と評価している。
 同日、同市周布の市東予郷土館で開かれた同委員会の会合で報告した。炉の使用時期は特定されていないが、付近
で見つかった土製品の形状などから、同城と同時期の7世紀後半から8世紀に使用されたとみられる。
 同城跡は市教委が昨年度から3カ年計画で調査。本年度は、昨年度から発掘している城内南東部斜面のトレンチを約
300平方メートル拡大。直径約20センチのくぼみ状の炉跡を発見した。鍛冶炉の送風管の先に取り付ける土製の「鞴
(ふいご)の羽口」の破片3点も出土。鉄滓(てっさい)や、たたいた鉄が飛び散った剥片(はくへん)なども多数見つかった。
10月1日 【愛媛新聞】

36 :
http://mimizun.com/2chlog/history/academy.2ch.net/history/kako/1029/10297/1029739403/188-211

37 :
ttp://www.47news.jp/CN/201010/CN2010100801000035.html
明治期の古写真デジタル化 ネット公開も検討、宮内庁
宮内庁が、主に明治期に撮影された古写真計約3万枚のデジタル化を進めている。
明治天皇の地方訪問の記録など近代化への歩みを進める国内の姿を切り取った
貴重な史料だが、撮影から100年を超えるものもあり、退色などの劣化が進む。
今後、原本の保護を進め、写真をインターネットで一般公開することも検討している。
写真は、明治天皇が全国を視察した際にお抱え写真家が撮影した各地の風景や、
福島県の磐梯山噴火(1888年)などの災害を写したものが多い。
写真を見た明治天皇が被災地に見舞金を出すこともあり、
担当者は「テレビもない時代。天皇にとって写真がメディア代わりの情報源だった」と話す。
ほかに、富岡製糸場(群馬県富岡市)や、気球を使って空撮した東京・新橋停車場周辺などをはじめ、
橋や灯台の完成を報告するために地方から献上されたとみられる写真もある。
これらの写真は天皇の側近が保管し、1937年に約1万枚が宮内省図書寮(現宮内庁書陵部)へ。
残り約2万枚は歴代天皇の手元に残されたが、昭和天皇が亡くなった後、
皇室に伝わる美術品を納めるために宮内庁が皇居内に建設した「三の丸尚蔵館」に引き渡された。
2010/10/08 08:05 【共同通信】

38 :
ttp://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010100801027
角川源義賞歴史部門に前田勉氏=財団学芸賞は小熊英二氏
角川文化振興財団が主催する第32回角川源義賞は8日、
歴史研究部門に前田勉・愛知教育大教授の「江戸後期の思想空間」(ぺりかん社)が選ばれた。
文学研究部門は後日発表する。
また、第8回角川財団学芸賞は小熊英二慶応大教授の「1968(上・下)」(新曜社)に決まった。
賞金各100万円。授賞式は12月6日、東京都千代田区の東京会館で。
(2010/10/08-22:39)

39 :
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20101013-OYO1T00477.htm
 兵庫県宝塚市の長尾山古墳で、木棺を粘土で覆った国内最古級とみられる巨大な粘土槨(かく)が見つかり、大阪大
考古学研究室と同市教委が12日、発表した。未盗掘のほぼ完全な状態で、粘土槨内は密閉状態と推定され、衣服や
鏡、刀剣などの副葬品が良好な状態で残っている可能性があるという。同古墳は、周辺の埴輪(はにわ)の形状から、
古墳時代前期の4世紀初めに築かれたとみられる。
 粘土槨は、被葬者を安らかに葬るため、木棺の周囲を粘土で固めた埋葬施設。見つかったのは長さ6・7メートル、幅
2・7メートル、高さ1メートルのサナギ形。深さ10〜40センチほどの小さなくぼみが数か所ある以外は、ほぼ原形をとど
めていた。畿内中央部で粘土槨が出現した4世紀初めに、即座にその方式を取り入れており、幅も通常の約2倍である
ことから、被葬者は大和政権と密接な関係があった地域の有力豪族とみられる。
 調査した福永伸哉・大阪大教授(考古学)は「空気に触れると腐食しやすい衣服などの繊維類や漆器、木棺など有機物
が原形に近い状態で保存されている可能性が高い」と話している。
 内部の発掘調査については今後、保存技術を整えてから検討するという。現地説明会は16日午前10時、午後1時から
の2回。小雨決行。問い合わせは同大学長尾山古墳調査団(省略)へ。
10月13日 【読売新聞】
【アカヒ新聞】 http://mytown.asahi.com/hyogo/news.php?k_id=29000001010130003
【産経新聞】 http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101012/acd1010122156004-n1.htm
【共同通信】 http://www.47news.jp/CN/201010/CN2010101201000576.html
【神戸新聞】 http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/0003528742.shtml
【毎日R新聞】 http://124.83.167.158/kansai/news/20101013ddn012040052000c.html

40 :
http://mainichi.jp/area/kagawa/news/20101013ddlk37040662000c.html
 さぬき市教委は12日、津田湾古墳群の一つ「けぼ山古墳」(さぬき市津田町)の4月からの発掘調査結果を発表した。
けぼ山古墳が、同古墳群では最も新しい4世紀終わりに造られたと確定した。同古墳群で2番目に大きい全長55メートル
の前方後円墳で、石棺片も初めて発見された。
 5世紀前半に造られた四国最大、全長139メートルの前方後円墳「富田茶臼山古墳」(同市大川町、国史跡)と時代が
近く、前方後円墳の形の移り変わりなどが分かる点で意義深いという。
 けぼ山古墳は、周辺から発掘されたつぼ型はにわの形状などから時代を特定した。同古墳群の他の古墳と比べると、
畿内にある鍵型に近づいていくのが分かる。石棺は、近くの火山(ひやま)産の凝灰岩で造られたくりぬき型。縄掛け突起
のついたふたか本体の一部が石室近くで発見された。盗掘されたとみられる。被葬者は当時の地域の有力者とみられる
が特定されていない。
 市教委は国史跡の指定を目指し、04年から同古墳群の変遷や特徴を解明するため、約20基のうち6基の前方後円墳
や円墳の発掘調査を進めてきた。16日午前10時半〜正午、現地説明会を開く。問い合わせは同市教委文化財係(省略)。
【馬渕晶子】
10月13日 【毎日R新聞】
【四国新聞】 http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/culture/article.aspx?id=20101013000093
【読売新聞】 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kagawa/news/20101012-OYT8T01166.htm

41 :
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101013/acd1010132045006-n1.htm
 福岡空港(福岡市博多区)の駐機場拡張予定地から、弥生時代以降の集落や水田などの遺跡が見つかり、九州地方
整備局博多港湾・空港整備事務所は13日、発掘を終えた現場を地元住民や報道関係者に公開した。遺跡からは古代
の流通貨幣「和同開珎」も出土し、福岡市教育委員会は「奈良時代以降、近くに大きな役所があったと考えられる」としている。
 遺跡が見つかったのは、南北に延びる滑走路の東側で、国内線第1ターミナルから南に約1200メートルの位置。空港
東側でこれまでに確認されていた弥生時代以降の「久保園(くぼぞの)遺跡」の一部とみられる。
 今回の発掘で、弥生時代から中世にかけての水田や水路、河川の跡のほか、倉庫群の遺構が見つかり、当時の生活
のようすをうかがわせる木製農具や石包丁、甕棺(かめかん)の破片なども大量に発見されたという。また、和同開珎や、
裏底に「上」と墨書された須恵器も出土。市教委によると、奈良時代のころは和同開珎を使ったり、字を書いたりできたの
は限られた階層だったことから、大きな役所の近くである可能性が高いという。
 福岡空港では今月末から始まる夜間駐機場の拡張工事を前に、平成20年7月から拡張エリアと重なる約6千平方メー
トルの部分の発掘作業が進められていた。
10月13日 20:44 【産経新聞】
【共同通信】 http://www.47news.jp/news/2010/10/post_20101013130254.html
【RKB毎日放送】 http://news.rkb.ne.jp/rkb_news/archives/016638.html

42 :
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101013/acd1010132034004-n1.htm
 国史跡「難波宮(なにわのみや)跡」(大阪市中央区)近くで、古代史最大のクーデター「大化の改新」(645年)後に
孝徳天皇が築いた「難波長柄(ながら)豊碕(とよさき)宮」の宮殿に使われたとみられる土壁の破片が大量に見つかり、
大阪市博物館協会・大阪文化財研究所が13日、発表した。土壁の一部は表面が白く塗られ、宮殿が白壁だったことが
判明。高熱で焼けた痕跡もあり、686年に宮殿が焼失したという日本書紀の記述を裏付けた。宮殿跡で白壁が出土した
のは全国初という。
 土壁の破片は最大20〜30センチで、数センチ大のものも含めると千点以上が出土。壁は厚さ40〜50センチと推定
され、建物は強固な構造だったとみられる。土壁のうち数十点は、漆喰(しっくい)か白土で白く塗られていた。天皇が国
家的儀式などを行った「内裏(だいり)前殿」など中心施設に用いられた可能性が高いという。
 土壁は通常、長い年月の間に風化して粉状になるため、発掘で見つかる例は少ない。土壁は炎で赤く変色している部
分があり、686年の火災で土器のように焼き固まったため、残ったらしい。難波長柄豊碕宮は652年に完成。686年に
焼失したが、奈良時代の744年、同じ場所に聖武天皇が首都「難波宮」として再建した。
 現地説明会は16日午前10時から。JR環状線森ノ宮駅下車、西へ徒歩10分。問い合わせは大阪市博物館協会((電)省略)。
10月13日 20:33 【産経新聞】
【読売新聞】 http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20101013-OYT1T01282.htm
【日本経済新聞】 http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819695E3E1E2E6968DE3E1E3E2E0E2E3E29180EAE2E2E2
【アカヒ新聞】 http://www.asahi.com/culture/update/1013/OSK201010130091.html
【共同通信】 http://www.47news.jp/news/2010/10/post_20101013163002.html

43 :
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20101013-OYO1T00243.htm
 奈良市大森町の平城京(710〜784)跡で、碁盤の目状に区画された「坪」と呼ばれる一画が、奈良時代後半には細
かく分割されて宅地になっていたことがわかり、市教委が12日、発表した。宅地の大きさが短期間で3度変遷しており、
平城京でも“ミニ開発”が進んでいたらしい。市教委は「都市化で人口が増え、様々な身分の人に土地を割り当てたこと
がうかがえる」としている。
 坪は、大路で囲まれた区画を16に分けた単位(約1・5ヘクタール)で、現在のJR奈良駅の南西約0・5キロにあたる
平城京東部の「左京五条四坊十六坪」を発掘。約200棟分の建物跡や井戸跡20基などが出土し、地層などから奈良
時代後半の3時期の遺構とわかった。前半は未利用地だったらしい。宅地は通路や溝で区切られ、大きさは当初、坪の
4分の1か8分の1だったが、次第に細分化。最終的には6種類となり、これまで知られていない16分の3や24分の1の
宅地もあった。
 奈良時代、役人は官位に応じて宅地を支給され、調査地には下級役人らが住んだとみられる。今回、銅のるつぼも
見つかっており、工房があった可能性もある。
 現地説明会は17日午後1時から。小雨決行。
 森郁夫・帝塚山大名誉教授(歴史考古学)の話「平城京では何度も宅地割りが変わっていたことがわかる。役人だけで
はなく、工房で働く人の宿舎などがあったのかもしれない」
10月13日 【読売新聞】
【毎日R新聞】 http://mainichi.jp/area/nara/news/20101013ddlk29040612000c.html
【アカヒ新聞】 http://mytown.asahi.com/areanews/nara/OSK201010120147.html
【産経新聞】 http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/101013/nar1010130327003-n1.htm
【奈良新聞】 http://www.nara-np.co.jp/20101013094208.html


44 :
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101013/acd1010132039005-n1.htm
 兵庫県豊岡市立出土文化財管理センターは13日、同市出石(いずし)町の出石史料館で、江戸時代後期に出石藩が
作製したとみられる山陰海岸の古地図11枚が見つかったと発表した。今月、世界ジオパーク(地質公園)に認定された
「山陰海岸」(兵庫県、京都府、鳥取県)の東西約110キロにわたる該当エリアのうち、東側にあたる但馬・丹後地方
約60キロが描かれていた。センターは「古地図を参考にジオパークを訪ねることもできる」と話している。
 古地図は最も大きいもので縦約1.8メートル、横約6メートル。つなぎ合わせると、京都府京丹後市の経ヶ岬から兵庫
県香美町の御崎地区までの約60キロの範囲になる。岩場や崖(がけ)、海沿いの集落など、とくに海岸部については墨
や岩絵の具で詳細に描かれている。
 具体的な作製時期は不明だが、江戸時代後期に海防の必要性を感じた幕府の指示を受け、出石藩が丹後に領地を
持っていた宝暦13(1763)年〜天保6(1835)年の間に作ったと推定されるという。
 約60キロの範囲を対象とした古地図には、荒磯のため船の出入りができない場所は描かれておらず、センターは
「海岸防御の観点から作製されたのではないか。このような史料は他に見たことがない」としている。
 今年6月、同館の害虫駆除を行った際、土蔵奥の戸棚から木箱に入った古文書を発見、11枚の古地図が見つかった。
 センターでは31日から11月3日までの4日間、同市大磯町の「じばさんTAJIMA」3階で古地図を一般公開する。
10月13日 20:37 【産経新聞】

45 :
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201010130022.html
 幕末の鳥羽・伏見の戦いで圧勝した新政府軍の長州藩が、徳川幕府の譜代大名だった福山藩を攻めた1868(慶応4)年
1月の戦いで、両藩の和平交渉のやりとりを記した古文書が見つかった。交渉での発言内容を詳しく伝える記録が確認され
たのは初めて。
 古文書は和紙7枚をつなぎ、縦23・5センチ、長さ231・9センチ。両藩の発言を「福山言」「長人言」と台本のように記し、
やりとりを生々しく伝える。福山藩が「徳川が朝廷の敵になったとは聞いていない」と訴えると、長州藩は「朝敵同然の徳川
譜代の家へは通達がなかったのだ」と応じ、正当性を互いに主張。福山藩は「戦う力はない。戦いはお断り」とし、長州藩
も「天皇は無益な戦いをしないのが国のためと申されており、長州藩と福山藩は国を思う心で同じ」と収拾する。署名はない。
 鳥羽・伏見の戦いから3日後、長州藩が福山城の北側から攻め入り、現在の備後護国神社一帯で銃撃戦となった。福山
藩が朝廷への恭順を示したため、当日終結した。
 福山藩士の子孫の男性が5年前に福山市の実家で古文書を発見。同市の広島県立歴史博物館が鑑定した。15日から
始まる企画展で初めて公開する。西村直城主任学芸員は「時代の波に翻弄(ほんろう)された福山藩の苦悩が読み取れる。
幕末の郷土史に光を当てる貴重な史料だ」と話している。
10月13日 【中国新聞】

46 :
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201010140053.html
 三原市教委が同市本郷南の三太刀(みたち)遺跡で進める発掘調査で本年度、大量の土器や庭園だった可能性が
ある水路の跡などが見つかった。遺跡は14世紀前後に付近一帯を治めた小早川氏が拠点とした館だったとみられる。
市教委は16日に現地説明会を開く。
 遺跡は区画整理事業に先立って2000年度から調査が始まった。これまでに館があったことを示す溝や支柱の穴、
青磁や白磁の輸入磁器などが見つかっている。本年度は遺跡北側の約400平方メートルを調査し、素焼きの杯や茶
わんなど数百点が出土したほか、池や蛇行した水路の遺構も見つかった。
 説明会は午後1時から。市教委の学芸員が調査や出土品などについて報告する。無料。雨天中止。市教委生涯学
習課=電話(省略)。
10月13日 【中国新聞】

47 :
http://mytown.asahi.com/kochi/news.php?k_id=40000001010140003
 高知市教委は13日、同市神田の「神田ムク入道遺跡」の一画で6月から進めていた発掘調査で、奈良時代〜平安
時代初めの集落跡、平安時代末〜鎌倉時代の屋敷跡が見つかったと発表した。同市内で集落全体の様子が分かる
遺跡の発見は珍しいという。
 市教委によると、今回は神田川の南側の介護施設の建設予定地約900平方メートルを発掘調査した。縦に7本、横に
1本の溝(幅約35センチ〜1メートル)がほぼ直線状に延び、溝の間に直径20〜30センチの柱穴が多数あった。奈良
時代から平安時代初めの庶民の集落跡とみられる。
 須恵器の杯や皿などのほか、豪族らが都の赤い土器をまねて好んだとされる赤彩土師器(せきさいはじき)なども出土。
集落が豪族らの支配下にあった可能性があるという。東側からは平安時代末〜鎌倉時代の建物跡や土坑などが見つ
かった。12〜13世紀に中国でつくられた皿や茶わん、大阪でつくられていた土器、高価な青白磁皿も出土し、有力者の
屋敷跡と見られる。
10月14日 【アカヒ新聞】
【毎日R新聞】 http://mainichi.jp/area/kochi/news/20101014ddlk39040667000c.html

48 :
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/101014/nar1010140328004-n1.htm
 平城京跡から出土した2種類の軒丸(のきまる)瓦と、安芸の国分寺(広島県東広島市)の創建時の瓦が、同じ木型
(笵(はん))で造られていたことが13日、奈良市教委への取材で分かった。これまでにも唐招提寺(奈良市)と丹波の
国分寺や、西隆寺(同)と信濃の国分寺で同笵の瓦が見つかっているが、平城京と同笵の瓦が地方で確認されたのは
初めて。
 安芸の国分寺の瓦には木型に彫り込みを加えた跡が見られることから、木型は平城京で使用された後、国分寺創建
を援助するために安芸に持ち込まれたとみられるという。
 平城京跡の瓦は平城宮や寺以外の一般邸宅専用に生産されたもので、奈良市大森町や法蓮町などで昭和58年〜
平成19年に発見された。市教委の研究員が、安芸の国分寺で発見された瓦と模様が同じで、同じところに木型の傷が
ついていることに気づき、同笵と分かった。
 国分寺と同笵の平城京跡の瓦は、来月1日から12月28日まで奈良市埋蔵文化財調査センター(同市大安寺西)で
開かれる「平城の甍(いらか)」展に出品される。
10月14日 03:28 【産経新聞】
【読売新聞】 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news/20101013-OYT8T01316.htm
【奈良新聞】 http://www.nara-np.co.jp/20101014103534.html
>>47追加
【読売新聞】 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kochi/news/20101013-OYT8T01142.htm

49 :
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101015/acd1010150146000-n1.htm
 考古学で国内最大の学会、日本考古学協会(東京、菊池徹夫会長)が所蔵している遺跡発掘報告書など約5万6千冊
の蔵書について、保管コスト高などを理由に英国の研究所に一括寄贈することを決めたことが14日、分かった。弥生時
代の生活ぶりの解明につながった登呂遺跡(静岡市)の報告書など戦後60年以上にわたって蓄積された貴重な蔵書が
そろい、会員からは「海外流出は文化資産の損失」と反発する声がある。協会は急遽(きゅうきょ)、16日に兵庫県で臨時
総会を開き会員の意見を聞くが、紛糾が予想される。
 考古学協会は昭和23年に設立され、大学教授や自治体の教育委員会の発掘担当者ら約4200人が会員。
 蔵書は当初、都内の協会事務所で保管していたが、手狭になり、30年ほど前から千葉県市川市の市川考古博物館や
都内の倉庫で保管。現在は一括して埼玉県所沢市内の倉庫に置かれている。蔵書の利用は、市川考古博物館に保管し
ていた当時は年間数人程度で、倉庫の蔵書は段ボール箱に入れられたまま。一方、倉庫の賃貸料などに年間約100万
円かかるうえ、資料を整理して常時閲覧ができるように整備すると多額の費用がかかる。協会は「保管は限界」として、
平成19年度に蔵書の一括寄贈の方針を決定。昨年、寄贈先を公募したが、国内の研究機関などからはゼロで、唯一
応募した英国のセインズベリー日本芸術研究所に決まった。(中略)
 ただ、この経緯について「理事会だけで進められ、十分な説明がない」と一部の会員が反発。会員の1割以上約500人
の反対署名が集まった。寄贈に反対する橋口定志・東京都豊島区教委学芸員は「蔵書は戦後の日本考古学の発展過程
を示す文化的財産。海外放出は学問的危機」とし、「コストや保管場所の確保で難しい面もあるが、蔵書の有効活用を考
えるべきだ」と訴える。考古学協会理事の石川日出志・明治大教授は「蔵書の活用について何十年も議論したが、具体化
する目途が立たない以上、現実的な方法を探るしかなかった。国内で保管したかったが苦渋の選択」と話す。
10月15日 01:45 【産経新聞】

50 :
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20101015000033
 京都市上京区の同志社大今出川校地で、旧相国寺境内の発掘調査が行われている。すでに室町時代の建物遺構など
が見つかっており、相国寺創建とそれ以前の土地利用の実態解明が期待される。
 同志社中解体工事に伴う調査で、同大学が8月から実施、現在は2千平方メートルで進めている。これまでに、調査区
域の南側で柱を据える礎石の土台となる「根固め石」の跡が見つかった。相国寺が焼失した応仁の乱後の15世紀後半
〜16世紀ごろの造営とみられ、東西に直線的に並ぶ格好で北側で4カ所、南側で2カ所が検出された。こぶし大の石を
直径約1メートルの規模でほぼ円形に敷き詰めており、この石の上に礎石を置いたと考えられる。
 柱の間は4メートル余りと推定され、全容は明らかでないが大規模な建物跡とみられる。建物の名称や用途は不明だが、
同大学は「当時の相国寺の主要な塔頭や施設だったのでは」としている。
 調査は約7千平方メートルを対象に来年3月まで行う予定で、調査を担当する同大学の鋤柄俊夫教授(日本考古学)は
「一帯の土地利用が始まったと考えられる奈良時代から相国寺創建ごろまでの様子が明らかになれば」と期待している。
10月15日 09:35 【京都新聞】

51 :
http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20101016/CK2010101602000053.html
 県教育振興財団は、弥生時代後期から古墳時代前期(2〜3世紀)の住居跡や、戦国時代(15〜16世紀)の城館跡が
見つかっている袖ケ浦市上泉の複合遺跡「文脇(ふみわき)遺跡」で、鎌倉時代から室町時代にかけての渡来銭約7000枚
が出土したと発表した。発掘現場で19日、現地説明会を開く。 (福原康哲)
 考古学の発掘現場で大量の古銭が見つかったのは県内で初めて。同財団は「非常時に備えて大量の銭を蓄えていた
とみられ、この地域に当時、物流を掌握した有力者が住んでいた可能性が高い」と説明している。
 渡来銭は今年八月からの調査で、遺跡北西部の土坑と呼ばれる穴で発見された。このうち三百五十二枚を調べたとこ
ろ、いずれも中国からの渡来銭で、種類は三十六だった。最も多かったのは中国・北宋時代の一〇七八年に作られ始め
た「元豊通宝(げんぽうつうほう)」四十三枚。最も新しいのは、同・南宋時代の一二六〇年に作られ始めた「景定元宝(け
いじょうげんぽう)」だった。当時の渡来銭は、福岡や大阪では大量に見つかっているが、県内では珍しいという。
 文脇遺跡は、東京湾に流れる小櫃川中流北岸の台地にある。一九八七〜八九年度の調査では、遺跡の南東部で二〜
三世紀の竪穴住居跡三百九十五棟や、墓から小銅鐸(しょうどうたく)、ガラス玉が出土。昨年度の調査でも、十五〜十六
世紀の堀や土塁といった城館跡が北西部にあったことが分かった。(下略)
10月16日 【東京新聞】
【アカヒ新聞】 http://mytown.asahi.com/areanews/chiba/TKY201010150486.html
【千葉日報】 http://www.chibanippo.co.jp/news/chiba/local_kiji.php?i=nesp1287190171

52 :
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/0003546746.shtml
 甲南女子大(神戸市東灘区)が所蔵する「古今和歌集」が、鎌倉時代初期の写本であることが分かり、同大が20日、
発表した。欠落がない「完本」で、和歌の成り立ちや理想を論じた序文を漢字の「真名」と平仮名の「仮名」で収録。双方
の序文がそろった写本としては最古で、和歌研究の一級資料という。
 古今和歌集は905年、醍醐天皇の命で編まれた日本最初の勅撰和歌集。原本は現存せず、藤原定家(1162〜
1241年)による写本などが伝わる。
 同大所蔵の写本は上下2冊で、共に縦15・9センチ、横14・6センチ。計443ページ、約1100首を収める。1982年に
東京の古書店から購入し、比較的現存数がある鎌倉中期以降の本とみて書庫で保管していた。2008年、同大所蔵の
「源氏物語・梅枝の巻」の写本が最古級の鎌倉中期のものと判明したことを機に、関西大の田中登教授(古筆学)に鑑定
を依頼。鎌倉初期に上流貴族が用いた書体であることや和歌の書き方などから、1220〜40年ごろの写本と特定した。
同時期に定家が古今和歌集を写した「嘉禄二年本」は国宝、「旧伊達家本」は国重要文化財に指定されている。
 甲南女子大の米田明美教授(日本文学)は「上巻冒頭に真名序と仮名序を載せている点が大きな特徴。古今和歌集は
双方の表記の序があったと考えられているが、平安時代の写本『元永本』などには真名序がなく、新資料として貴重」と
話している。
 23日から30日まで、同大図書館で公開される。24日休館。
10月20日 22:11 【神戸新聞】
【読売新聞】 http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20101020-OYT1T01038.htm
【毎日R新聞】 http://mainichi.jp/select/today/news/m20101021k0000m040074000c.html
【時事通信】 http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010102000737&j1
【共同通信】 http://www.47news.jp/CN/201010/CN2010102001000699.html

53 :
http://mainichi.jp/select/today/news/20101021k0000m040067000c.html
 宮城県多賀城市の国特別史跡・多賀城跡(陸奥国府跡)の発掘を進める県多賀城跡調査研究所は20日、東側の外郭
で新たな門跡を発見したと発表した。奈良時代の多賀城創建(724年)に近い時期に建設された通用門跡とみられる。
柱を立てるために掘った穴は「奈良・平城京にもない巨大さ」(同研究所)という。
 多賀城跡で確認した門跡は今回で4カ所目。発見した門跡は、外郭東辺のほぼ中央部にあり、掘っ立て式の八脚門と
みられ、大きさは幅約10メートル、奥行き約6メートル。門の規模は他の門とほぼ同じだが、柱を立てる穴は方形で、
一辺2.1メートル、深さ1.7メートルもあった。直径約45センチの柱を安定して立てるため、地中で木材を連結する珍しい
「地中梁(はり)」工法が施されたとみられる。
 約2キロ東には、物流拠点「国府の湊(みなと)」(現同県塩釜市内)があったことから、人や大量の物資が往来した通用
門の可能性が高いとみている。【渡辺豊】
10月20日 21:35 【毎日R新聞】

54 :
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101020/acd1010200031000-n1.htm
 大阪市西成区の天下茶屋北で、古墳時代前期(4世紀)のイイダコ漁用の蛸壷(たこつぼ)100個以上見つかったこと
が19日、分かった。調査をした市博物館協会・大阪文化財研究所などによると、これほど大量の蛸壷の出土は近畿では
珍しい。「たこ焼き文化」が浸透する大阪で、古代からタコ漁が盛んだったことを示す資料になりそうだ。
 蛸壷はいずれも高さ7〜11センチ、直径4センチ前後で、ほぼ完全な状態で見つかった。上部に穴があり、ひもを通し
て蛸壷をつなぎ海に沈めたらしい。イイダコ漁は、大阪湾や播磨灘などでは弥生時代中期(紀元前3世紀ごろ)に始まっ
たとされるが、これまで蛸壷の出土は多くても数十個程度。
 現在は、たこ焼き用のタコなどマダコ漁が中心だが、地元漁協などによると、イイダコ漁は底引き網漁で行われ、30年
ほど前までは蛸壷が使われていた。大阪の泉州地域などでは生後100日目に食事の格好をする「お食い初め」でイイダ
コが使われる風習が残り、森成元・大阪府教委文化財保護課主査(民俗学)は「今回の発掘は、古代からタコが大阪文化
と切っても切れない関係だったことがうかがえる」と話している。
 発掘調査では、干潟に生息するエビやカニの巣穴も見つかり、調査担当の小倉徹也学芸員は「発掘現場は今は大阪の
市街地だが、当時は入り江だったのでは」と推測する。発掘現場はすでに埋め戻されている。
10月20日 00:30 【産経新聞】

55 :
http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20101020/CK2010102002000119.html
 県の財政難の影響で、国宝や重要文化財に指定されている県内の歴史的建物の「手当て」が滞っている。県教育委員会は、
小規模な補修に対する補助を2008年度から休止しているため、建物を所有する寺社などに費用の負担がのしかかっている。
修繕の遅れにもつながり、維持管理の不備が「大きな破損を招く」との指摘もある。
 8月にイノシシによって腰高障子4枚が破られた大津市の三井寺の国宝・光浄院客殿。破損当初は、障子を取り外して
仮設の板戸をつけ、縁側に侵入防止柵を設けた。しかし、国宝に備え付けられた板戸は2カ月たった今も、その「応急措置」
のままだ。三井寺は、修復費100万円未満の小規模な破損修理をする指定文化財管理費事業を使って修復する予定だった。
しかし、事業休止の県教委の方針を知り、断念。現在、屋根全体の修復を国に申請中のため、それに追加する形で修復する
方針に切り替えた。国の修復工事は順番待ちが長く、着工時期は未定だ。三井寺の関係者は「財源の厳しさはわかる。
でも重要文化財を多く持つところは楽ではない」とつぶやいた。
 このほか、鎌倉時代に建てられ、国の重文に指定されている野洲市小篠原の日吉神社本殿で、落雷により自動火災警報器
が壊れたケースも。県教委は、警報器内部の基板修理などの費用を出せず、神社が全面負担した。
>>56

56 :
>>55から
 指定文化財管理費事業の主な内容は、修復費100万円未満の小規模工事のほか、防災設備の点検、文化財パトロール
の3つがある。国の指定文化財の場合は小規模破損修理と防災設備の点検は国と地元の県教委が50%、残りを所有者ら
が負担する。文化財パトロールは、委託を受けた地元の委員らが文化財の状態を細かく見て回るもので、県は今まで年間
約240万円をかけて続けてきた。県教委は現在、防災設備の点検だけを続けている。
 愛知、岐阜、三重、福井、静岡の5県教委は「重要な文化財。予算は確保している」と、修復に向けた財政支援をする。
しかし、長野県教委の担当者は「滋賀県と同じで、補助を出せていない。所有者に申し訳なく肩身が狭い」と話した。
 滋賀県文化財保護課の担当者は「予算があれば当然続けるべきであることは分かっている」と話すものの、「復活の見通し
はわからない」とする。文化庁では、滋賀県教委が小規模な修復工事を休止したことに加えて、本年度から文化財パトロール
も休止にしたことを問題視している。「小さな修理や点検を怠ることで、大きな破損につながる。滋賀県は重要文化財が多い。
正直困っている」と話している。(木原育子)
10月20日 【中日新聞】

57 :
徳川家茂死亡理由に新事実。
家茂が坐乗する軍艦咸臨丸が、六平級軍艦二隻を引き連れて、紀淡海峡付近の薩摩、長州艦隊と和平交渉のため、投降しようとした
ところ、大坂湾からはっせられた直径6`の巨大な光に呑まれて死亡していたことがわかった

58 :
福井の遺跡で古墳中期の記号土器 「墨書」では県内最古
 福井市文化財保護センターは25日、同市森田地区の河合寄安(かわいよりやす)遺跡で大量に出土した土器に、
直線や曲線を組み合わせた記号が記された古墳時代中期の「記号土器」24点が含まれていた、と発表した。
祭祀(さいし)具として使われた記号土器は古墳初期に全国で衰退しており、同センターは「古墳中期のものは
非常に珍しく、古代祭祀の動向を解明する上で貴重な発見。記号土器を使う祭祀の最終形ではないか」としている。
 24点のうち1点は、記号を墨とみられるもので書いた「墨書土器」だった。墨書土器は奈良時代以降の遺跡で
出土が多く、県内では最古。古墳時代以前のものは全国でも10例目、古墳中期に限れば全国初という。
 同遺跡からは木製の祭壇「案(あん)」や加工中の木製品が出土していることから、同センターは「地域の拠点
となる重要な集落があったことが裏付けられた」としている。
 出土品の整理作業を進めていた今年6月、記号土器を発見した。古墳時代以前の弥生中期から後期にかけて
主に近畿地方で流行し、水にかかわる祭祀で用いた記号土器と判明した。記号土器はすべて水場の遺構
「井泉(せいせん)」からまとまって見つかった。
 記号土器は直径20センチ、高さ15センチほどの「高坏(たかつき)」が10点と大小のつぼ、かめ。大半が底部の
裏面に記号が刻まれていた。記号は直線を2〜6本組み合わせたもの、「T」やリボンのような形、一部が欠けた円
などで、近畿地方のものと似ている。これらは動物や人物、高床倉庫を描いた絵を記号化したもの、
原始的な文字などとする説がある。

59 :
 同センターは「高坏の、しかも見えない底部に記されている例は全国的にもない」としている。
 墨書土器は復元した大きさが直径17センチ、高さ11センチの高坏で、2本の弧線に放射状の6本の直線を
配した記号が底部に書かれていた。意味は不明。赤く彩色した形跡もあり「墨で書くという当時の“最先端”技法
を使っており、祭祀の中で特別な役目を果たした」(同センター)と考えられる。
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news0/24418_1.html
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news0/photos/20101026070641_1649851884.jpg
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news0/photos/20101026070718_2030094311.jpg

5世紀の墨書土器出土 表面にシカの記号、福井
 福井市の河合寄安遺跡で、古墳時代中期(5世紀)に墨で記号を描いた「墨書土器」1点を含む土器24点が
出土したことが25日までに確認された。市文化財保護センターが発表した。
 同センターによると、墨書土器は古墳時代前期(4世紀初め)以前と奈良時代(8世紀)の遺跡から出土しているが、
この間の出土例はなかった。
 記号はシカをかたどったとみられ、土器を焼いた後に墨と筆で描いたとみられる。
 ほかの23点は、ヘラ状の道具で孤や直線などを刻んだ「記号土器」で、弥生中・後期(紀元前2世紀〜
紀元3世紀ごろ)に近畿地方で流行し、その後衰退したとされ、古墳時代中期の出土例は珍しいという。
http://www.47news.jp/CN/201010/CN2010102501001003.html
http://img.47news.jp/PN/201010/PN2010102501001026.-.-.CI0003.jpg

60 :
http://megalodon.jp/2010-1122-1223-38/www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201011220120.html
http://megalodon.jp/2010-1122-1224-06/www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201011220120_01.html
http://megalodon.jp/2010-1122-1227-00/www.asahi.com/culture/news_culture/images/TKY201011220112.jpg
歴史雑誌、乱世に突入 武将・龍馬ブームが追い風
2010年11月22日11時12分
老若の歴史ブームをあてこんで、歴史雑誌業界にこの秋、新参が相次いでいる。
時を同じくして「戦場」を去る雑誌もあり、出版不況のなかで群雄割拠の様相だが、
迎え撃つ古参誌側は「業界が活性化する」と歓迎している。
以下長文につき、魚拓リンク先参照


61 :
なんのこっちゃ

62 :
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010112700120
奈良時代の写経断簡発見=光明皇后が発願、正倉院と一致−大阪大
大阪大は26日、奈良時代に仏教を広めるため、聖武天皇の妻の光明皇后が
国家事業として進めた写経の一部(断簡)が見つかったと発表した。
この時代を代表する約7000巻の写経の一部とみられる。
現存する約1000巻の大半は正倉院で保管されており、
阪大は「正倉院宝物級の文化財」としている。来年5月に一般公開する予定。
見つかった断簡は「光明皇后発願出曜経巻第四」。
26枚の紙をつないだ巻物の最後の2枚とみられ、大きさは縦27センチ、横69センチ。
経文の終わりの部分と光明皇后が写経の趣旨を述べた願文が記されており、
当時の写経生が筆写したものとみられる。保存状態は良好という。
市大樹阪大准教授らによると、断簡は仏教史研究で知られた
井上薫阪大名誉教授の遺品から家族が見つけた。
阪大や正倉院の関係者が鑑定したところ、筆跡や紙質が正倉院にある「巻第六」と一致したという。
(2010/11/27-09:41)

63 :
ttp://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=292014X
■学術文庫『続日本後紀 全現代語訳』(上巻)についてのお詫びとお知らせ
-----------------------------------------------------------------------
弊社が2010年9月に刊行しました学術文庫『続日本後紀 全現代語訳』上巻の中で、訳文の付録として掲載した原文に、一部誤りのあることが判明いたしました。読者の皆様にご迷惑をおかけしましたことを、お詫び申し上げます。
訂正を施した第2刷は11月26日頃にできる予定です。すでにご購入のお客様には、順次交換をさせていただきます。大変恐縮ではございますが、下記の係に御連絡をいただけましたら、速やかに訂正の第2刷の本を送らせていただきますので
、下記要領を御覧いただき、ご理解を賜りますようお願い申し上げます。
今後このようなことのないよう、編集部一同、鋭意努めてまいります。
<問い合わせ先>
講談社不良本交換窓口係
〒112-8001 東京都文京区音羽2-12-21
電話【03-5395-3615】
<お願い>
※ご購入された上記本を、上記あて先に着払いでお送りください。その際、お送り先ご住所・お名前を明示されたものを同封ください。
※11月26日以降となりますが、速やかに交換本を発送させていただきます。
※下巻はまったく問題ありませんので、そのままご購読ください。

64 :


【台湾】馬英九総統「日本には謝罪責任がある」…従軍慰安婦問題で日本は自国の「恥部」を隠すべきではない [12/27]

台湾の馬英九総統は26日、台北市文化局や台湾婦女救援基金会が主催した、台湾の
元従軍慰安婦らの対日訴訟に関する特別展に出席し、「日本政府は歴史の過ちに対して
謝罪する責任を持つ」と発言。注目を集めている。環球網が台湾の報道を受けて伝えた。
主催者となる台湾の元従軍慰安婦らが対日訴訟を求めた2000年から、同基金会の活動
は今年で10周年を迎える。展示会では、元従軍慰安婦らによる日本への賠償要求や、
従軍慰安婦問題の教科書記載などを求める運動などが紹介された。
馬総統はこれまでも元慰安婦の名誉回復活動に積極的に参与しており、同基金会が制作
した台湾人元慰安婦に関する記録映画の撮影や、元慰安婦への補償活動などに関わった。
また、2008年には、元従軍慰安婦8人と会談し、同問題への関心の高さを示している。
馬総統は、特別展開会のあいさつで「日本は歴史で犯した過ちと向き合うべき」と述べ、
日本は自国の「恥部」を隠すべきでなく、また、謝罪責任を逃れるべきではないとの見解を
示した。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1293436105/



65 :
テスト

66 :
造山古墳築造は人口の激減期…岡山大
定説を覆す研究
 全国4位の規模を誇る岡山市の造山(つくりやま)古墳(5世紀前半、全長約350メートル)が人口の激減期に
築かれていたことが、松木(まつぎ)武彦・岡山大教授(考古学)の研究で分かった。地域の人口増加が大規模な
古墳築造を可能にしたとする定説を覆す成果として注目される。
 岡山県の瀬戸内海沿岸で出土した弥生時代末から古墳時代の住居跡1011戸を、約70〜100年ごとに
区切って変遷をみた。その結果、347戸と最も多かった弥生末〜古墳時代初頭(2世紀後半〜3世紀前半)から、
古墳時代前期前半(3世紀後半)には174戸に激減。同前期後半(4世紀)には47戸と最少になり、造山古墳が
築造された同中期前半(5世紀前半)も58戸と低調だった。
 戸数が激減した3世紀は、ヤマト王権が纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)を拠点として、奈良盆地南東部に
大型の前方後円墳を築いた時期。だが4世紀前半に纒向遺跡は急速に衰退、5世紀にかけて岡山のほか大阪や
群馬などでも全長200メートルを超える巨大古墳の築造が始まった。
 松木教授は「ヤマト王権に参加するため、全国の有力豪族たちが住民を引き連れて奈良に集まり、
地方の人口が急減した。その後、ヤマト王権の求心力が衰えると、豪族たちは地元に戻り、巨大古墳を造った
のではないか」と推測している。
(2011年1月19日 読売新聞)
ttp://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110119-OYO1T00298.htm

67 :
【奈良】「女王卑弥呼の宮殿」といわれている纒向遺跡から大量の山海の幸 祭祀の供物で並べられたか
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1295599247/

68 :
奈良県は31日、昨年の平城遷都1300年祭の内容をまとめた冊子
「平城京レポート」に誤記や再確認が必要な記述が計170か所あったと
発表した。
県は配布予定だった800部を、編集を委託した業者(東京)に返品し、
刷り直すよう求めている。昨年末に約1000部を発行した後、
20か所以上のミスが判明、対応を検討していた。
発表では、誤記は1567年に焼失した東大寺大仏殿を
「1000年以上も保存されている」とするなど47か所。
誤植は法華寺(奈良市)を「法華時」とするなど37か所。
確認が必要な表現も86か所あった。同レポートはA4判、
284ページで、編集費約400万円。昨年9月から3か月間で
外部のライターら約30人が執筆した。県は「執筆期間が短く、
確認も不十分だった」としている。
*+*+ YOMIURI ONLINE 2011/02/01[07:56:27] +*+*
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110131-OYT1T01091.htm

69 :
戊辰戦争でプロイセンに提携持ちかけ 会津・庄内両藩
http://www.asahi.com/culture/update/0205/TKY201102050167.html
戊辰戦争での薩摩・長州を中心とした新政府軍との対決を目前に、
会津・庄内両藩がプロイセン(ドイツ)との提携を模索していたことが
東京大史料編纂(へんさん)所の箱石大・准教授らの研究で明らかになった。ドイツの文書館で確認した資料は、両藩が北海道などの領地の譲渡を提案したが、宰相ビスマルクは戦争への中立などを理由に断ったことを伝えていた。


70 :
欧米よく、中立してくれたよな、
あんときの日本、ほんとやばかった

71 :
>両藩が北海道などの領地の譲渡を提案したが
うわあ・・・

72 :
応神陵に巨大方形壇 前方部、血縁者を埋葬か
ttp://www.47news.jp/CN/201102/CN2011021901000352.html

73 :
日中韓は8000年前から交易? 韓国での出土品が証明
 韓国の釜山市で8000年前のものと推測される共同墓地が発見され、韓国の専門家は、「墓地からの出土品は
8000年前にはすでに東北地区で交易が行われていたことが明らかになった」と述べた。中国の環球時報は18日、
「朝鮮半島の人びとは8000年前には日本や中国と交易していた」と報じた。
 研究院は17日、紀元前6000〜5000年前後のものと見られる共同墓地が発見され、26人分の人骨が発見された
ことを明らかにした。
 調査によると、人骨はそれどれ単独で埋葬されており、土器やサメの歯などが副葬され、中には長さ7センチ
メートル、直径3センチメートルという大型の玉(ぎょく)の装飾品を付けた人骨もあり、その周辺に13人分の人骨が
集中して安置されていたという。韓国文物研究院鄭義道院長は「大型の玉器を身につけた例は韓国の新石器遺跡
全体でも珍しいケースで、死者は特殊な地位にあった可能性がある」と指摘した。
 報道によると、これらは韓国で発見された玉器の中でもっとも古い部類で、ほかにも墓地全体から300以上の
黒曜石が出土した。韓国東アジア大学の李東朱教授は「これらの玉は中国東北地方のもので、黒曜石は日本から
来たものと思われる。これらは8000年前には東北地区にすでに、広域での特産物交易が行われていたことの重要
な資料となる」と述べた。
 韓国文物研究院の金尚賢課長は「今後の発掘で新たな発見の可能性もある。人骨の年齢や性別をDNAから
分析すれば、周囲の人骨との血縁関係も分かり、さらに正確な当時の社会状況が把握できるだろう」と述べた。
ttp://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0219&f=national_0219_097.shtml

74 :
1話6000万円をかける“お笑い”大河「江」は悪評しきり
 大方の予想通りの展開になってきた。上野樹里主演のNHK大河ドラマ「江」の視聴率がジリジリとダウンしている。
初回21.7%(ビデオリサーチ調べ・関東地区)でスタートして3回目には22.6%を記録したが、
今月13日の6回目に初めて20%割れの19.6%になり、20日の7回目はさらにダウンして18.5%。このままどこまで下がるかという状況になっている。
 理由ははっきりしている。マンガチック過ぎて視聴者がついていけないのだ。
現在の江は実際は6〜7歳だが、24歳の上野が演じていて赤い髪どめも変だ。
年齢のチグハグさは江に限らず出演者のほとんどにいえなくもなく、どうなってるの?というキャスティングだ。
 描き方も極端。放送評論家の松尾羊一氏がこう言う。
「江の上野はコメディーチックに描き過ぎだし、岸谷五朗の秀吉はピエロみたいですよ。
虚構が入っていてもいいけど、江が明智光秀に会ったり、清洲城まで家康に誘導してもらうのもおかしい。
信長、秀吉、家康という3人の戦国武将に詳しい世代、視聴者には飛躍し過ぎだと思います。
前回の『龍馬伝』はリアリティーを追及していたから、今回の『江』のテイストが余計に鼻につくともいえますが……。
視聴率ダウンも、途中までは付き合うけど、ひど過ぎるというのが理由ではないか」
 この“お笑い”大河1話につき6000万円くらいの受信料が使われている。これにも我慢できない人がいるだろう。
NHKはこのままでは好評だったドラマでもミソをつけることになる。
http://news.www.infoseek.co.jp/entertainment/story/23gendainet000138323/

75 :
先の地震で旧仙台領宮城県大崎市岩出山の有備館が倒壊した模様。
有備館(ゆうびかん)とは、旧仙台藩の学問所。
茅葺きの書院造の建物が現存し、日本最古の学問所建築である。
庭園と合わせて国の史跡及び名勝に指定されている(登録名称「旧有備館及び庭園」)。

76 :


77 :
>>69譲渡っつことは、もしされていたら、北海道にはドイツ人の国ができているということ?
けどそれもまたおもしろいね。北海道とドイツは気候がにているからね。アフリカなどと違ってすみやすいだろうから、ドイツ人の大量移民があったかもしれない。

78 :
東北大震災被災地の学芸員は既に残すべき遺構の選定に入ってるらしい
日本史に残る大惨事になったな

79 :
あの民宿の屋上に乗っかった船、是非残すべきだ。

80 :
>>78
神の手の祟りじゃ

81 :
てす

82 :
9世紀【平安時代】
5月12日(木)夜10:00〜 NHK総合
タイムスクープハンター <新>「のろしを上げよ!」
http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2011-05-12&ch=21&eid=18398
 名も無き庶民の姿をリアルによみがえらせる「タイムスクープハンター」の
 シーズン3、第1回。
 時空ジャーナリスト・沢嶋雄一(要潤)は、9世紀の平安時代にタイムワープする。
 取材対象は烽火(ほうか)の番人。九州北部の沖合にある対馬で交易船や
 敵船の動きを見張り、のろしを上げて緊急かつ大切な情報をリレー形式で
 伝えるのが役目だ。
 ある日、番人たちは海賊船を発見する。だが信号を伝えられない。
 果たして危機を脱せるのか?

83 :
発掘

84 :
九段会館を宿泊・会議施設として運営してきた日本遺族会は4月中旬、「営業再開、継続は困難」
として廃業を決めている。
会館の土地建物の大半は国有財産で、これまで遺族会に無償供与されてきたが、遺族会は今後、
国に返還するという。
(2011年5月13日09時49分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110513-OYT1T00239.htm

85 :
http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011052001001020.html
大分でキリシタン墓地発見 完全な姿残す、国内初
大分県臼杵市教育委員会は20日、同市の広原西遺跡から、
安土桃山時代から江戸時代初めにかけてのものとみられる、
キリシタン墓地の墓標など地表部分を発見したと発表した。
市教委によると、これまでにひつぎなど地中に埋葬されたものは見つかっているが、
地上の構造物を含め完全な姿で残っているのは国内初という。
調査した東大の五野井隆史名誉教授(日本キリシタン史)は
「迫害が厳しかった江戸時代にも墓が壊されず、そのまま見つかるのはとても珍しい」と話している。
2011/05/20 20:54 【共同通信】


86 :
「つくる会」歴史教科書が年表丸写し 市民団体が指摘
2011年6月13日23時45分
 市民団体「子どもと教科書全国ネット21」(事務局・東京)は13日、横浜市で記者会見を開き、
「新しい歴史教科書をつくる会」主導で編集された自由社の中学歴史教科書2012年版の年表が、
東京書籍の02年版教科書とほぼ一致していると発表した。
 同ネットによると、両教科書の年表の「日本のおもなできごと」で、「縄文時代 採集や狩りによって生活する」から
「1997 アイヌ文化振興法制定」までの約180項目すべてで出来事の選択が一致した。
 9項目で「大和国家」「太平洋戦争」(東京書籍)と「大和朝廷」「大東亜戦争(太平洋戦争)」(自由社)などの
違いがあった以外は表現も一致していた。
 横浜市内8区の市立中学校で自由社の10年版教科書が使われており、10年版もほぼ同様の状態だったことから、
同ネットは今回、横浜市で発表したという。
 同ネットの俵義文事務局長は「丸写しで盗用した可能性が高い。他社が改良を重ねて築いた成果を
勝手に使うことは大問題だ」と指摘。他にも同様のケースがないか調べているという。
 東京書籍は「初めて聞いた話で驚いている。事実関係を確認のうえ今後の対応を考えたい」としている。
 自由社版教科書の代表執筆者で「つくる会」会長の藤岡信勝さんは「指摘を受けるまで気づかなかった。
年表作成の担当者は自由社を退社しており、経過を確かめようもないが、関係者に迷惑をかけ、深くおわびする。
夏にこの教科書が採択された後、来春の使用開始までに充実した年表につくり直す」と話した。
朝日新聞社
http://www.asahi.com/national/update/0613/TKY201106130528.html

87 :
【文学部】都内女子大で「くの一」講座開設。忍法"R時雨"を学ぶ受講者たち (画像有)
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/mitemite/1306046832/

88 :
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110626-OYT1T00063.htm
「平泉」世界文化遺産に登録…東北では初
【パリ=三井美奈】パリで開かれている国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は
現地時間の25日、日本が推薦した「平泉」の文化遺産(岩手県平泉町)について、
中尊寺など6か所のうち、柳之御所(やなぎのごしょ)遺跡を除く5か所を世界遺産に登録することを決めた。
国内の世界文化遺産としては、2007年の「石見銀山とその文化的景観」(島根県)に次いで12件目で、東北では初めて。
自然遺産を含めると、24日に決まった小笠原諸島(東京都)を含め16件となる。
「平泉」の文化遺産は、東北地方に栄えた奥州藤原氏が12世紀に造営した寺院や庭園など。
ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議」(ICOMOS(イコモス))は5月の勧告で、奥州藤原氏の居館跡である柳之御所遺跡については、
「浄土思想との直接的な関連性の点から、顕著な普遍的価値の一部をなすものとは認められない」などとして構成要素から除くべきとしていた。
また、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の遺産名についても、
考古学的遺跡群の部分を削除するよう求めていた。この日の世界遺産委員会では、勧告通りの登録が適当とされた。
(2011年6月26日00時51分 読売新聞)


89 :
ペリー提督の一族と日本の歴史
http://s1.shard.jp/rabbit1/0204/45/296.html
ペリーの近親者の誕生日に、その関係が表わされていた。

90 :
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110704-OYT1T00006.htm
寛永通宝、バリ島の遺跡に…最南端での出土記録
「寛永通宝(かんえいつうほう)」など江戸時代の銅銭が、インドネシアのバリ島で出土していたことが分かった。
寛永通宝は当時、海外でも通貨や装飾品として流通し、北はアラスカから、
南はベトナムまでアジアを中心に多数見つかっているが、バリ島は最南端となる。
三宅俊彦・専修大兼任講師(考古学)が、バリ島の国立考古学研究センターなどで確認した。
見つかったのは、島内の集落跡、バドゥダワ遺跡などで出土した
寛永通宝28枚と長崎貿易銭(元豊(げんぽう)通宝)4枚の計32点。
日本の新聞が第2次大戦中、バリで寛永通宝が通貨の一部に交じって流通していると報じたことがあったが、
実際に考古学調査による出土品が確認されたのは初めて。
(2011年7月4日03時01分 読売新聞)

91 :
危機に瀕する日本: 日韓紛争概説 文化略奪と歴史歪曲に関する一考察
http://www.youtube.com/watch?annotation_id=annotation_720065&feature=iv&v=sW4H2PGj6JU

メディアでは報じない韓国の日本文化のパクリ行為を非難した動画です。
ぜひご覧になってください。

92 :
2800年前の翡翠の管玉発見 奈良の秋津遺跡で
http://www.47news.jp/CN/201107/CN2011071301000583.html
http://img.47news.jp/PN/201107/PN2011071301000586.-.-.CI0003.jpg
 縄文時代晩期後半(2800〜2500年前)のノコギリクワガタが見つかった奈良県御所市の秋津遺跡で、
同じ時期の首飾りの一部とみられる翡翠の管玉(長さ約4センチ、太さ約2センチ)が見つかり、
県立橿原考古学研究所が13日、発表した。
 色合いの特徴から新潟県糸魚川市周辺で産出した可能性が高く、この時期のものとしては最大級。
同研究所は「広範囲にわたって交易していた集落が近くにあったのだろう」としている。
 管玉は翡翠などの石に穴を開けたビーズの一種で、首飾りや腕飾りに使われた。今回のものは大きさから
集落の長やシャーマン(呪術師)の首飾りとみられる。

93 :
中国の雑賀衆っぽい
日本と関連あるか?
【国際】 中国最後の鉄砲隊村落 日本の武士の祖先か
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1311168600/

94 :
島根の鏡 近畿・東海と同鋳型
ttp://www3.nhk.or.jp/news/html/20110805/t10014709561000.html
近畿の三角縁鏡と同鋳型 島根、大和政権と交流
ttp://www.47news.jp/CN/201108/CN2011080501000418.html

95 :
 高校の地理・歴史教育の見直しを検討していた日本学術会議は5日までに、
日本史と世界史を統合した「歴史基礎」と「地理基礎」の2科目を新設して
必修にするなどの改革案を文部科学省に提言した。
高校は2013年度から新学習指導要領が段階的に実施予定で、
同省は「その次の指導要領改訂の際の検討材料にしたい」としている。
 提言は、学校週5日制の導入に伴う授業時間数の減少で、
現在の高校が「世界史」「日本史」「地理」の3科目をすべて教えることは困難になっていると指摘。
グローバル化に対応するためにも地理と歴史をバランス良く学ぶことが重要で、
2科目に統合し共に必修にすべきだとした。
 当面の改革として、教え方を「知識詰め込み型」から「思考力育成型」に転換することも提唱。
関連学会で教える重要用語を限定する指針を作り、大学も入試でその範囲から出題するよう求めた。
 日本学術会議は06年秋に多数の高校で必修の世界史を教えずに卒業させていたことが表面化したのを受け、
地歴教育の改革を検討してきた。
http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819695E2E6E2E6918DE2E7E2EAE0E2E3E39180E2E2E2E2

96 :
竹島不法占拠・李ライン設定による日本漁民虐殺・朝鮮進駐軍の暴行、朝鮮人密航集団の戦後史を教科書に載せるべきだ。

97 :
仁徳陵出土の「可能性低い」 米で所蔵の鏡など宮内庁が調査
 宮内庁が仁徳天皇陵に指定する大山古墳(堺市、5世紀中ごろ)で出土したと伝えられ、米国ボストン美術館が
所蔵する獣帯鏡など5点について、同庁書陵部が初の公式調査を行い、年代や購入記録から「(大山古墳出土の)
可能性は極めて低い」との見解をまとめたことが13日、分かった。
 新見解は同庁発行の「書陵部紀要」に掲載しており、近く、ボストン美術館に送付する。
 書陵部の徳田誠志首席研究官が2008年に渡米。大山古墳出土と伝わる獣帯鏡、環頭大刀の金箔張り柄頭、
馬具の一種の三環鈴と馬鐸2点の計5点を調べた。
http://www.47news.jp/CN/201108/CN2011081301000486.html

98 :
ボストン美術館蔵の鏡など5点 仁徳天皇陵出土の「可能性低い」
 宮内庁が仁徳天皇陵に指定する大山古墳(堺市、5世紀中ごろ)で出土したと伝えられ、米国ボストン美術館が
所蔵する獣帯鏡など5点について、同庁書陵部が初の公式調査を行い、年代や購入記録から「(大山古墳出土の)
可能性は極めて低い」との見解をまとめたことが13日、分かった。
 5点が米国に渡った経緯は不明だったが、同館に勤務し、仏像などの東洋美術を収集していた思想家岡倉天心が
1906年に京都、奈良へ出張した際、計1450円(米価比で現在の約580万円)で一括購入したことも判明。
 大山古墳では1872年に前方部で石室が見つかり、中の石棺や甲冑などを描いた図面が残る。
学界には同館所蔵品を「この時流出した」とする説と、「墳丘や甲冑と年代が合わない」との否定説があり、
出土地をめぐる議論が再燃しそうだ。
 新見解は同庁発行の「書陵部紀要」に掲載しており、近く、ボストン美術館に送付する。
 書陵部の徳田誠志首席研究官が2008年に渡米。大山古墳出土と伝わる獣帯鏡、環頭大刀の金箔張り柄頭
(つかがしら)、馬具の一種の三環鈴(さんかんれい)と馬鐸(ばたく)2点の計5点を調べた。
 国内外の出土例から獣帯鏡は5世紀後半〜6世紀前半、他は6世紀前半と判断。大山古墳は墳丘の須恵器
から5世紀半ばとの説が有力で、「5点をセットで埋納したなら、その古墳の築造は6世紀前半。(大山古墳とは)
年代が異なる可能性が高い」と結論づけた。
 また岡倉が作った購入品リストなどに5点は「古代の墓で出土した青銅製品」とあるだけで、大山古墳を示す
記載は一切ないことも判明。徳田首席研究官は「日本では明治時代末から『仁徳陵出土』とのうわさがあったが、
遺物や同館の書類に関連をうかがわせる点はなかった」と話した。
 同館に購入先の記録はなく、売り手は分かっていない。
[ 2011年8月13日 16:32 ]
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/08/13/kiji/K20110813001405690.html

99 :
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110912/art11091221570002-n1.htm
琵琶湖底に水没集落の墓地か 430点の石群発見
2011.9.12 21:54
大地震で集落が水没したとの伝承が残る滋賀県長浜市沖の琵琶湖底から、
供養塔や石仏の一部など石群約430点が見つかり、
中井均・滋賀県立大准教授(中世考古学)が指導する同大の学生グループが12日、発表した。
中井准教授は、16世紀後半の地震で集落が地盤ごと地滑りして水没したとみている。
調査したのは、中井准教授が指導する県立大の学生グループ「琵琶湖水中考古学研究会」。
「西浜村」という集落が湖底に沈んだとの伝承があり、素潜りで調査した。
長浜市祇園町沖約100メートルの湖底(水深約1メートル)で、
東西38メートル、南北26メートルにわたって分布する石群を見つけた。
供養塔などに使われる五輪塔の一部や、石仏の上半身部分など、墓地に使われたとみられる石があり、
材質と形状から、16世紀前半から17世紀初頭につくられたと推定される。
文献で天正13(1586)年に岐阜県中北部を震源とする
マグニチュード7・8規模の地震が起きたことが分かっており、時期が一致した。
中井准教授は「水没集落を考察するうえで貴重な史料。科学的な調査を進めれば、
地震被害のメカニズムの解明にも役立つのでは」と話している。

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