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2012年09月日本史60: 歴史研究24年。光秀=天海だけはガチだと思うのだが。 (603)
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歴史研究24年。光秀=天海だけはガチだと思うのだが。
- 1 :2012/07/22 〜 最終レス :2012/10/23
- 歴史小説家が自分の小説を売れるようにするために、歴史を面白おかしくいじくり回し、様々な新説が誕生してきた。
どれもこれも小説ネタとしては面白いが、荒唐無稽なものばかり。また簡単に反証されてしまうようなものばかり。
だが、
「惟任光秀が小栗栖で命を落としておらず、後に天海大僧正になって徳川幕府を支えた」
という説だけは、真実の気がする。
当時知っていたのは、禁裏と家康側近。そして光秀と共に戦ったことのある徳川家武将の一部のみ。
箝口令が敷かれていたと思うし、書面に残してもいないだろう。
ただ、徳川宗家や各武将の直系の末裔は、口伝で伝え聞いていると思うのだが。。
筆跡鑑定の結果は、
TV東京→光秀もしくはごく近い近親者
NHK→本人ではないが似ている字があり親戚の可能性に言及
だった。
- 2 :
- 2ゲト
- 3 :
- あれ?前にも同様のスレあった気が
- 4 :
- 多分、そのスレは私がつくりました。
- 5 :
- でも、数ある異説の中で、一番信憑性が高いと思う
- 6 :
- 戦の時、天海が甲冑をつけて家康に献策していたっつーのがこの説を裏付けるものだわな
戦の後の人心を掴む術ではなく、戦術自体を家康指導できるなんて、あの時代は利家くらいしかいないだろ
- 7 :
- 細川家に伝わる光秀からの書状って本物なん?偽物って言ってる史家が多いらしいけど。
- 8 :
- 光秀が家康に戦術指南できるくらいの頭持ってたら
本能寺の変なんか起こさなかっただろ
- 9 :
- >>8
あんた、完全に勝者を賞賛する偽歴史に騙されてますがな。光秀公の武将としての能力は、信長以上でっせ。
- 10 :
- >>7
花押がおかしいとかなんとかっつー話じゃなかった?
>>4
乙。
- 11 :
- >>9
でも秀吉以下なんだよね?>光秀
- 12 :
- ま〜本能寺の黒幕は家康だから考えられんこともない
- 13 :
- >>12
なんかの公家の日記で、本能寺の変の前に斉藤利三が謀議のために禁裏に来ていたことが記述されてたろ
結局、天皇と公家が禁裏を侵そうとする信長を恐れ、排除したかったんだろ
そりゃ、最後に一番利益を得た者が犯人という考えもあるけど、当時の家康には禁裏との結びつきは薄かったはずだぞ
変を知っていた可能性は拭い切れないけど、首謀したというのはどうなの?
- 14 :
- >>11
そりゃあんた、藤吉郎は10万の大軍引き連れるから、ナポレオンクラス、どーやったって勝ちまっせ。
まあ、奇策では藤吉郎の方が上なのは認めるけど、同数の兵力じゃ引けを取らんと思いますわ。
- 15 :
- >>14
おかしいな。
明智光秀が1万4千の兵を率いて、たった40人足らずの兵しかいない
本能寺の織田信長を攻めて勝ったのは「明智光秀の能力が信長より高かった」からなんだろ?
だったら、光秀もたかだか9倍の兵なら勝たないとw
- 16 :
- >>15
横レススマソ
あのときは信忠の方も討たなきゃならなかったでしょ
当時の本能寺は土塁があって、ほぼ城
城攻めでは、相手の数倍〜10倍の兵で囲むのは当然では?
野戦とは違うでしょ
誰かも書いていたけど、勝者の歴史本、「太閤記」「信長公記」「惟任退治記」なんかは信用すべきではないと思うけど
当時光秀は、秀吉と並んで織田家で一番重用されていたのは事実だし
- 17 :
- 俺の勝手なイメージだと、光秀は秀吉のように奇策を思いつくひらめきはないけど、
戦の定石はぬかることなくきっちりと打ってくる性格な気がする。
秀吉のみたいに、勝てるはずもないくらいの兵力しか与えられなくても、
たんとか勝つ手立てを探し出すひらめきはないが、勝てるだけの兵力を与えれば、
取りこぼすことなく確実に勝ちを手にしてくる有能な官僚。
- 18 :
- >>16
山アの合戦も秀吉による城攻めでしょ
明智光秀は背後に勝竜寺城を控えた場所で秀吉軍を迎え撃ち
実際に敗走して勝竜寺城に逃げ込んでいる
そこも囲まれたためあわてて坂本城まで逃げ帰る途中死亡
- 19 :
- >>18
城を出て戦ってるんだから野戦でしょ。
野戦で押されて城に逃げ込んでも、城方の防備が整う間もなく、というか味方がまだ城に
逃げ込みきらないうちに寄せ手が押し寄せるわけだから、籠城にはならない。
- 20 :
- >>18
城を出て戦ってるんだから野戦でしょ。
野戦で押されて城に逃げ込んでも、城方の防備が整う間もなく、というか味方がまだ城に
逃げ込みきらないうちに寄せ手が押し寄せるわけだから、籠城にはならない。
- 21 :
- 秀吉って大軍の割には光秀に苦戦してますね
- 22 :
- >>19
勝竜寺城は立派な城
土塁程度の本能寺とは比べものにならない立派さなんだけど?
本能寺が城攻めだというのも怪しいもの
明智光秀過大評価
- 23 :
- >>21
秀吉軍は中国から昼夜走り続けて引き返してきて疲れてるだろ
京都で11日間ゆっくり休息を取っていた光秀軍は
全然疲れてなかっただろうに
- 24 :
- >>22
城が立派でも城から出て陣を構えているんだから、籠城戦ではなく野戦であることには変わりない。
- 25 :
- >>24
光秀に全く籠城する気がないならね
秀吉をどこで迎え撃ってもよかったのに
光秀はあえて勝竜寺城の側から離れなかった
- 26 :
- >>25
籠城する気があろうがなかろうが、現実に両軍は城の外で衝突しているんだから籠城戦ではなく野戦だよ。
- 27 :
- >>26
野戦だったら数で勝てないのは当たり前?
そんなことないよね。
桶狭間で勝った信長より優秀な光秀なら勝って当然。
- 28 :
- >>26
野戦だったら兵の大小はそれほど問題にならないんだよね。
能力だけが勝負。
- 29 :
- >>27
野戦だから勝てるとか勝てないとか、そんな話は一文字も書いてないが?
野戦な籠城戦かという区分なら、山崎合戦は明らかに野戦だといったまで。
反論は書いてあることに対してお願いします。
書いてもないことへに反論されても答えようがないから。
- 30 :
- >>13
織田が甲斐・信濃を抑えたことで家康は詰んでしまった状態
天下を狙う人間なら何か策を弄する筈
それが本能寺
その証に家康は本能寺のあと甲斐・信濃に侵攻したでしょ
- 31 :
- 動機だけでは証拠にならない。
信長を殺したい動機のある武将や公家なんて山ほどいるし。
- 32 :
- 家康に信長を討つ主犯的な役割を担う度胸があったとは思えない。
そんな度胸があるなら、もっと前にやっていたはず。
信玄をしのぐ猛将の武田勝頼を打ち破った信長の長篠の戦いの手法を目の前にし、信長の綺羅星のような家臣団を見て、刃向かえるはずがない。
光秀から事前に知らされていた可能性はあるが、家康主謀には思えない。
- 33 :
- 光秀が官僚的なイメージを持つ人が多いが
フロイスの記述だと結構違うんだよな
- 34 :
- 齋藤利三の娘をR母にしたことからして、おかしすぎる
あれって、一応公募ってことになってるけど、ちょっと前に謀反人として磔になった罪人の娘ってわからなかったはずはなく、公募ならまず於福は外されるはず
なんらかの明智贔屓の力が働かないとおかしい人選
- 35 :
- >>27
飛躍しすぎ。
東海一の弓取りなんて言われた今川義元なんて、デブってお歯黒までしてた。人数だけで、まるで弛んだ軍。
秀吉軍は、清水宗治を切腹させ、あの毛利と和議を結んで勇んで帰ってきて、士気抜群だよ。
中国大返しの疲労って意外となかったと思う。道々に炊き出しを用意して、荷を軽くして走らせたわけだし。
自分自身が足軽からあがってきているから、無理はさせないし、兵の使い方が上手いよ。
今川と秀吉を比べるのはおかしい。
- 36 :
- >>31
状況で判断するしかないけど、
家康は目の上のたんこぶが死んだときに勢力を拡大してる
事前に計画していたみたいにね
今川義元、織田信長、豊臣秀吉
特に義元と信長は不可解な出来事で死んでる
義元が死んだときは岡崎城に入って三河を取り戻し、
信長が死んだときは甲斐・信濃を強奪
甲斐侵攻に邪魔な穴山梅雪の死も不可解
- 37 :
- 確かに穴山梅雪の亡くなり方は不自然だな。
豊臣恩顧の加藤清正もおかしかった。
じゃ、すべて服部半蔵が暗躍してるのかな。
歴史小説じゃないけど、歴史の半分は忍びが作ってるのかも。
- 38 :
- 信長って天皇になろうとして、公家から疎まれたんじゃねえの?
天皇から光秀に討伐の指令が下り、あとは光秀が将軍宣下を受け、家康や勝家なんかと組み、秀吉と和議を結び、安定政権を築く予定だった。
秀吉の大返しが速すぎたんだな
でも、細川藤孝の態度を考えると、どうも納得がいかない。
- 39 :
- 黒幕幽斎
- 40 :
- 梅雪は消されたんだろうね。
武田滅亡前から内通し、主家が滅んだら洋梨。
実際、変以降に甲斐信濃に侵攻。武田旧臣も徳川に靡いて豊臣政権に対抗、後にはナンバー2の座をゲット。
秀忠の隠し子も、武田旧臣保科家に預けてるし、あの辺は史書には書かれてない秘密の関係がありそう!
真田の徹底抗戦も、何か事情がある気がしてます。
- 41 :
- >なんらかの明智贔屓の力
日光東照宮行くと光秀を匂わす伽藍になってないか?
家光の謎のお守りとか
- 42 :
- 天海の実体らしいのは明智秀満?
- 43 :
- 天海が明智光秀なら愛妻煕子ら一族が眠る近江坂本西教寺を
庇護しないのはおかしいだろ
- 44 :
- 光秀は愛妻家だったって架空を信じ込むからいけない。
いっそのこと 無関心夫だった ってことにすればいい。
- 45 :
- >>44
光秀と煕子が不仲だったなら、娘婿らが全員光秀を裏切る中
煕子の一族だけは最期まで光秀に従った示しがつかんだろ
- 46 :
- >煕子の一族だけは最期まで光秀に
単なる政治的判断、もしくは煕子一族の誰かと光秀がいい関係
- 47 :
- >>43
一理ある。だけど、坂本城主のときにだいぶ西教寺に寄進してるから、天海となった後にあからさまな援助はできなかったとも考えられるよね。
>>44
一応愛妻家だったらしいよ?
側室も置かなかったよね。病気の時の平癒祈願とかを考えると愛妻家だったんじゃないの?
>>41
俺も、この説を聞いてから、何度も注意深く東照宮に行ったけど、行けば行くほど信憑性が高いような・・・(笑)
中禅寺湖を見下ろす高台で、「明智の名を後世に残すために明智平と名付けよう」と言ったなんて、まるで坂本城から見る琵琶湖をお思い出してつけたみたい。
- 48 :
- 天海は、西教寺の近くに日光に先駆けて日吉東照宮を作ったよ
やはり坂本の地と縁が深いのは確かだな
- 49 :
- 日光も日吉も、東照宮って、御祭神が家康と秀吉なのな。信長が入ってない。
それって、天海=光秀が、信長には恨みがあったけど、秀吉には恨みはないってことになるね。
つまり、秀吉黒幕説というのは、あり得ないってこと。
秀吉に恨みを持つことがあるとしたら、
「なんで中国からあんなに早く京都に戻って来ちゃったんだよー。もう少しゆったりしてくれれば、和議結んで一緒に政権運営したのにー。」
なんてことくらいか。
もしくは、秀吉が天下を取った後、信長公を持ち上げ光秀を謀反の大悪人として仕立てたストーリーを喧伝しまくったことくらい?
やっぱり光秀が信長に抱く気持ちって、「神仏を畏れない鬼畜」というものだったんだろうなー。
- 50 :
- 残念ながら当時の世評は全く真逆。
あれほど信仰心あつい信長をRなんて、光秀って鬼畜だわぁーって反応。
現代人はこういう話になると必ず比叡山が本願寺がっていうけど、
当時は叡山本願寺ざまぁ〜って反応。
こういうのちゃんと留意しながら歴史ってもんはみた方がいい。
東照宮だって、信長が入ってないのは子孫がミニ大名やってたからじゃ?
変に祀ったりして徳川の対抗勢力として成長されたら大変だ。
でもフィクションで光秀アゲアゲするのはいいと思う。
- 51 :
- 家康自身、別に秀吉に恩こそあれ、憎悪の対象じゃないよなあ
ムカついたのは、淀の権勢と秀頼にでしょ
信長にはムカついてたと思う
我慢に我慢を重ねたからねえ
- 52 :
- 俺も可能性はあると思うが違うと思うがそうであって欲しい。
鼻息で吹き飛ぶ程だが証拠残りすぎ。
でも残ってる証拠だと光秀じゃなくてもその秀満とか親戚、
家臣とかでもokじゃん。
明智平も主君・光秀(自らが慕う光秀)の名前を残したい。
罪深き存在は自分は逆賊明智にくみした、明智光秀が死にそうな所助けたとか
将軍の名前だって慕う光秀にあやかったとか
光秀の近い人物だったら斎藤との再会も顔見知りで納得がゆく。
へうげものの説とか多少目をつぶれば結構筋通ってるし。
http://blog.livedoor.jp/ryuj75/
- 53 :
- 家康との初対面で、人払いして一刻(2時間)も2人で話してたなんていうのは、光秀本人でないとあり得ないだろ。
織田家の武将同士で軍議に出てて、顔見知りだったわけだし。
陪臣ならあり得ない。
だから、俺は光秀本人だと思うね。
- 54 :
- >>53
確かに...
貴殿は天海の寿命の長さについてどう心得る?
代替わり説?or長寿説。
でも、信長が糞忙しい光秀を接待役にしたほどだから当時からの
光家の親密度は高い。
一介の僧が光秀談義花咲かしたとか思いがたい。
やはり光秀=天海は本当なのか...
というか本当であって欲しい。
秀満説は秀満説で好きだがやっぱ光秀説の方が好き。
代替わり説も微妙だけど
もし天海が光秀だったらずっと代替わりせんでほしい。
- 55 :
- やはり、そこ考えて天海は光秀クラスかそれ以前にも高僧として名が通っていたかだな
だが前半期の天海の資料は全部怪しく取って付けたようなのばかり。
光=天の証拠が多すぎる。
- 56 :
- >>54
やぁ、ジャック。
天海116歳没年説を採るとさすがに無理はあるけど、105歳くらいならあり得る話かと。
以前の泉重千代さん120歳越えの例もあるし。
生年の疑惑はあるけど、あの人だって、近代科学に生かされたわけじゃない。
すり替わって2代に渡って天海を務めたなんて方が、現実離れしてる(笑)。
あの家康が、上にも置かず、言うことに従ったのだから、相当の人物だったと思われる。
息子の秀満だったと考える方が矛盾あり。
やはり、徳川将軍家で元服して名前に「光」という字を入れたのが家光だけというのが、一番の証拠のような。
後になっても、「光」が入った将軍家は誕生してない。
水戸の光圀は、家光から一字をもらったんだろうし。
本能寺の変のときに、源氏の流れを汲む2人(光秀・家康)で、天下を分かち合う密約があったんじゃないかと邪推しちゃう。
不幸にもあの流れになり、光秀は表舞台から消えることになったけど、家康は功労者の光秀を厚遇した。
表向きの政は、征夷大将軍の家康。裏の将軍、宗教の長は、光秀。みたいな。
で、次の世の跡取りは、家康と光秀の2文字を取って名付けるみたいな。
あんな日和見主義の細川家を優遇したのも、そのためのような。
- 57 :
- >>55
そこを加味すると、>>53が言う家康との初対面は、光秀本人の可能性が高いよね
そうじゃないと、いきなり密談数時間にはならん
でも家康は生きていたことは薄々知ってたんだろ
もしかしたら、秀吉も知ってたのかも知れん
もう死んだことになって、自分も天下人だから、今更探し出してもって感じ
光秀のおかげで天下取れたんだし、光秀と秀吉って本当は協力して金ヶ崎の殿軍を務めたんだもんね
- 58 :
- 日本史の異説で一番信憑性あるもんなー。
真実であってほしい!
- 59 :
- ごめん、みんなに質問
もしも、天海が光秀だったら、当時知ってたのって誰?
家康・春日局・四天王はもちろんだけど、石川数正、はたまた秀吉の周辺も知っていたんじゃ?
- 60 :
- >>59
数正出奔は、北条攻めの前じゃないの?
家康と天海の初対面は、北条攻めのときじゃなかったっけ?
- 61 :
- 誰か、石川数正出奔の謎のスレッド立てろwww
- 62 :
- >>59
恐らく長宗我部はしらなかったと思う。賤ヶ岳小牧長久手の言動を見る限り。
秀吉が知っていたかは微妙。
秀吉が死んでから家康が公に出した感があるきがする
>>56
やぁ、ソーヤー。
密約は小説じみてるが面白い。
結構影響されてるがでも光秀は野望というより
人が死ぬのがやだから天下を狙ったんだと思う。
人を殺めるの嫌いだったらしいし。
そう出会って欲しい。
というか久々に俺のカキコに食いついてきたな。
うれしーーー^^
- 63 :
- >>56
光秀の父・光綱の「綱」、祖父・光継の「継」も将軍の名前に使われてるよ。
光秀の息子・光慶の「慶」も使われてる。
先入観を持って明智の先祖をたどれば頼重なんてのもいる。
さらにこの頼重の叔父である土岐頼清の近辺を見ると、
頼清の兄・頼直、頼清の息子・頼康、頼忠が目に付く。
家康の祖父・清康、父・広忠、御三家各初代(尾張義直、紀州頼宣、水戸頼房)を連想してしまう。
松平氏ってもしかして土岐 or 明智の出自なんじゃないか?
地理的にも近いし。
- 64 :
- 謀反人、裏切りモンの末路は哀れ。
高野山の墓を見て来いw
- 65 :
- 謀反人、裏切りモンって
中国、韓国はもとより世界は謀反人、裏切りモンの歴史なんだが?
- 66 :
- だいたいにおいて、織田も守護代の家来の家系だろ?
みんな謀反、裏切りだよ
- 67 :
- >>59
高台院、細川忠興、藤堂高虎、福島正則、加藤清正、黒田長政、池田輝政あたりは
気づかないなずがないな。
- 68 :
- 松平って、関白の誰かに金渡して、源氏の系図作ってもらったんじゃなかったっけ?
家康の出自は怪しいもんだな
- 69 :
- 織田家も薄々気がついていたかな?
- 70 :
- 徳川家は吉良家(源氏)より系図をもらってるはず
- 71 :
- 細川ガラシャは娘なんだから知ってたはず。
「あのお坊さん何で父上に瓜二つ???」
- 72 :
- >>63
家継の名前は霊元上皇から送られたもの(新井白石が選んだ)だったような。
まあ「継」の字を候補に入れてくれと幕府が朝廷に働きかけた、と言われればしゃあないが。
- 73 :
- >>71
ガラシャは天海と会う機会がなかったかもな。
本能寺の変の後は幽閉されているし、幽閉が解かれた後は大阪屋敷住まいだから、
女はあまり出歩かないだろうしな。
天海は大阪にはそれほど頻繁には行ってないだろうし。
- 74 :
- ガラシャへは何も知らせなかったろうな。
細川父子には痛い目に遭ってるから、関わったら火傷すると思ってたろうし。
- 75 :
- 本能寺の変の細川藤孝の動きは怪しいな。元々明智の与力でしょ。喪に服すと言った次点で怪しい。
本能寺の変も知っていた可能性あるし、今、細川家に残る書状もおかしい。
あの書状を世間に出すことで、
「本能寺の変なんて後になって知ったんですよ」
「変の後、明智に誘われたけど断固として断ったんですよ」
ということをわざわざ強調しているみたい。
- 76 :
- >>69
もちろん気づいていたろ。
だけど信雄とか有楽斎とか、権現様には頭があがらんだろw
信長が光秀に討たれてなくて健在だったとしても、戦下手の信雄なんて、信長から三行半を突きつけられた可能性だってあるからなw
本人だってよくわかってるだろ
小牧・長久手でも、勝手に宿敵と和解しちゃうし、腹が据わってないww
- 77 :
- >>73
でもガラシャの旦那の細川忠興には会ったでしょ
忠興は何回も家康のところへ行ってるんだから
ついでに孫の細川忠利にもね
参勤交代のため大名は隔年で江戸屋敷に住み
江戸城に登城しなきゃいかけなかったし
- 78 :
- >>77
文章の意味がわかんねーよ。
- 79 :
- ガラシャとやりたい
- 80 :
- >>78
細川忠興は天海と会っている=ガラシャも知ってただろう
細川忠利は天海と会っている=天海はかわいい孫のためにいろいろ贔屓にしてあげたの?
- 81 :
- 天海ってひとかどの大人物にもかかわらず50歳(?)くらいまで足跡が殆どないんですよね?
- 82 :
- ただ=光秀だとすると年齢が流石に厳しいんですよね。
2代目がいたか、春日局が死ぬまでは天海が死んだ事にならなかった
(死んだ事を隠してその威光を利用していた)っていう事はありえるのかな?
当時の河越藩は知恵伊豆さんの領地でしたっけね。
- 83 :
- >>81
僧侶はそういうものだよ。
若くして活躍する僧侶はあまりいない。
高い身分の出身でもなければ若いころの記録はないのが普通。
- 84 :
- 他の僧侶と比べても怪しすぎるんじゃないの?
それと経歴もない一介の僧侶をいきなり関東の覇者の相談役というのも…
- 85 :
- 天海が家康の参謀になった時期は
実際の史料に現れる時期より早いとされている
家康が覇者となった後から採用されたわけではないらしい
- 86 :
- あやふや史料をもとにこれだけ語り合えるって、ある意味すごいな
- 87 :
- でも、天海=光秀とすると、シックリ来ることがたくさんあるから不思議
- 88 :
- どこかの書物に書かれてたら面白いのに
天海が光秀だって説を一番最初に言ったのは誰?
- 89 :
- まあ無理百発だろうな。天台宗の拠点を江戸に移して見せた
結構な比叡山門徒の心服せしめた実力は永年の坊さんでないと無理だろお
それなりの経歴があったればこそ皆が言うことを聞いたんだ、光秀ではちょっとなあ
- 90 :
- >>9
信長厨にとって光秀公は憎悪の対象だからなw
歴史的には日本史上最悪の極悪人を成敗した大英雄なのにな
- 91 :
- 天海は「天皇を監禁してる」って言われた家康の側近で、
光秀は超絶勤皇家(だったらしい実は)の信長を躊躇なく殺しちゃった人
確かに思考回路は似てる
90は外人さんっぽい 日本人なら勤皇家殺害の人を大英雄とは言わないもんな
- 92 :
- 織田信雄や細川忠興がぶったまげるだろ
- 93 :
- 信長の下で家康よりずっと扱いよかった明智光秀が
なんで家康の天下取りを援助してやるんだ
- 94 :
- そうだよね。
劇画では普通に信長が光秀をいじめ抜いたように描かれるが、実際は光秀の待遇は破格。
信長は、身を捨ててまで手勢を率いて光秀の窮地を救ったこともあるし。
光秀は、やはり禁裏に頼まれたのだろう。
- 95 :
- >>94
御恩ある信長を光秀が禁裏のために裏切るって意味不明
- 96 :
- >>95
いや、おまえだって一緒じゃね?
すげぇ世話になった人が「天皇を追放して俺が天皇の座に座る」みたいなことを言い出したら、どうよ?
諫めても止めないとしたら、どうよ?
やっつけなきゃ、日本人として、まずいだろ。
天皇家は日本の根幹だろ。
やんなきゃ、非国民だろ。
- 97 :
- 確かに意味不明なんだよな。
だって光秀は、本能寺のたった1〜2年前に、「末代まで信長公への恩義を忘れるな」みたいな書状を書いてるんだよな。
ほんと本能寺の変って不思議。
天海って、大阪夏・冬の陣も裏で指揮したと思うんだけど、光秀と秀吉って仲悪かったの?
確かに功を争っていたと思うけど、お互い連携しないと殿軍は務められないし・・・
- 98 :
- あの殿軍話もかなり後世の人が盛ってるってのをどっかで聞いたな
- 99 :
- で、光秀=天海説を最初に唱えたのは誰よ?
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