2012年09月戦国時代23: 【陸奥】相馬氏を語る【下総】 (869) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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【陸奥】相馬氏を語る【下総】


1 :2008/05/26 〜 最終レス :2012/10/27
平将門を祖と称する名家。
戦国期の伊達氏相手の抗争や、関ヶ原後の改易と所領安堵と、
小身ながらしぶとく生き残った相馬氏一族、家臣や逸話を語りましょう。
武家家伝_相馬氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/souma_k.html
武家家伝_下総相馬氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/soma_sim.html

2 :
顕胤−盛胤−義胤−利胤(三胤)と名将揃い。かなりマイナーだがw

3 :
スレ立ておめ、相馬好きなんで少しづつ参加さしてもらいます

4 :
夏祭りの騎馬武者行列イベント。
行列の先頭は相馬の殿様の子孫がつとめるとか。

それにしても相馬の騎馬隊の強さはガチ。


5 :
ぺぇいっ!

6 :
地方の一族スレは、詳しい人がこないと伸びない

7 :
天文の乱以降、伊達家に振り回された印象が強いな。
まあ、血筋上仕方ないこととはいえな。嫁もらっているからな。
最後は滅ぼされるか降伏してまた伊達関係者になるかの選択肢だったのだが・・・

8 :
相馬出身者が記念カキコ。
しかし相馬氏単独スレが立つなど思わなんだ

9 :
嬉しい限りじゃ

10 :
相馬は盛胤が伊達に圧迫を加えた名将だし初陣の政宗も包囲されて片倉が政宗の身代わりになって脱出させてるね。
義胤は政宗と和睦してからは伊達寄りの姿勢で二本松城で苦戦してた政宗に助け舟を出してあげたり
人取橋では佐竹のすぐ横に布陣しながら動きが鈍く佐竹が
相馬は伊達に遠慮してるので裏切るかも知れないと疑っていて牽制された格好になってあげた
なのに三春に見舞いに行った際に伊達に騙し討ちで銃撃され首脳陣が崩壊し弱体化。
これ以来、相馬に良いとこなしで衰退し関ヶ原では西軍だとされて改易された。
この際に政宗が相馬の地を恩賞に欲しがっていた。
秋田へ行く佐竹に誘われた義胤は家中で秋田行きを相談したが利胤が先祖に申し訳ないと泣いて拒否し再興運動を願い出る。
幸い、弁護材料はある。1月に伊達と相馬で上杉を攻めて大敗した時の死亡者リストをもって利胤が江戸へ旅立ち、
徳川首脳陣と面談できるツテを求めて苦労して駆け回り
ついに本多正信を紹介されるとこまでコギつけて泣いて嘆願し安堵になった。
伊達を恨む相馬家では死に望み義胤などは墓を伊達勢力圏を睨むように埋葬させたと言う。

11 :
相馬は強兵なんだけど、富国策がいまひとつ弱かった印象がある。
田舎大名の限界かもしれないが、経済に関しては伊達には及ばない。

12 :
そもそも領土の規模が違う伊達と経済力を比べるのはどうかな。
相馬は金山を所有していたらしいね。石田三成に金山の課金について相談した事を示す書状が残っている。
馬の産地だったし、飢饉も天保の大飢饉以外は餓死者は出なかったというからさほど貧困ではなかったのかな。

13 :
とりあえず簡単な氏族略歴を記せよ
マイナー大名なんだからそのくらいしないと伸びないぞ

14 :
小国なのに粘り強い所とか、フィンランドみたいだな。
>>7
伊達に下って、政胤とか宗胤みたいな当主誕生は願い下げw
>>10
佐竹には色々と良くしてもらったみたいで、江戸時代には養子を貰ってるね。
>>11-12
交易とかしてなかったのかな?

15 :
伊達も経済政策では大したことないな。
日本海貿易が盛んな出羽では河川流通も含めて活況だったがな。

16 :
相馬がマイナーって・・・

17 :
>>10
伊達と相馬が上杉に大敗したというのは何の史料に載っているんだい?

18 :
伊達が隠蔽してる月夜畑の戦いのことだろ。

19 :
月夜畑? なんだそれ?w 大方上杉お得意の捏造軍談だろ。
松川で慶長6年4月に伊達に大勝したとする捏造古老咄と同レベルの。
まずは>>10がそのソースを出してからだな。無理だろうが。

20 :
1600年に起きた戦いの勝ち負けが捏造かどうかは
なんせ400年前の話なので正直わからんからほうっておくが、
一応、月夜畑の戦いが無いと、水谷胤重(みずがいたねしげ)の立場が無くなる。

21 :
>>20
つまり、胤重の進言で相馬勢は上杉領・月夜畑を陥落させたということだ。
戦後、月夜畑城を攻め落とした件で、相馬家と水谷胤重は徳川に評価されたわけだ。
話の論理からすれば、結局、負けたのは上杉で、>>10のは話が逆ってことになる。

22 :
>>2
その前の高胤と盛胤も評価してくれ・・・

23 :
さて伊達厨がまた捏造を平気で主張しまくるわけだがw
ほんと戦国板最大の嫌われ者ですね。

24 :
ナントカ厨なんて話題はいらないよ。
宮城周辺の諸豪はみんな伊達つながりの義兄弟・いとこ同士みたいな感じなんだから
否定する意味がない。

25 :
そんな事言ったら佐竹や岩城や葦名や最上や須賀川二階堂だってみんな親戚なんだが…

26 :
>>25
もともとそういう事を言ってるようだから当たり前だろ。

27 :
伊達厨が必死に史実を曲げててワロタwwW

28 :
>>24
親戚同士だけに戦いが始まると骨肉の争いになるね。
天文の乱とか、正にその典型例。

29 :
おいおい、骨肉の争いってのは親戚同士の戦いの事を言うんだぜ!

30 :
>>14
海運の運用については江戸中期かららしい。
ただ、文禄の役の直後に義胤は沿岸に城を造ろうとしていた。
建設途中で焼失してしまったけど。海に目は付けていたと思う。
自分は>>10ではないが、月夜畑の戦いについては
奥相茶話記巻ノ九「月夜畠夜討事」にて触れられているね。
ちなみに相馬勢百五十余名、伊達勢二百五十余名が討たれた、とある。
上杉勢の被害がはっきりと書いていないので大敗、とも言い辛いな。
同等の被害が上杉にも出ているようだしね。

31 :
>>29
頭痛が痛い、だなw
>>30
勉強になります。
江戸期には小規模ながらやったりしてたんですかね?
堺は無理としても、常陸や江戸辺りまでとか……。
江戸時代は太平洋側の海運は奮わなかったと聞いてますが。

32 :
伊達厨まじキモい
松川で勝った→なぜか伊達郡・信夫郡を支配できない
月夜畑で勝った→なぜか支配できない
しかも勝ったのになぜか相馬改易と伊達は白石2万石しか加増されないw
では他の東北地域はどうか?
最上は自分で切り取った地域はすべて加増された。
蒲生や結城は下野にいただけで大幅加増。
上杉に勝ったなら相馬は加増はあっても改易はありえない。最上の例を見れば伊達が100万石内なら自力で切り取った領土はすべて安堵されるはずである。
しかも相馬が上杉に負けた際の死亡者リストを証拠に江戸で直訴した結果、安堵になっている経緯を伊達郡は見事にシカト。
明らかに伊達は月夜畑で大敗してるわけである。
このあたりは新井白石の資料的価値のないバカな捏造話も絡むからタチが悪い。

33 :
訂正
×伊達郡は見事に
○伊達厨は見事に

34 :
第3回 2ちゃんねる全板人気トーナメント二次予選
<<戦国時代>>板は6/4日出陣
http://2ch.gepper.net/tour/t2/a9.html
詳しくは選対スレ
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211037643/
公式サイト
http://2ch.gepper.net/2ch.html

35 :
伊達厨の話は他にスレ立ててそこでおやりください・・・
ここは相馬氏を語るスレです。
まあしかし一時期伊達関係者だったわけだし、
伊達の話がないと何も面白くないわけだが。
くっついてはなれて、またくっつきかけたら揉めてはなれて。最後は伊達と協力して上杉攻めたりと。
だからまあ、相馬氏単体でしゃべる話もそんなにないんだよね。
プロレスで言うところの、タッグパートナーが仲たがいしてシングルで戦って。
そしてまた組むみたいな。そんな感じの関係に見えなくも無い。

36 :
>>32
大敗したから恥ずかしくて伊達も相馬も隠していたら
相馬が改易になっちゃって
それで止むおえず水谷胤重が献策して死亡者リストをもって本多に直訴したのさ。
こうして伊達の敗北隠蔽工作も相馬領を奪おうと言う下心が禍いして今回も失敗に終わりマスタw

37 :
おやおや、相馬を伊達叩きに利用しようとした上杉厨が、
今度は相馬も叩きだしたぞ。
結局、上杉と直江が一番大事なんだな。

38 :
地元の人がいたら聞きたいが、知名度とか評判はどんな感じだい?
相馬と言えば、この殿様みたいな人物名が挙がったりするかい?

39 :
「伊達七世 弓ヲ相馬ニ 引クベカラズ」

40 :
相馬は強かったね。
伊達の和睦してからは政宗に協力的だったのに田村の三春で幹部達が不意に銃殺されまくりだもんな。
ひでー謀略だよ。しかも関ヶ原の恩賞に相馬領欲しさに西軍側だと陥れて悪魔か!
そりゃー義胤も遺言で伊達のある北側に向けて立ったまま埋葬しろと言うわな。

41 :
結果論だが、相馬はもっと交易に力を入れていればその分富強になっていたと思う。

42 :
>>40
相馬は戦闘(陸戦のみ)には強いんだが、謀略とか外交に弱いイメージがある。

43 :
義胤の時代に交易のためになんかしようとしたら天災が起こってやめたんだっけ?

44 :
>>38
元地元民だが殿様への親しみはあるとは思うよ。
ただ特定の殿様の知名度が高いって話は聞かないなあ…

45 :
交易といっても、相馬領には使えそうな港あったっけ?
漁港程度の港ならあるだろうが。

46 :
>>31
基本的には仙台藩と同じく江戸に米、味噌、塩などを取引していたらしい。
後は焼き物で相馬駒焼き(現在有名な相馬大堀焼ではない方)とか。
>>38
藩祖義胤、初代藩主利胤、三代目藩主忠胤がよく取り上げられているよ。
義胤は伊達政宗と戦った、という点で箔があるし、地元研究も進んでいる。
あとは奥州に下向した6代目重胤、相馬事件で有名になってしまった最後の藩主誠胤。
自分は個人的に12代目高胤〜14代目顕胤が好きなんだけど
御壇を見に行ったら手入れがしてなくてちょっと悲惨なことになっていた。
ただし一般市民レベルでは現当主含め「相馬の殿様」という一括りになっているね。
後自己レスで申し訳ないが>>12で触れた飢饉は天明の大飢饉の誤りだった。すまない

47 :
久保姫事件が顕胤の大木戸合戦を無視して
晴宗の略奪愛みたいに語られるのは
政宗の相馬本領安堵取り成し捏造とおなじくらい
気に食わない。

48 :
友人が、相馬氏が好んで使っていた騎馬の突撃体型って、総大将を先頭にしてたって言うんだけど本当ですか?

49 :
相馬義胤が鋒矢の陣(←型)の先端で敵陣に突っ込むので
大将を守ろうとして兵の士気が異様に上がった、というのは聞いたことがある。
盛胤・輝宗が対陣していたとき、まだ若かった義胤がたった7騎で
敵陣に突っ込んだこともあるね。
顕胤、盛胤はそういうことはしなかったみたいだから
単純に義胤の性格と、政宗との戦い方の相性だったのかもしれない。

50 :
このスレの住人なら持ってる人もいると思うけど、やはり買いですか?
ttp://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E3%83%BB%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E4%B8%80%E6%97%8F-%E4%B8%83%E5%AE%AE-%E3%82%B1%E3%82%A4%E4%B8%89/dp/4404031467

51 :
>>50
下野小山一族なら買った。

52 :
小山は相馬に比肩するいいエピソードが無いからな〜。
なんかある?

53 :
小山義政が公方を支えて関東管領軍と互角の戦いを繰り広げたり
結城合戦とか白河結城の説明の中で初代伊達政宗が鎌倉府と敵対する話が出てきたり面白いよ。
歴史的事件が小山結城視点で読めるから。

54 :
>>50
図書館に購入申請して借りる。

55 :
相馬家の子孫て 関西方面で バイクのレーサーしてるよね〜

56 :
何かにまたがるのが好きなんだろう。
相馬家の地だな。
昼はバイク、夜は女。

57 :
地じゃなくて血だな。

58 :
夜は女? 確かに いい女連れてましたょね
そして 頼もしい 家来もいますよね!

59 :
>>55
鉄の軍馬だな>バイク

60 :
田村清顕死後の三春城を予定通り乗っ取れたら、面白かったんだがな。

61 :
地元人が記念カキコ
そういえば、相馬氏の子孫て人が相馬高校で古典の教員をやってたな
よく相馬藩の話をしてたっけ

62 :
>>61
うはwwww
俺も授業受けたことあるw

63 :
地元人、多いなw
家臣と同じ名字の人も結構るんじゃない?
・泉田
・藤橋
・小池
・青田
・木幡
・江井
・水谷

64 :
家臣といえば、ほぼ全員が胤の字を貰ってるね。
謀反を起こした佐藤氏ぐらいかな、貰ってないのは?

65 :
佐藤は相馬と同じくらい古い名門だし

66 :
今年の相馬野馬追の総大将は当主の甥っ子だそうだ。
陣構えも発表になったけど御使番に外国の方もいて面白いな。

67 :
現地で生馬追を見られる人がいたら、感想をこのスレに投下してくれ。

68 :
二年前に見た
祭り二日目のメイン 
神旗争奪戦
火薬で上空に打ち上げられた旗を300騎で奪い合う
見た目は思ったより地味だったが、甲冑を着て馬を操る技術は大したもんだと思う
旗を取った武者が総大将がいる坂上の陣まで馬で一気に駆け上がる姿は勇壮
甲冑競馬
甲冑を付け旗指物を差し、5〜8騎くらいで全速力でトラックを回る
馬は競馬用のサラブレット
もちろんヘルメットなど付けない
落馬骨折当たり前
個人的には一番の見所だった

69 :
スーパーで南相馬市特産?の漬け物があったので買ってみた。
>>68
当世風にアレンジされてるとはいえ、勇壮ですな。
いつ頃に確立された行事か存じませんが、戦国の香りを感じますな。

70 :
ご挨拶いただいたので因縁深いスレから来ました。
ヨロシク…
>>68
カッコヨス
鎧着て旗奪いあるのだから馬術も結構なもんなんだろうな。見てみたい

71 :
もともとは野生化(放し飼い?)している馬を追い立てて捕らえる軍事演習だったそうです
相馬氏が東北に移ってきた時からやっているとかいないとか(地元民談
少なくとも江戸時代初期には行事として確立されていたみたいです

72 :
14代目顕胤の時代にはもう野馬追の記述が文献に残っているね。
今の競馬や神旗争奪戦は明治以降放牧していた馬を軍馬として徴収されてから
馬の数をあまり使わなくてもいいように考案されたらしい。

73 :
相馬市民ですが、野馬追は楽しいですよ!
興味があるヒト達には一度、生で見てもらいたいな!

74 :
>>73
テレビでしか見たこと無いサイタマー県民ですが、いつか間近で見てみたいよ。
迫力あんだろうなと思う。

75 :
意外と地元人は冷めて
すけどね
観客を楽しませる為に、騎馬武者同士わざとケンカしてみたり…
戦国好きには最高だと思いますよ!

76 :
観光客を呼ぶために週末開催も言われてますが、来年はどうかな?

77 :
千葉常胤の末裔

78 :
相馬は野戦志向だから、戦国時代の居城は簡素なつくりだったんだろうか?


79 :
簡素というか規模は小さい。
基本的に川を天然の外堀とした小丘陵に必ず建てられていて
石垣が少なく土塁がメインなのが相馬氏の城の特徴。
防御力を補うために周りに数多くの出城と舘が建てられた。
でも相馬氏の居城が落ちたのは南北朝時代ただ一度きりで
それ以外は本拠地に攻め込まれたことは一度もないから
まさしく「攻撃は最大の防御」的な、出撃を前提とした城だったんじゃないかな。
ちなみに関ヶ原後に改修された居城、相馬中村城は北側(仙台)に向けて
防御に特化したつくりだったらしいね。

80 :
>石垣が少なく土塁がメインなのが相馬氏の城の特徴。

城の石垣にカネかけるよりは騎馬軍団の維持費にカネかけたほうが
ベターという合理的な判断なんだろうな。


81 :
地元民だけど「のまおい」ほど、時代錯誤で下らないお祭りはない。
庶民が高い税金払って大名行列を“崇拝”するお祭りに、何の価値がありますか?
最近は、クソガキが武者やる時代で
庶民たちが高い税金払って、クソガキ武者を崇拝する、そんなお祭りに何の価値がありますか?
コスプレ大会は秋葉原でやってくれよ、下らない。
「のまおい」より「歩行者天国」みたいなお祭り、増やせよ
原町人より

82 :
クソガキ武者の態度でかいよな?
真面目に大名行列やれよ
酔っ払ってんなよバカ
その酒は市民の税金から出てるんだろ?あ?
酔っ払ってから大名行列すんなよバカ
酒気帯運転で逮捕しろよバカ
「のまおい」なんて現代版暴走族だろ?
庶民が高いお金払う、現代版暴走族だろ?
まだ金のかからない暴走族の方がマシだわ

83 :
チーム「のまおい」

84 :
野馬追いは
大名行列の前を通っちゃいけないんだぜ、もちろん安全な100メートル先でも
例え子供だろうが、100メートル先で大名行列の前を通ったら
武者が子供を追いかけながらムチで叩くんだ
昔はこんな酷いことは普通だった
それと二階から大名行列を見下したらダメなんだぜ、無礼らしい
単なる、武者たちだけのコスプレヲナニーお祭り
普段は上司には逆らえないが、部下が数日間だけ「家柄」を盾に、上司を部下にできる、そんなお祭り

85 :
携帯水没した憂さ晴らしにのまおい叩けてすっきりした

86 :
平民が士族をねたんでいるスレッドはここでしょうか?

87 :
>>85
防水携帯を使え。

88 :
いそうで、いない相馬稙胤

89 :
>>84
クソガキやヤンキーとかRとか鞭で打ちまくって折檻する祭りなら見に行きたいなw

90 :
>>89
ギャル武者もいるぞ

91 :
相馬って鎌倉あたりからずっとあそこにいるんだろ?
そんな例島津ぐらいじゃないの?
大抵は滅んだり生き残っててても転封されてるし

92 :
日向の伊東もそうではなかったか?
あとは対馬の宗か。

93 :
鎌倉時代から本領が変わらなかったのは相馬、島津、伊東、南部の四家だけ。
相馬は特に判図がほぼ600年の間変わらなかったからか
領民との繋がりが密接で、本多忠朝(本多忠勝次男)に
「相馬に(石高や兵力で)適わぬところはないが、民との絆は羨ましく思う、これは先祖伝来のものだ」
と利胤が褒められた逸話があるね。

94 :
>>93
いい話だな。
佐竹が1万石くれるって言っても、出羽に移らないわけだ。

95 :
相馬は小勢力だったから相馬として全うできたんであって
大勢力だったらそんなの相馬じゃないやい

96 :
小勢力ではあったが騎馬隊が精強無比だったから
武家として一目置かれていたんだと思う。

97 :
あのな、勘違いするなよ。相馬が生き残れたのは領民のおかげだ。
在郷給人といい、領民が農業やりながら侍やってたから、相馬が生き残れたんだ。
天明の大飢饉の災害の後、藩を建て直したのも、北陸から移民してきた領民のおかげなんだよ。
だから相馬藩は、他の藩とは違い、武士の数が多かったんだよ。

98 :
相馬御厨が本領だとすれば、はやばやと失陥してるな

99 :
下総相馬家

100 :
>>93
〉 鎌倉時代から本領が変わらなかったのは相馬、島津、伊東、南部の四家だけ

南部は系図が錯綜していて本当はどうだかわからない。
その前に果たして本当に鎌倉時代に入部してるのかという話もある。
それと伊東・島津両氏はそれぞれ室町・戦国期に別家に入れ替わっている。
よって続いていると言えるのは相馬と相良と宗と松浦の四氏くらいか。

101 :
>>100
相良とは少し親近感を感じるな。大国に押されながら何とか生き残った所とか。

102 :
元プロレスラーのアントニオ猪木は、相良一族の末裔だという説がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F

103 :
現当主は麻生太郎の義弟らしいね

104 :
【奥州】田村氏【最強】
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1215640600/

105 :
YouTube - 相馬野馬追 宇多郷出陣式
http://jp.youtube.com/watch?v=qdia_WKICNo

106 :
そろそろ野馬追だよね。時期的に来週末か?


107 :
相馬野馬追
7月23日宵祭
甲冑競馬
出陣式
7月24日本祭
神旗争奪戦12:00
場所:福島県南相馬市(原ノ町)
平将門の末裔でもある相馬氏が、隣国の大国伊達氏のための
軍事訓練が相馬野馬追である。国指定文化財。
地図&駐車場詳細↓
http://www6.ocn.ne.jp/~nomaoi/

108 :
25日の野馬懸が抜けてるよ
9:00〜南相馬市小高区小高神社
ちなみにこの野馬懸が重要文化財。

109 :
相馬中村神社の出陣式と相馬市内の騎馬行列見てきた
面白かったけど、一つだけ不満。行列を横切った観光客に対して「横切らないで下さい」とか言ってんの、騎馬武者が
出陣式の訓示の中で「言葉には注意するように」とか偉い人が言ってたけど、そういうことかと
横切った奴を追いかけて鞭で打ち据えろとは言わない。せめて怒鳴りつけるくらいしろよと
勇猛をもって聞こえた相馬武者がお願いしてどうすんだと

110 :
>>109
御三家じゃないから「下に〜下に」とは言えないしw
平日でもそんなマナーが悪い観光客がいるなら、週末開催とか絶対無理だな。

111 :
うpしてみる
ttp://www.vipper.org/vip881351.jpg
ttp://www.vipper.org/vip881354.jpg
ttp://www.vipper.org/vip881355.jpg

112 :
>>111
キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!
御当主は白馬に赤母衣ですな。

113 :
おーすげー

114 :
俺も行ってきたが、参加したのは相馬家嫡男の弟、時胤さんでしたよ。
9歳のRが騎乗してた

115 :
>>114
お前、間違ってるぞ!

116 :
胤がつくんですね

117 :
卑猥だよね♥

118 :
千葉常胤は余程偉いんだね

119 :
相馬胤国じゃないかな

120 :
相馬氏を語る上では、
明治におきた相馬事件は外せないと思いますが。
どうでしょうか?

121 :
ここは戦国板だからな…
確か精神病患者を合法的に監禁出来るように法を改正するきっかけになった事件だっけ。
相馬野馬追の時に霊廟を見に行ったけど誠胤の墓もちゃんとあったな。

122 :
墓はあるでしょうね

123 :
信長の野望だと真っ先に消え去るよね

124 :
>>123
天下統一や戦国史はともかく、「知名度=力」の信長の野望では仕方ない。

125 :
103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/04(金) 20:45:30 ID:Fxt5XX4u
現当主は麻生太郎の義弟らしいね

どうなの?

126 :
>>125
妹(雪子)の夫が現当主らしいよ

127 :
麻生家は日本中の名門と姻戚関係にあるからね。

128 :
麻生氏の出の妻を貰いたいというのは動機としてよくわかるんだけど
麻生家側としては、こーゆー昔の名家との婚姻ってメリットあんの?
ええしの家に娘を嫁にやるステータスみたいなもん?

129 :
麻生家って元々は庄屋程度の家だから
「家柄ロンダリング」したいんじゃないの?
成り上がりの戦国大名も、公家から嫁さんもらっているケースも珍しくないし。
ヨーロッパでも成金はポーランドとかの爵位を買うケースもあった。

130 :
華族の婚姻だから末端でもトンでもない縁組は普通にありえるだろ。
階級の絶対人口が少ないんだしさ。

131 :
戦国期の相馬と佐竹ってどんな関係だったの?

132 :
対伊達で共闘したことがあったはず。

133 :
両家とも岩城家が隣国だったから、挟み撃ちする話でもしてたかな?

134 :
相馬と佐竹はどっちも古くからの家だから、
それなりの音信はあっただろうね。
伊達も古いけど。

135 :
>>134
佐竹も最後は相馬に乗っ取られたけどな。

136 :
永禄5年に佐竹が相馬に攻め込まれてる。

137 :
佐竹には小規模な水軍があったようだな
http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/ibaraki_kuji.htm

相馬は水軍なしだったっけ?

138 :
相馬氏って将門の男系なの?

139 :
村岡五郎(平良文。千葉氏の関係かな)は、ご先祖様じゃないんだね?

140 :
>>137
水軍有ったら、文禄・慶長の役で朝鮮に行かされてそうだ。
そういや、相馬は朝鮮出兵は何してたんだろ?

141 :
朝鮮出兵の時は佐竹と一緒に名護屋に在陣していたはず。
渡海はせず佐竹、岩城と一緒にどんちゃん騒ぎしていたらしい。

142 :
佐竹は渡海したのではなかったか?


143 :
佐竹は本隊は渡海してなかったんじゃなかったっけ?
佐竹家臣大和田重清日記には、相馬義胤が陣中で体調を崩したとき
佐竹義宣が見舞いに来たり、義重が朝風呂に招待したりした事が書いてあるね。

144 :
>>142
東北で渡海させられたのは片目の基地外だけ。
しかもあまりの弱兵ぶりに晋州では加藤清正から「邪魔だから引っ込んでろ呼ばわり」。
悔し紛れに「兵糧が届かないぞ」と浅野長政に八つ当たりして縁切りされる。
どのくらい働いてないかというと、戦死者より病死者が多いw

145 :
朝鮮ではまったく役に立たずに、タダ飯喰いだったので
後方に追いやられ、母のお土産探しをしていたバカ宗。

146 :
親戚一同で行く九州名護屋の旅、羽振りがよく見える奴にだけ赤紙。
こんなとこか。

147 :
北海道から松前氏もわざわざ九州名護屋までやってきたが
渡海することもなく、むなしく帰っていたそうな。

148 :
北海道や秋田辺りは、名護屋に行くより直接行ったほうが早そうだな。

149 :
松前氏は朝鮮攻めるより樺太や千島列島攻めるほうが手近だった。

150 :
参勤交代と同じで、大名に余計な出費を強いただけだな>名護屋在陣

151 :

中村妙見社の禰宜さんのお婿さんが、紀子さまの弟御だっけ。
わしゃ神田明神の氏子だから相馬びいきなのかもしれんが
二遍返しって民謡の歌詞が好きだよ。
♪花は相馬に〜 実は伊達に〜 実は伊達に〜

152 :
というと謀反人・平将門の子孫と皇室がつながっているのか。


153 :
そもそも戦国時代の相馬氏は将門の男系子孫なのか?

154 :
>>153
伊達氏が藤原山蔭の子孫だって主張してる話よりは確実だろうな。

155 :
>>152
同時代の宇多天皇と将門は桓武天皇を高祖父に持つハトコだけどな。

156 :
将門が支配していた相馬御厨に、
後からやってきた房総平氏が勝手に将門と由来づけただけだべ

157 :
アゲ

158 :
>>144
戊辰戦争でも仙台藩は弱くて同盟藩からも馬鹿にされてたらしい。
二本松藩の記録なんかには「惰兵」呼ばわりされてる。

159 :
ちょwwww
少年兵まで動員しながら藩主は米沢に逃亡した二本松藩がですかw

160 :
戊辰戦争で相馬藩は仙台藩の佐藤宮内を通じて、和議を進めてるね。
その佐藤宮内のご先祖が、
相馬家を裏切って伊達家に走った佐藤為信の子孫だったりするから歴史は面白い。
尚、相馬藩の窓口は佐藤勘兵衛で、遡れば佐藤宮内と道祖らしい。

161 :
>>160
〉尚、相馬藩の窓口は佐藤勘兵衛で、遡れば佐藤宮内と道祖らしい
共に為信の父、伊勢守好信から分かれた家系。
この宮内が伊達に与したあたりが機転になって、相馬は伊達に対して劣勢になって行くんだよね。


162 :
機転になって(×)

転機になって(○)

163 :
四万八千七百石の割には強いよな。

164 :
伊達政宗に押された時は、盛胤が恭順で義胤で徹底抗戦。
関ヶ原後の出羽転封危機の時は、義胤が同意で利胤が徳川家に交渉。
この親子の微妙な意見相違が面白い。
親がわざと消極策を述べて、若き当主を引き立てる意図もあるかもしれないが。
>>163
守勢に粘り強い印象があるね。もちろん攻勢に出ることもあったけど。

165 :
>>164
資料の内容は他家資料や前後の筋を読みながら矛盾してるかチェックして信憑性が高いもののみ取捨選択していかないと史実は見えてこない。
その上で、その盛胤の伊達への帰順って件は作り話だよ。
そもそも伊達が中村城まで攻めた史実はないし、惣無事令が再度やってきて助かったから義胤は小田原参陣したって話だけど
いまさら惣無事令がまた来たってwのがおかしいし、そもそも義胤は7月に宇都宮参陣したのは安東氏の資料と、7月に相馬領安堵朱印状で確定してるので、相馬の小田原参陣はウソ話である。

166 :
まあはっきりいって
伊達と戦う理由もなかったんだがな。
政宗が年食ったバージョンなら
もめることもなく外交で穏便な友好関係なはずだったが・・・
若い頃の政宗は血気盛んすぎて
外交で仲良くするとか優位に立つとか根回しとかもあんまり知らんでガRやってたからな。
でもまあ最終的にまた洞の乱みたいなのが起こるか?

167 :
相馬は輝宗末期には2城を返還して和睦したから、
せっかく返還した事が損にならないように、人取橋では佐竹を牽制し、その後に政宗の詐術に警戒する畠山氏に保証するなど二本松開城に尽力するなど政宗のために動いてくれてたからねぇ。
政宗は輝宗の積み重ねてかた奥羽安定を真っ向から否定してんだよな。
つか伊達代々任官した左京大夫を岩城の兄ちゃんがもらってるんだが、
輝宗はもらってないし政宗も秀吉時代まで任官してないし…親子揃って伊達氏は無官っぽいんだよな。

168 :
誰の目にも天下統一は目前だから
既成事実を積み重ねたかったってのもあるんじゃない?
元親や義久や政宗あたりの急成長は、大分無理しているからね

169 :
>>165
間違った俗説が広まった経緯や意図はなんだろう。
政宗の口添えで相馬家が本領安堵になった、とかいうのと同じ??

170 :
>>169
伊達家による捏造一択だろ。

171 :
悪いのは何でも伊達
素晴らしい理論です

172 :
政宗の口添え云々は、新井白石の「藩翰譜」辺りが初出かな?

173 :
>>135
徳川後期の相馬宗家は佐竹家(鬼義重)の男系子孫
佐竹から養子が入り、後に相馬から佐竹に養子が行った
>>142
佐竹(東)義久は渡海して城造り(補修工事?)
当主義宣は渡海予定だったが中止命令下る…
で、名護屋で茶会三昧…自身「関東一の数奇者」と豪語…国元へは「金を急いで届けろ!」と催促しきり
どこの大名家も同じ様な事だったろう…

174 :
>>171
事実ですが何か?

175 :
>>173
幕末の佐竹義堯という方ですね、相馬から養子に入ったのは

176 :
いまや政宗の口添えで相馬安堵話は捏造なのがはっきりしてるな。
政宗は相馬領をもらうつもりだったから相馬安堵にガッカリしたってのが史実。

177 :
相馬が政宗の領内通過を見逃したのはどうだろう?

178 :
>>177
直江なんちゃらよりも、相馬義胤公こそ義の人にふさわしい。仇に対して恩で返すなど常人にできることではない。

179 :
>>178
月夜畑の戦いでは
伊達軍がやられるように仕向けているけどな。
結局、上杉方の石川弾正に相馬軍もやられてしまったわけだが。

180 :
>>179
その戦いの戦死者名簿が相馬復活に役立った

181 :
>>180
つまり、この戦いの真の勝者は領地を削られた景勝でも大魚を逃した政宗でもなく、改易から復活した義胤ということですな。

182 :
>>177
って事は、佐竹や岩城も政宗の通行を妨げなかったって事になるな(政宗が浜通りを通ったなら)
だから相馬も通した…
>>181
う〜ん、三胤(密胤・利胤)じゃないかな…

183 :
上杉の武門の意地と面目を天下に知らしめた戦役の首謀者な景勝が改易されない&責任をとらされない時点で上杉は負けではないな。
しかも武威を家康や義光から誉められる特典付き。
政宗は相馬領を望んでいたのに相馬改易にならず、百万石加増の約束をシカトされ、
南部領での和賀一揆支援した為に、証人の和賀上洛を家康に命じられ、パニックのあまり和賀を自刃させて証拠隠滅させ、家康に土下座した政宗の独り負けだろう。
しかも戦後に義光が家康に讒言し安東氏を転封させたが、甥の政宗の非協力ぶりを義光は報告しなかった。
義姫に免じて義光が事実を述べなかったから伊達は助かったようなもん。

184 :
とはいえ、最終的には
家康の死後好き勝手やった政宗の勝ちな気がする。
まあ周りから見たら政宗は家康の義理の弟だしあんまり邪険に扱えないしさ、
しかも、その権力を利用しまくったのでいけすかない爺さんなんだろうけどw
まあ勝ち負けなら秀吉か家康だろうな。
そらそうだという感じ。
秀吉は秀吉の死後の血縁が大変だったけど。
というか、相馬の話からえらくずれたな・・・

185 :
>>184
家光に遊ばれた政宗ですね!わかります。
さんざん挑発したのに牙が抜けた猫な政宗www

186 :
来年の大河ドラマ「天地人」では相馬の出番はあるかな?

187 :
>>183
もう少しうまく釣れよwwwwwwwww
>上杉の武門の意地と面目を天下に知らしめた戦役の首謀者な景勝が改易されない&責任をとらされない時点で上杉は負けではないな。
>しかも武威を家康や義光から誉められる特典付き。

188 :
家臣で有名所はどんな人がいるの? 逸話とかあったら教えて。

189 :
水谷胤重【みずたに・たねしげ 1538(天文7)〜1606(慶長11)】
式部。相馬氏の重臣。父は胤氏。天文十一年(1542)父が伊達氏との合戦に討死し、
叔父胤清に養育された。長じて天正年中、度々合戦に従う。
 慶長五年、伊達政宗がわずかな手兵で相馬を通り仙台に帰る時、
相馬で一泊したいと申し出、この隙に襲撃するべきとの家中の意見に対し、
「仇敵でも、このように頼ってきている者を討つのは武士ではない」と発言したという。
相馬義胤はこの意見を容れ、政宗は一夜を無事に過ごし仙台に帰った。
この出来事のために相馬氏は改易されたあと、伊達氏のとりなしを得て本領を回復できたのだという。
ttp://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/souma.html
最後の文章の伊達氏のとりなしの真偽はわからんが、
この前文を見る限り、水谷氏自体は真の武将であることが理解できる。

190 :
>>189
伊達家のとりなしは新井白石の妄想。
史実の政宗は相馬領を貰えると思っていたが、
三胤が月夜畑の戦いで上杉に敗北した犠牲者名簿を幕府に提出しての安堵運動をしたために相馬安堵となり政宗はガッカリしてる。

191 :
>>184
勉強不足で申し訳無いが、「政宗は家康の義理の弟…」について質問!
家康の息子と政宗の娘が結婚した事で互いに息子や娘の舅(義父)になる…
で、同じ舅(義父)同士で年上の家康が兄、年下の政宗が弟…って解釈で良いのでしょうか?

192 :
忠宗の正室も家康の養女だし義理義理の弟かもな

193 :
あー
この場合はどうなんだろうな。
俺の父親曰く、子供が結婚した場合、
その相手の親は俺の父親から見たら
義理の兄弟みたいなもんで基本的には仲良くするもの。だそうだ。
家族付き合いってのもあるからね。
まあでも義理の弟と世の中ではっきり言うものかどうかはわからん。
実際の政宗の義理の兄弟ってのは、小次郎の嫁(いたのか?)ともう一人の弟の嫁(これもいたのかどうかわからん)、
妹の旦那。

194 :
4行目は俺の父親からみたらの言葉が要らないな。
あとは、政宗の正室側室の兄弟。
田村家とかね。
あれは義理の兄弟だな

195 :
でも田村宗顕はあれは愛姫の実際の弟ではなかったっけかな。
扱い的には最終的に弟扱いになるんだろうけど。ややこしい。

196 :
>>184は出典を出すべき
家康が秀吉の義弟だったのはわかる
信長と家康の清洲同盟が対等であり互いの子の縁組みが成立した時点で「家康は信長の義理の弟」って言われたのかな…?
「三河の親類」って信長が言ったのは、何かで読んだか見た気がするが…それは小説かテレビなんかでね
まあ、家康が信長に兄事してた…なんて書かれているのも良くある
昔の大河ドラマで家康が信長を「兄上」と呼ぶ台詞があったし
当時「政宗は家康の義理の弟…」って認識が当たり前だったのかな?
親子程の年齢差だか

197 :
相馬スレなのにゴメンね
m(__)m

198 :
全く、史実でもスレでも伊達の侵略かよw
>>189
水谷氏は結城家中の水谷と関係あるのかな?

199 :
>>190
新井白石って、歴史家もしくは歴史作家としては三流以下の存在ですね。
現代なら差し詰め鈴木真哉か星亮一というところでしょうか。

200 :
>>198
ない、はず

201 :
結城の水谷も先祖は陸奥と関係深いけどね

202 :
同族か?

203 :
読み方違うね。結城の方は近江の地名が由来とも。

204 :
武田騎馬隊は後世の想像の産物らしいけど、相馬家の騎馬隊はどうなんだろ?

>>203
陸奥の方は「みずかい」と読むんだっけ?

205 :
>>203 >「みずかい」
そうですね。

206 :
江戸時代、弱小相馬さんが
移封されなかった理由って
なんですか?

207 :
>>206
失政や御家騒動が無かったからでは?(飢饉で死にかけはあったけど)
あと、伊達への睨みか。

208 :
改易はされたけどね

209 :
1788年に幕府巡検使として奥羽を回った古川古松軒が
東遊雑記で、相馬藩の武威に感動し
60万石の伊達の武風には大したことねーな。
何も感じなかったし。
だけど6万石の相馬の武風に感じるとこがあった。
石高は関係ないもんだなぁって書いてる。

210 :
>>209
気になったので、「東遊雑記」を古書店に注文してみたw
到着が楽しみ。

211 :
207さん、ありがとうございます。
相馬の祭りは今でも
武威があると
なにかで読みました。

212 :
相馬 野馬追い
ttp://www6.ocn.ne.jp/~nomaoi/
いまだ武威衰えず!仙台を監視してます。

213 :
>>212
監視だけじゃなくて、折角だから仙台を滅ぼしちゃってくれないかなw

214 :
>仙台を監視してます。
O

215 :
>仙台を監視してます。
OHバンデスを監視するのが日課です。

216 :
桓武平氏村岡五郎良文を祖とする千葉氏とは関係あったんでしょうか?
千葉氏の一族原氏と同じ九曜紋が気になりましたが。

217 :
千葉常胤の子が相馬師胤なわけで・・・

218 :
ご先祖様が相馬藩の藩士だったらしいのですが、我が家はお正月に注連縄飾りを外します。
なんでも注連縄に兜が引っかかって合戦に負けたという言い伝えがあって縁起が悪いということで。
相馬の流れを汲んだ家系で同じような家訓をお持ちの方はいらっしゃいませんか。

219 :
>>217
陸奥相馬は下総相馬と不仲だったと聞きますが、千葉家とはどうなんでしょ?
>>218
むしろ同じ風習の家があれば、相馬家家中の末裔である証拠かも。

220 :
>>219
下総相馬は早々に没落というか千葉氏の郎党みたいになってて
正確な系図がわからないんじゃなかったっけ。
複数の同族が本貫を根拠に同じ苗字を名乗り続ければ余程明確な上下関係がないかぎり、
どちらが本家かという諍いが起こって当然と考えていいよなあ。

221 :
どうでもいいです、何もないこの街居ても意味なしw とっと出るが勝ち

222 :
故郷が地方の町なら、それは大切にしたほうがいい。

223 :
ただでさえ警戒されてた伊達が幕府巡検の前で下手な行動見せるわけないだろうに
相馬が強いし武威に感じ入るというのは同意するが、巡検視としてバカだぞ…

224 :
>>223
伊達なんて警戒されてないよ。
幕府に藩祖政宗以来、ひたすら普請を命じられ虐め抜かれて藩財政も崩壊継続R。

225 :
戦国期の相馬家は伊達家との婚姻関係が多いけど、それ以外にはどんな感じ?
送る方と貰う方の両方で。

226 :
盛胤の室は蘆名盛舜の女

227 :
久しぶりに戦国板に来たら地元の殿様のスレがw
お堀のそばの学校行ったり二の丸で野球したり外堀と内堀の間でピアノ習ったりしてたな・・・

228 :
一小乙
俺は桜だった

てかこのスレに相馬にゆかりが無いけど来てる人っているのかな?
もしいるなら誇らしいなw

229 :
スレ立てた自分が言うのもナニですが、まだ相馬には行ったこと無いです。
天文の乱を調べてて、伊達家に一歩も引かない相馬盛胤に感じ入ってファンになりましたw
地元の人の書き込みは参考なります。
お祭りも一度は行ってみたい。

230 :
>>229
基本何も無いけどなw
戦国好きなら野馬追いは楽しめるよ。
行列横切ったり見下ろしたりしたら斬り捨てられるから注意ね。

歴史保存会みたいなトコ訪ねたら喜んで相馬の自慢話聞かせてくれるはず。
中学の郷土史の時間に下総とか伊達との戦いとか佐竹との関係とか
天明の飢饉とか実はヨーロッパと接触しようとしてたとか奥州列藩同盟とか習ったな・・・
あとホッケとカレイと梨超オススメ。
中村神社と小高神社もね。

231 :
相馬は麻生コネクションの一員

232 :
>>230
切り捨てられはしねーよ。道に引きずり出されて鞭で打たれるってばあちゃんが言ってた

233 :
最近、佐竹さんが秋田の知事になったのでWiKiで調べていたら…
江戸時代に相馬氏から佐竹氏に養子に入って、後に佐竹氏の当主になった人がいたとか。
…って事は、今の佐竹宗家は相馬流佐竹氏って事なのかな?とオモタ。
(相馬は平氏、佐竹は源氏…平氏が源氏を飲み込んだって感じ。)

234 :
>233だが、佐竹スレみたらまったく逆だった。
こっちが佐竹に飲み込まれていたとは…
だけど、正当な相馬氏の血脈も存続してるっぽいみたいだし…

どれが正しいのやら(汗)。

235 :
秋田佐竹の初代当主義宣の後を継いだのが相馬義胤の娘と義宣の弟岩城貞隆の息子。
でその後相馬に嫡子が産まれなくて佐竹から養子をもらってる(義胤の曾孫くらいにあたるかな)
乗っ取ったというより補完しあった感じかもね。

236 :
なるほど…
そうだったのか、佐竹と相馬は互いを支え合う間柄って訳でしたか。
しかし、相馬と佐竹…、かつて伊達を相手に戦った者同士でそんな繋がりがあるってのは…因縁かな?
(佐竹と相馬って、同盟結んでいたかな?ちょっと忘れた。)

237 :
岩城は伊達家臣になった別系統の血筋に取って代わって佐竹との縁が薄くなる。

238 :
江戸時代も対仙台藩同盟みたいなものがあったんじゃないかな。
南部や上杉も混ぜたらヨカタのにね。

239 :
伊達宗家←藤原氏
佐竹宗家←藤原氏(山内男系)
相馬宗家←藤原氏(山内男系)
岩城宗家←藤原氏(伊達男系)
石川宗家←藤原氏(伊達男系)
田村宗家←藤原氏(伊達男系)
白河氏←藤原氏
みんな藤原ヾ( ^ω^)ノワーイ

240 :
>238
上杉も相馬も江戸入ってからは特別大きな対立はしてないからな。
同盟とかは何とも。

241 :
>>239
じっくりと行朝周辺の系図の不明瞭さを説明してもらおうか。

242 :
伊達行朝関連は、今をもって、さっぱりわからん。
違うといえば違うかもしれんし、本当だといえば本当かもしれん。
半分くらいの感覚で見てたほうがええわ
当時にさかのぼらんと調べようがない・・・

243 :
まぁ自分の願望がいつの間にか史実だと思い込んじゃう悪い例だよね。
実際、血の繋がりを証拠立てるものは一切ない。
普通に考えて血が入れ替わってるわな。
日本史じゃそんなのしょっちゅうの事だし

244 :
>自分の願望がいつの間にか史実だと思い込んじゃう悪い例
まさにそれだ。

245 :
639 :日本@名無史さん:2008/08/31(日) 22:08:32 >>637
〉そもそも、南北朝以降の伊達家は名もない国人が当時の伊達家当主を滅ぼして乗っ取ったもの

ソースぷりーず
640 :日本@名無史さん:2008/09/01(月) 00:14:48 >>639
目に見える痕跡はないよ。伊達家が得意の捏造で消してしまったから。ただ、断絶感を完全に消し去ることはできていないので不自然。
641 :日本@名無史さん:2008/09/01(月) 10:07:04ズコー
ソースないんかい。
642 :日本@名無史さん:2008/09/02(火) 00:16:08 >>640
伊達が捏造したという証拠はいかに?
あちこちで「伊達家文書」は捏造とのたまっている香ばしいかたがおいでのようだが
643 :日本@名無史さん:2008/09/02(火) 01:24:09 >>637>>640
≫「伊達家当主を滅ぼして(伊達家を)乗っ取った名もない国人」

って具体的に誰のことですか?
644 :日本@名無史さん:2008/09/02(火) 04:59:52証拠がないのにアホすぐるw
645 :日本@名無史さん:2008/09/02(火) 12:47:16 >>642
仙台市博物館の学芸員乙。毎日紙くずのお守りご苦労w
>>643
伊達宗遠だな。先代との関係に疑わしい部分がある。藤姓足利氏から源姓足利氏に変わったのと似たようなことがあったと推測できる。
646 :日本@名無史さん:2008/09/02(火) 15:00:41 >>645
>藤姓足利氏から源姓足利氏に変わったのと似たようなことがあったと推測できる。

釣り?
647 :日本@名無史さん:2008/09/02(火) 22:09:06>>藤姓足利氏から源姓足利氏に変わったのと似たようなことがあったと推測できる

よくわからん例えだな。
母系の一族は一緒で父系が代わったとでも言いたいのか?
648 :日本@名無史さん:2008/09/02(火) 23:51:49 >>645
紙くずでもあんでもいいから、捏造とする論拠を出してみな?出せまいがなww

http://www.23ch.info/test/read.cgi/history/1153999525/601-700

246 :
しかし相馬ってよく中通りや会津に出陣してるけどよくもまあ毎度阿武隈を超えて行けるよな。
あの山見て育ってきた俺から見ると昔の人の脚力に感心するわ。

247 :
山を越えなくても行けるんじゃ。

248 :
だよね。

249 :
浜通りと中通りの交流は左程盛んではなかったのかな

250 :
南や北と比べるとあまり争ってないような

251 :
大坂の陣では、どんな活躍をしたのん?

252 :
今年も7月に野馬追い祭りあるけど、迫力がちがうね。
米沢祭の砲術隊は凄いけど、川中島再現は子供にチャンバラさせてる学芸会
今年から、参加者(家臣)が会社休める日曜開催ってニュースで言ってた。
旗差しと甲冑は当時からのモノだからカッコイイ

253 :
横浜から岩城や相馬までは、かなり不便で遠いからなかなか行けないな〜。

254 :
〉〉251
大坂は冬の陣で確か相馬利胤が徳川秀忠の側に陣を構えてたはず。
夏の陣の時は利胤が病で寝込んだので義胤(当時69歳くらい)が
利胤の弟を連れ立って大坂に向ったけど着いた時にはもう終わってた。
で、佐竹義宣が同行して家康、秀忠と謁見して帰陣した、という記録がある。

255 :
>>247
伊達領を通っていくのか?

256 :
関ヶ原の時は困ってる政宗に相馬領を通過させてやったじゃん。

257 :
伊達とバリバリ敵対してた時に中通り方面に行く時にはどうしてたって話じゃ

258 :
岩城が郡山方面に進出するよりは相馬の方が遥かに楽チンだろ…

259 :
やっぱり現代人じゃなくて足腰強い昔の人なんだから阿武隈越えてったんだろ。
飛脚なんて腹に笠据えて落とさないくらい風圧掛けて走ってたんだし。

相馬の図書館とかに行軍録とかないのかね?

260 :
伊達と敵対してた時は仙道に進出なんて殆どなかったと思うけど( ^ω^)

261 :
下賤な家柄の女の連れ子で伊達を纂奪した晴宗は
出自が怪しい賊なんで妻を要求したが当然に拒否られると強奪。
さらには探題を自称する基地害。
相馬こそ正統伊達を擁護した英傑

262 :
賊臣輝宗は無位無冠で、偽物が正統を自称するためにワザワザ子に伊達中興の政宗の名を持ち出してまで必死にアピる。
政宗は血のつながりがない曾祖父を政治がデタラメと酷評する悪党。

263 :
相馬はしぶとい。

264 :
戦は強いよね

265 :
天文の乱の稙宗方を取りまとめたのは、相馬氏?
それとも稙宗側近の小梁川氏とか別の人??

266 :
戊辰戦争の駒ヶ嶺口の戦いって地元の農民も参加したの?
それと、今の新地町の中心部あたりって昔から栄えてたの?

267 :
>>266
地元の農民は参加してないが、仙台藩士細谷十太夫率いる鴉組
福島の博徒893が有志で参戦している。
新地は明治までは、仙台藩領。戊辰戦争後福島に編入された

268 :
>>267 そうなんだ、ありがとう。
新地に親戚がいるんだけど、あんなにのんびりしてて陽気なところが激戦地だったなんて想像できないなあ。
新地でおすすめの史跡とかあったら教えてください。

269 :
>>265
稙宗娘婿の懸田俊宗が中心。稙宗が脱出して最初にたどりついたのが懸田城
晴宗側の主張は「今回の騒乱は懸田の謀反」
>>267
駒ヶ嶺を除く新地町(宇多郡の内10ヶ村、伊達領)は亘理城主・伊達藤五郎の所領
谷地小屋城が新地(文字通り新領土の意)の中心だったから、確かにそうかも
駒ヶ嶺の戦に参加した仙台藩兵は、仙台本藩+各支藩の混成で
(いろいろドス黒い裏事情も有って)統制が上手くいかず
相馬が薩長側に降ると、後はどうにもならなくなった

270 :
駒ケ嶺ねえ・・・俺の実家の数十メートル裏でドンパチやってたそうな。

271 :
伊達邦成が農民2人を使って降伏を官軍に伝える話は走れメロスのようで泣けるね

272 :
>>271
邦成は面倒事ばかり押し付けられたからな…
薩長軍への降伏調印式も亘理城で行われたし
まぁ踏んだり蹴ったりよ

273 :
新地周辺の史跡。
新地城跡。駒ヶ嶺城跡。宮城との県境にある旗巻き古戦場には
奥州側の供養碑や砲台跡、陣屋跡などあるが蛇多いので注意が必要。

274 :
http://www.pref.fukushima.jp/bunka/kairou/si/58sinti.html
場所等、詳細

275 :
       、z=ニ三三ニヽ、
      ,,{{彡ニ三ニ三ニミヽ   相馬の下々のみなさん。
     }仆ソ'`´''ーー'''""`ヾミi
     lミ{   ニ == 二   lミ|  俺は野馬追いの総大将の伯父さんだったって 
.      {ミ| , =、、 ,.=-、 ljハ
     {t! ィ・=  r・=,  !3l   もちろん知ってるよな。   
       `!、 , イ_ _ヘ    l‐'
       Y { r=、__ ` j ハ─  てなわけで、来月の選挙は投票用紙に「かめおか」
.  r‐、 /)へ、`ニニ´ .イ /ヽ
  } i/ //) `ー‐´‐rく  |ヽ  と書いて投票箱に入れてくれ。   
  l / / /〉、_\_ト、」ヽ!
  /|   ' /)   | \ | \

276 :
南相馬なんて名前ヤメテ原町に戻してくれ…orz

277 :
撮って来ました><
http://www7.atpages.jp/~wolfcamera/wolfcamera/img/up1325.jpg
http://www7.atpages.jp/~wolfcamera/wolfcamera/img/up1326.jpg
http://www7.atpages.jp/~wolfcamera/wolfcamera/img/up1327.jpg
http://www7.atpages.jp/~wolfcamera/wolfcamera/img/up1328.jpg
http://www7.atpages.jp/~wolfcamera/wolfcamera/img/up1329.jpg
http://www7.atpages.jp/~wolfcamera/wolfcamera/img/up1330.jpg
http://www7.atpages.jp/~wolfcamera/wolfcamera/img/up1331.jpg
http://www7.atpages.jp/~wolfcamera/wolfcamera/img/up1333.jpg
http://www7.atpages.jp/~wolfcamera/wolfcamera/img/up1336.jpg
http://www7.atpages.jp/~wolfcamera/wolfcamera/img/up1339.jpg
http://www7.atpages.jp/~wolfcamera/wolfcamera/img/up1340.jpg
初めて観戦しました
ほんとに行って良かったです

278 :
原町!最高

279 :
>>277
乙です。よく撮れてる。
うちの爺ちゃん昔野馬追い競馬ってのがあったって言ってるな。
ニコ動に信長の野望革新・相馬家プレイが上がってる!?

280 :
野馬追いは土日開催にしろー。
平日開催で、集客は落ちるじゃん

281 :
>>277
素人目だけど素晴らしい写真ですね。
格好いい。
>>279
甲冑競馬は今もあるよ。
>>277さんの写真にもある。
兜は脱ぐが、甲冑を着てヘルメット無しのほんとに命がけの競馬。
今年も落馬してた。
>>280
実行委員会と神社、各市町村との確執があるみたい。
やっぱり休日狙いの開催を望む声は多数あるけど、
神社側は伝統に乗っ取って23、24、25日開催にこだわってて、
各市町村は土日の取り合い。


282 :
気楽な感じにネタ振りしてみる。
@相馬義胤公の弟・隆胤公について
A相馬の客将? 小笠原貞経について
B義胤公お気に入り・怪力坊主の阿弥陀堂について
C佐藤親子の怨敵・郡左馬之助について
D元相馬家中の剣豪・小池春憲について
Eカムバック武将・泉胤政について
F逃亡者・中野宗時&牧野久仲親子について(相馬領に一時いた?)
資料少ないから語れる事も少ないかな〜…。
どんな情報でもいいので知ってる方、教えてクダサーイ。
丹下左膳はスレ違いですかそうですか
>>281
甲冑競馬なんてあるんすか…。神旗争奪といい、よく死人がでないもんだな

283 :
今年は甲冑競馬で落馬して救急車で搬送された方がいました
(たいした怪我でないと良いのですが・・・)
ゴール地点で馬がコケて前足1本折ってレッカーで運ばれていました(騎手は無事)
あまりに痛々しくてシャッターは切れませんでした><

284 :
追加します><
http://www7.atpages.jp/~wolfcamera/wolfcamera/img/up1347.jpg
http://www7.atpages.jp/~wolfcamera/wolfcamera/img/up1348.jpg
http://www7.atpages.jp/~wolfcamera/wolfcamera/img/up1349.jpg

285 :
>>269
ありがとう。
懸田氏と言えば、地理的に相馬と伊達の間ですな。
>>277
>>284
神キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!
女武者格好イイ! 各家の旗指物は壮観だ!!
>>282
中野宗時は天文の乱の時は晴宗方だったけど、頼って来たんだよな。

286 :
壮観だな。素直に感服した。

287 :
使い古された武具や旗
そして躍動感
風を切る疾走感
大河にはないカッコ良さがそこにあるな。
女武者も戦場では化粧もせず
良いな!
大河は学芸会だなほんと

288 :
なんかスレが進んでると思ったら野馬追があったのか。
地元出身なのにすっかり忘れてたわ・・・

289 :
以前史跡があれば教えて欲しいと書いた者です
教えて下さった情報をネタに今度の休みは新地観光したいな
野馬追は今年も見られなかった残念です
写真見て来年は行く!と思いました
ありがとうございました!!

290 :
>>282
>A相馬の客将? 小笠原貞経について
赤沢貞経とも言い、信濃小笠原氏の縁者なんだね。
親子じゃないけど、小笠原長時は蘆名家に身を寄せていたし、
東北に縁でもあったんだろうか?

291 :
相馬と田村の強さは異常

292 :
そんなに「異常」な「強さ」を有していたなら、もっとずっと大きな身代になっているはずだと思うんだが。

293 :
6万石と3万石でしょ強いよ強いよ

294 :
「強さ」じゃ無くて「打たれ強さ」だな

295 :
     _______                     __
    // ̄~`i ゝ                    `l |
    / /        ,______   ,_____    ________  | |  ____ TM
   | |     ___ // ̄ヽヽ // ̄ヽヽ (( ̄))   | | // ̄_>>
   \ヽ、   |l | |    | | | |    | |  ``( (.  .| | | | ~~
      `、二===-'  ` ===' '  ` ===' '  // ̄ヽヽ |__ゝ ヽ二=''
                         ヽヽ___//   日本
         ______________  __
         |民主党の正体             .| |検索|←をクリック!!
          ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄   ̄ ̄

296 :
粘り強さとか

297 :
>>263

298 :
相馬氏のグッズとか無いの? 家紋が入ったストラップとか。

299 :
野馬追グッズはよく見るが流石に相馬家そのものは・・・

300 :
http://members.jcom.home.ne.jp/kiyomasamuhon/bushou_koubo_index.html
新作ゲームでマイナーな武将を応募してる
今月いっぱいまでだけど
相馬家からは、義胤と新館胤治がエントリーしてる。
盛胤とかも書いた方が良いのかな?

301 :
そのゲームは信長誕生後からスタートなの?
それとも戦国前期から?

302 :
>野馬追グッズはよく見るが
どんなのがあんの?

303 :
信長の野望の新作に相馬家の人々は出てる?

304 :
名前,読み,戦法,足軽,騎馬,弓,鉄砲,兵器,一門,出自,信仰,相性,誕生年,登場年,没年,統率,武勇,知略,政治,格付け,義理
相馬顕胤,そうまあきたね,騎馬強化,C,B,D,D,D,9,武士,仏教,7,1508,1521,1549,71,68,70,73,A,70
相馬盛胤,そうまもりたね,突撃之三,D,A,D,D,D,9,武士,仏教,7,1529,1544,1601,82,75,60,56,B,75
相馬義胤,そうまよしたね,突撃之二,D,A,D,D,C,9,武士,仏教,7,1548,1563,1635,76,70,54,50,B,78
泉田胤清,いずみだたねきよ,斉射之一,C,D,C,D,D,157,武士,仏教,8,1563,1578,1602,64,37,27,28,C,60
江井胤治,えねいたねはる,鎮静,D,D,D,D,C,158,武士,仏教,8,1504,1519,1588,23,21,16,68,C,67
佐藤好信,さとうよしのぶ,鼓舞,D,D,C,D,D,159,武士,仏教,38,1514,1529,1563,42,34,38,72,C,53
佐藤為信,さとうためのぶ,突撃之一,D,C,D,D,D,159,武士,仏教,38,1543,1558,1591,66,53,63,45,C,27
水谷胤重,みずたにたねしげ,斉射之二,D,C,B,D,C,160,武士,仏教,7,1538,1553,1606,66,58,41,71,C,86

305 :
>>304
キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!
時代的に利胤までは入ってないか。

306 :
一番有能そうな顕胤の能力値が低いな

307 :
小高区の岡田の佐藤家ってあるだろ(馬買ってて、息子に○人って人をつける家)
あそこは何十年もノマオイでてるよな

308 :
今日東北道が混んでたので常磐道を使い、
大熊町から高速降りて、相馬経由で仙台に移動した。
町中に「相馬」の文字が溢れてて、wktkしまくったw
出張じゃなければ、相馬氏縁の史跡とか回ってみるのだが……。

309 :
相馬軍は1点豪華主義。
騎馬軍団が猛烈に強い。

310 :
とりあえず天道の評価に感動した

311 :
>>304にうpされてる奴か。

312 :
盛り上がってるね

313 :
天道、久し振りに伊達が晴宗と稙宗に分かれてるシナリオがあるのが嬉しいな。
稙宗を助けて顕胤が晴宗を討つ! たまらんわ。


314 :
>>313
天文期のシナリオとかあるんだ?
天下統一や戦国史ではあったけど、かなり珍しいな。

315 :
天文期の東北地方はマニアックなネタだ。

316 :
義胤は三成が武断派に襲撃された時に、佐竹と共に救援に向かったらしいね。

317 :
相馬ってそんなに無い名字だよね?
おれの名字は相馬なんだけど西日本出身なんだよね。福井の相馬氏となんか関係あんのかな。

318 :
>>317
貴殿の御家紋はどんな感じ?
http://www2.harimaya.com/sengoku/bukemon/bk_souma.html

319 :
>>317
西日本には少ないのかも知れないが相馬姓人口は全国で上位だよ
1万戸以上、5万人近い

320 :
相馬姓結構多いなあ。
志村、三谷、大槻、松野、秋田なんてのと同じくらいだな。

321 :
>>319
そうなんだ〜。
家紋は右のやつかな。
てか、福井にすら行ったことがないし親戚すらいないw
おれの知らない遠い親戚はいるかもしれんが。
一度訪れてみるかな

322 :
すまん家紋間違えた。
9曜紋だ。でも真ん中は月じゃなくてただの丸だお

323 :
それは相馬正嫡の証…若様、ずっと捜しておりましたぞ。

324 :
>>321-322
ご先祖を遡っていくと、どこまで行けるんだろ?
ご先祖のお墓のある場所とか、推定年代とか特定出来れば凄いかも。
個人墓って、江戸後期からなら残ってそうだし。
家紋も九曜紋ならご一門の末裔もあるで。

325 :
盛胤は弾正大弼をもらってるけど、これは稙宗時代の口添えあってのこと?
それとも自力や自官?

326 :
>>316
それ歴史漫画で見た事あるな。義胤でたー!? って感じでビビった。まあ佐竹義宣とは仲良かったらしいから
>>317
うちは相馬藩士の家系で七曜紋なんだが、計都と羅ゴウの霊星を引いた分格が落ちてるのかw
ところで誰か、この前の朝日新聞の記事みた? 相馬の殿様のインタビュー。
>>325
自官だったような気がする

327 :
秀吉が最上と佐竹に惣無事令を出して大崎と蘆名への支援を止めろって恫喝しなけりゃあ、
相馬や上杉も参加して伊達フルボッコだったのに残念だったな。

328 :
取りあえず相馬性はみんな武士でおk?

329 :
>>327
当時の秀吉は、
間違って政宗の言い分を聞いてたからな。
佐竹らがいるから伊達は撤退したくてもできないとか政宗が大嘘を重ねて吐き続けていてた。

330 :
流石!政宗公ですな

331 :


岡田外務相が降臨中www
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku2ch/1256630318/



332 :
>>328
むしろ99%以上が偽物
明治に名乗った百姓相馬が多すぎ

333 :
そうなのか。

334 :
家紋次第だと思うよ。家紋を見れば家系のルーツが分かるし。

335 :
バカかよ。家紋だって明治時代に勝手につけられたじゃん

336 :
あんたの家系はそうかもしれんが、全部が全部偽物と決めつける必要も無い。

337 :
家紋に偽物も本物もないお( ^ω^)
古代から現在に至るまで極僅かな例を除き、家紋に規定なんてないお
身分に煩かった江戸時代でさえ百姓町人や非人でさえ家紋は使っていたお
つまり何を使おうと何度変更しようと何個も持とうと個人の勝手なのだお( ^ω^)
だから家紋は家のルーツを断定する材料にはならないお
敢えて言うなら古い家ほど使っている家紋の数が多いと言う特徴はあるお( ^ω^)

338 :
まさむねはかみのせんりゃくでひゃくせんひゃくしょう。そうまはうそつきでしんようできない

339 :
>>338
だてしちせいゆみをそうまにひくべからず たねむね

340 :
>>326
殿様のインタビューについてkwsk

341 :
> 477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/03(火) 11:43:05 ID:5uu2qNzW
>長寿ってレベルじゃねーぞ! な家系のおはなし。
>
>相馬氏の家臣に、木幡高清という者がいた。
>この男、14代当主相馬顕胤に仕え、なんと19代当主相馬忠胤の時代まで生きたのである。
>5代に渡って仕えたといえば北条幻庵が有名だが、97歳で没した彼すら上回り、なんと106歳という長寿を保った。
>さらに、彼の兄、木幡継清も84歳、息子の木幡清吉も96歳と天寿を全うしている。
これ本当かな?
上条政繁と畠山義春みたいに2人が1人と間違われたりしてないのかなw

342 :
>>341
周辺には、92歳で討ち死にした一栗放牛や、97歳で殉死した小梁川宗朝、
92歳で往生した鬼庭綱元などがいる。

343 :
戸籍がない時代の年齢は当てにならんお( ^ω^)
近代でさえ出鱈目ばかりだし┐ (´ω`) ┌
江戸時代以前は大名でさえ確実な記録が残っている者は少ないお( ^ω^)

344 :
出鱈目としたら木幡高清は相当のフカシw 106歳てww
高「わしゃ顕胤公の代からお仕えしてきたんじゃぁぁ」
顕胤の豪傑ぶりってちょっと常人離れしてるが、出所は高爺のフカシ話だったりして…。
某所でまた月夜畠論争があったか…天地人終わったら少し収まるに違いない

345 :
論争すら成立してねーけどな。
史料なんて今まで一回も出した事がない伊達厨が、史料出せ出せ喚いて、「どうせ読んだことねーんだろ」とか言ってアホな勝利宣言を始めるから、
こちらが提示すると、恥も外聞もなく他人の土俵たる史料を反論する根拠としての史料も一切出さずにムリヤリ否定してるだけ。
なんせこれまでに相馬だけでなく島津、神保、越前結城、最上、上杉、蘆名、蒲生、南部らの史料を捏造だ!さらに分郡守護の話では小林清治氏の研究をも否定してるんだから笑える。
もう伊達の史料に載ってないものは捏造とか言い出して、信長公記厨よりタチが悪い重傷アホ厨房。

346 :
だいたい伊達厨は伊達治家記録を一次史料だと誤解してたアホだし。
これ会津陣物語を熟読した後に書いてるのがバレバレな使えない資料なのにwww

347 :
>>345
反論する根拠って、伊達と上杉の史料にも出てこないどころか、
地域の古老に聞いて回った『奥羽永慶軍記』にも出てこない、
相馬の『奥相茶話記』にしか出てこない戦いを、否定する史料などあるはずがない。
なんせ、相馬の大風呂敷だからねw
それから、『奥相茶話記』の一部を抜粋して、史料を示したからこれは事実だ、
などとほざくのは何とも阿呆らしい。
事実かどうかは色々な史料を擦り合わせた上で、初めて、確からしい、になるんだ。
島津の『薩藩旧記』は上方の風聞をまとめたもので、
諸大名の笑いものになったと記しているが、その諸大名の記録には全然出てこないのが伊達の味方討ちw
出てくるのは講談、作り話の『難波戦記』ぐらい。
ちなみに、真田幸村の名前を広めたとされているのも、この『難波戦記』ね。
正史とされる『徳川実紀』には、神保主従は討ち死にした、と書かれているだけ。
ところで、諸大名の名前を列挙すれば良いというものではないぞ。
神保、最上、蘆名、蒲生、南部の史料って具体的に言ってみろよ。
分郡守護のスレは見てないんで、知らないけど。

348 :
結局伊達も相馬も二枚舌外交で日和ってたから
後で慌ててあったかも分からないような戦を引っ張りだして弁明するハメになったんだよな
伊達、相馬、最上とかほんとトーホグ大名はクズばかりだよなw

349 :
このハゲ伊達厨は月夜畠の戦いの戦死者リストを水谷式部が作っておいたのを、
相馬三胤が本多正信経由で家康に提出して、西軍認定してもらい、改易にされずに済んだと言う史実の流れを
「そんな先のことは知らないし、興味もない」と逃げ出したアホだな。
上杉や佐竹のような大身は減封の上、転封。小身は改易されており、相馬も改易されたから佐竹に誘われたわけだ。
それなのに何の功績を認められて相馬領は一転して所領の完全安堵されたんでしょうかwww
実に不思議なできごとです。

350 :
訂正
×西軍認定
○東軍認定

351 :
何で相馬が負けたみたいな話しになってるの?
戦没者名簿は出したけど負けたなんて書いてないよ

352 :
え?負けて秋田に行く寸前だったじゃん

353 :
伊達と相馬は負けてますよ…
勝ってたら家康から感状が出て逆に相馬は加増してるはずだし。

354 :
関が原の時の相馬の動きを知りたい。

355 :
>>354
相馬は佐竹寄騎なんで
基本的に佐竹や岩城と同じ行動。
上杉と佐竹の連絡役は結城秀康に家督を奪われた宇都宮から結城へ養子へ入っていた朝勝(義重の甥。対北条の結城・宇都宮・佐竹同盟。関宿で謙信を怒らせた佐竹は気まずくて、結城から謙信へ再三越山要請させていた)が白河城にいて調整をしていた。
義広も会津復帰を願っていたから、西軍が勝って上杉が越後へ移封してもらえるように願っていた。

356 :
上杉攻めや小山評定には一切ノータッチかな?

357 :
胤胤胤

358 :
>>353
それはあなたの希望でしょう
相馬が負けたなんて一体なんの資料に書いてあるのですか?
一体なんの根拠があってそんな事言っているのですか?

359 :
正確には相馬と伊達が敗走した際に、
相馬がドサクサ紛れに伊達を陥れて
伊達の被害を拡大させたと言える。

360 :
>>346
伊達の使えない後世の捏造資料伊達治家記録では、
月夜畠を必死になって隠蔽しようとして、伊達の田村侵略の際に石川弾正が死んだと記す捏造王ぶりを発揮している。
松川で政宗に斬りつけた岡に関しても、会津陣物語を熟読したようで、わざわざ言及して「それはない」と必死な否定をする。
まさに捏造歪曲を全編に渡り行い、
さらに明治になり名将言行録を読んだ仙台では、
大正時代に伊達家にも猛将が必要だと痛感し、仙台の次の捏造として、成実を猛将に仕立てあげることが決定した。

361 :
上杉の史料ww
http://blogs.yahoo.co.jp/tenchijinstage/21166554.html

362 :
さらに関ヶ原後に再三にわたり南部によって敗走させられた記録も抹消し
あろうことか10月に家康から戦闘停止命令きたから、ここからは一切戦いを止めて、仙台築城に必死だったストーリーを作り上げる始末。
相馬、上杉、南部の資料と真逆な記録を書き上げる基地害ぶり。

363 :
>>362
相馬・上杉・南部の史料を挙げてみてくれ、捏造軍記じゃなくてなw

364 :
伊達の史料が捏造軍記そのままじゃねぇかw
今までさんざんソースを書いてきたが、お前ら伊達厨のような文盲には、まったく意味がないことがわかったから二度と書かねーよアホが。

365 :
そうやっていつものように逃げるわけかw
『奥相茶話記』の一部を抜き出しただけで、だから真実だ、とほざいてみたりな。
『歴代古案』の謙信の書状のくだりを抜き出して書けば、
手取川で上杉が大勝したことになるのかねえ?
結局のところ、上杉を擁護したいがために相馬を利用しているに過ぎない。

366 :
手取川がなんか関係あるの?まったく関わりがない話を持ちだして必死ですねwww
また見えない敵と戦ってるようでw

367 :
>>349
これに明確な解答を早くくれよ

368 :
伊達と上杉のケンカに毎回巻き込まれる相馬
松川合戦との絡みで月夜畠が語られるからしょうがない。戦いがあったと言ってるのは相馬だけだし
上杉の史書にないのは確かに変だが、家康はそんなに甘くないだろうと思う
どうにかして事実確認するはず
三成と親しく強いコネも無かった相馬が、割とすぐ本領復帰できたのはよっぽどじゃないか?
婿の岩城なんか川中島に飛ばされたからw 同じく佐竹一党で中立だったのに…

369 :
上杉も伊達もどうでもいいからよそでやれ鬱陶しい

370 :
そもそも相馬三胤の名前自体が三成からだからね。
上杉の史書にないのは、上杉米沢減封により、石川弾正も上杉家から去って米沢藩士になってないからだろうね。

371 :
で、結局相馬が負けたソースはまだ?

372 :
>>371
可哀想に涙目乙w

373 :
相馬は戦闘では負けなかったかもしれないが
外交戦では負けたのではないだろうか?

374 :
相馬自身が負けたと書いてるわけだが。
だいたい他に所領安堵された理由が別にあるなら、相馬がわざわざ家の不名誉になる月夜畠の敗戦を捏造するメリットなんてないだろ?
相馬が所領安堵された合理的理由を否定するからには、行動を共にした佐竹らと違い相馬がなぜ所領安堵されたか理由を書いてみろよ。

375 :
だから何に相馬が負けたなんて書いてあるの?
相馬が所領を安堵されたのは上杉と戦った事実が認められたから
つまり東軍として認められたと言う事であって
上杉に負けたなんてどこにも書いてない
まあ、戦績以外にも別の要素があったのかは知らんが

376 :
百目木より月夜畠までの一里の間を石川弾正200に「追詰」められて江堀へ飛込み多くが討たれた際の相馬の将の名前まで大量に書かれてるわけだが。
主の首を落とし鼻をかき道脇の雪中へ押込、主の鑓を取り小膝をつき敵を突くが敵が大勢だったので終に討たれりなどの記述が続き、またまた相馬の討ち死の将名が続々書かれ、最後に相馬150伊達250が討たれた。
と書かれてるのに、これが負けではないとでもwww

377 :
馬鹿かお前は?
だから何に書いてあるのかと聞いているんだよ
何度同じ事言わせるんだ

378 :
バカかお前は。
そんなもん過去に何度となく書いてるだろ。改めて書く必要なんてないわ池沼くんw
相馬は負けてないから伊達も負けてないとか捏造する気満々でワロタ

379 :
何と言う分かりやすい逃げだw
くだらないレス何度もくどくど書いてるくせに
僅か数文字の出典名を今更書きたくないとかバッカじゃねえの?www

380 :
は?逃げるもなにも何度となく言及してんだろアホが。
奥相茶話だよ文盲くんw

381 :
>>375
> まあ、戦績以外にも別の要素があったのかは知らんが

家康サイドに濃厚なコネがあったとか?

382 :
>>380
結局そんだけ引っ張って軍記物がソースかよw
しかも資料の裏付けもない一節を抜き出して終わりとか馬鹿すぎるwww
コイツそのうちノブヤボ列伝とかソースに出してくるんじゃねーのかw

383 :
382氏は相馬の人じゃないよな?
奥相茶話記をそんなふうに片付けるのは他所の人だと思いたいが…
奥相秘鑑とかにはどう書いてあるんだろうな
相馬は家康サイドに濃厚なコネなんてなかったよ。ちっさいコネをなんとか手繰って無理矢理
がんばったな相馬。もしかしたら俺今頃秋田人だったかもな

384 :
>>383
ご先祖が相馬家中のお人ですか?

385 :
>>383
相馬の人間なら尚更事の真偽に慎重になるべきだろう
月夜畑城攻めの項には書状等による裏付けもなく実態の根拠になるようなものではない
奥相茶話記、強いては軍記自体が出鱈目であると言うのではなく
真偽の入り交じった軍記のみでは論拠になり得ないと言う事だ
あくまで一次資料の補足として引用するものであって、元々そういった成り立ちに拠っている
自家編纂物というだけで考証もなしに盲信するようなのは
この板でくだらない妄想垂れ流してる他の厨と一緒だ
相馬にもそんな人間がいるとは思いたくないね

386 :
と原文すら読んだことがない人…どんなことがあっても、ひたすら伊達の敗北を絶対に認めたくない感情だけで、
必死に歪曲してる伊達厨が泣きながらレスしてますw
反論するに理由もいかにもただ単に今思いついたような幼稚な内容しか書けない池沼ぶり。
月夜畠を否定している歴史家すらいないのにw
伊達は関ヶ原後に家康に戦闘中止を命じられてから一切戦ってないと伊達は捏造主張してるが、
実際には年があけた後も相馬と一緒に上杉に敗北、さらに続けて南部にも敗北してるのが史実ですよ。
伊達の公式史書こそが軍記そのものじゃねえかw

387 :
月夜畠を否定するなら相馬が所領安堵された理由を合理的に説明してみろよw
そして他に安堵された理由があるなら、わざわざ月夜畠の敗北を捏造する理由にどのような理由があるわけ?
安堵された理由がちゃんと他にあるなら、わざわざ討ち死にした人々の名前をたくさん挙げてまで相馬惨敗を作り出す必要なんてないじゃんw

388 :
だから負けたなんて記録は一切ない
相馬は東軍側として戦ったと言う証拠として戦死者の記録を提出しただけで
惨敗しました、などと幕府へ報告した事実などない
それだけ何度も言うからには根拠があるんだろうな?
軍記に書いてあったなんて冗談はもういいから、そろそろ根拠を示して見たらどうだ?

389 :
奥相茶の
戦死者の記録を提出の記述は
肯定しながら
奥相茶の月夜畠は否定する
基地外脳の伊達厨でした。
なぜかと言えば、
伊達が負けた事実は感情的に絶対認めたくないが、
それでは相馬が安堵された理由説明がまったくできないので、
こういう論理破綻した主張をせざる負えない可哀想な状況に追い込まれたわけだw

390 :
>>389
お前はスレタイ読めないのか?
伊達とかどうでもいい事で話し逸らして逃げようとするなよ
大方、この板に相馬人なんか滅多にいないから、出鱈目言っても反論されないと思って嘘吹きまくってたんだろw
ほんとクズのような奴だな
結局、軍記に書いてあったというアホ丸出しの理由だけで書き散らしていたなんて呆れたものだ

391 :
勝ち負けや戦闘規模は別として、相馬は東軍サイドについて戦ったから
家康は所領安堵としたのではないだろうか。
どうだろ。

392 :
>>390
伊達厨房が火病が発病しましたねw
>>391
いや相馬は佐竹の寄騎として、一緒に行動してたから
佐竹は秋田へ減転封&相馬改易と一度は結論が出てるから東軍認定などされてない。
それで三胤が月夜畠の死者リストを持って存続願いをしてる。
この一連の流れに矛盾はなく自然。

393 :
>>392
それって>>391の言っている事と同じでは?
相馬氏は佐竹与力だったから一緒くたに処分を受けてしまったけど
(実際に相馬氏に対して直接改易の命令はなく、義宣だけが呼ばれて相馬、岩城、多賀谷領の改易を命じられたようだ)
それに納得いかない義胤は別行動を取っていた事を訴えて
それが受けいられて東軍認定され所領安堵になったという運びだよね
ふと、思ったけど
政宗が相馬氏の口添えしてをして復帰できたって逸話があるけど、これって
相馬氏が上杉氏と戦った事を家康に訴える→家康が政宗に確認を取る→政宗が認める
の流れが変化してそういう逸話になったのではなかろうか?
相馬氏を潰す気満々だった政宗がいきなり相馬の弁護し始めるのもおかしな話しだし

394 :
政宗は相馬を改易させる気まんまん。
実際に相馬が佐竹ともども改易されると、相馬領が伊達にもらえると考えて喜んでいたから
のちに相馬が安堵と聞くと政宗は意外に思い大いに落胆したそうだ。
そもそも相馬が伊達を誘って上杉を侵略をして敗走した時点での政宗の頭の中は、
伊達に相馬が従って戦った→伊達騎下に属したと政宗が妄想していたようにも茶話記では読めるから、
相馬改易で相馬領が伊達領に組み込まれるのが自然とする脳内ストーリーを家康に必死に強弁したのでは。
家康は南部を東軍として遇して、和賀共々政宗を謀反人として召還しようとしてるし、最上からも政宗の南部侵攻をチクられてるから、
ここら辺りの政宗の東軍顔した楽観さは、秀吉時代にも増して、
周囲の家臣側近に情勢を見極められるマトモな人間がいない事実がよくわかる。
相馬は政宗の野心をすっかり出し抜いて安堵を勝ちとった。
しかも相馬は月夜畠で伊達に多大な犠牲が出るように仕向けているし。

395 :
そいつはキチガイだからスルーした方がいいよ
知ったかの根拠が脳内ソース&妄想だから
この前も嘘ばらされて発狂してたしw
相手してやると喜ぶだけ
【Sub】伊達・上杉・最上・武田関連荒らし報告スレ
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1247488347/

396 :
>>394
> ここら辺りの政宗の東軍顔した楽観さは、秀吉時代にも増して、
> 周囲の家臣側近に情勢を見極められるマトモな人間がいない事実がよくわかる。

政宗本人は外交巧者のように思われているが、外交ブレーンの人材に不足していたことは確か。

397 :
>>394
>そもそも相馬が伊達を誘って上杉を侵略をして敗走した時点での政宗の頭の中は、
>伊達に相馬が従って戦った→伊達騎下に属したと政宗が妄想していたようにも茶話記では読めるから、
>相馬改易で相馬領が伊達領に組み込まれるのが自然とする脳内ストーリーを家康に必死に強弁したのでは。
なにこれ?
「奥相茶話記」のある「月夜畠夜討事」は水谷式部の提案で相馬・伊達領の悪党・野党をけしかけて
「月夜畠に大富貴の者」に夜討ちをかけさせた話だろ?
なんでそれが伊達政宗と相馬盛胤義胤による共同の上杉領領侵作戦みたくなってるわけ?
なんか違う史料読んでんの?

398 :
妄想池沼だからほっとけよ

399 :
アホだな
当時の悪党が現代の意味と違うことも理解できないようだ。
そもそも現代的な解釈で悪党とするなら、
これを「名誉の者共也」さらに「第一の高名」なんて書くかね?
つか現代的意味の悪党なら700人も集まらないだろうし、罠にハマって集まった瞬間に相馬軍によって討伐されるわw
そういや朝臣の楠木正成なども悪党だったね。また悪源太なんて言葉もある。
さらに水谷式部から「景勝の領へ夜討すべし」と指令された兵庫は公儀の北郷衆からも動員させている。
「夜盗頭」ってのも夜襲を指揮する兵卒頭って意味だボケ

400 :
奥相茶話記・月夜畠夜討事
http://toku.xdisc.net/cgi/up2/oiu/xs12322.pdf

401 :
相馬の領地は良馬を育てる地があったのだろうか?
それとも南部駒でも買ってたのかな。

402 :
草原みたいな場所がなかっただろうか?当時は特に。

403 :
馬の産地って平地より山地に多いイメージがあるけど

404 :
相馬御厨は下総だったっけ?

405 :
>>404
うん。相馬郡布施郷、だって。

406 :
そうだよね。

407 :
懇意にしてた佐竹家は源氏嫡流の名家だったけど、
平氏の流れをくむ相馬家家中に於いて気にならなかったんだろうか?

408 :
源平時代ならともかく
戦国になったらそういうことは気にしないでしょ。
むしろ歴史ある家どうしということで親しみがあったと思う。

409 :
源平時代だって棟梁が源氏と平氏というだけで、源氏vs平氏じゃあるまいお( ^ω^)
知っての通り、頼朝に従って天下取りに尽力した有力御家人達には平氏が多くいるお(北条・三浦・上総・千葉など)
逆に佐竹などは清盛方に付いて没落
相馬だって頼朝について勢力を伸ばしたわけだし
姓は殆ど関係ないお( ^ω^)
ちなみに戦国時代の南陸奥でいうと
佐竹と友好関係にあった岩城や葦名も平氏
相馬と岩城は共に平氏だけど険悪だったお( ^ω^)

410 :
佐竹は負け馬に乗ることが多いよなあ。
足利尊氏を支持した時は勝ち馬に乗れたけど。

411 :
>>408-409
関ヶ原後、佐竹から1万石もらって出羽に付いていかなかった理由が
>>407に起因するのかなと思ったりしたけど、そうでもないのか……。
何か改易取り消し嘆願が認められる根拠や自信でもあったのかな?

412 :
>>411
浪人して大名に返り咲いたのは他にも岩城、丹羽、立花、滝川などの例もあるし
大名は無理でも旗本になった家も結構あるお
皆、それほど徳川と親密であったわけでもないし意地の問題じゃないかお?( ^ω^)
あとは、関ヶ原本戦不参加大名であるという特徴があるね

413 :
>>410
戊辰戦争

414 :
仙台はやはり伊達厨だなw
さっそく月夜畠の伊達敗戦を隠蔽しようとしてやがるwww

415 :
伊達家は伝統的に軍事より外交で勝負でしょ。

416 :
伊達は政宗がお笑い芸人だからね。
でも自分より地位が低い相手には横暴だけどな。

417 :
佐竹にはあの奥州藤原氏の地も入っていたはず。

418 :
そうだったっけ?

419 :
相馬長門守が譜代格になれた理由は何だったの?

420 :
血縁じゃないかお?( ^ω^)

421 :
保守

422 :
まあ、500円玉が、豊臣家の家紋なんだから、豊臣家、大事にしようよ。

423 :
真田家は貨幣が旗印だな。
相馬家はジンバブエドルの札束を旗印にすればリッチだったのにな。

424 :
相馬の馬印「火車」はイイ。
赤の円に3つの炎。
敵に地獄の責め苦を味合わせるぞという意味。

425 :
そうま〜そうま〜そうま〜そうま〜つーよぉい!そうま〜♪
そーま〜つよいぞ!そうま〜♪

426 :
>>424
> 敵に地獄の責め苦を味合わせるぞ

マイナー大名にそこまでの力はない。

427 :
小勢力は敵も小勢力である事が多いからそうでもないのでは?

428 :
俺は相馬って名字なんだけどこの相馬家の子孫なのかな

429 :
ttp://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/souma.htm
このサイトに義胤の義は佐竹義重から一字貰ったって書いてあるけど本当なの?

430 :
>>428
相馬地方出身というだけかもしれない・・・・・
明治初頭に家がなにをしていたかで予想はつくはず。
>>429
ホント。佐竹家に「頂いた名を孫に譲る」という断りをいれている。

431 :
>>430
本当かな
一字譲り状とかあるのだろうか
佐竹氏と相馬氏は同格だし一字拝領は微妙な気がする
しかも義重と義胤って同い年だし

432 :
同格じゃないだろ。
伊達と抗争が始まったころから佐竹とは従属・支配の関係だったと。
豊臣政権下ではその関係から、佐竹の与力として位置づけられている。

433 :
>>432
兵役かけられた事もなければ領内統治に干渉を受けた事もないし書札礼から見ても同格だよ
それと与力大名はその大名を補佐する為に秀吉の命で付けられたもので従属国ではない
多賀谷氏なども同様の立場
岩城氏に関してはやや状況が異なるが基本的には同じ

434 :
義って普通に将軍家からもらったんじゃないの?

435 :
さすがに通字の方は一門でもないと使えないのではないかな
いずれにせよ義胤以降は相馬氏と佐竹氏の結び付きは強いね
そういや佐竹にも義胤って当主がいるな
まあ、何の関係もないけど…

436 :
>>432
> 伊達と抗争が始まったころから佐竹とは従属・支配の関係だったと。
> 豊臣政権下ではその関係から、佐竹の与力として位置づけられている。

従属・支配ではなく「格下の同盟」ではないだろうか?
織田徳川みたいな感じの。
で与力は支配下ではないだろ。
明智細川みればわかる。


437 :
それはともかく、相馬は大阪の陣ではどの程度活躍したの?
佐竹はけっこう苦戦したみたいだが。

438 :
いや相馬は輝宗に追い詰められて2城(金山城・丸森城)を譲渡して和睦して以来、
伊達傘下の格下の同盟者だよ。
人取橋では伊達寄りの中間人として石川氏らと出馬して
佐竹を牽制してあげてるし、惣無事令の発令をうけて
伊達田村の哀願を中間人の相馬が二本松側に伝えて、
このまま惣無事違反をすれば畠山存続すら危ういと
二本松開城への身柄保障人として斡旋交渉してあげたのも相馬。
政宗は力をつけた相馬に勝てないために田村乗っ取りを謀り
卑怯にも相馬首脳の銃殺事件を引き起こし
この首脳陣死亡事件により、相馬が伊達に敵対し、佐竹側へ傾いた。
この銃殺事件は耳川の戦いにおける大友首脳陣や
沖田畷の戦いにおける龍造寺首脳の壊滅と同様の組織瓦解が起きてしまい
相馬衰退の決定打になってしまった。
せっかくの金山城・丸森城を伊達に譲渡してまで和睦を乞うた相馬側は
伊達との関係を壊したいとは思ってなかった。

439 :
>>438
おいSubキチ
お前の糞レスなんて誰も興味ないから目障りな長文すんな

440 :
保守

441 :
名流意識はあったのかな

442 :
老舗意識はあったと思う。
ただ、もともと官位はそれほどは高くないでしょ。

443 :
陸奥大名の家格で言えば大崎や結城だおうね( ^ω^)
他は地頭レベルだし、どの大名も古さは同じぐらいだお( ^ω^)

444 :
>>443
南部と岩城は古くなかったか岩城は平安時代からいるし

445 :
岩城は古いんだが官位や家格はパッとしないのではなかったか?

446 :
確かに岩城や石川は古いお( ^ω^)
南部は鎌倉組だから奥州では普通だお( ^ω^)
家格的にはどこも似たり寄ったりだけど( ^ω^)

447 :
佐藤良信は相馬盛胤にスカウトされて軍奉行になったってどこかで見たんですが、その辺のエピソードをご存知の方いらっしゃいますか?

448 :
マイナーすぎてちょっとわからないな。

449 :
>>437
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には軍勢を率いて出陣したが、
大坂到着の5日後には講和が結ばれたために、戦功はなかった。
翌元和元年(1615年)の大坂夏の陣には秀忠の陣に属して進んだが、
利胤は駿府で急病となり軍勢は停止した。
利胤急病の為に国許で隠居していた義胤が急遽指揮を取ることとなって急使がたつが、
軍資金の調達など義胤の出立に手間取り、結局相馬勢は夏の陣に遅参となった。
やがて利胤の病も癒え、遅参の咎めもなく利胤は中村城に帰った。
http://roadsite.road.jp/history/muromachibuke/soma/soma-tousyu2-01toshitane.html

450 :
これが仮病だったならかなりのやり手だけど( ^ω^)

451 :
>>447
天文年間、岩木重隆が相馬顕胤と合戦して敗れた時、
それまで岩城氏に属していた佐藤好信が相馬氏の麾下に入り、
標葉郡山田郷を賜った。
やがて、対伊達氏との武勲等によって宇多郡六ヵ郷を賜り、磯辺館主となる。

以上、大分前に読んだ本(小高町史だったかなぁ?)からの記憶。
まあ、六ヵ村も与えられたというんだから、よっぽど勲功があったんじゃね?
もっとも、それが妬みを買って讒言に合い、最後は小斎一ヵ郷に配置替えされる訳だけど・・

452 :
>>451
ありがとうございます。前々から気になってたのでスッキリしました。
そういえば今日から相馬野馬追いですね。今年も見に行けないなぁ・・・


453 :
今日発売の週刊コミックバンチに相馬義胤が出てるぞ
しかも妙にカッコイ
伊達メインの作品にしては破格の扱いじゃないか?

454 :
でも来月で廃刊になるんだよ

455 :
相馬馬追祭age!
歴女かなり参加してるのかな?

456 :
週刊コミックバンチ廃刊なのかー

457 :
そろそろお盆なので質問
全国的にも有名な相馬盆歌の発祥は相馬御厨なのかな?

458 :
ここしか聞くところがないんですが、江戸時代に相馬家の家来と会津藩松平家の家来が、参勤交代の宿割りで揉め事を起こしたというのはホントですか?

459 :
>>458
どんなもめ事?

460 :
>>10
>相馬は伊達に遠慮してるので裏切るかも知れないと疑っていて牽制された格好になってあげた
うーん。これはどうかな。
人取橋対陣図を見ると連合軍は丁度、将棋で言う穴熊囲いのような布陣を敷いているように見える。
相馬勢は佐竹本陣を前田沢兵部城と左に挟んで守りを固めているように思える。
前田沢兵部城、佐竹、相馬、岩瀬(二階堂)、岩城、石川、白川(白河)と本陣が並んでる。
すぐ前には五百川(高倉川)が流れている。
川を挟んで向こう側には前田沢城の前に前田沢勢、岩城・岩瀬勢の前ら辺に蘆名(白河)義広勢。
伊達と比べれば4倍以上の戦力っていうから、相馬は本陣を固め、
攻めは他に任せたように見えるな。

461 :
佐竹は信用できない相馬を近くに置いて監視してたのが実態。
そのために佐竹も近くの相馬に牽制されることになる。

462 :
連合軍総軍で見ると相馬勢は7〜8%。
相馬単体で牽制になったと見るのは俺には無理。
輝宗が死んで若輩の政宗が伊達家を継いだことで、
岩城、石川、前田沢も大方の予想どおり伊達を離れ、佐竹方に付いた。
それだけのことなんじゃないのか。
PHPの佐竹義重は相馬義胤と主力本隊を形成して、上記の布陣の位置から
政宗本陣に攻め上ったことになってるけど創作なんだろうか。

463 :
そもそも認識がおかしい
石川や岩城や相馬は中間人や中人といった奥州だけにある平和維持のための立場で
佐竹と伊達を和睦させようとする立ち位置で佐竹と伊達の戦いは望んでいない。
だから佐竹も結局、兵を引いた。
こういう体質が奥羽で名家親類が滅亡まで争う戦国の下克上な気風にずっと至らなかった理由。
逆に言うとこの平和維持な気風がピンチになり追い詰められた政宗をたびたび周りが必死に助けていた心理でもある。

464 :
奥州はあんまり勢力変わってないしな

465 :
つまりその平和維持活動の「主導権を誰が握るか」で戦っていたわけだな。
南奥州を誰が牛耳るか。
天文の乱のときの伊達晴宗・蘆名盛舜・盛氏父子vs伊達稙宗・懸田俊宗・相馬顕胤もそれで戦ったわけだ。
結局、蘆名が一人勝ちして盛氏の代に最盛期を迎えたわけだが。
この頃になると蘆名は伊達傘下でははない。
伊達と戦わなかったのは晴宗の母親の実家が蘆名だからだろうな。
戦国時代も末期になると蘆名家は当主が次々若死にしてボロボロ。
北関東で勢力を拡張し、白河結城氏の姓も獲得した佐竹義重が
頼りがいがあるように見えたから若い政宗より諸将もそっちに付いた。
19歳の青年を南奥の自警団長や警察署長に据えて大丈夫なのか?あ?
政宗君は大人しくできない?若くて血気盛んでやる気満々?そうかいそうかい。
よろしい、ならば戦争だ。ていうことだな。それが人取橋の戦いでOK?

466 :
盛氏末期には徳政を繰り返し、洞が解体し葦名は衰退。
白河結城は、義重から4才の義広を人質に取り、さらに義重の娘とも養女とも言われている人質と結婚してるが、白河結城は人質を佐竹に1人も送ってない。
周辺勢力の浅川や田村や結城を味方につけて佐竹に外交的勝利をもぎ取ってる。
さらに佐竹の源氏ブランドをも吸収して白河結城も源氏を名乗って書状を出し始め独自外交もやっている。さらに佐竹から赤館の返還させてるな。
ちなみに石川氏も源氏。
武田滅亡後は名実共に最高の源氏名門となった佐竹による源氏勢力の拡大が葦名にも及んだために秀吉の警戒を引き政宗有利な惣無事令が発動してる。
政宗が輝宗を暗殺したから佐竹の北上があり、
政宗が苦戦していた二本松城の開城も惣無事を聞いた田村が伊達に伝えて、危機感を持った伊達から相馬が要請を受けて、奥州平和維持の自律的行動交渉で二本松畠山を開城させて平和を作った。

467 :
蘆名の洞が解体したのは、盛氏の嫡男の盛興が早世して
伊達晴宗のように養子縁組する種が絶えたからだと思っていたが。
蘆名の洞は枯渇、縮小し、逆に伊達の洞は稙宗時代の機能を取り戻していったと。
白河結城が義重から4才の義広を「人質に取った」ってのは納得できない。
小峰(白河結城)義親は舅の蘆名盛氏が病床の淵に瀕して、蘆名氏という後ろ盾を失い、
南方から佐竹の圧力を受け、義重の息子の義広を「養子に向かえ入れざるを得なかった」の
ほうが正しいんじゃないか。赤館の返還も佐竹との国交が回復したからじゃろ。
南奥の覇者になれば伊達も佐竹も一緒だと思っていたが、
源氏は確かに秀吉にとって面倒くさいかもしれん。
こいつは知らない見地だった。なかなか面白い。
この頃、相馬父子は政宗初陣直前の伊達とガRやってたようだが、意味はあったのか。
宮城県の旧名家はまだ独立的立場を維持してそれなりの洞を形成し、
伊達に抵抗して頑張ってたみたいだが、まもなく伊達傘下に組み込まれておるな。

468 :
追記:或いは赤館を返還して国交を回復する意味とか利が両者にあったからじゃろな。

469 :
浅川大和守の佐竹へのたびたびの挙兵や田村清顕の白河城とその周辺の城々の奪取を受けて佐竹は泥沼化したために白河が外交的に働きかけてきた結城晴朝らの調停交渉に乗らざるおえなくなり
白河側が一方的に有利な調停に屈伏してる。
その結果、白河結城側の人質でしかなかった義広であったが、
それが一転して義親後継者と認められ、佐竹からバックアップを受ける方針に白河が大きく変わったのは政宗の葦名侵略の失敗を受けてから。
おそらく政宗が会津南下を断念し仙道南下に切りかえた事が原因。
それは義親が単独で外交していたことを放棄し、義親と義広が連名で書状を発行する方針への政治的変化があった時期からも明らか。
これにより佐竹が背後にいる外交を白河は行うことになったと言える。
もちろん義親は人質として受けた義重の養女を通して婿的な立場にもなっている。

470 :
白河義親は蘆名氏が二階堂系になった後も
蘆名を後ろ盾にし、佐竹を押したということか。
しかし、蘆名盛隆は早世。蘆名・伊達の間に緊張が高まり、
政宗は蘆名攻略に失敗したので、白河は積極的に佐竹と組むことにしたと。
これなら納得。

471 :
一方で義親は下総の結城氏とも交渉したと。
義広が白河結城に人質に入った時期が気になるな。

472 :
佐竹は田村&小田ラインに上下から挟撃されていた形跡がある。

473 :
伊達、最上、蘆名、佐竹、相馬、田村はどれも親戚関係により、南奥羽は伊達家を中心とした

474 :
伊達家を中心とした巨大な洞を形成したんだけど
諸大名は勝手に政略結婚したり軍勢動かしたりして
伊達家の支配力は及び難かったんだろ。
大名同士の勝手な結婚を禁止するよう通達したのは豊臣秀吉。
徳川家康と伊達政宗が破って関ヶ原も引き起こしたけどね。
自分は破ったくせにその後、武家諸法度で硬く禁止してんのな。

475 :
政宗が家督を継いだ時にもお祝いとして相馬義胤が使者を出してるし
相馬は政宗寄りなのは事実確実。
そういや黒川氏なんかも家督継承祝いの使者出してるな。

476 :
>>472
人取り橋では佐竹・白河は、対伊達で共闘関係になるが、
連合軍総大将の佐竹は相馬が田村と同盟関係にあるので、信に置けなかったわけだな。

477 :
>>475
戦略のひとつに過ぎないのではないか。
政宗の品定め。相手の反応を見る。
司馬懿仲達へ女物の着物を送ったのは諸葛亮孔明の挑発戦略だべ。


478 :
相馬は輝宗に金山城や丸森城を譲渡しての実質降伏の和睦を乞うて、親伊達路線になってるのに
わざわざ金山城や丸森城の返還を無駄にするわけないだろう。
しかも三国志演義だかの話をされてもな…

479 :
南奥羽は伊達越前守を中心にした神の國

480 :
相馬、蘆名、佐竹からみると伊達輝宗をどう見ているんだろ。
年齢的には蘆名盛隆<相馬義胤<佐竹義重<伊達輝宗だが。
秀吉には大人しく従属したかねえ。
輝宗生きてたら、輝宗中心に秀吉と断固戦うぞ〜
ってなったかもしれんな。そして奥州は死屍累々。


481 :
最上義光と大崎義隆入れてみる。
蘆名盛隆<相馬義胤=大崎義隆<佐竹義重<最上義光<伊達輝宗
仲悪そうだが、血縁的には義兄弟ではだよな。
輝宗暗殺は、輝宗が死んで奥羽が混沌して一番得したやつの犯行の気がしてきた。

482 :
佐竹は支配はたかが10万石だから謙信や信玄亡き対北条の旗頭やるだけで必死だからね。
宇都宮や下総結城とか北条にモロに圧迫受けて滅亡に向かって突き進んでるし。
輝宗時代に佐竹が伊達と対決姿勢だったなんてデタラメ書く伊達の捏造史料には呆れるね。

483 :
>>464
下克上の度合いが弱かったね。


484 :
>>482
でも佐竹は征夷大将軍にもなれる家だよ。

485 :
>>484
実力が伴わないとなれないし。
しかも親平氏の佐竹は頼朝に協力しなかったから領地没収を受けて土下座した家柄だし。

486 :
「輝宗暗殺の真犯人は佐竹」の説をデタラメ書いてみる。
佐竹義重は畠山義継へ殺人教唆。輝宗死亡。
佐竹は蘆名の根回しに成功。
最上、大崎、相馬と組んで伊達を挟み撃ち。伊達は四面楚歌。
佐竹は越後の上杉との同盟を強固にし、宇都宮、那須、結城も上杉・佐竹派へ転向。
佐竹は大大名となり、越後・東北から北条を圧迫。
末には源氏の棟梁・征夷大将軍か。
これだけ勢いに乗った佐竹は、秀吉に大人しく従うだろうか。

487 :
むしろ輝宗が葦名盛隆の暗殺の黒幕のような気がする。
親伊達の盛隆が実家の須賀川防衛上、佐竹とも親しくなってきた為、
相馬から2城を譲らせ実質傘下に組み入れ北方問題が解決して奥羽が安定した状況だったが、
この盛隆の行為に輝宗が不信感を抱き、
ちょうど生まれたばかりの亀王丸を奇貨として
盛隆を殺害し、亀王丸を擁して葦名を操る亀王丸の母にして
輝宗の妹の後見人となることで奥羽に安定と盤石な伊達の支配を狙い、対中央政権の戦力を整備しようとした。
そしてそれが完成し伊達の利益を守りつつ佐竹との間に一応の安定を得たので政宗に譲った。
しかし政宗は上杉と通じて葦名侵略を開始したので葦名内での妹の立場が悪化してしまい、
伊達の伝統芸の親子相克が開始され輝宗が政宗と対立してしまい政宗が輝宗を暗殺した。

488 :
政宗が輝宗を暗殺した説の欠陥は、当時の政宗を過大評価していることだな。
その後の政宗はただ怒りに任せて二本松城を力攻めして失敗した挙げ句に
南奥州全体から制裁されかかったり端から見れば未熟な青二才でしかない。

489 :
輝宗が死去して一番得をしたのは蒲生飛騨ではないなか?

490 :
一番得したのは小田原の役を控えた秀吉じゃあないの。
北条の後ろ盾になっている伊達の洞を同士討ちさせておいて、
徳川ら諸大名の懐柔や小田原征伐に集中。
南奥州の混乱は信長の洞のなかで危険視している
蒲生氏郷を左遷させる理由にうってこいだった。

491 :
伊達は歴代が親子争乱やってるから
輝を政が暗殺したのは間違いないだろ
政が評価されるとしたら
かつての親子争乱の原因みたいに相馬対伊達のように
葦名の輝と伊達の政で全面対決するのを回避するためにあっけなく輝を暗殺したことだろ。
秀吉は政宗を明らかにガキ扱いしてるから
秀吉はむしろ義広が家督を継いで指揮することで葦名も組み込んだ佐竹を抑え込もうとしてるよね。
伊達の意見を聞いて義重に「政宗と葦名を和睦させろって言ってんだろ!佐竹は悪さすんなよ。もし和睦させなかったら富士山見に行った際はどうなるか当然わかってるよな?」って恫喝してるし、
それで佐竹は葦名支援止めるわって言ったら
葦名重臣達が「佐竹が葦名支援から手を引くんだったら、義広を突っ返す」って激怒して
葦名内で伊達に同調する勢力が調子付いちまったからなあ

492 :
伊達父子の争いに伴って妻母の実家の勢いが強くなる法則。
蘆名のポストは最上。

493 :
葦名盛氏も白河義親もある時期から目を病んで徐々に視力が落ちていたようで
晩年にはほとんど見えなかった。
葦名や白河の威が急激に低下した理由の一つに視力低下による政務への影響があるだろうな。

494 :
ところで相馬は?

495 :
相馬氏は馬以外に特産品はあったの?

496 :
農業と漁業じゃないかな。
現代の地方話だけど、漂葉郡(双葉郡浪江町)の泉田川は鮭で有名。
浜通りの北部は、製鉄遺跡がたくさん発掘されてるが、7〜8世紀まで遡る。
相馬は現代ならイスラエルのガザ地区みたいになってたんじゃないかと邪推。

497 :
相馬にとって一番怖かったのは
北の伊達氏と南の岩城氏による挟み撃ちだろうね。
でも、相馬盛胤の妹は田村清顕と結婚して同盟組んでいたので、
岩城は相馬へ攻めるのが難しかった。
(この盛胤の祖父の時代は岩城が田村と婚姻結んでた。)
相馬盛胤が妹の結婚のときに田村清顕に譲った土地は
田村が相馬領標葉郡へ援軍に来るのに通過するであろう山道沿いの村々。
田村は浜通りの平地と海を持つ相馬から援助されたし、
伊達も後ろ盾にしたから蘆名氏とも渡り合えた。
相馬は北へ攻め、田村は南へ攻めた。
岩城は南の佐竹に圧迫され、
相馬と不戦協定みたいなの結んでたのではなかったか。


498 :
相馬討伐をたびたび行ってた輝宗だが
天正5年3月には傘下の葛西晴信の援軍を遠方からわざわざ呼び寄せ攻略を謀ったが
7月に信長から謙信討伐するから本庄と語らって伊達も越後へ出兵せよって命令が来るわ
12月に晴宗が死んだり、天正6年3月に入ると謙信死去を乗じて、越後境警護名目で出兵したりで相馬戦線放置してた。
すると余裕が出た相馬は義胤へ家督が移る。
越後情勢を優先する伊達の次の一手が天正7年12月に田村から人質として愛姫を政宗の嫁にもらう事で相馬を牽制し背後を固める事。
田村清顕の妻が相馬盛胤の娘なんで盛胤は政宗の大叔父。
天正9年5月にやっと相馬攻めが再開され政宗の初陣と言うことで旗下の亘理、名取、宮城、二本松、須賀川、石川らも大動員して大規模出兵したようだ。
しかし信長配下の柴田が北国警護として越後方面へ侵入するからと連絡がきたので伊達の動きも止まったようだ。
天正10年3月に突如起こった田村と二階堂の小競り合いだったが
5月には輝宗は田村と須賀川二階堂の無事をまとめまげ南方を安定させる。
同時に相馬配下の小斎城代佐藤宮内が謀反し、
相馬が小斎城の近くに砦を築くと輝宗は二本松と大内を派兵し小斎城の防備を固めた。

499 :
輝宗は武田滅亡に伴い、滝川や由良に使者を送っているが、まもなく本能寺である。
この前後には武田滅亡が堪えたのか、佐竹や岩城に奥羽は伊達に従い中央政権と外交すると書状を出している。
佐竹には「羽奥両州諸家過半申し合わせている」
岩城には「蘆名や最上を始めとして奥口諸家が当家に〜岩城とは骨肉であり奥州は同じ一国」
これは後年に奥羽諸将を代表すると称した政宗が秀吉との外交をしたのと同様である。
これを受けて輝宗の圧力に耐えられなくなった岩城は天正11年7月に相馬との手切れと伊達の後詰めを承諾。
天正12年2月には三十三備の大軍で輝宗は相馬を攻める。
このころより田村と岩城が相馬との和睦交渉の許可を輝宗にお願いしてる。
外交ルートとしては田村が佐竹への使者に白河義親を使っていたようだ。
これにより岩城だけでなく佐竹からの名代も伴い田村清顕が宇多荘へ乗り込み条件をつめ
相馬が2城を伊達に譲渡する条件がまとまる。
この相馬側が一方的譲歩の降伏に近い条件になったのは伊達に屈服した田村や岩城が親類の相馬を討つのに忍びず
孤立した相馬も圧倒的兵力で攻めてくる伊達とのこれ以上の戦闘継続が難しいことを悟った結果だろう。

500 :
>>498
>>田村清顕の妻が相馬盛胤の娘なんで盛胤は政宗の大叔父。
いや、清顕の妻は盛胤の「妹」。つまり相馬顕胤の「娘」。
清顕の父の田村隆顕が相馬顕胤の盟友。顕胤のほうが先に死んでしまった。

501 :
相馬義胤
母の実家(懸田)は伊達晴宗に滅ぼされ、
妻の兄(長江月鑑斎)は伊達政宗に捕まって殺され、
小国ゆえ妹の嫁ぎ先(亘理)は伊達に寝返って、妹を人質に相馬領へ攻め込み、
従妹(田村愛)も伊達に人質に取られ、盟友も失う。
Rば領民のため、死なざれば、民を省みない悪政者。
攻めるときは自ら先頭に立って突っ込み、
負けた時は最も危険な殿軍を務めた。
この男が人取り橋で蘆名佐竹連合軍に加わるのに何の遠慮があろうか。

502 :
>>501
母の実家ってそりゃ晴宗に敵対した天文の乱まで遡るつもりかw
そりゃあいくら何でも無茶ぶりだろ。
妻の兄って伊達配下で大崎合戦の際に捕虜になった時に
最上の説得で伊達を裏切ったからだろ。
しかも政宗に殺されたのは天正19年だぞ。
つかそもそも晴宗と岩城重隆の娘の仲人は相馬顕胤で晴宗の久保姫略奪の手助けをして岩城領を攻めてる。
相馬顕胤と晴宗姉妹との間に盛胤が生まれたから義胤の祖母は伊達出身だし
相馬義胤の最初の妻(病弱だった)も晴宗の姉妹から貰ってるんだぞ。
さらに政宗が二本松城を攻めた時は田村清顕と義胤は政宗に援軍を出してる。
そして人取橋では佐竹を牽制して奥州の流儀として中間、中人の立場になって佐竹と伊達の間を取り持った。
惣無事を聞いた田村が伊達に連絡し驚いた伊達と田村の依頼を受けた義胤が二本松開城交渉してるわけだが。

503 :
実家が滅ぼされたら息子に因果ぐらい含めるんじゃない。
相馬盛胤は妻の冥福を祈るため寺建ててるよ。
移転してるけど、小高小学校前の金性寺のことだとは知らなかった。
先代の住職が日本中から供養のため?幽霊画集めてて、お盆には一般公開してた。

504 :
相馬の立場は天文の乱から一貫して変わっていない。
相馬は米沢の晴宗とは相性が悪く、丸森の稙宗になら従った。
亘理宗元(晴宗弟)も相馬盛胤から娘をもらい嫡男の嫁にした。
伊具郡宮森城の背後には相馬、亘理らの力があり、
稙宗が生きているうちは、まだ何とか治まっていた。
だが、欠点もあった。
稙宗が盟主なので家臣の離反の原因にもなった。
永禄6年、相馬家重臣の草野直清、青田顕治・胤治父子らが離反。
義胤は盛胤に従い初陣。反乱を鎮圧した。
青田は相馬顕胤が正室を娶るとき、稙宗に嘆願して功があった人物だった。
このような背景から相馬義胤は稙宗娘と離縁。(稙宗死去の前後)
この頃から伊達との戦が再び激しくなる。
田村へ逃れていた青田顕治の子・胤治は新館姓を名乗り、
首実検中の岩城氏を攻め功を上げた。
新館胤治は相馬へ帰参、盛胤の反対を押し切り、義胤は胤治を登用した。

505 :
だからね、俺が主張してるのは
伊達2派閥のどちらかの傘下に入ったに過ぎない天文の乱を持ち出したところで
別に義胤は伊達家自体を嫌ってるわけじゃないってこと。
そして孤立単独したまま伊達と戦ってももはや勝ち目がなかったから佐竹や岩城や田村の斡旋に従って2城を譲って降伏的和平を受けて
また伊達に協力したのが二本松攻撃への援軍なわけ。
せっかく2城を譲渡してまで伊達との和平を成立したのに、わざわざ政宗や田村と敵対破綻させる損は義胤はしたくないわけ。
だから二本松開城に義胤が尽力したわけ。
これで奥羽が平和になると思ったからね。
しかし政宗は清顕死後の田村乗っ取りを図って
お見舞いに田村に来た相馬首脳主従を待ち構えて
銃撃しまくって殺傷したから義胤は政宗に忘恩の徒だと激怒したわけ。
んで、妻の兄を殺されたとかかなり後の話を持ってきても論拠にならないわけ。

506 :
桃生郡の長江氏が健在なら尚更、佐竹・蘆名に傾くな。
大崎は独立の気運が高まってるし、最上からは共闘の書状届いてる。

507 :
相馬氏が三春城の伊達派を抑えようとして入損したことは、史料に潔く書いている。
わざわざ歪曲する必要など無し。

508 :
月鑑斎の死去の時期は私の間違い。申し訳ない。

509 :
>>504伊具郡宮森城の背後には相馬、亘理らの力があり、
「宮森城」じゃなく「丸森城」。稙宗の隠居城。

510 :
1514年に伊達は陸奥国守護職になり
段銭・棟別銭徴収権と言う公権力を手に入れ
土地買い取りによるその地の安堵を繰り返しつつ、
一方で他の洞を伊達の洞に内包する形で巨大化していく。
この権威を背景に内紛を操り内乱を多発させたのちに伊達軍による支援を名目に養子を送り込む政策を実行し従属下に置く。
伊達の軍事力を頼らざるおえないほど弱体化した奥州総奉行葛西氏や
奥羽を管轄した鎌倉府に臣従させられて以降に探題職を失った大崎は内心では反発していた。
そして天文の乱である。
これは伊達親子の対立による現在の宮城県や福島県や山形県を一円とした大伊達圏を二派に分けての大乱である。
そして父のやり方に対して晴宗は養子送り込み政策の反対をもって伊達圏での支持を受けていく。
葛西晴胤や大崎義直は晴宗に属することで養子を排除した。
1548年に乱は将軍の斡旋もあり収束した。
そして1563年には台頭してきた葦名盛氏と伊達晴宗のみが
幕府より認可された大名50余の中での奥州大名として名前が挙がっている。
1564年に晴宗は輝宗に家督を譲り
1565年に晴宗が争った父も死去
これにより相馬にとって伊達正統派として擁護する名目が失われ
譲られた旧伊達領を維持したい願望のみで戦ってたが
再び統合された伊達の力は日増しに圧力となり
盛氏末期の葦名は衰退し伊達の1人勝ちになり
岩城も田村も伊達に屈し、
奥羽で単独で対抗できず領地を返納し元の親伊達に戻ることになる。
また伊達実元は畠山や大内は配下に組み込み相馬と姻戚していく。
そして洞の吸収の完成により
大伊達圏は完成し政宗に譲ることになる。
葛西は相変わらず伊達の力が必要で
伊達の力がないと安定しない大崎は、最上義光の支援を受けて自立していく。
しかし伊達配下の最上は大内攻めに援軍を出しており、
相馬も畠山攻めに援軍を出すなどで
義光が真に自立するのは政宗が庄内無事令を発動して本庄と和睦させようとし始めたからのことで
大崎攻めをもって自立し、同時に大崎の自立も達成されることになる。

511 :
大伊達洞下の小最上洞の動向は葦名後継の外交戦で義重に政宗が負けて、
大伊達洞下に包込してる葦名洞が佐竹化するのをみるや
政宗の庄内無事令を守りつつも庄内での主導権を握る謀略を繰り返していた。
政宗は配下の黒川氏の支援を期待し
大伊達洞下に包込している親伊達路線大崎洞なのにも関わらず
大崎の内紛を利用して侵略を始めると最上は激怒し、黒川氏も伊達から離反し
ついに最上まで挙兵し大崎を後援して行く。
そして北方での大乱が始まると南方でも郡山合戦が開始される。
さらに晴宗姉妹で清顕の母と政宗は
「相馬未亡人が甥の義胤と談合して清顕を毒殺した」と言うでっち上げを作り上げた。
これは相馬未亡人が家臣達の補佐を受けて田村を取り仕切る合意が
政宗に取って不都合なことに由来し、政宗は相馬未亡人排除を画策する。
さらにこの不都合が出来事に激怒した政宗は
愛姫をも嫌って夫婦仲は険悪化した。
そして義胤銃撃事件が起きた…これにより相馬も大伊達洞の中から離脱する。

512 :
輝宗死去、人取橋より前にすでに最上義光から相馬、岩城に共闘の書状が届いている。
人取り橋での最上、大崎の動きが気になる。

513 :
正確には、相馬・岩城は協力し、伊達と対抗すべき。か。
つまりこれは相馬・岩城に鶏口牛後を進めたわけであり、最上もその意思の表れではないか。

514 :
人取橋までの最上氏、大崎氏、相馬氏、岩城氏、蘆名氏、佐竹氏らの動きは
すべて面従腹背の可能性を含んでいる。

515 :
最上は政宗の一方的な葦名侵攻を批判した書状を出しているに過ぎない。
事実、伊達に対して挙兵もしてない。
政宗の輝宗暗殺と仙道での暴虐に対して
佐竹は人取橋ではあくまで政宗を懲らしめる程度であり
成実曰わく「奥州の流儀」たる中人・中間人の仲立ちを佐竹は受け入れるつもりであり
それは晴宗以来の伊達を中心とした平和無事秩序の回復が図られたに過ぎない。

516 :
「政宗の一方的な葦名侵攻」というのは納得できず、語弊がある。
会津の檜原占拠の直後、最上が相馬、岩城らに書状を送った時点では、
輝宗は政宗にまだ家督を譲っていない。
つまり「伊達氏の方針」としての蘆名侵攻である。
政宗はその方針を受け継いだに過ぎない。

517 :
相馬氏が怒るべきところは己の父母の縁が
相馬氏の協力を得たものによるのにかかわらず、
輝宗は、その子孫を攻め、奥羽を一致団結させるための
スケープゴートにした点である。

518 :
>>516
なんだそのデタラメw
変なサイト見て書いてるだろw
>>517
相馬が伊達親子の争いで勝馬に乗れないどころか
最後まで空気が読めなかったに過ぎない。
最後は伊達の旧領をお前の父から譲られたから
俺のもんだって主張してただけ。
心優しい輝宗はんは、相馬の領地は望んでなくて
伊達の旧領返せば許すって話なのによw
やはり陸奥国守護職の任官で
広く段銭・棟別銭徴収権と言う公権力を
伊達が保持してこれたのはでかいね。
これのおかげで伊達は他家に対して
惣領&主家顔できる正当性を得たからね。

519 :
>>518
はいはい。

520 :
>>516
義光の岩城の三坂への書状って
天正12年?じゃなくて
天正13年のやつじゃないの?
義光が政宗の会津侵攻を批判して
岩城に相馬とも昵懇を願うって文面のやつ。
それに当時の状況で言えば
政宗が大内攻めで出陣した時に途中で
義胤と会談して刀を交換したりして
伊達と相馬は良好な関係だよ。

521 :
516>>
何書いてあるのか解らんが、
最上義光書状は相馬も岩城も天正13年(1585)のことだから
輝宗はすでに隠居している。これは間違った認識だ。
まあ、永禄7年(1564)と8年に輝宗は桧原城攻めてるがな。
>>518
元亀元年(1570)の時点で、伊達より蘆名のほうが石高も高いし、兵力も上のようだが。
実家が蘆名家の母を持つ晴宗は蘆名に攻めることができなかったから
どんどん蘆名は肥大していったんだろな。
俺は天文の乱は伊達晴宗じゃなくて、蘆名の勝利だと思う。
相馬は平氏だし、蘆名も平氏で、蘆名が晴宗派に転じたときには、
相馬はすでに蘆名から嫁もらってるから
勝馬に乗れなかったわけじゃないと思うが。
天文の乱を伊達家中の争いと見る伊達氏から見れば、
稙宗派に属した相馬は負けなんだろう。

522 :
葦名が伊達より石高が上ってことは有り得ない。
そもそも天文の乱は伊北や伊南攻めといった会津平定の戦いでもあったわけだし
ただ田村との戦いで盛氏が名声を得た
ということは言えるかも知れない。
その一方で晴宗の娘と盛興との婚姻の約を履行されず不満があったようだ。
また輝宗が盛氏庶兄に謀反を勧めたのが発覚するなどしてる。
このあたりは晴宗が探題に任命されたと言うから
これが何らかの対立や影響となったのかも知れんね。
輝宗が家督を継ぐと桧原峠越えで会津に攻め入るが、
盛氏の不満としてきた婚姻話が、晴宗娘を輝宗養女として盛興に嫁がせる約束が成立し
累代の骨肉たる伊達葦名の恒久和平が達成された。
これを一方的に破ったのが政宗。
ただ盛氏末期は上杉との敗北や徳政令や禁酒令を乱発、失明?後継者問題など
葦名衰退を作ってしまい
葦名家臣が輝宗に仕え始めたりと
奥羽での伊達の1人勝ちがさらに露骨化していく。

523 :
葦名は内陸にもかかわらず、猪苗代湖持ってたしなあ。
あと葦名氏といえば金山が有名だな。

524 :
>>520
小泉首相が金正日と握手したときも良好な関係だったよね

525 :
その猪苗代が葦名から自立したい気まんまんなわけだが。
それに猪苗代湖があっても葦名の支配力が弱体過ぎて運河すら作れない。
そもそも葦名のあれは分国法もなく
領地の再分配もできず
家臣の領地不入どころか家督介入もできず
支配力が弱過ぎて統治してるとは言い難い。
伊達や上杉と両属して曖昧なやつら多すぎ。
葦名四天王からして豪族連合政権の証明。

526 :
>>525
その頃、晴宗は稙宗から自立したい気まんまんなわけだ。
それに猪苗代湖を支配下に起きたがっても天文の乱の影響で
伊達の支配力が弱体過し手出しできない。
二階堂氏は破れ、葦名旗下に加えられ
猪苗代は盛氏没後、二階堂氏の代になっても葦名に押さえ込まれた。
そもそも葦名には晴宗は介入できず、葦名家中の領地の再分配もできず
葦名家臣の領地不入どころか家督介入もできず伊達の支配力が弱過ぎて
葦名どころではない。
伊達家中は稙宗派と両属して曖昧なやつら多すぎ。
伊達洞からして豪族連合政権の証明。

527 :
>>526
なんだ基地害を相手にしてたのか。

528 :
そいつずっと火病だぜ。
>>516>>519
だから。
自分でデタラメ史観を書いておいて
>>520で間違いに気づくと
>>521でいきなり他人のフリしてるバカ低脳w

529 :
>>520
相馬家臣の泉大膳が政宗に懐柔されそうになったとき、
義胤に単独で政宗を討ち取る許可を求めた逸話がある。
「もう少し待ってみよ」といって許可しなかったというもの。
このときもう佐竹が動くことを知っていた雰囲気がある。

530 :
>>528
俺はあんたの史観を否定しない。
平和を望むのは昔の人だって同じだったろうし、
生きたい、守りたい一心で戦ったんだろうから。
戦争は悲しい結果を生む。それは忘れてはいけないと思う。

531 :
逸話なんかどうでもいいし
何を言いたいのかもわからん。
そもそもなんで義胤がそこまで伊達を嫌い抜いてるか理由がわからん。
その時々の状況も考慮せずに
恨みに固執し政治外交を決めるほどバカなら戦国に生きる武将として失格だろ。
そんなに嫌いなら2城を譲渡してまで和睦すらしないと思うし
伊達嫌いなら晴宗の父すら見放すと思うが。
どうしても義胤を恨みだけを判断基準に敵意に固執した盲目バカな人物像にして
政宗は悪くないと主張したいようだが。

532 :
>>531
いつ誰が義胤は政宗を嫌いだったと書てるんだ。
よく見てみろ、あんた勘違いしすぎ。
>>510>>529も三四百年前から伝わるただの逸話だ。
あんたの好きなように解釈しなさいよ。
政略面でも軍略面でも政宗は義胤にとって好敵手だっただけでしょ。
相馬は陸奥の君子国。

533 :
訂正
>>510× >>520

534 :
>>伊達嫌いなら晴宗の父すら見放すと思うが。
足利(室町)幕府の権威はとっくに失墜して足利義輝の暗殺と
伊達稙宗の死去もほぼ同時期になって陸奥でも国取りが盛んになったんだろ。
地図で晴宗の米沢城と、稙宗の丸森城と、相馬の小高城の位置を見てみろよ。
小高からは遠すぎて米沢とは疎遠になっていくわ。

535 :
で、どっちの言ってることが正しいんだ?
ここまでは共通認識という線引きと、
論争の焦点をだれかまとめてくれ。

536 :
つか前も指摘しようと思ってたが
そもそも天文の乱が終わって
落ち着いたから晴宗は米沢へ移転したんであって
そんなに遠い関係じゃねーよ。
だいたい大内攻めの時に政宗は三春城まできたとも言われてる。
敵対した原因の政宗の曾祖父や祖父もとっくに死に
その後は領土争いであり争点2城の旧伊達領の返還が行われた以上
返してもらった政宗側はその恩を忘れてさらに侵略するかも知れないが
返して損してまで和睦した義胤側が
自ら和睦を壊して取られ損をする理由がない。
義胤は2城返還和睦を斡旋した田村清顕(正室は相馬から)の顔をたてて協調路線を維持してるんだし
政宗と親しくやっていたとしか思えない。

537 :
>>536
>>敵対した原因の政宗の曾祖父や祖父もとっくに死に
永禄11年(1568)、天正4年(1576)、
相馬は伊具郡で伊達と戦ってる記録がある。
天正4年の戦には晴宗も援軍として参加してる。
>>534
世は戦国時代の真っ只R、永禄8年(1565)の稙宗の死が
戦いの原因になったのは想像に難くない。
ただ、それ以前にも小競り合いはしてたようだ。
それ以外のところは異論なし。

538 :
永禄6年(1563)には草野直清が謀反してるね。
独立か寝返りか解らないけれど。義胤の初陣はこれではなかったか。

539 :
伊達と相馬の和睦を仲介した
田村清顕が生きてる間は
政宗と義胤の関係が破綻してないのは
史実を見ても明らかなんだよな。
破綻するのは清顕が死に
相馬未亡人が相馬家臣団の後見を受けて
相馬を運営することに決めて連盟の合意文書を作成して以降。
政宗はいきなり愛姫の婿の俺こそ権利あると主張したくせに
母が悪いのは娘のせいとばかりに
肝心の愛姫を冷遇しまくる鬼畜行為に出る始末…その心理がわからんわ。

540 :
信玄と氏康に攻められた危機的状況を利用して
混乱した越後を見事に国人連合として纏め上げた謙信同様に
輝宗も織田中央政権が武田を滅亡させて奥羽に影響力を行使にやってくると
中間・中人としての補佐を得て奥羽の無事を主宰する
陸奥守護職として公権力と徴税権を背景に
数々の小洞の上に君臨し奥羽勢力圏を樹立した
伊達大洞の伊達様だ!
2城返還させて相馬洞の上位権力者となった伊達の当主たる
政宗にしたら
田村洞の上位権力者の政宗の思う通りにならないと
許せないから早速にDQN病が発病しただけ。
洞の名残りが要害制度となったり、仙台藩の組織に影響を与え
ミニ城下町の乱立と、徴税の権利分散で、財政破綻を呼んでしまう。
さらに幕末でもこの洞=要害システムのせいで改革もできずに
仙台藩内地方分権でボロボロになってしまう。

541 :
>>518
相馬は最後まで空気読めてないどころか、ものすごくうまく立ち回ってる。
まったく逆の印象。
礼儀作法を重んじたし、武士道とか騎士道みたいなところが感じられて好き。

542 :
>>541
相馬顕胤があまりの名将だったから磐石だっただけ。
空気は読めてない。だから政策変更できず大伊達との消耗戦をやらかした。
しかも伊達が探題として佐竹と葦名と田村の無事を取り仕切り
南方の憂いを安定させたことで
相馬から田村に続いて岩城まで引き離すことに成功し
完全に相馬は孤立。
しかも奥羽の代表外交窓口として東国警護に任じられて厩橋に来た滝川との折衝を輝宗がはじめており
上杉侵略でも織田に強調行動とってる輝宗に対して完全に遅れてるのが相馬。
結局、相馬は輝宗に屈するしか道が残されてなかった。
そしてそれが伊達奥羽勢力圏の完成であり、
伊達傘下の葦名当主の謀反による死の動揺を
輝宗が「御念を入れられ」安定させて
姉妹の伊達未亡人を擁立し亀王丸の後見役となると
政宗への家督譲渡へつながった。
そして政宗の元にいた大内が不快な思いをして
政宗から離反したのを
葦名のガキが原因と邪推した政宗の葦名奇襲から
親子が対立化し、
葦名の輝宗と伊達の政宗の親子争いを阻止すべく
輝宗暗殺が実行された。

543 :
>>542
その頃の相馬と葦名、佐竹の関係は無視できないと思う。

544 :
小大崎洞や小佐竹洞が太陽系なら
それを包括する大伊達大洞は
さしずめ銀河系と言えるな。
外延部ほど伊達の指導力が低下するが両属家臣や親戚関係をテコに奥羽の無事の主催者として
室町の幕職を利用して織田中央政権の出先機関の滝川と外交。
その一方で滝川家側近臣化した上野国の守護に相当する白傘袋を下賜された地位を持つ由良氏にも輝宗は
関東情報を聞いて交渉チャンネルを開いている。
畿内と違い奥羽や関東ではある程度は
やはり幕職は機能していたのだろう。
特に奥羽は下克上自体がまれで旧名家が親戚関係の元に維持されていたことからもわかる。
朝鮮出兵において中央政権と接した感想を安東氏は「名や縁故がモノを言う奥羽と違い、中央はどれだけ主人に奉仕し貢献するかで、下僕すら高く取り立てられる」として奥羽の気風は廃れモノと嘆息していることからも
いまだ伝統が色濃く残っていたのだろう。

545 :
佐竹義重、田村清顕、岩城常隆らの和睦斡旋は
織田信長の死のすぐ後、という点に着目してみると
諸氏が相馬氏に恩を売る絶好の機会になってしまったと思う。

546 :
>>540
外圧を利用して謙信が越後国人たちをまとめあげて
越後亡国を危機を回避した話と
アルプス山脈の向こう…濃尾以西の織田政権と言う距離的に遠い政権が
一瞬で武田を滅亡させ、越後滅亡前夜で北条まで上野国の滝川に大人しく従おうとしている織田の突然の脅威に動揺した奥羽大名が単独で動いて不利益をこうむるより
巨大な伊達の下で結束し
一蓮托生で奥羽の命運を託すべき意志統一が生じた。
謙信の越後国人統一と輝宗の伊達勢力圏樹立を重ねた話は非常に明瞭で分かりやすいね。

547 :
佐竹氏はすでに人質を伴い滝川一益に会って所領を安堵されてるね。

548 :
福島県の県境の南は北条、宇都宮、佐竹の諸大名が
すでに織田家臣滝川一益に人質を差し出し中央政権に傾いている。
福島県の浜通り南の岩城も佐竹に同調しそうだ。
しかし、伊達輝宗は織田に対抗しようとしている。
輝宗は織田信長の横死を機に、対相馬戦を再開。
佐竹、岩城、田村の和睦により金山、丸森の返還で一時停戦。
中央政権の側に立つべきか伊達輝宗の側に立つべきか、
まだ人質が織田家に取られているか否かも、
佐竹義重、宇都宮国綱らの動きに影響を与える。
蘆名家中では伊達輝宗に同調する蘆名盛隆と
中央政権寄りの家臣らの間で問題起こり、主君押込が発生。
結果、蘆名盛隆は暗殺された。

549 :
>>548
>>輝宗は織田信長の横死を機に、対相馬戦を再開。
いや、それ以前に相馬家臣小斎城主佐藤為信が寝返っているのなら
もう始まっていたわけね。

550 :
東国警備の滝川に
佐竹が出せるような人質って誰?
そういや佐竹って伊達の親戚だよね?

551 :
政宗が葦名に侵攻する以前から
葦名が佐竹寄りってことはありえないな。
単に二階堂防衛の地理的要因上、
佐竹と親しくしてたに過ぎない。
そもそも晴宗の母は葦名盛高の娘だし
晴宗の姉妹が葦名盛氏に嫁いで盛興を生んでる。
さらに晴宗の姉妹は二階堂輝行に嫁いで盛義を生んでるな。
そして輝宗の姉妹は葦名盛興に嫁ぐが早世し、
二階堂盛義に嫁いだ輝宗の姉妹が盛隆を生み、
盛興が死去したので、盛氏は盛興の正室伊達氏を養女にして
改めて盛隆に嫁がせ葦名を継がせた。
そして生まれたのが亀王丸。
葦名や二階堂はガチガチの婚姻で固められた伊達派だよ。
亀王丸に至っては伊達の血をかなり色濃く引いてる。

552 :
佐竹と織田の関係ってのはほとんどノーマークだった。

553 :
佐竹が織田に人質送った文書なんてあったっけ?

554 :
>>548
>蘆名家中では伊達輝宗に同調する蘆名盛隆と
>中央政権寄りの家臣らの間で問題起こり、主君押込が発生。
>結果、蘆名盛隆は暗殺された。
蘆名盛隆の妻・彦姫(伊達晴宗娘)を加えて
盛隆と蘆名家臣団の立ち位置を逆にしてみたらどうだろう。
蘆名家中では伊達輝宗に同調する彦姫と伊達派家臣、
中央政権寄りの蘆名盛隆らの間で問題起こり、主君押込が発生。
結果、蘆名盛隆は暗殺された。

555 :
>>553
ただの仮想でしょ。

556 :
佐竹から滝川へって誰か行ったっけか…誰の子?
たしか景勝から佐竹に織田と戦って滅亡覚悟!って手紙が来たり
滝川が北条から下野国祇園城を有無を言わせず返却させて、
当時、佐竹を頼ってた小山秀綱を城に呼び戻したはず。
この秀綱帰城が滝川滅亡とともに小山氏が完全に北条領に編入されていくキッカケになったんだよな。
織田と武田侵攻を約していた北条は積極的に軍を出さないでいたら
あっという間に武田滅亡にびっくりして恐怖で
やたら信長に下手に出ていたこともあって
織田と北条の婚姻も決まり、信長は氏直の関八州支配を一応は認めてるよな。
佐竹の織田外交はかなり後手に回ってたんじゃないか?
豊臣政権との外交での北条と佐竹は対処において真逆になった気がするが。

557 :
信長に下手に出ていた割には、
姫(人質)よこせと言ってるのは矛盾してるなー
北条は独立心満々だと思う。

558 :
北条は関東で得た領地や支配下に入れた者達がガンガン滝川に奪われまくっても泣き寝入りだったじゃん。
恐ろしさのあまり氏直の嫁ください親戚になってください状態。
まあ北条も用済みになったら家康が松平信康を殺したみたいに
信長によって忠誠心を試されて
謀反人北条氏直の自刃を強要されるかもな。
その時は果たして織田の娘を斬って織田政権に北条は挙兵できるのかね?
織田から来た娘が人質として機能するとはまったく思えないけどな。

559 :
武田を瞬殺して上杉滅亡前夜にした織田相手に
北条が独立心満々って北条滅亡フラグとしか思えないんだがw

560 :
織田は北条旗下の城を寝返らせて、北条の力がスカスカになるまで
嫁は絶対にやらないと思うな。逆になんで北条は人質出さないの?
嫁やるどころか最終的には秀吉の小田原征伐みたいになるんじゃない。

561 :
>>557
氏政は三島大社へ奉納した願文のなかで「信長公が兼ねてより仰せられたとおり、御輿(信長娘=氏直室)を
迎え入れて深く入魂の間柄となるにいたっては、すなわち関東八州は氏直の本意となることは歴然(だいぶ適当な意訳)」と
述べている。あくまでも信長のもとで、関東をというスタンスをとっている。
もっとも、滝川一益が厩橋城に入ると、真田、内藤、小幡といった上州の旧武田家臣だけでなく、上田、成田、深谷上杉なんかも
厩橋に出仕しているので、氏政が述べたとおりになる可能性は低いだろうけどね。
北条に属していない関東の諸領主も織田政権に近づく動きをみせてたわけだし。

562 :
由良氏が滝川に仕えたのが一番痛い。
こいつの弟が足利長尾だしな。
由良氏との付き合いからして忍城の成田と兄弟の騎西城も
北条に仕えただろうことは容易に察しがつくし。
ほぼ北武蔵は滝川に奪われたと考えて間違いない。
それでも北条は泣き寝入りして織田に恭順する姿勢をとってるからな。
まぁ武田討伐を甘くみてぜんぜん手伝わなかったら
あっという間に武田滅亡寸前になり
焦って急ぎ武田攻めを開始し始めたら
武田滅亡どころか上杉まで滅亡寸前になっちゃってんだから
そういう前科を持つ北条が信長から怒りを買っているくらい認識してたろうからね。
完全にビビって三島大社にすがってる状況だよね。

563 :
>>556
> 佐竹の織田外交はかなり後手に回ってたんじゃないか?

直接国境を接していない時代が長かったからね。

564 :
相馬の地方史を読んでみた。
あまり知られていないようなことがあるようなので書いてみる。
今の福島県相馬市(旧宇多郡)は伊達稙宗時代は伊達領だったらしい。
その前は、白川氏などが支配してた時期もあるようだが
何度か領主が変わっていた。相馬氏が支配していた時期もある。
天文の乱の後(多分あってる)、相馬顕胤の支配権を認めていない
伊達晴宗が宇多郡の豪族に対して領地支配を安堵した?書状が残っている。
宇多郡は、伊達晴宗と相馬顕胤で二重支配状態だったようだ。
その孫の伊達政宗が宇多郡を取り返したいと考えたのは当然な流れだと思われる。

565 :
>>594
相変わらず無知を晒してるな。
相馬圧勝が続く中で最終局面において祖父の指令で、佐竹や小田が仙道窪田まで進撃、岩城も軍船で相馬中枢を襲撃、蘆名の攻勢で何とか巻き返したが攻勢限界になり和平調停。
曾祖父&相馬と祖父は将軍輝宗の和平調停を受け入れているから宇多郡について今更ああだこうだと昔話を持ち出すのはバカな話。
そもそも相馬と伊達が争いを再開した理由に宇多郡はまったく関係ない。
義輝の和平に時に曾祖父が隠居先として伊具郡の中の城にいた。
伊達は曾祖父の死とともに、その城を伊達に返せって言う話。
だが曾祖父は相馬が支えて血を流してきた地であり、曾祖父自身が伊達7代相馬に弓弾くなと言ってるくらい相馬に感謝してた。
寄贈と言っても良い話で到底返却などあり得る話じゃない。
それで曾祖父の遺産相続で争っていて
結局、父の輝宗と相馬の和平で該当する城の返却で合意をみて
相馬側は伊達に忠実に従って支援するようになった。
この経緯の中で、何で政宗が宇多郡を取り返すためにゴネる隙間があると言うんだ?

566 :
>>565
> 相馬圧勝が続く中で最終局面において祖父の指令で、
佐竹や小田が仙道窪田まで進撃、岩城も軍船で相馬中枢を襲撃、

岩城は水軍持っていたのか?

567 :
>>565 岩城も軍船で相馬中枢を襲撃
これは初めて聞いた、詳細を知りたい。ソースは?
輝宗時代に岩城が相馬と手切れした文章は残っているようだが、
実際に攻め込んだり戦死者が出たような文章を知らない。
逆に岩城は政宗時代、伊達領となった田村に攻め込む始末。
他は全部知ってる話。

568 :
>>565 相馬側は伊達に忠実に従って支援するようになった。
忠実に「従った」かどうかは、それまで伊達と戦って死んでいった者の遺族や
相馬家臣団の全体的な意向もあると思うから異論がある。
ただ奥相茶話記などでは、伊達と相馬は今まで争っていたぶん、
和睦が成ってからどんどん仲が良くなっていったという風には書かれてた。

569 :
晴宗に切り崩されて周囲が敵になり
相馬は戦い疲れしてしてたのは事実だからね。
岩城は海に面してたから船くらい普通にあるだろうね。
それが軍船でなく漁船かもしれなくても当時は漁民=水軍みたいな似たようなもんだしね。

570 :
晴宗が岩城経由で小田や佐竹義篤(重隆の叔父)の出兵依頼した時に
ついでに海からの攻撃依頼したのは読んだことあるな。
つか陸奥守護伊達稙宗の傘下に相馬や懸田や田村や葦名や二階堂や国分や最上の他に
奥羽総大将石橋氏の子孫の塩松や奥州管領二本松畠山や奥州探題大崎義宣(小僧丸)や奥州総奉行葛西晴清(牛猿丸)
と旧奥羽権威者が従ってるのがスゴイな。
まぁ養子については説がいろいろあるから異論はあろうが。。
(伊達のちょっかいで初代当主・葛西清重と第17代当主・葛西晴信以外は、誰が正式な当主か不明)
簒奪者の晴宗傘下は正室の実家岩城や白石や留守や白河結城や佐竹や小田や大崎義直に標葉郡の国人あたりか。
ここで葦名が晴宗側へ寝返ったのが大きいな。
田村が畠山家臣の中に晴宗に内通してるヤツがいると称して
深く進攻して伊東領まで侵攻したので、伊東が葦名に援軍要請して
葦名も田村攻撃して気がついたら晴宗派になってただけみたいだがw
挙句の果てに葦名岩城は田村の大敗するは、会津の以北の山内が挙兵したので討伐しに行ったら
横田崩れの葦名大敗北。まぁその後は以北も以南の河原田も鎮圧できて会津平定に成功し
岩城葦名が信夫郡で田村に勝利し、稙宗の置賜郡長井に侵攻したのが晴宗勝因のひとつらしいが。
ただ相馬と田村と岩城が最盛期だったからやたらやる気満々。
晴宗を娘婿とした岩城なんて南方諸将を根こそぎ晴宗傘下に入れ込んでるしw
葦名はこの戦いでやっと会津平定を成し遂げてるね。
その後に石巻葛西氏は伊達の支援を受けた寺池葛西氏に大敗し一応は葛西も統一されたみたいだし。
この戦いの戦域がそのまま陸奥探題伊達勢力圏のして認識されていく一方で、
北東北3県エリアはその伊達中華世界から除外されていくんだろうね。
そういう意味で天文の乱は南奥羽の北軍と南軍による関が原だよね。。
だれか奥州管領でもあった?宇都宮氏広について知ってる人いない???

571 :
>>569
陸兵を船に乗せても、当時の船だと船酔いが続出して
上陸後しばらくは戦闘ができない。
となると岩城は小規模ながらも水軍を持っていたのかな。
ちなみに戦国期の佐竹は河川パトロール程度のしょぼい水軍は持っていたそうだ。

572 :
里見も北条領の海岸を水軍で襲撃して、放火してすぐに撤退する
ゲリラ活動をよくやっていた時期がある。
水軍はしょぼい規模でも兵站物資輸送や伝令もできるので
あなどれない。

573 :
ちなみに江戸時代以降に栄える常陸の那珂湊だが
中世の那珂湊に関する文書はほとんど一通も現存してないそうだ。
当時の常陸の海運なんてそんなレベルでしかないんだが
浜通り地方には『水軍』があった?
ホントかよ?

574 :
那珂湊って言ってもそれは徳川幕府の利根川東遷工事後の
大消費地江戸との交通の大動脈完成後の河川流通の話であって
海上輸送交通とは別物だし戦国期には
房総を越えて大陸中国の商船も貿易でやってきてたし
葛西気仙沼水軍
葛西氏家臣の浜田広綱や陸奥熊谷氏や
房総水軍の岡本随縁斎や安西又助もいたし
間に挟まれた岩城氏に水軍がいないまま
漁業や通商利権を奪われたままってのも
理解し難いけどね。

575 :
>>574
> 葛西気仙沼水軍

本州の太平洋岸の水軍の北限だろうか?
南部は水軍持っていなかったはずだし。

576 :
>>573
霞ヶ浦には古代から「湖賊」がいたから、
それに対抗するための水軍もあったのかもしれない。

577 :
内陸部の常陸太田の佐竹ですら、利根川東遷前のショボイ那珂川上流にパトロール船団があるなら
太平洋に面した岩城が水軍持っててもおかしくない。
>>575
南部はよくわからんが犬猿の仲の蝦夷を領地化してた安東水軍が暴れてたから
南部水軍はフルボッコされ淘汰されたんじゃないか?
安東は日本海貿易やってたけど南部は安東から十三湊を奪っていながら
貿易やらなかったみたいだから制海権がなかったっぽい。
南部の本拠は八戸や三戸と言った北方だし
岩手県海岸沿いは小国人たちばかりだから漁民も葛西水軍の保護下にあったのかもね。

578 :
>>570
主君塩松氏を下克上した大内と石川弾正は奥羽の凶星。
もっと注目されるべき。

579 :
下克上のあとでの暴れぶりが足りなかった。
他国にガンガン攻め込めば盛り上がったのだが。

580 :
>>577
> 内陸部の常陸太田の佐竹ですら、利根川東遷前のショボイ那珂川上流
にパトロール船団があるなら

朝鮮に攻め込んだときの佐竹の水軍奉行はそのパトロール船団の長だったらしいが
さすがに荷が重かったらしい。

581 :
>>579
もともと大内一族や親類の菊地一族は小手森城の近在で永く
栄えて地盤を築いていたが、そこに突如政宗が殴り込み。
小手森城包囲で定綱は小浜城へ辛うじて脱出したが、
小手森城に残った一族郎党家来は政宗に虐殺された。
殺された一族郎党達の近親者の末裔が小手森近辺に住んで
いて、政宗への恨みがなかなか消えないみたいよ。
葦名領に撤退した定綱は政宗の田村侵略時に、
郡山西部で大暴れしまくり、成実軍を打ち破り、手がつけられず味方になって欲しいと土下座。
しかし定綱は「もっと領地くれなきゃ断る。
そもそも政宗自らが自筆で神仏に誓った書状形式じゃなければ話にもならない!」と拒否。
ついには伊達当主な政宗にとって同格扱いと言う超絶屈辱的な起請文を発給して
過大な領地を与えて味方側にせざる負えないほどまで政宗は追いつめられていた・・・
(そもそも政宗は定綱は絶対許さんRと言っていた)
定綱が自軍に加わらないかぎり郡山東部の田村侵略における石川弾正攻略すら伊達軍にはできなかった。
定綱は充分に政宗に報復してやったと言える。
また定綱は伊達に味方するや葦名の内情に詳しい定綱が弱体化した葦名の攻略を勧め成功させた立役者でもある。
ちなみに石川弾正はのちに伊達相馬連合軍が上杉領を奇襲侵略した月夜畑の戦いで、
伊達軍を大破し政宗にキッチリ報復しているのであった。
伊達史ではあまりにミジメな負け戦ゆえ黒歴史になっており、
石川弾正はとっくに死んだ事され捏造隠蔽されているのであったw
さすが伊達チョン捏造歪曲史だぜ!
10年早く生まれたら
若き全盛期の下克上の鬼大内定綱や石川弾正の前に政宗は虐殺されてたのは確実だなw
大内は田村氏の先鋒として勝ちまくって田村拡大の要だったし、
のちに田村と対立したら精強な田村軍にも勝ってるからな。
大内の拡大が田村氏を伊達氏との婚姻関係へ導いた一面もあるからな。
結論
伊達の弱さは神レベル・伊達の土下座力も神レベル


582 :
たしかに相馬は奥州最強まで読んだ

583 :
伊達の強みは軍事ではなく外交(特に中央政権の有力者とのつきあい)
や産業振興だからな。

584 :
>>582
相馬の騎馬隊が強いことはわかるが
産業振興とか交易とかは不振かと。

585 :
海軍や海運の話が出てるついでに、郷土史研究のうわさを一つ。
相馬に逃れた伊達家臣・中野宗時が回船業を営もうとしていたことが
近年発見された立谷家所蔵の文章で明らかになり注目されているそうだ。
自分は内容はよく知らない、小耳に挟んだだけ。
これから研究が進むかもしれない。
石橋(塩松・四本松)尚義の娘は
相馬家重臣・泉大膳亮胤秋(田村一族)の妻だと思うが如何に。
それも関係してるかもしれないが、森鎮雄氏の奥相茶話記を含む現代語訳の
著書によれば、天正12年(蘆名盛隆が死去する年)の頃、
大内備前(貞綱)が相馬家に使者・大内久庵を送って二本松畠山氏とともに
相馬旗下になることを望んだが、相馬義胤は大内家が田村家と不和であること
を理由に断っている。
相馬家臣団の中には大内、二本松を相馬旗下にした方がいいと
義胤を諌める者もいたが承諾しなかったらしい。
主君を討って名を挙げた将だっただからかもしれないな。
別の人の著書だが(著者忘)、大内は田村と戦って5戦5勝しているらしい。
戦の詳細は不明。大内が城に拠って戦った守戦だったのならば納得。

586 :
大内は篭城とか、ホームグラウンドでの守りの戦には強かったと思う。

587 :
>>585
天正12月末に政宗から米沢に屋敷を貰って住んでた時に伊達から離反を決意した大内は
葦名では無く、相馬を頼ろうとしたってことか。
まあ、相馬と親戚な田村の一人娘愛姫と政宗は婚姻してるし
その田村が伊達の命令で岩城と一緒に相馬とこれ以上戦いたくないからこその田村の斡旋努力で
2城返還の伊達相馬和睦が成ってるんだから
大内を相馬が受け入れるなんて絶対無理だよね。
政宗も相馬を疑わずに背後には葦名がいるに違いないと勘ぐる辺り
相馬と伊達と田村の付き合いは良好だったのだろうね。
>>568
上記経緯もあって伊達と相馬は田村を介して急速に親しくなった理由も納得できる。
そもそも相馬からして政宗の曾祖父を支えた功臣みたいなもんで
伊達嫌いと言うわけじゃないから。
曾祖父の方も娘婿相馬顕胤をむちゃくちゃ可愛いがっていて祖父は嫉妬してたみたいだし。
事実、民から慕われていた顕胤の戦の指揮は天才がかっていた。

588 :
相馬の歴代当主は戦闘指揮能力はあったが
内政・外交能力はどうだったのだろう?

589 :
>>570 簒奪者の晴宗傘下は正室の実家岩城や白石や留守や白河結城や
佐竹や小田や大崎義直に標葉郡の国人あたりか。
これは標葉(しめは)郡じゃなくて楢葉(ならは)郡の誤記かな。
相馬文書の「顕胤盛胤両代三郡館持並出騎之事」に
泉田胤清が標葉郡大将として名を連ねている。
標葉郡のすぐ南が楢葉郡。
明治時代に両郡が合併して現在は双葉郡になっている。

590 :
>>570
伊達晴宗の奥州探題という権勢を利用して岩城親隆が西へ南へ
攻めているときに相馬まで敵に回したとは考えにくい。
晴宗隠居後の永禄13年(1570)の頃、相馬家臣室原伊勢が岩城側に
寝返ったのが奥相秘鑑の文章だった。(その後、室原伊勢は行方知れず)
岩城にも岩城の外交や思惑があったと考える。
後に岩城常隆が伊達輝宗へ送った文書がある。
要約すると「大内定綱と組んで田村清顕を攻めてほしい」というもの。
岩城は三春城の田村をさらに北の大内と挟み撃ちにしたかったのだろう。
佐竹も同様、大名、国人として覇を争った独立的組織だったと思う。

591 :
探題は陸奥の主催者であり
田村や岩城らの利害調整したり
無事を執り行う職であり
個々が親戚の探題にお願いしたり
個々が局地的な紛争を起こしたからといって
覇を争った独立的組織とは言えない。

592 :
個々の組織の内部に

593 :
>>591
個々の組織の内部には野心があった連中も対外攻勢を目論む派閥もあった。
組織のトップである大名本人も野心を秘めていたのが当然だと考える。
彼らにはまったく野心がなかったと主張しますか?

594 :
太陽系たる小洞の数々を内包したのが
銀河系たる伊達大洞
小さい小洞に多少の意志があろうと
それは些細なことでしかない。
なぜなら伊達勢力が圧倒的な実力を持っており
探題として幕府の奥羽に置ける意志の執行者になっている警察や裁判といった公権力そのものなのだから。

595 :
>>594
その奥州の全体的、普遍的な見方は、室町幕府の衰退や、足利義輝
伊達稙宗の死去と共に曖昧なものになっていったと考える。(1565)
伊達晴宗の奥州探題の権威は織田信長の足利義昭を奉じた上洛
と一時的に回復していっただろう。(1568)
相馬盛胤は伊達稙宗の隠居領、丸森を占領。
しかし、室原伊勢が岩城に通じて、木戸、富岡を失う。(1570)
織田信長は足利義昭を追放、奥州探題伊達晴宗の権威も失墜していく(1573)
そして>>594の様な奥州の全体的、普遍的な見方は、下剋上の時代の中で
普遍的であればあるほど、佐竹と親佐竹派、反伊達派の小洞勢力に有利に働いていく。
蘆名盛隆、伊達輝宗の死去後、佐竹の影響力が南奥州に
忍び寄っていることに気付けなかったのは、人取橋の後、
南奥諸将が突然、牙をむいて攻めかかってきたという様に
伊達文章に残っていることから窺える。

596 :
>>595
> 蘆名盛隆、伊達輝宗の死去後、佐竹の影響力が南奥州に
> 忍び寄っていることに気付けなかったのは

「佐竹は関東大名」という先入観が強かったのではないだろうか?
佐竹にしてみれば、関東諸勢力は精強だから
やむなく東北に触手を伸ばしたという感じかも。

597 :
>>595
>>551>>544>>546

598 :
佐竹は既に義舜時代から南陸奥進出をしているじゃんお( ^ω^)
そんな今さっき始まった話しではないお
ただ、あくまで目的は旧領の回復にあったから政宗公の野心には気付かなかった
人取橋の時点でも義重はたいした危機感を抱いていなかったお( ^ω^)
まさか旧来の秩序を平然と飛び越えて来るとは夢にも思わなかったのだおうね( ^ω^)
結局その考えの甘さが命取りになったお( ^ω^)

599 :
伊達の権威を崩壊させた狂犬病政宗がキチガイなのは理解できるが
義重や義光にしてみたら甥だから追いつめないであげただけ
そもそも佐竹も最上も伊達軍に一度たりとも負けてないし。
秀吉の惣無事が無ければ政宗はとっくに死んでる話だからね。

600 :
いや、おれアンチ伊達の佐竹オタだけど
どう見ても摺上原は蘆名・佐竹・岩城・相馬連合軍の完敗・・・

601 :
>>いや、おれアンチ伊達の佐竹オタだけど
気持ち悪いよ政宗厨くんw
佐竹は摺上原の戦いに参加してねーよバァカwww
しかも葦名に政宗は負けそうになってたじゃん。
葦名が仲間割れ自爆してラッキーだっただけ。

602 :
いや、マジで伊達は嫌いですよ、特に政宗はw
佐竹の主力は大平城を攻めて、伊達の挟撃を蘆名と図っていたじゃないか。
相馬や岩城とも連動して、もっと福島全域を戦場にして戦ってたんだから。

603 :
>>伊達の挟撃を蘆名と図っていたじゃないか
講談本読みすぎじゃないのか?
そんな証拠はまったくないんだが。
そのソースを出してから吼えてね。

604 :
伊達は蘆名支援で上杉が会津にやってきたのにビビって
すげー速さで相馬方面に逃走したから
上杉は相馬方面まで追いかけるわけにも行かず
やむなく撤退して佐渡島遠征に向かった隙に
伊達は蘆名再侵攻して蘆名自爆のおかげでこそ泥できただけで会津方面の戦いと須賀川方面の佐竹はほとんど関わりないし。

605 :
>>603
ソース:
「城館跡研究からみた戦争と戦場―摺上原合戦を事例として」松岡進
つーか吼えてるのはどっちかというと君w

606 :
>>605
それじゃわからん。
内容を書き出せよ。

607 :
なんだよまーた政宗大好き成実ブログさんかよ。

608 :
あまりにも長文で、航空地図・各城の縄張り図・時系列の表まであってとても書き写せんよ。
買って読め。
そもそも、こんな基本的な論文も読まずに摺上原合戦を語るな。

609 :
プッ
なんだ証明できないから逃げかよw
だいたい「もの」から見る日本史の中の一部に載ってるだけじゃん。
たかが2940円ぽっちの本で論文www
金額見た時点で買う価値も読む価値もねーよwww
素人の自慢レベルがよくわかるわ。

610 :
>>609
だからさ、どうせ君はこの本の一文を書き写したところで
「そんなの信用できないwww」「著者の妄想w」とかしか言えないだろ?
全体をよんで、その上で批判してくれ。
自称プロなんだから、2940円くらい出せるだろ?

611 :
つまり「そんなの信用できないwww」「著者の妄想w」程度のロクに根拠もないことしか書かれてないから
到底ここに書き写しても相手を説得できないレベルの記述しかないんだね。

612 :
>>610
おいおい証拠があるなら
一次史料の書状を書き写せばいいだけだろ。
なによくわからん言い訳を喚いてるんだ?

613 :
誰か田村家ファンはいないのかよ
いいよな伊達も佐竹も相馬も争えるくらい活気があって…

614 :
やはり大名として存続してないとな。

615 :
く、くやしいです><
一応再興はさせてもらってるんだぜ…

616 :
まだ無職なのか、Sabkakusikakuは
【異常】Sub荒らし報告・観察スレ【誇大妄想】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268982684/

617 :
むしろ須賀川二階堂ファンはいないのかよ!

618 :
留守政景ファン
石川昭光ファン
国分盛重ファン
杉目直宗ファン
よりマシだろよ。

619 :
留守氏は名前がかっこいいので、それなりにファンがいる。

620 :
二階堂ファンはノブヤボ廚ばかりだろう。

621 :
どうも、小野寺輝道ファンです

622 :
亘理ファン募集中

623 :
中野宗時ファンです!

624 :
田村調べたいのに資料が見つからん…だと…
2ちゃんにすらスレがない田村ェ…

625 :
三春に定住してフィールドワークとして
聞き取り調査してこいよ

626 :
戦国時代の三春城は要害だったんだっけ?

627 :
田村三代記でも書いたら売れそうじゃね

628 :
マイナー過ぎてさすがに売れねーよ。


629 :
じゃあ「相馬と田村」
マイナー東北武将が好きなやつウハウハ

630 :
もう八戸と九戸でいいよ

631 :
>>630
藤川ゆり 乙

632 :
陸奥の小勢力 田村・岩城・留守・国分・猪苗代らを語るスレ
でも立てるかな?

633 :
南部に寄りすぎてるからタイトルを工夫すべし。

634 :
>>633
南陸奥の〜 ってするか。
南部や津軽の周辺の北陸奥まで入れちゃうと、ゴチャになるし。

635 :
白河、武永、天童も南陸奥?

636 :
>>635
白河が南陸奥でなかったら何処だよ?まさか北関東??
>>634
ゴチャになる程話題無いんじゃないか?

637 :
>>635
白河は単独スレがある。武永・天童は出羽。
【陸奥】白河結城氏を語るスレ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1231326831/
>>636
かもしれんが、南陸奥スレで立てるよw

638 :
南陸奥の小勢力 田村・岩城・留守・国分らを語る
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1287999051/
マターリと盛り上げてくれ。

639 :
>>570
揚北衆を忘れてないかい?
稙宗の子時宗丸擁立派は中条
晴宗に加担は黒川・色部・鮎川

640 :
時代ぶっ飛びでわるいんだが、戊辰戦争のとき新政府軍に降伏したあと、伊達藩との戦闘で伊達を追い散らして大喜びしたって記録を見たんだ。
何百年も仮想敵だっただけはあるね

641 :
幕末の段階では
兵の精悍さは
相馬 >>>> 伊達藩
だったと思う。

ただ装備(銃の性能とか)は伊達圧勝だったかもしれないが。

642 :
>>641
伊達は装備を洋式にした精鋭部隊がいたんだけどね
五陵郭に行った人たち以外はヘタレ過ぎてワラタ

643 :
>>209にも同じ様なこと書かれてるな
209 名前:人間七七四年 投稿日:2009/03/03(火) 18:14:59 ID:TDHn/raj
1788年に幕府巡検使として奥羽を回った古川古松軒が
東遊雑記で、相馬藩の武威に感動し
60万石の伊達の武風には大したことねーな。
何も感じなかったし。
だけど6万石の相馬の武風に感じるとこがあった。
石高は関係ないもんだなぁって書いてる。

644 :
新地奪ってホクホク

645 :
相馬のセールスポイントは騎馬軍団の精強さ。
この1点豪華主義。

646 :
地元・相馬のスレがあるとは・・!!
今は仙台在住だが、取りあえず野馬追の時は毎年帰省して観てる。
まぁ、毎年ある祭りだし・・、中村城趾は初詣と子供の遊び場、
ぐらいの認識で過ごしてたが、調べると結構魅力的なのな。
司馬の「関ヶ原」読んでから豊臣と石田三成贔屓なんだが、
佐竹つながりで相馬の烏帽子親とか勤めてたのか>>石田三成
地元の欲目も入ってますます好きになったわ
伊達政宗はマジでどうしようもねーな・・晩年はまだしも・・
宮城・仙台の政宗凶信者っぷり異常だろ・・

647 :
往年の中村城。防御力はそこそこあったの?
それとも砦を強化した程度のもの?

648 :
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%9F%8E
石垣は高さ2〜3m程のものが本丸の周囲を巡っており、
天端がない独特の形式から鉢巻石垣と呼ばれている。
それ以外では門の周囲に小規模な石垣が見られるほかは、ほとんどが土の城である。

649 :
規模はそんなに大きくないけどなかなか堅固な作り。遺構も割と良く残っていて見応えあると思う。
ttp://homepage3.nifty.com/otakeya/hukusima/soumasi.htm

650 :
なかなか堅固な作りではあるが、
相馬の得意は野戦だから、篭城戦はやりたくなかったと思う。

651 :
相馬と言っても、やはり話題は東北の方になってしまうのね。

652 :
>>650
野戦でないと騎馬軍団が威力を発揮できないからね。

653 :
下総のほうは文献探すのが大変だよ....

654 :
>>586
あいつはラピュタ王なんだから城に拠って戦ったら勝てるわけないだろJK

655 :
>>590
相馬が永禄五年(1562)佐竹領に進攻。
今の日立市の久慈城を落城させたが、石名坂付近で敗れた
という情報を見たのだが、文献などがあれば詳細を知りたい。
確かに自分も石名坂付近だったかに、相馬家の死者を悼む
案内板が立ってる写真を昔のサイトでみたことがある。
近くに日立製作所があるんだっけ?
奥州探題伊達晴宗の長男岩城親隆を支援するという意味で
相馬盛胤が岩城親隆に兵を貸し与えたのだろうか?
盛胤が総大将として、親隆が貸した兵と共に佐竹領に侵攻したのだろうか。
たぶんそんなところだろうと思うのだけども。
もしかしたら佐竹に伊達一門となることを迫った戦いだったのかもしれない。
伊達稙宗の時代に盛胤の父・相馬顕胤が似たようなことを岩城にしているし、
伊達晴宗は永禄五年(1562)の時点でまだ隠居していない。
で、結局合意に至り晴宗の娘が義重の正室として迎えられたんじゃないかと思う。
この時代の人物の年齢を信用しているわけではないけれど、ありとすれば
この頃、義重は15歳ぐらい?
この時代なら元服して正室を迎えておかしくない年齢。

656 :
永禄五年(1562)なら
岩城重隆(生年不詳 - 永禄12年(1569年))もまだ健在だから
岩城家中も重隆の強い発言力で対佐竹姿勢をもっていたんだろうな。

657 :
>>655
「岡部元徳と孫沢合戦」等の論文で検証されてるが
江戸時代に帰農した佐竹旧臣たちの願望が作り上げた架空の合戦と結論付けられてるよ。

658 :
>>657
なるほど…
茨城県の地方史研究による論文ですな。
そんな結論になってましたか。
貴重な情報提供ありがとうございます。

659 :
福島民報 2010/12/17
14、15世紀 小高城「謎」の大火? 戦禍か失火か
小高城 相馬地方に移った相馬重胤の次男・光胤が建武3(1336)年に築城
した。同年に南朝の陸奥守鎮守府将軍・北畠顕家との戦いに破れて城を明け
渡したが、その翌年に城を奪い返して以来、戦いや火災の記録は残っていない。
発掘調査で焼け跡
 南北朝時代から相馬氏が相馬地方を統治した拠点として知られる小高城が
十四〜十五世紀に大規模な火災に遭った可能性が高いことが分った。南相馬
市教委が同市小高区の県史跡「小高城跡」で初めて本格的に行った発掘調査
で地中から土塁や陶磁器などの焼けた痕跡が発見された。現存の文献では
同時代に火災の記録はない。知られていない戦渦に巻き込まれたのか、失火
によるものか―。新たに生まれた謎は研究者の間でも議論を呼びそうだ。
■写真あり
土塁部分の発掘であらわれた地層。下に見える黒い層が火災を示す墨。
記録なし、研究者注目
 
 発掘調査は小高城跡内にある相馬小高神社社務所の移築計画を受け十一月
から、本丸とされる場所の周辺の六ヶ所計約二百平方bで実施している。
 市教委によると、地層から城の土塁が焼けた跡や、上薬が焼けた陶器、
炭化した柱跡などが見つかり、火災発生を示している。見つかった範囲の
広さからみてかなりの規模で焼けたとみられる。出土品には「天目茶わん」
と呼ばれる中国製品や、瀬戸地方で作られた茶器が含まれている。このため
これらが使用された十四世紀後半から十五世紀前半に火災があったと特定
できるという。
 また、城の建物近くに作られていた大型の防御用の土塁の下の層に火災の
跡と見られる炭があり、さらに下の層にも別の土塁が見つかった。火災発生
後に土を厚く積み直したと見られ、市教委は「大規模改修をした形跡」と
推定している。
 市教委文化財課の藤木海文化財主事(三七)は火災は小高城の変遷の大き
な節目になったはず」とみている。
 地元の郷土史を研究している小高史談会の門馬一彦会長(八一)は「十五
世紀ごろに火災があったとは聞いたことがない。詳しく調べてみたい」と
興味津々の様子。一方、中世考古学が専門の県文化振興事業団の飯村均主幹
(50)は「原因が城を巡る攻防戦なのか内紛なのか、他の資料を探すこと
で小高城の新たな歴史が明らかにできるのではないか」と注目している。
あす現地説明会
 小高城跡の発掘調査現地説明会は十八日午前十時半から相馬小高神社内の
現地で開かれる。

660 :
相馬の大膳大夫盛胤と顕胤父子時代はなんだかんだでいろいろあったからな。
標葉家の攻略や宇多郷の掌握。その後の天文の乱なんかは十分関係してると思う。
小高城は間者によって火をつけられても別に不思議だとは思わん。

661 :
初めて本格的に行った発掘調査なんだ。意外だな〜

662 :
相馬忍者伝

663 :
標葉の権現堂城から相馬の小高城までは10`も離れてないみたいね。
小高城に火をつけた忍者なら標葉家のほうじゃ?
それを言うなら「標葉忍者伝」じゃね。
標葉家は滅亡したけど、火事がそれより前だったら、
それは標葉の戦功になるから相馬氏の歴史からは記録が消されたのかもね。

664 :
というより記録の自然消滅かもね。戦いに敗れるとはこういう事だ、的な。
相馬に降った標葉土豪ら(泉田氏とか藤橋氏とか標葉六騎七人衆だおね)が
相馬家に忠誠を誓おうと思えば、おいそれと口にできない事件だお。

665 :
それから伊達稙宗の養子政策のセンも考えられる。
相馬の史料では顕胤は父・盛胤の死を「秘して」稙宗娘と結婚したとなってる。
ついでに伊達家との戦いの記録も秘したんじゃね。
伊達稙宗は他家の城を落として、武威的なものを示してから
嫁や養子を送るなどしている。最上や葛西がいい例だ。
伊達稙宗は相馬盛胤(13代)死去の2年後、奥州守護職を得た。
顕胤の婚姻は伊達氏との和睦案だったのではないか。

666 :
>>665
深い読みだね。

667 :
べつに珍しい例じゃないけど、祖父と孫が同じ名前ってのはややこしいな
盛胤→顕胤→盛胤みたいに

668 :
13盛胤(定胤)→14顕胤→15盛胤→16義胤→1利胤(三胤)→2義胤
ちなみに蜂前立の兜は2代藩主義胤公の兜

669 :
グランドファザコンの家系か

670 :
足利義稙から偏諱受けて、稙胤が生まれてればなw

671 :
「盛」は蘆名から「顕」は田村から「義」は佐竹からという説もあるね。
同時代、相馬氏が権威として認めていた、あるいは畏怖した人物。
↓(個人的主観。足利家を除く)
12高胤
蘆名盛高

13盛胤(定胤)
蘆名盛滋

14顕胤
伊達稙宗(高宗)初名・高宗は蘆名盛高から一字もらい名付られたのかもね。
田村隆顕

15盛胤
蘆名盛舜、盛氏

16義胤
佐竹義昭、佐竹義重、

1利胤(三胤)
石田三成、土居利勝

2義胤
これは祖父から名を譲られたらしいね。
戦国時代が終わり、城持ちの独立大名として誇示できた現れかも。
蜂前立の兜は平将門と蜂のエピソードや
政宗が相馬は蜂の巣のようだと煙たがっていたのが関係あるかもね。
>>88
www

672 :
>>671 訂正
13盛胤
蘆名盛舜

14顕胤
伊達稙宗、田村隆顕

15盛胤
蘆名盛氏、田村隆顕

16義胤
佐竹義昭、佐竹義重、田村清顕
15代盛胤も14代顕胤が父の名を戴き箔をつけさせるだったのかも。

673 :
>>81>>82>>83>>84>>85
御上の意向を傘に来て威張り腐った奴らがいても当然だと思えばいいんじゃない。
野馬追は国指定文化財で当時の様式を現代に伝えていくっていう義務があるんだしさ。
まあ、野馬懸の日に陰でこっそりグラサン付けてる騎馬武者が居たのはどうかと思ったが、
ある意味、サムライの正確な姿だと思うw

674 :
>>671-672
これは然りですな。

675 :
>>673
> まあ、野馬懸の日に陰でこっそりグラサン付けてる騎馬武者が居たのはどうかと思ったが、
> ある意味、サムライの正確な姿だと思うw

バサラ、カブキモノだから問題なし。

676 :
>>675
前田慶次にはぶっとばされるタイプのかぶき者かもしれないけどねwww

677 :
>>訂正 田村は南へ攻めた。×
よく調べてみると
田村はむしろ蘆名や二階堂との衝突の方が目立つね
いまは南よりも西と争っていた印象がつよい

678 :
アンカーミス
>>497

679 :
>>497
田村が後ろ盾にしたのは伊達ではなく、
相馬、岩城、佐竹とした方が正しいかも。
とくに相馬義胤と佐竹義重の積極的な伊達・蘆名攻勢が、田村隆顕の死去後、
嫡男清顕にそれまで蘆名と連携していた田村家の方針を転換させ、
蘆名を攻める機会となっているように思える。
徳川300年の軍事独裁政権下で西軍の佐竹氏が持つ権威は悪とされ
秘匿され続けたが、いまや鬼義重こと佐竹義重なくして
相馬氏は語れないな。『義重と義胤』なら買うかも。

680 :
小生は相馬出身だが『伊達の鬼』5巻まで読んだ。おもしろかったー
相馬義胤でてたぞ、かっこよく描いてもらってよかったなー(´ω`)
あそこまで義胤がドラマや絵として描写されたのは史上初めてかもw
まーしかし、2巻で畠山と大内が相馬の援軍でいたのは?と思った。
小生が持ってる史料だと畠山と大内は相馬じゃなくて
伊達軍を助けて参陣してるんだよな。俺の知らない歴史があるのかな。
まま細かい事はええわ、田中克樹どん!!
改定版でも別の漫画でもなんでもええ、これからもかんがれ〜

681 :
ばろすwwwwまwwwじボケwwwしたwwwwww
>>663
こっちのほうは、ありえるが
>>665
これはないwwwwww
もっともらしく書いたが、十四世紀「後半」から
十五世紀「前半」ってところ見落としてた。
つまり、1350年〜1450年の間だろ。稙宗、顕胤は100年後の人物w

682 :
家臣に100才近くまで生きてた人がいたらしいけどマジ?

683 :
木幡継清と木幡高清ってあんまり相馬史料に名前出てこないよね

684 :
>>682
木幡継清(1534-1618)
木幡高清(1537-1642)
一応は↑と伝わっている。

685 :
相馬と伊達って国力にかなり差があるように思えるけど
よくまともにやり合えてたね
やっぱり人情相撲?

686 :
盛胤がいたからな
あと海路抑えてた

687 :
独眼竜政宗 vs 相馬氏
http://www.dailymotion.com/video/x5ntta_87-yyyyyyyyyyyyy7yy1-4y_shortfilms
相馬野馬追の映像あり

688 :
>>685
相馬の騎馬隊の強さがガチ。

689 :
本気で攻めると「空気読めよ!」と怒られるので小競り合いをしてそれとなく和睦するのが暗黙のルールだったのだお( ^ω^)
政宗公は本気で攻めさせたから相馬も一気に滅亡寸前にまで追い詰められたけど
政宗公は「空気読めない奴」に認定されてしまったお( ^ω^)

690 :
>>689
それじゃ相馬が標葉氏滅ぼしたのはどう説明するんだよ?

691 :
>>685
相馬、岩城、田村が同盟していたとは誰も考えないのな
相馬には泉大膳とか佐藤好信とか田村や岩城からの将が長い間仕えてるのに
ついでに三国とも稙宗の孫が当主になっている。
稙宗が三国の仲を取り持ってた。これは稙宗書状で明らか。

692 :
>>690
嫡流潰しても庶流を取り立ててればおけ、ってことじゃない?

693 :
>>692
嫡流潰している時点で小競り合いじゃなかろうに

694 :
何事にも例外はあるよ

695 :
相馬の人、無事であってくれ。

696 :
<地震>津波で300人死亡か 福島・相馬
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110311-00000154-mai-soci
やばいよこれ

697 :
>>696
おいおい、人と世帯の区別も付かないのか?
1世帯あたり2・3人としたら、300人じゃすまないぞ。

698 :
飢饉の時も伊達と違い相馬は力強く復興へ努力したのを幕府の視察で記されてるから相馬は必ず復活する

699 :
相馬の人たちの安全の確保と復興を願う

700 :
伊達も相馬も関係ねえ、長生きできたらまた再建しようぜ!

701 :
先祖代々の地を守り抜け…

702 :
>>698
その理屈で行くと宮城県は復興しないって事ですね

703 :
こんな時まで伊達叩きのネタに使わなくてもいいのに
福島県も宮城県必ず復興するよ。

704 :
スレに時々来てた相馬の人、元気だったらまた書き込みして下さい。

705 :
>>703
同意。
こんな時ですら
「〜に比べてうちは〜」
とか狭量なこと言ってんの見ると悲しくなってくるよ。

706 :
つうかそれ史実だろ。
江戸時代に戻って文句言ってこいよ

707 :
史実だろうと
今復興に向けて頑張ってる人もいるのにそんな事言うなよ

708 :
>>707
無理に曲解して楽しいか?お前はひねくれ者の小学生か。

709 :
>>708
アンカー違いじゃないなら、お前はまず日本語勉強してこい

710 :
悪意の解釈きもい

711 :
比較厨キモッ!

712 :
相馬家の現当主は今どこにいるの?
父祖伝来の地の復興に力を尽くしてほしい

713 :
奥さん麻生元総理の妹だっけ
実家金ありそう

714 :
麻生さんと相馬の当主は学習院以来のマブダチ

715 :
相馬の馬追い また観られますように

716 :
原発の冷却作業は次々と隊員が入れ替わって作業していることから車懸かりの陣と称してもいいんじゃないかな

717 :
相馬中村神社の被災状況
http://c.2ch.net/test/-/newsplus/1300657403/i

718 :
>>717
こんな時まで鬼女暴れてるな

719 :
紀子様の弟が相馬家の女性と婚姻しているが
放射能の風評被害で物資が届かないようで
相馬市への援助物資運搬を弟さんが乗り出しているとか。

720 :
相馬家の姻族だったのか

721 :
>>715相馬野馬追でしたごめんなさい 昔の記憶で書いてしまいました。
また観られるようにと思っています。

722 :
相馬氏の親族じゃなくて
相馬中村神社の人

723 :
>>713
その麻生さんが相馬入り。
http://topsy.com/twitpic.com/4coh88


724 :
麻生元首相が相馬市慰問 相馬家の縁で
2011年03月25日 09時44分配信
自民党の麻生太郎元首相は24日、来県し、相馬市で被災者を慰問したほか、県産品のシイタケなどを食べて安全性をPRした。
麻生元首相は、立谷秀清市長と市内の老人保健施設を訪れた後、避難所となっている中村一小へ。
被災者が「原発問題を早く解決してほしい」と訴えたのに対し、「いい方向に向かいつつあると思う」と述べた。
市役所では市災害対策本部の会合に参加し職員を激励。
続いて地元産のシイタケ、トマトなどを試食した。
麻生元首相は相馬家33代当主・相馬和胤(かずたね)さんの妻雪子さんの兄で、相馬市にゆかりがある。
http://www.kfb.co.jp/news/index.cgi?n=201103258

725 :
相馬市は紀子様の弟や麻生元首相が訪問するとかすげーな。

726 :
34代目の若殿様が頑張ってるみたいだね
今北海道住んでるみたいだけど
何とか現地入りして救援活動してるそうだ

727 :
麻生さん出てるぞ。
03/24 福島県相馬市 東北地方太平洋沖地震対策会議 ノーカット
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13949090

728 :
09年の相馬野馬追で総大将役を勤められた34代相馬行胤氏
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/c3/3167fb57cc66c3ae65324004db7c7245.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/21/c1cacfcae2c673fe636b5fd1db50e939.jpg
http://blog.goo.ne.jp/kage-yh7/e/b8d671b3a9f814fc8efae816cf7488a5

729 :
大阪よみうりテレビ
http://www.youtube.com/watch?v=YOMkSUh3h6g
結構汚染されてるな・・・

730 :
全国の相馬さん!相馬市(氏)のために立ち上がろう!
小さなことからコツコツと出来ることからコツコツと
支援でも義援金でも何でもいいから相馬市(氏)を支えよう

731 :
地震のあと、福島第一原子力発電所の事故で避難指示などが出されている福島県南相馬市の住民の避難を
手助けしようと、災害時の協力協定を結んでいる茨城県取手市から、19日朝早く、住民を迎えるための
バスが出発しました。
地震や津波で大きな被害を受けたあと、福島第一原発の相次ぐ事故で市内に避難指示や屋内退避の指示が
出されている福島県南相馬市は、茨城県取手市と災害時の協力協定を結んでいます。
この協定に基づき、取手市は県外への避難を希望している南相馬市の住民およそ120人を市内の公共施設で
受け入れることを決め、バスを向かわせることになりました。19日朝早く、取手市役所前に用意されたバスと
トラックあわせて4台には、被災地に残る住民に届けるための水と1万2000食分のカップ入り即席めんや毛布などが
積み込まれ、担当の職員とともに出発しました。バスは昼ごろ、南相馬市に着く予定で、午後7時ごろ、
住民を乗せて取手市に戻ってくる予定だということです。
取手市の野口龍一総務部長は「取手市も被害を受けたが、南相馬市の人たちは相当疲れていると思うので、
温かく迎えたい」と話していました。
南相馬からその取手市に逃げて来てきました。
「災害時の協力協定」←以前から聞いてましたが、下総相馬氏との関係からでしょうね。
下総の北相馬郡は取手市に合併して相馬の名前はなくなってしまってたけど
友好関係は続いていたようです。ありがたい。

732 :
>>731
下総相馬が久々にスレに出て来た(・∀・)

733 :
こんな記事が。立派な覚悟で、震災と津波だけならこれで良いけど、原発が心配。
ttp://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/499336/

734 :
今度は安倍元総理が相馬入り

735 :
福島のミンス議員は何してる?

736 :
相馬関連の話題に特化した方がいいんじゃない?

737 :
避難所まで物資が届いたないと聞いたぞ。
馬を送ってあげるというのはどうだろう。
物資輸送にガソリンがいらない。
野馬追のおかげで馬の扱いには慣れている人が多いはずだ。

738 :
馬が一日何キロ餌食ったり水飲むと思ってんだ?
サラブレッドなんて派遣しても瓦礫だらけの場所じゃろくに歩かせられんぞ。

739 :
ネタだろ

740 :
俺が無知だった
むしろバカが俺だけで済んでよかった

741 :
人間誰だって全知全能じゃないんだから、仕方がない。
たまたま、今日>>737がそういう失敗をしたからって責めるもんじゃないな。

742 :
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110406t63054.htm
他スレで発見
さすが殿様

743 :
>>742
テンション上がって目から汁が出たで(;ω;)
さすが団結力とねばり強さに定評のある相馬武士の末裔
その雄姿をまた野馬追で見せてほしい

744 :
>>93の本多忠朝が羨む「領民との絆」って奴は、当世でも健在だな。

745 :
>  さらに、甲冑(かっちゅう)競馬や神旗争奪戦などの主要会場となる雲雀ケ原祭場地(南相馬市)が、屋内退避区域に含まれている。原発事故は収束のめどが立っておらず、代替会場の確保も難しいとみられる。
>
>  一方で、外部からの支援の輪は着実に広がっている。全国乗馬倶楽部振興協会(東京)などは飼料を提供し、栃木や群馬など県外の厩舎などが馬の一時避難を引き受けている。
> 騎馬会の高田会長は「危機の時こそ、武士(もののふ)の意地を示し、祭りでお返しをしたい」と話した。
>
>  政府は7日、南相馬市の屋内退避を避難指示に切り替える可能性を示した。しかし、騎馬会では野馬追を開催する方向で、事務局の市などと協議を進める方針だ。
> 同会は馬場が必要な神旗争奪戦などは開催困難だが、騎馬行列などの行事は可能とみている。今月下旬までに幹部役員らを招集し、一定の方向性を決めたいという。
東日本大震災 今こそ武者魂で 「相馬野馬追」に開催危機
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110408-00000024-maip-soci

(;ω;)ブワッ

746 :
うわぁ・・・もののふの意地
相馬・・・熱い かっけぇ・・・・
放射能浴びてもスーパーモノノフになると信じてる
相馬の復興を心より祈る(´;ω;`)

747 :
若殿のツイッター見ると
野馬追やるの?
やるよ!
が結構多いな

748 :
マジでッ!?
馬飼ってないけど、徒歩武者として参加してぇ

749 :
武士団の中で島津をも軽く凌駕して最も長く同じ土地を守ってきた相馬…
先祖代々必死に守ってきた相馬の地が放射能汚染と聞いて
いまやその熱い想いも夢に消え無駄になったと同情と傷心で涙ぐんだが
それは誇り高い相馬を侮辱したことになるんだな。
強い、強すぎるぜ相馬

750 :
相馬
天明大飢饉の直後の天明8年に幕府巡回使古川古松軒は東遊雑記に
仙台の武風に感ぜず相馬の武風に感ぜしなり。制度正しき故と思われ侍る。
元禄時代に土佐の谷秦山は相馬は国を立て武職を守ること700年 薩摩は500年と言うが真の武職は相馬だけだと賞嘆。

751 :
福島 「相馬野馬追」開催へ
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110413/k10015288321000.html
相馬領民不屈すぎるぜ

752 :
相馬の騎馬隊は福島1ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!

753 :
もはや日本一の相馬武士

754 :
>>716
> 原発の冷却作業は次々と隊員が入れ替わって作業していることから車懸かりの陣と称してもいいんじゃないかな

不謹慎だがワロタ

755 :
震災便乗セール開催中!
ttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1168522231/

756 :
相馬は不滅

757 :
>>750
土佐出身の谷秦山が相馬を賞賛したのには、こんな背景もあると思われ。
土佐には関ヶ原の後、山内一豊が入封したが、
長宗我部元親の残党の半農半武士層(一領具足)の反抗に悩まされつづけてた。
そこで山内は自分の旗本の武士を上士、一領具足衆を郷士(下士)として
身分を分けて城下に住まわせることにした。
谷秦山は長宗我部一族や地元の武士層が他国の武士に反発したり
忍従したりする気持ちに同情したのかもな。
土佐の郷士層はそれまで溜まってきたうっぷんを幕末で爆発させたのかもしれない。
坂本竜馬は郷士層の出身。

758 :
>>748
前に徒歩武者で参加した事がある。
小高神社の社務所で受付を済ませた記憶があるけど
いまは小高神社も原発の避難区域内だよ。
太田神社も半径内かも。残るは相馬市の中村神社。

759 :
復興支援のために早く戻りたい。
地元を愛する者として危険な任務を
自衛隊ばかりに任せているのは情けない。

760 :
>>758-759
色々と葛藤がおありでしょうが、
今はご自重頂いて期を見て再起して下され。
くれぐれも御身大事で。

761 :

東電、放水車引き渡し受けるも「やっぱり警察で操作して」と要請
http://www.asahi.com/national/update/0317/TKY201103170132.html
東電、「自衛隊に任せて社員を全員現場から撤退させたい」と要請
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110318k0000m040151000c.html
東電、協力企業への代金支払保留&契約解除
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1304115613/
東電、電気料金を4カ月連続で引き上げ(4/27発表)
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110427/biz11042715570044-n1.htm
東電 「経営が大幅に悪化した!」→夏のボーナス「40万円」
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1304012784/
東電の清水社長、「賠償は免責される」との認識
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1303982818/

東北電力の発電電力量の約7割が火力発電
http://www.tohoku-epco.co.jp/person/work/work1/work1-2.html
東北電力株主が株主総会で原発廃止議案提出
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1304242585/
東北電力女川原発を240人が避難先に「頑丈で安全」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110326/dst11032622340091-n1.htm


762 :
歴史街道

763 :
なんか、相馬市長が支援物資を横領したとかいう話がでてきたね
ブログまでできてるけどどう展開するのかな
震災後に麻生さんを招いた会議では賞賛の嵐だったのに・・・

764 :
賞賛されると叩きたくなる馬鹿が何処にでもいるからな。

765 :
はぁ・・・

766 :
相馬野馬追は今年やれるの?

767 :
>>766
メイン行事の神旗争奪戦や甲冑競馬は無し。
出陣式とか、伝統として一番重要な野馬がけ神事はやるらしい。

768 :
1ヶ月以上前から馬を走らせて練習しないと甲冑武者を乗せて全力疾走はさせられないらしいけど
被爆地なんで練習できないみたいよ。

769 :
伊達と戦って半世紀

770 :
これからは放射能と東電と風評被害と
国と偏見とみのもんた症候群の鬼女とも戦わなければならない

771 :
あと放射能障害とも

772 :
みのもんた症候群の鬼女が最も凶敵だな

773 :
>>762
買った。相馬行胤さんのお話を読めたのはよかった。
載せられてた逸話も知ってたのよりアレンジが効いててなかなか良かったぞ。
日本の経済と電力に関する特集も読みごたえがあって深いな。


774 :
農水省が放射能汚染の稲わらの出荷停止指示を出さなかったために
南相馬の牛が汚染されたまま出荷…
南相馬の酪農家がチクってバレるも
農水省は酪農家に汚染稲わらを牛に食べさせないように通達しただろアホ。こんなん想定外の盲点だとのこと。

775 :
南相馬のは配合飼料が入ってこなかったから已む無く田んぼの稲ワラを集めて喰わせたらしい。
それを喰わせるくらいなら牛を死なせた方がまだ良かったのに。おかげで福島の農業はもうダメだ。
石川だか浅川だかの酪農家が白河の農家から買った稲ワラからセシウムが検出されたのは誰の
せいだろう?売った奴の無知か?

776 :
他県がねぶた祭や竿灯祭り花笠祭りを持ち寄る
東北六魂祭の福島代表が福島わらじ祭なんだが
それでいいのか相馬人よ

777 :
産業振興のためのお祭りなんだからそれでいいと思うぞ。
ついでに野馬追は妙見様を奉る「神事」という側面の方が強い。

778 :
野馬追やるんだね

779 :
無事、やり遂げたか。

780 :
関東からやるときいて行ってきた。来年も行こうと思ってる。

781 :
小倉の番組で相馬馬追いやってたな

782 :
盛胤と義胤だとどっちが有能だったのかな

783 :
保守

784 :
盛胤は智将。義胤は猛将。相馬の歴史はそう語っているらしいよ。

785 :
相馬義胤の祖母は伊達稙宗の娘で義胤の最初の妻も稙宗の娘。
つまり大叔母と結婚してるんだよな。
どんだけ年齢差あったんだんろう。

786 :
森鎮雄の戦国相馬三代記では義胤13歳のときに結婚。姫は15歳。
母は稙宗の侍女で、姫は伊達七郎と同腹だそうだ。

787 :
あんま関係ないけど、相馬行胤氏が代表取締役やってた九星産業が破産しとった

788 :
震災の影響で倒産した会社は多いな

789 :
御当主は震災のとき救援活動したろ。
そういう人のところには必ずいい人が集まってくる。
心配はいらない。

790 :
>>789
彼の心無い対応に苦しんでいる人間もいることを覚えておけ

791 :
> 彼の心無い対応
具体的に何?

792 :
それだけでは根拠の無い中傷にしか見えん。

793 :
どーせ>>790が無茶なこと要求しに行ってすげなく断られたんだろ。
で、「自分は悪くない悪いのはあいつだ!!!」とw

794 :
ミッチーも昔に比べたら、だいぶ大人になったが、
もうちょっと謙虚にいかないと人は離れていくんじゃないかな?  
ってのが北海道での彼の評判。
郷に入っては郷に従え、ですよ。

795 :
>>794
だから具体的にどんなことしたのよ

796 :
>>795
スレチだし放っておけばいいでしょ

797 :
年寄りが金を出すやつってのはね。
自分が困っているのにさらに困っている奴を助けようとするやつだよ。

798 :
>>770
すでに30年以上戦ってきたんだぜ

799 :
「戦う」じゃなくて「闘う」な

800 :
>>198
この地方に住んでた者として、
水谷(みずがい)の「谷」について物申すことがある。
「みずがい」は「みずがや」が訛ったものじゃないかなと。
つまり本来は「みずがや」かもしれない。「や」はやっぱり「谷」の意。
みずがや→水ヶ谷→水の谷。
小高城のあった南相馬市には他にも
耳谷(みみがい)大谷(おおがい)という地名が残っている。
でも、金谷は「かなや」。「かながい」とは読まなかったり。
鎌倉時代、結城氏は東北の南部にも豪勢を誇っていた。
相馬地方も神社の設立に結城氏の影響力があった記録が残っている。
相馬家臣の水谷氏の祖先と結城家臣の水谷氏の祖先に
まったく関係がないとは言い切れないかもね。

801 :
>>798
でも、相馬も含めて現地には今でも
仕事がないから原発から仕事貰ってる人がいるし、
無責任に放棄するわけにはいかないから働いている人もいる。
親兄弟、親戚や友人には原発関係者がすぐに見つかる。

802 :
スーパークリーク

803 :
>>802
北海道の柏台牧場生産馬だったっけ
相馬に続き、北海道の牧場も破産してしまったね
がんばれ相馬さん

804 :
三十三代当主のお母様は難民を助ける会の創設者。
www.sponichi.co.jp/society/news/2011/11/10/kiji/K20111110002004590.html
会の皆様・トルコ地震での救援活動ご苦労様です。お悔やみを申し上げます。

805 :
>>136
それはその前に佐竹義昭が南奥に浸出してきたので
伊達家はすでに晴宗の時代であったが、
陸奥守護の先代稙宗を通じて相馬岩城に佐竹討伐を命じたのではないかと思ってる。
晴宗時代初期〜中期は特に相馬と事を構えていたわけではない。
伊達と相馬が小高城で連歌会を催したこともあるらしい。
相馬盛胤の和歌が残ってたが、この時のだったと思う。
その後、佐竹義重が伊達晴宗の娘と結婚しているが、
この時のことを受けて、伊達と佐竹の和睦のためだと思う。
佐竹義重と伊達晴宗の結婚がいつだったかよくわからないので、
詳しい人がいたら教えてほしい。

806 :
>>805
永禄 5年(1562)佐竹義重、家督を継ぐ
永禄 7年(1564)伊達晴宗、家督を継ぐ
永禄 8年(1565)佐竹義昭死去
晴宗の娘が嫁いだのは義重が家督を継いで義昭が死ぬまでの間では?
しかし晴宗が正式な当主となる前か後かは微妙なとこだなあ

807 :
>>806
天文17年(1548)に足利将軍の調停で天文の乱が終結し、
表向きは伊達稙宗が晴宗に家督を譲っているのが大きい。
ただ確かに伊達家は稙宗党と晴宗党の二元政治に陥っていた可能性もある。
永禄2年(1559)、伊達稙宗が小高城へ来て自分の隠し子を義胤の正室に薦めている。
これが永禄 8年(1565)伊達稙宗死去後の丸森城を巡る争いへとつながってしまう。

808 :
>>806
>>永禄 7年(1564)伊達晴宗、家督を継ぐ
この年、家督を継いだのは輝宗。
稙宗→晴宗→輝宗→政宗

809 :
>>808
間違えた。ゴメン。

810 :
だから永禄 7年(1564)の晴宗の隠居は分裂しかかった
伊達家中をまとめるための隠居と見ることもできる。

811 :
>>805
>>晴宗時代初期〜中期は特に相馬と事を構えていたわけではない。
いや、稙宗隠居から晴宗隠居までの期間だから初期〜中期とは言い難い。
晴宗の家督時代はほぼ丸ごとと言うほうが正しいかもしれない。

812 :
>>811
ただし、天文22年(1553)の盛胤正室の実家の掛田氏滅亡の一軒を除いてだな。

813 :
まとめると
天文17年(1548)に足利将軍の調停で天文の乱が終結し、
        伊達稙宗が晴宗に家督を譲ってはいるが。
        おそらく掛田は
天文22年(1553)に滅亡するまで相馬が後押ししていた可能性が高い。
        さらにその背後では隠居した伊達稙宗が
        晴宗党ににらみを利かせていた。
        このため伊達家は稙宗党と晴宗党の二元政治に
        陥っていた可能性があり、
永禄 2年(1559)伊達稙宗が小高城へ来て自分の秘蔵の娘を義胤の
正室に薦めるが、おそらくこれは二元外交であり
        伊達家中で問題になった可能性がある。
永禄 5年(1562)相馬が伊達に協力することの証として
        相馬盛胤は伊達晴宗の長男・岩城親隆と佐竹に攻め寄せる。
永禄 5年(1562)相馬と佐竹が和睦して、この頃
        佐竹義重は晴宗の娘を嫁にし、佐竹の家督を継ぐ
永禄 6年(1563)相馬では青田と草野が離反。
        伊達の調略によるものではないかと考える者が出てくる。
永禄 7年(1564)相馬は稙宗の弟、亘理元宗を助けて、粟野氏と戦う
        伊達輝宗、家督を継ぐ
永禄 8年(1565)伊達稙宗、佐竹義昭死去。稙宗の遺言を巡って相馬と伊達が争う。
永禄 9年(1566)相馬は小斎城を略奪。

814 :
>>永禄 7年(1564)相馬は稙宗の弟、亘理元宗を助けて、粟野氏と戦う
まちがった
永禄 7年(1564)相馬は「晴宗」の弟、亘理元宗を助けて、粟野氏と戦う
ややこしい

815 :
相馬はしぶとい

816 :
原発事故あった双葉、富岡は相馬藩が江戸期に中国北陸地方から
農民を募集して開拓させた元は荒野。
そのあと原発利権に町は・・・・

817 :
明治以降ならともかく江戸時代にそんな政策有るか、バカ。

818 :
いまから、230年ほど前、南相馬市や相馬市は、相馬中村藩と
呼ばれていました。相馬中村藩は天明の大飢饉のため、人口の3割近
くが亡くなりました。その飢饉の30年後くらいから、中村藩には
現在の南砺市のあたりから、約1万人の人が移住してきました。
移住してきた人の多くは、浄土真宗門徒の農民で、多くの荒地
を復旧し、相馬中村藩の復興に大きな役割はたしたということです。
その名残で、相馬中村藩だった地域には、他の東北地方にくらべて、
真宗の寺院が多いそうです。
>>817相馬史語るなボケ

819 :
サムライの時代が終わって世界大戦の時代も終わって
世界競争力を高めるため原子力を廃棄物処理などの問題があるにもかかわらず、
実質的には商業利用なのだが、平和利用と称して国策として推進。
その結果がこれとは悲しすぎる。
提案者の中曽根康弘とこれをいまさら糾弾しているアホは置いておいて
現代の人よ、地方の人よ、相馬の人よ、同胞を見捨てちゃいかん。
何が人間の幸福かしっかり考えなきゃいかん。
武力を用いず、自立していく方法をしっかり見つけなきゃいかん。

820 :
相馬に観光に行くぜ

821 :
日本国憲法の間接的起草者といわれる鈴木安蔵は
福島県相馬郡小高町(現・南相馬市)出身。
相馬はしぶとい≒日本はしぶとい

822 :
相馬野馬追も実質的には商業利用だな。
観光客を呼び込もうと今年から土日の開催に変更する話もあった
が、日付変更が陰陽道からはずれ、妙見様がお怒りになったのか、
はたまた武士を客寄せパンダにしようとしたので
氏神の平将門公がお怒りになったのか。
あるいはこれは神様が
戦争紛争・世界平和にも関わる難しい問題なので
現代の人ならばこそ乗り越えられる問題だろうと
お与えくださった試練なのか。考え方次第だな。

823 :
綱吉の時代に奥詰兼側衆格、側衆、側用人格に起用されたんだお

824 :
土屋利直の次男が相馬家の婿養子になったからね。
土屋家は徳川家と仲の良かった。
相馬野馬追を今の形式に改革したのはこの人らしい。

825 :
土屋利直の次男=相馬忠胤

826 :
相馬氏が滅ぼした標葉氏の標葉は「しねは」の読みが広まっているようだが、
この地方の方言ではあまりよくない言葉だ。
「しねは」は「もう死んでしまえ」という意味だからだ。
だから「しねは」は悪意がある呼び方かもしれない。
正しいのは「しめは」かもしれない。

827 :
>>826
地元民だけど、小学校の時「標葉」って名字の奴いたよ。
なんやかんや言われてたな〜

828 :
椎葉って名前の人を知ってるが関係あるんかな?

829 :
在郷給人の子孫がきましたよ。
婿養子の父の祖先は富山からきたんだって。最近知った。いつ来たかは聞いてないけど。
同じ市内だが、父のなまりが相馬弁で単語が関西弁なのが不思議だったけど、
納得しました。富山弁のなごりなんだね。
ところで、野馬追ってどうすれば参加できるんですか?
特別な資格とかあるのかな。
士族云々は関係ないみたいだけど・・・。

830 :
馬飼ってないと・・・

831 :
>>830
野馬追の馬はほとんど関東で飼育していて、借りているとネットで見ました。
まあ、どちらにしろ馬には乗れないですけどwww


832 :
829>>
野馬追に騎馬武者で参加するのは地元の人でも結構難易度高かったはず。
各市町村が参加者に出場料まで出してたから参加者数には限度がある。
そもそもその金は原発を浜通りに誘致した福島県から市町村へ出てたりした。
これからは制度改革が必要。逆に出場したいやつから金を取った方がいい。
その金は市町村の復興や医療・福祉・児童保育などの財源に回せばいい。

833 :
>>832
そもそも県は原発を置く代償として国から毎年、多額の交付金を受け取っていた。

834 :
下総相馬の遺産を奥州相馬が横領にならんの

835 :
下総相馬の子孫は今何してるんだい

836 :
門馬ってのは相馬の分流なの?
門間も同じ?

837 :
最近になって>>785の事実を知ったんだが、
この時代じゃごく普通のことなのかな。
現代の感覚じゃ、全く想像もつかん縁組だ・・・

838 :
徳川家康の長男信康は永禄2年3月6日(1559年4月13日)の生まれ。
おなじく十一男頼房は慶長8年8月10日(1603年9月15日)の生まれ。
兄弟で44歳違う。

839 :
側室を持ってたくさん子をつくるのが御家繁栄に繋がったからな。
子は鎹(かすがい)というけど、昔は結婚は夫婦ではなく
家と家とをつなぎとめるために利用された。
近・現代でも名家や財閥は結婚相手の家柄を気にする。
>>836
門馬ってのは相馬の分流なの?
門間も同じ?
分流。門間、文間も同様。
下総の相馬地方から奥州相馬へ一緒に移り住んだ一門。
相馬家の四天王の一家(木幡・須江・青田・門馬氏)

840 :
>>839
ありがとうです。
調べてて門馬は出ても門間の方はなかなか情報が少なくて…。
母方に門間の血が入ってるようでして気になってました。

841 :
小田原の陣の直前には伊達の属国で、こっそり小田原に赴いて領地の安堵を受けたというのは本当か?

842 :
蘆名滅亡と須賀川や奥会津が攻略され次は相馬かというときに
小田原参陣命令で救われた。逆に潰されたのは三春の田村氏

843 :
>>841
ものすごく判断が難しい。伊達の資料には相馬が伊達に降伏したことになっているのがあるようだが、
それでも偽りの降伏程度に考えておいたほうが現実的。

844 :
震災で相馬氏が続いてる事を知ったけど
ここの相馬さんといい前秋田市長といい
戦国武将の子孫達はこうあるべきだなぁと思う。
細川前首相も今の陶芸家があるべき道だったし
今は政治家とかよりも現場寄りの方が格好いいわ

845 :
>>832>>833
ドイツZDF フクシマのうそ
http://datsugen.com/?p=731
1960年代末(昭和40年代前半)相馬郡小高町と双葉郡浪江町に跨る地域に、
東北電力が原子力発電所の誘致を持ちかける。
当時東北電力は女川原子力発電所の建設計画も進めており、宮城県女川町へ
原発と付随する交付金や雇用等を取られてしまうという対抗心もあって
小高町議会(当時)と浪江町議会は賛成した。
が、世に公害意識が芽生え始めた時期でもあり、長らく反対運動が続くこと
になる。
公害意識は芽生えたが、原子力発電所の撤廃は地元民の仕事を奪うという
問題も抱えていた。すでに発電所の立っていた双葉、大熊の住民は撤廃に
難色を示した。逆に原子力発電所の安全性を過信し、原子力の町として
アピールしていくことになる。
このため3.11の大震災が起きる前まで浪江町、小高町(2006年1月1日原町市
・鹿島町と合併し、南相馬市として発足)の議会には未だ原子力発電所を
誘致しようという意見もあったのである。
地域に仕事ができること、原発を置く代償(交付金)で地域の開発・発展に
繋げられるという考えからであった。
南相馬市長の発言の「原発はもういらない」という「もう」にはそういう
経緯も含まれているのである。

846 :
ちなみに双葉、大熊の福島第一原発(事故のあった所)は「東京」電力。

847 :
そもそも相馬滅亡寸前話は講談で完全に架空話。
一次史料には存在しない。
また一次史料を見ると、相馬は小田原にすら行ってない。
秀吉から伊達への牽制の役目を負っていて
すでに最上同様に安堵は約束されていたとみるべき。

848 :
奥州の相馬氏が小田原に行っていないのはそうかもしれないが、
講談がすべて架空話とも言い切れない。
小田原に参陣後の政宗が相馬隆胤の反撃を理由に
相馬を滅ぼそうとしたのは政宗と片倉の書状から事実。
隆胤が反撃した駒ヶ嶺は惣無事令が出された時点では相馬領だったのだが、
その後政宗に奪われた。
政宗に相馬を滅ぼして伊達領にしようという気がなければ、
わざわざ新地駒ヶ嶺をもともと伊達領であるかのように秀吉へ
報告はしないだろう。
しかし、政宗の野望は名将・矢田野義正の抵抗によって頓挫するのである。
>秀吉から伊達への牽制の役目を負っていて
>すでに最上同様に安堵は約束されていたとみるべき。
それはその通り。

849 :
>>隆胤が反撃した駒ヶ嶺
それ天正17年夏の下沢辺での十二所戦を
一つの戦いとして纏めて伊達有利な話として編集してる可能性が高い。
それに亘理浜へ攻め込む側は常に相馬側であり、
なんとか亘理と黒木が防衛してるのがやっとなのが現実。
11月に入ると岩城と和睦交渉し12月末に締結。
続いて正月から成実を窓口に相馬と和睦交渉開始している。
政宗は北条と同盟して佐竹口を攻めるために背後の安泰を望んでいる。
しかし3/2に白河表出馬の中止を聞いた相馬は一転して強気になり
和睦交渉決裂し、それを中島宗求から聞いた政宗は「サラサラ無念の事ナリ」と嘆いている。
>>相馬を滅ぼそうとしたのは政宗と片倉の書状から事実
政宗の虚言癖は異常で常に強気でデカイことを言い放ってるだけだから信用できない。
あのまま相馬を滅ぼすつもりで相馬と戦うなら佐竹と上杉と相馬にフルボッコされるだけ。
そもそも葦名を滅ばした時も、上杉が葦名支援で会津入りした途端に
政宗は相馬方面まで逃亡したから、上杉は会津から撤退し佐渡攻めを開始。
それを見た政宗が上杉が佐渡に行っててチャンスとばかり葦名攻めを再開して滅ぼしてるだけだし。

850 :
そもそも相馬滅亡寸前の講談話は
ことごとく義胤が惣無事令が届き小田原へ行くために中止されたと
書いているのばかりだが、とっくに惣無事令のことは知っているはずだし
義胤が小田原に行ってないのは5/29になってもいまだ小高城にいたことが
書状から判明してるのでデタラメなのがわかる。
こんなデタラメ内容を信じろと言う方がおかしい。
安東氏の書状から7月末に宇都宮で秀吉に実季同様に義胤と会談してるのが史実。
そして政宗が6/26「相馬出馬は関白様と申し合わせてる」と書いてるが
明らかに秀吉に騙されてるだけ。もしくは政宗のデタラメ。
三成経由で相馬はすでに安堵を受けていたからのんびりしていただけ。
これは安東や最上(父の葬儀やるから遅れる)ものんびりしていて
事前に秀吉への取り次ぎの手筋を通して安堵を受けていたことからもわかる。
ちなみに会津へ上杉が来たので逃げ出した政宗が正反対の場所である駒ヶ嶺・新地蓑頸城を5/19〜21に攻略。
政宗が上杉から逃げた時に、相馬はたまたま田村方面にいて、本国がら空きだったので攻略できた。
海を初めて見て高揚したのか新地蓑頸城で政宗は撫で切りパーティーしてるな。
相馬が急速反転してきたら、さっさと逃げて、上杉がいなくなった会津へ攻め込み
負けそうになったところで葦名家臣が義広背後で謀反して橋を焼き討ちするなどしたために
葦名兵が動揺して瓦解して政宗は頸の皮一枚つながった。

851 :
>義胤が小田原に行ってないのは5/29になってもいまだ小高城にいたことが
>書状から判明してるのでデタラメなのがわかる。
小林清治は『宇都宮で逢った秋田実季と相馬義胤』で
「「寛政重修相馬家譜」その他の編纂物では5月下旬小田原に参候したことになっている。」
と述べ、5月29日付の義胤の田村右馬頭あての書状を指して
「義胤の5月下旬小田原参着はありえなかったことが明らかである。」と述べている。
が、これを尊重するならば「参候」と「参着」では意味が違う点にも着目しなくてはいけない。
これをもって「寛政重修相馬家譜」その他の編纂物の「5月下旬小田原に参候」の点を
デタラメと言い切る事はできない。
この書状の内容は義胤が5月29日以前の日の出来事を5月29日付けで出したとみることができる。
隆胤と黒木(門馬)上総が戦死したことを小高城に在城中に聞いて無念であるということを
田村右馬頭につたえたものにすぎないから。
5月29日まで義胤が小高城にいたとみるのは早計だよ。

852 :
>>851
>>「参候」と「参着」では意味が違う点にも着目しなくてはいけない。
反証するに史料を提示するわけでなく、
意味のないところに意味をむりやり作ってケチをつけてるだけだろ。
そもそも相馬文書に伝わった秀吉による禁制の朱印状が7月付けなのだから
5月下旬に相馬が小田原に着いてるわけがない。
それと兵部太輔・黒木上総守 越度無是非次第
この文章を持って討死したと解釈するのもどうかと思うがな。

853 :
個人的には5/29になってもいまだ小高城にいたとする書状の
年代特定が間違っていると思うがな。
実際は天正17年の書状を軍記の内容を信じて
兵部太輔・黒木上総守が討死した話と結びつけて天正18年としてるだけ。
さすがに小田原征伐最中の5月末にもなってバカみたいに戦ってるとは思えない
(しかも政宗も駒之嶺の守備配置を指示して小田原に向かってるのに)
ただ秀吉禁制朱印状の日付から相馬が宇都宮で安東ともども
秀吉に参陣してるのは事実として動かない。
それに反証できる史料がない以上は無理。

854 :
>>204
信濃に馬の牧場があり、馬が生活に密着して、馬術が発達しているのは事実

855 :
相馬氏の正史ってある?
伊達治家記録みたいなやつ

856 :
「ずんだ餅」って、相馬じゃ「じんだ餅」っていうよな。
お盆のときの御墓への御供え物の定番だよな。
その頃一番食うし、伊達政宗となんか関係あるのかな。

857 :
今の相馬氏って藤原鎌足の末裔だよね?
佐竹氏は上杉氏の末裔だから

858 :
>>855
江戸幕府に家譜を出してるのが、正史に該当するのかな?

859 :
義胤が関ヶ原で伊達方よりも佐竹方に付こうとしたのは
最上義光が伊達政宗に送った書状の中にそれを裏付けるようなものがあった。
「佐竹次第」と返答をしてきたのでもっと丁寧に対応するように
と義光が政宗に注意を促すような文章だったようだ。
これは私もうろ覚えなのでその辺は察してくれ。

860 :
野馬追あげ

861 :
今日明日だっけ

862 :
震災と原発事故の印象が強すぎて相馬にいいイメージがない

863 :
相馬氏が悪いわけでもあるまいに
この間、ニコニコで鈴鹿4耐見てたんだけど、利胤って子孫がライダーしてるんだね
それと平忠彦は南相馬の出身だったよね

864 :
20、30年後は広島・長崎みたいに復興してるさ。

865 :
>>860
自動車発明以来、中通りから飯舘村を通って南相馬の野馬追の会場に向かう
道路の交通量が最大になったと思われる。すごい渋滞だったらしい。

866 :
近衛の相馬本を読んだら、
1611年に大津波がきて、
田畑がボロボロになり
財産も流され
相馬700人死亡、
伊達1700人死亡、
家康が死んだ年も津波きたらしいな。

867 :
あの津波、常磐線がなかったら小高城跡まで届いていたかもしれないな。

868 :
>>866
読み終えたけども今いちカタルシスが感じられなかったのが残念。
義胤の奥さんは足が弱かったらしいから、そういうの生かせば良かったのに。
それはこれからのクリエーターたちの仕事かもね。
津波関連と奥州仕置あたりの豊臣秀吉、関ヶ原後の本多正信との絡みは
創作だろうから真に受ける気はないけど、もっともらしくて面白かったよ。
作者が気に入ってるのか、水谷さんのセリフが多くてちょっと吹いたw

869 :2012/10/27
義胤の奥さんは足が弱い?
どちらで知りましたか?
参考までに教えてください。
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