2012年09月戦国時代146: 【佐竹・江戸】 常陸の戦国大名2 【小田・大掾】 (274) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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【佐竹・江戸】 常陸の戦国大名2 【小田・大掾】


1 :2011/11/23 〜 最終レス :2012/10/03
立てた。
前スレ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156093325/l50

2 :
立った。

3 :
あーあ、たてちゃった
せめて「常総の戦国大名」「茨城の戦国大名」にでもすればよかったのに

4 :
[     ]   源  高基(足利)
[  ]拾疋   源  義明(足利)
[ ]佰疋    源  義篤(佐竹)
弐百疋    源  政治(小田)
佰五拾疋   藤原通泰(江戸)
佰疋      藤原政朝(結城)
佰疋      源  勝貞(菅谷)
佰伍拾疋   平  宗幹(真壁)
佰疋      藤原政長(小山)
佰弐拾疋   平  忠幹(島崎)
佰疋      藤原忠綱(宇都宮)
七拾疋    多賀谷家重
伍佰文    源  治頼(土岐)
伍佰文    藤原治持(水谷)
伍佰文    平  由隆(岩城)

5 :
国安氏って山入嫡流の生き残り?

6 :
スレタイが何だろうと結城の話は絶対に出る。

7 :
トキ鯖 乙

8 :
早くも下野の方に差をつけられたな。

9 :
ま、佐竹や多賀谷の専門スレあるからね。
基本、小田、江戸、真壁はそれらでことが足りるから。

10 :
こっちもがんばれ
>>9
大掾も入れてやれよwww

11 :
何だか結城と旗下の話題を、ここじゃなくて下野スレでやってるしw
>>8-9の諸氏の中で、まともに史料あるの佐竹だけだからな〜

12 :
>>9
江戸氏は旗本として生き残ったんだっけ?

13 :
いや、江戸宗家は小田氏と同じく越前松平氏の元に逃れた
あまり判然とはしないが越前松平氏の家臣になったようだ 

14 :
常陸で本領を安堵されたのは水谷氏くらいじゃない。
水谷ネタ、下野スレで盛り上がってるな〜。

15 :
越前松平はどれだけ常陸の滅亡氏族の受け皿になってんだ?

16 :
岡見氏家臣の栗林義長って実在の人物なの?
もしいたとしてもぜったい孔明並みの活躍なんてしてないだろうけど。

17 :
>>15
野村再生工場の先駆けだよ。

18 :
下野は佐竹スレみたいなのが他にないから伸びるんだろ。

19 :
>>11
ん?小田・江戸て戦国大名としては滅亡しても
お家が滅んだわけじゃないのに史料残ってないの?
越前松平とその分家には小田・江戸+春秋・多賀谷が仕えたはず

20 :
越前松平は分割されちまったからな
あの混乱の中で三河系も北関東系もまともな資料残ってる家臣少ない

21 :
>>11
真壁文書が残ってる真壁氏は小田や江戸より大分マシでしょ。

22 :
佐竹=常陸太田
結城=結城
小田=筑波
大掾=鹿嶋
江戸=水戸

23 :
越前家解体の中で皆様どこへ配属されたの?

24 :
>大掾=鹿嶋
は冗談だよな?

25 :
佐竹=常陸太田
小野崎=山尾
江戸=水戸
笠間=笠間
真壁=真壁
大掾=府中
鹿島=鹿島
玉造=玉造
小田=小田
菅谷=土浦
岡見=牛久
土岐=江戸崎
多賀谷=下妻
相馬=守谷

26 :
>>25
> 相馬=守谷

ここは知らなかった

27 :
>>25
下館のおうちはどうした?

28 :
水谷氏は天領となった笠間城も預かってたんだ。
結城家関連に、「水谷勝隆は笠間城を守り」とあったのを
下館城の間違いじゃない? なんて思っていたのだが…。

29 :
>>27
そういや下館も常陸だったか
水谷=下館
太田=片野
梶原=柿岡

30 :
>>28
> 水谷氏は天領となった笠間城も預かってたんだ。

それは知らなかったよ

31 :
>>21
真壁は庶流の長岡だっけ?にも家文書が残ってるからいいね
江戸・小田は水戸やつくばの市史に蒐集されてないの?

32 :
「史料ない」ってのは
「全くない」という意味じゃなくて「少ない」という意味だろjk

33 :
>>32
誰も全くないなんて文脈で話してないけど

34 :
>>31
江戸氏や小田氏は宗家がどうなってしまったのか分からないのだよ
江戸時代初期に越前松平氏に仕えていたのは間違いないけど、その後どうなったのやら
文書は宗家が所有しているはずだから子孫がいるなら名乗り出て欲しいものだ

35 :
>>28
寛永系図のなかに
「慶長14年に開かれた能に諸大名が招かれたが、
なぜか水谷家と皆川家が座る桟敷が用意されていない。
で、本多佐渡や大久保相模守が
『両家は笠間城の番も勤める、関東では欠かせぬ忠臣』
と慌てて席を作った」という挿話があり。
当時水谷家が笠間城を一時預かりしていたことが分かりました。

36 :
茨城県史料の県外文書が福井や島根まで行くのを待ちますか
今のペースでも50年も待てばさすがに福井まで行くでしょうし

37 :
50年・・・
とても待てません('A`)
福井県資料に収録されていないのだろうか

38 :
小田家伝来の具足どっかのサイトで画像見たような

39 :
小田関係で家記とか軍記の類は結構あるけど信頼性の低いのばっかなんだよな。

40 :
何故、我らが島崎氏=潮来を蔑ろにする。
島崎盛衰記、おもろいよ。

41 :
信頼性低くてもあるだけマシじゃないですか
語られもしない方々もいるんですよ!

42 :
なにで読める?>島崎盛衰記

43 :
>>42
県立にも国会図書館にもないくせに潮来とか行方の市立図書館にあるのは知ってる。
俺も「行方軍記」共々いずれ見てみたいとは思ってるんだが。

44 :
江戸旧記、行方軍記、烟田旧記、島崎盛衰記、鹿島治乱記
何気にどの勢力も軍記持ってるよな

45 :
烟田旧記は軍記じゃないってば。

46 :
小田家だと配下の『菅谷軍記』とかもあるしな。結城家臣系では
『多賀谷旧記』『水谷蟠龍記』。江戸崎の土岐氏系はないな。

47 :
結城御代記
結城家之記
水谷蟠龍記
水谷家由緒書

48 :
小田家の軍記はせっかくの軍記なのに負け戦のオンパレード。
とにかく勝ち戦なんて無かったという事だなぁ。

49 :
でも軍記だと荒武者いっぱいで強そうではある。
ところで氏治の勝ち戦である三村の戦いの詳細ってどういう史料でわかる?

50 :
何度かある小田城奪還成功を勝ち戦とするなら言われているほど負けばかりではない?

51 :
正面から軍事力で城を奪い取ったというわけでもないからな〜。
小田城を奪った佐竹や結城が占領軍を駐留させる余力がなく、
さらに農民が年貢を渡さなかったことから、
仕方なく撤退していったという観がいなめない。
特に結城家は結城合戦で一時家臣団が解散しているから兵力が
とにかく少なかったので、小田領維持は不可能だった。

52 :
それゆえ破却が望まれたのだな。

53 :
むしろ真壁や太田親子に奪われたのが悲しい
あの辺りはせいぜい1〜2万石程度だろう

54 :
もっと小さい。数千石でしょ

55 :
>>51
> さらに農民が年貢を渡さなかったことから、

なにげに頑張りを見せたんだな

56 :
天庵様は自国の領民が1人殺されたら相手の領民10倍Rぐらい領民思いだからね

57 :
>>55
東国の百姓は自主性が高かったみたいね。
多賀谷と北条との最前線となっていた村では
百姓が両家にそれぞれ半分ずつの年貢を納める
半手取りとしていたらしい。
しっかり略奪から守ってくれない領主には
年貢を納める義理はないってことだね。
>>56
だから小田城を本拠にしたんだろうね。
防御には向かないけれど、領土を治めるには
最適な土地に腰をすえ、領民を守ろうとしていた。

58 :
小田城は守りにくい地形のところにあるなあ。
行政のための役所おくには良いが、軍事要塞おく場所ではないかも。

59 :
>>53
>>54
真壁は義幹が入った柿岡を合わせて
四、五千石程度じゃなかったっけ?

60 :
そういや小田領は何万石あったの?

61 :
100万石w
ttp://www.asahi-net.or.jp/~ku4t-tkhm/odaichimonkafuutype2.html
数字は当てにはならんが宍戸他に比べるとでかいな

62 :
>>61
これは通算での話しだね
同時期にこれ全部が支配下にいた訳ではない
真壁の城領は4571石となっているな
小田は天庵様の家督時で洞中含めて20万石程ではなかろうか
太田親子や江戸崎土岐なども含めての話しね

63 :
まあネタ投入もかねて

64 :
>>61
真壁が二万五千石で過大だし、全体的に水増しだろうね。

65 :
真壁は石高の割りには、軍事も外交もそこそこやる印象があるのだが。

66 :
久幹一代でかなり頑張った感じ。

67 :
菅谷軍記
多賀谷旧記
結城御代記
結城家之記
水谷蟠龍記
水谷家由緒書
奥羽永慶軍記
長倉状
長倉追罰記
常陽四戦記
江戸軍記
後藤氏旧記
薗部状
徳宿軍記
鹿島治乱記
島崎盛衰記
行方軍記後世鑑
柄ケ崎軍記
常陽唐崎合戦
三十三館由緒書
井関氏由緒書
胤信筆記

68 :
天庵「『常源譜略』『常東野語』が忘れられておる…」

69 :
常陸北部の最大勢力は佐竹で決まりだけど、
南部は多賀谷ってことになるのかな?
天正年間あたりだと…。

70 :
天正17年頃になると
多賀谷>小田>大掾
と言った感じか

71 :
超マイナー質問
大じょうのじょうて漢字出し方わからない…

72 :
エンで出ない?
自分は大掾で辞書登録しとくよ

73 :
>>72
出ないすね。なんででしょ。似たようなのは出るんですが。

74 :
茨城ってひこにゃんみたいなのはいないのか?

75 :
ハッスル黄門さま・・・

76 :
>>67
結城御代記をざくっと読んだけど、
資料として水谷家由緒書を多賀谷旧記を
参考にしているため、かなり両家に気をつかった表現になっているのが
おもしろかった。書かれた背景や目的によって、
家伝書は体裁がかわってくるんだと納得できた。



77 :
>>75
なんで茨城はハッスル黄門とかぼくでんとか爺ちゃんばっかりなんだよ?
というか水戸市の戦国大名といえば江戸氏だし、常陸の勢力ではかなり頑張った方だから
ハッスル重通にすべき。

78 :
>>77
重通とかハッスルし過ぎだろw

79 :
確かに江戸氏はハッスルし過ぎて滅亡した感じだなw

80 :
江戸氏は旗本となって生き残ったのではないか?

81 :
宗家は越前松平氏に仕えたけど詳細不明

82 :
難しいね。血筋さえ残れば滅亡ではない?

83 :
本貫の地を取られて落魄したら滅亡だろ
芦名も滅亡だし

84 :
>>83
それでいいんだよな。再起無理だし家臣団もいないし。

85 :
葦名はどうだろう
正式な大名ではなかったものの、内大名として存在していたし
家臣団も基本的に会津時代の家臣で構成されている
佐竹とは別に将軍に拝謁してるし、官位も受けていた
滅亡と言えるかどうか
まあ、大名としての葦名は間違いなく滅亡したけど

86 :
大名ではなくなったけど
寄合い旗本として幕政にもかかわっていた
水谷家も滅亡?
鬼平を陰から支えていたのも水谷家らしいけど

87 :
>>85
「家」は残ったということだと思う。

88 :
>>86
どの辺が滅亡なの?

89 :
>>88
83の滅亡定説によるとそうなっちゃうのかなってこと。
でも、寄合い旗本は3万石、5万石の外様城持ち大名と
同等の家格だって説もあるんだよね 

90 :
>>89
家臣団が綺麗さっぱり離散したの?

91 :
>>86

滅亡ではないが、紅白歌合戦に出場したこともある往年の人気歌手が
地方都市のホテルのディナーショーで細々と稼ぐ光景に似ている。

92 :
人それを落魄という

93 :
おいおいその認識は間違っているぞ!
地方のディナーショーの方が莫大な利益が出る
テレビ出演とかは宣伝になるが利益が出ない
往年の人気歌手はテレビ出演の旨味が無いのでディナーショーに力を入れる
北島三郎や松田聖子とか好例だな

94 :
ズレてるよ

95 :
小田氏治
「100万回やられても、負けない」

96 :
>>95
あんたは100万回やられ負けてるwww

97 :
戦闘で負け続けてもなかなか滅亡しなかった大名もいるな。
九州では少弐氏とか。

98 :
手這坂合戦以降は領民の心も離れちゃったのかな?

99 :
小田氏治
「100万回負けても、あきらめない」

100 :
>>98
いや、小田城は失ったけど5kmほど南東の土地に移ってしぶとく小田城奪還を狙ってた
小田原征伐のどさくさに挙兵して小田城に攻め込むのはさすが天庵様と言うべきセンス
しかも負けてるし

101 :
>>97
少弐ってほとんどの当主が戦死してるんだっけか
すごいよなあ

102 :
小田家関係の史料ってまとまって残ってないの?牛久市史料とかである程度集められてるのは
見たことあるが、もっとあるだろうし見てみたい。

103 :
宗家がわからないって越前とその分家には小田も江戸も上級藩士で残らなかったてこと?

104 :
小田氏治
『はいあがろう「 負けたことがある」というのがいつか大きな財産になる』

105 :
>>103
江戸(水戸)氏は200石ぐらいで越前に残ったけど小田氏は不明
つくば市の寺には近代までの小田氏系図が残されているから恐らく筑波に戻って帰農したのではなかろうか

106 :
寛延三年に氏治子孫の成朝という人物が藤沢村の松岳寺で百五十年遠忌を行っているというから
そのときのかな?水戸家への出仕を希望したり小田旧領の神社に行ったり旧臣とあったりもしていたらしい。

107 :
ちなみに氏治の庶子友治の子孫なので宗家のことではない。

108 :
なるほー
友治の子孫は史料もってないのかな

109 :
>>107
それとは別みたい
系図があるのは大島村の善照寺と言う寺らしいけど、そちらは守治の子孫
でも、そう考えると守治系も友治系も結局は常陸へ戻ってきたと言う事か
帰農する際に姓を変える事も割とあるから小田氏も姓が変わってるのかもしれないな

110 :
いや、友治の子孫は先祖ゆかりの地を訪ねただけで帰農していないよ。
父と同様に伊予松山藩で軍学(小幡家に学んだ甲州流)を教授したとのこと。
そのあたりについては『常源譜略・常東野語』の解説参照。

111 :
教官なら中級藩士か

112 :
藩士ではないんだ。つか、小出しにするネタでもないからその辺りをまとめて引用しよう。
『常源譜略・常東野語」P83
「成朝はその頃小田太郎左衛門成朝と称し、たびたび旧領小田に行ったらしく、延享二年には
「天庵公尊像覚書」を藤沢村に残し、また小田村の牛頭天王の神主長(永)戸豊後や小田の旧家臣に
会ったりした。
 明和六年(一七六九)松山候の書籍師範として出入りし、出入扶持として十五人扶持を
もらい、同年参勤交代のお供をして伊予の松山に行き翌年帰府したが明和九年二月二十五日、
六十九歳で卒した。法号は大器院文翁貫道」
松山に行ったころは「物頭格軍師役仰せつけられ、二百石以上たるべき」という噂があったらしいが
結局それはかなわなかった。

113 :
おっと、その前の段も出しておかないと。
「しかし、水戸家出仕の運動は徒労に帰した。成朝は松平隠岐守をはじめ、南部候・毛利候などに
甲州流の兵学などを講じ、何がしかの扶持をもらっていた。
 寛保三年(一七四三)に「常東野語」を写し、延享四年(一七四七)に「常源譜略」を写し、
寛延三年(一七五〇)に、常州藤沢村の松岳寺で天庵の百五十遠忌を行っている」

114 :
先祖も子孫もパッとしない生涯だったんだねえ〜

115 :
鎌倉〜戦国まで生き抜いただけでも大したもんだよ。

116 :
まあ、大概は戦国時代まで生き抜いたけど

117 :
そうでもないよ
南北朝で結構滅亡してる

118 :
結構と言うほどいたっけ?
那珂氏ぐらいしか思い浮かばないけど

119 :
八田(芳賀)友重の子孫か。

120 :
パッとしなくても明治維新まで生き残った大名は立派だと思うね。
日向の伊東とか。

121 :
氏治のせいで小田氏全体が過小評価されすぎだな。

122 :
常陸三大勢力の1つなのにな
小田氏は室町政権下でも棟別銭の賦課など守護大名に近い権限を有していたし
大掾氏も同じく権限を有していて大掾職はいまだ健在だった
佐竹も守護大名に復帰していたが、守護の権限が及ぶのは奥七郡のみであり
常陸は大まかに見て三分支配されていた

123 :
小田氏には客将として御世話になったので、
恩があります。

124 :
太田氏乙

125 :
私の父は小田氏治の嫡男・小田友治です。
父友治は母が家臣・芳賀氏の女だったため、祖父に嫡腹の男子・守冶が生れると廃嫡されましたが
それを怒った外祖父並びに家臣に伴なわれて相模に赴き、北条氏康の庇護を受けて小田小太郎を名乗り、
母方の一族で北条氏に仕えていた垪和氏の婿になりました。
父は武勇にすぐれ、北条氏にあって祖父氏治や叔父守冶をよく助けましたが、
やがて北条氏も滅び祖父や叔父も所領を失いました。
祖父と叔父は旧臣の今田氏を頼んで秀吉公への仕官を試みたようですが、佐竹氏と敵対していたため叶わず
結城秀康様に召されたのち越前国で病死しましたが、叔父の息子・善治は出雲国松江にいるそうです。
私の父は秀吉公への仕官を母方の従兄弟速水氏を頼んだところ、小田氏の惣領に紛れもないと名跡を許され、
秀次公に召されて伊勢国員弁郡羽田村に所領を賜い、羽田に因んで八田左近と改名しました。
(略)
私には福島正則に仕える同腹の兄もありましたが、兄は先年広島で亡くなりました。
兄には子がなく、伝来の家宝や書物を大坂落城で失いはしたものの、家名だけは私が受継ぐこととなりました。
私は幼少のおり、北条氏の家臣・宇都宮氏の養子となって宇都宮氏を相続しましたが、
養父に実子が生れたため、義弟に家督を譲り小田に復しました。
関ヶ原・大坂両度の合戦では徳永寿昌に武具を借りて槍働きをしています。
詳しいことは後々述べさせてもらいますが、秀吉公にも認められた小田氏嫡流のこの私を、どうかお召抱え下さいますよう。
小田友重。

126 :
うそくさすぎて
友治の子孫が小田家の証文持ってないのも当然か

127 :
前スレじゃあまり目立たなかった小田氏の話題が多いな。

128 :
中郡のあたりはどんな勢力図になっていたんだろう?
笠間家や益子家、結城家の出城が散在してるのは分かるが
何家が優勢だったのかが微妙に分からない。
特に岩瀬あたりは何家の勢力範囲だったの? 真壁家?

129 :
旧岩瀬町の平沢に佐竹家臣になった愛洲氏が入って平沢氏になったみたいだが、
それはさすがに戦国の後半だろうしなあ。

130 :
>>129
あの辺りにも佐竹の家臣がいたんだ。
佐竹、結城、宇都宮がそれぞれにらみ合ってた地域だったのかな。
だったら、太田三楽と水谷正村の軍事衝突も実際にあったかもしれないね。

131 :
真壁が佐竹家臣となるのも文禄の頃よりだし、愛洲氏が入るのも
戦国というよりは文禄以降かもしれんね。

132 :
多賀谷氏は常陸?下総?

133 :
下妻は常陸国。

134 :
小田治孝・顕家・治算って実在したの?

135 :
>>130
ちょうど岩瀬町の中間辺りで益子氏と笠間氏の領域に分かれていたようだ
両氏とも宇都宮洞中だけど独立性が高かったから戦が絶えなかった
すぐ南には真壁氏がいたけど、こちらは余り争った形跡がない

136 :
真壁家の家伝だと久幹のとき宇都宮氏らと境界争いがあって坂戸城(旧岩瀬町)などを
落としたようなことが書かれている。本当かどうかは知らないがね。
ややこしい地域であったには違いなさそう。

137 :
噂の!東京マガジンで牛久市、小坂城の土地取得問題を取り上げてた

138 :
かすみがうら市のあの天守閣は何なの?

139 :
資料館だよ
出島城だろ?

140 :
所有者が城地を数百万円で市に「買わないか」→市が断る→不動産屋に売却→市長の親族が不動産屋から2千万円(市長の親族ソース)で購入→市が市長の親族から6300万円で購入

141 :
>>140
本当なら大問題じゃん

142 :
>>141
だから、テレビ番組や新聞報道になるんでしょ

143 :
益子氏配下に青柳氏っているの?
祖父が亡くなる前に本当なのか調べたいんだが なかなかヒットしない…
本家は岩瀬なんだが

144 :
>>143
『関八州古戦録』の巻十二の笠間氏の益子攻めのところで
青柳豊後守・同肥前守という武将が出てくるよ。

145 :
『常陽四戦記』にも「青柳豊後・同肥前」「両青柳」として同じエピソードに登場。
同輩の伊達出雲という人物が討ち取られる場面はあるけど両青柳氏の運命は不明。
つか、普通に検索したら本貫地らしいところが出てきたよ。
http://sakuragaworld.com/modules/tiny06/index.php?id=17
桜川市岩瀬の範囲だし、ここじゃないのかな?
http://maps.google.com/maps?q=%E6%A1%9C%E5%B7%9D%E5%B8%82%E3%80%80%E9%9D%92%E6%9F%B3&hl=en&ie=UTF8&geocode=+&hnear=Aoyagi,+Sakuragawa,+Ibaraki+Prefecture,+Japan&t=m&z=15
ちなみにこの合戦が行われたのはこの四つ榎神社の北だとか。
http://maps.google.com/maps?q=36.361621,140.134478&num=1&t=m&z=16

「玉陰橋の血戦」
http://sakuragawamj.com/?page_id=1946
>四ツ榎稲荷神社から北へ少し歩くと、磯部集落との境に幅三メートルほどの小川が流れ、玉陰の橋といわれる橋が架けられている。
>この橋は幅狭く、多勢では渡れないため、川瀬を退く味方を不甲斐なく思った富谷方の青柳豊後・青柳肥後の兄弟は、大音声に
「去年の今日も貴殿方の首を申し受けたり、今度もまたこの川を越えさせず皆殺しぞ!」と叫んだ。

146 :
>>144 145両氏
ありがとうございます
(m´・ω・`)m
うちのご先祖様らしいです
文献にでてくる青柳兄弟以外にも
青柳和泉守という方も先祖だというのですが…
青柳和泉守って佐竹氏の配下みたいです 益子氏と佐竹氏の手下だったっと言うことなんでしょうかね…
祖父が自分で調べた情報だとよくわからんのです

147 :
>>146
「佐竹家臣系譜」には青柳和泉は「名乗不知元来佐竹御譜代之由」とあって
元々佐竹に仕えていたようなので岩瀬の青柳氏とは別系統では?
http://www1.odn.ne.jp/~vivace/kakunodate/kbukeyashiki.htm
こちらには青柳和泉は元亀元年に佐竹義重の側近となったとあるが
前述の桜川の戦いは「古戦録」によると天正十二年五月。
ちょっと関係があるとは思えない。
この青柳和泉は水戸の青柳に土着した平姓の馬場氏庶流青柳氏の子孫でもないらしい。

148 :
>>147
ありがとうございます。
祖父が調べた所でわかるのは
青柳氏の子孫
家紋は丸に笹竜胆紋 源氏の流れ
本家は岩瀬の青柳
現在の姓は天○谷
磯部稲村神社に繋がりがある
大叔父が独自で調べたのは青柳和泉守の子孫ってだけで何処からの情報だかも解りません
大叔父は既に故人でして詳細は不明です
上の方々殿
多大な情報ありがとうございます


149 :
ここの碑の写しに青柳和泉守の名があるわ。四十三代前の先祖だとすると
佐竹義重時代の和泉守とは別人ではなかろうか。
http://www.harusan1925.net/0204.html
昭和四十四年四月
           磯部稲村神社宮司    磯部 祐親
           青柳和泉守後裔四十三世 天○谷政男
           青柳区長        青木  茂  代建立   」

150 :
>>149
おお!
正に親戚(本家)の名前です
佐竹氏の青柳とは別ですか(;^ω^)
酒飲む度に角館の主の子孫だと自慢してた大叔父が生きてたらショックをうけてたかもしれませんねwww


151 :
小田とか真壁とか、どうしてあの辺りは平城が好きなんだか?

152 :
篭城目的の要塞ではなく、治世のための行政府としての
機能を重視したからじゃないの?
それに山は曲輪を開くのが困難な筑波山系しかないし、 

153 :
常陸の城郭は古い時代の物が多いからな
防衛拠点と言うより居住・行政地である屋形(屋敷)として造られたものが多い
時代が下り南北朝などの騒乱が続くに連れて屋敷の周りに土塁や堀を増築していき城郭として体を為していったが
元々居住性を優先させた土地だから要害性は低い
それに他の土地にも言える事だが、本拠地より外で防衛するのが基本だから
居城から離れたら重要地点や国境線の要害の地に協力な城を建てて
本拠地は居住性を捨ててまで移転する事はなかったようだ
特に常陸下野陸奥辺りは本気の潰し合いが滅多になかったしね

154 :
取られても奪還すればいいみたいな考え方あるんかね? 小田とかの話を読むと思うんだが。

155 :
多賀城の創造復元図を見たことがあるが
役所の建物と倉庫を策で囲っただけという感じだったな。
周囲に水掘をめぐらしているわけでもなく
あれは防御力低かったと思う。

156 :
木の柵で囲っただけ、の誤り。

157 :
小田城って北朝方に包囲されても持ちこたえられるくらいの
防御力はあったわけだからそれと一緒にするのはどうかと。

158 :
>>151
あのへんは中世は半湿地帯みたいなところだから、防御には堀を巡らせるのが一番なので、下手に高台に
城築くより平城のほうが防御力がある。

159 :
>>158
泥田の中にある小城は意外と攻めにくいというね。

160 :
でも小田城は微妙だよな
他の沼地や湿地に築かれた城の場合、主郭は高台になっている所が多いけど
小田城は高低差が殆どないし、逆に周りに高地がある
どう考えても北條の多気か平沢を本拠にした方が良かったと思うけど

161 :
>>160
> どう考えても北條の多気か平沢を本拠にした方が良かったと思うけど

そう思うが、当時は地形が現在と異なっていたのかもしれない。

162 :
小田の名族意識が先祖代々の地を動くのを許さなかったのかもね。

163 :
よく考えると戦国時代に本拠地移した大名はレアだな
常陸だと・・・思い浮かばん
割りと新しいのは江戸氏の水戸城進出か
あと、水戸を追い出された大掾の府中移転

164 :
郷土史こんろん書房の本で「水戸城は炎上したことがある」と読んだことがあるが、これは江戸氏時代のことかな?

165 :
小田氏治が小田城を梶原政景に与えた例くらいしか思い浮かばない。

166 :
与えたってw
しかしまあ、天庵様も憐れと言うか間抜けと言うか
梶原政景に柿岡城を与えたのに、逆に小田城まで取られてしまうとは
正に軒を貸して母屋を取られると言う奴だな

167 :
あのね、うち下館なのね。
でさ、筑西市の婦人会に出かけたおふくろがさ、
「明野の人は下館の人を目の敵にする」なんて愚痴ってるの。
なんで、「明野は小田領だったから水谷領の人間を嫌うんじゃね」
とかテキトーに言ったら、後日「あんたの言ってたこと当たってたわよ」
なんていうわけ。いまも戦国時代の住民感情が残ってるんだ。
すげーって思ったよマジで。

168 :
小田の人も八郷・真壁・結城、あとは新潟から来る人のことを目の敵にしてたよ。

169 :
小田は常陸の国中は勿論のこと今の千葉・東京・埼玉から人々を強制連行してきて、
奴隷農民にして死ぬまで働らかせていたからな。
守護佐竹氏がいなかったら今ごろは・・
ところであの辺は春くらいしか行ったことがない実際小田より小野じゃね?

170 :
>>167
南部と津軽はもっとガチ。

171 :
目の敵なんて大袈裟だろw
うちの辺りは天狗諸生で激しく戦ってたけど、今となっては微塵も関係ない
そもそも北部の人は佐竹とか名前も知らない人が大半だし
小田とか知ってる人は城下周辺ぐらいだろ

172 :
>>167
うちも筑西だけど、そんな話聞いたこともないなあ
たまたまその人が昔の話にこじつけて御袋さんを苛めただけなんじゃね?

173 :
>>170
そりゃ戦国時代の対立関係を保ったまま江戸時代も国替えがなかったもんな。

174 :
近ごろ小田氏に様付けしている人がいるから気持ち悪いと思ったんだよね

175 :
どこも様付けはしてると思う
むしろ呼び捨てにするよになったのは最近かと
年寄りはだいたい様付けで呼んでいる

176 :
殿様は別格だからな。

177 :
鹿行地域は佐竹に対して今も悪感情があるってのは
本当かね?

178 :
そういう人がごく少数いるってのは本当だろうが、そもそも佐竹なんて知らない人ばかりだと思うw

179 :
知ってる人がいるとしても郷土の昔話とかを読んで知ってるとかそんな程度だと思うんだが。
先祖代々佐竹への憎悪を吹き込まれてきた人なんていないよねw

180 :
偏狭な小田厨は駅にだけは来ないでね
しゃれにならないから

181 :
そもそも殺された人の子孫でもなければどうでもいい話しだろう
大半が無関係なのに何で鹿行の住人がみんなで佐竹に憎悪抱かなきゃならんのだという話しでw
自分は実家が那珂郡だけど、先祖は小田原北條氏の配下だった
北條氏没落後に佐竹氏の配下になって、転封の際に常陸に残って水戸徳川氏の支配下に入った
佐竹と北條と言ったら仇敵だけど、当時でさえ別に敵だから憎いという事でもなかったのだろう
まあ、よく考えると敵側に仕官するなんて珍しくもない話しだな

182 :
先祖は○○だった、という人は物凄い数いるよな。

183 :
なんかそれだけで盛り上がれる人は幸せだよね。

184 :
盛り上がる話もない幸せじゃない人か。

185 :
いまでも恨み辛みを持ってるとかいったら、幕末の強硬派と穏健派の報復合戦のほうが凄いんじゃないの?

186 :
スレチなんだけど、ぼくおじゃまさせてもらいます m(_ _)m
今、ぼく行方不明中なんです・・・
ぼくのことを心配している人たちも頑張っているのだけど、
もっと、もっと、沢山のひとにしってもらわないと見つからないんだって・・・
ぼくの動画もあるんだよ・・ttp://youtu.be/IERsFdY104E

かわいいチラシもあるんだよ。とっても見やすいの・・見てください。
      ttp://sakuraweb.homeip.net/uploader/src/up175653.pdf
ぼくのことを検索してほしい・・みつけてほしい・・おねがいします・・・
                   行方不明中の九州盲導犬協会所属 盲導犬アトムより
 
 ★「盲導犬とのよりよい暮らしを考える会のブログ」 で、署名活動をしています。
   ご協力の程、宜しくお願い申し上げます。
    ttp://ame※blo.jp/mo※udouken※-yori※yoi-ku※rasi/
  直接URLを貼るとはじかれてしまいました。
  ※を省略していただけませんでしょうか。
  重ねがさねお手数をおかけしますが宜しくお願い申し上げます

187 :
美浦村の木原城を見てきたけど、なかなか良い城だ
小幡城と木原城は常陸屈指の城郭だな
小田城も復元が進んでいるようで完成が楽しみ
茨城町も小幡城を復元すればいいのに

188 :
随分マイナーな中世城郭(家臣の城)のジオラマだ。
沼地に突き出た台地の要害に築かれた土の城だ。
大きさも500o×330oで卓上サイズで手ごろな感じ。
博物館仕様で作らせただけあって見事なできばえだ。
http://saikatsutramway.sakura.ne.jp/saikatsu_tramway/furumaki.html

189 :
小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など
【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10

190 :
>>187
> 茨城町も小幡城を復元すればいいのに

ジオラマだけでも復元してほしいよな。

191 :
石垣も天守閣もないんだろ。大した城じゃないじゃん。

192 :
歴史マニアは石垣や天守が見たいわけではない
城が見たいのだ

193 :
土塁があればそこそこは戦えるはず。

194 :
模擬天守より遺構にハァハァできれば一人前

195 :
やはり城と言えば土塁と堀だな
土塁の美しさは格別だ
山地に行くと田んぼや畑の土手でも思わず見とれてしまう

196 :
朝日新聞プロメテウスの罠で青森県がむつ地方の再開発に失敗して
核燃料再処理基地になる過程を追っていて
青森県の失敗に対比して茨城県鹿島の再開発が成功例として触れられていた。
岩上二郎って知事さん。

197 :
天庵様のお膝元が酷い有り様だね(´・ω・`)

198 :
>>197
小田氏は気象兵器を開発していたんだな。

199 :
>>198
自分の領地を破壊してどうするの(´・ω・`)

200 :
天庵様じゃなくて天災様だな

201 :
筑波北條氏は小田に反抗的じゃなかったっけ?
軍記物では真壁・太田・梶原あたりと組んで小田と戦ってるが。
しかしひどいことになったもんだ。文化財級の古いお屋敷も大分やられたんだろうな。

202 :
あの辺は割と新しい住宅街や工業団地だから
文化財級はなかったんじゃないかな。
そういえば水戸の徳川光圀の墓は
去年の震災で 地 盤 ご と 移動していたんだと

203 :
正直、自分の中でさらに上の神郡と混同してたフシがあった。
北條にも古いお宅結構あるんだけどね。
http://magok.cool.ne.jp/tsukuba.html

黄門さまのお墓は大地全体が動いただけなので影響はない(キリッ
って感じかな。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/eq2011/news/etc/20120421-OYT8T00269.htm

204 :
テレビで見たら結構壊れてた感じだけどな>光圀稜
つくばの辺りも結構旧家があるからなぁ
破壊されるのは惜しい
小田も家が密集してるけど、あれってやはり小田の旧臣の家が多いのだろうか

205 :
中世にあんな竜巻きたら

206 :
昔は掘っ建て小屋だから瞬殺だろうね(´・ω・`)

軍記物読んで知ったけど
車丹波って胡散臭いけど、戦では大活躍してるのね

207 :
軍記物だからね

208 :
車一揆で有名になることがなかったら到底あんなに活躍した武将として
描かれることもなかった程度の人じゃないかと思うが。

209 :
だが、インパクトは強い
変な行動してるし
佐竹→浪人?→佐竹→岩城→佐竹→蒲生→岩城→上杉→佐竹?

210 :
いくら戦国でも不審すぎるなw
困ったら佐竹に戻ってるのかスパイなのか。

211 :
人材派遣?

212 :
http://www.sakigake.jp/p/odekake/event/info.jsp?PSqnum=35548

213 :
今月の歴史群像は笠間城だね

214 :
>>205
あれを自由自在に操れてたら天庵様も常勝不敗の軍神として、後世に名を残してただろうな

215 :
そんな天庵様は天庵様じゃないやいw
やっぱり領民の「守ってあげたい」心をくすぐる、
情けないけど憎めないお殿様でいて欲しい

216 :
大掾貞国ってなんで幹の通字が入ってないんですかね?

217 :
庶家出身

218 :
大掾慶幹の嫡子ってのは庶家出身なのかあ

219 :
状況から見ると慶幹の嫡子とは考え難いけど、実際のところはどうなのやら
どうにも貞国はよく分からん

220 :
鹿島氏の末期というか治時以降の当主は通字やめちゃってるんだよな。
あれはもう一族としての結束グダグダだからか。

221 :
慶幹の没後、義昌が嗣子になったが
三村にいた貞国が義昌を府中から追い出して、代わりに府中に入った
どうしてそんなことになったのか
「慶幹の嫡子」を押しのけて義昌を嗣子にするような明確な乗っ取りが行なわれたの?

222 :
いや、恐らく慶幹が亡くなった時点で貞国が家督を継いでいる
佐竹義昭の府中入りについては諸説あるけど
義昭が貞国の妹を継室として娶り、佐竹家の家督を義重に譲って自らは府中へ入り
名代として大掾家を取り仕切っていた事は間違いなさそうだ
佐竹家譜では、貞国が病により政務が取れなくなって妹婿である義昭に名代を頼んだのではないかとしている

223 :
義昭と慶幹の娘との間に生まれた子供を大掾氏の当主としようとしていたのではないか、と言う説もある
義昭は府中に入り、世継ぎが生まれるまで名代として大掾家を取り仕切っていたが
病を得て嫡子の誕生が難しくなった為に、弟の三郎を昌幹(後、義昌)と名乗らせて大掾氏の嫡子にしたが
義昭の死後、貞国らの反発にあって太田へ戻ったと言う説
この説だと、貞国は庶家か庶子の人間でないと辻褄が合わないが

224 :
佐竹北家第21代当主
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%95%AC%E4%B9%85

225 :
もうすぐ終わるから急げ。
http://www.sakigake.jp/p/odekake/event/info.jsp?PSqnum=35549

226 :
佐竹氏って大砲持ってたの?鹿島城を攻めるのに使ったとか何かで見たが。

227 :
大鉄砲の事じゃないかな
割りと地方大名も持っていた

228 :
http://www.fhaj.jp/archives/1016
>構造的な特徴として初期の砲は後装式で一つの砲に5つの子筒があり、
それを後部の箱状のくぼみに上から装填し、楔で固定し発射した。
従って弾丸は銃腔より小さいかバックショットのように小玉を固めたものだった。
大友家だけでなく佐竹家でも造られた。(上は道元流流派の絵図)

229 :
ぐぐると確かに鹿島城攻略に大砲を使ったと書くサイトはいっぱいあるけど
どうも出典が明らかじゃないな。

230 :
南方三十三館を全部書き出してくれよ。

231 :
ぐぐれ

232 :
鹿島

233 :
ほんとに三十三もあるのかよ?

234 :
あるんじゃない?
茨城には1000ヵ所以上の城館がある訳だし
鹿行なら30や40ぐらいあってもおかしくないかと

235 :
鹿島も行方も大して広いわけでもないのにひしめき合いすぎだな。
大掾氏系だけでもいっぱいなのに武田とか下河辺とか他姓の一族まで
入ってきてるし。
でも徳宿氏みたいに三十三舘仕置以前に佐竹に下ってた一族も多少いるでしょ。

236 :
山方篤定の謀略で殺害されたのが15人ぐらいだったと思う
半分ぐらいは佐竹に従ったと言うことだろうか

237 :
この人猫好きなのか?イメージには合ってるけど。
戦国武将小田氏と法雲寺展ってのだと実物見られたのかな?
http://blog-imgs-29.fc2.com/i/i/w/iiwarui/20100922204503f1d.jpg

238 :
あれは猫ではなくて虎だな。越後の虎も天庵様にかかればこのとおり、という意味が込められている。

239 :
鬼義重に対抗して猫氏治とかあだ名があればまた史実も変わっただろうな

240 :
肖像に描くからには何らかのシンボルというか意味があるんだろうけど。
まさか戦国武将がネコ好きだからという理由でこういう絵を残すとは思えんw

241 :
巻物と何か手に持ってるし、猫も意味はあるのだろうけど
現代の感覚では、単に猫好きなオッサンにしか見えないなw

242 :
左手は数珠かな?学問を好み信仰を厚くし猫が好き?
眠る猫ってことで禅語の「牡丹花下睡猫児」とかと関係あるかねえ?

243 :
どんなにキリってしても傍らで猫が安眠できちゃうくらい
殺気とか覇気がない人だった…
てことでは。

244 :
氏治さんが現代人から見ても意外とイケメンな猫好きのオッサン、って
ことはよくわかった。

245 :
思ってたイメージと違うな
もっとショボいオッサンかと思ったら
案外イケメンで渋いおじ様であった
見た目からすると無能そうには見えないね
でも、横でトラ猫が寝てる辺りが愛敬あって、やはり天庵様だなと思う

246 :
そのうち悪ノリ系の戦国ゲームとかに猫耳天庵が登場しそうで怖いです。

247 :
そういや萌えキャラ化にはもってこいだなw
喧嘩っ早いがすぐに負けるヘタレキャラで「はわわ」とか言って逃げる

248 :
>>237の渋いオッサンに猫耳がついたキャラか。

249 :
甲斐の虎 武田信玄 デデーン
越後の龍 上杉謙信 デデーン
常陸の猫 小田天庵 ミャー

250 :
越後には狛猫もいるな
狛猫ww

251 :
ぬこ神社作った島津さんに匹敵するかも。
つか天庵さんの人気に嫉妬…


252 :
犬派の太田三楽に分が悪いのは当然と言えよう。

253 :
そういや三楽斎は犬好きだったな
天庵様と不仲なのは当然だな

254 :
佐竹知事も猫派
プーチンに贈った秋田犬の返礼にシベリア猫を贈られた

255 :
天庵様学院甲子園で久々の勝利

256 :
玉造順一水戸市議

257 :
>>245
> 見た目からすると無能そうには見えないね

軍事的才能はともかく、他の才能はあったと思う。

258 :
芸道に通じていた氏真みたいな感じなのか?
何かその方面で名前が残ってるの?

259 :
このように何度追われても地元では人望があり、地元民の協力を得つつ、
土浦城の菅谷勝貞・政貞(子)・範政(孫)の菅谷一門やその他家臣団に支えられながらその後も
何度か小田城を奪い返すも、永禄12年(1569年)には佐竹義重と手這坂の戦いで敗れて居城の
小田城を再び失い、藤沢城に逃れた。
以後、小田城が氏治の居城となることは無かった。

          ↑

ウィキペディアにこうある。劉備や劉邦みたいな感じで、軍事的才能はともかく内政の才能はあったのではないか?
問題は劉邦と違って良い軍師がいなかったことかも。
まあ日本の片田舎だからそういう人材が見つからないのは仕方ないのだろうが。

260 :
具体的な内政の功績が残っていないとなんとも。
古くからの名門はたとえ本人に魅力が乏しくとも家臣団や領民が
支えようとするし。
それに氏治は「強み過ぎの大将」と形容されるような血気にはやって家臣の話を聞かないタイプなんだから
軍師がいようとその軍師の話を聞かないだけだろ。ただでさえ十分家臣団には恵まれていたんだから。

261 :
『伝真壁道無像』とよく似ている

262 :
確かに似てるかもな。どーむさんらしき人の方が体格がいいけど。

263 :
似てるな
実は道無ではなく天庵様だったり

264 :
伝承では狐の血を引いた今孔明が菅谷家中におったのにな
てか、いったい何人の今孔明が戦国期におったんじゃろうな

265 :
>>259
小田城は守りにくい城のように思う。
柳川城のような名城に住み着いていたら関が原までは粘れたような気がする。

266 :
栗林義長は菅谷じゃなくて岡見家中だろ。
伝承というか誰かが拵えた軍記物だけど。

267 :
>>265
小田城は余りにも平坦過ぎるね
周りが湿地といえども、忍城とかと違ってすぐ近くに山があるから付城造られちゃうし
絶対に北条の方が立地が良いとおもうのに何故小田に拘ったのか不思議

268 :
平時の政庁としては使いやすかったんじゃないかね、小田城

269 :
>>268
そう思う。交通も至便だしね。


270 :
乱世の奸雄にはなれなかったけど治世の明君になる素質はあったんだね♪

271 :
どうだろう
統治状況が分からんから何とも言えない
どちらかと言うと、謙信に奴隷として売り飛ばされたり佐竹や太田に焼き討ちされたりで酷い目に遭ったから
その反発で天庵様に支持が集まったのではなかろうか

272 :
描かれた人物が同じってんじゃなくて画の流派的なもんが似てるってね

273 :
http://www.city.sakuragawa.lg.jp/index.php?code=574
>この時期の関東地域には小田政治像、小田氏治像、武田信玄像など、伝真壁道無像と共通する技法がみられる。
そういや真壁家の覚書には武田信玄が真壁道無について語った話とかあるんだよな。

274 :2012/10/03
>関東地域に…武田信玄像
だれがなんのために描かせたんだろう
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