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2012年3月戦国時代14: 武田信玄の天下取りの難易度は高すぎ (602) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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武田信玄の天下取りの難易度は高すぎ


1 :
武田家相続時、甲斐20万国+金山 、飢饉・河川の氾濫で土地は貧弱
甲斐で同規模の力を持ち武田家と勢力を2分していた小山田家とは同盟関係で
小山田は北条氏と武田家を天秤に掛けていた
父信虎は中央主権化を進め、甲斐の国人達の反発に合い追放されて信玄が擁立される
つまり、クーデターを起したのは名門の板垣甘利飯富、その操り人形だったのが家督相続時の信玄
当時の武田家は、守護としての家柄しか価値がなかった。
父信虎以前の守護武田家は守護代跡部氏の専横で権力はなく無能
そんな甲斐の国を、敵対する国人や武田家一門と戦いフルボコにして統一したのが信虎
大暴れしたおかげで、国人に嫌われ追放される一因になる。

2 :
   ∩___∩         |
   | ノ\     ヽ        |
  /  ●゛  ● |        |
  | ∪  ( _●_) ミ       j
 彡、   |∪|   |        J
/     ∩ノ ⊃  ヽ
(  \ / _ノ |  |
.\ “  /__|  |
  \ /___ /

3 :
20万国あれば世界征服できそう。

4 :
秀吉は0万石からスタートしたんだよ

5 :
せめて信長が天下取っていたらこのスレも多少は信じる人がいたかもしれない。
現実は足軽階級出身の秀吉が取ってしまい大半の引き継ぎ大名が
「天下取れなかったのは甘え」と言われてもおかしくないくらいの待遇に

6 :
秀吉は天下なんぞ取ってない。
一時的に大勢力だっただけ。三好なんかと同じ。

7 :
信玄より難易度低い大名ってどのくらいいるの?

8 :
秀吉は0万石だから、大名全員という事になる

9 :
>>6
在日さんちーっす

10 :
秀吉は、そこにあるものを乗っ取って天下を取っただけでしょ

11 :
秀吉は天下なんぞ取ってない。
一時的に大勢力だっただけ。三好なんかと同じ。
豊臣幕府なんぞ開かれなかったんだから。

12 :
>>11
幕府なんてのは江戸も末期になってから使われだした単語だが
分かるかチョン君?

13 :
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ。

14 :
秀吉は天下なぞ取ってない。
徳川の太平の世が作られたというのが歴史的事実。

15 :
秀吉みたいなゴミ武将が関東に派遣されてたら氏直の天才的采配で戦死してただろーな

16 :
秀吉は卑怯だからな
人格的にも能力的にも三傑どころか普通の地方大名の器ですらないだろ
自分の無能も棚に上げて滝川をムリヤリ締め出したし

17 :
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。
まあ織田家にいなかったら埋もれてたのは確実だな
毛利は79年以降南条や宇喜多に足止め喰らわされてたしそもそも家中統制力が弱い原始的国人連合だからな
調略がうまくいったのもその毛利内で外様中の外様といえる
しかも秀吉は一夜城だの水攻めだのおお返しだの大げさな逸話が天下人になったことで過剰に伝わっただけの事だろう
あんなのは中身のないパフォーマンスみたいなもん。
おお返しなんて結局予めの準備あってやっとなせるわざだし
水攻めも時間や費用やらがやたらかかる上に紀伊太田や忍城、竹ヶ鼻城を正攻法で瞬できないのは終わってる
城の普請に関しても敵の眼前にすばやく拠点築くなんて特に珍しくもない
どこの大名でもやってる
貢献したといっても織田家中で考えるとごく一部分
織田が当主の能力や運、状況に恵まれたから拡張した要素の方が遥かに大きい

18 :
秀吉ははっきり言って過大どうこうのレベルじゃないな
下手したら凡将。よくて普通の良将。奥州で言えば石川昭光、二階堂盛義レベル

19 :
徳川家臣団でいえばせいぜい柴田康忠、保科正直レベルだろw
大久保兄弟や家康の支援受けつつも佐久を自力統一した松平康国には完敗だろ
葦名執政金上の方が有能かもしれんな
織田が当主の有能さや運、状況に恵まれたから家臣に過大なスポット当たってるだけ
実際有能な子飼登用なんて珍しくもなんともない。領地がどんどんふえればそいつらにやる知行も雪だるま式に増える。
大体有能な人材なんてどこにでも転がってるだろ。ある地域一辺倒に固まってるなんて妄想でしかないから。
はっきりいって運と口先だけの男。そういうなあなあ政権だから当人死んだらすぐ崩れた。

20 :
なんせできもしない朝鮮出兵などする馬鹿だからな
国内での平定戦も戦うたびに醜態さらしまくってるし。
ゴミだと思う。

21 :
※秀吉失態集※
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休をし人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる

22 :
19:03〜19:22の間に物凄い連レスですね
ID変えてるのがバレバレだよチョン君w
そんな秀吉にぼろ負けしたカス共が情けないなwww

23 :
秀吉が凄いとか言ってる奴は歴史理解する知能もてんただの馬鹿

24 :
はい>>20で自分はチョンだと発表
そんな考えしかできないから日本に首都を落とされ明に泣きつく事しかできないんだよw

25 :
>>23
そんな知能のかけらも感じられないレスじゃ説得力ないぞ
国語を勉強しなさいチョン君

26 :
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚

27 :
>>26
その兵力差を揃えるのが戦w
チョン特有の負け惜しみか
持ちこたえた?へーへーそれで勝てたの?
勝ってから言おうねチョン君^^負け犬の遠吠えは惨めだよ^^

28 :
そういう優位な状況は秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、真田
石川の場合は秀吉の威信が強大になっていたのが大きく小笠原は石川が小笠原の人質もって逃げたから寝返った。
水野は元々外様だし石川と同じく秀吉の威信が高まりすぎたのが原因だろうな。
どれも秀吉が自力で作ったというより運よく強大な勢力を持てたのと元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ

29 :
よく秀吉は城攻めの達人とか人たらしの名人とか言われるがこれも間違い。
>>28にみられるようにどこの大名でも漁夫の利を狙うような芸当はやってるし
城攻めに関しても鮮やかと言われるのは対中国戦くらいだろう。しかも水攻めといい兵糧攻めといい
時間や金ばかり無駄に浪費した下策でこんなもんは織田家が経済的に圧倒的なものをもってるから
なせる芸当。少数しか兵のいない忍城や竹ヶ鼻城、紀州の城を正攻法で瞬できないのは終わってる

30 :
>>28
で、その兵力獲得するまで周りは何してたの?バカが兵力整えるの指くわえて見てたの?人質も外交も秀吉がやった事なのに運なの?
チョン君は頭が悪すぎて理解できないんだね
可哀想に 惨めすぎて憐れさすら覚える

31 :
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉

32 :
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ

33 :
>>29
んで城に籠ってた奴は秀吉に勝てたの?
毛利なんかボロボロだったけど?w
結果的に勝ってるのにピーピー文句叫ぶのは負け犬だけだよ^^
>>31
秀吉より上のそいつらは何してたの?ゴミ同士で争ってたよねw
そんなに凄いならどっかで一大勢力築いてるからw
秀吉にゴマする書状しかないよwww

34 :
>>32
その馬鹿に滅ぼされた武田朝倉浅井達は?w
馬鹿以下のクズの集まりだったのかw

35 :
83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり
84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり
紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり
尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶
秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。

36 :
毛利は79年以降南条や宇喜多に足止め喰らわされてたしそもそも家中統制力が弱い原始的国人連合だからな
調略がうまくいったのもその毛利内で外様中の外様といえる
しかも秀吉は一夜城だの水攻めだのおお返しだの大げさな逸話が天下人になったことで過剰に伝わっただけの事だろう
あんなのは中身のないパフォーマンスみたいなもん。
おお返しなんて結局予めの準備あってやっとなせるわざだし
水攻めも時間や費用やらがやたらかかる上に紀伊太田や忍城、竹ヶ鼻城を正攻法で瞬できないのは終わってる
城の普請に関しても敵の眼前にすばやく拠点築くなんて特に珍しくもない
どこの大名でもやってる
貢献したといっても織田家中で考えるとごく一部分
織田が当主の能力や運、状況に恵まれたから拡張した要素の方が遥かに大きい

37 :
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ

38 :
徳川家臣団でいえばせいぜい柴田康忠、保科正直レベルだろw
大久保兄弟や家康の支援受けつつも佐久を自力統一した松平康国には完敗だろ
葦名執政金上の方が有能かもしれんな
織田が当主の有能さや運、状況に恵まれたから家臣に過大なスポット当たってるだけ
実際有能な子飼登用なんて珍しくもなんともない。領地がどんどんふえればそいつらにやる知行も雪だるま式に増える。
大体有能な人材なんてどこにでも転がってるだろ。ある地域一辺倒に固まってるなんて妄想でしかないから。
はっきりいって運と口先だけの男。そういうなあなあ政権だから当人死んだらすぐ崩れた。

39 :
その馬鹿が天下取るのを指くわえて見てたクズしかいないんだな
さすがだなチョンは そんなんだから勝手に崩壊したんだろうけど

40 :
秀吉は織田信雄より戦下手。
信雄家臣の木造親子や吉村氏吉に大敗したし。

41 :
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ

42 :
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。
まあ織田家にいなかったら埋もれてたのは確実だな
毛利は79年以降南条や宇喜多に足止め喰らわされてたしそもそも家中統制力が弱い原始的国人連合だからな
調略がうまくいったのもその毛利内で外様中の外様といえる
しかも秀吉は一夜城だの水攻めだのおお返しだの大げさな逸話が天下人になったことで過剰に伝わっただけの事だろう
あんなのは中身のないパフォーマンスみたいなもん。
おお返しなんて結局予めの準備あってやっとなせるわざだし
水攻めも時間や費用やらがやたらかかる上に紀伊太田や忍城、竹ヶ鼻城を正攻法で瞬できないのは終わってる
城の普請に関しても敵の眼前にすばやく拠点築くなんて特に珍しくもない
どこの大名でもやってる
貢献したといっても織田家中で考えるとごく一部分
織田が当主の能力や運、状況に恵まれたから拡張した要素の方が遥かに大きい

43 :
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉

44 :
戦下手に従属したアホしかいないのか
チョンの頭では最終的に勝った事がないからわからないのも無理はないけど

45 :
最終的に勝ったどうこう言うなら家康最強
信長は光秀にされた雑魚
最強家康に死の恐怖植えつけた信玄最強

46 :
その信玄は自分の体調も管理できずくたばりましたが
だいたい三万もいたのに家康を滅ぼせませんでしたが武田は

47 :
信玄は実質的に信長も家康も滅ぼしていた。よって天下人も同然
信長なんて浅井朝倉などに追い詰められて滅亡寸前だったしな
信玄の死を朝廷権力に救われただけ

48 :
姉川の戦いののちも浅井・朝倉はむちゃくちゃ勢いがあって
9/20森可成や織田信治や青地茂綱らを討ったあと、
宇佐山城の守りが固く、そちらからの入京に時間を浪費すると喝破した浅井朝倉は即日、転進して大津を放火し
9/21山科醍醐方面から進軍する迅速な判断力は褒められる。
(24日には信長が下坂本に着陣してる)
そして24日には京の前面である浅井は比叡山青山、朝倉は青山南の壷笠山に陣を敷いた。
その上で京を戦乱に巻き込まないように京を大回りして
(先鋒は入京していたが賀茂別雷神社・離宮八幡宮・知恩院・東寺らに禁制を給して迂回)
長政隊は丹波から嵯峨へ進軍して織田軍後方をかき乱す遊撃を開始してる。
10/20山崎の本願寺が御牧城を攻め取り、
それに呼応した比叡山の浅井・朝倉軍が出撃し、
織田方に組する左京区にあたる織田軍と(義昭奉公衆との説あり)
交戦しつつ修学寺・一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎などをピンポイント放火してるし、
(義景は元亀2年7/4に六角軍が入京するにあたり、
義賢に洛中を放火しないように書状を送っている)
22日には大坂本願寺が畠山昭高の高屋城を攻め、
若狭武田も織田から離反して武藤や粟谷と挙兵してる。
信長は完全に無策で、家康に援軍派遣の哀願をするしかなかった。
家康は信長に江南を我が物顔で暴れている一揆と六角勢が、
瀬田と草津の間を封鎖するのを防いで退路を維持する役目を負わされた。
信長はというと11/21朝倉軍は坂井政尚と安藤守就の子を討死させ、
同日には伊勢長島でも織田信興が討死と全戦線が崩壊。
11/28朝廷から関白二条晴良が信長の和睦懇願を受けて坂本へきた。
織田の敗北は間違いないんだよな。
水藤真氏が「綸旨・御内書・御下知・信長誓詞と
およそ紙に書くことのできる全てが書かれ、比叡山に与えられた」
と書いているわけだ。
信長はありとあらゆる手段で和睦してもらおうとしてるわけ。
そして朝倉も比叡山に「当表の一和之儀、勅命上意」と書いていて
今谷明氏が朝倉らは「勅命を拒むことができなかった」と書いていて
宮島敬一氏もそれに同意している。
よって大久保の書いてる内容は事実に近いわけだ。
さらに志賀の陣の和睦交渉で、朝倉は信長には他意は無いが、
浅井を見捨てるに忍びずと言ってる。
朝倉には織田への戦意がそもそもない。だから朝倉に奪回意思はそもそも無い。
朝倉にその気が無いのに、
浅井単独で横山や佐和山の奪回は無理。
別に朝倉領でも無いし。

49 :
え?wこりゃ珍説だwww
滅ぼしかけてたのに信玄一人死んだら一年もたたずそいつら返り討ちにされたがw

50 :
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。 一次資料的な裏づけが揃っているからね。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
関白二条晴良が勅命が合意できなければ高野山に隠居するとまで言ってた
山門の難渋にしびれを切らした関白二条晴良は(尋憲僧正の日記)
「もし今回の和議が出来なければ、身共は高野山に上り、隠遁いたす。」
と強硬に言い張って、ついに山門も折れた。
延暦寺に対して綸旨・御内書・御下知・信長の誓詞・山門領すべて安堵(一揆国人達をすべて許す)
およそ紙に書くことができる全てが延暦寺に与えても
なかなか延暦寺は承諾しなかったと水藤真氏も
織田側が和睦に無茶苦茶必死だったことを書いてる。
長政にも勅宣や朝家は神国の要だからと強調した
5カ条の朱印状を信長は提出してるし
12/13に六角にも知行渡すし、浅井に2/3を与えてもよいと信長は言ってる。
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのは
それ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。

51 :
☆慈敬寺文書の顕如書状2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
2/15松永久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが
10日付で義昭に帰参しさらに静原に山本城を築いて織田に反抗する。
近衛家文書の2/16浅井長政→伊勢七郎左衛門宛てでは信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆(義昭軍)合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/19の義昭書状では★山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
浅井長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べている。
琵琶湖最大の商業地の堅田村の郷士達が本願寺や浅井の味方になってしまい
坂本を居城とする明智軍は大津で苦戦し立ち往生しているのがわかる。
2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後にすぐ筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと明智への援軍も上洛できないほど街道封鎖は深刻になっており
大津や草津の関も機能してないはずで近江戦線は崩壊してるのがわかる。
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書くが、
によると☆のような情勢であるのがわかる。
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き(柴田軍が大津に到着したのか?)
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶(山岡景友)ら西近江で挙兵。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
3月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してるので攻撃開始したのだろう。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
★のように戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
信長は伊丹氏により摂津において中島城の細川が堺へ敗走(信長はさてもさても惜しいことだと悔しがってる)
に続き3/7にはさらに賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを
慈敬寺から報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で急ぎ加勢した近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/21には義景→馬場宛でも敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞して、
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
(佐々木左馬頭とは義昭側の仁木義政で明智軍記では義政は山岡らと石山・堅田に籠城したと書いてある)
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで織田を粉砕した大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は、義昭らに敗北を重ねて
信長が兵を集めて援軍に来るのを待っている現実が見える。
大商業地堅田村を一向宗側が取り込んでいるため、
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで織田軍が大敗している。
また明智軍が崩壊していた現状から手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながら兵力が全然集まらずまったく出馬できないありさま。
松原信之氏が著書で義景本人の天正4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。

52 :
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで柴田が落とせずに苦戦してるじゃんw
坂本の明智軍はすでに崩壊してるし。
すでに琵琶湖西岸はことごとく義昭側。
大津で柴田が立ち往生して入京すら出来ず。
2/23に信玄撤退したから上洛する発言してた信長だが、戦況悪化と兵力が集まらず
まったく動けず義昭に土下座交渉を継続する始末。
義昭が信長の人質を突っ返し断交するに及んで、
やっと3月末に信長は上洛するも味方は細川と荒木だけでみんな離反。
自暴自棄の信長は京を地獄にして略奪戮しつつ、
天皇に和睦斡旋哀願。
和睦したら即日、背後の六角と一揆衆を攻撃しに帰るほど切迫した情勢。
しかも六角を攻め落とせない。
そのうち信玄死亡情勢が流れる。
すると情勢は織田優位に一変。
天皇の威光と信玄死亡に助けられただけなのが信長

53 :
そして結果は浅井も朝倉も仲良く首だけになりました
一方武田は徳川すら滅ぼせず死んだ

54 :
朝廷を擁立してる信長に喧嘩を売ったのに朝廷を使われる事を予測できなかったアホ=浅井朝倉
でおk?

55 :
元亀3年10/5の朝倉景亮書状
先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言
蒲生下野入道殿御陣所
近江で信長が支配していたのは主なところで
佐和山・横山・観音寺(一時奪回されたりしてるが)・大津・坂本など
琵琶湖南岸に沿った街道沿いだけであり、その南は六角支配下である。
また天野川以北は湖北十ヶ寺一揆支配圏を構成しており
姉川南部ですら、いまだに安定統治が為されていないのが織田。
大津を維持していた山岡景隆の弟の山岡景友が義昭から山城半国守護になり
近江で有力な山岡家まで分裂してる始末。
秀吉が旧浅井領の一職支配を任されたわけだが
実際は浅井が支配していた全域を任されたわけじゃなくて
浅井が滅亡した時点で浅井が実効支配していた地のみの支配だった。
そのため先の天正元年8月に降伏した山本山城の阿閉氏
(伊香郡の一部・浅井郡菅浦&大浦下庄)
については秀吉には与えられず、阿閉氏は信長直参扱いになっている。
よって秀吉が与えられたのは坂田郡(天野川以北)から
浅井郡を挟んで伊香郡(木之本町)以南の地域でのみ秀吉発給文書がある。
この部分はそのまま湖北十ヶ寺一揆支配圏内であり、要するに秀吉がいた横山城や虎御前城は敵中に孤立した
大海に囲まれた小島のようなものでしかなかった。
「織田軍が攻略済みの佐和山や横山も街道沿いなように」と書いてるわけだが読めないのか?
さて朝倉は西近江幕府奉公衆高島七頭と抵抗し背後の敦賀へ織田軍が進撃できないようにしてる。
浅井は湖北十ヶ寺一揆から軍事&兵糧支援をしてもらい篭城。
六角は三雲氏など南近江国人達(蒲生を除く)や一揆衆に支えられ、
天正元年4/11鯰江城の六角と挙兵した百済寺を攻撃のため義昭と和睦するや即進撃。
9月鯰江城が落城するも石部城へ後退。
天正2年4/13六角義賢が石部城で抵抗後に三雲氏の本拠地の信楽に向けて退城し、
この時に敵を追い払った山中山城に感状を12/24に出してる。
(この間に勝頼が美濃明智城と遠江高天神城を攻略し、信長は越前での一揆を危惧)
信長が近江で維持してるのは面では無く点でしかない。
多胡宗右衛門ら高島七頭らに邪魔されて琵琶西岸を北上して朝倉の退路を断つ動きすら一切取れなかった。
だからちょっと信長が京に入ったり岐阜へ帰るとすぐ彼らや六角や一向宗がゲリラ化して京への通路に砦を築いて背後を脅かす。
山城北部は義昭配下の山本・磯貝・渡辺ら 南は淀城に石成友通 南山城は真木島 木津川辺は松永
元亀3年12月には三好康長・篠原自遁・大和守らが大山崎で禁制出す。
山城東部は義昭に山城半国守護に補任された山岡道阿弥が一揆と連合してるし、
山城西部の西岡一揆の主力は36国人で構成する西岡被官衆だし、
どう考えても荒木や細川が領地を維持していたとは思えない。
12/12に信玄は当年過半任存分候と言っていて
美濃の過半は武田方になったといってるし。
だからこそ来春の岐阜攻撃だからね。
信玄が言ったように、まさに信長滅亡の時がきたんだよ。
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
山岡家の領地は栗太郡と志賀領であるが、すでに志賀郡が失われているのか、
山岡家が反織田側に内通していたのがわかる。
山岡景友が志賀郡を手中にしていたのか、それとも景隆や景佐も両天秤をかけていたのか。

56 :
最終的に勝ったどうこう言うなら家康最強
信長は光秀にされた雑魚
最強家康に死の恐怖植えつけた信玄最強
信玄は実質的に信長も家康も滅ぼしていた。よって天下人も同然
信長なんて浅井朝倉などに追い詰められて滅亡寸前だったしな
信玄の死を朝廷権力に救われただけ

57 :

9/20信長が摂津から志賀に到着。
10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w
10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記)
11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記)
朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記)
三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。
信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。
10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。
大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により
奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記)
10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。
南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。
10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記)
三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w
10/22義昭側近上野信恵→草刈景継
因幡美作の国人の草刈家文書(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが
新たに帰属した武田高信を厚遇したことに反発し織田へ内応するものちバレて毛利にされる)
によると信長の朝倉討伐の時に離反した浅井は
京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。
備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。
青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に
本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。
11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記)
11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。
11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で
本意案の内と書いている(計画通りだ)
11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し
御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書)
(朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している)
織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃されされる。
11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状)
11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や
郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。
(濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け
郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し)
美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。
顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」
景健宛「毎度勝利を得て珍重」
義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。
志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。
堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書)
堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書)
この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが
正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。
12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。
12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。
伏見宮の記録によると
12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。
12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても
比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている)
12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。
12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。
12/16両軍帰国。

58 :
んでそいつらは信長に滅ぼされたと
最終的に勝ったうんぬんなら武田をほろぼした信長最強か

59 :
最終的に勝ったどうこう言うなら家康最強
信長は光秀にされた雑魚
最強家康に死の恐怖植えつけた信玄最強
信玄は実質的に信長も家康も滅ぼしていた。よって天下人も同然
信長なんて浅井朝倉などに追い詰められて滅亡寸前だったしな
信玄の死を朝廷権力に救われただけ

60 :
政宗はガチで戦上手
北 大崎 葛西 最上 
東 相馬 
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
 
これだけガチで敵対して拡張した。
政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。
信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。
政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。
比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長

61 :
領土拡張率ランキング
         家督相続年  相続時勢力圏  最大勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
小笠原貞慶    1582年     0万石    13万石    ∞
徳川秀忠     1602年     0万石   日本全土    ∞
4徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
5結城晴朝    1558年     1万石   23万石    23倍  
6佐竹義重    1570年     8万石  150万石  17倍
7上杉景勝    1578年     8万石  120万石    15倍
8菅沼定利    1562年     1万石   13万石     13倍
9武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
10上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍
最下位 織田信長       30万石    0        0倍

62 :
んでその朝廷権力を信長が手にいれるのを指をくわえて見てたのが他の雑魚
信玄は徳川すら滅ぼせず死亡、これが事実
そして武田は信長に滅ぼされた、これも事実
よって信長>>>>>>>>>>信玄
はい論破 敗北を知りたい

63 :
信長公記は捏造軍記
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「せるものならしてみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い

64 :
また信長秀吉最強が確定してしまったか
信玄なんかがゴミなのは地元で言われてるからな
甲府郷土館に書いてあったよ

65 :
最終的に勝ったどうこう言うなら家康最強
信長は光秀にされた雑魚
最強家康に死の恐怖植えつけた信玄最強
信玄は実質的に信長も家康も滅ぼしていた。よって天下人も同然
信長なんて浅井朝倉などに追い詰められて滅亡寸前だったしな
信玄の死を朝廷権力に救われただけ

66 :
政宗はガチで戦上手
北 大崎 葛西 最上 
東 相馬 
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
 
これだけガチで敵対して拡張した。
政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。
信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。
政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。
比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長

67 :
そんな妄想を抱きながら現実は信長にされる武田一門であった…

68 :
領土拡張率ランキング
         家督相続年  相続時勢力圏  最大勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
小笠原貞慶    1582年     0万石    13万石    ∞
徳川秀忠     1602年     0万石   日本全土    ∞
4徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
5結城晴朝    1558年     1万石   23万石    23倍  
6佐竹義重    1570年     8万石  150万石  17倍
7上杉景勝    1578年     8万石  120万石    15倍
8菅沼定利    1562年     1万石   13万石     13倍
9武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
10上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍
最下位 織田信長       30万石    0        0倍

69 :
北条氏康は過小
信玄謙信の最強武将&両上杉の12万の大軍、今川佐竹里見といった列強の包囲網にあった状態で
版図を大幅に拡張させたから全能力100越えのチート能力が妥当
氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、成田、上田、長野
宇都宮、梁田、那須、小山、太田、小田、皆川、大田原、酒井、千葉、由良
その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。包囲網が張られた状態で勝ち抜き、実力で関東に覇を唱えた。
信長は、圧倒的国力を持つ織田家を継承し、畿内や美濃は雑魚や分裂勢力しかいないにも関わらず、
浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。
氏康>>>>>>>信長

70 :
ここまで同じことしか言えない武田擁護を見て
いかに武田が無力なのかがわかるな
現実は家すらなくなっている
これが事実 武田はどうあがいても織田に勝てないw

71 :
信長が家康の立場で独立し、家康が信長の立場で独立したら
信長は武田どころか今川氏真に瞬され家康は史実どおり畿内や美濃を瞬していたのは間違いない
何せ史実で今川氏真クラスの龍興に大敗を繰り返し今川氏真クラスの朝倉義景にも負けまくったけど
敵がアホすぎてなんとかなっただけ
一方家康は信長や秀吉が苦戦した畿内や美濃を瞬したしな
信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬されてたのは間違いない

72 :
信長が他大名の立場に生れていたら
信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える
元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える
義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死
政宗の場合関柴の戦いで討ち死に
氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死
義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死
宗麟の場合毛利元就に負けて敗死
元親の場合三好に負けて討ち死に
尾張だから助かっただけ

73 :
島津は伊藤相良土持大友龍造寺豊臣遠征軍民軍など圧倒的大軍の敵を壊滅させ続けた。
織田は斉藤長島一揆北畠朝倉浅井本願寺武田赤井雑賀衆などに圧倒的大軍の味方を壊滅させられ続けた。
島津>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田

74 :
他大名が信長の立場で生れていたら
家康 史実どおり畿内美濃を瞬
島津 史実どおり寡兵でも大軍撃破
氏康 史実どおり寡兵で大軍撃破&政略を利用して領土拡大
信玄 史実どおり負けをほとんどせず畿内や美濃の雑魚を瞬
元就 史実どおり謀略を駆使して分裂状態の斉藤や畿内を併合
元親 史実どおり小勢力でも他大勢力を戦に打ち勝ち併呑

75 :
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬されていたのは間違いない
何せ史実で30回くらい敗戦して斉藤が浅井と戦い、また国人が全く統制されておらず
子供が当主で竹中10人ほどに居城奪われる雑魚だから助かっただけだし

76 :
当時の斎藤は浅井と戦っていて、
六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、
同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから、
斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、
尾張を内乱状態にさせて信長を封じつつ、
宗教統制を改革中に急死。

77 :
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。
さて以下がその隠蔽である。
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。
これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。

78 :
家康 信友にされる
島津 信友にされる
氏康 信友にされる
信玄 信友にされる
元就 信友にされる
元親 信友にされる

79 :
公記が六角義賢の弟の六角義弼や
六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。
濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。

80 :
信玄は国も貧困、山間で移動も大変、周辺は強国ばかり。領土面積当たりの石高が低い甲斐や信濃で 山之内上杉の大軍を破ったり村上、小笠原らとガチで
ぶつかり合い長尾も介入してくる 状況で信濃を取った点や北条との抗争で駿河を取った事、距離的にさほど
攻め込みやすいと言えない徳川領を押しまくり追い詰め、東美濃も侵略した事
など見るにやはり軍略はピカイチだろう。負けがかなり少ないのも大きい。
上田原も板垣の敵陣のど真ん中での首実験が原因だし逆にその状況から反撃して
何人も討ち取っている。信長は大軍で弱体化した小勢力に何回も負ける
斉藤、本願寺、伊勢長島一向一揆。姉川でも大軍で寡兵の浅井に
痛打を加えられず。 大良河原、14条、河野島、伊勢長島第一次、伊勢長島第2次、
屈服した志賀の陣、800の敵に数万の兵で一門を10人された伊勢長島第3次。
戦は大した事ない。その分調略や政略でカバーしてる。
版図拡張と言っても山間部出身で周りも強国、国も貧困で京への距離もある武田や
関東出兵や武田との対戦を余儀なくされ国内も反乱やら蘆名の介入やらで
大変、武田以上に京まで遠く雪による制約も大きく関東、信濃、奥州、北陸
多方面戦略を展開してた上杉とは条件が違いすぎる
織田は美濃、尾張で信玄の最大版図くらいになる国力。北伊勢含めばもっと上がる。
幼君でガタガタな斉藤はクーデター起こるぐらいだったし相当弱体化してた。
尾張は石高的にかなり条件の良い国 京から遠くも無く近くもない程よい位置でもある。
京の動乱に巻き込まれず濃尾両国を有すれば思い立ったら上洛できる位置。 西は木曽・揖斐川の大河に守られ
東と結べば背後に敵無し。尾張、伊勢、畿内等は国高の高さの割りに
領土面積が狭く平野部が多く移動も楽。美濃も地形的に東から侵略されずらく
武田の本拠地も遠い。周りの大名も今川義元は運良く戦死 跡継ぎの氏真は暗愚
松平家は独立 同盟で後方の安全を確保
斉藤家の義龍は早死して、跡継ぎの龍興は暗愚
朝倉家の朝倉義景は惰弱で暗愚の代名詞のような大名
六角家は観音寺騒動や対浅井の敗戦で弱体化しきっていた
三好家は分裂状態で統制が取れずバラバラ
織田と本格的に戦う前に信玄は病死 跡継ぎの勝頼は猪武者
織田と本格的に戦う前に謙信は病死 その後上杉家は内乱で自滅
足利義昭も信長の所に来た
当時の武田の状況での信濃攻略は飛騨の三木家が斉藤滅ぼすのと同じくらい難易度高いだろw
強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状においてはハンパないレベル

81 :
織田600万石が、赤井3万石に大敗! 敗走!
って、まるで漫画だな。 。 。
アホすぎる。
さすが戦国最強織田軍

82 :
あへw

83 :
おい

84 :
足利義昭を軽んじるつもりはないと言いつつ、足利義昭の協力者であった織田信長が領内に少し入るや否や不意打ちで攻撃。
しかも身内の坊さんに必死に弁解を書かせた斎藤龍興。
こんな二枚舌大名についてく家臣がいるわけもなく、翌年に彼は美濃を追われた。
そしてなぜか18歳のガキにコテンパンにやられた(だがの主張)信長に斎藤家臣がこぞって付き従うという有様

85 :
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。

86 :
織田雑魚長が光秀に離反されたのも織田が諸大名相手に圧倒的に劣勢だったからだろうな
雑魚長が勝ってたら離反なんてされるわけねえしw

87 :
そんな雑魚長以下の実績しか残せない奴しかいない日本の戦国時代ってなんなんだろうな・・・

88 :
信長 ルーズベルト
家康 チャーチル
信玄 東条英機

89 :
天下を取れなかった大名達が嫉妬をひたすら書き込むスレになっちまったな
そんなに弱いのにどうやって領地拡大したんだろうな
まあ結局信玄も天下取りは無理って結論だな

90 :
年齢的に考えてもまだ今川義元の方が天下取りの可能性あるわな。
信玄が見栄張って西に行こうとした時が52歳。義元が尾張目指したのが42歳。10年近く差がある。
史実通りのことを考えたら長慶と義龍がすぐにくたばるから尾張三河遠江駿河もあれば美濃の斎藤くらい余裕だろ。
実績的にも年齢的にも信玄は有力大名に比べたら数段劣る。
信長より長生きなのにこのザマだもの

91 :
信長 スターリン
秀吉 エジョフ
家康 フルシチョフ
信玄 トロツキー

92 :
永禄2年 甲州で年初と年末に雪代水や大雨で田地や家や村が流され川除普請が行われる。
永禄3年 5/19義元急死。6/5臨済寺にて盛大に葬儀が行われる。
甲州で大雨と疫病がはやってボロボロな年になる。
永禄4年 6月氏真が元康の逆心と判断。
永禄5年 家康が三河一向一揆に悩まされるようになる。
甲州でやっと疫病が収束するも11月から日照り。
永禄5年に行った検断が原因で、
6年正月から反松平の三河一向一揆が蜂起した
吉良氏などが一揆背後にいたようで、
東三河は駿河化したと書いてるくらいで、
家康は岡崎の維持すら苦戦している。
義元の死に乗じた家康が自立した時こそ
歯肉なことに、かえって三河の今川化促進されたと言える。
永禄6年12月以降、天野氏・飯尾氏、堀越氏など
相次いで今川を離反自立する遠州錯乱が開始され今川衰退始まる。
今川の衰退は永禄6年12月から始まるとされていて
遠州錯乱とか遠州?劇と呼ばれる
遠江での相次ぐ反氏真
国人達の自立行動により
三河と駿河が連絡を取れなくなり三河孤立。
その隙に家康が永禄7年6月に吉田城を徳川方にしてしまった。
義元は重臣達との合議体制を敷いていたが
氏真は三浦正俊や小野道好ら側近を重用し独裁した為に、
遠江曳馬城主飯尾連竜が、
犬居城主天野景泰・元景父子、二俣城主松井宗恒ら
政権から外された遠江の国人重臣達を誘い今川から離反した。
しかし駿河衆の今川への団結は強く離反もおきず。

93 :
ん?今川スレにするの?

94 :
実際、家康は遠江の内乱に介入しようとしたが、失敗してるように
信玄による駿河侵攻で今川家臣21人内応の神業で呆気なく駿河が落ちることが無けれ、
家康が遠江を手に入れることは不可能だっただろう。
信玄の内応技は凄まじいもんで、
謙信配下の大身重臣北条や本庄まで離反させてるほど、
ありえないSSS人物まで内応させてるよな。

95 :
>>90
周りが今川北条上杉と囲まれてたから武田の難易度は他より高いんだよ
対織田ってのも難易度を高くしている

96 :
本庄は元々自立性の高い阿賀北国人だし
北条高広は元々上野で離反繰り返し続けたからあまり根拠にならないような
北条にも篭絡されたり、そうかと思えば北条を裏切ったりしてるし

97 :
>>94
家康は小早川と吉川を寝返らせて天下取っている
信玄の場合調略したはいいがそれを対上杉の勝利に結びつけられなかったのが痛い

98 :
ID:Op0Z8yo3はキチガイ長文コピペ連投荒らしなので注意
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1327681172/613
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1327681172/615-620

99 :
まだ連投しているよ
キチガイは怖いね

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