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2012年4月三国志・戦国138: 三国志好きな俺が資治通鑑魏紀を諸葛亮没後から魏がオワタ!!まで訳し続けるスレ (140) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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三国志好きな俺が資治通鑑魏紀を諸葛亮没後から魏がオワタ!!まで訳し続けるスレ


1 :12/04/04 〜 最終レス :12/04/18
訳の鉄則
1.分からん箇所は訳さず飛ばす。
2.あやふやな箇所は訳さず飛ばす。
3.気力の限り訳し続ける予定だが途中逃亡しても勘弁な。
底本:元の底本がサルベージ出来なくなったので参考サイト↓
http://zh.wikisource.org/wiki/%E8%B3%87%E6%B2%BB%E9%80%9A%E9%91%91/%E5%8D%B7079
あと『資治通鑑』邦訳Wikiはここ↓な
http://www24.atwiki.jp/tsugan/
簡単な質疑応答
Q:諸葛亮は?ねぇ諸葛亮は?  →A:ネットのどっかに魏紀一から四まであるよ
Q:華陽國志は訳さないの?    →A:劉二牧伝、劉先主志、劉後主志だけじゃ不満かい?
Q:お前一体誰なのさ??     →A:あざとい黄色とプリキュアじゃんけん好きの只の三国志好きさ
Q:最後にコメントどーぞ?     →A:やっぱり神奈子さまのは最高ですしおすし

2 :
そんなわけで西暦235年から始まるのだ
2げと?

3 :
烈祖明皇帝中之下青龍三年(乙卯,西暦235年)
  春,正月,戊子,大將軍の司馬懿を以って太尉と為した。
  丁巳,皇太后の郭氏が(崩)殂した。帝は數<たびた>び甄后の死の状(況)を
太后に於いて問うたため,是に由って太后は以って憂殂せられたのである。
  漢の楊儀は魏延をすこと既にすると,自ら以為らく大功を有したからには,
宜しく諸葛亮に代わり秉政すべきとした;而しながら諸葛亮は平生から密かに指(図)
していたことに,楊儀が狷狹であることを以ってして,意は蔣琬に在った。
楊儀は成都に至ると,中軍師を拝したものの,統領する所が無く,從容とする而已
<のみ>であった。
初め,楊儀は昭烈帝に事<つか>えて尚書と為ったころは,蔣琬は時に尚書郎と
為っていた。
後に倶に丞相參軍、長史と為ったと雖も,楊儀はこと毎に行くのに從い,其の勞の
劇<はげ>しきに当たっていたため;自ら謂わく年宦は蔣琬に先んじ,才能は之を
逾えているのにとし,是に於いて怨みと憤りが聲や(顔)色に於いて形われ,歎吒之
音が五内に於けるより發せられるようになって,時の人たちは其の言い語ることが
不節なるを(節制を欠くようになったことを)畏れて,敢えて從うものとて莫くなった。
惟だ後軍師の費禕だけは往って之を慰省したが,楊儀は費禕に対すると恨み望みを
いいつのること,前後して云云となった。
又た費禕に語って曰く:「往者(かつて)丞相が亡沒之際に,吾が若し軍を舉げて
以って魏氏に就いていたのなら,世に処すにあたって寧んぞ當に落度すること此が
如くであったろうか邪!人を令て追って悔いさしむも,復た及ぶ可からず!」
費禕は密かに其の言を(上)表した。漢主は楊儀を廃して民と為し,漢嘉郡に徙した。
楊儀は徙所に至ると,復た上書して誹謗したが,その辭指は激切なものであった。
そのため遂に郡に(命令を)下して楊儀を収めさせたところ,楊儀は自した。
  三月,庚寅,文コ皇后を葬った。
  夏,四月,漢主は蔣琬を以って大將軍、録尚書事と為した;費禕が蒋琬に代わって
尚書令と為った。

4 :
帝は土功を好み,既にして許昌宮を作していたが,又た洛陽宮を治め,
昭陽太極殿を起こし,總章觀を築いた,高さ十餘丈のものである。力役は
已まず,農桑は業を失った。
そこで司空の陳群は上疏して曰く:「昔禹は唐、虞之盛んなるを承りましたが,
猶も宮室を卑しくして而して衣服を悪みました。況んや今は喪亂之後でござい
まして,人民は至って少なく,漢文、景之時に比べ,一大郡に過ぎません。
加えまして以って邊境に有事があり,將士は勞苦しております,若し水旱之
患いが有れば,國家之の深い憂いとなりましょう也。昔劉備は成都より<自>
白水に至るまで,傳捨を多く作しました,その興費と人役から,太祖は其の民を
疲れさせたことを知ったのです也。今中國が力を勞すは,亦た呉、蜀之願う所
でありましょう。此れは安危之機というものです也,惟だただ陛下には之を慮ら
れますように!」
帝は答えて曰く:「王業、宮室は,亦た宜しく並び立つるべきものである。
滅賊之後には,但だ當に罷めて守禦すべきのみとしよう耳,豈に復た役(務)を
興こそうか邪!是れは固より君之職(務)であり,蕭何之大略ではないか也。」
陳群曰く:「昔漢祖は惟だ項羽だけと<与>天下を争いました,羽が已にして滅ぶと,
宮室が燒け焚かれおちておりましたゆえ,是ぞ以って蕭何が武庫、太倉を建てた
ところでして,皆是れ急を要したからです,然るに高祖は猶も其の壯麗なるを非と
されたのです。今二虜は未だ平げられずにおりまして,誠に古と<与>同じくするは
宜しくすべきでありません也。夫れ人之欲す所は,辭を有さざること莫いもの,
況んや乃ち天の王をや,之に敢えて違えるもの莫いものです。前に武庫を壊そうと
欲したおりには,壊さざる可からざるゆえと謂い也;後に之を置こうと欲してからは,
置かざる可からざるゆえと謂うものです也。若し之を作すこと必ずとされたなら,
固より臣下の辭や言に屈す所に非ざることです;若し少しく(精)神を留められて,
卓然として回意するも,亦た臣下之及ぶ所に非ざることです也。漢の明帝はコ陽殿を
起てようと欲したものの,鐘離意が諫めたところ,即ち其の言を用いましたが,後に
乃ち復た之を作そうとしました;殿が成ると,群臣に謂って曰く:『鐘離尚書が在りせば,
此殿を成すこと得なかったであろう也。』夫れ王者は豈に一臣を憚ることでしょう!
蓋し百姓が為であります也。今臣は曾てより聖コを少しも凝らすこと能わず,意を
遠くへ及ぼすこともあたいませんでした矣。」

5 :
帝は乃ち之が為に少しく減らし省くところが有った。帝は内寵に於けるに耽り,婦官の
秩石は百官之数に擬した,貴人より<自>以下掖庭の灑掃者に至るまで,凡そ千人を
数え,女子で書を知り付信す可き者六人を選んで,以って女尚書と為し,外からの奏事
を典省せ使め,處當畫可。
廷尉の高柔が上疏して曰く:「昔漢の文(帝)は十家之資を惜しみ,小台之娯<たの>
しみを営みませんでした;霍去病は匈奴之害に臣たらんとし,治第之事には不遑で
ありました。況んや今損ないし所の者は惟だ百金之費のみに非ず,憂うる所の者は
徒らに北鍬之患いだけに非ざることです乎!可粗成見所營立以充朝宴之儀,訖罷
作者,使得就養;二方が平定されてから,復た徐ろに興すも可なり。《周禮》には:
天子の后妃は百二十人以下とすとありまして,嬪嬙之儀は,既にして已に盛んで
ありましょう矣。竊い聞きますに後庭之数は,或いは復た之に過ぐるものがあります,
聖嗣の昌らかならざるは,殆んど能く此れに由るのでございます。臣は愚かしくも
以為らく淑媛を妙簡す可きものです以って内官之数を備えさせ,其の餘りは盡く
遣わして家に還し,且つは以って精を育み神を養い,靜を専らにして寶と為すべ
きです。此の如くなれば,則ち《螽斯》之征も庶うて而して致される可きことでしょう。」
帝は報いて曰く:「卿のは輒ち昌言というものであろう,他に復た以って聞かせよう。」
是の時獵法は嚴峻としており,禁じられた地の鹿をした者の身は死に,財産は
官に沒(収)され,能く(発)覺し告げた者が有れば,厚く賞賜を加えた。
高柔は復た上疏して曰く:「中間以來,百姓は衆役に供され給され,田に親しむ者は
既に減っております;加えてこの頃復た獵禁(猟を禁じたこと)が有ったため,群れて
ふえた鹿が暴を犯し,生じた苗を殘食し,處處で害を為し,傷つけられた所は貲さず
(まともな収穫が見込めず),民は障離あると雖も(障りあって離したいと雖も),
力では御すこと能わずにおります。滎陽の左右に如くに至っては,周り数百里,
歳ごとに略されて收められておりません。方今天下に生じ生くる者は甚だ少なく,
而して麋鹿之損なうところ<者>は甚だ多し,卒として兵戎之役があり,凶年之災が
有れば,將に以って之に待すところ無くなりましょう。惟だただ陛下には民の間に
ェ放たりて,鹿を捕えるを得させ使め,遂に其の禁を除かれますように,そうすれば
則ち衆庶は永らく(救)濟され,その豫りに悦ばざるもの莫いことでしょう矣。」
帝は又た北芒を平らにし,其の上に於いて台觀を作さ令め,孟津を望み見んと欲した。
衛尉の辛毘が諫めて曰く:「天地之性,高きを高く下を下とすものです。今而して之に
反するは,既にして其の理に非ざることです;加えまして以って費と人功を損なううえ,
民は役(務)に堪えられないことでしょう。且つ若し九河が盈たされ溢れ,洪水が害を
為したところで,而して丘陵が皆夷されておりましたなら,將た何をか以ってして之を
御らんか!」帝は乃ち止めた。

6 :
  少府の楊阜は上疏して曰く:「陛下は武皇帝が開拓された之なる大業を奉り,
文皇帝が克ち終わらせた之なる元緒を守ってこられました,誠に宜しく往古に
あった聖賢之善治を思し齊し,季世にある放蕩之惡政を總め觀られるべきです。
曩<さき>に桓(帝)、靈(帝)を使て高祖之法度や,文(帝)、景(帝)之恭儉を
廃させていなければ,太祖が神武を有すと雖も,何に於いて施す所あり,而して
陛下は何にか由って斯かる尊きに処しえたでありましょうか哉!今呉、蜀は未だ
定められず,定旅は外に在り,諸所で治を繕っておりますからには,惟だただ陛下
には務めて約節に従われますように。」帝は優詔もて之に答えた。
楊阜は復た上疏して曰く:「堯は茅茨を尚びまして而して萬國は其の居に安んじ,
禹は宮室を卑しくして而して天下は其の業に楽しみました。殷、周に至るに及ぶも,
或いは堂は三尺を崇え,度るに九筵を以てすのみでした耳。桀は璇室の象廊を
作し,紂は傾宮の鹿台を作し,以って其の社稷を喪うこととなったのです;楚の靈
(王)は以って章華を築いたために而して身は禍を受け;秦の始皇(帝)は阿房を
作ったがため,二世にして而して滅びました。夫れ萬民之力を度らず,以って耳目
之欲すことに従っておいて,未だ亡びざる者の有ったことなどないものです也。
陛下は當に堯、舜、禹、湯、文、武を以ってして法則と為し,夏桀、殷紂、楚靈、
秦皇を深き誡めと為さるべきです,而るに乃ち自ら暇し自ら逸し,惟だただ宮台
是れ飾りたてておられます,必ずや顛覆危亡之禍が有ることとなりましょう矣。
君は元首を作し,臣は股肱を為すもので,その存亡は一體,得失は之を同じく
するものです。臣は駑怯であると雖も,敢えて爭臣之義を忘れましょうか!
言うことが切至せざれば,以って陛下を感寤せしむに足らざることでしょう。陛下が
臣の言で察しないなら,恐らく皇祖、烈考之祚は地に於けるに墜ちましょう。臣の
身の死を使て萬一を補うこと有らしむなら,則ち死之日は猶ち生之年でございます。
謹しんで叩棺沐浴し,伏して重誅を俟つしだいです!」
奏が御せられると,帝は其の忠言に感じいり,手づからの筆で詔をくだし答えた。
帝は嘗て著衣を冒し,縹綾半袖を被っていた。楊阜は帝に問うて曰く:「此れは禮に
於いては何に法った服でございましょうか也?」帝は默然として答えなかった。是より
<自>(礼に)法らざる服では楊阜に見えることを以てしなかった。楊阜は又た上疏
して宮人で諸もろの幸に見えざる者を省かんと欲すと,乃ち御府の吏を召して後宮の
人数を問うた。吏は舊令を守って,對して曰く:「禁じられ密とされておりまして,
宣べ露わにするを得られません!」楊阜は怒り,吏を杖うつこと一百,之を数えて
曰く:「國家は九卿と<与>密を為すことせず,反って小吏と<与>密を為すか乎!」
帝は愈すます之を嚴かに憚ることとなった。
  散騎常侍の蔣濟は上疏して曰く:「昔句踐は養胎して以って待用せられ,昭王は
病を恤して以って仇を雪ぎました,故に能く以って弱き燕で強き齊を服さしえ,羸えし
越で勁き呉を滅ぼしえたのです。今二つの敵は強く盛んでありまして,當に身もて
あたれど除けずにおること,百世之責というものです也。陛下の聖明と神武之略を
以ってして,其の緩きところ<者>を捨てられ,賊を討つことに専心なさるなら,臣は
以為らく難ずこと無くなろうとぞんじます矣。」

7 :
中書侍郎であった東萊(出身)の王基は上疏して曰く:「臣が聞きますに古人は水を
以ってして民に喩えて曰く:『水は以って舟を載せる所なれど,亦た以って舟を覆す所
でもある。』顔淵は曰く『東野子之御すに,馬の力は盡きるとも矣,而して進とを
求めて已まない,殆んど將に敗れることであろう矣。』今や事役に勞苦しており,男女は
離され曠げられております,願わくば陛下には深く東野之敝を察せられ,意を舟水之
喩えに留められて,未だ盡きせぬに於いて奔駟を息つかせ,未だ困じざるに於いて
力役を節(度)となさいますように。昔漢が天下を有したおり,孝文の時に至ると唯だ
同姓の諸侯が有るのみでした,而して賈誼は之を憂いて曰く:『積みあげた薪之下に
火を置いて而して其の上に寢ていながら,因って之を安んじていると謂う。』としたとか。
今寇賊は未だ殄じられず,猛將が兵を擁しております,之を檢ずれば則ち以って敵に
應ずこと無くなり,之を久しくすれば則ち難が以って後に遺される,當に盛明之世に
あたって,以って患いを除くを務めとせず,子孫が競わざるが若かるは,社稷之憂い
でございます也。賈誼を使て復た起たしむるもので,必ずや曩時に於いて深く切す
ものでありましょう矣。」帝は皆聽きいれなかった。
  殿中の監督役が,蘭台令史を擅收したため,右僕射の衛臻が之を案ずるよう
奏した。詔がくだり曰く:「殿捨の成らざるは,吾が心に留めおく所,卿が之を推すは,
何ゆえか也?」衛臻曰く:「古制にある侵官之法は,其の勤事を悪むに非ず也,
誠に以って益となる所のもの<者>は小さく,墮ちる所のもの<者>は大きい
からです也。臣がこと毎に校事を察してきたこと,類は皆此の如くであります,若し
又た之を縱にすれば,懼らくは群司は將に遂には職を越えることになり,以って
陵夷するに至ることでしょう矣。」
  尚書であった涿郡の孫禮は固く役(務)を罷めるよう請うた,帝は詔をくだして
曰く:「欽しんで讜言を納れよう。」促遣民作;監作していた者は復た一月留め,
成る所が有ってから訖めるようにと奏(上)した。孫禮は(役務で)作している所に
徑至すると,重ねて奏(上)をすること復せずに,詔があると稱えて民(の役務)を
罷めさせたが,帝は其の意を奇として而して責めなかった。帝は群臣らがした直諫
之言を用い尽くすこと能わざると雖も,然るに皆之を優容したのである。

8 :
  秋,七月,洛陽の崇華殿が(火)災となった。帝は侍中で領太史令である泰山
(出身)の高堂隆に問うて曰く:「此れは何の咎めであろうか也?禮に於いて寧んぞ
祈禳之義が有ろうか乎?」對して曰く:「《易‧傳》に曰く:『上が不儉であり,下が不節
であれば,孽火が其の室を燒く。』とあります又た曰く:『君が其の台を高くすれば,
天火が災を為す。』此れは人君が務めて宮室を飾りたて,百姓の空しく竭きるを
知らぬゆえ,故に天が之に應じるにあたり旱を以ってし,火が高殿より<従>
起こったのです也。」
詔があり高堂隆に問うた:「吾が聞くに漢の武帝之時に柏梁が(火)災にあったため,
而して大いに宮殿を起てて以って之を厭したとか,其の義は雲何<いかん>?」
對して曰く:「夷越之巫が為せし所でありまして,聖賢之明訓に非ざることです也。
《五行志》に曰く:『柏梁の(火)災があり,其の後に江充の巫蠱の事が有った。』
それ《志》之言の如くでありますなら,越の巫が建てし章など厭う所が無かったこと
になります也。令して宜しく民の役(務)を罷め散らすべきです。宮室之制は,
務めて約節することに従われ,所災之處を清掃し,不敢於此有所立作,則ち
萐莆、嘉禾も必ずや此の地に生じましょう。若し乃ち民之力を疲れさせ,民之財を
竭きさせるは,符瑞を致して而して遠くの人を懐かせる所以に非ざるものです也。」
  八月,庚午,皇子芳を立てて齊王と為し,詢を秦王と為した。帝には子が無く,
二王を養って子と為した,宮省の事は秘められていたため,其の由來する所を
知る者が有ること莫かった。或るいは云う:芳は,任城王楷之子であると也。
  丁巳,帝は洛陽に還った。

9 :
  詔がくだされ復た崇華殿を立てることとなり,名を更めた。曰く九龍である。
穀水を通じ引きこみ九龍殿の前を過ごし,玉井綺欄を為して,蟾蜍が含み受け,
神龍が吐き出した。博士である扶風の馬鈞を使て司南車を作さしめ,水は百戲を
転がした。陵霄闕が始め構えられると,鵲が其の上に巣をつくること有った,帝は
以って高堂隆に問うたところ,對して曰く:「《詩》に曰く:『惟れ鵲のみが巣を有し,
惟れ鳩のみが之に居す。』今宮室を興し,陵霄闕を起こしたところ,而して鵲が
之に巣をつくりました,此れ宮が未だ成らざれば身は居いを得ざると之象であり
ます。大意に若いて曰く:『宮室の未だ成らざるは,將に他姓に之を制御される
こと有るもの』。斯かるは乃ち上天之戒めというものです也。夫れ天道には親など
無く,惟だ善人に与すのみであります,太戊、武丁は災を睹(み)ると悚(おそ)れ
懼れたため,故に天は之に福を降したのです。今若し百役を休め罷め,コ政を
増し崇めるなら,則ち三王も四となる可く,五帝も六となる可きことでしょう,豈に
惟だ商宗が禍を転じて福と為す而已のみでありましょうか哉!」帝は之が為に
動容した。帝の性は嚴しく急くもので,其の宮室を修めるを督すもので稽限を有
した者について,帝は親しく召問し,言が猶も口に在るのに,身と首は已に分かれ
てしまうものであった。散騎常侍で領秘書監の王肅は上疏して曰く:「今宮室が
未だ就かざるに,作者は三四萬人に見えようとしております。九龍は以って聖體を
安んず可く,其れ内では以って六宮を列すれば足るものですのに;惟だ泰極(殿)
だけが已に前にあるだけですから,功夫は尚も大なることとなりましょう。
願わくば陛下には常に食に稟(欠)する之士を取って,急要に非ざる者之に用いる
こととし,其の丁壯を選び,萬人を擇び留めて,一期を使て而して之を更めさせます
よう。咸知息代有日(皆が息つぎ交代する日がいつ有るかを知れば),則ちスばざる
もの莫く以って事に即きましょうし,勞したとて而して怨みますまい矣。計りますに
一歳には三百六十萬夫を有しましょうが,それは亦た少ないと為さざるだけのものに
なりましょう。當に一歳にして成るべきこと<者>が,聽きいれられて且つ三年ともな
れば,其の餘りを分かち使わして,皆を農に即か使むこととなさいましょう,無窮之計
というものです也。夫れ民に於ける信は,國家大いなる寶でございます也。前に車駕が
當に洛陽に幸じられたおり,民を(徴)発して營を為しました,有司が命ずにあたって
營が成れば而して罷めさせることを以ってしたのです;しかし既に成ると,又た其の功
力を利(用)しようとして,不以時遣。有司は徒らに目前之利を営んで,經國之體を
顧みないものです。臣愚かしくも以為らく今より<自>已みて後に,儻じて復た民を
使わすばあい,宜しく其の令を明らかにし,必ず期した如くに使むべきです,そして
以って次いで事が有ったばあいには,寧ろ更めて(徴)發せ使むこととするなら,
或いは信を失うこと無くなりましょう。凡そ陛下が時之刑を行う所に臨むにあたっては,

10 :
今度はちゃんと続けるんだぞ。

11 :
皆有罪之吏であって、宜しく死すべき之人であるのですが也;然りながら衆庶(民衆)
はそれを知らぬのですから,倉卒なことを為したと謂うでありましょう。故に願わくば
陛下には之を吏に於けるに下され,而して其の罪を暴し,其の死に鈞<ひと>しい
ならば也,宮掖を<於>汚し而して遠近の疑う所と為さ使むる無かれ。且つ人命は
至重でありまして,生かすに難くすに易く,氣絶たれれば續かざることとなる者です,
是ぞ以って聖賢の之を重んじたところなのです。昔漢の文帝は犯蹕者をそうと欲し
ましたところ,廷尉の張釋之が曰く:『其の時を方じますに,上が之を誅せ使むからと
則ち已め,今は廷尉に下されてしまいました,廷尉は,天下之平でございますれば,
傾ける可からざることです也。』臣以為らく大いに其の義を失ったもので,忠臣が
宜しく陳べるべき所のものに非ざることです。廷尉とは<者>,天子之吏でございます,
猶も平らかなるを失うを以ってす可からざるというのに,而して天子之身が反って
以って惑わされ謬まされる可きことになったとは乎!斯かるは己が為に於けるを
重んじ而して君が為に於けるを軽んじたもの,不忠之甚しきものです也,察しない
可きでありませんぞ!」
  中山恭王兗は病に疾むと,官屬に令して曰く:「男子は婦人之手に於いて死なず,
亟すなら東堂を營しおえた時を以っていたさん。」堂成ると,輿にのって疾く往きて之
に居した。又た世子に令して曰く:「汝は幼くして人君と為る,樂しみを知るも苦しみを
知らず,必ずや將に驕奢を以って失を為す者となろう也。兄弟に不良之行い有れば,
當に膝を造して之を諫め,之を諫めて從わないなら,流涕して之を喩え,之に喩えて
改めざれば,乃ち其の母に白し,猶も改めざれば,當に以って奏聞せしめ,並んで
國土を辞すべし。其の寵を守り過ちに罹ると<与>は,貧賤となり身を全うするに
若かず。此れは亦た大罪惡を謂うのみ耳,其の微過や細故については,當に之を
掩い覆うべきである。」冬,十月,己酉,曹袞は卒した。
  十一月,丁酉,帝は行きて許昌に如いた。
  是の歳,幽州刺史の王雄は勇士の韓龍を使て鮮卑の軻比能を刺せしめた。
是より<自>種落は離れ散り,互いに相侵伐しあい,強者は遠ざかり遁れ,弱者は
服さんことを請うこととなり,邊陲は遂に安んじたのである。
  張掖にある柳谷口水が溢れ湧れると,寶石が圖を負うてあらわれた,その状は
靈亀を象っており,川の西に於いて立った,石馬七つ及び鳳皇、麒麟、白虎、犧牛、
璜玦、八卦、列宿、孛彗之象が有り,又た文が有って曰く「大い曹を討て」。詔書が
くだり天下に班べられ,以って嘉瑞と為された。任(県の)令である於綽は連繼すると
以って巨鹿の張□に問うたところ,□は密かに綽に謂いて曰く:「夫れ神は以って
來たるを知るもので,已に往きたるを追わず,祥兆が先ず見え,而る後に廢興が
之に從うものだ。今や漢の亡びたること已にして久しく,魏は已に之を得たり,何ぞ
祥兆を追って興こす所であろうか乎!此の石は,當今之變異にして而して將來之
符瑞であろう也。」
  帝は人を使て馬を以って呉に於いて珠璣、悲翠、玳瑁と易えさせようとした,
呉主曰く:「此れ皆孤の不用とする所,而して以って馬を得る可くるなら,孤は何ぞ
焉を愛おしもうか。」皆以って之を與えた。

12 :
>>10
終わらなかったことは無かった筈だけど違う世界線の俺はエタったようで
大変もうしわけありませんでした。この世界線では頑張ります。
烈祖明皇帝中之下青龍四年(丙辰,西暦236年)
  春,呉人は大錢を鋳た,一つで五百に当たる。
  三月,呉の張昭が卒した,年八十一である。張昭の容貌は矜嚴とし,威風が
有ったため,呉主以下,邦を挙げて之を憚った。
  夏,四月,漢主は湔に至ると,觀阪に登り,汶水之流れを観た,旬日して而
して還った。
  武都にいた氐王の符健が漢に於いて降ることを請うてきた;其の弟は從わず,
四百戸を将いて(魏に)來降した。
  五月,乙卯,樂平定侯の董昭が卒した。
  冬,十月,己卯,帝は洛陽宮に還った。
  甲申,大辰に於いて星が孛すこと有り,又た東方に於いて勃した。高堂隆は
上疏して曰く:「凡そ帝王が都を徙し邑を立てるは,皆先ず天地、社稷之位を定めて,
敬い恭んで以って之を奉じてからとしたものです。將に宮室を營んとするにあたり,
則ち宗廟が先ず為され,厩庫が次と為し,居室が後と為ったものです。今のところ
圜丘、方澤、南北郊、明堂、社稷の神位は未だ定まらず,宗廟之制も又た未だ禮に
如かずにいるのに,而して居室を崇飾して,士民は(本)業を失っております,外の
人は鹹<みな>が云っております『宮人之用と<与>軍國之費が略(取)されること
齊しかる』と,(その二重の徴発に)民は命に堪えられず,皆怨みと怒りを有しており
ます。《書》に曰く:『天聰明自我民聰明,天明畏自我民明威。』とは言わば天之賞罰は,
民の言に隨い,民の心に順うものだということです也。夫れ采椽、卑宮は,唐、虞、
大禹之皇風が垂した所以であります也;玉台、瓊室は,夏癸、商辛之昊天を犯した
所以であります。今宮室は盛んなるを過ぎて,天彗の章らかに灼けたること,斯くは
乃ち慈父なる懇切之訓であるのです。當に孝子たらんとする祗聳之禮を崇ばれ,
宜しく忽を有して,以って天の怒りを重ねるべきでありません。」高堂隆は数<たびた>
び切諫したため,帝は頗るスばなかった。侍中の盧毓が進めて曰く:「臣が聞きますに
君明なれば則ち臣直なりとか,古之聖王は惟だただ其の過ちを聞けないことを恐れた
のです,此れ乃ち臣等が高堂隆に及ばない所以のものです也。」帝は乃ち解けた。
盧毓は,盧植之子である也。

13 :
  十二月,癸巳,穎陰靖侯の陳群が卒した。陳群は前後して数<たびた>び得失を
陳べ,こと毎に封事を上らせたが,輒ち其の草(稿)を削(除)したため,時の人及び
其の子弟は知ること能うるもの莫かった也。論者は或いは陳群は位に居りながら
拱默していると譏った;正始中,詔がくだされて群臣の上書を撰び以って《名臣奏議》
と為すこととなった,そこで朝士は乃ち陳群の諫事を見て,皆歎息すること焉れ
あったのである。
  袁子は論じて曰く:或るひとは云う:「少府の楊阜は豈に忠臣に非ざるか哉!
人主之非を見れば則ち勃然として之を觸した,與人言未嘗不道。」答曰:「夫れ仁者
は人を愛しむもので,之を君に施せば之を忠と謂い,親に於いて施せば之を孝と
謂う。今人臣と為って,人主の失道を見て,直ちに其の非を詆して而して播く其の
惡を揚げるは,直士と謂う可きであろうが,未だ忠臣と為さざることだ也。故き司空
の陳群は則ち然らず,談論すること終日なるも,未だ嘗て人主之非を言わなかった;
書は数十も上ったが,外の人は知らなかった。君子は陳群のことを是に於いて長者
に乎けるのだと謂うのである矣。」
  乙未,帝は行って許昌に如いた。
  詔がくだり公卿は才コ兼ね備えた者各一人を挙げることとなった,そこで司馬懿
は兗州刺史であった太原(出身)の王昶を以って選に應じた。王昶の為人は謹厚で
あり,其の兄の子に名づけるに曰く默,曰く沈,其の子に名づけるに曰く渾,曰く深
とし,書を為して之を戒めて曰く:「吾が四者を以って名づくを為したのは,汝ら曹を
使て名を顧みて義を思わせ,違え越えること敢えてさせまいと欲すゆえだ也。夫れ
物が成ること速やかなれば則ち亡ぶこと疾きもの,就くこと晩ければ而して終わる
こと善ろしきもの,朝に華さく之草,夕には而して零落しているもの,松柏之茂るは,
寒さが隆ぶろうとて衰えざるもの,是れぞ以って君子が闕黨に於いて戒めたものだ。
夫れ能く屈すは以って伸びんが為,讓るは以って得んが為,弱かるは以って強くな
らんが為であり,そうすれば遂げざること鮮ないものだ矣。夫れ毀譽とは<者>,
愛惡之原<もと>であって而して禍福之機である也。孔子は曰く:『吾之人に於け
るや,誰をか毀し誰をか譽めん。』聖人之コを以ってしても猶ち尚も此の如し,
況んや庸庸之徒は而して毀譽を軽んず哉!人が或いは己を毀さんとするなら,
當に退きて而して之をわが身に於いて求めるべきであろう。若し己が可毀之行いを
有していたなら,則ち彼の言は當である矣;若し己に可毀之行いが無いのなら,則ち
彼の言は妄である矣。當たっていれば則ち彼に於いての怨みなど無いものであるし,
妄(言)であれば則ちわが身に於いて害されるものなど無いことである,又た何ぞ
反って焉れに報いんとてか!諺に曰く:『寒さを救うには裘を重ねるに如くは莫く,
謗りを止めるには自らを修めるに如くは莫し。』とは斯かる言こそ信であろうよ!」

14 :
まぁこんなところかな。次回は明後日にでも。

15 :
続けろよ。

16 :
.   ∩____∩゜.:+
ワク. | ノ      ヽ+.:
:.ワク/  ●   ● |
  ミ  '' ( _●_)''ミ'' 1さん、激しく乙!!
. /  ._  |_/__ノヽ_ ワクテカしながら次回を待ちますw
 -(___.)─(__)
とりあえず↓に前スレと言うか関連スレを貼っておきましょうかね?
三国志好きな俺が資治通鑑晉紀を呉が滅亡するまで訳し続けるスレ
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1265883914/
と、司馬孚の子孫を名乗っていた司馬光先生、今回のスレでは
司馬一族の活躍が何処まで紹介されているのか楽しみですねw
てなわけで前回同様、何故に難しい漢字が文字化けせずに書き込み
出来るのか不思議で不思議で仕方ありませんが( ^∀^)ゲラゲラ

17 :
前スレ認定だ。続けてくれ。

18 :

新しいのきたか
待ってた

19 :
めんどくなったので整形のための改行は止める。
     烈祖明皇帝中之下  景初元年(丁巳,西暦237年)
  春,正月,壬辰,山茌縣で黄龍が見えたと言ってきた。高堂隆は以為らく:「魏は土コを得ましたから,故に其の瑞として黄龍が見えたのです,宜しく正朔を改め,服色を易える可きです,神を以て其の政を明らかにし,民の耳目を變えましょう。」帝は其の議に従った。
三月,詔が下されて改元し,是の月を以って孟夏四月と為し,服色は黄を尚び,犧牲には白を用い,地の正しきに従った。名を更めて《太和歴》を曰く《景初歴》とした。
  五月,己巳,帝は洛陽に還った。
  己丑,大赦した。
  六月,戊申,京都に地震があった。
  己亥,尚書令の陳矯を以って司徒と為し,左僕射の衛臻を司空と為した。
  有司が奏(上)し武皇帝を以って魏の太祖と為し,文皇帝を魏の高祖と為し,帝を魏の烈祖と為すこととし;三祖之廟は,萬世不毀とするようにとした。
  孫盛は論じて曰く:夫れ謚は表行を以てし,廟は存容を以てするものだ。未だ當年に有らずして而して逆に祖宗を制(定)し,未だ終らずして而して豫め自らを尊ばせ顯らかにしようとする。魏之群司は是に於いて正しきを失うに乎けることとなったのだ矣。
  秋,七月,丁卯,東郷貞侯の陳矯が卒した。

20 :
  公孫淵は数<たびた>び國中の賓客に對すると惡言を出すようになっため,帝は之を討とうと欲し,荊州刺史であった河東(出身)の毌丘儉を以って幽州刺史と為した。
毌丘儉は上疏して曰く:「陛下は即位されて已來,未だ書く可きことが有りません。
呉、蜀は險を恃みとして,未だ(早)卒には平げる可からざることです,此方にいる無用之士を以ってするなら遼東を克ち定めることも聊か可(能)でありましょう。」
光祿大夫の衛臻曰く:「毌丘儉が陳べし所は皆戦國の細術というもので,王者之事に非ざるものです也。
呉は頻る歳ごとに兵を稱え,邊境を寇亂させ,而して猶も甲を按じ士を養い,未だ致討を果たせざるのは<者>,誠に以って百姓が疲勞している故なのであります也。
公孫淵は海表に生長し,相承ること三世にわたり,外では戎夷を撫し,内では戦射を修めさせてまいりました,而るに毌丘儉は偏軍を以ってして長驅せんと欲し,朝に至って夕には卷こうとしました,其の(迷)妄は知れたものです矣。」
帝は聽きいれず,毌丘儉を使わして諸軍及び鮮卑、烏桓で遼東の南の(境)界にいたものを率いさせ,公孫淵を征すようにと璽書をくだした。
公孫淵は(徴)發した兵を前へすすめて反し,毌丘儉を遼隧に於いて逆にむかえうった。
天より雨ふること十餘日を會そ,遼水が大いに漲ったため,毌丘儉はこれと<与>戦うことに利せず,軍を引きつれて右北平に還った。
公孫淵は因って自立して燕王と為ると,改元して紹漢とし,百官を置き,使いを遣わして鮮卑の單于に璽を假し,邊(境の)民に封拜をおこなって,鮮卑を誘い呼びつけて以って北方を侵擾させた。

21 :
  漢の張后(皇后)が(崩)殂した。
  九月,冀、兗、徐、豫に大水があった。
  西平の(人である)郭夫人は帝に於いて寵が有り,毛后(皇后)への愛は弛んだ。
帝は後園に游ぶと,曲宴して樂しみを極めた。郭夫人は皇后も延べるよう請うたが,帝は弗して許さず,因って左右に禁じて使不得宣(宣べるを得ざら使むこととした)。
后(毛皇后)は之を知って,明くる日,帝に謂って曰く:「昨日北園で游宴しましたそうで,樂しかったですか乎?」帝は以って左右が之を洩したとし,十餘人をす所となった。
庚辰,后(毛皇后)に死を賜り,然るに猶ち謚を加えて曰く悼とした。
癸丑,愍陵に葬った。其の弟であった毛曾を遷して散騎常侍と為した。
  冬,十月,帝は高堂隆之議を用いると,洛陽の南にある委傑山に營して圓丘を為し,詔して曰く:
「昔漢氏之初め,秦がなした滅學之後を承り,殘缺を采摭して,以って郊祀を備えさせること,四百餘年,禘禮は廢れ無くなってしまった。
曹氏はその世系出自が虞に有る,今皇皇として帝たる天を祀るに圓丘に於けるものとし,以って始祖の虞舜を配す;
皇皇として后たる地を祭るに方丘に於けるものとし,以って舜妃伊氏を配す;皇天之神を祀るに南郊に於けるものとし,以って武帝を配す;皇地之祇を祭るに北郊に於けるものとし,以って武宣皇后を配す。」

22 :
  廬江の主薄であった呂習が密かに人を使わして呉に於いて兵を請い,門を開いて内応しようと欲した。
呉主は衛將軍の全jを使て前將軍の硃桓等を督させて之に赴かせた,既にして至ったところで,事が露わになったため,呉軍は還った。
  諸葛恪が丹楊に至ると,書を四部屬城の長吏に移し,各おの其の疆界を保つよう令し,部伍を立てること明らかとした;其の(開)化に従った平民は,悉く屯居するよう令した。
そうして乃ち内の諸將には,羅兵幽阻,但だ籓籬を繕わせるだけとして,鋒を交えることに与させず,其の穀稼が將に熟さんとするに候して,輒ち兵を縱にして芟刈させ,種を遺こすこと無から使めた。
舊穀(昨年の収穫)は既にして盡き,新たな穀は收められず,平民の屯居にて,略さんとしても入る所など無かった。
是に於いて山民は饑え窮し,漸く出てきて降首することになった。諸葛恪は乃ち復た下に敕して曰く:「山民は惡から去って(王)化に従ってきたものだ,皆當に撫慰すべし,外の縣に徙し出し,嫌疑を得ずに,拘える所が有れば執とす!」
臼陽の長であった胡伉は降民の周遺を得たが,周遺は舊もと惡民であり,困って迫られて暫出してきたため,胡伉は縛り送って府に言った。
諸葛恪は以って胡伉が教えに違えたとして,遂に斬りすてて以って徇じた。
民は胡伉が人を執らえたことに坐して戮を被ったと聞き,官(軍)が惟だただ之に出てくるのを欲している而已(のみ)であると知り,是に於いて老いも幼きも相攜きあって而して出てきて,歳(一年)たって期した人数は,皆本規の如くとなった。
諸葛恪は自ら萬人を領すると,餘りは諸將に分け給した。呉主は其の功を嘉して,諸葛恪を拝して威北將軍とし,都郷侯に封じて,屯を廬江の皖口に徙した。

23 :
  是歲,長安にある鐘虡、橐佗、銅人、承露盤を洛陽に於けるに徙した。盤折とは,(音)聲が数十里にわたり聞こえるものである。銅人は重すぎて,致す可からざるものであったため,霸城に於けるに留めた。
大いに銅を(徴)発して銅人二つを鋳ると,號して曰く翁仲とし,司馬門外に於いて列坐させた。又た黄龍、鳳皇を各おの一つ鑄た,龍の高さは四丈,鳳の高さは三太餘り,内殿の前に置いた。
土山を芳林園の西北陬に於いて起こし,公卿群僚を使て皆して土をせ負わせ,松、竹、雜木、善草を其の上に於いて樹え,山禽雜獸を捕えて其の中に致した。
司徒軍議掾であった董尋は上疏して諫めて曰く:「臣が聞きますには古之直士とは,國に於いて言うを盡くし,死に亡ぶことを避けないものです,故に(かつて)周昌は高祖のことを桀、紂に於けるに比し,劉輔は趙後を人婢に於けるに譬えたのです。
天の生みし忠直なるものは,白刃や沸湯と雖も,往きて而して顧みざる者です,誠に時の主の為に天下を愛惜したのです也。建安以來,野に戦にと死に亡び,或るいは(一)門が殫きはて(一)戸は盡きはて,存る者が有ると雖も,孤り老弱のみ遺されているありさまです。
今宮室が狹く小さいから,當に之を廣げ大きくすべかるが若くであろうとも,猶も宜しく時に隨うて,農務を妨げざるべきでございましょう,況んや乃ち無益之物を作すにおいてをや!
黄龍、鳳皇、九龍、承露盤,此れらは皆聖明之興こさざる所のものです也,其の功は殿捨に於けるより三倍にもなりましょう。
陛下は既にして群臣を尊ぶにあたって,冠冕を以ってして顯らかにし,文繡を以ってして被らせ,華輿を以ってして載せられましたこと,小人に於けると異なる所以であります;
而使穿方舉土,面目垢K,沾體塗足,衣冠了鳥,國之光やけるを毀して以って無益を崇めるは,甚だ非謂なことであります也。
孔子は曰く:『君は臣を使うに禮を以ってし,臣は君に事えるに忠を以ってす。』としております、忠無くまた禮無くば,國は何をか以って立ちましょうか!
臣は言出ずれば必ずや死すことを知っております,而りながら臣は自らを牛之一毛に於けるに比しておりますからには,生は既にして益など無いものです,死など亦た何をか損なうものでしょう!
筆を秉して涕<なみだ>が流れ,心では世と<与>すでに辭しております。臣には八子が有りますから,臣が之に死した後には,陛下に(私の為したのとおなじ諫言を八子ことごとく陛下に死を賜ろうとも)累ねたてまつらせるしだいです!」
將に奏(上)するにあたり,沐浴して以って命を待った。帝曰く:「董尋は死を畏れざるか邪!」主者は董尋を収(監)するよう奏(上)したが,詔が有って問うこと勿れとなった。

24 :
  高堂隆は上疏して曰く:「今之小人は,秦、漢之奢靡を好んで説いて以って聖心を蕩さぶっております;亡國不度之器を求めて取らせ,勞役が費され損なわれて以ってコ政を傷つけさせております。
これは禮樂之和を興し,神明之休を保つ所以に非ざることでございます也。」帝は聽きいれなかった。
高堂隆は又た上書して曰く:「昔洪水が天を滔ずること二十二載ともなりましたが,堯、舜の君臣は南面する而已でした。
今は若時之急など無いのに,而して公卿大夫を使て並んで廝徒と<与>共に事役に供じさせておりますが,之を四夷が聞くのは,嘉聲に非ざることですし,之を竹帛に垂するは,令名に非ざることです。
今呉、蜀の二賊は,徒らに白地、小虜、聚邑之寇に非ず,乃ち僭號稱帝し,中國と<与>衡を争わんと欲しているのです。
今若し人で來たり告げるものが有って:『權、禪は並んでコ政を修めて,租賦を輕くし省き,動くにあたって耆賢に咨り,事えるにあたって禮度を遵んでいるとか,』
としてきたなら陛下は之を聞いて,豈にタ然として其の此の如かるを悪まずにおれましょうか,以為らく(倉)卒に討ち滅ぼすに難しく而して國の憂いと為すことでしょう!
若し告げる者を使て曰く:『彼の二賊は並んで無道を為し,(奢)侈を崇めて度無く,其の士民に役をかし,其の賦斂を重くし,下は命に堪えず,吁嗟が日ごと甚しくなっています,』
であるなら陛下は之を聞けば,豈に彼らの疲敝して而うして之を取ることの難しからざるを幸いとせずにいれましょうか乎!苟しくも此の如かれば,則ち心を易えて而して度る可く,事義之数も亦た遠からざることでしょう矣!
亡國の這主は自らを亡びずと謂い,然る後に亡びに於けるに至るものです;賢聖之君は自らを亡びなんとせりと謂いて,然る後に亡びざるに於けるに至るものです。
今や天下は雕敝とし,民には儋石之儲えとて無く,國には終年之蓄えとて無いのに,外には強敵が有り,六軍は邊(境)に暴されたままで,内では土功が興され,州郡は騷ぎ動いております,
若し寇警有らば,則ち臣は版築之士は命を虜庭に投げだすこと能わざるを懼れるしだいです矣。
又た,將吏の奉祿が,稍も折減するに見えております,之を昔に於けるに方ずると,五つに分けて一が居るようなもの,諸もろの休みを受けている者も又た稟賜を絶たれており,輸(送)に應じない者も今や皆半ばを出ております,
此は官に入り兼ねるものが舊きに於けるより多く,其の出て與參(参与)する所は昔に於けるより少ないが為です。而して度支經用,更毎不足,牛肉小賦,前後相繼。反而推之,凡此諸費,必有所在。
且つ夫れ谷帛を祿賜することは,人主が吏民を惠養して而して之が為に命を司る者である所以であります也,若し今廢すこと有れば,是れぞ其の命を奪うものです矣。既にして之を得ていたのに而して又た之を失う,此れは怨みが生ずる之府となりますぞ也。」
帝は之を覽て,中書監と、令に謂って曰く:「高堂隆の此の奏は,朕を使て懼れしむるものだ哉!」

25 :
  尚書の衛覬は上疏して曰く:「今の議者は多好ス耳:其の政治を言うに,則ち陛下を堯、舜に於けるに比し;其の征伐を言うに,則ち二虜を狸鼠に於けるに比しております。臣以為らく然らざることです。
四海之内は,分かたれて而して三つを為し,群士は力を陳し,各おの其の主を為しております,是れ六國が分かれ治めたのと<与>以って異なることを為すこと無いものです也。
當今は千里にわたり(家事の)煙など無く,遺民は困苦しております。陛下が意に留めることを善しとせざるなら,將しく遂には凋敝してしまい,復た振う可きことも難しくなりましょう。
武皇帝之時にあっては,後宮の食は一肉に過ぎず,衣は錦繡を用いず,茵蓐も縁に飾りせず,器物は丹も漆も無かったため,用って能く天下を平定し,福を子孫に遺されたこと,此れ皆陛下之ご覽になった所でございましょう也。
當今之務めは,宜しく君臣上下とも,府庫を計校し,入るを量って出るを為しても,猶も及ばざるを恐れるべきでありますのに;而して工役は輟らず,侈靡は日ごと崇ぶり,帑藏は日ごと竭きなんとしております。
昔漢武は神仙之道を信じると,當に雲表之露を得るべく以って玉屑を餐とせんと謂い,故に仙掌を立てて以って高露を承らんとせしこと,陛下は能く明らかとし,こと毎に非として笑った所でございました。
漢武が露に於いてを求めんとしたというゆえ有ってさえ而して猶ち尚も非とされるに見えるものを,陛下は露に於いてを求めることも無いのに而して空しく之を設けられようとは,
好みに於いて益すことなく而してその功夫を糜(ただれ)んばかりに費さんとするとは,誠に皆聖慮の宜しく裁製すべき所でございます也。」
  時に詔が有って士の女で前に已に嫁がされて吏民の妻と為った者を録して奪い,還して以って士に配ることとし,それにあたり生口を以て自らを贖うことを聴きいれ,又た其の姿が首を有す者(優れた容貌の者)を簡選して之を掖庭の内にいれることとなった。
太子舍人であった沛國の張茂は上書して諫めて曰く:「陛下は,天之子でありますからには也,百姓吏民は,亦た陛下の子でございましょう也,
今彼より奪って以って此れに與えるは,亦た以って兄之髮を奪って弟へ妻(めとら)せるに於けるのと異なること無いかとぞんじます也,於父母之恩偏矣,
又,詔書では生口の年紀、顏色が妻と<与>相當たる者を以て自らに代えるを得るのを聴きいれるとしております,故に富者は則ち家を傾け産を盡くし,貧者は假を舉げて貰を貸りて,生口を貴び買うて以って其の妻を贖うております。
縣官は以って士に配って名を為すとしながら而して實は之を掖庭の内にいれて,其の醜惡なるは乃ち出して士に与えております。
婦を得た者は未だに必ずしも喜ばず而して妻を失った者は必ず憂いを有し,或いは窮し或いは愁うありさまで,皆志を得ておりません。
夫れ君で天下を有しながら而して萬姓之歡心を得ざる者は,危殆(に瀕)せざること鮮なしとか。
且つは軍師が外に数十萬人も在って,一日之費は千金を徒にするに非ずして,天下之曲を挙げて以って此の役に奉じておりますのに,猶も將不給,況んや復た宮庭に非員無録之女を有さんとは。
椒房の母后之家は,賞賜がざまに與えられ,内と外とで交わり引きあい,其の費は軍(費)の半ばになっております。
昔漢の武帝は地を掘って海を為し,土を封じて山を為しました,是時に天下が一つと為っていたことをョりとしたため,敢えて與して爭う者が莫かっただけ耳なのです。
衰亂以來より<自>,四五十載(四五十年),馬は鞍を捨てられず,士は甲を釋されず,強寇が疆(界,域)に在って,魏室を危うくせんことを圖っております。
陛下は戦戦業業として,節約することを念崇せずに,而して乃ち奢靡是務,中るに尚方には玩弄之物を作らせ,後園では承露之盤を建てております,斯かるは誠に耳目之觀には快いことですが,然るに亦た騁寇讎之心を以てするに足るものです矣!
惜しいかな乎,堯、舜之節儉を捨てて而して漢の武帝之侈事を為そうとは,臣は竊いますに陛下の為に取らざるところでございます也。」帝は聽きいれなかった。

26 :
  高堂隆は疾<やまい>篤くなると,口づての佔にて上疏して曰く:「曾子に言が有ります曰く:『人之將に死なんとするや,其の言や也善し。』とか。
臣は寝こんでから疾は揩キこと有るとも損なわれること無く,常に恐れてきましたことは奄忽して,忠款の昭らかにならざることでした,臣之丹誠でございます,願わくば陛下には少しく省覽を垂れられんことを!
臣が觀ますに三代之天下を有してきたこと,聖賢相承りあい,歴は百載を数え,尺土とて其の有するに非ざること莫く,一民とて其の臣に非ざるもの莫いことでありました。
然るに癸、辛之徒が,心を縱にして欲を極めたため,皇天は震え怒り,宗國は墟を為してしまい,紂は白旗を梟し,桀は鳴條を放りだすこととなって,天子之尊きは,湯、武が之を有したのであります。豈に伊の人と異なることでございましょうか?皆明王之冑なのであります也。
黄初之際にあった,天兆は其の戒めであります,異類之鳥が,燕の巣で口と爪と胸を赤くして育まれ長じたこと,此れは魏室之大異でございます也。宜しく鷹揚之臣を蕭牆之内に於いて防がれるべきです。
諸王を選び,君國を使て兵を典じしめ,往往として□寺を棋せしめ,皇畿を鎮撫せしめ,帝室の翼亮とされる可きです。夫れ皇天に親など無く,惟だコのみが是れ輔くのみです。
民がコ政を詠むようですと,則ち過ちの歴(史)が延期されるものです;下に怨み歎きが有ることとなれば,則ち能に授けた(次代の創業者に天下を譲り渡した)と輟り録されることになるものです。
此れに由って之を觀ますに,天下は乃ち天下之天下でありまして,獨り陛下だけ之天下に非ざるものです也!」帝は手づから詔をくだして之を深く慰勞した。未だ幾らもなくして而して卒した。
  陳壽は評して曰く:高堂隆はその學業の修まること明るく,志は君を匡けるに存し,變に因って戒めを陳べたこと,懇誠に於けるより発せられたものであった,忠であろう矣哉!
正朔を改めること必ずせんとするに至るに及び,魏の祖を虞として俾したことは,所謂る意<きもち>が其の通者の歟ずるを過ぎたということか!
  帝は浮華之士を深く疾<にく>み,詔を吏部尚書の盧毓にくだして曰く:「選舉は名を有するものを取ること莫かれ,名(声)は地に作られた餅を畫いたが如し,啖ず可からざるものだ也。」
盧毓は對して曰く:「名(声)は以って異人を致しむには足らざるも而して以って常士を得る可きところではございます:常士は教を畏れ善を慕うため,然る後に名(声)を有すことになったもので,當に疾むべき所に非ざるものです也。
この愚臣は以って異人を識るに足らざること既にしております,又主る者は正しきをおこなうに以って名を循じ常を案じて職と為してきておりますが,但だたんに當に以って其の後を驗めること有るのみです耳。
古には<者>敷奏には言を以てし,明試には功(のあるなし)を以てしました;今は考績之法が廢れているため,而るに毀譽を以て相進み退きあっております,故に真偽が渾雜し,虚實が相蒙りあっているのです。」
帝は其の言を納れた。詔が散騎常侍の劉邵にくだされて考課法が作られることとなった。劉撃ヘ《都官考課法》七十二條を作り,又た《説略》一篇を作ったところ,詔がくだり百官の議に下された。

27 :
  司隸校尉の崔林曰く:「《周官》の考課を案じますに,其の文備われり矣。康王より<自>以下,遂に陵夷を以ってせしは,此れ即ち考課之法が其の人に乎いて存すということであります也。
漢之季に及び,其の失われたのは豈に佐吏之職の密ならざるに乎けるに在ったでありましょうか哉!方今、軍旅は或いは猥りにおこり或いは卒としておこり,その増減には常なることが無いこと,固より一つにするに難しいものであります矣。
且つは萬目張らざるなら,其の綱(紀)を挙げ,衆毛が整わざるなら,其の領を振うこととします,皋陶が虞に仕え,伊尹が殷に臣たると,不仁なる者は遠ざかったのです。
大臣が其の職を任ずこと能うに若かば,是を式ってして百たび辟すこととすれば,則孰敢不肅,烏在考課哉!」
黄門侍郎の杜恕は曰く:「明試は功を以ってし,三たび黜陟を考ずとは,誠に帝王之盛制であります也。
然りながら六代を歴しても而して考績之法が著わされず,七聖を關しても而して課試之文は垂れられずにおります,臣誠に以為らく其法可粗依,其詳難備舉故也。
語に曰く『世に亂人有るとも而して亂法無し』とは,若し法を使て專任せしむ可けるなら,則ち唐、虞は稷、契之佐けを須たざる可きこととなっておりましたでしょうし,殷、周も伊、呂之輔けを貴ぶこと無かったでありましょう矣。
今功(績)を考ずことを奏(上)してきた者は,周、漢之雲為を陳べ,京房之本旨を綴っております,考課之要を明らかにしていると謂う可きではありましょう矣。
しかし揖讓之風を崇ぶを以ってして,濟濟之治を興さんとするに於けるは,臣以為らく未だ善を盡くさざることでございます也。
其れ州郡を使て士を考じさせしまんと欲すれば,必ずや四科に由り,皆事效が有って,然る後に察舉し,公府に試し辟し,新たな民の長吏と為します,
轉ずるに功を以ってして郡守を次ぎ補った者は,或いは増秩賜爵に就くことになるわけで,此れ考課之急務の最たるものであります也。
臣以為らく便當顯其身,用其言,使具為課州郡之法,法が具さに施行されれば,必信之賞を立て,必行之罰を施すことになります。公卿及び内職の大臣に於けるに至っては,亦た當俱以其職考課之。
古之三公は,坐して而して道を論じたものです;内職の大臣は,納言補闕するに,善無くば紀さず,過ぐること無くば舉げずとしたものです。
且つ天下は至大であります,萬機は衆に至るものであります,誠に一明が能く遍く照らしうる所のものに非ざることです;故に君は元首と為り,臣が股肱と作して,其の一體相須つを明らかにして而して成ってきたものなのです也。
是れ以って古人が稱えたのは廊廟之材であって,一木之枝に非ず,帝王之業であって,一士之略に非ず。是に由って之を言わば,焉有大臣守職辦課,可以致雍熙者哉!
誠使容身保位,無放退之辜,而盡節在公,抱見疑之勢,公義が修まらずに而して私議が成りて欲されることでしょう,仲尼(孔子)が課を為すと雖も,猶も一才を盡くすこと能わざるというのに,又た況んや世俗之人に於いてをや乎!」
司空掾であった北地(出身)の傅嘏曰く:「夫れ官を建て職を均しくし,民や物を清らかに理めるは,本を立てんとする所以であります也。名を循にして實を考じ,成規を糾し勵ますは,末を治めんとする所以であります也。
とするならいまおこなわれているのは本綱の未だ舉がらざるに而して末程に制を造るもので,國(の大)略が崇められざるのに而して考課について是れぞ先だとしていること,懼れながら以って賢愚之分を料り,幽明之理を精(緻)にするには不足でございます也。」
議は之を久しくしても決されず,事は竟に行われなかった。

28 :
  わたくし臣(司馬)光曰く:為治之要(治世の要)とは,人を用いるに於けるより先んずるは莫かるに,而して知人之道は,聖賢の難きとする所である也。
是れ故に之を毀譽に於いて求めんとすれば,則ち愛憎は競い進み而して善惡は渾殽せり;之を功状に於いて考ぜんとすれば,則ち巧みな詐りが生して而して真偽が相冒されよう。
之を要すには,其の本が至公至明に於けるに在らしむ而已である矣。人の上と為る者が至公至明であれば,則ち群下之能否は焯然として目中に於けるに形<あらわ>れ,復た逃れる所無くなろう矣。
苟しくも不公不明を為すなら,則ち考課之法は,適足以為曲私欺罔之資也。何をか以って之を言わんか?公明とは<者>,心である也;功状とは<者>,(行)跡である也。
己之心が治めること能わず,而して以って人之(行)跡を考える,亦た難しからずや乎!人の上と為る者は,誠に能く親疏や貴賤を以ってせずして其の心を異とするものだ,喜怒好惡は其の志を乱すものであるから,
治經之士を知ろうと欲すなら,則ち其の記覽が博洽しているか,その講論が精通しているかを視ればよい,斯かるは善く治經を為すものである矣;
治獄之士を知ろうと欲すなら,則ち其の曲が情偽を盡くし,冤抑する所を無くしているかを視ればよい,斯かるは善く治獄を為すものである矣;
治財之士を知ろうと欲すなら,則ち其の倉庫が産みだされたもので盈たされ,百姓が富み給わっているかを視ればよい,斯かるは善く治財を為すものである矣;
治兵之士を知ろうと欲すなら,則ち其の戦いが攻取に勝り,敵人が畏服しているかを視ればよい,斯かるは善く治兵を為すものである矣。
それは百官に於けるまでに至ろうとも,皆然らざること莫いものだ。
詢謀は人に於けると雖も而して之を決すは己に在るもの,考求は(その足)跡に於けると雖も而して之を察すは心に在るもの,其の實を研ぎすまして核とし而して其の宜しむべきを斟酌する,
精に至り微に至っては,口述を以ってす可からず,書傳を以ってす可からず也,安んぞ豫為之法を得ても而して悉く有司に委ねられようか哉!
或る者は親貴なら不能であると雖も而して職を任され,疏賤なら賢才と雖も而して遺されるに見える;
喜ぶ所や好む所の者は官を敗っても而して去らせず,怒る所や惡む所の者は功が有っても而して録されぬ,詢謀が人に於けるとも,則ち毀譽相半ばすれば而して決すこと能わぬものであるし;
考求が跡に於けるとも,則ち文具われど實亡べば而して察すこと能わぬものである。復為之善法と雖も,其の條目をいくら繁らせ,其の簿書をいくら謹もうと,安んぞ能く其の真を得られようか哉!

29 :
  或るひと曰く:人君之治は,大なるは<者>天下,小なるは<者>一國,内外之官は千萬を以て数え,黜陟を考察するに,安んぞ有司に委ねず而して獨り其の事を任ずなど得られようか哉?
曰く:其れ然りと謂うに非ず也。凡そ人の上と為る者は,人君のみ<而已>に特せられず。
太守は一郡之上に居り,刺史は一州之上に居り,九卿は屬官之上に居り,三公は百執事之上に居る,皆此の道を用いて以って黜陟を在下之人に考察するもの,
人君と為る者も亦た此の道を用いて以って黜陟を公卿、刺史、太守に考察する,奚煩勞之有哉!
或るひと曰く:考績之法は,唐、虞の為す所であり,京房、劉邵が述べて而して之を修めた耳,烏んぞ廢す可けんか哉?
曰く:唐、虞之官は,其の位に居るや也久し,其の任を受くるや也專らにし,其の法を立てるや也ェく,其の責成たるや也遠し。
是れぞ故に鯀之治水,九載にわたり績用して弗して成らざればこそ,然る後に其の罪を治めたり;禹之治水して,九州が攸同し,四隩が既に宅してから,然る後に其の功を賞せり;
京房、劉券V法の若く,其の米鹽之課を校じ,其の旦夕之效を責めるに非ず也。事は固より名同じくも而して實の異なること有ること<者>,察せざる可からず也。
考績は唐、虞に於いて行われる可きものに非ずして而して漢、魏に於いて行われる可からざるものであったのは,京房、劉撃ノ由って其の本を得ずに而して其の末に奔趨したが故である也。

30 :
  初め,右僕射の衛臻は選舉を典じていたおり,中護軍の蔣濟が衛臻に書を遣わして曰く:「漢祖は亡虜に遇うと上將と為し,周武は漁父を抜(擢)して太師と為した,布衣や廝養といえど,王公に登る可く,何ぞ必ずや文を守って,試みてから而して後に用いんとや!」
衛臻曰く:「然らず。子は成、康に於ける牧野に同じくし,文、景に於ける蛇を断ったことを喩えにせんと欲しておりますが,不經之舉を好み,拔奇之津を開こうなど,將に天下を使て馳騁し而して起たしむるばかりでしょう矣!」
盧毓は人を論じ選舉するに及ぶに,皆性行を先にし而して後に才についてを言った,黄門郎であった馮翊(出身)の李豐は嘗て以って盧毓に問うたところ,
盧毓は曰く:「才は善を為す所以でありますから也,故に大才は大善を成し,小才は小善を成すのです。今之を稱えるに才有れども而して善を為すこと能わずとは,是れ才の器に中らざることでしょう也!」李豐は其の言に服した。

31 :
魏紀六
     烈祖明皇帝下景初二年(戊午,西暦238年)
  春,正月,帝は長安に於ける司馬懿を召すと,兵四萬を将い遼東を討たせ使むこととした。臣に議させたところ或るものは以為らく四萬の兵は多く,役費は供じ難しとした。
帝曰く:「四千里にわたる征伐である,雲<たと>え奇(策)を用いようと雖も,亦た當に力に任すべきもの,當に役費を稍計すべきでなかろうよ也。」帝は司馬懿に謂って曰く:「公孫淵は將た何をか計り以って君に待すであろうか?」
對して曰く:「淵が城を棄てて豫め走っている,上計でしょう也;遼東に拠って大軍を拒む,其の次となります也;坐して襄平を守る,此は禽われと成るのみです耳。」帝曰く:「然らば則ちその三つは<者>何ぞ出づるか?」
對して曰く:「唯だ智を明るくし能く審らかに彼我を量るのみです,そうすれば乃ち豫め割き棄つる所(予め逃げだすという選択肢)が有ることになります。此(こうした慮り)は既にして公孫淵の及ぶ所に非ざるものでしょうな,
であるからには又た謂いけらくるに今孤<わたくし>が遠くへ住きたるゆえ,久しく支えること能わずとし,必ずや先ず遼水で拒もうとし,後に襄平を守ろうとするでしょうな也。」
帝曰く:「還往は幾日か?」對して曰く:「往くに百日,攻むるに百日,還るに百日,六十日を以って休息と為します,此の如くであれば,一年あれば足りましょう矣。」
  公孫淵は之を聞くと,復た使いを遣して臣と称し,呉に於いて救いを求めた。
呉人が其の使いを戮さんと欲したところ,羊道曰く:「不可です,是ぞ匹夫之怒りを肆して而して霸王之計を損なうものです也,因って而して之に厚くするに如かず,奇兵を遣わして潛み往かせ以って其の成るを要すのです。
若し魏が伐して克てないなら,而して我らが軍は遠くへ赴いたこと,是れ恩が遐夷に結ばれたこととなり,われらの義は萬里に形なされましょう;
若し兵の連ねられたまま解けざるなら,(公孫の領土の)首尾離れ隔てられたことになりますから,則ち我らは其の傍郡を虜にし,驅略して而して歸る,これも亦た以って天之罰を致し,かつての曩事に報い雪ぐに足ることでしょう矣。」
呉主曰く:「善し!」乃ち大いに兵を勒して公孫淵の使いに謂って曰く:「請いねがわくば後問を俟たれるよう,當に簡書に従い,必ずや弟と<与>休戚を同じくしようぞ。」又た曰く:司馬懿の向う所その前にたちふさがるもの無い,深く弟の為に之を憂う。」
帝は護軍將軍の蔣濟に於いて問うて曰く:「孫權は其れ遼東を救わんか乎?」蔣濟曰く:「彼は官の備え已に固まり,利の得る可からざることを知っております,深入りすれば則ち力の及ぶ所に非ず,淺入りでは則ち勞すれど而して獲るもの無いことでしょう;
孫權は子弟が危うきに在ると雖も,猶も將は動かさないでしょう,況んや異域之人であるうえ,以って往者之辱しめを兼ねたものをや乎!
今外で此聲を揚げたる所以のところ<者>は,其の行人を譎かし,我らに於いて,我ら之克てざるを之に疑わせ,其の節が折れて己に事するを冀うのみです耳。
然りとて沓渚之間,公孫淵を去ること尚も遠かりけるも,若し大軍の相守りあって,事が速やかに決せずば,則ち孫權之淺規からして,或いは輕兵を得て掩襲せんとするやも,それは未だ測る可からざることです也。」
  帝は吏部尚書の盧毓に問うた:「誰が司徒たる者と為す可きだろうか?」毓は處士の管寧を薦めた。帝は用いること能わず,更めて其の次を問うた,
對して曰く:「敦篤至行なるは(その篤い行いが誰よりも際立っているのは),則ち太中大夫の韓暨です;
亮直清方なるは(直く正しくあって四方を清めるは),則ち司隸校尉の崔林です;
貞固純粹なるは(身を貞しく固め純やいでいるのは),則ち太常の常林です。」
二月,癸卯,韓暨を以って司徒と為した。

32 :
  漢主は皇后に張氏を立てた,前の後(皇后)之妹である也。王貴人の子の璿を立てて皇太子と為し,瑤を安定王と為した。
大司農である河南(出身)の孟光は太子の讀んでいる書及び(人)情や性(格)や好みや尚ぶところを秘書郎の郤正に於いて問うた,
郤正曰く:「親を奉じて虔恭であらせられ,夙も夜も解くこと匪ず,古の世子之風が有ります;群僚を接待するにあたっては,舉動は仁恕に於けるより出たものです。」
孟光曰く:「君の道とせし所に如くは,皆家戸が所有するところというだけだ耳;吾の今問いかけし所は,其の權略や智調の何如んを知りたいと欲してのことだ也。」
郤正曰く:「世子之道は,承志竭歡(志を承り歓を竭くす)に於けるに在るものでして,既にして妄りに施為を有すことを得ないでおります,
また智調は胸のうち懐のなかに於いて藏<かく>されるもの,權略は時に応じて而して発せられるもの,此之有無については,焉んぞ豫め知る可きことでしょうか也!」
孟光は郤正が慎しみ宜しくべかるを知って,放談を為さず(そのまま戯れ言に移ったりせず),乃ち曰く:「吾は直言を好み,迴避する所など無かった。
今天下は未だ定まらざるゆえ,智意が先を為そう,智意が自ずから然るなら,不可力強致(わざわざ力めてそうした智意を育成することもない)也。
君を儲する讀書については,寧んぞ當に吾等らのように力を竭くし(知)識を博めて以って(君主の)訪問を待つを效じ,博士が探策講試して以って爵位を求めるが如くであるべきであろうか邪!
當に其の急なるに務めるべきもの<者>でねばなるまい。」郤正は孟光の言は為すこと然るものだと深く謂った。郤正は,郤儉之孫である也。
  呉人は當千の大錢を鑄た。
  夏,四月,庚子,南郷恭侯の韓暨が卒した
  庚戌,大赦した。

33 :
  六月,司馬懿は軍し遼東に至ると,公孫淵は大將軍の卑衍、楊祚を使て歩騎数萬を将いさせ遼隧に(駐)屯させ,圍塹すること(塹壕を築いて自陣を囲むこと)二十餘里となった。
諸將は之を撃とうと欲したが,司馬懿曰く:「賊が壁を堅めた所以は,吾が兵を老わしめんと欲してのこと也,今之を攻めたなら,正に其の計(略)に墮ちることとなろう。
且つ賊は衆を大いにして此れに在る,なれば其の巣窟は空虚であろう。直ちに襄平を指せば,之を破ること必ずならん矣。」
乃ち旗幟を多く張りめぐらせ,其の南に出ようと欲したところ,卑衍等は鋭を盡くして之に趣いた。司馬懿は潛かに水を濟ると,其の北に出て,直ちに襄平に趣いた;卑衍等は恐れ,兵を引きつれて夜に走りにげた。
諸軍が進んで首山に至ると,公孫淵は復たも卑衍等を使わし逆戰してきた,司馬懿は撃って,之を大いに破り,遂に進んで襄平を囲んだ。
秋,七月,大霖雨があり,遼水が暴れ漲ったため,運船が遼口より<自>城下に徑至した。雨は月餘しても止まず,平地は水が數尺にもなった。三軍は恐れ,營を移したいと欲したが,司馬懿は軍中に令した:「敢えて徙ろうと言う者が有らば斬る!」
都督令史の張靜が令を犯したため,之を斬ったところ,軍中は乃ち定まった。賊は水を恃み,樵牧として(薪を拾い集め)自若としていた,諸將は之を取ろうと欲したが,司馬懿は皆聽きいれなかった。
司馬の陳珪は曰く:「昔上庸を攻めたおりには,八つに部して俱に進み,晝夜も息つかず,故に能く一旬之半ばには,堅城を抜き,孟達を斬りすてたのです。今は<者>遠く來たりて而して更めて緩めるに安んじようとは,愚かしくも竊いまして焉れに惑うしだいです。」
司馬懿曰く:「孟達は衆少なく而して食は一年を支えるほどあった,またこちらの將士は孟達に於けるより四倍あって而して糧は月を淹えなかった;そこで一月を以って一年を圖らんとするなら,安んぞ速やかならざる可けんか!
四を以って一を撃たせ,正に半ばを失わせ令めて而して克ったが,猶ち當に之を為すべきであったからで,是ぞ死傷を計らざるを以って,糧と<与>競ったのである也。
今賊は衆く我らは寡なく,賊は饑えて我らは飽いている,水が雨ふるつづけているからには乃ち爾らの功は力めて設けざるにある,當に之を促すべきと雖も(この状況を維持すべきであるとしても),亦た何ぞ為す所あろうか!
京師を発してより<自>,賊の攻(撃)を憂いず,但だ賊が(逃げ散り)走らんことを恐れていた。今賊の糧は垂<まさ>に盡きなんとし而して圍落は未だ合わずにいる,其の牛馬を掠めとり,其の樵采を抄めとってしまえば,此れ故驅之走とせしむであろう也。
夫れ兵とは<者>詭道である,事變に因ることぞ善ろし。賊は衆きに憑いて雨を恃んでいる,故に饑え困っていると雖も,未だ手を束ねること肯わずにおるのだ,當に無能を示して以って之に安んじさせるべきなのだ。
小利を取っては以って之を驚かせるだけ,計に非ざるというもの也。」朝廷は師が雨に遇っていると聞き,鹹<みな>兵(役)を罷めさせようと欲した。帝曰く:「司馬懿は危うきに臨みて變を制すであろう,公孫淵を禽えること日を計り待つ可きことだ也。」
雨が霽んでくると,司馬懿は乃ち圍みを合わせ,土山と地道を作して,櫓を楯にして鉤沖,晝に夜にと之を攻め,矢石は雨の如くとなった。公孫淵は窘急し(急に迫られ),糧は盡き,人相食みあうこととなって,死者は甚だ多くなって,其の將の楊祚等が降ることとなった。

34 :
八月,公孫淵は相國の王建、御史大夫の柳甫を使わして圍みを解き兵を卻すよう請うと,當に君臣面縛すべきことだとした。司馬懿は命じて之を斬りすてると,檄もて公孫淵に告げて曰く:「楚、鄭は列國なれど,而して鄭伯は猶も肉袒牽羊して之を迎えた。
孤<われ>は天子の上公なるに,而して建等は孤<われ>に圍みを解き退き捨てんことを欲してきた,豈に禮を得たものであろうか邪!二人は老耄ゆえ,傳言が失指したものであろうが,已に相為して之を斬りすてた。
若し意<きもち>に未だ已まざること有らば,更めて年少で明決を有す者を遣わし來たらしむ可し!」公孫淵は復た侍中の衛演を遣わして乞剋日送任(人質を送るまでの間猶予を乞わせた),
司馬懿は衛演に謂って曰く:「軍事の大要には五つが有る:戰うこと能うるなら當に戰うべし,戰うこと能わざるなら當に守るべし,守ること能わざるなら當に走るべし;餘りの二事は,但だ降(伏)と<与>死が有るのみだ耳。
汝は面縛を肯わない(降伏を首肯しない),ならば此は死に就くことを決めるを為したということ也,不須送任(人質を送るのを須<ま>つまでもない)!」
任午,襄平は潰え,公孫淵と<与>子の修は數百騎を将いて圍みを突いて東南へ走ったため,兵を大いにして急ぎ之を撃ち,公孫淵父子を梁水之上に於いて斬りすてた。
司馬懿は既にして城に入ると,其の公卿以下兵と民の七千餘人に及ぶまでを誅すと,京觀を築き為した。遼東、帶方、樂浪、玄菟の四郡は皆平げられた。
公孫淵之將に反かんとするや也,將軍の綸直、賈范等は苦諫したが,公孫淵は之を皆してしまった,司馬懿は乃ち綸直等之墓を封じ,其の遺嗣を顯らかにすると,公孫淵の叔父であった公孫恭之囚われていたのを釋(放)した。
中國の人で舊郷に還りたいと欲する者は,之を聴きいれることを恣にしてやった。そうしてから遂に師を班した。
  初め,公孫淵の兄の公孫晃は公孫恭の任子(人質)と為って洛陽に在った,先に公孫淵が未だ反かざる時に,數<たびた>び其の變を陳べ,國家を令て公孫淵を討たしまんと欲した;公孫淵が逆を謀るに及び,帝は市斬するに忍びず,之を獄に就けんと欲した。
廷尉の高柔は上疏して曰く:「臣が竊い聞きますに公孫晃は先んじて數<たびた>び自ら歸さんとし,公孫淵の禍ち萌えるを陳べてきました,凶族を為すと雖も,原心可恕(その心根を許して恕す可きです)。
夫れ仲尼が司馬牛之憂いを亮らかにし,奚明叔向之過ちを祁りましたこと,昔之美義が在ったというものです也。臣以為らく公孫晃は信<まこと>に言が有りました,宜しく其の死を貸してやるべきです;苟くも自らに言うことが無いなら,便じて當に市斬すべきです。
今進んでは其の命を赦さず,退いては其の罪を彰らかにせず,閉著囹圄,使自引分,四方觀國,或いは此の舉を疑わせてしまうことでしょう也。」
帝は聽きいれず,竟に使いを遣わして金の屑を継ぎ公孫晃及び其の妻子に飲ませ(害す)ると,賜るに棺衣を以てし,宅に於いて殯斂させた。

35 :
  九月,呉が赤烏と改元した。
  呉の歩夫人が卒した。初め,呉主は討虜將軍と為ると,呉に在り,呉郡の徐氏を娶った。太子の孫登は庶賤に生まれた所であったため,呉主は徐氏の母を令て之を養わせた。徐氏は妒<ねた>みぶかく,故に寵が無くなった。
呉主が西徙するに及び,徐氏は呉に留まり處すことになった。而して臨淮の(出身である)歩夫人が後庭で寵の冠たることとなった,呉主は立てて皇后と為そうと欲したが,而して群臣の議は徐氏に在った,
呉主の依違すること<者>十餘年。歩氏が卒するに会い,群臣は奏して皇后の印綬を追贈することとなり,徐氏は竟に廢され,呉に於いて卒したのである。
  呉主は中書郎の呂壹を使て諸官府及び州郡の文書を典校せしめた,呂壹は此れに因って漸いに威福を作すようになり,文を深め詆を巧みにし,無辜を排し陷れ,大臣を毀短し,纖介必聞(些細なことにも介入し呉主に聞かせた)。
太子の孫登は數<たびた>び諫めたが,呉主は聽きいれず,群臣で復た言うこと敢えてするものとて莫くなり,皆之を畏れて目を側めた。
呂壹は故の江夏太守の刁嘉について國政を謗訕していると誣白したため,呉主は怒り,嘉を収め,獄に系いで驗め問うた。時に同じく坐していた人は皆呂壹を怖れ畏いていたため,並んで之を聞くよう言った。
侍中であった北海(出身)の是儀は獨り雲えて聞くこと無かったため,遂に窮詰に見えること日を累<かさ>ね,詔旨轉氏i下される詔の内意が激しいものに転じていったため),群臣は之が為に屏息した。
是儀曰く:「今や刀鋸は已にして臣の頸に在ります,臣は何ぞ敢えて刁嘉の為に諱むを隠し,自ら夷滅を取って,不忠之鬼と為りましょうや!當に有るべき本末を聞こえ知らしむるを以て厄となったものです。」
そうして實に拠って問いに答え,辭は傾きも移いもしなかったため,呉主は遂に之を捨てた;刁嘉も亦た免れるを得たのである。上大將軍の陸遜、太常の潘濬は呂壹が國を乱すことを憂い,こと毎に之を言うと,輒ち涕<なみだ>を流した。
呂壹が丞相の顧雍は過失があると白したため,呉主は怒って,顧雍を詰責した。黄門侍郎の謝肱が語次問壹(事の次第を呂台に問うた):「顧公が事は何如になりましょう?」呂壹曰く:「佳きこと能わず。」
謝肱は又た問うた:「若し此れ公が免ぜられて退くことになれば,誰が當に之に代わるべきこととなりましょうか?」呂壹は未だ答えなかった。
謝肱曰く:「得無潘太常得之乎?(潘太常を無くして之を得るものないのではありませんか?)」呂壹は良く久しくして曰く:「君の語ることは之に近い也。」
謝肱曰:「潘太常は常に君に於けるに切齒していたが,但だ道に因るところ無かっただけです耳。今日顧公に代わらば,恐らく明日には君を撃とうと便ずことでしょう矣!」呂壹は大いに懼れて,遂に顧雍の事を解き散らせた。
潘濬は(仰)朝を求めて,建業に詣でた,辭を尽くして極諫せんと欲したのである。至ると,太子の孫登が已にして數<たびた>び之を言ったものの而して從うに見えなかったことを見て,
潘濬は乃ち大いに百寮を請い,會に因って手づから呂壹を刃にかけてし,身を以て之に當たって,國の為に患いを除こうと欲した。呂壹は密かに聞き知ると,疾と称して行かなかった。

36 :
西陵督の歩騭が上疏して曰く:「顧雍も、陸遜も、潘濬も,志は誠を竭くさんとするに在って,寢ても食べても寧らがず,念ずるは國を安んじ民に利ろしからんとし,久長之計を建てんと欲しております,これ心も膂も股肱であろうとする社稷之臣と謂う可きでしょう矣。
宜しく各おのに任を委ねられ,他官に其の司る所を監させ,其の殿最を課すこと使わしませんように。此の三臣の思慮は到らざれば則ち已むもの,豈に敢えて天に負いし所を欺かんとするでしょうか乎!」
左將軍の硃拠の部曲が三萬の緡を応じ受けとることになったが,工の王遂が詐って而して之を受けとった。呂壹は拠が實は取ってしまったのではと疑い,主っていた者を考じ問いつめ,杖下に於いて死なせた;
硃拠は其の無辜を哀しみ,棺を厚くして之を斂めたところ,呂壹も又た表して硃拠の吏が硃拠の為に(事実を)隠しとおしたため,故に其の殯を厚くしたのだとした。
呉主は數<たびた>び硃拠を責め問ったため,硃拠はもはや以って自ら(釈)明すること無くなって,藉草して罪を待つばかりとなった;數日して,典軍吏の劉助が覺って,王遂が取った所なのだと言った。
呉主は大いに感寤して,曰く:「硃拠さえ枉げられるに見えたのだ,況んや吏民をや乎!」乃ち呂壹の罪を窮め治めさせ,劉助には百萬を賞としてたまわった。
丞相の顧雍が廷尉に至って獄を断ずこととなり,呂壹は囚われを以て見えることとなった。顧雍は顔色を和ませて其の辭状を問うと,出るに臨み,又た呂壹に謂いて曰く:「君意得無慾有所道乎?」呂壹は叩頭したまま無言であった。
時の尚書郎であった懷敘が面詈して呂壹を辱めたところ,顧雍は懐敘を責めて曰く:「官には正法というものが有るのだ,何ぞ此れに於けるに至るのだ!」
有司が呂壹を大辟するよう奏(上)し,或るものは以為らく宜しく焚裂を加え,用って元惡を彰らかにすべきであるとした。
呉主は以って中書令であった會稽(出身)の闞澤を訪れたところ,澤曰く:「盛明之世なれば,不宜復有此刑(宜しく此の刑罰を復活させて施行なさるべきではありません)。」そこで呉主は之に從った。
  呂壹が既にして誅に伏すと,呉主は中書郎の袁禮を使て諸大將に謝を告げさせると,因って時事で當に損益すべき所を問わせた。
袁禮が還ると,復た詔をくだすこと有って諸葛瑾、歩騭、硃然、呂岱等を責めて曰く:「袁禮が還ってくると云った:『子瑜、子山、義封、定公と<与>相見えまして,以って時事で當に先にすべき所と後にすべき所の有ることを並んで咨りましたところ,
各おの自ら以って民事を掌っているわけでないからと,陳べる所が有ることを便ずのを肯わず,悉くが之を伯言、承明に推しはかるようにとしました。伯言、承明がこの禮に見えますと,泣き涕して懇惻し,辛く苦しいとの旨を辞し,至っては乃ち懷執危怖,有不自安之心。』
之を聞いて悵然とし,深く自らに刻んで怪しんだ!何者(どうしてであろうか)?夫れ惟だ聖人だけが能く行いを過つこと無いもので,明者だけが能く自らを見るのみである耳。人之厝を挙げんとするに,何ぞ能く悉く中ることあろうか!
獨當己有以傷拒衆意(こたび以って衆意を傷つけ拒んだのは独り當に己が有すべきところにのみあるもので),自覺せざること勿らんとしたのだが,故より諸君には嫌難が有るのみであった耳。不爾,何に縁って乃ち此れに於けるに至ろう乎」
諸君と<与>從事して,少なき自り長ずるに至るまで,発有二色,以謂表裡足以明露,公私は計るを分かち用って相保つに足ることとなった,義は君臣と雖も,恩は猶ち骨肉であり,榮福も喜戚も,相これと<与>之を共にしてきた。
忠は情を匿さず,智は計を遺すこと無く,事は是非を統めてきたのに,諸君は豈に從容を得ること而已<のみ>とできようか哉!船を同じくして水を濟るにあたって,將た誰が易きに与しようか!
齊の桓(公)に善有るも,管子は未だ嘗て歎ぜざることなく,過ち有れば未だ嘗て諫めざることなかった,諫めて而して得ざるも,終に諫めること止めなかった。
今孤<わたし>は自らを省みて桓公之コなど無いというのに,而して諸君らの諫め諍いは未だ口に於けるより出ないまま,仍ち嫌難を執ろうとしている。
此を以ってして之を言うに,孤が齊の桓(公)に於けるより良く優れているところは,未だ諸君らが管子に於けるより何如なるかを知らないことだけである耳!」

37 :
今日はこんなところ。238年終わらせたかったけど。ま、いいか。

38 :
おつぅ。

39 :
1さんキタコレ!!
と、こんなにワクテカするレスは本当に久しぶり( ^∀^)ゲラゲラ

40 :
  冬,十一月,壬午,司空の衛臻を以って司徒と為し,司隸校尉の崔林を司空と為した。
  十二月,漢の蔣琬が出て漢中に(駐)屯した。
  乙丑,帝不豫。辛巳,郭夫人を立てて皇后と為した。
  初め,太祖が魏公と為っていたおり,贊の令であった劉放、參軍事の孫資を以て皆秘書郎と為した。文帝が即位すると,更めて秘書に命じて曰く中書とし,放を以って監と為し,資を令と為すと,遂に機密を掌らせた。
帝が即位すると,尤も寵任されるに見え,皆侍中、光祿大夫を加えられ,封ずるに本の縣侯をもってした。是時,帝は萬機を親覧し,數<たびた>び軍旅を興したが,腹心之任は,皆二人が之を管(掌)したのである;
大事の有る毎に,朝臣は會議したが,常に其の是非を決しま令むると,擇びて而して之を行わせた。
中護軍の蔣濟は上疏して曰く:「臣が聞きますに大臣が太いに重んじられるなら<者>國は危うし,左右が太いに親しくされるなら<者>身は蔽すとは,古之至戒であります也。
往者(かつて)大臣が秉事すると,外も内も扇動しました;陛下は卓然として自ら萬機を覧られておりまして,それについて祗肅せざるもの莫いことです。
夫れ大臣は不忠に非ざるとも也,然るに威權が下に在れば,則ち衆心は慢上すること,勢い之常というものです也。陛下は既にして已に之を大臣に於けるを察しておられますが,願わくば左右に於いても忘れること無からんことを。
左右が忠正にして慮りを遠くしようとも,未だ必ずしも大臣に於けるより賢くはないものです,至於便辟取合,或いは能く之を工にします。今外が言いし所とは,輒ち雲<たとえ>るなら中書でありましょう。
恭しく慎み,外との交わりを敢えてせ使まざると雖も,但だ此の名が有るだけで,猶ち世俗を惑わすものです。
況んや實に事要を(掌)握し,日ごと目の前に在って,儻(も)し疲倦之間に因って,制を割く所が有れば,衆臣は其の能く事に於ける推移を見て,即ち亦た時に因って而して之に向うことでしょう。
一たび此の端<きざし>有れば,私<ひそか>に朋援を招きいれ,臧否と毀譽が,必ずや興る所有ることでしょう,功負と賞罰が,必ずや易えられる所有ることでしょう,
道を直さんとしても而して上にある者が或いは壅い,左右に曲附している者が達せんとするに反し,微に因って而して入り,形に縁って而して出されたなら,意の狎れあい信ず所,復た(二度と)猜覺せざることとなります。
此れ宜しく聖智の當に早聞すべき所であります,外では經意を以ってすれば,則ち形際の自ら見えるもの;或いは恐らく朝臣たちは合わざることを言って而して左右之怨みを受けることを畏れ,以って聞こしめすに適わせんとするもの莫いことでしょう。
臣竊いますに陛下の潛神默思は亮(あきらかにしておおい)なるもので,公にあって聽きいれるとともに並びて觀てとられております,
若し事が未だ理に於いて盡くさざることが有ったり而して物が未だ用いられるに於いて周(あまね)からざること有るなら,將に曲を改め調を易えられます,遠くは黄、唐と<与>功(績)を角つきあわせるほどで,
近くでは武、文之績を昭らかにしておりますからには,豈に近習ばかりを牽きたてて而して已むばかりでございましょうか哉!
然りながら人君は天下之事を悉くは任ず可からざるもの,必ずや當に付す所有るべきものでございます;
とはいえ若し之を一臣に委ねるならば,自ら周公旦之忠,管夷吾之公にでも非ざれば,則ち機(密)を弄び官(権)を敗らしむ之敝(害)が有ることでしょう。
當今は柱石之士が少ないと雖も,行いは一州に稱えられ,智は一官を效ずに於けるに至るものがあります,
忠と信ありて命を竭くし,各おの其の職を奉り,策を並び驅せる可きものですから,どうか聖明之朝に專吏之名を有ら使まざらんことを也!」帝は聽きいれなかった。

41 :
疾で寝こむに及び,深く後事を念じ,乃ち武帝の子で燕王宇を以って大將軍と為すと,領軍將軍の夏侯獻、武衛將軍の曹爽、屯騎校尉の曹肇、驍騎將軍の秦朗等と<与>對し輔政させようとした。
曹爽は,曹真之子であり;曹肇は,曹休之子である也。帝は少なきより燕王宇と<与>善くしあっていたため,故に以って後事を之に屬させようとしたのである。
  劉放、孫資は機(密)の任(務)を久しく典じていたため,獻、肇は心の内で平がなかった;殿中に雞棲樹というものが有った,二人は相謂いあって曰く:「此れも亦た久しいな矣,其れ能く復た幾さんか!」
劉放、孫資は後害有ることを懼れ,陰ながら之を間にせんと圖った。燕王の性は恭良であった,陳べることは誠であり固辭した。
帝は劉放、孫資を引き臥内に入れると,問うて曰く:「燕王正爾為?」對して曰く:「燕王は實に自ら大任に堪えられないの故を知っているだけなのです耳。」帝曰く:「誰ぞ任かす可き者であろうか?」
時に惟だ曹爽獨りだけが帝の側に在ったため,劉放、孫資は因って曹爽を薦めて,且つ言った:「宜しく司馬懿を召してこれと<与>相參じさせるべきです。」
帝曰く:「曹爽は其の事に堪えられるか不か?」曹爽は汗を流して對すこと能わなかった。劉放は其の足を躡いて,之に耳うちして曰く:「臣が死を以て社稷に奉じます。」
帝は劉放、孫資の言に従い,曹爽、司馬懿を用いんと欲したが,既にして而して中(途)で(心)變わりし,敕をくだして前の命を停めさせた;
劉放、孫資は復た入って見えると帝を説いたため,帝は又た之に從った。劉放曰く:「宜しく手づから詔を為すべきです。」帝曰く:「我は困ずこと篤し,能わず。」
劉放は即ち床に上ると,帝の手を執って之を強い作らせると,遂に繼いて出て,大言して曰く:「詔が有る、燕王宇等の官を免ず,省中に停まるを得ないように。」皆涕を流して而して出た。
甲申,曹爽を以って大將軍と為した。帝は曹爽の才の弱きを嫌い,復た尚書の孫禮を拝して大將軍長史と為して以って之を佐けさせた。是時,司馬懿は汲(県)に在ったため,帝は給使の辟邪を令て手づからの詔を継げて之を召した。
是れより先に,燕王は帝の為に畫計すると,以って為すに關中の事は重いため,宜しく司馬懿を遣わし道を便じて關西より軹して長安に還すようにすべきとし,事は已に施行されていた。
司馬懿は斯くして須く二詔を得たが,前後して相違えたため,京師に變が有るを疑い,乃ち疾驅して入朝した。

42 :
     烈祖明皇帝下景初三年(己未,西暦239年)
  春,正月,司馬懿は至ると,入り見えた,帝は其の手を執って曰く:「吾は以って後事を君に屬さしむ,君は曹爽と<与>少子を輔けよ。死は乃ち忍ぶ可きもの,吾は死を忍び君を待った,相見えること得たからには,復た恨む所とて無い矣!」
乃ち齊、秦二王を召して以って司馬懿を示させると,別に齊王芳を指して司馬懿に謂って曰く:「此れぞ是れ也,君よ之を諦視せよ,誤る勿れ也!」又た齊王に教えて前にすすませ司馬懿の頸を抱かせ令めた。司馬懿は頓首して涕を流した。
是日,齊王を立てて皇太子と為した。帝は尋くして(崩)殂した。帝は沈毅にして明敏であり,心に任せて而して行うも,功(績)や(才)能を料簡し(料り簡抜してのけ),浮わつきや偽りを屏ざし絶ってのけた。
師を行い衆を動かすにあたり,また大事を論じ決すにあたり,謀臣も將相も,鹹<みな>が帝之大略に服したのである。
性は特に強識であり,左右の小臣と雖も,官簿や性行,名跡の履く所,及び其の父兄子弟にいたるまで,一たび耳目を經るや,終に遺し忘れなかった。
  孫盛は論じて曰く:之を長老に聞くに,魏の明帝は天姿秀出し,立発垂地(立てば麗しい髪は地に垂れた),口は吃し言は少なかったが,而して沈毅にして斷を好んだ。
初め,諸公は(文帝の)遺(詔)を受けて輔導しようとしたが,帝は皆方任を以ってして之に處し,政は己より<自>出すこととなった。
大臣を優禮し,善直なるものを開き容れ,顔を犯し極諫すると雖も,摧き戮す所など無かった,其の人に君たる之量は此之偉に如くものであった也。
然るにコを建てて風を垂すこと思わず,維城之基を固めず,大權を使て偏り拠らせしむるに至ったため,社稷の衛られること無くなったのは,悲夫とすべきであろう!
  太子が即位すると,年は八歳;大赦した。皇后を尊んで曰く皇太后とし,曹爽、司馬懿に侍中を加え,節鉞を仮し,都督中外諸軍、録尚書事とした。諸所の宮室之役を興し作していたものは,皆遺詔を以って之を罷めさせた。
曹爽、司馬懿は各おの兵三千人を領して更めて殿内に宿ることとなった,曹爽は以って司馬懿は年も位も素より高かったため,常に之に父事し,事ある毎に咨り訪れて,專行すること敢えてしなかった。
  初め,并州刺史であった東平(出身)の畢軌及びケ颺、李勝、何晏、丁謐は皆才名を有したため而して富貴に於けるまで急であって,時に趨き勢いに附いたため,明帝は其の浮華なるを悪み,皆抑えて而して用いなかった。
曹爽は素よりこれと<与>親しみ善くしていたため,輔政するに及び,驟加引擢,以って腹心と為したのである。何晏は,何進之孫である;丁謐は,丁斐之子である也。何晏等は鹹<みな>共に曹爽を推し戴き,以って為すに重權は人に於けるに委ねる可からずとした。
丁謐は曹爽の為に畫策すると,曹爽を使て天子に詔を発すよう(建)白せしめ,司馬懿を転じて太傅と為し,外では名號を以て之を尊ばせるも,内では尚書に奏事を令しむよう欲し,先ず來たらば己に由らせ,其の輕重を制すことを得んとしたのである也。曹爽は之に從った。
二月,丁丑,司馬懿を以って太傅と為し,曹爽の弟である羲を以って中領軍と為し,曹訓を武衛將軍と為し,曹彦を散騎常侍、侍講と為し,其の餘りの諸弟は皆列侯を以て侍從せしむると,禁闥を出入りすることとなって,その貴寵さは盛んなること焉れ莫いほどとなった。
曹爽は太傅に事えると,禮貌は存ると雖も,而して諸所興造,希復由之。曹爽は吏部尚書の盧毓を徙して僕射と為すと,而して何晏を以って之に代わらせ,ケ颺、丁謐を以って尚書と為し,畢軌を司隸校尉と為すこととした。
何晏等は勢に依って用事したため,附會者(それに付き従った者)は升進し,違え忤らった者は罷めさせられ(引)退させられたため,内も外も風を望み,敢えて旨に忤うもの莫かった。
黄門侍郎の傅嘏は曹爽の弟であった曹羲に謂って曰く:「何平叔は外では靜かなれど而して内は躁がしく,銛巧にして利を好み,本に務めることを念わないでいるから,
吾が恐れるは必ずや先ず子ら兄弟を惑わし,仁人が將に遠ざかって而して朝政は廢れることになろうことである矣!」
何晏等は遂に傅嘏と<与>平がなくなり,微事に因って傅嘏の官を免じてしまった。又た盧毓を出して廷尉と為すと,畢軌も又た枉がった奏をして盧毓を免官にした,衆論の多くが之を訟えたため,乃ち復して以って光祿勳と為されることとなった。
孫禮は亮直にして不撓のひとであったため,曹爽は心で便じなくなって,出して揚州刺史と為した。

43 :
  三月,征東將軍の滿寵を以って太尉と為した。
  夏,四月,呉の督軍使者である羊道が遼東の守將を撃ち,人民を俘して而して去った。
  漢の蔣琬が大司馬と為った,東曹掾であった犍為(出身)の楊戲は,素より性が簡略であったため,琬はこれと<与>言論したが,時に応答しなかった。
或るひとが琬に謂って曰く:「公が楊戲と<与>語っても而して応じないとは,其の(驕)慢の甚しさよ矣!」
琬曰く:「人心の同じからざること,各おの其の面の如くであろう,面從しながら後に言いすてるは,古人が誡とする所。楊戲は吾を是と贊ぜんと欲すれば邪,則ち其の本心に非ざることとなり;
吾が言に反せんと欲すれば,則ち吾之非を顯らかにしてしまうため,是れぞ默すを以て然りとしたのだ,是れは楊戲之快であろうよ也。」
  又た督農の楊敏は嘗て蒋琬を毀して曰く:「事を作すにあたり憒憒としていて,誠に前人に及ばない。」
或るひとが以って蒋琬に白し,主者が請うて楊敏を推治したいとしたが,琬曰く:「吾は實に前人に如かざるゆえ,推す可きことなど無い也。」
主者は其の憒憒之状(という表現)を問うことを乞うたが,琬曰く:「苟くも其れ如かざれば,則ち事は理らない,事の理らざるは,則ち憒憒であろうよ矣。」
後に楊敏が事に坐して獄に系がれると,衆人は猶ち其の必ず死すことを懼れたが,蒋琬は心では適莫すること無かったため,楊敏は重罪を免れるを得たのである。
  秋,七月,帝は始めて親しく臨朝した。
  八月,大赦した。
  冬,十月,呉の太常である潘濬が卒した。呉主は鎮南將軍の呂岱を以って潘濬に代え,陸遜と<与>共に荊州の文書を領させた。
呂岱は時に年已にして八十になんなんとしていたが,體すに素より精勤し,躬づから王事に親しみ,陸遜と<与>心を同じくして規を協<たす>け,善が有れば相讓りあったため,南士は之を稱えた。
十二月,呉將の廖式が臨賀太守の嚴綱等をすと,平南將軍を自称して,零陵、桂陽を攻め,交州諸郡を搖り動かし,その衆は萬人を数えた,
呂岱は自ら表して輒ち行くこととすると,星夜兼路し(星づく夜も路を兼ね),呉主は使いを遣わして追って交州牧を拝すこととした,
諸將唐咨等を遣わして絡繹させ相繼がしむに及び,攻め討つこと一年,之を破って,廖式及び其の支黨を斬りすて,郡縣は悉く平げられた。呂岱は復た武昌に還った。
  呉の都郷侯である周胤が兵千人を将いて公安に(駐)屯していたが,有罪となり,廬陵に徙された;諸葛瑾、歩騭は之が為に請うた。
呉主曰く:「昔周胤が年少であったころ,初め功勞が無かったのに,精兵を(着)して受けとり,爵すに侯將を以てしたが,蓋し公瑾を念<おも>えばこそ以って周胤に於けるにまで及ぼしたのである也。
而うして周胤は此れを恃みとし,酗して自ら恣にし,前後して告げ諭したものの,曾てより悛改すること無かった。
孤<わたし>は公瑾に於けること,義は猶も二君のごとくであり,周胤の成(長と)就(官)を楽しみにしていたのだ,豈に已ませんとすること有ろうか哉!
周胤に罪惡を迫って,未だ宜しく還るを便ずべからざるは,且つ之を苦しめ,自らを使て知らしめんと欲すればこそというだけだ耳。
公瑾之子を以てし,而して二君が中間に在るのだから,苟しくも改めること能わ使もう,亦た何ぞ患わんか乎!」
周瑜の兄の子である偏將軍の周峻が卒すると,全jは峻の子護を使て其の兵を領させるよう請うた。
呉主曰く:「昔曹操を(逃)走させ,荊州を拓き有したのは,皆是れ公瑾である,常に之を忘れていない。初め周峻が亡くなったと聞いて,仍ち周護を用いようと欲したが。
聞くに周護の性行は危險であるということで,之を用いたなら為に禍ちを作しはしないかとし,故に更めて之を止めたのである。孤<わたし>が公瑾を念うこと,豈に已むこと有ろうか哉!」
  十二月,詔をくだし復た寅之月を建てるを以って正と為した。

44 :
     烈祖明皇帝下正始元年(庚申,西暦240年)
  春,旱があった。
  越巂蠻夷が數<たびた>び漢に叛いて,太守をしたため,是れより後の太守は不敢之郡,治を安定縣に寄せていたが,郡を去ること八縣餘里であった。
漢主は巴西の張嶷を以って越巂太守と為すと,嶷は新たに附いたものを招き慰(撫)し,強猾を誅し討ったため,蠻夷は畏服し,郡界は悉く平げられたため,復た舊治に還った。
  冬,呉に饑(饉)があった。

45 :
     烈祖明皇帝下正始二年(辛酉,西暦241年)
  春,呉人は將に魏を伐さんとした。零陵太守の殷札は呉主に於いて言って曰く:「今天は曹氏を棄てんとしております,喪誅が累ねて見え,虎爭之際にあるのに而して幼童が蒞事しております。
陛下は身づから自御戎,亂を取り亡ぶを侮り,宜しく荊、揚之地を滌し,強羸之數を舉げて,強者を使て戟を執らしめ,羸者には轉運させます。西は益州に命じ,隴右に於いて軍をおこさせますよう,
諸葛瑾、硃然に大衆を授け,直ちに襄陽を指し,陸遜、硃桓には別に壽春を征させ,大駕は淮陽に入り,青、徐を歴すのです。
襄陽、壽春は,敵を受けるに於かば困ることとなりましょう,長安以西は,務めて蜀軍に御させます,そうすれば許、洛之衆は,勢いからして必ずや(東西へ)分かれ離れましょうから,掎角並び進まば,民は必ずや内から応じましょう。
將帥が對し向かったところで,或いは便宜を失い,一軍でも敗績すれば,則ち三軍は離心いたしましょう。秣馬脂車を当てるを便じ,城邑を陵蹈し,勝ちに乗じて北へ逐えば,以って華夏を定められましょう。
若し軍を悉くせずに衆を動かせば,前に循<めぐ>って舉がるに軽いものの,則ち大いに用いるには不足するわけですから,屢<たびた>び退くに於いては易くとも,
民は疲れ威は消しとぶこととなり,時が往けば力は竭きることになります,上策に非ざることです也。」呉主は用いること能わなかった。
夏,四月,呉の全jが淮南を略(奪)し,芍陂を決(壊)した,諸葛恪が六安を攻め,硃然が樊(城)を囲み,諸葛瑾が柤中を攻めた。征東將軍の王凌、揚州刺史の孫禮は全jと<与>芍陂に於いて戦い,全jは敗走した。
荊州刺史の胡質が輕兵を以って樊を救おうとしたところ,或るひと曰く:「賊は盛んですから,迫る可からず。」
胡質曰く:「樊城は卑しく兵は少ない,故に當に軍を進めて之が為に外援となるべきなのだ,然らざれば,危うかろう矣。」遂に兵を勒して圍みに臨んだところ,城中は乃ち安んじた。
  五月,呉の太子の孫登が卒した。
  呉兵は猶も荊州に在ったため,太傅の司馬懿は曰く:「柤中の民夷は十萬,(漢)水の南に隔てられて在って,流離したまま主とて無い,
樊城が攻(撃)を被ってから,月を歴すも(攻囲が)解かれずにいる,此は危うい事である也,請いねがわくばわたくし自ら之を討たせていただきたい。」
六月,太傅の司馬懿は諸軍を督して樊を救おうとした;呉軍は之を聞くと,夜になって遁れようとした。追って三州口に至ると,大いに獲して而して還った。
  閏月,呉の大將軍諸葛瑾が卒した。諸葛瑾の長子である諸葛恪は先に已に封侯されていたため,呉主は諸葛恪の弟の諸葛融を以て襲爵させると,兵業を攝させて,公安に駐めた。

46 :
  漢の大司馬である蔣琬は以って諸葛亮が數<たびた>び秦川に出ながら,道が險しく,糧を運ぶことが難しいため,卒として成功すること無かったとみていた。
そこで乃ち舟船を多く作り,漢、沔(水の流れ)に乗じて東下し,魏興、上庸を襲おうと欲した。舊くからの疾<やまい>が連なり動くに会って,未だ時は行いを得なかった。
漢人は鹹<みな>が以為らく事に捷たざること有れば,路を還ること甚だ難しいから,長策に非ずとしたため也,漢主は尚書令の費禕と、中監軍の姜維等を遣わして指(図)を喩えさせた。
蒋琬は乃ち上言した:「今魏は九州に跨り帶び,根と蒂は滋いに蔓ってしまい,平げ除くこと未だ易からざることであります。
若し東西が力を並べ,首尾掎角すれば,未だ速やかに志に如くことを得る能わざると雖も,且つは當に(魏領を)分かち裂いて蠶食すべく,先ず其の支黨を摧くべきこととなりましょう。
然るに呉は期すこと二たび三たびすれど,連不克果(克果せざることをを連ねています)。
そこで輒ち費禕等と<与>議したところ,以って涼州は胡塞之要であるうえ,進むも退くも資を有し,且つ羌、胡は乃ち心では漢を思うこと渇くが如くであるようす,宜しく姜維を以って涼州刺史と為さるべきです。
若し姜維が征行して,河右を御し制すならば,臣は當に軍を帥して姜維の鎮繼と為りましょう。今涪は水陸が四通しております,惟うに急あれば応ずに是たるものです,
若し東北に虞が有っても,之に赴くに難しくありません,屯を涪へ清め徙されんことを。」漢主は之に從った。
  朝廷では揚、豫之間に於いて田を廣げ谷を畜おうと欲しており,尚書郎であった汝南(出身)のケ艾を使て陳、項に行かせると已にして東して壽春に至った。
ケ艾は以って為すに:「昔太祖が黄巾を破ったおりには,因って屯田を為し,穀を許都に積みあげて以って四方を制せられました。
今三隅は已に定まり,事は淮南に在ります,大軍が出征する毎に,運兵(兵站を担当する兵卒)は半ばを過ぎまして,功費は巨億になっています。
陳、蔡之間は,土は下で田に良し,許昌の左右にある諸稻田を省く可きです,そうして水を並べて東へ下し,淮北に二萬人,淮南に三萬人を屯せ令むるのです,
什のうち二つが分かれて休むことにすれば(二割の兵を休息に充てることとすれば),常に四萬人を有して且つ田し且つ守ることができます;河渠を益し開いて以って灌漑を増すようにし,漕運を通じさせます。
除かれる衆費を計ってみると,歳ごとに五百萬斛を完うして以って軍資と為しえることでしょう,六、七年の間には,三千萬斛を淮上に於いて積む可きこととなります,
此れは則ち十萬之衆五年ぶんの食となります也。此れを以って呉に乘ずれば,克たざること無いことでしょう矣。」太傅の司馬懿は之を善しとした。
是の歳,始めて漕渠を開き廣げた,東南に事が有る毎に,大いに軍衆を興し,舟を泛して而して下って,江、淮に於けるに達したが,資食は儲け(余力)を有し而して水害も無くなった。
  管寧が卒した。管寧の名行は高潔であり,人望之者であった,邈然として及ぶ可からざるが若くであり,之に即くに熙熙として和すこと易かるものであった。
能く事に因って人を善に於けるへと導いたため,人は化服せざること無くなった。卒するに及び,天下知與不知,之を聞いて嗟歎しないこと無かった。

47 :
     烈祖明皇帝下正始三年(壬戌,西暦242年)
  春,正月,漢の姜維が偏軍を率いて漢中より<自>涪へ還り住った。
  呉主は其の子の和を立てて太子と為すと,大赦した。三月,昌邑景侯の滿寵が卒した。秋,七月,乙酉,領軍將軍の蔣濟を以って太尉と為した。
  呉主は將軍の聶友、校尉の陸凱を遣わして三萬を将いさせ儋耳、珠崖を撃たせた。
  八月,呉主は子の孫霸を封じて魯王と為した。孫霸は,和母弟である也,寵愛の崇されしこと特(段)であり,孫和と<与>殊なること無かった。
尚書僕射の是儀は魯王の傅を領していたため,上疏して諫めて曰く:「臣が竊いますに以為らく魯王は天の挺された懿コをもち,文武の資(質)を兼ねております,當今之宜しきは,宜しく四方を鎮(撫)させ,國の為に籓輔となさるべきです。
そのコの美わしきを宣べ揚げ,威靈を廣げ耀やかせれば,乃ち國家之良規となりましょうし,海内の瞻望せし所となることでしょう。
且つ二宮は宜しく降有らしむべきです,そうして以って上下之序を正され,教化之本を明らかなさいますように。」書は三たび、四たびと上らせられたが,呉主は聽きいれなかった。

48 :
     烈祖明皇帝下正始四年(癸亥,西暦243年)
  春,正月,帝は元服を加えられた。呉の諸葛恪が六安を襲うと,其の人民を掩って而して去った。
  夏,四月,皇后に甄氏を立てると,大赦した。後(皇后)は,文昭皇后の兄である甄儼之孫である也。
  五月,朔,日有食之(日食が有り),既にした。
  冬,十月,漢の蔣琬は漢中より<自>還って涪に住むこととなった,疾は益すます甚しく,漢中太守の王平を以って前監軍、鎮北大將軍と為すと,漢中を督させた。
  十一月,漢主は尚書令の費禕を以って大將軍、録尚書事と為した。
  呉の丞相である顧雍が卒した。
  呉の諸葛恪は遠くへ諜人(間諜)を遣わし相徑要を観させ,壽春を図ろうと欲した。太傅の司馬懿は兵を將いて舒に入ると,欲するに以って諸葛恪を攻めようとしたため,呉主は諸葛恪の屯を柴桑に於けるに徙した。
  歩騭、硃然は各おの呉主に於いて上疏して曰く:「蜀より<自>還ってきた者が,鹹<みな>蜀は盟に背き,魏と<与>交わり通じようと欲し,舟船を多く作り,城郭を繕い治めていると言っております。
又た,蔣琬は漢中を守っていたのに,司馬懿が南へ向かったと聞いても,不出兵乘虚以掎角之(出兵せずに虚に乗じて以って之に掎角たらんとし),反って漢中を委ねて,還って成都に近づいているとのこと。
事は已にして彰灼としており,復た疑う所の無いものです,宜しく之が為に備えるべきです。」
呉主は答えて曰く:「吾が蜀を待(遇)すること薄からず,盟と誓いを聘享せしこと,之を負う所など無いのだ,何をか以って此れを致そうというのか!
司馬懿が前にすすみ來たりて舒に入ると,旬日して便じ退いていった。蜀は萬里(の彼方)に在るのだ,何ぞその緩急を知って而して出兵を便ぜんとてか乎?
昔魏が漢川に入ろうと欲したおりには,此間は始め嚴として,亦た未だ舉動せずにいたところ,魏が還ったと聞くに会ったため而して止めたことがあったが,蜀は寧んぞ復た此れを以って疑いを有す可きであったであろうか邪!
人の言は信ず可からざるに苦しむもの,朕は諸君の為に家を破ろうとも之を保つであろう。」
  征東將軍、都督揚、豫諸軍事であった王昶が上言した:「地には常險というものが有るも,守りには常勢というものは無いものです。
今屯している宛は襄陽を去ること三百餘里であり,急が有っても相赴くに不足しております。」とし遂に屯を新野に徙すことになった。

49 :
  宗室の曹冏が上書して曰く:「古之王者は,同姓を建てて以って親親を明らかにすること必ずし,異姓を樹てて以って賢賢を明らかにするを必ずしてきました。
親親之道が用を專らにすれば,則ち其の漸たるや也微弱となります;賢賢之道が任を偏らせれば,則ち其の敝たるや也劫奪となります。
先聖は其の然るを知っておりました也,故に博く親疏を求めて而して之を並んで用いてき,故に能く其の社稷を保ち,歴し經ること長く久しいものとなったわけです。
今魏は尊尊之法は明るいと雖も,親親之道は未だ備わっておらず,或いは任ずるも而して重からず,或いは釋すも而して任せずにいます。
臣は此れを竊い惟いますに,寢ても席に安んじられずにいます,謹んで所聞を撰び合わせまして,其の成敗を論じますに曰く:昔夏、商、周は歴世すること數十(世)でありましたが,而うして秦は二世にして而して亡びました。
何にか則ってでありましたでしょうか?三代之君は天下と<与>ともに其民を共にしました,故に天下は其の憂を同じくしたのです;秦王は獨りで其の民を制そうとしました,故に傾き危うくなろうと而して救うもの莫かったのです也。
秦は周之弊(害)を観て,以為らく小弱なれば奪われるに見えるとすると,是れに於いて五等之爵を廃し,郡縣之官を立てて,内には宗子を無くして自らを以て毘輔とし,
外では諸侯を無くして以って籓衛と為したのは,譬えるなら猶ち股肱を芟刈し,獨り胸腹に任すのみとなることなのです。
觀る者は之が為に心を寒くしたというのに,而して始皇(帝)は晏然として自ら以為らく子孫が帝王たる萬世之業であるとしました也,豈に悖せざることでしょうか哉!
故に漢祖が三尺之劍を奮い,烏集之衆に驅せると,五年之中に,遂に帝業を成すこととなったのです。何にぞ則らんか(どうしてでしょうか)?
深く根づいた者を伐すことは功を為すに難しく,枯れ朽ちた者を摧くことは力を為すに易かること,理の勢いからして然ることだからです也。
漢は秦之失(敗)を監て,子弟を封じ殖えつけました;諸呂が擅權し,劉氏を危うくすることを図るに及んでも,而して天下が傾き動かなかった所以とは<者>,徒らに以って諸侯が強大であり,盤石の膠め固めがあった故なのです也。
然りとて高祖が封建すると,地は古制を過ぎることとなりました,故に賈誼は以為らく天下之治安を欲するなら,衆<あまね>く諸侯を建てて而して其の力を少なくするに若くは莫しとしましたが;文帝は従いませんでした。
孝景に於けるに至って,猥りに晁錯之計を用い,諸侯を削り黜したため,遂に七國之患が有ることとなりました。蓋し兆<きざし>は高帝のときに発せられ,文、景に釁鐘があったものの,由って之をェめるに制を過ぎ,之を急いて漸いにせざるが故であったのです也。
所謂る『末大なれば必ず折れ,尾大なれば掉するに難し』というもので,尾が體に於けるのと同じほどであれば,猶ち或いは從わなくなるわけで,況んや非體之尾に乎いてをや,其れ掉す可けんか哉!
武帝は主父之策に従い,推恩之令を下しました,是れ自り之後,遂に陵夷を以ってしたため,子孫は微弱となり,衣食租税のみとなって,政事に預らなくなったのです。
哀、平に於けるに至り,王氏が秉權すると,周公之事に假して而して田常之亂を為しましたが,宗室王侯は,或いは乃ち之が為に符命し,王莽の恩コを頌えました,その豈に哀しからざるか哉!
斯かるに由って之を言うならば,宗子は獨り惠、文之間に於いてだけ忠孝であって而して哀、平之際に於いてだけ叛逆したというに非ず也,徒らに權輕くなり勢い弱められれば,定めを有すこと能わざることになるだけなのです耳。
光武皇帝が不世之姿を挺すのにョり,王莽を已成に於いて擒とし,漢嗣を既に絶えしところに於いて紹ぎましたが,斯くは豈に宗子之力に非ざるものであったでしょうか也!
而して曾て秦之失策を監ずに,周之舊制を襲ったがため,桓、靈に於けるに至り,閹宦が用事することとなって,郡は上に於いて孤立し,臣は下に於いて権(力)を弄しました;
是れに由って天下は鼎沸きたち,奸宄が並び爭い,宗廟は焚かれて灰燼と為ってしまい,宮室は變じて榛藪と為ってしまったのです。
太祖皇帝が龍飛鳳翔して,凶逆を掃除いたしました。大魏之興るや,今に於けるまで二十有四年でございます矣。

50 :
五代之存亡を観るにつけ而して其の長策を用いず,前車之傾き覆えるに睹しながら而して轍の跡に於いてを改めずにおります。
子弟王は空虚之地にありて,君は不使之民を有しており;宗室は閭閻に於いて竄しおりながら,邦國之政を聞かずにおります;權は匹夫に均しく,勢は凡庶に斉しく。
内は深く根づく不拔之固めが無く,外は盤石なる宗盟之助けが無かるは,以って社稷を安んじ,萬世之業を為すに非ざる所です也。
且つ今之州牧、郡守は,古之方伯、諸侯でございまして,皆千里之土を跨ぎ有し,軍武之任を兼ねておること,或いは比國數人(仲間同士で隣り合う衆郡で政し?),或いは兄弟が並び拠っております;
而して宗室の子弟には曾て無一人間廁其間,與相維制,以って幹を強め枝を弱めし所は,萬一之虞に備えたに非ざることです也。今之用いられし賢は,或るものは名都之主を超え為し,或るものは偏師之帥と為っております;
而して宗室には文者が有っても必ずや小縣之宰に限られ,武者が有っても必ず百人之上に致されること,賢能を勧め進め、宗室を褒め異とする之禮である所以に非ざることです也。
語に曰く:『百足之蟲は,死に至るとも僵せず』とは,其の之を扶ける者の衆かるを以てしてのことです也。此の言は小さいと雖も,大に譬えるを以てす可きことです。
是れぞ以って聖王は安かるとも危うきを忘れず,存すれど亡ぶを忘れず,故に天下に變が有ろうとも而して傾危之患いが無いということなのです矣。」そうして曹冏は冀うに此論を以ってして曹爽を感寤せしめんとしたが,曹爽は用いること能わなかった。

51 :
     烈祖明皇帝下正始五年(甲子,西暦244年)
  春,正月,呉主は上大將軍の陸遜を以って丞相と為すと,其の州牧、都護、領武昌事について故の如くとした。
  征西將軍、都督雍、涼諸軍事の夏侯玄は,大將軍であった曹爽之姑の子であった也。
夏侯玄は李勝を辟して長史と為しており,李勝及び尚書のケ颺は曹爽を令て威名を天下に於いて立てさせんと欲すと,勸めて蜀を伐せ使もうとした;太傅の司馬懿は之を止めたが,得ること能わなかった。
三月,曹爽は西して長安に至ると,卒十餘萬人を(徴)発し,夏侯玄と<与>駱谷より<自>漢中に入ることとなった。漢中の守兵は三萬に満たず,諸將は皆恐れ,城を守って出ずに以って涪の兵を待とうと欲した。
王平曰く:「漢中は涪を去ること千里を垂す,賊が若し關を得れば,便じて深き禍を為そう,今は宜しく先ずは劉護軍を遣わして興勢に拠らせるべきである,この平が後(衛)と為って拒もう;
若し賊が分かれて黄金(囲)に向かえば,この平が千人を帥して下りて自ら之に臨もうぞ,比爾間(そうこうしているうちに)涪の軍も亦た至るだろう,此れが計之上というものだ也。」
諸將は皆疑ったものの,惟だ護軍の劉敏だけは王平と<与>意<きもち>が同じであったため,遂に領していた所を帥して興勢に拠り,旗幟を張りめぐらすこと多くし,それは彌亙して百餘里ともなった。
  閏月,漢主は大將軍の費禕を遣わして諸軍を督させて漢中を救わせた,將に行かんとするに,光祿大夫の來敏が費禕を詣でて別れんとするにあたり,共に圍棋(囲碁)をすることを求めてきた;
時に於いて羽檄が交わさりあって至り,人馬が擐甲しており,嚴駕(費禕が乗り込む指揮車)は已にして(準備が)訖わっていたのだが,費禕は来敏と<与>對して戲びつづけ,(顔)色には厭み倦むところとて無かった。
そこで来敏曰く:「向じたは聊<いささ>か君を試みて觀んとしたのみ耳。君は信<まこと>にその人たる可き,必ずや能く賊を弁じる者であろう也。」
  夏,四月,丙辰朔,日有食之(日食が有った)。

52 :
  大將軍の曹爽の兵は興勢で距<こば>まれて進むを得ず,關中(の諸郡)及び氐、羌は轉輸せんとても供すこと能わざることとなり,
牛馬騾驢の多くが死んだため,民も夷も道路<みちみち>で号泣することとなった,そうするうちに涪の軍及び費禕の兵が繼いで至ってしまった。
參軍の楊偉が曹爽の為に形勢について陳べて,宜しく急ぎ還るべきであり,然らざれば,將に敗れるでしょうとした。ケ颺、李勝は楊偉と<与>曹爽の前に於いて争った。
楊偉曰く:「颺、勝は將に國家の事を敗れさせようとしています,斬る可きです也!」曹爽はスばなかった。
太傅の司馬懿は夏侯玄に書を与えて曰く:「《春秋》では責の大なればコ重かりしといいます。昔武皇帝が再び漢中に入ったものの,幾らもなく大敗に至ったことは,君が知る所でしょう也。
今興勢は至險たりて,蜀は已に先んじて拠っておりました,若し進んでも戰うを獲ず,退かんとして邀絶に見えれば,軍を覆すこと必ずならん矣,將に何をか以って其の責を任じられましょうぞ!」
夏侯玄は懼れ,曹爽に於いて言った;五月,そこで軍を引いて還ることとなった。
費禕は進んで三嶺に拠って以って曹爽を截とうとし,曹爽は險を争って苦戰することとなってしまい,僅に乃ち過ぐるを得たものの,失い亡くすこと甚だ衆く,關中は之が為に虚しくなり(損)耗することとなった。
  秋,八月,秦王詢が卒した。
  冬,十二月,安陽孝侯の崔林が卒した。
  是歳,漢の大司馬である蒋琬が以って病であるからとして州職を大將軍の費禕に於いて固く讓ったため,漢主は乃ち費禕を以って益州刺史と為し,侍中の董允を以って守尚書令とし,費禕之副えと為した。
時に戰國は事が多く,公務は煩猥(猥りに煩雑であった),費禕は尚書令と為ると,識悟(知識と理解力)が人に過ぐるものであった,
文書を省み讀む毎に,目を舉げて暫く視ると,已にして其の意旨を究めていた,其の速やかなること人に於けるより数倍であって,終に亦た忘れることもなかった。
常に朝晡を以って聽事し,其の間には賓客を接(待)し(受け)納れ,飲み食いして嬉び戲れた,之に加えて博弈までし,毎(々)人之歡しみを尽くしたが,事は亦た廢されなかった。
董允が費禕に代わるに及び,費禕之行いし所を学びとらんと欲したが,旬日之中に,事は多くが愆滯してしまった。
董允は乃ち歎じて曰く:「人の才(幹)と(能)力の相い遠かること此れに若かるものであるとは,吾之及ぶ所に非ざることだ也!」乃ち聽事すること終日するも而して猶も有不暇焉(時間が余ること無かったのである)。

53 :
     烈祖明皇帝下正始六年(乙丑,西暦245年)
  春,正月,票騎將軍の趙儼を以って司空と為した。
  呉の太子であった孫和と<与>魯王は宮を同じくし,禮秩は一つの如くであったため,群臣の多くが以って言を為したため,呉主は乃ち命じて宮を分け(官)僚を別にすることとした;二子は是れに由って有隙(関係が悪化した)。
衛將軍の全jは其の子の全寄を遣わして魯王に事えさせると,書を以て丞相の陸遜に告げさせた,陸遜は報いて曰く:「子弟は苟くも才を有すれば,用いられざるを憂いずといいます,不宜私出以要榮利;若し其れ佳からざるなら,終に禍を取ることを為しましょう。
且つ聞きますに二宮は勢い敵しあっております(対等の力関係となっております),必ずや彼此を有すようになりましょう,此れは古人之厚く忌むことです也。」全寄は果たして魯王に阿り附くと,輕がるしく交構を為すようになった。
陸遜は書をなし全jに与えて曰く:「卿は日磾のことがらを師とせずに而して宿留したまま阿り寄っているが,終には足下の門戸は禍ちを致すことを為すことでしょう矣。」
全jは陸遜の言を納れざること既にしていたため,更めて以って隙を致しむることとなってしまった(関係が更めて悪化することとなった)。
魯王は意を曲げて当時の名士と交わり結んだ。偏將軍の硃績は膽力を以って稱えられていた,王は自ら其の廨に至ると,之を坐に就けて,これと<与>好を結ぼうと欲した。
硃績は地に下って住立すると,辭して而して當ろうとしなかった。硃績は,硃然之子である也。
是れに於いてより<自>侍御、賓客は,二端を造り為すこととなって,(互いの)黨を仇となして貳しはしないかと疑うようになり,それが大臣にまで滋り延び,國を挙げて中で分れることとなった。
呉主は之を聞きつけ,假以精學(以て学問に精求するようにということに仮して),賓客の往來を禁じ断った。
督軍使者の羊道は上疏して曰く:「聞きますに明詔によって二宮の備えと衛りを省き奪い,賓客を抑え絶ち,四方からの禮敬を使て不復得通(二度と通じるを得させないように)したとのこと,遠近は悚然とし,大も小も失望いたしました。
或るひとは謂わく二宮は典式を遵ばず,就くにあたって嫌う所に如こうとしているとしております,猶も宜しく補い察すべきです,密かに斟酌を加え,遠近を使て異言を容れるを得させないようになさいますよう。
臣の懼れますは疑いが積みあがって謗りを成してしまい,それが久しくなって將に宣べられ流れてしまうことです,而して西北の二隅は,國を去ること遠からず,
將に謂いけらくるに二宮には順之愆が有るとされてしまうなら,陛下に審らかにせず何をか以って之を解きましょうか!」
  呉主の長女(年長の娘)である魯班は左護軍の全jに適っており,少女(年少の娘である)の小虎は驃騎將軍の硃拠に適っていた。
全公主は太子の母である王夫人と<与>有隙(関係が悪かったため),呉主が王夫人を立てて後(皇后)と為そうと欲したところ,公主は阻子したのであるが;太子が立つと己を怨むであろうことを恐れ,心ながら自ら安んじなくなり,數<たびた>び太子を譖り毀した。
呉主が疾いで寝こむと,太子を遣わして長沙桓王の廟に於いて禱させた,太子妃の叔父である張休が廟の近くに居しており,太子を邀えて居る所を過ぎた。
全公主は人を使て覘視させると,因って言うに「太子は廟中に在さず,專ら妃の家に就いて議を計っています」とし,又た言った「王夫人は上が寢疾しているのを見て,喜色が有りました」,呉主は是れに由って怒りを発した。
夫人は以って憂死せられ,太子の寵は益すます衰えた。魯王之黨である楊竺、全寄、呉安、孫奇等は共に太子を譖り毀したため,呉主は焉れに惑うことになった。

54 :
陸遜は上疏して諫めて曰く:「太子こそ正統とされ,宜しく盤石之固めを有されますよう;魯王は籓臣であります,當に寵佚を使て差を有らしむるべきです。彼と此れが所を得れば,上下は安んずるを獲ることでしょう。」
書は三たび四たびと上らされ,辭情は危うく切すほどであった;又た都に詣でて,嫡庶之義を口で陳べたいと欲すようになったため。呉主はスばなくなった。
太常の顧譚は,陸遜之甥であったが也,亦た上疏して曰く:「臣が聞きますに國を有し家を有す者は,必ずや嫡庶之端を明らかにし,尊卑之禮を異なるものとし,
高下を使て差有らしめ,等級逾邈;如此れの如くするなら,則ち骨肉之恩は全うされ,覬覦之望みは絶たれるものです。
昔賈誼は治安之計を陳べて,諸侯之勢を論じるにあたり,以為らく勢重ければ親と雖も,必ず逆節之累を有すこととなり,勢輕ければ疏と雖も,必ず保全之祚を有すこととなるとしました。
故に淮南は親弟なれど,終に饗國せざるは,勢い重かるに於いて之を失ったからであります也;呉芮は疏臣でありましたが,祚を(永く)長沙に傳えましたのは,之を得ること勢い輕きに於いてであったからです也。
昔漢の文帝は慎夫人を使て皇后と<与>席を同じくさせんとしましたが,袁盎は夫人之位に退げさせました,帝は怒色を有しましたが;袁盎が上下之義を弁じ,人彘之戒めを陳べるに及び,帝はス懌を既にすることとなり,夫人も亦た悟ることありました。
今臣が陳べし所は,偏る所の有るに非ず,誠に以って太子を安んじ而して魯王を便ぜんと欲してのゆえであります也。」是れに由って魯王と<与>顧譚は有隙(関係が悪化した)。
芍陂之役では,顧譚の弟の承及び張休は皆功が有った;全jの子の全端、全緒は之と<与>功を争い,顧承、張休を呉主に於いて譖ったため,呉主は顧譚、顧承、張休を交州に於けるに徙すこととし,又た追って張休に死を賜ったのである。
太子太傅の吾粲は魯王を使て(外に)出して夏口を鎮めさせるよう請うとともに,楊竺等を出して京師に在ら令むること得られないように(と請い),又た數<たびた>び(その状況)消息を以って陸遜に語りきかせた;
魯王は楊竺と<与>共に之を譖<そし>ったため,呉主は怒り,吾粲を収めて獄に下すと,誅してしまった。それから數<たびた>び中使を遣わして陸遜を責問したため,陸遜は憤り恚って而して卒すこととなった。
其の子の陸抗は建武校尉と為っており,代わって陸遜の衆を領すこととなると,葬を送りとどけて東へ還ったところ,呉主は楊竺が白せし所の陸遜への二十事を以って陸抗に問うてきたが,陸抗は事事條して答えたため,呉主の意<きもち>は乃ち稍も解けることとなった。
  夏,六月,都郷穆侯の趙儼が卒した。
  秋,七月,呉の將軍である馬茂が呉主及び大臣を謀して以って魏に応じんとしたが,事が洩れ,並んで黨と<与>皆が族誅された。
  八月,太常の高柔を以って司空と為した。
  漢の甘太后が殂した。
  呉主は校尉の陳勳を遣わして屯田(の兵)及び作士三萬人を将いさせて,句容に中道を鑿ちしめ,小其より<自>雲陽西城に至るまで,會市を通じさせ,邸閣を作した。
  冬,十一月,漢の大司馬である蒋琬が卒した。
  十二月,漢の費禕は漢中に至ると,圍守を行わせた。漢の尚書令である董允が卒した;そこで尚書の呂乂を以って尚書令と為した。
董允は心を秉すにあたり公にあって亮らかであり,獻ずにあたっては否に替える可きものをとし,備わるにあたっては忠益を盡くしたため,漢主は甚だ之を嚴憚した。
宦人の黄皓は,便僻佞慧,漢主は之を愛でた。董允は上は則ち色を正して主を規り,下は則ち<たびた>び黄皓に於いて責めたてた。黄皓は允を畏れ,非を為すこと敢えてせず,允之世が終わるまで,黄皓の位は黄門丞に過ぎなかった。
費禕は選曹郎であった汝南(出身)の陳祗を以って允に代えて侍中と為すこととした,陳祗は矜獅ノして威容を有し,技藝を多くし,智數を挟みもっていた,故に禕は以為らく賢として,(席)次を越えて而して之を用いたのである。
陳祗は黄皓と<与>相表裡となりあったため,黄皓は始めて政を預ることとなり,累遷して中常侍に至り,威柄を操り弄ぶようになって,終に以って國を覆させてしまったのである。
陳祗が寵を有すようになって自り,而して漢主は追って董允を怨むこと日ごと深くなり,謂うに自らを輕んずるを為したとし,陳祗が意に阿って迎合したことに由って而して黄皓が浸潤して間を構える故となったのである也。

55 :
ここまで魏紀六。今回はこれまで。

56 :
大乙。

57 :
乙鍋!!( ^∀^)ゲラゲラ

58 :
すごい
我、感服いたしました。*ω*

59 :
中国ドラマ 三国志 Three king doms
BSフジ 月〜金 17:00〜17:55
全95話(吹き替え版) 無料放送
三国志 OP
http://www.youtube.com/watch?v=uymYExuV0L4

60 :
【魏紀七】 起柔兆攝提格,盡玄黓涒灘,凡七年。
     邵陵詞 中 正始七年(丙寅,西暦246年)
  春,二月,呉の車騎將軍硃然が柤中を寇すと,數千人を略して而して去った。
  幽州刺史の毌丘儉は高句驪王の位宮が數<たびた>び侵叛を為したことを以って,諸軍を督して之を討たんとした;位宮は敗走し,毌丘儉は遂に(高句麗の都である)丸都を屠り,首虜を斬獲すること以って千を數えた。
句驪之臣である得來が數(たびた)び位宮を諫めたが,位宮は從わなかった,得來は歎いて曰くく:「立ち見える此の地は將しく蓬蒿を生ずだけとなろうか。」遂に食わずして而して死んだ。
毌丘儉は諸軍を令て其の墓を壊させず,其の樹を伐させず,其の妻子を得ても皆之を放ち遣わせた。位宮は單り妻子を将いて逃げ竄れたため,毌丘儉は軍を引きつれて還った。
未だ幾らもなく,復た之を撃つと,位宮は遂に買溝に奔った。毌丘儉は玄菟太守の王頎を遣わして之を追わせ,沃沮を過ぎること千有餘里にして,肅慎氏の南界に至った,
そこで石に紀<戦記>を刻んで功となし而して還った,誅され、納められた所は八千餘口である。論功受賞があり,侯となった者は百餘人となった。
  秋,九月,呉主は驃騎將軍の歩騭を以って丞相と為し,車騎將軍の硃然を左大司馬と為し,衛將軍の全jを右大司馬と為した。
荊州を分けて二部と為した:鎮南將軍の呂岱を以って上大將軍と為し,督右部とし,武昌より<自>以西で蒲圻に至るまで(を担当とした);威北將軍の諸葛恪を以って大將軍と為し,督左部とし,陸遜に代わって武昌を鎮めさせた。
  漢は大赦した,大司農で河南(出身)の孟光は衆中に於いて費禕を責めて曰く:「夫れ赦とは<者>,偏枯之物であって,明世の宜しく有すべき所に非ざるもの也。
衰え敝すこと窮まり極まってしまい,必(然として)已むを得なくなって,然る後に乃ち權として而して之を行う可きだけのこと耳。
今主上は仁賢であらせられ,百僚は稱職している,何ぞ旦夕之急が有って,而して數<たびた>び非常之恩を施し,以って奸宄之惡に恵んでやろうというのか乎!」費禕は但だただ顧みて謝し,踧□する而已<のみ>であった。
  初め,丞相亮の時に,公(あなたさま=丞相諸葛亮)は赦を惜しむ者であると言うものが有った,諸葛亮は答えて曰く:「治世は大コを以てするもの,小惠を以てせず,故に匡衡、呉漢は赦を為すことを願わなかったのです。
先帝も亦た言っておりました:『吾は陳元方、鄭康成の間を周旋したおりには,(会)見する毎に治亂之道悉くを啓告されたものだったが矣,曾じて赦を語らなかった也。劉景升、季玉父子の若かるは,歳歳で赦宥していたが,何をか治に於いて益あっただろうか!』」
是に由って蜀人は諸葛亮之賢を称え,費禕の焉れに及ばないのを知ったのである。
  陳壽は評して曰く:諸葛亮の政を為すや,軍旅は數<たびた>び興こされたが而して赦は妄りに下されなかった,亦た卓(越)せざるか乎?

61 :
  呉人は大錢を不便としたため,乃ち之を罷めた。
  漢主は涼州刺史の姜維を以って衛將軍と為すと,大將軍の費禕と<与>並んで録尚書事とした。汶山(郡)平康の夷が反いたため,姜維が之を討ち平げた。
  漢主は數<たびた>び遊觀に出たため,聲樂を増し廣げようとした。太子家令であった巴西(出身)の譙周は上疏して諫めて曰く:
「昔王莽之敗れ,豪傑が並び起ち以って神器を争ったおりには,才智之士は歸す所を思い望みましたが,未だ必ずしも其の勢之廣い狹いを以ってせず,惟だ其コ之薄い厚いあるのみでした也。
時に於いて更始、公孫述等の多くは已に廣大となると,然るに情を快くし欲を恣にしないこと莫く,善を為すことに於いて怠るようになりました。
世祖の初め河北に入るや,馮異等が之を勸めて曰く:『當に人の為す能わざる所というもの<者>を行うべきです。』遂に冤獄を理めることに務め,節儉を崇むと,北州は歌い歎じいり,聲は四遠に布かれました。
是れに於いてケ禹は南陽より<自>之を追いかけ,呉漢、寇恂は素より之を未だ識らざるに,兵を舉げて之を助けんとし,其の餘りは風を望み徳を慕い,邳肜、耿純、劉植之徒は,輿病繼棺に於けるに至るも(病床に伏し,喪に伏しているのに),
襁負(わが身を強いて)而して至ったこと,不可勝數(数えきれないほどでありました),故に能く弱を以ってしながら強と為り而して帝業を成しとげたのです。
洛陽に在るに及び,嘗て欲小出,銚期が進みでて諫めたところ,即時に車を還しました。穎川に盜の起つに及び,寇恂が世祖に身づから往きて賊に臨みたいと請うたところ,言を聞くや即ち行われました。
故に急務に非ざれば,小出を欲するも敢えてせず;急務に於けるに至ると,自ら安んぜんことを欲するも為さず;帝者之善を欲するや也此の如くであるのです!
故に《傳》の曰く:『百姓不徒附』とは,誠にコを以て之に先んずることであるのです也。今漢は厄運に遭い,天下は三分しております,雄哲之士が思望する之時であります也。
臣願わくば陛下には復た人の為す能わざる所のこと<者>を行われまして,以って人望に副えられますように。
且つ事を宗廟に承り,所以率民尊上也,今四時之祀は或いは臨まれないことが有るのに,而して池苑之觀は或いは仍ち出でること有るとのこと,臣之愚かしくも滯しますに,私<ひそか>に自ら安ぜざるものです。
夫れ憂責の身に在る者は,不暇盡樂(楽しみを尽くす暇はないもの),先帝之志は,堂構にあって未だ成されておりませなんだ,誠に盡樂之時(楽しみを尽くす時)に非ざることであります。
願わくば樂官、後宮を省き減らされますよう,凡そ増造いたす所は,但だ先帝の施せし所をのみ奉り修むものとし,子孫の為に節儉之教えを下されますように。」しかし漢主は聽きいれなかった。

62 :
     邵陵詞中正始八年(丁卯,西暦247年)
  春,正月,呉の全jが卒した。
  二月,日有食之。(日食が有った)
  時の尚書の何晏等は曹爽を朋<とも>にし附いており,變を好み法度を改めた。太尉の蔣濟は上疏して曰く:「昔大舜が治を佐<たす>けると,戒在比周;周公が輔政すると,其の朋に於けるを慎みました。
夫れ國の法度を為すは,惟だ世の大才に命ずのみでありまして,乃ち能く其の綱維を張りわたして以って後に於ける垂(範)となすものです,豈に之を吏に下して宜しく改易すべき所を中らせるものでしょうか哉!
終には治に於いて益すこと無く,民を傷つけるに足るに適うだけでしょう。宜しく文武之臣を使て,各おの其の職を守ら使め,率いるに清平を以てせしめれば,則ち和氣祥瑞して(天人)感じて而して致される可きことでしょう也!」
  呉主は詔をくだし武昌宮の材瓦を徙して建業宮を繕い修めさせようとした。有司が奏言した:「武昌宮は已にして二十八歳となっておりますから,恐らくは用いるに堪えないかと,宜しく在る所に(命令を)下し,通更伐致。」
呉主曰く:「大禹は卑宮を以って美しと為した。今軍事は未だ已まず,賦斂の在る所であるから,若し更めて通伐すれば,農桑を妨げ損なうだろう,であれば武昌の材瓦を徙し,自ら用いる可きなのだ也。」乃ち居を南宮に徙した。
三月,改めて太初宮を作し,諸將及び州郡を令て皆義作せしめた。
  大將軍の曹爽は何晏、ケ颺、丁謐之謀を用いると,太后を永寧宮に於けるに遷し;朝政を專擅すると,親黨を樹てること多く,屢<たびた>び制度を改めた。
太傅の司馬懿は禁じること能わず,曹爽と<与>隙有ることとなった。五月,そのため司馬懿は始めて疾と称し,政事に与らなくなった。
  呉の丞相歩騭が卒した。
  帝は褻近群小を好み,後園に游宴した。秋,七月,尚書の何晏が上言した:「今より<自>は式乾殿に御幸するさい及び後園に遊豫するさいには,宜しく皆大臣を從えて,政事を詢謀し,經義を講論し,萬世の法と為しましょう。」
冬,十二月,散騎常侍、諫議大夫の孔乂が上言した:「今天下は已にして平げられました,陛下可絶後園習騎乘馬(陛下にはなにとぞ後園にての騎を習い馬を乗りこなすことを絶たれる可きです),
出必御輦乘車(そとへ出るのに輦を御し車に乗られることを必ずとするならば),天下之福となりましょう,臣子之願いでございます也。」帝は皆聽きいれなかった。
  呉主は大いに衆を発して建業に集めると,聲を揚げて入寇せんと欲しているとした。揚州刺史の諸葛誕は安豐太守の王基を使て之を策させめたところ,王基曰く:
「今陸遜等は已に死に,孫權は年老い,内には賢嗣が無く,中にも謀主が無くなっております。孫權自らが出んとしても則ち内釁が卒として起こり,癰疽が發潰するを懼れることになりましょう;
將を遣わせば則ち舊將は已に盡きており,新たな將は未だ信じられずにいることでしょう。此は衣を補い支黨を定めんと欲しているに過ぎません,還って自らを保ち護らんとするのみでしょう耳。」已にして而して呉は果たして出てこなかった。
  是歳,雍、涼の羌胡が叛いて漢に降った,漢の姜維は兵を將いて隴右に出て以って之に應じ,雍州刺史の郭淮、討蜀護軍の夏侯霸と<与>洮西に於いて戦った。
胡王白虎文、治無戴等はを率いて姜維に降ると,姜維は之を徙して蜀に入らせた。郭淮は進んで羌胡の餘黨を討ち,皆之を平げた。

63 :
     邵陵詞中正始九年(戊辰,西暦二四八年)
  春,二月,中書令の孫資,癸巳,中書監の劉放,三月,甲午,司徒の衛臻が各おの位を遜り,侯を以ってして第に就き,位は特進となった。
  夏,四月,司空の高柔を以って司徒と為し,光祿大夫の徐邈を司空と為した。徐邈は歎じて曰く:「三公は論道之官である,其の人が無かりせば則ち缺くもの,豈に老病を以てして之を忝くす可きだろうか哉!」遂に固辭して受けなかった。
  五月,漢の費禕が出て漢中に(駐)屯した。蔣琬より<自>費禕に及ぶまで,身は外に於けるに居ると雖も,慶賞と威刑は,皆遙かに先ず断を咨り,然る後に乃ち行われた。
費禕は雅性にして謙素であり,當に國の功名たるべく,略は蔣琬と<与>比すものであった。
  秋,九月,車騎將軍の王凌を以って司空と為した。
  陪陵の夷が反したため,漢の車騎將軍であるケ芝が之を討ち平げた。
  大將軍の曹爽は,驕奢にして度が無く,飲食も衣服も,乘輿に於けるに擬した;尚方の珍玩が,其の家に充牣した;又た私<ひそか>に先帝の才人を取って以って伎樂と為した。
窟室を作すと,四周を綺疏し,數<たびた>び其の黨の何晏等と<与>其の中で酒を縦にした。弟である曹羲は以って憂いを為すこと深くすると,數<たびた>び涕泣して之を諫め止めたが,曹爽は聽きいれなかった。
曹爽兄弟は數<たびた>び俱に出遊したため,司農であった沛國(出身)の桓范は謂って曰く:「萬機を總め,禁兵を典じ,宜しく並び出ずるべからず。
若し城門を閉ざされること有らば,誰が復た内に入ること<者>ありましょうぞ?」曹爽曰く:「誰が敢えて爾しようか邪!」
  初め,清河、平原は(境)界を争い,八年しても決すこと能わなかった。冀州刺史の孫禮は天府が所藏する烈祖が平原(王)に封ぜられし時の圖を請うと以って之を決そうとした。
曹爽は清河之訴えを信じ,雲<たとえ>圖は用いる可からずとしたが,孫禮は上疏して自らを辨じ,その辭は頗る剛切であった。曹爽は大いに怒ると,孫禮を怨望していると(弾)劾し,結刑すること五歳とした。
之に久しく,復た并州刺史と為ると,往きて太傅の司馬懿に見えたが,忿色を有したまま而して無言であった。司馬懿曰く:「卿は并州を得たが少ないというのかね邪?恚っているのは分界失分を理めんとしてのことかね乎?」
孫禮曰く:「何と明公の言之乖(離)したることか也!この禮は不コと雖も,豈に官位を以って往事(かつての事)に意を為そうとしましょうぞ邪!
本より明公が伊、呂と齊しく蹤せられ,魏室を匡し輔けてきた謂われは,上は明帝之托に報じ,下は萬世之勳を建てんとしてのことでしょう。
今社稷は將に危うからんとし,天下は凶凶とせり,それが此の禮之スばざる所以でござる也!」因って涕泣すると流した。司馬懿曰く:「且つ止めよ,忍ぶ可からざるを忍びたまえ!」
  冬,河南尹の李勝は出て荊州刺史と為ると,過ぎるところで太傅の司馬懿に辞すこととした。司馬懿は兩に婢侍を令て,衣を持たせたが,衣は落ちた;
口を指して渴いたと言い,婢は粥を進めたが,司馬懿は杯を持たずに而して飲み,粥は皆流れ出て胸を沾らした。李勝曰く:「衆情が謂うことには明公は舊風が發動したとのこと,何意尊體乃爾!」
司馬懿は聲氣を使て才屬せしむると,説いた:「年老いて疾に枕しており,死は旦夕に在るようになった。君は當に并州に屈すべきとか,
并州は胡に近い,之に備えを為すことを好みなさい!恐らくは相見えること復たなかろう,子の師、昭兄弟を以って托すを為したい。」
李勝曰く:「當に還りて本州を忝くすべきもので,并州に非ず。」司馬懿は乃ち其の辭にも錯亂して曰く:「君は方に并州に到るのか?」李勝復た曰く:「當に荊州を忝くすべきこととなりました。」
司馬懿曰く:「年老い意は荒み,君の言を解さなかったわい。今還って本州と為るなど,盛コ壯烈なこと,好しや功勳を建てなさい!」
李勝は退くと,曹爽に告げて曰く:「司馬公は屍が餘りの氣に居しており,形なす神も已に離れてしまっています,慮るに足りません矣。」
他日,又た曹爽等に向かって垂泣して曰く:「太傅の病が復た濟す可からざるものであること,人を令て愴然とせしむものです!」故に曹爽等は備えを設けること復たしなくなった。

64 :
  何晏は平原(出身)の管輅が術數に於いて明るいと聞くと,請うてこれと<与>相見えた。十二月,丙戌,管輅は往って何晏に詣でると,何晏は之と<与>《易》を論じた。
時にケ颺が坐に在ったが,管輅に謂って曰く:「君は自ら《易》を善くしていると謂っていたな,而るに初めに語ったおりには《易》の中辭の義には及ばなかったが,何でであろうか也?」
管輅曰く:「夫れ《易》を善くす者は《易》を言わないものです也。」何晏は笑いを含んで之を贊じて曰く:「要言は煩わざると謂う可きかな也!」因って管輅に謂って曰く:「試みに一卦を作すを為してくれ,知りたいのは位は當に三公に至るや不や?」
又た問うた:「夢見ること連なっているのだが青蠅が數十ほどもあり,鼻上に来たり集まり,之を驅おうとしても去らない,何であろうか也?」
管輅曰く:「昔元、凱が舜を輔け,周公が周を佐けたおり,皆和惠謙恭を以てしたため,多いに福を享け有しました,此れは卜筮が能く明らかにする所に非ざるものです也。
今君侯の位は尊く勢いは重く,而るにコに懐く者は鮮なく,威を畏るる者は衆し,殆んど小心求福(心を細やかにして福を求める)之道に非ず也。
又た,鼻とは<者>天中之山であり,『高く而して危うからざるは,貴きを長らく守る所以である。』といいます今青蠅が臭惡して而して之に集うは,位の峻しかる者が顛ずこと,豪を軽んず者が亡ぶこと,深く思わない可きではありませんぞ也!
願わくば君侯には裒多くして益寡なくし,禮に非ざれば履かないこととなさいませ,然れば後には三公も至る可く,青蠅も驅う可けん也。」
ケ颺曰く:「此れは老生(老子の教えを奉ず者)之常に譚ずことだね。」管輅曰く:「夫れ老生は<者>生じざるうちから見ており,常に譚ずのは<者>譚ぜざるを見ればこそなのです。」管輅は邑に還り捨てると,具さに以って其の舅に語った。
舅は管輅を責めて太いに切至していると言ったが,管輅曰く:「死人と<与>語っただけだ,何ぞ畏れる所であろうか邪!」舅は大いに怒ると,管輅を以って狂ったとみ為した。
  呉の交趾、九真の夷賊が城邑を攻め没としたため,交部は騒ぎ動いた。呉主は衡陽の督軍都尉であった陸胤を以って交州刺史、安南校尉と為した。
陸胤は入境すると,喩えるに恩信を以てしたため,降った者は五萬餘家,州境は復た清らかとなった。
  太傅の司馬懿が陰ながら其の子の中護軍師、散騎常侍の司馬昭と<与>曹爽を誅すことを謀った。

65 :
     邵陵詞中嘉平元年(己巳,西暦249年)
  春,正月,甲午,帝は高平陵に謁し,大將軍の曹爽と<与>弟である中領軍の曹羲、武衛將軍の曹訓、散騎常侍の曹彦らが皆從った。
太傅の司馬懿は皇太后の令を以て,諸城門を閉ざすと,兵を勒して武庫に拠り,兵を授けると出て洛水の浮橋に(駐)屯し,司徒の高柔を召して節を假して行大將軍事とし,曹爽の營に拠らせると,太僕の王觀を行中領軍事とし,曹羲の營に拠らせた。
因って曹爽の罪惡を帝に於いて奏(上)して曰く;「臣は昔遼東より<従>還ると,先帝は詔をくだし陛下と、秦王及び臣を御床に升らせて,臣の臂を把って,深く後事を以って念を為さいました。
臣言いけらく『太祖、高祖も亦た臣に後事を以って屬させましたこと,此れ自ら陛下の見ました所でありまして,憂苦する所無いものです。萬一にも不如意を有しましたら,臣は當に死を以って明詔を奉るべきことでしょう。』
今大將軍の曹爽は,顧命に背きそれを棄て,國典を敗れさせ乱し,内は則ち僭擬し,外は則ち專權し,諸營を破壊し,禁兵を盡くして據り,群官の要職は,皆親しむ所に置くこととし,
殿中の宿衛は,私人を以て易えてしまい,盤互に根づき據ると,縱にし恣にすこと日ごと甚しく,又た黄門の張當を以って都監と為して,至尊を伺い察せさせて,二宮を離間させ,骨肉を傷け害しましたため,
天下は洶洶として,人びとは危懼を懐くこととなりました。陛下が便じて寄坐を為すなど,豈に久安を得られましょうか!
此れは先帝が陛下及び臣に詔をくだし御床に升らせた之本意に非ざることです也。臣は朽邁すると雖も,敢に往ての言を忘れましょうぞ!
太尉である臣の蔣濟等が皆して以って為すに曹爽は君を無いがしろにする之心を有しておりますから,兄も弟も兵を典じて宿衛するは宜しくすべからずとして,永寧宮に奏(上)し,皇太后さまが臣に敕を令て奏の如く施行するようにとしました。
そこで臣は輒ち主る者及び黄門令に敕し『曹爽、羲、訓の吏兵を罷りこさせ,以って第に侯就せしめ,逗留を得ないようにせよ,そうして以って車駕を稽らせよ;敢えて稽留せんとするもの有れば,便じて軍法を以って事に從わせるように!』
そうして臣は輒ち力めて疾やかに兵を將いて洛水の浮橋に(駐)屯し,伺って非常を察したしだいです。」
曹爽は司馬懿の奏事を得ようとしたが,通じず;迫窘して為す所を知らぬこととなり,車駕を留めて伊水の南に宿し,木を伐って鹿角を為し,屯田兵數千人を徴發して以って衛りと為した。
  司馬懿は侍中の高陽、許允及び尚書の陳泰を使て曹爽に宜しく早く自ら罪に帰すよう説かせ,又た曹爽が信ずる所である殿中校尉の尹大目を使て曹爽に,唯だ免官される而已であると謂わせて,洛水を以って誓いを為した。
陳泰は,陳群之子である也。

66 :
  初め,曹爽は桓范が郷里の老宿であったことを以て,九卿の中に於いて特に之を禮(遇)していたが,然るに甚親しまなかった也。
司馬懿が兵を起こして,太后の令を以って范を召すに及び,行中領軍とせ使めようと欲した。范は命に応じようと欲したものの,其の子が之を止めて曰く:「車駕は外に在ります,南へ出るに如かず。」としたため范は乃ち出ていった。
平昌城門に至ると,城門は已に閉ざされていた。門候の司蕃は,故の桓范が舉げた吏であった也,そこで桓范は手中の版を挙げて以って之に示し,矯めて曰く:「詔が有り我を召している,卿は門を開くよう促したまえ!」
司蕃は詔書を求め見ることを欲したが,桓范は之を呵って曰く:「卿は我が故吏に非ざるか邪?何ぞ以って敢えて爾おうとするのだ!」そこで乃ち之を開いた。
范が城を出ると,顧みて蕃に謂って曰く:「太傅は(叛)逆を圖った,卿も我に従い去るように!」蕃は徒行したものの及ぶこと能わず,遂に側に避けた。
司馬懿は蔣濟に謂って曰く:「智囊が往ってしまった矣!」蔣濟曰く:「桓范は則ち智でありましょうが矣,然りながら駑馬は棧豆に戀こがれるもの,曹爽は必ずや用いること能いますまい也。」
  桓范は至ると,曹爽兄弟に薦めて天子を以って許昌に詣で,四方の兵を(徴)発して以って自らを輔けるようにとした。
しかし曹爽は疑って未だ決せずにいたため,桓范は曹羲に謂って曰く:「此の事は昭然としていることなのに,卿は用って書を讀んで何をか為そうというのか邪!
今日に於いて卿等の門戸は,貧賤を求めようとも復た得らる可けんか乎!且つ匹夫は一人を質にしようとも,尚も活きんと慾望するものだ;
卿は天子と<与>相隨っているのだ,天下に於いて令するにあたって,誰が敢えて應じないでいようか也!」としたが俱に言わなかった。
范は又た曹羲に謂って曰く:「卿の別營が闕南の近くに在る,洛陽の典農の治が城外に在る,呼び召すこと意の如くであろう。
今許昌に詣でるなら,中宿を過ぎない,許昌は庫(武器庫)を別にしているから,相被假するに足ろう;憂う所あるとすれば當に谷食に在るべきだが,而してさいわいにも大司農の印章は我が身に在る。」
曹羲兄弟は默然として從わず,甲夜より<自>五鼓に至ったところで,曹爽は乃ち刀を地に於いて投げすてて曰く:「我亦不失作富家翁!」
桓范は哭して曰く:「曹子丹は佳人であったが,汝ら兄弟を生んだため,犬が犢に屯すだけになるとは耳!何をか圖って今日汝等に坐して族滅しようとは也!」

67 :
  曹爽は乃ち司馬懿に通じて奏事すると,帝に(建)白して詔を降して己の官を免ずようにとし,帝を奉じて宮に還った。
曹爽兄弟が家に歸ると,司馬懿は洛陽の吏卒を(徴)発して之を圍み守らせ;四角に高樓を作らせ,人を令て樓上に在らせて曹爽兄弟の舉動を察視させた。
曹爽が彈を挟んで後園の中に到ると,樓上から便じて唱言した:「故の大將軍は東南へ行けり!」曹爽は愁悶すれど計を為すこと知らなかった。
  戊戌,有司が奏した:「黄門の張當が私<ひそか>に擇びし所の才人を以って曹爽に與し,奸が有ることが疑われます。」
としたため張當を収めて廷尉に付けて實を考じさせたところ,辭して云わく:「曹爽と<与>尚書の何晏、ケ颺、丁謐、司隸校尉の畢軌、荊州刺史の李勝等は陰ながら反逆を謀り,三月の中を須って發すところでした。」
是れに於いて曹爽、羲、訓、何晏、ケ颺、丁謐、畢軌、李勝ら並びに桓范を収めて皆獄に下し,以って大逆不道であると(弾)劾し,張當と<与>俱に夷三族とした。
  初め,曹爽之出るや也,司馬の魯芝は留って府に在ったが,變が有ったと聞き,營騎を将いて津門を斫して出て曹爽のところへ赴いた。
曹爽が印綬を解いて,將に出ようとするに及び,主簿の楊綜が之を止めて曰く:「公は主を挾んで權を握っておりますのに,此れを捨てて以って東市に至ろうとするおつもりか乎?」
有司は魯芝、楊綜を収めて罪を治めるよう奏(上)したが,太傅の司馬懿は曰く:「彼らは各おの其の主の為にしたのだ也。之を宥すように。」頃之,魯芝を以って御史中丞と為し,楊綜を尚書郎と為した。
  魯芝が將に出でなんとするに,參軍の辛敞を呼びつけこれと<与>俱に去ろうと欲した。辛敞は,辛毘之子である也,其の姊である憲英は太常である羊耽の妻と為っていたが,辛敞は之と<与>謀って曰く:
「天子が外に在るのに,太傅は城門を閉ざしてしまった,人云將不利國家,於事可得爾乎?」憲英曰く:「吾を以て之を度<はか>るに,太傅の此の舉は,以って曹爽を誅さんとするに過ぎますまい耳。」
辛敞曰く:「然らば則ち事の就くはどうなろうか乎?」憲英曰く:「得無殆就!曹爽之才は太傅之偶に非ざるからです也。」敞曰:「然らば則ちこの敞は以って出ること無かる可きでしょうか乎?」
憲英曰:「安んぞ以って出ざる可きことでしょうか!職守ることは,人之大義です也。凡人は難に在らば,猶も或いは之を恤すものです;
人の為に鞭を執って而して其の事を棄てるは,不祥なること大なるは莫いもの焉。且つ人の為に任じられ,人の為に死すは,親暱之職です也,衆に從う而已でしょう。」
敞は遂ち出た。事の定まって之後,敞は歎じて曰く:「吾が姊に於いて謀らざれば,幾らも義に於いて獲ることなかっただろう。」
  是れより先,曹爽は王沈及び太山(出身)の羊祜を辟(召)していた,王沈は羊祜に命じ應ずよう勧めた。羊祜曰く:「質を委ねて人に事えるは,復た何ぞ容易ならんか!」王沈は遂に行った。
曹爽が敗れるに及び,王沈は故吏であることを以て免ぜられ,乃ち羊祜に謂って曰く:「吾は卿が前に語ったことを忘れていないよ。」羊祜曰く:「此れは始めから慮りの及ぶ所に非ざることですよ也!」
  曹爽の從弟の文叔の妻は夏侯令女といい,早くから寡りものとなって而して子が無かったため,其の父の文寧は之を嫁がせようと欲した;令女は刀で両耳を截って以って自らに誓いし,居いは常に曹爽に依った。
曹爽が誅されると,其の家は絶昏を上書し,強いて迎えて以って歸らせると,復た將に之を嫁がせようとした;令女は寢室に竊入ると,刀を引きたてて自ら其の鼻を斷ったため,其の家は驚惋して,之に謂って曰く:
「人の世間に生きること,輕塵が弱草に棲まうが如きのみ耳,何にか至って自らを苦しませるのか乃爾!且つ夫の家は夷(みなごろし)されて滅んでしまし已に盡きているのだ,此を守ろうとは誰が為に欲してというのか哉!」
令女曰く:「吾が聞くに仁者は盛衰を以ってしては節を改めず,義者は存亡を以ってしては心を易えずと。曹氏が前に盛んであった之時にでも,尚も終わりを保たんことを欲しておりました,況んや今や衰亡してのおり,何ぞ之を棄てるに忍びえましょうか!
此れは禽獸さえ行わぬこと,吾は豈に為しえましょうか乎!」司馬懿は聞いて而して之を賢とし,聽使乞子字養為曹氏後。

68 :
  何晏等が方に用事したおりには,自ら以為らく一時の才傑であり,人で及ぶこと能うるもの莫いとした。
何晏は嘗て名士の品目を為して曰く:「唯だただ深なり也、故に能く天下之志を通ずるは,夏侯泰初が是れなり也。唯だただ幾なり也、故に能く天下之務めを成すは,司馬子元が是れなり也。
唯だただ神なり也、疾からざるのに而して速やかであり,行わざるのに而して至る,吾は其の語を聞くも,未だ其の人と同凶せず。」蓋欲以神況諸己也。
  選部郎の劉陶は,劉曄之子である也,少なきより口辯を有したため,ケ颺之徒は之を稱えるに以為らく伊、呂であるとした。
劉陶は嘗て傅玄に謂ったことがある是れ「仲尼は聖ならず。何をか以ってして之を知らんか?智者の群愚に於けるは,掌中に於いて一丸を弄ぶが如くであろうからだ;而るに天下を得ること能わざるのだから,何をか以ってして聖と為すであろうか!」
夏侯玄は難ずこと復せず,但だたんに之を語って曰く:「天下之變は常なることなど無いもの也,今に卿の窮するを見ることだろう。」曹爽の敗れるに及び,劉陶は退居裡捨し,乃ち其の言之過ちを謝した。
  管輅之舅は管輅に謂って曰く:「爾は前に何をか以って何、ケ之敗れるを知ったのか?」管輅曰く:「ケ之行き歩くや,筋は骨に束ねず,脈は肉を制さず,起きて立てば傾き倚し,手足の無かるが若し,此れ鬼躁を為せり。
何之視て候するや則ち魂は宅を守らず,血は色を華さず,精は爽として煙り浮わつき,容(貌)は槁木の若し,此れ鬼幽を為せり。二者は皆遐福之象に非ず也。」
  何晏の性は自らを喜ぶもので,粉白が手から去らず,行き歩むと影を顧みた。尤も老、莊之書を好み,夏侯玄、荀粲及び山陽の王弼之徒と<与>,競って清談を為し,祖として虚無を尚び,謂わく《六經》など聖人の糟粕と為っているものだとした。
是れに由って天下の士大夫は爭って之を慕い效じ,遂に風流を成すと,複製す可からざることに焉れなったのである。荀粲は,荀ケ之子である也。
  丙午,大赦した。
  丁未,太傅の司馬懿を以って丞相と為すと,九錫を加えることとしたが,司馬懿は固辭して受けなかった。
  初め,右將軍の夏侯霸は曹爽に厚くされる所と為っていたが,其の父の淵が蜀に於いて死んだことを以て,常に切齒して報仇之志を有し,討蜀護軍と為ると,隴西に於いて(駐)屯したが,征西に統屬することとなっていた。
征西將軍の夏侯玄は,夏侯霸之從子であり,曹爽之外弟であった也。曹爽の既に誅されると,司馬懿は夏侯玄を召して京師に詣でさせると,雍州刺史の郭淮を以て之に代えた。
  夏侯霸は素より郭淮と<与>葉せず,以為らく禍い必ずや相及びなんとし,大いに懼れると,遂に漢に奔った。
漢主は謂って曰く:「卿の父は自ら行間に於いて害されるに遇うただけ耳,我が先人之手づから刃にかけたに非ず也。」として之を遇すこと甚だ厚かった。
姜維は夏侯霸に於いて問うて曰く:「司馬懿は既に彼の政を得たが,當に復た征伐之志を有すや不や?」夏侯霸曰く:「彼は方<まさ>に家門を營立せんとするだけで,未だ外事を遑しないでしょうな。
鐘士季という者が有りまして,其の人は少なきと雖も,若し朝政を管したなら,呉、蜀之憂いとなりましょう也。」士季とは<者>,鐘繇之子で尚書郎であった鍾會のことである也。

69 :
すげえ勢い乙。

70 :
  三月,呉の左大司馬の朱然が卒した。朱然は(身)長は七尺に盈たざるも,氣候は分明,内では行い修めること潔く,終日にわたり欽欽とし,常に戰場に在るが若くで,急に臨んでも膽(力)の定まっていること,人に於けるより過ぐるものであった。
世は無事なりと雖も,毎朝夕鼓を厳しくし,兵で營に在った者は,鹹<みな>行裝(遠征装束)で隊に就いた。此を以ってして敵を玩び,備えとする所を知らざら使む,故に出れば輒ち功(績)が有ったのである。
朱然は疾に寢こんで篤きを増すと,呉主は晝と為ると膳を減らし,夜になっても寐つかず,中っては醫藥や口食之物を使わし,それは道に於いて相望むほどであった。
朱然は使いを遣わす毎に表して疾病は消息したとしたため,呉主は輒ち召見すると,みずからの口で自問して訊ね,入りては酒食を賜り,出ては布帛を賜った。卒するに及び,呉主は之が為に哀しみ慟(哭)した。
  夏,四月,乙丑,改元した。
  曹爽之伊南に在るや也,昌陵景侯の蔣濟は之に書を与え,太傅之旨を言うと,免官のみ而已に過ぎまいとした。
曹爽が誅されると,蔣濟は封を進められて都郷侯とされ,上疏して固辭したものの,許されなかった。蔣濟は其の言之失(策)に病み,遂に病を發して,丙子,卒した。
  秋,漢の衛將軍である姜維が雍州を寇し,麴山に依って二城を築き,牙門將の句安、李歆等を使て之を守らせた,羌胡を聚めて質任(人質を取り),諸郡を侵し逼った。
征西將軍の郭淮は雍州刺史の陳泰と<与>之を御った。陳泰曰く:「麴城は固いと雖も,蜀を去ること險しく遠い,當に須く糧を運ぶべきもの;羌夷は姜維の勞役に患っており,必ずや未だ附くことを肯うまい。
今圍んで而して之を取れば,刃を血ぬらずとも而して其の城を抜く可きこととなろう;其の救いが有ろうと雖も,山道は險しさに阻まれており,行兵之地に非ざることだ也。」
郭淮は乃ち陳泰を使て討蜀護軍の徐質、南安太守のケ艾を率いさせると兵を進めて麴城を囲ませ,其の運道及び城外の流水を断たせた。
句安等が戰いを挑んできたが,(会戦を)許さなかったため,將士は困窘し,糧を分けて雪を聚め以って日月をなが引かせた。
姜維は兵を引きつれて之を救いにくると,牛頭山より<自>出て,陳泰と<与>相對した。陳泰曰く:「兵法が貴ぶは戰わずして而して人を屈すに在る。今牛頭を絶てば,姜維は反る道が無くなろうから,則ち我之禽となろう也。」
諸軍に敕して各おの壘を堅くしてこれと<与>戰うこと勿れとし,使いを遣わして郭淮に白し,郭淮を使て牛頭に趣かせて其の還り路を截たせることとした。
郭淮は之に從い,軍を洮水に進めた。姜維は懼れて,遁走し,句安等は孤絶してしまい,遂に降った。郭淮は因って西のかた諸羌を撃とうとした。
ケ艾曰く:「賊が去ったのは未だ遠からず,或いは復た還ること能うでしょう,宜しく諸軍を分けて以って不虞に備えさせますよう。」是に於いてケ艾を留めて白水の北に(駐)屯させた。
三日,姜維は其の將である廖化を遣わして白水より<自>南のかたケ艾の結びし營に向かわせた。ケ艾は諸將に謂って曰く:「姜維は今卒として還ろうとしている,吾が軍の人は少ない,法として當に來たり渡るべきとしているが;
而して橋を作っていない,此れは姜維が廖化を使て吾を持たして還るを得られざら令もうとしているのだ,姜維は必ずや東より<自>洮城を襲い取ろうとするだろう。」
洮城は水の北に在り,ケ艾の屯を去ること六十里であった,ケ艾は即ち夜に軍を潛めて徑到した。姜維は果たして來たりて渡ってきたが,而してケ艾が先んじて城に至って據っていたため,以って敗れざるを得,漢軍は遂に還っていった。

71 :
兗州刺史の令狐愚は,司空である王凌之甥であった也,平阿に於いて(駐)屯し,甥も舅も並んで重兵を典じて,淮南之任を專らにしていた。
王凌は令狐愚と<与>陰ながら謀し,以って帝が闇弱であるため,強臣に於いて制せられている,聞けば楚王彪には智勇が有る,共になって之を立て,迎えて許昌を都にしようと欲した。
九月,令狐愚は其の將の張式を遣わして白馬に至らせ,楚王と<与>相聞こえさせた。王凌も又た舍人の勞精を遣わして洛陽に詣でさせ,其の子廣に語らせた。
王廣曰く:「凡そ大事を舉げんとするは,應本人情。曹爽は驕奢を以ってして民(意)を失い,何平叔は虚しく華やいで治めなかった,丁、畢、桓、ケは並んで宿望有ったと雖も,皆世に於いて競うのを專らにしていた。
加えて朝典を變易し,政令は數(たびた)び改められ,所存雖高而事不下接,民習於舊,衆莫之從,故に勢いは四海を傾け,聲は天下を震わしたと雖も,日を同じくして斬戮された,名士は半ばに減ったが,而して百姓は之に安んじた。
莫之或哀,失民故也。今司馬懿の情は量ること難しと雖も,事は未だ(反)逆を有しておらず,而して賢能を擢び用い,己に勝るものを廣げ樹てている,先朝之政令を修め,衆心之求むる所に副うている。
爽之所以為惡者,彼莫不必改,夙夜菲懈,以恤民為先,父子兄弟,並んで兵要を握っているのだから,未だ亡ぶに易からず也。」しかし王凌は從わなかった。
  冬,十一月,令狐愚は復た張式を遣わして楚王に詣でさせたが,未だ還らぬうちに,令狐愚が病卒するに會った。
  十二月,辛卿,即きて王凌を拝して太尉と為した。庚子,司隸校尉の孫禮を以って司空と為した。
  光祿大夫の徐邈が卒した。徐邈は清節を以ってして名を著わし,盧欽は嘗て書を著わして徐邈を称えて曰く:
「徐公は志高く行い潔く,才は博く氣は猛し,其れ之を施すや也,高にして而して不狷,潔にして而して不介,博にして而して守約,猛にして而して能ェである。
聖人は以って清くあろうとすることは難しいものだと為したが,而して徐公之易きとする所であった也。」
或るひとが盧欽に問うた:「徐公は武帝之時に當たっては,人は以為らく通であるとしました;涼州刺史と為って自り,京師に還るに及び,人は以為らく介としました,何ででしょうか也?」
盧欽は答えて曰く:「往ては<者>毛孝先、崔季珪が用事していて,清素之士を貴び,時に於いて皆車服を變易してまでして以って名の高からんことを求めたものだが,而して徐公は其の常とするところを改めなかった,故に人は以為らく通としたのである。
比して天下に奢靡となるところが来ることとなると,轉じて相倣傚しあった,而しながら徐公は雅に尚も自若として,俗の同じきに与しなかった,故に前日之通は,乃ち今日之介となったのだ也。
是れぞ世人之常とするものの無いところで而して徐公之常とするものを有するところなのである也。」盧欽は,盧毓之子である也。

72 :
     邵陵詞中嘉平二年(庚午,西暦250年)
  夏,五月,征西將軍の郭淮を以って車騎將軍と為した。
  初,會稽の(人である)潘夫人は呉主に於いて寵を有し,少子亮を生むと,呉主は之を愛でた。
全公主は既にして太子の孫和と<与>有隙(関係が悪化しており),豫め自らに結びつけようと欲して,數<たびた>び孫亮の美しきを称えて,其の夫之兄の子尚の女を以って之に妻とした。
呉主は以って魯王の孫霸が朋黨を結んで以って其の兄を害したことから,心では亦た之を惡んでおり,侍中の孫峻に謂いて曰く:
「子弟が睦まじくせず,臣下は分かれ部しているのは,將に袁氏之敗(亡の兆候)が有るもので,天下の笑いものと為っている。
若し一人を使て立たしむるならば<者>,安んぞ亂れざること得られましょうか乎!」遂に孫和を廃して孫亮を立てる之意を有すこととなったが,然りとて猶も沉吟とすること<者>年を歴した。孫峻は,孫靜之曾孫である也。
  秋,呉主は遂に太子の孫和を幽(閉)した。驃騎將軍の朱據は諫めて曰く:「太子は,國之本根です。加えて以って雅なる性は仁孝であって,天下の歸心するところです。
昔晉獻が驪姫を用いて而して申生は存せざることとなり,漢武は江充を信じて而して戻太子は冤死しました,臣が竊いますには太子が其の憂に堪えられず,思子之宮を立てると雖も,復た及ぶ所無くなるのを懼れます矣!」呉主は聽きいれなかった。
朱據と<与>尚書僕射の屈晃は諸將吏を率いて泥頭自縛し,連日にわたり闕に詣でて和を請うた;呉主は白爵觀に登り,見て,甚だ之を惡み,朱據、屈晃等に「無事匆匆」と敕した。
無難督の陳正、五營督の陳象は各おの上書して切諫し,朱據、屈晃も亦た固く諫めて已まなかった;そのため呉主は大いに怒り,陳正、陳象を族誅した。
朱據、屈晃を牽いて入殿したところ,據、晃は猶も口で諫め,叩頭して血を流し,その辭氣は不撓(不屈)であった。
呉主は之を杖うつこと各おの一百とすると,朱據を左遷して新都郡丞と為し,屈晃を斥け田裡に帰してしまった,群司で諫めに坐して誅され放りだされた者は以って十數となった。
遂に太子和を廃して庶人と為すと,故鄣に徙し,魯王霸には死を賜った。楊竺をし,其の屍を江に於いて流し,又た全寄、呉安、孫奇を誅すると,皆以って其黨と孫霸が孫和を譖したが故であるとした也。
初め,楊竺は少なきより聲名を獲たのだが,而して陸遜は之を終には敗れるであろうと謂うと,楊竺の兄の楊穆に之と<与>族を別れ令むよう勧めた。
楊竺が敗れるに及び,楊穆は以って數<たびた>び楊竺を諫め戒めていたことから死を免れるを得た。硃據が未だ官に至らずいたところ,中書令の孫弘は詔書を以って追って死を賜ったのである。
  冬,十月,廬江太守であった譙郡の文欽は叛いたと偽り,以って呉の偏將軍である硃異を誘い,朱異を使て自ら兵を將いさせて己を迎えにこさせようと欲した。
朱異は其の詐りを知ったため,呉主に表して,以為らく文欽は迎える可からずとした。呉主曰く:「今を方ずるに北土は未だ一つになっておらず,文欽は命に歸そうと欲している,宜しく且つは之を遼そう。
若し其の譎し有ること<者>を嫌うなら,但だ當に計を設けて以って之を羅し網かけるべきまでのことで,重兵を盛んにして以って之を防がしむるのみである耳。」
乃ち偏將軍の呂據を遣わして二萬人を督させ,朱異と<与>力を並べて北界に至らせたが,文欽は果たして降ってこなかった。朱異は,朱桓之子である;呂據は,呂范之子である也。
  十一月,大利景侯の孫禮が卒した。
  呉主は子の亮を立てて太子と為した。
  呉主は軍十萬を遣わして塗塘に堂邑を作し以って北道を淹わせた。
  十二月,甲辰,東海定王の曹霖が卒した。
  征南將軍の王昶が上言した:「孫權は良臣を流し放ち,適庶が分れ爭っております,釁に乗じて呉を撃つ可きです。」
朝廷は之に從い,新城太守であった南陽の(人)州泰を遣わして巫、秭歸を襲わせ,荊州刺史の王基には夷陵に向かわせ,王昶には江陵に向かわせた。
王昶は竹絲を引きあてて亙として橋を為すと,水を渡って之を撃った,呉の大將の施績は,夜に遁れて江陵に入った。
王昶は平地に引き致してこれと<与>戰わんと欲し,乃ち先ず五軍を遣わして道を大いにして(出)發し還ることを案じさせ,呉を使て望み見させ而して喜ばせた;
又た以って獲た所である鎧馬と甲首を城に環にしてかけ以って之を怒らせると,伏兵を設けて以って之を待った。
施績は果たして來たりて追いかけてき,王昶はこれと<与>戰って,之を大いに破ると,其の將の鐘離茂、許旻を斬りすてた。
  漢の姜維は復た西平を寇したものの,克てなかった。

73 :
今回はこれまで。

74 :
頑張るねw
ちゃんと見てるので完走して欲しいです

75 :
     邵陵詞中嘉平三年(辛未,西暦251年)
  春,正月,王基、州泰は呉兵を撃ち,皆之を破って,降った者は數千口となった。
  三月,尚書令の司馬孚を以って司空と為した。
  夏,四月,甲申,王昶を以って征南大將軍と為した。
  壬辰,大赦した。
  太尉の王凌は呉人が塗水を塞いだと聞き,此れに因って兵を(徴)發しようと欲し,大いに諸軍に嚴しくし,表して賊を討つことを求めた:詔がくだり聽きいれられないと報いがきた。
王凌は將軍の楊弘を遣わすと廢立の事を以って兗州刺史の黄華に告げさせようとした,黄華、張弘は連名で以って司馬懿に白(状)し,
司馬懿は中軍を將いて水道に乘じて王凌を討つこととし,先んじて赦を下して王凌の罪を赦すとし,又た書を為して王凌を諭した,已にして而して大軍が百尺(地名)に掩至した。
王凌は自ら勢窮まったことを知り,乃ち船に乘って單り出て司馬懿を迎え,掾の王ケを遣わして罪を謝し,印綬、節鉞を送りとどけた。
司馬懿の軍は丘頭に到り,王凌は面縛して水次し,司馬懿は詔を承って主簿を遣わして其の縛を解かせた。
  王凌は既にして赦しを蒙ったうえ,加えて舊き好みを恃みとして,自ら疑うこと復せず,小船に逕乘して司馬懿のところへ趨ろうと欲した。
司馬懿は人を使て之を逆に止め,船を淮中に住かせ,相去ること十餘丈。王凌は見えるを知って外へでると,乃ち遙かより司馬懿に謂って曰く:「卿は直ちに折簡を以って我を召したが,我の當に敢えて至らざるべきとして邪,而して乃ち軍を引きつれて來たのか乎!」
司馬懿曰く:「以非肯逐折簡者故也。(折簡者を逐うのを肯うたに非ざるが故を以ってしてのこと)」
王凌曰く:「卿は我に(過ちを)負わせたか!」司馬懿曰く:「我は寧ろ卿に負わせようとも,國家に負わせず!」
遂に歩騎六百を遣わして王凌を送りつけ西のかた京師に詣でさせた,王凌は試みに棺の釘を索いて以って司馬懿の意を觀ようとし,司馬懿は命じて之を給した。五月,甲寅,王凌は行きて項に到ったところで,遂に藥を飲んで死んだ。
  司馬懿が進んで壽春に至ると,張式等は皆自首してきた。司馬懿は其の事を窮め治めると,諸もろ相連なる者は悉く夷三族とされた。
王凌、令狐愚の塚を發(あば)き,棺を剖いて屍を暴すこと於所近市三日,其の印綬、朝服を焼いて,土に親しませて之を埋めた。

76 :
  初め,令狐愚が白衣と為っていた時,常に高志を有していたため,衆人は謂わく愚は必ずや令狐氏を興すであろうとした。
しかし族父であった弘農太守の令狐邵獨りだけが以為らく:「愚の性は倜儻であって,コを修めないのに而してその願うところが大きい,必ずや我が宗を滅ぼすであろう。」
令狐愚は之を聞くと,心のなかでは甚だ平がなかった。令狐邵が虎賁中郎將と為るに及び,而して令狐愚も仕えて進み已にして更歴する所多くして,所在では名稱を有すこととなっていた。
令狐愚は從容としえ令狐邵に謂いて曰く:「先の時には大人がこの愚は継がざることと為ろうと謂ったと聞いております,今竟たして雲何せんか邪?」
令狐邵は熟視したまま而して答えず,私(ひそか)に妻子に謂って曰く:「公治の性度,猶も故の如し也。以って吾が之を觀るに,終には當に敗滅すべきこととなろうが,但だ我が久しきは當に之に坐すや不やを知らざるのみ邪,將に汝曹を逮うこととなろうか耳。」
令狐邵の沒後十餘年して而して令狐愚は族滅することとなった。
  令狐愚が兗州に在ったおり,山陽(出身)の單固を辟して別駕と為し,治中であった楊康と<与>並んで令狐愚の腹心と為った。
令狐愚が卒すに及び,楊康が司徒の辟きに應じて,洛陽に至ったところで,令狐愚の陰事が露わとなり,令狐愚は是に由って敗れた。
司馬懿が壽春に至ると,單固に見えて,問うて曰く:「令狐は反けるか乎?」曰く:「無有。(そんなことは有りませんでした)」
楊康が事を白してゆくうち,事は單固と<与>連なったため,遂に單固及び家屬を収め捕えて皆廷尉に系ぎ,實を考ずこと數十,固より單固には雲って有ること無かった。
司馬懿は楊康を録すと,單固と<与>對して相詰めあったことから,單固の辭は窮まった,そこで乃ち楊康を罵って曰く:「老傭め!既にして使君を負うたばかりか,又た我が族を滅ぼし,顧みて汝の當に活きるべきか邪!」
楊康は初め自ら封侯を冀ったものの,後に以って辭が頗る參錯したことから,亦た並んで之に斬られることとなった。
刑に臨んで,俱に出獄することとなった,單固は又た楊康を罵って曰く:「老奴!汝は自分をも死なせただけだ耳。若し死者を令て知の有らしむるなら,汝は何の面目あって以って地下に行こうというのか乎!」

77 :
  詔をくだし揚州刺史の諸葛誕を以って鎮東將軍と為し,都督揚州諸軍事とした。
  呉主は潘夫人を立てて皇后と為すと,大赦し,改元して太元とした。
  六月,楚王彪に死を賜った。諸王公を盡く録して鄴に置くと,有司を使て之を察せしめ,人と<与>交關を得られないようにした。
  秋,七月,壬戌,皇后甄氏が(崩)殂された。
  辛未,司馬孚を以って太尉と為した。
  八月,戊寅,舞陽宣文侯の司馬懿が卒した。詔をくだし其の子である衛將軍の司馬師を以って撫軍大將軍と為し,尚書事を録させた。
  初め,南匈奴は自ら謂うに其の先(祖)は本もと漢室之甥であるからとし,因って姓を冒して劉氏であるとした。太祖は單于である呼廚泉を留めて鄴に之かせ,其の衆を分けて五部と為すと,并州の境の内に置いた。
左賢王の劉豹は,單于である於扶羅之子であり也,左部帥と為って,部族で最強であった。城陽太守のケ艾が上言し:「單于が内に在るため,羌夷が統まりを失い,合散して主るものが無くなっております。
今や單于之尊ばれかたは日ごと疏そかになり而して外土之威が日ましに重くなっておりますから,則ち胡虜は深く備えざる可からずというものです也。
聞けば劉豹の部は叛胡を有すとか,その叛いたに因って割きて二國と為し,以って其の勢いを分けてしまう可きです。
去卑の功は前朝にあって顯らかでありますのに而して子がその業を継がずにいます,宜しく其の子に顯號を加えられ,雁門に居ら使むべきです。國から離して寇を弱め,追って舊勳を録す,此れぞ邊(境)を御す長計でございます也。」
又た陳べた「羌胡と<与>民が處を同じくしているところ<者>は,宜しく漸を以って之を出し,民を表に居ら使め,以って廉恥之教えを崇めさせ,奸宄之路を塞がせましょう。」司馬師は皆之に從った。

78 :
  呉の立節中郎將の陸抗が柴桑に(駐)屯していたが,建業に詣でて病を治していた。病が差すと,當に還るべきこととなったが,呉主は涕をながし泣いてこれと<与>別れるにあたり,謂って曰く:
「吾は前に讒言を聽きいれて用いてしまい,汝の父の大義に与えるに不篤をもってしてしまった,以って此れが汝に負うているものだ;前後して問いつめていたものは,一えに之を焚き滅ぼし,人を令て見えること莫いようにしてくれ也。」
  是の時,呉主は頗る太子である孫和之無罪を寤していたが,冬,十一月,呉主は南郊を祀って還ると,風を得て疾み,孫和を召して還らせようと欲した;全公主及び侍中の孫峻、中書令の孫弘が固く之を爭ったため,乃ち止めた。
呉主は以って太子の孫亮が幼少であるため,付託する所を議したところ,孫峻が大將軍の諸葛恪を薦めて大事に付ける可しとした。
呉主は諸葛恪の剛很自用を嫌っていたが,孫峻曰く:「當今の朝臣之才,諸葛恪に及ぶ者は無いのです。」乃ち諸葛恪を武昌に於いて召した。
諸葛恪が將に行こうとすると,上大將軍の呂岱は之を戒めて曰く:「世は方<まさ>に多難である,子は事毎に必ず十たび思うようにすべきである。」
諸葛恪曰く:「昔季文子は三たび思って而して後に行ったが,夫子は曰く:『再び思えば可きである矣。』とした今君はこの恪を令て十たび思わしむようにとするが,この恪之劣ること明らかであるというのか也!」
呂岱は以って答えること無くし,時の鹹(みな)は之を謂わば失言であるとした。
  虞喜は論じて曰く:夫れ以って天下を托せられるは,至重というものである也;人臣を以って主の威を行うは,至難である也。二つの至を兼ねて而して萬機を管(理)せんとすれば,能く之に勝つ者は鮮ないものだ矣。
呂侯は,國之元耆であり,志は經遠を度っていた,甫(父)たらんとするに十思を以ってせよと之を戒めたのに,而して便ずに以って劣るを示して拒むに見えた;此れは元遜之疏というもの,機神の俱にせざる者であろう也!
若し十思之義に因って,廣く當世之務めを咨れば,善を聞くこと雷の動くに於けるより速いであろうし,諫めに従うこと風の移ろうに於けるより速やかであったろう,豈に首を殿堂に殞うを得て,凶豎之刃に於いて死ぬこととなったであろうか!
世の人は其の英辯を奇として,その造次こそ觀る可しとし,而して呂侯の對すこと無くして陋を為したことを哂ったが,安危終始之慮りを思わないものであって,是れぞ春藻之繁華を楽しみ,而して秋實之甘口を忘れるというものであろう也。
昔魏人が蜀を伐さんとし,蜀人が之を御ったおり,精嚴して垂しく發さんとしたおり,而して費禕は方<まさ>に來敏と<与>對棋(囲碁を行い),意は厭み倦むこと無かった。
来敏は以為らく必ずや能く賊を辦じうるであろうとして,言わく其の明略は内にて定まっているから,貌には憂色が無いのだとしたのである也。
況んや長寧は以為らく君子は事に臨んでは而して懼れ,好く謀して而して成るもの,蜀は蕞爾之國と為っているのに,而して方に大敵に向かわんとするのだから,規る所も圖る所も,唯だただ守與戰のみ,何ぞ己を矜って餘り有り,晏然として戚無かる可きか!
斯くは乃ち費禕の性之ェ簡として,細微を防がざるため,卒として降人である郭循が為に害される所となったもので,豈に彼に於いて兆を見みて而して此れに於いて禍いが成ったに非ず哉!
往つて長寧之文偉(費禕のこと)を甄するを聞き,今また元遜(諸葛恪のこと)之呂侯に逆らうを睹(み)るが,その二事は同じことを體(現)しており,皆以って世の鑒と為すに足るものなのだ也。
  諸葛恪は建業に至ると,呉主と臥内に於いて見え,詔を床下に受けた,そうして大將軍を以ってして太子太傅を領すこととなり,孫弘が少傅を領した;
詔が有司にくだされ諸事は一えに諸葛恪に於いて統められるよう,惟だ生だけは大事であるから,然る後に以って聞こえさせるようにとのことであった。
群官百司を制す拜揖之儀を為し,各おの品序が有った。又た會稽太守であった北海の滕胤を以って太常と為した。滕胤は,呉主の婿であった也。
  十二月,光祿勳である滎陽(出身)の鄭沖を以って司空と為した。
  漢の費禕が成都に還ると,望氣者が云った:「都邑に宰相の位が無くなっております。」乃ち復た北へむかい漢壽に(駐)屯した。
  是の歳,漢の尚書令である呂乂が卒したため,侍中の陳祗を以って守尚書令とした。

79 :
     邵陵詞の中 嘉平四年(壬申,西暦二五二年)
  春,正月,癸卯,司馬師を以って大將軍と為した。
  呉主は故の太子和を立てて南陽王と為し,長沙に居とせ使めた;仲姫の子の奮を齊王と為し,武昌を居とした;王夫人の子の休を琅邪王と為し,虎林を居とした。
  二月。皇后に張氏を立てた,大赦した。後(皇后)は,故の涼州刺史である張既之孫であり,東莞太守であった張緝之女<むすめ>である也。張緝を召して光祿大夫に拝した。
  呉人は改元して神鳳とし,大赦した。
  呉の潘後(皇后)の性は剛戾であった,呉主が病を疾むと,後<后>は人を使sて孫弘に問わしめるに呂後が稱制した故事を以ってした。
左右は其の虐げに勝てず,其の昏睡を伺うと,之を縊りし,託言して中惡したのだとした。しかし後に事が洩れて,坐して死んだ者が六七人ともなった。
  呉主は病困じたため,諸葛恪、孫弘、滕胤及び將軍の呂據、侍中の孫峻を召して臥内に入れると,以って後事を屬せしめた。夏,四月,呉主は殂した。
孫弘は素より諸葛恪と<与>平がなかったため,諸葛恪の治める所と為るを懼れ,秘して喪を発せず,詔を矯めて諸葛恪を誅そうと欲した。
孫峻が以って諸葛恪に告げたため,諸葛恪は孫弘に事を咨りたいと請うて,坐中に於いて之をした。そうして乃ち喪を発したのである。呉主に謚して曰く大皇帝とした。
太子の孫亮が即位し,大赦し,改元して建興とした。閏月,諸葛恪を以って太傅と為し,滕胤を衛將軍と為し,呂岱を大司馬と為した。
諸葛恪は乃ち命罷視聽,校官を息つかせ,逋責を原<ゆる>し,關税を除き,恩澤を崇めたため,衆はスばないもの莫かった。諸葛恪が出入する毎に,百姓は頸を延ばして其の状を見ようと思ったのである。
  諸葛恪は諸王が濱江兵馬之地に処すのを欲せず,乃ち齊王奮を豫章に於けるに,琅邪王休を丹楊に於けるに徙した。
孫奮は徙るを肯わず,又た數<たびた>び法度を越えたため,諸葛恪は箋を為して以って孫奮に遣わして曰く:「帝王之尊きは,天と<与>位を同じくするもの,是れ家を以って天下となし,臣が父兄となるもの;
仇讎とて善有れば,舉げざるを得ず,親戚とて惡有れば,誅さざるを得ざるは,天より承って物を理めるもの,國を先にし身を後にするは,蓋し聖人の立てし制でありまして,百代にわたる不易之道であります也。
昔漢が初め興りしころ,王の子弟を多くしたところ,太く強くに於けるに至り,輒ち不軌を為し,上は則ち幾らもなく社稷を危うくし,下は則ち骨肉が相殘しあいました,そのため其の後には懲戒として以って大いに諱と為させたのです。
光武より<自>以來,諸王には制が有ります,惟だただ宮内に於いて自らを娯(たの)しむを得るのみにして,民に臨むを得ないことです,政事に干與することや,其のこれと<与>交わり通ずこと,皆重く禁じられたもので有るのは,
以って安んずるを全うせしむを遂げ,各おの福祚を保たせんがためです,此れは則ち前世での得失之驗めであります也。

80 :
大行皇帝は古を覽て今に戒めとし,牙むくを防ぎ萌ずるを遏きさせること,その慮ること千載に於けるものでした,
ゆえに是れぞ寢疾之日を以ってして,諸王を分け遣わして各おの早く國に就かせ,勤渠するようにと詔策し,その科し禁じるにあたり嚴峻とし,其の戒敕とする所は,至らざる所など無いものでした。
誠に上は宗廟を安んじ,下は諸王を全うし,百世を使て相承らしめ,國に凶なし家に害なす之悔いを無からしまんと欲してのことであったのです也。
大王には宜しく上は太伯が父に順うた之志を惟(おも)い,中には河間獻王、東海王が恭順之節を強くしたことを念い,下は前世にありし驕恣荒亂之王が以って警戒と為ったのを存(おも)うべきでしょう。
而るに聞けば頃(ちかごろ)武昌に至って以來,詔敕に違えること多く,制度に拘らず,諸將や兵を擅發して宮室を治護せんとしておられるとか。
又た左右の常に從うもので罪過が有る者については,當しく以って表聞せしめ,公にして有司に付けるべきでありましょうに;而して(専)擅して私しておられるとか,その事は明白ならざることです。
中書の楊融は,親しく詔敕を受けて,當る所は恭肅でありましたのに,乃ち云わく『正に自ら禁じごとを聽きいれざるのだ,當に我を何にか如くべきか!』としました此を聞いた之日には,小も大も驚き怪しみ,心を寒くせざるものなど莫かったのです。
裡(うち)にて語って曰く:『明鑒(磨き上げられた佳き鏡)が形を照らしだす所以であって,古事が今を知る所以である。』
大王よ宜しく深く魯王(孫覇)のことを以ってして戒めと為さいまして,其の行いを改め易えるべきでございましょう,戰戰兢兢として,朝廷に禮を盡くすこと,此れが如くなさいますなら,則ち得ざることを求めることも無くなりましょう。
若し先帝の法と教えを棄て忘れさり,輕慢之心を懷かれるというのなら,臣下は寧ろ大王に負うとも,先帝の遺詔に負うこと敢えてせざることとなりましょう;
寧ろ大王の怨み疾(にく)む所と為ろうとも,豈に敢えて尊主之威を忘れて而して詔敕を令て藩臣に於いて行われざることとなりましょうか邪!
魯王を使て早ばやと忠直之言を納れ,驚懼之慮りを懷かしむに向かわせていたなら,則ち祚を享けること窮まり無いこととなって,豈に滅亡之禍ちが有ることとなっていたでしょうか哉!
夫れ良藥は口に苦きもの,唯だ病んだ者だけが能く之を甘しとするものです;忠言は耳に逆らうもの,唯だ達す者だけが能く之を受けるものです。
今になって<者>この恪等が心婁(つな)ぎて心婁(つな)ぐは,大王が為に萌芽に於けることとなっている危殆を除き,福慶之基原を廣げんと欲してのことであります,
是以不自知言至,願わくば三思を蒙られんことを!」王は箋を得るや,懼れて,遂に南昌に移った。

81 :
  初め,呉の大帝は東興堤を築いて以って巣湖を遏し,其の後に淮南に入寇したが,敗れたため,以って船を内に入れさせるからと,遂に廢して復た治めなかった。
冬,十月,太傅の諸葛恪は衆を東興に於いて會し,更めて大堤を作し,左右に山を結び,兩つの城を俠み築かせると,各おのに千人を留め,將軍の全端を使て西城を守らしめ,都尉の留略には東城を守らしめると,軍を引きつれて而して還った。
  鎮東將軍の諸葛誕は大將軍の司馬師に於いて言って曰く:「今因って呉の内侵し,文舒を使て江陵に逼らせ,仲恭には武昌に向かわせ,以って呉之上流から羈し;
然る後に精卒を簡(抜)して其の兩城を攻める,救いが至るに比して,大いに獲る可きことでしょう也。」
是時征南大將軍の王昶、征東將軍の胡遵、鎮南將軍の毋丘儉等は各おの征呉之計を獻じていた。朝廷は以って三つの征計が異なっていたため,詔をくだして尚書の傅嘏に問うた。
傅嘏は對して曰く:「議者の或るものは舟を泛して徑濟し,江表を行しようと欲し;或るものは四道から並び進んで,其の城壘を抜こうと欲し;或るものは疆場で大いに佃し,釁を観て而して動こうと欲しています;誠に皆取賊之常計というものです也。
然るに兵を治めてより<自>以來,出入りすること三載となっていますが,掩襲之軍に非ざるものです也。
賊之寇を為すこと,幾六十年ともなっており矣,君臣は相保ちあい,吉凶共に患ってきており,又た其の元帥を喪ったため,
上も下も憂い危ぶんでおりまして,令を設けて船を津や要に並べ,城を堅めて險に拠っておりますから,行之計は,其れ殆んど捷つこと難しいことでしょう。
今邊壤之守りは,賊と<与>相遠ざかっており,賊は羅落を設けており,又た特に(秘)密を重ねておりますから,間諜が行かないでいるため,耳目に聞くこと無くなっております。
夫れ軍に耳目が無く,校察が未だ詳らかならざるのに,而して大いに衆を挙げて以って巨險に臨もうとする,此れは幸いを希って功を徼えとるを為そうとのこと,先ず戰ってみて而して後に勝ちを求めるなど,軍を全うする之長策に非ざるものです也。
唯だ軍を進めて大いに佃することだけは,最差にして牢を完うするものでしょう;王昶、胡遵等に詔して地を擇びて險に居らせ,錯置する所を審らかにするよう詔す可きです,及び三方を令て一時に前へすすんで守らせるべきです。
其の肥えた(土)壤を奪わせ,口を還し土を脊さ使むるでしょう,一つめです也;兵が民の表に出れば,寇鈔は犯さなくなります,二つめです也;近くの路より招き懐けるから,降り附くもの日ごと至ることでしょう,三つめです也;
羅落が遠くに設けられれば,間構は來たらざることになります,四つめです也;賊が其の守りを退けば,羅落は必ずや淺くなりましょうから,佃作は立てること易くなります,五つめです也;
坐したまま積みあげた穀(物)を食べ,士は運輸しない,六つめです也;釁隙の時に聞こえたなら,討襲の速やかに決すこと,七つめです也;凡そ此の七つは<者>,軍事之急務です也。
據らざれば則ち賊は資を便ずこと擅<ほしいまま>にしましょうし,之に據れば則ち利が國に於けるに歸すことになります,察せざる可からざることです也。
夫れ屯壘が相逼りあい,形勢が已にして交わっておるからには,智勇が陳を得られれば,巧拙が用いられるを得られましょうから,
之を策さんとすれば而して得失之計を知ることとなり,之に角さんとすれば而して有餘不足を知ることでしょうから,虜之情偽(敵側の内情や偽り)は,將た焉んぞ逃れる所ありましょうや!
夫れ小を以ってして大に敵さんとすれば,則ち役は煩い力は竭きましょう;貧を以てして富めるに敵さんとすれば,則ち斂は重く財は匱えましょう。
故に曰く:『敵逸なれば能く之を勞させ,飽かば能く之を饑えさせる』とは,此之謂うのです也。」司馬師は從わなかった。

82 :
  十一月,詔が王昶等にくだされて三道から呉を撃つこととなった。十二月,王昶は南郡を攻め,毋丘儉は武昌に向かい,胡遵、諸葛誕が衆七萬を率いて東興を攻めた。
甲寅,呉の太傅である諸葛恪は兵四萬を将いて,晨も夜も兼行し,東興を救うこととなった。胡遵等は諸軍に敕して浮橋を作して以って度ろうとし,坻上に於いて陳<陣>すると,兵を分けて兩城を攻めた。
城は高峻に在ったため,(早)卒に拔く可からざるものであった。諸葛恪は冠軍將軍の丁奉と<与>呂據、留贊、唐咨を使て前部と為さしめ,山の西より<従>上った。
丁奉は諸將に謂って曰く:「今諸軍は行緩めているが,若し賊が便地に拠れば,則ち以って鋒を争うに難しくなる,我は之に趨くことを請わん。」乃ち諸軍を辟して道を下ら使め,丁奉自らは麾下三千人を率いて徑進した。
時に北風となって,丁奉は帆を挙げること二日,即ち東關に至り,遂に徐塘に拠ることとなった。時に天は雪をふらせ,寒く,胡遵等は方<まさ>に酒を置いて高會していた。
丁奉は其の前部の兵の少ないことを見ると,其の下に謂って曰く:「封侯爵賞を取るは,正に今日に在るぞ!」乃ち兵を使て皆鎧を解かしめ,矛戟をとり去って,但だ兜のみを鍪とし刀のみを楯とし,裸身で堨に縁った。
魏人は望み見て,之を大いに笑うと,兵を嚴しくすること即かなかった。そこで呉兵は上るを得て,便じて鼓噪し,魏の前屯を斫破して,呂據等が繼いで至った。
魏軍は驚き擾えて散りぢりに走りにげ,爭って浮橋を渡ろうとしたため,橋は壞れ絶たれ,自らを水に於いて投げうつこととなって,更めて相蹈藉しあった。
前部督の韓綜、樂安太守の桓嘉等は皆沒し,死者は數萬(万を数えた)。韓綜は故もと呉の叛將であって,數<たびた>び呉に害を為していたため,呉の大帝は常に切齒して之を恨んでいた,諸葛恪は其の首を送って以って大帝の廟に白すよう命じた。
獲られた車乘、牛馬、騾驢は各おの以って千數となり,資とした器は山積みとなり,旅を振って而して歸ることになったのである。
  初め,漢の姜維が西平を寇して,中郎將の郭循を獲ると,漢人は以って左將軍と為した。郭循は漢主を刺そうと欲したが,親近するを得なかった,
毎(々)上壽に因って,且つ拜し且つ前へすすもうとしたが,左右が遏す所と為ったため,事は輒ち果たせなかった。

83 :
【魏紀八】 起昭陽作噩,盡旃蒙大淵獻,凡三年。
     邵陵詞下 嘉平五年(癸酉,西暦253年)
  春,正月,朔,蜀の大將軍である費禕と<与>諸將は漢壽に於いて大会した,郭修が坐に在った;費禕は歡飲をつくして沉醉(泥酔)し,郭修は起って費禕を刺し,之をした。費禕の資性は泛愛,人に於けるを疑わなかった。
越雟太守の張嶷は嘗て書を以て之を戒めたことがあった。日く:「昔岑彭は師を率い,來歙は節を杖にしましたが,鹹<みな>刺客に於いて害されるに見えました。
今明將軍におかれては位は尊く權は重かるに,新たに附いたものを待(遇)して信じておること太いに過っております,宜しく前事を鑒とすべきであります,少なくとも以って警(告)と為すべきです。」費禕は從わず,故に禍いに及んだのである。
  詔がくだされ追って郭循を封じて長樂郷侯と為し,其の子を使て襲爵させた。
  王昶、毌丘儉は東軍敗れたるを聞くと,各おの屯(営)を燒いて(逃)走した。朝議は諸将を貶黜せんと欲したが,
大將軍の司馬師曰く:「我が公休(の言うこと)を聴きいれず,以って此れに於けるに至ったのだ。此は我が過ちである也,諸將に何ぞ罪あろうか!」悉く之を宥<ゆる>した。
司馬師の弟で安東將軍であった司馬昭は時に監軍と為っていたが,唯だ司馬昭の爵を削られる而已であった。諸葛誕を以って鎮南將軍と為し,都督豫州とした;毌丘儉は鎮東將軍と為り,都督揚州となった。
  是の歳,雍州刺史の陳泰が敕をくだして并州が力を並べて胡を討つよう求めたため,司馬師は之に從った。未だ集らないうちに,而して雁門、新興の二郡の胡が遠役につかされることを以て,遂に驚き反いた。
司馬師は又たも朝士に謝して曰く:「此は我が過ちである也,陳雍州之責に非ず!」是で人を以て皆愧じスばせることとなった。
  習鑿齒は論じて曰く:司馬大將軍は二敗を引きとり以って己が過ちと為した,過ち消え而して業は隆ぶる,智と謂う可きか矣。
若し乃ち敗(北)を諱んで過ちを推しすすめれば,咎を萬物に帰して,常に其の功を執って而して其の喪ないしを隠せば,上下は心を離し,賢愚は體を解いてしまう,その謬まり之甚しさよ矣!
人に君たらんとする者は,苟しくも斯かる理を統めて而して以って國を御さんとするものである,行い失っても而して名は揚がり,兵は挫けても而して戦は勝つ,百敗すると雖も可というべきである也,況んや再び(二度それを行うこと)に於いてをや乎!
  光祿大夫の張緝は司馬師に於いて言って曰く:「(呉の)諸葛恪は克捷したと雖も,誅に見えること久しからず。」司馬師曰く:「何故か?」
張緝曰く:「威は其の主を震わせ,功は一國を蓋っております,求めても死を得ざらんか乎(死を得ないよう求めてもそれができますでしょうか)!」

84 :
  二月,呉軍は東興より<自>還った。封を進めて太傅の諸葛恪を陽都侯とし,荊、揚州牧を加え,督中外諸軍事とした。諸葛恪は遂に敵を軽んずる之心を有すこととなり,復たも軍を出そうと欲した。
諸大臣は以為らく數<たびた>び出るは罷<つい>に勞すのみとして,辭を同じくして諸葛恪を諌めたが,諸葛恪は聽きいれなかった。中散大夫の蔣延は固く爭ったが,諸葛恪は(周りに)命じて扶み出させた。
因って論を著して以って衆を諭して曰く:「凡そ敵國なれば相吞まんと欲し,即ち仇讎なれば相除かんと欲すものだ也。
仇を有しながら而して之を長じさせておけば,禍いが己(の時)に在らざるとも,則ち後(代)の人に在ることとなろう,遠き慮りを為さない可きでないのだ也。
昔秦は但だ関西を得るのみであったが耳,尚も以って六國を併呑したのである。今魏を以てして古之秦と比べれば,その土地は數倍にもなっている;呉と<与>蜀を以てして,古の六國と比べれば,その半ばするに能わず也。
然るに今のところ能く之に敵しうるのは<者>,但だ操時を以って兵の衆きがゆえだけであるのだ,今に於けるは(敵を破って大戦果を挙げ)盡くすに適うたところで,
而うして後に生ぜし者は未だ長大なるに及ばずにいる,正しく是れぞ賊の衰え少なくなり未だ盛んとならざる之時である。
加えて司馬懿は先に王凌を誅しており,續いて自ら隕斃してしまった,其の子は幼弱にして而して彼の(担っていた)大任を専らにしている,智計之士を有すると雖も,未だ施用を得ないでいよう。
當に今之を伐すべきというのは,是れ其の厄會というものである。聖人は趨時に於いて急ぐというのは,誠に今日を謂うのである。
若し衆人之情に順い,偸安之計を懐いてしまえば,以為らく長江之險は世に傳わるを以ってす可かろうが,魏之終始を論ぜずに而して今日を以て遂に其の後(患)を軽んじさせてしまうだろう,此ぞ吾が歎息を長くす所以のところ<者>であるのだ也!
今聞くに衆人は或いは以って百姓は尚も貧しいため,闡ァに務むることを欲すとしているが,此ぞ其の大危を慮ることを知らずに而して其の小勤を愛す者であるのだ也。
昔漢祖(劉邦)は幸いにも已に三秦之地を自ずから有すこととなったが,何ぞ関を閉ざして險を守ったまま以って自ら娯樂することしなかったのだろうか.
(根拠地を)空にして出て楚を攻め,身は創痍を被って,介冑(甲冑)には蟣虱を生じさせ,將士が困苦に厭むことになったが,豈に鋒刃を甘んじて而して安寧を忘れたといえようか哉?
長く久しかるに於いて兩存を得ざること<者>を慮っただけなのだ耳。荊邯が公孫述に進取之圖を以って説いたことを覽る毎に,また近くはわが家の叔父が表陳せし賊と<与>爭い競う之計を見るごとに,未だ嘗て喟然として歎息しないことはない也!
夙な夜なに反側して,慮る所は此の如し,故に聊の疏は愚言であって,以って達せしむとも二、三の君子之末ならん。若し一朝が隕沒し,志が畫そうにも立たざれば,貴ぶは來世を令て我が憂う所を知らしめ,後世に於いて思わしむ可きのみである耳。」
衆人は皆心ながら以為らく不可としたと雖も,然るに敢えて復た難ずるものとて莫かった。
  丹楊太守の聶友は素より諸葛恪と<与>善くしていたため,書を以て諸葛恪を諫めて曰く:「大行皇帝は本より東関之計を遏すこと有れど,計は未だ施行されませんでした;
今や公は大業を輔贊し,先帝之志を成さんとしております,寇遠自送(敵の侵攻軍が遠くから送られて来たおりには),將士は威コに憑ョし,身を出して用命したため,一旦にして非常之功を有したこと,豈に宗廟と神靈と社稷之福に非ざるかや邪!
宜しく且つは兵を案じて鋭を養い,釁を観て而して動くべきです。今此の勢いに乗じて復た大いに出でんと欲しても,天の時は未だ可からず而して苟しくも意<きもち>を盛んにするに任せれば,私心となりましょうから以って為すに安んじざることとなりましょう。」
諸葛恪は題論した後,書を為して聶友に答えて曰く:「足下は自然之理を有すと雖も,然るに未だ大數を見ず,此の論(先般諸葛恪が衆を説得するために開陳した自身の議論のこと?)を熟省すれば,以って開悟せしむ可きこととなろう矣。」

85 :
  滕胤は諸葛恪に謂いて曰く:「君は伊、霍之托を受け,入りては本朝を安んじ,出ては強敵を摧<くじ>き,その名聲は海内に於いて振うこととなって,天下で震え動かないもの莫くなった,萬姓之心は,冀くは君の蒙りを得て而して息つかんとしている。
今猥りに勞役之後を以ってして,師を興して出征すれば,民は疲れ力は屈すことになる,遠主に備えが有って,若し城を攻めても克てず,野に略さんとして獲るもの無いならば,是ぞ前の(功)勞を喪い而して後の責(任)を招くというものであろう也。
甲<よろい>を案じて師を息つかせるに如かず,觀隙耐勸(あいての隙を観てまた勧めに耐えよ)。且つ兵とは<者>大事である,事おこすに衆を以て(決)濟するもの,衆の苟しくもスばざるに,君は獨り之に安んぜんとするのか!」
諸葛恪曰く:「諸雲は不可である,というのも皆その計算を見ず,居ることを懐き苟しくも安んぜんとする者だからである也。而して子も復た以って為すに然りとするとは,吾は何をか望みえようか乎!
夫れ曹芳の暗劣を以ってするうえ,而して政は私門に在って,彼之民も臣も,固<もと>より心を離れさせていること有るのだ。今吾は國家之資に因り,戦勝之威に藉っているからには,則ち何ぞ往きて而して克たざることあろうか哉!」
  三月,諸葛恪は大いに州郡から二十萬の衆を(徴)発して復た入寇せんとし,滕胤を以って都下督と為すと,留事を掌らせ統めさせた。夏,四月,大赦した。
  漢の姜維は自らをして以って西方の風俗に練れており,兼ねて其の才武を負うているため,諸羌、胡を誘って以って羽翼と為そうと欲し,謂わく隴より<自>以西は,斷って而して有す可きものであるとした。
こと毎に軍を興こして大挙せんとしたが,費禕は常に裁製して從わなかった。(姜維に)与えし其の兵は萬人を過ぎず,曰く:「吾等が丞相に如かざること亦た已にして遠い矣,その丞相とて猶ち中夏を定むこと能わざる,況んや吾等においてをや乎!
如かざれば且つは國を保ち民を治め,謹んで社稷を守ることこそ,其の功業に如くというもの,そうして以って能ある者(の出現)を俟<ま>たん,
徼幸<ぎょうこう>(幸いを徼(むか)えとらんこと/幸運に見舞われること)を希いに冀い,成敗を一たびの挙に於いて決せんなどとは為そうとす無かれ;
若し志に如かざることとなるなら,之を悔いても及ぶところとて無くなろうよ。」費禕が死すに及び,姜維は其の志を行うことを得ることとなり,乃ち數萬人を将いて石營に出て,狄道を囲んだ。
  呉の諸葛恪は淮南に入寇すると,民人を驅略した。諸將で或るものが諸葛恪に曰く:「今軍を引きつれて深入りしています,疆場之民は,必ずや相い率いあって遠くへ遁れましょう,恐らくは兵が勞すれど而して功は少ないことでしょう,
(今している行動を)止めて新城を囲むに如かず,新城は困ずれば,救いが必ず至りましょう,至らば而して之を圖るのです,そうすれば乃ち大いに獲る可きことでしょう。」としたため諸葛恪は其の計に従い,五月,軍を還して新城を囲んだ。
  詔が太尉の司馬孚にくだされ諸軍二十萬を督して之に往き赴くこととなった。大將軍の司馬師は虞松に於いて問うて曰く:「今東西に有事があって,二方とも皆急なものとなっているのに,而して諸將の意は沮(喪)している,若之何(之を如何せんか)?」
虞松曰く:「昔周亞夫は昌邑にて堅壁したところ而して呉、楚は自ら敗れてしまうこととなりました,事は(その要諦とは)弱きに似せて而して強かさを有すこと,察せざる可からざることです也。
今諸葛恪は其の鋭衆を悉くしております,以って肆暴するに足るといえましょう,なのに而して坐して新城を守っているのは,以って一戦を致さんと欲すのみであるからなのです耳。
とはいえ若し城を攻めて拔けず,戦を請うても不可とされるなら,師は老い衆は疲れはてましょう,その勢いは將に自ら走らんとすることとなりましょう,諸將之徑進せざることこそ,乃ち公之利なのです也。
姜維は重兵を有して而して軍を縣けて諸葛恪に応じておりますが,投食我麥(我らが麥を投げ食むなど),深根之寇に非ず也。
且つ謂いけらくるに我らが東に於いて力を並べたてたからには,西方は必ずや虚しくなっているとしております,是ぞ以って徑進せしむところです。
今若し関中の諸軍を使て道を倍にして急ぎ赴かせ,其の不意に出たなら,殆んど將に走らんとすることとなりましょう矣。」司馬師曰く:「善し!」
乃ち郭淮、陳泰を使て関中之衆を悉くし,狄道之囲みを解かせることとした;毌丘儉等には兵を案じて自ら守るよう敕し,新城を以って呉に委ねさせることとした。陳泰が進んで洛門に至ると,姜維の糧は盡きて,退き還ったのである。

86 :
  揚州の牙門將である涿郡(出身)の張特が新城を守っていた。呉人は之を攻めること月を連ね,城中の兵は合わせて三千人,疾病と戦で死んだ者は半ばを過ぎ,而して諸葛恪は土山を起てて急ぎ攻め,城は將に陷ちなんとして,護る可からざることとなった。
張特は乃ち呉人に謂いて曰く:「今我は復た戦わんとする心を無くしている也。然るに魏の法では,攻(撃)を被ること百日を過ぎて而して救いの至らざる者は,降ると雖も,家は(罪に)坐さないこととなっている;
敵を受けてより<自>以來,已に九十餘日となった矣,此の城中には本より四千餘人を有していたが,戦死者は已に半ばを過ぎたが,城は陷つと雖も,尚も人の半ばは降ることを欲しないものが有る,
我は當に還って相語りあうを為して,善惡を條別し,明くる日早く名(簿)を送ろう,且つ我が印綬を以って去らせ信(証)と為そう。」乃ち其の印綬を投げて之に與えた。呉人は其の辭を聴きいれたが而して印綬を取らなかった。
張特は乃ち夜を投げうって諸屋の材柵を徹(収)して,其の缺けたところを補い二重を為した,明くる日,呉人に謂って曰く:「我には但だ(格)斗死の有るのみだ耳!」呉人は大いに怒って,之を進攻したものの,拔くこと能わなかった。
  大暑に会い,呉士は疲勞し,水を飲めば,洩らし下り,腫れものが流(行)し,病んだ者が太半となり,死傷するもので地に塗れた。
諸營の吏は日ごと病む者が多くなっていると(建)白していたが,諸葛恪は以為らく詐りであるとして,之を斬らんと欲すようになった,是れ自り敢えて言うもの莫くなったのである。
諸葛恪は内では惟だたんに計を失しただけであるとしたが,而して城が下らないことを恥じ,忿りが色に於けるに形<あらわ>れた。將軍の硃異が軍事を以って諸葛恪に迕<さから>ったため,諸葛恪は立って其の兵を奪うと,斥けて建業に還した。
都尉の蔡林は數<たびた>び軍計を陳べたが,諸葛恪は用いること能わなかったため,馬を策して來奔していった。諸將は呉の兵が已にして疲れたことを伺い知ると,乃ち進んで兵を救わんとした。
秋,七月,諸葛恪は軍を引きつれて去ったが,士卒は傷み病んで,流曳道路(道々に置いてけぼりとされ),或いは頓僕して坑壑し(穴に埋められ),或いは略(奪)(鹵)獲されるに見え,存るも亡かるも哀しみ痛み,大も小も嗟呼(嘆き喚くことになった)。
而して諸葛恪は晏然として自若し,江渚を出住すること一月,潯陽に於いて田を起こすことを図った;詔がくだって相銜を召されたため,徐ろに乃ち師を旋した。此れに由って衆庶は失望し,怨讟が興こることとなった矣。
  汝南太守のケ艾は司馬師に於いて言って曰く:「孫權が已に沒し,大臣は未だ附かないでいます。呉の名宗大族は皆それぞれ部曲を有しており,兵を阻んで勢いに仗つき,以って命に違えるに足るありさまです。
諸葛恪は新たに國政を秉したばかりなのに,而して内では其の主を無いかのようにふるまい,上下に撫恤して以って根基<ねもと>を立てることを念<おも>わず,外事に於けるを競おうとして,其の民を虐げ用いております,
番國之衆は,堅城に於いて頓(挫)し,その死者は萬を數え,禍を載せて而して歸ることになりました,此ぞ諸葛恪が罪を獲る之日でしょう也。
昔子胥、呉起、商鞅、樂毅らは皆それぞれ時の君に任じられるに見えましたが,主が沒すると猶ち敗れさることになりました,
況んや諸葛恪の才(能)はかれら四賢に非ざるのに(比べられるほどではないのに),而して大患を慮らずにいるわけですから,其の亡ぶは待つ可きことかと也。」
  八月,呉軍は建業に還った,諸葛恪は兵を陳して導從し,歸って(大将軍府の)府館に入ると,即ち中書令の孫嘿を召して,聲を獅ワして謂って曰く:
「卿等は何ぞ敢えて數<たびた>び妄りに詔を作したのか!」孫嘿は惶懼して辭して出ると,因って病であるとして家に還った。
  諸葛恪が征行した之後には,曹所奏署令長職司(曹で奏ず所であった署令,長,職の司は),一ど罷めさせて更めて選びつけ,愈<ますま>す威嚴を治めんとした,
そうして多くが罪ある所として責められたため,當に進見すべかる者は竦息しないもの無くなったのである。又た宿衛を改易し,其の親近を用い;復た兵に敕して嚴しくし,青、徐に向かおうと欲した。

87 :
  孫峻は民之怨むこと多く,衆之嫌う所となっていることに因って,諸葛恪を呉主に於いて構ぜんとし,雲欲為變(政変を為そうと欲すようになった)。
冬,十月,孫峻は呉主と<与>謀って酒を置いて諸葛恪を請うた。諸葛恪の將に入らんとする之夜に,精は爽とするも擾い動き,夕を通じて不寐(寝付けず),又た家では數<たびた>び妖怪が有ったため,諸葛恪は之を疑った。
旦日,車を宮門に駐めた,孫峻は已に兵を帷中に於いて伏せていたため,諸葛恪が不時入(期せずして入り/入ることにならなくなり),事が洩れるを恐れ,乃ち自ら出て諸葛恪に見えて曰く:
「使君がその尊體安んぜざるが若かるなら,自ら後を須つ(今回の宴を後でやりなおす)可きでありましょう,この峻が當に具さに主上に白してまいりましょう。」以って諸葛恪の意を嘗知しようと欲した。
諸葛恪曰く:「當に自ら力<つと>めて入るべきだろうな。」散騎常侍の張約、硃恩等は密かに書して諸葛恪に与えて曰く:「今日の張設(設けられた宴)は常に非ざるものであります,他に故(別に理由)の有ることをお疑いください。」
諸葛恪はその書を以って滕胤に示したところ,胤は諸葛恪に還るよう勧めた。諸葛恪曰く:「兒輩らが何をか為し能わんか!正しく恐るるは酒食に因って人に中らしむことだけだ耳。」
諸葛恪は入ると,劍履上殿し,(呉主のところへ)進んで謝してから坐に還った。酒が設けられたが,諸葛恪は疑って未だ飲まなかった。
孫峻曰く:「使君は病が未だ善く平がらざるゆえ,常に服している藥酒が有りましょう,之を取ってこさせる可きでは。」そこで諸葛恪の意は(彼が唯一警戒していた毒の可能性が無くなったため)乃ち安んじた。
別飲所繼酒(酒を継いで杯が回ることとなり),行うこと数たび,呉主は内に還った。孫峻は起って廁に如くと,長衣を解き,短服を著して,出て曰く(※1):「詔が有る諸葛恪を収めよ。」
諸葛恪は驚き起って,拔劍しようとしたが未だ得ないうちに,而して孫峻の刀が交わり下された,張約は旁らに従っていたため孫峻を斫りつけ,その左手を裁って傷つけた,孫峻は應じて手づから張約を斫り,右臂を断った。
武衛之士は皆趨せて上殿しようとしたが,孫峻曰く:「取る所の者は諸葛恪だけだ也,かれは今已に死せり!」悉く刃を復さ令ますと,乃ち地に除して更めて飲むこととなった。
諸葛恪の二子竦、建は難あったと聞くと,其の母を載せて來奔しようと欲したため,孫峻は人を使て之を追いかけさせた。葦席を以って諸葛恪の屍を裏ごめにし,腰を篾束すると,之を石子岡に投げこんだ。
又た無難督の施ェを遣わして將軍の施績、孫壹の軍に就けると,公安に於いていた諸葛恪の弟で奮威將軍の諸葛融,及び其の三子をさせた。諸葛恪の外甥で都郷侯の張震、常侍の硃恩は,皆夷三族となった。
※1ニセクロ注:当時、厠で用をすると匂いが衣服に移ったため宴会などでは衣服を変える慣例があった

88 :
  臨淮(出身)の臧均は表して諸葛恪を収め葬りたいと乞うて曰く:「震雷電激は,一朝に祟らず;大風も沖發すれど,日を極めること有ること希なりといいます;然るに猶ち之に継ぐこと雲雨を以ってするは,因るに物を潤わさんことを以てするからです。
是ぞ則ち天地之威は,日を經て浹辰す可からず;帝王之怒りも,不宜言乞情盡意。臣は以って狂愚なるため,忌み諱む所を知りませんから,敢えて破滅之罪を冒し以って風雨之會に邀えんとするしだいです。
伏して念いますのは故き太傅の諸葛恪,罪は積みあげられ惡は盈ちあふれ,自ら夷滅するを致され,かれら父子三首は,梟市されたまま日を積み,觀た者は萬を数え,詈聲は風を成しました;
國之大刑で,震えざる所無く,長老も孩幼も,畢見せざるもの無くなりました。
人情之品物に於けるや,樂極まれば則ち哀生ずもの,諸葛恪の貴ばれ盛んとなるを見て,世はこれと<与>貳えるもの莫かったのです,
その身は台輔に処し,間に中ること歴年してきました,今之誅夷は,禽獸と異なること無いもの,觀訖われば情は反くもの,憯然としないこと能うものでしょうか!
且つ已に死にたる之人は,土壤と<与>域を同じくするもので,鑿ち掘って斫り刺したところで,復た加える所無いものです。
願わくば聖朝には乾坤に則るを稽<かえりみ>られ,怒りは旬を極めざらんことを,其の郷邑を使て故の吏民が收めるが若かるならせめて士伍之服を以ってし,恵むに三寸之棺を以てされんことを。
昔項籍は殯葬之施しを受け,韓信も收斂之恩を獲ました,斯くは則ち漢の高(祖)が發せられた神明之譽であったのです也。
惟だただ陛下には三皇之仁を敦くされ,哀矜之心を垂れられて,國澤を使て辜戮之骸に於けるに加えられますよう,
不已之恩を復た受けられましたことは,聲を遐方に揚げることを以てするに於けることとなりましょうから,天下に沮勸すること,豈に大ならざることでしょうか哉!
昔欒布は彭越を矯命いたしましたが,臣は竊いまして之を恨むものです,それというのも主上に請うことを先ずせず而して名を專らにして以って情に肆したからでございます,其れ誅されないこと得られたのは,實に幸いと為すのみです耳。
今臣は以って天恩を露わにせんと表を是とし宣べて章かにすること敢えてせず,謹しんで伏して手づから書き,昧を冒して聞かれしことを陳べました,聖明の哀となし察されんことを乞うしだいです。」
是に於いて呉主及び孫峻は諸葛恪の故吏が斂葬するを聴きいれた。
  初め,諸葛恪は少なきより盛名を有し,大帝(孫権)は深器として之を重んじたが,而して諸葛恪の父である諸葛瑾は常に以って戚と為して,曰く:「保家之主に非ず也。」
父の友であった奮威將軍の張承も亦た以為らく諸葛恪は必ずや諸葛氏を敗らしむとした。陸遜は嘗て諸葛恪に謂いて曰く:「我に前者が在れば吾は必ず之を奉じて升るを同じくし,我に下る者が在れば則ち之を扶け接した;
今君を觀るに氣は其の上を陵がんとし,意は下に乎けるを蔑ろにしている,安コ之基に非ざることだ也。」
漢の侍中である諸葛瞻は,諸葛亮之子であった也;諸葛恪が再び淮南に攻めむと,越巂太守の張嶷は諸葛瞻に書を与えて曰く:「東主が初め崩じたおり,帝は實に幼弱であって,太傅は寄托之重きを受けたというのに,亦た何ぞ容易ならんか!
親しくは周公之才が有ろうとも,猶も管、蔡に流言之變が有り,霍光は任を受けるとも,亦た燕、蓋、上官らの逆亂之謀が有った,成、昭之明(智)をョりとしても以って免れんとするは斯く難しいことである耳。
昔東主が生賞罰は,下人に任せずと聞き,又今以垂沒之命,卒召太傅,以って後事を属さしめたは,誠に實に慮りとす可きである。
加えて呉楚(の人々)が剽急であることは,乃ち昔から記されていた所であるのに,而して太傅は少主から離れて,敵の庭を履こうとしている,恐らくは良計や長算に非ざることであろう也。
雲<たと>え東家の綱紀が肅然とし,上下が輯まり睦んでいると雖も;百に一失が有るなら,明者之慮りというに非ず也。
古を取って今に則ってみれば,今は則ち古であるから也,自(おのずか)ら郎君が太傅に於いて忠言を進めるに非ざるなら,誰が復た言を盡くす者が有ろうか邪!
軍を旋し農を廣げ,務めてコ惠むことを行うこと,數年してから之きて中ることとし,東西並び挙げたとしても,實に晩からざるを為すのだから,願わくば深く采察されんことを!」諸葛恪は果たして此を以って敗れたのである。

89 :
  呉の群臣は共議して上奏し,孫峻を推して太尉と為し,滕胤を司徒と為した。孫峻に媚びる者が有り言って曰く:「萬機は宜しく公族に在らしむべきです,
若し嗣を承り亞公と為らば,聲名は素より重かるゆえ,その衆心の附く所となること,量る可からざることとなりましょう也。」乃ち孫峻を表して丞相、大將軍と為し,督中外諸軍事とすると,又た御史大夫を置かなかった;是れに拠って士人は失望した。
滕胤の女<むすめ>は諸葛恪の子である諸葛竦の妻と為っていたため,滕胤は此れを以て位を辭した。
孫峻は曰く:「鯀、禹の罪の相及ばざるに,滕侯は何ぞ為さんとてか!」孫峻と<与>胤雖は内では沾洽しなかったが,而して外では相苞容しあい,胤の爵を進めて高密侯とし,事を共にすること前の如くであった。
  齊王の孫奮は諸葛恪の誅を聞くと,下って蕪湖に住った,建業に至って變を観ようと欲したのである。傅相の謝慈等が諫めると,之を奮したため,(罪に)坐して廢されて庶人と為り,章安に徙された。
  南陽王である孫和の妃の張氏は,諸葛恪之甥であった也。是より先に諸葛恪には徙都之意が有って,武昌宮を治め使もうとしていた,そのため民の間では或いは諸葛恪は孫和を迎えて之を立てようと欲しているのだと言うものがいた。
諸葛恪が誅を被るに及ぶと,丞相の孫峻は此に因って孫和の璽綬を奪い,新都に徙し,又た使者を遣わして追って死を賜った。
初め,孫和の妾の何氏は子の孫皓を生んだ,諸姫の子はコ、謙、俊であった。孫和が將に死なんとするに,張妃と<与>別れた,妃は曰く:「吉凶當に相隨うべきであります,終に独り生くることなし。」亦た自した。
何姫曰く:「若し皆がみな從死してしまえば,誰が當に孤りに字をつけましょう!」遂に孫皓及び其の三弟を撫育し,皆ョりとし以って全うを獲たのである。
そういうことで今日は此処まで

90 :
本日も乙で御座いました!!
と、前スレの呉滅亡編は73レスで訳し終わっていたので、
今回はそれを超えていますね( ^∀^)ゲラゲラ
前スレ:三国志好きな俺が資治通鑑晉紀を呉が滅亡するまで訳し続けるスレ
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1265883914/
関連スレ:三国志好きな俺が華陽國志を劉二牧から劉備が死ぬまで訳し続けるスレ
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1279196260/

91 :
  高貴郷公上
     邵陵詞下正元元年(甲戌,西暦254年)
  春,二月,中書令の李豐をした。初め,李豐は年十七、八にして,已に清名を有し,海内は翕然として之を稱えた。其の父である太僕の李恢は其の然るを願わず,敕して門を閉ざして客を断た使めた。
曹爽が政を専らにすると,司馬懿は疾と称して出なくなった,李豐は尚書僕射と為ると,二公の間を依違えたため,故に曹爽と<与>誅を同じくしなかったのである。
李豐の子の李韜は,以って齊長公主に選び尚ばれた。司馬師が秉政すると,李豐を以って中書令と為した。
是時,太常の夏侯玄は天下に重名を有していたが,曹爽の親故であることを以て,勢任に在るを得なかったが,居しても常に怏怏としていた;張緝もまた後(皇后)の父であることを以て郡を去って家居していたが,亦た意を得ないでいた。
李豐は皆之と<与>親善していた。司馬師が李豊を擢用したと雖も,李豐の私心は常に夏侯玄に在った。李豐は中書に在ること二歳,帝は數<たびた>び獨り李豐を召してこれと<与>語ったが,その説く所を知らなかった。
司馬師は其の己を議していることを知り,李豐に相見えんことを請うた以って李豐に詰(問)しようとしたのである,しかし李豐が實を以てせず告げたため;
司馬師は怒り,刀鐶を以って之を築すると,屍を送りつけて廷尉に付けると,遂に李豐の子の李韜及び夏侯玄、張緝等を収めて皆廷尉に下すと,鐘毓が治を案じた,云わく:
「李豐は黄門監の蘇鑠,永寧署令の樂敦,冗從僕射の劉賢等と<与>謀って曰く:『貴人を拝する日,諸營兵は皆門に(駐)屯する,陛下が臨軒されると,此れに因って同じくして陛下を奉じ,群僚と人兵を将いて,大將軍を誅すに就こう;
陛下が儻して人に従わなければ,便じて當に劫し將いて去るだけだ耳。』」又た云わく:「謀るに夏侯玄を以って大將軍と為し,張緝を驃騎將軍と為すこととした;夏侯玄、張緝は皆其の謀を知っている。」庚戌,韜、玄、緝、鑠、敦、賢を誅し,皆夷三族とした。
  夏侯霸之入蜀するや也,邀玄欲與之俱,夏侯玄は從わなかった。司馬懿が薨ずるに及び,中領軍である高陽(出身)の許允は夏侯玄に謂って曰く:「復た憂うこと無くなりましたな矣!」
夏侯玄は歎じて曰く:「士宗,卿は何ぞ事を見ざるか乎!此人は猶も能く通家の年少を以てして我を遇してきたが,子元、子上は吾を容れまい也。」
獄に下されるに及び,夏玄は辭を下ること肯わず,鍾毓は自ら臨んで之を治めた。夏侯玄は色を正して鍾毓を責めて曰く:「吾當に何の罪たるというのか!卿は令史の為に人を責めているが也,卿の便ずことは吾が為に作すことではないか!」
鍾毓は以って夏侯玄が名士であったため,節高く,屈す可からざるうえ,而して獄は當に竟るべきであるとし,夜になり辭を作すを為し,これと<与>事し相附か令むると,涕<なみだ>を流しながら以って夏侯玄に示した;夏侯玄は視ると,之に頷く而已であった。
東市に就くに及び,顔色は変わらず,挙動も自若としていた。
  李豐の弟の李翼は,兗州刺史と為っていたため,司馬師が使いを遣わして之を收めさせた。
李翼の妻であった荀氏は李翼に謂って曰く:「中書の事が發(覚)したのです,詔書の未だ至らざるに及び呉に赴く可きです,何ぞ坐して死亡を取るを為さんとしてるのです!左右で共になり同じくして水火に趣く可き者は誰と為っておりますか?」
李翼は思ったものの未だ答えなかった,妻曰:「君は大州に在りながら,これと<与>死生を同じくす可き者を知らぬとは,去ると雖も亦た免れざることでしょうね!」
李翼曰く:「二兒は小さい,吾が去らざれば,今は但だ坐に従うだけとなろう。身は死すのみ耳であろうが,二兒は必ず免れよう。」乃ち止め,死んだ。

92 :
  初め,李恢と<与>尚書僕射の杜畿及び東安太守の郭智は善くしていた,智の子の沖は,内に實を有していたが而して外觀は無かったため,州裡は弗して稱えようとしなかった也。
郭沖は嘗つて李豐と<与>俱に杜畿に見えたことがあった,既にして退くと,杜畿は歎じて曰く:「孝懿には子が無くなろう;徒らに子を無くすのみに非ず,殆んど將に家さえ無くすだろうな。
君謀は死なざることを為そう也,其の子は其の業を継ぐに足ろう。」時の人は皆が以って畿は誤りを為しているとした。李豐が死ぬに及び,沖は代君太守と為って,父の業を卒繼した。
  正始中,夏侯玄、何晏、ケ颺は俱に盛名を有しており,尚書郎の傅嘏と交わろうと欲したが,嘏は受けなかった。
傅嘏の友人である荀粲は怪しんで而して之を問うた,傅嘏曰く:「太初の志は其の(器)量より大である,能く虚聲を合わせるも而して實の才が無い。
何平叔は言うこと遠(大)であるも而して情は(卑)近であって,辯を好むも而して誠が無い,所謂る口を利して邦を覆す國之人であろう也。
ケ玄茂は為すこと有ろうとも而して終わること無かるまい,外では名利を要すれど,内では関鑰が無い,同じかるを貴び異なるを惡む,言うこと多かるゆえ而して妒前となる;言うこと多く釁ること多ければ,妒前して親無し。
以って吾が此の三人の者を観るに,皆將に家を敗らしむるであろう;之から遠ざかるとも猶も禍の及ぶを恐れているのだ,況んや之に暱そうなどとは乎!」
傅嘏も又た李豐と<与>善くしなかった,同志に謂って曰く:「李豐は偽りを飾りたて而して疑うこと多い,小智を矜るも而して権(謀の)利(ろしくするところ)に於いて(蒙)昧である,若し機事を任せたなら,其の死すことは必ずであろう矣!」
  辛亥,大赦した。
  三月,皇后張氏を廃し,夏,四月,皇后王氏を立てた,奉車都尉である王夔之女<むすめ>である也。
  狄道の(県)長である李簡が密書で漢に於いて降ることを請うてきた。六月,姜維が隴西を寇した。
  中領軍の許允は素より李豐、夏侯玄と<与>善くしていた。秋,許允は鎮北將軍、假節、都督河北諸軍事と為った。
帝は許允を以て當に出すべきとし,詔をくだして群臣を会すと,帝は特に許允を引きたて以って自らに近づけた;許允は當に帝と<与>別れるにあたり,涕泣して歔欷した。
許允が未だ發されぬうちに,有司が許允は前に官の物を放散していたと奏したため,收めて廷尉に付けられ,樂浪に徙された,未だ至らざるうちに,道すがら死んだ。
呉の孫峻は驕り矜ぶり暴にったため,國人は目を側めた。司馬桓は孫峻を謀し,太子登之子で呉侯英を立てることを慮ったが;克てず,皆死んだ。
  帝は李豐之死を以て,意<きもち>は殊に平らがなかった。安東將軍の司馬昭は許昌を鎮めていたが,詔をくだして之を召し姜維を撃た使むこととした。
九月,司馬昭は兵を領して入見し,帝は平樂觀に(御)幸して以って軍が過ぐるのに臨んだ。左右は帝に勧めて司馬昭の辭に因って,之をし,兵を勒して以って大將軍を退かせるようにとし;已に前に於いて詔を書していたが,帝は懼れて,敢えて發しなかった。
  司馬昭が兵を引きつれて入城すると,大將軍の司馬師は乃ち廢帝を謀った。甲戌,司馬師は皇太后の令を以て群臣を召して會議すると,以って帝の荒には度が無く,褻近倡優,以って天緒を承らせる可からずとした;群臣は皆敢えて違うもの莫かった。
そこで乃ち帝の璽綬を収め,齊に於けるに帰藩させるよう奏(上)した。郭芝を使て入って太后に(建)白させたところ,太后は方に帝と<与>對坐していた,郭芝は帝に謂って曰く:「大將軍は陛下を廃し,彭城王據を立てようと欲していますぞ!」
帝は乃ち起って去った。太后はスばなかった。郭芝曰く:「太后は子を有しながら教えさとすこと能いませんでした,今大將軍の意は已に成り,又た外に於いて兵を勒して以って非常のことに備えております,但だ當に旨に順うべきのみです,將に復た何をか言いましょうぞ!」
太后曰く:「我が欲すは大將軍に見えること,口で説く所が有るのです。」郭芝曰く:「何をか見う可けんか邪!但だ當に速やかに璽綬を取るべきのみです!」太后の意は折れ,乃ち傍にいた侍御を遣わして璽綬を取らせると坐側に著わした。
郭芝は出て司馬師に報(告)したところ,司馬師は甚だ喜んだ。又た使者を遣わして帝に齊王の印綬を授け,使わして出し西宮に就かせた。
帝と<与>太后は垂涕して而して別れ,遂に王の車に乗ると,太極殿から<従>南に出たが,群臣で送る者は數十人,司馬孚は悲しみ自ら勝てず,餘りも多くが流涕したのである。

93 :
  司馬師も又た使者を使わし璽綬を太后に於いて請うた。太后曰く:「彭城王は,我之季叔である也,今來たりて立てば,我は當に何之(如何すべきか)!且つ明皇帝は當に永らく嗣を絶つべしといたしましたか乎?
高貴郷公は,文皇帝之長孫で,明皇帝之弟の子です。禮に於いて,小宗は大宗之義を後にすと有ります,其れ詳らかに之を議してください。」
丁丑,司馬師は更めて群臣を召すと,太后の令を以って之に示したため,乃ち高貴郷公髦を元城に於いて迎えると定まった。曹髦とは<者>,東海定王曹霖之子であり也,時におん年十四,太常の王肅を使て持節させて之を迎えさせた。
司馬師は又た璽綬を請わ使めたが,太后曰く:「我は高貴郷公に見えよう,小さな時に之を識るが,我は自らに欲しているのは以って璽綬を手づから之に授けんことだから。」
冬,十月,己丑,高貴郷公は玄武館に至ると,群臣は奏して前殿を捨てるよう請うた,公は先帝の舊處であることを以て,避けて西廂に止まった;群臣は又た請うて法を以てして駕迎したいとしたが,公は聽きいれなかった。
庚寅,公は洛陽に於いて入ると,群臣は西掖門の南に迎え拝した,公は輿を下りて答拜した,儐者請曰:「儀は拜さないものです。」公曰く:「吾は人臣なのだ也。」遂に答拜した。
至ると車を門下の輿に止めた,左右曰く:「舊では輿に乗りこみ入ることになっています。」公曰く:「吾はたしかに皇太后の征を被ったものの,未だ為すところを知らないのだ。」遂に歩いて太極東堂に至ると,太后に見えた。
其の日,皇帝の位に太極前殿に於いて即くと,百僚で陪位した者は皆欣欣とすること焉れあったのである。大赦し,改元した。齊王の為に宮を河内に於いて築った。
  漢の姜維は鍬道より<自>進んで河間、臨洮を抜いた。將軍の徐質はこれと<与>戦い,其の蕩寇將軍である張嶷をしたため,漢兵は乃ち還った。
  初め,揚州刺史の文欽は,その驍果人に絶していた,曹爽は郷里である故を以って之を愛でた。文欽は曹爽の勢を恃んで,陵傲する所多かった。
曹爽が誅されるに及び,文欽は已にして内で懼れるようになり,又た虜の(首)級を増すのを好み以って功賞を邀えとらんとした,司馬師は常に之を抑えたため,是れに由って怨望することになった。
鎮東將軍の毌丘儉は素より夏侯玄、李豐と<与>善くしており,夏侯玄等が死んだことで,毌丘儉も亦た自ら安んじなくなり,乃ち計を以って文欽を厚待することになった。
毌丘儉の子で治書侍御史の毌丘甸は毌丘儉に謂って曰く:「大人は方岳の重任に居るのです,國家が傾き覆らんとしているのに而して晏然として自らを守ろうなど,將に四海之責めを受けましょう矣!」毌丘儉は之を然りとした。

94 :
     邵陵詞下 正元二年(乙亥,西暦255年)
  春,正月,毌丘儉、文欽は太后の詔を矯め,兵を壽春に於いて起こすと,檄を州郡に移し,以って司馬師を討たんとした。又た表して言った:
「相國の司馬懿どのは忠正であり,社稷に於いて大勳を有しているから,宜しく宥しを後世に及ぼすべきであろう,請うのは司馬師を廃し,以って第に侯就し,弟の司馬昭を以って之に代わらせんことである。
太尉の司馬孚どのは忠孝にして小心であり,(彼の息子の)護軍の司馬望どのは,忠公にして事に親しんでいる,皆宜しく親寵して,要任を以て授けるべきである。」
司馬望は,司馬孚之子である也。儉も又た使いを遣わして鎮南將軍の諸葛誕を邀えさせたが,諸葛誕は其の使いを斬りすてた。
毌丘儉、文欽は五六萬の衆を将いて淮(水)を渡ると,西して項に至った;儉は堅く守ると,文欽を使て外に在って遊兵と為さしめた。
  司馬師は河南尹の王肅に於いて計を問うと,肅曰く:「昔関羽が于禁を漢濱(漢水の水辺)に於いて虜としたおりには,北に向かって天下を争う之志を有したのですが,後に孫權が其の將士の家屬を襲い取ると,関羽の士衆は一旦にして瓦解してしまいました。
今淮南の將士の父母と妻子は皆内州に在ります,但だ急往御衛,使不得前,必ずや関羽が土崩した之勢いを有しておりましょう矣。」
時に司馬師は新たに目の瘤を割ったばかりで,創<きず>は甚だしいものであった,或るひと以為らく大將軍は自ら行くは宜しくすべからず,太尉の司馬孚を遣わすに如かずとしたが之を拒んだ。
唯だ王肅と<与>尚書の傅嘏、中書侍郎の鐘會だけは司馬師に自ら行くよう勧めたが,司馬師は疑って未だ決せずにいた。
傅嘏曰く:「淮、楚の兵は勁<つよ>く,而して儉等は力を負うて鬥を遠くにし,其の鋒は未だ當るに易からざるものであった也。若し諸將は戦いには利鈍が有るもの,大勢一たび失えば,則ち公事は敗れましょう矣。」
司馬師は蹶然として起って曰く:「我は輿を請い疾やかに而して東しよう。」戊午,司馬師は中外諸軍を率いて以って儉、欽を討たせようとし,弟の司馬昭を以って中領軍を兼ねさせ,留まって洛陽に鎮めらせると,三方の兵を召して陳、許に於いて会すこととした。
  司馬師は光祿勳の鄭袤に於いて計を問うた,袤曰く:「毌丘儉は謀を好めど而して事情に達せず,文欽は勇あれど而して算無し。
今軍を大いにして其の不意に出れば,江、淮之卒は,鋭くとも而して固めること能わないでしょう,宜しく溝を深くし壘を高くし以って其の氣を挫かせるべきです,此れぞ亞夫之長策です也。」司馬師は善しと称えた。
  司馬師は荊州刺史の王基を以って行監軍と為し,假節とし,許昌の軍を統めさせた。王基は司馬師に於いて言いて曰く:「淮南之逆きしは,吏民が亂を思ったに非ず也,毌丘儉等が誑し誘い迫り脅したため,目下之戮を畏れてのこと(目先の戮を恐れ),是以尚屯聚耳。
若し大兵にて一たび臨まば,必ずや土崩瓦解し,儉、欽之首は朝を終えずして而して軍門に於けるに致されましょう矣。」司馬師は之に従った。そこで王基を以って前軍と為したが,既にして而して復た王基に停駐するよう敕(令)した。
王基は以って為すに:「儉等が挙げた軍は以って深く入るに足る(練度と力量と兵力をもったものであるのに),而して久しく進まないでいるのは<者>,是れぞ其の詐偽が已にして露わとなり,衆心が疑い沮したからであろう也。
今威形を張り示して以って民の望みに副えることせずに,而して軍を停めて壘を高くしていれば,畏懦に似たものを有すようになる,用兵之勢に非ざることである也。
若し儉、欽が民人を虜にし略し以って自らを益せば,又た州郡の兵家で賊の為に得られる所となる者がでようから,更めて離心を懐くこととなろう,儉等が迫り脅せし所の者は,自ら罪の重きを顧みて,敢えて復た還ろうとすまい,
此れは錯兵を無用之地に為して而して奸宄之源を成(立)させるものであって,呉の寇が之に因れば,則ち淮南は國家之有すところに非ざることになる,譙、沛、汝、豫は危うくなって而して安んじなくなる,此れは計之大いなる失(敗)というものだ也。
軍は宜しく速やかに進んで南頓に拠るべきである,南頓には大邸閣が有る,計ってみるに軍人の四十日の糧とするに足ろう。堅城を保ち,積みあげた穀に因って,先人有奪人之心,此れ平賊之要というものです也。」
王基が屢<かさ>ねて請うたところ,乃ち聽きいれられ,進んで水に拠り水に隱れることとなった。

95 :
  閏月,甲申,司馬師が水隱橋に於けるに次ぐと,毌丘儉の將である史招、李續は相次いで來降した。
王基は復た司馬師に於いて言って曰く:「兵は拙速を聞くも,未だ巧之久に睹けず也。方に今は外に強寇が有り,内に叛臣が有るもので,若し不時決(決すことに時間をかければ),則ち事之深淺も未だ測る可からざることとなりましょう也。
議者の多くは將軍に持重するよう言っております。將軍が持重されるのは,是れがためです也;しかしながら軍を停めて進まないのは,非です也。
持重とは,非不得之謂(何もしないことを謂うのではありません)也,進んで而して犯す可からざる(を謂う)のみです耳。
今壁壘を保ち以って實を積みあげておりますがこれは虜に資すばかりのうえ(時間を相手に与え、状況を相手の縦にするばかりで)而して軍糧を遠くから運びこんでおります,甚だ計に非ざるものです也。」司馬師は猶も未だ許さなかった。
王基曰く:「將は軍に在っては,君令も受けざる所が有るとか。彼らが得れば則ち利となり,我らが得ても亦た利となる,是れ爭いの地と謂うべきものがあります,南頓こそ是れであります也。」
としたため遂に輒ち進んで南頓に據った,毌丘儉等も項より<従>亦た往きて爭わんと欲し,發すこと十餘里となったところで,王基が先んじて到ったことを聞き,乃ち復た還って項を保った。
  癸未,征西將軍の郭淮が卒したため,雍州刺史の陳泰を以って之に代えた。
  呉の丞相である孫峻が驃騎將軍の呂據、左將軍で會稽(出身)の留贊を率いて壽春を襲った,司馬師は諸軍に命じて皆壁を深くし壘を高くし,以って東軍之集まるを待つこととした。
諸將は軍を進めて項を攻めることを請うてきたが,司馬師曰く:「諸軍は其の一を得るも,未だ其の二も知らず。淮南の將士は本より反志など無い,儉、欽が之らと<与>事を挙げるよう説き誘って,謂ったことは遠きも近くも必ずや應ずるだろうということであろう;
而して事が起きた之日には,淮北は從わず,史招、李繼は前後して瓦解した,そのように内は乖(離)し外は叛いたからには,自ら必敗を知ったわけだ。困じはてた獸が鬥するを思うもの,なれば速やかに戦うことで更めて其の志を合わせんとしたのである。
雖雲必克(もって必ず克つことになると雖も),傷つく人も亦た多くなろう。且つ儉等は將士を欺き誑し,その詭變は萬端にわたっている,小與持久(持久策を取って少し時間が経てば),情を詐ったことは自ら露わになろう,此ぞ戦わずして而して克つ之術である也。」
乃ち諸葛誕を遣わして豫州の諸軍を督させ,安風より<自>壽春に向かわせ;征東將軍の胡遵には青、徐の諸軍を督して譙、宋之間から出て,其の歸路を絶たせた;司馬師は汝陽に屯した。
毌丘儉、文欽は進んでも鬥を得ず,退いては壽春が襲われるに見えることを恐れ,計窮まって為す所を知らなかった。
淮南の將士の家は皆北に在ったため,衆心は沮散した,降った者は相屬しあい,惟だ淮南で新たに附いた農民だけが之が為に用いられたのである。
  毌丘儉之初め起つや,健歩(健脚)のものを遣わして書を継いで兗州に至らせた,兗州刺史のケ艾は之を斬りすて,兵萬餘人を将いて,道を兼ねて前進し,先んじて樂嘉城に趨くと,浮橋を作して以って(司馬)師を待った。
毌丘儉は文欽を使て兵を將いさせて之を襲わせた。司馬師は汝陽より<自>兵を潛めて樂嘉に於けるケ艾に就いた,文欽は大軍を猝見すると,驚き愕いて未だ為す所を知らなかった。
文欽の子の文鴦は,年十八,勇力人に絶しており,文欽に謂いて曰く:「其の未だ定まらざるに及び,之を撃てば,破る可けん也。」
是れに於いて分けて二隊を為し,夜になって軍を夾攻した。文鴦は壯士を率いて先んじて至ると鼓噪したところ,軍中は震え擾いた。
司馬師は驚駭し。病となっていた所の目が突き出てしまったが,之を衆知されるのを恐れ,嚙がみして皆破(破れた傷跡すべて)を被った。
文欽が期を失ったまま應じずにいたため,會明(明るくなるに会うと),文鴦は兵の盛んであるを見て,乃ち引き還した。

96 :
司馬師は諸將に謂いて曰く:「賊走らば矣,之を追う可し!」諸將曰く:「文欽父子は驍猛で,未だ屈す所有ったを知りません,何ぞ苦しんで而して走りましょうか?」
司馬師曰く:「夫れ一たび鼓して氣を作したものは,再びすれば而して衰えるもの。文鴦が鼓噪しながら應ずのに失(敗)した,其の勢いは已に屈せり,走らずに何ぞ待たんとてか!」
文欽は兵を將いて而して東した,文鴦曰く:「其の勢いを折ること先ずせずば,(追撃から逃れること)得ないでしょう也。」乃ち驍騎十餘と<与>鋒を摧き陳を陷しいれ,向う所皆披靡しまくると,遂に引きはらい去った。
司馬師は左長史の司馬班を使て驍將八千翼を率いさせて而して之を追わせたが,文鴦は匹馬を以て數千騎の中に入りこむと,輒ち百餘人を傷して,乃ち出てゆき,此の如きをすること<者>六七たびとなったため,追いかけた騎で敢えて逼るものは莫かった。
  殿中人の尹大目は小なきより曹氏の家奴と為り,常に天子の左右に在った,司馬師は將にこれと<与>俱に行かんとしたため,大目は司馬師が一目して已に出たのを知ると,啓(発)して云った:
「文欽は本もと是れ明公の腹心でした,但だ人の為に誤る所となっただけです耳;又た天子の郷里で,素よりこの大目と<与>相信じあっております,乞うらくは公の為に追って之に解語して,還って公と<与>復た好をむすば令とを。」
司馬師は之を許した。大目は單身づから大馬に乗ると,鎧冑を被って,文欽を追いかけ,遙みながら相これと<与>語りあった。
大目は心では實は曹氏の為にせんと欲していたため,謬言した:「君は侯じて何ぞ復た數日中るを忍ぶ可からざるに苦しむか也!」文欽を使て其の旨を解かしめんと欲したのである。
文欽は殊に悟らず,乃ち更めて聲を獅ワして大目を罵って曰く:「汝は先の帝の家人でありながら,報恩を念<おも>わず,反って司馬師と<与>逆を作し,上天を顧みずにいるとは,天は汝を祐<たす>けまいぞ!」
弓を張って矢を伝え大目を射ぬかんと欲した。大目は涕泣して曰く:「世事敗れり矣,善ろしく自ら努力されよ!」
  是日,毌丘儉は文欽が退いたと聞き,恐懼すると,夜に(逃)走したため,衆は遂に大いに潰れた。文欽は還って項に至ったが,以って孤軍であって繼ぐもの無かったため,自立すること能わなくなり,壽春に還ろうと欲した;
壽春が已にして潰れていたため,遂に呉に奔った。呉の孫峻は東興に至ったところで,毌丘儉等が敗れたことを聞いた,壬寅,進んで橐皋に至ったところで,文欽父子が軍に詣でて降った。
毌丘儉は(逃)走したものの,慎縣に至るに比したあたりで,左右の人と兵は稍<しだ>いに毌丘儉を棄てて去ってしまっため,毌丘儉は水邊の草の中に(身を)藏<かく>した。
甲辰,安風津の民の張屬が毌丘儉を就し,首を京師に伝えて,封屬して侯と為った。諸葛誕が壽春に至ると,壽春の城中の十餘萬口は,誅されるのを懼れて,或るものは山澤に流迸し,或るものは散りぢりに走って呉に入った。
詔がくだされ諸葛誕を以って鎮東大將軍、儀同三司と為し,都督揚州諸軍事とした。毌丘儉の三族を夷した。毌丘儉の黨の七百餘人は獄に系(係留)され,侍御史の杜友が之を治めると,惟だ首事者十餘人を誅すのみとし,餘りは皆之を免れるよう奏(上)した。
毌丘儉の孫女<むすめ>は劉氏に適っていたため,當に死すべきとなったが,(子を)孕んでいたことを以って廷尉に系せられた。
司隸主簿の程鹹が議して曰く:「女<むすめ>で人に適ってしまった者は,若し已にして産育してしまっていたならば,則ち他家之母と成ってしまっているのだから,
防ぐに於いては則ち奸亂之源を懲らしめるに足りず,情に於いては則ち孝子之恩を傷つけることになる。
男なれば他の族に於ける罪に遇わないのに,而して女だけは獨り二門に於いて嬰戮されるのは,女の弱きを哀矜し、法制を均しくす之大分を以てする所に非ざるものである也。
臣以為らく在室之女なれば,父母之刑に従う可し;既に醮之婦なれば,夫家之戮に従わ使むものであろう。」朝廷は之に從い,仍ち律令に於いて(その条文が)著されることになった。

97 :
  舞陽忠武侯の司馬師は疾が篤くなり,許昌に還ると,中郎將で參軍事の賈充を留めて監諸軍事とした。賈充は,賈逵之子である也。
  衛將軍の司馬昭は洛陽より<自>往って司馬師を省みたところ,司馬師は司馬昭を令て諸軍を總統させた。辛亥,司馬師は許昌に於いて卒した。
中書侍郎の鐘會は司馬師に従って密事を典じ知った,中詔敕尚書傅嘏,以って東南は新たに定まったばかりであるから,權を衛將軍の司馬昭に留めて許昌に(駐)屯させ内外之援けと為させ,傅嘏を令て諸軍を率いて還らせた。
鍾会は傅嘏と<与>謀り,傅嘏を使てお上に表させ,輒ち司馬昭と<与>俱に發させ,還って洛水に到ると南して屯し住んだ。
二月,丁巳,詔がくだされ司馬昭を以って大將軍、録尚書事と為された。鍾会は是れに由って常に自ら矜る之色を有すことになった,傅嘏は之を戒めて曰く:「子の志は其の量に大なれど,而して勳業は為すこと難いものである也,可不慎哉!」
  呉の孫峻は諸葛誕が已にして壽春に拠ったと聞くと,乃ち兵を引きつれ還った。文欽を以って都護、鎮北大將軍、幽州牧と為した。
  三月,皇后卞氏を立てて,大赦した。後<皇后>は,武宣皇后の弟である卞秉之曾孫女である也。
  秋,七月,呉の將軍の孫儀、張怡、林恂が孫峻を謀しようとしたが,克てず,死者は數十人となった。全公主は孫峻に於いて硃公主のことを譖った,曰く「(彼女は)孫儀と<与>謀を同じくしています」。孫峻は遂に硃公主をした。
  孫峻は衛尉の馮朝を使て廣陵に城をきずかせた,その功費は甚だ衆<おお>くなったが,朝を挙げて敢えて言うものとて莫かった,唯だ滕胤だけは之を諫止したが,孫峻は從わなかった,(築城のことについては)功卒すれど成らなかった。
  漢の姜維が復た軍を出すことを議したところ,征西大將軍の張翼が廷爭した,以為らく:「國は小さく民は勞しており,宜しく黷武すべからず。」
姜維は聽きいれず,車騎將軍の夏侯霸及び張翼を率いて同じく進んだ。八月,姜維は數萬人を将いて枹罕に至ると,狄道に趨<おもむ>いた。
  征西將軍の陳泰は雍州刺史の王經に進んで狄道に(駐)屯し,陳泰の軍が到るを須<ま>ち,東西が勢いを合わせてから乃ち進むよう敕した。
陳泰が陳倉に軍をすすめたところで,王經は故関に於いて統める所の諸軍で漢人と<与>戦わんとしたが利あらず,王經は輒ち洮水を渡った。
陳泰は以って王經が狄道を堅め拠らなかったことから,必ずや他變が有ったにちがいないとし,諸軍を率いて以って之に繼いだ。
王經は已にして姜維と<与>洮西に於いて戦って,大敗し,萬餘人を以って還って狄道城を保ったが,餘りは皆奔り散りぢりとなり,死者は萬計となった。
張翼は姜維に謂って曰く:「以って止まる可き矣,復た進むは宜しからず,進めば或いは此の大功を毀し,蛇を為して足を畫くやも。」姜維は大いに怒ると,遂に進んで狄道を囲んだ。

98 :
  辛未,詔が長水校尉のケ艾にくだされて行安西將軍となり,陳泰と<与>力を並べて姜維を拒むようにとあった;戊辰,復た太尉の司馬孚を以って後繼と為させた。
陳泰は軍を隴西に進めた,諸將は皆曰く:「王經は新たに敗れ,賊衆は大いに盛んとなりました,將軍は烏合之卒を以てして,敗軍之後に継づき,乘勝之鋒に當たらんとしております,殆んど必ず不可とすべきことです。
古人に言が有ります:『蝮蛇が手を螫せば,壯士は腕を解く(切り裂く)と。』《孫子》曰く:『兵にも撃たざる所が有る,地にも守らざる所が有る。』とは蓋し失う所の有ること小さく而して全うする所の有ること大なるが故にです也。
險に拠って自ら保つに如かず,釁を觀て敝に待し,然る後に進んで救う,此ぞ計之得というもの<者>です也。」
陳泰曰く:「姜維が輕兵を提<たずさ>えて深く入りこんだのは,正しく我らと<与>鋒を原野に争い,一戦之利を求めんと欲してなのだ。
王經は當に壁を高くして壘を深くし,其の鋭氣を挫くべきであったのだ,今乃ちこれと<与>戦うは,賊を使て計を得さしむのみ。
王經が既にして破られ走ったからには,姜維が若し戦克之威を以てして,兵を進めて東へ向い,櫟陽の積穀之實に據って,兵を放って收降し(降虜を収容し),羌、胡を招き納れ,東して関、隴を争い,檄を四郡に傳えようものなら,此ぞ我ら之惡む所となろう也。
而して乃ち乘勝之兵を以てして,峻しき城之下で挫かんとし,鋭氣之卒は,力を屈して命を致さんとす,攻守の勢い殊なれば,客主は同じからず。
兵書に曰く:『修櫓轒轀は,三月にして乃ち成る,堙を拒むこと三月すれば而して後已まん。』とは誠に輕軍が遠く入りこむ之利に非ず也。
今姜維は孤軍でありながら遠くへ僑してきておるからには,糧谷は繼づくまい,是ぞ我らが速やかに進んで賊を破る之時というもの,所謂る疾き雷は耳を掩うに及ばない,それが自然之勢いというものだ也。
洮水は其の表に帯び,姜維等は其の内に在る,今は高きに乗って勢いに據り,其の項領に臨めば,戦わずして必ずや(逃)走しよう。寇は縦にす可からず,囲みは久しくす可からず,君等は何ぞ是の如きを言うのか!」
遂に軍を進めて高城嶺を度り,潛かに行って,夜なって狄道の東南にある高山の上に至った,そこで多いに烽火を挙げて,鼓角を鳴らした。
狄道の城中の將士は救い至るを見て,皆踴を憤らせた(躍り上って喜んだ)。姜維は不意に(思いがけず)救いの兵が(早)卒に至ったため,山に縁って急ぎ來たりて之を攻めた,陳泰はこれと<与>交戦し,姜維が退くことになった。
陳泰は兵を引きつれて揚言し其の還路に向かわんと欲しているとしたところ,姜維は(帰路を絶たれることを)懼れて,九月,甲辰,姜維は遁走した,そこで城中の將士は乃ち出ること得られたのである。
王經は歎じて曰く:「糧は旬(十日)に至らなかった,向って救兵の速やかに至るに非ざれば,城を挙げて屠裂されるばかりとなっていたろうから,一州が覆り喪われるところであった矣!」
陳泰は将士を慰勞すると,前後して遣わし還し,更めて軍守を差(配)すると,並んで城壘を治め,還って上邽に屯した。
  陳泰は毎(々)一方の有事を以て,輒ち虚聲を以て天下を擾動させているから,故に上事を簡すことを希い,驛書は六百里を過ぎないこととなった。
大將軍の司馬昭曰く:「陳征西は沉勇能斷(勇気に溢れ決断力に優れており),方伯之重きを荷っている,將に陷ちんとする(之)城を救いながら,
而して兵を益すことを求めず,又た希って上事を簡すこととしてきた,必ずや能く賊を辦ずる故であろう也。都督大將不當爾邪!」
  姜維は退いて鐘提に駐どまった。
  初め,呉の大帝(孫権)は太廟を立てず,武烈が嘗て長沙太守であったことを以て,廟を臨湘に於いて立て,太守を使て奉祠せしむ而已<のみ>であった。冬,十二月,始めて太廟を建業に於いて作し,大帝を尊んで太祖と為した。

99 :
卷第七十七
【魏紀九】 起柔兆困敦,盡重光大荒落,凡六年。
     高貴郷公下甘露元年(丙子,西暦256年)
  春,正月,漢の姜維が位を進めて大將軍となった。
  二月,丙辰,帝は群臣をまねき太極東堂に於いて宴をおこない,諸儒と<与>夏少康、漢高祖の優劣を論じ,少康を以って優れていると為した。
  夏,四月,庚戌,大將軍の司馬昭に賜りものをした袞冕之服と,赤舄が副えられた焉。
  丙辰,帝は太學に幸ずと,諸儒と<与>《書》、《易》及び《禮》を論じたが,諸儒で能く及ぶもの莫かった。
帝は常に中護軍の司馬望、侍中の王沈、散騎常侍の裴秀、黄門侍郎の鐘會等と<与>東堂に於いて講宴し,並んで文論に属し,特に禮異を加えると,謂わく裴秀を儒林丈人と為し,王沈を文籍先生と為した。
帝の性は急であり,召しだしを請うときには速やかにくることを欲し,以って望んだ職が外に在ると,特に追鋒車、虎賁五人を給わって,集會が有る毎に,輒ち奔り馳せて而して至らせるほどであった。裴秀は,裴潛之子である也。
  六月,丙午,改元した。
  姜維は鐘提に在ったため,議者の多くが以為らく姜維の力は已にして竭き,未だ更めて出づること能くしないとした。しかし安西將軍のケ艾は曰く:「洮西之敗(北)は,小失というに非ず也,士卒は彫殘し,倉廩は空虚となり,百姓は流離してしまった。
今や策を以て之を言わば,彼には乘勝之勢いが有り,我らには虚弱之實が有る,その一である也。彼上下相習,五兵犀利,我將易兵新,器仗未復,その二である也。
彼らは船を以てして行(動)しており,吾らは陸を以て軍をすすめている,その勞逸は同じでない,その三である也。狄道、隴西、南安、祁山は各おの當に守り有るべきだが,彼らは一つと為るを專らにし,我らは分かれて四つと為っている,四である也。
南安、隴西から<従>とすれば食を羌谷に因ることになるが,若し祁山に赴けば,熟麥千頃がある,之を外倉と為そうとするだろう,その五である也。賊には黠計が有る,其の來たるは必ずならん矣。」
  秋,七月,姜維は復た衆を率いて祁山に出たが,ケ艾が已にして備えを有していると聞き,乃ち回(避)することとし,董亭より<従>南安に趣いた;ケ艾は武城山に拠って以って之を拒んだ。
姜維はケ艾と<与>險を争ったものの克てなかったため,其の夜,渭(水)を渡って東へ行き,山に縁って上邽に趣いた。ケ艾はこれと<与>段谷に於いて戦い,之を大いに破った。そこでケ艾を以って鎮西將軍,都督隴右諸軍事と為した。
姜維と<与>其の鎮西大將軍の胡濟は期して上邽にて会うこととしていたが,胡濟は期を失して,至らず,故に敗れて,士卒は星散し,死者は甚だ衆かったため,蜀人は是れに由って姜維を怨んだ。
姜維は上書して謝すと,自ら貶黜することを求め;乃ち衛將軍を以て大將軍事を行うこととなった。

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