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2012年6月戦国時代396: 困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る (591) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る


1 :08/03/08 〜 最終レス :12/06/15
「日の本一の律儀者、しかし、律儀すぎるのも非常に困る」と家康に評され、
「治部が死んでは生き甲斐が無くなる」と石田三成との友誼を重んじた、
佐竹義宣を語りましょう。
<関連スレ>
常陸の最強武将 佐竹 鬼 義重
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196512813/
\●/佐竹氏を語るスレ 其の2
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/

2 :
家を任せる息子だと気苦労が絶えないが(笑)、
友としては最高の漢だと思うがどうだろう?

3 :
はいはい
終了

4 :
関ヶ原後に藩政を担うブレーンを自身の側近(梅津憲忠や渋江内膳)に
シフトさせて体制を確立させているけど、この話を扱った「雪の峠」は結構この板の住人では
呼んだ方も多いのではと思う

5 :
>>4
「雪の峠」は、今は入手困難なんだよね。

6 :
家康から隠居を申し渡された三成を佐和山まで護衛したのは佐竹勢で本当?

7 :
ま た イ左 ケケ 厨 の オ ヵ 儿 ├ ス レ ヵ`

8 :
>>6
それって結城秀康じゃなかった?
そのときのお礼に三成が秀康にあげた脇差が正宗で
「石田正宗」と言って越前家の家宝になったとか

9 :
>>8
勘違いだった。確かにら結城秀康であってる(家康の指名だった模様)。
義宣が三成を護衛したのは、武断派襲撃後から隠居までの間で、
小西や宇喜多と共同してとのことらしい。

10 :
佐竹は鹿嶋の殿様を「酒っこ飲みに来い」言うて毒殺したデレスケのゴヂャッペ

11 :
デレスケは栃木茨城福島の方言でくず野郎。ゴヂャッペは嘘つき

12 :
重複しています
こちらへ移動してください
\●/佐竹氏を語るスレ 其の2
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/

13 :
ちくらっぽ言ってんな

14 :
「もとより諸将に対して悪意は無いが、公命に背いていない治部少輪を討つのは私怨。危急を見過ごせず救援したまで」
やっぱり格好良い!

15 :
野戦指揮官としてはどうかな? さすがに親父殿にはおよばないはずだが。

16 :
>>15
義宣って野戦で指揮取る機会
大阪冬と摺上原、小田原時の忍の他にあったっけ??
家督もらってから惣無事令までの期間が短くて
野戦指揮の機会はほとんどなかったのでは?

17 :
困るほどの律義者の従兄弟は困るほどの不義理者。
本当に同じDNAが含まれてるのか?

18 :
>>15-16
そもそも初陣っていつだ?

19 :
義宣の初陣は天正13年と言われる
天正14年初頭に家督を継ぎ4月には総大将として軍勢を率い下野を転戦した
それ以後、常陸南部や下野・陸奥に出陣し北条方や伊達方の軍勢と戦いを続け
小田原の陣・奥州仕置でも佐竹洞中を率いて出兵した
その後、浅野に従い常陸の反抗勢力を討伐した

20 :
>>19
家督継いだのって天正14年だっけ?
俺の記憶では天正17だったと思うんだが…
といっても文献などで確認したわけではないので17が事実かどうかはわからないが

21 :
(豊臣)天下の六大将。

22 :
>>20
天正14年4月に初めて義宣が軍勢を率いて宇都宮氏へ後詰めした事が宇都宮国綱の書状に残されている(宇都宮家蔵文書)
また、この一連の戦いで義宣が感状を発給している(秋田採集文書)
7月には大山氏と起請文を取り交わした
ただ、天正14〜15年の書状は義重との連署のものが多く、義重が後見していた事が伺える
天正16年以降は義宣のみの文書が大半を占めるようになっている事から
天正14に家督を譲り16年までには完全に義宣へ委ねられたと見られている
佐竹家譜では富岡与一左衛門訴帖に義宣が17才で家督を継ぐとあることから
生年から見て天正14年であるとしている

23 :
>>22
なるほど、ありがとう
確かに天正14年ごろは近場でも上方でも情勢がめまぐるしく変わってたから
いきなり義宣を全面的に前に立てるのは難しかったのかもね。

24 :
弟達とは仲良かったの?

25 :
末弟以外は10歳にも満たない頃に養家に入ってしまったから兄弟の仲を感じる暇もなかったんじゃないかな?
末弟の彦次郎は年が40以上離れてるからこれはこれで弟のような気がしなかったかもしれない
佐竹関連本では子供のできなかった義宣が我が子のように可愛がった云々と書いてあるのをよく見る
実際のところはどうか知らんけど一時世継ぎに据えたのは事実のようだ

26 :
六大将…徳川、上杉、毛利、前田、島津、佐竹
と言うのだろうが、
六番目は宇喜多だろう?

27 :
朝鮮出兵時の出陣式では、佐竹は伊達政宗の後を行進している。
当時の両者の力量を端的に示している。

28 :
>>27
全体の順序をkwsk

29 :
伊達はおだてて朝鮮に送り込む気だったんだからしゃーないわ

30 :
煽てるも何も命令が出たら嫌でも海渡る事になるだろ‥

31 :
佐竹厨の特徴はやたら伊達家に対抗意識燃があるとこだね。
完全に格下なのにな

32 :
侍従止まりの佐竹が
中納言の宇喜多や織田
少将の伊達を
差し置いて豊臣六大将?

33 :
>>31
格下だと思っているのならこんなところまで来て暴れないでください。
普通にしてれば佐竹系スレは北条方の話や白河あたりの話で楽しくやれるのに
伊達の方々が来るとどうしてか人取り橋の話や石高比較の話になってしまい不毛です。
佐竹なんかよりもっと大きくて、あなた方が思う伊達と同格以上で、
かつ伊達が渡り合った相手のスレがあるならそちらへ行って存分に思いの丈をぶつけてきてください。
大崎スレとか。

34 :
>>32
「豊臣政権の六大将」が豊臣政権化のいつ頃言われていたことなのでしょうかね…
宇喜多は57万石ですから公式発表における石高としては佐竹より上。
官位も従三位の上一応秀吉の一門衆。六大将に入ってないのは確かに不思議です。
伊達が少将になったのは慶長二年。秀吉のほぼ最晩年でした。
伊達は豊臣政権化では冷遇されてる感がありますね。経緯を考えると仕方ありませんが。
逆に佐竹は実力というより三成と懇意だったということや、
立地などの物件的に厚遇されています。そういう面も加味しての六大将かもしれません。
宇喜多に関しては実に謎ですが。

35 :
単純に宇喜多は豊臣準一門(秀吉猶子)なので除外されていると思っていた

36 :
いつも自分らで突っ掛かって来て伊達に対抗意識持ってるとか言われても困るわな

37 :
そうか岐阜中納言は主筋だし、
備前中納言は身内だからランク外か
勉強になりましたm()m

38 :
伊達に対して格上・格下という感情は無かったんじゃないかなあ。
というのも身内だからさ。身内親族にそんな感情持たないだろう。普通は。
一蓮托生みたいなもんだもん。
それだけに政宗が佐竹領を攻め出したときは
心底「なんでやねん!!」と思っただろうな。水戸の人だけども大阪弁で。
それくらいの行為。まさに寝耳に水の行為だったろう。

39 :
さすがにそこまでは甘くないかと
周囲はみんな親戚みたいなものだし
佐竹の宿敵である小田や那須だって親類
伊達あたりは遠方だから大して関心がなかっただけで
お互い激しい敵意を感じ始めたのは天正15年の葦名氏後継問題からだろう
それも豊臣氏の東国進出により3年程で終った

40 :
南陸問題は複雑怪奇、て混沌状況だったからね
血縁があるからこそ紛争の種になる
大体、佐竹は身内同士の争いで中世の大半を過ごしたようなものだ
それを克服したからこそ、戦国期には一門の分裂だけは起きなかったが
義宣の代にも大掾一族の謀殺、秋田での老臣粛清等々やっとるね

41 :
血縁というか義宣の場合は長男で()多分姉がいるが)本家だからな。
秋田で兄弟くわせなあかんからね。
戦争より内政を取った場合・内政でもうけたお金で食べていこうと思った場合
久保田城を選ぶわな。平野だしね。そのいざこざで粛清が。
まあ宿老粛清はさすがに問題だが、
将来を考えれば久保田選ぶわな。律義者の場合は、ここらへんのビジョンがはっきりしていたな。
兄弟改易されて戻ってきているわけだし、一族の長としてこれからずっと皆を食わせなならん。
だから武器は捨てよう、秋田で開拓者となろう。という・・・
まあ、大阪の陣にはもちろん参加はしたけどね。基本は武士だしね。
ただ、リチギーがそこまで皆を思っても、芦名の残党は最終的に迎合できなかったみたいだね。
一度は常陸で復興したものの移転後は角館。そこでまた復興を目論むという。
やはり他家だからな。居心地悪かったのか復興だけは忘れられなかったのか・・・
とにかくいろいろ絡んでいるので難しい。

42 :
>関東、南奥州の盟主にして武田家無き後は源氏之頭領!
こんな事誰も言ってないし書いてもない
>若年に家督を継ぎ、後北条の関東侵攻を阻止に立ち上がり、仙道方面では伊達政宗を圧倒!
仙道方面で圧倒してたのは政宗
どうせ煽るなら北条も圧倒と書けばいいのに何で伊達だけ?
>武田信玄、上杉謙信と対等に渡り合いあった戦国最強武将佐竹義重の武勇伝を語り合おうではかいか!!
実際にやり合った北条を差し置いて、何故一度も戦った事もない上杉謙信と武田信玄?
結論 >>1=北条厨

43 :
なんか、、、誤爆乙

44 :
佐竹には実弟の芦名・岩城・多賀谷の三大名や相馬が寄騎に付けられた。
佐竹+寄騎大名の石高は、宇喜多や伊達を凌いでいる事実がポイント。

45 :
>>44
相馬と佐竹って血縁関係があった?
地理的に近く懇意だから寄騎になっただけ?

46 :
相馬利胤の最初の妻が芦名氏だし、東北の大名なんてほとんどが何かしらの形で親族になっている。
また、相馬氏の改易が決まりかけたころ、義宣が「うちらの領知のうち一万石わけるけど来る?」と
呼びかけている。ちなみにこの両家は江戸時代も互いに養子を迎えるなどしており、結構親密だよ。

47 :
>>46
細かい解説、感謝です。
「一万石あげるから〜」ってのも凄い話ですね。
それを断って自力で本領安堵を勝ち取った相馬も凄いですが。

48 :
>>47
たしか相馬は伊達とも仲良くて、
本領安堵には伊達の裏添えがあったとかどうとか
相馬は田村とかをバリバリ攻撃してる印象が強いが
もしかしたらみんなに好かれるタイプだったのかもしれん。

49 :
まあ昔は相馬も佐竹も一貫して北朝だったからな
しかも周りを結城伊達北畠に囲まれて

50 :
相馬の場合は、元々は伊達家から嫁を貰っているから。
大乱ではそういういきさつで種宗側について以来、延々と揉めていた。
ちなみにそのあと何十年立ち、政宗と和解し、その後はだいぶ伊達派になっていた。
それから数年たった頃、伊達家側に寄り出した田村家と揉めて、また伊達家と戦う羽目に。
その後、政宗の人材スカウト戦法で骨抜きにされ、滅ぼされる寸前に。
でも小田原参陣で生きながらえたが、徳川の世で佐竹派とみなされ改易。
というのも16代の娘が佐竹貞隆の妻なので、佐竹派扱いになっていた為。
その後大名復帰。新井白石の本で、政宗の口ぞえで大名復帰ということになっているが、
これは謎。むしろ政宗は相馬領はほしいだろうしな。そこまで口ぞえしないと思う。
とはいえその前年に上杉家に共同で攻めたりしているからありうるかも知れん。謎。

51 :
地政学上(茨城県)面白い位置なってしまってたよね。

52 :
愛姫の母親の実家だし複雑なんだよ

53 :
>>51
茨城県が面白い位置って?

54 :
徳川期には徳川から
姓も名も貰えなかった
国持ちは山内と佐竹?

55 :
>>54
山内二代目忠義は秀忠からの偏諱と松平姓を賜ったはず…。山内三代目の忠豊の「忠」は秀忠からの偏諱かどうかは判りません…。

56 :
なんかもぅ徳川より豊臣の武将というイメージが強いからね
そんな経緯でもらえなかったんじゃ?という単純な話ではさすがに無いか

57 :
確か佐竹の庶子家で松平氏がいたはず。
そっちの方が徳川(松平)氏より古い…。
佐竹に松平姓を与えるって事は、佐竹本宗家に佐竹分家の姓を名乗れって事と同じになる。
佐竹は平安時代末からの清和源氏の名門だから庶子家も沢山…。そのなかに松平という庶子家がたまたまあった。
茨城県常陸太田市松平(旧久慈郡水府村松平)

58 :
>>41
芦名義廣(盛重→義勝)も弟の岩城貞隆の様に江戸で浪人して再び世に出ようとしなかったのが悔やまれる。
義宣が徳川への実質的な証人として二人は要らないと思ったのか…?
義勝が芦名の縁を頼り天海に取り成しを願い、更に大坂の陣に参加してれば…。(天海が芦名一族の出身と云うのが本当なら)
或いは?

59 :
>>58
> 義勝が芦名の縁を頼り天海に取り成しを願い、更に大坂の陣に参加してれば…。(天海が芦名一族の出身と云うのが本当なら)
> 或いは?
味方討ちの失態と娘婿忠輝の無礼を咎めて伊達を改易、仙台は芦名60万石の城下として栄えました。
幕末にも、宗家佐竹氏の助言をよく容れて会津征討に活躍し明治政府でも仙台藩出身者は重く用いられています。
もし、伊達家がその後も仙台藩主であったなら、こうはいかなかったとする識者の意見も多いです。

60 :
あははは
芦名が本家筋より大封を得るのか。
そんじゃ本家は忠輝の後釜で越後高田75万石!
秀忠「大御所様、忠輝の後は律儀な右京大夫で如何でしょうか?」
家康「ふむ。悪く無いな…。しかし上杉がねたもうぞ?」
秀忠「右京大夫は関ヶ原で西軍についた訳でもありますまい?」
家康「まあな。ちと灸を据え過ぎたか…。将軍家の善き様にせい」
秀忠「有り難き幸せに御座居ます」

61 :
関ヶ原後に領地を没収されることになった相馬を、新領・出羽の1万石で引き取ろうとしたのはいい話だな。

62 :
親父の義重は義広の白川入嗣の際、白川義親の婿養子(大関)晴増がとばっちりで廃嫡となったのを申し訳なく思い常陸で5万石を与え客将として遇した…って逸話を思い出した。
親子揃って義理堅いなぁ。

63 :
ところが白河結城氏は伊達家一門になってしまったとさ

64 :
放浪の末に…だったか?
秀吉への贈り物を政宗に託したが改易…
佐竹を裏切って伊達に鞍替えした大名家は秀吉に潰されてるな…
石川昭光とかも。

65 :
豊臣政権下で佐竹氏は優遇され佐竹与党の諸候は生き残れたが、唯一宇都宮氏の改易は残念だったと思う。
与力しかも従兄弟の宇都宮国綱が改易…。
佐竹氏も連座で危なかったとか…。
この危機を三成のお陰で助かった…って事だが、具体的に三成はどの様な働きをしたのか?
又、宇都宮改易の真実とは?
浅野からの養子を断わったからとか、検地(石高)に不正があったとか…。
本当だろうか?

66 :
>>65
惣無事令違反。
国綱と近臣らは浅野養子を認める方向で動いていたらしいが、芳賀高武がこれに反対。
勝手に養子の件は無理と三成に報告。養子肯定派のひとり北条何某を四条河原で斬首。
そのうえ下野に戻って肯定派の今泉高光の上三川城を攻めた。思いっきり私闘。
そんで大名の国綱が責任を取らされて改易。
石高は多分全く関係ないし、養子の件も間接的な原因であって直接の理由ではない。
おそらくこういう非常に恥ずかしいことから改易されたため、
それを糊塗するために石高とか養子とかが理由だと後付けされたのだと思う。

67 :
>>66
サンクス!
しかし惣無事令は九州や関東奥羽の地域限定…。
関東奥羽惣無事令は1587年発令で、1590年の小田原征伐そして奥羽仕置での天下統一後で法令自体の目的は達せられたはず。
宇都宮改易は1597年、発令から10年後…。
それでも惣無事令は廃止されず生きてたのか?
秀吉が出した切支丹禁令が徳川幕府成立後再び持ち出されようなものか?
それにしても芳賀高武、よく切腹や斬首させられなかったな。不思議。

68 :
宇都宮と言えば、結城氏に養子として入ってた朝勝を佐竹が引き取ってるね。
同族ながら葦名や岩城や多賀谷、以外なら宇都宮や辞退されたけど相馬と盛り沢山。

69 :
芦名・岩城・多賀谷は兄弟だし、(宇都宮)結城朝勝は従兄弟。
相馬利胤(三胤)の嫁は芦名出身で親戚。
秋田の佐竹家は北関東・南奥の名家やその家臣が盛沢山。
本当に義理堅いよ、義宣。

70 :
佐竹義宣は現在の県庁所在地を二つ作った、都市計画の達人…と、何かで読んだけど。
もっと評価されても良いのでは?

71 :
>>66さんへ
>>67さんは一応「サンクス!」と答えているが、レス自体は消化不良っぽい気がする。僕もなんか、もうちょい解説が欲しいな。
出典とか出して、「その後」も含めて詳細をレスして頂ければ幸いです。
その後の佐竹氏。
その後の宇都宮氏(一族含む)
また、その時の秀吉、家康、三成、長吉等々。
あるいは、景勝や秀行。

72 :
あんた、てどお氏だね(゚д゚)9m
それは兎も角、この「宇都宮氏改易事件は芳賀高武の私闘のせいだった説」は実証できない。
つまりオイラの推測に過ぎないのだ。というのもそれに関する史料がなく、
よく探せば見つかるのかもしれないけど(あれば実証されてるので多分無いんだろう)、
オイラもめんどくさいのでそこまではしたくないからなのだ。
じゃあ何でそう思ったのか、ということを説明する。
まず宇都宮氏改易の原因とされるものには概ね次のようなものがある。
1.初めの検地で18万石だったにも関わらず、あとの太閤検地で39万石も出てきたので、
石高を詐称していると指摘されたため。
2.浅野長重が養子に入ることを断ったため。
3.(2)をしたために長重の不興を買い、(1)であると讒言されたため。
まず(1)だが、これは有り得ない。これは他のスレでもオイラが何度も言っていることだけど、
初めの検地は差出検地なので国人や家臣からの申告から導き出された数字であり、
過小に申告されるのは当り前だからだ。秀吉が検地をしたのは関東が初めてじゃない。
長浜時代からきちんと官僚たちが実測した検地を行っていて、実測の太閤検地を行えば
必ず差出のときより大きな数字が出てくるのは分かり過ぎるほど分かりきっていた事なのだ。
秀吉は以前高野山金剛峯寺を検地したことがあって、その時には差出から実測の検地で
17倍もの違いが出てきた。しかし金剛峯寺は刀狩を厳命されただけだった。
従って、たかだか18万→39万で2.2倍ほどの宇都宮が、それが原因で改易されるならば、
「公儀豊臣」が成り立たず、(3)も含めるならば、全くの私怨で裁定されたことになる。
もちろんそういうことがあったかもしれないことを否定するわけじゃないが、
オイラとしてはそう考えることはあまりにも馬鹿馬鹿しいので(だって私怨で公儀が
捻じ曲げられることがあるというなら、もはや法令なんて必要ないし、何でもありじゃないか)、
この説は消さざるを得ないのだ。当然(3)も無くなる。
また太閤検地は文禄四年(1595)であり、宇都宮改易は慶長二年(1597)。
なんで石高詐称が発覚してから改易まで二年も要するのかも説明できない。
(2)は所謂謀略説で、その後浅野長重は(3)を行ったとされる。
(3)は上記のことから無いので(2)だけ見る。
実は宇都宮国綱は長重が養子に入ることを一度了承している。
しかしこのことは宇都宮の家宰にあたる芳賀高武を通さず、国綱が北条何某と今泉高光の
間で決めたことであり、その為に高武は激怒して、養子の件を破棄することを石田三成に
告げて、北条を京都の四条河原で斬首、次いで国許に逃げた今泉を追って下野に帰り、
慶長二年(1597)五月頃に今泉の居城上三川城を攻め高光を自刃させた。
以上のことはぶっちゃけ史料を見たわけじゃなく、ネット上から拾った情報だが、
別に否定する根拠も無いので実際にあったことなんだろう。多分上三川町市あたりでも
見ればそれなりの史料付きで載っていることだと思われる。
さてこれが事実だとすると、仮に(2)が有り得たとしても、それ以前の問題となってしまう。

73 :
>>67氏によれば惣無事令(関東奥羽も含めて)の目的はそれ以前に達成された
ということだが、惣無事(私闘禁止)というのは常に維持されるべきものだ。
では小田原征伐、奥州仕置以降は私闘をしてもいいのかという風には当然ならない。
即ちそれ以降も当然ながら惣無事であって、態々別の法令を以って惣無事令に変える
必要も無いので、常に惣無事は生きていると見るのが自然。
結果的に秀吉の死を以って、事実上惣無事令は棚上げされるけど(家康も三成もどちらも
「公儀豊臣」を掲げたに違いないので、関が原ではどっちも私闘ではないと言い張った)。
この宇都宮改易について佐竹義宣は父の義重に書状を送っている。
「宇都宮殿御不奉公有之に付而」と改易の理由を詳しくは語っていないが、
「就之我等身上などへも上様より仰出之儀も御座候」と佐竹にも秀吉から
何らかの咎があるのではないかと言われたというようなことが書かれている。
しかし三成に執り成してもらって「身上相続候て満足仕候」となった。
だが「猶々宇都宮欠所に付而、宮之荷物一駄も我等分国中江相透申候はば、
可為曲事由」「宮之荷物一たんもとをし不申様に可被仰付候事肝要に候、
境目江は涯分申付候」ともあり、必ずしも佐竹が潔白であるとは
認識されていない様にもとれる。
仮に(2)が原因だとしたら、佐竹が上記の書状のようなことを言われることは
無いはずだ。浅野長重養子のことは純粋に宇都宮家中のことであって、佐竹には
何の関り合いも無い(もし佐竹に関りがあるとすれば、秀吉は佐竹にも長重のことを
宇都宮に取り成すように連絡した場合だけだ。無論そんな事実は今のところ無い)。
しかし芳賀高武の惣無事令違反ならそうはいかない。
芳賀高武は佐竹義宣の従兄弟であって、義重の甥にも当たる。
当然国綱も同然で、佐竹にも親族としての多少の監督責任が発生すると
見られても不思議ではない。つまり「汎佐竹親族」間の徹底した一族管理体制が
成されていないと見られたということだ(逆に言えば、秀吉は佐竹にまで疑念を向けることに
よってこれ以後同様な事件を佐竹家中では絶対に起こさないようにと釘をさしたとも取れる)。
以上ということです。
オイラから見れば、(1)(2)(3)のどれよりも、芳賀高武が馬鹿な行動を
咎められて改易に至ったというほうが、シンプルで、判りやすく、不明な点も一切無いので、
そう考えるわけです。態々別の説を立てて浅野の陰謀だの何だのという必要もないし。
問題は史料から実証できないということだけで(´ω`)
まあ結局は信じるか信じないかという話になってしまうわけだけど。

74 :
佐竹は宇都宮や結城みたいにならなくて良かったね。

75 :
宇都宮家中の内紛を惣無事令違反と見るか、国綱の家政不行き届きと見るか…。
惣無事令違反は大名同士の私戦を禁じた法令…で、大名家家中の内紛(闘争)での適用は大袈裟過ぎと思われるのですが…。

76 :
>>75
恣意的な運用や適用はよくあること。

77 :
>>76
恣意的…誰のですか?
親佐竹の宇都宮家改易は、対徳川包囲網を綻ばせ…親徳川の蒲生(減転封されたとはいえ)を宇都宮に封じた点では失策と思われ。
蒲生の後釜に上杉を会津に転封して奥羽の鎮将として伊達・最上〜徳川ラインを断つ…としても、飛び地だらけの上杉は仮想敵国が多すぎた。
これも失策ではないか…と思われ。
この為、後の上杉征伐で宇都宮や小山が一時本営となり義宣が身動き取れなくなった。

78 :
事前に電話予約で先着50人、受講料1000円です
日程はこんな感じ
第1回:平成20年5月17日(土)10:00〜11:30 文禄の役と佐竹義宣@
第2回:平成20年6月28日(土)10:00〜11:30 文禄の役と佐竹義宣A
第3回:平成20年7月19日(土)10:00〜11:30 佐竹義宣肖像画の謎
↓連絡先などはこちらまで
ttp://www.iju-join.jp/prefectures/ibaraki/208000/k/721/
こういうイベントを増やしていって
少しずつ太田辺りでも佐竹家が見直されるようになってくるといいね

79 :
義宣は西軍に通じてたせいで秋田に飛ばされた訳だけど
結果的には良かったのかもしれないな
関東や近畿の大大名なんて、殆ど徳川三代で改易の憂目に遭ってるし
東軍について常陸を安堵されても結局潰されたと思う
明治の世で侯爵にまで出世する佐竹家はなかっただろう

80 :
あ、佐竹氏全体の事の話題は別スレがあるのか
移動します

81 :
佐竹高校

82 :
佐竹って来年大河に出るの

83 :
漫画に出てきた軍師の人は実話?

84 :
大河には出るでしょう
上杉・佐竹は長年の盟友 義宣は景勝大好きのはずですが

85 :
大好きってなんじゃい。
江戸に近い常陸に54万石持つ佐竹は、徳川にとって脅威だったと言われることがあるが、
北条政権を事実上継承した徳川は、むしろより佐竹にとって脅威じゃい。
関が原以後の転封は徳川視点で見られることがあるが、
純粋に佐竹の視点から見れば、徳川の存在は北条よりもでかかったんじゃい。
豊臣による天下の元で戦場は封鎖されていたから、秀吉生存前は大して問題ではなかったが、
秀吉が死んだあと、上杉佐竹vs徳川という抗争が始まったのは、
小田原討伐以前の状況の再現じゃい。
徳川が佐竹を関東から追い出して、関八州支配するのは全く当然のことで、
佐竹が上杉と徳川に対抗したのも歴史的に当然のことなんじゃい。

86 :
よく分からない??
だから 佐竹と上杉はいい関係なんでしょ?
だから 大河出るかって?って書き込みに、出るって書いただけだけど?
大好きが気に入らなかった?
小説では 義宣が景勝に兄事してたって感じで書いてあったから書いただけですよ。

87 :
佐竹も関東にいる限りは危険視されてどうせ大減封や遠国飛ばしは間違いないんだから
野心をもって戦ってから減封&遠国飛ばしされれば良かったものを
戦わずして飛ばされた情けなさだから歴史的にはマイナーキャラクターになっちまった。
俺は佐竹好きなんで残念で仕方がない。
PHPの佐竹義宣なんて「退却中の内府に佐竹得意の追い討ちをかけてやる!」なんてカッコいい事を書いてあったから思わず買っちまったしw
関ヶ原から少し経った辺りで、「島津も交渉長引いてるがやはり交渉は粘りだな」
と常陸一国安堵になりそうだと楽観してる義宣がなかなかお坊ちゃんで微笑ましいが。

88 :
>>83
漫画…ってのは『雪の峠』のこと?
梶原政景なら実在した人物だよ。

89 :
巨人の星の人ですね。わかります。

90 :
>>79
マルチ!
西軍に通じた?
西軍に通じたと見なされた…か、上杉に通じた…の方が、まあ妥当だろう。
事実上は中立で、心は上杉にあり…家名存続の為、徳川に使者を送った。
その後東義久に軍勢を持たせ秀忠のもとへ送った事実を考慮すれば、積極的で無いにしろ徳川方(東軍)とも言えるだろう。

91 :
>>89
きゃつはチョン。>>88の言う梶原とは別人じゃ!
家康自身はいつから「吾妻鏡」読み始めたのだろうか?
秀吉に「関東はぬしにやる」とか言われてからだろうか?
小田原北条氏とは懇意にしていた家康としては、京都の魅力もさることながら、関東への憧憬もあったのでは?
秀吉が京を取るなら、こっちは関東でかまわぬ、むしろ頼朝・後北条氏がそうであったように、自分は関東で覇を唱える所存だったのでは。
で、吾妻鏡で佐竹氏の記述があったのを見かける。
源平期には、平家方として頼朝陣営の脅威であった佐竹氏。
佐竹の存在ゆえ、頼朝は京へ上洛するのを躊躇ったとまで書かれている。
家康が関東を一手に握るには、佐竹の存在は目の上のこぶ。

92 :
>87
結果論だよな
あからさまに敵対して負けたら滅亡って普通は考えるじゃん?
家康と上杉にハシゴ外されたからお手上げだろ

93 :
仮に飛ばされなかったとしたら・・・。
家光の時代には源氏正当性論争が起き、後年の由比正雪が正統源氏として佐竹を反徳川の看板にしていたのでは?と妄想。

94 :
>>93
佐竹にとってのハッピーエンドがまったく思いつかないのはなぜだ?

95 :
佐竹がハッピーエンドを迎えるには関東に政権がない事が条件だな
清盛、尊氏、秀吉ら西国政権の時は隆盛した
頼朝、家康ら東国政権の時は駆逐された
なにも難しい事はない
それだけの話しだ

96 :
義宣の肖像画を見て気になった事なんですが、どう見ても左足が無いように思える。
右の草摺と比べて、左の草摺は明らかに太腿を考慮しておらず、威した糸も鋭角に落ちている。
鎧櫃の上で足を折っているなら、当然草摺の隙間から見えるべき左の脛当が無い。
また、左の袴は鎧櫃の角で明確にたわんでおり、袴の中に何も無い事が見受けられる。
佐竹義宣が左足を欠損したという記録は無く、また伊達政宗の彫像などの例を考えると、
こういう見え方のする肖像画を欠損の事実無しに残す事も考え難い。
この肖像画って、本当に義宣を描いた物なんでしょうか?

97 :
顔も見えないし誰とでも言えそうな肖像画だ

98 :
学者には、全武将の肖像画を、一度は洗いなおす事を考えて欲しいわ。マジで。

99 :
確かによくみてみると片足だな
義宣と判断できる要素もよくわからない
兜が義宣の物と伝わるものに似てるような気はするけど
そういや太田市梅津会館でやってる今週土曜の佐竹義宣講座
第三回はちょうど
「佐竹義宣肖像画の謎」
だな
誰かネラーの参加者いないかな

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