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2012年6月戦国時代4: 武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part3 (307)
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武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part3
- 1 :12/04/05 〜 最終レス :12/06/20
- 実は信玄が無能だったというのは言わないお約束
※前スレ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1327681172/
- 2 :
- >>1
>織田アンチ捏造のためだけに単発スレ立てたりと好き放題。
>織田アンチ捏造のためだけに単発スレ立てたりと好き放題。
>織田アンチ捏造のためだけに単発スレ立てたりと好き放題。
お ま え が ゆ う な w w w
【みんなの】だがを見守るスレ【アイドル?】
280 :人間七七四年[sage]:2012/04/05(木) 19:15:59.31 ID:Ap9TDcCh
こいつの長文コピペでかなりスレが容量食われているな。
織田アンチ捏造のためだけに単発スレ立てたりと好き放題。
なんでアク禁にされないの? このレベルでも2ch的にはセーフ?
- 3 :
- 前スレ
武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part2
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1327681172/
- 4 :
- 1574年夏の勝頼と1585年ごろの家康の状況って似ているのかな?
・局地戦では勝利(勝頼は明智・高天神、徳川は小牧長久手)
・しかし同じ敵(勝頼の場合は織田、家康の場合は羽柴)と戦っている勢力は降伏or滅亡(勝頼の場合浅井・朝倉・伊勢一向一揆。徳川の場合は長宗我部・佐々・信雄)し、差がどんどん広がっていく
- 5 :
- 長篠城を攻囲していたときに、奥平の家臣・鳥居を磔にしたのは、やはり勝頼の狭量さを物語るものだと思います。
あんなことをすれば、山家三方衆のみならず、徳川方の恨みを昂進させるだけ
- 6 :
- のぶやぼ厨涙目w
- 7 :
- >>5
おいおい戦国時代の戦場に命の尊さなんてねーぞw
NHK大河の見すぎだろw
- 8 :
- 聞クトコロニヨルト、コノ武田勝頼トイウ人物ハ、信玄ノ側室ノ子デアリマシタガ、甲斐ノ産マレデハナク、武田軍団ヲ統率スルノニハ、適当ナ人物デハアリマセンデシタ。
マタ、少々強引ナトコロトアッタヨウデス。
- 9 :
- 勝頼は戦闘指揮官としては信玄に劣らなかったかもしれないが行政手腕は信玄に遠く及ばなかったと思う
- 10 :
- たまに勝頼は信玄より優秀って言う奴いるけどなんなの?
>>9も言うように戦闘指揮官としてはともかくそれ以外はどう見ても信玄とは比較にならない。
まあ勝頼の世間での評価は低すぎるとは思うが父親には劣るということは否めない。
- 11 :
- まあでも勝頼は秀忠や景勝や信雄や氏真に比べれば優秀だったと思う
信忠と勝頼が同じくらいか?
- 12 :
- 家督継いだ時点でクソゲー人生なのには同情する
- 13 :
- のぶやぼ厨涙目w
- 14 :
- 信忠が景勝や秀忠より上とかワロタw
信康>景勝>>勝頼>秀忠>信雄、輝元>>>>>>>信忠(笑)
- 15 :
- 勝頼が信玄以上とか言われるのは信玄が落とせなかった高天神城落としたからなのか?
あと信忠は他の二代目に比べて影が薄いから評価が難しい
- 16 :
- 天正2年1/9付けの謙信→榊原康政宛てで
謙信は勝頼を経略名之下ニ候と酷評してるから
勝頼なんてただのバカでしょ。
そんな勝頼さんは2/6に丹波の赤鬼さんに、
雪解けしたら早速、信長を攻めるよ!と書状を出してる。
ちなみに本隊は雪解け待ちのようだが、
先鋒はすでに出陣しててちょうどこの時期には
明智城を陥落させている。さらに櫛原城や神篦城を攻略している。
尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
それもそのはず高天神城が6月に落城するのに
わざと遅く援軍へ向かうヘタレぶりを晒す信長。
信長は謙信からも責められていたようで、6/29には信濃出陣の約束を破った言い分けの弁解までしてる。
その際に信玄の掟を守って謀略があるので勝頼は油断できないと泣き言まで言う始末w
11/4の佐野氏宛て書状では武田軍は家康がいる浜松城下までやってきて放火し、掛川や久野に付け城を構築完成などやりたい放題。
積雪で信濃国境は封鎖された閏11/9になって、
のこのこと三河で鷹狩しに行くよなどと家康監視目的で
来援する信長を歓待すると申し出る家康の心中は複雑だよな。
少ない兵を引き連れた勝頼が完全に織田をナメくさって長篠の戦いで無謀な突撃をかましたのがよくわかる。
- 17 :
- 6万の大軍を率いていたにもかかわらずついぞ1万の軍しかいなかった織田信長を滅ぼせなかった武田信玄。
絶対勝てるという状況を放棄したんだからそんな当主は無能扱いされて当然。
- 18 :
- 武田信玄無能エピソード
・織田信長討滅の檄を足利義昭から受け取るも「出家して戦争の仕方を忘れた」と取り合わなかった。
・尋憲記(だがのレスより)には武田軍6万、織田は足利征伐時に総兵力1万と圧倒的な差
・徳川家康を三方が原で徹底していじめぬくも、信玄は「浜松城はイラネ」と家康の主要拠点を素通り
・東美濃、北美濃を調略済み、本願寺との連携を築いて信長を追い詰める(いずれもだがのレスより)も、信玄は2月の真冬に小さな山城を1ヶ月近く包囲という自殺行為を実践。
・無理が祟って信玄は信濃駒場で死亡。死後お家は余裕をこいた信長家康によって滅ぼされる。
- 19 :
- >>15
やっぱり高天神なのかね?
しかしそれだけで信玄より優秀ってどっからそうなるんだよ・・・・・
- 20 :
- 美濃攻略に11年もかけてるあまりのgdgdぶりに対して、
将軍の権威の光背を受けてからの別人のような版図の急拡大ぶり。
いかに将軍を擁立し京を押さえて公家や朝廷を敬うことが統治の正当性という巨大なパワーを生むかが理解できる。
そして増長してその力の源泉を自らの神性に由来するのではないかと誤解するや高転びに転落し織田自滅・・・
幼少の家康が織田家の人質にやってくる伏線と言い
信長が志賀の陣で朝倉に土下座してから半年後に毛利元就が死去してて運が良いよな〜。
もし元就が生きていて信玄の西上が開始されてたらフルボッコ瞬殺されてたな。
つか浅井軍を少ない手勢で長期に渡り押さえていた秀吉のような神がいて良かったよな。
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
史料から、信玄軍の強盛振りと徳川の累卵が如き危うさを伺えるね
- 21 :
- 戦国時代を平定した秀吉
なんでもかんでも秀吉の業績はすべて信長が脳内で構想していたと
バカみたいに主張する織田チョンの歪曲を糾して
秀吉を正当に評価しよう。
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/l50
- 22 :
- >>19
あれはほら、代替わりで下手をすればほころびが出そうな家中に対して
勝頼は有能だぞ、信頼に値するぞっていう宣伝材料だから
せめて信玄が生きてるうちに徳川を滅ぼすなり服属させるなりできてればなあ
- 23 :
- それができなかったのは信玄が無能だから。
浜松城を抑えることよりも小さな山城である野田城を1ヶ月かけて包囲することが重要だと考えるくらいの
戦略性のなさ。こんな無能当主を2回も水面下で支えた武田家臣達の苦労は計り知れない
- 24 :
- 織田がいる以上無理。
信玄万歳のためなら捏造も辞さず、嫡子や信玄側近の一部さえ貶めるのを辞さない軍鑑ですら、
「信長が大軍で来て負けて、信玄の名誉に傷ついたら大変だから」と浜松攻めを辞めた事にしている。
- 25 :
- 軍鑑を一次史料だと誤認して
またまた無知の生き恥を晒す織田厨バカ杉w
- 26 :
- 信玄公の名誉ある発言をした軍鑑の記述は正しい
織田のヨイショをした軍鑑の記述は捏造
毎度おなじみダブスタだがの無知思想w
- 27 :
- 武田領は略奪で食ってたから、戦略性云々以前に狩場があるかどうか、だろう。
民衆の離散が多く、従軍させた兵士も農繁期だからと勝手に帰るのが常態。
これに国人連合体という要素もからんで、一貫した戦略性が最後まで取れないって事に。
- 28 :
- >>27
いつの年代の話をしているのか
ソース付きで説明してね。
- 29 :
- 同盟破りの騙まし討ちを無差別にやりまくって、危険招いて信長に泣きつく→その信長相手にも騙まし討ち敢行。
これらの信玄の行動は信玄個人の不義理、というより環境のせいと申すか。
- 30 :
- 何回論破されても同じ事しか言わないな
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328973112/l50#tag587
- 31 :
- 【みんなの】だがを見守るスレ【アイドル?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328312352/
武田関連スレはこいつに注意。
間違いや捏造指摘すると返ってムキになって荒らすという……。
- 32 :
- 百姓や軍役拒否の兵の離散・脱走を防げ、逃げた先の主人に断って取り返せって書状、信玄〜勝頼期問わず出ているからな。
農繁期だからって勝手に陣から帰るなって叱責も。
これが元から貧しすぎるせいか、それとも重税・軍役の結果かはわからんが。
- 33 :
- >>31
武田に限らず間違いを指摘されたらブチ切れて荒らしまわす最低最悪の害虫
- 34 :
- >>29
そのせいで信長にとって武田は泣きついてきた純真な同盟者から
隙あらば自分に噛みついて倒そうとする狂犬という立場になった
結局このせいで後々勝頼が亡きついても信長は心を鬼にして無視した
- 35 :
- 長篠合戦前後は織田側からも和平交渉したみたいだが武田は拒絶。
二次包囲網後は周辺状況の悪化を鑑み武田側から土下座外交。当然拒絶され滅亡へ…。
- 36 :
- 武田は禁忌の腸繰矢や緩鏃など非人道的な武器を平然と利用してたんだから恨まれるよなあ。
内輪でも貧しさからだろうけど馬糞汁を飲んだりしてたんで、エイリアンのように思われて講和交渉も
進展しなかったんだと思う。
- 37 :
- 信玄が欲しがってたのは豊かな領地だろう。
ところが、その豊かな領地である駿河を恥も外聞もなく分捕ったはいいが、
家臣に配慮して直接支配がろくにできない有様。
武田本家は軍事行動のためカツカツなのに、駿河の要地支配した穴山はかなり豊かに。
このあたりの一門衆(と、いっても穴山氏は信虎の代に服属させた、ある意味縁の浅い同盟者に過ぎない説もあるんだが)統制も、武田が弱体化した一員だろう。
- 38 :
- っというか徳川と協力しないと分捕れないから情けない
伊達なら丸々強欲に今川領奪うだろう。北条には土下座するけど。
- 39 :
- またソース皆無のデタラメ連打かw
穴山は信玄から駿河国庵原郡興津領を預けられていただけだし。
しかもどこを預けられたかも知らんくせに
要地とか言っちゃってw幼稚園児並みのレスしかできん可哀想な織田厨w
- 40 :
- 武田ってながしの以前には既に弱体化しつつあったんじゃないのか。
馬場やら山県やら高齢が主力に居座ってたわけで世代交代失敗だろう。
ながしの以後も秋山くらいだろ?善戦したのはさ。
仁科に至っては1日で落城とか。
所詮地方の強豪の域を出ず、徳川には数的優位でも兵力の少ない上杉に苦戦、織田には完敗のレベル。
- 41 :
- のぶやぼ厨涙目w
- 42 :
- 武田陣営総崩れで士気もガタガタ
きっと史料に書かれてなくても寝返りや兵の逃亡もあったに違いない
何せ浅間山噴火&領国疲弊による混乱・寝返りの連鎖中
他にまともに迎撃しようとする連中なし
こんな圧倒的有利な状況で武田で唯一抗戦した仁科1000以下に50〜60倍の兵力比でもって絶対的に兵力比が物をいう城外戦で
大損害だし一門織田信家討ち取られ、普通なら10分程度で終わりそうな戦闘に最低で見積もって4時間以上も戦われた雑魚信忠
- 43 :
- 武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
- 44 :
- 残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは
武田優位は揺るいでないから
信長は結局、
信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより
長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている)
本願寺への義理も充分に果たしたし
ここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。
そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が
勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。
しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。
武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。
長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。
勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに
撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった
武田侵攻のときといい、勝頼にビビリまくりなのが信長
- 45 :
- 勝ち戦ではネズミも虎になり、負け戦では虎もネズミになるもの。
〜の兵が強い、だのの風聞は実際にはガセ。
まず状況で決まるよ。
- 46 :
- 長篠の戦いの直前の勝頼は小牧長久手後の家康と似たような状況か?
・局地戦では勝利(勝頼は明智・高天神、徳川は小牧長久手)
・しかし同じ敵(勝頼の場合は織田、家康の場合は羽柴)と戦っている勢力は降伏or滅亡(勝頼の場合浅井・朝倉・伊勢一向一揆。徳川の場合は長宗我部・佐々・信雄)し、差がどんどん広がっていく
- 47 :
- つか武田は脇役相手(三方が原での徳川、上村合戦の飯羽間遠山)にしか勝利していないから。
織田家中軸が出てくる長篠以降は長篠、岩村、高遠と全てボロ負け。
悔し紛れに「歌になったー」とかこき下ろしているだけで、実態は全てボロ負け。
これ以上ボロ負けという言葉が似合わないくらいボロ負けでもはや戦争の体すらしていないのが後期武田
- 48 :
- 長篠の戦い
武田勝頼が離反した奥平貞能、信昌を討伐するために進軍。大岡弥四郎、石川春重ら松平信康付家老の内通騒ぎは天正三年の春で
当然のごとく武田勝頼が長篠へ向かった時期と異なる。織田信長が出てきたことに勝頼は喜び、
「これで信長と一戦交えられる」と大喜びするが織田信長は細川幽斎に頼んでいた玉薬、鉄砲放の招集を5月15日付で賞し、
5月20日に三河の戦況を伝え「武田なんか根切りにしてやるよ」と意気込む。
本戦当日武田方は見事信長の罠にはまり、山県兵部、内藤修理、馬場、土屋、原、真田兄弟、三枝(山県娘婿)、小幡、望月ら数多くの将を失う大敗北を喫する。
勝頼は命からがら逃げ延びてズタボロの状態で高遠城に入城する。
岩村城攻防
美濃遠山氏の支配を離れて武田領となっていた岩村城を1575年11月に織田城介信忠が攻める。
城主の秋山伯耆は織田軍の布陣する水精山に夜襲をかけるが河尻与兵衛、毛利河内らの手で撃退。
秋山は和議を申し入れ自ら少人数で出てきたところを信長は捕縛させ磔に処する。
あまりに雑魚すぎて降伏すら許されなかった武田方の大敗北
高遠城攻防
仁科五郎が小山田らを連れて高遠城に籠り、これを甲斐征伐中だった織田中将信忠が攻略した戦い。
通常の城攻めをはるか上回るたったの4時間で城は陥落し、武田軍が軒並み討ち取られた。
これだけボロクソに負けたにもかかわらず、残りの連中が「戦わずして逃げ出した」というもっと酷い状況だったため
苦し紛れに信濃民が歌に残すも名前を間違え「仁科の五郎信盛」とする失態を残す
- 49 :
- ちなみに織田信家は織田信安の息子で織田弾正忠信長、信忠とはほとんど何の関係もありません。
足利家と今川家くらい違います。
- 50 :
- 武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
>>48
>本戦当日武田方は見事信長の罠にはまり、山県兵部、内藤修理、馬場、土屋、原、真田兄弟、三枝(山県娘婿)、小幡、望月ら数多くの将を失う大敗北を喫する。
>勝頼は命からがら逃げ延びてズタボロの状態で高遠城に入城する。
負けた直後でも軍動かしてるし織田方でも6000もの被害が出たし兵力比3倍の相手のまるで城のような陣地に
雨でぬかるんだ地面の中高性能鉄砲が待ち構える所に無謀に突っ込んだから負けただけ
>美濃遠山氏の支配を離れて武田領となっていた岩村城を1575年11月に織田城介信忠が攻める。
半年前から攻城してたのに一月で落としたとか相当馬鹿だな
>城主の秋山伯耆は織田軍の布陣する水精山に夜襲をかけるが河尻与兵衛、毛利河内らの手で撃退。
信長公記にしかない捏造です
>秋山は和議を申し入れ自ら少人数で出てきたところを信長は捕縛させ磔に処する。
和議を申し入れたのは織田方。まともにやったら10倍もの兵力比&援軍も望めないような圧倒的有利な状況ですら
勝てないから騙し討ちにするしかなかった
>あまりに雑魚すぎて降伏すら許されなかった武田方の大敗北
あまりにも信忠が戦下手すぎて騙し討ちにするしかなかった
>通常の城攻めをはるか上回るたったの4時間で城は陥落し、武田軍が軒並み討ち取られた。
わずか1000そこそこの兵士が城外戦をして華々しく散る事を選んだのに
圧倒的に兵力比が物をいう城外戦で50〜60倍もの兵力比でもって一門の1人が戦死し
普通なら10分程度で終わりそうな戦いに最低で見積もって4時間も戦われてしまう醜態ぶり
- 51 :
- 残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは
武田優位は揺るいでないから
信長は結局、
信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより
長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている)
本願寺への義理も充分に果たしたし
ここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。
そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が
勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。
しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。
武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。
長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。
勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに
撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった
武田侵攻のときといい、勝頼にビビリまくりなのが信長
- 52 :
- >>47
東美濃では信長が6万の兵を率いて出陣しているよ。
先陣が山県にやられ、また明智城が陥落したため撤退したが
- 53 :
- >>47
東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田方に寡兵で勝利してるのが武田
負けというえる負けは長篠だけ
これも基地外勝頼の発狂が原因だし
むしろその状況ですら織田方に圧倒的被害を出し9時間も戦ってたんだから
普通にやりあえばまず武田>>>>>>>>>>>>>織田だろうな
- 54 :
- 信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述がある。
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
勝頼がいくら信長が戦下手だからって
ナメ過ぎてたった15000で勝てると増長してたのが武田滅亡スイッチだし
武田が3万くらい動員して9時間に渡り攻勢に出てたら織田なんて踏み潰してた。
鉄砲三段なんて捏造話を作って圧倒しましたイメージを必死に創造してたようだけど。
まあ手取川でエア大敗したほどの弱織田軍だしねぇ。
しかも丹波の一国人の赤井直正にまで大敗したのが織田軍。
義龍や信玄や謙信や元就や直正が死んで超ラッキーだったよね。
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。
長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。
織田が圧倒的兵力になったのは
包囲していた本願寺が天皇の和睦を受け入れた天正8年8月以降。
それでも紀伊の高野山が織田に抵抗していて
織田は攻めあぐんでいる。結局、高野山は本能寺の変まで
山内に織田軍の進入を許さず凌ぎきってしまった。
- 55 :
- 天正7年初頭にも勝頼が毛利と荒木と本願寺を救うために
織田戦力を分散するために家康攻めで出陣OK返事出してんだよな。
その時に輝元が宗麟に足を引っ張られたごときで
武田との約束を破り正月16日出陣を無期延期にしやがったから
合同作戦じゃなくなって武田単独で
景虎自刃した3/24を過ぎてからの
4月より遠江高天神・国安(掛川市)を荒らしてて
信長も急いで摂津戦線から安土へ帰国してる。
いそぎ本願寺や荒木もこのチャンスに出撃せよと毛利に要求するが
まったくのヘタレぶりを露呈したために、
これを見た宇喜多・南条らも毛利を見限り、
天正8年になると荒木が破れ、本願寺も朝廷の勅令和睦を飲んでしまい
武田と毛利の滅亡が確定した。
しかし本能寺の変のおかげで毛利は滅亡を免れた。
結局、毛利がありえないくらいヘタレだから
織田を討つチャンスを何度も自らぶっ壊してる。
ちなみに8月末に厩橋北条高広が北条から武田へ服属先を変えたことをきっかけに
9/5北条と徳川が同盟したことを受けて武田内通の罪で信康が9/15に自害させられてる。
武田は佐竹らと同盟して北条を圧倒。伊豆浦でも武田水軍は北条水軍を圧倒し連戦連勝。
氏政は「このままでは北条は滅亡に向かう」
「上州は武田のものになってしまう」などと武田を恐れまくる。
しかし同時期に石山本願寺が勅命和睦命令の連投に恐れ多いと受託してしまう。
それでも天正9年末まで北条を圧倒し続け伊豆まで攻め込み里見氏も同盟参加。
徳川も高天神城をやっとの思いでなんとか攻略できたが、そこまででしかなかった。
所詮、家康は穴山とどっこいどっこい程度の実力しか無い。
天正10年の織田の攻撃のタイミングが浅間山噴火とシンクロして武田が崩壊しただけ。
元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築して長篠城落城の危機に焦り
5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
- 56 :
- 付け加えるとして5/15書状の内容から
鉄炮放と玉薬の調達の報告だとわかるんだが、
鉄炮放とは砲手を意味しており、実際には細川が
玉薬と鉄砲の使い手を雇っていることを意味してる。
これは5/17付多聞院日記にも伝聞内容のためにタイムラグがあるものの
信長の命令で筒井が鉄砲衆50名を派遣と記しており
細川や筒井らが堺あたりから鉄砲衆を雇い入れて派兵してると思われる。
それを佐々や前田や塙らに配分して率いさせたと考えられる。
(当時の武士は鉄砲を扱わず百姓・足軽・雑兵のような身分に使わせてる)
また6/13付けの信長から上杉への書状において兵糧の調達が不充分なので
織田軍は撤退したとも述べていて、対陣長期化も織田軍は望んでいなかった。
武田が対陣を続けていたら、織田は長篠城を見放して和議を結ぼうとしただろう。
8/13には秀吉が兵糧を調達していて、信長はそれを小谷城で受け取って
越前一向一揆を討伐に向かっており、
数万人規模の老若男女の区別ない越前一円での大虐殺大会と大略奪を開始し9/26に帰還する。
10月初頭には石山本願寺が織田と和睦しようとするが、
信長がホントかどうかわからんからしばらく様子を見てから朱印を与えてやるとか余裕をぶっこくが
翌年1月に吉川に支援を願っていた赤井氏に呼応した波多野氏との挟撃で
明智軍が大敗北&摂津でも石山本願寺に織田軍がダブル敗北を喰らうw
- 57 :
- 各国最盛期を演出した大名と跡を継いだ不肖の息子達
駿河 英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)兄氏輝(〜1536年)の死後に家督争いに勝った
義元は補佐役太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。
越前 英主 朝倉孝景(〜1548年)
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟に裏切られる。
南近江 英主 六角定頼(〜1552年)
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)
美濃 英主 斎藤義龍(〜1561年)
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。
跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り
円滑に家督を継いだ信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。 また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解。
一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
ttp://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html
本能寺後の徳川家康ですら信濃支配は領土安堵状を出して在地領主の自治的統治を後押しして認めるだけの間接統治を行うのみで
しかもその状況ですら対上杉や真田、木曽の敗戦により統治に失敗している
- 58 :
- 公記が六角義賢の弟の六角義弼や
六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。
濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。
- 59 :
- よく飽きもせず否定されたコピペを何回も出来るもんだ
尊敬するよ
- 60 :
- 反応してもらうことだけが生き甲斐の荒らしだから、スルーが吉。
どうせ捏造がバレたり、年表レベルの間違い指摘されても修正しないコピペだしw
- 61 :
- >>52>>53
全然知らないんだな。東美濃の攻防で信長は武田とほとんど戦わずに終わっている。
まず織田信長が武田軍の攻撃を受けた東美濃救援にいったのが1574年の2月1日。
この時佐久間信盛も出陣している。
で、甲陽軍鑑、木曽考、明知年譜でご存じのとおり
東美濃遠山氏はほとんど一方的に武田軍にやられて、明知城が陥落する前に既に周りの城が落ちまくっている状況
(甲陽軍鑑ではこれらの城を遠山十八支城と呼んでいて、明知城は十七番目)
信長は2月7日にようやく付近に到着して明知城に向かうが既に手遅れ状態。
で、信長はこらいかんと思って残っていた小高城に池田恒興を入れてさっさと撤退する。
簡単に言うと長篠の戦いの逆バージョンで、信長が居座ったら背後をつかれる可能性があった。
撤退した信長と強引に突っ張った勝頼との違いがよくわかる戦い。
- 62 :
- 反応しない方が良かったのか
- 63 :
- 「だが」っていう有名な荒らし。戦国板だけじゃなくて他板にも出没してマルチコピペ+捏造しまくり。
まとめwikiがあるほど、酷い嘘や自演の前科がある。
- 64 :
- 小高城じゃない小里城
- 65 :
- 岩村城の攻防は激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。
11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。
しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。
これにより岩村城の武田所属が確定し、
信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。
その報告を信長が得て11/12に赤沢、11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。
ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と永禄9年に12歳前後で婚姻していて、
勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。
信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。
だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して
秋山を討つまでは苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。
信勝に弓を引くとか考え難い。
信玄は元亀元年7/19に天台座主のトップの交代で
新座主に猿の絵を送って祝福してる。
天台宗といえば比叡山であり、その比叡山には日吉神社があり
延暦寺の守り神とされ、猿は日吉神社を象徴していた。
つまり信長が比叡山を焼き討ちした元亀2年9月に信長は信玄へ挑発したも同然の悪行をしている。
織田一族が既存の土地に執着する古い豪族の連合体で
武田家などは集権化が比較的進んでいたことが判明しているんだよね
織田一族の領域では在地構造がそのまま温存されたり
私的な関係や便宜的な寄子寄親関係で適当に済ませてるケースが非常に多いが
武田家の領国では代官支配や主城主を中心とした再編成が多く見られる
ざる統治だったので、ちょっと体制を整備しようと
取り敢えず重臣2人のクビ斬ってみたら、反動で連続謀反が起き死亡ってとこじゃね
織田に離反が多いのも私的な主従関係を築いて一蓮托生な国人が多いから。
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、
このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が情勢報告してるから、信玄が今川を討たないと
逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた
- 66 :
- 元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状による反論であり
その文中には
「遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候」
と抜き出して柴辻が論を展開してるだけなので
忠実に一字一句の抜き出しも付け足しもしてないので
別に歪曲したり捏造などしてない。
そしてこの柴辻への反論はまったくなされてなく
無血開城論などすでに廃れた話で現在は誰も無血で譲渡されたなど書いてない。
さらに武田方の遠山氏が勝ったなどとこちらは一度も書いてないのに
「織田にボッコボッコにされ」などと得意がっててバカ丸出しの織田厨だが
結局、この信玄死去に至る経過において
岩村城周辺でボッコボッコにされまくったのは織田方な事実はスルーw
さて、じゃあ推移を説明しようか。
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
- 67 :
- ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と永禄9年に12歳前後で婚姻していて、
勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して秋山を討つまでは
苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。信勝に弓を引くとか考え難い。
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。完全に信玄が情勢を操ってる。
義昭が村井屋敷を包囲して先制攻撃したのは御湯殿上日記にあるし、
信長親子が頭を剃り、武器も持たずに謁見して和睦したいとするのはフロイス書簡にある。
お前こそデタラメ吐くんじゃねーよw
細川に信長はお前も人質に出せって義昭が言ってるんだぜ!とか喚いたり愚痴りまくってるだけじゃんw
上洛した時は荒木と細川しか味方に参加するやつがいなくて、
信長は細川に贈り物まで贈って大喜びして関心を買う
普段は横柄なのに困った時だけ媚びる卑しさを露呈。
美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を岩村城攻め感状だと横山住雄氏が指摘してるわけだがw
お前は信長に都合悪い話はぜんぶ認めないキチガイなのは明白なんだがw
木曽考にでてる美濃の一郡なんてバカでかい話を信じないよな?
8/7山村三郎九郎宛て三木攻め感状における内容を見ても加増なんて話は出てこない。
岩村城の攻防は激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。
11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。
しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。
これにより岩村城の武田所属が確定し、
信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。
その報告を信長が得て11/12に赤沢、11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。
遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、
西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と
伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。
また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し
当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。
そしてこの時期において松原信之氏が著書で義景本人の元亀4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
- 68 :
- 元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状
遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候
などと書いてあって織田と武田の間で
数多討ち取るような戦火が東美濃であったのは間違いないと柴辻氏が指摘してる。
また信玄三河から信濃へ撤退する6日前の
元亀4年3/6に秋山虎繁に東美濃出陣を命じていて
本願寺から朝倉出陣予定を聞いた信玄による
実質上の美濃侵攻の先鋒を兼ねていた。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
鴨川→14日岩村城の武田方への自発的な降伏開城説
芝辻の反論→18日付け謙信宛河田書状に書いてある通り岩村城を巡り攻防戦があったのは間違いない。
同城が織田方重要拠点なのに城将達が自発的に投降なんて説は奇異だ。
その後は一切反論なし。
織田チョン恒例の曲解屁理屈ワロスw
- 69 :
- 小競り合いで勝って、肝心の場所では攻めきれずついに大敗。
武田の戦い方って、信玄存命時から見て孫子の推奨する戦いと真逆だな。
- 70 :
- ガRで勝ちまくってたけど本決戦で基地外勝頼が発狂して敗北の間違い
- 71 :
- 本決戦で負けてる時点でガRで負けてるじゃんwwww
- 72 :
- 長篠がガR負けとかアホすぎる
丸で城みたいに堅固な陣地&かなり数的不利&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
こんな所に飛び込んでいく馬鹿が総大将だったから勝てただけ。
しかもその状況ですら9時間戦われて所々柵が破られたりして織田方にも6000被害でてるんだから
勝頼みたいな基地外が総大将じゃなく普通に戦術的勝負やらせてたら武田が圧勝してただろ
- 73 :
- 孫子に限らず、敵の強い所わざわざ攻めるな弱い所につけこめ、というのは基本だからね。言うは易し、だけど。
長篠の信長のように、嫌でも相手がこちらの強い所に突っ込まないといけないよう奇襲で退路塞ぐとか、見事すぎ。
- 74 :
- 圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくったんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」
・勝頼が「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」と書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
こんな連中が勝頼が開戦と決めた以上、敵前で戦わずして退却するわけがない
皆、開戦には反対でも武田の為に懸命に戦ったってとこだろう
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる
これらの事実から軍艦の内容通り勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
>>73
はあ???退路塞いだ???
>>72みたいなめちゃめちゃな状況で9時間も戦ってたのに普通に退却してますが????
一門連中無傷
退路塞がれてたらありえません
ただ勝頼が発狂して自爆しただけ
- 75 :
- 織田も呆然自失だったろうな 勝ったけど武田の武威に肝を冷やしまくったと思う
- 76 :
- 武田攻めのときでも信長は信忠の突出を恐れているのか
慎重に事を進めるように書いてる
運良く離反の連鎖でまともな戦闘が皆無だったから勝てたけど1万くらい集まってたら大敗してただろうな
- 77 :
- 実際そうだったかどうかはともかく、織田相手に善戦、というだけで名誉になる時代だからねぇ……。
- 78 :
- 織田なんて兵農分離完了のプロ機械化集団(笑)だし
圧倒的大軍だし経済基盤突出してる畿内抑えているから
装備も遥かに優れてるだろうし
こんな圧倒的優位な状況なんだから勝てて当たり前
- 79 :
- 長篠で織田徳川も甚大な被害出した、というのは信憑性の無いか低い史料にしか乗ってない話だから。
誤魔化しようがない名のある武士の討ち死には追撃戦の松平伊忠程度。
ま、敗者への同情票かな。
一方、武田遺臣は負けを糊塗するために身内(しかも当主の勝頼と信玄以来の重臣)を捏造で貶めたw
- 80 :
- 天正日記は同時代史料
織田なんてアホみたいに武将の数が多いから途中で死ぬような奴は有名にならなかっただけの話だろう
前田利家が負傷しているのは前田側の記録にもある
というか9時間も戦ってたのに一方的な戦闘だったわけないしな
- 81 :
- 信玄だってボロ負けしてあやうく殺されかけた事があった(上田原)けど、相手が弱小で国力で勝っていたから挽回できた。勝頼にはその余裕がなかった。
結局これに尽きる。
- 82 :
- 信玄のボロ負けと勝頼のボロ負けは次元が違う。
勝頼のボロ負けは信長で言えば
秀吉も光秀も家康も勝家も前田も池田も丹羽も蜂屋も佐々も死んで
信長だけボロクズになりながら岐阜城に返ってきた
というくらいのボロ負け
- 83 :
- そんなボロボロになってないだろ
岩村も半年持ち堪えてるし
遠州の諸城も概ね持ち堪えてるし
長篠後でも乾坤一擲の勝負を織田とすると書状で書いてるし
実際長篠直後でも軍動かしてる
- 84 :
- >>82
それら織田の重臣達以上に重要な(そもそも織田に匹敵する位置の家臣がいない)両職がやられているのに?
- 85 :
- >>83
そんなボロボロになったせいで以降織田に対して軍を出せなかったんだろ雑魚すぎwww
実際長篠直後でも軍動かしてるっていつのことだ?www秋山見殺したアレか?w
>>84
例えだからあんまり気にしないで
- 86 :
- 織田に対して軍動かせなかった???
関東に謙信が出兵してきてそっちに動いてるだけですが????
ほんと無知ですね
- 87 :
- 織田に対して軍を出すんなら謙信が出兵した後に出せばいいだろカスwww
別にすぐに出せというわけでもなく長篠から武田滅亡まで7年もある。
謙信が死んでからでも4年もある。そんなに機会があったのになんで織田と戦わなかったんでしょうねwww
甲斐で総ビビりして徳川にいいように弄ばれた武田哀れwwww
- 88 :
- 「だが」は触らないほうがいいと思う。
- 89 :
- 武田に対して軍出すなら北条や徳川が出兵する前に出せばいいだろカスwww
別にすぐ出せというわけでもなく長篠から7年も滅亡まで信長が勝頼にビビリまくって手がだせなかった。
信玄が死んでから9年もある。そんなに武田が弱ってたならなんで甲斐にさっさと侵攻しなかったんでしょうね
近江でびびりまくって徳川に天下奪われた織田哀れwwwww
- 90 :
- うまいw
- 91 :
- 信長は最初から武田なんて相手にしてねーんだよカスwww
武田の相手は全て格下徳川家にまかせっきりで長篠で余裕綽々に出てきただけwwww
挙句嫡男の箔塗りにしか使ってもらえず瞬殺された武田哀れwwwww
織田家は信長死んでもその遺徳で持ち直したが、
武田家は信玄の非道っぷりが全国津々浦々に響いていて誰一人武田家の再興をせず、
しかも当主武田信道(信玄次男竜芳の嫡男)が生きているのに
「武田なんてもういないからwww」と徳川家康が息子の信吉に勝手に武田家当主を名乗らせて
あとで「やっぱいらねーやwww」と松平姓に復帰させられる有様wwww
家康の指一つで家まで乗っ取られた武田哀れすぎるwwwwwwいかに信玄勝頼がゴミだったかわかるなwwww
- 92 :
- 勝頼は最初から雑魚長なんて相手にしてねーんだよカスwwww
織田の相手は全て本願寺・上杉・赤井・毛利らにまかせっきりで長篠で余裕綽々に出てきただけwwww
挙句自爆で戦う者もいなくなった武田にボロ負けして信濃・甲斐・上野を瞬殺された織田哀れwww
武田家は信玄しんでもその遺徳で持ち直し滅亡後も徳川軍団内で大活躍したが
織田家は信長の非道っぷりが全国津々浦々に響いていて誰一人織田を重んじず
秀吉に使い捨てられ家康に土下座して申し訳程度に小領で満足
「織田なんてもういないからwww」と秀吉が信雄に勝手に織田家当主を名乗らせて
あとで「やっぱいらねーやwww」と改易させられる有様wwww
秀吉の指一つで家まで乗っ取られた織田哀れすぎるwwwwwwいかに信長信忠がゴミだったかわかるなwwww
- 93 :
- 改変コピペwwwwwwwwww
織田家は織田秀信、織田信雄、織田信包、織田長益がしーっかり大名としての織田家を繋いで10数万石を維持してんのwwww
甲斐源氏名門武田家をゴミのように滅ぼした無能大名武田信玄と武田勝頼とは違うのwwwwww
挙句持ち直し滅亡後も徳川軍団内で大活躍wwwwww
武田本家が滅ぼされているのに家臣団だけ引き抜かれた武田哀れwwwwwww
武田無能当主を優秀な家臣団が支えつづけ、ついに見限られて家康にそっくりそのまま寝返られる武田哀れwwww
- 94 :
- カス武田家の末路
武田義信:信玄嫡男、無能当主信玄を諌めたせいで逆ギレされ廃嫡。女系のみ
海野竜芳:信玄次男、盲目のため出家。武田滅亡後に自害し息子は家臣であった大久保に寄生、のち5代後に高家旗本入り
武田信之:信玄三男、早死
武田勝頼:信玄四男、武田家最後の当主。父に劣らぬ無能っぷりで名門甲斐源氏を滅ぼす。
仁科盛信:信玄五男、息子が徳川旗本になる、家系偽造説がある。
葛山信貞:信玄六男、よくわからんまま死亡、断絶。
武田信清:信玄七男、嫁のつてを利用して仇敵上杉家に仕えるという屈辱を味わう
武田信実:信玄弟、息子が徳川旗本になる
江戸期〜明治期のカス武田家
ほとんどの武田家一族は名前が見えなくなる、大名として残っていないのであるから当然である。
挙句徳川家康に息子の武田信吉を武田家当主にすると言われあわや家を乗っ取られるところであった。
この件は武田信吉が早死にしたためおじゃんになったがそれだけ武田家は忘れ去られていたのだろう。
大久保に寄生した信玄孫の武田信道であったが大久保事件で主家が改易され巻き添えを食らう。
ほどなく復帰したらしいが存在そのものはほぼ全て忘れ去られていた。
孫の武田信興が側用人柳沢吉保の家に寄生していたこともあってなんとか高家旗本には復帰する。
だが結局その子武田安の代で高家武田家は断絶。柳沢吉保の一族の連中が養子に入り以後実質は柳沢家として明治まで続く。
- 95 :
- >>94
> この件は武田信吉が早死にしたためおじゃんになったが
死ぬ10年以上前に松平姓に復してたと思ったが、その後、また武田を名乗ったの?
- 96 :
- >>95
そういえばそうだったwwww
- 97 :
- 信吉が1602年に水戸25万石に封じられたのは武田としてだよ。
信玄最強というのは江戸初期から常識であり
甲州流軍学が江戸時代を通じて最強とされ続けてるしな。
- 98 :
- 1576年 円昌坊教雅書状
謙信、大方於太刀者日本無双之名大将ニ而御入候
1582年3/5 蓮成院記録
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
信玄死去から10年経っても
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
とその遺武があったほどの威勢だったけどな。
信長死んだら武遺の話題すら出てないな。
- 99 :
- 江戸期を通じて織田流軍学なんてもんは
誰も見向きもせず
一切評判になったことすらないw
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