2012年6月戦国時代4: 武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part3 (307) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part3


1 :12/04/05 〜 最終レス :12/06/20
実は信玄が無能だったというのは言わないお約束
※前スレ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1327681172/

2 :
>>1
>織田アンチ捏造のためだけに単発スレ立てたりと好き放題。
>織田アンチ捏造のためだけに単発スレ立てたりと好き放題。
>織田アンチ捏造のためだけに単発スレ立てたりと好き放題。
お ま え が ゆ う な w w w
【みんなの】だがを見守るスレ【アイドル?】
280 :人間七七四年[sage]:2012/04/05(木) 19:15:59.31 ID:Ap9TDcCh
こいつの長文コピペでかなりスレが容量食われているな。
織田アンチ捏造のためだけに単発スレ立てたりと好き放題。
なんでアク禁にされないの? このレベルでも2ch的にはセーフ?

3 :
前スレ
武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part2
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1327681172/

4 :
1574年夏の勝頼と1585年ごろの家康の状況って似ているのかな?
・局地戦では勝利(勝頼は明智・高天神、徳川は小牧長久手)
・しかし同じ敵(勝頼の場合は織田、家康の場合は羽柴)と戦っている勢力は降伏or滅亡(勝頼の場合浅井・朝倉・伊勢一向一揆。徳川の場合は長宗我部・佐々・信雄)し、差がどんどん広がっていく

5 :
長篠城を攻囲していたときに、奥平の家臣・鳥居を磔にしたのは、やはり勝頼の狭量さを物語るものだと思います。
あんなことをすれば、山家三方衆のみならず、徳川方の恨みを昂進させるだけ

6 :
のぶやぼ厨涙目w

7 :
>>5
おいおい戦国時代の戦場に命の尊さなんてねーぞw
NHK大河の見すぎだろw

8 :
聞クトコロニヨルト、コノ武田勝頼トイウ人物ハ、信玄ノ側室ノ子デアリマシタガ、甲斐ノ産マレデハナク、武田軍団ヲ統率スルノニハ、適当ナ人物デハアリマセンデシタ。
マタ、少々強引ナトコロトアッタヨウデス。

9 :
勝頼は戦闘指揮官としては信玄に劣らなかったかもしれないが行政手腕は信玄に遠く及ばなかったと思う

10 :
たまに勝頼は信玄より優秀って言う奴いるけどなんなの?
>>9も言うように戦闘指揮官としてはともかくそれ以外はどう見ても信玄とは比較にならない。
まあ勝頼の世間での評価は低すぎるとは思うが父親には劣るということは否めない。

11 :
まあでも勝頼は秀忠や景勝や信雄や氏真に比べれば優秀だったと思う
信忠と勝頼が同じくらいか?

12 :
家督継いだ時点でクソゲー人生なのには同情する

13 :
のぶやぼ厨涙目w

14 :
信忠が景勝や秀忠より上とかワロタw
信康>景勝>>勝頼>秀忠>信雄、輝元>>>>>>>信忠(笑)

15 :
勝頼が信玄以上とか言われるのは信玄が落とせなかった高天神城落としたからなのか?
あと信忠は他の二代目に比べて影が薄いから評価が難しい

16 :
天正2年1/9付けの謙信→榊原康政宛てで
謙信は勝頼を経略名之下ニ候と酷評してるから
勝頼なんてただのバカでしょ。
そんな勝頼さんは2/6に丹波の赤鬼さんに、
雪解けしたら早速、信長を攻めるよ!と書状を出してる。
ちなみに本隊は雪解け待ちのようだが、
先鋒はすでに出陣しててちょうどこの時期には
明智城を陥落させている。さらに櫛原城や神篦城を攻略している。
尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
それもそのはず高天神城が6月に落城するのに
わざと遅く援軍へ向かうヘタレぶりを晒す信長。
信長は謙信からも責められていたようで、6/29には信濃出陣の約束を破った言い分けの弁解までしてる。
その際に信玄の掟を守って謀略があるので勝頼は油断できないと泣き言まで言う始末w
11/4の佐野氏宛て書状では武田軍は家康がいる浜松城下までやってきて放火し、掛川や久野に付け城を構築完成などやりたい放題。
積雪で信濃国境は封鎖された閏11/9になって、
のこのこと三河で鷹狩しに行くよなどと家康監視目的で
来援する信長を歓待すると申し出る家康の心中は複雑だよな。
少ない兵を引き連れた勝頼が完全に織田をナメくさって長篠の戦いで無謀な突撃をかましたのがよくわかる。

17 :
6万の大軍を率いていたにもかかわらずついぞ1万の軍しかいなかった織田信長を滅ぼせなかった武田信玄。
絶対勝てるという状況を放棄したんだからそんな当主は無能扱いされて当然。

18 :
武田信玄無能エピソード
・織田信長討滅の檄を足利義昭から受け取るも「出家して戦争の仕方を忘れた」と取り合わなかった。
・尋憲記(だがのレスより)には武田軍6万、織田は足利征伐時に総兵力1万と圧倒的な差
・徳川家康を三方が原で徹底していじめぬくも、信玄は「浜松城はイラネ」と家康の主要拠点を素通り
・東美濃、北美濃を調略済み、本願寺との連携を築いて信長を追い詰める(いずれもだがのレスより)も、信玄は2月の真冬に小さな山城を1ヶ月近く包囲という自殺行為を実践。
・無理が祟って信玄は信濃駒場で死亡。死後お家は余裕をこいた信長家康によって滅ぼされる。

19 :
>>15
やっぱり高天神なのかね?
しかしそれだけで信玄より優秀ってどっからそうなるんだよ・・・・・

20 :
美濃攻略に11年もかけてるあまりのgdgdぶりに対して、
将軍の権威の光背を受けてからの別人のような版図の急拡大ぶり。
いかに将軍を擁立し京を押さえて公家や朝廷を敬うことが統治の正当性という巨大なパワーを生むかが理解できる。
そして増長してその力の源泉を自らの神性に由来するのではないかと誤解するや高転びに転落し織田自滅・・・
幼少の家康が織田家の人質にやってくる伏線と言い
信長が志賀の陣で朝倉に土下座してから半年後に毛利元就が死去してて運が良いよな〜。
もし元就が生きていて信玄の西上が開始されてたらフルボッコ瞬殺されてたな。
つか浅井軍を少ない手勢で長期に渡り押さえていた秀吉のような神がいて良かったよな。
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
史料から、信玄軍の強盛振りと徳川の累卵が如き危うさを伺えるね

21 :
戦国時代を平定した秀吉
なんでもかんでも秀吉の業績はすべて信長が脳内で構想していたと
バカみたいに主張する織田チョンの歪曲を糾して
秀吉を正当に評価しよう。
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/l50

22 :
>>19
あれはほら、代替わりで下手をすればほころびが出そうな家中に対して
勝頼は有能だぞ、信頼に値するぞっていう宣伝材料だから
せめて信玄が生きてるうちに徳川を滅ぼすなり服属させるなりできてればなあ

23 :
それができなかったのは信玄が無能だから。
浜松城を抑えることよりも小さな山城である野田城を1ヶ月かけて包囲することが重要だと考えるくらいの
戦略性のなさ。こんな無能当主を2回も水面下で支えた武田家臣達の苦労は計り知れない

24 :
織田がいる以上無理。
信玄万歳のためなら捏造も辞さず、嫡子や信玄側近の一部さえ貶めるのを辞さない軍鑑ですら、
「信長が大軍で来て負けて、信玄の名誉に傷ついたら大変だから」と浜松攻めを辞めた事にしている。

25 :
軍鑑を一次史料だと誤認して
またまた無知の生き恥を晒す織田厨バカ杉w

26 :
信玄公の名誉ある発言をした軍鑑の記述は正しい
織田のヨイショをした軍鑑の記述は捏造
毎度おなじみダブスタだがの無知思想w

27 :
武田領は略奪で食ってたから、戦略性云々以前に狩場があるかどうか、だろう。
民衆の離散が多く、従軍させた兵士も農繁期だからと勝手に帰るのが常態。
これに国人連合体という要素もからんで、一貫した戦略性が最後まで取れないって事に。

28 :
>>27
いつの年代の話をしているのか
ソース付きで説明してね。

29 :
同盟破りの騙まし討ちを無差別にやりまくって、危険招いて信長に泣きつく→その信長相手にも騙まし討ち敢行。
これらの信玄の行動は信玄個人の不義理、というより環境のせいと申すか。

30 :
何回論破されても同じ事しか言わないな
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328973112/l50#tag587

31 :
【みんなの】だがを見守るスレ【アイドル?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328312352/
武田関連スレはこいつに注意。
間違いや捏造指摘すると返ってムキになって荒らすという……。

32 :
百姓や軍役拒否の兵の離散・脱走を防げ、逃げた先の主人に断って取り返せって書状、信玄〜勝頼期問わず出ているからな。
農繁期だからって勝手に陣から帰るなって叱責も。
これが元から貧しすぎるせいか、それとも重税・軍役の結果かはわからんが。

33 :
>>31
武田に限らず間違いを指摘されたらブチ切れて荒らしまわす最低最悪の害虫

34 :
>>29
そのせいで信長にとって武田は泣きついてきた純真な同盟者から
隙あらば自分に噛みついて倒そうとする狂犬という立場になった
結局このせいで後々勝頼が亡きついても信長は心を鬼にして無視した

35 :
長篠合戦前後は織田側からも和平交渉したみたいだが武田は拒絶。
二次包囲網後は周辺状況の悪化を鑑み武田側から土下座外交。当然拒絶され滅亡へ…。

36 :
武田は禁忌の腸繰矢や緩鏃など非人道的な武器を平然と利用してたんだから恨まれるよなあ。
内輪でも貧しさからだろうけど馬糞汁を飲んだりしてたんで、エイリアンのように思われて講和交渉も
進展しなかったんだと思う。

37 :
信玄が欲しがってたのは豊かな領地だろう。
ところが、その豊かな領地である駿河を恥も外聞もなく分捕ったはいいが、
家臣に配慮して直接支配がろくにできない有様。
武田本家は軍事行動のためカツカツなのに、駿河の要地支配した穴山はかなり豊かに。
このあたりの一門衆(と、いっても穴山氏は信虎の代に服属させた、ある意味縁の浅い同盟者に過ぎない説もあるんだが)統制も、武田が弱体化した一員だろう。

38 :
っというか徳川と協力しないと分捕れないから情けない
伊達なら丸々強欲に今川領奪うだろう。北条には土下座するけど。

39 :
またソース皆無のデタラメ連打かw
穴山は信玄から駿河国庵原郡興津領を預けられていただけだし。
しかもどこを預けられたかも知らんくせに
要地とか言っちゃってw幼稚園児並みのレスしかできん可哀想な織田厨w

40 :
武田ってながしの以前には既に弱体化しつつあったんじゃないのか。
馬場やら山県やら高齢が主力に居座ってたわけで世代交代失敗だろう。
ながしの以後も秋山くらいだろ?善戦したのはさ。
仁科に至っては1日で落城とか。
所詮地方の強豪の域を出ず、徳川には数的優位でも兵力の少ない上杉に苦戦、織田には完敗のレベル。

41 :
のぶやぼ厨涙目w

42 :
武田陣営総崩れで士気もガタガタ
きっと史料に書かれてなくても寝返りや兵の逃亡もあったに違いない
何せ浅間山噴火&領国疲弊による混乱・寝返りの連鎖中
他にまともに迎撃しようとする連中なし
こんな圧倒的有利な状況で武田で唯一抗戦した仁科1000以下に50〜60倍の兵力比でもって絶対的に兵力比が物をいう城外戦で
大損害だし一門織田信家討ち取られ、普通なら10分程度で終わりそうな戦闘に最低で見積もって4時間以上も戦われた雑魚信忠

43 :
武田対織田の結果
上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

44 :
残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは
武田優位は揺るいでないから
信長は結局、
信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより
長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている)
本願寺への義理も充分に果たしたし
ここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。
そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が
勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。
しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。
武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。
長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。
勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに
撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった
武田侵攻のときといい、勝頼にビビリまくりなのが信長

45 :
勝ち戦ではネズミも虎になり、負け戦では虎もネズミになるもの。
〜の兵が強い、だのの風聞は実際にはガセ。
まず状況で決まるよ。

46 :
長篠の戦いの直前の勝頼は小牧長久手後の家康と似たような状況か?
・局地戦では勝利(勝頼は明智・高天神、徳川は小牧長久手)
・しかし同じ敵(勝頼の場合は織田、家康の場合は羽柴)と戦っている勢力は降伏or滅亡(勝頼の場合浅井・朝倉・伊勢一向一揆。徳川の場合は長宗我部・佐々・信雄)し、差がどんどん広がっていく

47 :
つか武田は脇役相手(三方が原での徳川、上村合戦の飯羽間遠山)にしか勝利していないから。
織田家中軸が出てくる長篠以降は長篠、岩村、高遠と全てボロ負け。
悔し紛れに「歌になったー」とかこき下ろしているだけで、実態は全てボロ負け。
これ以上ボロ負けという言葉が似合わないくらいボロ負けでもはや戦争の体すらしていないのが後期武田

48 :
長篠の戦い
武田勝頼が離反した奥平貞能、信昌を討伐するために進軍。大岡弥四郎、石川春重ら松平信康付家老の内通騒ぎは天正三年の春で
当然のごとく武田勝頼が長篠へ向かった時期と異なる。織田信長が出てきたことに勝頼は喜び、
「これで信長と一戦交えられる」と大喜びするが織田信長は細川幽斎に頼んでいた玉薬、鉄砲放の招集を5月15日付で賞し、
5月20日に三河の戦況を伝え「武田なんか根切りにしてやるよ」と意気込む。
本戦当日武田方は見事信長の罠にはまり、山県兵部、内藤修理、馬場、土屋、原、真田兄弟、三枝(山県娘婿)、小幡、望月ら数多くの将を失う大敗北を喫する。
勝頼は命からがら逃げ延びてズタボロの状態で高遠城に入城する。
岩村城攻防
美濃遠山氏の支配を離れて武田領となっていた岩村城を1575年11月に織田城介信忠が攻める。
城主の秋山伯耆は織田軍の布陣する水精山に夜襲をかけるが河尻与兵衛、毛利河内らの手で撃退。
秋山は和議を申し入れ自ら少人数で出てきたところを信長は捕縛させ磔に処する。
あまりに雑魚すぎて降伏すら許されなかった武田方の大敗北
高遠城攻防
仁科五郎が小山田らを連れて高遠城に籠り、これを甲斐征伐中だった織田中将信忠が攻略した戦い。
通常の城攻めをはるか上回るたったの4時間で城は陥落し、武田軍が軒並み討ち取られた。
これだけボロクソに負けたにもかかわらず、残りの連中が「戦わずして逃げ出した」というもっと酷い状況だったため
苦し紛れに信濃民が歌に残すも名前を間違え「仁科の五郎信盛」とする失態を残す

49 :
ちなみに織田信家は織田信安の息子で織田弾正忠信長、信忠とはほとんど何の関係もありません。
足利家と今川家くらい違います。

50 :
武田対織田の結果
上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
>>48
>本戦当日武田方は見事信長の罠にはまり、山県兵部、内藤修理、馬場、土屋、原、真田兄弟、三枝(山県娘婿)、小幡、望月ら数多くの将を失う大敗北を喫する。
>勝頼は命からがら逃げ延びてズタボロの状態で高遠城に入城する。
負けた直後でも軍動かしてるし織田方でも6000もの被害が出たし兵力比3倍の相手のまるで城のような陣地に
雨でぬかるんだ地面の中高性能鉄砲が待ち構える所に無謀に突っ込んだから負けただけ
>美濃遠山氏の支配を離れて武田領となっていた岩村城を1575年11月に織田城介信忠が攻める。
半年前から攻城してたのに一月で落としたとか相当馬鹿だな
>城主の秋山伯耆は織田軍の布陣する水精山に夜襲をかけるが河尻与兵衛、毛利河内らの手で撃退。
信長公記にしかない捏造です
>秋山は和議を申し入れ自ら少人数で出てきたところを信長は捕縛させ磔に処する。
和議を申し入れたのは織田方。まともにやったら10倍もの兵力比&援軍も望めないような圧倒的有利な状況ですら
勝てないから騙し討ちにするしかなかった
>あまりに雑魚すぎて降伏すら許されなかった武田方の大敗北
あまりにも信忠が戦下手すぎて騙し討ちにするしかなかった
>通常の城攻めをはるか上回るたったの4時間で城は陥落し、武田軍が軒並み討ち取られた。
わずか1000そこそこの兵士が城外戦をして華々しく散る事を選んだのに
圧倒的に兵力比が物をいう城外戦で50〜60倍もの兵力比でもって一門の1人が戦死し
普通なら10分程度で終わりそうな戦いに最低で見積もって4時間も戦われてしまう醜態ぶり

51 :
残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは
武田優位は揺るいでないから
信長は結局、
信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより
長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている)
本願寺への義理も充分に果たしたし
ここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。
そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が
勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。
しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。
武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。
長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。
勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに
撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった
武田侵攻のときといい、勝頼にビビリまくりなのが信長

52 :
>>47
東美濃では信長が6万の兵を率いて出陣しているよ。
先陣が山県にやられ、また明智城が陥落したため撤退したが

53 :
>>47
東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田方に寡兵で勝利してるのが武田
負けというえる負けは長篠だけ
これも基地外勝頼の発狂が原因だし
むしろその状況ですら織田方に圧倒的被害を出し9時間も戦ってたんだから
普通にやりあえばまず武田>>>>>>>>>>>>>織田だろうな

54 :
信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述がある。
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
勝頼がいくら信長が戦下手だからって
ナメ過ぎてたった15000で勝てると増長してたのが武田滅亡スイッチだし
武田が3万くらい動員して9時間に渡り攻勢に出てたら織田なんて踏み潰してた。
鉄砲三段なんて捏造話を作って圧倒しましたイメージを必死に創造してたようだけど。
まあ手取川でエア大敗したほどの弱織田軍だしねぇ。
しかも丹波の一国人の赤井直正にまで大敗したのが織田軍。
義龍や信玄や謙信や元就や直正が死んで超ラッキーだったよね。
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。
長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。
織田が圧倒的兵力になったのは
包囲していた本願寺が天皇の和睦を受け入れた天正8年8月以降。
それでも紀伊の高野山が織田に抵抗していて
織田は攻めあぐんでいる。結局、高野山は本能寺の変まで
山内に織田軍の進入を許さず凌ぎきってしまった。

55 :
天正7年初頭にも勝頼が毛利と荒木と本願寺を救うために
織田戦力を分散するために家康攻めで出陣OK返事出してんだよな。
その時に輝元が宗麟に足を引っ張られたごときで
武田との約束を破り正月16日出陣を無期延期にしやがったから
合同作戦じゃなくなって武田単独で
景虎自刃した3/24を過ぎてからの
4月より遠江高天神・国安(掛川市)を荒らしてて
信長も急いで摂津戦線から安土へ帰国してる。
いそぎ本願寺や荒木もこのチャンスに出撃せよと毛利に要求するが
まったくのヘタレぶりを露呈したために、
これを見た宇喜多・南条らも毛利を見限り、
天正8年になると荒木が破れ、本願寺も朝廷の勅令和睦を飲んでしまい
武田と毛利の滅亡が確定した。
しかし本能寺の変のおかげで毛利は滅亡を免れた。
結局、毛利がありえないくらいヘタレだから
織田を討つチャンスを何度も自らぶっ壊してる。
ちなみに8月末に厩橋北条高広が北条から武田へ服属先を変えたことをきっかけに
9/5北条と徳川が同盟したことを受けて武田内通の罪で信康が9/15に自害させられてる。
武田は佐竹らと同盟して北条を圧倒。伊豆浦でも武田水軍は北条水軍を圧倒し連戦連勝。
氏政は「このままでは北条は滅亡に向かう」
「上州は武田のものになってしまう」などと武田を恐れまくる。
しかし同時期に石山本願寺が勅命和睦命令の連投に恐れ多いと受託してしまう。
それでも天正9年末まで北条を圧倒し続け伊豆まで攻め込み里見氏も同盟参加。
徳川も高天神城をやっとの思いでなんとか攻略できたが、そこまででしかなかった。
所詮、家康は穴山とどっこいどっこい程度の実力しか無い。
天正10年の織田の攻撃のタイミングが浅間山噴火とシンクロして武田が崩壊しただけ。
元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築して長篠城落城の危機に焦り
5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。

56 :
付け加えるとして5/15書状の内容から
鉄炮放と玉薬の調達の報告だとわかるんだが、
鉄炮放とは砲手を意味しており、実際には細川が
玉薬と鉄砲の使い手を雇っていることを意味してる。
これは5/17付多聞院日記にも伝聞内容のためにタイムラグがあるものの
信長の命令で筒井が鉄砲衆50名を派遣と記しており
細川や筒井らが堺あたりから鉄砲衆を雇い入れて派兵してると思われる。
それを佐々や前田や塙らに配分して率いさせたと考えられる。
(当時の武士は鉄砲を扱わず百姓・足軽・雑兵のような身分に使わせてる)
また6/13付けの信長から上杉への書状において兵糧の調達が不充分なので
織田軍は撤退したとも述べていて、対陣長期化も織田軍は望んでいなかった。
武田が対陣を続けていたら、織田は長篠城を見放して和議を結ぼうとしただろう。
8/13には秀吉が兵糧を調達していて、信長はそれを小谷城で受け取って
越前一向一揆を討伐に向かっており、
数万人規模の老若男女の区別ない越前一円での大虐殺大会と大略奪を開始し9/26に帰還する。
10月初頭には石山本願寺が織田と和睦しようとするが、
信長がホントかどうかわからんからしばらく様子を見てから朱印を与えてやるとか余裕をぶっこくが
翌年1月に吉川に支援を願っていた赤井氏に呼応した波多野氏との挟撃で
明智軍が大敗北&摂津でも石山本願寺に織田軍がダブル敗北を喰らうw

57 :
各国最盛期を演出した大名と跡を継いだ不肖の息子達
駿河 英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)兄氏輝(〜1536年)の死後に家督争いに勝った
義元は補佐役太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。
越前 英主 朝倉孝景(〜1548年)
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟に裏切られる。
南近江 英主 六角定頼(〜1552年)
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)
美濃 英主 斎藤義龍(〜1561年)
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。
跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り
円滑に家督を継いだ信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。 また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解。
一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
ttp://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html
本能寺後の徳川家康ですら信濃支配は領土安堵状を出して在地領主の自治的統治を後押しして認めるだけの間接統治を行うのみで
しかもその状況ですら対上杉や真田、木曽の敗戦により統治に失敗している

58 :
公記が六角義賢の弟の六角義弼や
六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。
濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。

59 :
よく飽きもせず否定されたコピペを何回も出来るもんだ
尊敬するよ

60 :
反応してもらうことだけが生き甲斐の荒らしだから、スルーが吉。
どうせ捏造がバレたり、年表レベルの間違い指摘されても修正しないコピペだしw

61 :
>>52>>53
全然知らないんだな。東美濃の攻防で信長は武田とほとんど戦わずに終わっている。
まず織田信長が武田軍の攻撃を受けた東美濃救援にいったのが1574年の2月1日。
この時佐久間信盛も出陣している。
で、甲陽軍鑑、木曽考、明知年譜でご存じのとおり
東美濃遠山氏はほとんど一方的に武田軍にやられて、明知城が陥落する前に既に周りの城が落ちまくっている状況
(甲陽軍鑑ではこれらの城を遠山十八支城と呼んでいて、明知城は十七番目)
信長は2月7日にようやく付近に到着して明知城に向かうが既に手遅れ状態。
で、信長はこらいかんと思って残っていた小高城に池田恒興を入れてさっさと撤退する。
簡単に言うと長篠の戦いの逆バージョンで、信長が居座ったら背後をつかれる可能性があった。
撤退した信長と強引に突っ張った勝頼との違いがよくわかる戦い。

62 :
反応しない方が良かったのか

63 :
「だが」っていう有名な荒らし。戦国板だけじゃなくて他板にも出没してマルチコピペ+捏造しまくり。
まとめwikiがあるほど、酷い嘘や自演の前科がある。

64 :
小高城じゃない小里城

65 :
岩村城の攻防は激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。
11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。
しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。
これにより岩村城の武田所属が確定し、
信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。
その報告を信長が得て11/12に赤沢、11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。
ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と永禄9年に12歳前後で婚姻していて、
勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。
信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。
だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して
秋山を討つまでは苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。
信勝に弓を引くとか考え難い。
信玄は元亀元年7/19に天台座主のトップの交代で
新座主に猿の絵を送って祝福してる。
天台宗といえば比叡山であり、その比叡山には日吉神社があり
延暦寺の守り神とされ、猿は日吉神社を象徴していた。
つまり信長が比叡山を焼き討ちした元亀2年9月に信長は信玄へ挑発したも同然の悪行をしている。
織田一族が既存の土地に執着する古い豪族の連合体で
武田家などは集権化が比較的進んでいたことが判明しているんだよね
織田一族の領域では在地構造がそのまま温存されたり
私的な関係や便宜的な寄子寄親関係で適当に済ませてるケースが非常に多いが
武田家の領国では代官支配や主城主を中心とした再編成が多く見られる
ざる統治だったので、ちょっと体制を整備しようと
取り敢えず重臣2人のクビ斬ってみたら、反動で連続謀反が起き死亡ってとこじゃね
織田に離反が多いのも私的な主従関係を築いて一蓮托生な国人が多いから。
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、
このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が情勢報告してるから、信玄が今川を討たないと
逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた

66 :
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状による反論であり
その文中には
「遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候」
と抜き出して柴辻が論を展開してるだけなので
忠実に一字一句の抜き出しも付け足しもしてないので
別に歪曲したり捏造などしてない。
そしてこの柴辻への反論はまったくなされてなく
無血開城論などすでに廃れた話で現在は誰も無血で譲渡されたなど書いてない。
さらに武田方の遠山氏が勝ったなどとこちらは一度も書いてないのに
「織田にボッコボッコにされ」などと得意がっててバカ丸出しの織田厨だが
結局、この信玄死去に至る経過において
岩村城周辺でボッコボッコにされまくったのは織田方な事実はスルーw
さて、じゃあ推移を説明しようか。
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。

67 :
ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と永禄9年に12歳前後で婚姻していて、
勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して秋山を討つまでは
苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。信勝に弓を引くとか考え難い。
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。完全に信玄が情勢を操ってる。
義昭が村井屋敷を包囲して先制攻撃したのは御湯殿上日記にあるし、
信長親子が頭を剃り、武器も持たずに謁見して和睦したいとするのはフロイス書簡にある。
お前こそデタラメ吐くんじゃねーよw
細川に信長はお前も人質に出せって義昭が言ってるんだぜ!とか喚いたり愚痴りまくってるだけじゃんw
上洛した時は荒木と細川しか味方に参加するやつがいなくて、
信長は細川に贈り物まで贈って大喜びして関心を買う
普段は横柄なのに困った時だけ媚びる卑しさを露呈。
美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を岩村城攻め感状だと横山住雄氏が指摘してるわけだがw
お前は信長に都合悪い話はぜんぶ認めないキチガイなのは明白なんだがw
木曽考にでてる美濃の一郡なんてバカでかい話を信じないよな?
8/7山村三郎九郎宛て三木攻め感状における内容を見ても加増なんて話は出てこない。
岩村城の攻防は激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。
11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。
しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。
これにより岩村城の武田所属が確定し、
信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。
その報告を信長が得て11/12に赤沢、11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。
遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、
西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と
伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。
また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し
当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。
そしてこの時期において松原信之氏が著書で義景本人の元亀4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。

68 :
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状
遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候
などと書いてあって織田と武田の間で
数多討ち取るような戦火が東美濃であったのは間違いないと柴辻氏が指摘してる。
また信玄三河から信濃へ撤退する6日前の
元亀4年3/6に秋山虎繁に東美濃出陣を命じていて
本願寺から朝倉出陣予定を聞いた信玄による
実質上の美濃侵攻の先鋒を兼ねていた。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
鴨川→14日岩村城の武田方への自発的な降伏開城説
芝辻の反論→18日付け謙信宛河田書状に書いてある通り岩村城を巡り攻防戦があったのは間違いない。
同城が織田方重要拠点なのに城将達が自発的に投降なんて説は奇異だ。
その後は一切反論なし。
織田チョン恒例の曲解屁理屈ワロスw

69 :
小競り合いで勝って、肝心の場所では攻めきれずついに大敗。
武田の戦い方って、信玄存命時から見て孫子の推奨する戦いと真逆だな。

70 :
ガRで勝ちまくってたけど本決戦で基地外勝頼が発狂して敗北の間違い

71 :
本決戦で負けてる時点でガRで負けてるじゃんwwww

72 :
長篠がガR負けとかアホすぎる
丸で城みたいに堅固な陣地&かなり数的不利&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
こんな所に飛び込んでいく馬鹿が総大将だったから勝てただけ。
しかもその状況ですら9時間戦われて所々柵が破られたりして織田方にも6000被害でてるんだから
勝頼みたいな基地外が総大将じゃなく普通に戦術的勝負やらせてたら武田が圧勝してただろ

73 :
孫子に限らず、敵の強い所わざわざ攻めるな弱い所につけこめ、というのは基本だからね。言うは易し、だけど。
長篠の信長のように、嫌でも相手がこちらの強い所に突っ込まないといけないよう奇襲で退路塞ぐとか、見事すぎ。

74 :
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくったんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」
・勝頼が「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」と書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
こんな連中が勝頼が開戦と決めた以上、敵前で戦わずして退却するわけがない
皆、開戦には反対でも武田の為に懸命に戦ったってとこだろう
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる
これらの事実から軍艦の内容通り勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
>>73
はあ???退路塞いだ???
>>72みたいなめちゃめちゃな状況で9時間も戦ってたのに普通に退却してますが????
一門連中無傷
退路塞がれてたらありえません
ただ勝頼が発狂して自爆しただけ

75 :
織田も呆然自失だったろうな 勝ったけど武田の武威に肝を冷やしまくったと思う

76 :
武田攻めのときでも信長は信忠の突出を恐れているのか
慎重に事を進めるように書いてる
運良く離反の連鎖でまともな戦闘が皆無だったから勝てたけど1万くらい集まってたら大敗してただろうな

77 :
実際そうだったかどうかはともかく、織田相手に善戦、というだけで名誉になる時代だからねぇ……。

78 :
織田なんて兵農分離完了のプロ機械化集団(笑)だし
圧倒的大軍だし経済基盤突出してる畿内抑えているから
装備も遥かに優れてるだろうし
こんな圧倒的優位な状況なんだから勝てて当たり前

79 :
長篠で織田徳川も甚大な被害出した、というのは信憑性の無いか低い史料にしか乗ってない話だから。
誤魔化しようがない名のある武士の討ち死には追撃戦の松平伊忠程度。
ま、敗者への同情票かな。
一方、武田遺臣は負けを糊塗するために身内(しかも当主の勝頼と信玄以来の重臣)を捏造で貶めたw

80 :
天正日記は同時代史料
織田なんてアホみたいに武将の数が多いから途中で死ぬような奴は有名にならなかっただけの話だろう
前田利家が負傷しているのは前田側の記録にもある
というか9時間も戦ってたのに一方的な戦闘だったわけないしな

81 :
信玄だってボロ負けしてあやうく殺されかけた事があった(上田原)けど、相手が弱小で国力で勝っていたから挽回できた。勝頼にはその余裕がなかった。
結局これに尽きる。

82 :
信玄のボロ負けと勝頼のボロ負けは次元が違う。
勝頼のボロ負けは信長で言えば
秀吉も光秀も家康も勝家も前田も池田も丹羽も蜂屋も佐々も死んで
信長だけボロクズになりながら岐阜城に返ってきた
というくらいのボロ負け

83 :
そんなボロボロになってないだろ
岩村も半年持ち堪えてるし
遠州の諸城も概ね持ち堪えてるし
長篠後でも乾坤一擲の勝負を織田とすると書状で書いてるし
実際長篠直後でも軍動かしてる

84 :
>>82
それら織田の重臣達以上に重要な(そもそも織田に匹敵する位置の家臣がいない)両職がやられているのに?

85 :
>>83
そんなボロボロになったせいで以降織田に対して軍を出せなかったんだろ雑魚すぎwww
実際長篠直後でも軍動かしてるっていつのことだ?www秋山見殺したアレか?w
>>84
例えだからあんまり気にしないで

86 :
織田に対して軍動かせなかった???
関東に謙信が出兵してきてそっちに動いてるだけですが????
ほんと無知ですね

87 :
織田に対して軍を出すんなら謙信が出兵した後に出せばいいだろカスwww
別にすぐに出せというわけでもなく長篠から武田滅亡まで7年もある。
謙信が死んでからでも4年もある。そんなに機会があったのになんで織田と戦わなかったんでしょうねwww
甲斐で総ビビりして徳川にいいように弄ばれた武田哀れwwww

88 :
「だが」は触らないほうがいいと思う。

89 :
武田に対して軍出すなら北条や徳川が出兵する前に出せばいいだろカスwww
別にすぐ出せというわけでもなく長篠から7年も滅亡まで信長が勝頼にビビリまくって手がだせなかった。
信玄が死んでから9年もある。そんなに武田が弱ってたならなんで甲斐にさっさと侵攻しなかったんでしょうね
近江でびびりまくって徳川に天下奪われた織田哀れwwwww

90 :
うまいw

91 :
信長は最初から武田なんて相手にしてねーんだよカスwww
武田の相手は全て格下徳川家にまかせっきりで長篠で余裕綽々に出てきただけwwww
挙句嫡男の箔塗りにしか使ってもらえず瞬殺された武田哀れwwwww
織田家は信長死んでもその遺徳で持ち直したが、
武田家は信玄の非道っぷりが全国津々浦々に響いていて誰一人武田家の再興をせず、
しかも当主武田信道(信玄次男竜芳の嫡男)が生きているのに
「武田なんてもういないからwww」と徳川家康が息子の信吉に勝手に武田家当主を名乗らせて
あとで「やっぱいらねーやwww」と松平姓に復帰させられる有様wwww
家康の指一つで家まで乗っ取られた武田哀れすぎるwwwwwwいかに信玄勝頼がゴミだったかわかるなwwww

92 :
勝頼は最初から雑魚長なんて相手にしてねーんだよカスwwww
織田の相手は全て本願寺・上杉・赤井・毛利らにまかせっきりで長篠で余裕綽々に出てきただけwwww
挙句自爆で戦う者もいなくなった武田にボロ負けして信濃・甲斐・上野を瞬殺された織田哀れwww
武田家は信玄しんでもその遺徳で持ち直し滅亡後も徳川軍団内で大活躍したが
織田家は信長の非道っぷりが全国津々浦々に響いていて誰一人織田を重んじず
秀吉に使い捨てられ家康に土下座して申し訳程度に小領で満足
「織田なんてもういないからwww」と秀吉が信雄に勝手に織田家当主を名乗らせて
あとで「やっぱいらねーやwww」と改易させられる有様wwww
秀吉の指一つで家まで乗っ取られた織田哀れすぎるwwwwwwいかに信長信忠がゴミだったかわかるなwwww

93 :
改変コピペwwwwwwwwww
織田家は織田秀信、織田信雄、織田信包、織田長益がしーっかり大名としての織田家を繋いで10数万石を維持してんのwwww
甲斐源氏名門武田家をゴミのように滅ぼした無能大名武田信玄と武田勝頼とは違うのwwwwww
挙句持ち直し滅亡後も徳川軍団内で大活躍wwwwww
武田本家が滅ぼされているのに家臣団だけ引き抜かれた武田哀れwwwwwww
武田無能当主を優秀な家臣団が支えつづけ、ついに見限られて家康にそっくりそのまま寝返られる武田哀れwwww

94 :
カス武田家の末路
武田義信:信玄嫡男、無能当主信玄を諌めたせいで逆ギレされ廃嫡。女系のみ
海野竜芳:信玄次男、盲目のため出家。武田滅亡後に自害し息子は家臣であった大久保に寄生、のち5代後に高家旗本入り
武田信之:信玄三男、早死
武田勝頼:信玄四男、武田家最後の当主。父に劣らぬ無能っぷりで名門甲斐源氏を滅ぼす。
仁科盛信:信玄五男、息子が徳川旗本になる、家系偽造説がある。
葛山信貞:信玄六男、よくわからんまま死亡、断絶。
武田信清:信玄七男、嫁のつてを利用して仇敵上杉家に仕えるという屈辱を味わう
武田信実:信玄弟、息子が徳川旗本になる
江戸期〜明治期のカス武田家
ほとんどの武田家一族は名前が見えなくなる、大名として残っていないのであるから当然である。
挙句徳川家康に息子の武田信吉を武田家当主にすると言われあわや家を乗っ取られるところであった。
この件は武田信吉が早死にしたためおじゃんになったがそれだけ武田家は忘れ去られていたのだろう。
大久保に寄生した信玄孫の武田信道であったが大久保事件で主家が改易され巻き添えを食らう。
ほどなく復帰したらしいが存在そのものはほぼ全て忘れ去られていた。
孫の武田信興が側用人柳沢吉保の家に寄生していたこともあってなんとか高家旗本には復帰する。
だが結局その子武田安の代で高家武田家は断絶。柳沢吉保の一族の連中が養子に入り以後実質は柳沢家として明治まで続く。

95 :
>>94
> この件は武田信吉が早死にしたためおじゃんになったが
死ぬ10年以上前に松平姓に復してたと思ったが、その後、また武田を名乗ったの?

96 :
>>95
そういえばそうだったwwww

97 :
信吉が1602年に水戸25万石に封じられたのは武田としてだよ。
信玄最強というのは江戸初期から常識であり
甲州流軍学が江戸時代を通じて最強とされ続けてるしな。

98 :
1576年 円昌坊教雅書状
謙信、大方於太刀者日本無双之名大将ニ而御入候
1582年3/5 蓮成院記録
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
信玄死去から10年経っても
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
とその遺武があったほどの威勢だったけどな。
信長死んだら武遺の話題すら出てないな。

99 :
江戸期を通じて織田流軍学なんてもんは
誰も見向きもせず
一切評判になったことすらないw

100 :
天正2年1/9付けの謙信→榊原康政宛てで
謙信は勝頼を経略名之下ニ候と酷評してるから
勝頼なんてただのバカでしょ。
そんな勝頼さんは2/6に丹波の赤鬼さんに、
雪解けしたら早速、信長を攻めるよ!と書状を出してる。
ちなみに本隊は雪解け待ちのようだが、
先鋒はすでに出陣しててちょうどこの時期には
明智城を陥落させている。さらに櫛原城や神篦城を攻略している。
尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
それもそのはず高天神城が6月に落城するのに
わざと遅く援軍へ向かうヘタレぶりを晒す信長。
信長は謙信からも責められていたようで、6/29には信濃出陣の約束を破った言い分けの弁解までしてる。
その際に信玄の掟を守って謀略があるので勝頼は油断できないと泣き言まで言う始末w
11/4の佐野氏宛て書状では武田軍は家康がいる浜松城下までやってきて放火し、掛川や久野に付け城を構築完成などやりたい放題。
積雪で信濃国境は封鎖された閏11/9になって、
のこのこと三河で鷹狩しに行くよなどと家康監視目的で
来援する信長を歓待すると申し出る家康の心中は複雑だよな。
少ない兵を引き連れた勝頼が完全に織田をナメくさって長篠の戦いで無謀な突撃をかましたのがよくわかる。

101 :
こんなところでコピペして遠吠えしてないで論文でも書いたらいいのに
武田氏研究なら拾ってくれるかも知れんぞ?

102 :
どの歴史学者探しても武田が一番強いなんて言ってる学者はいないからね

103 :
そもそも歴史学者で強いだの弱いだのを語るのはまともな論拠を書いてる人間では存在しない
んな事を論文で真面目に書いても馬鹿と思われるだけ

104 :
いや、ホントに様々な資料を多角的にあたって真面目に書けば馬鹿にはされないとは思うぞ
まあ、せいぜいドン引きされるか、仮想戦記書くのを勧められるかの違いくらいだとは思うがw

105 :
強弱じゃなくてところどころ議論になってる部分はあるぞ
武田と織田が東美濃で衝突したとか、甲越相同盟が成立してたとか、今川が武田に対して先に敵対行為をしたとか

106 :
悪い甲越相同盟はなかったわ

107 :
勝頼は長篠で負けた後、鉄砲を軍役で増やし訓練義務づけたりしているんだよね。
やっぱり印象に強く残った活躍を織田の鉄砲隊がやったのはありえそう。
が、三段撃ちはホアンさんの迷惑な創作が初出だし、他はそのホアンさんの軍談を丸写しとかがある質の悪い史料にしか出てこない。

108 :
信長が武田に長らく後手に回らされた原因の一つが、動員のタイミングと戦況のミスマッチだったが。
長篠戦ではそれがあまりなく、かつ家単位では動員非対象にした所にも鉄砲衆だけは参戦させている。
鉄砲火力の割合は高かった=当然撃ち負けた武田の印象に残った、あたりか。
武田の鉄砲衆は弾切れになった挙句に白兵戦に持ち込もうとして全滅、という状況だったし。

109 :
織田と武田の鉄砲では性能が段違いだったらしいね。
どれほど兵の資質が高くても武器のレベルが違えば無意味なんだなあ。

110 :
勝頼の失敗は、だいたい信玄の負の遺産のせい。
せめて晩年の織田徳川への裏切り攻撃がなければ……。

111 :
武田の石礫隊と織田の鉄砲隊だろ
貧乏は辛いわ

112 :
信玄「ウチは貧乏だから鉄砲減らして槍増やした。後年で仇になるとは思わなかった」

113 :
貧乏なのに戦争ばかりするから・・・

114 :
>>107-113
みんなもっと勉強しようよ。
長篠城攻撃で武田鉄砲衆は活躍し、合戦後に家康が検分した際の記録では、
壁土が落とされて穴だらけ、散々に撃ち抜かれた戸板は障子のようだったとか。

115 :
じゃなんで落城させられないんだよw

116 :
長篠の戦いで重臣が決戦に反対したという説が本当だった場合、山県馬場内藤はどのような気持ちで攻撃に臨んだんだろう?
「ここを死に場所としよう」と思ったのだろうか?
それとも「それならそれでやれる限りのことをやろう」と思ったのだろうか?

117 :
重臣が反対したら決戦できないのが、武田の合議制。
後世の創作だから論外。
だいたい、ここにきて決戦避けるぐらいなら最初から対織田戦続けるのをやめているよ。

118 :
最近の甲陽軍鑑は飛躍的に再評価されてきている。
1990年代に国語学者酒井憲ニ氏の大著甲陽軍鑑大成を完成させてからは
柴辻氏なども軍鑑を史料に取り込むなどの風潮が出始めており、
それどころか桶狭間の戦いにおける黒田日出男氏を始めとした今川軍乱捕り中の隙を
織田軍が攻撃した為に義元を討てたとする論拠として軍鑑を援用している。
これは藤本正行氏の正面攻撃説や小和田氏の正面奇襲説の
信長の不可解な成功の理由として充分な証明理由となろう。
旧日本陸軍の迂回奇襲説はこれにより論破されてしまったのである。
読む場合に注意すべき点は
軍鑑と史実の年記の食い違いがあるので対照年表を見ながら読むべし
ごくまれに偽文書が挿入され操作をしている
特に史実と食い違うのが山本勘助がらみの誤記創作が多いと言う事で
勘助自体が存在しないと言われる所以である
原因は高坂弾正の口述を猿楽者大蔵彦十郎と春日惣次郎が筆記した作品を
小幡景憲がのちに自家のために加筆し歪曲捏造改悪をしていると言われている。
市河文書「武田晴信書状」に山本菅助の名前があり存在が確認され
晴信側近である事がわかり軍鑑では足軽衆である事がわかる。
この文書では勘助と共に原与左衛門尉が足軽大将衆であったのがわかる。
この原の舅が小畠景憲の祖父である虎盛であり東信や北信で活躍しており勘助との関わりが見える。
また小畠景憲は出版する金がなかったから出版出来なかったと言うのが通説だが
出版出来なかった理由が自家に都合がよく改悪捏造したからとも考えられる。
三条藩主稲垣重種が筆写のために借りた軍鑑を宇佐美勝興に書写された時に
無断で密にもう一つ筆写して京都で出版したと言う。
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくったんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」
と書状で書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
こんな連中が勝頼が開戦と決めた以上、敵前で戦わずして退却するわけがない
皆、開戦には反対でも武田の為に懸命に戦ったってとこだろう
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる
これらの事実から軍艦の内容通り勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
また公記や長篠日記でも武田が織田方陣地に突撃して討ち取られていく場面が書かれているため
軍艦の通説が正しかったとわかる
愛知県資史料編織豊の長篠前の勝頼の書状を確かめれば
勝頼が陣地に引きこもってる相手に対して相手が打つ手なしなのでこちらから仕掛けてやる
と書き一方の信長は相手を引き寄せて撃破してやるといってるし
実際その通りの行動をしている
また今回の決戦を危ぶむ者がいるとも書いてるため甲陽軍艦に書いてる通説が正しいとわかる
長篠後でも勝頼は信長U大して乾坤一擲の決戦を再び行うと書いているから織田方をいかにナメ腐っていたかがわかる
兵力差2.5倍でこちらから城みたいな陣地&前日の雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲こんなとこに突っ込む馬鹿は早々いない
よほど相手をナメていて冷静な判断能力を欠いていたんだろう

119 :
軍鑑の悪質な話を信じるとしても。
馬場信房が「こっちのほうがいいから」と勝手に出撃場所を変えても罰せないのが、武田の限界。
もし重臣達が反対してたのなら、手兵を率いてとっとと後退しているか、
最低でも退路となる方角を勝手に固めているよな。

120 :
そんな関が原び東軍並に家臣団が布陣までおまかせだったという根拠をどうぞ。

121 :
信長からすれば徹底防備を固めて自軍をできるだけ損なわないようにすればいいだけだから、
まあ妥当な采配だけどな。どうせほっといたら信長が一方的に勢力拡大して武田は詰むし

122 :
ほっといたら家康が武田に寝返って織田アボーン
長篠のときでもギリギリの所だったし

123 :
家康が寝返ったところで武田にボロクソやられているのにすぐに動けるわけがない。
だがの妄想はとどまるところを知らないなw

124 :
その時期なら三方が原から時間経っててある程度回復してるだろ

125 :
てゆうか信康事件て尻尾切りで本当は家康が武田への内通目論んでたよね

126 :
>>124
長篠の段階じゃあ徳川寝返ったところでたかが知れてるぞ
信長の勢力拡大が少し遅れる程度

127 :
長篠時点だと織田軍はまだ本願寺赤井毛利上杉が健在だから家康寝返ったら簡単に勢力ひっくりかえるだろ

128 :
毛利上杉の攻撃始まるのは長篠から大分後だが・・・・
徳川戦線に織田が兵を向ける必要があるだけで
あまりに微力な兵数の変化

129 :
越前も一揆持ち状態で徳川が寝返ったら手詰まりになるのは必定

130 :
>>125
そのとおり。
天正6年9月22日信康の岡崎城へ岡崎衆が信康へ出仕することを家康が突然禁止した時期が
謙信が死去して御館の乱が勃発したのが3月で
6/29には越後府内に勝頼が到着していたが
真田が景虎と北条側の沼田城攻めをしようとしており氏政が不審に思っていたり
8/19には北条が信濃通過するのに制限をかける代わりに
奥信濃まで武田へ譲渡と景勝と縁組する約定が取り交わされ
9月上旬に北条軍が景勝の実家の上田長尾氏の本領たる越後坂戸城を攻めていたが
景勝が坂戸や妻有へ武田軍の援軍が近いと報せていて
(9月下旬に妻有城や赤沢城も武田へ譲渡され兵を入れている)
しかも武田軍は中立的に景勝と景虎を和睦させる努力をしていたのに
6月以来、北条がやっと越後出兵を開始したことを
「遅すぎる」と不満に思ってきていて帰国してしまった。
これらの情勢から家康は北条と武田の同盟破綻を察知して
親武田のチャンネルを持っていた信康を更迭してしまった。
天正7年9月5日の北条と徳川同盟が成立したことで
伊豆と駿河国境で武田と北条が全面戦争に突入すると信康を9月15日に自刃させてる。
北条と武田同盟が存在する限りは武田は強勢を保ち続けると読んでいた家康は
武田との交渉チャンネルを維持してきたんだろう。
万が一の時には家康が隠居して信康に家督を譲渡して
武田騎下として生き延びれる選択肢を持っていたが、
謙信死去で北陸戦線を放置しての上杉内乱や
甲相同盟破綻と北条と家康の同盟は
武田と互角に戦っていける状況の到来を確信させ
信康が用済みになったと言える。

131 :
まあいずれにせよ、長篠の勝頼は明らかに織田をなめていたな。
書状を見てもそれは明らか。
>>128
武田が長篠で撤退して兵力・武将が温存された状態で上杉武田毛利赤井本願寺で包囲網が成立すれば結構戦えたと思う。
それに徳川も加われば。
まあそれでも最終的には負けるのかな・・・

132 :
>>128
長篠の戦いの翌年(天正4年)に毛利領で義昭が鞆幕府を立ち上げ、
上杉も本願寺と和睦している。大分後ではないぞ。
天正4年1/15に光秀が赤井と波多野に大敗した報が入り、
1/28には石山本願寺に織田軍が敗れる報がやってくる。
ここら辺りの信長公記は安土城建設開始とか書いて完全に敗戦を隠蔽してる。
さすがに本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死するところは隠蔽できず書いてるが
(つか、書かないとあまりに大幅な白紙日程になるのを誤魔化しきれない)
それですら一次史料にはない信長の5/7天王寺突撃大勝利話を持ち出して信長マンセーに摺り変えてる。
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末。
しかもその後におきる木津川口の敗戦も公記得意の信長が後詰めしようとしたが
間に合わなかったと言う岩村城援軍や明智城援軍や高天神城援軍などでも使われた決戦から逃亡正当化の常套文句。
さらに安土城建築の模様を再び書いたりと誤魔化してるが、このあたりから再び、信長は苦境に入り込んでる。
織田軍は伊勢・越前・大和・摂津・和泉・河内で
石山本願寺・三好康長・遊佐信教・一向宗と相変わらず戦い続けてる。
しかも荒木軍が石山本願寺側の中島砦で大半の者が討たれた際の信長は
本願寺を撫で切りできれば、どんだけ被害を受けても構わないなどと書いてるように
軍役をかけてる下々の負担を一切かえりみないアスペ暴君ぶりを発揮。
これでは荒木や松永らが信長に謀反するのも仕方が無いことだ。
多聞院日記3/11でも信長の攻撃で摂津と河内の田地が過分損亡と嘆いている。
天王寺の戦いでの信長の突撃は信長公記にしか登場しない捏造で一次史料や日記など史料的裏付けがありません。
たとえ史実であったとしても信長は最低でも
佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝
滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉
丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就・馬廻衆の合計3000以上は率いているし
信長に呼応して挟撃してきたのが荒木村重・細川藤孝・明智光秀・三好康長
根来衆・和泉衆・大和衆・山城衆
佐久間信栄・猪子兵介・大津伝十郎・江州衆らだから明らかに織田方は大兵力のはず

133 :
織田には何回負けても兵力補充が可能な国力がある。

134 :
なんだ、やっぱり単なるチート機能付きが織田w
そのチート機能すら信玄の西上では崩壊してしまった事実www

135 :
崩壊してたら浅井朝倉に攻め滅ぼされて終わるわなw
相変わらず武田厨の悪あがきがさく裂しているがw

136 :
ド素人義景が愚かな撤退戦をしたのが朝倉・浅井の滅亡フラグだし。
それ以前の朝倉は常に織田に優勢だったしwww

137 :
でそんな優勢の朝倉が刀根坂一回で滅亡するんすかwww

138 :
大体朝倉義景が凡骨なら他の連中に任せりゃいいのになw
朝倉景健とか朝倉景高とか一門なんていっぱいいるのにw
なぜか一門の朝倉景鏡にいたっては織田に寝返ってすらいたよな、
終始優勢だったのに一門が他家に寝返るんすか?w

139 :
>>朝倉景鏡にいたっては織田に寝返ってすらいたよな、
終始優勢だったのに一門が他家に寝返るんすか
信玄死んで義昭もニ条城で天皇の和睦斡旋を受け入れた後だから
戦略外交的に朝倉優位の情勢が消えたから。
義景が浅井を見捨てるに忍びないという想いだけでは
もはや家臣団は付いていけないだろう。

140 :
というか、武田の武威()が後世過大評価されるのは、
実は朝倉が何年も織田と持久戦やって主力をひきつけてくれたお陰……。
限界がくればそんなもん。
外から見ればまだまだ……と思っても内側から見たらぼろぼろ。
武田だって織田徳川に寝返り続出じゃん。

141 :
現在の信玄って過大評価されすぎ
江戸時代前までは信玄なんて朝倉義景とたいして変わらない評価

142 :
江戸時代における信長の評価要約その一
小瀬甫庵「孝行の道に厚くなく、無礼である」
「敵国の兵を皆殺しにしないと気がすまない性格だった」
「人の非をもっての他だと憎む人だった」
新井白石「信長は残忍で、詐術をもって志を得た。最後が良くなかったのは自業自得。」
大田錦城「信長の器量は狭少であり、その事は他の武将達と比べて遥かに劣っていた」
明治時代における信長の人間性評価要約
山路愛山「一生荒くれな田舎人だった」
「生まれながらのだだっこのような野人だった」
花見朔巳「性格は残忍希薄、猜疑心が強く包容力に乏しい。これは古来からの定評だ。」
徳富蘇峰「信長の性格はすこぶる欠点があり、実に傍若無人で、悪く言えば我侭者の骨頂というべき」宣教師ルイス・フロイスは信長について述べている文を要約
「彼は日本中の全ての王侯を軽蔑し下僕にするように接した」
「彼らは自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった」
このように当時、江戸時代、明治時代、と信長への業績評価に関しては
さまざまな解釈が出るものの、人間性評価に関しては基本的に傲慢で我侭、短気、という点が見事なまでに共通している
明治時代に一般人アンケートで行われた全世界英雄番付
この中では豊臣秀吉が横綱、徳川家康は関脇、この中で信長は前頭で北条時宗や伊達政宗よりも劣る位置にいる
当時における一般大衆の率直な評価といえるだろう

143 :
「だが」って信長の高評価は江戸時代のお陰、とか別コピペでいってるのに。
こういうコピペも平気で張るんだなw
自己矛盾の捏造魔、涙目乙wwwwwwwww

144 :
だがまた全敗か……しかも自爆で。
こいつがまともなレスをする日は来るんだろうか。
リアルで書き込み不能になるまで恥晒し続ける気配濃厚なんだが。

145 :
>>130
おそらく武田側のチャンネルが穴山でそれが迅速な武田旧臣取り込みに利用できたわけだ
御館次第では甲相越三の対信長協定が成立したかもしれんと思うと惜しいことをした
つーわけで本能寺家康黒幕説を勝手に提唱してみる
動機は武田崩壊に伴う証言者出頭と密文書流出による甲三密約発覚
従って穴山横死も家康による口封じ

146 :
>>145 家康と光秀のどこに接点が?

147 :
本気で勝頼>信玄って考えている奴いるの?

148 :
いるかもいれない

149 :
>>146
家康の外戚水野氏と光秀の妻の実家妻木氏が姻族
、、、うん遠いね

150 :
江戸時代にはいた。軍学による美化がまかりとおったのとはまた別の一面で。
そう、儒学者ども。
信玄の不義・不孝の因果が子供に巡って家が滅んだんだ、というような理屈でだけど。

151 :
勝頼は確かに過小評価だけど、信玄に劣らないだの信玄より優秀とか言う奴はおかしいだろ。
世間では信玄>>>>>勝頼となっている。
まあここまでの差はない。
信玄>>勝頼くらいだろうか。
>>150
そんな理屈かよ・・・・

152 :
そういうの大好きな人間はいつの時代でもいるw
だれそれが滅んだのは天罰だ、とか意味づけを追加したがるの。
本人が天寿全うした場合は、後の家や息子の不幸の原因にチェンジと。

153 :
でも間違いなく信玄の無節操で場当たり的な侵略は敵を増やすばかりだった
人ってのは信用が無くなりゃ終わりよ

154 :
なるほど、だから光秀に下克上され
秀吉に下克上されたのか。

155 :
>>149
水野信元内通を讒言した佐久間信盛が明智光秀の讒言で失脚したっつーのは話が出来杉だな

156 :
というか信長は情報戦の達人みたいな人だからあんまり讒言を信用するタイプじゃなかろう。
自分で裏取りしないと動くまいに。

157 :
>>153
御館の勝頼に比べれば・・・・

158 :
なるほど
情報戦の達人だから
光秀に殺され
秀吉に簒奪させられたのか。

159 :
簒奪(さんだつ)とは、本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること。
あるいは継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から君主の地位を奪取する事
日本語が理解できてないのかあるいは無知なの・・・かw

160 :
>>157
軍鑑の悪質な捏造(外交に関わっていない奴を、賄賂とって方策ゆがめた悪臣に仕立てたり)のせいでイメージがそうなっているが、
実際にはどっちに肩入れしても武田の不利になるから、和解を促したんだよ。
信玄なら、喜んでどっちか騙まし討ちにしただろうがねw

161 :
どっちかに肩入れがどーだの和解がこーだのどころか
むしろ景勝方と景虎方沼田切り取り交渉やってます
最初から上野領有が目的です本当に以下略

162 :
後典厩が100箇村6万石の上田ではなく50箇村3万石の小諸に掛け込んだのが解せないんだが
ひょっとして昌幸に締め出されちゃったんじゃないかと思い始めた

163 :
こういうデマを流布したのが、他ならぬ武田に恩義のある遺臣団ってのが救いがたいなw
まあそんだけ武田に求心力が無かったんだろうが。

164 :
景勝らからもらった調停斡旋のお礼(歴史が示すように、ほどなく破談したが)が
時系列をごっちゃにして勝頼近臣への賄賂だったと摩り替えたんだっけ軍鑑
普通に史実的にも同情すべき余地はあれど失敗外交に違いないのに
なんで史実以上に何もかも貶めたんだろうねえ?

165 :
>>160
軍鑑関係なく、明らかに失敗だろ。
確かに景虎が勝った場合、北条と武田の関係は織田と徳川の関係に近くなるかもしれない。
それでも北条を敵に回すよりましだ。
長篠もあれだが御館はそれ以上にやばい。

166 :
勝頼という人物は過小評価されることもあれば過大評価されることもある。
なんなんだ?

167 :
3連の書き込みになってすまん。
よく勝頼が信玄に劣らないという根拠で高天神の話を出す奴いるけど、信玄の西上作戦の時に「和議」なるものを高天神の小笠原が信玄に申し入れているよ。
つまり、事実上降伏。

168 :
周辺国で最も弱い国を簒奪するのは武田の家訓だからいいにしても
そのタイミングとやり方が最悪だった
そのせいでせっかく高天神城見捨ててまで得た東上野だけでなく
長らく領有していた西上野までもが
甲州崩れに際して救援はおろかあっさり無血開場
これが謙信が越相和睦を蹴ったのに乗じておけばよかったのに
輿入れ持参金に目が眩んだんだろう

169 :
>>輿入れ持参金
おい一次史料のソースくれよ。

170 :
のぶやぼ厨涙目w

171 :
地下じゃあるまいし持参金なしの輿入れがあるかよ
飯屋でメシ食うのにカネ取られるソースくれよ。と言ってんのと同じだぞ

172 :
>>171
金額はいくらだよ?ソースくれよ。

173 :
のぶやぼ厨涙目w

174 :
>>金に目が眩んだんだろう
織田厨には金額のソースもちゃんとあるとしか思えない発言をしてるな。
回答を楽しみに待とう。

175 :
高天神は信忠の出陣を覚悟の上で救援に出るべきだったと思う。
信長公記にもこのとき信忠が高天神に備えて清州にいたという記述があるから勝頼が高天神の救援に動けば信忠は出てくるだろう。
1581年の段階では一か八か決戦するしかなかった。

176 :
天正8年の段階では側近や御身内と一緒に東上野ボーナスステージに忙しくて
伊豆ステージにも取りかかり始めてたからオワコン他国衆とかどーでも良かったんだろう
尤も見捨てられた方は腹に据えかねたのか城に殉じた元信除いて
岡部氏は徳川に恭順したが
最終的に城持ち6万石の勝ち組

177 :
荒れてるなー

178 :
武田旧臣で謀反人と他国衆を除くと一番最後の生き残りだったのは横田尹松?
1635年に死んだようだが。

179 :
>>尤も見捨てられた方は腹に据えかねたのか城に殉じた元信除いて
はいはいデタラメ乙
勝頼に援軍はいらないと言ってたので
勝頼が高天神城へ援軍を出すわけがない。
高天神城は降伏するつもりだったので
そう言っていたのであって
信長がその降伏を拒絶して皆殺しにしようとしただけ。

180 :
ソースは?w

181 :
岡部マサユキ カアイソウ カアイソウ
正綱モカアイソウ 真蕘もカアイソウ
コンナコとヲシタノハ ヨコダノ尹松 トオモイマス
尹松ハ 甲斐デ生レテ 勝よりニツカエテ
カケガワノオモテノハンタイノ、タカテンジン城デ
軍監ヲツトめた

182 :
鴨川氏が家康に一撃を加えた後に東美濃の別働隊と
信玄が合流して岐阜を攻めて信長を滅ぼせたかも知れないと主張しているが、
森田善明も新著で鴨川氏の意見に賛同して
信玄が朝倉や浅井に5月を目標スケジュールに据えていたのは
飯田から東山道を使って東美濃へ進出する際に通過する
神坂峠の雪解けを考慮していたからだと主張してるな。
信玄は野田城攻略完了して信濃へ進軍した時は
まだ花押も書けるほど元気で、その後に急に病状悪化し急死したと。
(信玄は面倒な時は朱印で誤魔化していた)
そして信玄が死去した時期がちょうど雪解けして進軍可能な時期になっていたと。
(永禄の暦だと雪解け3月下旬から4月上旬)
だから信玄は「信長滅亡の時がきた」と自信を漲らせていたと主張してる。

183 :
北条に対して武田が圧倒的に優勢で
上野が武田のものとなってしまう・このままでは当方が滅亡してしまうのではないかと氏政が嘆いている。
大した被害もないが北条も反撃していて天正8年5/15に都留郡に侵入した氏照を西原合戦で撃退してるが甲斐府中がいつ攻められるかわからんことを受けて天正9年1月から新府城の築城が開始されてる。
この時点では織田の脅威などまったく想定されてない。
(当時の武田は猿ヶ京攻略成功と沼田攻略中や田中城攻撃に失敗した家康が掛川へ逃げるのを追撃したり、武田水軍が伊豆を襲撃しまくりで氏政も伊豆から逃亡。10月には利根川を渡り武蔵本庄の氏政の陣へ肉薄した武田軍にまた氏政逃亡し12月に沼田城攻略成功)
天正9年には3/17に北条軍が甲斐へ進入し上野原市にあたる棡原で武田軍が撃退してる。
その一方で外交戦では武田・佐竹同盟に里見も参加の意思を示してるし
北条水軍の本拠地伊豆長浜城を武田水軍が大破している。
長期に渡り苦戦していた徳川が砦を構築したやっと高天神城が落ちたものの、その周囲の武田方諸城や砦は健在なまま。
こんな状況で織田に備えて新府城を作ったなど暴論以外の何ものでもない。
甲斐府中にとっての安全保障を脅かしてるのは
突発的な北条側のヘタレ奇襲であって織田じゃない。
9月に完成した新府城だったが10月の伊豆の韮山攻撃で新府移転が延期になるなど
対北条戦略進展で新府移転まで延期される始末。
11/16に佐竹も武田に呼応して出陣してるが
伊豆対陣で北条が陣から出ず、見切りを付けて武田は撤兵して12/24に新府城へ入城してる。

184 :
そもそも織田は武田の講和交渉に応じて交渉を続けていて
交渉の好転もあり信長の息子の織田勝長が11月に武田から織田へ人質返還されている。
佐竹なども同盟成立と読み、(天正9年3/18の時点ですら景勝が織田と同盟したのを報せない武田を非難する誤解までしてる)
そのため交渉進展を経て天正10年1/6に勝頼は三河出陣も延期してる。
2/4に信長は閏月の有無について濃尾の暦師賀茂と土御門に問答させて朝廷を追い詰めてるだけだし
1/25付書状で伊勢神宮の遷宮費用の話が持ち上がり、まったく武田攻めをする気配すらない。
唐突に2/6付けで木曽が信長に援軍懇願しており木曽の内通確定がほぼ突発的だったのがわかる。
そして予定に無かった武田攻め動員が開始され準備が整った
2/11に信忠が岐阜出陣しており2/14に浅間山大噴火が観測され武田領国大混乱のドサクサ紛れに火事場泥棒同然の織田軍が信濃へ侵攻。
そんな一次史料は存在しない。
まさかソースが捏造軍記の嘘長公記とか言わないよねwww
デタラメ信長マンセーの公記を事実と譲歩したとしても
滝ヶ沢に要害を構えて下条伊豆守を入れておいたところ
2/6に家老の下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れ
などと、どこだからも分からん場所に砦かなにかを即席で作った挙句に
よくわからん家老のやつが
よくわからん織田方のやつを道案内してるに過ぎず
わりとどうでもいい話しか書いてない。
松尾城主の小笠原の内応はまさに浅間山大噴火当日の話だし。
これによって初めて織田軍の団や森が先陣として武田領へ侵攻開始。
そもそも下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れると
なんで同日に木曽氏が織田へ援軍要請の懇願するのか意味不明。
すでに織田軍がいるはずじゃんよwww
団や森が先陣として武田領へ侵攻開始だって
実際にいつスタートしたか不明。
そもそも公記は浅間山大噴火を隠蔽した上で
小笠原の内応を書いており
実際の戦況がわかるのは3/5の信忠書状で坪内氏へ
高遠城を攻略した戦功を賞している
寛永諸家系図の坪内氏に収録されている
坪内氏が貰ったと自称する怪しげな信忠感状の写しのみ。
武田攻略に関わる内容がわりとわかるのは
3/8の信長書状で2/28に勝頼が居城へ逃げ入り
居所を自焼して山奥へ逃亡したと書かれてるだけ。

185 :
つまりこのコピペバカは一体何が言いたいの?
ただの垂れ流しで論旨が見えんのだが

186 :
コピペだけでお金がもらえる楽な仕事らしいよ?

187 :
だといいんだけどなwww

188 :
つか下条信氏って名前を見ればわかると思うが、信玄の御一門であり
そもそも下条氏自身が甘利、板垣のような武田氏の支族である。
ちなみに信濃噴火については2月14日の夜であり(晴豊記)、
小笠原は噴火を予知でもしていたのかと言わんばかりのグッドタイミングでたまたま寝返った

189 :
勝頼は戦はともかく外交が下手

190 :
何考えてんだろうな。嫁貰った相手とすぐ抗争するなんて

191 :
上野は大国だから隙があれば狙いたくなるのは致し方ない

192 :
勝頼が無能とは言わないが、明智や高天神における勝利も信玄以来の武将・兵たちによるところが大きいと思う。
長篠の戦い以後1つとして徳川の城を攻め落とせていないことを考えると。

193 :
嫌いじゃない

194 :
>>188
下条伊豆守信氏は元亀3年8/10の信玄書状に登場して
(織田研究者と違って鴨川などの一部に天正3年8/10勝頼書状説もある)
信長の侵攻に備えるため妻籠之番に松尾衆を入れての
木曽口の防衛強化を目的に、大々的に配置換えが行われている中で
大島城(伊奈郡)を基点に日向玄徳斎や栗伊に秋山信友同心衆や保科が入城し
下条伊豆守信氏は小笠原掃部大夫信嶺ともども山本在陣(飯田市か?)
が命じられているように天正初年期の防衛シフトであり
それを捏造軍記作家の太田がパクってきて
天正10年の武田の防衛配置に流用してテキトーに書いただけだろ。
だいたい天正9年10/13に滝川一益が信州境目に砦を作るように
命じられたから奥平信光も普請にこいよとか
10/26にも牧野成良が滝川書状に偽りはないと誓詞してる。
この時期のこの方面においては滝川が指揮官であり、
嘘長公記が書くような団や森や川尻なんてまったく登場しない。
2/11に信忠が出陣したのは北条側史料でわかるし
2/15付けで滝川への返答として信長は俺が出陣するまで軽挙するな。砦普請に力を入れろ。
若い信忠をキチンと制御しろ、失敗したら2度と俺の前に参上を許さんから覚悟しとけよ!
などと返答してるので書状の往復を考えたら2/14より前には、まだ信濃侵攻してないことになる。
2/14の噴火も空が赤いと書かれていて、夜だからはっきりと京から噴火が観測されたのであり
別に夜になって噴火が始まったと書いているわけじゃないし
そもそも噴火を甲斐や信濃が敗北する時におこる怪異だという話が広まったと書いてるから
武田の士気に尋常ない打撃があったはずだ。
そもそも捏造軍記の書く小笠原の内応を申し出た時間は書いてなく、
噴火を武田滅亡の怪異と悟り内応を申し出た可能性は高い。
また氏政も10日以降まったく甲斐方面の情報が入らなくなったと言っていて
すでに小規模噴火など予兆があったゆえ情報網が寸断されてしまった可能性がある。
19日には勝頼夫人が武田八幡宮にかな書きの願文を奉納して神仏の天意を頼り祈ってる。

195 :
河尻が出陣していないとかどこの国の史料見てるんだよwwwww
1582年の3月3日では信長が「武田があまりに雑魚すぎるからさっさと滅ぼせ、一切無用だ」と河尻秀隆や織田信忠、徳川家康に伝えてあるという書状が現存している。
そもそも木曽義昌の寝返りは2月5日によそ者の徳川家康ですら知っていることが家忠日記にもあり、
2月7日の時点では既にしなの国半分を制圧したという報告があったということが晴豊記にもあるんだがw

196 :
>>195
川尻が出陣してないとは言ってない
なんせ川尻が甲斐統治を任されたからね。
ただ噴火の時点にあたる初動では川尻は参加してない。
家忠日記は後世の編纂時に編者が加筆編集してると鴨川氏も指摘してるからアテにならない。
(天正3年の勝頼の三河出兵を元亀2年4月の信玄の三河攻めの間違った情報を鵜呑みにして
足助城攻略を元亀2年4月に挿入してたりと捏造していると指摘してる)
>>国半分を制圧したという
織田の大嘘を鵜呑みにして書いてるだけ。
そんな織田のホラを信じてたら中国地方どころか九州まで一遍にすでに制圧完了してたりしてることになるわwww

197 :
>>196
一次史料を大嘘だホラだって言うんなら史料だしてくれなあかんでwwww
史料ないのに語るのはそれ妄想ですわwww
で出陣してもない河尻が甲斐統治や領国任されるっていう摩訶不思議なことでもあるんすか?www
ついでに言っとくと2月23日付で信長は河尻に武田勝頼を攻撃する支持を与えていたことがちゃんと文書で残ってますけどなwww

198 :
>>197
そんなこと知ってるよ。
信長文書の研究969だろ。
そこには川尻に23日に勝頼撤兵の真偽を問いただして
勝頼の居場所を知らべるように言ってて
信忠がやってきたために滝川との司令塔交代が見受けられる。
明らかに信忠に従って川尻もやってきているので
(2/11に信忠が出陣したのは北条側史料でわかる)
2/15付けで滝川への返答として信長は俺が出陣するまで軽挙するな。砦普請に力を入れろと
若い信忠をキチンと制御しろと信長が指示してる時点では
信忠の後見役とも言われた川尻はまだ到着してないことになる。
公家日記は織田方の宣伝工作によって誇張された表現が登場したりする。
誇張情報はちゃんと峻別すべきだ。
本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死したあとの信長出陣で勝ったと宣伝してるが
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末だし
姉川の戦いでの言継卿記でも浅井討ち死に、その他8000討ち取りとか書いてる。
また越前以下9600討ち取り(公記ですら浅井の死者1100と書いてるのにw)
そんなに討ち取ったのなら志賀の陣のような体たらくにならんだろう。
長篠の戦いでも大げさな戦果な上に、勝頼も死んだとか書いてるのが信長。

199 :
上と下の文章がつながっておりまへんなwww
信忠に滝川が付き従っていた以上、信忠がやってきて滝川と司令塔交代したんなら
信忠と滝川が来る前の司令塔は河尻ということになり、河尻は両名に先んじて信濃へ入ってるゆうことになりますなwww
おまけにまさか河尻1人でやるわけもなく、まあやっててもええけど、いずれにせよ信忠滝川が来るより先に織田軍が攻め入っているということも
同時に証明されてしまいますなwww誰がその先鋒をやったかはさておきwww
>>本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死したあとの信長出陣で勝ったと宣伝してるが
信長の戦勝報告は兼見卿記にある明智荒木本多の救援やろ?www
おまけに摂津に出向した連中と御祈祷した連中もちげーしw
言いがかりレベルの妄想しかできひんのやなwww

200 :
てか、上野だの美濃だの東海だの多方面作戦やりすぎだw

201 :
>198
>公家日記は織田方の宣伝工作によって誇張された表現が登場したりする。
>誇張情報はちゃんと峻別すべきだ。
ここって笑うところ?w

202 :
俺のだがスレどこいった?

203 :
勝頼十二将を考えてみた
・土屋昌恒
・真田昌幸
・仁科盛信
・小山田昌行
・小山田大学助
・岡部元信
・横田尹松
・小宮山友晴
・初鹿野昌次
・秋山親久
・小原継忠
・大熊朝秀
異論は認める

204 :
"親子虎、京洛に咆哮す" の作者ってここにいるの?

205 :
>>199
意味不明過ぎる・・・頭イカれてるのか?
>>200
無意味な戦力分散の愚を犯して
多方面作戦で敗退を繰り返しているのは信長のことだろw

206 :
日記って別に他人へ見せる為に書くものではないから
それを宣伝工作とか解釈するのは、本当に頭おかしいな

207 :
織田厨って読解力が致命的にないなw
京を支配してる織田の一方的な軍事プロパガンダを聞いて
それを公家が日記に記入してるのであって
公家が日記の記述を他人に見せる目的で
故意に情報を曲げて書いてるなんて一度も書いてないだろwww
やっぱり日本語が不自由なチョンなんですね。

208 :
勝頼は戦力分散してないよ
見捨てるべきと判断したところを見捨てただけ
尤も最期は逆に国人衆に揃って見捨てられたけど

209 :
>>206
日記を信用しないって言うのが歴史学では一番やっちゃいけないことだからな。
○次史料という史料の等級で最も高いのが「該当時代を生きて、該当事件や該当事例に抵触した人間の書き物」で、
しかも不作法者の日記ならまだしも、当時を代表する教養知識人の貴族が書いた日記
どうやらだがさんは、戦国時代でも現代と同じようにビデオカメラや写真撮影ができたとでもお思いのようだぞw

210 :
えっ?金子拓氏も日記の改変とか
日記を記入する際の記憶の曖昧さとか指摘してんだけどw
織田厨は相変わらず無知を晒して断言口調で言切りますますねw

211 :
全部盲信すると考えちゃってるのはだがちゃんくらいだよwww
信用する≠盲信するの違いもわからないのかな?ww

212 :
勝頼はあきらかに謙信より強かった

213 :
甘やかされて育った愛人の子

214 :
>>198
長篠の戦いの信長による戦果捏造宣伝工作
5/26信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと
誇張しまくりを書いていて
5/21の戦い当日付の兼見卿記にも信長が一戦に及んで
数千騎を討死させたと書いてる(騎馬武者だけで数千もいたのかすら怪しいデッチあげぶりw)
つか、こりゃあ武田大騎馬軍団だなw
実際の武田軍の損害については
実際に鉄砲衆を調達してから長篠に従軍した大和国の筒井衆が無事に大和国へ帰り着いた
5/27に記された大和興福寺の多聞院日記の千人ぐらい討死が比較的正しいだろう。
(それですら筒井勢が武勇自慢の宣伝をしている可能性がある。
と言うのも、そんなに圧勝してるなら天正10年の武田征伐を恐れた大和衆が
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士などと不安を訴えたりするだろうか)
5/24に兼見卿記が記す、光秀と会談した際に聞いた長篠の戦いの話では
「ことごとく討ち果たした」に表現が大幅に後退している。
ちなみに6/13の謙信への信長書状では嘘がすぐバレると思ってか
「数知らず」と書いて討取り数を明言しなくなっている。
さらに家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
家康の知恩院宛て6/22書状でも武田之家討ち果たし候様子を聞いたようですね
などと書いていて討取り数にまったく触れていない。
実は虚報ばかりで討ち取り数すら明言できないのが戦後の織田w
実際にはそんなに討ち取られていない可能性が高い。

215 :

家忠日記の捏造
6/5家康が岡崎へ信康を訪ねる・・・中なをし(仲直り)にお越し候・・・
ここの部分の家忠日記は文章が読めないようにされてる。
しかもいつも家康と呼称してんのに、なぜか6/7浜松殿が遠州へ帰る。浜松殿がくわん乱煩いになったと書いていて
呼称が家康から浜松殿へ変化しており別人が改竄している(実際、仲直り目的の来訪記事は捏造だろう)
8/3浜松から岡崎へ家康がやってきて4日信康を三河大浜(幡豆郡)へ追放する
(実は家康親子が仰様候て、信長大浜へ御退候と書いている)
信長も三河へやってきていて、家康親子が仰天して会談したのを
信長が確認して大浜へ退いていったとする記述を
信康が大浜へ追放になったという誤記だと捏造解釈する。
5日家康が鉄砲衆を引き連れ西尾(幡豆郡)へ来て会下へ陣を取る。
8/8付けで家康が信長家臣の堀秀政へ結果報告の書状
(酒井を使者に家康が信長へ種々御懇していたのがわかる。信康不覚悟なので岡崎を追放と報告)
三河物語にも酒井が信長の質問攻めの結果、信長が信康に腹を切るように命じていて
家康は大敵を抱えて、後ろに信長がいるので背けないと言ってる)
9/15信康自決。 天正8年2/17 御新造様(信康夫人五徳)を御見送りするために
家康が岡崎へきて18日に岡崎城へ出仕(織田に岡崎城を占拠されてるので出仕なのか?)
ここでも家康を浜松殿と書いていて、あきらかに別人による家忠日記追加改竄だが
18日の記事を補填説明するために17日の記事を追加しただけのように感じる。

216 :
初鹿野昌次って武田滅亡の時に勝頼裏切ったの?

217 :
長篠の戦以降に北条をおいつめて氏政に「滅亡するかも・・」と泣き言を言わせている勝頼は間違いなく名将だろう。
ただタイミングが悪かった。

218 :
勝頼が名将なのに異論はないけど氏政は心配性というか、わりと悲観的な性格だからな
天正壬午の時も徳川方ゲリラに補給路が絶たれそうな時、国の一大事だ、とか大騒ぎしてるのが書状にあるし

219 :
勝頼が名将?
せいぜい愚将ではない、ってところだと思うが。
長篠と御館はまずい。

220 :
今週のセンゴク天正記を読んだら、だがさん発狂するんじゃね。

221 :
もう既に発狂してるやん

222 :
でも甲州崩れ編はおおむねだが史観とさほど大きい齟齬はないんじゃないかね
勝頼は運が悪かった・甲斐の体質が古かった・織田はほとんど何もしてない
の3点でしょ

223 :
高天神城は援軍送らなくていいと相木や岡部らが言ってたから送らなかっただけだし
武田攻めのときでも信長は信忠の突出を恐れているのか
慎重に事を進めるように書いてる
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の 天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに信長を警戒させている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。
長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。
また三河物語でも勝頼は武勇に優れた名大将なれど運が悪くてこうなってしまったと書いてるから
信長からみれば勝頼でも十分名将だったんだろう

224 :
高天神城は援軍送らなくていいと相木や岡部らが言ってた[要出典]

225 :
>>223
まあ武将としては優秀だろう。
ただ御館とかを考えると外交は下手
>>223,>>224
援軍送らなくていいと言ったのは横田。
岡部は援軍を要求していた。

226 :
カアイソウ カアイソウ

227 :
>>岡部は援軍
それ時期がまるで違うだろw

228 :
無理に正当化しなくても戦略上必要がなくなったから見捨てた、ってことでいいじゃないか
東海道に孤立した小城ごときに殉じた岡部がアホやったんや

229 :
それを認めるとそもそも高天神城攻略しちゃったこと自体戦略上の失敗だったと認めることになるから
誰か生贄は必要だった
まあ普通そういう生贄は泣く泣く身内を使うもんなんだが
それができないのが勝頼さんの勝頼さんたる所以

230 :
高天神落城について
武田…開城・降伏OK、恨む事はない。
織田、徳川…協議の結果高天神城見殺しを演出するため降伏の申し出を黙殺。
って姿勢じゃなかった?

231 :
とされてるけど結果として城将結構生き延びてるからなあ

232 :
>217の出典を知りたいです。お願いします

233 :
主力同士が正々堂々戦って負けた長篠・設楽原の大敗よりも、
武田家のために命を捨てて健気に戦い続ける高天神城の勇者たちを
救えなかったことのほうがダメージ大きかったと言うね
武田家の評判は地に落ちたらしい こりゃ近いうちに滅亡だとみんな離れていった

234 :
負けた相手もデカいだろうな
長篠は当時天下最大勢力の織田家だったからまだ仕方なかった感はあったが、
高天神は一時期は武田がボコっていた徳川家だし。
織田どころか徳川にすら勝てないのか、となったら絶望するのも無理はない

235 :
高天神城はむしろ徳川方のが落とすのに相当苦労してるがな
勝頼が御館の乱後関東方面で暴れまわるのに躍起になってた隙をついて織田からも援軍もらってやっと陥落
駿河の田中城も結局落ちなかったし

236 :
高天神城は3年も籠城し続けていて
徳川はかなり苦労してるね。
つか一次史料を読むと
天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)

237 :
甲江和与は勝頼の使者は信長に門前払いされたって聞くがな
それと高天神はなにがなんでも救援するべきだったと思う。
織田が来てもこの状況下ではいちかばちか決戦するしかなかっただろ。

238 :
長文をNGするいい方法ないかなあ 

239 :
明日のAM2:00に↑↑↑のさかむけが肘までめくれますように(^人^)

240 :
ここで視点を変えて、
じゃあ勝頼はどうすれば良かったのか、を考えてみてもいいと思う。
(ただし、織田に土下座する、なんていう無理はさすがにやめとこう)
例えば、御館の場合、勝頼はどうするのが良かったのか。
当初の予定通り、影虎を支援していれば良かったのか。
しかし、その影虎は、支援してもらう側なのに北信の割讓を求めてくる、
北条の援軍はいつまでも来ない、
しかも徳川が動き始めた。
こんな状態で影虎を支援し続けていたら、史実よりベターな結果になったんだろうか。

241 :
>240
82年に滅びなかったかもしれないって点ならベターだったんじゃないか?w

242 :
支援してもらう側なのに北信の割讓を求めてくる[要出展]

243 :
>>240
信長が生きていれば最終的には負けるのは間違いないだろう。
ただ史実よりはどうみても善戦できた。

244 :
俺も信長が生きていれば勝頼の詰みは変わらないと思う。
ただ、もしかしたら武田家は存続できたかもしれない・・・か?

245 :
>>242
甲陽軍鑑
信濃系家臣団は景勝を支援してたんで、
その切り崩しが目的じゃないか、と考えられるが、
悪手中の悪手だと思う。
影虎はこんなことしてるから、当初優勢だったのをひっくり返されるんだろう。

246 :
[要高次出典]

247 :

実際、下総結城水野家に伝わる
1/25の信長書状から考えるに
岡部またはその周囲は徳川の調略に応じて
降伏する意思を示していて
信長が認めないって態度なんだよね。
だから徳川へ内通しようとしている岡部が勝頼への報告で
高天神城はぜんぜん平気と言っていてもおかしくない。
北条に圧勝中の勝頼が高天神城の実情を理解してないのも無理はない。
天正10年1月6日付けの勝頼書状には
軍事行動は延期。2月には仏事を執行するから
3月、4月も一切動かない。
などと軍備を解除して武田領国は冬休みに入ってた。
そこで織田軍が無防備の武田領へ奇襲しただけだからなぁ。
甲陽軍鑑の記述を見ると武田滅亡への推移では
木曽氏の裏切り発覚→木曽氏に敗北→諏訪の勝頼軍2万が集結するも
信廉が甲府へ勝手に帰陣したり、信豊も病気と称して軍議に参加しないなどなぜか自壊→なんら諏訪でまったく動けず立ち往生のまま2月末
→穴山や岡部らが一年前より家康に内通しており
ついに謀反→それを聞くや勝頼を見放してみんなそれぞれの本拠へ逃亡。
こんな感じで謎の武田軍崩壊と甲府からの逃亡があって
織田軍と一切、戦ってないんだよな・・・
諏訪に勝頼がいる間に甲斐本国で何らかの政変でも起きるきっかけが生じていたんじゃないかと思われる。

248 :
>>232
戦国遺文北条2141を見れば載ってる。
書状などを見ても信長公記の天正10年2月からの
信濃侵攻の記述はデッチ上げでデタラメだな。
勝頼の背後で何らかの変事が起きて武田軍は反撃もできずに崩壊して組織的反撃どころか
国境での攻防すらなかった。
取り残された高遠城が唯一の織田との交戦。
それは3/5付けの信忠の感状でわかる。
(しかしこれも捏造の可能性がある。
というのも寛永諸家系図伝の坪内利定編に
この書状をもらっていたと自称する写しが収録されているだけで真偽が定かじゃない)

249 :
>>244
梅雪が生きてれば武田家継ぐことを認められて存続だろう。

250 :
何らかの変事とはつまり浅間山噴火しか考えられない。

251 :
明知城攻めで山県が織田軍の先陣を破ったって話は本当なのかな?

252 :
浅間山噴火の火山灰が武田方だけに降りかかったという奇跡もよろしく

253 :
浅間山程の火山がボカンといったら影響が武田の領国だけに収まる訳はねーもんなあ

254 :
噴火で士気が落ちたと顔を真っ赤に主張する割りに、高遠攻防戦はそれ以後という不思議

255 :
曽根昌世って勝頼と仲悪かったの?
「武田信玄のすべて」という本に「勝頼への無奉公ぶりを家康から忌まれた」と書いてあるが

256 :
既に木曽義昌、下条氏長、小笠原信嶺と三人も領主格が寝返っているのに
「噴火がなければ武田は滅亡しなかった」という不思議w

257 :
謎なのが、信廉はじめとする信玄の弟の動向。
甲斐に撤退して、さらに逃亡するとか、または甲斐を枕に討ち死にする、
とかでなく、ただ捕縛されるのを待って、ただ処刑されていっただけという……
一体何がしたかったんだ?
それとも、密約でもあって、それを破られたのか?
または、完全に戦意を喪失していたのか?

258 :
>>257
兵、馬共に体格に勝り装備に至っては比較にもならない織田軍を目の当たりにして
戦意を喪失、従容と処刑されたんだろうね。

259 :
別に抵抗しなかったなんて書いてないだろ。

260 :
>>257
確かに信廉はなにがしたかったんだろう?
まあ、戦意を失ったんだろうけど。
それならば逃亡してもよかったはずだが。
それとも甲斐で死ぬ気だったのかね?

261 :
ただの戦意喪失なら自裁するんじゃね
他国衆がおおむね投降認められたとこを見て
おいらもいっちょうやってみんべと屋敷に篭ったか、
もしくは直臣に裏切られて攻め方に引き渡されたか、
まあそんなとこだろう

262 :
まぁ、宗家直系(しかも信玄の弟)の身で投降が許されると思うのは、
ちょっと甘いような気もしなくはないが……
でも、本気で逃げるなら、甲斐からさっさと逃げ出すべきだし。
(そういう点で、信豊は間違ってはいなかったが、運が悪かった。)
想像でしかないが、穴山が一枚噛んでいそうな気がする。
穴山に取り成しを頼んでいたのを、織田が結局処刑することにしたか、
或いは武田宗家が残っていると自分が武田の家督を継ぐのが難しくなる穴山が嵌めたのか。
穴山がどこまで武田一族の調略に関与してたか次第か。
ま、想像でしかないけどね。

263 :
信豊は結局どうするつもりだったんだろう?
殺されなかったら上杉と提携して織田に抗戦したのか?
それとも落ちのびて本能寺後に徳川の家来にでもなるのだろうか?

264 :
親族が根拠地をほいほい放り出すわけないわ。少しでも巻きかいしの可能性があるなら留まるのは当然

265 :
>>203
小宮山尊信は小宮山友晴の末裔だと云う

266 :
>>264
穴山離反、の時点で完全に詰んでいる気がするが……
いや、勝頼が小山田を頼ろうとしたように、
どこかで抵抗しようとしてたんだろうか。
でも、後詰めはどこに期待していたのか……

267 :
>>266
1.上杉を頼るしか無いじゃねえか
2.小田さんとこみたいに家臣の城で居候してればそのうちいいことがあるかもしれない
3.いいアイディアなど無い。現実は非情である。

268 :

北条夫人が最後まで勝頼に付き添った事と長篠の戦いの時に側室
に送ったあの素晴らしい気遣いの手紙を読むと私人としては良い人
だったと思う。
戦も上手かったし、お兄さんさえ生きていたら名武将として名を
馳せたのかもしれない。
>>230

269 :
>>230
送信してしもうた。
>織田、徳川…協議の結果高天神城見殺しを演出するため降伏の申し出を黙殺。
って姿勢じゃなかった?
協議というよりなかば信長の指示。その書状読んだ事あるけど、恐ろしい
程に武田の崩壊を先読みした内容に驚いた。
自分はこう考えてるけど、実行面の判断は家康殿にまかせるけどね〜とは
書いてるけどありゃ暗黙の強制だわ。

270 :
山県馬場内藤が長篠の戦いで決戦に反対したという説についてどう思う?
疑ってる人もいるけど俺は本当だと思う。
理由としては
・重臣の崇拝する信玄なら間違いなく避けていた戦い
・「今回の戦いを危ぶむものもいる」という勝頼の書状があるので反対派がいたことは事実
まあ、水盃の話が本当かどうかは知らんけど。
決戦に反対であっても武田のためにやれる限り戦ったってことだと思う。

271 :
>>「今回の戦いを危ぶむものもいる」という勝頼の書状
そんな書状あったか?
ひょっとして
「心元無く」って文のことか?
この文は書状を見慣れてる人間なら
挨拶程度の頻繁に使われる常用句みたいなもんで
信長や謙信など多くの大名がお約束文面として使用してるレベルだぞ。

272 :
>>271
「此度の戦を危ぶむ者もいる」って書状があるよ。

273 :
長篠城攻略を危ぶむ者がいたって事?
長篠の戦いを危ぶむってより織田との交戦勢力が著しく弱体化する中武田単独で織田軍と主力決戦は誰だって危ういと思うわ。

274 :
のぶやぼ厨即死www

275 :
>>272
よかったら日付教えてくれないかな?
心元無くって書状は5/20の長坂光堅や三浦員久への勝頼書状だね。
あれの勝頼は「無駄な対陣になり敵はてだてのすべを失い
一段と逼迫している。無ニ彼陣へ乗懸かり、信長・家康に対して
このたび本意を達する」と言っていて
自信満々なんだよね。
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?

276 :
どんだけ文面を飾ってもすぐバレるだが

277 :
>>275
贔屓の引き倒しもいいところ
重臣ほとんど失ってかつ、以後長篠まで侵出する出来なくなったんだから大敗は間違いない

278 :
競ってるにしてはいくら先陣が多かったとはいえ名の有る武官が死にすぎですな
戦国史上最大の乱戦と言われる川中島でも名の有る将の死は少ないのに

279 :
諏訪四郎勝頼
諏訪四郎神(じん)勝頼
どっちの表記が正しいの?

280 :
神姓諏訪氏
源姓武田氏

281 :
>>280
なるほどthx.

282 :
織田軍って将は後方にいるから討死率低いだけだろ。
武田軍は最前線で板垣や甘利が討死してたりと
明らかに最前線で将が指揮してるのがわかる。

283 :
最大版図は勝頼期
100万石くらいか?

284 :
長篠の戦いでは結局どのくらい死んだんだろう?
1万人は誇張だとしても1千人しか死んでないというのはおかしいと思う。
実際武将が大量に死んでいるし(武田は負け戦では武将が多く死ぬ傾向にあるがそれにしても前代未聞)
兵の質も著しく劣化している(三河物語がソース)
武田の負けが姉川の浅井朝倉クラスの負けだったら長篠の戦いのあとでも諏訪原城や横須賀城くらいは攻め落としていたと思う。

285 :
長篠の戦いは、織田・徳川軍も、かなり被害が出たみたい。
信玄恩顧の武将が死ぬ気で突撃したから。

286 :
てか親族衆が頑張っていれば姉川の浅井朝倉クラスの負けで済んだ気がする

287 :
>>284
基本的に戦闘員の10%が死傷したら潰走する
その事と戦死した指揮官の数を鑑みると
死傷逃亡含み2〜3千くらいかなぁ

288 :
戦闘員「イーッ」。

289 :
長篠日記によれば織田の戦死六千だから
人員の20%が戦死してることになるな。

290 :
1581年に高天神で決戦していたらどうなっただろう?
徳川軍だけなら勝利しただろうが織田の援軍もいると・・・・

291 :
>>289
陣城に引きこもっていなければ
軍が瓦解壊走してるレベルだな。
戦死者の三倍以上の戦傷者が出るのが軍事常識だしな。

292 :
フロイスによると恐ろしいほどに
東方の空が真っ赤に染まったと書かれており
しかも浅間山噴火と同日に赤い光りが
豊後国(大分県)でも観測されたと言う。
実に凄まじい爆発力だったのがわかる。

293 :
浅間山が大噴火して
武田滅亡の前兆とか噂された時点で積み
天変地異で滅亡したのが武田家。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。
東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、
広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。
京の公家日記に視認観測記録が記述される程の大規模噴火は、
1108年の大噴火(後日、浅間山のある上野国の国司が朝廷へ上野国壊滅の報告をしている)
に続いて武田滅亡のこの時で有史以来わずかに二回目でしか無い。
天正10年1月6日付けの勝頼書状には
軍事行動は延期。2月には仏事を執行するから
3月、4月も一切動かない。
などと軍備を解除して武田領国は冬休みに入ってた。
そこで織田軍が無防備の武田領へ奇襲しただけだからなぁ。
高天神城は3年も籠城し続けていて
徳川はかなり苦労してるね。
つか一次史料を読むと
天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)
織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。

294 :
そこで後に5000石貰う軍監がもとより草だったんじゃないかという疑惑が

295 :
豊後まで観測できるような爆発が武田領国だけにピンポイントで被害を降り注がせるのか、いやはや天意とは恐ろしいものだ

296 :
>>294
横田って徳川に内通していたのか?
そんな話は聞いたことがないが・・・

297 :
>>295
武田の悪行の報いだね。

298 :
>>297
マジで恐ろしいw
生贄でも捧げれば避けられたのかなぁ。

299 :
知らない人のために
噴火の規模についてはこちら
ttp://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/32.html

300 :
鬼畜信長が惨殺される予兆だったんだな

301 :
噴火の規模が大きくても火山の直接の人的被害は小さいっぽい。
やはり心理的な被害がメインだな。
 1783年(天明三年)
http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/volcanoes/asama/asamasiryo/honbun.html
 天明三年の浅間山噴火を書いた古記録は大量にある.郷土史家である
萩原 進は,県史や村史などに分散して収録されていたそれらを整理して,
全5巻からなる史料集として刊行した(萩原史料:萩原,1986,1987,1988,
1993,1995).この噴火のマグニチュードMは4.8であり,1108年のM5.1に
次ぐ規模である.
 最近,荒牧(1993a)と田村・早川(1995)は萩原史料などを火山学的視点
から再検討し,1783年噴火の経時変化を考察した.両者の結論は本質的な
ところでかなり異なる.荒牧(1993a)は,鬼押出し溶岩が最後に流出したと
考えているが,田村・早川(1995)は,鬼押出し溶岩は8月4日深夜の軽石噴火の
さなかに流れ出し,翌日その先端から鎌原岩なだれと熱雲が発生したと考えている.
 この噴火による死者は,8月4日に軽井沢宿にいて降ってきた軽石にあたった2人
(田村・早川,1995)と,翌5日に発生した鎌原岩なだれとそれから転化して吾妻
川を下った熱泥流に巻き込まれた1400人余であるという.1400余という死者数は,
たとえば荒牧(1993a)にも引用されているが,その内訳はよくわかっていない.
幕府勘定吟味役だった根岸九郎左衛門の『浅間山焼に付見分覚書』(萩原2.332)
を集計すると1124人が得られる。大笹村名主だった黒岩長左衛門の『浅間山焼荒一
件』によると、翌天明四年七月、善光寺から受け取った経木を吾妻川の各村に死者
の数ずつ配ったという。それを集計すると、1490人になる(萩原2.99-105)。根岸
の集計とおおむね一致するが、根岸の集計にはない村が合計数を増やしている。黒
岩の集計を信用して、これに軽井沢宿の死者2人を足して、合計1492人を天明三年噴
火の犠牲者数と考えるのが妥当である。
 なお,1281年以降の項で言及したほとんどの史料の性格は,田村・早川(1995)に
整理されている.

302 :
手勢僅か1万5千で、4万近い織田・徳川連合軍に突撃したのは天晴れだろ
ダメ親父の方は、織田主力との直接対決を恐れて徳川領を徘徊してただけ
2万五千もの兵を率いながら、兵力1万そこそこの徳川に手古摺る体たらく
そりゃー、朝倉も呆れて撤退するわ

303 :
読書感想文?

304 :

京の公家日記に視認観測記録が記述される程の大規模噴火は、
1108年の大噴火(後日、浅間山のある上野国の国司が噴火の影響からか交通網寸断が原因で
かなり遅れて朝廷へ上野国壊滅の報告をしている)
に続いて武田滅亡のこの時で有史以来わずかに二回目でしか無い。
しかも武田滅亡寸前での噴火は大分県でも観測された規模なので
1108年の噴火よりもさらに超規模なのがわかる。
1783年の噴火に関しては京では一切、視認されてないので小規模噴火でしかない。
武田滅亡の大分でも観測された超噴火≫1108年国司による上野国壊滅報告大噴火≫1783年の1500人が死んだ小規模噴火

305 :
そんな凄い噴火なのに武田以外には影響のない事に関しての説明が欠けてる件について
そもそも、そんな状況を見逃さずしっかり利用できるという時点で優秀です

306 :
豊後で見えたとされる噴火がたった一山越えた関東から全く観測されず
なんで武田が滅んでんのかついぞ理解できなかったドジっ子北条さん
あるよねー

307 :12/06/20
氏政も10日以降まったく甲斐方面の情報が入らなくなったと言っていて
すでに小規模噴火など予兆があったゆえ情報網が寸断されてしまった可能性がある。
19日には勝頼夫人が武田八幡宮にかな書きの願文を奉納して神仏の天意を頼り祈ってるが、
これも浅間山噴火が武田滅亡の怪異だとする噂があった上で、
勝頼に何の咎があるのかと訴えていると言えるだろう。
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